Last Update: December 25, 2012

聖書を一緒に通読しませんか

サポート・レター

メンバーの方に送ったメールを掲載します。メンバーは基本的に匿名で参加していますので、個人の情報は載せず、多少改変してあります。
  1. 2010.12.31:はじめに
  2. 2010.12.31:聖書通読について
  3. 2011.1.2:創世記
  4. 2011.1.6:創世記
  5. 2011.1.13:創世記
  6. 2011.1.20:創世記
  7. 2011.1.27:出エジプト記
  8. 2011.2.6:出エジプト記
  9. 2011.2.13:出エジプト記
  10. 2011.2.21:レビ記
  11. 2011.2.25:レビ記
  12. 2011.3.6:民数記
  13. 2011.3.17:申命記
  14. 2011.3.28:申命記
  15. 2011.4.3:ヨシュア記
  16. 2011.4.10:ヨシュア記
  17. 2011.4.17:士師記
  18. 2011.4.24:士師記・ルツ記
  19. 2011.5.1:サムエル記
  20. 2011.5.15:サムエル記
  21. 2011.5.29:列王紀
  22. 2011.6.12:列王紀
  23. 2011.7.12:歴代志
  24. 2011.7.17:歴代志
  25. 2011.7.24:エズラ記、ネヘミヤ記
  26. 2011.8.7 :諸書、ヨブ記
  27. 2011.8.20 :ヨブ記
  28. 2011.8.28 :共観福音書、マタイによる福音書
  29. 2011.9.4 :マタイによる福音書
  30. 2011.9.11 :マルコによる福音書
  31. 2011.9.18 :ルカによる福音書
  32. 2011.9.25 :ルカによる福音書・ヨハネによる福音書
  33. 2011.10.9:使徒言行録
  34. 2011.10.16:使徒言行録
  35. 2011.10.30:ローマの信徒への手紙・コリントの信徒への手紙一
  36. 2011.11.6 :コリントの信徒への手紙一・二
  37. 2011.11.13 :コリントの信徒への手紙二・ガラテヤの信徒への手紙
  38. 2011.11.20 :エフェソの信徒への手紙からフィレモンへの手紙まで
  39. 2011.12.4 :フィリピの信徒への手紙・ヘブライ人への手紙
  40. 2011.12.11 :ヘブライ人への手紙・ヤコブの手紙からユダの手紙まで
  41. 2011.12.18 :寄留者、ヨハネの黙示録
  42. 2011.12.25 :クリスマス、ヨハネの黙示録
  43. 2012.1.1:詩編
  44. 2012.1.8:詩編 第一巻
  45. 2012.1.15:詩編 第一巻
  46. 2012.1.21 :詩編 第一巻
  47. 2012.1.29 :詩編 第二巻
  48. 2012.2.5 :詩編 第二巻
  49. 2012.2.12 :詩編 第三巻
  50. 2012.2.28 :詩編 第四巻
  51. 2012.3.4 :詩編 第五巻
  52. 2012.3.10 :詩編 第五巻
  53. 2012.3.20 :箴言
  54. 2012.3.25 :箴言
  55. 2012.4.1 :コヘレトの言葉
  56. 2012.4.8 :雅歌
  57. 2012.4.15 :イザヤ書
  58. 2012.4.22 :イザヤ書
  59. 2012.4.29 :イザヤ書
  60. 2012.5.6 :イザヤ書
  61. 2012.5.13 :エレミヤ書
  62. 2012.5.20 :エレミヤ書
  63. 2012.6.3 :エレミヤ書
  64. 2012.6.9 :哀歌
  65. 2012.6.17 :エゼキエル書
  66. 2012.6.24 :エゼキエル書
  67. 2012.7.8 :ダニエル書
  68. 2012.7.15 :ホセア書
  69. 2012.7.22 :ヨエル書、アモス書、オバデヤ書
  70. 2012.7.29 :ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニア書
  71. 2012.8.5 :ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書
  72. 2012.8.19 :マタイによる福音書
  73. 2012.8.26 :マタイによる福音書・マルコによる福音書
  74. 2012.9.2 :マルコによる福音書・ルカによる福音書
  75. 2012.9.9 :ルカによる福音書
  76. 2012.9.16 :ヨハネによる福音書
  77. 2012.9.23 :ヨハネによる福音書
  78. 2012.9.30 :使徒言行録
  79. 2012.10.7 :使徒言行録
  80. 2012.10.14 :ローマの信徒への手紙
  81. 2012.10.21 :コリントの信徒への手紙一
  82. 2012.10.28 :コリントの信徒への手紙二
  83. 2012.11.3 :ガラテヤの信徒への手紙
  84. 2012.11.10 :エフェソの信徒への手紙
  85. 2012.11.11 :フィリピの信徒への手紙
  86. 2012.11.13 :コロサイの信徒への手紙
  87. 2012.11.16 :テサロニケの信徒への手紙一
  88. 2012.11.18 :テサロニケの信徒への手紙二
  89. 2012.11.20 :テモテへの手紙一
  90. 2012.11.23 :テモテへの手紙二
  91. 2012.11.26 :テトスへの手紙
  92. 2012.11.27 :フィレモンへの手紙
  93. 2012.11.28 :ヘブライ人への手紙
  94. 2012.12.2 :ヤコブの手紙
  95. 2012.12.5 :ペテロの手紙一
  96. 2012.12.8 :ペテロの手紙二
  97. 2012.12.9 :ヨハネの手紙一
  98. 2012.12.12 :ヨハネの手紙二、三
  99. 2012.12.13 :ユダの手紙
  100. 2012.12.16 :ヨハネの黙示録
  101. 2012.12.24 :通読について・聖書記者について
  102. 2012.12.25 :BRC 2011 メモ


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BRC no.1

聖書を一緒に通読しませんかにお申し込み下さった皆様へ 現時点で申込者は、すべて日本語を母語とする方々なので、以下日本語で書きます。

現在申し込みは 16人です。WG(学生新聞)新年号の教員からのメッセージにもこのお誘いを書いたので、新年に入ってからも参加者は増えるのではないかと思いますが、始める前に第一弾を送ります。

Bible Reading Club からとって、BRC とする事にしておきます。

mailing list や、group をネット上に設定することも考えましたが、いまは控えることにしています。 それは、匿名参加も可とするためです。 みなでグループとして共同体のようにして読んでいくのは楽しいのですが、いろいろな背景の方が居ること、残念ながら途中でやめる方も出てくるかも知れません。そこで原則は匿名とします。

自分は名乗り出てよいですよというひとは、短い自己紹介を書いて下さい。
それがあつまったところで全員に流します。引用は -- から -- までとし以下のようにして下さい。その部分のみ引用します。


----------------------------------------------------
数学を教えている鈴木寛です。

「聖書を一緒に読みませんか」を主催しています。このたび BRC を始めました。
聖書を読む楽しみをみなさんとともに味わうことができればと願っています。
また、できるだけのサポートをしたいと考えています。
改善点などありましたら、なんでも書いて下さい。
----------------------------------------------------

自己紹介以外は、投稿のときはイニシャルのようなものだけにして下さい。全くの匿名でも構いません。
メールは転送、掲載などが簡単ですから、どのように引用されるかもわかりません。 わたしは構いませんが、みなさまに迷惑がかからないように、投稿(BRC のタイトルの元でのわたしへのメール)はイニシャルか自分できめた簡単なハンドルネームだけで書いて下さい。無論最初から最後まで匿名で通しても構いません。ただ私はどのような方が参加しているか知りたいので、申し込まれた方に、私宛には自己紹介をお願いしています。

1月1日は創世記1章と2章を読んで下さい。 一日2章ずつ進みます。

下に pdf の通読表を添付しますが、それ以外の情報は、
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011.html
を参照して下さい。(上のホームページにも一つ目と同じ pdf は置いてあります。
またこれを作成した Excel File も必要な方は言って下さい。自分用の通読表を作りたい方もいると思うので。)
印刷するのは、BibleChapters5 の一ページ目だけで十分だと思います。それだけ簡単に説明します。
各巻の章が書いてあります。出エジプトのあとに 2011.2.14 とかいてあるのは、その日に39章と40章を読み読み終わるということ、
レビ記の最後に2011.2.28-1 と書いてあるのは、この日はレビ記の27章を読みレビ記を読み終わり、同じ日に民数記の1章を読むことを意味しています。つまり、レビ記の最後の章を読むのは2011.2.28に読む2章のうちの1章目だということです。

インターネットに接続しにくいかたのために、次のメールで、上記のホームページを text にしておくります。
ある程度長い同じ情報のもおですので、携帯などの方は、インターネット接続でご覧になった方がよいと思います。

1月1日からみなさんと一緒に聖書を通読できることを楽しみにしています。

鈴木寛


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BRC no.2

http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011.html

と同じ内容でなので省略。)

2010.12.31
鈴木寛


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BRC no.3

聖書は読みはじめましたか。

聖書を読む目的はいろいろと違うと思います。
わたしは、みなさんそれぞれの読み方でよいと思っています。
しかし、これからメールを送るにあたって基本的なことをまず書いておこうと思います。
ここでは
「聖書またはその巻を書いた方が何を私たちに伝えようとしているのか。」
を読み取ることを第一の目的としてわたしは書いていこうと思います。

クリスチャンのかたにとって(わたしもそうですが)は、聖書を読むことは、神様からのメッセージを読み取ることにもなると思いますが、 まずは、その箇所は何を伝えようとしているかを受け取ることはどんな読み方にしても基本的だと思うからです。 そして、基本的なだけでなく共通の目的ともなり得るからです。

教義や解釈、背景などをわたしが書くこともあるかもしれませんが、断定的には書かないつもりです。 ひとつには、私の専門は数学で、断定的に書くほどの学識がないこともありますが、 同時に数学で正しいというほどに確実な解釈や学説があるわけではないと私が考えているからでもあります。

質問、感想など、どんどん私宛に送って下さい。 どうしても個人的に答えてほしいという場合をのぞいて極力公開の質問、感想として下さい。 質問、感想の部分をわたしが転送しますので、できれば、ハイフンで線をひき(--- から --- で区切り)、 匿名にするか最後にイニシャル(または自分で決めたハンドルネーム)をつけて下さい。 前にも書いたように、お互いに知っているわけではないひとにも転送されますので、多少気をつけたいと思います。

すでに、何人か自己紹介文を送って下さっていますが、もうすこしあつまってから1月の終わりぐらいにまとめて送ります。 一般的なことはここまでとしましょう。

創世記について

聖書はもともとは巻物です。合本になったのもかなりあとになってからです。 最初に我々が読むのは、旧約聖書その創世記です。旧約聖書は一部を除いてヘブル語で書かれています。 創世記という名前ももともとの聖書にはついていません。 最初が「ベレシース(初め)」という言葉からはじまるので、ヘブル語ではベレシースと呼ばれ、ギリシャ語訳などの名前から創世記と日本語訳聖書ではなっています。 旧約聖書の最初の五巻は、トーラー(律法)また、モーセ五書とも呼ばれています。 「旧約」とは古い約束(または契約)という意味で、イエスを通しての新しい神の約束が「新約」の大体の意味ですから、 イエスの時代には新約聖書はなく、聖書といえば、旧約聖書ですが、もちろん旧約聖書という言葉もなく、「律法と預言者(マタイ7:12)」とか「モーセの律法と預言者の書と詩編(ルカ24:44)」などと呼ばれています。

このようなことを書くことは目的とはしていませんが、やはり本当に基本的なことだけは書いておこうと思った次第です。

創世記は50章あります。章という分け方も最初はなかったものです。 創世記の分け方はいくつも考えられますが、大ざっぱにわけると、 11:26(11章26節の意味です)までが「世界とひとのはじまり」について。 11:27 からが「イスラエルのはじまり」について。 となっています。前半は神様による世界と人間の創造からアブラハムまで、 後半は基本的にはアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語です。 前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。

1章・2章
ここには、神様による世界と人間の創造が書いてあります。 2:3 までとそれ以降で二つの物語が書かれているように思われます。 上に書いた目的にそって読んでみるとつぎのことを伝えていることがわかると思います。

神が世界を創造したこと。 混沌としたものがだんだん秩序をもったものとなったこと。 1:27 には「神は自分のかたちに人を創造した」とあること。 神は創造されたものをみて「それは、はなはだ良かった」と言っていること。 7日目を休んだことがかかれていること。安息日の起源(ただし日曜日は1日目です) 2:7 土のちりで人を造り、命の息をその鼻にふきいれ、人は生きた人となったこと。 2:17 に善悪を知る木からはとって食べてはいけないと言われたことが書かれていること。 2:20 に人には助け手が見つからなかった。それで女を造り、結婚のことが記されていること。

などです。いろいろと感想を持った方、ここに挙げなかったところで非常に印象にのこった所があるかたいろいろとおられると思います。 むろんそれでよいと思います。ひとつの読み方として、「何を伝えたかったか」の部分を記してみたまでです。

他にも神のことばは「ひかりあれ」と言われればその通りになる、ということを伝えていると言う部分を受け取った方もいるかも知れません。 神のことばは、人間のことばとはかなり異なるものですね。

このようにほんの少しだけ挙げてみても、たくさんのことがここにつまっていることを気づかれると思います。 科学的にみるとおかしいことがたくさんあると考える人もいるかもしれませんが、聖書は地球や人間の科学的ななりたちを伝えようとしてかかれたものではないと思います。すくなくともそれは第一義ではないと思います。ひっかかることは引っかかることとして書き留め、ここで著者が伝えようとしていることを読み取ってほしいというのがわたしの最初のメッセージです。

2:7 だけとってみても、ひとは「ちり」であること、命の息を(神によって)ふきいれられてはじめて生きた人となったことが書かれています。 ここからみなさんが何を受け取るかは、みなさんに任せますが、聖書は、この創世記の記者は、この記述を通しても読者に何かを伝えようとしていると思います。

皆様の発見に期待しています。

3・4章 もうここに罪と堕落、殺人が出てきます。ここでもいろいろなことを読み取ることができると思います。聖書全体からすると、3:15 に最初のメシヤ預言があると見ることもできます。

まずはみなさんがどう読まれるか、どのような疑問を持たれるかに任せることにしましょう。 疑問に思ったこと、心に残ったことは、書き留めておくことをお薦めします。

あまり長いと聖書ではなく、これを読むのが大変になりますから、今日はこの辺にします。 一週間に一回よりは少ないペースになると思いますが、ときどき、みなさんに書こうと思います。

いろいろと考えながら聖書をみなさんと一緒に読めること私も、楽しみたいと思います。

2011.1.2
鈴木寛


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BRC no.4

聖書の通読は続いていますか。今日は1月6日ですから創世記11章と12章です。 no.2 として、下のホームページの内容を送りました。
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011.html
少しリンク先を増やしました。このページに書いてありますが、通読の最初の困難は、それが習慣となるかどうかです。一日の中で一番自分が続けられる時を選んで、なるべく同じ時間に読むのがよいと思います。通読表の読んだ部分を斜線で消していくのもよいでしょう。まだ追いつけますので、是非習慣としてください。

上にも書いたように今日の通読箇所は創世記11章と12章です。ここからアブラハム(最初はアブラム)の物語が始まります。新約聖書の最初はマタイによる福音書ですが「アブラハムの子であるダビデの子イエス・キリストの系図。」としてスタートします。イスラエルの人たちは自分たちをアブラハムの子孫だと言います(ヨハネ8:33, 39)。アブラハムは民族の父でも、信仰の父でもあります。ダビデがある意味で理想の王であるのと同じように、アブラハムは信仰の原点、民族の父です。また出エジプト記 3:6 では神自身が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言っています。また出エジプト記2:24には「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあります。

では、アブラム(後のアブラム)はどのような人でどのように生きたのでしょうか。そして神はアブラハムとどのような契約をしたのでしょうか。そのことが今日の箇所から書かれています。すでにここまでにも神様の約束が出てきますが、旧約・新約が古い契約・新しい契約をあらわすとすると、それらが何かは重要です。ヤコブの手紙2:23では、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。アブラハムにも問題行為があるように思われますが、それでもなぜこの様に呼ばれたのか、その理由を考えながら読んでみてください。

他には、アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。またパレスチナ問題をヤコブ(アブラハムの孫)の子孫とイシマエル(アブラハムの妾の子)の子孫やエソウ(ヤコブの双子の兄)との争いと表現する人もいます。神はイシマエルの母ハガルをどうあつかったのか、神の選びとは何なのだろうと考えながら読むのもよいと思います。

最初カルデヤのウル(現在のイラク)に住んでいたアブラム一家が、いずれはカナンの地に移り住みます。ウルからカナンの北までが三日月形肥沃地帯と呼ばれている土地です。

これからいろいろな人物が登場します。また地名もたくさん出てきますので、上のリンクに地図と人物の表も加えておきました。

  1. リンク1の日本聖書協会のトップページ (http://www.bible.or.jp/main.html) の検索(または詳細検索)を使い、たとえば「アブラム」「アブラハム」「カナン」などと入れると、聖書でそれらの言葉が現れるところがすべてリストされます。
  2. リンク4にある「通読のたすけ」 (http://biblestyle.com/help.html) には「聖書人物略図」があります。聖書を読むのがはじめてのひとは、名前も混乱すると思いますので、助けになると思います。基本的な名前しか書かれていません。何人くらい知っていますか。いずれ全員登場します。
  3. リンクの10, 11, 12 に地図を挙げておきました。たとえば、12 の中の Chapter 4, The Migration of Abraham, Abraham in Cannan を参照すると、これから出てくる地名がわかると思います。日本語が良い人は 10を使って下さい。最初の最後についている地図でも十分ですが。
  4. これはリンクをつけてありませんが、http://www.biblemap.org/ に聖書箇所を入れると、その地図ができます。たとえば、創世記は Genesis ですから、Genesis 12 などを選ぶとその聖書と地図が表示され、地名を選択するとその場所と説明が出ます。なかなか良くできていますよ。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフとつづく物語はいろいろと考えさせられること、興味深い部分などあると思います。感想や、質問を書いて下さっても良いですよ。-- から -- で囲って下されば、他のかたにも転送します。

2011.1.6
鈴木寛


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BRC no.5

聖書の通読は続いていますか。今日は1月13日ですから創世記25章と26章です。

25章ではアブラハムが175年の生涯を閉じ葬られます。最初の75年については聖書は何も語っていません。アブラハムはカナンの地をうけつぐとの約束を神から与えられますが、実際に得たのは、妻のサラと自分が葬られた墓とその周りのすこしの畑地だけでした。イサクを神に捧げようとするところは緊迫する場面ですが、それはモリヤの地と書かれていますね。モリヤということばはもう一回だけ聖書に出てきます。それは、歴代誌下3章1節。歴代誌記者は、神殿の建てられた場所を、アブラハムがイサクを献げ、神に義と認められた場所と関連づけているということになります。ヤコブの手紙2章23節でアブラハムが「神の友」と呼ばれている背景には、このことと、「神がそのひとり子をたまわった(ヨハネ福音書3章16節)」ことの類比があるのかもしれません。(単に他からの引用という説もあります。)前回のメールには「アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。」と書きましたが、何か気づいたことはありましたか。それぞれの周囲の人がアブラハムやロトをどう見ていたか、神の使いのもてなし方、神または神の使いへの祈りや願い、ひとつひとつ比較するといろいろな違いにも気づかされると思います。アブラハムは苦悩を語りませんが、おそらく苦悩が無かったわけではないでしょう。みなさんは何を感じられましたか。

さて25章には、アブラハムの子イサクの系図とあります。no.3 には「前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。」と書きました。この区分で考えると、ここからイサクの時代ですが、じつは、イサクのことはあまり書かれていません。次に「系図」ということばが出てくるのは36章ですが、その直前でイサクが亡くなっています。そしてそれが、創世記に出てくる系図とういことばの最後です。さらにそれは、イスラエル(ヤコブの別名)の系図であるかと思うと、そうではないのですね。系図を追いかけるのも、奥が深いですよ。アダムの系図、ノアの子らセム、ハム、ヤペテの系図も。

35章おわりまで、話しの中心はほとんどがヤコブです。イスラエルの12部族の基本の部分(後に変更が加えられるので)を構成するヤコブの12人のこどものうち11人が生まれます。ヤコブはどのような人で、それぞれのときに、どのように行動し、どのように神に応答していくでしょうか。単純ではありません。あなたは、ヤコブの物語からなにを学ぶでしょうか。

疑問や感想お送り下されば幸いです。これから一週間ヤコブとの格闘を楽しんでください。

2011.1.13
鈴木寛


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BRC no.6

聖書の通読は楽しんでいますか。今日は1月20日ですから創世記39章と40章です。

これまでは、ヤコブが中心でしたが、ヤコブの人生については、どんなことを感じられましたか。 ヤコブは、いろいろな策略をもちい、自分にとって都合の良いように進むように仕組んでいきます。わたしは昔、自分を「ヤコブ的」だと感じ、自分を嫌っていました。神様はそれと関係ないかのように、ヤコブを祝福し、そしてヤコブもヤコブなりにそれに応答していきました。

37章からはヨセフ物語が始まりました。しかしその前に34章には、次男シメオンと三男レビ、35章22節には長男ルベンに関する記事が挿入され、その直前に12男末息子のベニヤミン誕生と、ヤコブ(イスラエル)最愛のラケルの死が記され、38章には四男ユダの物語が、オナニーの語源ともなったオナンの物語と共に入っています。この行為自体が罪(悪)かどうかの議論もありますが、ここでは何が悪だと書かれているかは確認しておくべきでしょう。新約聖書は、最初がマタイによる福音書になっており、その最初には長い系図が書かれています。それが、アブラハムから始まっていることは、前に書きましたが、そこに通常は系図に書かない女性の名前がマリヤを含め4人でています。その最初がここに出てくるタマルですね。ここまでで、ヨセフ物語の背景ができあがっているのではないかと思います。ヨセフ物語に登場するヨセフの兄弟達についても上に書いたことからいろいろと考えられるのではないかと思います。そのような背景でヨセフは、どのように自分の人生を受け入れ、神のなされることをどのように受け入れ、神に応答していったのでしょうか。

あと少しで、創世記も終わり、出エジプト記に入りますが、イスラエルがエジプトに移ってきた背景がこのヨセフ物語になっています。これが歴史的にどの時代に当たるのか、議論もあり、史実性をまったく否定する学者もいますが、創世記全体とヨセフ物語の高い精神性を見ると、エジプト王、ファラオ(パロ)にヨセフが特別な扱いを受けることがとても自然であるようにも思えますが、みなさんは、どう思われますか。大体の想定年代は、アブラハムはBC2000年ぐらい、ダビデ王朝がBC1000年ぐらいとしておきましょう。

これから一週間ヨセフ物語、そして出エジプトへと移っていきます。 疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.1.20
鈴木寛


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BRC no.7

聖書の通読は楽しんでいますか。ヨセフ物語はどうでしたか。ユダ登場の44章後半は、何度読んでも感動してしまいます。このようにユダに言わせたものは何だろうと。皆さんは、創世記どのようなところに興味を持ち、疑問を持ちましたか。今日は1月27日ですから出エジプト記4章と5章です。順調ですか。

旧約聖書は古い約束、契約の書、新約聖書は新しい約束の書だと書きました。聖書全体は、一つの救済史を記しているとも言われます。神の救いの歴史です。出エジプトはまさにそのエジプトでの奴隷生活からの救済が書かれています。特にキリスト教にとっても特別の意味を持つ過ぎ越の祭りの起源も記されています。また旧約聖書最初の5巻(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)は律法とも言われますが、出エジプト記20章にはその核となる、「十戒」がモーセを通して民に与えられることが書かれています。キリスト教の教派 (denomination) によって、十戒をどの程度重要視するかは変わりますし、そもそも10とはどのように数えるのかも教派によって異なっています。律法をどうとらえるかの分かれ道でもあります。

さて、創世記から出エジプト記への大きな変化は何でしょうか。創世記では、神が個人に現れメッセージが語られます。アダムにエバに、カインに、ノアに、そしてアブラハムに、ハガルに、イサクにヤコブに。他にはだれに語っていますか。アブラハム以降、族長達の神で、その神を、その家族も僕も信じ、周辺の人も、これら族長達が神の祝福を得ていることを認めます。信仰を守るためには、他の民または町からある程度離れて住みます。ロトはソドムに住みますが信仰的な意味では、アブラハムとは大分違う記述がされています。ヤコブはシケムの町の近くに住みますが、娘デナのことで問題がおきます。そしてまた町から離れて住みます。ここまでは、個人的な神との交わりの段階ですが、ヨセフのいるエジプトに移住してから、民が増え、一つの家族だったものが、民族、国民と言われるグループになったのが、出エジプト記の背景です。

個人が神に向き合い、それに神が応答する、神が語りかけ、個人がそれに応答する、このことは、出エジプト以降も続きます。たとえば、出エジプト記1章には、助産婦が王より神を畏れたことが書かれています。そしてモーセです。しかし、民族での出エジプト以降では、共同体としての規範が必要となります。そこで与えられるのが律法だとすれば、非常に自然なことと言わざるを得ません。創世記は興味深い話しが幾つも出てきますが、ひとつひとつの行動について、これは正しいのかと問うとなかなか判断が難しかったのではないでしょうか。その正しさの基準が神が与えられた律法です。

個人的な神から、民の神、神が個人に語りかけるところから、神が民を選び出す。そのことが書かれているのが出エジプトということになります。その最初が、3章の神が名を告げられることと、その神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主ということです。この神のもとでモーセを通して告げられる神のことばで、民は一つになれるのでしょうか。そのように、神のみこころに生きる者となっていくのでしょうか。神とモーセと民、神様が望んでおられる関係はどのようなものでしょうか。そして民にとって神はどのような存在なのでしょうか。

疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.1.27
鈴木寛


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BRC no.8

聖書の通読は楽しんでいますか。そろそろ遅れ気味のひとが出てきたのではないかと思い、なにかできるサポートをと考えています。ひとりひとり状況は違うと思いますが、遅れが出てくることにそれなりの理由もあるのではないかと思います。

それは後回しにして、わたしは、基本的には、皆さんが聖書を読んで、そこから自分でいろいろなことを汲み取っていくようになることが、一番だと考えていますので、なるべく、それぞれの巻についての簡単な概要と、日々の聖書の箇所から、どんなことをわたしが読み取っているかを書くようにしていこうと思います。それに他の方々からのメッセージや、学んだことなどが加わると良いですね。

さて、今日は2月6日ですから、通読箇所は、出エジプト記23章と24章です。

出エジプト記という名前は、創世記の時にも書きましたが、もともとのヘブル語聖書の名前ではありません。大体は、紀元前3世紀頃からエジプトのアレクサンドリアで翻訳されたというギリシャ語訳旧約聖書(Septuaginta, セプチュアギンタ、七十人訳と呼ばれ、略記は LXX)にある名前が、紀元4世紀ごろのヒエロニムスという教会のリーダーを中心とした人たちがラテン語に聖書を翻訳したウルガタ訳へと引き継がれて、我々がいま持っている聖書の各巻の名前になったと言われています。すべての巻の名前がそうかどうかは調べていないのでよくわかりません。

ICUの名誉教授の並木浩一先生(旧約学)の定年前の最後のキリスト教概論に一学期間殆ど出席したのですが、並木先生曰く、この七十人訳はアレクサンドリアに移り住んでいたたくさんのユダヤ人が、2世・3世となっていくにつれ、ヘブル語を話せなくなっていくこども達が大多数になってきた。そのこども達に信仰を継承すべく翻訳をしたもので、読み聞かせのような形式になっており、厳密な訳というより、聖書の信仰を伝えることを目的にしていると言っておられました。新約聖書の記者のルカなどのギリシャ人は、ヘブル語はおそらく読めませんから、基本的に旧約聖書の引用は、この七十人訳によっていると言われています。

脱線しました。さて、各巻の名前に戻り、七十人訳を紀元とした各巻の名前に対して、もともとのヘブル語の聖書は、それぞれの巻の最初の言葉をとって、その巻を呼ぶときに使っていました。このあたりまでは常識または通説です。創世記はヘブル語聖書の名前が「はじめに」であることは前に書きました。出エジプト記は「これらは」来週には読み始めるレビ記は「そして呼び寄せ」です。それぞれの1章1節を見て、これらのことばがどこから取られているか考えてみて下さい。

さて、出エジプト記という名前は、内容からして自然な気がしますが、そうはっきり言えるのは 15章21節あたりまでです。そして、荒野の旅が記され、19章から40章までは、シナイにおける契約について書かれています。そしてそのうちの25章からは神の幕屋に納めるものと、幕屋についてのことこまかな記述がずっと続きます。なぜこれまで細かく、書かれているのだろうと考えてしまいますよね。あまり面白いとは思えないのも自然かも知れません。

最初に遅れ気味の人ができてたのではないかと書きましたが、正直、このような聖書の内容にも関係しているのではないかと思います。

おそらく、なかなか興味を持てない理由がもうひとつあると思います。それは、創世記では、アダムとイブにはじまり、ノアを経て、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフとその兄弟達、それ以外にも、アブラハムの僕や、ロト、ハガルなど、個人に焦点があたり、様々な人々が登場、かつ、その一人一人が神様にどう答え、神様がどう導いていったかが、記されています。それに対して、出エジプト記は、アロンやミリアム、エテロ(エトロ)、ヨシュア、なども出てきますが、基本的に、傑出した人で、神が導き、それに応答していくのはモーセだけです。

20章の普通、十戒と言われる戒めが与えられるあたりまでは、アブラハムの契約に基づいて神様がイスラエルの民を購いだし、そのための指導者としてモーセを選びその器を整え、エジプトに送り出し、10の災厄の後に、エジプトを民と共に脱出し、葦の海をわたります。モーセがリーダーとして整えられるのに、荒野での40年を必要としたことなどは、考えさせられますし、しゅうとのエテロ(またはエトロ)が来て助言をするところなども、興味深いですが、それも、前半です。

この出エジプト記後半からレビ記はどんなことを考え、読んでいったら良いのでしょうか。このあたりが、聖書通読の第一関門です。

幕屋(会見の天幕)は、神様と会う場所、つまり神様が臨在する場所です。神様はイスラエルと共におられ、イスラエルは神様(主)と共に歩むというのです。これは、自分で行動規範を考え決める生活とも、だれかのリーダーシップに従って生きる道とも、合議制で進む方向を決めていく道とも違います。まったく新しい生活です。神様と会う場所はどのようなもので、どのように礼拝し、そして神様と共なる生活において、ひとはどのように生きるのか。聖なる生活とよぶわけですが、もし神の意思が明確に示されるのであれば、それは何から何まで違う生活でしょう。そのことが書かれているのが、出エジプト記後半から、レビ記です。

ガラテヤ人への手紙(新約聖書)3章24-25節では

こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
と言っていますから、律法に示された道は、神によって生かされる生活の完全な形ではないのでしょうが、神と共に生きる生活、いのちをもって生きる生活は、なにもかもみんな違う生活なんだということを教える役目はあったのでしょう。つまり清い(聖い)とはどういうことかを知らせる役目です。もちろん、一民族、聖書の記述によれば、成人男性だけで 60万人(民数記で出てきます)での出エジプトですから、エテロ(エトロ)の助言も含め、社会的な問題をどう扱えばよいかは大きな問題だったでしょう。個人で、個別に神に対してどう応答していったらよいか、ある意味ではかってに応答していた時代とは違うのです。

出エジプト記とレビ記に書かれている様々な規則は、モーセを通して与えられたと書いてありますが、基本的には祭司やレビ人のための規程ではなく、民全体、一人一人のための規程です。それが証拠に、レビ記は次のような言葉で終わっています。(レビ記 27:34)
以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。(新共同訳)
これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。(口語訳)
以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。(新改訳)

今日のICU教会の礼拝では北中晶子牧師が「敵はどこに?」というタイトルでメッセージをして下さいました。聖書箇所はマタイ5章43-48節でした。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。」
「敵を愛することはできません。キリストがおられなければ。しかし、わたしたちもキリストによって愛することができます。神様の前に立つとき敵も味方もありません。もしそうでないなら、わたしたちは古い生き方をしているのです。イエス様は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと言っておられます。あなたがたの天の父の子となるためにと。イエス様がではなく、私たちが神様の子となるためです。小さな日常の中でつぎのように答えたいと思います。『神様わたしたちの敵は確かにそこにいましたが、あなたに助けを求めたとき、わからなくなってしまいました。あなたにあって、わたしもあの人も同じように哀れみをうけ、恵みをうけ、ほんとうのところ敵も味方もないことをあなたにあって知らされたからです。』」
それほどの大きな変化の一部を、イスラエルのひとたちも、出エジプト記・レビ記を通して教えられようとしているのでしょう。よくは分からない部分があっても、疑問をもちつつも、少しずつ読み続けましょう。神様の救いの歴史としての旧約聖書はまだはじまったばかりです。

疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.2.6
鈴木寛


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BRC no.9

聖書の通読は楽しんでいますか。そろそろ遅れ気味のひとが出てきたと聞き、心配しています。最初に書いたように、もう一度、途中から始めるというのも良いですよ。火曜日からレビ記です。前回書いたように、レビ記はすこし難しいので、ここから始めて乗り切ることができれば、あとは続けられると思います。モーセ5書の次のヨシュア記からはじめるのも、そのあと、士師記から始めるのも、サムエル記上から始めるのも良いですよ。大切なのは読んだ記録をつけて、あとで読まなかったところに戻ってくることです。

前回、レビ記の予告はしましたので、出エジプト記の復習から。
出エジプト後半では美枝さんも書いておられる律法が与えられるわけですが、前回書いたように、主が民の内に住まわれるということが出てきましたね。

また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新共同訳)
わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 口語訳)
わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新改訳)
そして出エジプト記の最後40章には神の臨在の証である昼は雲夜は雲の中に火があり民を導いたことが書かれています。

もう一つ出エジプト記の大切なことは、エジプトを出てすぐからイスラエルの民の不信・不従順が繰り返されていることですね。特に32章の記事には驚かされます。そしてモーセが神と民との間を取り持つことも出てきます。32章32節には「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と書かれています。旧約聖書には明確には書かれていませんが、使徒行伝7章23節・30節にはモーセが荒野でエテロのもとにいた期間を40歳から40年間としています。モーセはユダヤ人に律法をもたらしたひととして記憶されますが、最初の40年間に王宮で教育を受け、次の40年間に人間として練られ整えられたのでしょう。(出エジプト記7章7節には「彼らがパロと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」という記述だけがあります。)モーセは何を支えに生きていたのでしょうか。モーセにとって主はどのような方だったのでしょうか。確実なのは、モーセは直接神と語り合い神からのメッセージを民に伝えたと書いてあることですね。

先週は一般教育科目の数学の授業での小テストのメッセージ欄のテーマは、「聖書を読んだことがありますか。キリスト教について、ICU の「C」について。」でした。受講生の方達が書いたメッセージがホームページに載っていますので、興味のある方は読んでみて下さい。ひとりひとりに手書きでメッセージを返していますが、ホームページ上の、わたしからのメッセージには、この聖書通読の会のことも引用しています。

http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/class/ns1a/ns1a_message2010.html#quiz7

似たようなメッセージは、わたしのホームページ (http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/) にたくさんあります。

疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.2.13
鈴木寛


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BRC no.10

聖書の通読は続いていますか。通読する人の最初の関門は、習慣とできるかつまり毎日の予定に組み込めるかですが、第二の関門は、レビ記だというひとがたくさんいます。今日は2月21日ですからレビ記13章・14章です。

レビ記の概要をまず書いておきます。わたしにとっても復習のため。

レビ記(言葉は主として口語訳による)
副題:天幕での礼拝手引き

  1. 犠牲のささげものの仕方 1-7章
    1. 五種類のささげもの(コルバン マルコ7:4参照)1:1-6:7 火祭(焼き尽くす捧げ物・全焼のいけにえ burnt)1章、素祭(穀物のささげ物 meal)2章、酬恩祭(和解の献げもの・和解のいけにえpeace)3章、罪祭(贖罪のための献げ物・罪のためのいけにえ sin)4章、愆祭(罪過のためのいけにえ trespass)(けんさい)5章  
    2. ささげものの処理の仕方。6:8-7:38
  2. アロンの子達の祭司としての聖別 8-10章
    1. モーセによる聖別 8章  
    2. アロンと民のためのアロンによるささげもの 9章  
    3. ナダブとアビフの罪と聖なるものを食べることについてのおきて10章
  3. 儀式にあずかるための純血 11-16章
    1. かもの、魚、鳥に関する清いものと清くないもの 11章  
    2. 女性のきよめとそのささげもの 12章  
    3. ライ病ー法、しるし、犠牲 13-14章  
    4. 体の清め 15章  
    5. 罪についての毎年のあがない 16章
  4. 聖なる事に関するおきてと聖なる祭り 17-26章  
    1. 命が生であることに関する様々のおきて 17-22, 24  
    2. 毎年の宗教祭 23章
      a. 過ぎ越の祭 b. 初穂の祭 c. らっぱの祭り d. 仮庵の祭  
    3. 安息の歳と呼べるの歳 25章  
    4. 従うものへの祝福と従わぬものへの罰
  5. 誓いと十分の一、神への捧げ物に関数r不言 27章
前回も少し書いたように、今日はわたしがどのようなことを考え記録してレビ記を読んでいるか、例として書かせて下さい。あくまでも個人的感想です。

1:4 頭の上に手を置く:身代わりのために受け入れられるため、自分自身をささげることの象徴、完全に焼き尽くされ祭司も食べない。
1:14 羊や山羊を買えない貧しい人のための規程も決められている。同時に購いは貧しい人も必要。 2:13 契約の塩は契約が真実・不変であることの象徴。
3:16-17 脂肪はすべて主の物、脂肪も血も食べてはならない。
4:2-3 罪を犯した場合の購いの最初は祭司について、厳粛な思いを持つ。
 順序は、祭司・共同体全体・共同体の代表者・一般の人
4章は過失罪で、故意罪については民数記15:30-31に民からたたれなければならないことが書かれている。
5:1 もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。とても厳粛。
5:4 また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。これがみだりに誓ってはならないということの内容であろう。そしてこれは神に対して罪を犯したこと。
5:5 まずは罪の告白。
5:7 様々な経済状態に応じたささげものが定められている。
6:18 この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。家に持ち帰ったり、祭司以外のものが食べることは許されなかったのだろう。特別な物。
7:20 もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。汚れることを極度にさけた理由もここにあるのかも知れない。
8:33 あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。この次の34節につながるように、おそらくこの7日間は罪の清めという事だろう。大変な儀式だったろう。
9:24 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。これこそが神の臨在の象徴。脂肪をなめ尽くす、脂肪は神のものとの意味がここにもあるのだろう。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。詳細はよくわからないが大変な事件が起きてしまう。厳粛なとき、しかしこの次にある、
10:19-20 を合わせて理解すべきだろう。ここが無かったらたんに厳しい宗教でおわってしまう。「モーセはこれを聞いて納得した。」
11:43 あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。清さについての最後がここにあるのかもしれない。ひとつひとつあまり理由は考えたくないが、ある程度なぜ清くないのか想像できるような内容になっている。人々に神は考えるように促しているのかも知れない。
12:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。理解しがたいことが続く。血がいのちとしてそれが地にながされることに対して恐れがあったのだろうか。
13: 8 祭司はこれを見て、その吹出物が皮に広がっているならば、祭司はその人を汚れた者としなければならない。これは重い皮膚病である。最近の口語訳の版は「重い皮膚病」となっている。私が使っているものは「らい病」差別的に働く言葉の排除、またひとからげにライ病としているところに問題があるからだろう。しかし、当時はやはりライ病として恐れられ、共同体に伝染しないよう特別な注意が払われた。配慮は理解できるが、やはりこれは差別的なライ病認定として残すことも一つだと思われる。
14:2 「重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、清められる希望を持ち、ある意味では誤診の可能性もこのようにして清め規程として持っていたのだろう。いまも、そう変わらない危うさがある。

日付は変わってしまいましたが、ここまでとします。どんなことを考えながらわたしは読んでいるかを書いてみました。 疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.2.21
鈴木寛


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BRC no.11

レビ記楽しんでいますか。今日は2月25日ですからレビ記21章・22章です。 あと少しでレビ記も終わり、民数記に入ります。 今日は、今回の通読でわたしが学んだことを書かせて下さい。
  1. 「いのちはどこにあるのだろう」

    レビ記 / 17章 14節 (口語)
    すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

    レビ記では、血のことがたくさん出てきます。そして、ここでは「どんな肉の血も食べてはならない」となっています。現在、我が家での聖書の会では使徒行伝を読んでいますが、そのちょうど真ん中の15章、通称エルサレム会議と呼ばれている箇所では、「異邦人(ユダヤ人以外)が救われるためには、ユダヤ教徒になって律法をみな、守らなければならないか」という問題と「クリスチャンになったら、律法を全部守るべきか」という問題について、議論されています。その結論は使徒行伝15章28・29節「すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。」これらの事項を書いてあるのは、ユダヤ人クリスチャンは、律法をしっかり守って生活していましたから、異邦人クリスチャンがこれらのクリスチャンと共に教会生活をするためには、このような基本的な事を守ることが必要だったからだとも言われています。

    それは、さておき、ここでも「血」が出てきますね。なぜ「血」なのかの答えが、レビ記の上にあげた箇所に書いてあります。「すべて肉の命は、その血と一つだからである。」つまり、血を食べないようにし、血を特別なものと考えたのは、それが命そのもの、命と一つだとされたからとなります。つまりは「いのち」を特別なこととした、命を特別なものとして大切にしたということです。つまり、命をむやみに食べてはいけないということです。神様はモーセを通して (レビ17:1, 8等)いのちと同一のものとして血をたべるなと命じたわけです。神様を前面に出さないなら、これを当時の人のいのちをたいせつに生きることを表現する信仰告白と取ることもできます。血といのちは違うだろうというひとも多いと思います。では、みなさんは、いのちはどこにあると思いますか。現代の人は命とは何だと思っているのでしょうか。

    最近、日野原重明先生(1911年10月4日 山口県生まれ、現在聖路加国際病院理事長・同名誉院長・聖路加看護大学名誉学長)の「愛とゆるし」(教文館 ISBN 978-4-7642-6920-0) という本を読みました。そこに日野原先生がされた、オーストラリアの小学校での「いのちの授業」について書かれてありました。

    「命は目には見えないけれど、君たち命を持っているね。では、命はどこにあるのかしら」
    心臓とかをさす子もいますが、それは命ではないよねと語り、
    「君たちは昨日、朝起きてから何をしたか順を追って話してごらん」
    「君が持っている時間を君のためだけに使ってきた?」
    と問いかけます。そして、最後に
    「おとなになったら自分の時間をどのように使いたいかを考えて、私に送って下さい。」
    その応答として、
    「日野原先生は『人のことを考える』『仕返しはいけない。我慢しなければ』と言われました。『平和のことを深く考えて行動する』ということは、はっきり言うと、普段はできないと思います。だからそんな大きなことじゃなくて、まずは日常生活の中で友達や家族、周りの人たちのことを考えてみたり、普段の生活のちょっとしたことで気をつかったり、そういうところから行動していけるようになりたいです。」
    「自分という空っぽの器にどう詰め込んでいくかが大切だと思いました。」
    と素晴らしい手紙をもらったと書いてありました。みなさんは、自分のいのちはどこにあると考え、普段の生活を生きる中で、どのように自分という器に詰め込んでいるのでしょうか。いのちを大切に生きていますか。
  2. 「たいせつなひとをたいせつにすることは、たいせつなひとのたいせつなひとをたいせつにすること」

    レビ記 / 18章 7-8節(口語)
    あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。

    ちょっと異常なことが書かれています。しかし、聖書をここまで読んできた人は、思い当たる事件がありますよね。 そうです。ルベンの事件です。

    創世記 / 35章 22節 (口語)
    イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。

    このあと、ルベンは、ヨセフ物語でも特別な役割を演じるのでした。「若いときの過ち」であったかどうかは分かりませんが、この事件については、創世記49章3,4節にも書かれています。一生の問題となったことでしょう。ビルハとのことが、父ヤコブをはずかしめることだということまで思いが到らなかったのでしょうか。

    実は似たそしてもっと悲劇的なことがあとから出てきます。列王紀上です。サムエル記下の問題も似た問題です。 このレビ記の箇所は、平たく言うと、「お父さんを大切にすること。それはお父さんにとって大切なお母さんを大切にすること。」ということでしょう。そして同様の関係の記述がこのあと続きます。すなわち、表題に書いたように「大切な人を大切にすることは、大切な人の大切な人を大切にすること」だと言うことです。

    皆さんにとって大切な人はだれですか。その人の大切にしている人を大切にしていますか。もし、ほんとうにその人が大切なら、その人の大切な人も大切にしますよね。その人に喜んでもらう為に。神様を大切にすることは、神様が愛しておられるわたしたちの隣人を愛することでもあります。

    実は、授業で「あなたにとって一番たいせつな(または、たいせつにしたい)もの、ことはなんですか。」と聞いています。大切なひと、もの、ことを大切にして生きることはあまり簡単ではないことなのかも知れませんね。
    http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/

  3. 「あなたの隣人を愛さなければならない」

    レビ記 / 19章 18節 (口語)
    あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

    レビ記で一番有名な聖書の箇所はここでしょう。聖書で一番大切な戒めとしてイエスが答えられる二つの戒めのひとつです。(マルコ12:28-34) 善きサマリヤ人の譬えで出てくる箇所でもあります。(ルカ10:25-37) このレビ記19章を読めば、隣人についてのことがたくさん書かれていることが分かりますね。ここだけを読めば隣人はやはり「自分の民」の人だろうなと考えてしまうかも知れません。この締めくくりが「わたしは主である」というのは、重いですね。

今日は、17章・18章・19章からひとつずつ聖書の箇所を取り上げてみました。わたしも今回の通読でまた思いを新たにさせられた箇所でもあります。みなさんは、どんなことを感じておられますか。

疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.2.25
鈴木寛


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BRC no.12

民数記に入りましたね。今日は3月6日ですからレビ記12章・13章、明日は14章・15章、民数記の中でここが一番好きだと言う人もいるのではないでしょうか。12章も考えさせられるところですが、13章・14章はカレブが登場するところでもあります。

まずは、民数記について少し概要を書き、13章・14章について考えてみましょう。

民数記は冒頭の言葉が「ワッイェダッベール(そして主は仰せられた)」ですから今まで読んできたものと同じように、ヘブル語聖書ではこの言葉で呼ばれていますが現代ヘブル語聖書では1節の4番目の単語をとって「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれているそうです。いのちのことば社の新聖書講解シリーズ 旧約3「レビ記・民数記」は山崎順治という日本基督改革派の牧師(現在は引退牧師)が書いていますが、わたしは甲子園に在住時代この方が牧師をしている甲子園キリスト教会に所属していたので、懐かしくなって手に取ってみました。上に書いた民数記の呼び名についてもこの本から取ったものです。その呼び名についてギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)やラテン語に基づいて「民数記と呼ぶのは人口調査の出来事に基づいたものであるが、『荒野にて』という書名は、起源的には1:1のシナイの荒野を指しているが、それだけでなく、10:11以下のパランの荒野、20:1以下のツィンの荒野、22:1以下のモアブの荒野と、本書に書かれている出来事の舞台が荒野であることを考えると、極めて内容にふさわしい書名であると言える。」と書かれています。

内容は以下の通りです。

民数記1:1はエジプトを出た第1年1月15日から約1年たった第2年2月1日からスタートしますが、次の申命記は 第40年11月1日から始まりますから、出エジプトからカナンに入る荒野の40年の殆どは、この民数記となります。その長い期間に起こった出来事が記されているわけです。そしてなぜそんなに長く荒野をさまよわなければならなくなったかが書かれているのが、今日と明日の箇所です。もちろんその「なぜ」の部分は皆さん自分で読み取って下さいね。

日本聖書協会のページの左上にある検索窓にカレブと入れてみると、カレブが出てくる聖書の箇所が全部リストされます。それなりに人気のカレブですが、新約聖書には出てきません。

http://www.bible.or.jp/main.html
新改訳聖書を読んでいる人は次のリンクの下の検索条件に入れれば出てきますよ。
http://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch.html
質問を書いておきます。自分にこのように問いながら読むのも聖書の読み方の一つです。

13章

  1. カレブが斥候(偵察員)として選ばれたのは、どのような選考基準によってですか。
  2. 斥候が派遣された目的は何ですか。
  3. 偵察から帰って来た人たちはどういう報告をしますか。
  4. カレブはどんな点で他の斥候に同調しないのですか。
  5. 他の斥候たちはカレブの意見を聞いてどうしたでしょうか。
  6. なぜカレブは妥協することを拒むのですか。
14章
  1. 斥候達の悲観的な報告を聞いてイスラエルの民はどんな反応をしますか。
  2. ヨシュアとカレブは民にどのようなことを言いますか。
  3. カレブとヨシュアの結論はほかのひととなぜ違うのでしょうか。
  4. 20節以降で神が民を裁く理由についてどう言っていますか。
  5. カレブについてはどう言っていますか。
  6. 民に対する神の審判はどのようなものですか。
民の不信と神のさばき、カレブとヨシュアの信仰についてあなたはどのように感じ、考えますか。

