「交流空間の変容」 -中・近世海上東アジア
2002-02-23カテゴリ: シンポジウム , シンポジウム(1998-2002)
「交流空間の変容」 -中・近世海上東アジア
- 2002年2月23日
ICUディッフェンドルファー記念館西棟 多目的ホール
所長挨拶 古藤友子(ICU教授、アジア文化研究所所長)
朝鮮後期の地図帳に見える日本図
ケネス・ロビンソン(国際基督教大学社会科学科)
朝鮮後期に印刷された地図帳にはしばしば日本の地図が含まれている。本発表ではこの日本図を印刷物として、またテキストとしてとりあげる。テキストとして見た場合、その中の情報の誤りを指摘するよりも、そこに一つの言説を読みとることがより重要だと考えられる。また地図帳全体から読みとれる言説の中で日本図を見た場合、地図帳は単なる独立した地図の寄せ集めではなく、日本図も含めた一つの地図として読みとれる。そこにこれらの地図帳の重要性があると思われる。
「日出る処」の銘木 ―海を渡る木材と日宋交流―
藤田明良(天理大学国際文化学部)
12~13世紀、多量の木材が日本から中国に渡っていた。なぜ木材のようなモノが貿易品となりえたのか。どうしてこの時期に輸出が集中するのか。その答に接近するため、中国における木材需給の動向、日本材の「評判」や日本のイメージ、海をまたぐ勧進僧の活動、海商たちの思惑などについて、若干の分析を試みたい。報告を通じて、当時の東アジア海域における「国際商品」を生み出す主導力について、議論の素材を提起できれば幸いである。
近世琉球における漂着民の船隻・積荷の処置―日本と中国の狭間で―
渡辺美季(東京大学大学院博士課程・日本学術振興会特別研究員)
薩摩藩による琉球侵攻(1609年)以来、近世琉球は、中国(明・清)との君臣関係(冊封・朝貢関係)を維持しつつ、幕藩制に包摂され薩摩藩の支配を受けるようになった。この研究史上しばしば「(日清)両属」と呼ばれてきた状況の中で、二つの大国の支配論理は必ずしも整合せず、時に矛盾し、琉球による調整を必要とした。本報告では琉球に漂着した「中国人・朝鮮人・出所不明の異国人」(※彼らは原則的に同格に扱われ自船で帰国できない場合には中国に送還された)に対する処置の中で、日清の支配論理がするどく拮抗した船隻・積荷の処置について分析し、琉球がどのようなシステム―「からくり」―の中でこの二つの論理を調整していたのかを考えたい。
蝦夷地の「無事」―17世紀アイヌ社会のなかの和人―
浪川健治(筑波大学歴史・人類学系)
1669年に起こった、近世最大のアイヌ民族の蜂起であるシャクシャインの蜂起は、商場知行制を基軸としてアイヌ社会の基盤を堀崩しながら暴力的に支配を強化しようとする松前藩と、「総大将」と和人側史料にあらわれる広域的に成長した首長層に率いられたアイヌ諸集団との衝突であった。しかしながら、当時、アイヌ社会のなかには少なからざる数の和人が入り込んでいたことも確認できる。その多くは、「金堀」であるが、かれらは16世紀末から17世紀にかけて、アイヌ社会に入り込むことでどのような役割を果たしていたのであろうか。この点について、シャクシャインの蜂起をめぐって史料のなかに見え隠れする「金堀」たちの姿を、蝦夷地の支配のあり方と絡めながら考えてみたい。
総括討論