私は今埼玉の川越に住んでいるが、生まれは石川県の金沢市でそこで8歳くらいまで育った。幼い頃の感じた印象が強いせいか私にとっての川は金沢市を流れている犀川である。犀川は幼かった私と祖父母の散歩コースであった。毎日何をするでもなく散歩好きな祖父に連れられてただただ犀川を見ながら歩いていた。また小学生低学年の春には鮭の放流をした。この放流の行事は私の今小学4年生の弟が今年していたので今もまだ続いている様だ。幼い頃大きい大きいと感じていた犀川は大学生になった今でもとても大きく感じる。そして犀川に流れている水は私が今住んでいるところに流れている新河岸川という川よりも断然水がきれいである。水がきれいなため犀川には魚が棲んでおり釣りをしている人が見られる。また、犀川の土手にはトンビが飛んでおり食べ物を持っていかれ嘆いている人もいる。夏場になれば川べりで水遊びをする子供たちや親子連れが多々見られる。犀川だけでなくそこに棲んでいる生物、土手、犀川にいる人々、犀川に架かっている橋それら全てが私にとっての犀川である。祖父に犀川について聞いてみた。「作家の室生犀星は“清き川は流れたり。吾はそのほとりに住みたり。”と記している。その犀川の近くに私も住んでいた。半世紀以上前夏はそこで水遊びに興じていた。ウグイやアユ、フナ等が群れをなし小石を除くとゴリが面白いほど獲れたものである。懐かしく想いだす。学業を終えH銀行に入行し、札幌、東京での転勤を経て約30年前縁あって犀川支店の支店長を勤めていた。明治32年に建てられた赤レンガ造りの店舗は金沢の名所“犀川大橋”の袂に位置しておりその景観は多くの市民に親しまれていた。今でも私には愛着一入のものがある。現在犀川の左岸一帯は“犀川緑地公園”として整備され多くの市民の憩いの場になっている。年を重ねて75歳の私にとっても約1時間の恰好の散歩コースであり、四季折々の風情を楽しんでいる。春、桜の季節にはサクラ鱒が跳ね、夏、緑豊かな芝生を背に鮎が踊り、釣り人が朝夕に集い、秋、紅葉が終わる頃鮭の遡上が見られる。近年その数は萬に増してきた。冬、雪で白銀の世界の中に越冬のカルガモ親の賑やかな鳴き声がする。人口40万を越える都市の中心部にこれ程豊かな自然環境に恵まれた所は他にはないのではと誇りに思っている。」犀川について嬉しそうに語る祖父の姿から犀川への愛がよく表されていた。
ウィキペディアによると犀川は、石川県金沢市の中央部を流れる二級河川である。全長34.25km。流域面積約256km2。浅野川を女川というのに対して、男川と通称されて親しまれている。雅名は菊水川。江戸時代初期に建設された犀川上流の水を金沢城に引いた辰巳用水が現在も流れているほか、数々の市内を流れる用水の取水源となっており、金沢市民の水資源として重要な役割を果たしている。上流には犀川ダム・内川ダムがある。また、浅野川の洪水防止のため、浅野川の水を犀川に分水している。 河口の金石(かないわ)港は江戸時代以前は宮腰(みやのこし)と呼ばれ、金沢の外港として重用視された。古くは中流域で、大きく二流に分かれて流れていたが、江戸時代初期の治水工事で概ね現在の流れになり、香林坊付近を流れていた川道は鞍月用水や金沢城の外堀に利用された。 川の名前は、佐奇神社(さきじんじゃ)のそばを流れる事から佐奇川となり訛って「さいがわ」となったとされている。男川の通称は泉鏡花が大正8年(1919年)発表の小説「由縁の女」の作中で浅野川を女川と表現したことの対比とされている。また、菊水川の名は金沢市内の「菊川」、「菊水町」等の町名に転じている。 河畔には、この川を愛した室生犀星の文学碑(谷口吉郎設計)が建っている。春に犀星通りから見る犀川の桜はとても美しく私は春になると毎年そこを散歩する。犀星も犀川での四季折々に見られる自然の美しさを愛していたのではないだろうか。犀川はかつてアユ・ゴリ・マス・ナマズ・ドジョウなどの淡水魚が豊富で、ゴリの佃煮が金沢名物として知られている。2003年には、上流域の地層から全長が1mを超すとみられるサケの化石が発掘され話題となった。
