Last Update: March 26, 2006

TWC: ICU - PYU BUILD TOGETHER CAMP, March 2006

SAN MUANG KHO


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我々が3月5日から13日まで滞在したラフ族(Lahu)の村の名前である。タイ北部の町チェンライ(Chaing Rai)の北北西に位置するだろうか。高速を30分ぐらい走ってから山道を1時間と少し。チェンマイ(Chaing Mai)からは、走行時間のみで5時間かかる。現在この村のすぐ近くを通る2車線の舗装道路を建設中。今回は、舗装していない部分を15分ぐらい走ったところから坂をすこし上ったところに斜面にそってサン・ムアン・コー(San Muang Kho)村は広がっていた。

以下はこの村に関する基本的な情報に関する備忘録である。情報源は、村長の家にあった掲示物の資料と、村長の家族と後述の村の学校の先生とで食事をしたときに記録したものである。英語・タイ語・ラフ語を介しての会話で得られた情報であり、あとから思い出して記録した部分もあるので、不正確な部分もあるかも知れない。

20年ほど前に、現在の村長をリーダとして、ミャンマーからラフ族5家族がこの地に移住してきて村を形成した。(政治状況により変化もあるようだが、私たちが訪れたミャンマーとの国境の町、メサイ(Mae Sai(Mae は河の意)中国からの安い商品が流れ込み、活気があり、タイ人も多く買い物に来る町)では浅い河が国境となっており、越境は難しいようには思われなかった。)それ以前は、アカ族(Akha)が住んでいたが火事で焼けたとのこと。現在は70家族が住み、内7家族がアカ族。村の人口は合計で400人。成人(14歳以上)男性135人、女性126人、14歳未満の男の子77人、女の子62人。きりの良い数が、いくつかあるが、人数については、正確と思われる。村人は基本的に親戚とのことなので、家族の数の根拠は不明。女性は中学を卒業する14歳か、15歳ごろ結婚する人が多いと言うことだった。

米とトウモロコシを生産しているが、これだけでは食べていくことも難しいという。タイ政府が、森林保護の観点から畑を広げることを制限しているため、耕地面積を拡大することはできず、市場への出荷も制限しているため農産物を売ることもできないとのことである。巨大な機械で山を崩し道路を作っていることとは対照的であるが、道路の建設によって村人は町に出ることが楽になり、多くが出稼ぎに行っているとのことである。そのため、村には、トラックが何台かと多数のオートバイがある。出稼ぎによる金銭収入により、すでに貧富の差が感じられ、また、高級な電気製品も入ってきている。電気が通じたのは2年ほど前とのことである。

村から坂を10分ぐらい下ったところにすこし大きな村がある。中国人の村で、その中央に学校がある。(幼稚園?)小学校と中学校(義務教育、14歳まで)で、以前は中国人の学校としてすべて中国語だったようだが、現在はタイの学校となり、タイ語で授業がされている。ただし、中国語を教えることも許されているとのことで、子供は下の村の子供と遊ぶときには中国語との事である。(ラフ族・アカ族・リス族(Lisu)はチベット・ビルマ語族、イ族系で、歴史的にも中国系の民族とつねに友好関係をもちながら中国・ミャンマー・タイ・ベトナム・ラオスにまたがる地域で生活しているとのことである。)タイでは小学校5年生から英語を教え始めていることを考えると、中学校を卒業するまでには、母語のラフ語を含め、タイ語、中国語、英語を学ぶことになる。ある意味では、ICU よりかなり国際的な環境だとも言える。

4年前に王様企画(Royal Project)として山地族(Hill Tribe)の14歳以上を対象とした成人教育(生涯教育と言う言葉のほうが適切かも知れない)のため学校がこの村にも建てられ、女性の先生が派遣されてきた。30歳より少し若いくらいだろうか。ニックネームからシームサと呼ぶことにする。シームサは、チェンマイ大学で林業(Forestry)を学び、卒業後、マーケティングの仕事をしたが、満足できず、上記企画の教員に応募したとのこと。婚約者もいたが、村に来て一晩でここでは生活できないと別れたとのこと。最初に村に来たときは、道もなく、大変な時間をかけて、たどり着いたとのこと。ある日は、村人の家に、全く食べ物がなく、何日か食事もしていない人もいたとか。この先生はこの村を含めて3つの村を受け持ち、タイ語、一般教養、国の仕組み、税金、補助金など、社会科に関することを中心に教えている。学校には、タイ文字を学習する様々な表、地図、などなど小学校と変わらないものがたくさん掲示されていた。村に於ける唯一の知識人と言うこともあり、問題があるとすべて持ち込まれ、病気の子供を連れてこられ最後は自分の腕の中で亡くなったという経験も話してくれた。若い女性と一緒にいることをよく見かけたが、お姉さんとしてとても信頼されているようだった。

