Last Update: April 24, 2024
2024年読書記録
- 「新約聖書の奇跡物語」川中仁編 リトン(ISBN978-4-86376-092-9, 2022.10.3 発行)
目次情報。新約聖書の奇跡物語について、最近考えていることがあり、書名をみて、手にとった。正直、期待したことについては、なにも触れられていなかったが、解釈について、いくつかの見方について整理されており、基本的なことを確認することはできたように思う。最後に、編者が、カトリックの解釈の歴史について書いており、公会議やさまざまな文書との関係について書かれている部分がわかりやすく、よかった。以下は、備忘録。「合理主義的な解釈が自然科学的な世界像を唯一絶対のものとしたのは、はたして正当かつフェアな態度であったかと、文化人類学的なアプローチは問う。(中略)科学哲学における『操作の知 Verfuegungswissen』と『方向定位の知 Orientierungswissen』の区別が(J. ミッテイルシュトラース)最初のヒントになるかもしれない。『操作の知』とは、実験にもとづき、望んだ変化を制御可能な仕方で実現する技術の知(テクネー)である。これに対して『方向定位の知』とは、人が生活世界の中で自分が何者であるかを知り、何のために生き、また何に意味を見出すかについて省察を巡らせる知恵(ソフィー)である。」(p.21)「文学類型上の特徴 (a) 奇跡物語は、実際に生じた(とされる)できごとについて報告する物語であり、(b) 奇跡行為者による、知覚可能ではあるものの、容易に説明しがた変化を引き起こす行為が、場面構成とストーリーを備えた物語の形式で報告され、(c) そのできごとは、直接的また文脈的に神の力の働きに記される。(d) 奇跡の伝承行為には、できごとの報告と並んで、読者に驚嘆と反感が引き起こすことで、認知や現実理解の革新を促す機能が含まれる。」(p.23)「新約聖書に描かれているイエスの『奇跡』については、とかく歴史的事実か否かという『奇跡』の史実性の問題関心に陥りがちである。だが、『奇跡』は、何よりも神の救いのわざを掲示するイエス・キリストの出来事全体に位置付けて理解すべきである。すなわち、新約聖書に描かれている『奇跡』は、イエス・キリストの出来事をとおして開示された神の救いのわざの『しるし』ととらえるべきである。」(p.160)「J.フライは、ヨハネ福音書の読解について、①神学的読解、②歴史化する読解、③文献批判的もしくは編集史的読解、④歴史的読解、⑤物語論的読解とい五つのパラダイムが存在する。」(p.181)「新約聖書の奇跡物語の中心的な関心事が、ただ単にイエス・キリストが自然法則も凌駕するような超人的能力をほじしているということにあるのではないのは確かである。むしろ、第二バチカン公会議『啓示憲章』四項1にあるように、イエス・キリストの現存と罪と死の闇からの解放、すなわちイエス・キリストが人々とともにあって、人々を罪と死の闇から解放するということである。このイエス・キリストの現存と罪と死の闇から解放することこそが、『奇跡』の革新である。」(p.204)
(2024.1.12)
- 「地図でみる 世界の地域格差 OECD地域指標 2022年版 都市集中と地域発展の国際比較 OECD Regions and Cities at a Glance 2022」OECD編著、中澤高志監訳、鋤塚賢太朗・松宮邑子・甲斐智大・申知燕訳、明石書店(ISBN978-4-7503-5634-1, 2023年9月26日初版第1刷発行)
出版社情報:内容紹介・目次情報。OECD Regions and Cities at a Glance 2022 の日本語訳。データサイエンスの授業で、Choropleth Maps を扱うこともあり、その例として、確認するために、図書館で手に取った。データの見せ方や、指標の作り方など、丁寧に説明もされていて、学ぶこともあった。ただ、同時に、気になったのは、日本のデータが無い項目が多いこと。韓国のデータはあるのに、日本のものがないものもある。部分的に欠落しているものは、他の章にもあるが、章全体で欠落しているもののみ記す。2章、5章、9章、19章、20章、22章、24章。
(2024.1.15)
- 「ランキング世界地理 統計を地図にしてみよう」伊藤智章著、ちくまプリマー新書436(ISBN978-4-480-68460-8, 2023.9.10 初版第1刷発行)
目次情報。高等学校の教師が、さまざまなトピックについて、ランキングと、世界地図(塗り分け地図)で、情報をつたえる書である。よくできている。ただ、このようなものは、紙媒体ではなく、Web 上で提供し、できれば、ある程度、インタラクティブに、見られるようにすべきだと思っていす。わたしは、そんなものを作っていきたい。この方のブログへのリンク。重要なのは、情報のソースに簡単にアクセスできことかと思う。それがまとまっていないのが少し残念。以下に、今後とのことも考えて書いておく。データの引用元:国際サッカー連盟(FIFA)World Ranking, 理科年表, Wikipedia "List of Longest moutain chains on Earth", GRDS世界河川流量データセンター, Wikipedia List of weather records, UNEP "World Atlas of Desertification: Second Edition (1997)", 国連食糧農業機関(FAO)世界の森林と森林面積率, アメリカ・国立氷雪データセンター(NSIDC), 内閣府防災白書, 国際連合経済社会局 "World population prospects", 世界銀行 "Fertility rate", 国連児童基金(UNICEF)"Child Mortality Estimates", 国連食料農業機関(FAO) "FAO STAT", UNESCO, UIS Stat, WHO, "The Global Health Observatory", World Urbanization Prospects 2018, International Migrants Stock 2019, The State of World Fisheries and Aquaculture 2020, FAO: Forest product statistics, British Petroleum: Statistical Review of World Energy 2021, IEA: Coal 2020, 世界原子力協会 WNA, IAEA PRIS, USGS: Iron, Ore Statistics and Information, World Steel Association, アメリカ商務省貿易局 International Trade Administration、USGS: Aluminum Statistics and Information, USGS: Copper Statistics and Information, United Nations Commodity Trade Statistics Database, UNWWTO: Tourism Statistics Database, World Bank: International Union of Railways, CIA: The World Factbook 2021, ACI: The top 10 busiest airports in the world revealed, IRF: Data Warehouse, UNCTAD: UNCTAD STAT, ILO: ILO STAT, Numbeo: Cost of Living, OECD: OECD Affordable Housing Database, 日本新聞協会:世界主要国・地域の有料日刊紙の発行部数, Wikipedia: Books published per country per year, WIPO: The Global Publishing Industory in 2021, ITU: MobileCellularSubscription_2000-2021, World Data.info: Spread of Christianity, World Population Review: Muslim Population by Country 2023, World Population Review: Buddhist Countries 2023.
