NS-III自然の化学的基礎                    2000年6月21日

 

科学・水・人間

                          ID#021162 川原 繁人

 

以下の会話は、ある文系の生徒Aと科学者を目指すBとの対話である。Bは科学に対して絶対的な信頼を持っている青年である。それに対して、Aは科学に対する盲目的信頼に疑問を持っており、自然科学とは違った視点から自然は捉えられるのではないかと考えている。

 

1.導入

 

A:うーん。

B:何をそんなに悩んでいるんだい?

A:いや、じつはね、「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ。」と考えている高校生に、「水」について語らなければならないんだよ。

B:そんなの簡単だね。人間ってさ、当たり前のことが当たり前じゃなくなるところに面白さを感じるじゃないか。だから、日常生活に見られる現象で、水の面白い特徴によって起こるものを説明してあげればいいんだよ。例えば、水は4℃で密度が最高になるから、氷は水に浮く。だからこそ、水面が凍ってしまっても、川の生物は生きていられるんだよね。「誰も、氷が水に浮くのはなぜか」なんて考えてないからね。

A:たしかに、そういうのも面白いと思うよ。

B:こういうのもいいんじゃないかな。水は蒸発するときに大きなエネルギーを必要とするんだ。一グラムあたり、540calも必要になる。だから、気孔から水を蒸散させている木の下は涼しくなるし、髪を濡れたままにしておくと、風邪をひくことが多いんだよ。木の下が涼しいのは、そこが日陰だからって思っている人がほとんどで、その涼しさに水が絡んでいるとは、多くの人は考えてないだろう。

A:そういうのもいいんだよ。だけどね、僕は自然科学の知識は浅いし、本当に面白いことを語る自信はない。それ以上にね、水の面白さってそれだけじゃないと思うんだ。例えばさ、自然科学って、涙の成分の分析はできるかもしれないけど、涙を流している人の気持ちに対しては、何も言えないんじゃないのかな?

B:それは、そうだね。「気持ち」なんて客観的なものじゃないもの。 

A:そこが気になるんだよ。科学って客観的なものしか扱えないってことだよね。

B:そうだね。科学っていうのは基本的に誰が見ても同じ結果にならないといけないんだから。それでこそ、客観的科学っていうもんだろ。 

A:っていうことは、世界と人間はこんな関係になっているのかな?科学では。 

 

B:うーん、確かにそうなんじゃないかな。そうじゃなきゃ、客観的に世界を観察できないもの。もっとも、詳しいことは分からないけど、最近の量子力学なんかでは、不確定性原理とかいって、観察者と対象の関わりが決定的に重要らしいよ。まあ、それでも君の言う対象と、観察者の乖離は否定できないだろうね。

A:僕は、その点がすごく気になるんだよ。第一にね、客観的に扱えないものはどうするのか。別の言い方でいえば、客観的でないものが科学によって追いやられていないか。第二に、そもそも客観的世界なんて存在のか。 

B:ずいぶん、難かしい事を言うね。 

A:難しくはないさ。僕にしてみれば、科学的に考えることの方がよっぽど難しいね。

 

2.科学に対する疑問

 

科学の限界

 

A:じゃあ、例を挙げて説明していくよ。君も協力してくれ。水の特徴を適当に挙げてみてくれないか?

B:いいとも、じゃあ、水は一気圧では、沸点100℃、融点0℃になるってことは? 

A:いいよ。それは、誰が見てもそうなるのかい? 

B:そうだね。 

A:じゃあ、涙という特別な水に対して、誰が見てもその涙を流している人の感情を観察して、同じ結果になるだろうか? 

B:それは、ならないでしょ。当たり前だね。 

A:じゃあ、君は科学が万能でないことを認めるかい? 

B:そうせざるを得ないね。科学は確かに、「感情」とかいったものは扱えないね。だから、「愛」を科学的に分析する人は、ホルモンの動きがどうとかは言えるかもしれないけど、結局のところ誰かを愛する感情そのものっていうのは語れないだろう。 

A:そう。だから、例えばね、愛する人を水難事故で失ったとき、僕らは「なぜ」って問うだろう。科学はそれにすぐに答えを用意できる。「酸素不足」とかね。でも、それは何も答えてないんだよ。その人にしてみればね。 

B:だって、科学が扱うのはあくまでHOWであって、WHYではないもの。どういったプロセスでその人がなくなったかは、科学の分野だけど、「なぜその人が死んでしまったのか」っていうのは、科学の分野ではないね。

 

普遍性と個々の事象

 

A:そのとおりだよ、それじゃ次の質問をするね。科学にとって水は常に一定なものなの?

B:周りの条件が変わらないで、純粋な水ならね。一定に決まってるさ。いや、むしろ一定でなければならないだろうね。観察対象が、ころころそれ自体で変ってしまったら理論なんて成り立たないからね。 

A:でもさ、この言い方には問題があるかもしれないけど、砂漠の中での水と蛇口をひねれば出てくる水と果たして同じなんだろうか?人間にとって。 

B:物質的には変わらないだろうね。 

A:でもね、君が砂漠を3日間水なしでさまよっていたとするよ。 

B:死にそうになっているだろうね。運が悪ければ死んでるさ。 

A:その時に、オアシスがあって、そこで見つけた水と、毎日の生活で無意識に使っている水と果たして同じだろうか。

B:違うような気もする。 

A:ほらね、だから僕が言いたいのは、科学は普遍性を求めなきゃいけない使命を持っているから、個々の事象のある部分が捨象されてしまうんだよ。 

B:つまり、普遍的な部分だけしか扱えないってことかい? 