新渡戸稲造の『武士道』(原文は英文でProjekt Gutenberg にも入っていますね)

http://www.gutenberg.org/ebooks/12096
矢内原忠雄訳の日本語版では第4章に勇・敢為堅忍の精神として論ぜられています。 単に勇気であれば、称賛されるべきものではないはずです。単に勇気があったということではないと思います。カレブを考えるには、カレブ以外の人がなにに根拠を置いて判断していたかを考えるのも良いかも知れません。そした私たちはどうでしょうか。現代の日常のなかでこれと似たことはないでしょうか。

決定的な分かれ道となったこの事件、あなたはどう読みますか。

疑問や感想お送り下されば幸いです。

2011.3.6
鈴木寛


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BRC no.13

皆様いかがお過ごしですか。地震の時はどこにおられましたか。なにか被害はありましたか。どのような思いで今の時を過ごしておられるでしょうか。3月10日のBRC no.12.1 contribution-1で、私は、3月12日からタイ・ワークキャンプに参加するため不在だと書きましたが、いろいろと考慮した末、中止との決断にいたり、今もICUにおります。

地震・津波・原子力発電所事故、また地震は東北から関東の太平洋岸だけでなく、他の場所でもおこり、被災地では、十分な物資が届かない中で、避難所でも亡くなられる方が出ています。東京のような被災地から離れた場所でも、電力不足からの計画停電、交通機関の運休なども今後長期間にわたって続くようです。千葉県・茨城県など比較的近くでも被災されたかたが多くおられます。先ほど、吉祥寺カトリック教会に外国人の方などが避難して来ているため、特に子供のための衣類などを集めていると言うことで、我が家からもいくつか段ボールに入れた子供用衣類を持って行ってもらいました。これからは、被災地以外で、避難所を設けたり、物資を送ったりということも本格化してくることと思います。

このような時に何を考え、どのように行動したらよいでしょうか。現在読んでいる聖書の箇所に関わらず、いま考えていること、心配事など、今の思いをみなさんと分かちあって(シェアして)頂ければ幸いです。

今日は3月17日、通読は民数記34章・35章です。あと一章で民数記も終わり、次は申命記です。以下では、申命記に簡単に記すとともに、民数記32章についてと、前回のK.H.さんの質問について書いたホバブについてその後考えたことについて書きたいと思います。

まずは、申命記について。

申命記は、他の旧約聖書と同様、ヘブル語聖書ではその最初のことばから取って「エーレ・ハッデバーリーム(これらはことばである)」あるいは短く「デバーリーム(ことば)」と呼ばれています。17:18にある「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということば、または、短く「ミシュネー(写し)」と呼ばれることもあるようです。日本語聖書の申命記は、漢語の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。全体としては、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されています。

特に、ユダヤ人が朝夕、唱えている「シェマー(聞け)」は、申命記 6:4-9, 11:13-21, 民数記15:37-41 から取られ、熱心なユダヤ教徒は、これらに書いてあるように、これらの聖書のことばをかいたものを箱に入れて、額や体の一部に付けるくらい大切にしています。読み始めれば、今までの4書とは文体が違うことが分かると思いますが、聖書の研究者たちによっても、創世記から民数記とこの申命記の成り立ちはことなるとして、議論があるものです。

新しい世代への律法の更新(再提示)

  1. モーセの第一の説教 1-4章
     a. シナイからヨルダンへのイスラエルの歴史
     b. 神の命令を忠実にまもるようにとの訴え
     c. 歴史的な事への付加
  2. モーセの第二の説教 5-28章
     a. 十戒の再読と、神に下が枸杞との懇願
     b. 宗教的世界的生活に関する規則
     c. しっくりの板に書き留められるべき定め、
     d. 祝福とのろい
  3. モーセの第三の作況 29-30章
     a. 契約更新と祝福とのろい
  4. モーセの最後 31-34章
     a. ヨシュアへの引き継ぎ
     b. 祭司たちへの律法の付与
     c. モーセの歌・祝福のことばと指令
     d. モーセの死

つぎに民数記32章について。

ここでは、ヨルダン川の東の地域をほぼ平定した時点で、12部族のうちのルベン族、ガド族および、マナセの子マキルの部族が、その地域をわれわれに与えてほしいと願い出ます。これに対して、

モーセはガドの子孫とルベンの子孫とに言った、「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。(口語訳 民数記32:6,7, 15節まで読んで下さい)

勝利をおさめた直後の分裂の危機です。このあと読んで下さればわかりますが、その分裂の危機は回避されます。そして最終的には、ヨシュア記22章にあるように、祝福をもって終わります (ヨシュア22:6, 22章全体を読んでみて下さい。もう一つの危機についても記されています)。

今回の地震・津波・原発事故のニュースを見ながら、わたしは共同体について考えています。

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。(口語訳 コリント人への手紙第一、12章26節) 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(口語訳 ローマ人への手紙12章15節)

ひとりひとりが他者のことを考えられなければ、そのような想像力をもたなければ、節電もできないでしょうし、食料品も無くなってしまうでしょうし、援助品も有効に用いられず、無駄となってしまうでしょう。ニュースでも、物を買うとき「本当に必要かを考えて」買ってほしいと言っていました。被災地での心的外傷後ストレス障害 (PTSD(Post-traumatic stress disorder)) を最低限に抑えるための大切なことは、「声を掛け合うこと」だとも言っていました。閉鎖的・排他的な共同体が、多くの問題をもたらすことは事実ですが、共同体としての意識がなければ、ひとは困難をのりきっていけないことは確かだと思います。ICU もやはり20世紀前半に2回の世界大戦を起こしてしまった現実を As neighbors we are one world. As brothers we are not. と表現し、これではいけないということで平和を作り出す人たちを育てるために作られた大学です。 この機会に、ICU を含め、地域の人たちが、日本中の人々がそして、世界の人たちが、兄弟姉妹だと感じられるようなひとつひとつのことによって、分裂ではなく、それぞれが出しうる物を用いて、互いに仕え合うことを学ぶことができればと願っています。

わたしも、そのことを考えたいと思っています。

最後に短くホバブ (BRC no.12.1 contribution-1, 民数記 10: 29-32) について前回書けなかったことを加えます。ホバブはミデアンですね。ミデアンは創世記25章1, 2節からは、アブラハムの妻サラの死後めとったケトラという妻の子の一人として出てきます。創世記37章28節, 36節には、ちょっと不明瞭な記述ですがミデアンびとの商人が出てきます。民数記10章の記事は出エジプトから1年程度後のことで、40年近くたってから、最初に大々的な勝利をおさめる相手は、モアブとミデアンの連合軍でした。これには、イスラエルの人たちを信仰から引き離すような事件があったことも記されていましたね。(民数記31:8,16, ペトロの第二の手紙2章15節, ユダの手紙 11節) こう考えてくると、ホバブが離れて行った背景とその結果については、いろいろと考えさせられてしまいますね。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.3.17
鈴木寛


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BRC no.14

皆様いかがお過ごしですか。通読は続いていますか。今日は3月28日ですから、申命記20章・21章です。あと1週間で申命記が終わり、モーセ五書とか律法(トーラー)と言われている部分が終わります。

申命記には、たくさんいろいろな命令が書かれていますが、10章12・13節には次のように記されています。今回は新共同訳から引用しましょう。

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。(「ただ」の部分は口語訳では「ただこれだけである。」)

これを見ると、最終的には神様が望んでおられることは私たちが「幸いを得ること」であることが分かります。少し前にICU教会の北中晶子牧師が説教の中で「神様はわたしたちに人生を楽しんでほしいと思っているのでしょうか。それともいろいろと楽しむことを我慢して、いわゆる正しい生き方をしてほ しいと望んでいるのでしょうか。みなさんはどう思いますか。」と問いかけておられましたが、神様の望んでおられることは、究極的には私たちが「幸いを得ること」であることが、ここからも分かります。そして、この律法といわれるモーセ五書における「幸いを得ること」の鍵がここに記されているわけです。テーマの一つです。

前回「申命記」の名前のもととなった17:18の「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということばを引用しましたが、これは14節から始まる王に関する規程の一部でした。馬を増やしてはいけないこと、妻を多くもってはいけないこと、金や銀をたくさん蓄えてはいけないと書かれ、その次に18節・19節には次のように書かれています。

彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。

そしてそれは、高ぶらないため(20節)となっています。馬は当時軍隊の力を象徴するものでした。多くの妻は「こころを迷わ」さないため、金や銀はそれをいのちの支えとしてしまわないためでしょう。神にのみ頼り、心を集中してこの律法(当時の聖書)を「生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」となっています。聖書を「生きている限り読み返」す目的がここに書かれています。「神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守」るためで、それは、上に書いたこととあわせると、「幸いを得る」ためです。

最後32章では次世代を担うヨシュアと共に律法のことばを民に読み聞かせ 46節・47節でつぎのように言っています。

「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」

聖書のことばは「命」だと信じますか。

今回は、申命記ひいてはモーセ五書のテーマの一つについて書いてみました。申命記には、ほかにもいろいろと興味深い話題が記されていますが、それは皆さんの発見に委ねましょう。来週にはヨシュア記に入ります。しばらくイスラエルの歴史が続きます。ちょっと今日は堅すぎたかな。「こんなことについて書いてほしい」など、リクエストがあれば歓迎です。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.3.28
鈴木寛


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BRC no.15

皆様いかがお過ごしですか。今日は4月3日ですから、申命記32章・33章です。予定では、明日申命記が終わり、ヨシュア記に入ります。

モーセは申命記 34:10 口語訳で「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。」と書かれているほど特別な存在でした。しかし、このモーセは申命記3:25で「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と願いますが、神様はそれを許されませんでした。3:26 には「あなたたちのゆえ」と書いてありますが、他の箇所にもう少し明確に、その理由が書かれていますね。民数記20章と27章、そして申命記32章。

そこでモーセの後継者として任命されたのがヨシュアです。(民数記27章、申命記1章、3章、31章)さて、このヨシュアはどんな人だったでしょうか。出エジプト記17章、24:13, 32:17, 33:11, 民数記 11:28, 13:16 と 14章に出てきます。

ヨシュア記を読んだことがない人でも、黒人霊歌の "Joshua Fit the Battle of Jericho" は聞いたことがあるのではないでしょうか。ICU の Glee Club も演奏会ではかならず黒人霊歌を歌いますが、この曲もかなり頻繁に歌っています。YouTube には Mahalia Jackson や、Golden Gate Quartet のもあります。大学院生時代、アメリカの教会の聖歌隊の余興として barbarshop という形式(?) で男性4人の掛け合いのアカペラで spiritual を練習したことがあるので、ちょっと懐かしいです。楽譜もないのでほとんど忘れましたが。この曲は、Spritual とも Gospel とも Jazz とも言えると思います。

ヨシュア記

ヨシュア記からネヘミヤ記までは、カナン進入以降のイスラエルの歴史が書かれていますが、ユダヤ教の伝統では「預言者」に分類されています。上で触れたエリコの戦い以外にも、1章の激励や最後の24章は好きな人がいるのではないでしょうか。しかし、このヨシュア記を読むとどうしても避けて通れないのは、新改訳聖書で「聖絶」と表現されている「神様のものとする」としてカナンの地の人たちをすべて殺してしまうことです。聖書はそのことをどう記述し、これはどう理解したらよいのか。なかなかチャレンジングです。ヨシュア記に入る前にも、なぜカナンの地の民を滅ぼすのかその理由が何カ所かに書かれていました。覚えていますか。そして滅ぼす側のイスラエルの民はなぜ選ばれたのかも書いてありました。その記述を同時に考えながら、問題を問題としてしっかりもって、新約聖書まで読み進んでもらいたい、とだけここには書いておきます。キリスト教界でも、もちろん、議論のあるところです。

約束の地の所有

  1. カナン進入 1-5章
    a. 神のヨシュア任命、エリコへのスパイ 1, 2
    b. ヨルダンの横断、記念の石、割礼と過越 3-5
  2. カナンでの勝利 6-12章
    a. エリコ陥落 6
    b. アカンの罪とアイ 7-8:29
    c. エバルとゲリジムでの契約の確認 8:30-9
    d. 北と南での戦い 10, 11
    e. 勝利の概要 12
  3. カナンの分割・分与 13-21章
    a. ヨルダンの向こうの部族の境界 13
    b. その他の部族に与えられた土地14-19
    c. 逃れの町 20
    d. レビ人の町 21
  4. 定着 22-24章
    a.. 2部族半、ヨルダンの向こうに戻る あかしの祭壇 22
    b. ヨシュアの最終の挨拶 23-24:15
    c. シュケムでの契約更新、ヨシュアの死 24:16-23

ヨシュア記からみなさんは、なにを学ばれるでしょうか。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.4.3
鈴木寛


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BRC no.16

皆様いかがお過ごしですか。新学期が始まりましたね。週一回のペースでサポートメールが続けられるか自信がありませんが、みなさんが、聖書を少しでも興味を持って読み続けることが出来るよう祈っています。今日は4月10日ですから、ヨシュア記12章・13章です。予定では、今週でヨシュア記を読み終わり、士師記に入ります。ヨシュア記から、列王紀下までは、変化も多く、物語としても面白いので、興味をもって読めるのではないかと思います。かなり遅れてしまった人は、どこまで読んだか記録を確認して、ヨシュア記や、士師記、ルツ記またはその次のサムエル記上から読むのもよいと思いますよ。あとで、読み飛ばしたところに戻ってくることもできます。

ヨシュア記6-12章はカナン征服、13-21章はカナン分割ですから、実感を持つには、やはり地図の助けが必要でしょう。いつも、一番下につけている、BRC ホームページのリンク爛の
12. Bible Atlas という site の地図はとても良くできています。まず一つだけみるなら

Chapter 7 The Tribal Allotments of Israel
http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/039.jpg
ですが、Chapter 7 の地図は、よく見るといろいろな情報が書かれています。 どうしても日本語でというかたは、少し古いですが、聖書地図の第3図でも概要はつかめるかも知れません。
http://ja.wikisource.org/wiki/聖書地図_(JBS1956)

先住民のカナン人はフェニキアのセム語系の言語を話す人たちで、フェニキアは基本的には海洋民族で交易で発展してきた民族といってよいと思いますが、それは民族の起源ぐらいに考えるのがよいでしょう。最近、チュニジアで政変が起きましたが、チュニジアは、カルタゴ移籍の観光収入が大きく、それが落ち込んでいるというニュースも出ていました。そのカルタゴは、フェニキアの植民地、カナンの地を一つの根拠地として栄えました。ペリシテ(パレスチナの語源ともなっており、パレスチナ南部の5都市を中心としている)も出てきます。海の民とも呼ばれますが、他のカナン人とは区別されているようです。カナン人もペリシテ人も交易を生業としていることからもわかるように、文明としてはかなり高く、ヨシュア記にも「鉄の戦車をもっている」と恐れられています。鉄を扱う技術はまだ未発達で、それを手にした民族が強いとされた時代です。ヨシュアに率いられたイスラエルは、その意味では、劣っていた、自他共に劣っていると認めたことは確かでしょう。(いのちのことば社「新聖書辞典」などいくつかを参照しています)

その背景のもとで、民数記13章にでてきた、斥候の報告とカレブの発言を理解しないといけませんね。ヨシュア記にも何カ所か、関連する箇所が出来ています。エリコ(2章・6章)についても、その後のアイ(7章・8章)についても、ギベオン(9章)についても 31王の土地の征服も(10章ー12章)。さらに、分割のときにおいても。17章14-18節も面白いと思います。モーセのリーダーシップと、ヨシュアのそれとは、大分違いますね。聖書はここからどんなことを語ろうとしているのでしょうか。(名称は口語訳のものを使いました)

みなさんは、どんなことを感じ、学んでいますか。

士師記については、今日は書けませんでしたが、士師記を読むときに一つ指針となる、ことばを書いて、今日は終わりとします。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師記21:25 新共同訳) 士師記の一番最後に出てくることばです。実はもう一回士師記の途中にも出てきます。見つけて下さいね。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.4.10
鈴木寛


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BRC no.17

皆様いかがお過ごしですか。今日は4月17日ですから、士師記2章・3章です。

士師記

ヘブル語聖書でも「ショーフェティーム(士師(さばきづかざ)たち)」となっています。 背景は、1章・2章に書かれており、ヨシュア記とのつながりもよく分かるようになっています。特に、2章6節から23節でしょうか。これは背景というより、士師記の神学といっても良いものでしょう。

2:20-23 の口語訳を書いておきましょう。

それで主はイスラエルに対し激しく怒って言われた、「この民はわたしがかつて先祖たちに命じた契約を犯し、わたしの命令に従わないゆえ、わたしもまたヨシュアが死んだときに残しておいた国民を、この後、彼らの前から追い払わないであろう。これはイスラエルが、先祖たちの守ったように主の道を守ってそれに歩むかどうかをわたしが試みるためである」。それゆえ主はこれらの国民を急いで追い払わずに残しておいて、ヨシュアの手にわたされなかったのである。
わたしたちの内にもそのようなものがあるのかも知れませんね。

ヨシュア以後は、部族毎にわかれて住むことになりましたが (2:6)、実際には、イスラエルの民が、その地を支配していたわけでもなく、つねに、他の部族の脅威のなかで生きていたことが分かります。その救助者として士師が登場します。しかし、イスラエル全体を治めたわけではなく、ある部族が、ある民族に圧迫されると、士師が起こされて、救われるこのくり返しが書かれていると言っても良いでしょう。

しかし士師記は物語としても面白いのではないでしょうか。特に、ギデオンや、サムソンの話しは、物語として面白いだけでなく、詳しく読み込んでいっても、いろいろと考えさせられるのではないかと思います。そして、最後の二つの挿話があり、このあと、ルツ記をはさんで、サムエル記へとつながります。サムエルは、最後の士師とも、最初の預言者とも言える特別な存在です。楽しんで読んで下さい。途中で挫折してしまったかたも、ここから読み続けるのも良いですよ。

イスラエルの背教と救い

  1. 序 1:1-3:4
    a. 部族の移動 1:1-36
    b. 契約の御使い 2:1-5
    c. ヨシュアとその時代過ぎ去る 2:6-10
    d. 歴史の概略
  2. 士師のさばき 3:5-16:31
    a. オテニエルによるメソポタミヤの王からの救い 3:5-11
    b. エポデによるモアブの王からの救い 3:12-30
    シャムガル 3:31
    c. デボラとバラクによるカナンの王からの救い 4-5
    d, ギデオンによるミデアンの王からの救い 6-8
    ギデオンの子らの物語 9:1-57
    トラとヤイルのさばき 10:1-5
    e. エフタによるアモンの王からの救い 10:6-12:7
    イブサン、エロン、アブドンのさばき
    f. サムソンによるペリシテからの救い 13-16
  3. 付録 17-21
    a. ダンの移住と、ミカの物語 17-18
    b. ギベアの不法と、イスラエルとベニヤミンとの戦い 19-21

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.4.17
鈴木寛


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BRC no.18

今日はイースターです。復活祭とも言われますが、西方教会の伝統を組むカトリック教会やプロテスタント教会では、春分の次の満月の直後の日曜日をイースターと定めています。イエスが過ぎ越しの祭りに十字架にかけられ死んだのが金曜日(God Friday 聖金曜日と呼ばれています)で、復活して最初にマグダラのマリアに現れたのが日曜日(週のはじめの日)の朝で、それを喜び祝うキリスト教最大のお祭りです。(ヨハネによる福音書20:1-18参照)このことの故にキリスト教会では一部を除いて、安息日の土曜日ではなく、日曜日を主日(主の日)として毎週礼拝しています。

国際基督教大学教会では朝8時半から早天礼拝があり北中先生が上のヨハネ20章から「マリヤもこれがすべての終わりだとおもって墓に来たけれども、ここが始まりだと示されたのです。イースターにはいろいろなはじまりがつまっています。死ですべてがおしまいなんだというのとは違うのだということがここからはじまっているのです」とメッセージを伝えて下さいました。

皆様いかがお過ごしですか。今日は4月24日ですから、士師記16章・17章です。あと二日で士師記がおわり、4章だけのルツ記、そして、サムエル記上・下と進みます。しかし何回読んでも、士師記の最後には悲しいを通り過ぎる記事が二つ書かれています。以前書いたように士師記の最後21章25節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師17:6参照)と書かれています。神がひとりひとりに語りかけられその応答を記録した創世記、モーセを通して神のことばが語られた、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュアのリーダーシップのもとでカナンにはいり入植していったことの記されたヨシュア記と続きます。しかし定着して部族毎にわかれると、絶対的なリーダは不在、政治的なリーダーもそのときどきに起こされどうやら滅びないで済んだ士師記の時代、モーセはどの時代にもいるわけではないとすると、神の使いを第一として求めるのではなく、まず王を求めるのも自然な気がしてしまいます。その方向へ向かっていく方向付けがこの士師記です。しかしそのなんともたいへんな時代に、なにかほんわかと心地の良いルツ記、ナオミ、ルツ、ボアズの物語へと向かいます。

ルツ記

全体が4章からなる小品で、ヘブル語原典では「諸書」の第5番目で雅歌と哀歌の間であるが、時代的には、1章1節が「士師が世を治めていたころ」とスタートするように、士師の時代の出来事を記述しています。そしてこの書の最後の4章22節は「オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。」で終わることからも、ダビデの系図の一コマを記録するものとなっています。新約聖書の一番最初にあるマタイによる福音書は系図からはじまりますが、前にも書いたようにそこに普通は記録しない女性の名前が4人記されていますが、その3番目が (マタイ1:5) ルツです。ルツはモアブ人ですが、モアブについて今まで出てきたことを覚えていますか。申命記23章4節には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」とあります。そのモアブ人ルツの美しい物語が聖書に含まれている事自体、美しいことだと思います。中味は読んでのお楽しみ。ゲーテはルツ記を「倫理的かつ牧歌的響きをもってわれわれに伝えられた最も美しい小品」(いのちのことば社 新聖書注解) と言っているそうです。さてみなさんは、ルツ記からどのようなことを受け取るでしょうか。現代とは大分異なる世界であることも確かです。

  1. 序章 1:1-5
  2. ナオミのベツレヘムへの帰郷 1:6-22
  3. ルツとボアズの出会い 2
  4. 夜の出来事 3
  5. 買い戻しの交渉 4:1-12
  6. 終章 4:13-22
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.4.24
鈴木寛


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BRC no.19

皆さんお元気ですか。5月に入りました。今日は5月1日ですからサムエル記上5章・6章です。挫折という声も聞こえますが、このサムエル記から再開はお薦めです。この連休に再開してみませんか。

以前にも「新聖書注解」いのちのことば社を引用したことがありますが、今回も確認のために使いました。サムエル記の前はルツ記でしたが、ルツ記の部分は鍋谷堯爾が執筆、サムエル記は榊原康夫です。まったく個人的なことですが、私は神戸ルーテル神学校に聴講に通っていた時期があります。そのときの校長が鍋谷先生でした。また、高校のころ始めて聖書注解というものに触れ感激したのが、榊原先生の「マタイによる福音書 I-VI」でした。大阪大学工学部中退で神戸改革派神学校に進みましたが、榊原先生の勉強のすごさは神話のようになっていると何人もの人から聞きました。このマタイによる福音書の講解は榊原先生が30歳にもならない頃書いたもので、とても強烈で、私が聖書を勉強するようになるきっかけとなったものでもありました。信仰に関係することは、信じることが大切で、あまり深く勉強しない方が良いのではないだろうかと思っていたことが、まったく覆されたものでした。学べば学ぶほどこころが開かれていく、そんな経験を若いときにする事ができたのはとても幸せだと思っています。高校から大学のころ、榊原先生の本がたくさん出版されたこともあり、むさぼるように読みました。そのあと断筆宣言。同時期に、内村鑑三の全集も出版され、人から貸して頂いてたくさん読みましたが、榊原先生は、お会いして話すこともできたので、特別な存在でした。わたしは後に日本基督改革派甲子園教会の教会員になった時期もありますが、じつは、榊原先生は若い時期にこの教会の牧師だったことを知っていたので訪ねたのがきっかけでした。まあ熱烈なファンだったと言うことですね。聖書の通読とは関係の無いことですが、旧約聖書を興味をもって読むようになったのも、鍋谷先生、榊原先生、このお二人の影響が大きいので、つい書いてしまいました。

サムエル記 上・下(サムエル記1,2)

さて、サムエル記は先の預言者とよばれる区分に属し、七十人訳とよばれる紀元前2世紀ごろまでに訳されたギリシャ語訳では、列王紀とともに「もろもろの王国」と呼ばれた4巻本の一部となっています。おそらく最初から上下という二巻の区分があったわけではないようです。サムエル記という名前になっていますが、サムエルは、上の25章1節で死んでいますから、著者で無いことは明かです。しかし、下にある、目次のようなものからも分かるように、イスラエル最初の王の二人の任職がこのサムエルによってなされ、その一人目、サウル王の時代について書かれているのが、サムエル記上、サウル王の死のあとダビデ王の時代を中心としているのが、サムエル記下となっています。ダビデは、聖書を読んだことの無い人にもそれなりに有名なのではないでしょうか。最近では歴史性を疑うひとまでいるようですが、ダビデが王位についたのは、大体紀元前1000年、イスラエルの人たちの星です。サムエルは、最後の士師であり、最初の預言者とも言われ、新約聖書の使徒言行録3章24節に「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。」(新共同訳)と語られています。これはペテロの説教に出てくる箇所です。中味については、皆さんに呼んで頂くのが一番でしょう。大きな流れとしては、民が王を求めるところから始まります。

この時代の最大の敵は、ペリシテです。士師記のサムソンの箇所にも出てきました。エジプトの記録では「海の民」と呼ばれ、いまのパレスチナの語源にもなった地中海交易を中心に強くなっていった海洋民族ですが、聖書には5つの都市国家として記されています。ペリシテは鉄器を使っていましたが、イスラエルはペリシテの許可が必要だったと書いてあります。サムエル記上13:19 の口語訳は「そのころ、イスラエルの地にはどこにも鉄工がいなかった。ペリシテびとが「ヘブルびとはつるぎも、やりも造ってはならない」と言ったからである。」となっています。新共同訳では「鍛冶屋」となっています。そのような中での、ダビデ王国確立への道です。使徒言行録13:22 では神様がダビデを「わたしの心にかなった人」と記しています。ダビデはどのような人で、なぜ神様のこころにかなったのでしょうか。

  1. 預言者(先見者)・士師サムエル 上1章1節-7章1節
    i. 大祭司エリとサムエル 1-3
    ii. 契約の箱の物語 4:1-7:1
  2. 預言者サムエルとサウル王 上7章2節-15章35節
    i. 王国の要請 7:2-8:22
    ii. サウル王即位 9-12
    iii. サウル王の遺棄 13-15
  3. サウル王とダビデ 上16章-下1章
    i. ダビデへの油そそぎ 16:1:13
    ii. サウル王ダビデを召し抱える 16:14-17:58
    iii. 王の婿ダビデ 18-20
    iv. お尋ね者ダビデ 21-26
    v. ペリシテ亡命のダビデ 27-下1
  4. ダビデ王国 下2章-8章
    i. ダビデ王国とイシボシェテ王国 2-4
    ii. ダビデ統一王国の確立 5-8
  5. ダビデ王位継承争い 下9章-20章
    i. ヨナタンの子メフィボシェテ 9
    ii. ソロモン誕生 10-12
    iii. 王子アムノンの死 13
    iv. 王子アブシャロムの死 14:1-19:8
    v. ダビデ王の都入り 19:8-43
    vi. ベニヤミン人シェバの乱 20
  6. 付録 下 21章-24章
    i. サウルの子孫7人の処刑 21:1-14
    ii. ペリシテ戦の英雄 21:15-22
    iii. ダビデ感謝の歌 22
    iv. ダビデの最後のことば 23:1-7
    v. ダビデの勇士 23:8-39
    vi. ダビデ王の人口調査 24
(榊原康夫「新聖書注解」いのちのことば社より)

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.5.1
鈴木寛


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BRC no.20

皆さんお元気ですか。先週は一回もメッセージを送ることが出来ませんでした。今日は5月15日ですから、サムエル記下2章・3章です。

実は、今回も何を書こうかなかなか決められませんでした。実は、わたしはこのサムエル記上・下と、列王紀上・下が旧約聖書でもっとも好きです。わたしの今までの歩みの中で、ここに記されている一つ一つを通して教えられたことがいっぱいあって、なかなかこれということが書けないのです。さらに、教えが書かれているわけではないので、いろいろな解釈も可能ですし、登場人物のだれに焦点を当てるかによっても、読み方が変わってきます。さらに、これは、通読の会ですから、そのストーリーのダイジェストをわたしが書くのも適切ではないでしょう。みなさんの人生の中で何回も読んで頂きたい箇所です。

すでにサムエル記上・下の概要は前回書きました。サムエル記下に入りましたので、その最初を少し見てみましょう。

1章はダビデの元にイスラエルがペリシテ軍に打ち破られ、サウル王もその子ヨナタンも死んだという知らせが伝えられるところから始まります。上の29章から31章にその背景が記されています。ヨナタンはサウル王の息子で、民からも人気があり、かつダビデを愛し、ダビデと堅い友情で結びつけられたいたことが記されています。たとえば上20章などを読み返して下さい。このヨナタンとのこころのつながりは、下巻にはいっても重要なこととして引き継がれます。サウルは、くり返しくり返し人気のあるダビデを殺そうとします。ダビデはそれでもサウルを「油注がれたもの」つまり神様にたてられた王として逃げ回り何度もチャンスがあるにもかかわらず、サウルを撃つことはしません。サウル王も主がダビデといることをみとめ、なんどもダビデを殺さないと誓いますが、また殺そうと謀ります。それが(少なくとも結果的には)一段落するのが、上巻26章の最後なのですが、ダビデの方が「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地にのがれるほかはない。」といって、イスラエルにとっては敵方のペリシテのガテの王マオクの子アキシのもとに身を寄せるのです。(上21章参照)そのような背景のもとで、最初に書いた報せが届けられました。これにダビデはどう応答したでしょうか。

ダビデの従兄弟とされるヨアブとその兄弟も重要な役割を演じます。このヨアブに焦点をあてて読むのも面白いと思います。歴代誌の方ではすこしことなる評価をしているのも興味深い点です。これらの書に出てくる、女性に焦点をあてて読むのもいろいろと考えさせられると思います。いろいろな女性が非常にいきいきと描かれています。イスラエルとユダとの区別に目を向けてよむのもよいでしょう。なぜ、サウルは退けられて、ダビデは祝福を得たのか。ダビデは聖人のような人だったのか。サウルには、チャンスは無かったのか。サウルの最大の弱点は何だったのか。他にも興味深い登場人物がたくさん出てきます。一人一人が丁寧に書かれています。神様の働きをどのように記しているかに注意して読むのも良いでしょう。

単純な偉人伝でも、良い人と悪い人の記録でも、神様がすべて解決するのでもありません。読めば読むほど奥が深いと感じられると思いますよ。聖書はわたしたちになにを語りかけているのでしょうか。これらの話しを背景として、詩編が書かれたり、イスラエル復興ののぞみが語られ、預言書が書かれたりします。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.5.15
鈴木寛


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BRC no.21

皆さんお元気ですか。列王紀に入りましたね。今日は5月29日ですから、列王紀上6章・7章です。

前回も書きましたが、サムエル記上・下と列王紀上・下あわせて4巻(もともとは巻物ですから)が「王国の歴史」です。サムエル記上・下は、サウル王とダビデ王という、サムエルが神様から示されて油を注いで任職した二人の王についての記述でした。サムエル記上はサウル王がペリシテとの戦いで死ぬまで、サムエル記下はダビデ王の治世について書かれていました。しかしサムエル記ではサムエルはかなり早い時点で亡くなりますし、サウルがどの程度の支配力を持っていたかは不明ですが、記事としてはサムエル記上でもダビデが中心に描かれています。そう考えると「王国の歴史」は少なくとも半分はダビデの記録ということになります。ユダヤにおいて「王国の回復」は「ダビデ王国」の復興と結びついて考えられるのは当然とも言えるでしょう。そしてそれは単なる支配地域や戦力を意味するのではなく、王国のリーダーとしてのダビデがどのように神に従っていったかを中心として、語られています。そのなかに、何回か、明かなダビデの過ちが記されており、かつこれはどうだろうかと思わされる行為もいくつも記されていることを確認することは、聖書全体を理解する上でも大切でしょう。

列王紀上・下はダビデ後の王朝の歴史となります。最初はアドニヤが自ら王位継承を宣言するところからはじまって、ソロモンが正式に王位を継承する記事が書かれています。前回もわたしはヨアブ(ダビデのいとこで軍の長)に興味があると書きました。ダビデは御しがたいとしてヨアブの扱いに苦慮していたことがサムエル記下に記され、遺言にもそのことが記されていますが、けっきょくヨアブはこのアドニヤ事件がきっかけでソロモンに殺されます。さてそのソロモンはどのような王だったのでしょうか。ソロモンを最後に王国は二つに分裂します。北イスラエル王国と南ユダ王国と呼ばれています。

何がまずかったのかという読み方もできると思いますが、神との契約、神のいつくしみ(いつくしみとは何でしょうね)、神の祝福、つまり、神様との約束、神様の救いをこの「王国の歴史」から見るとするとわたしは列王紀上8章がよいのではないかと思います。残念ながらここが転換点ともなっていますが、じっくりそれまでの歴史をふまえて8章を読んでみて下さい。長いこと聖書神学舎という浜田山にある神学校(キリスト教の牧師・宣教師になるための勉強をする学校)の校長をしていた船喜信牧師はいのちのことば社の新聖書講解シリーズ「列王紀」でこの「王国の歴史」4巻は旧約の使徒行伝(使徒言行録・使徒の働き)のような位置を占めていると書いています。王国とともに神がどのように働かれたかを見ていくのもよいでしょう。

列王紀

  1. ソロモン 列王紀上1-11
  2. 王位継承(その1)列王紀上12-16
  3. エリヤとエリシャ 列王紀上17-列王紀下10
  4. 王位継承(その2)列王紀下11-25

通読とは無関係ですが、わたしは家内と朝「アパ・ルーム」(Upper Room) という黙想のための小冊子を日本語と英語で読んでいます。これは殆どが信徒、それも世界中の地域の信徒の書いた記事で構成されているところがほかの同種類のものと違うところだと思います。非常に多くのことばに訳されています。その5月23日の記事につぎのようなものがありました。

アメリカのニューヨーク州のシンシア・クラークさんというかたの「おばあさんの神様」という寄稿です。「私の祖母は、子供たちにとって理想の祖母でした」からはじまり、「祖母が応接室に落ち着くとすぐに、私は母が裁縫箱に貯めているボタンの入った瓶をもって祖母のところにいきました。私はボタンをきちんと分けて種類ごとに集めておいて、祖母が私のベッドの横に座ったとき、二人でそれを見ながらおしゃべりするのが大好きだったのです。私は、私よりずっとボタンの好きな祖母がいるなんて何と幸せだろうと思ったことを思い出します。勿論今は、祖母がボタンが好きなのではなく、私が好きだったのだということがわかっています。」として最後に「この祖母についてのわたしの記憶のうちに、神の美しいイメージがあります。度々私は、神が近くにおられるのを感じます。それは、神が、私がしていることに特に興味を持っておられるのではなく、私と私が愛しているものに興味があるからなのです。宇宙万物の創造主は、私の単純な喜びを共有することを選ばれます。それは私のうちにあるこの驚くべき神の喜びの故です。」さいごには次のフレーズが書かれていました。「神は私と、私たち一人一人を喜ばれます。」

聖書に書かれている神は、正しい方ですが、われわれを見張っていて間違いを見つけ出しそれによってさばくことを欲しておられるのではなく、私たち一人一人の喜びに興味を持ち、共有することを欲しておられるのではないかと思います。祈りは神様のこころとのシンクロナイズとよくいわれますが、わたしたしが完璧に神様の思いと同じになることを意味してはいません。それは不可能でしょう。神様の愛故に、ダビデのことを使徒行伝 13:22 で 'I have found David son of Jesse, a man after my own heart; he will do everything I want him to do.' と言っています。そのいみで、神様のこころを心とすることができると良いですね。

最後に列王記を読む助けとなる資料のリンクを二つあげます。英文は膨大ですので、日本語のもののみ。

  1. 「聖書大百科」のサンプルとして出ている2ページ「ユダ王国の王たち」
    http://www.sogensha.co.jp/biblica/pdf/04.pdf
  2. 北イスラエル王国、南ユダ王国年代表
    http://meigata-bokushinoshosai.info/swfu/d/auto_Z0Olvq.pdf
    (北海道砂川市にある空知太栄光キリスト教会の牧師 銘形秀則先生のホームページより。内容をしっかり読んでいないので紹介はさけますが、膨大な量の情報がこの方のホームページにもあります。インターネットの普及による貢献の一つですね。)

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.5.29
鈴木寛


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BRC no.22

皆さんお元気ですか。列王紀もあと少しで終わります。今日は6月12日ですから、列王紀下12章・13章です。

私は一昨年にヨーロッパを旅行しましたが、その時に、短い時間でしたが、大英博物館 (British Museum) にも行きました。印象にのこったのは "Siege of Lachish" という沢山のレリーフでした。Wikipedia からもある程度の情報が得られます。

http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Lachish
聖書では列王紀下18章と歴代誌下32章に書かれています。アッスリア王のセナケリブがユダに攻め入ってラキシュを滅ぼした BC701 の記事です。たくさんのレリーフが大英博物館の一つのコーナーを埋めていたのでそこだけは時間をかけて見ました。囲んでいる軍隊、城壁の中の人、降伏する様子などが克明に描かれていました。

前回年表へのリンクをお知らせしましたが、実はダビデ王朝の年代などはいくつかの説があります。しかし、BC722年にサマリヤが陥落し北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされることと、BC586年に南ユダ王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされることは世界史の教科書にも書かれていると思います。この間、すなわち、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国はまだ続いていた時期に起こったのが、上記の記事です。

サムエル記上下と列王紀上下は何度も書いているように、非常に興味深い記事が満載されていますが、ユダヤ民族の盛衰についてはどう記されているのでしょうか。出エジプトからカナン侵入、現代の通常の言葉で表現すれば、侵略となります。それに対して、聖書はどのように言及し、その後の王朝の盛衰についてはどう記しているのでしょうか。それを考えながら読むのも良いと思います。ただ、旧約聖書のそれぞれの巻によって、少しずつ強調点が違うことも注意して下さい。

申命記から一箇所だけ引用しておきます。9:4-6 (新共同訳) あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。

申命記12章や18章にカナンの民の忌むべき事が書かれ、おそらくその最たるものとして「彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。」と書かれています。

では北イスラエル王国、南ユダ王国はどうだったのでしょうか。そのことが記されているのが列王紀下17章です。そのような背景も考えながら17章を読んでみてはいかがでしょうか。ここで北イスラエル王国が滅びます。北イスラエル王国の最後の王はホセアですが、このホセアについて、列王紀は次のように書いています。

彼は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。(列王紀下17:2)

イスラエル王の評価を注意深く読みながら列王紀を読むのもよいと思いますよ。歴代誌の評価とは少し異なります。列王紀下14章のヤラベアム(北イスラエル王国の最初の王ヤラベアムと区別してヤラベアムII とよく記されています)の記事のように、主の目の前に悪を行ったと書かれていても、王国は繁栄したという記事もあります。ここには、おそらく預言者ヨナのことも出てきます。預言者の役割も含めて列王紀のいろいろな面を考えながら読んで頂ければ幸いです。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.6.12
鈴木寛


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BRC no.23

皆さんお元気ですか。前回 no.22 は6月12日でしたから、三週間が過ぎてしまいました。ごめんなさい。

通読はどうですか。続いていますか。今日は7月3日ですから、歴代志上の最後の章と、歴代志下の第一章です。このあと、バビロン捕囚後の歴史に関するエズラ記と、ネヘミヤ記、捕囚時代のエステル記、そして、人生の苦難について書かれているヨブ記と進み、8月28日には一旦旧約聖書をはなれ、新約聖書の最初マタイによる福音書から読み始めます。遅れてしまった人は、夏休みに追いつけると良いですね。

さて、現在読み進めているのは、歴代志上・下です。 歴代志の最初は長い系図から始まります。新約聖書の最初のマタイによる福音書も系図から始まります。創世記もある意味では「系図」が一つのキーワードでした。歴代志は創世記の初めのアダムからスタートします。しかし、カインやアベルはでてきません。細かく見ていくと、すこし違う部分もあるようです。それにしても長々と系図が続きます。一段落つくのが8章の終わり。9章1節は

このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。(口語訳)

サムエル記上・下、列王紀上・下はひとつづきで、最後はネブカデネザル王に滅ぼされ、バビロンに捕囚される (BC597, BC586) まで書かれていますから、それ以降にまとめられたことは、確かでしょう。この歴代志は、そのバビロン捕囚が起点になっています。かなりの平行記事がはいっていますが、違ったグループの人によって、異なった目的のために書かれたことは確かでしょう。

実は、ヘブル語(旧約)聖書では、歴代誌上・下が最後に置かれています。BC537ごろから何回かに分けてユダヤに帰還していきます。聖書ではその捕囚の期間は70年と書かれています。このあとに読む、エズラ記、ネヘミヤ記にそのあたりのことが書かれているので、楽しみにしていて下さい。帰還後に書かれたとして、イスラエルの民にとって、そのリーダにとって何が大切なことで、なにが気がかりなことだったのでしょうか。考えながら読んでみて下さい。

サムエル記上・下、列王紀上・下を思い出しながら読むのも、それらとの違いを書き留めながら読むのも、捕囚帰還後のイスラエルの民に思いをはせながら読むのも、ここで語られているイスラエルの民の希望とは何なのか想像しながら読むのもよいと思います。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.7.12
鈴木寛


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BRC no.24

皆さんお元気ですか。前回 no.23 は7月3日でしたが、名前の上の日付は 2011.7.12 と書いてしまいました。今日は、7月17日ですから、歴代志下28章と29章です。歴代志下は36章ですから、もう少しですね。その次のエズラ、ネヘミヤ、エステルは短いので、今日はそのことも書こうかと思いましたが、どうしても歴代志について書いておきたいことがあるので、エズラ、ネヘミヤ、エステルについては、次回とします。

通読はどうですか。続いていますか。実は、わたしは前にも書いたように、何回も通読していますが、この歴代志が苦手なのです。人によって違うと思いますが、私が苦手なのは、レビ記、歴代志、そしてエゼキエル書。歴代志は、系図から始まりますが、主要部分は、ダビデ王朝以降ですから、サムエル記下、列王紀上・下と対応しています。一部、イザヤ書に対応する箇所があるところがあります。

前にも書いたように、あまり、聖書学の知識を使わないようにしています。それは、学者が完全に一致しているわけではなく、よくわからないことが多いので、そのへんの議論をわたしのようなしろうとが中心に持ってくることをしたくないからです。でも、何度も読んでいれば、サムエル記上下、列王紀上下は、預言者たちの影響が大きそう、歴代志上下は、祭司たちの影響が大きそうということは、わかるのではないかと思います。歴代志上下は、ユダ王国のバビロン捕囚のあと、何回かにわかれて、パレスチナに帰還して来た民が、悔い改め、祭司を中心として、あらたに神殿礼拝を中心にして、神様に従っていこうという意図が各所に見受けられます。そのような歴史観で、単純すぎる論理で、書かれているところが、わたしには、抵抗があるのだと思います。新約聖書を土台としてもいろいろと問題を感じてしまうということです。すこしそのへんを見てみましょう。歴代志にのみ書かれている記事です。たくさんあるのですが、歴代志下のわたしのメモから抜粋します。

  1. 歴代志下3:1 には神殿が建てられたのは、モリヤ山と書かれている。その説明には、ダビデが関係する、オルナンの麦打ち場だという説明が入っていますが、モリヤと来れば、みな、創世記22:2 を思い出します。それだけ特別の意味があるのであれば、それまでにもそのことが書かれていて良いはずですが、歴代志下でのみ書かれています。
  2. 歴代志下12章7節にあるような神の前にへりくだると救われるというパターンがよく書かれているが、対応する列王上14章にはそのような記述はない。
  3. 歴代志下13章14節の「主に向かって呼ばわり、祭司たちはラッパを吹いた。」は列王紀上13章1-8節だが、このようなことは書かれていない。
  4. 歴代志下14章。マアカのことは、列王紀には書かれていない。列王紀には、アサの時代も一生の間、戦いがあったとあるが、歴代志では、この「主の目にかなったことをおこなった」王では、戦いは殆どなかったように描かれている。
  5. 歴代志下16章、アサの足の病気のことも、歴代志では、単純化。
  6. 歴代志下19章3節も評価を単純化している。

挙げればきりがないのですが、歴代志のみに書かれていることは、偶像をはなれ、へりくだって神にしたがうと、祝福されるというパターンで統一されているように思われます。わたしには、その単純化がなかなか受け入れられないのだと思います。よい子はこの世においても祝福される。というメッセージです。

しかし、考えてみると、祭司エズラなどがリーダーシップをとった時代は、それ以外に道がなかったのかなとも思います。いずれ、エズラ、ネヘミヤ、そして預言書のハガイ、ゼカリヤを読むと分かるのではないかと思います。もう一つは、預言者は、当時の教養人で、世の中の先をかつ、深い洞察力をもって見たかもしれないが、やはり一握りの当時のエリート集団です。祭司たちのリーダーシップでまとめるときには、民がみなわかるようなメッセージを語らなければいけなかったということもあるのかもしれません。

リベラル・アーツがエリートの為のものから、市民のためのものになるかどうか、そのときに、質を下げたり、単純化したりして、コピーとしてメッセージを伝えようとするのかという現代的な問いも、ここに含まれているような気がします。

今日は、変な話になってしまいましたが、最近考えていることを書かせてもらいました。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.7.17
鈴木寛


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BRC no.25

皆さんお元気ですか。今日は、7月24日ですから、エズラ6章と7章です。エズラ、ネヘミヤ、エステルは短いので、そのあとヨブで、新約に移ります。追いついてくださいね。

BC586 ユダ王国の滅亡。バビロン捕囚
BC550-530 ペルシャ王クロスの治世
BC539 バビロン陥落
BC538 クロス王の第一年
BC536 エルサレム帰還と神殿再建工事の開始
BC530-522 カンビュセス王の治世
BC522-486 ダリヨス一世の治世
BC520-515 神殿再建工事の再開と完成
BC486-465 クセルクエス一世(アハシュエロス)の治世
BC479 エステル、王妃となる
BC475 ユダヤ人虐殺計画
BC465-424 アルタクセルクセス一世(アルタシャスタ)の治世
BC458 エズラ帰還
BC445 ネヘミヤ帰還、城壁完成
BC433 ネヘミヤ再度帰還
「エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」勝原忠明、工藤弘雄著、いのちのことば社新聖書講解シリーズ 旧約9, p.14-15.

