現在申し込みは 16人です。WG(学生新聞)新年号の教員からのメッセージにもこのお誘いを書いたので、新年に入ってからも参加者は増えるのではないかと思いますが、始める前に第一弾を送ります。
Bible Reading Club からとって、BRC とする事にしておきます。
mailing list や、group をネット上に設定することも考えましたが、いまは控えることにしています。 それは、匿名参加も可とするためです。 みなでグループとして共同体のようにして読んでいくのは楽しいのですが、いろいろな背景の方が居ること、残念ながら途中でやめる方も出てくるかも知れません。そこで原則は匿名とします。
自分は名乗り出てよいですよというひとは、短い自己紹介を書いて下さい。
それがあつまったところで全員に流します。引用は -- から -- までとし以下のようにして下さい。その部分のみ引用します。
例
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数学を教えている鈴木寛です。
「聖書を一緒に読みませんか」を主催しています。このたび BRC を始めました。
聖書を読む楽しみをみなさんとともに味わうことができればと願っています。
また、できるだけのサポートをしたいと考えています。
改善点などありましたら、なんでも書いて下さい。
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自己紹介以外は、投稿のときはイニシャルのようなものだけにして下さい。全くの匿名でも構いません。
メールは転送、掲載などが簡単ですから、どのように引用されるかもわかりません。
わたしは構いませんが、みなさまに迷惑がかからないように、投稿(BRC のタイトルの元でのわたしへのメール)はイニシャルか自分できめた簡単なハンドルネームだけで書いて下さい。無論最初から最後まで匿名で通しても構いません。ただ私はどのような方が参加しているか知りたいので、申し込まれた方に、私宛には自己紹介をお願いしています。
1月1日は創世記1章と2章を読んで下さい。 一日2章ずつ進みます。
下に pdf の通読表を添付しますが、それ以外の情報は、
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011.html
を参照して下さい。(上のホームページにも一つ目と同じ pdf は置いてあります。
またこれを作成した Excel File も必要な方は言って下さい。自分用の通読表を作りたい方もいると思うので。)
印刷するのは、BibleChapters5 の一ページ目だけで十分だと思います。それだけ簡単に説明します。
各巻の章が書いてあります。出エジプトのあとに 2011.2.14 とかいてあるのは、その日に39章と40章を読み読み終わるということ、
レビ記の最後に2011.2.28-1 と書いてあるのは、この日はレビ記の27章を読みレビ記を読み終わり、同じ日に民数記の1章を読むことを意味しています。つまり、レビ記の最後の章を読むのは2011.2.28に読む2章のうちの1章目だということです。
インターネットに接続しにくいかたのために、次のメールで、上記のホームページを text にしておくります。
ある程度長い同じ情報のもおですので、携帯などの方は、インターネット接続でご覧になった方がよいと思います。
1月1日からみなさんと一緒に聖書を通読できることを楽しみにしています。
鈴木寛
(http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011.html
2010.12.31
聖書を読む目的はいろいろと違うと思います。
クリスチャンのかたにとって(わたしもそうですが)は、聖書を読むことは、神様からのメッセージを読み取ることにもなると思いますが、
まずは、その箇所は何を伝えようとしているかを受け取ることはどんな読み方にしても基本的だと思うからです。
そして、基本的なだけでなく共通の目的ともなり得るからです。
教義や解釈、背景などをわたしが書くこともあるかもしれませんが、断定的には書かないつもりです。
ひとつには、私の専門は数学で、断定的に書くほどの学識がないこともありますが、
同時に数学で正しいというほどに確実な解釈や学説があるわけではないと私が考えているからでもあります。
質問、感想など、どんどん私宛に送って下さい。
どうしても個人的に答えてほしいという場合をのぞいて極力公開の質問、感想として下さい。
質問、感想の部分をわたしが転送しますので、できれば、ハイフンで線をひき(--- から --- で区切り)、
匿名にするか最後にイニシャル(または自分で決めたハンドルネーム)をつけて下さい。
前にも書いたように、お互いに知っているわけではないひとにも転送されますので、多少気をつけたいと思います。
すでに、何人か自己紹介文を送って下さっていますが、もうすこしあつまってから1月の終わりぐらいにまとめて送ります。
一般的なことはここまでとしましょう。
創世記について
聖書はもともとは巻物です。合本になったのもかなりあとになってからです。
最初に我々が読むのは、旧約聖書その創世記です。旧約聖書は一部を除いてヘブル語で書かれています。
創世記という名前ももともとの聖書にはついていません。
最初が「ベレシース(初め)」という言葉からはじまるので、ヘブル語ではベレシースと呼ばれ、ギリシャ語訳などの名前から創世記と日本語訳聖書ではなっています。
旧約聖書の最初の五巻は、トーラー(律法)また、モーセ五書とも呼ばれています。
「旧約」とは古い約束(または契約)という意味で、イエスを通しての新しい神の約束が「新約」の大体の意味ですから、
イエスの時代には新約聖書はなく、聖書といえば、旧約聖書ですが、もちろん旧約聖書という言葉もなく、「律法と預言者(マタイ7:12)」とか「モーセの律法と預言者の書と詩編(ルカ24:44)」などと呼ばれています。
このようなことを書くことは目的とはしていませんが、やはり本当に基本的なことだけは書いておこうと思った次第です。
創世記は50章あります。章という分け方も最初はなかったものです。
創世記の分け方はいくつも考えられますが、大ざっぱにわけると、
11:26(11章26節の意味です)までが「世界とひとのはじまり」について。
11:27 からが「イスラエルのはじまり」について。
となっています。前半は神様による世界と人間の創造からアブラハムまで、
後半は基本的にはアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語です。
前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。
1章・2章
神が世界を創造したこと。
混沌としたものがだんだん秩序をもったものとなったこと。
1:27 には「神は自分のかたちに人を創造した」とあること。
神は創造されたものをみて「それは、はなはだ良かった」と言っていること。
7日目を休んだことがかかれていること。安息日の起源(ただし日曜日は1日目です)
2:7 土のちりで人を造り、命の息をその鼻にふきいれ、人は生きた人となったこと。
2:17 に善悪を知る木からはとって食べてはいけないと言われたことが書かれていること。
2:20 に人には助け手が見つからなかった。それで女を造り、結婚のことが記されていること。
などです。いろいろと感想を持った方、ここに挙げなかったところで非常に印象にのこった所があるかたいろいろとおられると思います。
むろんそれでよいと思います。ひとつの読み方として、「何を伝えたかったか」の部分を記してみたまでです。
他にも神のことばは「ひかりあれ」と言われればその通りになる、ということを伝えていると言う部分を受け取った方もいるかも知れません。
神のことばは、人間のことばとはかなり異なるものですね。
このようにほんの少しだけ挙げてみても、たくさんのことがここにつまっていることを気づかれると思います。
科学的にみるとおかしいことがたくさんあると考える人もいるかもしれませんが、聖書は地球や人間の科学的ななりたちを伝えようとしてかかれたものではないと思います。すくなくともそれは第一義ではないと思います。ひっかかることは引っかかることとして書き留め、ここで著者が伝えようとしていることを読み取ってほしいというのがわたしの最初のメッセージです。
2:7 だけとってみても、ひとは「ちり」であること、命の息を(神によって)ふきいれられてはじめて生きた人となったことが書かれています。
ここからみなさんが何を受け取るかは、みなさんに任せますが、聖書は、この創世記の記者は、この記述を通しても読者に何かを伝えようとしていると思います。
皆様の発見に期待しています。
3・4章
もうここに罪と堕落、殺人が出てきます。ここでもいろいろなことを読み取ることができると思います。聖書全体からすると、3:15 に最初のメシヤ預言があると見ることもできます。
まずはみなさんがどう読まれるか、どのような疑問を持たれるかに任せることにしましょう。
疑問に思ったこと、心に残ったことは、書き留めておくことをお薦めします。
あまり長いと聖書ではなく、これを読むのが大変になりますから、今日はこの辺にします。
一週間に一回よりは少ないペースになると思いますが、ときどき、みなさんに書こうと思います。
いろいろと考えながら聖書をみなさんと一緒に読めること私も、楽しみたいと思います。
2011.1.2
上にも書いたように今日の通読箇所は創世記11章と12章です。ここからアブラハム(最初はアブラム)の物語が始まります。新約聖書の最初はマタイによる福音書ですが「アブラハムの子であるダビデの子イエス・キリストの系図。」としてスタートします。イスラエルの人たちは自分たちをアブラハムの子孫だと言います(ヨハネ8:33, 39)。アブラハムは民族の父でも、信仰の父でもあります。ダビデがある意味で理想の王であるのと同じように、アブラハムは信仰の原点、民族の父です。また出エジプト記 3:6 では神自身が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言っています。また出エジプト記2:24には「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあります。
では、アブラム(後のアブラム)はどのような人でどのように生きたのでしょうか。そして神はアブラハムとどのような契約をしたのでしょうか。そのことが今日の箇所から書かれています。すでにここまでにも神様の約束が出てきますが、旧約・新約が古い契約・新しい契約をあらわすとすると、それらが何かは重要です。ヤコブの手紙2:23では、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。アブラハムにも問題行為があるように思われますが、それでもなぜこの様に呼ばれたのか、その理由を考えながら読んでみてください。
他には、アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。またパレスチナ問題をヤコブ(アブラハムの孫)の子孫とイシマエル(アブラハムの妾の子)の子孫やエソウ(ヤコブの双子の兄)との争いと表現する人もいます。神はイシマエルの母ハガルをどうあつかったのか、神の選びとは何なのだろうと考えながら読むのもよいと思います。
最初カルデヤのウル(現在のイラク)に住んでいたアブラム一家が、いずれはカナンの地に移り住みます。ウルからカナンの北までが三日月形肥沃地帯と呼ばれている土地です。
これからいろいろな人物が登場します。また地名もたくさん出てきますので、上のリンクに地図と人物の表も加えておきました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフとつづく物語はいろいろと考えさせられること、興味深い部分などあると思います。感想や、質問を書いて下さっても良いですよ。-- から -- で囲って下されば、他のかたにも転送します。
2011.1.6
25章ではアブラハムが175年の生涯を閉じ葬られます。最初の75年については聖書は何も語っていません。アブラハムはカナンの地をうけつぐとの約束を神から与えられますが、実際に得たのは、妻のサラと自分が葬られた墓とその周りのすこしの畑地だけでした。イサクを神に捧げようとするところは緊迫する場面ですが、それはモリヤの地と書かれていますね。モリヤということばはもう一回だけ聖書に出てきます。それは、歴代誌下3章1節。歴代誌記者は、神殿の建てられた場所を、アブラハムがイサクを献げ、神に義と認められた場所と関連づけているということになります。ヤコブの手紙2章23節でアブラハムが「神の友」と呼ばれている背景には、このことと、「神がそのひとり子をたまわった(ヨハネ福音書3章16節)」ことの類比があるのかもしれません。(単に他からの引用という説もあります。)前回のメールには「アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。」と書きましたが、何か気づいたことはありましたか。それぞれの周囲の人がアブラハムやロトをどう見ていたか、神の使いのもてなし方、神または神の使いへの祈りや願い、ひとつひとつ比較するといろいろな違いにも気づかされると思います。アブラハムは苦悩を語りませんが、おそらく苦悩が無かったわけではないでしょう。みなさんは何を感じられましたか。
さて25章には、アブラハムの子イサクの系図とあります。no.3 には「前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。」と書きました。この区分で考えると、ここからイサクの時代ですが、じつは、イサクのことはあまり書かれていません。次に「系図」ということばが出てくるのは36章ですが、その直前でイサクが亡くなっています。そしてそれが、創世記に出てくる系図とういことばの最後です。さらにそれは、イスラエル(ヤコブの別名)の系図であるかと思うと、そうではないのですね。系図を追いかけるのも、奥が深いですよ。アダムの系図、ノアの子らセム、ハム、ヤペテの系図も。
35章おわりまで、話しの中心はほとんどがヤコブです。イスラエルの12部族の基本の部分(後に変更が加えられるので)を構成するヤコブの12人のこどものうち11人が生まれます。ヤコブはどのような人で、それぞれのときに、どのように行動し、どのように神に応答していくでしょうか。単純ではありません。あなたは、ヤコブの物語からなにを学ぶでしょうか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。これから一週間ヤコブとの格闘を楽しんでください。
2011.1.13
これまでは、ヤコブが中心でしたが、ヤコブの人生については、どんなことを感じられましたか。
ヤコブは、いろいろな策略をもちい、自分にとって都合の良いように進むように仕組んでいきます。わたしは昔、自分を「ヤコブ的」だと感じ、自分を嫌っていました。神様はそれと関係ないかのように、ヤコブを祝福し、そしてヤコブもヤコブなりにそれに応答していきました。
37章からはヨセフ物語が始まりました。しかしその前に34章には、次男シメオンと三男レビ、35章22節には長男ルベンに関する記事が挿入され、その直前に12男末息子のベニヤミン誕生と、ヤコブ(イスラエル)最愛のラケルの死が記され、38章には四男ユダの物語が、オナニーの語源ともなったオナンの物語と共に入っています。この行為自体が罪(悪)かどうかの議論もありますが、ここでは何が悪だと書かれているかは確認しておくべきでしょう。新約聖書は、最初がマタイによる福音書になっており、その最初には長い系図が書かれています。それが、アブラハムから始まっていることは、前に書きましたが、そこに通常は系図に書かない女性の名前がマリヤを含め4人でています。その最初がここに出てくるタマルですね。ここまでで、ヨセフ物語の背景ができあがっているのではないかと思います。ヨセフ物語に登場するヨセフの兄弟達についても上に書いたことからいろいろと考えられるのではないかと思います。そのような背景でヨセフは、どのように自分の人生を受け入れ、神のなされることをどのように受け入れ、神に応答していったのでしょうか。
あと少しで、創世記も終わり、出エジプト記に入りますが、イスラエルがエジプトに移ってきた背景がこのヨセフ物語になっています。これが歴史的にどの時代に当たるのか、議論もあり、史実性をまったく否定する学者もいますが、創世記全体とヨセフ物語の高い精神性を見ると、エジプト王、ファラオ(パロ)にヨセフが特別な扱いを受けることがとても自然であるようにも思えますが、みなさんは、どう思われますか。大体の想定年代は、アブラハムはBC2000年ぐらい、ダビデ王朝がBC1000年ぐらいとしておきましょう。
これから一週間ヨセフ物語、そして出エジプトへと移っていきます。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.1.20
旧約聖書は古い約束、契約の書、新約聖書は新しい約束の書だと書きました。聖書全体は、一つの救済史を記しているとも言われます。神の救いの歴史です。出エジプトはまさにそのエジプトでの奴隷生活からの救済が書かれています。特にキリスト教にとっても特別の意味を持つ過ぎ越の祭りの起源も記されています。また旧約聖書最初の5巻(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)は律法とも言われますが、出エジプト記20章にはその核となる、「十戒」がモーセを通して民に与えられることが書かれています。キリスト教の教派 (denomination) によって、十戒をどの程度重要視するかは変わりますし、そもそも10とはどのように数えるのかも教派によって異なっています。律法をどうとらえるかの分かれ道でもあります。
さて、創世記から出エジプト記への大きな変化は何でしょうか。創世記では、神が個人に現れメッセージが語られます。アダムにエバに、カインに、ノアに、そしてアブラハムに、ハガルに、イサクにヤコブに。他にはだれに語っていますか。アブラハム以降、族長達の神で、その神を、その家族も僕も信じ、周辺の人も、これら族長達が神の祝福を得ていることを認めます。信仰を守るためには、他の民または町からある程度離れて住みます。ロトはソドムに住みますが信仰的な意味では、アブラハムとは大分違う記述がされています。ヤコブはシケムの町の近くに住みますが、娘デナのことで問題がおきます。そしてまた町から離れて住みます。ここまでは、個人的な神との交わりの段階ですが、ヨセフのいるエジプトに移住してから、民が増え、一つの家族だったものが、民族、国民と言われるグループになったのが、出エジプト記の背景です。
個人が神に向き合い、それに神が応答する、神が語りかけ、個人がそれに応答する、このことは、出エジプト以降も続きます。たとえば、出エジプト記1章には、助産婦が王より神を畏れたことが書かれています。そしてモーセです。しかし、民族での出エジプト以降では、共同体としての規範が必要となります。そこで与えられるのが律法だとすれば、非常に自然なことと言わざるを得ません。創世記は興味深い話しが幾つも出てきますが、ひとつひとつの行動について、これは正しいのかと問うとなかなか判断が難しかったのではないでしょうか。その正しさの基準が神が与えられた律法です。
個人的な神から、民の神、神が個人に語りかけるところから、神が民を選び出す。そのことが書かれているのが出エジプトということになります。その最初が、3章の神が名を告げられることと、その神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主ということです。この神のもとでモーセを通して告げられる神のことばで、民は一つになれるのでしょうか。そのように、神のみこころに生きる者となっていくのでしょうか。神とモーセと民、神様が望んでおられる関係はどのようなものでしょうか。そして民にとって神はどのような存在なのでしょうか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.1.27
それは後回しにして、わたしは、基本的には、皆さんが聖書を読んで、そこから自分でいろいろなことを汲み取っていくようになることが、一番だと考えていますので、なるべく、それぞれの巻についての簡単な概要と、日々の聖書の箇所から、どんなことをわたしが読み取っているかを書くようにしていこうと思います。それに他の方々からのメッセージや、学んだことなどが加わると良いですね。
さて、今日は2月6日ですから、通読箇所は、出エジプト記23章と24章です。
出エジプト記という名前は、創世記の時にも書きましたが、もともとのヘブル語聖書の名前ではありません。大体は、紀元前3世紀頃からエジプトのアレクサンドリアで翻訳されたというギリシャ語訳旧約聖書(Septuaginta, セプチュアギンタ、七十人訳と呼ばれ、略記は LXX)にある名前が、紀元4世紀ごろのヒエロニムスという教会のリーダーを中心とした人たちがラテン語に聖書を翻訳したウルガタ訳へと引き継がれて、我々がいま持っている聖書の各巻の名前になったと言われています。すべての巻の名前がそうかどうかは調べていないのでよくわかりません。
ICUの名誉教授の並木浩一先生(旧約学)の定年前の最後のキリスト教概論に一学期間殆ど出席したのですが、並木先生曰く、この七十人訳はアレクサンドリアに移り住んでいたたくさんのユダヤ人が、2世・3世となっていくにつれ、ヘブル語を話せなくなっていくこども達が大多数になってきた。そのこども達に信仰を継承すべく翻訳をしたもので、読み聞かせのような形式になっており、厳密な訳というより、聖書の信仰を伝えることを目的にしていると言っておられました。新約聖書の記者のルカなどのギリシャ人は、ヘブル語はおそらく読めませんから、基本的に旧約聖書の引用は、この七十人訳によっていると言われています。
脱線しました。さて、各巻の名前に戻り、七十人訳を紀元とした各巻の名前に対して、もともとのヘブル語の聖書は、それぞれの巻の最初の言葉をとって、その巻を呼ぶときに使っていました。このあたりまでは常識または通説です。創世記はヘブル語聖書の名前が「はじめに」であることは前に書きました。出エジプト記は「これらは」来週には読み始めるレビ記は「そして呼び寄せ」です。それぞれの1章1節を見て、これらのことばがどこから取られているか考えてみて下さい。
さて、出エジプト記という名前は、内容からして自然な気がしますが、そうはっきり言えるのは 15章21節あたりまでです。そして、荒野の旅が記され、19章から40章までは、シナイにおける契約について書かれています。そしてそのうちの25章からは神の幕屋に納めるものと、幕屋についてのことこまかな記述がずっと続きます。なぜこれまで細かく、書かれているのだろうと考えてしまいますよね。あまり面白いとは思えないのも自然かも知れません。
最初に遅れ気味の人ができてたのではないかと書きましたが、正直、このような聖書の内容にも関係しているのではないかと思います。
おそらく、なかなか興味を持てない理由がもうひとつあると思います。それは、創世記では、アダムとイブにはじまり、ノアを経て、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフとその兄弟達、それ以外にも、アブラハムの僕や、ロト、ハガルなど、個人に焦点があたり、様々な人々が登場、かつ、その一人一人が神様にどう答え、神様がどう導いていったかが、記されています。それに対して、出エジプト記は、アロンやミリアム、エテロ(エトロ)、ヨシュア、なども出てきますが、基本的に、傑出した人で、神が導き、それに応答していくのはモーセだけです。
20章の普通、十戒と言われる戒めが与えられるあたりまでは、アブラハムの契約に基づいて神様がイスラエルの民を購いだし、そのための指導者としてモーセを選びその器を整え、エジプトに送り出し、10の災厄の後に、エジプトを民と共に脱出し、葦の海をわたります。モーセがリーダーとして整えられるのに、荒野での40年を必要としたことなどは、考えさせられますし、しゅうとのエテロ(またはエトロ)が来て助言をするところなども、興味深いですが、それも、前半です。
この出エジプト記後半からレビ記はどんなことを考え、読んでいったら良いのでしょうか。このあたりが、聖書通読の第一関門です。
幕屋(会見の天幕)は、神様と会う場所、つまり神様が臨在する場所です。神様はイスラエルと共におられ、イスラエルは神様(主)と共に歩むというのです。これは、自分で行動規範を考え決める生活とも、だれかのリーダーシップに従って生きる道とも、合議制で進む方向を決めていく道とも違います。まったく新しい生活です。神様と会う場所はどのようなもので、どのように礼拝し、そして神様と共なる生活において、ひとはどのように生きるのか。聖なる生活とよぶわけですが、もし神の意思が明確に示されるのであれば、それは何から何まで違う生活でしょう。そのことが書かれているのが、出エジプト記後半から、レビ記です。
ガラテヤ人への手紙(新約聖書)3章24-25節では
出エジプト記とレビ記に書かれている様々な規則は、モーセを通して与えられたと書いてありますが、基本的には祭司やレビ人のための規程ではなく、民全体、一人一人のための規程です。それが証拠に、レビ記は次のような言葉で終わっています。(レビ記 27:34)
今日のICU教会の礼拝では北中晶子牧師が「敵はどこに?」というタイトルでメッセージをして下さいました。聖書箇所はマタイ5章43-48節でした。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.2.6
前回、レビ記の予告はしましたので、出エジプト記の復習から。
もう一つ出エジプト記の大切なことは、エジプトを出てすぐからイスラエルの民の不信・不従順が繰り返されていることですね。特に32章の記事には驚かされます。そしてモーセが神と民との間を取り持つことも出てきます。32章32節には「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と書かれています。旧約聖書には明確には書かれていませんが、使徒行伝7章23節・30節にはモーセが荒野でエテロのもとにいた期間を40歳から40年間としています。モーセはユダヤ人に律法をもたらしたひととして記憶されますが、最初の40年間に王宮で教育を受け、次の40年間に人間として練られ整えられたのでしょう。(出エジプト記7章7節には「彼らがパロと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」という記述だけがあります。)モーセは何を支えに生きていたのでしょうか。モーセにとって主はどのような方だったのでしょうか。確実なのは、モーセは直接神と語り合い神からのメッセージを民に伝えたと書いてあることですね。
先週は一般教育科目の数学の授業での小テストのメッセージ欄のテーマは、「聖書を読んだことがありますか。キリスト教について、ICU の「C」について。」でした。受講生の方達が書いたメッセージがホームページに載っていますので、興味のある方は読んでみて下さい。ひとりひとりに手書きでメッセージを返していますが、ホームページ上の、わたしからのメッセージには、この聖書通読の会のことも引用しています。
似たようなメッセージは、わたしのホームページ (http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/) にたくさんあります。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.2.13
レビ記の概要をまず書いておきます。わたしにとっても復習のため。
レビ記(言葉は主として口語訳による)
1:4 頭の上に手を置く:身代わりのために受け入れられるため、自分自身をささげることの象徴、完全に焼き尽くされ祭司も食べない。
日付は変わってしまいましたが、ここまでとします。どんなことを考えながらわたしは読んでいるかを書いてみました。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.2.21
レビ記 / 17章 14節 (口語)
