文系学生を対象とした物理教育
国際基督教大学(ICU)理学科 H. Okamura
○ リベラルアーツカレッジは, 文系学生への物理教育の研究に最適な環境,
本学は リベラルアーツ教育を実践しており、 全学生が教養学部に入学する.教養学部を持つ大学は,本学と東京大学駒場キャンパスがその代表的なものであるが,本学は,東大と異なり,アメリカ型のリベラルアーツ教育であり,日本の大学の中できわめてユニークな特色を持っている.本学では,文系学生でも理系の一般教育科目を履修することが義務づけられているが,これは他大学には見られない大きな特徴である.
このような環境は,文系学生に対して,単なる知識でなく、科学という「文化」をどうやって教えるかの実験を行うのには最適であるので, 教育理念の実現の一環として, 筆者はこれまでにさまざまな試みを行なってきた.
○ 2種類の「科学教育」
一般に,科学教育というと,実験を使ったエンターテイメントのような,「興味を持たせる」ための活動が連想されるのではないだろうか? 科学技術基本政策にもあるように,研究者・技術者を志望する人を増やすために,このような活動は大いに推奨されるべきである.しかしながら,大学で文科系学部に進学した学生にこのような教育をすることはあまり意味がない.彼らは,理系以外の職業に就業する自分の将来というものをすでに考えており,そのためにやらなければいけないことは他にたくさんある.彼らも,理科の実験には興味を引かれるが,しかしそこから踏み込んで理科の勉強をするのには時間がかかりすぎるのである.大学生となった彼らには,「教養としての」物理を,わずか一学期間だけで,教える必要がある.
それでは,教養としての物理とは何だろうか? 現代の社会は科学技術の上に成り立っているという事実により、その理解が社会の運営に不可欠であるというだけでなく、理系教育は客観的で科学的、合理的なものの見方を獲得するという重要な側面を持っている.それに対応して,教育方針として2つの可能性が考えられる.前者を目標とすれば,物理の基礎をまともに教えなければならない.ICUにはこのようなコースもあって,筆者もこの授業を教えたことがあるが,この授業を担当した経験のある教官4人の共通の意見として,一学期間では無理,というのが結論である.特に,文系学生は微分はおろか三角関数も覚えていないという状態の人が多く,毎回課題をあたえ大量のリーディングをさせて,高校で物理を履修した学生と同程度に教育することはできるとしても,今後,その知識を使うことなくまた忘却のかなたに沈んでしまうのならば,何の意味があるだろうか.さらに,筆者の調査によると,そのようにして試験問題が解けるようになったとしても,「科学」という文化に対する理解は深まっていなかった.その後,一般教養の物理の授業を担当するようになり,さまざまな試みをした結果,一学期間という短期間で教えるとしたら,前者の「知識」ではなく,後者,すなわち,科学の考え方,科学という「文化」を伝えることに重点をおくべき,との結論に至った.
○ 文系学生の現状
日本では,高校の段階で「理系コース」と「文系コース」に分けられてしまうが,これは受験システムに起因する.受験生獲得のため多くの大学が受験科目数を少なくする傾向があり,文系の受験で理系科目が必要とされることは少ない。理科を勉強しても大学入試でテストに出ないのだから理科を勉強する動機付けがない。高校としては合格率を高くしたいから受験で合格するための勉強をさせ,不要な科目(文系コースにとっては理科)は軽視しがちである。
このことはどのような影響を及ぼすのだろうか.自身の文系学生の指導の経験からすると、彼らは科学的な考え方に触れるような教育をほとんど受けてきていないようである。科学とは何かと聞くと,まともに答えられる学生はほとんどいない.これは当然で,科学とは何かを習っていないのである.「原爆を造ったから科学は悪だ」などと考えている単眼的な学生もいる.これもこのような議論をしてくれる先生がいなかったのではないだろうか.テレビで放送されている疑似科学番組の話を取り上げて,「捏造がなかったとしても,この番組の議論はまったく科学的でない」と解説すると,誰もが,納得できないという顔をする.彼らには,あの手の番組が「科学的」に見えてしまうのだ.だからおそらく番組プロデューサーも自分では科学的だと信じて番組を作っているのかもしれない.