(2024.1.26)
- 「古代アメリカ文明 マヤ・アステカ・ナスカ・インカの実像」青山和夫編、講談社現代新書2729(ISBN978-4-06-534280-0, 2023.12.20 第1刷発行)
出版社情報。マヤ・アステカ・ナスカ・インカのことは、ほとんど知らなかったのと、一次文明という視点からは、メソポタミヤ・エジプト・インダス、黄河流域、メソ・アメリカ(マヤ・アステカ)、アンデス(ナスカ・インカ)の四つという視点がスッと入ったので、手に取って読んでみた。これら、四つの順番も、時代もほとんど知らなかった。実際、日本の学者が、これらの文明研究に関わったのは戦後ということで、一般人としては、なかなか伝わってこなかったのだろう。印象に残ったのは、「アメリカ大陸の先住民は、前8000年頃から、100種以上の野生植物を栽培化・改良した。これは数千年にわたる先住民の努力の賜物であり、世界各地の社会発展に大きく貢献した。アメリカ大陸原産の栽培植物は、世界の栽培種のじつに6割を占める。ヨーロッパ人が略奪し尽くした先住民の『贈り物』が、結果的に旧大陸に住む大勢の人の命を救った。トウモロコシは、メソアメリカの人々の主食であり続けている。トウモロコシやアンデス高地原産のジャガイモは、旧大陸原産の小麦やイネを栽培できない、痩せた土地でも高い収穫量をもたらした。南米で栽培化されたキャッサバ(マニオク)は熱帯アフリカの主要産物になっており、何度かブームになったタピオカの減量でもある。」(p.13)とあり、他にも、トマト、ズッキーニ、トウガラシ、カボチャ、サツマイモ、バニラ、パイナップル、パパイア、カカオ、アボガド、インゲンマメ、落花生もそうだそうである。さらに、タバコやゴム、コスモス、ポインセチア、ダリア、サルビア、マリーゴールドなども南アメリカ原産。(p14)しかし、文字文明が発達しなかったこともあり、ある程度以上には、深くはならないようにも思う。「メソアメリカ文明とアンデス文明のデータは、文字、技術や自然環境をはじめとして西洋中心史観を相対化する。『文明は乾燥した大河の流域で生まれた』という考えは、高地と低地のきわめて多様な自然環境で文明が発達したメソアメリカとアンデスにはあてはまらない。またメソアメリカは、大型家畜なき人力文明であった。旧大陸の一次文明では、青銅器・鉄器や文字が文明の指標とされる。メソアメリカとアンデスでは基本的に石器が主要利器である、鉄器は用いられなかった。一方で、アンデス文明は無文字文明であった。また、絶対的な権力を行使する王を戴く統一国王はメソアメリカとアンデスには誕生しなかった。古代アメリカの二大文明は、人類の文明とは何かをより深く考える上でも重要である。」(p.287)同感である。
(2024.1.12)
- 「統計シミュレーションで読み解く 統計のしくみ R でためしてわかる心理統計」小杉考司・紀ノ定保礼・清水裕士著、技術評論社(ISBN978-4-297-13665-9, 2023.9.26 初版第1刷発行)
出版社情報・目次情報。本書で使われているコード、練習問題の解答例の、GitHub リンクが与えられている。第1章 本書のねらい、2章 プログラミングの基礎、第3章 乱数生成シミュレーションの基礎で、基本的な事項の解説の後、第4章 母数の推定のシミュレーション、第5章 統計的検定の論理とエラー確率のコントロール、第6章 適切な検定のためのサンプルサイズ設計、第7章 回帰分析とシミュレーション それぞれについて、シミュレーションを用いて解説している。統計的手法で、なにが仮定されているかがあまり明らかではないように、思っていたので、シミュレーションをするということは、それを明確にせざるを得ないので、本書の内容を追いながら、大体理解できた。実際の応用において、仮定を適切に、確認しているかどうか、正直不明だが、個人的には、整理ができてよかった。データサイエンスでは、統計的手法より、探索的な方法の方が適しているとも思った。以下は備忘録:「統計分析に使う数式を確立モデルと呼ぶことがありますが、このモデルとは理論的な形式、抽象化されたパターンという意味です。統計的検定ではあまり強調されることがありませんが、実はその背後にもモデルを仮定するという考え方が使われています。帰無仮説というモデルと、対立仮説というモデルのどちらを選択するか判定するというのが、帰無仮説検定のやっていることだからです。そのほかの分析の実践においても、データを取得してから分析や検定をするという『データが先、分析が後』という形式を取ることが多いですが、そもそもモデルの考え方があります。データを生み出すメカニズムについて理論的な仮定があり(データ生成モデル)、それに基づいてデータが生まれたと考えて、分析モデルを当てはめていくのです。データを生み出すメカニズムに、数式的構造を仮定することをモデリングと呼び、回帰分析や平均値差の検定などはデータ生成モデルの数式的構造としてごう単純な線形モデルを想定していることになります。」(pp.2-3)「R Package extraDistr」(p.69)「独立分布に従う(i.i.d.: independently, and identically distributed)」(p.77)「中心極限定理:平均がμ、分散がσ2である、母集団分布にしたがう、i.i.d の確率変数 X1, ..., XN があるとき、サンプルサイズ n が大きくなるにつれて、標本平均の標本分布は、平均μ、標準偏差(標準誤差)σ/√n の正規分布に近づく。」(p.144)「標本平均を変換した量が、t 分布に従うためには、標本平均が、正規分布に従う必要があります。」(p.156)「上の F の式の分母が間違っている。」(p.208)「1標本t検定のサンプルサイズ設計:1. 小さめの(最低でもこれぐらいはとる)サンプルサイズ n を適当に定める。2. 