Last Updated : April 9, 2001

かけがえのない人

鈴木 寛 (Hiroshi Suzuki)

2001年3月27日 VIP Manza Onsen の集会 (万座温泉ホテル) にて


Contents :


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自己紹介

本日は、このような場でお話させていただく機会をお与えくださりどうもありがとうございます。私が、万座に最初に来たのは、1969年12月だったでしょうか、私が高校生の時ですから、もう30年以上も前のことです。それ以来、特に学生の間は、アルバイトとして、夏も冬も何回もここで働かせていただきました。黒岩会長とも、大野社長とも、その1969年からのおつき合いです。「人生讃歌」という黒岩さんのことが書かれた小冊子を読まれましたか。それに1970年の東南アジアへの貨物船での旅行のことが出てきますが、そのおりも、お二人とご一緒させていただきました。

私は、国際基督教大学で、数学を教えています。International Christian University(ICU)というのが英語名で、1949年、戦後間もなく、日本と北米のクリスチャンが中心となって、世界の平和のために働くような人材を送りだすため、キリスト教主義のかつ、国際的な大学を設立することを決めました。大学としての開学は1953年です。


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VIP CLUB

この会は「VIP Manza Onsen」といいますが、この VIP というのは、英語の Very Important Person 重要人物という言葉のかしら文字をとったものですね。聖書のイザヤ書43章4節に次のような言葉があります。
あなたはわが目に尊く、重んじられるもの
(日本聖書協会 口語訳)
ここで「わたし」といっているのは「創造主」である神様ですが、神様が「あなたはわが目に尊い」といわれているわけです。一人一人が神様の目から見て VIP だということから、特にビジネスマンと専門職の人たちが集まって、International VIP Club がつくられました。東京で最初はじめられましたが、今は、東京近辺だけで二十数か所で会が定期的に持たれ、全国に広がっており、さらに日本以外でも集まりが持たれています。
私は、現在東京の高田馬場で持たれている VIP-Academia-Takadanobaba(VIP-ACT)を主催しています。Academia と名前にもついているように、お話をする人は、大学の先生や、研究者が中心ですが、出席しておられる方は、様々です。

VIP という名前はどうでしょうか。自分にふさわしい名前だと思われる方もおられるかも知れませんし、どうも自分とは遠い世界のことのように思われる方もおられるかも知れません。また、どうもピントこないと思われる方もおられるでしょう。
高田馬場の2月の会で話して下さった方は、自分は、VUP だ、Very Unimportant Person とるにたらないものだ、と自己紹介しておられました。

何カ月か前のことですが、非常に著名な先生に、この VIP でのお話を頼みにいきましたら、「どうも名前が引っかかるから、よい集まりをしているのは、理解できるが、今回は遠慮させてもらう」と断られてしまいました。この先生は、数年前にクリスチャンになられた方ですが、次のように言っておられました。

私自身は、神様の前に立つことのできない一人の罪人(つみびと)であるが、イエス様の十字架上での犠牲により救われたと信じています。しかし、やはりどっかで自分は、この世的な意味で、VIPだと思っているのかもしれない。自分の信仰はそういう声に打ち勝って、神様の前に謙虚になることだと思っているのに、VIP の集まりは、その名前を使って人集めをするような気がして、どうも引っかかるのです。これは、自分の信仰の問題だとも思っています。時期が来たら、話させていただくこともあると思います。
お話を断られましたが、私は、この先生の姿勢に非常に感激して帰って参りました。

実は、この VIP Club というのは、1993年の秋に、United Airline の要職にあった、Robert Holmes さんの六本木にあるお宅で始まったのですが、私は、丁度そのころ、大阪にある、ある国立大学からICUに移ってきたところでした。誘われるまま、出席することにしました。しかし、六本木の超豪華マンションも、この VIP という名前もどうも、私の住む世界とは違うようで、居心地が悪い思いをしていました。そんなこともあり、一度、この VIP と、先ほどの VUP について考えてみたいと思い、今回のお話ではそのことをテーマに選ばせていただきました。仕事柄どうしても理屈っぽくなってしまいますが、お許し下さい。