レビ記では、血のことがたくさん出てきます。そして、ここでは「どんな肉の血も食べてはならない」となっています。現在、我が家での聖書の会では使徒行伝を読んでいますが、そのちょうど真ん中の15章、通称エルサレム会議と呼ばれている箇所では、「異邦人(ユダヤ人以外)が救われるためには、ユダヤ教徒になって律法をみな、守らなければならないか」という問題と「クリスチャンになったら、律法を全部守るべきか」という問題について、議論されています。その結論は使徒行伝15章28・29節「すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。」これらの事項を書いてあるのは、ユダヤ人クリスチャンは、律法をしっかり守って生活していましたから、異邦人クリスチャンがこれらのクリスチャンと共に教会生活をするためには、このような基本的な事を守ることが必要だったからだとも言われています。
それは、さておき、ここでも「血」が出てきますね。なぜ「血」なのかの答えが、レビ記の上にあげた箇所に書いてあります。「すべて肉の命は、その血と一つだからである。」つまり、血を食べないようにし、血を特別なものと考えたのは、それが命そのもの、命と一つだとされたからとなります。つまりは「いのち」を特別なこととした、命を特別なものとして大切にしたということです。つまり、命をむやみに食べてはいけないということです。神様はモーセを通して (レビ17:1, 8等)いのちと同一のものとして血をたべるなと命じたわけです。神様を前面に出さないなら、これを当時の人のいのちをたいせつに生きることを表現する信仰告白と取ることもできます。血といのちは違うだろうというひとも多いと思います。では、みなさんは、いのちはどこにあると思いますか。現代の人は命とは何だと思っているのでしょうか。
最近、日野原重明先生(1911年10月4日 山口県生まれ、現在聖路加国際病院理事長・同名誉院長・聖路加看護大学名誉学長)の「愛とゆるし」(教文館 ISBN 978-4-7642-6920-0) という本を読みました。そこに日野原先生がされた、オーストラリアの小学校での「いのちの授業」について書かれてありました。
レビ記 / 18章 7-8節(口語)
ちょっと異常なことが書かれています。しかし、聖書をここまで読んできた人は、思い当たる事件がありますよね。
そうです。ルベンの事件です。
創世記 / 35章 22節 (口語)
このあと、ルベンは、ヨセフ物語でも特別な役割を演じるのでした。「若いときの過ち」であったかどうかは分かりませんが、この事件については、創世記49章3,4節にも書かれています。一生の問題となったことでしょう。ビルハとのことが、父ヤコブをはずかしめることだということまで思いが到らなかったのでしょうか。
実は似たそしてもっと悲劇的なことがあとから出てきます。列王紀上です。サムエル記下の問題も似た問題です。
このレビ記の箇所は、平たく言うと、「お父さんを大切にすること。それはお父さんにとって大切なお母さんを大切にすること。」ということでしょう。そして同様の関係の記述がこのあと続きます。すなわち、表題に書いたように「大切な人を大切にすることは、大切な人の大切な人を大切にすること」だと言うことです。
皆さんにとって大切な人はだれですか。その人の大切にしている人を大切にしていますか。もし、ほんとうにその人が大切なら、その人の大切な人も大切にしますよね。その人に喜んでもらう為に。神様を大切にすることは、神様が愛しておられるわたしたちの隣人を愛することでもあります。
実は、授業で「あなたにとって一番たいせつな(または、たいせつにしたい)もの、ことはなんですか。」と聞いています。大切なひと、もの、ことを大切にして生きることはあまり簡単ではないことなのかも知れませんね。
レビ記 / 19章 18節 (口語)
レビ記で一番有名な聖書の箇所はここでしょう。聖書で一番大切な戒めとしてイエスが答えられる二つの戒めのひとつです。(マルコ12:28-34) 善きサマリヤ人の譬えで出てくる箇所でもあります。(ルカ10:25-37) このレビ記19章を読めば、隣人についてのことがたくさん書かれていることが分かりますね。ここだけを読めば隣人はやはり「自分の民」の人だろうなと考えてしまうかも知れません。この締めくくりが「わたしは主である」というのは、重いですね。
今日は、17章・18章・19章からひとつずつ聖書の箇所を取り上げてみました。わたしも今回の通読でまた思いを新たにさせられた箇所でもあります。みなさんは、どんなことを感じておられますか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.2.25
まずは、民数記について少し概要を書き、13章・14章について考えてみましょう。
民数記は冒頭の言葉が「ワッイェダッベール(そして主は仰せられた)」ですから今まで読んできたものと同じように、ヘブル語聖書ではこの言葉で呼ばれていますが現代ヘブル語聖書では1節の4番目の単語をとって「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれているそうです。いのちのことば社の新聖書講解シリーズ 旧約3「レビ記・民数記」は山崎順治という日本基督改革派の牧師(現在は引退牧師)が書いていますが、わたしは甲子園に在住時代この方が牧師をしている甲子園キリスト教会に所属していたので、懐かしくなって手に取ってみました。上に書いた民数記の呼び名についてもこの本から取ったものです。その呼び名についてギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)やラテン語に基づいて「民数記と呼ぶのは人口調査の出来事に基づいたものであるが、『荒野にて』という書名は、起源的には1:1のシナイの荒野を指しているが、それだけでなく、10:11以下のパランの荒野、20:1以下のツィンの荒野、22:1以下のモアブの荒野と、本書に書かれている出来事の舞台が荒野であることを考えると、極めて内容にふさわしい書名であると言える。」と書かれています。
内容は以下の通りです。
民数記1:1はエジプトを出た第1年1月15日から約1年たった第2年2月1日からスタートしますが、次の申命記は 第40年11月1日から始まりますから、出エジプトからカナンに入る荒野の40年の殆どは、この民数記となります。その長い期間に起こった出来事が記されているわけです。そしてなぜそんなに長く荒野をさまよわなければならなくなったかが書かれているのが、今日と明日の箇所です。もちろんその「なぜ」の部分は皆さん自分で読み取って下さいね。
日本聖書協会のページの左上にある検索窓にカレブと入れてみると、カレブが出てくる聖書の箇所が全部リストされます。それなりに人気のカレブですが、新約聖書には出てきません。
13章
新渡戸稲造の『武士道』(原文は英文でProjekt Gutenberg にも入っていますね)
決定的な分かれ道となったこの事件、あなたはどう読みますか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2011.3.6
地震・津波・原子力発電所事故、また地震は東北から関東の太平洋岸だけでなく、他の場所でもおこり、被災地では、十分な物資が届かない中で、避難所でも亡くなられる方が出ています。東京のような被災地から離れた場所でも、電力不足からの計画停電、交通機関の運休なども今後長期間にわたって続くようです。千葉県・茨城県など比較的近くでも被災されたかたが多くおられます。先ほど、吉祥寺カトリック教会に外国人の方などが避難して来ているため、特に子供のための衣類などを集めていると言うことで、我が家からもいくつか段ボールに入れた子供用衣類を持って行ってもらいました。これからは、被災地以外で、避難所を設けたり、物資を送ったりということも本格化してくることと思います。
このような時に何を考え、どのように行動したらよいでしょうか。現在読んでいる聖書の箇所に関わらず、いま考えていること、心配事など、今の思いをみなさんと分かちあって(シェアして)頂ければ幸いです。
今日は3月17日、通読は民数記34章・35章です。あと一章で民数記も終わり、次は申命記です。以下では、申命記に簡単に記すとともに、民数記32章についてと、前回のK.H.さんの質問について書いたホバブについてその後考えたことについて書きたいと思います。
まずは、申命記について。
申命記は、他の旧約聖書と同様、ヘブル語聖書ではその最初のことばから取って「エーレ・ハッデバーリーム(これらはことばである)」あるいは短く「デバーリーム(ことば)」と呼ばれています。17:18にある「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということば、または、短く「ミシュネー(写し)」と呼ばれることもあるようです。日本語聖書の申命記は、漢語の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。全体としては、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されています。
特に、ユダヤ人が朝夕、唱えている「シェマー(聞け)」は、申命記 6:4-9, 11:13-21, 民数記15:37-41 から取られ、熱心なユダヤ教徒は、これらに書いてあるように、これらの聖書のことばをかいたものを箱に入れて、額や体の一部に付けるくらい大切にしています。読み始めれば、今までの4書とは文体が違うことが分かると思いますが、聖書の研究者たちによっても、創世記から民数記とこの申命記の成り立ちはことなるとして、議論があるものです。
新しい世代への律法の更新(再提示)
つぎに民数記32章について。
ここでは、ヨルダン川の東の地域をほぼ平定した時点で、12部族のうちのルベン族、ガド族および、マナセの子マキルの部族が、その地域をわれわれに与えてほしいと願い出ます。これに対して、
モーセはガドの子孫とルベンの子孫とに言った、「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。(口語訳 民数記32:6,7, 15節まで読んで下さい)
勝利をおさめた直後の分裂の危機です。このあと読んで下さればわかりますが、その分裂の危機は回避されます。そして最終的には、ヨシュア記22章にあるように、祝福をもって終わります (ヨシュア22:6, 22章全体を読んでみて下さい。もう一つの危機についても記されています)。
今回の地震・津波・原発事故のニュースを見ながら、わたしは共同体について考えています。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。(口語訳 コリント人への手紙第一、12章26節)
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(口語訳 ローマ人への手紙12章15節)
ひとりひとりが他者のことを考えられなければ、そのような想像力をもたなければ、節電もできないでしょうし、食料品も無くなってしまうでしょうし、援助品も有効に用いられず、無駄となってしまうでしょう。ニュースでも、物を買うとき「本当に必要かを考えて」買ってほしいと言っていました。被災地での心的外傷後ストレス障害 (PTSD(Post-traumatic stress disorder)) を最低限に抑えるための大切なことは、「声を掛け合うこと」だとも言っていました。閉鎖的・排他的な共同体が、多くの問題をもたらすことは事実ですが、共同体としての意識がなければ、ひとは困難をのりきっていけないことは確かだと思います。ICU もやはり20世紀前半に2回の世界大戦を起こしてしまった現実を
As neighbors we are one world. As brothers we are not.
と表現し、これではいけないということで平和を作り出す人たちを育てるために作られた大学です。
この機会に、ICU を含め、地域の人たちが、日本中の人々がそして、世界の人たちが、兄弟姉妹だと感じられるようなひとつひとつのことによって、分裂ではなく、それぞれが出しうる物を用いて、互いに仕え合うことを学ぶことができればと願っています。
わたしも、そのことを考えたいと思っています。
最後に短くホバブ (BRC no.12.1 contribution-1, 民数記 10: 29-32) について前回書けなかったことを加えます。ホバブはミデアンですね。ミデアンは創世記25章1, 2節からは、アブラハムの妻サラの死後めとったケトラという妻の子の一人として出てきます。創世記37章28節, 36節には、ちょっと不明瞭な記述ですがミデアンびとの商人が出てきます。民数記10章の記事は出エジプトから1年程度後のことで、40年近くたってから、最初に大々的な勝利をおさめる相手は、モアブとミデアンの連合軍でした。これには、イスラエルの人たちを信仰から引き離すような事件があったことも記されていましたね。(民数記31:8,16, ペトロの第二の手紙2章15節, ユダの手紙 11節) こう考えてくると、ホバブが離れて行った背景とその結果については、いろいろと考えさせられてしまいますね。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.3.17
申命記には、たくさんいろいろな命令が書かれていますが、10章12・13節には次のように記されています。今回は新共同訳から引用しましょう。
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。(「ただ」の部分は口語訳では「ただこれだけである。」)
これを見ると、最終的には神様が望んでおられることは私たちが「幸いを得ること」であることが分かります。少し前にICU教会の北中晶子牧師が説教の中で「神様はわたしたちに人生を楽しんでほしいと思っているのでしょうか。それともいろいろと楽しむことを我慢して、いわゆる正しい生き方をしてほ しいと望んでいるのでしょうか。みなさんはどう思いますか。」と問いかけておられましたが、神様の望んでおられることは、究極的には私たちが「幸いを得ること」であることが、ここからも分かります。そして、この律法といわれるモーセ五書における「幸いを得ること」の鍵がここに記されているわけです。テーマの一つです。
前回「申命記」の名前のもととなった17:18の「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということばを引用しましたが、これは14節から始まる王に関する規程の一部でした。馬を増やしてはいけないこと、妻を多くもってはいけないこと、金や銀をたくさん蓄えてはいけないと書かれ、その次に18節・19節には次のように書かれています。
彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。
そしてそれは、高ぶらないため(20節)となっています。馬は当時軍隊の力を象徴するものでした。多くの妻は「こころを迷わ」さないため、金や銀はそれをいのちの支えとしてしまわないためでしょう。神にのみ頼り、心を集中してこの律法(当時の聖書)を「生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」となっています。聖書を「生きている限り読み返」す目的がここに書かれています。「神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守」るためで、それは、上に書いたこととあわせると、「幸いを得る」ためです。
最後32章では次世代を担うヨシュアと共に律法のことばを民に読み聞かせ 46節・47節でつぎのように言っています。
「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」
聖書のことばは「命」だと信じますか。
今回は、申命記ひいてはモーセ五書のテーマの一つについて書いてみました。申命記には、ほかにもいろいろと興味深い話題が記されていますが、それは皆さんの発見に委ねましょう。来週にはヨシュア記に入ります。しばらくイスラエルの歴史が続きます。ちょっと今日は堅すぎたかな。「こんなことについて書いてほしい」など、リクエストがあれば歓迎です。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.3.28
モーセは申命記 34:10 口語訳で「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。」と書かれているほど特別な存在でした。しかし、このモーセは申命記3:25で「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と願いますが、神様はそれを許されませんでした。3:26 には「あなたたちのゆえ」と書いてありますが、他の箇所にもう少し明確に、その理由が書かれていますね。民数記20章と27章、そして申命記32章。
そこでモーセの後継者として任命されたのがヨシュアです。(民数記27章、申命記1章、3章、31章)さて、このヨシュアはどんな人だったでしょうか。出エジプト記17章、24:13, 32:17, 33:11, 民数記 11:28, 13:16 と 14章に出てきます。
ヨシュア記を読んだことがない人でも、黒人霊歌の "Joshua Fit the Battle of Jericho" は聞いたことがあるのではないでしょうか。ICU の Glee Club も演奏会ではかならず黒人霊歌を歌いますが、この曲もかなり頻繁に歌っています。YouTube には Mahalia Jackson や、Golden Gate Quartet のもあります。大学院生時代、アメリカの教会の聖歌隊の余興として barbarshop という形式(?) で男性4人の掛け合いのアカペラで spiritual を練習したことがあるので、ちょっと懐かしいです。楽譜もないのでほとんど忘れましたが。この曲は、Spritual とも Gospel とも Jazz とも言えると思います。
ヨシュア記
ヨシュア記からネヘミヤ記までは、カナン進入以降のイスラエルの歴史が書かれていますが、ユダヤ教の伝統では「預言者」に分類されています。上で触れたエリコの戦い以外にも、1章の激励や最後の24章は好きな人がいるのではないでしょうか。しかし、このヨシュア記を読むとどうしても避けて通れないのは、新改訳聖書で「聖絶」と表現されている「神様のものとする」としてカナンの地の人たちをすべて殺してしまうことです。聖書はそのことをどう記述し、これはどう理解したらよいのか。なかなかチャレンジングです。ヨシュア記に入る前にも、なぜカナンの地の民を滅ぼすのかその理由が何カ所かに書かれていました。覚えていますか。そして滅ぼす側のイスラエルの民はなぜ選ばれたのかも書いてありました。その記述を同時に考えながら、問題を問題としてしっかりもって、新約聖書まで読み進んでもらいたい、とだけここには書いておきます。キリスト教界でも、もちろん、議論のあるところです。
約束の地の所有
ヨシュア記からみなさんは、なにを学ばれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.4.3
ヨシュア記6-12章はカナン征服、13-21章はカナン分割ですから、実感を持つには、やはり地図の助けが必要でしょう。いつも、一番下につけている、BRC ホームページのリンク爛の
先住民のカナン人はフェニキアのセム語系の言語を話す人たちで、フェニキアは基本的には海洋民族で交易で発展してきた民族といってよいと思いますが、それは民族の起源ぐらいに考えるのがよいでしょう。最近、チュニジアで政変が起きましたが、チュニジアは、カルタゴ移籍の観光収入が大きく、それが落ち込んでいるというニュースも出ていました。そのカルタゴは、フェニキアの植民地、カナンの地を一つの根拠地として栄えました。ペリシテ(パレスチナの語源ともなっており、パレスチナ南部の5都市を中心としている)も出てきます。海の民とも呼ばれますが、他のカナン人とは区別されているようです。カナン人もペリシテ人も交易を生業としていることからもわかるように、文明としてはかなり高く、ヨシュア記にも「鉄の戦車をもっている」と恐れられています。鉄を扱う技術はまだ未発達で、それを手にした民族が強いとされた時代です。ヨシュアに率いられたイスラエルは、その意味では、劣っていた、自他共に劣っていると認めたことは確かでしょう。(いのちのことば社「新聖書辞典」などいくつかを参照しています)
その背景のもとで、民数記13章にでてきた、斥候の報告とカレブの発言を理解しないといけませんね。ヨシュア記にも何カ所か、関連する箇所が出来ています。エリコ(2章・6章)についても、その後のアイ(7章・8章)についても、ギベオン(9章)についても 31王の土地の征服も(10章ー12章)。さらに、分割のときにおいても。17章14-18節も面白いと思います。モーセのリーダーシップと、ヨシュアのそれとは、大分違いますね。聖書はここからどんなことを語ろうとしているのでしょうか。(名称は口語訳のものを使いました)
みなさんは、どんなことを感じ、学んでいますか。
士師記については、今日は書けませんでしたが、士師記を読むときに一つ指針となる、ことばを書いて、今日は終わりとします。
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師記21:25 新共同訳)
士師記の一番最後に出てくることばです。実はもう一回士師記の途中にも出てきます。見つけて下さいね。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.4.10
士師記
ヘブル語聖書でも「ショーフェティーム(士師(さばきづかざ)たち)」となっています。
背景は、1章・2層に書かれており、ヨシュア記とのつながりもよく分かるようになっています。特に、2章6節から23節でしょうか。これは背景というより、士師記の神学といっても良いものでしょう。
2:20-23 の口語訳を書いておきましょう。
それで主はイスラエルに対し激しく怒って言われた、「この民はわたしがかつて先祖たちに命じた契約を犯し、わたしの命令に従わないゆえ、わたしもまたヨシュアが死んだときに残しておいた国民を、この後、彼らの前から追い払わないであろう。わたしもまたヨシュアが死んだときに残しておいた国民を、この後、彼らの前から追い払わないであろう。それゆえ主はこれらの国民を急いで追い払わずに残しておいて、ヨシュアの手にわたされなかったのである。
わたしたちの内にもそのようなものがあるのかも知れませんね。
ヨシュア以後は、部族毎にわかれて住むことになりましたが (2:6)、実際には、イスラエルの民が、その地を支配していたわけでもなく、つねに、他の部族の脅威のなかで生きていたことが分かります。その救助者として士師が登場します。しかし、イスラエル全体を治めたわけではなく、ある部族が、ある民族に圧迫されると、士師が起こされて、救われるこのくり返しが書かれていると言っても良いでしょう。
しかし士師記は物語としても面白いのではないでしょうか。特に、ギデオンや、サムソンの話しは、物語として面白いだけでなく、詳しく読み込んでいっても、いろいろと考えさせられるのではないかと思います。そして、最後の二つの挿話があり、このあと、ルツ記をはさんで、サムエル記へとつながります。サムエルは、最後の士師とも、最初の預言者とも言える特別な存在です。楽しんで読んで下さい。途中で挫折してしまったかたも、ここから読み続けるのも良いですよ。
イスラエルの背教と救い
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.4.17
国際基督教大学教会では朝8時半から早天礼拝があり北中先生が上のヨハネ20章から「マリヤもこれがすべての終わりだとおもって墓に来たけれども、ここが始まりだと示されたのです。イースターにはいろいろなはじまりがつまっています。死ですべてがおしまいなんだというのとは違うのだということがここからはじまっているのです」とメッセージを伝えて下さいました。
皆様いかがお過ごしですか。今日は4月24日ですから、士師記16章・17章です。あと二日で士師記がおわり、4章だけのルツ記、そして、サムエル記上・下と進みます。しかし何回読んでも、士師記の最後には悲しいを通り過ぎる記事が二つ書かれています。以前書いたように士師記の最後21章25節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師17:6参照)と書かれています。神がひとりひとりに語りかけられその応答を記録した創世記、モーセを通して神のことばが語られた、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュアのリーダーシップのもとでカナンにはいり入植していったことの記されたヨシュア記と続きます。しかし定着して部族毎にわかれると、絶対的なリーダは不在、政治的なリーダーもそのときどきに起こされどうやら滅びないで済んだ士師記の時代、モーセはどの時代にもいるわけではないとすると、神の使いを第一として求めるのではなく、まず王を求めるのも自然な気がしてしまいます。その方向へ向かっていく方向付けがこの士師記です。しかしそのなんともたいへんな時代に、なにかほんわかと心地の良いルツ記、ナオミ、ルツ、ボアズの物語へと向かいます。
ルツ記
全体が4章からなる小品で、ヘブル語原典では「諸書」の第5番目で雅歌と哀歌の間であるが、時代的には、1章1節が「士師が世を治めていたころ」とスタートするように、士師の時代の出来事を記述しています。そしてこの書の最後の4章22節は「オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。」で終わることからも、ダビデの系図の一コマを記録するものとなっています。新約聖書の一番最初にあるマタイによる福音書は系図からはじまりますが、前にも書いたようにそこに普通は記録しない女性の名前が4人記されていますが、その3番目が (マタイ1:5) ルツです。ルツはモアブ人ですが、モアブについて今まで出てきたことを覚えていますか。申命記23章4節には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」とあります。そのモアブ人ルツの美しい物語が聖書に含まれている事自体、美しいことだと思います。中味は読んでのお楽しみ。ゲーテはルツ記を「倫理的かつ牧歌的響きをもってわれわれに伝えられた最も美しい小品」(いのちのことば社 新聖書注解) と言っているそうです。さてみなさんは、ルツ記からどのようなことを受け取るでしょうか。現代とは大分異なる世界であることも確かです。
2011.4.24
以前にも「新聖書注解」いのちのことば社を引用したことがありますが、今回も確認のために使いました。サムエル記の前はルツ記でしたが、ルツ記の部分は鍋谷堯爾が執筆、サムエル記は榊原康夫です。まったく個人的なことですが、私は神戸ルーテル神学校に聴講に通っていた時期があります。そのときの校長が鍋谷先生でした。また、高校のころ始めて聖書注解というものに触れ感激したのが、榊原先生の「マタイによる福音書 I-VI」でした。大阪大学工学部中退で神戸改革派神学校に進みましたが、榊原先生の勉強のすごさは神話のようになっていると何人もの人から聞きました。このマタイによる福音書の講解は榊原先生が30歳にもならない頃書いたもので、とても強烈で、私が聖書を勉強するようになるきっかけとなったものでもありました。信仰に関係することは、信じることが大切で、あまり深く勉強しない方が良いのではないだろうかと思っていたことが、まったく覆されたものでした。学べば学ぶほどこころが開かれていく、そんな経験を若いときにする事ができたのはとても幸せだと思っています。高校から大学のころ、榊原先生の本がたくさん出版されたこともあり、むさぼるように読みました。そのあと断筆宣言。同時期に、内村鑑三の全集も出版され、人から貸して頂いてたくさん読みましたが、榊原先生は、お会いして話すこともできたので、特別な存在でした。わたしは後に日本基督改革派甲子園教会の教会員になった時期もありますが、じつは、榊原先生は若い時期にこの教会の牧師だったことを知っていたので訪ねたのがきっかけでした。まあ熱烈なファンだったと言うことですね。聖書の通読とは関係の無いことですが、旧約聖書を興味をもって読むようになったのも、鍋谷先生、榊原先生、このお二人の影響が大きいので、つい書いてしまいました。
サムエル記 上・下(サムエル記1,2)