エズラ帰還は BC398との説もある。

エズラ7章

  1. エズラはどんな人物ですか。その血筋、仕事について分かることを挙げてみましょう。
  2. エズラの一行が無事にエルサレムに到着したことについて、どんな理由が挙げられていますか。
  3. エズラが人生をかけていることはどのようなことだと言っていますか。
  4. 手紙の内容を要約してみましょう。
  5. この手紙から判断して、王はエズラをどのように思っていたと思いますか。
  6. エズラはこの手紙にどのように応じますか。
  7. エズラの帰還の目的は何ですか。

    エズラ8章1節, 15-36節

  8. なぜレビの部族の人々が加わるまで出発しないのですか。
  9. エズラは集まった人々にまず、何を呼びかけていますか。
  10. エズラは、なぜ王に旅行中の保護を頼まなかったのでしょう。
  11. エズラは12人を選びますが、それは何の目的の為でしょう。
  12. 旅行について、エズラはどんな証をしていますか。
  13. エルサレムに到着したことを、出発前の預言と比較しながらまとめてみましょう。

    エズラ9章

  14. エズラの帰還の目的は何でしたか。
  15. どんな問題が報告されましたか。
  16. エズラはなぜこれほど嘆くのでしょうか

    エズラは祈りをみてみましょう。

  17. 捕囚に到った理由をどのように述べていますか。(6, 7 節)
  18. 帰還を赦された現状についてどのように述べていますか。(8, 9 節)
  19. 異教徒との結婚についてどんなことを述べていますか。(10-12節)
  20. エズラは何を畏れていますか。

    エズラ10章

  21. 人々はエズラの祈りにどのような反応をしますか。
  22. シェカニヤはどのような提案をしますか。
  23. エズラは人々に何を提案しますか。
  24. 改革はどのように実行されますか。
  25. 9, 10節からエズラのどんな態度が見られますか。なぜ、エズラはこのように応答するのでしょう。
  26. 神の律法、きよさ、愛に関するあなたの知識は、自分の罪に対する態度にどう影響しますか。

    ネヘミヤ1章

  27. ネヘミヤはどんな知らせを聞き、どんな応答をしていますか。
    ネヘミヤの祈りを見てみましょう。
  28. どんな告白をしていますか。
  29. 彼は何を根拠に希望を述べていますか。
  30. ネヘミヤは何を願っていますか。(v11 のこの人とはだれのことでしょうか。)

    ネヘミヤ2章

  31. 官邸でネヘミヤはどんな地位にありますか。
  32. ネヘミヤは王に何を求めていますか。
  33. 王はそれに対してどのように答えていますか。ネヘミヤの祈りがどのように答えられたか考えてみましょう。
  34. エルサレムについたネヘミヤはまず何をしますか。それは何故ですか。
  35. ネヘミヤはエルサレムにいるユダヤ人にどのように語りかけていますか。また、それにユダヤ人はどのように応答していますか。
  36. サンバラテたちはどんな罪を犯しているとネヘミヤは責めていますか。またネヘミヤはこれに何と答えていますか。

    ネヘミヤ4章

  37. 城壁が修復されつつあることを知ったサンバラテたちはどんな妨害をしますか。
  38. これに対するネヘミヤの対応を挙げてみましょう。
  39. あなたは、ネヘミヤとエズラからそれぞれ何を学びましたか。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.7.24
鈴木寛


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BRC no.26

皆さんお元気ですか。今日は、8月7日、ヨブ記1章と2章です。ヨブ記のあとはすこし旧約聖書はお休みにして、8月28日から新約聖書を読みます。来年の1月5日に旧約に戻り詩編から読み続けます。

聖書の一つの区分では、旧約聖書は、律法と預言者と、その他の諸書と呼ばれる部分に分かれると書きました。サムエル記、列王紀は、預言者に、歴代志は諸書に含まれるのでした。良く知られているのは、AD1世紀のヨセフスの書いたアピオン反駁論 (Against Apion) I- 1-8 に書かれているものですが、Project Gutenberg (http://www.gutenberg.org/ebooks/2849) に見つけましたので、ちょとだけ引用します。

For we have not an innumerable multitude of books among us, disagreeing from and contradicting one another, [as the Greeks have,] but only twenty-two books, which contain the records of all the past times; which are justly believed to be divine; and of them five belong to Moses, which contain his laws and the traditions of the origin of mankind till his death. This interval of time was little short of three thousand years; but as to the time from the death of Moses till the reign of Artaxerxes king of Persia, who reigned after Xerxes, the prophets, who were after Moses, wrote down what was done in their times in thirteen books. The remaining four books contain hymns to God, and precepts for the conduct of human life.
この最後に書かれている四つ、ただこれは、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌 でヨブ記はヨセフスのリストには無かったようです。当時は合本聖書ではありませんから、もちろん一冊というくくりではありませんが。全体も22と書かれていますね。現在の旧約聖書は、39巻と数えています。無論、上下というような分け方はしていませんでしたし、ネヘミヤ記は、エズラ記の一部に入っていましたから、数え方が違いますが、全部が聖書としてどの時点で確立したかは、なかなか難しい問題のようです。

さて、ヨブ記に戻りましょう。非常に敬虔な生活をし、神様に祝福された生活を送っていたヨブが、祝福をすべて取り上げられ、財産を失い、子ども達を失い、自分自身も潰瘍を生じる病に冒されます。そこに訪ねてくる「友」と苦難の意味について議論する、そして最後の神様が語られるという構成になっています。苦難の意味、神の沈黙、人間の正しさ、神の主権と愛などについて考えさせられるもので、好きな人も多いようです。全てを失ったとき、

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
というのです。病を得たとき
彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。(ヨブ2:9,10 新共同訳)
しかし、おそらく、このあとですね、問題は。構成は次のようになっています。

  1. プロローグ (散文の) 1,2章
  2. ダイアローグ(詩文体)
    1. ヨブの独白 3:1-26
    2. 三人との対話 4:1-27:23
      第一回目
      第二回目
    3. 知恵の賛歌 28:1-28
    4. ヨブの独白 29:1-31:40
    5. エリフ登場 四つの弁論 32:1-37:24
    6. ヤハウェの弁論とヨブの答え 38:1-42:6
  3. エピローグ(散文) 42:7-17
(いのちのことば社、新聖書注解 ヨブ記 安田吉三郎著を参照)

この真ん中の詩文体の部分がとても難しい。上の聖書の箇所のような正しいヨブとは、別人とも言えるような言葉がたくさん出てくるのです。学者の中には、最初と最後は、別の記者による付け足しとするひとも居るくらいです。ヨブ記は特に日本では、浅野順一のヨブ記講解が有名で、岩波新書から「ヨブ記―その今日への意義」も出ています。わたしもこちらは読みました。青山学院大学の教授で、牧師としても有名な浅野先生によるとこの中心部分は「ヨブの内的葛藤」だと言われていますが、わたしもこの歳になってやっと少しその意味が分かってきたように思います。若い頃は、この真ん中は無くても良いのではないかと思い、通読の時は読むのが苦痛でした。よく分からない議論が延々と続くからです。早く、エリフ(3人の友人についてきたと思われる若者という設定)が出てこないかなと待ちわびながら読む、まあそれも良いかも知れません。みなさんは、どう読むでしょうか。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.8.7
鈴木寛


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BRC no.27

皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、ヨブ記が終わると、旧約聖書は一旦お休みして、8月28日から新約聖書をマタイによる福音書から読みはじめます。この機会に、いままでのメールのうち、個人情報をのぞいたものを、BRC のホームページにリンクをつけて、載せました。もし不適切なことが残っていたら、私に言って下さい。また、W3 (学内掲示板)に、新約から始めるひとを募集する案内を出しました。新約からなら読んでみたいという方がいましたら、さそってみて下さい。また、今までにすでに、途中で挫折してしまったかたにとっても、チャンスです。新約からまたトライしましょう。

今日は、8月20日、ヨブ記27章と28章です。ヨブ記は、前に書いたように、このあと展開が変わります。32章で若いエリフが登場し、38章で神が語られます。この機会に、わたしも難しいと思ってずっと敬遠してきた、ヨブ記の中間の部分、浅野先生の言葉を借りると「ヨブの内的葛藤」4章から28章について少し書きたいと思います。ヨブ記の概略は、no.26 を参照して下さい。

ヨブ記の核は、やはり前回も引用した次の箇所でしょう。

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
全てを失ったときに語った、ヨブの言葉です。そのあとの、中間部分4章から31章を読むと、この素晴らしい信仰告白をした人と同じ人が言っていることかと疑いたくなるような部分が何カ所も出てきます。全体的な枠組としては、32章からエリフがヨブと、3人の友人に怒りを発し語り、それを受ける形で、38章から神が語り継ぎ、ヨブを戒めます。しかし、ヨブを正しい者とし、ヨブの祈りを聞かれます。

中間部分は、3人とヨブとの対話が2回繰り返され、そのあと、ヨブと二人の対話が短く繰り返され、ヨブが暫く語り続けます。しかし、3人とヨブとの対話の部分も、ヨブの語る部分がかなり長く、友人は少ししか語りません。ヨブの苦難の一般的、またはこの世的な解釈を、3人の友人に代弁させ、ヨブもおそらくそのような事も思考しつつ、それに反論していく姿が書かれています。おそらく、かっこのよい、最初のヨブの信仰告白の背景に、これだけの、葛藤がある。逆に、これだけの葛藤をともなって、なお、最初のヨブの信仰告白が存在するところに、神が良しとされる信仰者の姿があるのでしょう。神は、その複雑さと人間の弱さを十分ご存じで、その人間の祈りに答えられるのです。

テマン人エリパズ:Chapters 4, 5, 15, 22
シュヒ人ビルダデ:Chapters 8, 18, 25 (short)
ナアマ人ゾパル:Chapters 11, 30
以下に、例として、今回の通読で私が書き留めた箇所をいくつか記します。引用は今回私が読んだ口語訳。 ここまでとしましょう。今回の通読でははじめて真剣に、このヨブの中間部分と向き合えて気がします。わたしも歳をとったということかな。それとも、たんに今まで、わたしの目は節穴だったということかな。神様からみことばが隠されていたのでしょう。毎日の日課のなかで、もっと瞑想したいものです。ヨブの苦しみと、賛美と、知恵と、信仰告白を。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.8.20
鈴木寛


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BRC no.28

皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、今日から新約聖書を読み始めます。ちょっと遅れてしまったひとは、新約聖書のはじめから読むもの良いですよ。

ヨブ記はいろいろな感慨をもって読まれたのではないかと思います。今朝の国際基督教大学教会の礼拝は、箴言の4章から、Paul Johnson 牧師のメッセージでしたが、その中で、ヨブ記についても語られていました。箴言 (Proverbs)、伝道の書 (Ecclesiastes)、ヨブ記 (Job) は、神の知恵について書かれている。しかし、These are not God's Last Words. だと言っておられました。God's Last Words が何であるかもほんの少しだけ話されましたが、新約聖書を読みながら、その God's Last Wrods を見つけて下さればと思います。

さて、新約聖書の最初は、4つの福音書から始まり、その最初は、マタイによる福音書です。ギリシャ語聖書では、「マタイによる」とだけ書かれています。最初の三つの福音書、マタイ (Matthew, Mtt と略)、マルコ (Mark, Mk と略)、ルカ (Luke, Lk と略) は、平行記事が多く、共観福音書 (Synoptic Gospels) と呼ばれています。

聖書を一般信徒向きに解説した本は、たくさん出版されていますが、世界で広く読まれているもののひとつに、スコットランドの神学者 William Barclay (1907-1978) によるものがあります。

バークレー「マタイ福音書 上・下」松村あき子訳 ヨルダン社 1967.
日本語訳も早い時期に出版されていますから、ご覧になったかもいるのではないかと思います。この本の最初の部分から、まずは、共観福音書についてまとめてみると次のようになります。

共感福音書(William Barclay による上記の本による)

  1. マルコ福音書を105に区分すると、93はマタイ福音書に、81はルカ福音書に現れ、どちらにも取り上げられていないのは、4区分。
  2. マタイ福音書 1068節、マルコ福音書 661節、ルカ福音書 1149節。マタイ福音書は、マルコ福音書から606節をとりあげ、ルカ福音書は320節を用いている。マタイ福音書が取り上げなかった55節のうち31節はルカ福音書が取り上げている。マタイ、ルカ両福音書いずれにも取り上げられなかった節は、マルコ福音書の中の24節。
  3. マタイ福音書はマルコ福音書の言語の51パーセントを、ルカ福音書は53パーセントを用いている。
  4. マタイ、ルカともマルコの順序に従っている。両方同時に順序を変えることはない。
  5. マルコがマタイ、ルカの要約なのではなく、マタイ、ルカが、マルコを補修したものと考えられる。
    1. 表現の変化(明確化)
      1. Mk 1:34 (多くの) vs Mtt 8:16 (ことごとく), Lk 4:40 (一人一人)
      2. Mk 3:10 (多くの) vs Mtt 12:15 (皆), Lk 6:19 (みんな)
    2. 表現の変化(弱める)
      Mk 6:5,6 (ひとつもできず) vs Mtt 13:57 (あまりなさらなかった)
    3. マルコの強い表現を他では省略
      Mk 3:5 (怒り嘆き), 3:21 (気が狂った), 10:14 (憤り)
    4. 弟子に関する表現の変化
      Mk 10:35 (ヤコブとヨハネ), Mtt 20L20 (ゼベダイの子らの母)
    5. 歴史的背景から来る要請に応えた変化
      Mk 簡素、簡明、直裁的、Mtt, Lk 教義的、神学的
  6. マルコに現れず、マタイ、ルカに現れる資料は、共通なものが多い。かつこれらは、イエスの生涯に関することではなく、イエスの教説に関すること。イエスの教えを記した Quelle (Q資料)と研究者が呼ぶものがあったと考えられている。
    1. Lk 6:41-2 vs Mtt 7:3-5  
    2. Lk 10:21-22 vs Mtt 11:25-27  
    3. Lk 3:7-9 vs Mtt 3:7-10

マタイによる福音書の特徴(William Barclay による上記の本による)

  1. 教説を収録した教師の福音書
  2. ユダヤ人に王として生まれたことを示す

著者について(William Barclay による上記の本による) マタイは、Mtt 9:9 によると、収税人で、多くの記録を残したと考えられている。 教会史家のパピアス(1世紀から2世紀)は「マタイはイエスの生誕をヘブル語で収録した」と証言している。マタイ自身が書くのであれば、マルコを参照する必要はなかったと思われるが、マタイが収録したヘブル語の資料、とくに教説を多く取り入れて書かれ、マタイの名がつけられたと考えられる。

大体の学者は、マルコが最初に書かれ、マタイと、ルカはあとから書かれたこと、マルコの福音書以外にも、イエスの説教を書き留めたものがあったと思われること。そしてそれは、マタイによってヘブル語(またはアラム語)で書き留められたと考えているということだと思います。その説教集を大幅に取り入れて、ギリシャ語で書かれたのが、マタイによる福音書ということでしょうか。パピアスの「断片集」については、ネット上に日本語訳が出ています。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html
この、2:16 をバークレーは引用しているものと思われます。 また、最初から、何何による福音書とタイトルのついた四つの福音書が並んでいたわけではありません。おそらくは、パピルスまたは羊皮紙に書かれた巻物が別々に存在していたわけです。ある時代的背景と要請のもとでまとめられたと考えるのも自然だと思います。しかし何と言っても、イエスのメッセージ(語録 ロギア)がたくさん記されているということは、興味をそそりますね。イエスは何を語り、そして、マタイや、初代教会の人たちは、何を伝えようとしたのでしょうか。

通読は、じっくりと時間をかけて読むことは難しいですが、イエスのメッセージと、そして、旧約聖書とのつながり、すなわち旧約聖書の預言の成就としての救い主に注目して読むのもよいかもしれません。また、聖書を続けて読むのははじめてというひとは、四つの福音書を通して、イエスはどんなひとだったのか、イエスに注目しながら、イエスに出会って頂ければと思います。

わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとても楽しみです。 疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.8.28
鈴木寛


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BRC no.29

皆さんお元気ですか。新約聖書はどうですか。英語では、新約聖書は New Testament と言います。旧約聖書は OT、新約聖書は NT と略します。わたしは新約聖書というときに使う用語ということはいつからか知っていましたが、Testament ということばは他で見たことがないので辞書で調べてみました。

プログレッシブ英和中辞典

  1. ⦅形式的⦆(…を)証明するもの, 証拠, あかし⦅to ...⦆.
  2. 〘法律〙遺言(書), (特に)動産の処分に関する遺言(書)(▼通例last will and testamentという).
  3. (神と人との間の)契約, 誓約;(一般に)契約.
  4. 新約聖書, 旧約聖書;⦅the T-⦆新約聖書(New Testament);⦅T-⦆(1冊の)新約聖書.
  5. 信条[信念]表明.
旧約・新約は古い約束(または契約)、新らしい約束(契約)と伝統的に言われていますが、上の Testament のどの意味も当てはまるのかも知れません。英語圏の方に聞いたときも、聖書以外にはあまり使わないと言っていました。最近例文がたくさん欲しいときは、Naver 辞書を使っています(以前は英辞郎でした)。さすがに、Naver 辞書ぐらい例文があると、聖書以外の用例ものっていますね。
http://endic.naver.jp/srch/ex/testament
さて、今日は、4日ですから、マタイによる福音書15章・16章です。

前回は、バークレイからの引用で、マタイによる福音書の特徴の一つは 「ユダヤ人に王として生まれたことを示す」 と書きました。確かに、旧約聖書の成就を証言する箇所は多いですね。また、ユダヤ教の背景を知っている人に理解しやすい記述も多いように思います。しかし、それでは、ユダヤ人のため、またはユダヤ人の救いについて書いてあるのでしょうか。

注意して読んでいくとそうでも無いことに気づきます。

  1. 1章の系図には3人の女性が出てきます。(3人分かりましたか。)女性の名前が記されること自体、系図としては珍しいと言われますが、そのうち少なくとも2人は非ユダヤ人、もう一人も旧約聖書によると夫がヘテ人 (the Hittite) と書いてありますから、非ユダヤ人かもしれません。
  2. 2章にある最初にイエスを拝した人たちとして描かれているのは東方の博士達、占星術師、これもユダヤ人ではありません。
  3. 最初の系図はアブラハムから始まっていましたが、イエスにバプテスマをさずけたヨハネは3章9節で
    『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(新共同訳)
    と言っています。
  4. イエスの出身地で、最初に宣教活動をした場所は、4章で「異邦人のガリラヤ」と書かれています。
  5. しかし旧約聖書の律法(最初の五書)については、5章で
    「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(新共同訳)
    と言っています。なにかこのへんにユダヤ人のため? 異邦人は?という問いの答え、旧約聖書との繋がりと断裂があるのかも知れませんね。この段落は、次の言葉で終わっています。
    言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(新共同訳)
    これはどういうことなのでしょうか。最後の言葉は20節ですが、わたしは高校生のとき、この聖句の説明を聞いてもどうしてもよく分からず、この聖句を理解したいと思って、聖書を真剣に読み始めました。いまは何らかの説明はできると思いますが、本当にはまだよく分かっていないと思っています。
  6. 8章からはイエスに病をいやされるひとが何人もでてきますが、ユダヤ人以外もいろいろと出てきます。きわめつけは15:21-28でしょうか。
みなさんは、どのようなことを考えながら読んでいるでしょうか。おそらく、聖書をはじめて読む人もきいたことのあることばがいくつも出てくるのではないでしょうか。そのようなことばがどのような背景で書かれているかをみることができるのも、通読の楽しみの一つだと思います。

わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとても楽しみです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.9.4
鈴木寛


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BRC no.30

皆さんお元気ですか。今日は9月11日ですね。今日から通読は共観福音書の二巻目のマルコによる福音書に入ります。1章と2章が今日の通読箇所です。

マルコによる福音書の著者がマルコであることを疑う学者は殆どいないようです。マルコはギリシャ語の発音ではマルコス(語尾変化もします)となり、聖書には、マルコスという名前の人も出てきますが(ヨハネ18:10)新共同訳、口語訳、新改訳とも福音書名では、マルコとしています。新共同訳はカトリックとの共同訳で、最初はなるべく言語の音に近い方をとるという取り決めでマルコスで進んでいたようですが、日本語で最も受け入れられているマルコに最終的にはなったようです。最初に出たのは「ルカスによる福音書」でそこに出てくる人の名前になじめないと批判が出て、今の訳になったとのことです。カトリック、プロテスタントで、使われてきた訳語をある程度統一しようとしたわけですが、なかなか難しかったと言うことでしょうか。

さて、このマルコは、上に引用したヨハネ18:10のマルコスではなく、マルコという名前で8回、ヨハネという名前で1回出てくる、ヨハネ・マルコと呼ばれている人です。使徒言行録に記述されている、最初の異邦人伝道旅行に、バルナバ、パウロ二人のリーダーについていった人で、バルナバのいとこだと書かれています。

マルコ:使徒 12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ 4:10, 第1テモテ4:11, ピレモン24, 第1ペテロ5:13
ヨハネ:使徒 13:13

最初にでてくるのは、使徒言行録 12章 12節
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。

エルサレムでの集会所として有名な家の子どもだったようで、学者によっては、最後の晩餐もこの家でされたのではないかと考えています。

聖書の最後に出てくるのは、ペトロの手紙一 5章 13節
共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。

ペテロとの近い関係が表現されていますが、ペテロの通訳として伝道旅行に同行し、それをもとにこの福音書を書いたとされています。根拠の一つは、前回も引用した、パピアスの証言です。これは、それより少し後の教父といわれているキリスト教指導者が書き残した物です。

パピアス「断片集」2.15.

 「これも長老が言っていたことだ。マルコスは、ペトロスの通訳者(hermeneutes)であって、記憶しているかぎりのことを、精確に書いた、ただし、主によって言われたことにしろ為されたことにしろ、順序立ててではない。なぜなら、主から〔直接〕聞いたのでもなく、これに付き従ったのでもなく、〔彼が付き従ったのは〕わたしが謂ったように、後になって、必要のために教えを広めたペトロスであって、主の語録のいわば集成のようなことをしたのではなかった、その結果、マルコスはいくばくかのことを思い出すままに書いたが、何らの過ちも犯さなかった。というのは、聞いたことは何ひとつ取り残すことなく、あるいは、そのさいに何らか虚言するもないよう、その一点に配慮したからである」。
 以上が、パピアスによって記録されたことである。マルコスについて。
マルコによる福音書は、大体次の区分に分けられます。
  1. 宣教準備 1:1-13
  2. ガリラヤ伝道 1:14-9:50
  3. エルサレムへの旅 10:1-52
  4. 十字架までの一週間(受難週)11:1-15:47
  5. 結語 16:1-20
最後の一週間の重みが大きいですね。(以下引用はすべて日本聖書協会新共同訳)この福音書の最初は、
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
となっています。最初から「神の子」と宣言しています。イエス・キリストの福音 Good News の始めとしているのです。

神の子、神の聖者との証言は、天から、そして、汚れた霊の証言によってもなされます。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」

そして、最後には、百人隊長(ローマ軍の下士官)の証言として書かれています。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

この福音書の最後は、空の墓証言となっています。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

マルコによる福音書の最後を見てみると、なにか不思議な感じがします、いくつかの結語が書かれていたり、注がついていたり、括弧に入っていたりするのです。これは、写本によって、異なることを意味しています。その部分を抜いて考えると、最後は、空の墓となると言うことです。

マルコによる福音書で、イエス自身は自分をどう呼んでいたのでしょうか。それは、人の子という言葉です。なにか変な言葉ですよね。
2:10, 2:28, 8:31, 38, 9:9, 9:12, 9:31, 10:33, 34, 10:45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62
これは、旧約聖書のダニエル書(7:13, 10:16)で特別な意味を持った言葉として出てきています。エゼキエル書には、多数使われており、預言者自身を表しています。(エゼキエルが多用する人の子 2:1, 3, 6, 8, 3:1, 3, 4, 10, 17, 25, 4:1, 16, 5:1, 6:2, 7:2, 8:2, 6, 8, 12, 15, 17, 11:14, 15, 12:2, 3, 9, 18, 22, 27, 13:2, 17, 14:13, 15:2, 16:2, 17:2, 20:3, 4, 27, … )

この人の子という言葉をつかってイエスは自分自身をどのようなものと言っているでしょうか。一箇所だけ引用してみましょう。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、神の子なのか、どのような人の子なのか、マルコはイエス自身をどのように描いているのか、読み取って下さい。

最後に少しだけ、ペテロ由来としての、マルコによる福音書の特徴を書いておきます。

  1. ペテロが弟子になったところから書き出し、イエスの誕生にはふれない。
  2. ガリラヤ伝道が中心で、特にペテロの出身地のカペナウム周辺が中心
  3. ペテロにとって好都合がこと、たとえば、ピリポ・カイザリアでの祝福や、水上歩行などはの記録は省かれ、ペテロの否認などは、特に詳しく述べられている。(ペテロの信仰告白)
  4. ペテロのカイザリアでの説教との対比 使徒 10:34-43
マタイのときにも書いたように、福音書として最初に書かれたとされる、マルコによる福音書、素朴とも言えますが、イエスの行動が生き生きと描かれていると思います。

わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとてもうれしいです。 わたしの大好きな方と、みなさんと一緒に歩く感じです。正直この方の魅力に触れてもらいていと願っています。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.9.11
鈴木寛


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BRC no.31

皆さんお元気ですか。今日は9月18日、マルコによる福音書を読み終わり、明日からはルカによる福音書に入ります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の最後です。ルカによる福音書を読みながら、これは前に読んだことがあると感じる箇所が多いのではないでしょうか。また、このルカによる福音書が一番好きだという方もいるのではないかと思います。みなさんが、どのような感想を持たれるか、楽しみです。

ルカによる福音書は、批判的な学者もルカによって書かれたと考えているようですが、ルカとはどのような人でしょうか。聖書には、3回出てきます。今、読んでいるマルコによる福音書のマルコも出てきますから、三つとも引用してみましょう。引用はすべて新共同訳です。

  1. コロサイの信徒への手紙 4章 14節
    愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
  2. テモテへの手紙二 4章 11節
    ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
  3. フィレモンへの手紙 24節
    わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
これから分かることは、医者であること、テモテへの第二の手紙にはその著者とされるパウロと一緒にいること、フィレモンへの手紙では、(獄中にいたパウロの)協力者とよばれ、おそらく(囚人とはなっていないようですが)一緒にいた人の一人として書かれていることです。

もう一つ、重要なことは、ルカによる福音書の書き出しです。それと、使徒言行録の書き出しを比べてみて下さい。

  1. ルカによる福音書 1章 1‐4節
    わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
  2. 使徒言行録 1章 1‐2節
    テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
以下のことが分かると思います。
  1. 非常に似た献呈の言葉から始まっていること。同じ著者であることの証言。
  2. これら二巻が、一対となっていること。そして一巻目のルカによる福音書は 「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて」書かれていること。つまり、二巻目はそれ以降ということになります。ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初の記事を比較してみるのも良いでしょう。
  3. ルカによる福音書が書かれた時代には、すでに「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」によって、記されたものがいくつかあったこと。間接的には、自分は、その目撃証人ではないことも証言していると思います。
  4. ルカによる福音書記者(これからはルカと書きます)は、自分で詳細に調べたことを順序正しく書こうとしていること。
  5. 目的は、このテオフィロという人が、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分か」ることを目的としているということです。弁証といえるような事かも知れません。
マタイ、マルコ、ヨハネは、または、これらの福音書の背景となったものは、ヘブル語を理解し、ユダヤについて十分に詳しい人たちが書いたと思われますが、ルカは、ギリシャ人と思われており、ギリシャ語は非常に美しいが、おそらくヘブル語は話せなかったと思われます。異邦人クリスチャン向けの福音書と言うことができるかも知れません。献呈の相手のテオフィロは「神を愛する」という意味ですが、歴史上の特定の人なのかどうかは分かっていません。

使徒言行録を読んでいくと、途中から「わたしたち」という表現があらわれ、いったん途切れ、またそれが復活し、最後まで続きます。疑問を呈する人もいるようですが、ルカが、ある時点から使徒パウロに同行し、途中で一端わかれ、また行動をともにしていたと考えられています。その意味で、使徒パウロ(パウロについては、今後、どこかで書くことがあるでしょう)の語っていた福音、イエス・キリスト伝が元になっているのではないかと言われています。上の考えのもとでは、パウロに同行してエルサレムにも1回は行ったことになりますし、イエスの母マリアに会ったかどうかは不明ですが、イエスの直接の弟子達の多くと会った可能性は大きくなります。医者として、当時の教養人として、奇蹟物語の実態も含めて、いろいろと調べ、記録したことが書かれているのでしょう。ルカの表現に注意してよむのも良いとお思いますよ。

ルカによる福音書成立の経緯については、2C の後半大体AD170頃ののムラトリ断片(The Muratorian Fragment)に記されています。(http://www.bible-researcher.com/muratorian.html) 和訳も田川健三訳を参考にしたと書かれたものがあります。(http://www29.atwiki.jp/psalmsbox/pages/105.html) いろいろと書かれているので読んでみて下さい。わたしが勉強した頃は、ベッテンソンの「キリスト教文書資料集」が日本語でかつコンパクトにまとまった唯一の資料集だったので、それで最初に読んだ記憶があります。今調べましたら、この本は、版切れでした。

ルカによる福音書は、たとえが豊富な福音書でもあります。ルカのきめ細かな表現とともに、味わって頂けたらと思います。ルカによって描かれているイエスにみなさんと一緒に出会いたいですね。

わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.9.18
鈴木寛


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BRC no.32

皆さんお元気ですか。今日は9月25日、ルカによる福音書13・14章です。10章には「善きサマリヤ人のたとえ」15章には「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる有名なたとえがあります。みなさんも聞いたことがある話がいくつも出てきているのではないでしょうか。

今回は、ルカによる福音書を読んでいて印象にのこった「信仰」について少し書いておきます。この言葉は新共同訳で検索すると、福音書の中では、マタイに 14, マルコに 9, ルカに 16 現れます。ヨハネには現れません。その中で「あなたの信仰」と書かれているものを見てみると、口語訳聖書では、マタイに 2, マルコに 2, ルカに 5, 現れます。新共同訳でも大体同じですが、ルカには 4 で、22:32 は少し違う訳になっています。マタイ、マルコ、ルカ共通に現れるのは、12年間長血をわずらっていた女(新共同訳では「十二年間も患って出血が続いている女」)が癒された記事です。病が癒された時にイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。口語訳で列挙してみます。

  1. ルカによる福音書 7章 50節 香油を注いだ罪の女
    しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
  2. ルカによる福音書 8章 48節 12年間長血をわずらった女(マタイ9:22, マルコ5:34)
    そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
  3. ルカによる福音書 17章 19節 重い皮膚病を癒されたサマリヤ人
    それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
  4. ルカによる福音書 18章 42節 エリコ入城のときに癒された盲人 (マルコ10:52(バルテマイ))
    そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。

    そして最後は、ペテロに対してです。

  5. ルカによる福音書 22章 32節 ペテロ(新共同訳では「あなたの信仰」とは表現されていない)
    しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
マタイ15:28 には、ルカに記されていない ツロ・シドンの地方でのカナンの女の娘の癒しのところでもこの言葉が使われています。

ひとつひとつ見てみると、これがイエス様が称賛される「信仰」なのだろうかと疑ってしまうような印象もうけます。「いわしの頭も信心」とどこが違うのだろうかと。しかしイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。信仰の不完全さとか十分でないことをとがめるのではなく、信仰による応答をたたえる、または、信仰によった部分を気づかせ、それこそがあなたを生かすものだと告げるのです。そして、嵐にあったときおろおろする弟子達に「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25)」信仰を増して下さいと願うと「からし種一粒ほどの信仰(ルカ17:6)」があれば十分と言われます。そして「安心して行きなさい(ルカ7:50, 8:48)」わたしは、この言葉になんども力を与えられました。そして、このような言葉を語ることができたら良いなといつも思っています。みなさんは、どのように受け取りますか。

10月1日からはヨハネによる福音書に入りますから、ヨハネによる福音書について少し書いておきます。

ヨハネによる福音書

他の福音書は、共観福音書とよばれ基本的に似た記述が多く含まれますが、ヨハネによる福音書はことごとくといっても良いほど違っています。それは、読めばすぐわかることだと思います。上に信仰の事を書きましたが「信仰」ということばが含まれていないのも四福音書でヨハネだけです。逆にヨハネによる福音書に多い言葉もあります。たとえば「真理」。新共同訳聖書では、マタイ、マルコ、ルカには1箇所ずつですが、ヨハネには20箇所出てきます。また、ヨハネ福音書には、この書の著者について書かれています。以下、新共同訳からの引用とします。

ヨハネによる福音書 21章 24-25節
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

さらに、ヨハネによる福音書には、この書が書かれた目的も書かれています。

ヨハネによる福音書 20章 31節
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

これほど、明確に執筆意図が書かれていることには驚かされます。しかし、著者については、自分のことを主の愛しておられた弟子(ヨハネ21:20) と書くことは不自然なことから、主の愛しておられた弟子の影響のもとで書かれたとするのが安全なのかも知れません。実際に書き記したのがだれかは、議論があるようですが、イエスの弟子の一人のゼベダイの子ヨハネを意識して(またはその証言をもとに)書かれたこと、他の福音書にはなく、かなり詳細なそこに居合わせたものだけが語れるような証言、ユダヤや、ユダヤ教に関する豊富な知識は、各所で認められると思います。四福音書のなかでは、一番遅く書かれたとされていますが、おそらく、大切なのは、そのころのキリスト教の中心は、すでにユダヤにはなく、エルサレムは破壊され、異邦人キリスト者が中心だったと言うことでしょう。異邦人キリスト者の社会、つまり背景にギリシャ、小アジアの文化などが入り込んで来ていることから来る問題もあったでしょうし、脱ユダヤ的なキリスト教、つまり、ユダヤ教徒にならずに、ユダヤ教の習慣とは独立に、直接的に救いが得られるかは重要な問いだったでしょう。みなさんが、どのように読まれるか、楽しみです。共観福音書とは違った、このヨハネによる福音書は、イエスの実際の行為や言葉という「事実」よりその意味すること「真理」が語られているのかも知れません。

わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。 疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.9.25
鈴木寛


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BRC no.33

皆さんお元気ですか。新約聖書通読は続いていますか。今日は10月9日、ヨハネによる福音書17・18章です。ヨハネによる福音書は21章までですから、10月11日には、使徒言行録に入ります。使徒言行録は日本聖書協会の新共同訳の名前で、同じ日本聖書協会ものでも口語訳では使徒行伝となっています。日本聖書刊行会の新改訳を読んでおられる方は使徒の働きとなっています。英語では Acts と呼ばれます。この書を何と呼ぶかで、その方がその聖書の訳を読んでいるかが大体わかるとも言えます

一週間お休みしてしまいました。ヨハネによる福音書については、前回ほんのすこしだけ書きましたから、今回は、使徒言行録について書きます。BRC no.31 でルカによる福音書についてのときに書きましたが、ルカによる福音書と使徒言行録は双子のようなもので、二巻本といっても良い形式になっています。ルカによる福音書 1章 1‐4節と、使徒言行録 1章 1‐2節を見比べてみて下さい。後者は「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」となっていますから、天にあげられた日以降についてが、使徒言行録となっています。1章を読むとそのいきさつが繰り返されています。著者は聖書に三回名前の出てくる医者ルカ(コロサイの信徒への手紙 4章 14節、テモテへの手紙二 4章 11節、フィレモンへの手紙 24節)だとされています。医者であることは、コロサイの箇所にも書かれていますが、ルカ4:35で「けいれんする」という医学用語をもちい、ルカ9:38では「医者が診察する」時に使う言葉を用い、さらに、ルカ18:25 では「針の穴」という言葉も、マタイ、マルコでは、通常の縫い針を意味する言葉を使っているのに対して、ルカは外科医がもちいる針ということばを使っていることからもわかるそうです。(William Barklay, "The Daily Bible Study")

使徒言行録でまず目をひくのが1章6-8節です。引用してみましょう。

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエスによるこの宣言がローマにまで至る経過を記録したものが使徒言行録だとも言うことができます。まだ先があることの、最初の部分と言うことができるかも知れません。

単に、遠くまで伝わるということだけではありません。
C. H. Turner による6つの区分として知られているものに次のものがあります。

  1. 1:1-6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
  2. 6:8-9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
  3. 9:32-12:24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。
  4. 12:25-16:5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。
  5. 16:6-19:20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
  6. 19:21-28:31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
引用したのはすべてそれぞれの区分の最後の節です。つまり、神のことばの進展の様子が書かれているとも言うことができると思います。

もう一つは、多様な人たちに福音がとどいていくことによりその中味が明らかにされていくようすの記述、とも言えるかも知れません。これは、イエスがすでに地上にはおられないときに、イエスの弟子達に投げかけられたむずかしい問いに答えていく営みとも言うことができると思います。使徒言行録を読みながらわたしも考えさせられた問いを書いておきます。

  1. ユダヤ人に与えられた律法を守らなければ、ひとは救われないのか。
  2. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。
  3. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。
  4. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないか。
これらの問いは、使徒言行録の中でも問われていると思いますが、今の私たちにとっても単純な答えが用意されているわけではない問題だとも言えるのではないでしょうか。そして、人々の平和、それぞれの共同体に関わる、日常的な営みに対する問いともなっています。

わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.10.9
鈴木寛


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BRC no.34

皆さんお元気ですか。新約聖書通読は続いていますか。今日は10月16日、使徒言行録10・11章です。サウロという人は、使徒言行録7章58節に初めて登場、9章に回心記事があり、その後9章中頃から一端姿を消します。再登場するのは、11章。少し長いですが引用してみましょう。
このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。(使徒言行録 11章22節ー26節(新共同訳))
長々と書いたのは、このサウロが使徒言行録13章4節ー12節の出来事以来、パウロと変わります。そしてそのパウロ由来の書簡が、使徒言行録のあと続くからです。

わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.10.16
鈴木寛


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BRC no.35

皆さんお元気ですか。先週はお休みをさせて頂きました。今日は10月30日、ローマ信徒への手紙10・11章です。パウロがローマに手紙を書いた頃のローマ教会についてはあまりよく分かっていないようですが、1章7節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」とありますから、すでにイエスを救い主と信じるクリスチャン達がいたことが分かります。今朝私は、12・13 章を読んでいたのですが、12章14節には「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とありますから、すでに迫害もあったのでしょう。その状況を考えながら12章9節から最後を読むとこれは単なる倫理的な教えではないことが分かるのではないでしょうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(新共同訳12:15-18)」最後は口語訳では「できるだけ」となっていますが、どこにいっても、紛争が絶えなかったパウロの言葉だと思うとさらにいろいろと考えさせられます。9節には「愛には偽りがあってはなりません。」とあり、この章は最後「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(21節)」と締めくくられています。一日一日偽りのない愛をもって、善をもって神の支配に委ねていきたいと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」がイエスの説いた福音ならば。

さて、ローマ信徒への手紙は16章ですから、11月2日からはコリント信徒への第一の手紙に入ります。コリントは、使徒言行録に記されているところ(18章)によると、パウロが第二回伝道旅行で、アテネの次に訪ねた場所です。地図をみると一目瞭然なのですが、ギリシャの最南端のペロポネソス半島の根元のくびれたところに位置し、使徒言行録18章18節にも出てくるケンクレアイが東の港で、現在のトルコにあたる小アジアに通じ、西にはレカイオンの港でアドリア海を通してローマにつながっている交通の要所です。一番近いところは6kmといわれ、小さな船は、陸路をローラーに載せて運んだと言われています。BC44ユリウス・カエサルによってローマの植民都市として開かれてから非常に栄えますが、当時にかなり退廃した、不道徳の町だったと言われています。パウロは、使徒言行録の記述によれば、少なくとも三回コリントに滞在、少なくとも1年半の滞在なども含まれています。伝道者のアポロもコリントに滞在し、ペテロも滞在したと言われています。そんななかで、このコリントの信徒への第一の手紙は、パウロが長く滞在したもう一つの町小アジアのエペソから書いたとされています。(コリント信徒への第一の手紙16章7,8節)読んで頂ければわかりますが、いろいろな問題を抱えていた教会であることが分かります。ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ一度も行ったことのない、ローマの信徒の群れにあてて教義を中心に書いていますが、コリントの信徒への手紙は、よく知っている信徒達に対して具体的な問題について書いています。背景をある程度知ることは必要かも知れませんが、現代にも通じる問題が多く語られています。ざっと見るためにも、梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から書いておきましょう。

  1. 序言 1:1-9
  2. 教会の一致についての願い 1:10-4:21
  3. 不品行について 5:1-6:20
  4. 結婚と独身 7:1-40
  5. 偶像にささげた肉について 8:1-11:1
  6. 公同礼拝における乱れ 11:2-34
  7. 御霊の賜物について 12:1-14:40
  8. 礼拝の基盤ー復活の事実 15:1-58
  9. 礼拝の実践 16:1-24

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.10.30
鈴木寛


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BRC no.36

皆さんお元気ですか。今日は11月6日、コリントの信徒への手紙第一 8・9章です。8章は次のように始まります。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。(新共同訳 8章1-4節)
わたしはコリント信徒への手紙一の中で、13章とこの8章を大切にしています。いろいろな人と会い、いろいろな人と関係をもち、共に働き、あるときは衝突し、あるときは心配になり、あるときは、この立派な人には神様の救いなど必要ないのではないかと思ったりもします。そのたびに、わたしは、次の聖句の後半を唱えることにしています。(ガラテヤ2:21を唱えることもありますが)
そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(新共同訳 8章11節)
わたしたちは理性が与えられ、自分で考えることができることは本当に恵みであり感謝です。しかし、わたしたちの行動が私たちの知識や、思考に依存して、もし愛がないのなら、たとえ、聖書のことばをたくさん引用して正当化しようとしても、かみさまが与えて下さった、自由を汚れたものにしてしまうと思うからです。イザヤ書64:5 の表現と似た感じを持ちます。
わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
この章の結び、パウロは次のように言い切ります。キリスト者の自由について決然としてこのパウロの潔さに撃たれます。
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(新共同訳 8章13節)
愛によって造りあげられたいものです。

もうすぐコリント信徒への手紙二に入りますね。

コリントの信徒への手紙一の梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から前回引用しましたが、コリント信徒への手紙二の梗概も引用しておきましょう。

  1. はじめのあいさつ 1:1-11
  2. パウロの弁明 1:12-2:11
  3. パウロの使徒としての務め 2:12-6:10
  4. パウロの訴え 6:11-7:4
  5. パウロの慰めと安心 7:5-16
  6. エルサレム教会への献金 8:1-9:15
  7. パウロの使徒権の擁護 10:1-13:10
  8. 結び 13:11-13

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.11.6
鈴木寛


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BRC no.37

皆さんお元気ですか。今日は11月13日、コリントの信徒への手紙二 6・7章です。コリント信徒への手紙二の印象はどうですか。ローマ信徒への手紙とちがい、教理的なものよりも、具体的な問題についての言及が多いこと、そして、パウロが感情をおさえきれないという感じで、配慮をしつつも率直に書いているのは、印象的ですね。無論、ローマ信徒への手紙はパウロがまだ見ぬローマの教会に宛てて書かれ、コリント信徒への手紙は、パウロが開拓伝道をし(使徒言行録18章)、その後も何回も訪れ、かつ長く滞在した教会に宛てた手紙ですから、コリント教会の人たちについても、コリントやそこの人たちの問題についても、したがって起こりうる状況の可能性についてもかなりよく知って書いている点が大きく違います。さらに、こころがつながっているコリントの人たちを思うと、ある意味では冷静ではいられない、いとおしくかつ心配な、霊的なこどもたちに対する思いが書かれています。同時に、すでに、アポロなどパウロ以外の影響を受けたグループもいくつもあったようですから、そのような背景から来る複雑さもあったでしょう。コリントは、すでにアテネよりも大きくなっており、商業的に栄えていた町です。この当時は大きな劇場などを使うことは出来なかったでしょうから、いくつも集会があったとも思われます。この複雑な状況のなかで、「最高の道(新共同訳、口語訳では「最もすぐれた道」コリント信徒への手紙一12:31)」として愛をパウロは語ります。そのような背景を想像して読むとより豊かに読むことができるかも知れませんね。

明日の箇所はコリントの信徒への手紙二 8・9章ですが、前回書いた梗概にもあるように、この二章には、エルサレム教会への献金のことが書かれています。ユダヤ教の中心であるエルサレム、ユダヤ教徒でイエスを救い主と信じるようになった群れは、エルサレム周辺ではこの当時もモーセの律法をしっかり守って生活していたと思われます(使徒言行録21章17-26)。そのようにして、信仰を守りつつも、ときどき起こる熱心なユダヤ教徒からの反対の中で、使徒や、長老といわれる人たちも生活的には、かなり困窮を極めていたよいです(ローマ信徒への手紙15章26節等)。AD70 にはローマ軍によってエルサレムが完全に破壊され、エルサレム教会は事実上指導的な役割を終えます。この手紙の書かれたときには、発展しつつある異邦人教会が、エルサレム教会とひとつであることを示す、その大切な役割を担った献金が、パウロの祈りでもあったでしょう。ミッション(使命)が違うと、別々に行動することもできたかも知れませんが、パウロの信仰の中にある、キリストにある一致、キリストの体なる教会がひとつであるという真理からすれば、一致をたもちながら共に生きることは、キリストのいのちに生きるものたちにとって最も重要な課題だとパウロが考えたのはとても自然だと思います。現代にも通じる問題提起ではないかと思わされます。

なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(コリント信徒への手紙二9章12-15)
11月17日からはガラテヤ信徒への手紙に入りますね。「福音の真理とキリスト者の自由」キリスト教の核心が書かれていると言われています。みなさんは、何を読み取られるでしょうか。

いのちのことば社「新聖書注解」から、ガラテヤ信徒への手紙の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきましょう。

  1. あいさつ 1:1-5
  2. パウロの使徒職の独自性 1:6-2:21
  3. 教理的弁証 3:1-4:31
  4. キリスト者の自由 5:1-6:10
  5. 結び 6:11-18

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.11.13
鈴木寛


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BRC no.38

皆さんお元気ですか。今日は11月20日、今日からエフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)に入ります。ローマの信徒への手紙から、ピレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。パウロが書いたものかどうか議論のあるものもいくつもありますが、それを議論することは、ここではあまり有益だとは思えませんし、わたしが確信をもって、みなさんに説明することもできませんから、パウロ由来としておきたいと思います。基本的には、使徒言行録からも分かるように、パウロ達が伝道旅行をした地域の教会に書いた手紙がいくつもあり、それが集められたものです。テサロニケの信徒への手紙一は、テサロニケ伝道の後、コリントへ行ったパウロかがテサロニケの信徒へ宛てて書かれたもので、これらの書簡の中で一番最初に書かれたと考えられています。

すでに読み終わった、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で特別な位置をしめており、四大書簡などとも呼ばれています。エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、ピレモンへの手紙は、獄中から書かれたと記されている(エペソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, ピレモン1)ので、獄中書簡と呼ばれています。フィリピ4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」なとという言葉もありますね。おそらくローマの獄にいたのでしょう。テモテへの手紙一、二、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれることもあります。テモテについては、使徒言行録16章などにも書かれていますね。使徒言行録を思い出しながら読むと良いかも知れません。

どの書簡も短いので、通読ではどんどん進んでいきます。ここでも細かな解説などはできません。しかし上にも書いたように基本的に、これらは、先輩のクリスチャンから、若い教会や信徒や、リーダー達への手紙です。実際の生活に関係することがたくさん書かれています。また、当時の問題についても知ることができると思います。すこし考えると、それらは、ちょっと違った形であっても、現代にもある問題を扱っている場合が多いとお思いますよ。みなさんは、どのような事を読み取るでしょうか。

いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピ信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイ信徒への手紙(コロサイ人への手紙)の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。

エペソ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」小畑進 

  1. 序 1:1-2
  2. 教会の成立 1:3-1:14
  3. 教会の自覚 1:15-1:23
  4. 教会の創造 2:1-2:10
  5. 教会の一致 2:11-2:22
  6. 教会の召し 3:1-3:21
  7. 教会の行い 4:1-6:9
  8. 教会の闘争 6:10-6:20
  9. 結論 6:21-6:24

ピリピ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁

  1. 初めのあいさつ 1:1-11
  2. パウロの身辺の事情 1:12-1:26
  3. 福音にふさわしい生活についての勧め 1:27-2:18
  4. 二人の模範 2:19-30
  5. 救いの達成についての別の説明 3:1-3:21
  6. 具体的な問題についての勧め 4:1-4:20
  7. 結び 4:21-4:23

コロサイ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宇田進

  1. 序文 1:1-1:12
  2. キリストの人格とわざ 1:13-1:23
  3. 神の計画を遂行する上の使徒パウロの役割 1:24-2:7
  4. 異端思想に対する警告と論駁 2:8-2:23
  5. 期待される生活像 3:1-4:6
  6. 結び 4:7-18

テサロニケ人への第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫

  1. あいさつ 1:1
  2. 福音の力ある事実への感謝 1:2-10
  3. 使徒と教会 2:1-3:13
  4. 根本的願いと勧告 4:1-5:11
  5. 教会に関する種々の具体的勧告 5:12-22
  6. 結び 5:23-28

テサロニケ人への第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫

  1. あいさつ 1:1-1:2
  2. テサロニケ教会の現実と将来 1:3-12
  3. 終末についての教え 2:1-12
  4. テサロニケ教会の人々の救い 2:13-3:5
  5. 気ままな者に対する戒め 3:6-15
  6. 結び 3:16-18

テモテへの第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-2
  2. テモテへの励まし 1:3-20
  3. 合同の礼拝について 2:1-15
  4. 教会役員の資格 3:1-16
  5. 牧会上の諸問題 4:1-6:2a
  6. 種々の勧め 6:2b-6:21

テモテへの第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-2
  2. テモテへの励まし 1:3-1:14
  3. 背教と愛の奉仕の実例 1:15-1:18V.
  4. 熟練した働き人 2:1-26
  5. 危険に立つ正統的信仰 3:1-4:8
  6. 終わりに 4:9-22

テトスへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-4
  2. テトスへの勧め 1:5-2:10
  3. 倫理の神学的基盤 2:11-3:11
  4. 終わりに 3:12-3:15

ピレモンへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁

  1. 初めのあいさつ 1-3
  2. 感謝と祈り 4-7
  3. 愛の懇願ととりなし
  4. 愛のしめくくり

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.11.20
鈴木寛


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BRC no.39

皆さんお元気ですか。12月に入りました。今日は12月4日ですからテモテへの手紙一5章/6章です。みなさんは、どのような印象を持って、読んでおられますか。

わたしにとっては、ピリピ人への手紙(その当時、そして今もそうですが、わたしが読む聖書は日本聖書協会口語訳が中心でしたので、この項は口語訳の言葉で書かせてください。ほかは、中心的には同じ日本聖書協会の新共同訳の名称、引用を使っています。)は特別です。高校生のころから好きでしたが、1982年(これは、結婚する前の年、今の形式で聖書ノートをつけて聖書を読み始めた年でもありますが)約6ヶ月かけて、ピリピ人への手紙を全文暗唱しました。暗唱は若い頃は難しくはありませんが、なんといっても、忘れないようにする復習が大変で、一週間に三回ぐらい、復唱していました。一番よかったのは、やはり瞑想/黙想をたくさんすることができたことでしょうか。いまは、残念ながら復唱できません。いつかまたやってみたいですが。

書き出すときりがないのですが、いくつかだけ、書かせて下さい。引用は上にも書いたように、すべて日本聖書協会口語訳です。

  1. 「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(1:2) 」この「恵みと平安」すくなくとも、パウロ書簡に分類されている、ローマからピレモンはすべてこの言葉での挨拶で始まっています。テモテは「恵みとあわれみと平安」ですが。
  2. 「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(1:6) 」英語で Please Be Patient. God Is Not Finished With Me Yet. という言葉があり、PBP GINFWMY などと書いたバッジが売られていたりしますが、今、まさに、神様の創造のわざのもとにあるというのは、大きな希望だと思います。そしてそれをふまえて、次のような祈りが記されています。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。(1:9-11)」
  3. 「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。(1:15) 」複雑なものを感じますよね。しかしこうもいうのです。「すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。(1:18)」なぜと聞きたくなりますよね。それに続いて「なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。(1:19)」
  4. そしてこの行き着く先が、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。(1:21)」です。透明なこころ、ふた心でなく清いこころですね、そのこころをもって、生きていきたいと願っています。マタイ5:8 にあるように、神を見、そして神に似た者とされることを願って。
  5. 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(2:3,4)」こんなことも書かれています。「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(2:21)」澄んだ心でみていたものは、このような現実でもあったのでしょう。
  6. それと対比するように自分の姿勢も書かれています。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(3:12-14)」
  7. そして「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(3:18-20)」「彼らの神はその腹」ですよ。そのように生きていたら悲しいですが、もしかすると紙一重かもしれません。
  8. 最後に、勧めが書かれています。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(4:4)」これが恵みと平安の生活なのではないでしょうか。
  9. そして「最後に」と書かれた勧めは、「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。(4:8)」東京女子大学は、ICUが設立されるための委員会が作られた場所でもありますが、その本館に「QUAECUNQUE SUNT VERA」と刻まれています。これは、すべて真実なこと。東京女子大学の学園祭は、ベラ際と呼ばれているそうです。謙虚に、「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめ」て生きたいですね。
今週途中から、ヘブライ人への手紙に入ります。コリント信徒への手紙以降、短い書簡が続きましたが、13章あります。特徴的なのは、最後は書簡的な書き方になっていますが、最初には、宛先も自己紹介も書いてないことです。古い伝承もこの書について一定していないことから、誰が書いたかなどは、諸説があり、一定しません。基本的なことをまとめておきましょう。
  1. 著者は、ユダヤ教やその礼典についてよく知っており、それを本質的な意味において、大切にしていること。
  2. これは、わたしは専門的には証言できませんが、ギリシャ語として非常に美しい洗練された散文で書かれていること。
  3. 「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、(2:3b)」[b は後半であることを意味します] とありますから、主の直接の弟子ではない。
  4. 「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。(13:23)」テモテとの近い関係が主張されている。
みなさんは、このヘブライ人への手紙からなにを読み取られるでしょうか。

いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。

  1. この終わりのとき 1:1-2:18
  2. 神の民の安息 3:1-4:13
  3. 大祭司キリスト 4:16-6:20
  4. メルキゼデク系の祭司 7:1-28
  5. 契約、聖所、いけにえ 8:1-10:18
  6. 信仰の道 10:19-12:29
  7. 戒め、祈り、結びのことば 13:1-13:25

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.12.4
鈴木寛


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BRC no.40

皆さんお元気ですか。今日は12月11日、ですからヘブライ人への手紙7章/8章です。

ヘブル人への手紙(今年、わたしが読んでいる日本聖書協会、口語訳による)では祭司としての神の御子イエス・キリストについて書かれ、このイエスによる救いに対する私たちの信仰による応答をうながしています。ローマ人への手紙15:16 には

このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
と書かれており、また、ペテロ第一2:5, 9 にも、私たちが神の祭司であること、ヨハネの黙示録1:6, 5:10, 20:6 にも似た表現があります。ここから万人祭司という言葉もうまれていますが、イエスが祭司だということを明確に述べているのは、このヘブル人への手紙以外は、ありません。その意味でも特徴的ですね。また、ヘブル人への手紙に書かれている大祭司としてのイエスの性質も特徴的です。たくさんありますから、いくつかだけ拾ってみましょう。
  1. 2:17-18 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。
  2. 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
  3. 9:25-29 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
この救いにあずかれない理由としてあげられているのが不信仰です。3:12-19。そして信仰者の例を11章ではたくさんあげています。最初を引用しましょう。
11:1-2 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
みなさんは、どのような印象を持って、読んでおられますか。

今週途中で、ヘブライ人への手紙も終わり、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、ユダの手紙と進みます。これら七書は「公同書簡」「公同の手紙」(Catholic Epistles(Catholic はギリシャ語のカトリコスからきており、普遍という意味です、使徒信条とよばれ多くの教会で唱えられる信仰告白の中に「聖なる公同の教会」ということばが出てきますが、これも英語では、Holy Catholic Church で、プロテスタント教会でもこの言葉で唱えられます), General Epistles)とも呼ばれています。特定の地域の人たちや、グループにあてられたのではなく、信徒全般に対して書かれ、回覧が想定されているものだからです。

著者がそれぞれ誰なのかなども、ひとつひとつ難しい問題を含んでいるようですが、ここでは、簡単に、著者として想定されている有力なひとについて記しておきましょう。

ヤコブは、通常、主の兄弟ヤコブといわれる、エルサレム教会の長老(マタイ13:55, マルコ6:3, 使徒12:17, 15:13, 21:18, ガラ1:19, 2:9, 12, 1コリ15:7)。つまりイエスキリストの兄弟のヤコブです。この書は英語では、James と呼ばれています。旧約のヤコブはそのまま Jacob と呼ばれていますから、これは、King James のもとでの英語聖書欽定訳以来の習慣ではないかといわれています。アメリカでわたしは、新約聖書の一巻として、Jacob といっても、通じないので困った経験があります。

ヨハネの手紙第一は、12弟子の一人のヨハネ、ヨハネの福音書の著者、しかし第二と第三は、それとは違うヨハネだといわれています。長老と呼ばれているからで、マルコ、ヨハネといわれている、マルコの福音書の著者が想定されているのではともいわれています。ペトロはむろん、12弟子の一人のペトロが想定されています。ユダも難しいですが、ヤコブの兄弟(1節)といわれているので、主の兄弟ユダ(マタイ13:55, マルコ6:3)が想定されているといわれています。

いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概を引用しておきます。

ヤコブの手紙(中島守)

  1. あいさつ 1:1
  2. 信仰生活の諸相 1:2-1:27
  3. 信仰と行ない 2:1-26
  4. 教師に要求される資質 3:1-3:18
  5. 種々の危険に対する警告 4:1-4:17
  6. 警告と勧め 5:1-5:20

ペトロの手紙一(松木祐三)

  1. あいさつ 1:1-2
  2. 賛美 1:3-5
  3. 救い 1:6-12
  4. キリスト者生活の特権と義務 1:13-2:10
  5. 実際的な勧め 2:11-3:12
  6. 苦難の中のキリスト者生活 3:13-4:19
  7. 教会全体への勧め 5:1-11
  8. 終わりのあいさつ 5:12-14

ペトロの手紙二(上沼昌雄)

  1. あいさつ 1:1-2
  2. 真の知識 1:3-11
  3. 知識の確証 1:12-21
  4. 偽教師 2:1-22
  5. キリスト者の望みと忍耐 3:1-18

ヨハネの手紙一(伊藤顕栄)

  1. 序文 1:1-4
  2. 光の中を歩むこと 1:5-2:6
  3. みことばにとどまること 2:7-29
  4. 神のこどもであること 3:1-4:6
  5. 互いに愛し合うこと 4:7-21
  6. 信仰の勝利 5:1-17
  7. 結び 5:18-21

ヨハネの手紙二(伊藤顕栄)

  1. あいさつ(緒言)1-3
  2. メッセージ 4-11
  3. 結語(あいさつ)12-13

ヨハネの手紙三(伊藤顕栄)

  1. 緒言 1-4
  2. ガイオへの賛辞 5-8
  3. デオテレペスの批判 9-10
  4. デメテリオの推薦 11-12
  5. 結語 13-15

ユダの手紙(上沼昌雄)

  1. あいさつ 1-2
  2. にせ兄弟たちの出現 3-4
  3. 神のさばきの事実 5-7
  4. にせ兄弟たちの本性 8-16
  5. キリスト者への勧告 17-23
  6. 賛栄 24-25

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.12.11
鈴木寛


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BRC no.41

皆さんお元気ですか。今日は12月18日、ペトロの手紙一 3章・4章です。皆さんは、sojourner という英語単語を知っていますか。日本語でいうと寄留者、口語訳聖書で使われています。新共同訳では「仮住まいの身」です。アメリカで勉強していた頃に、この単語を知って、好きになりました。アブラハムなど族長といわれる人たちは、どの地の寄留者でしたが、新約聖書にも二箇所出てきます。
ヘブル人への手紙 11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
ペトロの手紙一2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
この世での生活は仮住まいの生活だから、いいかげんでよいなどと言っていることではありません。本質的な決断をしなければいけないときの、信仰告白だと思っています。「神の国は近づいた」として、いまは地の国にいるが、神の国の(神様の完全な支配のもとにある)ものとして生活する、地の塩として。そんな意味合いでしょうか。

今日の箇所から、ペトロの手紙一 3:15, 16a を口語訳で引用しておきます。わたしの研究室の机の左にいつも見えるところに貼ってある聖句です。

ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。

このあと、もう少しで新約聖書の最後の巻ヨハネ黙示録へと進みます。

ヨハネ黙示録は伝統的には、イエスの12弟子の一人でヤコブの兄弟として記されているゼベダイの子ヨハネといわれています。これについても、議論はあるようです。いままでこのような著者に関する議論をさけてきました。ここでも深入りしませんが、個人的には、特別な古文書が多量に発見されない限り、科学的な方法で著者を確定するのは難しいと考えています。わたしはこのことに関しては全くのしろうとですが、新約聖書の最後にきているので、感じていることを書いておきます。「科学的な方法で著者を確定するのはとても難しい」と私が書く理由は以下の通りです。それは、1世紀から2世紀初めにかけての聖書の背景を示す文書が聖書以外に少ないこと、かつ迫害期もあり、ひとつの文書の完成に時間がかかった場合もあるだろうこと、そして、さらに大きな理由として、当時の習慣として筆記者が介在したことが多いと推察され、また筆記者の関わり方も様々なようで、どこまで実際に語った人の言葉や文体が残っているか判断が難しいこと、最初から最後まで一回で語ったものかどうかも不明であること、さらに複雑なのは、語った言語がギリシャ語なのか、ヘブル語やアラム語なのか不明であること、語った人のギリシャ語レベルがどの程度であったかも不明であること、筆記した人にどの程度の権威があったか不明で、最終的な筆記が、語った人の生前であったか死後であったかも関わってくると思われるからです。ある程度英語が読み書きできるみなさんが、日本語で語り、それをより英語が上手な人が筆記したとします。どのようなことが起きるでしょうか。なかなか難しい状況です。議論をさけたのは、そのような理由です。わたしが数学を専門とする者であることも関係しているかも知れません。数学でいう論拠と、聖書学者の論拠とは性格が違うということでしょうか。べつに批判的な意味合いで書いているわけではありませんが。

このヨハネの黙示録には新共同訳で5回著者としてヨハネの名前が出てきます。

  1. 1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
  2. 1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
  3. 1:4,5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
  4. 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
  5. 22:8 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。
宛先は、上の 1:4,5 にあるようにアジア州にある七つの教会で、1:11 によると
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ
となっています。今のトルコ西部の七つの町で、エフェソはその州都でいちばん大きな町です。そして最初の部分は、この七つの教会へのメッセージの形式になっています。黙示文学ともよばれ、神の啓示を述べたものとされています。ヨハネ黙示録は、特に、世の終わりに向けた神の意思を伝えるものと考えてよいと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」から、ヨハネの黙示録の梗概を引用しておきます。

ヨハネの黙示録(山口昇)

  1. 序言 1:1-8
  2. 七つの教会への手紙 1:9-3:22
  3. 天の幻 4:1-5:14
  4. 七つの封印の幻 6:1-8:6
  5. 七つのラッパの幻 8:7-11:19
  6. 中間的挿景 12:1-14:20
  7. 七つの鉢のさばき 15:1-16:21
  8. バビロンの滅亡 17:1-18:24
  9. 最後の審判 19:1-20:15
  10. 新天新地 21:1-22:5
  11. 結語 22:6-21

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.12.18
鈴木寛


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BRC no.42

皆さんお元気ですか。

今日は12月25日クリスマス(Christ's Mass) です。ギリシャ語ではキリストはクリストスで X (カイ)から始まるので X'mas などと略することもありますね。Mass はいわゆるミサですが、特にカトリックで聖体拝領(プロテスタントの聖餐式に対応するもので、最後の晩餐に由来しパンと葡萄酒を共に食する儀式(例えばマタイによる福音書 26章26-29節参照))の典礼をうけ、最後に「行け、派遣する」と司祭がのべる最後の言葉のラテン語 missa(派遣)に由来します。なかなか意味深い言葉です。

教会暦では、降誕節は、東方の博士たちがイエスをたずねる(マタイによる福音書2章の記事)または、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をうける(例えばマタイによる福音書 3章13-17節参照)公現節(公現日)(英語:Epiphany)1月6日までとなっています。この1月6日はユリウス暦の12月25日にあたるので、ロシアではこの日にクリスマスを祝うそうです。

そもそも教会暦は、待降節、降誕節、受難節、復活節と一年のいくつかの特別な日・期間を記念してイエスの生涯を覚えるものです。その決め方はキリスト教の宗派によっても異なります。そして、聖書に正確な日付が残されているわけでもありません。アメリカに渡った厳格な清教徒たちは、クリスマスを異教のものと見なし、クリスマスを祝わなかったと言われています。実際、州によってはクリスマスを祝うことを禁止されていた時期もあるようです。アメリカで、今でも収穫祭 Thanksgiving の方が一般的で重要視されているように見えるのは、そのへんも影響しているかも知れません。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 (ルカによる福音書2章11節(新共同訳))
イエスの誕生を記録しているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。しかし、神の子が人として幼子としてお生まれになった。このことを覚えるクリスマスは、たとえそれが 12月25日かどうかはわからなくても、聖書の基本的なメッセージを理解する大切な機会だと思います。そしてそのイエスのメッセージは、次の言葉で始まります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (マルコによる福音書1章15節(新共同訳))
新約聖書の通読ももう少しで終わりますね。今日から新約聖書の最後ヨハネの黙示録に入ります。1月5日からは旧約聖書、詩編から読み継ぎます。

前回書いたように、最初の3章はローマ帝国のアジア州(現在のトルコの西部)の七つの教会へのメッセージになっています。それらの町について次の箇所に書かれています。

その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」(ヨハネの黙示録1章11節(新共同訳))
2章からそれぞれの町の教会に具体的なメッセージが書かれていますが、とても興味深いですよ。ひとつひとつの教会について良いことと悪いこと、賞賛と叱責が書かれています。当時の教会にも様々な問題があったことを想像するとともに、現代に対しても励ましと警告を与えているように思います。それぞれのメッセージは皆さんが読み取って下さい。おそらく、一人一人によって、印象的な箇所が異なるでしょう。

4章からは幻が記されています。みなさんはどのように読まれるでしょうか。 疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2011.12.25
鈴木寛


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BRC no.43

皆さん主の2012年いかがお迎えですか。

今日は1月1日、ヨハネの黙示録15章・16章です。どうですか。皆さんは、2011年一年間と1月4日までで、旧約聖書の創世記からヨブ記と、新約聖書読み終わりそうですか。実は、途中で挫折したというかたや、新約からまた始めたけれどそれも、途中まででついて行けていないという声も聞いています。なかなか難しいですよね。最初に続けるためのヒントを書きました。いつも、メールの最後につけてある、URL からも読むことができます。サポートメールも前回のものまで、UP してあります。新しい年を迎え、気分を一新し、また、トライしてみませんか。実はわたしも、忙しさのなかで、単に消化するだけという感じで読んでいる時もあります。それでも、続けていると、たくさんの新しい発見があります。そしてそれが、自分にとって大切な「問い」となることもありますし「力」「励まし」となることもありますし、長年の「問い」の答が得られるときもあります。今回の通読が何回目か記録はありますが、数えてはいません。聖書の会のようにじっくり一つの箇所を読むのとはまた違った発見が毎回あることは確かだと思います。

1月5日から旧約聖書にもどり「詩編」から旧約聖書後半を読み始めます。また新鮮な気持ちで読むことができると思いますよ。通読のコツの一つは、よしやってみようと思ったときから、何回でも始めることです。みなさんが聖書の通読を楽しんで頂ければと思います。

詩編は聖書の中でもちょっと変わっていますね。まず、他はすべて章で区切られていますが、詩編は第1篇、第2篇と続き、第150篇まであります。3月19日までずっと詩編です。なかなか長いですね。非常に長い第150篇などというのもありますが、それ以外は比較的短く、とても短いものもたくさんあります。一篇一篇を味わう余裕もあると思いますよ。

引用するときに、ちょっと混乱する可能性があるのは、節の振り方が翻訳によって違うことです。これは、表題を節として数えるかどうかに依っています。表題はついていないものもありますが、殆どについていて、日本聖書協会の新共同訳ではこれを本文の一部として節がふられ、口語訳や、日本聖書刊行会の新改訳ではふられていません。そこで多くの場合1節ずれます。現在は、新共同訳が一番普及していると思うので、ここでは、特に断らない限り、新共同訳の節番号を使いたいと想います。ちょっと違うときはその周辺を探してみてください。理由はここでは書きませんが、新共同訳が元にしたヘブル語聖書にはこの表題にも節番号がついているとだけ書いておきます。

もう一つの特徴は、第一巻から第五巻までに区切られていることです。そして、それぞれの最後は、頌栄とよばれる言葉で終わっています。区切りとその締めくくりの言葉を新共同訳から引用しておきます。

第一巻 第1篇-第41篇
41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。

第二巻 第42篇-第72篇
72:18-20 主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。エッサイの子ダビデの祈りの終り。

第三巻 第73篇-第89篇
89:53 主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。

第四巻 第90篇-第106篇
106:48 イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ。

第五巻 第107篇-第150篇
150:1-6 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

ハレルヤは「主をほめたたえよ」の意味ですが、詩編全体が、賛美・賛美の書となっているのですね。

では、どのような内容なのでしょうか。それは読んで味わって頂くのが一番ですが、一般的には、 祈り、賛美、悔い改め、国家、エルサレム、諸国のためのとりなし、神様への信仰告白、神の知恵、力などの表現、国家や神に対する敵への呪い、義人の苦しみ、悪人の繁栄の嘆きなどです。

大きくとらえると、祈りとも言えますし、信仰告白とも言えると思います。つまり人から神へのことばです。こう言い切ってしまうと、聖書は神のことばではないのかと言われる人もいるかも知れませんが、人生や聖書を通して示される神からの語りかけに対して、応答によって神を指し示すと考えられるのではないかと思います。読むときには、わたしたちのような生身の人間の言葉として、苦しみや喜びを読み取ってくださればと思います。その先になにが見えるかはそのあとの問題ですね。

おそらく「呪い」については、ちょっとショックを受ける面もあると思います。しかしこれも人間の一つの告白でしょう。キリストによる神様の愛が明確な形では示されていない、そのときのひとの苦しみ悩みの表現は、すなおにうけとってよいと思います。そして、キリストの愛が示された今は、そのような悩みは存在しないと言えない事も明らかでしょう。

最後に神様の名前の用法、ちょっと難しいですが、をちょっとだけ書いておきます。いまは、いろいろな方法で検索もできますが、 神をヤハウェと特別な言葉で表現する場合と、一般名詞としてのエロヒームと記す場合があります。実は、上の5巻ではこの用法はかなり違っていることが良く知られています。1, 4, 5 巻はヤーウェが圧倒時に多く、エロヒームは殆どでてこない。それに対して、2, 3 巻はエロヒームの方が圧倒的に多く出てきます。日本語聖書でこの違いを見分けることができるかな。

皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。 疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

本年もよろしくお願い致します。

2012.1.1
鈴木寛


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BRC no.44

皆さん詩編を読み始めましたか。

今日は1月8日、詩編7篇・8篇です。前回書いたように、41篇までが詩編は第一巻となっています。 詩編はむろん詩文体で散文体ではありません。ヘブル語は三文字で構成される単語が多く、それが詩文体で並んでいると翻訳も難しく、違う翻訳をみるとかなり違った印象を受ける箇所、または、明らかに意味が違うところもいくつもあります。ただ、BRC は通読を基本としていますから、丁寧な比較まではできません。前にも書いたように、今回わたしは口語訳で読んでいるので、以下、口語訳で引用させて下さい。

1篇は次のようになっています。

1. 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2. このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3. このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
4. 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
5. それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6. 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
2節に「主のおきて」「そのおきて」と出てきます。新共同訳では「主の教え」「教え」ですが、この言葉はトーラーという言葉で律法という意味で、通常はモーセ5書と呼ばれる、聖書の最初の5巻を意味します。詩編でもトーラーという言葉はたくさん出てくるのですが、翻訳ではいろいろな訳になっています。1節、2節は、日本語で考えると、2節は、1節で言われているようなひとが、「おきてをよろこび」「おきてを思う」となりますが、おそらく因果関係などは考えない方がよいでしょうね。1, 2, 3 と並列に書いてあるのです。「さいわいだな!」からはじまって「皆栄える」となります。そして「悪しき者」最後は6節で締めくくられています。最後から前に戻ると、正しいものについてうたわれている詩だということがわかります。そして、主はその道を知っておられます。その道は、1に書いてあるような生き方ですね。みなさんにとっては、1節はどのような生き方でしょうか。犯罪に手を貸さないというような事でしょうか。2節には「主のおきてをよろこび」とありますよね。この感覚はしっくり来ますか。

詩編1篇は第一巻をまとめるような内容なのかもしれません。第一巻最後の41篇もとても印象的な詩編です。

1篇の3, 4 節以降をみると、正しい者は栄え、悪しき者は滅びる。本当にそうでしょうか。現実を見たときに。

不正や悪ではなくても、先天性の病気や障害をもって生まれてくる人、何も悪くないのに、交通事故にあったり、戦争などに巻き込まれて命を落としていく人もたくさんいます。それほど単純ではないと言いたいこともたくさんありますよね。

ひとの生き方も、それなりに、かみさまが望まれるように生きようとしていても、そうでないこともしてしまう。

実際第一巻の最後の41篇には、そのようななやみも出てきます。

わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。
わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
(詩編41篇4,5節 口語訳)
それを知りつつ、この1篇。みなさんは何を考えられますか。

いろいろな詩編に出会われることと思います。

皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2012.1.8
鈴木寛


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BRC no.45

皆さん詩編を読み始めましたか。

今日は1月15日、詩編21篇・22篇です。明日は詩編23・24篇となります。特に、22篇、23篇はよく知られていると思います。

少しみてみましょう。今日は、新共同訳を中心に使います。前回も書きましたが、翻訳によっては、節がずれる事がありますので、注意してください。22篇は「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」とはじまります。

マタイ27:44 には、イエスが十字架上で次のように叫んだ事が記されています。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15:34にも同様の言葉が記されています。この詩編に記されている事ひとつひとつが、十字架でのイエスの苦しみを暗示させます。

この詩編がいつ作られたか確定はできませんが、この詩編22篇に記されている苦悩は、その作者のものでもあったでしょう。まずは、詩編自体をみてみましょう。

「指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。(1節)」と表題がついています。「暁の雌鹿」もよくはわかりませんが、神殿で犠牲を捧げるときに唱えられた詩編なのかも知れません。

2節・3節には、見捨て、沈黙される神への訴えがあります。

わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
4-6節には、つねに、主に救われてきた先祖たちと、その賛美をうける主について書かれていますが、7--9節はなんと、
わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
詩編記者の苦悩、神から見放され、人から嘲笑されている姿が記されています。さらに12-18節には、肉体をおそう苦痛と苦悩も表現されています。しかしそれでもなお、最後は、主をよびもとめ、賛美へとかわっていきます。神からの助けがなく、人に捨てられあざけられ、肉体もばらばらになっていく、ここまで過酷な状態があるでしょうか。そしてそれでも、神に信頼と賛美を唱える。凄まじささえ感じます。

最初に書いたように、この姿は、十字架上のイエスといろいろな面で重なります。上で引用した 4-6節も次の箇所と類似しています。

ルカ23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

では、イエスはどのような意味で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだのでしょうか。むろん本当のところはわかりませんが、みなさんはどう思われますか。十字架上でこの詩編を唱えておられたのかもしれません。そして、本当にイエスは神に見捨てられた状態になったのかも知れません。もしそうだとしたら何がおこったのでしょうか。

イザヤ52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。

イザヤ53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

詩編23篇は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まります。

主の牧場、主の支配、神の国に住むものの平安が語られます。しかしなにも問題がないという意味での平安ではありません。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

と続きます。みなさんは「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」という経験がありますか。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2012.1.15
鈴木寛


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BRC no.46

皆さん詩編を読み始めましたか。

今日は1月21日、詩編33篇・34篇です。

詩編32篇をみてみましょう。今日は口語訳聖書から引用します。 この詩編は「ダビデのマスキールの歌」と書かれていますが、マスキールは「さとし」「おしえ」といった意味ですね。つぎのように始まります。

1. そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
2. 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

しかしこれは、単なる一般論ではないことが直後にわかります。

3. わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
4. あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ

この苦しみは並大抵で張りません。みなさんは、このような経験はありませんか。おそらく、この詩編記者もなにか訳がわからず苦しんでいたのではないでしょうか。おそらく祈っていなかった訳ではないと思います。もしかすると、苦しみの原因をだれか他の人の責任にしたりしていたかもしれません。しかし、苦しみとは別に、自分に問題があることを、少しずつ気づかされます。苦しみが、主の御手として認識され、罪、不義を自覚させられます。

5. わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

とてのあっさり書かれていますが、おそらく、葛藤の末に、ここに至ったのでしょう。そして次のように告白します。

6. このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
7. あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ

津波のような大水に襲われても、沈んでしまうことはないと告白します。口語では「このゆえに」とあります。祈る、基本的な理由は、主からゆるしを得、圧倒されそうになるときにも、支えてくださる、この確信ゆえなのでしょう。いのるのは、ゆるしていただくためかもしれません。そして主に信頼するものはゆるされたものです。そして、この詩編記者はそのことを「あなた」に教えています。

8. わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
9. あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。

自分勝手に暴れ回る、統制のとれない馬や騾馬のようであってはならないと教えています。

10. 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
11. 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。

主に信頼する以外に、救いはない。許しが得られるものは、本当に幸いですね。イエスによって、まさに、そのゆるしが与えられるのでしょう。

1ヨハネ1:9-11 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
「告白してゆるされる」そんな単純ではないのではと思われるかもしれません。そうですよね。でも、詩編33篇にはつぎのような言葉もあります。

7. 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。

深淵を倉におさめてしまうのです。神様だからこそできることでしょう。罪のゆるしはそれゆえ神業以外のなにものでもありません。

詩編34篇18節には、こうあります。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

そして次のようにむずばれています。

22. 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに/罪に定められることはない。

ゆるしをえるために主の前に出て祈る。信頼の生活の基盤がここにあるように思います。最後に、イエスが、いのりについて教えてくださる普通「主の祈り」といわれるものの次にかいてある箇所を引用しましょう。マタイによる福音書 6章14, 15節

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

2012.1.21
鈴木寛


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BRC no.47

皆さん詩編はいかがですか。神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。なかなか記者のこころがぴんとこないこともありますが。同時に150篇からなる詩編を選択して、この一巻にまとめたひと(たち)もいるわけですね。そしてそれが聖書の中にくわえられている。わたしもなかなかよくわからないことが多いですが、イマジネーションを働かせて、一篇一篇味わうようにして読んでいます。

今日は1月29日、詩編49篇・50篇です。いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編46篇

この詩編は、宗教改革者マルチン・ルターの愛称詩編で常に唱えていたようです。

1: 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
2: このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
3: たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ

ルターもずっと苦しいときを生き続けたのだと思います。そしてその苦しいときにも、たくさんの手紙を書いたり、隠れ住んでいるときに聖書の翻訳をしたり、この詩編はまさに、そのようなルターを支え続けたのでしょう。

8: 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
9: 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10:「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
11: 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

ルターはおそらくその思いとは反して、農民戦争で農民をたすけたり、領主側にたったり、それによって批判を受けることになります。それぞれの階層の人たちの教会の権威や、農民の領主の圧政からの解放という社会的なうねりのなかで、知名度が高くなり、影響力が大きい人物となった責任がルターにのしかかり、そのひとたちを啓発したり、利用されたりしていったのです。ひとつひとつこの詩編のことばをかみしめていたのだと、そのときのルターのこころに思いをよせます。

詩編49篇

5: わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。

世の中には理不尽なこと、悪人が栄えること、どんなに正しいことを貫いても報われないことがあります。おそらくそれは、どの時代にもあることでしょう。ここでは、いのちを究極のものとして、そこに目を向けています。

7: まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
8: とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
10: まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。

すると、結局、賢いひとも、愚かなひとも、獣のようなひとも同じとなります。詩編の次の次伝道の書(新共同訳ではコヘレトの言葉)の底を流れる問いの一つとつながります。さて、ここで希望はどこにあると記者は言っているのでしょうか。究極まで考えると結局、賢いひとも愚かなひとも、獣のようなひともおなじではないか。おそらくそれに答えるのが次のところなのでしょう。復活に関する記述だともとれます。

14: 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
15: しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ

死に対する勝利、詩編記者はそれをどのように信じていたのでしょうか。

詩編51篇

ダビデの詩編として有名です。サムエル記下11章・12章が背景にあります。是非、もう一度、サムエル記下の記事を読んでみてください。わたしは、この事件は、11章・12章で終わるものではないと考えていますが、それはまたの機会にしましょう。個人的には、51篇はすこし不満です。そこで、かなりあとになってから振り返って作った詩篇なのか、ダビデのこの事件を想定して作った詩篇なのかとさえ思います。もちろんわたしがまだ十分理解できていないのかもしれません。おそらくそうなのでしょうね。じっくり読んでいただければ幸いです。

詩編53篇は、次のように始まります。「愚かな者」「『神はない』という」これは、詩編にはもう一回出てきます。この愚かは、ギリシャ語ではモロスですが、賢いは、ソフォス、それが一緒になって、ソフォモアということばになっているそうです。それが混在している、またはそれが分かれていく学年ということでしょうか。聖書では、詩編のつぎの箴言で、この賢いと愚かが中心的トピックとして扱われます。しかし、なぜ、「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。」のでしょうか、論理的には、「神はない」と言わないものは、愚かな者ではないとなります。ここには、なかなかの真理がふくまれていると思いますが、みなさんは、どう思われますか。「『神はない』という」者が愚かだとは言っていません。

53:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

14:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

2012.1.29
鈴木寛


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BRC no.48

皆さん詩編はいかがですか。前回も書いたように、神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。特に救いを待ち望む祈りと賛美の詩編がたくさんありますね。敵からの救いとして、敵が滅びることを祈り求めるものもたくらんあります。平和な日本にすむ私たちにとっては、抵抗があることは確かですね。

この BRC のサポートページもおいてある私のホームページには、わたしの証やメッセージも載せていますが、2003年の大学礼拝でのメッセージ「平和の中で育むもの」に「先日、C-Week で、もとテロリストで現在は牧師をしている方が、メッセージをされました。その方も冒頭で『紛争地には中立はない』と言っておられました」このことをイメージしながら考えないと理解できないことも多いのかもしれません。また同時に、物理的に紛争地ではなくても「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15 口語訳)を現実のことと考えると、緊迫した状況の中にいる私たち自身をも見いだすことができるかもしれません。

今日は2月5日、詩編63篇・64篇です。いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編62篇

1: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
5: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。

みなさんは「もだして」ということばはわかりますか。漢字で書くと「黙して」となります。思考・行動などとの関連で「口を開かない」ことのようです。上にあげたように、この詩編には二カ所この言葉が使われていますが、他の聖書の箇所にもほとんど使われていません。聖書に使われていることばとして、普段はあまり使われないので、わたしには特に印象が強い言葉です。確かに救いを神にもとめ、願いをもって神に訴えます。しかし、最終的にこの態度が、自分の望みのように、自分が考える救いのようにことが運ぶことを願うのではなく、神の主権のもとで、神の国がくることを願う、御心がなることを願う、ひとりの人間の態度・姿勢なのだなと思います。上の1, 5節にはそれぞれ次の節が続きます。

2: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
7: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
8: わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。

そして、私たちの日常にも関係するような次の言葉が続きます。

9: 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
10: あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。

以前、詩編は詩文体なので、訳によりかなり意味も変わってくると書きました。その問いを投げかけるため、9節に対応する新共同訳を引用しておきます。

9: 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。

詩編64篇

1: 神よ、わたしが嘆き訴えるとき、わたしの声をお聞きください。敵の恐れからわたしの命をお守りください。
2: わたしを隠して、悪を行う者の/ひそかなはかりごとから免れさせ、不義を行う者のはかりごとから免れさせてください。

敵からの救いを求める詩編です。この次の節からその敵のことが書かれています。

3: 彼らはその舌をつるぎのようにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、
4: 隠れた所から罪なき者を射ようとする。にわかに彼を射て恐れることがない。
5: 彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、「だれがわれらを見破ることができるか。
6: だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。

これに対して神はどう応答されるのでしょうか。それがその次に書かれています。

7: しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
8: 神は彼らの舌のゆえに彼らを滅ぼされる。彼らを見る者は皆そのこうべを振るであろう。

神が矢を射られる。その理由は「彼らの舌のゆえ」となっています。つまり、自分を陥れようとしたことを理由としているのではなく、隠れたところから、罪のないものを射、そのことは暴かれないと言ってはばからない。その故です。

最後は次の言葉で締めくくられています。

9: その時すべての人は恐れ、神のみわざを宣べ伝え、そのなされた事を考えるであろう。
10: 正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる。

紛争の中にいる、詩編記者のことを考えると、いまから 2500年から3000年も前に、このような祈りがなされていたことに驚きを禁じ得ません。正直、詩編によっては、身勝手な祈りと思われるものもありますが、詩編全体でみたときに、戦いの中にいて、神をほめ讃えるものの信仰に圧倒されてしまいます。

詩編66篇

5: 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
6: 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。

6節は出エジプトのできごとを踏まえています。出エジプト14章と、ヨシュア記4章です。 ここで終わりません。

9: 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。

と書いた直後に、

10: 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
11: あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
12: 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。

簡単にかかれていますが、14節を読むと、実際に悩みの時に神に求めていたこともわかります。

14: これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。

そして

18: もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。

皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。

2012.2.5
鈴木寛


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BRC no.49

詩編も第73篇から第三巻にはいりました。今日2月12日は、詩編77篇・78篇です。最近学んだ第三巻の最初の詩編73篇と今朝読んだ81篇について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編73篇

このように始まります。

1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
2: しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
3: これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

21: わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
22: わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
23: けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

どう思われますか。なかなか苦しみの中にいるとき、このように告白できるかどうか分かりませんが、2, 3 節は、自分が「こころの清い者」ではなかったことを具体的に表現しているのでしょう。

マタイによる福音書5章 8節には「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」とあります。論理的に考えると「神の救いをみることができないのは、心が清くないということだ」ともなります。2,3 節から考えると、悪しき者が栄えるところに目がいってしまい、こころが分裂してしまって、神の救いに預かれない、神の業としての救いを見ることができないとなります。21-23節では、自分が「愚かで悟りがなく」神に対して「獣のようであった」と告白しています。この状態なのでしょう。

しかし、その次の23節には「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。」とあります。前半は、自立的に常に、神とともにあったというより、このことを発見したということかもしれません。気づいてみたら、このようだった、といって神を褒め称えているのです。

この1-3節の後も是非読んでください。悪しき者の忌まわしき様が書かれています。そして、

10: 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
11: それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
12: 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
13: 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
14: まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
15: わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
16: もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
17: しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
18: わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
19: まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
20: なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。

どのように読むべきか確定的ではない部分もありますが、悪しき者の非道を行い、それを謳歌するなか、民も心を変え、それを褒め称える。神を誹謗し、かつ、世の富、祝福も悪しきものとともにある。14 には義憤のようなものも現れているでしょう。しかし「いたずらに」は、新共同訳では「むかしかった」と書かれていますが、悟りなく正しさのみを追い求める苦しさが表現されています。16節は、その現実を後代に語ることを表現しているのでしょうか。さらに、17節はおもしろいですね。悟りを得ようと考えたのでしょうが、それは、面倒にも思えたというのです。(新共同訳は訳がかなり違います)そして、18節を迎えます。この人は「聖所」で悟りを得たのです。19, 20 には、悪者が滅ぼされる光景が書かれていますが、悟りが、聖所で得られたのだとすると、現実というより、神のみわざを悟ることだったのでしょう。悪者の栄華に「虫が食い、さびがつく」マタイによる福音書6章19節だったのかもしれません。そしてそれが全体として 1節に表現されているのではないでしょうか。

1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。

詩編81篇

この詩編は今度は、神様に従わない民の側のことが次のように書かれています。

11: しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
12: それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。

逆らう民に対する、神のこころが記されているとともに「わたしは彼らを、そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。」

とあるのです。ローマ人への手紙1章24節

ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

を思い出させられます。これもひとつの裁きの形、しかし同時に、13節のように神様は望んでおられるのでしょう。

13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。

皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。

2012.2.124
鈴木寛


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BRC no.50

先週は「BRCの皆様へ」を送ることができませんでした。この期間、第90篇から第四巻にはいりました。第四巻は106篇までですから予定通り進んでいればちょうど今日読み終えることになります。各巻はどのようなまとまりになっているのでしょうか。テーマはあるのでしょうか。詩編の最初に神をなんと読んでいるか、用語の使い方が異なることは書きましたが、正直わたしにも、テーマなどはよく分かりません。ただ、この第四巻は、公的な賛美といっても良いような統治者としての主への祈りと賛美が多いですね。それ以外にも、いくつか連続したテーマの詩編があるとか、なんとなく雰囲気はことなることはわかるのですが。明日から最終の第五巻に入ります。全体を五巻にまとめたのは、旧約聖書の最初のモーセ五書とよばれ、トーラー(律法)として特別な価値を付される五巻に対応してのことではないかと考えられているようです。なにか発見があれば、教えていただければ幸いです。

公的な賛美と上に書きましたが、公の場での使われたと思われるものが多いことは確かだと思います。礼拝において、司式(司会)者と会衆が交互に読む「交読文」という形式がありますが、その形式にぴったりの詩編もいくつもあると思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編100篇

感謝の供え物のための歌
1:全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
2:喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
3:主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
4:感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
5:主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

あまり詩編を読まないというかたでも知っておられる方がいるのではないでしょうか。「全地よ」ではじまります。そして「われらを造られたのは主」だから「われらは主のもの」「その民」「その牧の羊」だと続きます。「全地」とはどの範囲なのか、「われら」とはどの範囲の人を想定していたのかなどと、現代的な世界観から、当時の世界観を批判的にみることもできますが、このように言い切ることによって、このようにしか表現できないとして告白し、唱えるなかで、逆にこの言葉の内実が迫ってくると言うこともあるのではないでしょうか。人間の側では、これにいろいろな解釈を施して、限定的に解釈しようとする、しかし、われわれを創造し、われわれを所有し、そしてわれわれを牧している、この主こそ神と言い切るときには、排他的な人間のこころは場所を失います。

その上で、この主のみ前に集い、その門に入り、大庭に入る、この光景は、天国(かみさまのみこころがかんぺきになるせかい)は近づいたと告白できるのかもしれません。

最初にテーマを決められないと書きましたが、この次の詩編101篇以降は「われら」が「わたし」に変わります。

101:1a わたしはいつくしみと公義について歌います。(a はこの節の前半を表す慣用記号です)

102篇の表題は「苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈」となっています。

102:1 主よ、わたしの祈をお聞きください。わたしの叫びをみ前に至らせてください。
102:2 わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。

そして 103:1, 104:1 では「わがたましいよ、主をほめよ。」となり、この巻の最後の二つの詩編は

105:1 主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。
105:2 主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ。
105:3 その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。
105:4 主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
106:1 主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

詩編においては、全世界のことと、個人のなやみ、そしてわれわれの隣人のことが分けられないものとして織りなされているということでしょうか。

最近、International Baccalaureate という国際学士資格と関連して、International Education の基礎を築いた Marie-Thérèse Maurette の言葉から、考えさせられることがありました。"Is There a Way of Teaching for Peace?," をキーワードに探すととくに UNESCO 関連のサイトが出てきますが、Maurett 女史の唱える、平和教育の基礎には、とても共感させられました。

Five UNESCO mandates to its Education-based NGO’s (including IB):

  1. Downplay nationality in teaching, lest the kids identify too strongly with their country.
  2. Teach “peace” - defined by the UN as more than the absence of war, requiring social equity (redistribution of resources)
  3. Teach “sustainable development” (putting resources out of reach and redistributing others under the guise of social and environmental justice).
  4. Teach local-to-global activism; and
  5. Execute UNESCO’s educational objectives and report back to UNESCO on activities and results.
[UNESCO handbook, “Is There a Way of Teaching for Peace?” (trans.) Marie-Therese Maurette, 1948; UNESCO document, Mainstreaming the Culture of Peace, http://unesdoc.unesco.org/images/0012/001263/126398e.pdf; (UNESCO Constitution §7.1(a) ](IB_-_Connecting_the_Dots.ppt より)

あまり、詩編と強くリンクさせるのは問題があるかもしれませんが、ある普遍性を覚えさせられます。最後は、個人的な思惟から、中心を外れてしまったかもしれませんが、人生全体と関わりながら聖書を読む、みなさんもいろいろなことを考えながら読んでいただければと思います。

今週は、聖書の中でもっとも長い章でもある詩編119篇があります。いろは数え歌にもなっています。律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。楽しんでいただければ幸いです。

2012.2.26
鈴木寛


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BRC no.51

皆さん詩編は楽しんでおられるでしょうか。通読も第107篇から詩編最後の第五巻にはいりました。わたしが特別に好きな詩編がたくさんありますが、今日は第119篇を取り上げてみましょう。これは、へんな言い方ですが、通読をしているとなかなかつらい詩編でもあります。もちろん、それは、長さ。176節あります。一日に読む量としてはちょっと多いですね。ほかの日とで調節しても良いのですが。一日二章というのはわかりやすいので、そのままにしています。今回も、口語訳からの引用を中心とします。
105:あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
わたしも、この詩編記者と同じようにこころからそう思っています。極端に言うと、聖書にすべての真理が入っていると。この詩編はそのことの告白の詩編です。あるひとは、だから聖書以外なにも読まなくても良いのだとすら言います。もちろん、これは、信仰告白としては、よいのですが、字義通りとると問題です。科学的観察・分析・考察を受け入れないなどということにもなりかねません。神様がひとりひとり(聖書の神様を信じる人にも、そうとは思わないで求めている人にも、まったく関係なく真理をもとめているひとにも、さらに、すべてのひと)に働き、その人生の中で、ひとりひとりの心を開いて、真理の理解を助けるのだとすると、ほかのひとの人生、そのことば、考えから学ばなければならないことは明らかです。また、自然をもふくめ、神様がつくられ治められているものからも、神がどのようなかたで、なにを求めておられるのか、なにを「善い」としておられるのかについても、たくさんのことを知ることができるでしょう。そのうえで、わたしも、上の、105節のように、告白したい思います。

前回も最後に書きましたが、この詩編は、いろは数え歌にもなっています。日本語聖書にもアレフ、ベスなどと記されていますが、これは、ヘブル語のアルファベット(22文字)で、かつ、実はギリシャ語でもそうなのですが、このアルファベットを数字の代用にもしているのですね。アレフはだから1でもあります。数え歌と書いたのは、たとえば、最初のアレフと書かれているものは、最初がすべてアレフで始まっているのです。(聖書には数え歌形式のものがもうひとつありますが、完全な形のものは、この119篇です。)百聞は一見に如かず、ネット上にある、ヘブル語聖書を見てみましょう。ひとつだけ言わなければいけないのは、ヘブル語は右から左に書くということです。

1. 聖書全体:http://www.mechon-mamre.org/e/et/et0.htm
2. 詩編119:http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt26b9.htm
一つ一つの単語の意味も知りたい人は、Interlinear(行間注付)とよばれる、言葉の下に英語の意味が書かれているものを見てみるとよいでしょう。ただ下のものは、文章が、左から右に書かれています。
3. http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Hebrew_Index.htm
4. 詩編119:http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/psa119.pdf
詩編の英語は Psalm です。

上の 2. 詩編119を見てみると、真ん中にヘブル文字が書かれていますが、それは、節番号です。最初の文字はアレフです。その左がヘブル語本文ですが、最初の8節はすべてこのアレフで始まっています。なにかそのアレフの下に細かいものがついていますが、これは母音記号と呼ばれているものです。

音声で聞いてみたいというかたは、やはり最初に紹介したサイトにあります。
5. 聖書全体:http://www.mechon-mamre.org/p/pt/ptmp3prq.htm
6. 詩編119:http://media.snunit.k12.il/kodeshm/mp3/t26b9.mp3

上で紹介した Interlinear 4 詩編119 をみると、たとえばアレフで始まる最初のことばがそれぞれどんな単語に対応しているのかもわかります。最初の単語は、アシュリーで「幸せ」ですね。

わたしは、ヘブル語も神学校の聴講生として少し勉強しましたが、聖書を読むことができるまではいけませんでした。でも、いまはネット上にいろいろなサポートがあり、便利になりました。

もう一つ、前回、「律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。」と書きました。道というのもあります、ちょっと拾ってみましょう。最初に書いたように、口語訳とします。

おきて、あかし、さとし、さだめ、戒め、み言葉、約束、真理の言葉、 道、あなたの道、あかしの道、さとしの道、真実の道、戒めの道、

いくつか拾ってみましょう。

9:若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。
10:わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから/迷い出させないでください。
11:わたしはあなたにむかって/罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。

18:わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちの/くすしき事を見させてください。

25:わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。

36:わたしの心をあなたのあかしに傾けさせ、不正な利得に傾けさせないでください。
37:わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください。

45:わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。

67:わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。

71:苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。

92:あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。

129:あなたのあかしは驚くべきものです。それゆえ、わが魂はこれを守ります。
130:み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。

147:わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。
148:わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。

160:あなたのみ言葉の全体は真理です。あなたの正しいおきてのすべては/とこしえに絶えることはありません。

ほかにもほんとうにたくさん珠玉のことばがたくさん詰まっています。この詩編だけでも一年かけて学んでも良いかもしれません。
実は、上に引用したひとつひとつ(全部ではありませんが)に思い出があります。その記憶も詰まっている詩編です。

この詩編、最後は、次の句で終わっています。

176:わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。

不思議だと思いませんか。これだけみ言葉を思い巡らして、これだけの詩編を詠んできて、最後がこの言葉なのです。主の戒めを忘れないならば、迷いでないのではないのでしょうか。自分の思い、願いとは、べつに、このことこそが真実だと知っているのでしょう。「わたしはあなたの戒めを忘れない」は偽らざる告白と誓いであっても、神様が、「あなた」とよびかける個人的関係にあるその神様が、「しもべ」を、探し出していただかなければ迷ったままなのです。もう一度、9, 10, 11節を読んでみてください。

