〜水、ありふれた奇跡〜

051519 高橋 佑輔

 

事実、水はありふれている・・・ 

「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ。」このように考えている高校生がいるというのは、もっともな話である。事実、水はありふれている。水道の蛇口をひねれば水は自然と出てくるし、歯磨き、顔洗い、皿洗い、髪のセット、手洗い、花の水やり、トイレ、洗濯、風呂、というように、わたしたちにとって欠かせない毎日の日課は当たり前のように水が関わっている。目を外に向ければ、雨は降る、雪も降る、池があり、湖があり、川があり、海がある。生まれてから水に触れない日がない我々にとって、水が特殊な存在であると思うことの方が、むしろ異常なのかもしれない。仮に水が異常なものであるとしても、これだけ毎日、水に触れていると、その異常が通常になってしまうのは、自然の摂理というものである。水はもはや化学物質であることも忘れられ、化学の実験で使われるあらゆる液体とは、同列に並べることにすら若干の抵抗を感じる人は少なくない。しかしながら、水もそれらの液体同様、H2Oという化学式を持った立派な化学物質である。ではなぜこの“H2O”という物質だけが、世の中の多種多様な物質の中で唯一、ひいきされているのであろうか。このように考えると、少しだけ、今まで日常的で当たり前だと思っていた事象に、疑問が沸いてはこないだろうか。水という化学物質は、なぜこんなにも私たちを取り巻いているのだろうか。実は自分自身も、この授業を受けるまでは、何の疑問もなく、水に触れていた人間の一人である。「なぜ水がこんなに日常にあふれているか」そんな着眼点は、自分の中には存在しなかった。この素朴な疑問に対し、授業では、いくつかのヒントが与えられた。それは実に多角的であり、水という存在の、人間界に対する貢献、そしてその関係の広さが思い知らされた。水は事実、ありふれている。わたしは逆に、それがなぜありふれているのかを説明することによって、水の貴重さ、特殊さを伝えたいと思う。それを理解するために与えられるべき視点は、次の通りである。(1)日常生活と水(2)科学の世界と水(3)戦争と水(4)心と水、以上の4項目より、水の水たる由縁を説明したいと思う。水はありふれている。しかしそれが示す意味は単純ではない。

 

(1)日常生活と水

 水が身近な存在であることは上述した。そして誰もが実感することであろう。では具体的に、我々はどのくらいの水を使用しているのだろうか。日本人は、1日で2兆5千万リットルの水を消費している。これはアメリカ合衆国の14兆4千万リットルに続いて世界第2位である・・・と書いてもピンとはこないだろう。これを一人分に換算すると日本人は1日2530リットルもの水を消費していることになる。牛乳パック2530本分である。そんなに水を使っているのかと疑問に思う人もいるだろう。しかし水は、我々の知らないところで使われているのだ。ここで示す値は、一般的な家庭用品についてその一年分を製造するのにどれくらいの水を消費するかを示したものである。

 

品目

条件

水の年間使用量(P)

1日当たり換算(P)

ガソリン

週22P

22500

62

プラスチック

週1kg

85000

233

飲料用の缶

1日1缶

110000

301

タイヤ

年4本

160000

438

新聞紙

1日1紙

250000

685

自動車

年1台

450000

1233

缶1個つくるのに301リットル、新聞1部をつくるのに685リットル、車1台つくるのには1233リットルもの水が使われているのである。これには驚かれた人も多いのではないだろうか。日本人が1日2000リットル以上もの水を消費しているという事実は、これによって納得していただけたと思う。

次に、目に見える水の使用量について。家庭にたどりついた水の行方を調べると、次のようになる。27%が風呂、24%がトイレ、17%が洗濯、14%が皿洗い、飲用と調理が10%、その他が8%である。これを我が家(2人暮らし)の先月、先々月の水道使用量に当てはめると以下のようになる。

P(2ヶ月分)