見積もった効果量δ_0 とn から非進度λを計算、3. n から帰無分布(t 分布)の自由度を計算し、定めた αから、臨界地を計算する。4. 2で求めた臨界値と悲心度からタイプIIエラー確率を計算する。5. タイプII エラー確率が定めた、β を下回っていればそこで終了。上回っていれば、n = n+1 そてぃえ、2に戻る。」(p.239)「問題のある研究実践(QRPs: questionable research practices)、結果を見てから、帰無仮説を変更する(HARKing: Hypothesizing Afer the Results are Known)」(p.225)「回帰分析はある変数を目的変数、別の変数を説明変数として、説明変数を使った関数で目的変数を表現する方法です。」(p.255)「残差 e_i が偶然生じる傾向のないゆらぎ(偶然誤差)であるなら、平均 0、標準偏差 σ の正規分布に従う確率変数だと仮定できます。」(p.256)「慎重に考えるなら、そもそも複雑な文脈の中で発生するデータに対して、単純な線形モデルの仮定が成り立つことなどあり得ない様に思えてきます。理論的な必然性があって線形モデルになるのであればよいのですが、線形モデルしかしらないので仮定を満たしていると考えよう、というのは本末転倒です。できるだけ丁寧にデータ生成プロセスをモデル化して、事前にいろいろシミュレーションするよう、準備もしっかり時間を割くべきです。」(p.304)
(2024.3.2)
- 「苦悩への畏敬 ラインホルト・シュナイダーと共に Reinhold Schneider, 1903-1958」下村喜八著、YOBEL, Inc. (ISBN978-4-909871-95-4, 2023.10.1 初版発行)
出版社情報・目次。大学図書館に新しく入った図書として並んでいて、最近考えている「個人の尊厳は、一人ひとりの苦悩にある」と近いものを感じて、手に取った。ラインホルト・シュナイダーにも興味を持ったが、直接的に、シュナイダーについて書いてある箇所は少なく、その意味では、少し残念であった。著者は、共助会に長らく関わっておられる方で、本書に収録されているものも、かなりが「共助」が初出となっている。ほかに、北白川通信など北白川教会に関連するものが多い。京都大学哲学系の流れのドイツ文学が専門の方である。本書81ページには次の様にある。「シュナイダーはシュヴァイツァーが彼の家を訪れら時に、この『苦悩への畏敬』という言葉を漏らしているため、シュヴァイツァーの『生命への畏敬』を意識して使っているものと思われる。『生命への畏敬』はわかりやすいと思われるが、『苦悩への畏敬』はわかりやすいとは言えない。しかし、シュナイダーの信仰と行動の根底にある思いであり、考え方である。」とある。以下は備忘録として記す。「第二次世界大戦後の日本とドイツの歩みは、よく比較して論じられるが、その際に戦中と戦後を切り離して論じられるために、大事な点が見落とされがちである。それは、戦争中に抵抗運動があったかどうかということ、それが戦後の歩みとどう関わっているかという点である。」(p.15)「人間は父に似るよりも、その時代に似るー歴史的なものと主体的なものとの間に境界線はないー時代は我々の内で生じる。」(p.19)「1934年1月ベルリン:放送局から送られてくる集会の様子が地下室から漏れ聞こえてくる。がなりたてる声だ。怪物が勝利の雄叫びを上げている。他の声とは混同することのない声、絶えず嘘をついていながら一度も嘘をついていない声だ。なぜなら、その声の中で語っているのは、ふつふつと湧き立っている権力だからである。私にはまったく理解できない。どうして人々は、その声に耳を傾けるという苦痛に自ら進んで身をさらすのであろうか。どうして部屋の中で一人きりであの声を聞くなどということができるのだろうか。どうしていくつもの家族が、あの単調で、すべての共同体を粉砕する闇の唸り声を聞きながらテーブルを囲むことができるのだろうか。まったく理解できないことである。」(p.20)「正義に基づかない国とは何であろうか。そのような国は必ず滅びるに違いない。国を獲得するために罪が手助けすることがあるであろうが、しかし何よりも確かなのは、罪は再び必ず償われなければならないということである。」(p.22)「永遠のために時代と戦う人間は、時代が彼を打ち殺そうとしても、それに甘んじなければなりません。(「カール5世の前に立つラス・カサス」の中の主人公の言葉)」(p.27)「シュナイダーにとって真理とは、ここでは端的にイエス・キリストのことである。キリストは具体的な人間の姿をとって、歴史の時間の中に降りてきた真理である。それは人間が発見したり認識したりする科学的真理とは次元をことにする真理である。この『主の姿の内なる真理』は、人間はいかにいきるべきか、あるいは社会はいかにあるべきかと言った倫理・善悪の問題と関わるものである。それに対し科学的真理は、ひとたび発見されると、それを発見した人間が誠実であろうと不誠実であろうと、そのようなことはいっこうに問題にならない。発見された真理そものものは、人間的態度や生き方とは無関係に成り立っている。しかしキリストの内に啓示された真理(Wahlheit)は、人間に『真実な(wahr)』生き方を求めてくる。それは、先に引用した詩にもあるように、『人間が作り上げたものでも、経験したものでもなく』人間の創造、活動、認識、共感、経験の能力を超えたところから、恵として啓示されたものである、」(p.29)「ボンヘッファーは、今や、かつて倫理上の判断を可能にした理性・原理・良心・自由といった尺度がまったく使いものにならない時代になってしまったために『善か悪か』という単純な二者択一はもう不可能であると考えた。