ウォーター・ゴッド

061757 梅田恵美

「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ」とあなたは言いましたね。しかしあなたは水の驚異を知らないと思います。無味でありながら何でも溶かしてしまい、味をどんどん変えていく。無色透明でありながらその清浄さに魅了された人も少なくない。液体、固体、蒸気と形を自由自在に変え、個体になると重量は液体より軽くなる。固体が浮くなんてどこでもありえるとお思いでしょう。しかしロウにしろ、他の物質にしろ、これはありえないことなのです。表面張力、毛細現象、体積を増やしたがる性質、恐るべき秘めた力、語り始めたら終わらない。しかし私が今日皆様にお話したいことはそれとは違った水の「信仰の面」についてです。

神と水、一見何も結びつきもないと思われがちですが、実はどの宗教であろうと「水」はとてつもなく大事な役割を果たしているのです。例えばヒンズー教の神聖な場所の特徴として全部水が共存しているということです。一番有名はガンジス川の「ガンジス」は成長、富、と豊富さを意味し、その水は小さい入れ物の中に汲まれ、各地へと運ばれ儀式などに使われるのです。

仏教のお葬式では水を器の中に注がれ、お坊さんと遺体の前に置かれます。段々あふれて海と混合します。この儀式の中で水はこの世と愛するものがいるあの世との唯一のつながりなのです。この世から与えるものもあの世へ届くようにと願いがこもっているのです。チベットではもらった捧げ物と引き換えに器に入った水を持ってきます。これは飲料、足を洗う為、花、御香、光、香水と食べ物の為の水を象徴しています。水で口や顔を洗うと申し出ることはめでたいことなのです。水で足を洗うと申し出るということは浄化を意味し、透明な水の中にインセンスかビャクダンを混ぜ、啓発された方の足を洗い、私たちのネガティブ・カルマを洗い流すことができるのです。仏教の教えの中で「器の形で水の形が規制されるのではなく、本来水は四角や丸にこだわらない性質を有する。だから、こだわりを捨てることが大切である」とある。もうひとつの教えの中で海は静かで澄んでいるときは全て形や色があるものは見えるが、波が立った状態になると急に見えなくなるといわれる。でも前者のときも後者のときも同じ水面であることを知るのが悟りの境地である。このように随時変化し続ける水の表面のように人間の心の中も変化し続けるので私達は相手を理解することが重要であると教えている。

シク教では夜明け前の時間を「the Ambrosia Hour」と呼び、この時間帯は祈りや黙想をし、精神をきれいにするのです。この「Sadhana」という儀式は冷たいシャワーで始まり、血行を刺激するのです。シク教の元祖リーダーのグル・ナンアクは三日間川で入浴していたとき「神の法廷」に連れて行かれ神の名を賛美しなさいと言われたのです。水から出たナンアクは「神はヒンズーでもムスリムでもなく、One Universal Creator Godであることを表明した。シク教で一番有名なお寺は「Hari Mandar Sahib」(通称:ゴールデン・テンプル)で、その周りに大きな水溜り(とはいっても巨大な水溜りであるが)があり、その水は癒しの力を秘めていると信じられている。

イスラム教では水は豊富を意味します。イスラムの楽園ではリフレッシングな水があると考えられているのです。ムスリムにとって水は「清浄」を象徴しています。イスラム教の盛んなエジプトでは随所に水瓶が置いてあり、気軽に喉の渇きを癒すことができる。カイロ市内では一千ヶ所以上のモスクがあるのです。モスクに入る前、祈りの前、そしてコーランを読む前に掃除の儀式がおこなわれます。流れている水でなければいけなく、手、腕、顔、足、頭の1/4が祈りの前に洗われます。会衆が集まりそうなところには給水施設が備え付けられている。手洗い所や便所も複数あり、神殿に入る前に身を清めることの必要さを物語っている。じつはここの便器はウオッシュレットの元祖があり、本当に隅々まできれいでいなければいけないことがわかるのです。

では神道はどうだろう。神社へ入る前に禊祓(みそぎはらい)をし、口を清めるのである。この宗教は多神教であり、山、川、水、岩、木、の中で霊がやとっていると信じられ、大事に拝まれてきたのです。

ここでもっとも注目したい宗教は私が信じているキリスト教であるのです。聖書で「水」を探索したところたくさん箇所が出てきた。最初は創世記で「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」その後神は大空を創り、「大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。」ここで注目したいのは二点です。第一は聖書によるとなんと光の前に水が創られていたのです。光は生きる中で一番大事だとも言えるのに神はそれを水の後で創った。これで水の大切さ、偉大さが分かる。第二に言いたいことはその水を二つに分けたことである。私達は生きていて空の上にある水を忘れがちです。雲も簡単に言えば水だし、それがなければ地球の水の循環が成り立たない。創世記ではもう一つ水の顔を見せる。それはノアの時代の大洪水であるのです。雨は四十日四十夜降り続け、人類をはじめ地球を全滅させた(「こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼と一緒に箱舟にいた者達だけが残った。」Gen-7:23)そして地は十ヶ月以上見えなくなった。

キリスト教で大事とされる儀式のひとつはやはりバプテスマです。これは汚れを洗い流すだけでなく、信仰の精神の生き返らせるのです。もっとも一般なバプテスマは幼児にするもので、キリスト教によるとバプテスマを通して人間の罪を打ち勝つことができるのです。聖書の中で有名なバプティストはJohn the Baptistです。彼は川で人々の罪を許し洗礼を授けた。しかし彼は「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です・・・その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります(Matt:3:11)」と予言していて、イエスがバプテスマを受けに来た時、「天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった(Matt:3:16)」のです。このように水は清めのパワーが秘めているのです。

聖書の中で水はもう一つの役割をしています。それは「信仰に対するテスト」です。これは何を意味するかと言うと、例えばこのような話があります。ペテロはイエスに「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。(Matt:14:28)」と言うのです。そこでペテロは水の上で歩き始めました。しかし、「風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫びだし、『主よ。助けてください。』と言った(Matt:14:30)」のです。そしてイエスはペテロを助け、言われたのです。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。(Matt:14:31)」もうひとつの例はイエスと弟子の間で起きた出来事です。彼らは舟の上に乗っていたのだが波が立て始め舟は水でいっぱいになったのです。弟子達は恐くなり、すやすや寝ているイエスに「先生。私達がおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。(Mark:4:38)」と言った。するとイエスは起き上がり、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。(Mark:4:40)」といわれたのです。イエスは言われました。私達の信仰は洪水などが押し寄せても崩れることのない「丈夫な家」のようでなければいけません。信仰の強さを見抜くには不安定な水、命をも奪う水だからできるのです。これは水ならではの性質を効果的に生かした例ではないでしょうか。

 

「万物の根源は水である」とターレスが言ったように、水は私達の日常、信仰生活の中で切って離せないなかなのです。対立し合うばかりの宗教らが唯一同意するのはやはり「水は偉大」であるということです。水は生と死、どちらとも左右できる性質を持っているし、だからこそ恐れと畏敬が入り混じった感情が生まれるのです。ここで気付いた点がひとつあります。水は形を三つあると最初に言いましたが、これがなぜかキリスト教で信じられている「三位一体」と似ているような気がしてなりません。やはり水は神に一番近い物質なのかもしれません。ここで最後にまた聖書からの引用を使い終わりたいと思います。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、私[イエス]が与える水を飲むものは決して渇かない。」私は信仰という水を命いっぱい飲み干し、周りに染み渡るように伝え続けたいです。ありがとうございました。

 


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