P(1日分)

風呂

2295

39

トイレ

2040

34

洗濯

1445

24

皿洗い

1190

20

飲料と調理

850

14

その他

680

11

これは先月、先々月の我が家の水道使用量17G(17000P:1P=1立方デシメートルより、1G=1000立方デシメートル=1000リットル)を基に計算したもので、合計を2で割って1人分としている。どれだけ多くの水が使われているかが手に取るようにわかると思う。

このように、日常生活の中で我々は予想以上に大量の水を使用しているのである。ありふれていると思った水だが、実際は見えている部分よりも一層多く存在したのである。これは人間の体にもいえることである。成人男性(体重70kg)の水の1日の生理的必要量は、摂取量として食物(1000ml)、流動物(1200ml)、酸化(300ml)、排出量として尿(1400ml)、汗(600ml)、肺からの排出(300ml)、糞便(200ml)の計5000mlであるが、一般的に、実際人間の体はその70%が水でできているという。また、水はパンや石にも含まれており、我々の身の回りは、水だらけといって過言でない。水はなぜこのように、人間の生活にとって必要不可欠なものとなったのだろうか。そこには、水が持ついくつもの特殊性が関係している。水が人間にとって都合の良い物質で、深い付き合いとなるべき理由がそこにはあるのだ。次に、科学の目から、水を検証してみたいと思う。

 

(2)科学の世界と水

 

A. 水の特性と生体のとの関係

 水は、化学的には他の化学物質とは著しく違う特性を数多く見せる。その中でも、まずは生体との関係で重要と思われる特性について見てみたいと思う。

@熱容量(比熱)・大

 熱容量とは、1molの物質の温度を1℃上げるのに必要な熱量(cal/mol)で、比熱は、1gの物質の温度を1℃上げるのに必要な熱量(cal/g)である。水の比熱は0度において1.0079cal/gで、これは他の物質に比べれば突出している。主な液体で比熱が0℃のときに1を超えるのは、水のほかに液体アンモニアしかない。また、残りの物質はどれも0.5cal/gの値を示しており、水の熱容量は液体アンモニアを除く全固体および液体の中で最高である。比熱が高いことは、その物質が熱しにくく冷めにくい物質であることを表している。このことは授業中の実験でも示された。水、ベンゼン、四塩化炭素各50gを1分間60℃の温浴に入れたとき、四塩化炭素は51℃、ベンゼンは46℃まで上昇したのに対し、水は大きな変化は見られなかった。これが生体に与える影響とは、体温を一定に保つ効果のことである。体内に水があるおかげで、我々は30℃から40℃というわずかな温度差の中で生きていくことができるのである。

 

A熱伝導率・大

 熱伝導率とは、物質内での熱の伝わりやすさ、速さであり、物質内で1cm離れたところの温度が1℃上がる速さ(ワット/s・cm・deg)で表される。水の値は1430であり、続いて液体アンモニアの1200があるが、それに続く値はメチルアルコールの421であり、水の熱伝導率は全物質の中で最高である。熱伝導率が高いということは、生体内での発熱反応をすばやく周囲に伝えることが可能であるということである。

 

B融解熱・大

 融解熱とは、1gの固体を完全に液体に変えるために必要な熱量である。氷は80cal/gで、氷ほど融解熱の高い物質は少ないとされている。融解熱が大きいということは、固体が溶けにくいということで、固体状態における分子間力が大きい、つまりは融点が高いことを表す。氷の融解熱はNH3を除いて最高である。また、H2Oと似た性質を示すはずの、H2Xと融点を比較してみると、水が0度であるのに対し、硫化水素(H2S)は−82.5度、セレン化水素(H2Se)−66.0度、テルル化水素(H2Te)は−55.0度というように、水の異常さが際立つ。融解熱の大きさは生体に関しては、氷結しにくいことから、凍傷、しもやけ、あかぎれになりにくいことを示している。