そして国家がそのあるべき姿から逸脱して人々の権利を奪い、暴虐を働いた時、教会のなすべき最後の可能性として『車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるだけでなく、車そのものを停める』行動に出ることがありうるとした。そして、巨大な歯車を停めるために、ヒトラー暗殺という悪(殺人の罪)を選択した。」(p.51)「抵抗の声を上げ続けることができた理由:第一に、苦悩の体験を通して、キリストに出会い、苦しむ人と共に苦しむ人に変えられたこと。そして弱者の立場から歴史と時代を見る視座が与えられたこと。第二に、信仰によってキリストに従い、自分の生をキリストの生と同じ形にすることを祈り勤めたことである。そしてキリストの生は、単に個人的な次元の生ではなく、愛に基づく交わり(神の国)を作り出す生である。第三に、キルケゴールのいうキリストとの同時代性(同時性)を生きようとしたことである。」(p.68)「エミール・ブルンナー:苦しむことができない存在は、愛することもできない存在である。愛にもっとも満ちている存在はもっとも苦しみを感じうる存在である。」(p.137)「メルケル:わたしたちは財政を強化しなければなりません。未来の世代に負担をかけながら生きるわけにはいかないからです。未来の世代に負担をかける生活は、社会進歩とはいえません。一つの世代のことだけ考えて次の世代を考慮しないのは、まったくのナンセンスです」(p.235)「『大山定一:ドイツ語で書かれたキリスト教関係の書物の翻訳は間違いが多く、ずさんであるから注意しなさい。』宗教改革時代のある有名な信仰問答の翻訳にはたくさんの間違いが認められる。そして、その翻訳をもとにして考察された講解・講話では間違いが増幅されることになる。この場合、知的手続として三つの過ちを指摘できる。まず原文を正確に読むという手続、次に、既刊の翻訳を用いる場合、訳が正確かどうか検証する手続が必要である。しかし何よりも、原文によらず翻訳をもとに解釈するという手続きが一番の問題である。」(p.247)「私は、戦争をなくすることができる、地上の血の流れを鎮めることができると考えている平和主義者たちをうらやましく思う。しかし、私は知っている。戦争や戦争の叫びがますますどぎつくなり、ついには自然界の諸要素が熱のために熔け、地とそこで造りだされたものは燃え尽きてしまうであろうことを。この不変、不滅の現実を前にしてキリスト者は平和を生きなければならない。」(p.250)
(2024.3.14)
- 「ダーウィンの呪い」千葉聡著、講談社現代新書 2727 (ISBN978-4-06-533691-5, 2023.11.20 第1刷発行)
出版社情報・目次。わたしがしっかりと学んだことがなかった分野なので、手に取ったが、予想以上の内容で、非常に学ぶこと、考えることが多かった。ダーウィンの進化論について言われる、自然選択、適者生存などの意味を自分の思想に合わせて理解したり、進化を進歩とすることなど、さまざまな誤解からはじめまり、優生思想の広がりや形を変えたかたちで進展して行くなど、現代にも、将来にも色濃く存在する、課題を含めて、取り扱っている。宗教的な考え方との軋轢も多少は登場するが、その面でも、非常に公平に書かれている。著者にも興味を持った。いずれ、この方の他の著書も読んでみたい。一回では、十分理解できたとは言えないが、いくつかのことについて整理できたことと共に、統計学を切り開いた人たちが、優生学に深く関わっていたことにも興味を持った。このような本の英語版もあれば読んでみたい。いろいろなひとと語り合うために。最後には膨大な文献リストもついている。できれば、そのような論文もいくつか読んでみたい。以下は備忘録:「生物学的進化の意味は、遺伝する性質の世代を超えた変化である。現代のそれは発展や発達、進歩の意味ではない。生物進化は一定方向への変化を意味しない。目的も目標も、一切ないのだ。そのプロセスの要は、ランダムに生起した変異が自然選択のふるいにかかって起きることである。まずはダーウィンの背雨t名から見てみよう。『.. どんな原因で生じたどんなわずかな変異でも、ほかの生物や周囲の自然との無限に複雑な関係の中で、その変異が何かの種の個体にとって少しでも有益であれば、その個体の生存につながる。そしてその変異がその個体の子孫に受け継がれるのが普通である。さらにその子孫も生き残る可能性が高くなる。なぜなら、どんな種でも、定期的に生まれる多くの個体のうち、ごくわずかしか生き残らないからである。このわずかな変異でも有用であれば保存されるという原理も、わたしは「自然選択」と呼んでいる。それは人間による選択の力との関係を示すためである。』」(p.12)「ダーウィン:『ある動物が他の動物より高等である、と語るのは馬鹿げている。』フッカーに宛てて、神よ、『進歩する傾向』というラマルクの馬鹿げた考えから、わたしをお守りください。(1837)」(p.14)「ダーウィンの主張の要点:第一に生物の種は神が創造したものではなく、共通祖先から分化、変遷してきたものであり、常に変化する、という主張。第二に、生物の系統が常に変化し、枝分かれする以上、種は類型的な実体ではなく、科や属や亜種と同じく、形のギャップで恣意的に区分される変異のグループに過ぎないという主張。第三に、そうした変化を引き起こした主要なプロセスは自然選択である、という自然選択説の主張である。そして、この三つに基づいて、生物の進化は何らかの目的に向かう進歩ではなく方向性のない盲目的な変化である、とう主張が導かれる。」(p.14)「個体の出生率と生存率の積を適応度(絶対適応度)としよう。表現型を体サイズとしよう。(1)体サイズがより大きい個体がより適応度が高い場合、それに関与する対立遺伝子の割合が世代の経過とともに増えるので、集団のメンバーは大型化して行く。(2)もし中間的な体のサイズの個体の適応度が低い時、集団のメンバーは大型と小型に二極化する。