水 透明のカリスマ

051032 遠藤 彩代

 

君たちはそう言うけれど、果たして「水はありふれたもの」ですかね。

たしかに、蛇口をひねれば、とめどなく流れ出てくる。お金と退屈さえ気にしなければずっとずっと出てきてくれます。綺麗な水。確かにありふれています、この国では。でも、それは、地球のどこでも、地球人みんながみんな味わえる感覚では、ない。

ほら、砂漠に住む人たちがいるでしょう。砂漠に棲む民がどれだけ真摯に水を扱うか、求めるか、想像できますか?昔々から、オアシスをめぐってどれだけの血が流されてきたことか知れないのです。『アラビアのロレンス』という映画を観た人はいますか?あんな世界が、緑生い茂り幾多の河川を有する我々の国のような世界と平行して、何千年と存在しているのです。我々日本人を始めとする、森の民の、「水はありふれていてつまらないモンだ」なんて言葉は、砂漠の民にとっちゃ寝言かジョークにしか聞こえないでしょうね。

そんな世界になど所詮一生関わりは無い、なんて他人事は言えませんよ。何せ同じ星の上に棲む同じヒト科の人間なのだから。95年の神戸の大震災後にテレビで放映された、目に焼きついて今も忘れられないシーンがあるんです。憶えている人も中には居るでしょう。水道管がやられて断水になったとある地域で、被災者の方々がとった行動。道路に走った亀裂から、弱く湧き出して溜まった水を、一生懸命、本当に必死に、手や椀ですくい取っている姿です。アスファルトの道路の上ですよ?息を呑みました。塵にまみれた車道に群がって、安全だという保障など全くない水を、迷いもせず汲み取っている人々の姿。人間の生へのひたむきさに胸打たれたのと同時に、如何に水が人間の生きていく上で必要不可欠な存在であるかということ、人間と水の本来の関係を、まざまざと見せ付けられた気がしました。ここで言う必要不可欠とは、肉体的にというだけではなく、精神的に、ということです。現にあの被災者の方たちが、あのとき得ることのできた水の量なんて、本当にわずかでおまじない程度のものだったでしょうからね。

 

でも、生存の危機に晒されるという体験をして半ば動転した人々は、たとえじきに自衛隊の給水車が到着すると判っていたとしても、そうせざるを得なかったでしょう。心が水を欲してやまなかったのです。それだけ水は、人間の心身がまさに「渇望」するものなのです。「おまじない」どころの存在ではない。ましてや「ありふれていて注目に値しない物質」だなんてありえない。そのこと・・・水の、根本的にカリスマティックな魅力というものを、みんなに納得してもらいたいな。今日は、水が人間の心の歴史に太古の昔から絶えず与えてきた、大きな影響について、考えてみましょうか。

 

水の神々 神話に見る水

その土地に生まれ根付いた宗教の、「水の神さま」を見ると、その土地の人々がどのように水を見つめていたか、関わっていたかがよく判ります。身近なところから・・アジアで有名な神さまが一人(いや一匹?)居ませんか?そうです「竜神さま」です。もともとはインド神話が出身の神さまで、仏教と共に中国や日本でも信仰されるようになりました。地底や海や川の底、滝壷などに普段は眠っていて、人間が無礼を働こうものなら俄然その姿を現し、雲を呼び、豪雨を呼ぶというのが通説です。普段は静かに眠っているのだけど、いったん怒るととんでもなく恐ろしい神さまなのです。そう、自然界における水の穏やかさと怖さを簡潔に表現したような性格の神さまでしょう。こんな神さまを人間が想像したのは、ダムも河川整備の技術も無い時代です。だから、水の、「本来の姿」に人間が受けた印象を、そのまま竜神さまは映しているのですよ。

さらに面白いのが、神話や神話に基づいた古代社会における竜神さまのステータスです。仏教では、仏の教えを守るとされる「天竜八部衆」の中のひとつに名を連ねています。エライのです。さらに中国では、天の四方の方角を護る四つの神さま「四神」の中で、西の白虎、南の朱雀、北の玄武につづく「東の青竜」として登場しています。昨今の風水ブームでよく知っている人もいるでしょう?中国の人は、とにかくこの竜神が大好きなようです。天下を治める人・天子すなわち皇帝が帝位に就く時は必ずと言って良いほど、「五色の龍が現れた」などと言ったドラマチックな(真偽は定かではありません)前兆もしくは付随的事象が歴史書に記されます。すなわち吉兆、高貴なる天の使者という、キリスト教で言えば大天使のような、ありがたくも畏れ多い存在なわけです。

それは単に竜神さまが格好イイからではありませんよ。ちゃんとした訳があります。アジアでも特に暴れると有名なのが中国の黄河。川自体の姿も、巨大な龍が寝そべっているかのような、力強い大河です。私が思うに、どうもこの河だね、中国の人をドラゴンマニアにしたのは。太古の昔から、この河は多分の養分を含んだ土砂を運んで下流の土地を肥やすと同時に、しょっちゅう氾濫しては流域に住まう人々を苦しめていたようです。黄河を語る上で切っても切れないのが、伝説中の王国・夏王朝の始祖、禹という王様です。彼はヒーローです。なぜなら、彼は黄河の治水工事を成し遂げた初めての人だからです。その先代、先々代の尭・舜とともに「聖王」と讃えられ長く誇りと尊崇の対象だったということですから、その当時において――いえ人間にとって「治水」という事業が如何に重要であり、困難かということを象徴する人物であると言えるでしょう。竜神どころか、その竜神の眠る河を四苦八苦治めた人間すら神格化されるのですから、水のパワーとカリスマは、そこいらのカリスマたちを100人束ねたところで追いつくものではないこと、みなさんお判り頂けましたか?