A:そのとおり。普遍的であって、不変的であるものだね。すべては、常に同じ価値を持ってなければならない。一言で言えば、すべては等質的に扱われる。もう一つ分かりやすい例をあげよう。「絶対時間」と「絶対空間」って知っているかい? 

B:知らない。 

A:この用語は、ニュートンによるんだ。絶対時間とはね、「それ自体で、かつそれ自身の本性から、外界の事物とは何ら関係もなく一様に流れる」時間なんだ。つまり、僕らから完全に独立して、一定の速度で流れる、等質的な時間さ。絶対空間も似たようなもので、我々と完全に独立して存在する、全く等質的な空間だね。これが、科学の基礎的な尺度になっているんじゃないかい? 

B:うーん、相対性理論では、そういう絶対時間、絶対空間っていう概念は否定されるんだけどね。唯一絶対的なものは光の速度ってことになってしまうんだ。でもね、その絶対空間、絶対時間という概念は便利だよね、科学にとっては。だってさ、実験するときに、時間の流れがころころ変わってしまったら、時間の測定はできないし、空間が、かって気ままに変わってしまえば、長さも面積も体積も、何も測れなくなってしまう。 

A:でも、その概念は僕らの日常生活を考えただけで、何か変な感じがしないかい?まず、時間は一定の速度で流れるってことだけど、僕らにとってそんなことがあるわけがない。恋人と過ごす時間と、面白くない講義を聞いている時間が一定に流れるかい? 

B:そんなわけはないよ。楽しい時間は早く流れるし、つまらない時間は遅く感じられる。当たり前だね。 

A:そう。それに、今君は「楽しい時間」、「つまらない時間」と言ったよね。つまり、時間にも質があるんだよ。その場その場の意味っていうものが。ぶらぶらして過ごしている時間と、やりたいことにうちこんでいる時間では、やっぱり質が違うだろう。時間は等質的ではありえないはずなんだ。空間にしても同じさ。

B:空間の意味かぁ。君の言い方で言えば、恋人と共有する空間と、一人で寂しく過ごしている空間の違いがあるってことだよね? 

A:その通りだね。 

B:でもさ、君の言っていることって、人間の「感じかた」でしょ?時間や空間はあくまでも一定で、人間の感じ方でそれが変わるって考えられないの? 

A:いいポイントだね。ここで、哲学的に時間や空間を議論する時間はないけど、僕の考え方では、時間、空間は等質的ではありえないね。まずね、百歩譲って、等質的空間や時間があるとしよう。でも、それが体験されるのはあくまで科学の場においてだけだよ。日常生活ではほとんど常に、時間、空間は意味を持って僕らに迫ってくる。そうじゃないかい? 

B:それは、そのとおりだね。 

A:それに、僕は人間に独立して存在する空間、時間があるとは思えない。そんなものは、一体どこに存在するんだい?逆に言えば、時間に独立して僕ら人間が存在できると思うかい?時間、空間って人間が生きる為に生み出した尺度だと思うんだ。人間を離れて存在する時間、空間はないと思うよ。 

B:なんだか、難しい話になってきたね。

A:とにかくね、絶対空間、絶対時間っていうのは、科学が生み出した都合の良い尺度なんだよ。普遍性を求める科学は、等質的な尺度が必要だからね。でもね、それによって、ないがしろにされる大事な部分もあるってことだよ。それは、その場その場の重要性、難しく言えば、「トポス」であり、個々の重要性だよ。だからね、「水」で言えば、物質的な「水」に付属する、その場その場の意味みたいなものだよ。やっぱり、運動後の水とか、砂漠での水には特別な意味があるだろう。

 

客観世界

 

A:さっきの世界と人間の話しに戻ろう。君は世界は人間から独立しているって言ったよね。 

B:だって、そうじゃないか。君は僕とは違う存在だし、自然は君とも僕とも違う存在だ。言ってみれば、みんな「他人」なんだよ。それが、科学に限らず一般的な考え方なんじゃないのかな? 

A:そうでもないと思うよ。それは、近代科学に毒された見方だね。実際、僕らは周りのもの全てと連関を成しながら、生きているんだ。 

B:連関? 

A:関わりつつ、関わられているってことさ。こんな喩えはどうかな。ハンマーってそれ自体としてハンマーなのかな?