さて、サムエル記は先の預言者とよばれる区分に属し、七十人訳とよばれる紀元前2世紀ごろまでに訳されたギリシャ語訳では、列王紀とともに「もろもろの王国」と呼ばれた4巻本の一部となっています。おそらく最初から上下という二巻の区分があったわけではないようです。サムエル記という名前になっていますが、サムエルは、上の25章1節で死んでいますから、著者で無いことは明かです。しかし、下にある、目次のようなものからも分かるように、イスラエル最初の王の二人の任職がこのサムエルによってなされ、その一人目、サウル王の時代について書かれているのが、サムエル記上、サウル王の死のあとダビデ王の時代を中心としているのが、サムエル記下となっています。ダビデは、聖書を読んだことの無い人にもそれなりに有名なのではないでしょうか。最近では歴史性を疑うひとまでいるようですが、ダビデが王位についたのは、大体紀元前1000年、イスラエルの人たちの星です。サムエルは、最後の士師であり、最初の預言者とも言われ、新約聖書の使徒言行録3章24節に「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。」(新共同訳)と語られています。これはペテロの説教に出てくる箇所です。中味については、皆さんに呼んで頂くのが一番でしょう。大きな流れとしては、民が王を求めるところから始まります。
この時代の最大の敵は、ペリシテです。士師記のサムソンの箇所にも出てきました。エジプトの記録では「海の民」と呼ばれ、いまのパレスチナの語源にもなった地中海交易を中心に強くなっていった海洋民族ですが、聖書には5つの都市国家として記されています。ペリシテは鉄器を使っていましたが、イスラエルはペリシテの許可が必要だったと書いてあります。サムエル記上13:19 の口語訳は「そのころ、イスラエルの地にはどこにも鉄工がいなかった。ペリシテびとが「ヘブルびとはつるぎも、やりも造ってはならない」と言ったからである。」となっています。新共同訳では「鍛冶屋」となっています。そのような中での、ダビデ王国確立への道です。使徒言行録13:22 では神様がダビデを「わたしの心にかなった人」と記しています。ダビデはどのような人で、なぜ神様のこころにかなったのでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.5.1
実は、今回も何を書こうかなかなか決められませんでした。実は、わたしはこのサムエル記上・下と、列王紀上・下が旧約聖書でもっとも好きです。わたしの今までの歩みの中で、ここに記されている一つ一つを通して教えられたことがいっぱいあって、なかなかこれということが書けないのです。さらに、教えが書かれているわけではないので、いろいろな解釈も可能ですし、登場人物のだれに焦点を当てるかによっても、読み方が変わってきます。さらに、これは、通読の会ですから、そのストーリーのダイジェストをわたしが書くのも適切ではないでしょう。みなさんの人生の中で何回も読んで頂きたい箇所です。
すでにサムエル記上・下の概要は前回書きました。サムエル記下に入りましたので、その最初を少し見てみましょう。
1章はダビデの元にイスラエルがペリシテ軍に打ち破られ、サウル王もその子ヨナタンも死んだという知らせが伝えられるところから始まります。上の29章から31章にその背景が記されています。ヨナタンはサウル王の息子で、民からも人気があり、かつダビデを愛し、ダビデと堅い友情で結びつけられたいたことが記されています。たとえば上20章などを読み返して下さい。このヨナタンとのこころのつながりは、下巻にはいっても重要なこととして引き継がれます。サウルは、くり返しくり返し人気のあるダビデを殺そうとします。ダビデはそれでもサウルを「油注がれたもの」つまり神様にたてられた王として逃げ回り何度もチャンスがあるにもかかわらず、サウルを撃つことはしません。サウル王も主がダビデといることをみとめ、なんどもダビデを殺さないと誓いますが、また殺そうと謀ります。それが(少なくとも結果的には)一段落するのが、上巻26章の最後なのですが、ダビデの方が「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地にのがれるほかはない。」といって、イスラエルにとっては敵方のペリシテのガテの王マオクの子アキシのもとに身を寄せるのです。(上21章参照)そのような背景のもとで、最初に書いた報せが届けられました。これにダビデはどう応答したでしょうか。
ダビデの従兄弟とされるヨアブとその兄弟も重要な役割を演じます。このヨアブに焦点をあてて読むのも面白いと思います。歴代誌の方ではすこしことなる評価をしているのも興味深い点です。これらの書に出てくる、女性に焦点をあてて読むのもいろいろと考えさせられると思います。いろいろな女性が非常にいきいきと描かれています。イスラエルとユダとの区別に目を向けてよむのもよいでしょう。なぜ、サウルは退けられて、ダビデは祝福を得たのか。ダビデは聖人のような人だったのか。サウルには、チャンスは無かったのか。サウルの最大の弱点は何だったのか。他にも興味深い登場人物がたくさん出てきます。一人一人が丁寧に書かれています。神様の働きをどのように記しているかに注意して読むのも良いでしょう。
単純な偉人伝でも、良い人と悪い人の記録でも、神様がすべて解決するのでもありません。読めば読むほど奥が深いと感じられると思いますよ。聖書はわたしたちになにを語りかけているのでしょうか。これらの話しを背景として、詩編が書かれたり、イスラエル復興ののぞみが語られ、預言書が書かれたりします。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.5.15
前回も書きましたが、サムエル記上・下と列王紀上・下あわせて4巻(もともとは巻物ですから)が「王国の歴史」です。サムエル記上・下は、サウル王とダビデ王という、サムエルが神様から示されて油を注いで任職した二人の王についての記述でした。サムエル記上はサウル王がペリシテとの戦いで死ぬまで、サムエル記下はダビデ王の治世について書かれていました。しかしサムエル記ではサムエルはかなり早い時点で亡くなりますし、サウルがどの程度の支配力を持っていたかは不明ですが、記事としてはサムエル記上でもダビデが中心に描かれています。そう考えると「王国の歴史」は少なくとも半分はダビデの記録ということになります。ユダヤにおいて「王国の回復」は「ダビデ王国」の復興と結びついて考えられるのは当然とも言えるでしょう。そしてそれは単なる支配地域や戦力を意味するのではなく、王国のリーダーとしてのダビデがどのように神に従っていったかを中心として、語られています。そのなかに、何回か、明かなダビデの過ちが記されており、かつこれはどうだろうかと思わされる行為もいくつも記されていることを確認することは、聖書全体を理解する上でも大切でしょう。
列王紀上・下はダビデ後の王朝の歴史となります。最初はアドニヤが自ら王位継承を宣言するところからはじまって、ソロモンが正式に王位を継承する記事が書かれています。前回もわたしはヨアブ(ダビデのいとこで軍の長)に興味があると書きました。ダビデは御しがたいとしてヨアブの扱いに苦慮していたことがサムエル記下に記され、遺言にもそのことが記されていますが、けっきょくヨアブはこのアドニヤ事件がきっかけでソロモンに殺されます。さてそのソロモンはどのような王だったのでしょうか。ソロモンを最後に王国は二つに分裂します。北イスラエル王国と南ユダ王国と呼ばれています。
何がまずかったのかという読み方もできると思いますが、神との契約、神のいつくしみ(いつくしみとは何でしょうね)、神の祝福、つまり、神様との約束、神様の救いをこの「王国の歴史」から見るとするとわたしは列王紀上8章がよいのではないかと思います。残念ながらここが転換点ともなっていますが、じっくりそれまでの歴史をふまえて8章を読んでみて下さい。長いこと聖書神学舎という浜田山にある神学校(キリスト教の牧師・宣教師になるための勉強をする学校)の校長をしていた船喜信牧師はいのちのことば社の新聖書講解シリーズ「列王紀」でこの「王国の歴史」4巻は旧約の使徒行伝(使徒言行録・使徒の働き)のような位置を占めていると書いています。王国とともに神がどのように働かれたかを見ていくのもよいでしょう。
列王紀
通読とは無関係ですが、わたしは家内と朝「アパ・ルーム」(Upper Room) という黙想のための小冊子を日本語と英語で読んでいます。これは殆どが信徒、それも世界中の地域の信徒の書いた記事で構成されているところがほかの同種類のものと違うところだと思います。非常に多くのことばに訳されています。その5月23日の記事につぎのようなものがありました。
アメリカのニューヨーク州のシンシア・クラークさんというかたの「おばあさんの神様」という寄稿です。「私の祖母は、子供たちにとって理想の祖母でした」からはじまり、「祖母が応接室に落ち着くとすぐに、私は母が裁縫箱に貯めているボタンの入った瓶をもって祖母のところにいきました。私はボタンをきちんと分けて種類ごとに集めておいて、祖母が私のベッドの横に座ったとき、二人でそれを見ながらおしゃべりするのが大好きだったのです。私は、私よりずっとボタンの好きな祖母がいるなんて何と幸せだろうと思ったことを思い出します。勿論今は、祖母がボタンが好きなのではなく、私が好きだったのだということがわかっています。」として最後に「この祖母についてのわたしの記憶のうちに、神の美しいイメージがあります。度々私は、神が近くにおられるのを感じます。それは、神が、私がしていることに特に興味を持っておられるのではなく、私と私が愛しているものに興味があるからなのです。宇宙万物の創造主は、私の単純な喜びを共有することを選ばれます。それは私のうちにあるこの驚くべき神の喜びの故です。」さいごには次のフレーズが書かれていました。「神は私と、私たち一人一人を喜ばれます。」
聖書に書かれている神は、正しい方ですが、われわれを見張っていて間違いを見つけ出しそれによってさばくことを欲しておられるのではなく、私たち一人一人の喜びに興味を持ち、共有することを欲しておられるのではないかと思います。祈りは神様のこころとのシンクロナイズとよくいわれますが、わたしたしが完璧に神様の思いと同じになることを意味してはいません。それは不可能でしょう。神様の愛故に、ダビデのことを使徒行伝 13:22 で 'I have found David son of Jesse, a man after my own heart; he will do everything I want him to do.' と言っています。そのいみで、神様のこころを心とすることができると良いですね。
最後に列王記を読む助けとなる資料のリンクを二つあげます。英文は膨大ですので、日本語のもののみ。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.5.29
私は一昨年にヨーロッパを旅行しましたが、その時に、短い時間でしたが、大英博物館 (British Museum) にも行きました。印象にのこったのは "Siege of Lachish" という沢山のレリーフでした。Wikipedia からもある程度の情報が得られます。
前回年表へのリンクをお知らせしましたが、実はダビデ王朝の年代などはいくつかの説があります。しかし、BC722年にサマリヤが陥落し北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされることと、BC586年に南ユダ王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされることは世界史の教科書にも書かれていると思います。この間、すなわち、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国はまだ続いていた時期に起こったのが、上記の記事です。
サムエル記上下と列王紀上下は何度も書いているように、非常に興味深い記事が満載されていますが、ユダヤ民族の盛衰についてはどう記されているのでしょうか。出エジプトからカナン侵入、現代の通常の言葉で表現すれば、侵略となります。それに対して、聖書はどのように言及し、その後の王朝の盛衰についてはどう記しているのでしょうか。それを考えながら読むのも良いと思います。ただ、旧約聖書のそれぞれの巻によって、少しずつ強調点が違うことも注意して下さい。
申命記から一箇所だけ引用しておきます。9:4-6 (新共同訳)
あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
申命記12章や18章にカナンの民の忌むべき事が書かれ、おそらくその最たるものとして「彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。」と書かれています。
では北イスラエル王国、南ユダ王国はどうだったのでしょうか。そのことが記されているのが列王紀下17章です。そのような背景も考えながら17章を読んでみてはいかがでしょうか。ここで北イスラエル王国が滅びます。北イスラエル王国の最後の王はホセアですが、このホセアについて、列王紀は次のように書いています。
彼は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。(列王紀下17:2)
イスラエル王の評価を注意深く読みながら列王紀を読むのもよいと思いますよ。歴代誌の評価とは少し異なります。列王紀下14章のヤラベアム(北イスラエル王国の最初の王ヤラベアムと区別してヤラベアムII とよく記されています)の記事のように、主の目の前に悪を行ったと書かれていても、王国は繁栄したという記事もあります。ここには、おそらく預言者ヨナのことも出てきます。預言者の役割も含めて列王紀のいろいろな面を考えながら読んで頂ければ幸いです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.6.12
通読はどうですか。続いていますか。今日は7月3日ですから、歴代志上の最後の章と、歴代志下の第一章です。このあと、バビロン捕囚後の歴史に関するエズラ記と、ネヘミヤ記、捕囚時代のエステル記、そして、人生の苦難について書かれているヨブ記と進み、8月28日には一旦旧約聖書をはなれ、新約聖書の最初マタイによる福音書から読み始めます。遅れてしまった人は、夏休みに追いつけると良いですね。
さて、現在読み進めているのは、歴代志上・下です。
歴代志の最初は長い系図から始まります。新約聖書の最初のマタイによる福音書も系図から始まります。創世記もある意味では「系図」が一つのキーワードでした。歴代志は創世記の初めのアダムからスタートします。しかし、カインやアベルはでてきません。細かく見ていくと、すこし違う部分もあるようです。それにしても長々と系図が続きます。一段落つくのが8章の終わり。9章1節は
このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。(口語訳)
サムエル記上・下、列王紀上・下はひとつづきで、最後はネブカデネザル王に滅ぼされ、バビロンに捕囚される (BC597, BC586) まで書かれていますから、それ以降にまとめられたことは、確かでしょう。この歴代志は、そのバビロン捕囚が起点になっています。かなりの平行記事がはいっていますが、違ったグループの人によって、異なった目的のために書かれたことは確かでしょう。
実は、ヘブル語(旧約)聖書では、歴代誌上・下が最後に置かれています。BC537ごろから何回かに分けてユダヤに帰還していきます。聖書ではその捕囚の期間は70年と書かれています。このあとに読む、エズラ記、ネヘミヤ記にそのあたりのことが書かれているので、楽しみにしていて下さい。帰還後に書かれたとして、イスラエルの民にとって、そのリーダにとって何が大切なことで、なにが気がかりなことだったのでしょうか。考えながら読んでみて下さい。
サムエル記上・下、列王紀上・下を思い出しながら読むのも、それらとの違いを書き留めながら読むのも、捕囚帰還後のイスラエルの民に思いをはせながら読むのも、ここで語られているイスラエルの民の希望とは何なのか想像しながら読むのもよいと思います。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.7.12
通読はどうですか。続いていますか。実は、わたしは前にも書いたように、何回も通読していますが、この歴代志が苦手なのです。人によって違うと思いますが、私が苦手なのは、レビ記、歴代志、そしてエゼキエル書。歴代志は、系図から始まりますが、主要部分は、ダビデ王朝以降ですから、サムエル記下、列王紀上・下と対応しています。一部、イザヤ書に対応する箇所があるところがあります。
前にも書いたように、あまり、聖書学の知識を使わないようにしています。それは、学者が完全に一致しているわけではなく、よくわからないことが多いので、そのへんの議論をわたしのようなしろうとが中心に持ってくることをしたくないからです。でも、何度も読んでいれば、サムエル記上下、列王紀上下は、預言者たちの影響が大きそう、歴代志上下は、祭司たちの影響が大きそうということは、わかるのではないかと思います。歴代志上下は、ユダ王国のバビロン捕囚のあと、何回かにわかれて、パレスチナに帰還して来た民が、悔い改め、祭司を中心として、あらたに神殿礼拝を中心にして、神様に従っていこうという意図が各所に見受けられます。そのような歴史観で、単純すぎる論理で、書かれているところが、わたしには、抵抗があるのだと思います。新約聖書を土台としてもいろいろと問題を感じてしまうということです。すこしそのへんを見てみましょう。歴代志にのみ書かれている記事です。たくさんあるのですが、歴代志下のわたしのメモから抜粋します。
挙げればきりがないのですが、歴代志のみに書かれていることは、偶像をはなれ、へりくだって神にしたがうと、祝福されるというパターンで統一されているように思われます。わたしには、その単純化がなかなか受け入れられないのだと思います。よい子はこの世においても祝福される。というメッセージです。
しかし、考えてみると、祭司エズラなどがリーダーシップをとった時代は、それ以外に道がなかったのかなとも思います。いずれ、エズラ、ネヘミヤ、そして預言書のハガイ、ゼカリヤを読むと分かるのではないかと思います。もう一つは、預言者は、当時の教養人で、世の中の先をかつ、深い洞察力をもって見たかもしれないが、やはり一握りの当時のエリート集団です。祭司たちのリーダーシップでまとめるときには、民がみなわかるようなメッセージを語らなければいけなかったということもあるのかもしれません。
リベラル・アーツがエリートの為のものから、市民のためのものになるかどうか、そのときに、質を下げたり、単純化したりして、コピーとしてメッセージを伝えようとするのかという現代的な問いも、ここに含まれているような気がします。
今日は、変な話になってしまいましたが、最近考えていることを書かせてもらいました。
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2011.7.17
BC586 ユダ王国の滅亡。バビロン捕囚
エズラ帰還は BC398との説もある。
エズラ7章
エズラ8章1節, 15-36節
エズラ9章
エズラは祈りをみてみましょう。
エズラ10章
ネヘミヤ1章
ネヘミヤ2章
ネヘミヤ4章
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2011.7.24
聖書の一つの区分では、旧約聖書は、律法と預言者と、その他の諸書と呼ばれる部分に分かれると書きました。サムエル記、列王紀は、預言者に、歴代志は諸書に含まれるのでした。良く知られているのは、AD1世紀のヨセフスの書いたアピオン反駁論 (Against Apion) I- 1-8 に書かれているものですが、Project Gutenberg (http://www.gutenberg.org/ebooks/2849) に見つけましたので、ちょとだけ引用します。
さて、ヨブ記に戻りましょう。非常に敬虔な生活をし、神様に祝福された生活を送っていたヨブが、祝福をすべて取り上げられ、財産を失い、子ども達を失い、自分自身も潰瘍を生じる病に冒されます。そこに訪ねてくる「友」と苦難の意味について議論する、そして最後の神様が語られるという構成になっています。苦難の意味、神の沈黙、人間の正しさ、神の主権と愛などについて考えさせられるもので、好きな人も多いようです。全てを失ったとき、
この真ん中の詩文体の部分がとても難しい。上の聖書の箇所のような正しいヨブとは、別人とも言えるような言葉がたくさん出てくるのです。学者の中には、最初と最後は、別の記者による付け足しとするひとも居るくらいです。ヨブ記は特に日本では、浅野順一のヨブ記講解が有名で、岩波新書から「ヨブ記―その今日への意義」も出ています。わたしもこちらは読みました。青山学院大学の教授で、牧師としても有名な浅野先生によるとこの中心部分は「ヨブの内的葛藤」だと言われていますが、わたしもこの歳になってやっと少しその意味が分かってきたように思います。若い頃は、この真ん中は無くても良いのではないかと思い、通読の時は読むのが苦痛でした。よく分からない議論が延々と続くからです。早く、エリフ(3人の友人についてきたと思われる若者という設定)が出てこないかなと待ちわびながら読む、まあそれも良いかも知れません。みなさんは、どう読むでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.8.7
今日は、8月20日、ヨブ記27章と28章です。ヨブ記は、前に書いたように、このあと展開が変わります。32章で若いエリフが登場し、38章で神が語られます。この機会に、わたしも難しいと思ってずっと敬遠してきた、ヨブ記の中間の部分、浅野先生の言葉を借りると「ヨブの内的葛藤」4章から28章について少し書きたいと思います。ヨブ記の概略は、no.26 を参照して下さい。
ヨブ記の核は、やはり前回も引用した次の箇所でしょう。
中間部分は、3人とヨブとの対話が2回繰り返され、そのあと、ヨブと二人の対話が短く繰り返され、ヨブが暫く語り続けます。しかし、3人とヨブとの対話の部分も、ヨブの語る部分がかなり長く、友人は少ししか語りません。ヨブの苦難の一般的、またはこの世的な解釈を、3人の友人に代弁させ、ヨブもおそらくそのような事も思考しつつ、それに反論していく姿が書かれています。おそらく、かっこのよい、最初のヨブの信仰告白の背景に、これだけの、葛藤がある。逆に、これだけの葛藤をともなって、なお、最初のヨブの信仰告白が存在するところに、神が良しとされる信仰者の姿があるのでしょう。神は、その複雑さと人間の弱さを十分ご存じで、その人間の祈りに答えられるのです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.8.20
ヨブ記はいろいろな感慨をもって読まれたのではないかと思います。今朝の国際基督教大学教会の礼拝は、箴言の4章から、Paul Johnson 牧師のメッセージでしたが、その中で、ヨブ記についても語られていました。箴言 (Proverbs)、伝道の書 (Ecclesiastes)、ヨブ記 (Job) は、神の知恵について書かれている。しかし、These are not God's Last Words. だと言っておられました。God's Last Words が何であるかもほんの少しだけ話されましたが、新約聖書を読みながら、その God's Last Wrods を見つけて下さればと思います。
さて、新約聖書の最初は、4つの福音書から始まり、その最初は、マタイによる福音書です。ギリシャ語聖書では、「マタイによる」とだけ書かれています。最初の三つの福音書、マタイ (Matthew, Mtt と略)、マルコ (Mark, Mk と略)、ルカ (Luke, Lk と略) は、平行記事が多く、共観福音書 (Synoptic Gospels) と呼ばれています。
聖書を一般信徒向きに解説した本は、たくさん出版されていますが、世界で広く読まれているもののひとつに、スコットランドの神学者 William Barclay (1907-1978) によるものがあります。
共感福音書(William Barclay による上記の本による)
マタイによる福音書の特徴(William Barclay による上記の本による)
著者について(William Barclay による上記の本による)
マタイは、Mtt 9:9 によると、収税人で、多くの記録を残したと考えられている。
教会史家のパピアス(1世紀から2世紀)は「マタイはイエスの生誕をヘブル語で収録した」と証言している。マタイ自身が書くのであれば、マルコを参照する必要はなかったと思われるが、マタイが収録したヘブル語の資料、とくに教説を多く取り入れて書かれ、マタイの名がつけられたと考えられる。
大体の学者は、マルコが最初に書かれ、マタイと、ルカはあとから書かれたこと、マルコの福音書以外にも、イエスの説教を書き留めたものがあったと思われること。そしてそれは、マタイによってヘブル語(またはアラム語)で書き留められたと考えているということだと思います。その説教集を大幅に取り入れて、ギリシャ語で書かれたのが、マタイによる福音書ということでしょうか。パピアスの「断片集」については、ネット上に日本語訳が出ています。
通読は、じっくりと時間をかけて読むことは難しいですが、イエスのメッセージと、そして、旧約聖書とのつながり、すなわち旧約聖書の預言の成就としての救い主に注目して読むのもよいかもしれません。また、聖書を続けて読むのははじめてというひとは、四つの福音書を通して、イエスはどんなひとだったのか、イエスに注目しながら、イエスに出会って頂ければと思います。
わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとても楽しみです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.8.28
プログレッシブ英和中辞典
前回は、バークレイからの引用で、マタイによる福音書の特徴の一つは
「ユダヤ人に王として生まれたことを示す」
と書きました。確かに、旧約聖書の成就を証言する箇所は多いですね。また、ユダヤ教の背景を知っている人に理解しやすい記述も多いように思います。しかし、それでは、ユダヤ人のため、またはユダヤ人の救いについて書いてあるのでしょうか。
注意して読んでいくとそうでも無いことに気づきます。
わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとても楽しみです。
2011.9.4
マルコによる福音書の著者がマルコであることを疑う学者は殆どいないようです。マルコはギリシャ語の発音ではマルコス(語尾変化もします)となり、聖書には、マルコスという名前の人も出てきますが(ヨハネ18:10)新共同訳、口語訳、新改訳とも福音書名では、マルコとしています。新共同訳はカトリックとの共同訳で、最初はなるべく言語の音に近い方をとるという取り決めでマルコスで進んでいたようですが、日本語で最も受け入れられているマルコに最終的にはなったようです。最初に出たのは「ルカスによる福音書」でそこに出てくる人の名前になじめないと批判が出て、今の訳になったとのことです。カトリック、プロテスタントで、使われてきた訳語をある程度統一しようとしたわけですが、なかなか難しかったと言うことでしょうか。
さて、このマルコは、上に引用したヨハネ18:10のマルコスではなく、マルコという名前で8回、ヨハネという名前で1回出てくる、ヨハネ・マルコと呼ばれている人です。使徒言行録に記述されている、最初の異邦人伝道旅行に、バルナバ、パウロ二人のリーダーについていった人で、バルナバのいとこだと書かれています。
マルコ:使徒 12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ 4:10, 第1テモテ4:11, ピレモン24, 第1ペテロ5:13
最初にでてくるのは、使徒言行録 12章 12節
エルサレムでの集会所として有名な家の子どもだったようで、学者によっては、最後の晩餐もこの家でされたのではないかと考えています。
聖書の最後に出てくるのは、ペトロの手紙一 5章 13節
ペテロとの近い関係が表現されていますが、ペテロの通訳として伝道旅行に同行し、それをもとにこの福音書を書いたとされています。根拠の一つは、前回も引用した、パピアスの証言です。これは、それより少し後の教父といわれているキリスト教指導者が書き残した物です。
パピアス「断片集」2.15.
