日本の水再考

 

「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ」

日本では水は確かにありふれた存在であるかもしれない。水道の蛇口をひねれば簡単に安全な水を得ることができ、その生活が当たり前のようになっている。もし災害などによって、現在当たり前のように使えている水道の蛇口から水が出てこなくなったらどうだろう。とても不便に感じるだろう。しかし、世界の中には安全な水を得ることが難しく、のどの渇きを癒すことにも苦労し、水を尊いものとして大切に使う地域もある。日本では当たり前のように使われてしまう水であるが、世界に目を向けたとき、日本人はもっと水に関心を持ったほうがよいといえるのではないだろうか。今回は水の存在を考え直す機会にしたいと思う。

まず、人間の体について考えてみよう。人間の体はその約70%が水からできているという。もしも水がなければわれわれ人間はしおれた体になってしまう。しかしそもそも水以外の30%があるからといってその残りの構成要素だけで人間の体が形作られることはないだろう。あなたは一日のうちに水をどのくらい飲むだろうか。のどの渇きを癒すために水を飲む、といってしまえば簡単なことであるが、水を飲むということは体が水分を求めている、ということになる。もしも水を飲まなければ命にかかわる問題にもなりうるのだ。確かに水は無味、無臭、無色透明で普通に考えたら目だった特徴もなくありがたみを感じることは少ないかもしれない。しかし人間の体において、水は大変重要な要素なのである。また水は人間とその他の生物をつなぐ役割をしているといえる。人間はほかの生物、植物を育て、それらを食べて生きていく糧とするが、水がなければそれらの食物を口にすることもできない。人間は水によって命を支えていくための食料を得ているのだ。人間が口にする生物、植物は人間と同様、水によって命を支えられている。水がなければ食料の元となる植物や、生物はしない。人間自身も水によって支えられているが、人間が口にする食物も水によって支えられている。人間は直接的にも間接的にも水によって命を支えられている、ということができるだろう。

人間は当たり前のように地球に暮らしているが、もともと人間が存在している地球というものは何なのだろうか。地球はちりとガスによって成立したというが、そこに奇跡のような偶然によって水がうまれた。この水があらゆる生命の源となり、今の地球が存在している。もしもその偶然によって水が誕生しなかったら現在ある地球の姿ではなかっただろう。確かに水は無色透明であるが、水が海のように大量に集まるとそれはきれいな青い色としてわれわれの前に存在することになる。宇宙から見ると大気に包まれた青い地球を見ることができる。水が存在し、その水によって作られている海が70%をしめるのだから地球が青く見えるのは当然かもしれないが、宇宙から見られる青い地球は生命が充実していて、それぞれが生き生きと暮らしている象徴のように思われる。もしも地球に水が存在しなければ地球は茶色い星だったのであろうか。そこには生命の存在もなく、生き生きとした印象を受けることはなかったであろう。現在存在する地球の姿が成立したこと。それは単なる出来事のように思われるかもしれないが、奇跡のようであるが、起こるべくして起こった偶然なのかもしれない。

水は常に一定の量で地球上に存在する。地球の中を大きなサイクルで循環しているのだ。これは当たり前なことのように感じられるが、水の持つ特徴によってできうることであるといえる。生活で使われた水や、山に蓄えられた水が川を流れ、海にたどり着く。そこから蒸発して雲となり、雨として乾いた大地を潤す。水は気体、液体、固体の3つの状態で存在する。水が地球を循環し、常に一定の量で地球上に存在するにはこの三態のうち、ひとつも欠かすことができないのである。

森林は緑のダムと呼ばれることがある。森林にはたくさんの木が存在し、そのなかで数多くの生物が生活している。前にも述べたように水は植物、生物の命を支えている。森林はその命を支えている水を蓄えるダムなのである。森林は水によって支えられているが、逆に水を支えることにもなっているのである。大雨が降ったときには大量の水を山に蓄え、大地が乾いているときにはその蓄えた水を放出する。森林と水の関係は複雑なようだが互いに支えあった存在であるといえる。

われわれ人間の社会は日々忙しくなっている。また、大都市では環境が整備され、緑の生い茂った木や静かに流れていく清流を見ることができなくなってしまっている。昔の日本では当たり前のように身近に存在した豊かな自然がなくなってきてしまっているのは悲しいことである。しかし忙しい日々の中で、つい心の安らぎや休息を忘れてしまいがちな現代人に水が都会の公園の中で癒しの効果を発揮しているといえる。噴水である。水はその流れと音とで人間の心を癒す性質を持っていると思う。最近まで噴水はただオブジェのようなものであると考えており、役立つとしても子供がその周辺で遊ぶくらいだろう、と思っていた。しかし、野川に行ききれいな水の流れを見て、さらに昼休みを公園の噴水で過ごすサラリーマンなどの姿を見ていると、水に癒しの効果があることを発見し、都会の中での癒しとしての水に気づいた。

われわれは水が何の特徴もなくありふれたものだ、と考えてしまうほど水に対してありがたみを失っている。日本の生活において水は当たり前の存在であり、普段生活しているとその水への関心が薄れてしまいがちである。しかし世界での現状を考えると、われわれ日本人の生活はとても恵まれたものであり水が身近にあるということに感謝するべきではないのか、ということに気づかされる。水にはさまざまな特徴があり、それによって現在の地球が成り立っている。地球の誕生は奇跡的なものであり、そこに水が誕生したことによって今存在する地球が成立することになった。環境の整備によって自然の中に存在する水に触れる機会が少なくなってしまっている。水道の蛇口をひねれば水が出てくるのは便利なことである。しかしそれによって水の本来のすがた、ありがたみを忘れてしまうのは問題があるのではないだろうか。水がありふれたものだ、といってしまう時点でそれはすでに人間が自分勝手な行動によって水の存在価値を忘れてしまっている、ということを表しているといえるのではないだろうか。都会では緑に囲まれた川や湖などに触れられる機会はほとんどない。そして環境整備という名のもとで環境破壊も進められている。便利になっていく現代社会では同時に失われていく自然もある。地球上に暮らすのは人間だけでない。さまざまな生物、植物がともに共存するために、人間はこれからもっと水に関心を寄せて生活していかなければならない。水に関心を寄せ存在価値を考え直すこと、それは環境保護にもつながっていくといえるだろう。


▲レポート一覧に戻る

▲元(講義資料)へ戻る