 

C蒸発熱・大

 蒸発熱とは、1gの液体を完全に気体に変えるのに必要な熱量である。蒸発熱が大きいほど蒸発はしにくく、蒸発の際により多くの熱をうばい、逆に気体が液体になるときには大きな熱量を放出する。水の蒸発熱は全物質中最高であり、硫化水素の4800cal/g、セレン化水素の5000cal/g、テルル化水素の5600cal/gと比べても9700cal/gとやはり突出している。蒸発熱の高さは、動物においては発汗による体温調節、植物においては気孔から水を蒸散することで葉の過熱防止に役立っている。また、日陰よりも木陰の方が涼しいこととも関係している。

 

D表面張力・大

 表面張力は分子間力の大きな液体が結合しあって大きな球を作るときの引き合う力である。その値は1gの液体を1cm引き離すのに必要な力であるdyne/cmという単位で表される。水の表面張力は73dyne/cmであり、これ以上大きな値をもつ液体は水銀の475dyne/cm以外には存在しない。表面張力は毛細管現象を生み、樹木においては根から水を吸い上げて、高い頂きまで水を移動させることにより、酸素、栄養を運搬させる。また、体内においては身体の末端まで血液、体液を行き渡らせる働きがある。なお、水の表面張力は水素結合に由来するが、これはたんぱく質、セルロース、核酸の構造変化を防ぐ役割を果たす。

 

E溶解能・大

 水ほど多くの物質を溶かすものはない。化合物290種中、水に溶けるものは141種(49%)、アルコールに溶けるものは124種(43%)でエーテルに溶けるものは85種(29%)である。また水は、グラスに入れられたとき、そのグラスさえも溶かそうとしている。この機能の効用は大きい。植物においては、土壌からの栄養分を水分とともに吸収し、移動して葉や茎に運ぶことが可能になる。動物に関しては、血液、体液として生体物質、栄養分を溶かし込みながら運搬する。また、溶解能力が高いということは、生体反応の場において、水が反応溶媒として機能したことを示している。これによって多くの物質は溶かされ、多種多様な生物化学反応が営まれた。また、溶存する微量成分が生体機能の維持には不可欠である、油溶性の物質でさえコール酸のような界面活性物質やリポタンパク質に包まれて体内を移動し、栄養になっているという事実もある。

 

以上のように、生物の体の仕組みは、水の特性に依存している部分が多い。地球上で多くの生物が、当たり前のように存在しているが、実はその生命維持の仕組みは、地球上においては水にしか成しえない技なのである。このように多くの特性をもつ物質は水しか存在しないため、他の物質での代用は不可能だ。生体に関すること以外にも、水の存在なしには語れない現象が、地球上にはたくさん転がっている。ここでは主に氷の特性に起因するものを紹介したい。

 

B. 氷の特性と地球上のあらゆる事象

○アイススケート

 アイススケートは氷ならではの特性によって始めて可能な現象である。ガラスの上では滑らかに滑ることは不可能だ。これを可能にしている氷の特性とはなんであろうか。氷は圧力を加えるにつれて融点が下がる物質である。従って、スケートの歯の圧力により、氷の融点は下がり、局地的に氷が溶け出すのが早まり、滑らかな滑りを可能にするのである。通常の物質は逆の傾向で、圧力を加えれば融点は上昇し、逆に溶けにくくなる。これは圧力によって分子間力が大きくなるからと考えられる。氷と違って水は、圧力を加えると沸点が上がる。これは圧力を加えると分子の運動する力が抑えられ、水分子が激しく動いて沸騰するまでにはより多くのエネルギーが必要なためだ。これが、富士山頂で電気釜を使って米を炊けば、沸騰する温度が上昇して生炊きになってしまうことの説明である。逆に圧力が小さい場所では、分子の運動する力が促進され、100℃に至らずとも沸騰する現象が起こる。不思議なことに氷にはこの理論が当てはまらない。氷の特質なしに、我々は清水宏保の素晴らしい滑りは見られないのである。