神の子、神の聖者との証言は、天から、そして、汚れた霊の証言によってもなされます。
そして、最後には、百人隊長(ローマ軍の下士官)の証言として書かれています。
この福音書の最後は、空の墓証言となっています。
マルコによる福音書の最後を見てみると、なにか不思議な感じがします、いくつかの結語が書かれていたり、注がついていたり、括弧に入っていたりするのです。これは、写本によって、異なることを意味しています。その部分を抜いて考えると、最後は、空の墓となると言うことです。
マルコによる福音書で、イエス自身は自分をどう呼んでいたのでしょうか。それは、人の子という言葉です。なにか変な言葉ですよね。
この人の子という言葉をつかってイエスは自分自身をどのようなものと言っているでしょうか。一箇所だけ引用してみましょう。
最後に少しだけ、ペテロ由来としての、マルコによる福音書の特徴を書いておきます。
わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとてもうれしいです。
わたしの大好きな方と、みなさんと一緒に歩く感じです。正直この方の魅力に触れてもらいていと願っています。
2011.9.11
ルカによる福音書は、批判的な学者もルカによって書かれたと考えているようですが、ルカとはどのような人でしょうか。聖書には、3回出てきます。今、読んでいるマルコによる福音書のマルコも出てきますから、三つとも引用してみましょう。引用はすべて新共同訳です。
もう一つ、重要なことは、ルカによる福音書の書き出しです。それと、使徒言行録の書き出しを比べてみて下さい。
使徒言行録を読んでいくと、途中から「わたしたち」という表現があらわれ、いったん途切れ、またそれが復活し、最後まで続きます。疑問を呈する人もいるようですが、ルカが、ある時点から使徒パウロに同行し、途中で一端わかれ、また行動をともにしていたと考えられています。その意味で、使徒パウロ(パウロについては、今後、どこかで書くことがあるでしょう)の語っていた福音、イエス・キリスト伝が元になっているのではないかと言われています。上の考えのもとでは、パウロに同行してエルサレムにも1回は行ったことになりますし、イエスの母マリアに会ったかどうかは不明ですが、イエスの直接の弟子達の多くと会った可能性は大きくなります。医者として、当時の教養人として、奇蹟物語の実態も含めて、いろいろと調べ、記録したことが書かれているのでしょう。ルカの表現に注意してよむのも良いとお思いますよ。
ルカによる福音書成立の経緯については、2C の後半大体AD170頃ののムラトリ断片(The Muratorian Fragment)に記されています。(http://www.bible-researcher.com/muratorian.html) 和訳も田川健三訳を参考にしたと書かれたものがあります。(http://www29.atwiki.jp/psalmsbox/pages/105.html) いろいろと書かれているので読んでみて下さい。わたしが勉強した頃は、ベッテンソンの「キリスト教文書資料集」が日本語でかつコンパクトにまとまった唯一の資料集だったので、それで最初に読んだ記憶があります。今調べましたら、この本は、版切れでした。
ルカによる福音書は、たとえが豊富な福音書でもあります。ルカのきめ細かな表現とともに、味わって頂けたらと思います。ルカによって描かれているイエスにみなさんと一緒に出会いたいですね。
わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.9.18
今回は、ルカによる福音書を読んでいて印象にのこった「信仰」について少し書いておきます。この言葉は新共同訳で検索すると、福音書の中では、マタイに 14, マルコに 9, ルカに 16 現れます。ヨハネには現れません。その中で「あなたの信仰」と書かれているものを見てみると、口語訳聖書では、マタイに 2, マルコに 2, ルカに 5, 現れます。新共同訳でも大体同じですが、ルカには 4 で、22:32 は少し違う訳になっています。マタイ、マルコ、ルカ共通に現れるのは、12年間長血をわずらっていた女(新共同訳では「十二年間も患って出血が続いている女」)が癒された記事です。病が癒された時にイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。口語訳で列挙してみます。
そして最後は、ペテロに対してです。
ひとつひとつ見てみると、これがイエス様が称賛される「信仰」なのだろうかと疑ってしまうような印象もうけます。「いわしの頭も信心」とどこが違うのだろうかと。しかしイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。信仰の不完全さとか十分でないことをとがめるのではなく、信仰による応答をたたえる、または、信仰によった部分を気づかせ、それこそがあなたを生かすものだと告げるのです。そして、嵐にあったときおろおろする弟子達に「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25)」信仰を増して下さいと願うと「からし種一粒ほどの信仰(ルカ17:6)」があれば十分と言われます。そして「安心して行きなさい(ルカ7:50, 8:48)」わたしは、この言葉になんども力を与えられました。そして、このような言葉を語ることができたら良いなといつも思っています。みなさんは、どのように受け取りますか。
10月1日からはヨハネによる福音書に入りますから、ヨハネによる福音書について少し書いておきます。
ヨハネによる福音書
他の福音書は、共観福音書とよばれ基本的に似た記述が多く含まれますが、ヨハネによる福音書はことごとくといっても良いほど違っています。それは、読めばすぐわかることだと思います。上に信仰の事を書きましたが「信仰」ということばが含まれていないのも四福音書でヨハネだけです。逆にヨハネによる福音書に多い言葉もあります。たとえば「真理」。新共同訳聖書では、マタイ、マルコ、ルカには1箇所ずつですが、ヨハネには20箇所出てきます。また、ヨハネ福音書には、この書の著者について書かれています。以下、新共同訳からの引用とします。
ヨハネによる福音書 21章 24-25節
さらに、ヨハネによる福音書には、この書が書かれた目的も書かれています。
ヨハネによる福音書 20章 31節
これほど、明確に執筆意図が書かれていることには驚かされます。しかし、著者については、自分のことを主の愛しておられた弟子(ヨハネ21:20) と書くことは不自然なことから、主の愛しておられた弟子の影響のもとで書かれたとするのが安全なのかも知れません。実際に書き記したのがだれかは、議論があるようですが、イエスの弟子の一人のゼベダイの子ヨハネを意識して(またはその証言をもとに)書かれたこと、他の福音書にはなく、かなり詳細なそこに居合わせたものだけが語れるような証言、ユダヤや、ユダヤ教に関する豊富な知識は、各所で認められると思います。四福音書のなかでは、一番遅く書かれたとされていますが、おそらく、大切なのは、そのころのキリスト教の中心は、すでにユダヤにはなく、エルサレムは破壊され、異邦人キリスト者が中心だったと言うことでしょう。異邦人キリスト者の社会、つまり背景にギリシャ、小アジアの文化などが入り込んで来ていることから来る問題もあったでしょうし、脱ユダヤ的なキリスト教、つまり、ユダヤ教徒にならずに、ユダヤ教の習慣とは独立に、直接的に救いが得られるかは重要な問いだったでしょう。みなさんが、どのように読まれるか、楽しみです。共観福音書とは違った、このヨハネによる福音書は、イエスの実際の行為や言葉という「事実」よりその意味すること「真理」が語られているのかも知れません。
わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.9.25
一週間お休みしてしまいました。ヨハネによる福音書については、前回ほんのすこしだけ書きましたから、今回は、使徒言行録について書きます。BRC no.31 でルカによる福音書についてのときに書きましたが、ルカによる福音書と使徒言行録は双子のようなもので、二巻本といっても良い形式になっています。ルカによる福音書 1章 1‐4節と、使徒言行録 1章 1‐2節を見比べてみて下さい。後者は「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」となっていますから、天にあげられた日以降についてが、使徒言行録となっています。1章を読むとそのいきさつが繰り返されています。著者は聖書に三回名前の出てくる医者ルカ(コロサイの信徒への手紙 4章 14節、テモテへの手紙二 4章 11節、フィレモンへの手紙 24節)だとされています。医者であることは、コロサイの箇所にも書かれていますが、ルカ4:35で「けいれんする」という医学用語をもちい、ルカ9:38では「医者が診察する」時に使う言葉を用い、さらに、ルカ18:25 では「針の穴」という言葉も、マタイ、マルコでは、通常の縫い針を意味する言葉を使っているのに対して、ルカは外科医がもちいる針ということばを使っていることからもわかるそうです。(William Barklay, "The Daily Bible Study")
使徒言行録でまず目をひくのが1章6-8節です。引用してみましょう。
単に、遠くまで伝わるということだけではありません。
もう一つは、多様な人たちに福音がとどいていくことによりその中味が明らかにされていくようすの記述、とも言えるかも知れません。これは、イエスがすでに地上にはおられないときに、イエスの弟子達に投げかけられたむずかしい問いに答えていく営みとも言うことができると思います。使徒言行録を読みながらわたしも考えさせられた問いを書いておきます。
わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.10.9
わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.10.16
さて、ローマ信徒への手紙は16章ですから、11月2日からはコリント信徒への第一の手紙に入ります。コリントは、使徒言行録に記されているところ(18章)によると、パウロが第二回伝道旅行で、アテネの次に訪ねた場所です。地図をみると一目瞭然なのですが、ギリシャの最南端のペロポネソス半島の根元のくびれたところに位置し、使徒言行録18章18節にも出てくるケンクレアイが東の港で、現在のトルコにあたる小アジアに通じ、西にはレカイオンの港でアドリア海を通してローマにつながっている交通の要所です。一番近いところは6kmといわれ、小さな船は、陸路をローラーに載せて運んだと言われています。BC44ユリウス・カエサルによってローマの植民都市として開かれてから非常に栄えますが、当時にかなり退廃した、不道徳の町だったと言われています。この町に、パウロは、使徒言行録の記述によれば、少なくとも三回コリントに滞在、少なくとも1年半の滞在なども含まれています。伝道者のアポロもコリントに滞在し、ペテロも滞在したと言われています。そんななかで、このコリントの信徒への第一の手紙は、パウロが長く滞在したもう一つの町小アジアのエペソから書いたとされています。(コリント信徒への第一の手紙16章7,8節)読んで頂ければわかりますが、いろいろな問題を抱えていた教会であることが分かります。ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ一度も行ったことのない、ローマの信徒の群れにあてて教義を中心に書いていますが、コリントの信徒への手紙は、よく知っている信徒達に対して具体的な問題について書いています。背景をある程度知ることは必要かも知れませんが、現代にも通じる問題が多く語られています。ざっと見るためにも、梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から書いておきましょう。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.10.30
もうすぐコリント信徒への手紙二に入りますね。
コリントの信徒への手紙一の梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から前回引用しましたが、コリント信徒への手紙二の梗概も引用しておきましょう。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.11.6
明日の箇所はコリントの信徒への手紙二 8・9章ですが、前回書いた梗概にもあるように、この二章には、エルサレム教会への献金のことが書かれています。ユダヤ教の中心であるエルサレム、ユダヤ教徒でイエスを救い主と信じるようになった群れは、エルサレム周辺ではこの当時もモーセの律法をしっかり守って生活していたと思われます(使徒言行録21章17-26)。そのようにして、信仰を守りつつも、ときどき起こる熱心なユダヤ教徒からの反対の中で、使徒や、長老といわれる人たちも生活的には、かなり困窮を極めていたよいです(ローマ信徒への手紙15章26節等)。AD70 にはローマ軍によってエルサレムが完全に破壊され、エルサレム教会は事実上指導的な役割を終えます。この手紙の書かれたときには、発展しつつある異邦人教会が、エルサレム教会とひとつであることを示す、その大切な役割を担った献金が、パウロの祈りでもあったでしょう。ミッション(使命)が違うと、別々に行動することもできたかも知れませんが、パウロの信仰の中にある、キリストにある一致、キリストの体なる教会がひとつであるという真理からすれば、一致をたもちながら共に生きることは、キリストのいのちに生きるものたちにとって最も重要な課題だとパウロが考えたのはとても自然だと思います。現代にも通じる問題提起ではないかと思わされます。
いのちのことば社「新聖書注解」から、ガラテヤ信徒への手紙の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきましょう。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.11.13
すでに読み終わった、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で特別な位置をしめており、四大書簡などとも呼ばれています。エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、ピレモンへの手紙は、獄中から書かれたと記されている(エペソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, ピレモン1)ので、獄中書簡と呼ばれています。フィリピ4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」なとという言葉もありますね。おそらくローマの獄にいたのでしょう。テモテへの手紙一、二、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれることもあります。テモテについては、使徒言行録16章などにも書かれていますね。使徒言行録を思い出しながら読むと良いかも知れません。
どの書簡も短いので、通読ではどんどん進んでいきます。ここでも細かな解説などはできません。しかし上にも書いたように基本的に、これらは、先輩のクリスチャンから、若い教会や信徒や、リーダー達への手紙です。実際の生活に関係することがたくさん書かれています。また、当時の問題についても知ることができると思います。すこし考えると、それらは、ちょっと違った形であっても、現代にもある問題を扱っている場合が多いとお思いますよ。みなさんは、どのような事を読み取るでしょうか。
いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピ信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイ信徒への手紙(コロサイ人への手紙)の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。
エペソ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」小畑進
ピリピ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁
コロサイ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宇田進
テサロニケ人への第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
テサロニケ人への第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
テモテへの第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
テモテへの第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
テトスへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
ピレモンへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁
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2011.11.20
わたしにとっては、ピリピ人への手紙(その当時、そして今もそうですが、わたしが読む聖書は日本聖書協会口語訳が中心でしたので、この項は口語訳の言葉で書かせてください。ほかは、中心的には同じ日本聖書協会の新共同訳の名称、引用を使っています。)は特別です。高校生のころから好きでしたが、1982年(これは、結婚する前の年、今の形式で聖書ノートをつけて聖書を読み始めた年でもありますが)約6ヶ月かけて、ピリピ人への手紙を全文暗唱しました。暗唱は若い頃は難しくはありませんが、なんといっても、忘れないようにする復習が大変で、一週間に三回ぐらい、復唱していました。一番よかったのは、やはり瞑想/黙想をたくさんすることができたことでしょうか。いまは、残念ながら復唱できません。いつかまたやってみたいですが。
書き出すときりがないのですが、いくつかだけ、書かせて下さい。引用は上にも書いたように、すべて日本聖書協会口語訳です。
いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。
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2011.12.4
ヘブル人への手紙(今年、わたしが読んでいる日本聖書協会、口語訳による)では祭司としての神の御子イエス・キリストについて書かれ、このイエスによる救いに対する私たちの信仰による応答をうながしています。ローマ人への手紙15:16 には
今週途中で、ヘブライ人への手紙も終わり、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、ユダの手紙と進みます。これら七書は「公同書簡」「公同の手紙」(Catholic Epistles(Catholic はギリシャ語のカトリコスからきており、普遍という意味です、使徒信条とよばれ多くの教会で唱えられる信仰告白の中に「聖なる公同の教会」ということばが出てきますが、これも英語では、Holy Catholic Church で、プロテスタント教会でもこの言葉で唱えられます), General Epistles)とも呼ばれています。特定の地域の人たちや、グループにあてられたのではなく、信徒全般に対して書かれ、回覧が想定されているものだからです。
著者がそれぞれ誰なのかなども、ひとつひとつ難しい問題を含んでいるようですが、ここでは、簡単に、著者として想定されている有力なひとについて記しておきましょう。
ヤコブは、通常、主の兄弟ヤコブといわれる、エルサレム教会の長老(マタイ13:55, マルコ6:3, 使徒12:17, 15:13, 21:18, ガラ1:19, 2:9, 12, 1コリ15:7)。つまりイエスキリストの兄弟のヤコブです。この書は英語では、James と呼ばれています。旧約のヤコブはそのまま Jacob と呼ばれていますから、これは、King James のもとでの英語聖書欽定訳以来の習慣ではないかといわれています。アメリカでわたしは、新約聖書の一巻として、Jacob といっても、通じないので困った経験があります。
ヨハネの手紙第一は、12弟子の一人のヨハネ、ヨハネの福音書の著者、しかし第二と第三は、それとは違うヨハネだといわれています。長老と呼ばれているからで、マルコ、ヨハネといわれている、マルコの福音書の著者が想定されているのではともいわれています。ペトロはむろん、12弟子の一人のペトロが想定されています。ユダも難しいですが、ヤコブの兄弟(1節)といわれているので、主の兄弟ユダ(マタイ13:55, マルコ6:3)が想定されているといわれています。
いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概を引用しておきます。
ヤコブの手紙(中島守)
ペトロの手紙一(松木祐三)
ペトロの手紙二(上沼昌雄)
ヨハネの手紙一(伊藤顕栄)
ヨハネの手紙二(伊藤顕栄)
ヨハネの手紙三(伊藤顕栄)
ユダの手紙(上沼昌雄)
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2011.12.11
今日の箇所から、ペトロの手紙一 3:15, 16a を口語訳で引用しておきます。わたしの研究室の机の左にいつも見えるところに貼ってある聖句です。
ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。
このあと、もう少しで新約聖書の最後の巻ヨハネ黙示録へと進みます。
ヨハネ黙示録は伝統的には、イエスの12弟子の一人でヤコブの兄弟として記されているゼベダイの子ヨハネといわれています。これについても、議論はあるようです。いままでこのような著者に関する議論をさけてきました。ここでも深入りしませんが、個人的には、特別な古文書が多量に発見されない限り、科学的な方法で著者を確定するのは難しいと考えています。わたしはこのことに関しては全くのしろうとですが、新約聖書の最後にきているので、感じていることを書いておきます。「科学的な方法で著者を確定するのはとても難しい」と私が書く理由は以下の通りです。それは、1世紀から2世紀初めにかけての聖書の背景を示す文書が聖書以外に少ないこと、かつ迫害期もあり、ひとつの文書の完成に時間がかかった場合もあるだろうこと、そして、さらに大きな理由として、当時の習慣として筆記者が介在したことが多いと推察され、また筆記者の関わり方も様々なようで、どこまで実際に語った人の言葉や文体が残っているか判断が難しいこと、最初から最後まで一回で語ったものかどうかも不明であること、さらに複雑なのは、語った言語がギリシャ語なのか、ヘブル語やアラム語なのか不明であること、語った人のギリシャ語レベルがどの程度であったかも不明であること、筆記した人にどの程度の権威があったか不明で、最終的な筆記が、語った人の生前であったか死後であったかも関わってくると思われるからです。ある程度英語が読み書きできるみなさんが、日本語で語り、それをより英語が上手な人が筆記したとします。どのようなことが起きるでしょうか。なかなか難しい状況です。議論をさけたのは、そのような理由です。わたしが数学を専門とする者であることも関係しているかも知れません。数学でいう論拠と、聖書学者の論拠とは性格が違うということでしょうか。べつに批判的な意味合いで書いているわけではありませんが。
このヨハネの黙示録には新共同訳で5回著者としてヨハネの名前が出てきます。
いのちのことば社「新聖書注解」から、ヨハネの黙示録の梗概を引用しておきます。
ヨハネの黙示録(山口昇)
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2011.12.18
今日は12月25日クリスマス(Christ's Mass) です。ギリシャ語ではキリストはクリストスで X (カイ)から始まるので X'mas などと略することもありますね。Mass はいわゆるミサですが、特にカトリックで聖体拝領(プロテスタントの聖餐式に対応するもので、最後の晩餐に由来しパンと葡萄酒を共に食する儀式(例えばマタイによる福音書 26章26-29節参照))の典礼をうけ、最後に「行け、派遣する」と司祭がのべる最後の言葉のラテン語 missa(派遣)に由来します。なかなか意味深い言葉です。
教会暦では、降誕節は、東方の博士たちがイエスをたずねる(マタイによる福音書2章の記事)または、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をうける(例えばマタイによる福音書 3章13-17節参照)公現節(公現日)(英語:Epiphany)1月6日までとなっています。この1月6日はユリウス暦の12月25日にあたるので、ロシアではこの日にクリスマスを祝うそうです。
そもそも教会暦は、待降節、降誕節、受難節、復活節と一年のいくつかの特別な日・期間を記念してイエスの生涯を覚えるものです。その決め方はキリスト教の宗派によっても異なります。そして、聖書に正確な日付が残されているわけでもありません。アメリカに渡った厳格な清教徒たちは、クリスマスを異教のものと見なし、クリスマスを祝わなかったと言われています。実際、州によってはクリスマスを祝うことを禁止されていた時期もあるようです。アメリカで、今でも収穫祭 Thanksgiving の方が一般的で重要視されているように見えるのは、そのへんも影響しているかも知れません。
前回書いたように、最初の3章はローマ帝国のアジア州(現在のトルコの西部)の七つの教会へのメッセージになっています。それらの町について次の箇所に書かれています。
4章からは幻が記されています。みなさんはどのように読まれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2011.12.25
今日は1月1日、ヨハネの黙示録15章・16章です。どうですか。皆さんは、2011年一年間と1月4日までで、旧約聖書の創世記からヨブ記と、新約聖書読み終わりそうですか。実は、途中で挫折したというかたや、新約からまた始めたけれどそれも、途中まででついて行けていないという声も聞いています。なかなか難しいですよね。最初に続けるためのヒントを書きました。いつも、メールの最後につけてある、URL からも読むことができます。サポートメールも前回のものまで、UP してあります。新しい年を迎え、気分を一新し、また、トライしてみませんか。実はわたしも、忙しさのなかで、単に消化するだけという感じで読んでいる時もあります。それでも、続けていると、たくさんの新しい発見があります。そしてそれが、自分にとって大切な「問い」となることもありますし「力」「励まし」となることもありますし、長年の「問い」の答が得られるときもあります。今回の通読が何回目か記録はありますが、数えてはいません。聖書の会のようにじっくり一つの箇所を読むのとはまた違った発見が毎回あることは確かだと思います。
1月5日から旧約聖書にもどり「詩編」から旧約聖書後半を読み始めます。また新鮮な気持ちで読むことができると思いますよ。通読のコツの一つは、よしやってみようと思ったときから、何回でも始めることです。みなさんが聖書の通読を楽しんで頂ければと思います。
詩編は聖書の中でもちょっと変わっていますね。まず、他はすべて章で区切られていますが、詩編は第1篇、第2篇と続き、第150篇まであります。3月19日までずっと詩編です。なかなか長いですね。非常に長い第150篇などというのもありますが、それ以外は比較的短く、とても短いものもたくさんあります。一篇一篇を味わう余裕もあると思いますよ。
引用するときに、ちょっと混乱する可能性があるのは、節の振り方が翻訳によって違うことです。これは、表題を節として数えるかどうかに依っています。表題はついていないものもありますが、殆どについていて、日本聖書協会の新共同訳ではこれを本文の一部として節がふられ、口語訳や、日本聖書刊行会の新改訳ではふられていません。そこで多くの場合1節ずれます。現在は、新共同訳が一番普及していると思うので、ここでは、特に断らない限り、新共同訳の節番号を使いたいと想います。ちょっと違うときはその周辺を探してみてください。理由はここでは書きませんが、新共同訳が元にしたヘブル語聖書にはこの表題にも節番号がついているとだけ書いておきます。
もう一つの特徴は、第一巻から第五巻までに区切られていることです。そして、それぞれの最後は、頌栄とよばれる言葉で終わっています。区切りとその締めくくりの言葉を新共同訳から引用しておきます。
第一巻 第1篇-第41篇
第二巻 第42篇-第72篇
第三巻 第73篇-第89篇
第四巻 第90篇-第106篇
第五巻 第107篇-第150篇
ハレルヤは「主をほめたたえよ」の意味ですが、詩編全体が、賛美・賛美の書となっているのですね。
では、どのような内容なのでしょうか。それは読んで味わって頂くのが一番ですが、一般的には、
祈り、賛美、悔い改め、国家、エルサレム、諸国のためのとりなし、神様への信仰告白、神の知恵、力などの表現、国家や神に対する敵への呪い、義人の苦しみ、悪人の繁栄の嘆きなどです。
大きくとらえると、祈りとも言えますし、信仰告白とも言えると思います。つまり人から神へのことばです。こう言い切ってしまうと、聖書は神のことばではないのかと言われる人もいるかも知れませんが、人生や聖書を通して示される神からの語りかけに対して、応答によって神を指し示すと考えられるのではないかと思います。読むときには、わたしたちのような生身の人間の言葉として、苦しみや喜びを読み取ってくださればと思います。その先になにが見えるかはそのあとの問題ですね。
おそらく「呪い」については、ちょっとショックを受ける面もあると思います。しかしこれも人間の一つの告白でしょう。キリストによる神様の愛が明確な形では示されていない、そのときのひとの苦しみ悩みの表現は、すなおにうけとってよいと思います。そして、キリストの愛が示された今は、そのような悩みは存在しないと言えない事も明らかでしょう。
最後に神様の名前の用法、ちょっと難しいですが、をちょっとだけ書いておきます。いまは、いろいろな方法で検索もできますが、
神をヤハウェと特別な言葉で表現する場合と、一般名詞としてのエロヒームと記す場合があります。実は、上の5巻ではこの用法はかなり違っていることが良く知られています。1, 4, 5 巻はヤーウェが圧倒時に多く、エロヒームは殆どでてこない。それに対して、2, 3 巻はエロヒームの方が圧倒的に多く出てきます。日本語聖書でこの違いを見分けることができるかな。
皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
本年もよろしくお願い致します。
2012.1.1
今日は1月8日、詩編7篇・8篇です。前回書いたように、41篇までが詩編は第一巻となっています。
詩編はむろん詩文体で散文体ではありません。ヘブル語は三文字で構成される単語が多く、それが詩文体で並んでいると翻訳も難しく、違う翻訳をみるとかなり違った印象を受ける箇所、または、明らかに意味が違うところもいくつもあります。ただ、BRC は通読を基本としていますから、丁寧な比較まではできません。前にも書いたように、今回わたしは口語訳で読んでいるので、以下、口語訳で引用させて下さい。
1篇は次のようになっています。
詩編1篇は第一巻をまとめるような内容なのかもしれません。第一巻最後の41篇もとても印象的な詩編です。
1篇の3, 4 節以降をみると、正しい者は栄え、悪しき者は滅びる。本当にそうでしょうか。現実を見たときに。
不正や悪ではなくても、先天性の病気や障害をもって生まれてくる人、何も悪くないのに、交通事故にあったり、戦争などに巻き込まれて命を落としていく人もたくさんいます。それほど単純ではないと言いたいこともたくさんありますよね。
ひとの生き方も、それなりに、かみさまが望まれるように生きようとしていても、そうでないこともしてしまう。
実際第一巻の最後の41篇には、そのようななやみも出てきます。
いろいろな詩編に出会われることと思います。
皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2012.1.8
今日は1月15日、詩編21篇・22篇です。明日は詩編23・24篇となります。特に、22篇、23篇はよく知られていると思います。
少しみてみましょう。今日は、新共同訳を中心に使います。前回も書きましたが、翻訳によっては、節がずれる事がありますので、注意してください。22篇は「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」とはじまります。
マタイ27:44 には、イエスが十字架上で次のように叫んだ事が記されています。
この詩編がいつ作られたか確定はできませんが、この詩編22篇に記されている苦悩は、その作者のものでもあったでしょう。まずは、詩編自体をみてみましょう。
「指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。(1節)」と表題がついています。「暁の雌鹿」もよくはわかりませんが、神殿で犠牲を捧げるときに唱えられた詩編なのかも知れません。
2節・3節には、見捨て、沈黙される神への訴えがあります。
最初に書いたように、この姿は、十字架上のイエスといろいろな面で重なります。上で引用した 4-6節も次の箇所と類似しています。
ルカ23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
では、イエスはどのような意味で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだのでしょうか。むろん本当のところはわかりませんが、みなさんはどう思われますか。十字架上でこの詩編を唱えておられたのかもしれません。そして、本当にイエスは神に見捨てられた状態になったのかも知れません。もしそうだとしたら何がおこったのでしょうか。
イザヤ53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