みなさんは、詩編をどのように読んでおられますか。

2012.3.4
鈴木寛


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BRC no.52

詩編もあと少しになりました。3月19日に詩編が終わり、3月20日から箴言に入ります。

わたしは、明日3月10日から19日までタイ・ワークキャンプの引率で不在となります。箴言については、帰ってきてから書こうと思います。

詩編から少し書きたいと思います。今回も、口語訳からの引用を中心とします。

詩編130篇はつぎのように始まります。

1: 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
2: 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
3: 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
4: しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
5: わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
6: わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
7: イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
8: 主はイスラエルを/そのもろもろの不義からあがなわれます。

みなさんには、どこが、印象的でしょうか。わたしは聖書ノートを毎日つけていますが、今年この箇所を読んで印象的だったのは、ゆるしと希望です。この詩編記者は、神様の救いに希望をもつことができるのは、神様が「もろもとの不義に目をとめられる」かたではなく「ゆるし」があるかただからだと言っています。なぜそんなことを言い切ることができるのでしょうか。経験でしょうか。5節6節にある「待つ」ことをずっと続けるほどの希望、確信はなにからくるのでしょうか。みなさんはどう思われますか。5節には「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」とあります。新共同訳では「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。」となっています。このみ言葉はなにを指しているのだと思いますか。神からの応答でしょうか。聖書の約束でしょうか。かみさまとの霊的な交わりの中で与えられるみことばによる平安でしょうか。

詩編139篇は次のように始まります。

1: 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
2: あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
3: あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
4: わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。

このあとも、すべてを知っておられることが続きます。この神がゆるしの神、愛の神です。すべてを知り尽くしていて、赦される。見ないようにする。どうでもよいことにする、というのとは、まったく違うすごさを感じるとともに、われわれの思いが及ばない、畏れも感じます。

みなさんは、詩編をどのように読んでおられますか。

2012.3.9
鈴木寛


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BRC no.53

昨日で詩編全150編を読み終え、今日 3月20日から箴言 (Proverbs) に入ります。箴言は、ヨブ記、伝道の書(コヘレトの言葉)とともに、知恵文学と呼ばれています。一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。

箴言の最初(新共同訳)は

1: イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

となっています。列王記上3:1-15に、ソロモンが王になったときのことが書かれています。

5:その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。

9:どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
10:主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
11:神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
12:見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
13:わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
14:もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」

と書かれています。この次の15節から28節に有名な逸話が挿入されています。ソロモンの知恵については、列王記上5章に

9:神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。
10:ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。

と書かれ、列王記上11章 には

41: ソロモンの他の事績、彼の行ったすべての事、彼の知恵は、『ソロモンの事績の書』に記されている。

と書かれています。ですから、1章1節は、そのソロモンの箴言だと言っているわけです。ただ、少なくとも箴言31章、32章をみると明らかにソロモン以外に由来すりものも含まれていることがわかりますから、すべてソロモンのものというより、偉大な知者であるソロモンの名前のもとに集められたものというような意味でしょう。

エレミヤ書18:18 には

彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」

エゼキエル書7:26 には

災いに災いが続き/悪い知らせが相次いで来る。彼らが幻を預言者に求めても得ず/律法は祭司から失われ/助言は長老たちから失われる。

とあります。この二つを見ると、律法を教える者として祭司、助言を与える者として賢者・長老、御言葉・幻を与える者として預言者が想定されていることが分かりますが、この人たちが、民の各界のリーダーということでしょう。現代的な言い方をすると、聖書の言葉を教えるのが祭司、神のことばを取り次ぎ伝えるのが預言者、知恵を語る賢い人が長老です。長老は民事事件も扱っていましたから、実際の問題について判断しなければいけなかった訳です。そこで、知恵は、神との交わりの経験をもって、神のことばを実生活に適用することを教えるものと言ってよいでしょう。

サムエル記下14章2節には「一人の知恵のある女」が、サムエル記20章16節にも「知恵のある女」が現れます。「知恵」は、一般にも浸透しており、「知恵あるもの」が大切にされていたのでしょう。

箴言1章7節、9章10節では、それぞれ

1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。

と書かれています。これらの言葉から考えると、一般的格言といえるものもかなりおさめられてはいますが、基本は、上の言葉に要約されている知恵なのでしょう。

箴言に書かれている、知恵、悟り、思慮深さ、知識、分別などはどのようなものなのでしょうか。賢い者と対比して、愚か者、怠け者についても書かれています。アメリカ英語で使われる2年生を表す sophomore は、(原義は違うようですが、)ことばのつくりとしては、sophos(ギリシャ語の「賢明な」)とmoros(ギリシャ語の「愚かな」)があわさってできたと言われています。どのようにとるかはひとそれぞれかも知れませんが、賢明さと愚かさ両方が入り交じったわれわれがそれらを分けるものについて、箴言を通して学ぶことができればと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」から、箴言の梗概(尾山令二)を引用しておきます。

  1. 表題、目的、標語  1:1-7
  2. 知恵についての賛美 1:8-9:18
  3. ソロモンの箴言 10:1-22:16
  4. 知恵ある者のことば 22:17-24:22
  5. 続・知恵ある者のことば 24:23-34
  6. 続・ソロモンの箴言 25:1-29:27
  7. アグルのことば 30:1-33
  8. レムエル王のことば 31:1-9
  9. 優れた妻 31:10-31

2012.3.20
鈴木寛


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BRC no.54

どのような箴言のことばがみなさんの心に残りますか。前回、箴言で語られている「知恵」は長老たちのことばであり、 「神との交わりの経験をもって、神のことばを実生活に適用することを教えるもの」と書きました。実生活への適用ということで、身近に感ぜられることばが多いと同時に、これはつねに正しいとはいえないのではないかと思われる部分もあるかと思います。しかしそれが「神のことばを実生活に適用することを教えるもの」であり、実際的な有用性があるとともに箴言だけからすてのを理解することもできないのでしょう。その上で、聖書の一つの巻として、箴言を楽しんで頂ければ幸いです。

今日は3月25日ですから箴言11章・12章です。箴言から何カ所かひろって書いてみたいと思います。新共同訳から引用します。

箴言8章

ここでは、知恵と英知(口語:悟り)が擬人化され語りかけています。

4:「人よ/あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。

8:わたしの口の言葉はすべて正しく/よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
9:理解力のある人には/それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には/それがすべてまっすぐであると分かる。
10:銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。
11:知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。

上に「箴言だけから真理を得る危険性」と書きましたが、なんと 8-10 を読むと「知恵と英知」は完璧だと語っていますね。箴言に記されている実際の言葉ではなく「知恵と英知」というものがある人格をもち、かつ完全なものとして存在すると語っているのでしょうか。

14:わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
15:わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。
17:わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

ここでは「知恵と英知」が主権者、神のように描かれています。

22:主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。

この22節以降には、「知恵と英知」がすべてのものに先だって造られたことが30節まで書かれており、それに引き続いて

30:御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
31:主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。

と記されています。そして最後は、

35:わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。
36:わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」

「知恵と英知」が命と直接的に結びつくものであることが記されこの箴言は終わっています。

あまり短絡に結論を急がない方がよいと思いますが、なにかヨハネによる福音書の書き出し(第1章冒頭)を想起させませんか。

1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

箴言の記者はどのようなことを考えながらこの箴言を記したのでしょうか。

ひとの計画と紙の計画について記されている箴言を16章から、すこし拾ってみましょう。わたしが好きな箇所でもあります。

箴言16章

2:人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。
3:あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。

9:人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。

19:貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
20:何事にも目覚めている人は恵みを得る。主に依り頼むことが彼の幸い。

25:人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。

33:くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。

25節は 14:12 にもまったく同じ聖句があります。また、口語訳では、

人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。

となっています。人生のそれぞれの岐路において、いのちに至る道か、死に至る道かを見分けるのが「知恵と英知」なのでしょうか。

いろいろとこころに残る言葉がありますが、みなさんはどんなことばが好きですか。 これはちょっと違うのではないかというものも含めて、感想・疑問などもお寄せ下さい。

2012.3.25
鈴木寛


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BRC no.55

知恵で満たされている箴言楽しんでいますか。

4月3日から「伝道の書」に入ります。これは口語訳の書名で、新共同訳は「コヘレトの言葉」、新改訳は「伝道者の書」となっています。 1章1節は

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。(新共同訳)
ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。(口語訳)
となっています。この「コヘレト」「伝道者」の原語は集会を招集する者とか、説教者、伝道者を意味する言葉で、ギリシャ語訳のタイトルから英語訳聖書では、Ecclesiastes となっています。対応するギリシャ語もほぼ同様の意味です。この1節からすると、このコヘレトは、ダビデの子でエルサレムの王ですから、ソロモンということになります。ただ、12節を見ると、
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。(新共同訳)
伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。(口語訳)
と完了形で書かれていますが、ソロモンは終生王でしたから、違和感があります。実は、ルターの頃にはすでに、著者はソロモンではないと考えられていたようです。知恵に満ち、非常に富んでいた王。そのようなひとのことばということが大切なのでしょう。今回は「伝道の書」と呼ぶことにします。この伝道の書には何が書いてあるのでしょうか。
2:コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。(新共同訳)
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。(口語訳)
3:太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。(新共同訳)
太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。(口語訳)
ヘブル語ではことばを重ねることによって最上級をあらわすので「空の空」が訳し方によっては「なんという空しさ」となるわけです。この「空(ヘベル)」は元来、息の意味ですぐに消えてしまううつろいやすいものを意味しており、創世記4章に出てくるアダムとイブの子「アベル」とおなじ言葉です。アベルは登場してすぐカインに殺されてしまいます。この言葉は、旧約聖書に現れる72回のうち37回が伝道の書に使われていますから、この語が伝道の書のひとつの鍵であるとも言えます。

では、この伝道の書は虚無思想の書なのでしょうか。もしそうだとしたらどのような意味で「虚無」だと言っているのでしょうか。この書に記されている虚無的な思想の記述については、それぞれ、ギリシャ、バビロニア、エジプト、仏教、フェニキアなどの影響の指摘する学者がいるようです。

もう一つよく出会うことばが、「太陽の下」(新共同訳)「日の下」(口語訳・新改訳)です。この世の中のことといった意味でしょうか。それを知り尽くしたコヘレトということでも、最初にソロモンを想起させる記述があるのでしょう。

さて、みなさんは、どのようにこの伝道の書を読まれるでしょうか。わたしは高校時代なんどもこの伝道の書を読みました。学園紛争の中で「虚無」について考えていた時代的背景もあるでしょう。同時に、これをして、こう頑張って、つぎにこうなれば、こんなものを得ることができ、こんなに幸せになれるよと、若者にバラ色の人生をもとめて頑張るよう語る声の中に虚の響きを聞き取っていたからかも知れません。

徹底的に、この世の空しさをしっかりと正面から認めることが、そうではない世界に光をあてる事になるのだと、わたしは考えています。 それをソロモンの名を借りて語ることで、ユダヤの人には重要な響きとなって伝わったでしょう。また、たとえば、上に書いた3節、この言葉を聞いた人は、同時に詩編も知っている人です。詩編127篇1.2節(新共同訳)には

1:主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
2:朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
目新しいものを追い求めるものには、コヘレトはこう語ります。
1:9 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
移ろいやすい快楽を求めるものには、
2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
しかし、すべてを無価値としているわけではありません。時について
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
友について
4:9:ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
神を畏れることについては、
5:6 夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
次のようなことばもあります。
11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
そして最後に若者に語ります。
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
12;1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
この書が聖書の中の一巻として含まれていることの恵みを感じます。最後にいのちのことば社「新聖書注解」から、伝道の書の梗概(本間正巳)を引用しておきます。
  1. 序文 1:1-3
  2. 主題の実証 I 1:4-2:26
  3. 主題の実証 II 3:1-4:16
  4. 忠告のことば A 5:1-7
  5. 主題の実証 III 5:8-6:12
  6. 忠告のことば B 7:1-8
  7. 主題の実証 IV 8:10-9:16
  8. 忠告のことば C 9:17-12:8
  9. 結論 12:9-14
みなさんは、伝道の書からなにを読み取られるでしょうか。

2012.4.1
鈴木寛


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BRC no.56

「伝道の書(コヘレトの言葉)」はいかがですか。あまり読んだことがなかった方もいたのではないかと思います。

4月10日から「雅歌」に入ります。ヘブル語聖書では「シールハッシーリ」と呼ばれていますが、これも単数形+複数形の「歌」という単語が重ねられているので、最上級を意味し「歌の中の歌」「最高の歌」と言う意味です。英語では、Song of Songs と訳されています。これを書いていたときに丁度、平原綾香の Not a Love Song という歌が流れていましたが、ちょっと通じるものがありますね。Not a Love Song は「(たくさんあるラブソングのうちのひとつではない)特別なラブソング」というような意味でしょう。内容からするとこの雅歌は「ラブソングの中のラブソング」と言っても良いかも知れません。日本語訳の書名は漢訳聖書から引き継がれたようです。1章1節は

ソロモンの雅歌。
となっています。確かに読んでみるとソロモンを念頭において書かれていることは確かでしょう。旧約聖書39巻の中で神の名が出てこないものが二巻あり、一つがエステル記、もう一つがこの雅歌です。エステル記は、神様は表舞台に出てこなくても、ユダヤ人の歴史として、危機的状況の中で神が働いておられることが記されていますが、この雅歌は、恋愛詩ですから、これが聖書に含まれていることに戸惑いを感じる方もおられると思います。実際、学者たちの中にも、排除しようとしたひともいるようですし、また、解釈もまちまちなようです。

今回もいのちのことば社の「新聖書注解」を見てみましたが、そこでも、6通りほどの解釈が紹介されていました。多少わたしの解釈を加えてありますが、以下のようなものです。

  1. ユダヤ人の比喩的解釈「神とその民との間の愛」
  2. キリスト教の比喩的解釈「キリストと教会との間の愛」
  3. 劇詩としての解釈「ソロモンと羊飼いの娘」「ソロモンと羊飼いの娘とその恋人の羊飼い」
  4. 恋愛詩の断片をあつめたものとする解釈
  5. 宗教祭儀文、他の宗教のものをユダヤ教に調和させた形に取り入れたとする解釈
  6. 祝婚歌、自然の恋愛詩歌とする解釈
みなさんは、どのように読まれるでしょうか。わたしは、b を強調されて教えられてましたが、個人的には、c と f が一義的には、有力かなと考えています。つまり基本的には、人間的な恋愛を歌った詩歌で、形式的には劇詩の形をとっているというものです。人間的な恋愛感情は、時として、ひとを傷つけたり、利己的に働いたり、肉欲的な面が制御できなくなったりしますが、特に異性の間のとくべつな感情そして生理現象は、やはり神様が祝福として人間ひとりひとりに与えておられるものだと考えるからです。祝福として受け取るべきものだと思います。しかし同時に、読んでみると、雅歌は正直わかりにくい。それぞれの部分がだれの言葉なのかわかりにくいのです。実は新共同訳にはかなりこまかく「小見出し」がついていますが、むろんこれは、もともとの聖書にあるものではありませんから、それは忘れて読んだ方が良いかも知れません。演劇の好きな方は、ちょっと分析してみて下さいませんか。どんな登場人物を想定するのがよいでしょうか。わたしも毎回考えながら読んでいますが、これ以降は、みなさんにお任せして、書かないことにします。

雅歌から少し拾ってみましょう。以下は新共同訳から引用します。

1:2 どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。 ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く
1:3 あなたの香油、流れるその香油のように/あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。
1:4 お誘いください、わたしを。急ぎましょう、王様/わたしをお部屋に伴ってください。 わたしたちもあなたと共に喜び祝います。ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます。人は皆、ひたすらあなたをお慕いします。
3節と4節を同じ人のことばとするかどうかも難しいですね。この雅歌に 2:7 と 3:5 に出てくる次の言葉、みなさんはこの気持ち分かりますか。
2:7 エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。 [口語訳 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。]
8:4 にも似た言葉があります。そしてつぎのように続きます。
4: エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
5: 荒れ野から上って来るおとめは誰か/恋人の腕に寄りかかって。
りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。
6: わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。
愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
7: 大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。
これだけでも、十分、美しいと思いませんか。こんな胸ときめき、恋愛、魅力的ではないですか。 最後は次の言葉で終わります。 8:14 恋しい人よ/急いでください、かもしかや子鹿のように/香り草の山々へ。 例により最後に慷慨(本間正巳)を「新聖書注解」から書き出しておきます。

梗概

  1. 花嫁と花婿の互いの愛情 1:1-2:7
  2. 春の訪れ。花嫁の夢 2:8-3:5
  3. 婚礼の行列。花嫁の第二の夢。エルサレムの娘たちと花嫁の対話 3:6-6:3
  4. 花婿の花嫁賛歌 6:4-8:4
  5. 互いの愛の告白 8:5-14
みなさんは、どのように読まれるでしょうか。聖書の一巻として雅歌が含まれている意味も考えてみましょう。

2012.4.8
鈴木寛


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BRC no.57

昨日4月14日からイザヤ書に入りました。イザヤ書から旧約聖書の最後まで基本的には預言書が続きます。預言は、予言ではありませんから、未来告知ではなく、神様の言葉に預かる、それを伝えるものですが、その中には、予言的な要素も多く含んでいます。また、かなり現実に密着した問題について語られています。さてその預言書でも、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書は大預言書と呼ばれています。さらにその中でもイザヤの名前は聞いたことのある方が多いのではないかと思います。おそらくその大きな理由は、新約聖書でたくさん引用されているからでしょう。イザヤ書からの新約聖書での引用は50箇所ほどありますが「預言者イザヤによって」など、イザヤという名前が出てくる、イザヤ書以外の箇所をリストしておきます。

旧約聖書では、列王記下 19, 20 章、歴代志下 26, 32章、新約聖書では、以下の箇所です。

さて、イザヤ書の最初を見てみましょう。新共同訳から引用します。
1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。(新共同訳)
イザヤは「主の救い」と言う意味の名前ですが、ユダとエルサレムについて見た幻について書いてあること、それもユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことだと書いてありますから、すこしこの当時のことを復習しておくことが必要でしょう。上にも書いたように現実の問題と密接に関わりのあることについて語っているので、その当時のことを知ることは、大切なのです。

大体BC1000年頃、ダビデがイスラエル王国の王となり、そのあとソロモンが王となりますが、その死後BC922に王国が分裂します。12部族のうち、ユダとベニヤミン族からなり、ダビデ王家の血筋をひく南ユダ王国と、残りの10部族からなる北イスラエル王国での二つの王国です。同盟関係を持っていた時代もありますが、敵対関係にあった時期のほうが長かったでしょう。南には、エジプトという超大国があり、北にはアラム(シリヤ)がありました。その首都であるダマスコは、世界史上最古の都市といってもよいほど古くから栄えた都市でした。

上に引用した1章1節に現れるウジヤは、列王記下14章・15章では アザルヤと呼ばれています。ウジヤについては、歴代志下25, 26章にも書いてありますので是非読んでみて下さい。神に従った良い王様で、外交においても、内政においても、実績を上げ国は繁栄していたことが、歴代志に書かれています。しかし晩年、祭司しか入ってはいけない、神殿にはいり、香をたいたため、神に打たれて重い皮膚病になった、と書かれています。歴代志下26章から、少しだけ引用しておきます。

15: 彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
16: ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした。

20: 祭司長アザルヤと祭司たちは皆彼の方を向いて、その額に重い皮膚病ができているのを認め、直ちに去らせた。彼自身も急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。

イザヤが預言を始めたのは、この時代です。

わたしは 1987年頃二年ほど神戸ルーテル神学校に聴講に行っていたことがありますが、その校長先生が鍋谷堯爾(なべたにぎょうじ)というかたで、イザヤ書が専門でした。時々引用している、いのちのことば社「新聖書注解」のイザヤ書もこの先生が執筆していますので、そこから、背景となる歴史と慷慨を引用しておきます。上に書いた国の関係が、アッシリアの台頭によって崩れて、北イスラエル王国などが滅ばされてしまうのです。南ユダ王国はアッシリアのあと中東を制したバビロニア王国に滅ばされるまで細々と残ります。

* は諸説あり。

慷慨 (いのちのことば社「新聖書注解」鍋谷堯爾による)

1章から39章はひとつのまとまりがありますが、そのあと、かなり記述が変わっていくので、40章-55章は 第二イザヤ、56章-66章は 第三イザヤによると言ったりしています。イザヤ書は 66章あります。聖書も66巻、旧約聖書は 39巻ですから、このイザヤ書の切れ目は、(章の切れ目は後代に作ったものですから)たまたまですが、旧約聖書と新約聖書の巻の数と同じように分かれています。

中身については、また次回以降としましょう。みなさんは、どのようなことを読み取られるでしょうか。

2012.4.15
鈴木寛


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BRC no.58

皆様イザヤ書はどうですか。今日は4月22日ですから16章と17章です。前回は中身については書けませんでしたから、今回はイザヤ書はどんなことについて書いてあるかを、特に最初のいくつかの章から少し見てみましょう。まずは、1章から少し見てみましょう。前回と同じく引用は新共同訳です。
2:天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
3:牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。
まず、イスラエルの民が主(神様)の子と表現され、その子らが神様にそむいたことが書かれています。これに続いて、神によって撃たれたこと。憐れみによって残されたものがいることが書かれています。(1:5-9)

では、神様は何に怒っておられるのででしょうか。

4:災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
主を捨てたとあります。
11a:お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
14a:お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。
15a:お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
これをみると、宗教的儀式によって救われることはなさそうです。犠牲・祭り・祈りを受け入れないとされています。
16:洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
17:善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
18:論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
神が求めておられること、そして、清められると書かれています。 簡単にいうと「あなたたちは、神にそむいた。御心と行うものとなれ。神は(神の前に立つことのできる)清いものにしてくださる」ということです。

2章4節・5節は、聞いたことがあるというかたもいるかと思いますが、主が与えられる平和について凄いことが書かれています。

4:主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
5:ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
前回、時代的背景について少し書きましたが、東のアッシリアが強くなり、それまで北イスラエル王国(その盟主の名からエフライムとも言われている)や、そのさらに北にあるアラム(口語ではスリヤ、首都のあったダマスコと呼ばれることもある)と争っていたのが、そんな状況ではなくなっていました。アッシリアに対抗するため三国同盟の案もあったようですが、南ユダ王国はこれを拒否したためでしょうか、北イスラエル王国とアラムが攻めてきます。しかし、これらの二つの国は、アッシリアに滅ばされてしまう。(7章)このような時代ですね。上の4節・5節はそのような時に語られているのです。

では、イザヤはどうだったでしょうか。7章には、王と直接やりあう姿が書かれています。すくなくとも、困難な国際政治状況のもとで、これは背いた民に対する神の裁きだからと、道徳的に清い生活をするために、隠遁生活をするとういのではなく、王を批判したり、世界の状況についての神のことばを伝えています。イザヤ書を読み進めるとわかりますが、イザヤの時代のひとびとにとっての全世界といえるようなあらゆる国々についての預言が語られています。そしてそれぞれの国を神が用いておられることも語られています。10章にはつぎのようなことばも登場します。

5:災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。
6:神を無視する国に向かって/わたしはそれを遣わし/わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ/野の土のように彼を踏みにじれ」と。
この時代にこのようなことばを言うことは勇気のいることだったでしょう。そして、同じ10章にアッシリアについての裁きも書かれています。神が全世界の国を動かしておられると確信しているのでしょう。イザヤが書いている範囲は地域的にも広いですが、社会的にもいろいろな人たちに語りかけています。
主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。
これは3章16節のことばですが、このあと、18節からは装身具のリストが挙げられています。聖書の他の箇所には現れないことばも多いそうです。女性達が身を飾る飾りのひとつひとつも、神のことばの一部として用いられているのです。

わたしには、イザヤ書の内容について解説を書くというようなことはできませんが、イザヤが扱う広さ、神の働きの大きさは、地域的にも、釈迦的にも、時代的にもたいへんなスケールであることは、驚きをもって読んでいます。

みなさんは、イザヤ書を読みながらどんなことを感じておられるでしょうか。

イザヤ書6章1節から13節を引用して、ICU教会の礼拝で証をしたことがあります。読んで頂ければ幸いです。 「アベイラブルであること」

2012.4.22
鈴木寛


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BRC no.59

今日は4月29日、イザヤ書30章・31章です。

no. 57 にイザヤ書の全体の流れを書きました。イザヤ書は66章ありますから、大体の流れが分かっていることは助けになると思います。

下に書いてあるものは、no.57 にいのちのことば社「新聖書注解」から引用した部分です。

第一部 ユダとエルサレムについての幻 1-12章
第二部 諸国に関するメッセージ 13-23章
第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35章
第四部 歴史的付加 36-39章
第五部 新しい出エジプトと主のしもべ 40-53章
第六部 新しい民の賛美と礼拝 54-66章
第一部は大体ユダとエルサレムについて書かれていますが、その中に、6章のようなイザヤの(再)召命体験、7章のスリヤ(アラム・ダマスコ)とイスラエルの連合軍によるエルサレム攻撃に、イザヤがどのように関わったかが書かれた記事が挿入されていました。 第二部はバビロンからはじまり、当時の世界の国々に対するメッセージが書かれていました。
  1. バビロン 13:1-14:23
  2. アッシリア 14:24-27
  3. ペリシテ 14:28-32
  4. モアブ 15-16
  5. ダマスコ(アラム)とイスラエル 17
  6. クシュ(エチオピア) 18
  7. エジプト 19
  8. 裸になったイザヤ 20
  9. 海の荒野(バビロン) 21:1-10
  10. ドマ(エドム) 21:11-12
  11. アラビヤ 21:13-17
  12. 幻の谷(エルサレムとユダ) 22
  13. ツロとシドン 23
ここにも20章のように、アッシリアの王サルゴンがペリシテの街のひとつを攻略したときから3年間、イザヤが裸、はだしで歩き、エジプトとエチオピアのしるしとしたことが挿入されています。外国に対するしるしをイザヤが演じることを命じられそれをする姿は、なにかこの世のものとも思われないものを感じます。

最初は当時の世界の最強のバビロンから始まり、最後はツロとシドン、フェニキアという商業によって栄えた海洋民族の港町で、イスラエルからほど遠くない町について記され、さばきのあと70年たって神様がツロをふたたび顧みられることが書かれて終わっています。

第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35

  1. 世界の裁きと、終わりの日の救い 24-27
  2. 世のはかりごとへの宣告 28-33
  3. さばきと贖いに現される神の栄光 34-35
さて、どんな救いが語られているのでしょうか。新改訳で引用します。25章6節から10節です。
6:万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7:主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8:死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9:その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
10:主の御手はこの山の上にとどまる。
すべての民の祝宴が開かれるときのことが書かれています。
  1. 神様が、われわれをおおっていた布を取り除かれる。
  2. 神様が、死が滅ぼされ、涙と恥をぬぐい去って下さる。
  3. 人々が神の救いを自分たちの救いとして告白する。
  4. 神様の御手がつねに近くにあって守って下さる。
と言うことでしょうか。この救いについて語る部分にも、31章のように、アッシリアから逃れてエジプトに頼っていく人に対する警告などが挿入され、主に立ち帰るべき事が語られています。預言はつねに、その現実の中で、主に頼るべき事を示す一部なのでしょう。

このあと、36章から39章の第四部がつづき、そこでイザヤ書の前半が終わります。この36章からの部分は列王記下18章13節から20章の終わりまでの部分と全く同一または平行記事になっています。イザヤの人生のハイライトだったかもしれません。40章から始まる後半の前に、これが挿入されていることになります。わたしはその理由について言い切ることはできませんが、このあとにつづく大いなる神のメッセージ、神のしもべについてのメッセージの確かさについての「保証」と、そのメッセージを受け取るべき「姿勢」が書かれているのではないかと思います。そのような、気持ちをもって、今週、36章から39章を読んで頂ければと思います。

預言書はわたしにとっても、分からないことばかり、これからも少しずつ勉強していきたいと思っています。しかし、みなさんと一緒に読むことで、そして、このような文書を書くことで、今までとは少し違った視点で読むことができることを感謝しています。

みなさんは、イザヤ書のどんなメッセージがこころに残りますか。

2012.4.29
鈴木寛


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BRC no.60

今日は5月6日、イザヤ書44章・45章です。

イザヤ書は40章から第二部にはいり、歴史的叙述はほとんどなく、詩文体の預言が続きます。皆さんの中には、特別な思いをもっている節や、好きな聖句としている箇所をお持ちの人もいるのではないでしょうか。ひとつだけ人気の箇所を挙げてみましょう。40章31節です。

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
なにか力を与えられますね。通読のひとつの価値は、イザヤ書全体の中でどのような箇所にそれぞれのことばが書かれているかを確認できることではないかと思います。どうしようもない真っ暗な現実が書かれている直後、40章の最初「慰めよ、わが民を慰めよ」とはじまったメッセージに現れるのですね。

もう一つ、40章からの第二部が特別なのは、新約聖書でも頻繁に引用されている、しもべの歌と言われているものが書かれているからだと思います。いくつかありますが、鍋谷堯爾氏の「現代に語るイザヤ書 鷲のように翼をかって」(いのちのことば社)にしたがうと、4つあります。しもべはヘブル語ではエベド「はたらく」という動詞からきたもので、奴隷とか家来の意味として使われたり、謙譲語として、へりくだって、自分をしもべとぶときに使っていますが、聖書では、特に、かみさまに特別の目的をもって用いられるといういみが強いでしょう。今回は、わたしになじみの深い口語訳から引用させてください。

第1番目のしもべの歌 42章1節-4節

1:わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
2:彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
3:また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
4:彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。
この3節は、新共同訳では
傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
となっています。「裁きを導き出して」というと、恐ろしい感じがしますが、「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」の部分は、なにかとても平安が与えられますね。このことばは、マタイ12章20節にも引用されています。

第2番目のしもべの歌 49章1節-6節

1:海沿いの国々よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。主はわたしを生れ出た時から召し、母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
2:主はわが口を鋭利なつるぎとなし、わたしをみ手の陰にかくし、とぎすました矢となして、箙にわたしを隠された。
3:また、わたしに言われた、「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。
4:しかし、わたしは言った、「わたしはいたずらに働き、益なく、むなしく力を費した。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」と。
5:ヤコブをおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、わたしを腹の中からつくって/そのしもべとされた主は言われる。(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)
6:主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

第3番目のしもべの歌 50章4節-9節

4:主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。
5:主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。
6:わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。
7:しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。
8:わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。
9:見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。

第4番目のしもべの歌 52章13節-53章12節

13:見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
14:多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――
15:彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
1:だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2:彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3:彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4:まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6:われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
7:彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
8:彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
9:彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
10:しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
11:彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12:それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
特にこの第4のしもべの歌は新約聖書でもたくさん引用されています。興味のあるかたは是非調べてみて下さい。no.57 に新約聖書でイザヤという名前が出てくる箇所を挙げておきましたので、参考になると思います。

また、使徒行伝8章32節-33節には、伝道者のピリポがエチオピアの宦官にこの箇所からイエスについて解き明かし、宦官がその場で洗礼をうける話しが書かれています。特に53章1節から9節は主のしもべというには異常ですよね。そこがまさに引用されているのです。

マタイによる福音書8章17節も引用してみましょう。

これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
マタイでは実際の病を癒す箇所で引用されていますが、このイザヤ書の文脈からしても、マタイに書かれていることからも、単なる医学的病気ではないことを読み取れるのではないでしょうか。おそらくイエスが弟子達に伝えた時から、そして初代教会のときから、この箇所をまさに起点として、ここで言われている主のしもべがイエスだと信じられて来たのです。そして、そのイエスは、このような主のしもべの姿が受け入れられないひとたちの、「暴虐な裁きによって取り去られ」ました。しかし、イザヤはその原因は、われわれ、われわれの不義にあると言っています。そして「その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」さらに驚くべきことに「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」

現在のイザヤ書に完全になったのは、もう少し後かも知れませんが、紀元前700年のイザヤをとおして、語られた、しゅのしもべ、ここに語られている、内容には、ただ驚かされてしまいます。

みなさんは、イザヤ書のどんなメッセージがこころに残りますか。

2012.5.6
鈴木寛


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BRC no.61

今日は5月13日、イザヤ書58章・59章です。あと少しでイザヤ書を読み終わり、エレミヤ書に入りますから、エレミヤについて少し書いておこうと思います。

イザヤの時代はアッシリアが巨大帝国となっていった時代でした。このアッシリアに、北イスラエル王国は、滅ぼされます。BC722年のことです。エレミヤはそのアッシリアの全盛時代から、アッシリアの後の中東世界を統一支配したバビロニア帝国の時代の預言者です。最初の1節から3節には次のようにあります。

1:エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。
2:主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、
3:更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
3節にあるように、南ユダ王国は、北イスラエル王国が滅んでからも、辛うじて残りますが、ゼデキヤの時代に、ネブカデネザルが率いるバビロンに滅ぼされ、エルサレムの住民は、捕囚となって連れ去られていくのです。1回目の降伏は、BC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年7月9日です。イザヤ書にも歴史的な記述が現れ、そのなかのイザヤの活動が書かれていましたが、エレミヤ書にはさらにたくさんのエレミヤの活動記録が書かれています。一つの国が完全に滅びてしまうと言うのは大変なことです。エレミヤが活動したのはまさにその時、神の民、神に特別に愛されて、導かれてきた民、それが異邦人の神を知らない民に滅ぼされる。このことは、あらゆる意味で大変な事だったことは、容易に想像がつきます。民がこころから神に仕えていなかったということは、簡単ですが、曲がりなりにも神様を礼拝し、仕えてきた国が、神様を全く知らない国に滅ぼされてしまうのです。そんなことがあっても良いのだろうか、と問いたくなるのは当然です。

「ヨシアの治世の第十三年」とありますが、これは、BC627年のことです。それから、エルサレム陥落のしばらく後までのおよそ50年間のことが記述されています。無論、列王記下、歴代志下にも並行記事が書かれていますし、このあと読むことになる他の預言者、ゼパニヤ、ナホム、ハバクク、エゼキエル、ダニエルの記録からも、当時のことを伺い知ることができます。また、バビロンなどの記録文書もあり、さらに、イエスの時代の少し後の、ヨセフスもかなり詳細にこの時代の歴史について記述しています。歴史的背景を理解しないとエレミヤ記も理解できないことは、確かです。

ここでは、詳しく書く余裕はありませんが、簡単な状況だけを書いておきましょう。東の巨大な王国、アッシリアは、エジプトをも滅ぼした、アシュール・バーン・アプリ王 (BC669-627) の死後急速に衰え、BC612年には、その首都ニネベが、バビロンのナボボラッサル (BC626-605)とメジアの連合軍にによって陥落します。それによって、エジプトも力を回復してきたのが、エレミヤ活動の前半と言うことになります。このナボラッサルのあとを継いだのがネブカデネザルで、巨大なバビロン王国を築いていきます。

この覇者交代の時期にエルサレムで8歳で王になったのが、ヨシアです。ヨシアは、第18年(BC622) に宗教改革を行い (列王紀下22-23章, 歴代誌下34-35章)、列王記下23章25節にも

彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。
と書かれています。ユダがアッシリアに滅ぼされなかったのは、アッシリアの属国的な存在であることを甘んじたからもありますが、アッシリアを撃つために出てきたエジプトの王ファラオ・ネコに戦いをいどみ、ヨシアも死にます。それから暫くして、エルサレム陥落、エルサレムの民は、バビロン捕囚となるのです。エレミヤはそのような時代の預言者と言うことになります。1章の4節からは、エレミヤが預言者として立てられたこと、すなわち「召命」(Calling, Beruf) をうけたことが次のように記されています。
4:主の言葉がわたしに臨んだ。
5:「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。
」 6:わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
7:しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
10:見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
このあとには、神様から直接預言の言葉が与えられ、さらに、その意味の解き明かしも示される、預言者訓練とも呼ぶことができるような経験が一章の終わりまで書かれています。

「新聖書注解」いのちのことば社、安田吉三郎による梗概を引用しておきます。

  1. 表題 1:1-3
  2. エレミヤの召命と派遣 1:4-19
  3. ユダとエルサレムに対する災の預言 2:1-25:38
    1. ヨシヤ王の時代の預言 2:1-6:30
    2. エホヤキム王の時代の預言 7:1-20:18
    3. ゼデキヤ王の時代の預言 21:1-24:10
  4. エレミヤ後半生の事件 26:1-45:5
    1. 最初の迫害 26:1-24
    2. バビロンのくびき 27:1--29:32
    3. なぐさめの書 30:1-33:26
    4. エルサレム陥落前の事件 34:1-36:32
    5. エルサレムの包囲と陥落 37:1-39:18
    6. エレミヤの晩年 40:1-44:30
    7. バルクのなっげき 45:1-5
  5. 諸国民への託宣 46:1-51:64
  6. 付録・エルサレム陥落とエホヤキンの恩赦 52:1-34
みなさんは、イザヤ書のどんなメッセージがこころに残りましたか。
そして、この難しい時代に預言者として神様に召されたエレミヤからは、どのようなメッセージを学ばれるでしょうか。

2012.5.13
鈴木寛


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BRC no.62

今日は5月20日、エレミヤ書6章・7章です。エレミヤ書に入りましたが、みなさんはどのような感想を持ちながら読んでおられるでしょうか。

前回、エレミヤ記の歴史的背景について書き、エレミヤの召命の最初の部分を引用しました。区切りは明確ではないかも知れませんが、6章終わりまでが、大体ヨシア王の時代です。北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされてから、アッシリヤや、エジプトとの関係をたもっていどうやら国として維持してきた南ユダ王国。ヨシア王は、神殿を中心とした宗教改革もした王でした。

預言者は神のことばに預かるというのが、日本語の意味ですね。未来について語るだけではありませんが、神のことばは、「光あれ」といったときに光があったように、発せられたときにすでにその通りになると考えると、預言者の仕事は非常に重いと言わざるを得ません。こんなこともあるかも知れないから、準備しなさいよなどということとは異なるのです。1章9節-10節に預言者のつとめが語られています。

9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
10:見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
25章の終わりまでは、基本的に、ユダとイスラエルについて語られていますが、その内容として最初に語られているのは、次の事です。
16:わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。
アッシリアに滅ばされる脅威が多少うすれ、それなりに、安住している時期にこのことばを語るのです。反発があることは、容易に想像できます。上の箇所につづいて、17節には次のようにあります。後半は、なかなかのチャレンジですね。
17:あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな/わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。
2章11節-13節には、その罪がさらに明確に語られています。
11: 一体、どこの国が/神々を取り替えたことがあろうか/しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた。 12:天よ、驚け、このことを/大いに、震えおののけ、と主は言われる。
13:まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
結局神ではなく、自分にたよると言うことでしょうか。さらに、2章18節には、上でも書いた歴史的なことが記されています。
18:それなのに、今あなたはエジプトへ行って/ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って/ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。
3章から4章にかけては、何回も「帰れ」と呼びかけられています。3章14節-15節。
14:背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。一つの町から一人、一つの氏族から二人ではあるが、わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。
15:わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。
エレミヤ書3章 22節
「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。
問題の深刻さを、エレミヤは少しずつ語ります。まず、5章1節.
エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
次に5章30節-31節
30:恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。
31:預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」
そして、この罪は、民全体をむしばんでいると、言うことでしょうか。6章13節-14節。
13:「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
14:彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。
みなさんは、いまのこのなんとなく平和な時代にこれらのエレミヤのことばをどのように聞きますか。 差し迫った危機はないが、なにか将来は明るくない。まだ大丈夫だろう。そんな時でしょうか。

2012.5.20
鈴木寛


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BRC no.63

今日は6月3日、エレミヤ書34章・35章です。先週は出張などで書くことができませんでした。最近の箇所から何カ所か、書いてみたいと思います。

エレミヤ18章には、エレミヤの苦悩が表れています。

6:「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。
7:あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、
8:もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。
常に、裁きとともに、悔い改めを預言しますが、反応は、
18:彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」
このときに、エレミヤは次のように主に祈っています。
19:主よ、わたしに耳を傾け/わたしと争う者の声を聞いてください。
20:悪をもって善に報いてもよいでしょうか。彼らはわたしの命を奪おうとして/落とし穴を掘りました。御前にわたしが立ち、彼らをかばい/あなたの怒りをなだめようとしたことを/御心に留めてください。
とりなしもしていたというのです。預言者はなにか、厳しいことを言って、正しさを主張しているだけに見えます。人々から忌み嫌われ、迫害されます。しかし、この後は、憎しみとでも表現できる言葉が続きます。これは、何なのでしょうか。個人的な恨みではないのでしょうか。
21:彼らの子らを飢饉に遭わせ/彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり/夫は殺戮され/若者は戦いで剣に打たれますように。
22:突然、彼らに一団の略奪者を/襲いかからせてください/彼らの家から叫ぶ声が聞こえるように。彼らはわたしを捕らえようと落とし穴を掘り/足もとに罠を仕掛けました。
23:主よ、あなたはご存じです/わたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず/罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう/御怒りのときに彼らをあしらってください。
しかし、19章をみても、エレミヤのトーンは変わりません。ただ、神の言葉を語ることに集中しているようです。これだけ厳しいことを自分の民に言わなければならない、エレミヤの苦悩を痛いほど感じてしまいます。

20章には、パシュフルのことが出てきます。パシュフルは裂く (tear) が語源で、解放するというような意味の名前の様ですが、

1:主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。
2:パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
3:翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。
4:主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。
『恐怖が四方から迫る』これは、厳しいですね。祭司長のような仕事なのでしょうか。民の指導者が、このような恐ろしい名前を宣言される。もう、救いはないのでしょうか。つらい気持ちになってしまいます。しかし、さらにつらいこと、エルサレムとユダに対して、最終宣告とでもいえるような言葉を告げます。23章です。
39:見よ、わたしはお前たちを全く退け、お前たちと父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。
40:そしてお前たちに、決して忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。」
主に捨てられるだけでなく、受け取り方によっては、もっと悲しいことも書かれています。
9:わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。
神を神とも思わないひとにとっても、これは大変な苦痛です。26章では、民の司たちは、これらのことを聞き、エレミヤに死刑を宣告します。それにも、エレミヤは毅然とこたえ、なお、悔いあらためを説きます。
11:祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。「この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました。」
12:エレミヤは高官たちと民のすべての者に向かって言った。「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。
13:今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。
14:わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。
15:ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」
すごい気迫です。預言者たるもののつとめとして、28章には次のように書かれています。
9:平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
なぜ、平和を預言する者については、こう書かれているのでしょうか。みなさんはなぜだと思いますか。わたしは、預言者のつとめは、悔い改めを促すことにあるからではないかと思います。ですから、厳しい預言の場合は、民が悔い改め、その厳しい預言がその通りにはならないことをむしろ願っているのです。しかし、平和を預言するものは、それが成就すること以外に、その預言が神からのものかどうか、立証できるものはないと言っているのではないでしょうか。

この厳しい預言のあと、さばきの後についても預言しています。32章ですが、本当にそんな時がくるのかと、かえって心配になってしまいます。

37:「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。
38:彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
39:わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。
40:わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。
なんとスケールの大きいことかと驚いてしまいます。「一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる」預言が厳しすぎると思ってしまいますが、これを読むと、なかなかこれも信じられない、神様の心と一つとなるのは、なんと難しいことかと思わされます。

34章には、歴代志下36章にも書かれている、ゼデキヤへの預言が記され、35章には、そんな中、神の命令に代々従ってきていたヨナダブのことも出てて来ます。38章、39章には、クシュ人の宦官エベド・メレク(口語:エベデメレク)、38章には、ゼデキヤとの、いろいろと考えさせるやりとりが書かれています。

16:ゼデキヤ王はエレミヤにひそかに誓って言った。「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない。」
この言葉には、なにか勇気を得ます。ここでは「我々の命を造られた主にかけて誓う。」と記されています。人が信頼できるのは、大変な混乱の中、殆ど世の中の終わりのようなときにあたっても、「我々の命を造られた主」という人は信頼できるのではないかと思わされます。

今回は、わたしが日々の聖書箇所から感じたことを抜き書きしているノートから書いてみました。エレミヤ書の預言で大切なことの一つは、バビロン捕囚が70年であって、そのあと、帰還してくるという預言です。そのことを最後に記しておきましょう。全体的に暗い、エレミヤの預言のなかで、ここを好きだという人がたくさんいる箇所、29章です。

10:主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
11:わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
12:そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
13:わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
14:わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
希望がわいてきませんか。みなさんは、どんなことを考えながら、エレミヤ書を読んでおられるでしょうか。

2012.6.3
鈴木寛


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BRC no.64

今日は6月9日、エレミヤ書46章・47章です。12日には、エレミヤ書が終わり、哀歌に入りますから、哀歌のことを少し書いておきたいと思います。引用はすべて新共同訳です。

「哀歌」はいくつかの訳では「エレミヤの哀歌」となっており、ギリシャ語七十人訳でも、序文にエレミヤが著者であるように書かれてあり、文語もそのようになっていますが、確かな証拠はないようである。次の箇所の影響のようです。

歴代誌下 / 35章 25節
エレミヤはヨシヤを悼んで哀歌を作った。男女のすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝えるようになり、今日に至っている。それがイスラエルの定めとなり、歌は『哀歌』に記されている。
形式は、詩編119篇のときに説明したような、ヘブル語のアルファベットによる数え歌のようになっています。日本語聖書でも分かるのは、3章以外は、すべて22節で、3章も66節と22の倍数になっています。その22がヘブル語のアルファベットの数と同じで、各節の最初はアルファベットの対応する文字を使おうとしているようです。ヘブル語の聖書は詩編119篇のときも書きましたが、たとえば、
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt3205.htm
を参照してみてください。

全体で5章。

第1章 荒廃し見捨てられたエルサレムについての哀歌。
第2章 ユダとエルサレムに注がれた主の怒り。
第3章 主の恵みと憐れみを歌う、個人の告白と賛美。
第4章 エルサレムの昔の美しさと、今の悲惨さ。
第5章 主への祈り。
少し抜き書きしてみましょう・

第1章

1:なにゆえ、独りで座っているのか/人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか/多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか/国々の姫君であったこの都が。
2:夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。
3:貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き/異国の民の中に座り、憩いは得られず/苦難のはざまに追い詰められてしまった。
4:シオンに上る道は嘆く/祭りに集う人がもはやいないのを。シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。
5:シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し/苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり/苦しめる者らの前を、引かれて行った。
6:栄光はことごとくおとめシオンを去り/その君侯らは野の鹿となった。青草を求めたが得られず/疲れ果ててなお、追い立てられてゆく。

第2章

3:イスラエルの角をことごとく/激しい怒りをもって折り砕き/敵の前から右の御手をひるがえされた。御怒りはヤコブに対して烈火となり/炎となって焼き尽くした。
4:敵となって弓を引き絞り、右の御手を構え/瞳のように愛しておられたものを/苦しめる者となって皆殺しにし/おとめシオンの天幕に/火のような怒りを注がれた。
5:主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し/その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし/おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。

第3章

17:わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。
18:わたしは言う/「わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう」と。

22:主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
23:それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
24:主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
25:主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
26:主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
27:若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
28:軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
29:塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
30:打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。
31:主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
32:主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。
33:人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

40:わたしたちは自らの道を探し求めて/主に立ち帰ろう。
41:天にいます神に向かって/両手を上げ心も挙げて言おう。

第5章

18:シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。
19:主よ、あなたはとこしえにいまし/代々に続く御座にいます方。
20:なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ/果てしなく見捨てておかれるのですか。
21:主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。
22:あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
苦しみの中、みなさんはどのように希望を見いだしますか。

2012.6.9
鈴木寛


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BRC no.65

通読もエゼキエル書に入り、今日6月17日は5章・6章です。

エゼキエル書第1章はつぎのように始まっています。

1:第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。
2:それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。
3:カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
列王紀下24章8-17節にヨヤキン(口語訳ではエホヤキン)について記されています。このヨヤキンはヨヤキム(口語訳ではエホヤキム)の子で18歳で王となり3ヶ月間王位にありますが、ネブカデネザルに率いられたバビロン軍に捕らえられます。
12:ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。
13:主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。
14:彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。
15:彼はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。
16:バビロンの王はすべての軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った。
17:バビロンの王はヨヤキンに代えて、そのおじマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。
ここで記されているエルサレム陥落(1回目)は BC597年ですから、第5年はBC593年。上の1章1-3節からエゼキエルはバビロンにいたことが分かります。(ケバル川はユーフラテス川の支流の間をつなぐバビロンのなかの運河だと言われています)エゼキエルは、おそらく捕囚として連れて行かれた一人だったのでしょう。第30年については正確にはわかりませんが、エゼキエルが30歳の時とも言われています。祭司は30歳から50歳まで務めをしたようですから(民数記4:3)祭司ブジの子エゼキエルとあるのは、エゼキエルが30歳となって通常であればエルサレムの神殿で祭司のつとめを始めるとき、祭司ではなく、預言者として立てられたと言うことかも知れません。なお「エゼキエル」とは「神が強めてくださる」という意味だそうです。