B:ハンマーはハンマーでしょ。 

A:いや、そうじゃないね。ハンマーは打ちつけられるもの、例えば釘があってこそハンマーじゃないか。釘がなければ、ハンマーはハンマーではいられないはずだよ。同じように、釘は何かと何かをつなげるものだから、それらがなければ釘は釘ではないはずだ。だからね、存在って独立してあるものじゃなくて、周りとの関係によって成り立っているんじゃないか?その関係は、複雑に絡み合っていて、全体としては一つの輪をなしている。その輪は、人間も含めての話しだ。その輪の中でのみ、すべては意味を持って存在できるんだよ。さっき書いたみたいに、簡単に図で書いてみようか。            

B:わかったような、わからないようなだね。 

A:それじゃ、もう一つ喩えを出そうか。チェスはわかるよね。チェスは、まずボーンとかビショップとかの駒に独立した価値があって、そこからなんとなく発達したものではないよね。そうではなくて、駒はゲーム全体の文脈の中で意味を持っているのであって、ゲームを離れてしまえば、ただの飾り物になってしまうだろう。ボーンがなければ、ビショップとしての意味はなくなるし、ゲーム全体もまったく変わったものになってしまう。だから、ボーンは全体と関わりながら、他の駒とも関わって、始めて意味を持つんだ。それは、どの駒にも言えることさ。 

B:わかった気がする。それぞれバラバラに存在してるんじゃなくて、支え合って存在しているって言いたいんだね。 

A:そのとおりだよ。自然と人間も同じなんだ。自然も、今ある自然は人間がいなければ今ある自然ではなくなるわけだし、人間も自然がなくなれば、人間としていられなくなるはずなんだ。人間は自然の一部であって、ほかのすべての自然と関わりをなして生きている。人間が生きている世界ってそういうものなんだ。これが、連関を成しているってことだよ。だから、本当の世界って、科学が扱う世界と決定的に異なるはずなんだよね。

 

科学の責任・機械としての自然

 

A:次の議論に移っていいかい?僕が、自然科学の見方に対して、絶対的な信頼を置きたくないのは、それが、完全なものじゃないからっていうだけじゃなくて、それはある意味では危険な思想だって思うからなんだ。簡単に言ってしまえば、自然に対してどこまでも冷たいんだよね、科学は。それがね、現在の環境破壊の一つの原因になっていると思うんだよ。だから、その見方をもう一度、問いただしてみないと、いまの生態学的危機は解決しないと思うんだ。

B:どういうこと?科学が危険な思想っていうのは? 

A:それじゃあ、具体的に考えてみようよ。世界って機械だろうか? 

B:いやそんなことはないね。 

A:僕の言う「機械」ってね、「こうすれば、こうなるということが一義的に言えるもの」なんだ。これを必然的因果関係と呼ぼう。インプットとアウトプットが一対一になるものと言ってもいい。

 

この図みたいに、αを入れると必ずβが出てくるというようなものだね。科学では、こういう風に自然を見ていると思うよ。実験の性質を考えてみようよ。実験て何さ? 

B:人の手で自然現象を一定条件下で再現させ、その結果を確かめることだね。例えば、マイクロ波に水を当てると、温度が上がる。そこから、極性分子っていう、水の性質が浮かび上がってくる。

A:ほら、自然は機械みたいに扱われているじゃないか。「こうすれば、こうなる」ってね。マイクロ波を当てれば温度が上がるっていうのは、水にα(マイクロ波)っていうものを入れたらβ(温度上昇)が出て来ってことでしょ?さっきの図に重ね合わせればこういうことだ。                    

 

B:なるほどノ 

A:ラプラスの魔って知ってるかい?もしね、世界の構成要素とその運動状態を規定する条件がすべて分かる存在がいれば、それは過去、現在、未来すべてのことが分かるというんだ。これがラプラスの魔といわれるものだね。 

B:なるほど、機械の仕組みが分かってしまえば、機械がどう動いていて、これからどう動くかってことが分かるってわけだね。 

A:そういうことさ。自然を機械として扱ってなければ、こんな思想は出てこないだろう。でもね、さっきの連関の話しを思い出してくれ。実際の自然は、関係の絡み合いであって、必然的因果関係だけでは表わせられないはずだよ。 

B:でも、実際に表わせているじゃないか。 

A:そこが、科学のすごいところだよ。実際の自然からある部分を切り取って、つまりこの部分が君の言う「自然現象を一定条件下で再現」するってとこだね。それで、その関係を知る。全体から、ある一つの関係だけを切り取れるんだよ科学は。その自分たちが作り出した科学的世界の中では、確かに客観的であり、普遍的なんだろう。つまり、こういうことだよ。

 

実際の自然から、人為的に構築された「科学的世界」は、普遍的な法則が支配する、完全な客観的世界だ。科学的世界では、さっき言った絶対時間、絶対空間が支配していて、それが尺度となっている。それに、この世界では、すべては物質的な振る舞いに還元されてしまう。簡単に言えば、原子またはそれより小さい素粒子の動きかな。どんなものも、特有の「意味」なんていうのを持ってはいけないし、そのシステム、動きのメカニズムだけが注目される。さっき言った「機械」っていうのは、こういうことも意味している。科学は、この世界の動きを記述するのには、とても優れているんだ。

 

B:でも、どうであれ、科学が世界の振る舞いを記述することに成功したからこそ、科学は人間の進歩に貢献したんじゃないのかい?だって、「こうすればこうなる」っていうのがわかれば、「人為的にこうしてやればいい」ってことが分かるじゃないか。 

A:まさに、そのとおり。だから科学が強い力を持っているんだよ。まさに、近代科学の創設者の一人、F.ベーコンの言う通り、「知は力なり」だよね。 

B:何が問題なのさ。 

A:自然を機械と見なす見方そのものだよ。その仕組みを知って、それを自由に操れる。そんな思想が、今人類をどこに導いてきたか、言うまでもないだろう。「知が力」となって人間は自然に何をしてきたのさ。

 

数学化された自然

 

A:問題はもっとあるよ。君はさっき、水の沸点、融点の話しをしてくれたね。でも、なんでそれを数字で表わしたの? 