主の牧場、主の支配、神の国に住むものの平安が語られます。しかしなにも問題がないという意味での平安ではありません。
わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2012.1.15
今日は1月21日、詩編33篇・34篇です。
詩編32篇をみてみましょう。今日は口語訳聖書から引用します。
この詩編は「ダビデのマスキールの歌」と書かれていますが、マスキールは「さとし」「おしえ」といった意味ですね。つぎのように始まります。
1. そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
しかしこれは、単なる一般論ではないことが直後にわかります。
3. わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
この苦しみは並大抵で張りません。みなさんは、このような経験はありませんか。おそらく、この詩編記者もなにか訳がわからず苦しんでいたのではないでしょうか。おそらく祈っていなかった訳ではないと思います。もしかすると、苦しみの原因をだれか他の人の責任にしたりしていたかもしれません。しかし、苦しみとは別に、自分に問題があることを、少しずつ気づかされます。苦しみが、主の御手として認識され、罪、不義を自覚させられます。
5. わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
とてのあっさり書かれていますが、おそらく、葛藤の末に、ここに至ったのでしょう。そして次のように告白します。
6. このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
津波のような大水に襲われても、沈んでしまうことはないと告白します。口語では「このゆえに」とあります。祈る、基本的な理由は、主からゆるしを得、圧倒されそうになるときにも、支えてくださる、この確信ゆえなのでしょう。いのるのは、ゆるしていただくためかもしれません。そして主に信頼するものはゆるされたものです。そして、この詩編記者はそのことを「あなた」に教えています。
8. わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
自分勝手に暴れ回る、統制のとれない馬や騾馬のようであってはならないと教えています。
10. 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
主に信頼する以外に、救いはない。許しが得られるものは、本当に幸いですね。イエスによって、まさに、そのゆるしが与えられるのでしょう。
7. 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
深淵を倉におさめてしまうのです。神様だからこそできることでしょう。罪のゆるしはそれゆえ神業以外のなにものでもありません。
詩編34篇18節には、こうあります。
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
そして次のようにむずばれています。
22. 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに/罪に定められることはない。
ゆるしをえるために主の前に出て祈る。信頼の生活の基盤がここにあるように思います。最後に、イエスが、いのりについて教えてくださる普通「主の祈り」といわれるものの次にかいてある箇所を引用しましょう。マタイによる福音書 6章14, 15節
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2012.1.21
今日は1月29日、詩編49篇・50篇です。いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。
1: 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
ルターもずっと苦しいときを生き続けたのだと思います。そしてその苦しいときにも、たくさんの手紙を書いたり、隠れ住んでいるときに聖書の翻訳をしたり、この詩編はまさに、そのようなルターを支え続けたのでしょう。
8: 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
ルターはおそらくその思いとは反して、農民戦争で農民をたすけたり、領主側にたったり、それによって批判を受けることになります。それぞれの階層の人たちの教会の権威や、農民の領主の圧政からの解放という社会的なうねりのなかで、知名度が高くなり、影響力が大きい人物となった責任がルターにのしかかり、そのひとたちを啓発したり、利用されたりしていったのです。ひとつひとつこの詩編のことばをかみしめていたのだと、そのときのルターのこころに思いをよせます。
世の中には理不尽なこと、悪人が栄えること、どんなに正しいことを貫いても報われないことがあります。おそらくそれは、どの時代にもあることでしょう。ここでは、いのちを究極のものとして、そこに目を向けています。
7: まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
すると、結局、賢いひとも、愚かなひとも、獣のようなひとも同じとなります。詩編の次の次伝道の書(新共同訳ではコヘレトの言葉)の底を流れる問いの一つとつながります。さて、ここで希望はどこにあると記者は言っているのでしょうか。究極まで考えると結局、賢いひとも愚かなひとも、獣のようなひともおなじではないか。おそらくそれに答えるのが次のところなのでしょう。復活に関する記述だともとれます。
14: 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
死に対する勝利、詩編記者はそれをどのように信じていたのでしょうか。
詩編53篇は、次のように始まります。「愚かな者」「『神はない』という」これは、詩編にはもう一回出てきます。この愚かは、ギリシャ語ではモロスですが、賢いは、ソフォス、それが一緒になって、ソフォモアということばになっているそうです。それが混在している、またはそれが分かれていく学年ということでしょうか。聖書では、詩編のつぎの箴言で、この賢いと愚かが中心的トピックとして扱われます。しかし、なぜ、「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。」のでしょうか、論理的には、「神はない」と言わないものは、愚かな者ではないとなります。ここには、なかなかの真理がふくまれていると思いますが、みなさんは、どう思われますか。「『神はない』という」者が愚かだとは言っていません。
53:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
14:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。
2012.1.29
この BRC のサポートページもおいてある私のホームページには、わたしの証やメッセージも載せていますが、2003年の大学礼拝でのメッセージ「平和の中で育むもの」に「先日、C-Week で、もとテロリストで現在は牧師をしている方が、メッセージをされました。その方も冒頭で『紛争地には中立はない』と言っておられました」このことをイメージしながら考えないと理解できないことも多いのかもしれません。また同時に、物理的に紛争地ではなくても「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15 口語訳)を現実のことと考えると、緊迫した状況の中にいる私たち自身をも見いだすことができるかもしれません。
今日は2月5日、詩編63篇・64篇です。いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。
みなさんは「もだして」ということばはわかりますか。漢字で書くと「黙して」となります。思考・行動などとの関連で「口を開かない」ことのようです。上にあげたように、この詩編には二カ所この言葉が使われていますが、他の聖書の箇所にもほとんど使われていません。聖書に使われていることばとして、普段はあまり使われないので、わたしには特に印象が強い言葉です。確かに救いを神にもとめ、願いをもって神に訴えます。しかし、最終的にこの態度が、自分の望みのように、自分が考える救いのようにことが運ぶことを願うのではなく、神の主権のもとで、神の国がくることを願う、御心がなることを願う、ひとりの人間の態度・姿勢なのだなと思います。上の1, 5節にはそれぞれ次の節が続きます。
2: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
そして、私たちの日常にも関係するような次の言葉が続きます。
9: 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
以前、詩編は詩文体なので、訳によりかなり意味も変わってくると書きました。その問いを投げかけるため、9節に対応する新共同訳を引用しておきます。
9: 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
敵からの救いを求める詩編です。この次の節からその敵のことが書かれています。
3: 彼らはその舌をつるぎのようにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、
これに対して神はどう応答されるのでしょうか。それがその次に書かれています。
7: しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
神が矢を射られる。その理由は「彼らの舌のゆえ」となっています。つまり、自分を陥れようとしたことを理由としているのではなく、隠れたところから、罪のないものを射、そのことは暴かれないと言ってはばからない。その故です。
最後は次の言葉で締めくくられています。
9: その時すべての人は恐れ、神のみわざを宣べ伝え、そのなされた事を考えるであろう。
紛争の中にいる、詩編記者のことを考えると、いまから 2500年から3000年も前に、このような祈りがなされていたことに驚きを禁じ得ません。正直、詩編によっては、身勝手な祈りと思われるものもありますが、詩編全体でみたときに、戦いの中にいて、神をほめ讃えるものの信仰に圧倒されてしまいます。
6節は出エジプトのできごとを踏まえています。出エジプト14章と、ヨシュア記4章です。
ここで終わりません。
9: 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。
と書いた直後に、
10: 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
簡単にかかれていますが、14節を読むと、実際に悩みの時に神に求めていたこともわかります。
14: これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。
そして
18: もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。
皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。
2012.2.5
1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
21: わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
どう思われますか。なかなか苦しみの中にいるとき、このように告白できるかどうか分かりませんが、2, 3 節は、自分が「こころの清い者」ではなかったことを具体的に表現しているのでしょう。
マタイによる福音書5章 8節には「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」とあります。論理的に考えると「神の救いをみることができないのは、心が清くないということだ」ともなります。2,3 節から考えると、悪しき者が栄えるところに目がいってしまい、こころが分裂してしまって、神の救いに預かれない、神の業としての救いを見ることができないとなります。21-23節では、自分が「愚かで悟りがなく」神に対して「獣のようであった」と告白しています。この状態なのでしょう。
しかし、その次の23節には「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。」とあります。前半は、自立的に常に、神とともにあったというより、このことを発見したということかもしれません。気づいてみたら、このようだった、といって神を褒め称えているのです。
この1-3節の後も是非読んでください。悪しき者の忌まわしき様が書かれています。そして、
10: 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
どのように読むべきか確定的ではない部分もありますが、悪しき者の非道を行い、それを謳歌するなか、民も心を変え、それを褒め称える。神を誹謗し、かつ、世の富、祝福も悪しきものとともにある。14 には義憤のようなものも現れているでしょう。しかし「いたずらに」は、新共同訳では「むかしかった」と書かれていますが、悟りなく正しさのみを追い求める苦しさが表現されています。16節は、その現実を後代に語ることを表現しているのでしょうか。さらに、17節はおもしろいですね。悟りを得ようと考えたのでしょうが、それは、面倒にも思えたというのです。(新共同訳は訳がかなり違います)そして、18節を迎えます。この人は「聖所」で悟りを得たのです。19, 20 には、悪者が滅ぼされる光景が書かれていますが、悟りが、聖所で得られたのだとすると、現実というより、神のみわざを悟ることだったのでしょう。悪者の栄華に「虫が食い、さびがつく」マタイによる福音書6章19節だったのかもしれません。そしてそれが全体として 1節に表現されているのではないでしょうか。
1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
11: しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
逆らう民に対する、神のこころが記されているとともに「わたしは彼らを、そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。」
とあるのです。ローマ人への手紙1章24節
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。
を思い出させられます。これもひとつの裁きの形、しかし同時に、13節のように神様は望んでおられるのでしょう。
13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。
2012.2.124
公的な賛美と上に書きましたが、公の場での使われたと思われるものが多いことは確かだと思います。礼拝において、司式(司会)者と会衆が交互に読む「交読文」という形式がありますが、その形式にぴったりの詩編もいくつもあると思います。今回も口語訳を中心とします。
あまり詩編を読まないというかたでも知っておられる方がいるのではないでしょうか。「全地よ」ではじまります。そして「われらを造られたのは主」だから「われらは主のもの」「その民」「その牧の羊」だと続きます。「全地」とはどの範囲なのか、「われら」とはどの範囲の人を想定していたのかなどと、現代的な世界観から、当時の世界観を批判的にみることもできますが、このように言い切ることによって、このようにしか表現できないとして告白し、唱えるなかで、逆にこの言葉の内実が迫ってくると言うこともあるのではないでしょうか。人間の側では、これにいろいろな解釈を施して、限定的に解釈しようとする、しかし、われわれを創造し、われわれを所有し、そしてわれわれを牧している、この主こそ神と言い切るときには、排他的な人間のこころは場所を失います。
その上で、この主のみ前に集い、その門に入り、大庭に入る、この光景は、天国(かみさまのみこころがかんぺきになるせかい)は近づいたと告白できるのかもしれません。
最初にテーマを決められないと書きましたが、この次の詩編101篇以降は「われら」が「わたし」に変わります。
101:1a わたしはいつくしみと公義について歌います。(a はこの節の前半を表す慣用記号です)
102篇の表題は「苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈」となっています。
102:1 主よ、わたしの祈をお聞きください。わたしの叫びをみ前に至らせてください。
そして 103:1, 104:1 では「わがたましいよ、主をほめよ。」となり、この巻の最後の二つの詩編は
105:1 主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。
詩編においては、全世界のことと、個人のなやみ、そしてわれわれの隣人のことが分けられないものとして織りなされているということでしょうか。
最近、International Baccalaureate という国際学士資格と関連して、International Education の基礎を築いた Marie-Thérèse Maurette の言葉から、考えさせられることがありました。"Is There a Way of Teaching for Peace?," をキーワードに探すととくに UNESCO 関連のサイトが出てきますが、Maurett 女史の唱える、平和教育の基礎には、とても共感させられました。
Five UNESCO mandates to its Education-based NGO’s (including IB):
あまり、詩編と強くリンクさせるのは問題があるかもしれませんが、ある普遍性を覚えさせられます。最後は、個人的な思惟から、中心を外れてしまったかもしれませんが、人生全体と関わりながら聖書を読む、みなさんもいろいろなことを考えながら読んでいただければと思います。
今週は、聖書の中でもっとも長い章でもある詩編119篇があります。いろは数え歌にもなっています。律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。楽しんでいただければ幸いです。
2012.2.26
前回も最後に書きましたが、この詩編は、いろは数え歌にもなっています。日本語聖書にもアレフ、ベスなどと記されていますが、これは、ヘブル語のアルファベット(22文字)で、かつ、実はギリシャ語でもそうなのですが、このアルファベットを数字の代用にもしているのですね。アレフはだから1でもあります。数え歌と書いたのは、たとえば、最初のアレフと書かれているものは、最初がすべてアレフで始まっているのです。(聖書には数え歌形式のものがもうひとつありますが、完全な形のものは、この119篇です。)百聞は一見に如かず、ネット上にある、ヘブル語聖書を見てみましょう。ひとつだけ言わなければいけないのは、ヘブル語は右から左に書くということです。
1. 聖書全体:http://www.mechon-mamre.org/e/et/et0.htm
上の 2. 詩編119を見てみると、真ん中にヘブル文字が書かれていますが、それは、節番号です。最初の文字はアレフです。その左がヘブル語本文ですが、最初の8節はすべてこのアレフで始まっています。なにかそのアレフの下に細かいものがついていますが、これは母音記号と呼ばれているものです。
音声で聞いてみたいというかたは、やはり最初に紹介したサイトにあります。
上で紹介した Interlinear 4 詩編119 をみると、たとえばアレフで始まる最初のことばがそれぞれどんな単語に対応しているのかもわかります。最初の単語は、アシュリーで「幸せ」ですね。
わたしは、ヘブル語も神学校の聴講生として少し勉強しましたが、聖書を読むことができるまではいけませんでした。でも、いまはネット上にいろいろなサポートがあり、便利になりました。
もう一つ、前回、「律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。」と書きました。道というのもあります、ちょっと拾ってみましょう。最初に書いたように、口語訳とします。
おきて、あかし、さとし、さだめ、戒め、み言葉、約束、真理の言葉、
道、あなたの道、あかしの道、さとしの道、真実の道、戒めの道、
いくつか拾ってみましょう。
9:若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。
18:わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちの/くすしき事を見させてください。
25:わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。
36:わたしの心をあなたのあかしに傾けさせ、不正な利得に傾けさせないでください。
45:わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。
67:わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。
71:苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。
92:あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。
129:あなたのあかしは驚くべきものです。それゆえ、わが魂はこれを守ります。
147:わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。
160:あなたのみ言葉の全体は真理です。あなたの正しいおきてのすべては/とこしえに絶えることはありません。
ほかにもほんとうにたくさん珠玉のことばがたくさん詰まっています。この詩編だけでも一年かけて学んでも良いかもしれません。
この詩編、最後は、次の句で終わっています。
176:わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。
不思議だと思いませんか。これだけみ言葉を思い巡らして、これだけの詩編を詠んできて、最後がこの言葉なのです。主の戒めを忘れないならば、迷いでないのではないのでしょうか。自分の思い、願いとは、べつに、このことこそが真実だと知っているのでしょう。「わたしはあなたの戒めを忘れない」は偽らざる告白と誓いであっても、神様が、「あなた」とよびかける個人的関係にあるその神様が、「しもべ」を、探し出していただかなければ迷ったままなのです。もう一度、9, 10, 11節を読んでみてください。
みなさんは、詩編をどのように読んでおられますか。
2012.3.4
わたしは、明日3月10日から19日までタイ・ワークキャンプの引率で不在となります。箴言については、帰ってきてから書こうと思います。
詩編から少し書きたいと思います。今回も、口語訳からの引用を中心とします。
詩編130篇はつぎのように始まります。
1: 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
みなさんには、どこが、印象的でしょうか。わたしは聖書ノートを毎日つけていますが、今年この箇所を読んで印象的だったのは、ゆるしと希望です。この詩編記者は、神様の救いに希望をもつことができるのは、神様が「もろもとの不義に目をとめられる」かたではなく「ゆるし」があるかただからだと言っています。なぜそんなことを言い切ることができるのでしょうか。経験でしょうか。5節6節にある「待つ」ことをずっと続けるほどの希望、確信はなにからくるのでしょうか。みなさんはどう思われますか。5節には「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」とあります。新共同訳では「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。」となっています。このみ言葉はなにを指しているのだと思いますか。神からの応答でしょうか。聖書の約束でしょうか。かみさまとの霊的な交わりの中で与えられるみことばによる平安でしょうか。
詩編139篇は次のように始まります。
1: 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
このあとも、すべてを知っておられることが続きます。この神がゆるしの神、愛の神です。すべてを知り尽くしていて、赦される。見ないようにする。どうでもよいことにする、というのとは、まったく違うすごさを感じるとともに、われわれの思いが及ばない、畏れも感じます。
みなさんは、詩編をどのように読んでおられますか。
2012.3.9
箴言の最初(新共同訳)は
1: イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
となっています。列王記上3:1-15に、ソロモンが王になったときのことが書かれています。
5:その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
9:どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
と書かれています。この次の15節から28節に有名な逸話が挿入されています。ソロモンの知恵については、列王記上5章に
9:神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。
と書かれ、列王記上11章 には
41: ソロモンの他の事績、彼の行ったすべての事、彼の知恵は、『ソロモンの事績の書』に記されている。
と書かれています。ですから、1章1節は、そのソロモンの箴言だと言っているわけです。ただ、少なくとも箴言31章、32章をみると明らかにソロモン以外に由来すりものも含まれていることがわかりますから、すべてソロモンのものというより、偉大な知者であるソロモンの名前のもとに集められたものというような意味でしょう。
エレミヤ書18:18 には
彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」
エゼキエル書7:26 には
災いに災いが続き/悪い知らせが相次いで来る。彼らが幻を預言者に求めても得ず/律法は祭司から失われ/助言は長老たちから失われる。
とあります。この二つを見ると、律法を教える者として祭司、助言を与える者として賢者・長老、御言葉・幻を与える者として預言者が想定されていることが分かりますが、この人たちが、民の各界のリーダーということでしょう。現代的な言い方をすると、聖書の言葉を教えるのが祭司、神のことばを取り次ぎ伝えるのが預言者、知恵を語る賢い人が長老です。長老は民事事件も扱っていましたから、実際の問題について判断しなければいけなかった訳です。そこで、知恵は、神との交わりの経験をもって、神のことばを実生活に適用することを教えるものと言ってよいでしょう。
サムエル記下14章2節には「一人の知恵のある女」が、サムエル記20章16節にも「知恵のある女」が現れます。「知恵」は、一般にも浸透しており、「知恵あるもの」が大切にされていたのでしょう。
箴言1章7節、9章10節では、それぞれ
1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
と書かれています。これらの言葉から考えると、一般的格言といえるものもかなりおさめられてはいますが、基本は、上の言葉に要約されている知恵なのでしょう。
箴言に書かれている、知恵、悟り、思慮深さ、知識、分別などはどのようなものなのでしょうか。賢い者と対比して、愚か者、怠け者についても書かれています。アメリカ英語で使われる2年生を表す sophomore は、(原義は違うようですが、)ことばのつくりとしては、sophos(ギリシャ語の「賢明な」)とmoros(ギリシャ語の「愚かな」)があわさってできたと言われています。どのようにとるかはひとそれぞれかも知れませんが、賢明さと愚かさ両方が入り交じったわれわれがそれらを分けるものについて、箴言を通して学ぶことができればと思います。
いのちのことば社「新聖書注解」から、箴言の梗概(尾山令二)を引用しておきます。
2012.3.20
今日は3月25日ですから箴言11章・12章です。箴言から何カ所かひろって書いてみたいと思います。新共同訳から引用します。
4:「人よ/あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。
8:わたしの口の言葉はすべて正しく/よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
上に「箴言だけから真理を得る危険性」と書きましたが、なんと 8-10 を読むと「知恵と英知」は完璧だと語っていますね。箴言に記されている実際の言葉ではなく「知恵と英知」というものがある人格をもち、かつ完全なものとして存在すると語っているのでしょうか。
14:わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
ここでは「知恵と英知」が主権者、神のように描かれています。
22:主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
この22節以降には、「知恵と英知」がすべてのものに先だって造られたことが30節まで書かれており、それに引き続いて
30:御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
と記されています。そして最後は、
35:わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。
「知恵と英知」が命と直接的に結びつくものであることが記されこの箴言は終わっています。
あまり短絡に結論を急がない方がよいと思いますが、なにかヨハネによる福音書の書き出し(第1章冒頭)を想起させませんか。
1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
箴言の記者はどのようなことを考えながらこの箴言を記したのでしょうか。
ひとの計画と紙の計画について記されている箴言を16章から、すこし拾ってみましょう。わたしが好きな箇所でもあります。
9:人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
19:貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
25:人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。
33:くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。
25節は 14:12 にもまったく同じ聖句があります。また、口語訳では、
人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。
となっています。人生のそれぞれの岐路において、いのちに至る道か、死に至る道かを見分けるのが「知恵と英知」なのでしょうか。
いろいろとこころに残る言葉がありますが、みなさんはどんなことばが好きですか。
これはちょっと違うのではないかというものも含めて、感想・疑問などもお寄せ下さい。
2012.3.25
4月3日から「伝道の書」に入ります。これは口語訳の書名で、新共同訳は「コヘレトの言葉」、新改訳は「伝道者の書」となっています。
1章1節は
では、この伝道の書は虚無思想の書なのでしょうか。もしそうだとしたらどのような意味で「虚無」だと言っているのでしょうか。この書に記されている虚無的な思想の記述については、それぞれ、ギリシャ、バビロニア、エジプト、仏教、フェニキアなどの影響の指摘する学者がいるようです。
もう一つよく出会うことばが、「太陽の下」(新共同訳)「日の下」(口語訳・新改訳)です。この世の中のことといった意味でしょうか。それを知り尽くしたコヘレトということでも、最初にソロモンを想起させる記述があるのでしょう。
さて、みなさんは、どのようにこの伝道の書を読まれるでしょうか。わたしは高校時代なんどもこの伝道の書を読みました。学園紛争の中で「虚無」について考えていた時代的背景もあるでしょう。同時に、これをして、こう頑張って、つぎにこうなれば、こんなものを得ることができ、こんなに幸せになれるよと、若者にバラ色の人生をもとめて頑張るよう語る声の中に虚の響きを聞き取っていたからかも知れません。
徹底的に、この世の空しさをしっかりと正面から認めることが、そうではない世界に光をあてる事になるのだと、わたしは考えています。
それをソロモンの名を借りて語ることで、ユダヤの人には重要な響きとなって伝わったでしょう。また、たとえば、上に書いた3節、この言葉を聞いた人は、同時に詩編も知っている人です。詩編127篇1.2節(新共同訳)には
2012.4.1
4月10日から「雅歌」に入ります。ヘブル語聖書では「シールハッシーリ」と呼ばれていますが、これも単数形+複数形の「歌」という単語が重ねられているので、最上級を意味し「歌の中の歌」「最高の歌」と言う意味です。英語では、Song of Songs と訳されています。これを書いていたときに丁度、平原綾香の Not a Love Song という歌が流れていましたが、ちょっと通じるものがありますね。Not a Love Song は「(たくさんあるラブソングのうちのひとつではない)特別なラブソング」というような意味でしょう。内容からするとこの雅歌は「ラブソングの中のラブソング」と言っても良いかも知れません。日本語訳の書名は漢訳聖書から引き継がれたようです。1章1節は
今回もいのちのことば社の「新聖書注解」を見てみましたが、そこでも、6通りほどの解釈が紹介されていました。多少わたしの解釈を加えてありますが、以下のようなものです。
雅歌から少し拾ってみましょう。以下は新共同訳から引用します。
2012.4.8
旧約聖書では、列王記下 19, 20 章、歴代志下 26, 32章、新約聖書では、以下の箇所です。