石川県立歴史博物館には犀川が描かれた屏風がある。第二扇に描かれているのは、現在の大工町から十三間町のあたりである。河畔に小さな木立があり、砂州ができた流れのなかには、投げ網を打とうとしている菅笠を被った漁師らしき人がいる。傍らにいる褌姿の男は、鵜縄(うなわ)を引いて下流から魚を追ってきた相棒である。この鵜縄というのは、縄に鵜や鳥の羽などをつけて、魚を脅かしながら追いこむための漁具である。少し下流には、金沢名物のゴリ漁をしている4人の人物がみえる。小石をのせた筵を川底に敷き、二手に分かれて「ゴリオシ」や「ブッタイ」と呼ばれる漁具を使いながら、追い込んだ鮴が小石にかくれたところを筵ごと引き上げようとしているようだ。近くの堤防の上には、反物が3本ひろげられ、洗い張りをしている町人が描かれている。続く第三扇には、北国街道の一筋東にある河原町付近が描かれている。このあたりは、傘屋や八百屋、豆腐屋などが軒を連ねるまちの商店街である。意外なことには、川と隣接した町家との境界が一連の板塀で区切られており、まちと川とを自由に行き来できないようになっていることである。江戸時代、城下はたびたび洪水の被害を受けているが、この板塀は水位が堤防をこえても、水がまちに流れ込むのを防ぐために設けられたのかもしれない。一方川のほうに目を転じると、澪筋は岸近くに寄っており、川岸は人の頭より少し大きな石で護岸が施されている。ちょうど河川工事が行われており、堤防には4人の武士が何やら相談をしながら、工事の指図をしているようである。流れのなかには、褌一丁になって蛇籠をすえつけている8人の人夫たちがみえる。蛇籠というのは、割竹や柳などで編んだ太さ約50センチ、長さ2〜3メートル程の細長い籠で、籠のなかに重りとなる石を詰めて使う。描かれているのは、強い水流を受ける護岸の根元が洗われて流失しないよう、蛇籠を護岸の先端に置いている様子である。工事の様子をもう少し細かく見ると、岸には蛇籠に詰める石が積まれた舟が2艘浮かんでいる。空の蛇籠を抱きかかえて置こうとしている人、舟から石を手渡す人、蛇籠に石を詰める人、丸太杭を打つ人など、工事の様子がいきいきと描かれている。堤防にいる武士の右側には監督小屋が設けられ、その横には休憩や作業の合図をしている様だ。拍子木を打つ男の姿も見える。さらに左側の階段の横には、まだ石が詰められていない空の蛇籠が3本ほど準備されている。階段の上には凧揚げをしている子供がいるが、工事現場との間には関係者以外の立入り禁止のためか、現在の安全柵に相当する張り綱のようなものが描かれている。
第四扇には、北国街道が犀川を渡る犀川大橋の橋上の賑わいが描かれている。橋のすぐ上流の流れのなかでは、追い手と待ち手の二組に分かれ、仕掛網で漁をする4人の漁師たちがいる。また、金沢の伝統産業である友禅流しの光景もみられ、すぐ近くの河原の中州で弁当を食べる人々もいる。この屏風から読み取れるように犀川は昔からそこに住んでいる人々の生活から切り離せないものである。犀川は金沢に住んでいる人、石川に住んでいる人、観光に来ている人たちからとても愛されている。また私や私の親、祖父母、兄弟もそうだが皆犀川を誇りに思っている様だ。金沢に帰省し犀川を車の中から見るとき自分の故郷に戻ってきたという大きな安らぎや安心感が得られる。この感情は私特有のものでなく犀川を愛している人々皆に共通しているはずだ。犀川はこれからも雄大な姿のままで自然と人間の生活の中で流れ続けるだろう。