(3)逆に中間的な体サイズの個体の適応度が高い時、集団のメンバーの平均的な体サイズは変化せず、ほぼ一定に保たれる。これらすべての自然選択の効果である。この3タイプの自然選択やそれぞれ、方向性選択、分断性選択、安定化選択と呼ばれる。」(p.38)「ハクスリー:進化論が道徳の基礎を提供できるという考え方は、『適者生存』という用語の『適者』の曖昧さから生じた幻想であると考えられる。私たちは通常、『適者生存』を『最良』というわかりやすい意味で使う。そして、『最良』は倫理的な意味で捉えがちである。しかし、生存競争の中で生き残る『適者』は、倫理的には最悪な者である可能性があり、実際その場合が多い。」(p.51)「ダイアン・ポール:適者生存による進化は、進歩には自由放任主義の経済が必要なことを容易に示唆した。また、より富裕層の出生率を高める社会生活の必要性も示唆した。経済の自由主義は、主力産業の成功を保証したかもしれないが、生物学的な個人の将来に関しては、災いをもたらすことになる。なぜなら19世紀から20世紀初頭にかけての進化論者(ダーウィンを含む)ほぼ全員にとって社会的成功と繁殖成功が相関しないことが明らかだったからである。」(p.52)「結局のところ社会にとっての進化論とは、すでに定着していた自然と社会の進歩的変遷の見方を言い換えたものであり、それまでの自然と社会を支配する融通無碍な一般法則、つまり神の摂理を、科学に基づく自然法則で置き換えたものであった。別の言い方をするなら、神の代役ー『科学』による正当化が、『ダーウィンによれば...』である。」(p.75)「『最も強い者が生き残るのではない。最も賢いものが残るのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である。』(ダーウィンのことばではない)『そうした本能は、すべての生物を発達させる一つの普遍法則、つまり増殖、変化、そして「最も強い者」を生かし「最も弱い者」を死なせることの、小さな結果だと考える方がずっと納得できる。』(種の起源7章サマリー)」(p.90)「ジェームズ・レイチェル:人々が可能な限り幸福であるとともに、日々の生活をよりよくし、すべてのひとの利益が同じであるための人間関係の原則が道徳の基準である。」(p.111)「多くの生物学者や哲学者は、重篤な遺伝性疾患の治療を除けば、個人の生殖細胞系列の遺伝的な改良を許容しない立場である。例えば哲学者マイケル・サンデルは、それが人生を贈り物とみなすことを脅かし、ありのままを大切にする意志を損ない、自分の意思の外にある者を見たり肯定したりできなくなるとして反対している。また、この問題の本質は、子の設計を企図する親の傲慢さ、出生の神秘を支配しようとする衝動にあると主張する。」(p.119)「進化の問題は、二つの違う方法で、研究できる。第一に、様々な生物の過去の歴史の中で実際に起きた進化的事変の順序をたどる。第二に進化的変化をもたらすメカニズムを研究する。」(p.147)「ブラント(絞首刑の直前)ありとあらゆる人体実験を主導して来た国が、その実験方法を真似ただけの他国を非難し、罰せるのか。それに安楽死でさえ!ドイツを見よ、その苦境は操られ、わざと引き延ばされて来た。人類の歴史上、広島と長崎の罪を永遠に背負わなければならない国が、誇張された道徳を隠れ蓑に自らを隠そうとするのは当然で、驚きではない。方を捻じ曲げるな。正義は絶対そこにない!全体を見ても個々を見ても。支配しているのは権力である。そして、この権力は犠牲者を欲している。我々はその犠牲者だ。私はその犠牲者だ。(米国の強制不妊手術プログラムが、他ならぬ最高裁判所が公認したものであるなら、ナチス・ドイツの強制不妊手術プログラムを、果たしてどれくらい悪い者だったと言えるのだろうか。)」(p.185)「優生学は事実上、人々の優劣を特定の階級の人々が決めた上で、その階級の社会的地位と偏見をよりいっそう反映する社会を作るために使う応用科学だった。」(p.207)「フィッシャー:社会的な人間にとっては、努力で勝ち得た成功は、社会的地位の維持や獲得と不可分である。ところが社会的地位が低い職業ほど繁殖力が強いのだ。つまり私たちは、生物学的な成功者が、主に社会的失敗者であるというパラドックスに直面しなければならない。また同様に、社会的に成功した富裕な階級は、生物学的にほぼ失敗者、つまり生存闘争に不適格なものであり、おおむね速やかに人類集団から根絶される運命にある階級だということになる。」(p.208)「ジョサイア4世:この法案の裏に書かれている精神は、博愛の精神でもなく、人類愛の精神でもない。この法案は、労働者階級を家畜のように育種しようとする恐ろしい郵政学会の精神を示すものである。労働者階級の品種改良に執着する人々は、魂の存在を思い出すべきだ、そして人々を金儲けいの機械に変えたいという願望は、H.G.ウェルズの恐ろしい悪夢でしかないことを思い出した方がよい。『タイムマシン』の中で描かれた数千年後の社会は残念ながら完全体には脳がなく、労働者階級は猛獣以下の闇の労働者となる。」(p.218)「個人の人生、結婚、家庭、育児、教育に対する国家の介入と強制は、スペンサーの進化論に従えば、社会を弱体化させる最も由々しきモラルハザードであった。」(p.219)「科学者が思想を生み出したというより、思想が科学者を宿主とし、科学を武器に利用したのである。」(p.253)「1980年代後半の生命倫理の専門家:遺伝子疾患を持つ子孫は、後続の世代ごとに体細胞遺伝子治療で治療されるだろうが、特定の機能不全遺伝子が子孫に伝わるのを阻止できるなら、その方が効率的だろう。フリードマン:効率的な疾病管理や、発生初期などの難易度の高い細胞での損傷を防ぐため、生殖細胞系列の遺伝子治療が最終的に正当化される可能性がある。」(p.290)「(1)重度の遺伝的状態(主に単一遺伝子疾患)に関連する遺伝的変異の伝達を防ぐ。