 

○ かき氷

夏のかき氷は、氷の融解熱の大きさを利用したものである。これは氷の溶けにくい性質が可能にしているもので、もし氷が一般の物質のような融解熱をもっているとすれば、我々は夏のかき氷は口に運ばれるまでに溶けてしまい、暑いときに冷たいものを食べることはできないだろう。他には氷嚢や冷蔵ケースがその応用である。

 

○ 氷山

氷の最大の謎はその密度にある。密度とは、物質1単位体積あたりの重さである。通常

の物質は、温度が高くなれば、密度は下がる。なぜならば、温度が上がったことで分子の動きが活発になり、分子間のすきまが大きくなるからである。しかし水の場合、0℃から4℃にかけては逆の傾向を表す。温度が下がれば、分子の活動は抑制され、密度も上がるはずである。しかしながら水の場合、温度が下がっても分子は活動を続けるのか、密度は下がり、氷になってもその傾向は続く。すなわち、本来は固体の方が液体よりも温度が低いため、分子の活動が抑制され、その結果として密度が上がる、つまりは重くなって液体に沈むはずなのである。ところが水の場合は逆に、固体である氷の方が軽いため、水に浮く現象がおきる。我々は飲料水に氷を入れて飲むとき、氷が浮いているのをごく当たり前のこととして見ているが、実は液体に浮く個体というのは、氷以外には存在しないのである。もし氷の密度が水よりも大きかったら、地球上の景色は一変する。北極近辺の流氷、氷河、氷山は、全て海に沈み、寒い地方では氷が海の底に眠るようになる。それだけではない。氷は海中で更に冷やされ、極地に水はなくなり、全てが氷となる。氷が浮く、という当たり前の現象。しかしこれは、科学では解明しきれない、最もありふれた謎なのである。

 

以上が、水が人間に重宝されている理由である。水に物理・化学的に注目すべき特徴がないということの真偽がここに明らかになった。水は、他の物質には考えられないような特性をいくつも持ち合わせた、魔法の物質なのである。冒頭の高校生の考えのうち、前半部分への反論は終了した。ここからは、水が「地球上のどこにでもある最もありふれた物質」であるか、について述べたい。地球は果たして、水の惑星なのであろうか。

 