補助金貸し付け制度(100万バーツ〜300万円)などもあるが、返す必要があることや、村における分配方法など、概念自体を持っていない、山地族の人たちには、教育が必要であることは明らかである。しかし、シームサによると、タイの政府が現状をしっかりと把握しておらず、調査をしても、それが政策に生かされずかつ、政府高官が変わると情報が引き継がれないとのこと。どこでも同じかも知れない。シームサに、政府高官になにかアドバイスできるとするとどんなことを助言するか聞くと、「じっくりと山地族の人たちが言うことを聞いて欲しい、それにつきる」との答えだった。少数民族、少数者の声が届かない事へのいらだちが感じられた。

村人にとって重要な案件は、身分証明書の取得。日にちの概念も確立されていないので、生年月日がわからない。そこで、村人は殆どが1月1日生まれにしているとのこと。村長の娘は、誕生日が2月とのことで、1月1日ではないことは、この村では特別なことと話してくれた。身分証明書を取得するには、タイの教育を受けたか、または、タイ語を十分話すことができ、かつ、いくつもの書類を書き、面接をうけて、と、かなりの時間をかけないといけないとのこと。しかし、村長はタイ語を話すことができないが、麻薬撲滅運動に協力したということで(内容は不明)身分証明書が取得できたとのことである。身分証明書の取得がどのような意味で重要かは分からなかったが、仕事をえることなどには、問題がないとの事だった。税金・保険や年金と関係してくるのかも知れない。

この村の人は全員がクリスチャンとのこと。バプテストの宣教師の開拓伝道で、クリスチャンになった山地族の村が多い。村長の娘は、中学以降の教育を2/3年遅れでうけているが、終了後はキリスト教の勉強をしたいと言っていた。下の中国人の村にも立派な教会が学校のすぐ近くにあった。サン・ムアン・コーには、牧師はいるが、礼拝堂がなく、2000年からずっと村人で、会堂が与えられるよう祈ってきたとのこと。この村の教会も、タイ・キリスト教協議会(Church of Christ in Thailand (CCT))に属しており、第18教区のある地区所属、そこには、10を越える教会があるようで、献堂式には、10以上の教会から代表が出席していた。

電気がこの村に通じ、道路が整備され、村の生活は日に日に変化しているようである。100人ほどもいっぺんに子供があつまり、目をきらきらさせながら、人なつっこくよってくる光景は、70年代以前の日本の光景を思い出させる。子供達にお菓子を配ると、そのプラスチックの包装紙を道ばたにポイポイ捨てる。あわてて、ゴミ集めをしたが、つぎの時もまた同じように捨てる。中にはゴミ集めを手伝う子もいるが、包装紙と一緒に枯れ葉も集める。60年代の日本でも同じ光景だったかもしれない。子供達の生き生きした目に魅了されると共に、教育の大切さも痛感させられる。

また電気がこの村にもひかれ、毎晩のように夜遅くまで、テレビのある家にあつまり、テレビに目が釘付けになっている。朝早い村の生活自体もすぐ変わってしまうのだろう。人気番組の一つは韓国ドラマだった。電気代は都市よりも高額だとか。まだ携帯電話を持っている人は少ないようだが、電波は届いており、消費文明が、この村の生活を大きく変えつつあることは確実である。都市からあまり遠くない村は、特別に、電気もない生活を維持して、観光村にする政府の政策もあるとか。たしかに、前回、わたしが行った村は、そのような観光村に変化していた。「発展」の中で、起こる様々なことは、世界各地ですでに経験済みであるにもかかわらず、その地の人の話をゆっくり聞きながら、進む道を探していくことは、不可能なのかも知れない。シームサの働きには期待しつつも。


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