(2)一般的な疾患(主に多遺伝子疾患)のリスクを低減し、人間の健康増進や機械平等に役立てる。(3)統計的に正常な機能の範囲を超えて能力を高める。(4)現在の人間が持つ能力をはるかに超える能力を与え、それによって人間の限界を克服する。」(p.294)「おそらく近い将来、トランスヒューマニズムはすくなくとも部分的には実現するだろう。長い目で見てなにが起きるかわからないからという理由で、こうした実験が長く先延ばしにされることはないからである。」(p.301)「ジョン・デュプレ:還元主義は複雑な系の振る舞いの説明はできるが、正確な予測はできない。」(p.304)「デヴィッド・ヒューム:何が真実かという前提から直接どうすべきかという価値判断や道徳律など規範的命題は導けない。私たちがなすべきことを科学で決定できるのは、科学が得た経験的な情報を、価値観に基づく推論や道徳的な推論の連鎖で演繹的に組み込める場合に限る。例:命を守るべきである。治療すべきである。」(p.308)「人間が持つ知性と美徳の輝きは、確かに生命の進化がもたらして奇跡のひとつかもしれない。だが私には、生命、そして人間の美しさ、素晴らしさは、明暗入り乱れ混沌としたまま、どこまでも果てしなく広がり、かつ進化していく。無限の可能性にあるのではないか。という気がするのである。そんな矛に満ちた人間の一員として、私もあえて最後にこんな『呪い』の言葉を吐こうと思う。だってほら、あのダーウィンもこう言っている。『生命は、最も美しく、最も素晴らしい無限の姿へと、今もなお、進化しているのである』。」(p.319)
(2024.3.30)
- 「ケアと家族愛を問う 日本・中国・デンマークの国際比較」宮坂靖子編著、青弓社ライブラリー105(ISBN978-4-7872-3502-2, 2022.3.14 第1刷発行)
出版社情報・目次知人の本で、3カ国それぞれに興味があり、内容にも興味があったので手にとった。特に、家族社会学というジャンルで、家族愛をどのように扱うのかにも興味をもった。しかし、あまりにも、わたしがこの分野に学問として無知であることが大きな理由であろうが、比較においても、重要な部分をしっかり捉えることができず、正直消化不良となった。他の本も少しずつ読んでいきたいと思う。ケアと家族愛とあるが、後者について、明確に定義することが難しいだけではなく、文化的、社会的背景のもとで、なにを家族愛として認識するかに、大きな差異があり、それを、実際の活動と結びつけて、質問票から、本質を浮かび上がらせるのは難しいように感じた。価値観が形成されるには、さまざまな社会的要因、そこで行われている施策などが深く関係するのだろう。以下は備忘録:「不要让孩子输在起输跑线上(我が子がスタート地点で負けないように)」(p.23)「子育ち(ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィとクリステン・コル):学校教育の目的は、こどもが将来国の担い手として、民主主義の実践者になることにある。競争的な教育評価はなく、一人一人の個性にあった発達が大切にされる。自己表現や創造性を高め、自分のことを自分で決める力や人と協議して物事を決定する力、決めたことに責任を持つ自律性などを身につけることが目指される。」(p.28)「辣妈辣妹(Freaky Friday)」(p.104)「子不教父之过(子を養いて教えざるは父の過ちなり)」(p.106)「子育ての責任:① こどもを養う経済力、② こどもの身体的ケア、③ こどもの社会化に必要なしつけと知識や技能の伝授」(p.108)「ネットワークでのソーシャルサポート(ジェラルド・キャプラン):家族や友人、あるいは隣人などの個人を取り巻くさまざまな人々からの有形無形のサポート」(p.156)「九〇七三(北京市では九〇六三)老後自宅で暮らす人九十%、コミュニティを基盤に暮らす人七%、施設に入所する人三%」(p.74)「注(1) 世界保健機関(WHO)の定義では、総人口で、一般的に高齢者とされる65歳以上の人口の割合(高齢化率)が七%を超えると、高齢化社会、十四%を超えると高齢社会、二十一%を超えると超高齢化社会とされている。日本は、1970年に高齢化社会、1994年に高齢社会、2007年に超高齢社会に突入した。」(p.178)「上野千鶴子:家事は世帯内で生命・生活を維持するなくてはならない活動のうち、自分以外の他者に移転できる活動。ケアは依存的な存在である成人またはこどもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとで、満たすことに関わる行為と関係」(p.223)
(2024.4.8)
- 「人新世の『資本論』」斎藤幸平著、集英社新書1035A(ISBN978-4-08-721135-1, 2020,9.22 第1刷発行)
出版社情報・目次。わたしの若い頃は、経済学はマルクス経済学(マル経)と近代経済学(近経)に分かれて対立し、東大など中心的な大学のほとんどで、マル経が優位だったと聞く。それが、1991年のソ連崩壊以後、マル経はなりをひそめ、近経では、資本主義(自由な市場の)経済の勝利を謳う。実際、最近、Mankiw の教科書を読んだり、edX での経済の講義を聞いたり死たが、そこでも、その正しさをかならず主張していた。それにも違和感を感じ、マルクス経済学はどうなってしまったのだろうと思っていたら、それは歴史経済学という名前で続いているとも聞いた。新しいマルクス理解・環境問題の視点も取り入れたものとして、若手のホープともいわれているという著者の本を手に取った。公立図書館で予約したが、多くの予約がついていたようで、手元にとるまでに時間がかかった。よく読まれているようだ。しかし、実際、手にとって読んでみると、怒りのようなものが込みあげてきた。