北イスラエル王国はすでにBC722にアッシリアによって滅ぼされていますが、奇跡的にアッシリアには、滅ぼされなかった南ユダ王国。イザヤなどの警告にも拘わらず、神国として滅ぼされないといった安易な信仰にすがっていたのが、ついに、バビロンの前に決定的な敗北を喫したのがこのときです。有力者はバビロン捕囚となり、上の記述によると「貧しい者だけ」がのこります。エレミヤは残り、エゼキエルはバビロンへ、それぞれがそれぞれの場で、神に背くユダの都エルサレムの崩壊を神の審判として預言したのです。そして実際、バビロンの傀儡政権として立てられたゼデキヤ王は列王記下25章によると、バビロニアに反旗を翻し、結局BC587-6年にはエルサレムは破壊され、南ユダ王国も消滅します。第30年をエゼキエルの年齢ととると37歳の頃ということになります。

エゼキエル書18章には、次のようにあります。

2:「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。
3:わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。
4:すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。
ヒゼキヤの子マナセなどに責任を負わすなどし、自分の罪について顧みないひとたちも多くいたのでしょう。このことばは(同じようなことばがエレミヤ31:29にもあります)、このような悲劇は、父や祖父母の代の罪が招いたのだと言っている人に対して、述べているのかも知れません。

正直に書いておこうと思いますが、実はわたしは、聖書全体のなかで、一番苦手なのが、このエゼキエルです。明確に理由を述べることはできませんが、このエゼキエル書の特徴でもある、祭司的な、聖なるものとけがれたものの区別がなかなかピンとこないのと、救いの希望が、神殿の回復ということで書かれているからでしょうか。背景をすこし詳しく書いてみました。今回の通読では、少しでもこのエゼキエルを理解したいと考えています。

今回は、エゼキエルの第一回目ですから、「新聖書注解」いのちのことば社(服部嘉明)から概要を引用しておきます。

概要

第一部 審判の預言 1-32章
  1. 預言者エゼキエルの召命(序)1:1-3:27
    1. 序言 1:1-3
    2. 召命の幻(主の御座の車 1:4-28
    3. 召命のことば 2:1-3:11
    4. 預言者の姿勢(見張り人)3:12-27
  2. エルサレム審判の啓示 4:1-24:27
    1. 象徴的動作による啓示(その1)4:1-5:17
    2. 主の宣言による啓示(その1)6:1-7:27
    3. 幻によるユダの罪に関する啓示 8:1-11:25
    4. 象徴的動作による啓示(その2)12:1-25
    5. 主の宣言による啓示(その2)13:1-24:27
  3. 諸外国審判の啓示 25:1-32:32
    1. 近隣諸国に対して 25:1-17
    2. ツロとシドンに対して 26:1-28:26
    3. エジプトに対して 29:1-32:32
第二部 終末と希望の預言 33-48章
  1. エルサレムの終末 33:1-39:29
    1. エルサレムの見張り人 33:1-33
    2. エルサレムの牧舎 34:1-31
    3. エルサレムの悪友エドム 35:1-15
    4. エルサレムの回復の預言 36:1-37:28
    5. エルサレムの敵ゴグ 38:1-39:29
  2. エルサレムの希望 40:1-48
    1. 神殿の幻 40:1-42:20
    2. 主の栄光の帰還と祭壇の規定 43:1-27
    3. 神殿と礼拝の規定 44:1-46:24
    4. 生命の水 47:1-12
    5. 国の分割 47:13-48:35
皆さんは、このエゼキエルから何を学ばれるでしょうか。

2012.6.17
鈴木寛


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BRC no.66

今日6月24日エゼキエル書19章・20章です。

前回は、エゼキエル書の背景などを見、ひとつの区切りとして、第一部 審判の預言 1-32章、 第二部 終末と希望の預言 33-48章 の分け方を紹介しました。24章の最初には、バビロンの王がエルサレムを包囲したことが書かれ、33章21節には、エルサレムの町が破られたとの報せを聞いたことが書かれています。そのいみでも、33章に記されている知らせは捕囚の地にいたと思われる祭司エゼキエルにとって大きな転換の時だったことでしょう。自ら預言していたことが現実になったのですから。

今回は一つの気になったことばについて書いてみようと思います。それは「破れ口」ということばです。エゼキエル書には13章5節と22章30節の2回出てきます。新共同訳で検索すると、これだけですが、口語訳では、エゼキエル書以外に三箇所出てきます。列王記上11章27節、ヨブ記30章14節、詩編16篇23節。エルサレムが包囲され、最後、城壁が破れ、敗北するのですが、破れ口は城壁に囲まれた町を攻めるとき、または、守るときに鍵となるわけです。エゼキエルの時代にはとても重要な意味をもつことばだったでしょう。さて、エゼキエル書での二箇所を見てみましょう。今日は口語訳から引用します。

エゼキエル書13章5節
あなたがたは主の日に戦いに立つため、破れ口にのぼらず、またイスラエルの家のために石がきを築こうともしない。
13章は「イスラエルの預言者たちに向かって預言せよ。」ということばで始まります。イスラエルの預言者たちは「自分の心のままに預言する人々」「なにも見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者」「荒れ跡にいるきつねのようだ」とし、この5節のことばが続きます。17節には「心のままに預言するあなたの民の娘たち」に対しても語るように言われています。危機におよんで、ひどいひとたちがいた。と読むこともできますが、預言者は当時の教養人です。世の中を見る目を与えられたものと考えると、知識人とも取れます。教育をうけたものが、世の中を見て、自分勝手に考え、問題点をみつつも、その破れ口に立たないと非難しているようにとれます。預言者を神のことばに預かる者ととれば、聖書を神のことばとして読むものは、預言者だとも言えます。もう一箇所は22章です。
エゼキエル書 22章30節
わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。
この前の28節29節も引用してみましょう。
28:その預言者たちは、水しっくいでこれを塗り、偽りの幻を見、彼らに偽りを占い、主が語らないのに『主なる神はこう言われる』と言う。 29:国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。
この「水しっくい」は先ほどの13章10節-15節にも出てきますが、補強にはならないがちょっと見栄えはよくなるような修復です。破れ口に対して、本質的な改善はせず、自分たちがそこに立って敵を防ごうともせず、していることは29節だといっているわけです。もしかすると、単に、それを野放しにしているという意味かも知れません。

破れ口に立つ者。口語訳に出てくる、詩編のことばを見てみましょう。

詩篇106篇23節
それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは/破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。
民の不信、背徳に対し、モーセが取りなしのいのりを何回もしていますが、そのことを記しているのでしょう。 今の時代に戦争用語の「破れ口」はあまり実感がわかないかもしれません。しかし、そのような破れ口を見る目を与えられながら、水しっくいでそれを覆い隠そうとする、そのようなことは、わたしたちの周りにもたくさんあるような気がしてきます。

皆さんは、このエゼキエルから何を学ばれるでしょうか。

2012.6.22
鈴木寛


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BRC no.67

今日7月8日エゼキエル書47章・48章を読むと次はダニエル書に入ります。ダニエルについては、いくつかの物語を知っている人も多いのではないでしょうか。少しダニエル書について書いてみます。

日本語訳旧約聖書では、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書と大預言書が続き、ダニエル書をはさんで、十二小預言書と呼ばれるホセア書からマラキ書が並んでいます。ヘブル語訳聖書では、詩編、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記、ダニエル書、エズラ・ネヘミヤ記、歴代誌からなる「諸書(ケスビーム)」に属しています。また、七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳では、前の預言者(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)と後の預言者(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書)の間に置かれています。

読めばすぐ分かることですが、前半の6章はダニエルとその友人たちの物語、後の6章は預言となっています。

「聖書は何語で書かれていますか。」と聞かれると、ちょっと知っている人はすぐ「旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。」と答えられると思います。しかし、ちょっと勉強すると、実は、旧約聖書の中でダニエル書 2章4節後半~7章の終わりまではアラム語で書かれていると教えられます。しかし、どうして、この部分だけアラム語で書かれているかについての適切な説明は無いようです。

まずは、ダニエル書の最初1章1節から6節を見てみましょう。新共同訳です。

1:ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。
2:主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。
3:さて、ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、
4:体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。
5:王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。
6:この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。
1節のヨヤキムは(口語訳・新改訳では、エホヤキム)列王記下 23章26節、歴代志下36章5節に出てくる、南ユダ王国の王で、この王の治世に、エルサレムはネブカドネツァル(口語訳・新改訳では、ネブカデネザル)王に包囲され敗れ、一回目の捕囚となったのでした(BC597)。この時の少年たちのなかにいたのが「ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人」です。

ダニエルを聖書で調べると、ダニエル書以外にも登場します。歴代誌上3章1節にまずダビデの息子にダニエルが出てきますが、年代的にもまったく異なるので別人。エズラ記 8章2節、ネヘミヤ記 10章7節にも捕囚から帰還した祭司の中にダニエルがいます。わたしは、これを読んで、ダニエルは最後は、エルサレムに戻ることができたのだと思っていましたが、祭司は、レビ族ですし、ダニエル書を読んでも、どこにもダニエルが祭司であったことは書いてありませんし、上の6節にユダ族とはっきり書いてありますから、これも違います。次は、エゼキエルに三回出てきます。14章14節、20節と、28章3節 です。エゼキエル1章1, 2節を見ると、この一回目の捕囚の時25歳ぐらいとなりますから、ダニエルより年長ということになります。そう考えると、エゼキエル書にノア、ヨブと一緒に書かれていたり、特別の知者として登場するのはダニエル書のダニエルではないのでしょうか。気になります。

最後は、マタイによる福音書24章15節で、内容から言っても、ダニエル書のダニエルのようです。

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
ダニエル書1章21節には「ダニエルはキュロス王の元年まで仕えた。」とあり、ダニエル書10章1節には
ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。
とあります。これは、BC536年ですから、この期間、バビロンにいたということになります。 確定しないことばかり書いてしまいました。実は、ダニエル書については、よく分からないことが多いようです。ただ、読んでみるとなかなか興味をそそられる書です。物語も預言も圧倒的な存在観があります。疑問なども含めて、感想を分かち合えればと思います。

梗概 いのちのことば社「新聖書注解」山口昇

第一部 歴史的部分 1-6章

  1. ダニエルと三人の友人の教育 1:1-23
  2. 巨大な像の夢 2:1-40
  3. 金の像を拝むことを拒否する 3:1-30
  4. ネブカデネザルの病気 4:1-37
  5. ペルシャの祝宴 5:1-31
  6. ダリヨスの勅令 6:1-31
第二部 預言的部分 7-12章
  1. 四つの獣の幻 7:1-28
  2. 雄羊と雄やぎの幻 8:1-27
  3. 七十週の預言 9:1-27
  4. 神の幻 10:1-11:1
  5. 地上での戦い 11:2-45
  6. 終末に関する預言 12:1-13

2012.7.8
鈴木寛


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BRC no.68

今日は7月15日。きょうから、旧約聖書の最後にある十二小預言書に入ります。最初は、ホセア書です。

ホセア書は次のように始まります。(基本的に新共同訳から引用します。)

ホセア書 1章 1節      ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。
「ホセア」は「救う」といういみですが、ここにあるようにベエリの子ということ以外はわかりません。イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムは、ソロモン王のあとの分裂王国時代の北イスラエル王国の通常ヤロブアム二世(在位はBC793-753)と呼ばれる王の事です。ここに出てくる南ユダ王国の王ウジヤ(在位BC783-BC742)、ヨタム(在位BC742-BC735)、アハズ(在位BC735-BC715)、ヒゼキヤ(在位BC715-BC687)のアハズの時代のBC722に首都のサマリアが陥落、北イスラエル王国は、アッスリアに滅ぼされます。ヤロブアムのあともまだ北イスラエル王国はまだ6代つづきますから、この1節の記述をどのように理解するかも難しいですが、書かれている内容からすると、北イスラエル王国の滅亡の直前までが主要な活動時期でしょうか。南ユダ王国では、イザヤやミカという預言者が活動していた時代となります。

今回は、二つのことを書こうと思います。一つ目は、ホセアの結婚関係とこどもについてです。まず驚くのは、1章2節です。9節まで引用します。

2:主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」
3:彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。
4:主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名付けよ。間もなく、わたしはイエフの王家に/イズレエルにおける流血の罰を下し/イスラエルの家におけるその支配を絶つ。
5:その日が来ると/イズレエルの平野で/わたしはイスラエルの弓を折る。」
6:彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず/彼らを決して赦さないからだ。
7:だが、ユダの家には憐れみをかけ/彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い、馬、騎兵によって/救うのではない。」
8:彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
9:主は言われた。「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」
奥さんと三人のこどもが出てきます。今回新共同訳を選んだのは、名前の意味も括弧内に書いてあるからもあります。三人のこどもは、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミです。このあと2章をよめば勘のよいひとは分かると思いますが、「ロ」は否定です。名前としては酷すぎると思います。イズレエルは神は種を蒔くと言う意味ですからよいとして、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民でない者)。イズレエルは5節にも出てくるように、地名でもあります。5節にあるような戦いについては、歴史的な記録は無いようですが、イズレエルは、肥沃な土地で、メソポタミアから続く三日月型肥沃地帯と呼ばれる超えた土地のひとつの端で、北イスラエル王国に属する平地です。同時にカナン人の神(豊穣神)バアル信仰との戦いとして象徴的にでてくる場所でもあります。興味のある人は、列王紀上21章、列王紀下9章10章を読んでみて下さい。

おそらく鍵は、2節なのでしょう。「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』」背景は、これだけからはよく分かりませんが、おそらく、少なくともロ・ルハマ、ロ・アンミは、ホセアの子ではなく、ゴメルと他の男性との間の子だったのではないでしょうか。その大変な経験のなかで、ホセアは神の声を聞いたことが記されています。個人的チャレンジ「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。」と、背信の国へのメッセージです。「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」結婚関係についてはさらに衝撃的なことが3章に書かれていますが、今回はここまでとしておきます。

ホセアを読んでいると、よく分からないことがたくさんあります。かなりの混乱があるようにも思える。それは、わたしがよく読み込めていないこともあると思いますが、同時に、神のみこころが透明観をもって伝わってこない時代だったのではないかなとも思います。

コリントの信徒への手紙一 13章 9節
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
しかし、ホセアは、それでも力強くイスラエル王国に対して預言していきます。7節を見ると南ユダ王国にはまだ一部期待をしているようですが。

二つ目は、わたしの昔からの問いです。高校生の時に、教会の青年会の大学生が、ホセア書を題材に聖書研究会をしてくれ、そのときのタイトルが「神の沈黙」だったのです。6歳も上のおにいさん(信仰の先輩)の話しでしたから、じっと聞いていましたが、まったく分かりませんでした。ホセア書を読む度に、もう40年以上たちますが、その時のことを思い出し「神の沈黙」について考えます。「神を真剣に求めていると思っているのに、神様からなにも応答がないと思えるときについて」ということでしょうか。何も残っていないので分かりませんが、おそらく、5章、6章を学んでいたのだと思います。

ホセア書 5章 6節
彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが/見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。
彼らは、イスラエルとユダ、つまり全イスラエルです。羊と牛を携えてとは、礼拝のために、いけにえを献げることを意味しているのでしょう。「主は彼らを離れ去られた」と書かれています。裁きがこのあと書かれていますが、神自身がその罰を与えることが 12節から書かれ15節へと続きます。
ホセア書 5章 15節
わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。
これにつづく、6章の始めを引用してみましょう。
1:「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
2:二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。
3:我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」
4:エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。
5:それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。
6:わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。
エフライムはイスラエル12部族の一つですが、北イスラエル王国の代名詞のようにしても使われます。これを読むと、民は、真剣に神をもとめているようにも思われます。美しい信仰の表現もあります。しかしその締めくくりは、6節です。マタイによる福音書9章13節、12章7節で引用されていることばです。ホセアのメッセージ、みなさんは、どのように受け取られますか。ホセア書の最後のことばを最後に引用します。
ホセア書 14章 10節
     知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。
梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌
  1. 表題 1:1
  2. ホセアの体験 1:2-3:5
    1. 結婚生活 1:2-9
    2. 回復と更新 1:10-2:1
    3. 背信の民への罰 2:2-13
    4. あわれみによる回復 2:14-23
    5. 背いた者への愛 3:1-5
  3. 主の告発 4:1-7:16
    1. イスラエルの罪と罰 4:1-5:14
    2. 罪に満ちた国家 5:15-7:16
  4. 判決 8:1-10:15
    1. 律法違反に対して 8:1-3
    2. 偶像礼拝に対して 8:4-6
    3. 外国依存に対して 8:7-10
    4. 表面的な礼拝に対して 8:11-14
    5. 霊的堕落に対して 9:1-9
    6. 背信に対して 9:10-17
    7. ベテ・アベンの罪に対して 10:1-8
    8. ギブアの罪に対して 10:9-15
  5. 主の愛 11:1-11
    1. 主の愛と人の忘恩 11:1-4
    2. 背信の報い 11:5-7
    3. 主のあわれみによる回復 11:8-11
  6. 告発 11:12-12:14
    1. ヤコブからイスラエルへ 11:12-12:6
    2. イスラエルからカナンへ 12:7-14
  7. 判決 13:1-16
    1. 偶像崇拝に対して 13:1-8
    2. 神の救いの拒否に対して 13:9-16
  8. 主の愛 14:1-8
    1. 真の悔い改め 14:1-3
    2. 祝福 14:4-8
  9. 結語 14:9

2012.7.15
鈴木寛


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BRC no.69

今日は7月22日。今日からヨエル書に入ります。最初に少し書きましたが、実は翻訳によって章の数が異なるため、毎日二章ずつ読んでいるとどの翻訳を読んでいるかによって一時的に読む箇所が変わります。あまり気にしないで二章ずつ読み進んで下さい。新共同訳ではヨエル書が4章、口語訳や新改訳では3章です。ただ、旧約聖書の最後のマラキ書が今度は新共同訳が3章で、口語訳や新改訳は4章です。梗概を引用しているのは、新改訳に依拠していますから、ここからは旧約聖書の終わりまで口語訳を中心に引用することにします。章の区切りは、詩編を別にして、後代になってできたものですから、あまり意識しない方がよいのかもしれません。ヨエル書のつぎは、アモス書でこれは、9章、次はオバデヤ書で一章のみです。そこで、今回は、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書について簡単に書くことにします。

ヨエル書は次のように始まります。

ヨエル書 1章 1節
ペトエルの子ヨエルに臨んだ/主の言葉。
ヨエルは「ヤハウェは神」という意味ですが、ヨエルについてはヨエル書の内容からある程度推測できること以外は殆ど分かっていません。いつの時代のひとかも、職業も。

ヨエル書を読んでいると印象的なことばがあります。「主の日」という言葉です。検索してみましたら、口語訳では、1章15節,、2章1節、2章11節、3章14節と4回出てきました。「主の日」にはいろいろな解釈があると思いますが、一般的には「主がその主権的力をもって人間の歴史に介入される日」(鈴木昌「新聖書注解」より)でしょうか。神がイエスを復活させた日(週のはじめの日)を記念して主の日として日曜日に礼拝していることを考えると、毎週日曜日が主の日ですし、また、主のさばきの日、主の再臨の日を特別な主の日とよぶこともあるでしょう。安息日にいやしておられたイエスは非難に答えて「そこで、イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』」(ヨハネ5章17節)と言っていますから、基本的には、全てが主の日ですし「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」(詩篇118篇24節)と告白することを考えると、主の日はわたしたちが主を認める日なのかもしれません。「主の日」は他にイザヤ書2回、エレミヤ書1回、エゼキエル書2回、アモス書2回、オバデヤ書1回、ゼパニア書2回、ゼカリア書1回、新約聖書には、テサロニケ第1、テサロニケ第2、ペテロ第二、黙示録に1回ずつ出てきます。

その主の日について2章から引用します。

ヨエル書2章
11:主はその軍勢の前で声をあげられる。その軍隊は非常に多いからである。そのみ言葉をなし遂げる者は強い。主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。
12:主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
13:あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。

21:地よ恐るな、喜び楽しめ、主は大いなる事を行われたからである。

27:あなたがたはイスラエルのうちに/わたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。
28:その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
29:その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。
30:わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。
31:主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。
32:すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。

最後の部分は、使徒行伝 2章16節-21節に引用されている場所ですね。あなたにとっての主の日はどんな日でしょうか。

ヨエル書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. 災害と警告 1:2-2:17
    1. 未曾有の事件 1:2-4
    2. いなごによる荒廃 1:5-20
    3. いなごの来襲 2:1-11
    4. 悔い改めへの招き 2:12-17
  3. 回復の約束 2:18-27
    1. いなごの除去 2:18-20
    2. 農作物の回復 2:21-24
    3. 真の神の臨在 2:25-27
  4. (終末の)主の日 2:28-3:21
    1. 主の日のしるし 2:28-32
    2. 諸国民への審判 3:1-16a
    3. ユダへの祝福 3:16b-21

アモスは荷物・重荷という意味ですが、アモスについては、アモス書以外からの情報はありません。

アモス書は次のように始まります。

1:テコアの牧者のひとりであるアモスの言葉。これはユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の二年前に、彼がイスラエルについて示されたものである。
2:彼は言った、「主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる」。
3:主はこう言われる、「ダマスコの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが鉄のすり板で、ギレアデを踏みにじったからである。
1節には、テコアの牧者だと書かれています。7章にも
14:アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
15:主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
とあります。神殿などでも、集団の中でも専門的な訓練を受けた者ではないという意味なのでしょうね。時代は、ユダの王ウジヤ(治世は BC783 - BC742)の世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアム(BC786 - BC746)の世とありますから預言者イザヤが活躍した時代より少し前となります。最後に「地震の二年前」と書いてありますが、これはどのようなものかは不明なようです。ただ、BC760年に皆既日食があったことは分かるので、8章の次の箇所はそれを言っているのではないかと言われているそうです。
9:主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
1章の3節には、ダマスコのことが書かれています。これはいま正に混乱の中にある、シリアの首都ですが、世界で最も古い町の一つとされているところで、スリヤとも呼ばれていますが、イスラエルの北に接する隣国で、長い歴史の中では、殆どの期間、イスラエルより強い国だった所です。そこへの預言がまず語られています。

アモス書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 緒言 1:1-2
    1. 表題 1:1
    2. 主題 1:2
  2. 諸国に対する審判 1:3-2:16
    1. 外国に対して 1:3-2:3
    2. 神の民の国に対して 2:4-16
  3. イスラエルに対する審判 3:1-6:14
    1. 特権と責任 3:1-15
    2. イスラエルの退廃 4:1-13
    3. 勧告と宣告 5:1-6:14
  4. 幻による啓示 7:1-9:10
    1. さばきの幻 7:1-9
    2. アモスと祭司アマジヤ 7:10-17
    3. 決定的なさばき 8:1-14
    4. 切迫したさばき 9:1-10
  5. 回復の希望 9:11-15
    1. 王国の回復 9:11-12
    2. 繁栄と平和の回復 9:13-15

オバデヤは、「ヤハウェのしもべ」という意味で、一章だけからなっています。次のように始まっています。

1:オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。
エドムは、創世記36章の記事からエソウの子孫のことを指すと言われています。高校生のころ、旧約聖書の聖書研究をすることになって、わたしは、一番短いオバデヤをじっくり読んでみようと思ったのですが、なんとも分からず、特にこのエドムに対する厳しさが受け入れられず、本当に困ったことを思い出します。

オバデヤ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1
  2. エドム滅亡の預言 2-9
    1. 高慢に対する罰 2-4
    2. 完全な荒廃 5-9
  3. エドム滅亡の理由 10-14
    1. ヤコブへの暴虐 10-11
    2. ユダへの敵対行為 12-14
  4. 主の日 15-21
    1. 全世界のさばきの日 15-16
    2. ヤコブの回復 17-21
ヨエル書について長く書いてしまいましたから、今回はこのへんまでとしましょう。旧約聖書もあと少しですね。昨年のはじめから読み始めている人は、聖書を1回通読まであと少し、完全には続かなかった方も、次の新約の二回目からまた続けて読めるよう、また読み始めてみてはいかがですか。

2012.7.22
鈴木寛


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BRC no.70

今日は7月29日。新共同訳を読んでいる人は、オバデヤ書と、ヨナ書1章、口語訳、新改訳を読んでいる人はヨナ書1章、2章です。今回は、ヨナ書・ミカ書・ナホム書・ハバクク書・ゼパニア書について少しずつ書いてきます。

ヨナ書を実際に読んではいなくても、ヨナの話しを知っている人は何人もいるのではないでしょうか。 ヨナ(鳩という意味)書1章は、次のように始まります。今回も引用は口語訳からとします。

1:主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、
2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
3:しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。
4:時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。
ヨナは旧約聖書にはもう一度、列王紀下14章25節に現れます。

彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。

新約聖書のマタイによる福音書16章17節にイエスは弟子のペテロ(ニックネーム)に「バルヨナ・シモン」と呼びかけていますが、おそらく「ヨナの子、シモン」という言い方だと思われますから、ペテロのお父さんもヨナさんだったと思われます。上の聖書の箇所では、「アミッタイの子」預言者ヨナとありますから、おそらく、列王紀にあらわれるヨナとヨナ書のヨナは同一人物、または同一人物を想定して書かれたと考えられます。すると列王紀下14章25節の最初に現れる「彼」は北イスラエル王国のヤラベアム二世で、信仰的な王様ではなかったようですが、領土を回復し北イスラエル王国に繁栄をもたらせた王で、上の箇所は、その領土回復をヨナは預言したということになります。

上に引用した記述のあとヨナは嵐は自分のせいだと申し出て海に投げ込まれます。ヨナ書1章17節には

主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。
このことは、あとで新約聖書(マタイによる福音書12:39-41, マタイによる福音書16:4、ルカによる福音書11:29-32)でイエスの死と復活と関連させて引用されています。まずは、ヨナ書を読んでみて下さい。ヨナ書は次のように終わっています。4章11節です。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
ここからヨナ書の主題は「狭量な民族主義に反対した普遍主義」とする見方もあります。さて、みなさんは、どのようなメッセージをヨナ書から読み取られるでしょうか。

ヨナ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 序言 1:1
  2. 逃避の預言者 1:2-17
    1. 召命 1:2
    2. 逃避 1:3
    3. 海難 1:4-6
    4. 糾明 1:7-10
    5. 対策 1:11-13
    6. 投入 1:14-16
    7. 助命 1:17
  3. 祈りの預言者 2:1-9
    1. 危難 2:1-6
    2. 賛美 2:7-9
  4. 服従の預言者 2:10-3:10
    1. 救助 2:10
    2. 命令 3:1-2
    3. 告知 3:3-4
    4. 改悛 3:5-9
    5. 憐憫 3:10
  5. 不満の預言者 4:1-11
    1. 苦情 4:1-4
    2. 慰安 4:5-6
    3. 絶望 4:7-9
    4. 訓戒 4:10-11
ミカ書1章 1節には次のようにあります。
ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。
ユダの王、ヨタム (BC742-BC735)、アハズ (BC735-BC715)、ヒゼキヤ (BC715-687) の時代とありますから、アモス、イザヤとほぼ同時代ということになります。慷慨を引用している「新聖書注解」には「アモス、ホセアと同様に北イスラエル王国イスラエルの首都サマリアの滅亡を預言し、またアモスのように底辺に住む民衆への圧迫や社会不正を糾弾、イザヤが上流階級、指導者層の外政面について預言したのに対し、ミカは、指導者層の内政の腐敗、民衆の宗教面について預言した」(鈴木昌)と書かれています。エレミヤは少し後の時代ですが、ミカについては、エレミヤ書26章18節には次のような記述があります。
「ユダの王ヒゼキヤの世に、モレシテびとミカはユダのすべての民に預言して言った、『万軍の主はこう仰せられる、シオンは畑のように耕され、エルサレムは石塚となり、宮の山は木のおい茂る高い所となる』。
ミカ書1章 9節には、
サマリヤの傷はいやすことのできないもので、ユダまでひろがり、わが民の門、エルサレムまで及んでいる。
とありますが、これがミカの看た世界、そして4章10節などで、捕囚を預言します。
シオンの娘よ、産婦のように苦しんでうめけ。あなたは今、町を出て野にやどり、バビロンに行かなければならない。その所であなたは救われる。主はその所であなたを敵の手からあがなわれる。
その上で、ミカは人々に悔い改めを迫ります。単純ですが、わたしの好きな箇所でもあります。6章8節です。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ書は5章2節にベツレヘムがイスラエルを治める者の出る所と書かれていることがマタイによる福音書に引用されていることでも知られていますね。

ミカ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. ユダとイスラエルに対する神も審判 1:2-2:11
    1. 審判者の来臨 1:2-4
    2. イスラエルに対するさばき 1:5-7
    3. ユダに対するさばき 1:8-16
    4. 富者の罪と罰 2:1-11
  3. 残りの者への約束 2:12-13
  4. 指導者の罪 3:1-12
    1. 為政者 3:1-4
    2. 預言者 3:5-8
    3. 為政者、預言者、祭司 3:9-11
    4. エルサレム滅亡の預言 3:12
  5. 神の栄光の王国 4:1-5:15
    1. 王国の状況 4:1-5
    2. 神の民の結集 4:4-8
    3. 神の計画 4:9-13
    4. メシヤの来臨 5:1-15
  6. イスラエルへの主の論争 6:1-9:6
    1. 神の民の告発 6:1-5
    2. 応答 6:6-8
    3. 不正の告発 6:9-12
    4. 刑罰 6:13-16
    5. 失望の叫び 7:1-6
  7. 主による勝利 7:7-20
    1. 信頼と回復 7:7-10
    2. 繁栄の約束 7:11-13
    3. 回復への祈り 7:14-17
    4. 賛美の歌 7:18-20
ナホム、ハバクク、ゼパニアは、南ユダ王国の王ヒゼキヤ (BC715-BC687)のあとの時代、マナセ (BC687-BC642) から、アモン (BC642-BC640)、ヨシヤ (BC640-BC609)、エホアハズ (BC609) の時代の預言者です。ヒゼキヤの時代は、アッシリアに攻め込まれ、奇跡的に救われた訳ですが、貢ぎ物をアッシリアにおさめていた関係もあるのでしょう、アッシリアの神々の礼拝も多くなり、マナセ時代は、信仰的にはかなり難しい状況となります。同時にその後、アッシリアは衰退していきます。ヨシアはこのような時期に宗教改革を行いますが、儀式的な礼拝の整備で終わってしまったのかも知れません。エホアハズはエジプト王ネコによって退位させられますが、新しく興った新バビロニアに攻め込まれ、このあと エホヤキム(BC609-BC598) のあと、エホヤキン (BC598) の時に一回目のバビロン捕囚 、そしてその次のゼデキヤ (BC597-BC587) の時代についに南ユダ王国も滅亡します。

ナホム(語源ナーハムは、同情する、慰める、悲しむ、悔い改めるの意)は次のように始まります。1章1節から3節です。

1:ニネベについての託宣。エルコシびとナホムの幻の書。
2:主はねたみ、かつあだを報いる神、主はあだを報いる者、また憤る者、主はおのがあだに報復し、おのが敵に対して憤りをいだく。
3:主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。
ニネベはアッシリアの首都ですから、ニネベへの裁きを語っています。復讐する神ですね。

ナホム書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. 復讐し、さばく神 1:2-11
  3. ユダへの慰めのことば 1:12-2:2
  4. ニネベへの包囲と攻撃 2:3-6
  5. 逃亡、略奪 2:7-10
  6. アッシリアの罪と滅亡 2:11-13
  7. 遊女ニネベの罪と罰 3:1-7
  8. ニネベへの挽歌 3:8-19

ハバククの最初は「預言者ハバククが見た神の託宣。」だけ書かれていて殆ど内容を含んでいません。2章1節から4節を引用します。

1:わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて/わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
2:主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
3:この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
4:見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
みなさんは、いま、見張り所(ものみやぐら)から何を見ますか。そしてどのような神様の声を聞きますか。「義人はその信仰によって生きる。」とはどのような意味でしょうか。

ハバクク書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. 神への問いかけ(その1)
  3. 神の答え(その1)
  4. 神への問いかけ(その2)
  5. 神の答え(その2)
  6. 高慢、暴虐な者に対するわざわい(滅亡)の宣告 2:5-20
  7. ハバククの祈り 3:1-2
  8. さばきの神の顕現 3:3-15
  9. ハバククの反応、信仰の賛美 3:16-19

下のことばはゼパニア1章1節です。

ユダの王アモンの子ヨシヤの世に、ゼパニヤに臨んだ主の言葉。ゼパニヤはクシの子、クシはゲダリヤの子、ゲダリヤはアマリヤの子、アマリヤはヒゼキヤの子である。
このヒゼキヤがヒゼキヤ王かどうかは不明ですが、時代的にはあってはいますね。ヨシアの時代、宗教改革も行われいますが、ゼパニアが預言したのは、エルサレムとユダの滅亡でした。

ゼパニア書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

  1. 表題と系図 1:1
  2. エルサレムへの預言 1:2-2:3
    1. 不従順な者の刑罰 1:2-6
    2. 支配階級の処罰 1:7-9
    3. エルサレムの災厄 1:10-13
    4. 主の日の悲惨 1:14-18
    5. 悔い改めの勧告 2:1-3
  3. 周辺諸国の滅亡とユダへの警告 2:4-3:8
    1. ペリシテ滅亡の預言 2:4-7
    2. モアブ、アモン滅亡の預言 2:8-11
    3. アッシリヤ滅亡の預言 2:12-15
    4. エルサレムの堕落 3:1-5
    5. さばきの日の避けがたき 3:6-8
  4. 主の日における救い 3:9-20
    1. 諸国民の回心 3:9-10
    2. イスラエルの残りの者 3:11-13
    3. 救いの日の歓喜と主の愛 3:14-17
    4. 神の民の回復の日 3;18-20
少し長くなってしまいました。旧約聖書もあと少しですね。続かなくなってしまったひともいるかと思いますが、ヨナ書などをじっくりと読んでみてはいかがでしょうか。自分に問いを持ちながら。

2012.7.29
鈴木寛


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BRC no.71

旧約聖書もあと少しですね。今日は8月5日、新共同訳を読んでいるかたはハバクク書1,2章、口語訳か新改訳を読んでいる方はハバクク書2,3章です。このあと、ゼパニア書そして、ハガイ書・ゼカリア書・マラキ書です。予定では8月17日に読み終わります。

少し背景となる歴史の復習をしましょう。ダビデ王、ソロモン王のあと、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂したイスラエルは、まず、BC722年にアッシリアによって、北イスラエル王国が滅ぼされます。どうやら持ちこたえた南ユダ王国も、アッシリアを滅ぼしたバビロニア(日本では通常新バビロニア王国と呼ばれる)のネブカデネザルの攻撃によって、BC587年にエルサレム落城、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚となります。

ネブカデネザルのもとで王国を拡大していったバビロニアもBC662にネブカデネザルが死ぬと急速に衰退し、BC539年クロスが率いる新興国ペルシャに敗北し、滅亡していきます。クロス(在位BC538-BC530)はその治世の第一年、被征服諸国に対する寛大な政策の一部として、ユダヤ人に帰国を許し、神殿の再建を許可します。エズラ記の1章2節から4節には次のように書かれています。引用は今回も口語訳とします。

1:ペルシャ王クロスの元年に、主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動されたので、王は全国に布告を発し、また詔書をもって告げて言った、
2:「ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。
3:あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である。
4:すべて生き残って、どこに宿っている者でも、その所の人々は金、銀、貨財、家畜をもって助け、そのほかにまたエルサレムにある神の宮のために真心よりの供え物をささげよ」。
セシバザルをリーダーとして、エズラ記2章64,65節によれば約50000人がエルサレムに戻ります。

クロスのあと、カンビュセス王は、BC525年エジプトを征服 、BC522年、バビロンを離れている間に、ガウマダが王位を奪い、カンビュセスは自殺、その後、臣下のダリヨスがガウマダを破り即位、最初の二年ほどは、周囲の鎮圧に精力を使ったようです。(いのちのことば社「新聖書注解」など)

ハガイ、ゼカリヤは共に、このダリヨス王の二年に預言を開始しています。エズラ記、ネヘミヤ記を読むと当時の問題についてもある程度理解できると思います。

少し長いですが、ハガイ書1章を引用してみます。

1:ダリヨス王の二年六月、その月の一日に、主の言葉が預言者ハガイによって、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベル、およびヨザダクの子、大祭司ヨシュアに臨んだ、
2:「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」。
3:そこで、主の言葉はまた預言者ハガイに臨んだ、
4:「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。
5:それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。
6:あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
7:万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。
8:山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
9:あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
10:それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。
11:また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。
12:そこで、シャルテルの子ゼルバベルとヨザダクの子、大祭司ヨシュアおよび残りのすべての民は、その神、主の声と、その神、主のつかわされた預言者ハガイの言葉とに聞きしたがい、そして民は、主の前に恐れかしこんだ。
13:時に、主の使者ハガイは主の命令により、民に告げて言った、「わたしはあなたがたと共にいると主は言われる」。
14:そして主は、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、ヨザダクの子、大祭司ヨシュアの心、および残りのすべての民の心を、振り動かされたので、彼らは来て、その神、万軍の主の家の作業にとりかかった。
15:これは六月二十四日のことであった。
最初に書いた歴史的背景とこの1章を読むと大体背景が分かると思います。ダリヨス王の第2年はBC520年。この6月とあります。第2章は7月とあります。神殿が破壊され、神殿さえあればと願った民でしたが、いろいろな妨害や貧困などあらゆる困難のなかで、神殿どころではないと考えるようになっていたのかも知れません。このような時期に、「主の使者」(13節)ハガイが神殿の再建を鼓舞したことが書かれています。

ハガイ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

  1. 第一のメッセージとその結果 1:1-15
    1. 民の怠慢とその結果の指摘 1:1-6
    2. 建築再開の命令 1:7-11
    3. 預言に対する応答と神の励まし 1:12-15
  2. 第二のメッセージ、新しい神殿と未来の栄光 2:1-9
    1. 工事への激励 2:1-5
    2. 神殿の未来の栄光 2:6-9
  3. 第三のメッセージ 2:10-19
    1. 聖と汚れについて 3:10-14
    2. 今日から後 2:15-19
  4. 第四のメッセージ、ゼルバベルの選びと主の日 2:20-23

ゼカリヤ書1章はつぎのように始まります。

1:ダリヨスの第二年の八月に、主の言葉がイドの子ベレキヤの子である預言者ゼカリヤに臨んだ、
2:「主はあなたがたの先祖たちに対して、いたくお怒りになった。
3:それゆえ、万軍の主はこう仰せられると、彼らに告げよ。万軍の主は仰せられる、わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰ろうと、万軍の主は仰せられる。
ゼカリヤは、神殿再建のみを語ったハガイと比較するともう少し広く、かつ長い期間活動し、最後14章では、主の日が来ると、その日のことを預言しています。ハガイ、ゼカリヤの時代の人たちはどのような問題をかかえ、どのような信仰的チャレンジを経験していたのでしょうか。

ゼカリヤ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

第一部 同時代へのメッセージ 1-8章

  1. 悔い改めの勧告 1:1-6
  2. 八つのビジョン 1:7-6:8
    1. 神の巡察使たち 1:7-17
    2. 四つの角と四人の職人 1:18-21
    3. エルサレムの未来の栄光 2:1-13 燭台と尽きない油 4:1-14
    4. 空飛ぶのろい 5:1-4
    5. エパ枡の中の罪悪 5:5-11
    6. 主の遠征隊 6:1-8
  3. 象徴としての戴冠 6:9-15
  4. 新時代の曙光 7:1-8:23
    1. 質問のための使節 7:1-3
    2. 断食の目的 7:4-7
    3. 真の断食 7:8-14
    4. 神の真実 8:1-17
    5. 質問への答え 8:18-23
第二部 未来に関するメッセージ 9-14章
  1. 王なるメシヤ 9:1-11:17
    1. 王の勝利 9:1-17
    2. 牧者なき時代の終わり 10:1-12
    3. 二種の牧者の対決 11:1-17
  2. 主の日 12:1-14:21
    1. エルサレムの回復 12:1-13:6
    2. 打たれる牧者 13:7-9
    3. 大艱難と主の介入 14:1-15
    4. 救いの完成 14:16-21

神殿は、BC515年に完成します。マラキはその後の時代であることは確かですが、明確には分かりません。 マラキで扱っている問題からエズラ記、ネヘミヤ記よりも前だと判断すると、BC460-440年頃となります。

マラキ書は文体がとても印象的です。神と民との対話形式になっているのです。少し引用してみます。

マラキ書1章2,3節
2:主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、
3:エサウを憎んだ。かつ、わたしは彼の山地を荒し、その嗣業を荒野の山犬に与えた」。
マラキ書2章17節
あなたがたは言葉をもって主を煩わした。しかしあなたがたは言う、「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」。それはあなたがたが「すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる」と言い、また「さばきを行う神はどこにあるか」と言うからである。
マラキ書3章 8節
人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
マラキ書3章13,14節
13:主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。
14:あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
このような問いはいろいろなことを考えさせられますね。

さて、3章の1節には「わが使者」(ヘブル語では、マルアーキー)ということばが出てきます。道を整える使者です。それは、エズラ、ネヘミヤの改革の道ぞなえの意味もあったかも知れませんが、もう少し他のことも含まれているかも知れませんね。

マラキ書3章1節
「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
最後にマラキの最後、日本語訳では、旧約聖書の最後のことばとなる、次のことばを引用します。
マラキ書4章4節-6節(新共同訳では3章22節ー24節)
4:あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。
5:見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
6:彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
マラキ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄
  1. 表題 1:1
  2. 神の愛の問題を巡って 1:2-2:16
    1. 問題提示 1:2
    2. 回答=神の愛の証明 1:2-5
    3. 契約関係崩壊に対する警告 1:6-2:16
  3. 神の公義の問題を巡って 2:17-3:12
    1. 問題提示 2:17
    2. 回答=公義実現の確実さ 3:1-5
    3. 祝福阻止の原因 3:6-12
  4. 敬虔の有益さの問題を巡って 3:13-4:3
    1. 問題提示 3:13-15
    2. 回答=敬虔者への約束 3:16-18
    3. 主の日 4:1-3
  5. 結語 4:4-6

みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.8.5
鈴木寛


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BRC no.72

新約聖書を読み始めましたか。今日は8月19日、予定ではマタイによる福音書4章・5章です。2011年から通読を一緒にしている人は、二回目の新約聖書通読となります。前回の通読の時には、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書についてなどについて書きました。
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011s.html#no.28
最近、ジョナサン・マゴネット、小林洋一編「ラビの聖書解釈 - ユダヤ教とキリスト教の対話 -」を読みました。ラビとはユダヤ教の教師の事ですが、ジョナサン・マゴネットは、ロンドンにある(進歩的な)ラビの学校レオ・ベック大学で学び、学長までされたラビの先生です。ご存じのように、キリスト教は、イエスの時代はもちろん、初代教会時代も、ユダヤ教の中の信仰でした。ともに旧約聖書を土台としています。イエスの時代といっても、福音書に描かれている時代といっても良いですが、そのときの聖書はもちろん、旧約聖書です。中でもマタイによる福音書は、特に、その旧約聖書の預言の成就、または、旧約聖書との関係を重視して書かれた福音書でもあります。しかし、同時に、旧約聖書には、明確に記述されていないことが、イエスのメッセージや、教え、行動によって表現されている、少なくとも明らかにされていることも確かでしょう。

新約聖書を読んでいると、ユダヤ教を、イエスが批判している、ファリサイ派や、サドカイ派の宗教として見てしまいがちですが、キリスト教もそのあと、いろいろの歴史を経て神学が構築され、かついくつもの派に分かれていったように、ユダヤ教も様々な歴史を経験し、キリスト教にも応答する機会を持ち、かついくつもの派に分かれている、この本を読んで、現代のユダヤ教との対話に開かれていくことが大切だなと強く感じています。

実は、イスラム教も旧約聖書、新約聖書を啓示の書としていますが、扱いはユダヤ教やキリスト教とはすこし異なっています。ユダヤ教とは、旧約聖書を介しての理解について語り合うことは、十分できますが、イスラム教との間でその基盤を持つことは難しいようですね。むろんそれでも、対話は是非必要ですが。印象的な言葉を一組だけ引用しておきます。

「すべての真正な生き方は出会いであり対話である。」(M.ブーバー)
「すべての真正な宗教的生き方は危険を冒すものである。」(J.マゴネット)
皆さんは、いま、新約聖書を読み始めました。まずは、イエスが、何を語り、どのように教え、行動し、一人一人と接したか、いままでちょっと知っていることにとらわれず、聖書自体から、読み取っていただきたいと思います。そしてここで語られている、イエスと出会い、イエスをはじめ出てくる人たちと対話をしてほしいと思います。もしかすると自分の価値観が揺さぶられるかもしれませんが。

マタイによる福音書4章17節に次の言葉が出てきます。

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
これは、3章の3節にあるバプテスマのヨハネといわれている、ヨハネのメッセージと全く同じです。ヨハネのメッセージの内容については、詳細までは分かりませんが、イエスのメッセージについては、まず、5章から7章のまとめられています。山の上で語られたので、山上の説教とか山上の垂訓などと言われています。イエスが言った、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とはどういう意味なのか、まずは、5章から7章の教えの中で、そしてその後に書かれている、イエスのなした事によって、考えてみてください。

梗概を引用していますが、むろん、いろいろなまとめ方があります。一般的に、単なる時系列で書いているのではなく、あるまとまりをもって書いていることは確かですから、みなさんも、ここでは、何を言っているのだろうかと考えながら読んでいけるとよいと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」増田誉雄

梗概

メシヤの福音

  1. メシヤの準備 1:1-4:11
  2. メシヤの宣教開始 4:12-25
  3. メシヤの倫理 5:1-7:29
  4. メシヤの力 8:1-9:38
  5. メシヤの働きの拡大 10:1-25:39
  6. メシヤの受難準備 16:1-17:27
  7. メシヤの教会 18:1-20:34
  8. メシヤの受難の週 21:1-25:46
  9. メシヤの十字架 26:1-27:66
  10. メシヤの復活 28:1-20
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.8.19
鈴木寛


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BRC no.73

新約聖書を読み始めましたか。今日は8月26日、予定ではマタイによる福音書18章・19章です。

マタイによる福音書は、ギリシャ語聖書には、マタイによる(カタ マタイオン)と記されています。2世紀の記録であるパピアスの「断片集」2.15 (http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html) には次のようにあります。

 「ところでマッタイオスは、ヘブル語で〔イエスの〕語録(logia)を編集し、これをそれぞれのひとが可能な仕方で翻訳した」。
これによるとマタイが記録したイエスの語録集があったようで、それを複数の人がギリシャ語に翻訳したとあります。マタイによる福音書は、それがまとめられたものなのかも知れません。さてマタイとは「主の賜物」といういみで、マタイによる福音書には、2回出てきます。一箇所は12使徒の名前が記されている箇所 10章2節から4節です。新共同訳で引用します。
2:十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
3:フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
4:熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
ここに「徴税人マタイ」と記されています。もう一箇所は、9章9節です。13節まで引用します。
9:イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
10:イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
11:ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12:イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
13:『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
対応するルカによる福音書5章27節には「レビという徴税人」となっています。本来の名前はレビで、ニックネームとして「主の賜物」とつけられたのかも知れません。もしこのレビがレビ族に属することをも意味しているとすると、代々神殿に仕える仕事をするような家に育ったことになります。当時ローマに統治下にあり、税金を納めていました。マタイのいた、ガリラヤ湖畔の町カファルナウム(カペナウム)にも税関があったとの記録がありますから、ローマに委託されて税金を集めていた一人ということになります。ユダヤ人からは、異教徒の手先とみられ、異教徒との交流が多いことからも、汚れた仕事とされていました。しかし、一方ローマ人からは信頼され、教養もある程度ないとできない仕事で、ローマという大きな権力を後ろ盾にもつ請負であったため、かなりの利益を得、お金持ちだったようです。詳細は、不明ですが、そのようなマタイが、「わたしに従いなさい」とイエスに言われ、立ち上がってイエスに従いました。職を失ったことはほぼ確実でしょう。それでも、マタイのことを人は10:3のように「徴税人マタイ」と呼んでいました。マタイでは明かではありませんが、ルカによるとマタイがイエスのために宴会を催したと書いてあります。上の箇所は、そのような宴会での出来事です。
ひとくせもふたくせもあるような人たちが、そこにたくさんいたようです。最後に引用されているのは、わたしも BRC no.68 で引用したホセア書6章6節です。なぜ、イエスは、このような引用をされたのでしょうか。みなさんは、この宴会から、どのような印象を受けられるでしょうか。
8月31日の通読箇所はマタイによる福音書28章とマルコによる福音書1章ですから、今週中にマルコに入ります。最後に少しマルコによる福音書についてかいておきます。基本的なことは、BRC no.30に書きましたので、見ていただければ幸いです。