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なぜ VIP なのか

今日は、「かけがえのない人」というタイトルをつけました。「ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指そう」という言葉をみなさんも聞かれたことがあるのではないかと思います。競争社会のなかでトップを目指すのではなく、一人一人がかけがえのない個人として、オンリーワンとして生きることが大切だということだと思います。すばらしいなと私も思います。私は、最近いそがしく、殆んど、学内で生活しているのですが、たまたま、街に出て本屋さんをのぞきましたらなんと、「オンリーワン」と書いてある本がたくさんならんでいました。そこで、インターネットで検索してみましたら、日本語だけで、6000件以上出てきました。実に多くの人がこの「オンリーワン」という生き方に共感しているということだと思います。
それぞれの方々が、それぞれに、「オンリーワン」という言葉に励まされ、積極的にいきておられるのだと思いますが、今日は、聖書では、どう言っているかということに絞って考えてみたいと思います。もちろん私は、聖書の専門家ではありませんので、最初にお話した、VIP ということを自分なりに考え、聖書から教えられたことについて、いくつかの点を話させていただきたいと言うことです。ここにおられるみなさんお一人お一人が違った人生を生きておられるわけです。中には、自分には聖書は関係ないと思われる方もおられるかと思いますが、思考実験のようなものとして、聖書ではこう言っているのか、キリスト教を信じている人はこんなふうに考えるのかということをご一緒に体験していただければと思います。
まず、皆さんは、キリスト教というとどういうイメージがあるでしょうか。西洋の宗教でしょうか。「世界キリスト教百科事典」(教文館 1982年)によると、現在、世界の人口の約3分の1の人たちがキリスト教を信じており、宗教の中で最大とのことです。同じ資料によると、地域別では、1900年のころは、ヨーロッパと北アメリカ、いわゆる欧米で、キリスト教を信じている人全体の約3分の2をしめていましたが、2000年には、それが3分の1となり、逆に、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど欧米以外の地域のクリスチャン人口がキリスト教を信じている人全体の3分の2になっているとのことです。宣教師の数でも、最近では、アメリカ合州国からの宣教師よりも、韓国からの宣教師の方が多いという統計もあります。キリスト教の世界自体が大きく変わっているようです。キリスト教は今のパレスチナから出発して、地中海沿岸へと広がり、それから北ヨーロッパ、そして世界へと広がっていったわけですが、ICUの牧師の森本あんり師は、著書「現代に語りかけるキリスト教」(日本基督教団出版局 1998年)の中で、次の様に言っています。
それぞれの時代にはそれぞれの課題がありました。第一の環地中海時代には、キリスト教の自己形成が課題でしたので、キリスト教とは何か(What)を問うことが重要でした。第二の環大西洋時代には、ひとたび輪郭の明確になったキリスト教が、それぞれの社会や文化にどのように(How)適応すべきか、ということが課題でした。しかし、現代の環太平洋時代には、多くの宗教のなかで、なぜ(Why)キリスト教なのか、を問う時代になっています。つまり、他宗教や無宗教の存在を真剣に受け止め、その中でキリスト教の存在意義を考えることが不可欠な時代になりました。わたしたちも、そのような世界歴史の流れの中に生きています。(14--15ページ)
私自身も、欧米のキリスト教文化の中で考えるのではなく、聖書はそれぞれの問題に対して、どのように言っているか、そして、それに私たちはどう応答すべきかを求めていくべきだと思っています。聖書は、「かけがえのない人」ということについてどう言っているのでしょうか。さらにできれば、「かけがえのない人」というテーマを考える時、なぜ、聖書なのかということについては皆さんに考えていただければと思っています。


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創造との関係

大学のある人事で、面談のおりに、「ICU のキリスト教主義についてどう思いますか」と聞きましたら、その方は、「ICU の教育における一人一人を大切にするというという姿勢の背後にあるのは、キリスト教だと思う。自分もそのことを大切にしていきたい。」と言っておられました。キリスト教と "一人一人を大切にすること" との関係についてまず考えてみたいと思います。

聖書の一番最初にある創世記に人間の創造について次のように書いてあります。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(創世記 1章27節 口語訳)

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きたものとなった。

(創世記 2章7節 口語訳)

あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは、人の命のために、報復するであろう。
人の血を流すものは、人に血を流される。神が自分のかたちに人を造られたゆえに。