B:なにより、客観的だし、他の物質との数値的でしかも、客観的比較が可能となるからね。 

A:ほかに、何か数字で表わされるものはあるのかい? 

B:いっぱいあるね。たとえば、水素原子と水分子の結合角度104.5℃だし、さっきも言ったけど、水の蒸発熱は540cal/gだ。それに、水の密度が最高になるのは、4℃って表すし、氷の融解熱は80cal/gだね...ほんとだ、意識してみるとたくさん数字が出てくるもんだね。 

A:ほらね。自然は数字になってしまったようだ。フッサールという哲学者はね、これを「数学化された自然」と呼んだんだ。これを始めに行った人は、ガリレオその人だよ。フッサールはね、ガリレオのことを発見者でもあり、隠蔽者でもあるって言ったんだ。つまり、自然を計量化することで、客観的にはなり得たけど、同時に本来の自然を隠すことになったんだ。自然は決して数じゃないはずだよね。

 

自然をさいなむ科学

 

A:数学化された機械的自然に対して人間は冷たい態度をとることになった。さらに科学には、自然に対してある決定的に問題となるような態度をとるんだ。次の言葉を見てくれよ。これは、さっきも出てきた、F.ベーコンの言ったことだ。 

市民生活において、各自の知能および心や感情の隠れた動きは、人が困難のうちに置かれるときに、他の場合よりもよりよく引き出されるように、同じように自然の隠れたものも、そのコースをすすむときよりも、術策を使って自然をさいなむことによって、より大きく顕れるものなのである。              (「ノヴム・オルガヌム」I−98)

 

B:よくわかんないけど、どういうこと? 

A:例えばさ、水を人為的に加熱してみることによって、その性質を知るってことがあるでしょ。それっていうのは、水を普通の状態から人為的に変えてやることによって、水の性質を確かめているわけじゃないか。どんな実験にも、そういう面があると思うけどね。 

B:確かに、自然を自然のままにしておいたら分からないことはたくさんだね。特別な情況に人間の手でおいてあげる。そうすると見えてくるものがたくさんある。それこそ科学だね。でも、それが「自然をさいなんでいる」とは考えなかったな。

 

科学と技術が融合したとき

 

A:このように自然に冷たい科学が技術と結合することによって、自然をさいなむ科学・技術が生まれたんだろう。数値的に知ることができる機械としての自然を、自由にコントロールしてしまう。それが、今の生態学的危機をもたらしたといえるんじゃないかな。自然を他者として冷たく捉えているんだから、そこには思いやりが入り込む余地はないさ。科学にとって自然は「機械」であり、「数字」なんだよ。だからね、高校生に「水」について語れって言う時に、僕は科学的なことだけを語る気にはなれないんだ。 

B:そうか、じゃあ、君は科学が悪者だって言いたいのかい? 

A:そうとは言ってないさ。僕は科学の力は十分認めているし、これからも科学の力は必要となっていくことは間違いないと思うよ。ただ、科学の態度のなかに、自然に対する冷たい態度が見えるということは言えるんじゃないか?それに、科学は実際の自然を見失っているともね。さらに、今の人間の自然に対する接し方って、多かれ少なかれ、科学的でしょ。あくまで、自然は「他者」なんだ。だから、科学と違った「水」に対する見方っていうのも必要なんじゃないかな。科学のような冷たい視線だけじゃなくて、自分との関わりで捉えるような見方。大事なことだから繰り返すけど、科学は必要だよ。今の地球を救うためは科学の力は不可欠だ。ただ、それだけが、自然に対する見方じゃないってことを強調したいんだ。それに、現代の自然環境問題を考えれば、こういう態度を改めなきゃいけないはずなんだよ。 

B:科学自体に罪はないんじゃないかな。言ってみれば、科学は頭脳でしょ。頭脳だけでは、自然に対してなにもしないじゃないか。科学はあくまで、「知る」っていう営みのはずだ。 

A:君の言うとおりだ。科学は自然に対して、距離を置いた接し方をするけど、それ自体は自然を操る力は持っていない。言い換えれば、科学そのものには自然を破壊する力はあまりない。20世紀になって技術と結びついてから、自然を操る科学・技術が生まれたんだ。この点は、しっかり区別しなければならないね。君の言い方をすれば、科学は「頭脳」であって、技術が「実践」を司っているんだろうね。とにかく、科学・技術を駆使する人間の態度が問題だね。僕らは、科学と違った視点を、科学と同時に持たなきゃいけないんだ。 

B:例えば、どういうことさ? 