 

そうですか。アジアの神話だけでは納得いきませんか。みんながcritical thinkerで先生は嬉しいですよ・・・。ではもうひとつ。古代オリエントの世界から、エジプト神話の神さまに登場して頂きますよ。古代エジプトの人々に数々の恩恵を施していたのはそう、ナイル河。ナイル河は、「ハピ神」として崇められていました。毎年の河の増水を「ハピの到着」と人々は歓迎し喜び合い、賑やかなお祭りをしたそうです。ハピは、全体としてはがっちりとした体格の男性として描かれていますが、なんとその胸部はふくよかな女性のものなのです。それは、豊穣の象徴と言われています。逞しい父性と穏やかな母性の共存をその身体に実現しているハピ・・・荒々しさと静かな威厳とを併せ持つ竜神さまと極似していませんか?

また、創造神話においては、古代エジプト人は「体系化された宇宙が出来上がる前は、波の起こらない水をたたえた果てしない海が暗黒の闇の中にあった」と考えていたようです。これは、「ヌー」または「ヌン」と呼ばれ、もしくは「聖なる湖」と称されます。この湖は、天地創造以前の「無」の世界を象徴しているようです。このヌーという原始の水の中から、自力で生まれたのが「アトゥム神」。この神さまは水との関連からか、最初は蛇の姿をしていたとも言われていますが、壁画などでは、人間の姿です。アトゥムは両性を具備しており、宇宙(最高神)を創造したと言われています。なんと神さまの誕生以前に水が在ったという発想です!しかし、「何も無いという状態(ニュートラル)」を表現するとき、水を連想したのは何も古代エジプト人だけではないのです。私たち日本人も同じでした。日本神話の創造物語は、イザナギとイザナミが水を長槍で掻き回すところから始まるのですから。

このように、人間のつくりあげてきた宗教、神話の中にはっきりと具象化されてきたのは、水の、自然界における絶大な力のみならず、母性と父性を併せ持つユニセックスな資質、果ては、まるで森羅万象すべてを産み出したのではないかと思わせるような、透明且つニュートラルであるという稀有な資質に他ならないのです。

 

水の有無が宗教を分ける

水はたくさんの「神さま」を造ってきました。『万物の根源(アルケー)は水』という言葉のとおりに。雨が降り河が流れれば森が育つ。そうすると、森の神さまが生まれる。農作物の恵みを受ける。そうすると、豊穣の神さまが生まれる。日光により作物はより実る。そうすると、太陽の神様が生まれる。

しかし私がこれまでみんなに紹介してきた宗教は――思い出して下さい、話の始めに言っていた二種類の風土――そう、「森の民」の宗教です。では、「砂漠の民」の宗教は?砂漠にも、水の神さまがいるでしょうか?オアシスの神さま?砂の神さま?ナツメヤシの神さま?

残念ながら、そんな神さまたちは存在しないのです。砂漠で生まれたイスラエル宗教をルーツに持つキリスト教、ユダヤ教、イスラム教はすべて、唯神教、つまり絶対の支配者であるたったひとりの「神さま」を持つ宗教だからです。神さまはひとりしかいないのです。だから、たとえ樹齢千年のナツメヤシがあったとしても、注連縄(しめなわ)が巻かれて祭られるという可能性はありません。多神教と唯神教。豊かな水の有無は決定的に、宗教を大きな二種類に分けてしまうのです。

なぜ、砂漠の民は、目には見えない唯一の絶対神しかその存在を認めようとしないのでしょうか?水の無いということは、そこまで大きなことなのでしょうか?・・・非常に大きなことなのです。彼らにとっての自然界は、恵みにあふれた世界ではなく、容赦なく身体から水分を奪う灼熱の太陽、作物の実らぬ砂の大地、凍えるような夜、すなわち「死」の世界を意味します。ありがたいものなどひとつを除いて何も無いのです。オアシスを除いては。先に言ったように、彼らは切実にオアシスを求め、探し、奪い合って闘う事もあります。しかしオアシスは神さまになりませんでした。彼らにとっては、いつ干からびて失くなるか知れぬオアシスそのものよりも、「オアシスを見つけること」のほうが重要だったのです。そこで「天空かなたより地上を見下ろし、オアシスの場所を知る者」の存在を望むようになり、この思いが「たったひとりの神さま」という概念をつくりあげたと言われています。

「水の、自然界における絶大な力のみならず、母性と父性を併せ持つユニセックスな資質、果ては、まるで森羅万象すべてを産み出したのではないかと思わせるような、透明且つニュートラルであるという稀有な資質」を、永らく砂漠の民は知らずに、いや超越したところで彼ら独自の精神文化を形成してきたのです。『万物の根源(アルケー)は水』かと問われれば、彼らはこう答えるでしょう。「我々人間は喉が渇けば水を求める。しかし万物の創造主は水ではない。唯一の神だ」、と。

 

しかしながら、人間の心に、水が如何に凄まじい影響を与えるものかということ、この時間で気づくことができたでしょう?誰にも求められ、愛され、畏れられ、崇められる存在。崇められるものを産み出すことも、失くすことも、自らの有無によって自在に操る物質。「ありふれたものだ」と言い張る人は、まだいますか?たとえ身の周りにありふれていたとしても、どうしようもないほどのパワーとカリスマを有する物質だということ、心に留めて置いてくださいね。きっと世界の見方が変わると思うんだ。

 

それでは。

(先生は、水って、この世界が存在する理由・・・唯一の真理を人間が真剣に探究するときに備えて、「こんなものかもしれない」と私たちが身近に触れて感じることができるように、あの方が用意してくださった最高の比喩・最高の贈り物だと思っているんですよ。)

 


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