(3) 戦争と水

 冒頭で、水はありふれていると書いた。では地球上には、どのくらいの水が存在するのであろう。その総量は、1349×10_kG=13億4900万立方キロメートル。想像がつかない量である。水は大きく2つに分かれる。塩水(海水)と淡水である。その割合は塩水が97.5%、淡水が2.5%である。人間が水資源として利用できるのは、後者のみである。しかしながら、その淡水の構成は、70%が極地の氷、29%が地下水で、いずれも水資源としての利用は不可能である。すると、わたしたちが飲料水や生活用水として利用している水は、残りの1%、正確には淡水全体の0.12%でしかない。これは地球全体の水の量の、わずかに0.003%に過ぎない。利用可能な水資源の量は、年間100兆tとされる。しかしその中でも利用可能な水量は、その20%と言われる。残りの80%は、川から海へ流れる、あるいは蒸発、蒸散してしまうからだ。従って、我々が利用可能な水の量は、地球全体の水の総量の、わずかに0.0006%。ごく少量である。地球は確かに水の惑星かもしれない。宇宙から見れば、それは青々と輝いている。面積の71%が海なのだ、陸が見えないのも当然である。しかし、それは海水でしかない。マクロなレベルで考えれば、それは地球上のあらゆる生物を潤している。海には無数の海洋生物が生息し、活発に活動をしている。ここで人間にとっての水に限定して考えることはエゴなのかもしれない。とはいえ、われわれ人類が地球上のわずか0.0006%の水しか利用できない事実を、当たり前のものとして、何の危機感もなく受け取ることのできる人は、そう多くはないだろう。水はありふれているのだろうか。しかしまだ、ありふれていると主張する人も当然存在するであろう。特に日本に住んでいれば、水がいつかなくなろうとは、誰も思わない。実際そのような心配は不要であった。今は違う。このようなデータがある。水の限界利用量は、前述した100兆tの20%、20兆tである。この20兆トンという数字は、果たして何人の喉を潤すことができるのか。何人の生活を支えることができるのか。答えは、68億人である。現在の地球上の人口は、63億人。2006年、人口は70億を超える。もう一度問いたい。水は「地球上のどこにでもある最もありふれた物質」であるのだろうか。水は今では、その希少性から「青い黄金(ブルー・ゴールド)」と呼ばれている。もはや水は、当たり前に存在するものとして無償で与えられるのではなく、自ら買い求めていかなければならないものとなった。この動きは欧州では一般的である。ミネラルウォーターの消費量は日本では一人当たり年間10P弱だが、フランスやイタリアでは約130Pも消費されている。彼らにとって水は、蛇口をひねれば出てくるものではなく、買うものである。そして日本でも近年ではミネラルウォーターの消費量は年々増えてきており、1990年には計17万5千klであったものが、2001年には124万7千klと約4倍の増加を示した。水が買うものではなく、奪い合うものとなっている地域もある。中東、イスラエル。パレスチナとの間で行われている争いは、ユダヤ人とアラブ人という民族紛争だけでなく、水資源の争奪戦という側面も実際には存在した。舞台はゴラン高原。シリアとイスラエルの間で数回に渡って奪い合われた地だが、実はその原因は水であった。ヨルダン川の源であるゴラン高原に存在する水資源は相当なもので、国土の南半分が砂漠であるイスラエルにとっては、必要不可欠な領土であったのだ。水を巡る紛争はそこだけではない。驚くべきことに、現在地球上では、31の地域で水に起因する紛争が起きている。その大部分は全世界で261ある国際河川における水資源の配分が問題になっている。無限に存在すると思われていた水が、有限であると分かり、人々は流れ行く自然にも線引きを始めた。紛争だけではない。人間が生きるために最低限必要とされる1日の量は20Pであるが、それを供給できない国が、現在33カ国存在し、風呂、洗濯など「まともな」生活を送るのに必要な50Pの水を供給できない国は62カ国にも及ぶという。水、それは本当にありふれているのだろうか。確かにわたしたちは、水を見ない日はない。しかし地球上には、水に触れることができずに死へと旅たつ人が何人も、何百人も存在する。水が地球上で最もありふれた物質であるとは、もう言えない。水、その存在意義について、もう一度考えてみたい。

 

(4)心と水

 水が我々の生活に欠かせないものであるということは、前半で述べた。しかしそれは実用的な面についてである。水には、まだまだ別の効用があるのではないだろうか。

国際基督教大学のキャンパスを歩く。人もまばらな午前中、バカ山に座り、空を眺める。風に当たりながら、授業のことも、宿題のことも忘れて寝転がる。十分に気持ち良い。しかしそこには何かが足りない。何かもう一つあれば。その疑問は、野川公園へ行くと解けた。川の流れる音には、人の心を癒す何かがあるようだ。川とは限らない。海で波打ち際に立っていても、心が洗われる。そこには水があった。昨年、一昨年と、自分で旅をして実感したことである。一昨年の夏は、長野を抜けて、魚津市から山形県の余目まで、車窓いっぱいに広がる大海を眺め、最上川の川くだりを体験、最後は水に削られて芸術的な形となった松島の美を堪能した。昨年の夏は、サンフランシスコ、シアトルという海辺に発展した街を訪れ、意図的に海沿いに建てられた野球場で時間を過ごした。そして今年の冬は、札幌の雪祭りに行った。考えてみれば、どれも水が主役である。これは偶然といえるのだろうか。