1960年代後半からの学園紛争時代に引き戻されるようで、結局、分断と正統性の主張が背後にあると強く感じたからだろう。いくつかの重要な指摘(特に事例)もあるが、後年のマルクスに引き寄せてそれを絶対的に正しいものとして、都合の良いところだけ他の考えを例示し、他の考えに反論を加える。昔に引き戻される感覚が辛かった。「左派の常識からすれば、マルクスは脱成長など唱えていないということになっている。右派は、ソ連の失敗を懲りずに繰り返すのか、と嘲笑するだろう。さらに『脱成長』という言葉への反感も、リッべラルの間で非常に根強い。それでも、この本を書かずにはいられなかった。最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候危機と資本主義の関係を分析していく中で、晩年のマルクスの到達点が脱成長コミュニズムであり、それこそが『人新世』の危機を乗り越えるための最善の道だと確信したからだ。」(p.359 おわりに)この「確信」に問題があるように思う。そして、最初から分断を仮定しての議論。ひとは、ほとんど何もわかっていないことを認めなければ、協働はできないだろう。残念ながら、人の欲望についての考察などはせず、唯物論的史観での科学的思考万能主義、帰納的に得た個別の事実から、すぐに演繹するという乱暴な論理展開が多すぎるように思う。科学者はもっと謙虚である。無知であることを知っているから。障害者支援や老人介護、児童養護施設などの「(著者も重視している)ケア」の現場で生活し、ときをすごすことが大切なように思う。以下は備忘録。「かつてマルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる『宗教』を『大衆のアヘン』だと批判した。SDGs はまさに現代版『大衆のアヘン』である。」(p.4)「グレタ・トゥンベリ:あなたたちが科学に耳を傾けないのは、これまでの暮らし方を続けられる解決策しか興味がないからです。そんな答えはもうありません。あなたたち大人が、まだ間に合うときに行動しなかったからです。」(p.40)「ヨハン・ロックストローム:地球システムには、自然本来の回復力(リジリアンス)が備わっている。だが一定以上の負荷がかかると、その回復力は失われ、極地の氷床の融解や野生動物の大量絶滅など急激かつ非可逆的な、破壊的変化を起こす可能性がある。これが『臨界点(tipping point)』である。もちろん、臨界点を超えてしまうことは、人間にとっても非常に危険である。そこで、その閾値を九領域において、確定しようとした。気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、大気エアゾルの負荷、化学物質による汚染からなる。『緑の経済成長という現実逃避』 2019」(p.63)「バーツラフ・シュミル:継続的な物質的成長は不可能である。脱物質化(より少ない資源で、より多くのことを行うことを請け合うが)も、この制約を取り除くことはできない。」(p.96)「Daniel W.O'Neill et al. "A good life for all within planetary boundaries," Nature sustainability 1 (2018)」(p.107)「労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を越え、自由、平等、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。」(p.137)「マルクス:この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有を作り出す。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有を作り出すのである。」(p.143)「マルクス像:資本主義の発展とともに、多くの労働者たちが資本家たちによって酷く搾取されるようになり、格差が拡大する。資本家たちは競争に駆り立てられて、生産力を上昇させ、ますます、多くの商品を生産するようになる。だが、低賃金で搾取されている労働者たちは、それらの商品を買うことができない。そのせいで、最終的には、過剰生産による恐慌が発生してしまう。教皇による失業のせいでより一層困窮した労働者の大群は団結して立ち上がり、ついに社会革命を起こす。労働者たちは開放される。『共産党宣言』1848」(p.149)「マルクス『ザスーリチ宛の手紙』資本主義の危機は、資本主義制度の消滅によって終結し、また、近代社会が、最も原古的(アルカイック)な累計のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰することによって集結するであろう。」(p.191)「ローダデール:公富とは人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなる。私財は、私個人だけにとっての富のことで、それは、人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなるが、一定の希少性を伴って存在するもの。」(p.244)「資本論:自由の国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。(中略)この領域における自由は、ただ、社会化された人間、アソシエートした生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって、ーー盲目的な支配力としてのそれによって、ーー支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、(中略)この点にだけありうる。しかし、それでも、これはまだ依然として必然の国である。