「人類にとって最も身近であり、必要不可欠である水を守る」

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 人間は賢い動物であるとともに、愚かな面も持ち合わせている。その一つが、目先の利便性や利益の事だけを考えて行動してしまい、自分達がそれに依存していきていかなければいけないのに、また自分達がそれを作りだす事ができるわけではないのに、元に戻す事のできない、あるいは元に戻すのに非常な時間のかかる物、つまり自然を破壊してしまうという行動である。水質汚染も最近では少しずつ事態が改善されてきているようではあるが、完全な状態とは程遠い。しかし実際には、水質汚染などと聞いても、ピンとこない。という人の方が多いのではないだろうか。確かに、ヘドロの浮いた汚い沼や湖、異臭を放っている街中のどぶ川などを見ると、「なんとかしなければいけないのではないだろうか。」と思いはするが、家に帰ると、家で水道水などを使っている事と、自分がもしかしたらヘドロの浮いた沼や、どぶ川を作る一端を担っているかもしれないという事がなかなかつながらない。自分が使った下水は見えないところを通って最終的に河や海へと注ぎ込むからだ。しかし、一人一人が自覚し、汚染原因となる行動を止めない限り、永遠に解決することはないであろう。そのためには、自分の周りの自然環境で何が起きているのか、常に注意深くある必要がある。

 水にまつわるトピックとして、一つ目に、最近、水の汚染を防ぐために無洗米が普及してきているという事、二つ目にJRが水力発電により主な電気を得ている信濃川の水量が減少し、住民が危機感を抱き増水要求をしている事、そして三つ目に、中国により日本に西部大開発に対する援助要請がきており、その援助として「黄河の水を救う」という提案が出ている事、の三点をピックアップしてみた。

 最近、関西地区を中心に、研がずに炊ける無洗米の消費が広がっている。家庭での消費に加え、学校給食や外食産業などでも取り入れる例が増え、県をあげて普及活動をするところも現れた。大阪市内の小学校と養護学校約100校は二学期から給食で無洗米を取り入れている。その理由が、「米のとぎ汁が水質汚染につながるため、環境への配慮から」とのこと。業者にぬかを除いてもらうため、キロ当たり5円高い。だが市教委の担当者は「研がないので、水道代も減らせる。環境には代えられない」と言っている。正直、このニュースには驚かされた。まず、米のとぎ汁が環境に悪いなどと思いもよらず、逆に環境に良いのではないかと漠然と思っていたからだ。また、環境の為という理由で市を上げてコスト増にも関わらず無洗米への転向に取り組んでいるという事にも驚きと同時に喜びを感じた。使用水量をかなり押さえる事ができ、環境汚染も軽減する事ができるとあらば、一石二鳥である。事実、米自体の単価は多少上がるが、結果的にコストは減るようだ。関西地区を中心に「ほっかほっか亭」を経営するハークスレイは四年前から無洗米を導入し、現在は830店舗まで広げており、店平均で月5~7万円のコスト削減につながったとの事。「無洗米」の存在自体は知っていたが、手を汚したくない面倒くさがり屋のための商品だと思っていたし、割高のイメージがあったので、立派なエコ商品だということを知ってかなり驚かされた。こんなに身近な所に環境汚染の原因があったと言うことにも驚かされた。しかし、学校といった施設などで、大量の研ぎ汁を流す時などは、水を汚染しているという実感があるかもしれないが、各家庭の流しで米を研いで流している時などには、水を汚染しているという実感はなかなか持てないのではないだろうか。自分もそうなのだが、別にこれくらいの量が公害を引き起こすという事はなかろうという考えをついつい持ってしまいがちである。環境問題全般に横たわる大衆心理というか、問題の本質はそこにありそうである。なんとなく良い事であるとは知っていてもついつい毎日の生活に追われて流されているという事もあるだろうが、そこで、ある大企業なり、公的機関なりが率先して動いてくれると、一つの規範というか、模範となり、社会全体が動くきっかけになるのではなかろうか。もちろん、環境問題を企業などの任せておいて良いわけではない。あくまでも基本単位は個人個人であるべきであり、一人一人が、「自分が環境破壊をすればやがて自分に帰ってくる」という認識の下に行動していかなければならない。自分もまずは、無洗米を買う事から始めてみようかと思っている。ただ、無洗米は米糠を特殊な精米技術により取り除いてあるとの事なので、栄養分が破壊されているのではないだろうかという懸念はあるのだが。