A:難しい問題だね。でも、人間との関わりを考えるためにまず、日本文化に目を向けていこうと思うんだ。

 

3.日本文化と水:生活に根付く水>

 

日本語における「水」と「自然」

 

A:僕が日本文化に目を向けるのは、どの文化でも水は生活に根づいているはずだけど、とりわけ日本ではそれが言えるんじゃないかと思ってね。さっきまでの科学が「水」を見る見方と違って、「水」を主体的に解釈することができるかなっと思って。

B:そうか、でも日本文化ってそんなに水と深く関わっているのかなあ。 

A:君はサピアとウォーフの仮説って知っているかい?まあ、簡単に言って、言語がその人の考え方に影響するってことなんだけど、それは今はそんなに重要じゃない。彼らは文化が言語の反映されているってことを暴いたんだ。つまり、単語レベルで言えば、生活に密着しているものほど、それを表わす単語が細かく分類されているんだよ。例えば、エスキモーの言語には雪を表わす単語が500以上もあるってことが言われているね。日本語でもさあ、「雨」を表わす単語がたくさんあると思わないかい? 

B:えーと、「雨」、「夕立」、「時雨」、「長雨」、「梅雨」... 

A:いいね、もっとあるよ。「春雨」、「なつしぐれ」、「驟雨(しゅうう)」、「秋雨」、「五月雨」、「夜雨(よさめ)」、「小雨」、「通り雨」、「にわか雨」、「雨足」、「雨宿り」、「雨だれ」...確かに多いでしょ。それに、「水」を題材とした諺みたいなのも多いよ。「水に流す」、「水の泡」、「水入らず」、「水入り」...

B:他にも、「魚心あれば水心あり」、「水をさす」、「水掛け論」、「我田引水」、「晴耕雨読」、「水も滴るいい男」(笑)...確かにいっぱいあるね。 

A:ほら、どれだけ「水」が生活に根づいているかわかるだろう。「雨宿り」なんていう単語は、僕ら普通に使っているけど、英語に訳そうとしたら、モtaking the shelter from the rainモなんて言わなきゃならないんだそうだ。もっと傑作なのが、「雨天順延」だね。これ英語でなんて言うか分かるかい? 

B:さー?特別な単語でもあるの? 

A:逆だよ。モto be postponed till the first fine day in case of rainモだってさ。日本語ではいかに「雨」っていうのが大事が分かるだろ。大事だったからこそ、これだけいろいろな単語が必要だったんだよ。それは、水が生活に根付いていた証拠でしょ。これは、科学が水に対して見る目とだいぶ違うんじゃないかな。それにね、日本人は決定的に科学と違う視点を持ってたんだよ。「自然」という言葉はね、日本にはなかったんだ。「自然」って中国から借りた語なんだよ。もちろん、日本人が住んでいる世界に「自然」がなかったわけじゃない。むしろ、「自然」は全てだったんだ。だから、ことさら人間と区別して「自然」というものが意識されることはなかった。人間は自然と一つだったんだ。もうひとつ大事な言葉を言うと、「できる」って言葉は「出で来る」から派生したらしいんだ。つまり、モ自然にモ出てくるんだよね。人間が自然に対して働きかけるんじゃなくて、自然が自然とそうなってくれる。それが、「できる」だったんだよ。こう考えると、だいぶ科学と違った見方がここに見られると思うんだけど。

 

生活と関わる水・芸術と水

 

A:それに、日本は稲作の国だった。もちろん、「水田」が米の栽培に使われている。今のアメリカなんかでは畑だけどね。もちろん米自体大切なものであって、日本と水の関係を語ってくれるけど、もう一つ水田に関して重要な側面がある。何だと思う? 

B:わからないね。日本文化の中で大事なものかい? 

A:そう、実は陶芸なんだ。陶芸ではね、一番良質の土は水田から取れるんだよ。畑だと大雨のときに、表土が洗い流されたり、乾燥した後に風が吹いたりすると、表土が吹き飛ばされてしまうんだけど、水田は周囲があぜで囲ってあるから、表土が失われることはないんだよ。それが、何十年と経つと、水田の下にはきめの細かい良質の土がたまるんだね。それは、日本の陶芸、とくに備前焼ではすごく重要なんだ。 

B:陶芸と水が結びついてるとは考えもしなかったね。 

A:それだけじゃなくて、水を題材とした日本の芸術も他に多くみられると思うよ。枯山水って知っているだろ。あれって、龍安寺のものが一番有名だけど、熊手で跡をつけた白砂で水の流れを表現しているんだよね。わざわざ、砂を使って水を表現するところが、水との深い関わりを示していると思うんだけど。それに、「獅子脅し」なんかも水を利用しているね。俳句、短歌にいたっては言うに及ばずだね。多分一番有名な俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」なんて、「水」がずばり出てくるもの。他にもね、日本料理だって、「水」を大事にしているよ。日本人の大好きな鍋っていうのは、水を使ってするものだろ。ご飯だって、水を使って炊くわけだ。しかもその前に、水を使って、とがなきゃならない。それに、「洗い」っていうのは、「水」を利用した料理だよね。魚の身を水につけると、身の細胞が水を吸って膨張する。それで、身がはじけたようになって、しゃっきりとした歯ごたえが生まれる。さらに、「水」の味が魚の身に加わって、魚の油っぽさを流してくれる。すばらしい「水」の利用法を持っていたものだよね、日本人は。こうやって「水」を「水」そのものとして利用した料理って他の国には、なかなかないんじゃないかな。もっとも、最近ではおいしい水が姿を消してしまっていて、おいしい洗いなんて食べられなくなっているって言うけど。 