(創世記 9章5--6節 口語訳)
神が御自身にかたどって人を創造されたこと。人は、土のちりで造られたが、神の命の息が吹き込まれて生きたものとなったこと。人は神にかたどって造られたものであるから、そのような人を傷つけたり、殺したりした場合は神様が賠償を要求する。と書いてあります。
人間の組成成分は土の塵にすぎないが、神様の命の息が吹き込まれたことによって生きた存在となったということ、神様にかたどって作られたため簡単に傷つけたり、殺したりすることは神様がおゆるしにならないと言うことです。
最近、青少年が犯した重大事件に端を発して、新聞でも雑誌でも「なぜ人を殺してはいけないか」といったことを書いている記事を見ましたが、聖書では、その一番最初から、このことについて、明確に書かれているわけです。神様にかたどって造られた一人一人、命の尊厳です。
実は、このあと、人間は、罪を犯し、神様から離れてしまいます。しかし、聖書では、一貫して、神様は人間一人一人を愛していて下さることが書かれてあります。同時に、旧約聖書を読んでみると、イスラエルの民が、これでもかこれでもかと神様に対して罪を犯し続けたことがわかります。旧約聖書は実にこのことについて書かれていると言っても過言ではありません。神様は忍耐をもって次々と預言者を送るのですが、人々は、何度も悔い改めはするもののまた、神様を裏切ってしまうのです。

新約聖書ヨハネによる福音書3章16節に、

神はそのひとり子を賜わったほどにこの世を愛して下さった。それは、御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(口語訳)
とあります。 これは、聖書の中で中心的な箇所と言われており、「小聖書 (小さな聖書)」とも呼ばれる箇所です。神様は、私たちのためにその独り子イエスを私たちに下さった。それほどまでに愛して下さった。と書いてあります。そして、この独り子を信じるものは、一人も滅びないのです。一人として例外はないのです。
同じく新約聖書ローマ人への手紙5章8節には、次のように書いてあります。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
(口語訳)
罪ということが何となくぼんやりしているかも知れません。

ルカによる福音書10章25--37節を読んで見ましょう。

25:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言 った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでし ょうか。」
26:イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読ん でいるか」と言われると、
27:彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを 尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分の ように愛しなさい』とあります。」
28:イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうす れば命が得られる。」
29:しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人と はだれですか」と言った。
30:イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っ て行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取 り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31:ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の 向こう側を通って行った。
32:同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、 道の向こう側を通って行った。
33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人 を見て憐れに思い、
34:近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、 宿屋に連れて行って介抱した。
35:そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主 人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとか かったら、帰りがけに払います。』
36:さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣 人になったと思うか。」
37:律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエ スは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(ルカによる福音書10章25--37節 新共同訳)
追いはぎにあい、傷を負って倒れている人の横を3人の人が通りがかりますが、3人のうち、祭司、レビ人は、神様に仕える仕事をする人、サマリヤ人は、礼拝の仕方が違っていたため、ユダヤ人から低く見られていた人です。
三浦綾子の小説に、「塩狩峠」という非常に感動的なものがあります。もし、読んでおられない方がおられましたら、是非お読み下さい。新潮文庫から出ています。その中の主人公、長野信夫が「自分の内に小さな悪は多少あるかも知れないが、罪人といって人に責められるようなことはない。」という箇所があります。すると伝道者が、「では、何でも聖書の中の一つだけ戒めをとってそれを徹底的に守って御覧なさい。」といいます。長野は、今お読みした聖書の箇所をとって、「隣人を自分のように愛しなさい」をこのたとえに出てくるサマリヤ人の様に実行しようとするのです。しかし、実際には、そのように愛そうとする自分が実は、その相手をさげすんでいることを発見し、自分が自分ではどうしようもない罪人であることを知るのです。

キリスト教は、神様が私たちの罪のあがないのために、御自身の独り子を私たちに下さった。自分の罪を告白して、このイエスがすくいぬしであると信じる人は独り残らず救われるというものです。
この聖書の箇所の最初に出てくる、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』というところは、ここでイエス様も言っているように、聖書で一番大切な戒めです (マルコによる福音書12章28ー34節参照)。最初に、神様が人間を御自身にかたどって造られたことを話しましたが、神様は、なぜ、このようなことをされたのでしょうか。聖書には、神様の栄光のため。と書いてあります (イザヤ書43章7節)。神様の素晴らしさをあらわすためということですね。どういうことでしょうか。聖書には、「神は愛である」と書いてあります (ヨハネ第一の手紙4章8節)。神様は愛ですから、愛の対象、互いに愛と言う関係で結ばれた他者を造られたのだと思います。しかし、問題は、相手が自由意志を持っていないと、愛することができない。相手を無理矢理愛するようにさせることはできません。私は、家内や子どもたち、そして私の周りの方々と愛と言う関係で結ばれたいと思いますが、無理やりにそうすることはできません。相手も自由意志をもっていないと愛という関係は成立しないのです。しかし、自由意志をもった人間は、その自由意志で、神様を愛することではなく、神様を裏切るようなことばかりしてしまったというわけです。本来は、人間は、先ほどの戒めの様に、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しまた、隣人を自分のように愛するために造られているのです。


