水/溶かすのは物質だけなのか?

031191 岸野貴光

 

 新聞やテレビドキュメンタリーで取り沙汰されるトピックの何割かは、この水である。我々は水なしには生きていけないのは確かであるし、世界的に見れば水を入手することが困難な気候のところはいくらでもある。しかし我々は現実に、水に対してなんらかの積極的な意志をもって接することがあまりない。私自身、シャワーを浴びていて、流れてゆく水を見て「もったいないなあ」とちらっと思わないでもないが、それでも考えてみればあらゆるやりかたで水をむだに浪費している。

 ここでは、水とはなんであるかを考えてみたいと思う。我々のまわりにとりまいている水というものを、以下の章立てで説明していこう。

 第1章では、水が無尽蔵であるか否かについて論じる。日本ではありふれている水は、そうでないところにいけばそうでないし、すくないながらも日本よりも水環境にめぐまれたところもあるだろう。これは環境についてというよりもむしろ、文化論になるだろう。

 第2章ならびに第3章では、水を地学・化学の各側面から、地球史と生命の誕生という点をみながら掘り下げてみよう。水が不可欠となったのは、それが比較的宇宙空間に大量に存在したからであると思われる。

第4章では知覚について考えてみよう。「水は無味無臭ならびに無色である」という命題は、はたして真であるのか?デカルト的に疑ってみようと思っている。

最後に、私の専攻である歴史と水について語りながら終わらせよう。歴史においてさえも、水の果たした役割は甚大であった。そこから人間がいかに水に依存してきたかが浮き彫りになってくる。その依存度の強さから、メタファーとして、水は物質のみならず、あらゆる学問を溶かしうる。

1 ありふれた物質としての水

 たしかに水はありふれている。蛇口をひねれば文字通り無尽蔵に水は出てくる。スーパーやコンビニに行けば、水を含まない食品のほうがすくない。むしろ、食品を例にとれば、水を完全に奪って乾燥食品をつくるほうが、コストがかかるというのが実際のところだ。さらには水は空気中にもあり、梅雨の季節にはカビや腐食の原因にもなるのだから性質がわるいといえるかもしれない。

 早稲田大学や京都大学の学生の話を聞いたことがあるだろうか?単位、授業の単位の話だ。早稲田では単位が落ちていて、京都では単位が降ってくるという。まあつまり、これらの大学生にとって単位とは、水のごときものなのかもしれない。横道にそれるが、そんな大学が日本の大学の典型のようにいわれている。それは一般的にいってたしかにそうであろうが、そうでない、勉強させる大学もそれなりに、日本に存在するのだ。

 話を元に戻そう。

 しかしそう思えるのは、我々が日本人であるから、といえるのではないか?最初に話したとおり、その土地の気候によっては、石油より水が高価なところもある。さらにそうした国では、もしかしたら平均収入も日本よりずっと低いかもしれない。そういったところでは、貧しい庶民にとっては水はいよいよ入手困難で、生活における悩みのタネとなる。

 問題なのは、我々がいくら節水したところで、かれらのような水が入手困難なところに住む者になんら資するところがないということだ。日本の庶民として我々は、かれらにできることは限られている。水というのはその重さと価値の比からいって、日本で取水して運搬するよりも、当地で買い上げるほうが安価であることが多い。水の問題は、より巨視的に見ると南北問題に帰結するのだが、水は一日たりともそれなくしては生きられないという点において、急を要する問題のはずである。しかし一方で問題の根本が深いところにあるということは、これが早晩解決されえないことを示している。

 

2 生命の基幹物質としての水

人間は、というよりもあらゆる生命は水なしでは生きられないのはいまさらいうまでもないことだ。これは次章とも重なるが、このことはあらゆる物質を溶かしうるという性質と無関係でないように思われる。また、地球上にもっとも豊富にあった液体であり、その中で化学進化をおこすことができたからかもしれない。

地球が微惑星の衝突・合体によってつくられたとき、すでに単純な有機物は存在したが、それがより複雑な有機体へ、そして初期の生命に(化学)進化するには海洋の存在が不可欠であった。それは、自転などからおこる海流の強さにくらべて、有機物と水との質量の差が小さい、すなわち海流に流されて循環しやすいということがあげられる。

では地球にはどのようにして海洋ができたのだろうか。現在もっとも有力とされている説は、地中からの沁み出し説である。恒星以外の多くの天体は相当量の水を含有しており、地熱によって気体となった水が空気中に沁み出し、雨となって海洋をつくったというのがこの説の考え方である。

 

3 化学的に注目すべき水

水は二個の水素原子と一個の酸素原子からなるが、宇宙上にもっとも多く存在するのは水素で、酸素は3番目に多い。これが水が宇宙空間に多く存在する所以である。地球にも水が多く存在するのはそうした理由からであり、火星や金星にも相当量の水があることが容易に想像される。観測の結果、火星表面には、凍った水が地中に沈んでいったと思われる溝が確認されている。

地球が誕生したころの大気は、ほとんどが二酸化炭素であったが、海洋がこの二酸化炭素を溶かし込み、岩石と化学反応をおこして炭酸塩をつくり、これが沈殿するというサイクルを通して、大気中の二酸化炭素は徐々に減っていったと考えられている。これはまさに、水があらゆるものを溶かすことができるという性質に拠っている。ほかの液体でも、「混ぜる」ことはできても、溶かすことはできないことが多い。

 

4 無味、無臭、無色透明な水

無味無臭で無色透明だという話が出た。ほんとうに無味無臭ならびに無色なのだろうか?いささか言いがかりじみているが、近代以降の人間の知覚が水蒸気を無臭、水を無味としているのではないか。これを立証するには、地球外にルーツをもち、嗅覚と味覚をもつ生命体にアンケートをとらねばならないので、現実的には不可能だが、論理的にいえば「水は無味無臭である」のではなく、「人間はだいたいにおいて、水を無味無臭と知覚している」にすぎない。また、無色であるという点についても、厳密には水が通しにくい光の波長というのは存在する。

 

5 さいごに

余談になるが、私の専攻は歴史である。しかし歴史においても、水というものから無関係ではいられない。むろんそこから離れて論じることはできないでもないが、歴史の全体像をつかむには、水、特に川・海・雨というものから離れることはできない。古代・中世で都市が作られたのはこの川辺であり、農耕には雨と河川水が不可欠だったのであり、また漁猟はひとびとの糧食を供給する重要な手段であった。さる著名な書で「川の世界史」なる書がある。川は飲用水や農業用水として活躍し、また近代以前において川は、その架橋技術の低さから、世界の断絶であった。人々が川を不自由なく渡ることができるようになったのは、架橋・造船・操船技術が発達した16世紀以降のことである。近代以降も工業用水等、さまざまな形で水は人々の生活を扶けてきたが、それはここでは省こう。

水は大変興味深い。私は化学に関しては素人だが、化学という切り口だけでなく、さまざまな角度から研究することができる。あらゆるものを溶かしうるというのは、物質にかぎらず、我々の学問についても同じことがいえるのかもしれない。どんな角度からでもいい。いちど水に正面から向き合ってみるのは、今後の人生を分厚くしてくれることだろう。今回のテーマは水だったが、すでに結論がついている、と思われていることを掘り下げていくと、何かが見つかるということはすくなくない。水は、君自身をも溶かしてくれるかもしれない。

 


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