大体BC1000年頃、ダビデがイスラエル王国の王となり、そのあとソロモンが王となりますが、その死後BC922に王国が分裂します。12部族のうち、ユダとベニヤミン族からなり、ダビデ王家の血筋をひく南ユダ王国と、残りの10部族からなる北イスラエル王国での二つの王国です。同盟関係を持っていた時代もありますが、敵対関係にあった時期のほうが長かったでしょう。南には、エジプトという超大国があり、北にはアラム(シリヤ)がありました。その首都であるダマスコは、世界史上最古の都市といってもよいほど古くから栄えた都市でした。
上に引用した1章1節に現れるウジヤは、列王記下14章・15章では アザルヤと呼ばれています。ウジヤについては、歴代志下25, 26章にも書いてありますので是非読んでみて下さい。神に従った良い王様で、外交においても、内政においても、実績を上げ国は繁栄していたことが、歴代志に書かれています。しかし晩年、祭司しか入ってはいけない、神殿にはいり、香をたいたため、神に打たれて重い皮膚病になった、と書かれています。歴代志下26章から、少しだけ引用しておきます。
20: 祭司長アザルヤと祭司たちは皆彼の方を向いて、その額に重い皮膚病ができているのを認め、直ちに去らせた。彼自身も急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。
わたしは 1987年頃二年ほど神戸ルーテル神学校に聴講に行っていたことがありますが、その校長先生が鍋谷堯爾(なべたにぎょうじ)というかたで、イザヤ書が専門でした。時々引用している、いのちのことば社「新聖書注解」のイザヤ書もこの先生が執筆していますので、そこから、背景となる歴史と慷慨を引用しておきます。上に書いた国の関係が、アッシリアの台頭によって崩れて、北イスラエル王国などが滅ばされてしまうのです。南ユダ王国はアッシリアのあと中東を制したバビロニア王国に滅ばされるまで細々と残ります。
慷慨 (いのちのことば社「新聖書注解」鍋谷堯爾による)
中身については、また次回以降としましょう。みなさんは、どのようなことを読み取られるでしょうか。
2012.4.15
では、神様は何に怒っておられるのででしょうか。
2章4節・5節は、聞いたことがあるというかたもいるかと思いますが、主が与えられる平和について凄いことが書かれています。
では、イザヤはどうだったでしょうか。7章には、王と直接やりあう姿が書かれています。すくなくとも、困難な国際政治状況のもとで、これは背いた民に対する神の裁きだからと、道徳的に清い生活をするために、隠遁生活をするとういのではなく、王を批判したり、世界の状況についての神のことばを伝えています。イザヤ書を読み進めるとわかりますが、イザヤの時代のひとびとにとっての全世界といえるようなあらゆる国々についての預言が語られています。そしてそれぞれの国を神が用いておられることも語られています。10章にはつぎのようなことばも登場します。
わたしには、イザヤ書の内容について解説を書くというようなことはできませんが、イザヤが扱う広さ、神の働きの大きさは、地域的にも、釈迦的にも、時代的にもたいへんなスケールであることは、驚きをもって読んでいます。
みなさんは、イザヤ書を読みながらどんなことを感じておられるでしょうか。
イザヤ書6章1節から13節を引用して、ICU教会の礼拝で証をしたことがあります。読んで頂ければ幸いです。
「アベイラブルであること」
2012.4.22
no. 57 にイザヤ書の全体の流れを書きました。イザヤ書は66章ありますから、大体の流れが分かっていることは助けになると思います。
下に書いてあるものは、no.57 にいのちのことば社「新聖書注解」から引用した部分です。
最初は当時の世界の最強のバビロンから始まり、最後はツロとシドン、フェニキアという商業によって栄えた海洋民族の港町で、イスラエルからほど遠くない町について記され、さばきのあと70年たって神様がツロをふたたび顧みられることが書かれて終わっています。
第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35
このあと、36章から39章の第四部がつづき、そこでイザヤ書の前半が終わります。この36章からの部分は列王記下18章13節から20章の終わりまでの部分と全く同一または平行記事になっています。イザヤの人生のハイライトだったかもしれません。40章から始まる後半の前に、これが挿入されていることになります。わたしはその理由について言い切ることはできませんが、このあとにつづく大いなる神のメッセージ、神のしもべについてのメッセージの確かさについての「保証」と、そのメッセージを受け取るべき「姿勢」が書かれているのではないかと思います。そのような、気持ちをもって、今週、36章から39章を読んで頂ければと思います。
預言書はわたしにとっても、分からないことばかり、これからも少しずつ勉強していきたいと思っています。しかし、みなさんと一緒に読むことで、そして、このような文書を書くことで、今までとは少し違った視点で読むことができることを感謝しています。
みなさんは、イザヤ書のどんなメッセージがこころに残りますか。
2012.4.29
イザヤ書は40章から第二部にはいり、歴史的叙述はほとんどなく、詩文体の預言が続きます。皆さんの中には、特別な思いをもっている節や、好きな聖句としている箇所をお持ちの人もいるのではないでしょうか。ひとつだけ人気の箇所を挙げてみましょう。40章31節です。
もう一つ、40章からの第二部が特別なのは、新約聖書でも頻繁に引用されている、しもべの歌と言われているものが書かれているからだと思います。いくつかありますが、鍋谷堯爾氏の「現代に語るイザヤ書 鷲のように翼をかって」(いのちのことば社)にしたがうと、4つあります。しもべはヘブル語ではエベド「はたらく」という動詞からきたもので、奴隷とか家来の意味として使われたり、謙譲語として、へりくだって、自分をしもべとぶときに使っていますが、聖書では、特に、かみさまに特別の目的をもって用いられるといういみが強いでしょう。今回は、わたしになじみの深い口語訳から引用させてください。
また、使徒行伝8章32節-33節には、伝道者のピリポがエチオピアの宦官にこの箇所からイエスについて解き明かし、宦官がその場で洗礼をうける話しが書かれています。特に53章1節から9節は主のしもべというには異常ですよね。そこがまさに引用されているのです。
マタイによる福音書8章17節も引用してみましょう。
現在のイザヤ書に完全になったのは、もう少し後かも知れませんが、紀元前700年のイザヤをとおして、語られた、しゅのしもべ、ここに語られている、内容には、ただ驚かされてしまいます。
みなさんは、イザヤ書のどんなメッセージがこころに残りますか。
2012.5.6
イザヤの時代はアッシリアが巨大帝国となっていった時代でした。このアッシリアに、北イスラエル王国は、滅ぼされます。BC722年のことです。エレミヤはそのアッシリアの全盛時代から、アッシリアの後の中東世界を統一支配したバビロニア帝国の時代の預言者です。最初の1節から3節には次のようにあります。
「ヨシアの治世の第十三年」とありますが、これは、BC627年のことです。それから、エルサレム陥落のしばらく後までのおよそ50年間のことが記述されています。無論、列王記下、歴代志下にも並行記事が書かれていますし、このあと読むことになる他の預言者、ゼパニヤ、ナホム、ハバクク、エゼキエル、ダニエルの記録からも、当時のことを伺い知ることができます。また、バビロンなどの記録文書もあり、さらに、イエスの時代の少し後の、ヨセフスもかなり詳細にこの時代の歴史について記述しています。歴史的背景を理解しないとエレミヤ記も理解できないことは、確かです。
ここでは、詳しく書く余裕はありませんが、簡単な状況だけを書いておきましょう。東の巨大な王国、アッシリアは、エジプトをも滅ぼした、アシュール・バーン・アプリ王 (BC669-627) の死後急速に衰え、BC612年には、その首都ニネベが、バビロンのナボボラッサル (BC626-605)とメジアの連合軍にによって陥落します。それによって、エジプトも力を回復してきたのが、エレミヤ活動の前半と言うことになります。このナボラッサルのあとを継いだのがネブカデネザルで、巨大なバビロン王国を築いていきます。
この覇者交代の時期にエルサレムで8歳で王になったのが、ヨシアです。ヨシアは、第18年(BC622) に宗教改革を行い (列王紀下22-23章, 歴代誌下34-35章)、列王記下23章25節にも
「新聖書注解」いのちのことば社、安田吉三郎による梗概を引用しておきます。
2012.5.13
前回、エレミヤ記の歴史的背景について書き、エレミヤの召命の最初の部分を引用しました。区切りは明確ではないかも知れませんが、6章終わりまでが、大体ヨシア王の時代です。北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされてから、アッシリヤや、エジプトとの関係をたもっていどうやら国として維持してきた南ユダ王国。ヨシア王は、神殿を中心とした宗教改革もした王でした。
預言者は神のことばに預かるというのが、日本語の意味ですね。未来について語るだけではありませんが、神のことばは、「光あれ」といったときに光があったように、発せられたときにすでにその通りになると考えると、預言者の仕事は非常に重いと言わざるを得ません。こんなこともあるかも知れないから、準備しなさいよなどということとは異なるのです。1章9節-10節に預言者のつとめが語られています。
2012.5.20
BRC no.2
鈴木寛
BRC no.3
聖書は読みはじめましたか。
わたしは、みなさんそれぞれの読み方でよいと思っています。
しかし、これからメールを送るにあたって基本的なことをまず書いておこうと思います。
ここでは
「聖書またはその巻を書いた方が何を私たちに伝えようとしているのか。」
を読み取ることを第一の目的としてわたしは書いていこうと思います。
ここには、神様による世界と人間の創造が書いてあります。
2:3 までとそれ以降で二つの物語が書かれているように思われます。
上に書いた目的にそって読んでみるとつぎのことを伝えていることがわかると思います。
鈴木寛
BRC no.4
聖書の通読は続いていますか。今日は1月6日ですから創世記11章と12章です。
no.2 として、下のホームページの内容を送りました。
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2011.html
少しリンク先を増やしました。このページに書いてありますが、通読の最初の困難は、それが習慣となるかどうかです。一日の中で一番自分が続けられる時を選んで、なるべく同じ時間に読むのがよいと思います。通読表の読んだ部分を斜線で消していくのもよいでしょう。まだ追いつけますので、是非習慣としてください。
鈴木寛
BRC no.5
聖書の通読は続いていますか。今日は1月13日ですから創世記25章と26章です。
鈴木寛
BRC no.6
聖書の通読は楽しんでいますか。今日は1月20日ですから創世記39章と40章です。
鈴木寛
BRC no.7
聖書の通読は楽しんでいますか。ヨセフ物語はどうでしたか。ユダ登場の44章後半は、何度読んでも感動してしまいます。このようにユダに言わせたものは何だろうと。皆さんは、創世記どのようなところに興味を持ち、疑問を持ちましたか。今日は1月27日ですから出エジプト記4章と5章です。順調ですか。
鈴木寛
BRC no.8
聖書の通読は楽しんでいますか。そろそろ遅れ気味のひとが出てきたのではないかと思い、なにかできるサポートをと考えています。ひとりひとり状況は違うと思いますが、遅れが出てくることにそれなりの理由もあるのではないかと思います。
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
と言っていますから、律法に示された道は、神によって生かされる生活の完全な形ではないのでしょうが、神と共に生きる生活、いのちをもって生きる生活は、なにもかもみんな違う生活なんだということを教える役目はあったのでしょう。つまり清い(聖い)とはどういうことかを知らせる役目です。もちろん、一民族、聖書の記述によれば、成人男性だけで 60万人(民数記で出てきます)での出エジプトですから、エテロ(エトロ)の助言も含め、社会的な問題をどう扱えばよいかは大きな問題だったでしょう。個人で、個別に神に対してどう応答していったらよいか、ある意味ではかってに応答していた時代とは違うのです。
以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。(新共同訳)
これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。(口語訳)
以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。(新改訳)
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。」
「敵を愛することはできません。キリストがおられなければ。しかし、わたしたちもキリストによって愛することができます。神様の前に立つとき敵も味方もありません。もしそうでないなら、わたしたちは古い生き方をしているのです。イエス様は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと言っておられます。あなたがたの天の父の子となるためにと。イエス様がではなく、私たちが神様の子となるためです。小さな日常の中でつぎのように答えたいと思います。『神様わたしたちの敵は確かにそこにいましたが、あなたに助けを求めたとき、わからなくなってしまいました。あなたにあって、わたしもあの人も同じように哀れみをうけ、恵みをうけ、ほんとうのところ敵も味方もないことをあなたにあって知らされたからです。』」
それほどの大きな変化の一部を、イスラエルのひとたちも、出エジプト記・レビ記を通して教えられようとしているのでしょう。よくは分からない部分があっても、疑問をもちつつも、少しずつ読み続けましょう。神様の救いの歴史としての旧約聖書はまだはじまったばかりです。
鈴木寛
BRC no.9
聖書の通読は楽しんでいますか。そろそろ遅れ気味のひとが出てきたと聞き、心配しています。最初に書いたように、もう一度、途中から始めるというのも良いですよ。火曜日からレビ記です。前回書いたように、レビ記はすこし難しいので、ここから始めて乗り切ることができれば、あとは続けられると思います。モーセ5書の次のヨシュア記からはじめるのも、そのあと、士師記から始めるのも、サムエル記上から始めるのも良いですよ。大切なのは読んだ記録をつけて、あとで読まなかったところに戻ってくることです。
出エジプト後半では美枝さんも書いておられる律法が与えられるわけですが、前回書いたように、主が民の内に住まわれるということが出てきましたね。
また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新共同訳)
そして出エジプト記の最後40章には神の臨在の証である昼は雲夜は雲の中に火があり民を導いたことが書かれています。
わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 口語訳)
わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新改訳)
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/class/ns1a/ns1a_message2010.html#quiz7
鈴木寛
BRC no.10
聖書の通読は続いていますか。通読する人の最初の関門は、習慣とできるかつまり毎日の予定に組み込めるかですが、第二の関門は、レビ記だというひとがたくさんいます。今日は2月21日ですからレビ記13章・14章です。
副題:天幕での礼拝手引き
前回も少し書いたように、今日はわたしがどのようなことを考え記録してレビ記を読んでいるか、例として書かせて下さい。あくまでも個人的感想です。
a. 過ぎ越の祭 b. 初穂の祭 c. らっぱの祭り d. 仮庵の祭
1:14 羊や山羊を買えない貧しい人のための規程も決められている。同時に購いは貧しい人も必要。
2:13 契約の塩は契約が真実・不変であることの象徴。
3:16-17 脂肪はすべて主の物、脂肪も血も食べてはならない。
4:2-3 罪を犯した場合の購いの最初は祭司について、厳粛な思いを持つ。
順序は、祭司・共同体全体・共同体の代表者・一般の人
4章は過失罪で、故意罪については民数記15:30-31に民からたたれなければならないことが書かれている。
5:1 もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。とても厳粛。
5:4 また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。これがみだりに誓ってはならないということの内容であろう。そしてこれは神に対して罪を犯したこと。
5:5 まずは罪の告白。
5:7 様々な経済状態に応じたささげものが定められている。
6:18 この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。家に持ち帰ったり、祭司以外のものが食べることは許されなかったのだろう。特別な物。
7:20 もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。汚れることを極度にさけた理由もここにあるのかも知れない。
8:33 あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。この次の34節につながるように、おそらくこの7日間は罪の清めという事だろう。大変な儀式だったろう。
9:24 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。これこそが神の臨在の象徴。脂肪をなめ尽くす、脂肪は神のものとの意味がここにもあるのだろう。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。詳細はよくわからないが大変な事件が起きてしまう。厳粛なとき、しかしこの次にある、
10:19-20 を合わせて理解すべきだろう。ここが無かったらたんに厳しい宗教でおわってしまう。「モーセはこれを聞いて納得した。」
11:43 あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。清さについての最後がここにあるのかもしれない。ひとつひとつあまり理由は考えたくないが、ある程度なぜ清くないのか想像できるような内容になっている。人々に神は考えるように促しているのかも知れない。
12:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。理解しがたいことが続く。血がいのちとしてそれが地にながされることに対して恐れがあったのだろうか。
13: 8 祭司はこれを見て、その吹出物が皮に広がっているならば、祭司はその人を汚れた者としなければならない。これは重い皮膚病である。最近の口語訳の版は「重い皮膚病」となっている。私が使っているものは「らい病」差別的に働く言葉の排除、またひとからげにライ病としているところに問題があるからだろう。しかし、当時はやはりライ病として恐れられ、共同体に伝染しないよう特別な注意が払われた。配慮は理解できるが、やはりこれは差別的なライ病認定として残すことも一つだと思われる。
14:2 「重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、清められる希望を持ち、ある意味では誤診の可能性もこのようにして清め規程として持っていたのだろう。いまも、そう変わらない危うさがある。
鈴木寛
BRC no.11
レビ記楽しんでいますか。今日は2月25日ですからレビ記21章・22章です。
あと少しでレビ記も終わり、民数記に入ります。
今日は、今回の通読でわたしが学んだことを書かせて下さい。
すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。
「命は目には見えないけれど、君たち命を持っているね。では、命はどこにあるのかしら」
心臓とかをさす子もいますが、それは命ではないよねと語り、
「君たちは昨日、朝起きてから何をしたか順を追って話してごらん」
「君が持っている時間を君のためだけに使ってきた?」
と問いかけます。そして、最後に
「おとなになったら自分の時間をどのように使いたいかを考えて、私に送って下さい。」
その応答として、
「日野原先生は『人のことを考える』『仕返しはいけない。我慢しなければ』と言われました。『平和のことを深く考えて行動する』ということは、はっきり言うと、普段はできないと思います。だからそんな大きなことじゃなくて、まずは日常生活の中で友達や家族、周りの人たちのことを考えてみたり、普段の生活のちょっとしたことで気をつかったり、そういうところから行動していけるようになりたいです。」
「自分という空っぽの器にどう詰め込んでいくかが大切だと思いました。」
と素晴らしい手紙をもらったと書いてありました。みなさんは、自分のいのちはどこにあると考え、普段の生活を生きる中で、どのように自分という器に詰め込んでいるのでしょうか。いのちを大切に生きていますか。
あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。
イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
鈴木寛
BRC no.12
民数記に入りましたね。今日は3月6日ですからレビ記12章・13章、明日は14章・15章、民数記の中でここが一番好きだと言う人もいるのではないでしょうか。12章も考えさせられるところですが、13章・14章はカレブが登場するところでもあります。
http://www.bible.or.jp/main.html
新改訳聖書を読んでいる人は次のリンクの下の検索条件に入れれば出てきますよ。
http://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch.html
質問を書いておきます。自分にこのように問いながら読むのも聖書の読み方の一つです。
14章
民の不信と神のさばき、カレブとヨシュアの信仰についてあなたはどのように感じ、考えますか。
http://www.gutenberg.org/ebooks/12096
矢内原忠雄訳の日本語版では第4章に勇・敢為堅忍の精神として論ぜられています。
単に勇気であれば、称賛されるべきものではないはずです。単に勇気があったということではないと思います。カレブを考えるには、カレブ以外の人がなにに根拠を置いて判断していたかを考えるのも良いかも知れません。そした私たちはどうでしょうか。現代の日常のなかでこれと似たことはないでしょうか。
鈴木寛
BRC no.13
皆様いかがお過ごしですか。地震の時はどこにおられましたか。なにか被害はありましたか。どのような思いで今の時を過ごしておられるでしょうか。3月10日のBRC no.12.1 contribution-1で、私は、3月12日からタイ・ワークキャンプに参加するため不在だと書きましたが、いろいろと考慮した末、中止との決断にいたり、今もICUにおります。
a. シナイからヨルダンへのイスラエルの歴史
b. 神の命令を忠実にまもるようにとの訴え
c. 歴史的な事への付加
a. 十戒の再読と、神に下が枸杞との懇願
b. 宗教的世界的生活に関する規則
c. しっくりの板に書き留められるべき定め、
d. 祝福とのろい
a. 契約更新と祝福とのろい
a. ヨシュアへの引き継ぎ
b. 祭司たちへの律法の付与
c. モーセの歌・祝福のことばと指令
d. モーセの死
鈴木寛
BRC no.14
皆様いかがお過ごしですか。通読は続いていますか。今日は3月28日ですから、申命記20章・21章です。あと1週間で申命記が終わり、モーセ五書とか律法(トーラー)と言われている部分が終わります。
鈴木寛
BRC no.15
皆様いかがお過ごしですか。今日は4月3日ですから、申命記32章・33章です。予定では、明日申命記が終わり、ヨシュア記に入ります。
a. 神のヨシュア任命、エリコへのスパイ 1, 2
b. ヨルダンの横断、記念の石、割礼と過越 3-5
a. エリコ陥落 6
b. アカンの罪とアイ 7-8:29
c. エバルとゲリジムでの契約の確認 8:30-9
d. 北と南での戦い 10, 11
e. 勝利の概要 12
a. ヨルダンの向こうの部族の境界 13
b. その他の部族に与えられた土地14-19
c. 逃れの町 20
d. レビ人の町 21
a.. 2部族半、ヨルダンの向こうに戻る あかしの祭壇 22
b. ヨシュアの最終の挨拶 23-24:15
c. シュケムでの契約更新、ヨシュアの死 24:16-23
鈴木寛
BRC no.16
皆様いかがお過ごしですか。新学期が始まりましたね。週一回のペースでサポートメールが続けられるか自信がありませんが、みなさんが、聖書を少しでも興味を持って読み続けることが出来るよう祈っています。今日は4月10日ですから、ヨシュア記12章・13章です。予定では、今週でヨシュア記を読み終わり、士師記に入ります。ヨシュア記から、列王紀下までは、変化も多く、物語としても面白いので、興味をもって読めるのではないかと思います。かなり遅れてしまった人は、どこまで読んだか記録を確認して、ヨシュア記や、士師記、ルツ記またはその次のサムエル記上から読むのもよいと思いますよ。あとで、読み飛ばしたところに戻ってくることもできます。
12. Bible Atlas という site の地図はとても良くできています。まず一つだけみるなら
Chapter 7 The Tribal Allotments of Israel
ですが、Chapter 7 の地図は、よく見るといろいろな情報が書かれています。
どうしても日本語でというかたは、少し古いですが、聖書地図の第3図でも概要はつかめるかも知れません。
http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/039.jpg
http://ja.wikisource.org/wiki/聖書地図_(JBS1956)
鈴木寛
BRC no.17
皆様いかがお過ごしですか。今日は4月17日ですから、士師記2章・3章です。
a. 部族の移動 1:1-36
b. 契約の御使い 2:1-5
c. ヨシュアとその時代過ぎ去る 2:6-10
d. 歴史の概略
a. オテニエルによるメソポタミヤの王からの救い 3:5-11
b. エポデによるモアブの王からの救い 3:12-30
シャムガル 3:31
c. デボラとバラクによるカナンの王からの救い 4-5
d, ギデオンによるミデアンの王からの救い 6-8
ギデオンの子らの物語 9:1-57
トラとヤイルのさばき 10:1-5
e. エフタによるアモンの王からの救い 10:6-12:7
イブサン、エロン、アブドンのさばき
f. サムソンによるペリシテからの救い 13-16
a. ダンの移住と、ミカの物語 17-18
b. ギベアの不法と、イスラエルとベニヤミンとの戦い 19-21
鈴木寛
BRC no.18
今日はイースターです。復活祭とも言われますが、西方教会の伝統を組むカトリック教会やプロテスタント教会では、春分の次の満月の直後の日曜日をイースターと定めています。イエスが過ぎ越しの祭りに十字架にかけられ死んだのが金曜日(God Friday 聖金曜日と呼ばれています)で、復活して最初にマグダラのマリアに現れたのが日曜日(週のはじめの日)の朝で、それを喜び祝うキリスト教最大のお祭りです。(ヨハネによる福音書20:1-18参照)このことの故にキリスト教会では一部を除いて、安息日の土曜日ではなく、日曜日を主日(主の日)として毎週礼拝しています。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
鈴木寛
BRC no.19
皆さんお元気ですか。5月に入りました。今日は5月1日ですからサムエル記上5章・6章です。挫折という声も聞こえますが、このサムエル記から再開はお薦めです。この連休に再開してみませんか。
(榊原康夫「新聖書注解」いのちのことば社より)
i. 大祭司エリとサムエル 1-3
ii. 契約の箱の物語 4:1-7:1
i. 王国の要請 7:2-8:22
ii. サウル王即位 9-12
iii. サウル王の遺棄 13-15
i. ダビデへの油そそぎ 16:1:13
ii. サウル王ダビデを召し抱える 16:14-17:58
iii. 王の婿ダビデ 18-20
iv. お尋ね者ダビデ 21-26
v. ペリシテ亡命のダビデ 27-下1
i. ダビデ王国とイシボシェテ王国 2-4
ii. ダビデ統一王国の確立 5-8
i. ヨナタンの子メフィボシェテ 9
ii. ソロモン誕生 10-12
iii. 王子アムノンの死 13
iv. 王子アブシャロムの死 14:1-19:8
v. ダビデ王の都入り 19:8-43
vi. ベニヤミン人シェバの乱 20
i. サウルの子孫7人の処刑 21:1-14
ii. ペリシテ戦の英雄 21:15-22
iii. ダビデ感謝の歌 22
iv. ダビデの最後のことば 23:1-7
v. ダビデの勇士 23:8-39
vi. ダビデ王の人口調査 24
鈴木寛
BRC no.20
皆さんお元気ですか。先週は一回もメッセージを送ることが出来ませんでした。今日は5月15日ですから、サムエル記下2章・3章です。
鈴木寛
BRC no.21
皆さんお元気ですか。列王紀に入りましたね。今日は5月29日ですから、列王紀上6章・7章です。
http://www.sogensha.co.jp/biblica/pdf/04.pdf
http://meigata-bokushinoshosai.info/swfu/d/auto_Z0Olvq.pdf
(北海道砂川市にある空知太栄光キリスト教会の牧師 銘形秀則先生のホームページより。内容をしっかり読んでいないので紹介はさけますが、膨大な量の情報がこの方のホームページにもあります。インターネットの普及による貢献の一つですね。)
鈴木寛
BRC no.22
皆さんお元気ですか。列王紀もあと少しで終わります。今日は6月12日ですから、列王紀下12章・13章です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Lachish
聖書では列王紀下18章と歴代誌下32章に書かれています。アッスリア王のセナケリブがユダに攻め入ってラキシュを滅ぼした BC701 の記事です。たくさんのレリーフが大英博物館の一つのコーナーを埋めていたのでそこだけは時間をかけて見ました。囲んでいる軍隊、城壁の中の人、降伏する様子などが克明に描かれていました。
鈴木寛
BRC no.23
皆さんお元気ですか。前回 no.22 は6月12日でしたから、三週間が過ぎてしまいました。ごめんなさい。
鈴木寛
BRC no.24
皆さんお元気ですか。前回 no.23 は7月3日でしたが、名前の上の日付は 2011.7.12 と書いてしまいました。今日は、7月17日ですから、歴代志下28章と29章です。歴代志下は36章ですから、もう少しですね。その次のエズラ、ネヘミヤ、エステルは短いので、今日はそのことも書こうかと思いましたが、どうしても歴代志について書いておきたいことがあるので、エズラ、ネヘミヤ、エステルについては、次回とします。
鈴木寛
BRC no.25
皆さんお元気ですか。今日は、7月24日ですから、エズラ6章と7章です。エズラ、ネヘミヤ、エステルは短いので、そのあとヨブで、新約に移ります。追いついてくださいね。
BC550-530 ペルシャ王クロスの治世
BC539 バビロン陥落
BC538 クロス王の第一年
BC536 エルサレム帰還と神殿再建工事の開始
BC530-522 カンビュセス王の治世
BC522-486 ダリヨス一世の治世
BC520-515 神殿再建工事の再開と完成
BC486-465 クセルクエス一世(アハシュエロス)の治世
BC479 エステル、王妃となる
BC475 ユダヤ人虐殺計画
BC465-424 アルタクセルクセス一世(アルタシャスタ)の治世
BC458 エズラ帰還
BC445 ネヘミヤ帰還、城壁完成
BC433 ネヘミヤ再度帰還
「エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」勝原忠明、工藤弘雄著、いのちのことば社新聖書講解シリーズ 旧約9, p.14-15.
ネヘミヤの祈りを見てみましょう。
鈴木寛
BRC no.26
皆さんお元気ですか。今日は、8月7日、ヨブ記1章と2章です。ヨブ記のあとはすこし旧約聖書はお休みにして、8月28日から新約聖書を読みます。来年の1月5日に旧約に戻り詩編から読み続けます。
For we have not an innumerable multitude of books among us, disagreeing from and contradicting one another, [as the Greeks have,] but only twenty-two books, which contain the records of all the past times; which are justly believed to be divine; and of them five belong to Moses, which contain his laws and the traditions of the origin of mankind till his death. This interval of time was little short of three thousand years; but as to the time from the death of Moses till the reign of Artaxerxes king of Persia, who reigned after Xerxes, the prophets, who were after Moses, wrote down what was done in their times in thirteen books. The remaining four books contain hymns to God, and precepts for the conduct of human life.