通読は、それなりに、進みますが、それでも、たとえば、福音書の場合、イエスの生涯のどのあたりにいるのかが分からず読み進めることもあります。梗概を記していますが、それは、全体の流れの中で、通読箇所の位置づけを大体でよいですから、把握して読んでいただきたいからです。もちろん、分け方はいろいろとあり、マルコによる福音書も BRC no.30 で引用した「パピアス断片集」にあるように「順序立ててではない」とありますから、Chronological Order だとして読むことにも注意が必要ですが。

いのちのことば社「新聖書注解」山口昇

梗概

メシヤの福音

  1. 準備期間 1:1-13
    1. 表題 1:1
    2. バプテスマのヨハネの出現 1:2-8
    3. イエスの受洗 1:9-11
    4. 荒野の誘惑 1:12,13
  2. 初期の伝道 1:14-3:6
    1. 伝道活動の開始 1:14-45
    2. 学者たちの論争 2:1-3:6
  3. 伝道の最盛期 3:7-8:30
    1. イエスに対する誤解 3:7-8:30
    2. たとえによる教え 4:1-34
    3. いろいろな奇蹟 4:35-5:43
    4. ガリラヤ湖周辺での伝道活動 6:1-56
    5. 神の戒めと人の言い伝え 7:1-23
    6. いろいろな地方での伝道活動 7:24-8:30
  4. 十字架を目ざして 8:31-10:52
    1. 苦難の第一回目の予告 8:31-9:29
    2. 苦難の第二回目の予告 9:30-50
    3. 苦難の第三回目の予告 10:1-52
  5. エルサレムでの活動 11:1-13:37
    1. エルサレムに入る 11:1-25
    2. エルサレムでの教えと論争 11:27-12:44
    3. 終末についての講話 13:1-37
  6. イエスの受難物語 14:1-15:47
    1. 最後の晩餐 14:1-25
    2. ゲッセマネから逮捕まで 14:22-52
    3. 裁判から埋葬まで 14:53-15:47
  7. イエスの復活 16:1-8
  8. 末尾の補足 16:9-20
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.8.26
鈴木寛


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BRC no.74

今日は9月2日、マルコによる福音書4章・5章です。

マルコによる福音書は話しの展開も軽快で、たとえば「すぐ」「すぐに」ということばだけても、新共同訳で調べても31回あらわれます。口語訳ではさらに多くなっています。BRC no.30 で引用したパピアスの断片集から判断すると、イエスの弟子であるペテロの通訳としてペテロが語ったことを記録したようですから、語り口調で書かれているのかもしれません。マルコによる福音書1章でも、21節から34節まで一続きの一日のこととして記されています。ある一日が眼前によみがえる効果もあるのかもしれません。

前回マルコによる福音書「梗概」を引用しましたが、それを見てみても、全体16章のうち、11章からの6章が最後の1週間にかけられています。8章の終わりで、エルサレムでの受難のことが語られ、それからは、エルサレムへの道であることが強調されていますから、ほぼ半分が十字架への最後の数週間についてかかれているともとれます。その起点を、8章27節とすると、ピリポ・カイザリアというガリラヤよりかなり北の町での出来事です。27節から33節まで口語訳で引用します。

27:さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
28:彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
29:そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
30:するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
31:それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
32:しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
皆さんは、どのようなことを考え、感じながら、福音書を読んでおられるでしょうか。

9月8日の通読箇所はマルコによる福音書16章とルカによる福音書1章ですから、今週中にルカに入ります。著者のルカについては、BRC no.31 に書きましたので、見ていただければ幸いです。

新約聖書の最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書(共感と書く人もいます Synoptic Gospel)と呼ばれ、共通の記事がたくさんあふれています。BRC no.28 に書いたように、現在では、マルコが最初にかかれ、マタイとルカは、マルコの流れを基盤として他の独自資料をもとに編集したと言われていますが、同じ記事または似た記事を比較してみると、取り上げる場所・背景が違っていたり、強調点が違ったり、新たなことが付け加えられていたり、修正されていたりしていることにも気づきます。通読で比較して読むことは時間の関係でなかなかできませんが、それぞれの箇所が簡単に行き来できるとよいと思うことも多いと思います。聖書には、対応箇所が見出しと共に書かれていたり、引照箇所が記されているものもあり、助けとなりますが、対照表があるのも便利です。わたしが主催している聖書の会では、下の Life of Christ サイトの Gospel Harmony を参照しています。個人的には、よくまとまっていると思います。キリスト教の牧師や宣教師になる勉強をする神学校にいくと、この対応表を自分で作成することがよく課題とされます。この対応についての本もたくさん出版されているぐらいですから、自分で作成しようとしてみるとなかなか大変であることも分かりますよ。

Life of Christ (http://www.lifeofchrist.com)
このサイトには、他にも、奇蹟や、たとえ、イエスの説教などについてまとめた表も掲載されています。最後に、ルカによる福音書の梗概を引用します。

いのちのことば社「新聖書注解」榊原康夫

梗概

  1. 序文 1:1-4
  2. イエスのメシヤ性と職務 1:5-9:50
    1. メシヤ時代の夜明け 1:5-2:40
    2. メシヤ職への就任 2:41-4:30
    3. ガリラヤ巡回伝道・メシヤのわざ 4:31-9:50
  3. メシヤの教え 9:51-19:44
    1. 神の国の指針の意味と受容 9:51-10:42
    2. メシヤの教え・御国とその力 11:1-13
    3. メシヤの教え・御国と審判 12:35-13:21
    4. メシヤの教え・御国に入る者 13:22-16:13
    5. メシヤの教え・御国の到来 16:14-18:14
    6. エルサレムへの道・御子たる道と捨てられる王 18:15-19:44
  4. メシヤ職の完成 19:45-24:53
    1. メシヤと神殿 19:45-21:38
    2. メシヤの死の宣告 22:1-23:25
    3. メシヤの栄光化 23:26-24:53
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.9.2
鈴木寛


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BRC no.75

今日は9月9日、ルカによる福音書2章・3章です。ルカによる福音書については、BRC no.31, 32, 74 を参照してください。

わたしは、この BRC サポートレターを書くこともあるので、みなんより少し先を読むように心がけています。今回は、6章12節から7章1節から今回の通読でわたしがどのようなことを感じながら読んでいるかも含めて書こうと思います。わたしは、今回の通読は口語訳を使っていますが、以下の引用は主として新共同訳とします。

前にも書きましたが、章の区切りは後代のもので、記者がつけたものではありませんし、キリスト教全体の会議で決まったものでもありませんから、区切り方は、読みながら考えてくださればよいと思います。とはいいつつ、やはり章の区切りは便利ですから、通読では一日2章としていますが。

今回選んだ区切りの最後の7章1節には次のようには書かれています。

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
カファルナウム(口語訳などではカペナウム)は、ガリラヤという地方にあるガリラヤ湖の北の湖畔にある町で、イエスが宣教の拠点とした町で、わかっているだけでも、14節から16節で「使徒」と呼んでいる12人の弟子たちのうち「イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ」「マタイ」は、この町の出身または、この町の周辺の地を拠点として働いていた人たちです。この節では「民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから」とあります。そのイエスの説教、おそらく記録されているのは一部でしょうが、それが、20節から49節に書かれています。「すべて」(口語訳では「ことごとく」)は強調している印象をうけますね。イエスの中心的説教と言ってもよいと思います。書かれていることは、マタイによる福音書5章から7章の通常「山上の垂訓」とか「山の上の説教」と言われているものと、共通の言葉が多いので、おそらく、何度もイエスはこのようなメッセージをしたのだと思いますが、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とあるので、マタイによる福音書の記事と対比して「平地の説教」などとも言われます。

12, 13節を見てみましょう。 12:そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
13:朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。 徹夜で祈りこの12人を選んだことが書かれています。使徒言行録もルカが書いていますから、その1章にあるリストとは同じですが、他の福音書にあるリストとは多少名前が違っていますが、ニックネームや、ヘブル語・アラム語の名前と、ギリシャ語の名前とを両方持っていた人も多いようですから、12人のリスト事態に食い違いがあるとはいえないのだと思います。マタイによる福音書10章のはじめにも似た表現がありますが、マルコによる福音書から対応する箇所を抜き書きしてみます。3章13節から15節です。

13:イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
14:そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15:悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
「使徒」の英語名は、Apostle です。ICUのアメリカンフットボールチームの名前でもありますね。わたしはあまり詳しくありませんが、アメリカンフットボールは11人のようですね。ここには、イエスの任命であること。そばにおくため(生活を共にするため、おそらく教育と訓練のためでしょう)、派遣して宣教させるため、そして、悪霊を追い出す権能を持たせるためとあります。つまりこの時点からは、イエスだけが教えるのではなく、チームで宣教する、かつ、常に訓練をし続けることが書かれているわけです。

このあと12人が紹介されていますが、17節後半から引用すると次のように書かれています。

17b:大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18:イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19:群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
17b と書きましたが、これは、17節後半という意味です。エルサレムはユダヤの山地にある町で、イスラエルの中心都市、カファルナウムからは、150km 以上南です。ティルスやシドンは、カファルナウムから北北西70kmから100kmにある海岸の町で、地中海貿易で栄えた町です。地図は、BRC のホームページにリンクがありますが、Bible Atlas のサイトには、いろいろなものがあり、わたしはまずそのサイトの地図を利用しています。

さて、大勢の弟子と、おびただしい民衆とあります。イエスのもとに来た目的は何でしょうか。ここに書かれているのは、「教えを聞くため」「病気をいやしていただくため」「汚れた霊に悩まされていた人」が「いやしていただく」ためでした。それも、イエスに触れることによってイエスから力がでて、いやしていただいていたようなのです。こんな信仰で大丈夫なのか心配になってしまいますが、イエスはこのようなひとを受け入れ、いやしておられたと書かれています。ルカによるとこのとき、イエスのメッセージが始まります。6章20節です。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
マタイによる福音書でも大体同じようになっていて、中心的に語りかける相手は、弟子たち。聞いているのは、もっと多くの人々です。(マタイによる福音書 5章1節、7章28節)「貧しい人々」とは、どのような人なのでしょうか。そして、「あなたがた」とは誰なのでしょうか。

みなさんは、どのように思われますか。イエスの祝福。だれにたいして、どんなひとにたいして。福音書を読みながら、ぜひ、それを考え、できたら、みなさんがよみとったことを分かちあってください。ここに中心的なイエスのメッセージがあるのだとおもいますよ。

2012.9.9
鈴木寛


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BRC no.76

今日は9月16日、ルカによる福音書16章・17章です。20日には、ヨハネによる福音書にはいります。 その冒頭の部分はつぎのようになっています。新共同訳で引用します。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
「言(ことば)」はギリシャ語でロゴスです。no.32 にヨハネの福音書について書いたときにも書きましたが、AD70年にエルサレムが破壊されてから、キリスト教も、ユダヤ人が中心のエルサレムから、異邦人社会、ギリシャ文明の強い影響を受けた地域、人々にその活動の中心が移ってきていましたから、この福音書が書かれた1世紀末から2世紀はじめにかけて、ギリシャ的な概念を大切にして書かれたことは確かでしょう。そのいみでも「ロゴス」という言葉を用いて、ヨハネはなにを伝えたかったのかを考えることは大切でしょう。

ヨハネ以外の三つの福音書を見てみると、マタイとルカは、基本的にイエスの降誕からはじめています。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とはじめ、15節にある

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
をマルコによる福音書のほとんど最初に持ってきています。ヨハネも「さいしょ」「はじまり」について考えたのではないでしょうか。ヨハネは、イエスの弟子たちの中でも、ほとんど最初から、イエスに従った弟子でしたから、ほとんど最後の初代キリスト者として、マタイ、マルコ、ルカや、他の文書には、書かれていないことで、書き残すべきだと考えたことがあったでしょう。確かにヨハネによる福音書には、他の福音書に書いてあることとの重複は避け、書いていないことを独特の筆致で書いている傾向があります。しかし、今日は、最初にしぼって考えてみたいと思います。
1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6:神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7:彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8:彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10:言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11:言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ここに出てくるヨハネは、バプテスマのヨハネと言われている人で、著者のヨハネとは違います。 そのヨハネを通して「言(ことば)」についての証言をし 4節では「言(ことば)の内に命(いのち)があった。命は人間を照らす光であった。」としています。さらに「言(はじめ)があった」からはじめ、それは「神と共にあった」としているのです。「どんなひとか」ではなく「なにをしたか」に中心をおくのでもなく「なんであるか」を語っているように思えます。

6節から9節には、簡単にバプテスマのヨハネの紹介があり、10節から14節には、「この言(ことば)が世にあった」こと「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ことを証言しています。では、言(ことば)がこの世に宿られたことによる影響はどんなことだと書いてあるでしょうか。ここからは、細かくは、書かないことにします。

18節には「この方が神を示された」とあります。そして「律法はモーセを通して」「恵みと真理はキリスト・イエスを通して現れた」とあります。律法をとおして、神がなにを望んでおられるかが示され、「恵みと真理」という神様の本質が、キリスト・イエスによって表されたと書いてあります。神と直接接する機会がなければ、神が望んでおられることを少しずつ知って、それを通して、神について推察することがベストでしょう。しかし、直接接する機会、または、その方がどんな方であるかを直接知ることができれば、神が望まれることも、その本来的意味にまでさかのぼって知ることができますよね。ヨハネは、キリスト・イエスを通して、そのように神を知ることができるようになったと言っているのではないでしょうか。それが「神の子となる資格」の内容ではないでしょうか。聖書を読み、福音書を読みながら、みなさんが、聖書で言っている神は、どのような神なのか、その神と直接出会えると良いですね。 ヨハネによる福音書20章31節
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 どのような命(いのち)が受けられるのでしょうか。「神の子となる」こととあわせて考えながら読んでいただければと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」村瀬俊夫
ヨハネによる福音書 梗概

  1. 序説 1:1-2:12
    1. 初期の公的宣教 2:13-4:54
    2. しるしと論争 5:1-9:41
    3. いのちを与える良い牧者 10:1-11:57
    4. 最後の公的宣教 12:1-50
  2. 受難物語 13:1-20:31
    1. 告別の説教 13:1-17:26
    2. 十字架 18:1-19:42
    3. 復活 20:1-31
  3. 付録 21:1-25
    1. ガリラヤでの顕現 21:1-14
    2. ペテロと愛弟子 21:15-23
    3. 結語 21:24, 25
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.9.16
鈴木寛


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BRC no.77

今日は9月23日、ヨハネによる福音書6章・7章です。

ヨハネによる福音書は、いろいろな意味で、他の三つの福音書と違った印象をうけます。いろいろな理由がありますが、一つは、他の福音書には、書かれていない時期のイエスの活動について書かれていることです。今日も新共同訳から引用します。たとえば、マルコによる福音書 1章15-16節にあるように、

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
三つの福音書では、イエスが福音宣教を始めたのは、(バプテスマの)ヨハネが捕らえられた後としていますが、ヨハネによる福音素3章22節から24節には、
22:その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
23:他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24:ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
とありますから、ヨハネが捕らえられる前から、活動していた記録があること、そして、2章をみると、この時期に、過越の祭りのためにエルサレムに行ったことも記されています。

その時期の記事からすこし引用してみましょう。2章23節-25節です。

23:イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
24:しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25:人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
13節から22節までエルサレムでのことが書かれていますが、そこには、驚くべき奇蹟がいくつも行われたとは、書かれていません。しかし「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあります。それに続けて「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」ここは、口語訳では「イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」となっています。これは、どういうことなのでしょうか。マタイ、マルコ、ルカにも、奇蹟について、だれにもいわないように注意した箇所が出てきますが、ここは、その理由を書いているようにも思われます。6章26節, 27節には、次のように書かれています。
26:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
では、これは、霊の世界について語っていて、現実の世界のこととは関係ないと言っているのでしょうか。

3章に戻ると、ファリサイ派のひとりのニコデモとの会話が記されていますが、3節で、

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
と言っていますが、そのあとの12節で、
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
ということは、先ほどの3節は地上の事のようです。イエスが語っておられるのはどのようなことで、人々を信用されなかったのは、何故なのでしょうか。そして何を我々に求めておられるのでしょうか。ヨハネはこの福音書をとおして何をわれわれに伝えようとしているのでしょうか。

みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.9.23
鈴木寛


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BRC no.78

あす10月1日から、使徒言行録(新共同訳の書名、口語訳は使徒行伝、新改訳は使徒の働き)にはいります。署名を三つ書きましたが、翻訳によって異なっています。どの翻訳かを調べるとき、わたしは、いつもこれをしらべて確認する事にしています。一番、簡単に分かるからです。著者などについては、BRC no.33, 34 にも書きましたので、そちらも参照してください。
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(新共同訳 ヨハネによる福音書17章 11節)
上に引用したのは、ヨハネによる福音書17章に書かれている、イエスの祈りのことばです。イエスが十字架にかかる前に弟子たちと食事を共にしたときの一コマです。使徒言行録は、イエスが十字架上の死と復活の後神のみもとにもどり、残された弟子たちの物語です。イエスが弟子たちと共にいたときは、なにか問題がおこったり、だれかからか非難を浴びれば、イエスが答えて下さいました。弟子たちは、それを通して学んだことは多かったでしょう。しかし、使徒言行録でみてもわかるように、あたらしい問題がどんどん発生し、弟子たち、そして弟子の弟子たち、いろいろな形でイエスを救い主と信じるようになった人たちは、その問題に自分たちで対応し、解決していかなければならなくなったのです。使徒言行録は、その記録だともいえます。使徒言行録を読みながら、問題を理解し、それに弟子たちは、クリスチャンたちはどのように対応していったのかを読み取るのも一つの方法ではないでしょうか。

このグループのリーダーはどのような人たちだったのでしょうか。4章13節には次のように書かれています。

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
口語訳では「無学な、ただの人」だと記されています。イエスと一緒にいたこと以外、あまり取り柄のない、「無学な普通の人」がリーダーでした。

実際に読んでいくと、問題だらけであったことがわかります。しかし、同時に、ひとくぎりひとくぎりのまとめのように、次のようなことばも添えられています。問題と、それにどのように対していったかの記録と共に、まとめたことばにも目を向けて頂ければと思います。

44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46:そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(新共同訳 使徒言行録2章44節-47節)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
(新共同訳 使徒言行録9章31節)
他にもいくつもあります。見つけて下さいね。

いのちのことば社「新聖書注解」斎藤篤美
使徒の働き 梗概

  1. エルサレムにおける宣教 1:1-5:42
    1. 40日間とその後 1:1-26
    2. ペンテコステ 2:1-47
    3. 最初の奇蹟 3:1-4:31
    4. 教会における信仰と財産 4:32-5:11
    5. 二度目の逮捕 5:12-42
  2. サマリヤへの伝道 6:1-9:31
    1. 執事 6:1-7
    2. ステパノの宣教 6:8-8:1a
    3. ピリポの宣教 8:1b-40
    4. サウロの回心 9:1-31
  3. アンテオケ教会の設立 9:32-12:25
    1. 西パレスチナのペテロ 9:32-43
    2. コルネリオ物語 10:1-11:18
    3. アンテオケ 11:19-30
    4. ヘロデ・アグリッパ1世 12:1-25
  4. パウロの第一回伝道旅行 13:1-15:35
    1. 国外伝道 13:1-12
    2. ピシデヤのアンテオケ 13:13-52
    3. イコニオムからデルベへ 14:1-28
    4. エルサレム会議 15:1-35
  5. 第二回伝道旅行 15:36-16:5
    1. 伝道旅行へ 15:36-16:5
    2. ピリピ 16:6-40
    3. テサロニケからアテネへ 17:1-34
    4. コリント 18:1-17
    5. 帰途へ 18:18-22
  6. 第三回伝道旅行 18:23-21:26
    1. エペソ 18:23-19:20
    2. マケドニア 19:21-20:6
    3. エルサレムへ 20:7-21:16
    4. エルサレムのパウロ 21:17-26
  7. ローマへ 21:27-28:31
    1. パウロの逮捕 21:27-23:30
    2. カリザリヤ 23:31-25:12
    3. パウロとアグリッパ 25:13-26:32
    4. ローマへ 27:1-28:15
    5. ローマにて 28:16-31
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。
感想も送って頂ければ幸いです。

2012.9.30
鈴木寛


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BRC no.79

使徒言行録はいかがですか。

ルカは温厚なひとのようで、問題を際立たせて書くことはしませんが、使徒言行録を読んでいくと、キリスト教会は、最初から様々な問題に直面し、乗り越えていかなければならなかったことが分かります。

早い段階で、教会運営の共同責任者(通常「執事」と呼ばれますが)に選ばれた「“霊”と知恵に満ちた評判の良い(使徒言行録6章3節)」7人の一人のステファノがユダヤ人たちに石で撃たれて殉教の死をとげます(使徒言行録7章54節-60節)。さらに、イエスの弟子たちの中でも、つねに筆頭に名前が出、特別な機会にイエスのお供をしたペテロとヤコブとヨハネの三人のうち、ヤコブがヘロデ王(ヘロデアグリッパ I 世)によって剣で殺されます(使徒言行録12章1節,2節)。ペテロやヨハネも何回か投獄されます(使徒言行録4章3節、12章3節-19節)。

教会の中でも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有して(使徒言行録4章32節)」いましたし、続く34節には「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」とも書かれていますが、5章には土地を売った代金をごまかしていた夫婦のことが書かれています。上に書いた教会運営の共同責任者が選ばれたのは「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。(使徒言行録6章1節)」と書かれています。

ここにも書かれているように、弟子の数が増えていったことも確実なようで、この章の7節には「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」とも書かれています。ユダヤ教の指導者の中にも「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』(使徒言行録2章38節,39節)」や「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。(使徒言行録3章17節-20節)」というメッセージに応答した人たちがたくさんいたと言うことです。

しかし問題は、続きます。この上に引用した「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」は、本当に誰でもなのだろうかということです。早い時点から、世界中に広がっているユダヤ人で、エルサレムに上ってくる人たちの中には2章にあるように、信じる人たちが起こされますが、ユダヤ教の人たちが似て非なるもの、正統ではないとしていたサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人との混血が中心)にも広がります。「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(8章25節)」イエスもサマリヤ人といろいろな形で接触していましたから、これには、あまり違和感がなかったものと思われます。ユダヤ教への改宗者の入信記事が8章26節-40節に書かれています。しかし、完全な異邦人、異教徒が「わたしたちの神である主が招いてくださる者」に入るのかどうかはおそらく考えられていなかったのではないかと思います。異教徒とは極力関係を持たない。家に入らない、食事を共にしないのがユダヤ人の慣習だったからです。

このことの大きな変化が段階的に書かれています。10章に記されているコルネリオの回心とバプテスマ、11章のその弁明、アンテオケ教会でのギリシャ人への宣教、13章から14章に記載されているバルナバ、パウロによるキプロスとトルコ伝道、そして15章のエルサレムでの会議です。ここで異邦人も「わたしたちの神である主が招いてくださる者」に含まれ、ユダヤ教徒にならなくても、神の霊である聖霊を受けることができることが共有されていくのです。このあとパウロを中心とした宣教は、ローマまで届きます。

それぞれの段階での発展は、単純ではありません。最初サマリヤに広がっていくときも、実は、ステファノの殉教に端を発した迫害から逃れるために、エルサレムを離れたためでした。その後も、ユダヤ教との様々な問題からエルサレムでは十分な活動ができず、シリアのアンテオケ教会や、後には、トルコ西部(小アジアとよばれる地域)のエペソやコリントなどが中心となっていきます。一般的には、問題ととらえられるようなことが「わたしたちの神である主が招いてくださる者」の範囲をひろげ神がすでに清くしてくださり(10章15節, 28節)愛してくださるものへの理解が広がっていったことは、使徒言行録を読みながら、考えさせられることです。ペテロの言葉が次のように記されています。

使徒言行録10章34節, 35節 34:そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
35:どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
この使徒言行録のテーマとも言うべきものは、1章8節に書かれています。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
聖霊は神の霊、力をもって働き、神のこころをも理解させるものと書いておきます。その働きが随所に現れます。先ほどのペテロの告白のあとには、このように付け加えられています。10章44節-47節です。
44:ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
45:割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
46:異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
47:「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
エルサレム会議では、15章1節
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
や、5節
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
が議論されますが、最後まとめとして、文章が作られます。23節-29節ですが、
27:聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
28:すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
なにか中途半端に感じる人もいるかもしれませんが、
18:それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
19:ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
20:モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」
とも書かれています。ユダヤ教から信仰に入った人への配慮もあったのでしょう。次の問いの一つへの対応でもあります。

BRC no.33 に書いたことと殆ど同じ問いですが、この C や D に対する問いかけでもあると思います。

A. ユダヤ人に与えられた律法や言い伝えを守らなければ、ひとは救われないのか。
B. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。
C. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。
D. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないか。
いまも、この問いかけは、ある意味で続いています。みなさんは、どのように答えますか。

みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。 感想をお寄せ下されば幸いです。

2012.10.7
鈴木寛


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BRC no.80

使徒言行録はいかがでしたか。明日10月15日からローマ人への手紙に入ります。

BRC no. 35 にも書きましたので、そちらも参照してください。引用は新共同訳とします。

手元に、小泉達人著「ローマ書新解 - 万人救済の福音として読む-」(キリスト新聞社 2008.6.6 刊)がありますが、その最初には、つぎのように書かれています。

「ローマ書は、宗教改革者マルチン・ルター以来、信仰義認の書、すなわちわたしたちは信仰によって義とされ救われる。と説く書物として理解されてきた。しかしローマ書はむしろ万人救済の福音、すなわち、信仰の有無にかかわらずすべての人が救われる、と説く書物ではないのか、というのがこの本の主題である。「ローマ書新解」という生意気な題を付けたのも、そのためである。」
ローマの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒への手紙1章14節に「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」と書いたパウロによって書かれました。同じガラテヤの信徒への手紙2章16節にはつぎのように書かれています。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
ユダヤ教の人たちは、旧約聖書の最初の五書、律法(トーラー)と呼ばれるものと、その解釈の集大成である「タルムード」に書かれていることを実行していくことに心血を注いでいました。パウロも現在のトルコ南東の町タルソのユダヤ人の家に生まれ、エルサレムで律法の訓練を受け「ユダヤ教に徹しようとしていた」のでした。使徒言行録にもあるようにキリスト教徒を迫害していたパウロが、あるときイエス・キリストを信じるようになりました。上で引用したガラテヤの信徒への手紙によれば「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないから」とのべ「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と記しています。これが最初にのべた「信仰義認」です。

信仰によって義と認められるとすると、割礼を受け、ユダヤ教徒となる必要はないことになります。ガラテヤの信徒への手紙 3章26節から29節にはつぎのように書かれています。

26:あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
27:洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
28:そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
29:あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
では、この信仰とは何なのでしょうか。信仰とか、愛とかなにか、直感的で感情的な要素が強く、行いより、かえって抽象的で、「イエス・キリストへの信仰によって」などと言うことで、差別的にならないでしょうか。信仰がある人は救われ、無い人は救われないのでしょうか。キリストを救い主と信じるひとが救われ、キリスト教以外の人は救われないのでしょうか。その信仰について上の文章のようにどこまで論理的に語れるのでしょうか。

パウロはイエスの死後、10年後から25年後ぐらいの期間活躍したと思われますが、ユダヤ教の一派であったキリスト教が「律法から自由な福音」としてその期間に急速に世界宗教へと当時のローマ帝国に広がっていったことは確かです。おそらく、その鍵をにぎるのが、このローマ人への手紙に書かれていることだと思います。

信仰による義とは何なのか、パウロはそれをどのように説いているのか。それは小泉先生の言われるように万人救済の福音なのでしょうか。読み取っていただければと思います。二箇所ローマ人への手紙から引用します。

21:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22:すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23:人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24:ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙3章21節-25節(新共同訳)
31:では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32:わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33:だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34:だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
35:だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36:「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37:しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38:わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39:高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8章31節-39節(新共同訳)
いのちのことば社「新聖書注解」泉田昭
ローマ人への手紙 梗概
  1. まえがき 1:1-17
    1. あいさつ 1:1-7
    2. 手紙の目的 1:8-17
  2. 人間の罪 1:18-3:20
    1. 異教徒の罪 1:18-32
    2. ユダヤ人の偽善 2:1-29
    3. 人間はみな罪人 3:1-20
  3. 神の義 3:21-5:21
    1. キリストによる義 3:21-31
    2. アブラハムと義 4:1-25
    3. 信仰義認の結果 5:1-21
  4. キリストによる勝利 6:1-8:39
    1. キリストとの合体 6:1-7:6
    2. 罪との戦い 7:7-25
    3. キリストによる勝利 8:1-29
  5. イスラエル問題 9:1-11:36
    1. イスラエル問題 9:1-11:35
    2. イスラエルの不信仰 10:1-21
    3. イスラエルの救い 11:1-36
  6. キリスト者の倫理 12:1-15:13
    1. 倫理の基礎 12:1-23
    2. 社会の倫理 13:1-14
    3. 教会の倫理 14:1-15:13
  7. 私信 15:14-16:27
    1. パウロの伝道計画 15:14-33
    2. 紹介とあいさつ 16:1-27
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.10.14
鈴木寛


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BRC no.81

ローマの信徒への手紙はいかがですか。明後日10月23日からコリントの信徒への手紙一に入ります。

BRC no. 35, 36 にも書きましたので、そちらも参照してください。引用は新共同訳とします。

コリントの信徒への手紙一は次のように始まります。 1:神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2:コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3:わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
パウロは自分のことを「使徒」と呼んでいます。ルカによる福音書6章13節には「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」とあり、弟子と使徒とははっきりと分けられています。弟子の中で、特別に福音の使者として遣わされたものが使徒です。パウロの改心については、特に使徒言行録の9章、22章、26章に少しずつ違った形で語られています。22章21節には「すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」と書かれていますが、9章や26章にも改心とあわせてパウロを派遣することが書かれており、パウロもそのことを強く意識していたのでしょう。1節に出てくるソステネは使徒言行録18章17節にある「会堂長のソステネ」ではないかと思われます。

皆さんは2節をどう思われますか。「この人たち」とは誰でしょうか。宛先は「コリントにある神の教会」です。教会はエクレシアという言葉で「呼び集められたものの集い」という意味です。そのあとの言葉からもわかるように、組織を表すのではなく、人々、それも「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」です。このあとに続く「このひとたち」はおそらく「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」でしょう。「聖なるものとされた人々」と二回もでてきますね。使徒言行録26章やヘブライ信徒への手紙10章にも出てきますが「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」という言い方はちょっと気になりますが、みなさんはどうですか。

下に例によって「新聖書注解」から梗概を抜き書きしましたが、これをみても、いろいろな現実の問題が並んでいます。問題をひとつひとつ語る前に受け取るひとりひとりにこのことばによって語りかけているのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、新約聖書の書簡ほとんどすべてに書かれている「恵みと平和(口語訳は平安)」のいのりが3節についています。(「憐れみ」が入る場合もあります)そして以下のことばが続きます。 4:わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
5:あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
6:こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
7:その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 8:主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
9:神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
このコリントの信徒への手紙を読むとき是非、この1節から9節を覚えて読んで下さい。おそらくそれは、パウロの願いでもあったのではないかと思います。戻ってくる場所は、この1節から9節です。わたしたちにも、しっかりとした戻ってくる場所があると良いですね。いくら問題だらけの社会に住んでいても。

いのちのことば社「新聖書注解」尾山令二
コリント人への手紙 第一 梗概

  1. 序言 1:1-9
      a. あいさつ 1:1-3 b. 真実な神への感謝 1:4-9
  2. 教会の一致についての願い 1:10-4:21
    1. 願いの要約 1:10
    2. 願いの動機 1:11-17
    3. 福音の本質 1:18-2:16
    4. 宣教者と教会 3:1-4:13
    5. パウロの願いの伝道 4:14-21
  3. 不品行について 5:1-6:20
    1. 不品行に対する態度 5:1-5
    2. 古いパン種を取り除け 5:6-8
    3. 現在のさばきこそ恵み 5:9-13
    4. 訴訟問題 6:1-8
    5. 新しい存在 6:9-11
    6. 新しい存在の責任 6:12-20
  4. 結婚と独身 7:1-40
    1. 一般的原則 7:1-7
    2. 結婚していない男とやもめ女 7:8-9
    3. 結婚している人々 7:10-16
    4. 召された状態で 7:17-24
    5. 独身について 7:25-38
    6. 未亡人の再婚について 7:39-40
  5. 偶像にささげた肉について 8:1-11:1
    1. 愛と知識についての原則 8:1-6
    2. 弱い兄弟に対する配慮 8:7-13
    3. パウロの使徒職実行に見る実証 9:1-27
    4. 悪霊の食卓にあずかるな 10:1-22
    5. 飲み食いを通しても神の栄光を現わせ 10:23-11:1
    6. 公同礼拝における乱れ 11:2-34
    1. 礼拝における女のかぶり物 11:2-16
    2. 主の晩餐について 11:17-34
  6. 御霊の賜物について 12:1-14:40
    1. 御霊の賜物と教会の一致 12:1-31
    2. さらにまさる道 13:1-13
    3. 預言と異言 14:1-25
    4. 公同礼拝の秩序 14:26-40
  7. 礼拝の基盤ー復活の事実 15:1-58
    1. 最もたいせつなもの 15:1-11
    2. 死者の復活を否定する結果 15:12-19
    3. キリストの復活の結果 15:20-28
    4. キリスト者の経験からの論証 15:29-34
    5. 死者のよみがえり 15:35-50
    6. 勝利の確証 15:51-58
  8. 礼拝の実践 16:1-24
    1. 聖徒たちのための献金 16:1-4
    2. パウロの宣教計画 16:5-12
    3. 最後のことばとあいさつ 16:13-24
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.10.21
鈴木寛


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BRC no.82

コリントの信徒への手紙一はいかがですか。今日10月28日は11章・12章、11月1日からコリント信徒への手紙二に入ります。

BRC no. 36, 37 にも書きましたので、そちらも参照してください。引用は新共同訳とします。

コリント信徒への手紙の一・二を読んでいると、まだ長くても生まれて数年しかたっていないコリントの教会に様々な問題があったこと、そして、その一つの中心問題が分裂、一致がむずかしいということだと感じます。パウロが一番気にかけていた問題でしょう。そして、パウロが気にかけていたのは、コリント教会の中での一致だけではなく、パウロたちや、他の地域の「すべての聖なる者たち」の一致であり、そのことをつねに意識して語られていると思います。信仰の核となる部分が、個人と神様の関係であるなら、信徒の一致はなにを意味するのでしょうか。

弟子たちのもとを去るにあたり、イエスの祈りも一致でした。

わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(ヨハネによる福音書17章11節)
コリント人の信徒への手紙二の1章4節から7節では、
4:神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
5:キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
6:わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
7:あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
ここでは、苦しみと慰めを共にしていると書かれています。一方でたくさんの問題を抱えているコリント教会ですが、1章24節では
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。
では、一致させるものは、何なのでしょうか。この世、私たちが現実に生きている世界では、強制なしにどのように連帯がうまれ、一致を経験することができるのでしょうか。とても難しいテーマだと思います。しかし、聖書では、その鍵は、聖霊(御霊)であると言っています。同じ霊によって生きることです。
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。 (コリントの信徒への手紙二 1章20節21節)
今日の聖書の箇所は、上にも書いたように、コリント信徒への手紙一11章・12章ですが、そこからも御霊の働きが読み取れるのではないでしょうか。 12章は、賜物について書かれていますが、その中心は、それは、一つの御霊の働きだということです。わたしは、神の霊によって、神が働かれるその働きを、われわれの日常のなかに認められればと願っています。そして、様々な働きが一つの御霊の働きとの告白に至ることを望みながら。

いのちのことば社「新聖書注解」尾山令二
コリント人への手紙 第二 梗概

  1. はじめのあいさつ 1:1-11
    1. 書き出し 1:1
    2. 祝祷 1:2
    3. 頌栄 1:3-7
    4. パウロの身辺の事情 1:8-11
  2. パウロの弁明 1:12-2:11
    1. パウロの誠実さ 1:12-14
    2. 計画の変更について 1:15-22
    3. 訪問が遅れたことについて 1:23-2:4
    4. 違反者の処置について 2:5-11
  3. パウロの使徒としての務め 2:12-6:10
    1. 巻けど二やへの最近の旅行 2:12-13
    2. キリストのおける勝利 2:14-17
    3. 推薦状 3:1-3
    4. 旧約と新約 3:4-18
    5. 使徒の務めの公明さ 4:1-6
    6. 器とその中味 4:7-15
    7. 外なる人と内なる人 4:16-18
    8. キリスト者の希望 5:1-10
    9. 強く迫るキリストの愛 5:11-15
    10. 新しい創造 5:16-17
    11. 和解の務め 5:18-21
    12. 福音をのべ伝えるものとしてのパウロの経験 6:1-10
  4. パウロの訴え 6:11-7:4
    1. 心をひろくするように 6:11-13 b. この世からの分離 6:17-7:1 c. 信頼をもって 7:2-4
  5. パウロの慰めと安心 7:5-16
    1. 慰めと喜びの理由 7:5-12
    2. コリント教会への信頼 7:13-16
  6. エルサレム教会への献金 8:1-9:15
    1. マケドニアの教会の模範 8:1-7
    2. 献金の動機 8:8-15
    3. 献金のための使者 8:16-9:5
    4. 惜しみなく捧げる人に対する祝福 9:6-15
  7. パウロの使徒権の擁護 10:1-13:10
    1. 戦いの武器 10:1-6
    2. パウロの守備一貫性 10:7-11
    3. パウロの働きの範囲 10:12-18
    4. コリント教会の忠実さについて 11:1-6
    5. コリント教会に負担をかけなかったことについての誇り 11:7-12
    6. にせ使徒の真相 11:13-15
    7. 福音のための数々の苦しい経験 11:16-33
    8. パウロの見た幻と肉体のとげ 12:1-10
    9. 前回の訪問時におけるパウロの行動 12:11-13
    10. 次回の訪問時におけるパウロの行動 12:14-21
    11. 戒規を再度行使することの決定 13:1-10
  8. 結び 13:11-13
    1. 終わりのあいさつ 13:11-12
    2. 祝祷 13:13
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.10.28
鈴木寛


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BRC no.83

コリントの信徒への手紙二はいかがですか。今週は6日からガラテヤの信徒への手紙、9日からエフェソの信徒への手紙に入ります。

今回も引用は基本的に、日本聖書協会の新共同訳からとします。

ガラテヤの信徒への手紙1章4節、あいさつの直後につぎのように書かれています。

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
非常に簡潔に、通常「贖罪(しょくざい、つみのあがない)」とよばれることが表現されています。パウロはイエスに任命された使徒ではありませんが、他の手紙と同様、ガラテヤの信徒への手紙にも、1章1節にもあるように、自分を神に直接任命された使徒だとしています。
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
イエスとずっと一緒に生活した弟子たちには、かえって、イエスの死を一言で表現するのは難しかったかもしれません。しかし、福音書にも少しは書かれています。マルコによる福音書10章45節 (マタイによる福音書20章28節)
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
ガラテヤの信徒への手紙では、このあと、ガラテヤの信徒たちが「ほかの福音に乗り換えようとしている」(1章6節)と指摘し、パウロ自身のことがかかれていますが、その福音の核となることが2章16節に書かれています。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
2章19節から21節にはさらに強く次のように書かれています。
19:わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
20:生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
21:わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
神様に義としていただく「その生き方で良いよ」と認められた存在として生きるためには、律法の実行、神様がこうあるべきとして示してくださったことすべてをそのとおり行うことだと信じてきたけれど、それを完全に行うことはだれにもできない。「イエス・キリストへの信仰」によって「安心しなさい、その生き方で良いよ」と言われ、神様の前に生きる者は、律法に対して死んだもので、キリストに生きるものだ、と言っています。このことを忘れてはいけないとパウロは、ガラテヤの信徒たちに語りかけています。「ほかの福音」と言っていたのは、このような生き方から離れることです。
このことによって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(3章26節)
そして、そのようにされた目的を次に様に書いています。5章13節14節、25節です。
13:兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
14:律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

霊の導きに従って生きる生き方についても書かれています。非常にコンパクトにまとまって書かれています。宗教改革者のマルティン・ルターは「わたしは、ガラテヤ書と結婚した」と言ったそうですが、パウロのメッセージ、あたなはどのように受け取りますか。

いのちのことば社「新聖書注解」から、ガラテヤ信徒への手紙の梗概(村瀬俊夫)を引用します。

  1. あいさつ 1:1-5
  2. パウロの使徒職の独自性 1:6-2:21
    1. 弁明を必要とした事情 1:6-10
    2. 回心と召命 1:11-17
    3. エルサレムの承認と無関係 1:18-24
    4. エルサレムの会議における確認 2:1-10
    5. アンテオケでの衝突事件 2:11-14
    6. 根本的主張 - 律法かキリストか 2:15-21
  3. 教理的弁証 3:1-4:31
    1. 経験への訴え 3:1-5
    2. アブラハムへの信仰 3:6-9
    3. 律法ののろい 3:10-14
    4. 約束と律法 3:15-18
    5. 救済史における律法の役割 3:19-25
    6. キリストにある自由と一体性 3:26-29
    7. 未成年から成年へ 4:1-7
    8. 逆行への警告 4:8-11
    9. 個人的な訴え 4:12-20
    10. ハガルとサラの比喩 4:21-31
  4. キリスト者の自由 5:1-6:10
    1. キリスト者の自由を奪う律法主義 5:1-12
    2. 自由の正しい行使 5:13-15
    3. 御霊による歩み 5:16-26
    4. 御霊による助け合い 6:1-10
  5. 結び 6:11-18
みなさんは、通読を通してどのようなことを感じ、学んでおられますか。

2012.11.3
鈴木寛


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BRC no.84

昨日9日からエフェソの信徒への手紙に入っています。BRC no.36 に少し書いてありますので参考にして下さい。 今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

1章1節には、

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。
とあり、また、つぎのように書かれていますから、
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。(3章1節)
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、(4章1節)
このようなことから、エフェソの信徒への手紙はパウロが書いた獄中書簡のひとつとされています。使徒言行録には、パウロがエフェソに何回も訪ねたことが記されていますが、獄につながれることになるおそらく最後のエルサレム訪問の直前に、旅の途中でエフェソから教会の長老たちを呼び寄せて最後の別れをしたことが書かれています。使徒言行録 20章17節から38節です。パウロがどのようにエフェソで宣教をし、生活したかが述べられたあと、このあとエルサレムでどのようなことが待ち受けているかを予期していることをのべ、エフェソ教会の長老たちに、注意を与え、32節にはつぎのようにあります。
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
そしてつぎのような別れが書かれています。使徒言行録20章36節-38節
36:このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
37:人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
38:特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
エフェソの信徒への手紙も、長い関係をもった顔なじみも多くいる教会のひとたちに書いているのでしょう。その意味でも、なにかテーマを絞って書かれているわけではありませんが、深みのあることば、具体的な問題に対する教えなどなど、このひとつの書簡から非常に豊かな内容を読み取ることができると思います。

みなさんは、何を受け取りましたか。みなさんの感想をお聞かせ下されば幸いです。

いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙の梗概(小畑進)を引用します。

  1. 序 1:1-2
  2. 教会の成立 1:3-1:14
    1. 父なる神によって 1:3-6
    2. 御子にあって 1:7-12
    3. 聖霊をとおして 1:13-14
  3. 教会の自覚 1:15-1:23
    1. 召されて抱いている望みについて
    2. 聖徒たちのつぐべきものについて
    3. 力の偉大さについて
    4. キリストの統御について
  4. 教会の創造 2:1-2:10
    1. 材料 - 怒りの子たちから
    2. 手段 - 恩寵によって
    3. 目的 - よき働きをなすために
  5. 教会の一致 2:11-2:22
    1. キリストにある異邦人とユダヤ人の結合
  6. 教会の召し 3:1-3:21
    1. 神の召しを啓示するため 3:1-13
    2. 神の満ちているものを経験するため - 祈り 3:14-21
  7. 教会の行い 4:1-6:9
    1. その使命 - 一致のうちにある個人差 4:1-16
    2. その道徳的基準 4:17-5:14
    3. この世に対する共同の行動 5:15-21
    4. 過程における基準 5:55-6:9
  8. 教会の闘争 6:10-6:20
  9. 結論 6:21-6:24II Cor

2012.11.10
鈴木寛


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BRC no.85

明12日からフィリピの信徒への手紙に入ります。BRC no.36 に少し書いてありますので参考にして下さい。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

フィリピの信徒への手紙は次のように始まります。(1章1節)

キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
パウロは使徒言行録によると二回目の伝道旅行で、フィリピを初めて訪問しますが、その次第が次のように記されています。6節から8節に出てくる地名は、すべていまのトルコ(小アジア地方)の地名です。使徒言行録16章6節から12節を引用します。
6:さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
7:ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
8:それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
9:その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
10:パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
11:わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、
12:そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
ギリシャの北半分が、マケドニア州で、ここにはフィリピや、テサロニケがあります。南半分はアカイヤ州で、アテネやコリントがあります。この使徒言行録16章の11節から40節までフィリピでのいくつもの印象的な出来事が書かれています。もう一度お読みになることをお勧めします。フィリピの教会は、このような背景のもとでできたと考えると、なにか特別なものを感じます。

聖書では、このあと、フィリピとして出てくるところはあまりありませんが、マケドニアの教会としては、たびたび現れます。このフィリピの信徒への手紙にも現れますが、それは、パウロに対し定期的に経済的援助をしたことが分かります。フィリピの信徒への手紙4章15節16節を引用します。

15:フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16:また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
このフィリピの信徒への手紙も、2章25節, 26節にあるように
25:ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
26:しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
ローマでとらわれの身となっているパウロの元に援助を携えてきてくれたエパフロディトが、瀕死の病気になったがいやされ、テモテと一緒に、フィリピに送り返すときに託した手紙となっています。

パウロにとって特別な教会であったことは確かだと思います。パウロには厳しい批判的な手紙が多いですが、この手紙はしっかりとした信頼関係のある人たちであることを感じさせられます。ぜひゆっくり読んでいただきたいと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙の梗概(尾山令仁)を引用します。

  1. 初めのあいさつ 1:1-11
    1. 書き出し 1:1
    2. 祝祷 1:2
    3. 感謝と祈り 1:3-11
  2. パウロの身辺の事情 1:12-1:26
    1. 教会外からの問題 - 投獄とその結果 1:12-14
    2. 教会内の問題と第一に重要なこと 1:15-18
    3. 生と死におけるパウロ 1:19-26
  3. 福音にふさわしい生活についての勧め 1:27-2:18
    1. 教会外の敵に対する一致した戦いの勧め 1:27-30
    2. 教会内における一致した思いの勧め 2:1-4
    3. キリストの模範による勧め 2:5-11
    4. 救いの達成についての勧め 2:12-18
  4. 二人の模範 2:19-30
    1. テモテの模範 2:19-24
    2. エパフロデトの模範 2:25-30
  5. 救いの達成についての別の説明 3:1-3:21
    1. ユダヤ教主義者についての警告 3:1-3
    2. パウロの失ったものと得たもの 3:4-11
    3. 前進の一事 3:12-16 d. パウロ自身の模範 - 国籍を天に持つ者の生き方 3:17-21
  6. 具体的な問題についての勧め 4:1-4:20
    1. 主にあって堅く立つことについての勧め 4:1-20
    2. 二人の婦人の和解についての勧め 4:2-3
    3. 喜びと寛容と思い煩わない生活についての勧め 4:8-9
    4. 贈り物に対する感謝 4:10-20
  7. 結び 4:21-4:23
    1. 終わりのあいさつ 4:21-22
    2. 祝祷 4:23

2012.11.11
鈴木寛


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BRC no.86

今日14日からコロサイの信徒への手紙に入ります。BRC no.38 に少し書いてありますので参考にして下さい。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

コロサイの信徒への手紙は次のように始まっています。1章1節, 2節

1:神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、
2:コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
コロサイは、ヨハネの黙示録(1章11節および3章14節から22節)にも現れるラオディキアの近くのアジア州の町ですが、使徒言行録でのパウロの宣教においても、また他の聖書の箇所にも出てきません。おそらく、使徒言行録19章10節にある
このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
この時点では、宣教はなされていたでしょう。また1章7節, 8節には次のようにも書かれています。
7:あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
8:また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。
ラオディキアについては、コロサイの信徒への手紙でも、何回か出てきますので引用しておきましょう。
コロサイの信徒への手紙2章 1節
わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
さらに4章12節から16節
12:あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
13:わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
14:愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
15:ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
16:この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
おそらく1章7節にも出てきたエパフラスはコロサイ出身だったのでしょう。ラオディキアとは地理的に近いだけでなく、様々なことを共有していたと思われますね。ルカによる福音書や使徒言行録を書いたのと同一人物と思われるルカも出てきますから、ルカもおそらく、コロサイの信徒を何人も知っていたのでしょう。