二点目は、信濃川水力発電に関するトピックである。

 首都圏の大動脈であるJR山手線の電気のほとんどを信濃川にある水力発電に頼っている。一日あたりの発電量は約四百十万キロワット時。JRが使う電力の23%をここの水力発電に頼っており、山手線以外にも中央線や高崎線など関東地域の主要路線を支えている。戦前から国策として水力発電を行ってきた信濃川は日本の経済成長に大きく貢献した一方で、水力発電のため取水されて流量は激減、流域の人たちの暮らしに大きな影響を及ぼしている。まず漁業への影響がある。かつて鮭、サクラマスなど魚の豊かな川で、昭和初期のサケ捕獲数は年間数万から十数万匹とも言われ、多くの川漁師が網を繰っていた。ところが、一九三九年に中里村にJR宮中ダムができてから状況は一変してしまった。ダムがくみ上げる量は年間平均で流量の八割近くにのぼり、冬場の渇水期になると下流側は干上がってしまう。取水量が少なかった四十年、田中さんのサケの捕獲数は千八百匹あったが、小千谷発電所が稼動し始めた五一年頃には二、三百匹に減り、同発電所が拡張された六三年以降は自分の家で食べる分くらいしか捕れなくなった。信濃川奔流と支流に漁業権を持つ中魚沼郡漁協は七八年から放流に取り組んでいる。ここ4、5年くらいは十万匹前後を放流しているが捕れるのは2,3匹程度である。まるで冗談のような数字だ。また、このダムによる水力発電は漁獲高だけではなく、住民達の飲料水にも影響を及ぼしているという。主な水道水源は信濃川の伏流水で、深さ15m以内の浅井戸を掘って汲み上げているが、本流の減水により、伏流水も減ってきている。そのため86年から冬場は深さ200〜250mに及ぶ深井戸に頼るようになった。しかし深井戸の水は数百年前から貯められた水で人体に有害な物質が含まれている為、それを除去するための経費がかかり、水道料金が高くなってしまい、家計を圧迫している。また深層の水は石油や石炭と一緒で無限ではない。このような状況の中で、住民達は不安を募らせ、82年、有志による「信濃川を蘇らせる会」を発足した。同会は、署名運動などにより、JRや、東京電力、河川管理者の建設省に大幅流水量増を要望し、今のところ交渉により、増水の方向に事が運んでいる。この件は、ダムによって水質を汚染させて病気を引き起こしているというような、取り返しのつかない重大な問題とまではいかないかもしれないが、それでも、漁獲高の極端な減少、生活水の不足などは、地元住民にとっては深刻な問題といえる。サケなどの漁業によって生計を立てている人がいればなおさらである。水力発電自体は極めてクリーンな発電システムと言えるが、大量の水を一気に流す必要があるというその構造上の都合から、ダムなどの大掛かりな設備が必要になり、結局は自然破壊につながってしまう。全く手付かずの自然を残すというのは無理であろうから、せめて、サケが帰って来れるような、住民達が生活に困らないだけの飲料水を確保する事、そこから自然との調和、奪取ではなく、共存が生まれるのではなかろうか。

 三つ目のトピックは、中国からの援助要請に対して、やっつけ仕事的な、断片的な援助はやめにして、もっと大きな一つのテーマ「黄河の水を救う」を掲げて長期的に援助してゆくという提案である。現在、中国では、内陸部、特に西部地域が経済的に取り残されている状況で、内陸から沿海に大量の経済難民が押し寄せて、社会的、政治的不安を生み出しているという。しかしだからと言って、安易に西部大開発政策をしくのは、民族的な問題も絡んできて、政治的に難しい状況を生み出しかねない。そこで、まず現在危機に直面している黄河を立て直す事業から始め、日中の理解、共感を深める事はできないか?黄河では近年、信濃川と同じように下流が干上がり、流れが海まで届かない断流現象がひどくなっている。上流での森林伐採とダム・工業用水の取水争奪が、砂漠化、水質汚染、水不足、農業危機をもたらしている。この問題は中国経済発展の障害物となり、中国と東アジアの環境、食料、人口動態、生態系に大きな影響を及ぼす。よって黄河を復活させる事が中国にとって、一刻でも早く解決しなければならない課題である事は間違いない。日中の相互理解、共感といったものを深める為にも、これまでの小手先のちょこちょことしたあまり世間の目にふれないような援助よりも、中国国民の心のよりどころとなっている(であろう)黄河を復活させるというビッグプロジェクトの名の下に日本が援助した方が、国民が、日本が中国に対して行っている援助を認知する事ができ、もっと理解し合えるのではないか。確かに今までも多くの援助を国家レベル、NGOレベルでやってはきたのであろうが、えてしてそれは局所的なものにとどまってしまい、中国大陸があまりにも大きいのがその理由であろうが、なかなか国民一人一人が日本という国を具体的に認知できるレベルまでに至っていないというのが現状であろう。だからといって日本を認知してもらう為に、黄河を復活させるというのもいささか政治的な匂いに濃厚であるが、より多くの共感を得られる事は間違いないように思われる。ただ、実際に今の段階まで来てしまっている黄河をどう改善するかという事になると、事態は決して容易ではない。信濃川のケースのように、まずダムの放出量を増やすというところから始められそうであるが、専門家が現地に出向いての多くの調査を経て、大掛かりなプロジェクトになりそうである。実際に中国援助を行っているNPOに関わっている読者が、解決策が今のところないと言っている事からも事態が容易でない事を推測する事ができる。しかし、早急に改善しなければならない課題である事は間違いない。

 三つの水に関連するトピックをあげてみたが、三つに共通するのは、人間が自然との共存がうまくできない為に結局は自分達の身に、なんらかの不利益を被ってしまっているという点であろうか。物事はえてしてやってみなければわからない部分があまりにも多く、やってみたら取り返しのつかない事態になってしまったという事もまた多い。自然との関わり合いにおいて、特にそれが言える。水も、そこにあれば、汚染物質を流さないようにするなどの努力で徐々に綺麗な状態にする事ができるかもしれないが、干上がってしまったら、そこに水の流れを取り戻すのは不可能である。今までは人類が自分達の都合で自然を変化させていた。これからは人類が自然のために譲歩する事が必要である。無洗米の件にしろ、信濃川の件にしろ、人々が今まで意識はするものの行動する所までいっていなかった自然への譲歩が少しずつではあるが始まっている事を示しているように思われる。

 

参考文献:

http://mytown.asahi.com/niigata/news02.asp

http://www.asahi.com/life/food/1101a.html

http://www.asahi.com/column/funabashi/ja/001005.html

 

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