B:そう考えると、環境と水っていうのは、考えなきゃいけない大事なトピックだね。 

A:もちろんだよ。おいしい水どころか、水自体僕らは、自由に手に入らなくなるかもしれないんだから。 

B:うーん、その話しは僕も聞いたことがあるね。このままだと、人口増加に比例して増える水の需要の増加が供給を上回ってしまうって話でしょ。「蛇口をひねれば、出てくる水」なんて言ってられなくなるよね。僕も、それは考えなきゃいけない大事な問題だと思うよ。 

A:まあ、そのためには、僕らの自然に対する根本的な態度を変えないとダメだろうね。とりあえず、日本料理と水の話しに戻ろうよ。僕は、まだまだ、水そのものを利用した日本料理があると思うんだけど。例えば、「流しそうめん」ね。これも、水が命でしょ。それにかき氷。アイスみたいに水にあんまり手を加えることなく、水の味を味わうんだから、やっぱり水そのものを利用しているよね。後ね、わさび。これは大事だよ。わさびは本当にきれいな水田でしか、育てられないんだ。こんな風に、日本料理だけ見てみるだけで、日本人と水の関わりが見えてくる気がするけどね。「水」を余計な手を加えることなく、「水」そのものとして利用するっていうことかな。 

B:確かに、そんなこと言われてみないと気づかないよね。だけど、料理だけなのかな。日本人が水と関わっていたのは。 

A:そんなことはないね。日本人の文化を良く見てみると、「水」は神聖なものだったみたいだよ。科学は水を物質としてしか扱わないけど、日本人は水に神聖さという意味を見出していたようだ。例えば、君はお墓参りに行ったら、お墓に水をかけるだろう。これは、清めの水ってことだよね。それに、神社のお清めには、榊の木に水をつけて振りかざすよね。同じように、滝に入って修行するってこともあるだろう。こういった習慣を考えてみると、まさに、水は聖なる物質だったんだよ。もっとも、今では形骸化している習慣がほとんどだけどノ 

B:なるほど、確かに形だけになってしまっている習慣だけど、よくよく考えてみると、「水」って僕らの習慣の中に入りこんでいるんだね。神聖な物質としての水かぁ。 

A:あっ、そういえば、誤解しないで欲しいけど、何も日本文化だけが水と深いつながりがあるって言ってるんじゃないよ。僕は個人的に、日本文化は水と特別深いつながりを持っていると思うけど、ともあれ、分かりやすくて、身近なものだから日本文化の話をしているんだ。水と関わらない文化なんてあるわけないからね。

 

八百万の神:アニミズムと機械論

 

A:とにかく、もう一つ自然と日本の話しをしていいかい?さっき、日本語のところでも言ったけど、自然は日本人にとってすべてだった。だから、至る所に神様がいたんだよ。 

B:八百万の神ってやつでしょ。知っているよ。君の言う「機械としての自然」とだいぶ違うね。 

A:そのとおり、自然は機械どころか、神様だったんだよ。近年アニミズムに注目する哲学者も増えてきているんだよ。アニミズムは恐れを伴った自然に対する共感から生まれたって言われている。科学が自然に対してとっている態度と全く逆だよね。科学は突き放して、支配しようとするんだから。とにかく、日本の神々の話しに戻ろう。もちろん、その中に「水」の神様もいた。それはね、水の大事な側面をあらわしていると思うんだ。伝説によればね、水の神様は「闇御津羽(くらみつは)」と「闇淤加美(くらおかみ)」っていう双子の竜神だったと言われている。二人は、水を自在に操る力を持っていることから、五穀豊穣の神だったんだけど、その反面洪水や大雨で人を苦しめる荒ぶる神でもあったんだ。 

B:なんだか、矛盾した側面を持っているようだけど。守り神でもあり、同時に荒ぶる神でもあったなんて。 

A:でもね、「水」ってよく考えれば、そういうものだよ。僕はね、水っていうのは両親みたいなものだと思うんだ。母としての優しさと、父としての厳しさ。それを、昔の日本人はまさに、言い当てているんじゃないかな。

 

4.水の二面性

 

母としての水:癒しの水

 

B:母としての水か。確かに水は疲れを癒してくれる面があるような気がするね。僕はお風呂が大好きだけど、お風呂って一日の疲れを取って、明日への活力をくれるような気がする。それだけじゃなくて、朝風呂もいいよね。ぱっちり目を覚ましてくれて、これから一日がんばるぞって思えるからね。 

A:そう、お風呂って習慣は、古代ローマ時代からあったんだよ。そんな昔から、人間の生活に関わっていたってことは驚きだよね。それにね、ほんとに身近なことだけど、水の流れる音や、雨の音って落ち着かないか?あまりに身近にある音だから気づかないかもしれないけど、一度耳を済ましてごらん。何かしら感じるものがあると思うよ。 

B:うん、分かるよ。夜勉強で疲れているときとか、雨の音が聞こえると、なんだか休まる気がするもんね。とっても、やさしい音だ。

A:水の癒しの力って、もちろん音だけじゃない。例えば、「涙」ってすごい癒しの水だよね。カタルシスとしての水と言ってもいい。どんなに嫌なことも、辛いことも、涙は僕らを癒してくれる。ほら、よく「泣き疲れて寝てしまう」っていうけど、悲しいときに僕らを寝かせて、休ませてくれるなんて、なんてすばらしい水だろうって思わないかい?それに、嬉しいとき、感動したときに流す涙もある。すごく象徴的だよね。僕の個人的意見だけど、人間ってね、たぶん絶対的なやさしさに包まれたときって泣くしかないんだよ。それは、感動の涙であり、喜びの涙であり、もっとも尊い涙なんだと思うよ。 