人文系学部の卒業にとって特に重要な能力はAをとれるようなレポートを書く能力であるが,彼らに教えられるレポート作成法は「メインアイデア」に「サポーティングアイデア」をいくつか付け加えて補強するという方法であり、ここでは都合の悪い情報は無視される。情報のなかから、都合の良い情報だけを選び取り、都合の悪い情報は捨て去るという方法は、たとえば物理の実験コースで、してはならないこととして最初に習う基礎の中の基礎である. 理系では,たとえ自分の意に反していたとしても,事実を無視することはしない.さらに理系の発想からすれば驚くような場面にも遭遇する.サポーティングアイデアが否定されたとしたら議論自体が崩れるのが理系の世界の常識だが,文系の世界では何かの理由でサポーティングアイデアが消滅しても結論は同じだったりするケースもままある.エリートの文系学生達は、このように理系的センスからすればあり得ないような手法しか教えてもらっておらず,それ以外の考え方があるということも気付いていない.
○ 教養に必要なもの ー 2つの文化
スノーは、当時のイギリスにおける自然科学系と人文系知識人の互いの無理解を,たいへんな社会的損失と嘆いた。 「この二群、科学者と人文系知識人のあいだには、ほとんどコミュニケーションがなく、共感はなく、その代わりにある種の敵意が存在している。(二つの文化と科学革命、松井巻之助訳(1967), p83)
日本においても同様に分離がみられるが、日本古来の文化や日本独特の社会構造とも密接にからみあい、独自の根深い分離の状況がある。日本における「二つの文化」は、「理系」「文系」という区分と重なる部分が大きい。そもそも「理系」「文系」という区分は日本独自のものであり,たとえば英語ではこれに相当する言葉がない.そのことだけを取っても,日本には根深い「2つの文化の分離」が起きているということは伺い知れるのではないだろうか.
高校で「文系」「理系」に分けられてしまったあと,大学においてもこの2つはほとんど交わることが無く,社会に出て両者はますます疎遠になっていく.離れた環境にいれば,文化も異なってくる.筆者は学生に説明するとき,アメリカと日本の文化にたとえている.アメリカ人が家に来て,靴を脱がないで家にあがったとする.アメリカの文化を知らなければ,野蛮な人間だと思ってしまうことだろう.相手の文化を勉強して,違いを知ることが教養である.理系,文系の文化もこれと全く同じである.筆者は,「合理的」,「真実」,「論理」などの言葉が,2つの文化の間で異なる意味で用いられていることに気付いた.こうなるとその違いを理解した上でないと互いの理解がきわめて困難となる.
2つの文化は、真実を「見つけ出し」現実の中に合理的な世界を見いだそうという文化と、真実を「創り出し」自分の心の中に合理的な世界を見いだそうという文化とまとめることができるだろう。これらの全く相いれない2つのアプローチはどちらも人間の文化であり方法論である。バランスのとれた教養ある人間なら両方の世界を理解しているべきと考える。
○文系学生への物理教育の重要性
理系白書(Ref.1)にみるように、諸外国と比べ日本は極端に文系主導の社会となっており国家の主要な機能はほとんどいわゆる文系出身の人が司っている。これはつまり、文系学生への教育で社会はよくも悪くもなるということであり、これが文系学生への教育が重要である理由である。今の教育制度では,文系で教育されてしまうと科学という文化に触れることなく終わってしまい,そこにもう一つの文化があることにすら気付かない. その結果,理系の視点に欠けた社会の運営がなされることとなり、これがさまざまな弊害を生んでいる。 文系学生に対してこそ,きちんと科学教育を行ない,科学的な視点を兼ね備えた,マルチパースペクティブなバランスのとれた人材を育成するべきである.
科学教育によって,偏見や思い込みから自由な,すなわち「だまされない」心を養うことを目標とするならば,これは本学の教育理念ともまさに一致している.F.ベーコン(1561- 1626)は,人間は容易にだまされる存在であることを指摘した上で,科学は,「観察と実験は材料を集めるためであり, 帰納と演繹はこれを仕上げるためのものである.これらを除いて他に優秀な知的器具はない」といった.科学的手法は,人類が発見したなかで,最も『間違いを起こさない』方法であり,教養として,誰でも知っておくべきものなのである.これが科学を学ぶ1つの理由である.