人類の文明の始まりは、4大河文明にあるという。4つの偉大な文明がいずれも大河沿いであるということは、現在では水が産業の発展には不可欠であったからとされている。それは事実であろう。水の存在をなしには語れない発明が世界には散在している。しかし、それだけであろうか。便利さだけが、4つの大河の元で文明が始まった理由だろうか。もう一つ考えられる理由として、人々が癒しを求めて川の近くに集まり、結果としてその集まった人々の多様性、そしてその川に癒しを求めた中にいた才能ある人々が、新たな文明をつくっていったのではないだろうか。便利さを求めての川ではない。初めに川ありきである。

人間が水に癒しを求めることは、決して偶然ではない。ひとは誰しも、胎児のときは母親のおなかの中という海にいた。人間の胎児には、生物がたどった数億年の歴史が秘められているという人がいる。原始の海の記憶が、胎児が触れる「海」にはあるのかもしれない。水に触れて癒されるのは、それが自分の生まれたところであるからではないだろうか。生物の誕生の場所としての海である。生命誕生という進化の歴史が、我々の体には刻まれていてもおかしくはない。人々はだから、癒しを求めに、自然と、自分の原点へと歩を進めるのだ。

水による癒し。誰もがその恩恵を受けたことがあるはずである。ディズニーシーで遊ぶ、海辺を歩く、サーフィンを楽しむ、カヌーに乗る、プールに飛び込む・・・そこにはいつも水がある。見ているだけで癒される。そんな物質が他にあるだろうか。水は人の、心にとっても、特別な存在だ。

 

ありふれた奇跡

以上、日常生活、科学の世界、戦争、心の4つの観点から水を眺めてみた。もう一度自分に問い直してほしい。「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ。」こう言えるだろうか。水は確かに、どこにでもある。しかしながら、その奥は深い。水がありふれているように思えるのは、それが平凡であるからではなく、特殊だからである。たくさんのむっ質の中から、生き残ることを許された、誉れ高き物質なのだ。数多くの生物が誕生できたのも、水の恩恵である。なぜなら水は、前述したとおり、高い溶解能力を持つ。それはイオン性物質だけでなくアミノ酸や糖などの有機化合物、そして気体をも溶かす。なんと92元素の全てが溶けているのである。その結果、多種多様の合成が成され、無数の生物が生まれた。水に高い溶解能力がなければ、地球上に生物は誕生しなかったであろう。そしてさらに、水の比熱の高さという性質が、地球上の昼夜の温度差を30℃までに抑え、我々海で生まれた生物に住みやすいような環境を維持し続けているのだ。もし水の比熱が低ければ、地球上の昼夜の気温差は、月のように270℃もあり、やはり生物の誕生はなかったであろう。

水こそは、この地球上に生命が誕生する奇跡を演出した立役者である。そしてその役割は、未だとどまるところを知らない。今わたしたちは、その奇跡の物質を失いかねない危機に瀕している。今こそ誰もがその貴重性、特殊性に気づくときである。事実、水はいたるところにある。しかしそれは、たくさんあるからといって無限であるわけではなく、どこにでもあるからといって平凡なのではない。たくさんあるようでそれには限りがあり、特別だからこそどこにでもあるのだ。それを認識すれば、わたしたちがこの母なる物質を手放すことはないだろう。ありふれた存在、水。それが当たり前のものではなく、自分の周りに満ち溢れる奇跡であるとわかったとき、それが、水を知るときである。

 

【参考】

・吉野輝雄「自然の科学的基礎 『水』−水と人間との共生」

(国際基督教大学教養学部  2002年度冬学期開講一般教育科目)

・毎日新聞 2002年11月29日 「ミネラルウォーター、仏ヴィッテル市の場合は」

・毎日新聞 2003年1月 1日 「水と戦争」

 


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