B:うん、ちょっと難しいけど分かるような気もする。それに僕らは笑いすぎても涙が出てくるね。「涙が出るほど笑う」って(笑)。 

A:そう。涙は僕らの感情そのものって言ってもいいんじゃないかな。それに、別の水として「雨」も大事だよ。僕はね、「雨」って神の僕らに与えた休息のような気がするんだよ。 

B:神だって!そんなのいるわけないじゃないか。非科学的だよ。 

A:また、がちがちに考えるね、君は。科学の性質について、いままで散々議論してきたじゃないか。それに、非科学的なものは存在しないって言うなら、君は「愛」も「悲しみ」も存在しないというのかい?僕だって、キリスト教徒でもないし、「神」の存在をまったく信じてるわけじゃないさ。でもね、僕は「水」って与えられたものだと思うんだよ。誰からかは分からない。でもね、水って命そのものじゃないか。この奇跡的とも言える物質は、誰か僕らの想像を超える何かが、生物のために与えてくれたんじゃないかなって。だから、「雨」もその「何か」が「雨の日ぐらい休みなさい」って言ってるようにも思えるんだよね。しかも、やさしくね。現代人は忙しくてこんなこと考えないけど、「晴耕雨読」ってそういうことを言ってるって解釈してもいいんじゃないかな。 

B:そう考えると、そうかもしれない。それに、雨って確かに、色々なものを流してくれる気がする。嫌なこととか、辛いこと、それを流してくれるってことは、やっぱり「水」は癒しの水なのかな。あーそう言えば、湿気ってインフルエンザが広まるのを防いでくれるんだよね。そういう意味でも、水は僕らを守ってくれているんだ。 

A:へー、そうなんだ、どんどん出てくるね。さらにね、最も象徴的なのが「羊水」だと思うよ。人間は母親の体内で「羊水」やさしく包まれている。人間はこの時が一番幸せだって考える哲学者もいるんだよ。 

B:なるほどね。人生は辛いことも多いし、母親の体内で「水」に包まれているって、すごく幸せな時期だね。そう考えると、たしかに「水」って癒しそのものかもね。なにより、すべての生命は海水から生まれたんだから、水はすべての生みの親だもんね。根源的に考えれば、水は僕らの母親みたいなもんだっていうのは当たり前のことなのかもしれない。

 

父としての水:水の厳しさ、力

 

A:ただ、それだけじゃない。水って時として人間に厳しさをもってせまることもある。ドイツではライン川のことを「父なる川ライン」と呼ぶんだ。ヘルダーリンもベートーベンもライン川のことを、歌っている。川は人間を育むと同時に厳しい側面を見せる。自然の怖さを教えてくれると言ってもいいかな。科学は自然をコントロールできると信じてきた。でも、実際はそうじゃないってことを川は教えてくれる。僕の一番好きなドイツ民謡はローレライって言うんだけどね、これはライン川の話しなんだ。 

B:知っているよ。水夫がライン川の岸壁、ローレライに座っている美女に魅了されて、そのまま、波に飲まれて死んでしまう話しでしょ。 

A:そう、それはね、結局は自然には勝てない人間の運命が歌われているんだと思う。ライン川は人間に支配されうる存在じゃないんだよ。中国でも一緒さ。黄河は龍と呼ばれながら、恐れられていたんだ。一度洪水が起これば、人間の作ったものなんてすべて流されてしまう。こういう厳しさを「水」は持っているんだよ。水の力っていうのも大事なことだ。 

B:うん。水力発電なんて水の力が大きいからこそできることだもんね。 

A:そう、水力発電の場合、水は人間に恩恵を与えてくれる。だけど、恩恵だけじゃない。水のすさまじい力は時に人間に脅威として迫る。それは、例えば洪水だ。人間の築きあげたものを、ことごとく破壊してしまうような力を持っている。形は変わるけど、雪崩も自然の厳しさを教えてくれるね。吹雪だって、人を死に至らしめるには十分な脅威を持っているだろう。さらに、氷っていう形では「つらら」も怖い存在ではあるよね。窓なんか平気で突き破ってしまうんだろ。さらに形を変えて、「霧」となれば、人を惑わせたり、迷わせたりする、ある種神秘的な水になる。こうやって、洪水、雪崩、吹雪、つらら、霧っていうように、変化自在に形を変えて人間を脅かすものもそうそうないと思わないかい? 

B:もちろん、水の力ってすごいと思うよ。ちょっと、科学のほうから言わせてもらっていいかい?