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たいせつなこと

ひとりひとりが大切であること、それは神様が愛しておられるから そして、私達も私達を創造して下さった神様の意思を知り、互いに愛し合うこと、まず、一人一人を大切に大切にするために神様に召されていることを悟りました。そこで、次に、VIP について、いくつかの点をまとめてみましょう。

1 だれの目から見て VIP なのか :

まず、VIP Club で、VIP というとき、一番大切なのは、誰の目から見て VIP なのかということです。聖書ではあくまでも、神様の目から見て高価で貴いことをもって、ひとりひとりは VIP だといっているわけです。 高田馬場の VIP の責任を持って下さっている方の一人に、唐沢先生という方がおられますが、この方は「ミッションラザロ」という活動を、横浜の寿町というドヤ街でしておられます。ホームレスの方々に福音をのべ伝えておられます。高田馬場の集まりにも、ホームレスの方々を何人か連れてきて下さいました。その方々の信仰は、本当に純粋です。その方々も VIP。人の目には VIP ではないかも知れませんが、神様の目から見て VIP であることを心から喜んでおられます。

2 聖書の VIP は奉仕する人

では、聖書で言う VIP とはどういう人のことでしょうか。 聖書のなかで一番の VIP は誰でしょうか。それは、もちろんイエス・キリストです。 VIP のすることは、ちょっと普通の VIP とは違います。
ヨハネによる福音書13章1節から15節を読んでみましょう。これは、最後の晩餐と言われるときのことです。このあと、イエス様は十字架にかかられます。
1:さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ 移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、こ の上なく愛し抜かれた。
2:夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダ に、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御 自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまと われた。
5:それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった 手ぬぐいでふき始められた。
6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわ たしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7:イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かる まいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8:ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言う と、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわ たしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9:そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10:イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足 だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11:イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知って おられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12:さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再 び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かる か。
13:あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように 言うのは正しい。わたしはそうである。
14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったの だから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、 模範を示したのである。
\hfill (ヨハネによる福音書13章1--15節)
足を洗うことはこの当時、通常奴隷のする仕事でした。キリストを、神様を愛するゆえに、互いに愛し、仕え合いなさいと言っているのです。 (マルコによる福音書10章45節 参照)

3 だれが VIP なのか

クリスチャンだけが VIP、神様の目に高価で貴いのでしょうか。 もちろん、そうではありません。神様は、クリスチャンの創造主であると同時に、まだ、神様を知らない方の創造主でもあります。神様に造られたひと、独り独りすべてが VIP です。 我が家にも子どもが5人いますが、もちろん大切なのは、親のいいなりになるこどもではありません。子どもであるこのことだけで、既にとても大切な独りひとりです。愛の神様にとってはなおさらのことだと思います。
4:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を 見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つ け出すまで捜し回らないだろうか。
5:そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけ たので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7:言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔 い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜び が天にある。」
\hfill(ルカによる福音書15章4--7節)
この99匹の小羊のたとえのように、独り独りを愛するということは、こういうことなのだと思います。