この最後に書かれている四つ、ただこれは、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌 でヨブ記はヨセフスのリストには無かったようです。当時は合本聖書ではありませんから、もちろん一冊というくくりではありませんが。全体も22と書かれていますね。現在の旧約聖書は、39巻と数えています。無論、上下というような分け方はしていませんでしたし、ネヘミヤ記は、エズラ記の一部に入っていましたから、数え方が違いますが、全部が聖書としてどの時点で確立したかは、なかなか難しい問題のようです。
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
というのです。病を得たとき
彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。(ヨブ2:9,10 新共同訳)
しかし、おそらく、このあとですね、問題は。構成は次のようになっています。
(いのちのことば社、新聖書注解 ヨブ記 安田吉三郎著を参照)
第一回目
第二回目
鈴木寛
BRC no.27
皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、ヨブ記が終わると、旧約聖書は一旦お休みして、8月28日から新約聖書をマタイによる福音書から読みはじめます。この機会に、いままでのメールのうち、個人情報をのぞいたものを、BRC のホームページにリンクをつけて、載せました。もし不適切なことが残っていたら、私に言って下さい。また、W3 (学内掲示板)に、新約から始めるひとを募集する案内を出しました。新約からなら読んでみたいという方がいましたら、さそってみて下さい。また、今までにすでに、途中で挫折してしまったかたにとっても、チャンスです。新約からまたトライしましょう。
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
全てを失ったときに語った、ヨブの言葉です。そのあとの、中間部分4章から31章を読むと、この素晴らしい信仰告白をした人と同じ人が言っていることかと疑いたくなるような部分が何カ所も出てきます。全体的な枠組としては、32章からエリフがヨブと、3人の友人に怒りを発し語り、それを受ける形で、38章から神が語り継ぎ、ヨブを戒めます。しかし、ヨブを正しい者とし、ヨブの祈りを聞かれます。
テマン人エリパズ:Chapters 4, 5, 15, 22
以下に、例として、今回の通読で私が書き留めた箇所をいくつか記します。引用は今回私が読んだ口語訳。
シュヒ人ビルダデ:Chapters 8, 18, 25 (short)
ナアマ人ゾパル:Chapters 11, 30
ここまでとしましょう。今回の通読でははじめて真剣に、このヨブの中間部分と向き合えて気がします。わたしも歳をとったということかな。それとも、たんに今まで、わたしの目は節穴だったということかな。神様からみことばが隠されていたのでしょう。毎日の日課のなかで、もっと瞑想したいものです。ヨブの苦しみと、賛美と、知恵と、信仰告白を。
テマン人、エリパズの言葉。まさにこれがヨブのそのときの状況だったのでしょう。そのいみで、ヨブも他の人と変わらない。その上での信仰告白。
ヨブの言葉。一般論で、神は信賞必罰とし、祝福を得られず災害が及ぶのは罪があるからだというエリバズにうめきをもらしている。
この言葉だけでは、自分を義とすることをも含んでいるが、一般論として議されることへの反発であろう。
ヨブの言葉。この痛み、これを経験しないものは、理解しづらいかも知れない、しかしその神へのうめきの近くに救いもある。
シュヒびとビルダデの言葉。私の義は、なおわたしのうちにある、というヨブに対して、それなら、子ども達の罪だと、解く。1章においては、そのようなとりなしもしていたことも記されているが、因果応報からまず考え、自己責任に帰する、それ以上の哲学、神学を持ち得ないのは、自尊心なのかもしれない。
これこそヨブの問いだろう。罪あるものとすることは、神には出来るだろうと想定している、しかし神はそのような方ではないという信頼も同時に保持している。その上での「なぜ」ヨブの一番問いたいことだろう。しかしそれでも信仰を告白するのです。ヨブは。
ナアマびとゾバルの言葉は、まちがってはいないだろう。哀れみ深いかたであることを告げている。しかしヨブの苦しみはすこしも軽くならない。その苦しみは、罰に対するものではないのだから。
このヨブの言葉はなんとも痛烈。わたしのこころにもこのような安らかな者の思いがあるのか。
ヨブの言葉は、何なのだろう。ダニエル3:18 の「たといそうでなくても」をも想起させる。神への挑戦というより、これが信仰者の態度、神への信頼の一つの表明であろう。
ヨブは親しい神に、親しい故に、このように語るのだろう。子たる身分より雇い人の方がずっと気楽。神に特別に扱われていると告白する者だけがいえる言葉なのかも知れない。
このヨブの言葉には毎回驚かされる。キリスト証言だとも言われる箇所であるが、なおも、証人は天にと、希望は天以外にのみあることを告白する、これこそ信仰者の姿なのだろう。
なにを記すのだろうか、ヨブの前存在をかけた遺言。これこそヨブの信仰告白であろう。それが 25-27 と続く。
わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。
ナアマびとゾバルの言葉は、結局ヨブには答え得ない。あまりに差が大きくなってしまっている。ヨブはさらに孤独になるのか。
ヨブの言葉。悪人がのさばることは良くあることをしっかりと見て取っている。ヨブはそのことを嘆いているのではない、ヨブの悩みは異次元にある。
エリバズの三回目、もうこれに続ける必要はないのであろう。三回目の Dialogue は非常に不完全に終わる。平行状態などという者でもないのだろう。
なんと実感のこもったヨブの言葉だろう。この苦しみ、心が痛くなる。
これがヨブの信仰告白。このような信仰告白をささえる、または、育むものは、何なのだろう。
シュヒひとビルダデの言葉。ただしいか間違っているかなら、正しい。しかしここで留まらないのが聖書の神信仰である。
ヨブの神賛美。ここは、このあとの、エリフの言葉にも繋がる。スケールの大きな賛美の言葉である。
このあとに続くヨブのことばは、自分にあてはまるような「悪人の神から受ける分」である。ヨブに混乱があるのか。それとも、私に混乱があるのか。
このあとに、23節、神は知っておられる。そして、28節、神を恐れることに繋がる。
鈴木寛
BRC no.28
皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、今日から新約聖書を読み始めます。ちょっと遅れてしまったひとは、新約聖書のはじめから読むもの良いですよ。
バークレー「マタイ福音書 上・下」松村あき子訳 ヨルダン社 1967.
日本語訳も早い時期に出版されていますから、ご覧になったかもいるのではないかと思います。この本の最初の部分から、まずは、共観福音書についてまとめてみると次のようになります。
Mk 6:5,6 (ひとつもできず) vs Mtt 13:57 (あまりなさらなかった)
Mk 3:5 (怒り嘆き), 3:21 (気が狂った), 10:14 (憤り)
Mk 10:35 (ヤコブとヨハネ), Mtt 20L20 (ゼベダイの子らの母)
Mk 簡素、簡明、直裁的、Mtt, Lk 教義的、神学的
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html
この、2:16 をバークレーは引用しているものと思われます。
また、最初から、何何による福音書とタイトルのついた四つの福音書が並んでいたわけではありません。おそらくは、パピルスまたは羊皮紙に書かれた巻物が別々に存在していたわけです。ある時代的背景と要請のもとでまとめられたと考えるのも自然だと思います。しかし何と言っても、イエスのメッセージ(語録 ロギア)がたくさん記されているということは、興味をそそりますね。イエスは何を語り、そして、マタイや、初代教会の人たちは、何を伝えようとしたのでしょうか。
鈴木寛
BRC no.29
皆さんお元気ですか。新約聖書はどうですか。英語では、新約聖書は New Testament と言います。旧約聖書は OT、新約聖書は NT と略します。わたしは新約聖書というときに使う用語ということはいつからか知っていましたが、Testament ということばは他で見たことがないので辞書で調べてみました。
旧約・新約は古い約束(または契約)、新らしい約束(契約)と伝統的に言われていますが、上の Testament のどの意味も当てはまるのかも知れません。英語圏の方に聞いたときも、聖書以外にはあまり使わないと言っていました。最近例文がたくさん欲しいときは、Naver 辞書を使っています(以前は英辞郎でした)。さすがに、Naver 辞書ぐらい例文があると、聖書以外の用例ものっていますね。
http://endic.naver.jp/srch/ex/testament
さて、今日は、4日ですから、マタイによる福音書15章・16章です。
みなさんは、どのようなことを考えながら読んでいるでしょうか。おそらく、聖書をはじめて読む人もきいたことのあることばがいくつも出てくるのではないでしょうか。そのようなことばがどのような背景で書かれているかをみることができるのも、通読の楽しみの一つだと思います。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(新共同訳)
と言っています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(新共同訳)
と言っています。なにかこのへんにユダヤ人のため? 異邦人は?という問いの答え、旧約聖書との繋がりと断裂があるのかも知れませんね。この段落は、次の言葉で終わっています。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(新共同訳)
これはどういうことなのでしょうか。最後の言葉は20節ですが、わたしは高校生のとき、この聖句の説明を聞いてもどうしてもよく分からず、この聖句を理解したいと思って、聖書を真剣に読み始めました。いまは何らかの説明はできると思いますが、本当にはまだよく分かっていないと思っています。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
鈴木寛
BRC no.30
皆さんお元気ですか。今日は9月11日ですね。今日から通読は共観福音書の二巻目のマルコによる福音書に入ります。1章と2章が今日の通読箇所です。
ヨハネ:使徒 13:13
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
「これも長老が言っていたことだ。マルコスは、ペトロスの通訳者(hermeneutes)であって、記憶しているかぎりのことを、精確に書いた、ただし、主によって言われたことにしろ為されたことにしろ、順序立ててではない。なぜなら、主から〔直接〕聞いたのでもなく、これに付き従ったのでもなく、〔彼が付き従ったのは〕わたしが謂ったように、後になって、必要のために教えを広めたペトロスであって、主の語録のいわば集成のようなことをしたのではなかった、その結果、マルコスはいくばくかのことを思い出すままに書いたが、何らの過ちも犯さなかった。というのは、聞いたことは何ひとつ取り残すことなく、あるいは、そのさいに何らか虚言するもないよう、その一点に配慮したからである」。
マルコによる福音書は、大体次の区分に分けられます。
以上が、パピアスによって記録されたことである。マルコスについて。
最後の一週間の重みが大きいですね。(以下引用はすべて日本聖書協会新共同訳)この福音書の最初は、
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
となっています。最初から「神の子」と宣言しています。イエス・キリストの福音 Good News の始めとしているのです。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
2:10, 2:28, 8:31, 38, 9:9, 9:12, 9:31, 10:33, 34, 10:45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62
これは、旧約聖書のダニエル書(7:13, 10:16)で特別な意味を持った言葉として出てきています。エゼキエル書には、多数使われており、預言者自身を表しています。(エゼキエルが多用する人の子 2:1, 3, 6, 8, 3:1, 3, 4, 10, 17, 25, 4:1, 16, 5:1, 6:2, 7:2, 8:2, 6, 8, 12, 15, 17, 11:14, 15, 12:2, 3, 9, 18, 22, 27, 13:2, 17, 14:13, 15:2, 16:2, 17:2, 20:3, 4, 27, … )
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、神の子なのか、どのような人の子なのか、マルコはイエス自身をどのように描いているのか、読み取って下さい。
マタイのときにも書いたように、福音書として最初に書かれたとされる、マルコによる福音書、素朴とも言えますが、イエスの行動が生き生きと描かれていると思います。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
鈴木寛
BRC no.31
皆さんお元気ですか。今日は9月18日、マルコによる福音書を読み終わり、明日からはルカによる福音書に入ります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の最後です。ルカによる福音書を読みながら、これは前に読んだことがあると感じる箇所が多いのではないでしょうか。また、このルカによる福音書が一番好きだという方もいるのではないかと思います。みなさんが、どのような感想を持たれるか、楽しみです。
これから分かることは、医者であること、テモテへの第二の手紙にはその著者とされるパウロと一緒にいること、フィレモンへの手紙では、(獄中にいたパウロの)協力者とよばれ、おそらく(囚人とはなっていないようですが)一緒にいた人の一人として書かれていることです。
愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
以下のことが分かると思います。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
マタイ、マルコ、ヨハネは、または、これらの福音書の背景となったものは、ヘブル語を理解し、ユダヤについて十分に詳しい人たちが書いたと思われますが、ルカは、ギリシャ人と思われており、ギリシャ語は非常に美しいが、おそらくヘブル語は話せなかったと思われます。異邦人クリスチャン向けの福音書と言うことができるかも知れません。献呈の相手のテオフィロは「神を愛する」という意味ですが、歴史上の特定の人なのかどうかは分かっていません。
鈴木寛
BRC no.32
皆さんお元気ですか。今日は9月25日、ルカによる福音書13・14章です。10章には「善きサマリヤ人のたとえ」15章には「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる有名なたとえがあります。みなさんも聞いたことがある話がいくつも出てきているのではないでしょうか。
マタイ15:28 には、ルカに記されていない ツロ・シドンの地方でのカナンの女の娘の癒しのところでもこの言葉が使われています。
しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。
しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
鈴木寛
BRC no.33
皆さんお元気ですか。新約聖書通読は続いていますか。今日は10月9日、ヨハネによる福音書17・18章です。ヨハネによる福音書は21章までですから、10月11日には、使徒言行録に入ります。使徒言行録は日本聖書協会の新共同訳の名前で、同じ日本聖書協会ものでも口語訳では使徒行伝となっています。日本聖書刊行会の新改訳を読んでおられる方は使徒の働きとなっています。英語では Acts と呼ばれます。この書を何と呼ぶかで、その方がその聖書の訳を読んでいるかが大体わかるとも言えます
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエスによるこの宣言がローマにまで至る経過を記録したものが使徒言行録だとも言うことができます。まだ先があることの、最初の部分と言うことができるかも知れません。
C. H. Turner による6つの区分として知られているものに次のものがあります。
引用したのはすべてそれぞれの区分の最後の節です。つまり、神のことばの進展の様子が書かれているとも言うことができると思います。
これらの問いは、使徒言行録の中でも問われていると思いますが、今の私たちにとっても単純な答えが用意されているわけではない問題だとも言えるのではないでしょうか。そして、人々の平和、それぞれの共同体に関わる、日常的な営みに対する問いともなっています。
鈴木寛
BRC no.34
皆さんお元気ですか。新約聖書通読は続いていますか。今日は10月16日、使徒言行録10・11章です。サウロという人は、使徒言行録7章58節に初めて登場、9章に回心記事があり、その後9章中頃から一端姿を消します。再登場するのは、11章。少し長いですが引用してみましょう。
このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。(使徒言行録 11章22節ー26節(新共同訳))
長々と書いたのは、このサウロが使徒言行録13章4節ー12節の出来事以来、パウロと変わります。そしてそのパウロ由来の書簡が、使徒言行録のあと続くからです。
鈴木寛
BRC no.35
皆さんお元気ですか。先週はお休みをさせて頂きました。今日は10月30日、ローマ信徒への手紙10・11章です。パウロがローマに手紙を書いた頃のローマ教会についてはあまりよく分かっていないようですが、1章7節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」とありますから、すでにイエスを救い主と信じるクリスチャン達がいたことが分かります。今朝私は、12・13 章を読んでいたのですが、12章14節には「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とありますから、すでに迫害もあったのでしょう。その状況を考えながら12章9節から最後を読むとこれは単なる倫理的な教えではないことが分かるのではないでしょうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(新共同訳12:15-18)」最後は口語訳では「できるだけ」となっていますが、どこにいっても、紛争が絶えなかったパウロの言葉だと思うとさらにいろいろと考えさせられます。9節には「愛には偽りがあってはなりません。」とあり、この章は最後「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(21節)」と締めくくられています。一日一日偽りのない愛をもって、善をもって神の支配に委ねていきたいと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」がイエスの説いた福音ならば。
鈴木寛
BRC no.36
皆さんお元気ですか。今日は11月6日、コリントの信徒への手紙第一 8・9章です。8章は次のように始まります。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。(新共同訳 8章1-4節)
わたしはコリント信徒への手紙一の中で、13章とこの8章を大切にしています。いろいろな人と会い、いろいろな人と関係をもち、共に働き、あるときは衝突し、あるときは心配になり、あるときは、この立派な人には神様の救いなど必要ないのではないかと思ったりもします。そのたびに、わたしは、次の聖句の後半を唱えることにしています。(ガラテヤ2:21を唱えることもありますが)
そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(新共同訳 8章11節)
わたしたちは理性が与えられ、自分で考えることができることは本当に恵みであり感謝です。しかし、わたしたちの行動が私たちの知識や、思考に依存して、もし愛がないのなら、たとえ、聖書のことばをたくさん引用して正当化しようとしても、かみさまが与えて下さった、自由を汚れたものにしてしまうと思うからです。イザヤ書64:5 の表現と似た感じを持ちます。
わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
この章の結び、パウロは次のように言い切ります。キリスト者の自由について決然としてこのパウロの潔さに撃たれます。
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(新共同訳 8章13節)
愛によって造りあげられたいものです。
鈴木寛
BRC no.37
皆さんお元気ですか。今日は11月13日、コリントの信徒への手紙二 6・7章です。コリント信徒への手紙二の印象はどうですか。ローマ信徒への手紙とちがい、教理的なものよりも、具体的な問題についての言及が多いこと、そして、パウロが感情をおさえきれないという感じで、配慮をしつつも率直に書いているのは、印象的ですね。無論、ローマ信徒への手紙はパウロがまだ見ぬローマの教会に宛てて書かれ、コリント信徒への手紙は、パウロが開拓伝道をし(使徒言行録18章)、その後も何回も訪れ、かつ長く滞在した教会に宛てた手紙ですから、コリント教会の人たちについても、コリントやそこの人たちの問題についても、したがって起こりうる状況の可能性についてもかなりよく知って書いている点が大きく違います。さらに、こころがつながっているコリントの人たちを思うと、ある意味では冷静ではいられない、いとおしくかつ心配な、霊的なこどもたちに対する思いが書かれています。同時に、すでに、アポロなどパウロ以外の影響を受けたグループもいくつもあったようですから、そのような背景から来る複雑さもあったでしょう。コリントは、すでにアテネよりも大きな商業的に栄えていた町です。この当時は大きな劇場などを使うことは出来なかったでしょうから、いくつも集会があったとも思われます。この複雑な状況のなかで、「最高の道(新共同訳、口語訳では「最もすぐれた道」コリント信徒への手紙一12:31)」として愛をパウロは語ります。そのような背景を想像して読むとより豊かに読むことができるかも知れませんね。
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(コリント信徒への手紙二9章12-15)
11月17日からはガラテヤ信徒への手紙に入りますね。「福音の真理とキリスト者の自由」キリスト教の核心が書かれていると言われています。みなさんは、何を読み取られるでしょうか。
鈴木寛
BRC no.38
皆さんお元気ですか。今日は11月20日、今日からエフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)に入ります。ローマの信徒への手紙から、ピレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。パウロが書いたものかどうか議論のあるものもいくつもありますが、それを議論することは、ここではあまり有益だとは思えませんし、わたしが確信をもって、みなさんに説明することもできませんから、パウロ由来としておきたいと思います。基本的には、使徒言行録からも分かるように、パウロ達が伝道旅行をした地域の教会に書いた手紙がいくつもあり、それが集められたものです。テサロニケの信徒への手紙一は、テサロニケ伝道の後、コリントへ行ったパウロかがテサロニケの信徒へ宛てて書かれたもので、これらの書簡の中で一番最初に書かれたと考えられています。
鈴木寛
BRC no.39
皆さんお元気ですか。12月に入りました。今日は12月4日ですからテモテへの手紙一5章/6章です。みなさんは、どのような印象を持って、読んでおられますか。
今週途中から、ヘブライ人への手紙に入ります。コリント信徒への手紙以降、短い書簡が続きましたが、13章あります。特徴的なのは、最後は書簡的な書き方になっていますが、最初には、宛先も自己紹介も書いてないことです。古い伝承もこの書について一定していないことから、誰が書いたかなどは、諸説があり、一定しません。基本的なことをまとめておきましょう。
みなさんは、このヘブライ人への手紙からなにを読み取られるでしょうか。
鈴木寛
BRC no.40
皆さんお元気ですか。今日は12月11日、ですからヘブライ人への手紙7章/8章です。
このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
と書かれており、また、ペテロ第一2:5, 9 にも、私たちが神の祭司であること、ヨハネの黙示録1:6, 5:10, 20:6 にも似た表現があります。ここから万人祭司という言葉もうまれていますが、イエスが祭司だということを明確に述べているのは、このヘブル人への手紙以外は、ありません。その意味でも特徴的ですね。また、ヘブル人への手紙に書かれている大祭司としてのイエスの性質も特徴的です。たくさんありますから、いくつかだけ拾ってみましょう。
この救いにあずかれない理由としてあげられているのが不信仰です。3:12-19。そして信仰者の例を11章ではたくさんあげています。最初を引用しましょう。
11:1-2 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
みなさんは、どのような印象を持って、読んでおられますか。
鈴木寛
BRC no.41
皆さんお元気ですか。今日は12月18日、ペトロの手紙一 3章・4章です。皆さんは、sojourner という英語単語を知っていますか。日本語でいうと寄留者、口語訳聖書で使われています。新共同訳では「仮住まいの身」です。アメリカで勉強していた頃に、この単語を知って、好きになりました。アブラハムなど族長といわれる人たちは、どの地の寄留者でしたが、新約聖書にも二箇所出てきます。
ヘブル人への手紙 11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
ペトロの手紙一2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
この世での生活は仮住まいの生活だから、いいかげんでよいなどと言っていることではありません。本質的な決断をしなければいけないときの、信仰告白だと思っています。「神の国は近づいた」として、いまは地の国にいるが、神の国の(神様の完全な支配のもとにある)ものとして生活する、地の塩として。そんな意味合いでしょうか。
宛先は、上の 1:4,5 にあるようにアジア州にある七つの教会で、1:11 によると
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ
となっています。今のトルコ西部の七つの町で、エフェソはその州都でいちばん大きな町です。そして最初の部分は、この七つの教会へのメッセージの形式になっています。黙示文学ともよばれ、神の啓示を述べたものとされています。ヨハネ黙示録は、特に、世の終わりに向けた神の意思を伝えるものと考えてよいと思います。
鈴木寛
BRC no.42
皆さんお元気ですか。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
(ルカによる福音書2章11節(新共同訳))
イエスの誕生を記録しているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。しかし、神の子が人として幼子としてお生まれになった。このことを覚えるクリスマスは、たとえそれが 12月25日かどうかはわからなくても、聖書の基本的なメッセージを理解する大切な機会だと思います。そしてそのイエスのメッセージは、次の言葉で始まります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコによる福音書1章15節(新共同訳))
新約聖書の通読ももう少しで終わりますね。今日から新約聖書の最後ヨハネの黙示録に入ります。1月5日からは旧約聖書、詩編から読み継ぎます。
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」(ヨハネの黙示録1章11節(新共同訳))
2章からそれぞれの町の教会に具体的なメッセージが書かれていますが、とても興味深いですよ。ひとつひとつの教会について良いことと悪いこと、賞賛と叱責が書かれています。当時の教会にも様々な問題があったことを想像するとともに、現代に対しても励ましと警告を与えているように思います。それぞれのメッセージは皆さんが読み取って下さい。おそらく、一人一人によって、印象的な箇所が異なるでしょう。
鈴木寛
BRC no.43
皆さん主の2012年いかがお迎えですか。
41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。
72:18-20 主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。エッサイの子ダビデの祈りの終り。
89:53 主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。
106:48 イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ。
150:1-6 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。
鈴木寛
BRC no.44
皆さん詩編を読み始めましたか。
1. 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2節に「主のおきて」「そのおきて」と出てきます。新共同訳では「主の教え」「教え」ですが、この言葉はトーラーという言葉で律法という意味で、通常はモーセ5書と呼ばれる、聖書の最初の5巻を意味します。詩編でもトーラーという言葉はたくさん出てくるのですが、翻訳ではいろいろな訳になっています。1節、2節は、日本語で考えると、2節は、1節で言われているようなひとが、「おきてをよろこび」「おきてを思う」となりますが、おそらく因果関係などは考えない方がよいでしょうね。1, 2, 3 と並列に書いてあるのです。「さいわいだな!」からはじまって「皆栄える」となります。そして「悪しき者」最後は6節で締めくくられています。最後から前に戻ると、正しいものについてうたわれている詩だということがわかります。そして、主はその道を知っておられます。その道は、1に書いてあるような生き方ですね。みなさんにとっては、1節はどのような生き方でしょうか。犯罪に手を貸さないというような事でしょうか。2節には「主のおきてをよろこび」とありますよね。この感覚はしっくり来ますか。
2. このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3. このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
4. 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
5. それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6. 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。
それを知りつつ、この1篇。みなさんは何を考えられますか。
わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
(詩編41篇4,5節 口語訳)
鈴木寛
BRC no.45
皆さん詩編を読み始めましたか。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15:34にも同様の言葉が記されています。この詩編に記されている事ひとつひとつが、十字架でのイエスの苦しみを暗示させます。
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
4-6節には、つねに、主に救われてきた先祖たちと、その賛美をうける主について書かれていますが、7--9節はなんと、
わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
詩編記者の苦悩、神から見放され、人から嘲笑されている姿が記されています。さらに12-18節には、肉体をおそう苦痛と苦悩も表現されています。しかしそれでもなお、最後は、主をよびもとめ、賛美へとかわっていきます。神からの助けがなく、人に捨てられあざけられ、肉体もばらばらになっていく、ここまで過酷な状態があるでしょうか。そしてそれでも、神に信頼と賛美を唱える。凄まじささえ感じます。
イザヤ52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
詩編23篇は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まります。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
と続きます。みなさんは「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」という経験がありますか。
鈴木寛
BRC no.46
皆さん詩編を読み始めましたか。
2. 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
4. あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
7. あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
9. あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
11. 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
1ヨハネ1:9-11
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
「告白してゆるされる」そんな単純ではないのではと思われるかもしれません。そうですよね。でも、詩編33篇にはつぎのような言葉もあります。
鈴木寛
BRC no.47
皆さん詩編はいかがですか。神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。なかなか記者のこころがぴんとこないこともありますが。同時に150篇からなる詩編を選択して、この一巻にまとめたひと(たち)もいるわけですね。そしてそれが聖書の中にくわえられている。わたしもなかなかよくわからないことが多いですが、イマジネーションを働かせて、一篇一篇味わうようにして読んでいます。
詩編46篇
この詩編は、宗教改革者マルチン・ルターの愛称詩編で常に唱えていたようです。
2: このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
3: たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ
9: 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10:「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
11: 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
詩編49篇
5: わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
8: とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
10: まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。
15: しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ
詩編51篇
ダビデの詩編として有名です。サムエル記下11章・12章が背景にあります。是非、もう一度、サムエル記下の記事を読んでみてください。わたしは、この事件は、11章・12章で終わるものではないと考えていますが、それはまたの機会にしましょう。個人的には、51篇はすこし不満です。そこで、かなりあとになってから振り返って作った詩篇なのか、ダビデのこの事件を想定して作った詩篇なのかとさえ思います。もちろんわたしがまだ十分理解できていないのかもしれません。おそらくそうなのでしょうね。じっくり読んでいただければ幸いです。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
鈴木寛
BRC no.48
皆さん詩編はいかがですか。前回も書いたように、神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。特に救いを待ち望む祈りと賛美の詩編がたくさんありますね。敵からの救いとして、敵が滅びることを祈り求めるものもたくらんあります。平和な日本にすむ私たちにとっては、抵抗があることは確かですね。
詩編62篇
1: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
5: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。
7: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
8: わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
10: あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
詩編64篇
1: 神よ、わたしが嘆き訴えるとき、わたしの声をお聞きください。敵の恐れからわたしの命をお守りください。
2: わたしを隠して、悪を行う者の/ひそかなはかりごとから免れさせ、不義を行う者のはかりごとから免れさせてください。
4: 隠れた所から罪なき者を射ようとする。にわかに彼を射て恐れることがない。
5: 彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、「だれがわれらを見破ることができるか。
6: だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。
8: 神は彼らの舌のゆえに彼らを滅ぼされる。彼らを見る者は皆そのこうべを振るであろう。
10: 正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる。
詩編66篇
5: 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
6: 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
11: あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
12: 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。
鈴木寛
BRC no.49
詩編も第73篇から第三巻にはいりました。今日2月12日は、詩編77篇・78篇です。最近学んだ第三巻の最初の詩編73篇と今朝読んだ81篇について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。
詩編73篇
このように始まります。
2: しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
3: これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
22: わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
23: けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
11: それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
12: 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
13: 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
14: まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
15: わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
16: もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
17: しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
18: わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
19: まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
20: なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
詩編81篇
この詩編は今度は、神様に従わない民の側のことが次のように書かれています。
