Summaries from Number 56

国際基督教大学キリスト教と文化研究所発行
国際基督教大学学報 IV-B
『人文科学研究(キリスト教と文化)』

International Christian University Publication IV-B
Humanities: Christianity and Culture


〈講演録〉 『イリアス』第11 歌〜第15 歌の物語構造 . . . . . . 川島 重成
[The Narrative Structure of the Iliad Λ through O . . . . . . Shigenari Kawashima]


『イリアス』第11歌の終わり近く、ネストルの陣屋からアキレウスのもとへ帰る途中、パトロクロスは戦場から退却してきたエウリュピュロスに出会い、乞われるままに彼の傷の手当てをする。この様子は第12歌の最初の2行で、さらにもう1度第15歌390~405行で繰り返されたあと、ようやくパトロクロスはエウリュピュロスのもとから立ち上り、第16歌冒頭でアキレウスの陣屋に帰りつく。その間(第11歌終わりから第15歌終わりまでの間)に、アカイア軍の防壁の2度にわたる突破を含む大掛かりな戦闘が繰り広げられている。わたしたちの時間感覚からすれば容易に納得しかねるこの物語描写はどのように理解すべきであろうか。ここで従来Zielinski’s lawと称されてきた物語技法に注目する。これは、実際には同時進行的に生起したと考えられる2つの出来事が、あたかも継起的に起ったかのように描写されるという叙事詩技法で、その古典的な例が第15歌149~280行に見られる。
本講演は、このZielinski’s lawを発展的に応用して、第11歌~第15歌における2度にわたる防壁突破を中心にした2つの出来事と見えるものは、実は1つの出来事を別の視点から捉えたものと見ることができるのではないか、という問題提起的な試みである。すなわち第11歌~第12歌は、Dramatis Personaeとしての神々なしの英雄的事蹟として描写され、第13歌~第15歌は神々(第13歌はポセイダオン、第14歌はヘレとポセイダオン、第15歌はアポロン)が人間界の出来事に介入して、それぞれ神の思い通りに戦いを導いてゆくのである。このように理解すれば、第11歌終わりから第15歌終わりに至る大掛かりな戦闘も、パトロクロスがエウリュピュロスの傷の手当てをしているという短い時間の出来事であった、と容易に納得できるであろう。


ヒュームにおける 情念の制御と理性主義批判 . . . . . . 吉岡 悠平
[The Government of the Passions and Critique of Rationalism in Hume's Philosophy . . . . . . Yuhei Yoshioka]


本論文は、情念の制御(The Government of the Passions)という主題について、デイヴィッド・ヒュームが同時代の理性主義者たちの議論をどのように批判したかを整理し、考察することを主な目的とする。古代から、多くの哲学者によって、情念は理性によって制御されるべきであり、そうすることが善き生を送るために重要なことである論じられてきた。また、ヒュームの生きた18世紀前半のイギリスでも、大多数の哲学者によってこうした見解が支持されていた。しかしヒュームは、「理性は情念の奴隷である」という有名な言葉を含む一節において、理性だけでは情念を制御できないと論じる。この見解は、理性を情念の上位に位置づけてきた従来の哲学者たちと正反対の立場をとるものであり、そして当時の理性主義者に対する直接的な批判となっていた。
この批判の真意を探るために、本論文は以下のような流れで議論を進める。まず、第1節と第2節において、ヒュームの論敵であった理性主義者たちの議論を考察する。第1節では、彼らが古代のストア派の「アパテイア」に関する考えを否定し、情念は人間が行為をなすために必要不可欠なものであり、だからこそ理性によって正しく制御されるべきだと考えていたことを示す。続く第2節では、とくにサミュエル・クラークとウィリアム・エイロフの議論に注目し、彼らは「どのように理性が情念を制御するのか」という点について十分な心理学的な説明を与えていなかったことを明らかにする。ヒュームの論敵であった理性主義者たちは「なぜ理性が情念を制御すべきか」を示すことに力を注いだが、実際のところどのようにして制御可能なのかをほとんど論じていなかったのである。
第3節では、『人間本性論』におけるヒュームの批判を考察する。ヒュームは論敵たちの不備を突き、情念の制御という主題を心理学的な側面から論じた。そして、理性だけではいかなる行為も生み出すことができないと示したうえで、その帰結として理性は情念を制御することができないと論じたのである。最後に第4節では、『道徳原理研究』におけるヒュームの批判を考察する。ヒュームはこの著作において、ハチスンの議論を援用しつつ、われわれの行為の究極的な目的は理性によって制御されえない情念によって定められると論じ、理性主義者たちの描像を覆そうとしたのである。


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