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他者が VIP であること

先程、聖書の VIP は愛し仕える人だと言いました。また、全ての人が神様の目から見て高価で貴いということを申しました。最後にお話したいのは、他者が VIP であるということです。
マタイの25章は、私がとても好きな箇所です。31節からお読みします。
31:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光 の座に着く。
32:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山 羊を分けるように、彼らをより分け、
33:羊を右に、山羊を左に置く。
34:そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福 された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている 国を受け継ぎなさい。
35:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いてい たときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれ たからだ。』
37:すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、 飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられる のを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38:いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見 てお着せしたでしょうか。
39:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねし たでしょうか。』
40:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟である この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなの である。』
41:それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わ たしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火 に入れ。
42:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いた ときに飲ませず、
43:旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、 牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
44:すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢え たり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢 におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の 一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
46:こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命 にあずかるのである。」
(マタイによる福音書25章)
神ご自身のかたちに型どった一人一人をここで、イエスは、たとえの中の王の口を借りて、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さいもの」と言っています。ちっぽけな一人にすることが、主イエス、そして、神様にすることなのです。驚くべきことです。
この人は、ちょっと、いやだなと思う人もいます。でも、その人をも神様は愛し、キリストは、その兄弟のためにも死んで下さったのです。
11:そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。 その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
12:このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い 良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
(コリント人への第一の手紙8章11--12節)
3月22日にYMCAホテルで、碁盤・将棋盤のメーカー、めぐみ堂社長、西本誠一郎の人生を芥川賞も受賞された笹倉明氏が書かれた「聖書と旅した商人」(アイシーメディックス)という本の出版記念会があり、私も行ってまいりました。その本のなかに、次のような一節があります。
もともと職人上がりであったから、営業は不得手であり、大いに不安もあった。まるで旧約聖書中のアブラハムのように、行く先も知らずに約束の地に出ていくようなものだった。信仰と祈りだけが頼りであったが、商売繁盛しますように、といった自分のご利益を願う祈りはしなかった。
その代わり、訪ねていった店のために祈った。黙想して、神の祝福がありますように、と祈るのだが、すると、不思議と商品が良く売れるのだった。
人を祝福する祈りこそが、みずからに勇気と平安を与えてくれる。その真実も聖書はおしえてくれていた。

最後に申します。
あながたがはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから。

(ペテロの手紙第一、3章8節)
すばらしいですね。私も、大学でよく、学生さんたちや、時には先生や、職員からも相談を受けることがありますが、この西本さんを見習い、まず、相手の祝福を祈ってから話したいと思います。神様の祝福を受け取り、それを他の人に渡すために、召されたのですから。


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かけがえのない人

ひとりひとりを大切にすることは、簡単なことではありません。黒岩さん、大野さんとは、貨物船で53日間一緒に旅したわけです。教会の青年会のメンバーですが、男7人の旅は単純ではありませんでした。しかし、その難しい営みがいまのこのような祝福となっていることは確かです。
創造の最初に神様は、「男と女とに創造された」と書かれていますが、このことがすでに大変ですね。実は、私達は、昨日が結婚18周年の記念日でした。それぞれ考え方も違う、男性と女性でもとても違います。背景も性別も全く違う他者と一心同体にして下さる神様の営みが結婚なのですから。しかし、この18年間、ずっと互いに愛しあってきました。とは、到底言えませんが、神様は、この家庭を豊かに祝福して下さったことを心から感謝しています。
子どもたち5人もなかなか個性豊か。個性豊かということは、なかなか面倒なことで、親のいいなりには、なりませんが、それこそがすばらしいことなのだとおもって感謝することにしています。

ICU は、名前にもあるように、国際性を大切にしている大学ですが、これがとても難しい。日本人と外国人とのコミュニケーションギャップ、考え方の違いは色々なところで現われます。私は大学院時代に3年間アメリカで生活しました。最初のうちは、「人間みんな同じだな」と感じていましたが、コミュニケーションができるようになってくると段々、「何で人間はこんなに違うのだろう」と思うようになってきて、ある種絶望を感じました。同時に、人間がこれほどまでに違うと言うことを受け入れることが恐かったのです。
しかし、今は違った考えを持っています。この「違う」ということ自体がすばらしいのだと思うようになってきました。一人一人が神様が創造されたかけがえのない存在、二人として同じ人がいないのです。人間の定義を変えなければいけないほど変わった人もいます。しかし、それが、神様の大きさ、広さであり、そこからすばらしいものが生み出されるのだと思います。
ICU の会議はバイリンガルです。この3月末までは、理学科長を務めています。学科会議やその他色々な会議を2年間、リードしてきましたが、だんだんと英語を使うことを増やし、最期は会議はほとんど英語とし、英語だけだとコミュニケーションが取れない場合も考え、確認等のため、日本語を補助的に使うようにしてきています。これは、かなり面倒なことです。しかし、この面倒なことを、違いを受け入れ、一人一人かけがえのない人と言うことを受け入れて、面倒さを乗り越えた所に、普遍的なもの、神様の真理があるのではないかと思っています。
そのようにして、神様の、すばらしさを見せて頂くため、かけがえのない一人として、かけがえのない他者と向き合っていきたいと思っています。

ご静聴ありがとうございました。


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反省・その他


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