A:なんだか遠慮しているみたいだね(笑)。誤解しないでくれ。僕は科学を否定しているわけじゃないよ。科学の知見はこれからも絶対必要になるって言ったじゃないか。 

B:それならいいんだ。あのね、水に溶かせない物質はないんだ。水はなんでも溶かしてしまう、すごい力を持っているんだよ。それに、溶解作用だけじゃなくて、浸食作用もそうだね。水の削る力って想像以上のものだよ。それに、水はそれ自体で、人を殺してしまうことがあるからね。つまり、溺死ってことだね。人間は水の中では生きられない。 

A:なるほどね。そういう「水」の脅威って、「水」の厳しさじゃないかな。「優しさ」と「厳しさ」。まさに親そのものじゃないか。

 

5.生命としての水

 

A:それだけじゃなくて、「水」って命そのものだよね。実はね、最近すごく近しい人が亡くなったんだ。告別式の最後のお別れの時、その人の体に触ったら、「水」が失われている気がした。まさに、「水」は「命」だと思ったよ。それにね、人間が朝起きてまず欲するものって水でしょ。それは、水がいかに人間にとって大事か知らせてくれているんじゃないかな。 

B:確かに、水は生命活動から考えても、決定的に大事なものであって、なければ死に至るものだね。第一、人間の体の70パーセントは水なわけだし、それに水のさまざまな特性がなかったら、僕らは生きていられないんだから。さっきも言ったけど、水は溶解能力がすごく高くて、全てを溶かす。それは、栄養運搬にも役立っているんだ。水の毛細管現象がなければ、体の末端まで、血液や体液が流れないかもしれない。それに地球自体も「水」なしでは生きられないものなんだよ。雲は地球をやさしく包んで温度を一定にしてくれる毛布みたいなもので。それは、水の温度が変わりにくいっていう性質からきてるんだよ。 

A:汗っていうのも大事でしょ。 

B:その通りだね。汗の蒸発熱がなければ、人間は体温を一定に保つことはできない。こういう風に考えれば、汗も特別な水ってことになるのかな。 

A:そうでしょ。水は、僕らの生命そのものだ。僕はね、水を「無色、無味、無臭」という人にこう言いたいんだ。それは価値ある無だと。もしね、「無」でなかったら全ての人に受け入れられるだろうか。もし、水に味がついていたら、それを嫌いな人は生きられないことになってしまうじゃないか。西欧のロゴス中心主義では「あること」に「ないこと」よりも価値が置かれる。「ある」ということは果たしていいことなんだろうか?「ないこと」の方がよっぽど価値があるんじゃないかな。「無」になることって人間なんかには絶対にできない芸当さ。 

B:なるほど。本当に君の考え方は面白いよ。話していて、僕の知らなかったようなものの見方をしているからね。僕はこれからも科学を学んでいくつもりりだけど、君と話したことは心にとめていくことにするよ。 

A:こちらこそ、楽しかったよ。君と話せて良かったね。おかげで考えもまとまったし。もし、高校生に「水」について語るとしたら、いままで君と話したようなことを話すつもりだ。 

B:がんばってね。健闘を祈っているよ。

 

参考文献

本稿の性格上、細かい出典を逐一記すことはしないが、以下の書は本文の助けにさせてもらった。本文から明らかなものは別にして、参考にした部分を簡単に記しておく。科学哲学の大部分は、中村(1977,1992)、村上(1986)に負うところが大きい。また、絶対時間、絶対空間、ガリレオの功罪については、岡崎他「西洋哲学史」の第3部「近代哲学」(杉田担当)から示唆を得た。技術と科学の関わりに関しては村上(1994)、相対性理論、量子力学についてはHawkingをそれぞれ参考にした。アニミズムに関しては、牧野第15章「日本語とアニミズム」を、日本語の語彙における「雨」の占める位置に関しては、金田一第4章「日本語の語彙」を参照されたい。なお、チェスの喩えに関しては、ソシュールの喩えを使用した。ただし、彼の喩えは言語のためのもので、連関の説明のために用いたのは、筆者の考えからである。連関に関しては、今日に至るまでさまざまな人たちがいろいろな形で議論してきた。「我−汝」の関係を説いた宗教学者M.ブーバー、哲学者ではハイデッガー、オルテガや「間柄存在」を説いた和辻 哲郎、社会学の分野では、ジンメルなどがあげられる。

 

B.Lウォーフ   「言語・思考・現実」、池上 嘉彦訳 講談社学術文庫 (1993)
岡崎 文明他  「西洋哲学史―理性の運命と可能性―」 昭和堂 (1994) 
金田一 春彦  「日本語の特質」 NHKブックス (1991)
国立国語研究所 「分類語彙表」秀英出版 (1964)
Saussure de Ferdinand. メThe Course in General Linguisticsモ. Trans. Baskin, Wade.
Ed. Bally, Charles and Sechehaye, Albert. New York; McGraw-Hill Book
Company  (1966)
高橋 義人   「ドイツ人の心」岩波新書 (1993)
中村 雄二郎  「哲学の現在」 岩波新書 (1977)
中村 雄二郎  「臨床の知とは何か」岩波新書(1992)
E.フッサール 「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」、細谷 恒夫、木田 元訳
    中央公論社(1974)
F.ベーコン  「ノヴム・オルガヌム」、桂 寿一訳 岩波文庫(1978)
Hawking, W. Steven メA Brief History of Time,モ New York: Bantam Books (1988)
牧野 成一   「ウチとソトの言語文化学」 NAFL選書 アルク (1996)
村上 陽一郎  「近代科学を超えて」 講談社学術文庫 (1986)
村上 陽一郎  「文明の中の科学」青土社(1994)

 


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