54号掲載論文の要旨

国際基督教大学キリスト教と文化研究所発行
国際基督教大学学報 IV-B
『人文科学研究(キリスト教と文化)』

International Christian University Publication IV-B
Humanities: Christianity and Culture


性淘汰説を「ダーウィン美学」として読む ーカント美学と照らし合わせてー . . . . . . 五郎丸 仁美
[Reading Sexual Selection Theory as "Darwin's Aesthetics"--With Reference to Kant. . . . . . Hitomi Goromaru]


本稿は、進化論美学者メニングハウスに導かれつつ、ダーウィン『人間の進化と性淘汰』性淘汰説を美学的仮説として解釈する試みである。性淘汰説によれば、有性生物の二次的性徴として主に雄に現れる装飾は異性の美的配偶者選択によって進化した。生存競争において装飾は不利になりうるが、それは勝利より美が優先されうる証だ。両性とも目的意識はないが、魅力的な雄が配偶機会に恵まれその装飾が遺伝すれば、両者に子孫繁栄が約束されるからだ。雌の好みは集団ごとに統一性があり遺伝するため雄が特定の美に近づくが、新奇性への傾向によって装飾は多様化する。一方人間の性淘汰は特殊であり、男性の髭は第二次性徴であるから、かつて女性に美的選択権があったと考えられるが、後に男性が美を占有したまま女性を支配しその選択権まで奪った。今や女性が美の領域を侵略し、性淘汰による進化も凍結したが、化粧や脱毛など人為的進化は続いている。かかる美の追求は自然史に根ざす。かかるダーウィン美学はカント美学理論を敷衍しているようだ。カントによれば、美しい客観を見ると、意図していないのに主観の認識能力が戯れ快を覚えるため、美しい客観は生の促進の感情を齎し自然美によって人間は世界との適合感を得る。ダーウィンの性淘汰でも、美的判断をする雌は本能に従うだけだが、対象の雄は雌にとって合目的であり、番となり子孫に恵まれるなら両性ともに逐語的な意味で生の活性化を果たし長期的には自然界に適合する。ダーウィン美学はカントが要請した美的判断の間主観的普遍性も例証する。カント美学には感性的領域と超感性的世界を媒介する使命があるため美の自律が前提されているが、ダーウィンの美も最初から自然淘汰から自律している。またカントが自然の多様性を対処すべく美的判断力を導入したのに対し、ダーウィンは有性生物の美は美的判断によって多様化したとし、対照関係も見られる。しかしダーウィン美学は美を人間の特権とするカントの人間中心主義を覆し、美は理性や道徳性よりむしろ性的なものと結びつくという疑念を呼び起こす。だからこそダーウィン美学は、美の性的次元を切り捨てずに人間固有の美的経験の次元を探究する方向性を近代美学に示し、性淘汰説を軽視してきた科学・哲学全般に異議を申し立て、今日の感性中心主義に対して、美的洗練は文化の高級化ではなく、先祖返り・退化なのだという警告を与えてくれる。


サヴィンコフを読む大佛次郎と アルベール・カミュ . . . . . . 千々岩 靖子
[Deux lecteurs de Boris Savinkov: Jirô Osaragi et Albert Camus. . . . . . Yasuko Chijiiwa]


20 世紀前半の帝政ロシアの革命家ボリス・サヴィンコフは、自身のテロリストとしての実体験をもとに執筆した回想録『テロリスト群像』を1926 年に出版した。これを下敷きにして大佛は小説『詩人』を1933 年に発表し、アルベール・カミュも同じサヴィンコフの回想録をもとにした戯曲『正義の人びと』を1949 年に上演する。両作家はともに『テロリスト群像』第一部第二章で語られる、1905 年のセルゲイ大公暗殺の実行犯カリャーエフを主人公に据えているのだが、本論では、これら三作品を照らし合わせることで、同じ悲劇的運命を辿るそれぞれのカリャーエフ像の差異を浮き彫りにすることを試みた。ノンフィクション小説として執筆された大佛の『詩人』を構成するテキストの大部分は、『テロリスト群像』の英語訳を日本語に訳したものである。だが大佛は、『テロリスト群像』でサヴィンコフが伝えるカリャーエフの狂信的な側面を自作に取り込むことはせず、大公と同じ馬車に乗っていた子供と大公妃の命を助けたことを加筆によって強調することで、原作以上に人道的なカリャーエフ像を提示している。カミュも大佛と同様に、子供たちに爆弾を投げなかったカリャーエフの葛藤を丁寧に描くことで、カリャーエフの「心優しき殺人者」としてのイメージを打ち出している。しかしながら『正義の人びと』が『テロリスト群像』および『詩人』と異なるのは、戯曲の第四幕が示す通り、カリャーエフによる大公暗殺の倫理的な是非が問われている点である。カミュのカリャーエフは、大公暗殺が犯罪であることを認識しており、自らの死をもって償うことでその有罪性を引き受けているのだ。また、大佛とカミュのカリャーエフ像は、両作家の執筆当時の問題意識をそれぞれ反映している。1930 年代に日本の軍部が台頭していく時代を背景に『詩人』を執筆した大佛は、カリャーエフの中に、民衆を虐げる圧政に対して献身的に闘う「正義の人」を見出した。対してカミュは、対独協力者の粛清を支持したのち暴力の行使に加担したことを深く反省し、「暴力は不可避であると同時に正当化できない」という自身のジレンマをカリャーエフに投影する。カミュのカリャーエフは、第二次世界大戦後の作家の思索の集大成である「反抗」の体現者として神話化されているのだ。


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