このような背景の人たちに書かれたコロサイの信徒への手紙となります。さて、どのようなことが書かれているのでしょうか。

コロサイ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宇田進

  1. 序文 1:1-1:12
    1. あいさつ 1:1-2
    2. 感謝 1:3-8
    3. コロサイ人のための祈り 1:9-12
  2. キリストの人格とわざ 1:13-1:23
    1. 神、宇宙、教会との関連における御子の一と意義 1:13-23
    2. コロサイ美とに対する神の御旨 1:21-23
  3. 神の計画を遂行する上の使徒パウロの役割 1:24-2:7
    1. 苦難の宣教 1:24-25
    2. キリストの奥義 1:26-29
    3. 読者い対するパウロの牧会的配慮 2:1-7
  4. 異端思想に対する警告と論駁 2:8-2:23
    1. だましごとの哲学とキリストの人格 2:8-9
    2. キリストにある新しい人 2:10-15
    3. キリスト者の自由 2:16-23
  5. 期待される生活像 3:1-4:6
    1. 新しい人の生活目標 3:1-4
    2. 古い自己に死ぬ 3:5-11
    3. 新しい人を着る 3:12-17
    4. 新しい人の家庭生活と社会生活 3:18-4:1
    5. 祈りとあかし 4:2-4
    6. キリスト者とこの世 4:5-6
  6. 結び 4:7-18
      a. 同労の仲間たち 4:7-14 b. 別れのあいさつ 4:15-18

2012.11.14
鈴木寛


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BRC no.87

今日16日からテサロニケの信徒への手紙一に入ります。BRC no.38 に少し書きましたが、パウロが書いた手紙のなかでも最初に書かれたものだと言われています。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

テサロニケの信徒への手紙一は次のように始まっています。1章1節-5節を見てみましょう。

1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
シルワノは、使徒言行録に出てくるシラスと同一人物だと考えられています。1節にあるパウロとシラス(シルワノ)とテモテで、フィリピのあと、テサロニケに伝道したことが使徒言行録17章に書かれています。テサロニケは当時ローマ統治のマケドニア州の州都で良い港ももち、大きな町でした。フィリピには、ユダヤ人の会堂はなかったようですが(使徒言行録16 章13節)テサロニケには、会堂があったことが使徒言行録17章1節に書かれています。
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。
当時は、10家族以上ユダヤ人家族がいると会堂をもつように定められていたようですが、「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」(使徒言行録17章4節)ことからユダヤ人のねたみを買い、争乱となったことが書かれています。
しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。(使徒言行録17章5節)
上で引用した、テサロニケの信徒への手紙一第1章3節では、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」と、信仰の働き・愛の労苦・希望の忍耐とみっつが並べられています。コリントの信徒への手紙1第13章の有名な愛の賛歌の最後13節に書かれている、
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
を思い起こさせます。このテサロニケの第一の手紙には、その具体的な生き方についていくつもの勧めがなされています。 みなさんは、テサロニケの信徒への手紙のどのような言葉が印象に残りますか。

テサロニケ人への第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫

  1. あいさつ 1:1
  2. 福音の力ある事実への感謝 1:2-10
    1. テサロニケ教会の現実 1:2-3
  3. 神の選びの事実 1:4-10
  4. 使徒と教会 2:1-3:13
    1. テサロニケ教会形成の第一歩 2:1-16
    2. パウロがテサロニケを去って後 2:17-20
    3. テモテ派遣 3:1-5
    4. テモテがもたらしたよい知らせ 3:6-10
    5. パウロの祈り 3:11-13
  5. 根本的願いと勧告 4:1-5:11
    1. キリスト者生活の一般原則 4:1-3
    2. 弱い者に対する助け 4:3-8
    3. 兄弟愛について 4:9-10
    4. 気ままな者に対する戒め 4:11-12
    5. 小心な者に対する励まし 4:13-5:11
  6. 教会に関する種々の具体的勧告 5:12-22
    1. 相互の間で 5:12-15
    2. 根本的な態度 5:16-22
  7. 結び 5:23-28
    1. パウロの祈りと、祈りの訴え 5:23-25
    2. 最後の願いと祝祷 5:26-28

2012.11.16
鈴木寛


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BRC no.88

明日19日からテサロニケの信徒への手紙二に入ります。BRC no.38 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

テサロニケの信徒への手紙二は次のように始まっています。1章1節を見てみましょう。

パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
このあいさつのことばは、テサロニケの信徒への手紙一の1章1節と殆ど同じで、「父」が「わたしたちの父」に変わっただけです。2節には、新約聖書の殆どの書簡にしるされている「恵みと平和」の祝祷があり、3節には、テサロニケの信徒たちの信仰と愛についての感謝を、4節には、迫害下の苦難の中での忍耐と信仰を誇りに思っていることが述べられています。しかし、このあとに続くメッセージはかなりトーンが変わっています。
5:これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
6:神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7:また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8:主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
6節には、迫害している人たちには、報復ともいえる裁きが行われることが書かれているようです。終末において裁きを受けることは、聖書に一貫して書かれていることですが、なにかすこし違和感を感じます。終末・主の日については、テサロニケの信徒への手紙一にも関われています。5章1節2節を引用してみましょう。
1:兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
2:盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
テサロニケの信徒への手紙の2章1節-3節を見てみましょう。
1:さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
2:霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
3:だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
この部分を読むと、テサロニケには、主の日に関してかなりの混乱があったことが分かります。迫害の中で、主の日のことを聞き、それを希望として生きる。しかし、迫害下のあまりに苦しい状況のなかで、このような混乱が起こってきていたのではないでしょうか。1章のわたしが違和感を感じると書いた箇所も、そのような中で、まずは、さばきについてはっきりさせ、同時に、2章で主の日のまえにあるべきことについて語り、テサロニケの人たちを落ち着かせているのかもしれません。そして、2章の後半への勧めに結びつけています。2章13節、14節を引用します。
13:しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
14:神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。
そしてこのあと、いくつかの具体的な勧めをしています。一つは本質的なこと。3章5節を引用します。
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
そしてもう一つは、生活態度です。おそらく、主の日が近いとの信仰の中で、日常的なはたらきでなく、たとえば、聖書の言葉を語り合い、祈り合う、それだけしていればよいのではないかとの考えの人もでたのでしょう。みなさんは、明日天地が滅びるとしたら、今日、何をしますか。もう少し正確な問いは「ひょっとしたら明日かもしれない近い将来に主の日が来るというときに、あなたは今日どのように生きますか。」この手紙では「えー」と驚くぐらいふつうのことが書かれています。3章10節から13節を引用します。
10:実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11:ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12:そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13:そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
テサロニケ人への第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
  1. あいさつ 1:1-1:2
  2. テサロニケ教会の現実と将来 1:3-12
    1. 迫害と艱難の中における教会の成長についての感謝 1:3-4
    2. 神の正しいさばき 1:5-10
    3. パウロの祈り 1:11-12
  3. 終末についての教え 2:1-12
    1. 主題と目的 2:1-2
    2. 教えの内容 2:3-12
  4. テサロニケ教会の人々の救い 2:13-3:5
    1. 恵みの事実 2:13-15
    2. パウロの祈り 2:16-17
    3. 真実な神に祈れ 3:1-5
  5. 気ままな者に対する戒め 3:6-15
  6. 結び 3:16-18
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.11.18
鈴木寛


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BRC no.89

今日20日からテモテへの手紙一に入ります。BRC no.38 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

テモテへの手紙一は次のように始まります。1章1節、2節を引用します。

1:わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
2:信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
「使徒パウロ」から「信仰によるまことの子テモテ」へとなっています。テモテについては、使徒言行録をはじめ記述も多いので、いろいろと知ることができます。まずは、テモテへの手紙二第1章5節を引用します。
そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
テモテの祖母と母が熱心な信者だったとあります。また、使徒言行録第16章1節、2節によると、テモテはリストラにいたようです。
2:パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
3:パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
このことから、父親はギリシャ人、母親はユダヤ人であることが分かります。おそらく、祖母もユダヤ人だったのでしょう。16章は、使徒言行録の記述から、パウロの第二回伝道旅行と呼ばれていますが、一回目の訪問について使徒言行録 14章8節から23節に書かれています。19節から引用します。
19:ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
20:しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
21:二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
22:弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
23:また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
テモテは、このように、なかなか大変な事件の起こった、リストラ出身のおそらくかなり若い青年だったようです。それを伺わせる箇所をテモテへの手紙一第4章12節から引用しましょう。
あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
パウロがテモテを信頼していたことを伺わせる箇所を引用しておきます。フィリピの信徒への手紙第2章19節から24節です。
19:さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
20:テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
21:他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22:テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
23:そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
24:わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
テモテへの手紙一、二およびテトスへの手紙は、すでに宣教と牧会の働きをしていた、テモテ、テトスにその牧師としての務めについて書いているので、牧会書簡とも呼ばれています。ただし、整った教会制度への言及が多いことから、かえって、パウロ著者説を否定する人たちも多くいます。さて、このテモテへの手紙一には、何が書いているのでしょうか。

テモテへの第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-2
  2. テモテへの励まし 1:3-20
    1. 偽教師(論争主義)に対して 1:3-11
    2. パウロのあかし 1:12-17
    3. テモテへの勧告 1:18-20
  3. 合同の礼拝について 2:1-15
    1. すべての人のための祈り 2:1-7
    2. 礼拝の場での男女 2:8-15
  4. 教会役員の資格 3:1-16
    1. 監督について 3:1-7
    2. 執事について 3:8-13
    3. 執筆事情 3:14-16
  5. 牧会上の諸問題 4:1-6:2a
    1. 偽りの教え(禁欲主義)4:1-5
    2. 長老テモテへの勧め 4:6-16
    3. いろいろな年齢の人に対して 5:1-2
    4. やもめについて 5:3-16
    5. 長老について 5:17-25
    6. 奴隷に対して 6:1-2a
  6. 種々の勧め 6:2b-6:21
    1. 偽教師(利得主義)に対して 6:2b-10
    2. 神の人テモテへの命令 6:11-16
    3. 富める人々に対する忠告 6:17-19
    4. 最後の忠告 6:20-21
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.11.20
鈴木寛


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BRC no.90

今日23日からテモテへの手紙二に入ります。BRC no.38 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

テモテヘの手紙二はつぎのように始まります。1章1節、2節。

1:キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
2:愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
「命の約束」とあるのは、聖書でここだけです。旧約聖書も新約聖書もいのちの約束について書かれているとも言われますが。2節に、「恵み、憐れみ、そして平和」とありますが、この「憐れみ」が入っているのは、テモテへの手紙一、二だけです。特に、この「憐れみ」ということばを入れたかった背景があるのかもしれません。

11節に、

この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
とありますが、この書は、宣教者、使徒、教師から、宣教者としての弟子テモテへのメッセージともなっています。少し拾ってみましょう。まずは、続く1章12節からです。
12:そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
13:キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14:あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
自分のことを、自分の言ったことを手本にせよ、とは、なかなかいえませんね。2章2節には、
そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
これは、よく福音、教えの継承として引用されるところですが、「わたし(パウロ)」「テモテ」「忠実な人」「ほかの人々」と4世代のひとがこの短い聖句にはいっており、されに、それが「多くの証人の面前で」と書かれています。さらに、15節には、
あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
この箇所は、口語訳では、
あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。
とあります。「練達した働き人」個人的な経験ですが、この2章2節と15節、わたしが若い頃暗唱していた聖句です。このテモテヘの手紙二は、このようにするには、どうしたらよいかが書かれている気がして、よく読んでいたのを思い出します。かつ、よく例も出てきます。ひとつひとつの勧めの言葉に背景があるのだなとも思わされます。3章の1節には、
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
とあり、このあと、「そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。」から、5節の「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」へと続きます。これは、一般の人のことではなく、おそらく信者、キリスト者の中でのことを言っているのです。困難な時代にあって、実際にそのようなことも起こっていたのではないでしょうか。そして、3章の14節から17節の言葉に続きます。「真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人にな」る鍵として、述べられているように思います。
14:だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
15:また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
16:聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
17:こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
さらに続きます。4章1節から
1:神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
2:御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
3:だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、
4:真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
5:しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
この次の節には、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」とありますから、最後の引き継ぎのメッセージなのでしょう。

聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

テモテへの第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-2
  2. テモテへの励まし 1:3-1:14
    1. テモテのための感謝 1:3-5
    2. 働き人テモテへの勧め 1:6-14
  3. 背教と愛の奉仕の実例 1:15-1:18
  4. 熟練した働き人 2:1-26
    1. 働き人の姿勢 2:1-6
    2. 働き人の苦難 2:7-13
    3. 偽教師の中のテモテ 2:14-26
  5. 危険に立つ正統的信仰 3:1-4:8
    1. 真理に逆らう偽教師 3:1-9
    2. 正統的教義の基礎 3:10-17
    3. 伝道者テモテへの命令 4:1-5
    4. パウロの勝利の告白 4:6-8
  6. 終わりに 4:9-22
    1. テモテの来訪を待つ 4:9-15
    2. パウロの現況 4:16-18
    3. あいさつ 4:19-22
2012.11.23
鈴木寛


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BRC no.91

昨日25日からテトスへの手紙に入りました。すこし遅くなってしまいましたが、テトスへの手紙についてすこしだけ書きます。BRC no.38 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

テトスへの手紙の冒頭は、他の手紙と比較するとかなり長いものになっています。1章1節から4節まで引用します。

1:神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
2:これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
3:神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――
4:信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。
テトスについては、聖書に何回か記されています。ガラテヤの信徒への手紙2章1節から3節
1:その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。
2:エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。
3:しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。
これがいつのことか正確には分かりませんが、文脈からは使徒言行録15章に書かれているエルサレム会議とも呼ばれているときの事かもしれません。すると、パウロとバルナバによる一回目の伝道旅行の後と言うことになります。ここからテトスはギリシャ人であり、割礼を受けていなかったと書かれていますから、パウロたちの伝道の最初のころにはすでに、キリストを信じるようになっていた非ユダヤ人ということになります。上に引用した4節には、まことの子とありますから、パウロを通して、信仰を持つようになったのかもしれません。テトスについては、コリントの信徒への手紙二にも何回か出てきます。コリントに遣わしたテトスがよい報告をもって帰ってきたこと、それによってとても慰められたことが書かれています。(コリントの信徒への手紙二 7章5節から16節)また、同じ手紙の8章23節には、次のようにあります。
テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。
パウロが信頼をおいている、同志テトスにあてたとされているこの手紙も、テトス宛としながらも、もっと一般的なことが託されているのでしょう。

そのテトスに託された福音、テトスへの手紙3章3節から7節を引用します。

3:わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
4:しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
5:神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
6:神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
7:こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
皆さんは、テトスへの手紙のどんなことばが印象的ですか。

テトスへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-4
  2. テトスへの勧め 1:5-2:10
    1. 長老について 1:5-9
    2. クレテの偽教師 1:10-16
    3. 各層の教会員に対して 2:1-10
  3. 倫理の神学的基盤 2:11-3:11
    1. 救いの目的 2:11-14
    2. 教会員全体への勧め 2:15-3:2
    3. 勧めの根拠 3:3-8
    4. 偽教師に対する処置 3:9-11
  4. 終わりに 3:12-3:15
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.11.26
鈴木寛


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BRC no.92

今日27日は、フィレモンへの手紙を読んでからヘブライ人への手紙に入ります。フィレモンへの手紙については、BRC no.38 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

フィレモンへの手紙は、次のように始まります。1章1節から3節を引用します。

1:キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、
2:姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
3:わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
フィレモンは、聖書の中でここにしか出てきません。アフィアも出てきませんが、アルキポは、コロサイの信徒への手紙4章17節に「アルキポに、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』と伝えてください。」と出てきます。

このフィレモンへの手紙は、8節から読むとわかるように、オネシモというフィレモンの奴隷を送り返すときの手紙であることが分かります。12節と、15節から17節を引用します。

12:わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。

15:恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
16:その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17:だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

おそらく、オネシモは主人であるフィレモンのもとから逃亡したのでしょう。「キリスト・イエスの囚人」パウロはローマの監獄にいたのではないかと思われますが、少なくともこの時点で、オネシモも信者になっていたことが分かります。

先ほど、アルキポのところで、コロサイの信徒への手紙を引用しましたが、4章7節から17節には、この手紙の背景と思われることが書かれています。7節から9節を引用します。

7:わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
8:彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
9:また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
このときと、フィレモンの手紙の書かれた背景とがまったく一致しているかは分かりませんが、オネシモについて「あながたがの一人、忠実な愛する兄弟」と書かれていることからすると、オネシモも、コロサイの教会の一員だったのかもしれません。

フィレモンへの手紙を読んでいると、このころすでに、奴隷制とは、異次元の交わりが、信徒の交わりとしてあったことも分かります。その時代としては、驚くべき事だったのではないでしょうか。

フィレモンへの手紙は、口語訳や、新改訳では、ピレモンへの手紙と呼ばれています。皆さんは、どのような発見があるでしょうか。

ピレモンへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁

  1. 初めのあいさつ 1-3
    1. 書き出し 1-2
    2. 祝祷 3
  2. 感謝と祈り 4-7
  3. 愛の懇願ととりなし
    1. 愛の懇願 8-11
    2. オネシモ送還をめぐる「福音と律法」の問題 12-14
    3. 愛のとりなし 15-17
    4. 愛の計算 18-19
  4. 愛のしめくくり
    1. 最後の訴え 20-21
    2. 愛の表れ 22
    3. 愛のあいさつ 23-24
    4. 愛の結語 - 祝祷 25
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.11.27
鈴木寛


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BRC no.93

昨日27日からヘブライ人への手紙に入っています。BRC no.39, no.40 にも書きましたのでそちらも参照してください。一般的なことは、すでに書いたので、今回は、一つトピックを選んで書いてみようと思います。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

そのトピックは「天使」です。聖書で「天使」についてたくさんの記述があるのは、ヨハネの黙示録で、それ以外は、使徒言行録と、マタイの福音書を中心に福音書にありますが、それほど多くはありません。使徒言行録23章8節に「 サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」とありますから、ユダヤ教でも扱いが一定していなかったのでしょう。さて、ヘブライ人への手紙ではどのように記述されているでしょうか。1章1節から9節を引用しましょう。

1:神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
2:この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
3:御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
4:御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
5:いったい神は、かつて天使のだれに、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、/「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。
6:更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。
7:また、天使たちに関しては、/「神は、その天使たちを風とし、/御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、
8:一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。
9:あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
ここでは、御子が天使とは異なる優れた方だということ、言い方によれば、異次元の方だということが書かれています。このあとの、13節、14節では、次のように書かれています。
13:神は、かつて天使のだれに向かって、/「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、/わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。
14:天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
天使は「奉仕する霊」だとあります。2章5節から11節を引用します。
5:神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
6:ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
7:あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
8:すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
9:ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
10:というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
11:事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
5節では、来るべき世界を、天使たちに従わせることはなさらず、人の子、御子に従わせたということでしょう。さらに、11節を見ると、救われた人たちが、兄弟となるというのです。そして、16節には次のようにあります。

確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

この節には、いろいろなことが込められていると思いますが、驚きませんか。最後に13章1節から3節を引用します。

1:兄弟としていつも愛し合いなさい。
2:旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
3:自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
明確には分からなくても、天使、興味を持ちませんか。どうも、羽の生えたエンジェルとはちょっと違う感じを受けますね。ヘブライ人への手紙から、なにか新しいことを学ばれることを願っています。

ヘブル人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。

  1. この終わりのとき 1:1-2:18
    1. 御子による神の究極的啓示 1:1-4
    2. 御使いよりすぐれた御子 1:5-14
    3. 第一の警告。すばらしい救い 2:1-4
    4. 御使いより低くされたイエス 2:5-9
    5. 救いの創始者、大祭司 2:10-18
  2. 神の民の安息 3:1-4:13
    1. モーセより偉大なイエス 3:1-6
    2. 第二の警告。不信仰になって生ける神から離れるな 3:7-19
    3. 神の安息はまだ残っている 4:1-10
    4. 神の安息に入るように務めよ 4:1-13
  3. 大祭司キリスト 4:16-6:20
    1. 大祭司神の子イエス。信仰の奨励 4:11-16
    2. 大祭司の資格 5:1-4
    3. 大祭司に任命されたキリスト 5:5-10
    4. 第三の警告。初歩の教えにとどまるな 5:11-14
    5. 初めからやり直すことはできない 6:1-8
    6. 最後まで堅く立ち続けよ 6:9-12
    7. 神の約束の不変性 6:13-20
  4. メルキゼデク系の祭司 7:1-28
    1. 祭司 = 王、メルキゼデク 7:1-3
    2. メルキゼデクの偉大さ 7:4-10
    3. アロン系祭司職の不完全性 7:11-14
    4. 新しい祭司 7:13-19
    5. 誓いによって立てられた祭司 7:20-22
    6. 永遠の大祭司、キリストの卓越性 7:23-28
  5. 契約、聖所、いけにえ 8:1-10:18
    1. さらにすぐれた務め、契約の仲介者 8:1-6
    2. 古い契約と新しい契約 8:7-13
    3. 古い契約時代の聖所 9:1-5
    4. 幕屋の祭儀 9:6-10
    5. 永遠の贖い 9:11-14
    6. 契約の血 9:15-22
    7. 完全ないけにえ 9:23-28
    8. 実物の影としての古い秩序 10:1-4
    9. 有効ないけにえ - イエスのからだ 10:5-10
    10. 神の右の座についた大祭司 10:11-18
  6. 信仰の道 10:19-12:29
    1. 神に近づく新しい生ける道 10:19-25
    2. 第四の警告。故意の背教 10:26-31
    3. 忍耐の勧め 10:32-39
    4. 昔の人々の信仰 11:1-40
      1. 信仰の本質 11:1-3
      2. 洪水前の人々の信仰 11:4-7
      3. アブラハムとサラの信仰 11:8-12
      4. 信仰者の故郷である神の都 11:13-16
      5. 族長たちの信仰 11:17-22
      6. モーセの信仰 11:23-28
      7. 出エジプトとカナン征服のときの人々の信仰 11:29-31
      8. その他の信仰者の例 11:32-40
    5. 信仰の創始者・完成者なるイエス 12:1-3
    6. 父の懲らしめ 12:4-11
    7. 聖められることを求めよ 12:12-17
    8. 天に属するもの 12:18-24
    9. 天からの声を拒まないように注意せよ 12:25-29
  7. 戒め、祈り、結びのことば 13:1-13:25
    1. 隣人愛、不品行、食欲の戒め 13:1-6
    2. 模範 13:7-8
    3. 神に捧げるキリスト者のいけにえ 13:9-16
    4. 指導者への服従、祈りの要請 13:17-19
    5. 頌栄、結びのことばとあいさつ、祝祷 13:20-25
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.11.28
鈴木寛


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BRC no.94

明後日4日からヤコブの手紙に入ります。ヤコブについてなど、BRC no.40 にも書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

ヤコブの手紙以下ユダの手紙までのの七書を一般に「公同書簡」とよぶ場合があります。書簡の宛先が、特定のひとではなく、信者全般を対象としているからです。このヤコブの手紙1章1節は、次のように始まります。

神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
このヤコブは、no.40 にも書いたように、イエスの兄弟でユダヤ人の間にも信望があつく、エルサレム教会の中心人物だったヤコブであるとされています。宛先は「離散している十二部族の人たち」となっていますが、これは、一般的には、ユダヤ人をさすことばです。

1522年に宗教改革者マルチン・ルターが、新約聖書のドイツ語訳を出版したことはよく知られていますが(新旧約聖書完全版は1533年頃)、そのヤコブの手紙の序言に、次のように書かれています。(いのちのことば社「新聖書注解」からの引用)

「要するに、ヨハネの福音書ならびに彼の手紙第一、パウロの手紙群、特にローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、そして、ペテロの手紙第一、これらは、あなたにキリストを示し、必要なすべてのことを教え、たとえその他の書や教理を見たり聞いたりしなくても、あなたに幸いとなる書である。それゆえ、これらの書に比べるなら、ヤコブの手紙は軽い藁(わら)の手紙である。なぜなら、これは、福音的性格を何ら持っていないからである。」「私は、この書を聖書の真に主要な書の中には数えないが、人がそれに位置を与え、高く評価することを妨げはしない。」
ローマカトリック教会と戦っていたルータにとっては、秘蹟の一つ「終油」の根拠ともなり得る節 (5:14) を含んでいたり、なによりも、アブラハムの義認は、イサクを献げた行為によると書かれている (2:21)、に抵抗があったことは、確かでしょう。確かに、パウロの書簡などとは、かなり異なる印象を受けます。
ヤコブの手紙2章21節
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
背景として次のような問題があったのではないでしょうか。
Q. 信仰義認を大切にし、行いによる義の実践が弱いキリスト者は、ユダヤ教徒からみると倫理的にも劣るようにみえるが、それで良いのか。
イエスを救い主と信じてからも、律法を守り、高い倫理をたもって、義を実践していた人たちにとって、特にユダヤ人キリスト者の生活の変化について、ユダヤ教徒から非難を受けることが耐えられなかったのではないでしょうか。おそらく問題の行為もあったでしょうから。似たことは、歴史上に何度もあり、日本にもあるように思います。高い倫理観をもつ教育をうけた人が、キリスト者の行為をみて非難する。高い倫理観をもつ教育をうけ、その上でキリスト者となった人たちが、問題のあるキリスト者を見て、キリスト教とはそのようなものではなく、一般的な社会倫理としても高くないといけないと反論し、非キリスト者からの非難を避けるためにも、キリスト者の倫理観を高めようとする。

イエス様なら、このような問題にどのように答えられるでしょうか。ヤコブの手紙を読みながら、ゆっくり考えてみましょう。

ヤコブの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(中島守)を引用しておきます。

  1. あいさつ 1:1
  2. 信仰生活の諸相 1:2-1:27
    1. 試練 1:2-4
    2. 知恵を求める 1:5-8
    3. 真の富 1:9-11
    4. 試練と誘惑 1:12-15
    5. 良い贈り物
    6. 聞くことは行うこと 1:19-27
  3. 信仰と行ない 2:1-26
    1. 偏見を除く 2:1-7
    2. 最高の律法 2:8-13
    3. 信仰と行い 2:14-26
  4. 教師に要求される資質 3:1-3:18
    1. 舌を制すること 3:1-12
    2. 二つの知恵 3:13-18
  5. 種々の危険に対する警告 4:1-4:17
    1. 世か神かの二者択一 4:1-14
    2. 悪口を言うこと 4:11-12
    3. 生意気な自己過信 4:13-17
  6. 警告と勧め 5:1-5:20
    1. 金持ちに対する警告 5:1-6
    2. 再臨を思い堪え忍ぶこと 5:7-11
    3. 誓いについて 5:12
    4. 祈りの能力 5:13-18
    5. 迷える者たちを助けること 5:19-20
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.12.2
鈴木寛


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BRC no.95

明日6日からペトロの手紙一に入ります。BRC no.41 にも少し書きましたので、そちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

ペトロの手紙一は次のように始まります。1章1節を引用します。

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
宛先は、今のトルコ、小アジアの地域です。またこの手紙の最後 5章12節、13節にこの手紙に関する手がかりが書かれています。
12:わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
13:共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
シルワノは、パウロと共に伝道旅行をした人で、テサロニケの信徒への手紙一、二の著者としても登場します。バビロンは、文字通りの場所ではないと思われます。文体も洗練されたギリシャ語で書かれ、全体てきに、パウロの書いた手紙と近い印象をうけます。内容は充実しており、好きな聖句がたくさんあると思われる方も多いのではないでしょうか。
ペトロの手紙一1章15節、16節
15:召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
16:「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
16節の引用は、レビ記11章44節、45節、19章2節からの引用ですが、マタイによる福音書5章48節も関係しているように思われます。

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

ペトロの手紙一1章21節-23節
21:あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
22:あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
23:あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
ペトロの手紙一2章 5節
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
ペトロの手紙一2章16節
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
ペトロの手紙一3章9節
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
ペトロの手紙一 5章6節、7節
6:だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 7:思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
皆さんは、どのようなことばが心に残りましたか。

ペトロの手紙一 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(松木祐三)を引用しておきます。

  1. あいさつ 1:1-2
    1. 著者 1:1a
    2. 読者 1:1b-2a
    3. 祝福の挨拶 1:2b
  2. 賛美 1:3-5
    1. 神への賛美 1:3a
    2. 神の憐れみによる新生 1:3b
    3. 生ける望み 1:3c
    4. 大いなる資産 1:4
    5. 神の守り 1:5
  3. 救い 1:6-12
    1. 苦難を喜びに変える救い 1:6
    2. 苦難を栄光に変える救い 1:7
    3. キリストへの愛に至らせる救い 1:8-9
    4. 多くの者の関心事である救い 1:10-12
  4. キリスト者生活の特権と義務 1:13-2:10
    1. キリスト者の望みと聖い生活 1:13-21
    2. 兄弟愛の勧め 1:22-25
    3. 霊的成長の勧め 2:1-3
    4. 神の民の特権 2:4-10
  5. 実際的な勧め 2:11-3:12
    1. 信者と異教社会
    2. 信者と国家 2:13-17
    3. 信者であるしもべ 2:18-25
    4. 信者の妻と夫 3:1-8
    5. キリスト者生活の一般的な教え 3:8-12
  6. 苦難の中のキリスト者生活 3:13-4:19
    1. 不当な苦難の中での勝利 3:13-17
    2. 模範的キリスト者の苦しみ 3:18-22
    3. 苦難と聖い生活 4:1-6
    4. 終末時における倫理 4:7-11
    5. 苦難に対する準備 4:12-19
  7. 教会全体への勧め 5:1-11
    1. 長老たちへの勧め 5:1-4
    2. 若い人たちへの勧め 5:5a
    3. すべての信者への勧め 5:4b-11
  8. 終わりのあいさつ 5:12-14
    1. シルワノ 5:12
    2. 婦人(教会)とマルコ 5:13
    3. 祝福 5:14

2012.12.5
鈴木寛


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BRC no.96

明日9日からペトロの手紙二に入ります。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

ペトロの手紙二は次のように始まります。1章1節を引用します。

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
3章1節には、
愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
とありますから、ペテロの手紙一を意識しているのかもしれません。

1章3節には「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」とあり、さらに4節には、「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。(中略)神の本性にあずからせていただくようになるためです。」

ペトロの手紙二1章5節-8節
5:だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
6:知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
7:信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8:これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
7節に「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」とありますが、「愛を加え」ようとしていると、このような「神の本性」が与えられるという約束のうちを生きていることが確認できると言うことでしょうか。

この当時、聖書の無理な解釈から、偽預言者と呼ばれている、似て非なる教えがたくさん出てきているようです。そのことを受けてでしょうか、聖書の解釈に関係する記述があります。二カ所引用します。

ペトロの手紙二1章20節
20:何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
21:なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ペトロの手紙二3章15節、16節
15:また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
16:彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。 皆さんは、どんなことを学んでおられますか。

ペトロの手紙二 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(上沼昌雄)を引用しておきます。

  1. あいさつ 1:1-2
  2. 真の知識 1:3-11
    1. キリスト者の特権 1:3-4
    2. 信仰に備わるもの 1:5-9
    3. 信仰の目標 1:10-11
  3. 知識の確証 1:12-21
    1. 伝達されるもの 1:12-15
    2. キリストの威光の目標 1:16-18
    3. 聖書の預言 1:19-21
  4. 偽教師 2:1-22
    1. 偽教師の教え 2:1-3
    2. 神のさばきの事実 2:4-10a
    3. 偽教師の姿 2:10b-16
    4. 教えのむなしさ 2:17-22
  5. キリスト者の望みと忍耐 3:1-18
    1. 励まし 3:1-2
    2. あざける者の最後 3:3-7
    3. 主の日の到来と備え 3:6-13
    4. 最後の勧め 3:14-18

2012.12.8
鈴木寛


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BRC no.97

明日10日からヨハネの手紙一に入ります。ヨハネについてなど、BRC no.40 にも書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

冒頭1章1節から4節を引用します。

1:初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
2:この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
3:わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
4:わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
他の手紙と異なり、著者も、宛先もありません。新約聖書に収められている手紙といわれるものでは、このヨハネの手紙一と、ヘブライ人への手紙だけです。名前はありませんが、書いた人について暗示させるものはあります。1節には「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とありますが、この「命の言葉」はイエス・キリストでしょう。すると、1節は、このイエス・キリストと生活を共にしたことを表現しているように思われます。書名は、すこし後に付けられたものですが、伝統的に、第4福音書を書いた12弟子のひとり、ゼベダイの子ヨハネを著者としています。

ヨハネの福音書にも20章30節、31節にその福音書を書いた目的が書かれていますが、この手紙にも3節、4節にこの手紙の目的が書かれています。読者が著者たちとの交わり、すなわち、父なる神と、御子イエスキリストとの交わりを持つため。そして、喜びが満ちあふれるようになるため、とあります。

口語訳では「交わりにあずかる」となっていますが、この交わりとは何なのでしょうか。このヨハネの手紙一には、冒頭の部分にもある瞑想的なことばが多くありますが、同時に、実際的なことば、実質を表すことばも多く含まれています。

皆さんは、このヨハネの手紙一から何を学ばれるでしょうか。最後に、4章19節から5章5節を引用します。

19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
1:イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
2:このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
3:神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
4:神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
わたしたちにとってたいせつな神様にとってたいせつなわたしたちの兄弟を愛すること、互いに愛し合うこと。これが神様の掟です。それは、まず、神様が、私たちを愛してくださったからです。そして、この掟を守ることは、難しいことではないと、ここで宣言されていますね。それは、なぜだと書いてありますか。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の中で生きていきたいですね。

ヨハネの手紙一 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。

  1. 序文 1:1-4
  2. 光の中を歩むこと 1:5-2:6
    1. 神の特質とそれにふさわしい歩み 1:5-2:2
    2. キリストのように歩むこと 2:3-6
  3. みことばにとどまること 2:7-29
    1. 古くて新しい命令 2:7-11
    2. 信者の現在の立場 2:12-17
    3. キリストにとどまること 2:18-29
  4. 神のこどもであること 3:1-4:6
    1. 神の子どもと悪魔の子ども 3:1-12
    2. 神の子どもの証拠 3:13-24
    3. 真理の霊 4:1-6
  5. 互いに愛し合うこと 4:7-21
    1. 神の愛 4:7-12
    2. 互いに愛し合うこと 4:13-21
  6. 信仰の勝利 5:1-17
    1. 信仰の勝利 5:1-5
    2. 神のあかし 5:6-12
    3. 霊的確信 5:13-17
  7. 結び 5:18-21

2012.12.9
鈴木寛


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BRC no.98

明日13日は、ヨハネの手紙二と三を読みます。著者のヨハネについてなど、BRC no.40 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

ヨハネの手紙二は次のように始まっています。1節を引用します。

長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
著者も、宛先も明確ではありませんが、この文章から個人的な手紙であることが、分かります。そして、この女性は、とても、すばらしい人のようですね。また、当時の問題も分かります。7節と9節には、次のようにあります。
7:このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。

9:だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。

7節は、イエスは神の子であるが、完全な人ではなかったいう人たちがいたこと、9節では、キリストの教えを越えて、これにとどまらない人たちがいたことが書かれています。初代教会の人たちは、このような問題をたくさん持っていたのでしょう。もしかすると、いまは、それをあまり真剣に議論しなくなったかもしれません。

ヨハネの手紙二 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。

  1. あいさつ(緒言)1-3
  2. メッセージ 4-11
    1. 奨励 - 愛のうちを歩むこと 4-6
    2. 警告 - 偽りの教師 7-11
      1. 偽りの教えの性質 - 受肉の否定 7
      2. 注意する勧告 - 自己吟味 8-9
      3. 接待への警告 10-11
  3. 結語(あいさつ)12-13
    1. 訪問の計画 12
    2. 読者の姉妹の子どもたちからのあいさつ 13

ヨハネの手紙三は次のように始まります。

1:長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
こちらの手紙でも、問題が書かれていますが、親近感も感じます。どの時代にもこのような人がいるのかもしれません。
9:わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
10:だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
ヨハネの手紙三 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。
  1. 緒言 1-4
    1. あいさつ 1
    2. 祈りと喜び 2-4
  2. ガイオへの賛辞 5-8
    1. 彼の接待への賛辞 5-6
    2. 接待の継続に関する奨励 7-8
  3. デオテレペスの批判 9-10
  4. デメテリオの推薦 11-12
  5. 結語 13-15
    1. 訪問の計画 13-14
    2. あいさつ 15
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。
愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。(ヨハネの手紙三2節)

2012.12.12
鈴木寛


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BRC no.99

明日14日は、ユダの手紙を読んでから、ヨハネの黙示録に入ります。。著者のユダについて、BRC no.40 に少し書きましたのでそちらも参照してください。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

1節は次のように始まります。

イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
このユダは、イエスの兄弟で、ヤコブの手紙の記者だとされるヤコブ(ガラテヤ 1:19)の弟のユダが想定されています。マタイによる福音書13章55には「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」とユダの名前もあります。(マルコによる福音書6章3節参照)9節、11節、14節をみると、旧約聖書には、書かれていない記事がはいっています。「モーセの昇天」「エノク書」と言われているものです。異冊の聖書を持っている私たちは、偽典ともいわれるものを引用しているもの自体が心配になりますが、その感覚は違ったのかもしれません。

これはユダの手紙の最後17節から20節を引用します。

17:愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。
18:彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」
19:この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。
20:しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。
ユダの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(上沼昌雄)を引用しておきます。
  1. あいさつ 1-2
  2. にせ兄弟たちの出現 3-4
  3. 神のさばきの事実 5-7
  4. にせ兄弟たちの本性 8-16
  5. キリスト者への勧告 17-23
  6. 賛栄 24-25
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.12.13
鈴木寛


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BRC no.100

14日から、ヨハネの黙示録に入りました。BRC no.41 および no.42 に書きましたのでそちらも参照してください。

ヨハネの黙示録の最初1章1節から5節を引用してみましょう。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。

1:イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
2:ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
3:この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
4,5:ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
6:わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
「すぐにでも起こるはずのこと」が、神、キリスト、天使を経由して、神の僕のヨハネに伝えられたと書かれています。そして、宛先は「アジア州にある七つの教会」です。七つの教会の名前は11節に記されています。20節には
あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
とあります。教会の天使が何を表しているのかはよく分かりませんが、天に輝いているものとしての星と、地でほの暗いけれども、暗闇を照らしている灯火としての教会が対応しているというのは、暗示的です。今回は、七つの教会に対する最初の節を一つずつ見てみましょう。
エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。(2章1節)

スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。(2章8節)

ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。(2章12節)

ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。(2章18節)

サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。(3章1節)

フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。(3章7節)

ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。(3章14節)

みな、それぞれの教会にではなく、教会の天使に書き送っていますね。また神の子と出てきますから、イエス・キリストをこのように表しているようです。「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」とありましたから、ヨハネはキリストの声を天使を通して聞いているのでしょう。しかし、ヨハネからのメッセージではなく、キリストから、ヨハネへのメッセージと同じように、キリストから、キリストの使者としての天使を通して、教会に伝えられているのでしょう。さて一つ一つはどのような意味があるのでしょうか。これらキリストについて表現していることと、それぞれの教会の天使に書き送ったメッセージとは関連しているのでしょうか。少しゆっくり、ていねいに読んでみることができると良いですね。

これら7つの教会の場所を確認したい方は、下のリンクの地図をご覧になることをお勧めします。

http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/127.jpg
この地図は127となっていますが、このサイトには、本当に聖書に関連した地図が本当にたくさんおいてあります。 この BRC のホームページのリンクにも載せてある Bible Atlas です。英語ですが、参考になると思いますよ。

ヨハネの黙示録 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(山口昇)を引用しておきます。

  1. 序言 1:1-8
    1. 表題 1:1-3
    2. あいさつ 1:4-8
  2. 七つの教会への手紙 1:9-3:22
    1. 手紙を書けとの命令 1:9-11
    2. 人の子のような方の幻 1:12-20
    3. 七つの教会への手紙 2:1-3:22
      1. エペソの教会への手紙 2:1-7
      2. スミルナの教会への手紙 2:8-11
      3. ペルガモの教会への手紙 2:12-17
      4. テアテラの教会への手紙 2:18-29
      5. サルデスの教会への手紙 3:1-6
      6. フィラデルフィヤの教会への手紙 3:7-13
      7. ラオデキヤの教会への手紙 3:14-22
  3. 天の幻 4:1-5:14
    1. 父なる神の幻 4:1-11
    2. 子羊の幻 5:1-14
  4. 七つの封印の幻 6:1-8:6
    1. 第一の封印 6:1-2
    2. 第二の封印 6:3-4
    3. 第三の封印 6:5-6
    4. 第四の封印 6:7-8
    5. 第五の封印 6:9-11
    6. 第六の封印 6:12-17
    7. 十四万四千人の幻 7:1-17
      1. 十四万四千人の幻 7:1-8
      2. 天における大群衆の幻 7:9-17
    8. 第七の封印 8:1-6
  5. 七つのラッパの幻 8:7-11:19
    1. 第一のラッパ 8:7
    2. 第二のラッパ 8:8-9
    3. 第三のラッパ 8:10-11
    4. 第四のラッパ 8:12
    5. わしの幻 8:13
    6. 第五のラッパ 8:1-12
    7. 第六のラッパ 9:13-21
    8. 小さな巻物の幻 10:1-11
    9. 二人の証人の幻 11:1-14
    10. 第七のラッパ 11:15-19
  6. 中間的挿景 12:1-14:20
    1. 女と竜 12:1-18
    2. 海から上ってきた獣 13:1-10
    3. 地から上ってきた獣 13:11-18
    4. 子羊と十四万四千人 14:1-5
    5. 審判の告知 14:6-20
  7. 七つの鉢のさばき 15:1-16:21
    1. 天における準備 15:1-8
    2. 七つの鉢によるさばき 16:1-21
  8. バビロンの滅亡 17:1-18:24
    1. 大淫婦に対する裁きの宣告 17:1-18
      1. 大淫婦の姿 17:1-6
      2. 大淫婦と獣の秘儀 17:7-14
      3. 大淫婦に対するさばき 17:15-18
    2. バビロンの滅亡 18:1-24
      1. バビロン滅亡の宣告 18:1-8
      2. バビロン滅亡の嘆き 18:9-24
  9. 最後の審判 19:1-20:15
    1. 天における勝利の賛美 19:1-5
    2. 子羊の婚園 19:6-10
    3. 王の王の勝利 19:11-21
    4. 先年王国の到来 20:1-6
    5. 最後の戦い 20:7-10
    6. 最後の審判 20:11-15
  10. 新天新地 21:1-22:5
    1. 新天新地 21:1-8
    2. 新しいエルサレム 21:9-22:5
  11. 結語 22:6-21
    1. 御使いのことば 22:6-11
    2. キリストのことば 22:12-16
    3. 御霊と花嫁のことば 22:17
    4. ヨハネのことば 22:18-21
聖書の通読を通し、皆さんはなにを学んでおられるでしょうか。

2012.12.16
鈴木寛


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BRC no.101

今日はクリスマスイブ、明日はいよいよクリスマスですね。クリスマスについては、BRC no.42 に書きましたから、良かったら読んでみてください。

2011年1月1日に始まった通読日課も、明日2012年12日25日に新約聖書の最後の章にたどり着きます。途中で挫折してしまったひとも何人かおられることを聞いていますが、何回か中断はしたがまた続けて読んでいるというかたや、このメールだけは読んでいるというかたもおられるようです。この通読の会を通して少しでも、聖書全体に興味も持っていただき、いろいろな箇所から聖書からのメッセージについて考えていただければと願っています。

人生において、目標を立て、その達成を目指すことは、貴重な営みですし、それによって特別な成長が得られることも否定できませんが、わたしは、目標達成の度合いによって評価したり、目標をたてて自分自身を駆り立てることを人生においてとても大切な部分におくことには危険性も感じています。みなさんはどう思われますか。

この通読の会、来年度も続けたいと思います。登録してくださったみなさんには、特別なご連絡が無い限り、メールを送り続ける予定です。ただ、大学を卒業するなど、受け取るメールアドレスが変更になるときは、ぜひ、ご連絡をお願いいたします。

来年度からの通読の会については、次回とさせていただき、今回は、わたしがこのメールを書いていて、一つだけ、ここに書いておきたいことを書かせていただきます。実はすでに、BRC no.41 に少し書きましたが、聖書記者のことです。

サポートレターでは、それぞれの巻について少しずつ書きましたが、難しかったのは著者です。著者が書いてないものもありますし、書いてあっても、様々な理由から、それが著者ではないと言われているものも多くあります。わたしは聖書学者ではありませんから、その一つ一つについて論じるつもりはありません。また、聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻となっていますが、この成り立ちについても、ここには、書けません。疑問として考えたことを二つ書きます。

Q1. 本人とは異なるひとが他の著者を名乗るなどということがあっても良いのだろうか。
Q2. 聖書は神の言葉だというとき、この著者問題はどのように考えたらよいのだろうか。
Q1について、アカデミックな世界では剽窃は大変な問題ですが、そのようなことは、聖書においては問題にならないのだろうかという疑問を呈することもできるでしょう。また、神の霊、聖霊に導かれて書かれたというときによく次の二カ所が引用されます。
テモテへの第二の手紙3章16節
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
ペテロの第二の手紙1章20節・21節
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
しかし、この二書も、実際の著者は、著者とされているパウロやペテロとは、異なるだろうとされていることです。

一つの解決?は、そのように疑問を持つことをやめてしまうことです。キリスト教会にはそのような立場をとる人たちもたくさんいます。もう一つのグループはひとのなせるわざとして、その当時の必要からペテロやパウロの名前を利用したりすることは当然だとして、純粋に学問として合理的な理由を提案する人たちです。いずれにしても、歴史的証拠は非常に少なく、決定的な結論を出すことは難しいように思われます。正直に書くと、わたしは、このどちらの立場にも疑問を感じます。

混乱したまま終わるのは適切ではないと思うので、最後にわたしの考えを簡単にまとめておきます。

まず、著者に対する最初の疑問は、まったくお門違いだということです。キリスト教会は最初のころも、一枚岩とはいえなかったと思いますが、いまとは比較にならないほど、一致が守られていたと言うことです。それは、現代のキリスト教会が数え切れないほどの宗派に分かれている状態から推察されるべきではなく、多くのことが、信仰共同体の共通知、またよく使われていた表現だということです。最近「ICUの一般教育」という文章をまとめました。書き下ろしといっても良いものですが、おそらく7割程度の文章は、いままですでに何かに書いてあった文章の焼き直しになってしまうのです。かつ書いてからだれの文章にしようか考えるのです。大学の名前にするか、学長の名前にするか、教養学部長の名前にするか、一般教育委員会の名前にするか、わたしの個人の名前にするか。なんらかの承認は大学では必要ですが、目的に応じて著者をきめています。

次に注意すべき事は、聖書から教義が出てくるのであって、それも、いろいろな問題を背景として、その問題を整理するために、教義ができるのであって、教義をもとにして聖書を読むのは、本末転倒だということです。読むのは、聖書自体であって、聞いたことのある教義を読み取ろうとするのは、誤りだと思います。それぞれの巻がなにを伝えようとしているかに、向き合うべきです。

三番目に、現在の聖書は、キリスト教の歴史のなかでかなり早い時点で、確定していたということです。その時期は多少議論があるので、ここには書きませんが、歴史的に、現在の聖書が他の書物とは異なるとして特別なものとされてきた、そのように告白されてきたということです。それが聖書ですから、その聖書をわれわれが読んでいるわけです。この過程が完璧であったかどうか、わたしにも分かりませんが、この聖書をしっかりとまずは読みたいですね。

最後に、聖書は、そして特に新約聖書の書かれた目的は、次の、聖句に要約されているということです。

ヨハネによる福音書20章31節
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネの手紙一1章3節
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

聖書記者が何を伝えたいと思って書いたのかから離れないようにして、今後も聖書を読んでいきたいと思っています。

みなさんの感想も聞かせてくだされば幸いです。

2012.12.24
鈴木寛


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BRC 2011 Memo

登録人数は以下の通り
2011.1.1: 21人
2011.1.11: 25人
2011.8.31: 30人
2012.1.10: 32人
2012.9.8: 36人
内ICU生または卒業生(途中で卒業した学生も含め)31人、職員2人、その他3人

2012.12.25
鈴木寛


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