12: それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
鈴木寛
BRC no.50
先週は「BRCの皆様へ」を送ることができませんでした。この期間、第90篇から第四巻にはいりました。第四巻は106篇までですから予定通り進んでいればちょうど今日読み終えることになります。各巻はどのようなまとまりになっているのでしょうか。テーマはあるのでしょうか。詩編の最初に神をなんと読んでいるか、用語の使い方が異なることは書きましたが、正直わたしにも、テーマなどはよく分かりません。ただ、この第四巻は、公的な賛美といっても良いような統治者としての主への祈りと賛美が多いですね。それ以外にも、いくつか連続したテーマの詩編があるとか、なんとなく雰囲気はことなることはわかるのですが。明日から最終の第五巻に入ります。全体を五巻にまとめたのは、旧約聖書の最初のモーセ五書とよばれ、トーラー(律法)として特別な価値を付される五巻に対応してのことではないかと考えられているようです。なにか発見があれば、教えていただければ幸いです。
詩編100篇
感謝の供え物のための歌
1:全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
2:喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
3:主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
4:感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
5:主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
102:2 わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。
105:2 主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ。
105:3 その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。
105:4 主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
106:1 主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
[UNESCO handbook, “Is There a Way of Teaching for Peace?” (trans.) Marie-Therese Maurette, 1948; UNESCO document, Mainstreaming the Culture of Peace, http://unesdoc.unesco.org/images/0012/001263/126398e.pdf; (UNESCO Constitution §7.1(a) ](IB_-_Connecting_the_Dots.ppt より)
鈴木寛
BRC no.51
皆さん詩編は楽しんでおられるでしょうか。通読も第107篇から詩編最後の第五巻にはいりました。わたしが特別に好きな詩編がたくさんありますが、今日は第119篇を取り上げてみましょう。これは、へんな言い方ですが、通読をしているとなかなかつらい詩編でもあります。もちろん、それは、長さ。176節あります。一日に読む量としてはちょっと多いですね。ほかの日とで調節しても良いのですが。一日二章というのはわかりやすいので、そのままにしています。今回も、口語訳からの引用を中心とします。
105:あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
わたしも、この詩編記者と同じようにこころからそう思っています。極端に言うと、聖書にすべての真理が入っていると。この詩編はそのことの告白の詩編です。あるひとは、だから聖書以外なにも読まなくても良いのだとすら言います。もちろん、これは、信仰告白としては、よいのですが、字義通りとると問題です。科学的観察・分析・考察を受け入れないなどということにもなりかねません。神様がひとりひとり(聖書の神様を信じる人にも、そうとは思わないで求めている人にも、まったく関係なく真理をもとめているひとにも、さらに、すべてのひと)に働き、その人生の中で、ひとりひとりの心を開いて、真理の理解を助けるのだとすると、ほかのひとの人生、そのことば、考えから学ばなければならないことは明らかです。また、自然をもふくめ、神様がつくられ治められているものからも、神がどのようなかたで、なにを求めておられるのか、なにを「善い」としておられるのかについても、たくさんのことを知ることができるでしょう。そのうえで、わたしも、上の、105節のように、告白したい思います。
2. 詩編119:http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt26b9.htm
一つ一つの単語の意味も知りたい人は、Interlinear(行間注付)とよばれる、言葉の下に英語の意味が書かれているものを見てみるとよいでしょう。ただ下のものは、文章が、左から右に書かれています。
3. http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Hebrew_Index.htm
4. 詩編119:http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/psa119.pdf
詩編の英語は Psalm です。
5. 聖書全体:http://www.mechon-mamre.org/p/pt/ptmp3prq.htm
6. 詩編119:http://media.snunit.k12.il/kodeshm/mp3/t26b9.mp3
10:わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから/迷い出させないでください。
11:わたしはあなたにむかって/罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。
37:わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください。
130:み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。
148:わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。
実は、上に引用したひとつひとつ(全部ではありませんが)に思い出があります。その記憶も詰まっている詩編です。
鈴木寛
BRC no.52
詩編もあと少しになりました。3月19日に詩編が終わり、3月20日から箴言に入ります。
2: 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
3: 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
4: しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
5: わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
6: わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
7: イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
8: 主はイスラエルを/そのもろもろの不義からあがなわれます。
2: あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
3: あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
4: わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
鈴木寛
BRC no.53
昨日で詩編全150編を読み終え、今日 3月20日から箴言 (Proverbs) に入ります。箴言は、ヨブ記、伝道の書(コヘレトの言葉)とともに、知恵文学と呼ばれています。一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。
10:主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
11:神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
12:見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
13:わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
14:もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」
10:ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。
9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。
鈴木寛
BRC no.54
どのような箴言のことばがみなさんの心に残りますか。前回、箴言で語られている「知恵」は長老たちのことばであり、
「神との交わりの経験をもって、神のことばを実生活に適用することを教えるもの」と書きました。実生活への適用ということで、身近に感ぜられることばが多いと同時に、これはつねに正しいとはいえないのではないかと思われる部分もあるかと思います。しかしそれが「神のことばを実生活に適用することを教えるもの」であり、実際的な有用性があるとともに箴言だけからすてのを理解することもできないのでしょう。その上で、聖書の一つの巻として、箴言を楽しんで頂ければ幸いです。
箴言8章
ここでは、知恵と英知(口語:悟り)が擬人化され語りかけています。
9:理解力のある人には/それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には/それがすべてまっすぐであると分かる。
10:銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。
11:知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。
15:わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。
17:わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
31:主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。
36:わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
箴言16章
2:人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。
3:あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。
20:何事にも目覚めている人は恵みを得る。主に依り頼むことが彼の幸い。
鈴木寛
BRC no.55
知恵で満たされている箴言楽しんでいますか。
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。(新共同訳)
となっています。この「コヘレト」「伝道者」の原語は集会を招集する者とか、説教者、伝道者を意味する言葉で、ギリシャ語訳のタイトルから英語訳聖書では、Ecclesiastes となっています。対応するギリシャ語もほぼ同様の意味です。この1節からすると、このコヘレトは、ダビデの子でエルサレムの王ですから、ソロモンということになります。ただ、12節を見ると、
ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。(口語訳)
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。(新共同訳)
と完了形で書かれていますが、ソロモンは終生王でしたから、違和感があります。実は、ルターの頃にはすでに、著者はソロモンではないと考えられていたようです。知恵に満ち、非常に富んでいた王。そのようなひとのことばということが大切なのでしょう。今回は「伝道の書」と呼ぶことにします。この伝道の書には何が書いてあるのでしょうか。
伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。(口語訳)
2:コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。(新共同訳)
ヘブル語ではことばを重ねることによって最上級をあらわすので「空の空」が訳し方によっては「なんという空しさ」となるわけです。この「空(ヘベル)」は元来、息の意味ですぐに消えてしまううつろいやすいものを意味しており、創世記4章に出てくるアダムとイブの子「アベル」とおなじ言葉です。アベルは登場してすぐカインに殺されてしまいます。この言葉は、旧約聖書に現れる72回のうち37回が伝道の書に使われていますから、この語が伝道の書のひとつの鍵であるとも言えます。
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。(口語訳)
3:太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。(新共同訳)
太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。(口語訳)
1:主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
目新しいものを追い求めるものには、コヘレトはこう語ります。
2:朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
1:9 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
移ろいやすい快楽を求めるものには、
2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
しかし、すべてを無価値としているわけではありません。時について
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
友について
4:9:ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
神を畏れることについては、
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
5:6 夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
次のようなことばもあります。
11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
そして最後に若者に語ります。
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
この書が聖書の中の一巻として含まれていることの恵みを感じます。最後にいのちのことば社「新聖書注解」から、伝道の書の梗概(本間正巳)を引用しておきます。
12;1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
みなさんは、伝道の書からなにを読み取られるでしょうか。
鈴木寛
BRC no.56
「伝道の書(コヘレトの言葉)」はいかがですか。あまり読んだことがなかった方もいたのではないかと思います。
ソロモンの雅歌。
となっています。確かに読んでみるとソロモンを念頭において書かれていることは確かでしょう。旧約聖書39巻の中で神の名が出てこないものが二巻あり、一つがエステル記、もう一つがこの雅歌です。エステル記は、神様は表舞台に出てこなくても、ユダヤ人の歴史として、危機的状況の中で神が働いておられることが記されていますが、この雅歌は、恋愛詩ですから、これが聖書に含まれていることに戸惑いを感じる方もおられると思います。実際、学者たちの中にも、排除しようとしたひともいるようですし、また、解釈もまちまちなようです。
みなさんは、どのように読まれるでしょうか。わたしは、b を強調されて教えられてましたが、個人的には、c と f が一義的には、有力かなと考えています。つまり基本的には、人間的な恋愛を歌った詩歌で、形式的には劇詩の形をとっているというものです。人間的な恋愛感情は、時として、ひとを傷つけたり、利己的に働いたり、肉欲的な面が制御できなくなったりしますが、特に異性の間のとくべつな感情そして生理現象は、やはり神様が祝福として人間ひとりひとりに与えておられるものだと考えるからです。祝福として受け取るべきものだと思います。しかし同時に、読んでみると、雅歌は正直わかりにくい。それぞれの部分がだれの言葉なのかわかりにくいのです。実は新共同訳にはかなりこまかく「小見出し」がついていますが、むろんこれは、もともとの聖書にあるものではありませんから、それは忘れて読んだ方が良いかも知れません。演劇の好きな方は、ちょっと分析してみて下さいませんか。どんな登場人物を想定するのがよいでしょうか。わたしも毎回考えながら読んでいますが、これ以降は、みなさんにお任せして、書かないことにします。
1:2 どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。
ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く
3節と4節を同じ人のことばとするかどうかも難しいですね。この雅歌に 2:7 と 3:5 に出てくる次の言葉、みなさんはこの気持ち分かりますか。
1:3 あなたの香油、流れるその香油のように/あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。
1:4 お誘いください、わたしを。急ぎましょう、王様/わたしをお部屋に伴ってください。
わたしたちもあなたと共に喜び祝います。ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます。人は皆、ひたすらあなたをお慕いします。
2:7 エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
[口語訳 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。]
8:4 にも似た言葉があります。そしてつぎのように続きます。
4: エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
これだけでも、十分、美しいと思いませんか。こんな胸ときめき、恋愛、魅力的ではないですか。
最後は次の言葉で終わります。
5: 荒れ野から上って来るおとめは誰か/恋人の腕に寄りかかって。
りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。
6: わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。
愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
7: 大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。
梗概
みなさんは、どのように読まれるでしょうか。聖書の一巻として雅歌が含まれている意味も考えてみましょう。
鈴木寛
BRC no.57
昨日4月14日からイザヤ書に入りました。イザヤ書から旧約聖書の最後まで基本的には預言書が続きます。預言は、予言ではありませんから、未来告知ではなく、神様の言葉に預かる、それを伝えるものですが、その中には、予言的な要素も多く含んでいます。また、かなり現実に密着した問題について語られています。さてその預言書でも、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書は大預言書と呼ばれています。さらにその中でもイザヤの名前は聞いたことのある方が多いのではないかと思います。おそらくその大きな理由は、新約聖書でたくさん引用されているからでしょう。イザヤ書からの新約聖書での引用は50箇所ほどありますが「預言者イザヤによって」など、イザヤという名前が出てくる、イザヤ書以外の箇所をリストしておきます。
さて、イザヤ書の最初を見てみましょう。新共同訳から引用します。
1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。(新共同訳)
イザヤは「主の救い」と言う意味の名前ですが、ユダとエルサレムについて見た幻について書いてあること、それもユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことだと書いてありますから、すこしこの当時のことを復習しておくことが必要でしょう。上にも書いたように現実の問題と密接に関わりのあることについて語っているので、その当時のことを知ることは、大切なのです。
15: 彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
イザヤが預言を始めたのは、この時代です。
16: ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした。
* は諸説あり。
1章から39章はひとつのまとまりがありますが、そのあと、かなり記述が変わっていくので、40章-55章は 第二イザヤ、56章-66章は 第三イザヤによると言ったりしています。イザヤ書は 66章あります。聖書も66巻、旧約聖書は 39巻ですから、このイザヤ書の切れ目は、(章の切れ目は後代に作ったものですから)たまたまですが、旧約聖書と新約聖書の巻の数と同じように分かれています。
鈴木寛
BRC no.58
皆様イザヤ書はどうですか。今日は4月22日ですから16章と17章です。前回は中身については書けませんでしたから、今回はイザヤ書はどんなことについて書いてあるかを、特に最初のいくつかの章から少し見てみましょう。まずは、1章から少し見てみましょう。前回と同じく引用は新共同訳です。
2:天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
まず、イスラエルの民が主(神様)の子と表現され、その子らが神様にそむいたことが書かれています。これに続いて、神によって撃たれたこと。憐れみによって残されたものがいることが書かれています。(1:5-9)
3:牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。
4:災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
主を捨てたとあります。
11a:お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
これをみると、宗教的儀式によって救われることはなさそうです。犠牲・祭り・祈りを受け入れないとされています。
14a:お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。
15a:お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
16:洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
神が求めておられること、そして、清められると書かれています。
簡単にいうと「あなたたちは、神にそむいた。御心と行うものとなれ。神は(神の前に立つことのできる)清いものにしてくださる」ということです。
17:善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
18:論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
4:主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
前回、時代的背景について少し書きましたが、東のアッシリアが強くなり、それまで北イスラエル王国(その盟主の名からエフライムとも言われている)や、そのさらに北にあるアラム(口語ではスリヤ、首都のあったダマスコと呼ばれることもある)と争っていたのが、そんな状況ではなくなっていました。アッシリアに対抗するため三国同盟の案もあったようですが、南ユダ王国はこれを拒否したためでしょうか、北イスラエル王国とアラムが攻めてきます。しかし、これらの二つの国は、アッシリアに滅ばされてしまう。(7章)このような時代ですね。上の4節・5節はそのような時に語られているのです。
5:ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
5:災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。
この時代にこのようなことばを言うことは勇気のいることだったでしょう。そして、同じ10章にアッシリアについての裁きも書かれています。神が全世界の国を動かしておられると確信しているのでしょう。イザヤが書いている範囲は地域的にも広いですが、社会的にもいろいろな人たちに語りかけています。
6:神を無視する国に向かって/わたしはそれを遣わし/わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ/野の土のように彼を踏みにじれ」と。
主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。
これは3章16節のことばですが、このあと、18節からは装身具のリストが挙げられています。聖書の他の箇所には現れないことばも多いそうです。女性達が身を飾る飾りのひとつひとつも、神のことばの一部として用いられているのです。
鈴木寛
BRC no.59
今日は4月29日、イザヤ書30章・31章です。
第一部 ユダとエルサレムについての幻 1-12章
第一部は大体ユダとエルサレムについて書かれていますが、その中に、6章のようなイザヤの(再)召命体験、7章のスリヤ(アラム・ダマスコ)とイスラエルの連合軍によるエルサレム攻撃に、イザヤがどのように関わったかが書かれた記事が挿入されていました。
第二部はバビロンからはじまり、当時の世界の国々に対するメッセージが書かれていました。
第二部 諸国に関するメッセージ 13-23章
第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35章
第四部 歴史的付加 36-39章
第五部 新しい出エジプトと主のしもべ 40-53章
第六部 新しい民の賛美と礼拝 54-66章
ここにも20章のように、アッシリアの王サルゴンがペリシテの街のひとつを攻略したときから3年間、イザヤが裸、はだしで歩き、エジプトとエチオピアのしるしとしたことが挿入されています。外国に対するしるしをイザヤが演じることを命じられそれをする姿は、なにかこの世のものとも思われないものを感じます。
さて、どんな救いが語られているのでしょうか。新改訳で引用します。25章6節から10節です。
6:万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
すべての民の祝宴が開かれるときのことが書かれています。
7:主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8:死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9:その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
10:主の御手はこの山の上にとどまる。
と言うことでしょうか。この救いについて語る部分にも、31章のように、アッシリアから逃れてエジプトに頼っていく人に対する警告などが挿入され、主に立ち帰るべき事が語られています。預言はつねに、その現実の中で、主に頼るべき事を示す一部なのでしょう。
鈴木寛
BRC no.60
今日は5月6日、イザヤ書44章・45章です。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
なにか力を与えられますね。通読のひとつの価値は、イザヤ書全体の中でどのような箇所にそれぞれのことばが書かれているかを確認できることではないかと思います。どうしようもない真っ暗な現実が書かれている直後、40章の最初「慰めよ、わが民を慰めよ」とはじまったメッセージに現れるのですね。
第1番目のしもべの歌 42章1節-4節
1:わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
この3節は、新共同訳では
2:彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
3:また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
4:彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。
傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
となっています。「裁きを導き出して」というと、恐ろしい感じがしますが、「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」の部分は、なにかとても平安が与えられますね。このことばは、マタイ12章20節にも引用されています。
第2番目のしもべの歌 49章1節-6節
1:海沿いの国々よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。主はわたしを生れ出た時から召し、母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
2:主はわが口を鋭利なつるぎとなし、わたしをみ手の陰にかくし、とぎすました矢となして、箙にわたしを隠された。
3:また、わたしに言われた、「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。
4:しかし、わたしは言った、「わたしはいたずらに働き、益なく、むなしく力を費した。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」と。
5:ヤコブをおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、わたしを腹の中からつくって/そのしもべとされた主は言われる。(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)
6:主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。
第3番目のしもべの歌 50章4節-9節
4:主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。
5:主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。
6:わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。
7:しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。
8:わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。
9:見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。
第4番目のしもべの歌 52章13節-53章12節
13:見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
特にこの第4のしもべの歌は新約聖書でもたくさん引用されています。興味のあるかたは是非調べてみて下さい。no.57 に新約聖書でイザヤという名前が出てくる箇所を挙げておきましたので、参考になると思います。
14:多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――
15:彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
1:だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2:彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3:彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4:まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6:われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
7:彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
8:彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
9:彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
10:しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
11:彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12:それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
マタイでは実際の病を癒す箇所で引用されていますが、このイザヤ書の文脈からしても、マタイに書かれていることからも、単なる医学的病気ではないことを読み取れるのではないでしょうか。おそらくイエスが弟子達に伝えた時から、そして初代教会のときから、この箇所をまさに起点として、ここで言われている主のしもべがイエスだと信じられて来たのです。そして、そのイエスは、このような主のしもべの姿が受け入れられないひとたちの、「暴虐な裁きによって取り去られ」ました。しかし、イザヤはその原因は、われわれ、われわれの不義にあると言っています。そして「その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」さらに驚くべきことに「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」
鈴木寛
BRC no.61
今日は5月13日、イザヤ書58章・59章です。あと少しでイザヤ書を読み終わり、エレミヤ書に入りますから、エレミヤについて少し書いておこうと思います。
1:エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。
3節にあるように、南ユダ王国は、北イスラエル王国が滅んでからも、辛うじて残りますが、ゼデキヤの時代に、ネブカデネザルが率いるバビロンに滅ぼされ、エルサレムの住民は、捕囚となって連れ去られていくのです。1回目の降伏は、BC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年7月9日です。イザヤ書にも歴史的な記述が現れ、そのなかのイザヤの活動が書かれていましたが、エレミヤ書にはさらにたくさんのエレミヤの活動記録が書かれています。一つの国が完全に滅びてしまうと言うのは大変なことです。エレミヤが活動したのはまさにその時、神の民、神に特別に愛されて、導かれてきた民、それが異邦人の神を知らない民に滅ぼされる。このことは、あらゆる意味で大変な事だったことは、容易に想像がつきます。民がこころから神に仕えていなかったということは、簡単ですが、曲がりなりにも神様を礼拝し、仕えてきた国が、神様を全く知らない国に滅ぼされてしまうのです。そんなことがあっても良いのだろうか、と問いたくなるのは当然です。
2:主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、
3:更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。
と書かれています。ユダがアッシリアに滅ぼされなかったのは、アッシリアの属国的な存在であることを甘んじたからもありますが、アッシリアを撃つために出てきたエジプトの王ファラオ・ネコに戦いをいどみ、ヨシアも死にます。それから暫くして、エルサレム陥落、エルサレムの民は、バビロン捕囚となるのです。エレミヤはそのような時代の預言者と言うことになります。1章の4節からは、エレミヤが預言者として立てられたこと、すなわち「召命」(Calling, Beruf) をうけたことが次のように記されています。
4:主の言葉がわたしに臨んだ。
このあとには、神様から直接預言の言葉が与えられ、さらに、その意味の解き明かしも示される、預言者訓練とも呼ぶことができるような経験が一章の終わりまで書かれています。
5:「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。
」
6:わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
7:しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
10:見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
みなさんは、イザヤ書のどんなメッセージがこころに残りましたか。
そして、この難しい時代に預言者として神様に召されたエレミヤからは、どのようなメッセージを学ばれるでしょうか。
鈴木寛
BRC no.62
今日は5月20日、エレミヤ書6章・7章です。エレミヤ書に入りましたが、みなさんはどのような感想を持ちながら読んでおられるでしょうか。
9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
25章の終わりまでは、基本的に、ユダとイスラエルについて語られていますが、その内容として最初に語られているのは、次の事です。
10:見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
16:わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。
アッシリアに滅ばされる脅威が多少うすれ、それなりに、安住している時期にこのことばを語るのです。反発があることは、容易に想像できます。上の箇所につづいて、17節には次のようにあります。後半は、なかなかのチャレンジですね。
17:あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな/わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。
2章11節-13節には、その罪がさらに明確に語られています。
11: 一体、どこの国が/神々を取り替えたことがあろうか/しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた。
12:天よ、驚け、このことを/大いに、震えおののけ、と主は言われる。
結局神ではなく、自分にたよると言うことでしょうか。さらに、2章18節には、上でも書いた歴史的なことが記されています。
13:まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
18:それなのに、今あなたはエジプトへ行って/ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って/ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。
3章から4章にかけては、何回も「帰れ」と呼びかけられています。3章14節-15節。
14:背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。一つの町から一人、一つの氏族から二人ではあるが、わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。
エレミヤ書3章 22節
15:わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。
「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。
問題の深刻さを、エレミヤは少しずつ語ります。まず、5章1節.
エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
次に5章30節-31節
30:恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。
そして、この罪は、民全体をむしばんでいると、言うことでしょうか。6章13節-14節。
31:預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」
13:「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
みなさんは、いまのこのなんとなく平和な時代にこれらのエレミヤのことばをどのように聞きますか。
差し迫った危機はないが、なにか将来は明るくない。まだ大丈夫だろう。そんな時でしょうか。
14:彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。
鈴木寛