科学の特徴の1つである「論理」も,科学を知らなければ,相手をやりこめるための揚げ足取りのテクニック程度のことにしか思われていなかったりもしている。科学的に考えるということ,そして事実や調査から論理的に何が本質なのかを見極めるということを教えなければならない.
○本学の授業での試み
上記理念に基づき,筆者の行なった1つの試みが,一般教養の物理の授業に自由研究を取り入れることであった.そのポイントは以下の3つである.
1.期限を決めてテーマを自分たちで考えさせることにより、身の回りのものに注意を向けさせ、これは何でだろうと考える習慣を身に付けさせること。
2.問題点を整理し、それを調べるためにはどのようなことをすればよいのかということを考え、実験をデザインし、実験し、考察し、結論を導くという、科学的な研究を一度自分でやってみることで、科学的アプローチを習得する。
3.発表をして,フィードバックを得,Discussionを通して「真実」に近づいていく過程を経験すること.文系学生はDebateは多く経験するが,それはDiscussionとは違うことを知る.人間は思い違いや思い込みをするものであり,科学的アプローチを自分でやってみたというだけではまだ片手落ちである.教官や他の学生からのフィードバックにより,気付かなかった視点や論理の落ち度に気付く. 科学的題材は,実験して「真偽を確かめてみる」ことができることが文系科目と違う点である.科学はこのようにして発展してきたことを理解する.
物理の基礎知識が不十分なままでの自由研究だから,物理を勉強したものから見れば,不十分な内容であろう.しかしながら,そのような状態であっても,グループの仲間と一緒に考え,議論を重ね,実験を工夫し,実験を行ない,そして結果についてまた考える,という一連の作業を通して,学生は,研究とは何か,科学者はどんな作業をしているのか,科学的であろうとするということはどういうことか,というようなことを身をもって体験していく.実験を一度もやったことのない文系学生は,実験というのは(テレビでみるように)道具をそろえたら一回ですぐ結果が出るものだと思い込んでいる.実際にやってみるとそんなに簡単に行かないわけであり,そのことにも大変驚いたりしていて,彼らにとってかなり新鮮な体験となっているようである.
「科学的な立場というのは非常に時間がかかるものだとわかった」「主張があってそこに都合のよい材料をくっつけていくという文系の立場と異なることがわかった」などという感想にみられるように,科学的な姿勢というものを理解させるのに,一定の成果がみられたと考えている.
○最後に -「理系」の問題点
もちろん、理系の我々にも責任がある。それは、我々の周囲のことに無関心でいすぎていて、世の中で何が行われているか、あまりに世間知らずになってしまっているということである。また,自分は実際はよく知らないことにたいして,ナイーブに自分の「論理」をあてはめて決めつけてしまうケースも散見される.世の中は理系の考えるような「合理性」で動いてなどいない.自分が世の中の一部しか知らないことに気付くべきであり,そして科学者はもっと社会にかかわって,その科学的な見方をもって社会に貢献するべきである.スノーの論じた通り,2つの文化の分離は,たいへんに嘆かわしいことであり,大きな社会的損失である.
参考文献:
(1)「理系白書」毎日新聞科学科学環境部(著) 講談社(2003)
(2)「二つの文化と科学革命」C.P.スノ-、松井巻之助訳、みすず書房(1964)
(3) 江沢洋「理科が危ない」新曜社(2001)
(4) 岡村秀樹、第66回応用物理学会学術講演会予稿集8a-P4-5/I (2005秋)
文系学生を対象とした一般教育の物理
○ 科学を知らなくても「何も困らない」のに,なぜ科学を勉強するべきなのか.
○ 大学の一般教育が人生最後のチャンス.彼らが知っていなければならないことは何か? 「教養としての」物理とは何か.
○ 文系学生に対して,単なる知識でなく、科学という「文化」をどうやって教えるか.
○ 2つの文化 S-cultureとH-culture
○ 文系学生への物理教育の重要性 ー 責任ある地球市民
○ 一般教養の物理の授業に自由研究を取り入れる試み
自由研究のレポートは一例です. 内容については足りないところや勘違いをしているところもありますが、基本的には提出されたものをそのまま載せています. 文系コースの学生に取っては,今までやったこともない,習ったこともない手法(科学的アプローチ)を使ったはじめてのプロジェクトです。その点に大きな意味があります.