この国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の国が、ーーといっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然の国の上にのみ開花死うるのであるが、ーー始まる。労働日の短縮が根本条件である。」(p.270)「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」(p.328)「経済モデルの変革:既存の経済モデルは、恒常的な成長と利潤獲得のための終わりなき競争に基づくもので、自然資源の消費は増え続けていく。こうして、地球の生態学的バランスを危機に陥れているこの経済システムは、同時に、経済格差も著しく拡大させている。豊かな国の、とりわけ最富裕層による過剰な消費に、グローバルな環境危機、特に気候変動のほとんどの原因があるのは間違いない。」(p.330)
(2024.4.16)
- 「ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門」トーマス・レーマー著 白田浩一訳 新教出版社(ISBN978-4-400-11908-1, 2022.3.25 第一版第一刷発行)
出版社情報・目次。知人の翻訳で、家にあったので、手に取って読んだ。旧約聖書の解説で、護教的なものは多いが、この本は、まさに不都合な記事について、正面からうけとめ、歴史的な背景理解から、解説している。旧約聖書の豊かさを語っているとも言え、新約聖書との関わりにおいても、さまざまな問いに、完全に答えるというよりも、多面的な見方を聖書本文を忠実に読みながら、読者に問いかけている。旧約を読み解くほどの学識がわたしにはないが、まさに、このような読み方が学びたかった。つづけて、学んでみたいと思う。以下は備忘録。「第二次世界大戦後、特にユダヤ教に親近感をもっている一部のプロテスタントにおいて、キリスト教が旧約の神に対して持つイメージが大分良くなったことは確かである。」(p.24)「旧約聖書の神には歴史があり、それを無視してはならない。仮に今、神について描かれたテクストの選集を作り、教会教父、中世のスコラ哲学者、宗教改革者、啓蒙主義者、無神論の哲学者、そして現代の偉大な神学者の作品を収録するとしよう。収録された作品をすべて同じ時代に描かれたものと考えて、歴史的な背景を考慮に入れずに読む人などいない。むしろ、読者は個々の作品を、特定の時代や環境の産物として読むだろう。」(p.25)「モーセの歌:いと高き方(エル・エリオン)が国々を割り当てた時、彼が人類を分配した時、彼は神(エルの息子)の数に従って人々の境界線を定めた。主の(ヤハウェ)自身の取り分は彼の民、彼が引いたヤコブがその取り分。」(p.27)「イマヌエル・カント(1724-1804)の問い:人間はどのようにすれば、聖書のテクストを通じて語りかけてくるものが神であると確信できるのか。この問いに対して、カントは確実な答えはないと信じていた。それどころかある条件の元では、語りかけてくるものが神ではないことはわかるとも考えていた。」(p.84)「カントは次のように応答すべきだったという。『私は、息子を殺すべきではないということ、このことは全く確実です。しかし、私の前にあらわれているあなたが、本当に神であるということ、このことに、わたしは、確認がありません。』」(p.85)「二つの避けるべき危険:最初から神を擁護してしまう危険。たとえば、神は神を信じるものに害を与えることなど決してないと主張し、問題があると思われているテクストと真剣に向き合わないといった具合である。もう一つは、それらのテクストが何を言わんとしているのかを真剣に検討せずに、神の『性質』に関する一般論に没頭してしまう危険である。」(p.87)「列王記下3:26-27 イスラエル(およびユダとエドム)と戦い、策に窮したモアブの王が、息子をモアブ人の神ケモシュに捧げたということである。元のテクストでは、その生贄がイスラエルの民に対するケモシュの怒りを引き起こした子となっていたに違いない。その結果、イスラエルの民は引き上げざるを得なかったのだ。しかし、現在のテクストは人身供養を非難している。従って、イスラエルの民はモアブの王の行為に嫌悪感を抱いたあまり、引き揚げて国へと帰ったことを示唆しているのであろう。」(p.88)「エゼキエル20:31 『わたしもまた、良くない掟と、それによって生きることができない方を彼らに与えた。』書き手は人間を生贄に献げることと、ヤハウェ礼拝の関連を否定してはいない。」(p.100)「神は残忍なのだろうか。神は人類の敵であるかのように行動しているのだろうか。ここまでに検討した四つの物語は、いずれも残忍な、あるいは、破滅的な人間の行為がもたらしたものであった。つまり原理主義的な考え方と幼児供犠である。今日、私たちの目に残忍に見える神の行為は、人間の残忍さについて問いを投げかけている。別の言い方をすれば、これらのテクストは実のところ人間の残忍さのものであって、神の残忍さについてのものではない。従って、神の残忍さとは、単に神へと転嫁された人間の残忍さに過ぎないのではないかと問うことができよう。だが、これは心理的な、そしていささか安直な解釈ではある。」(p.118)「ヨセフ物語は、エルサレムの正統的な宗教や、さらにはバビロンの宗教よりも、リベラルなユダヤ教を提示している。この物語は普遍的な神学を展開しており、ヤハウェよりもエロヒームという名を好んで用いる。ヤハウェに対する信仰はヘブライ人だけのものであるというような特殊性は強調されていない。それどころか、ファラオとヨセフは何の問題もなく神学的な議論を行なっている。」(p.148)「個人の自由を支持する多くの現代人にとって、旧約聖書の神は人間にとても守れないような多数の方を与える独善的な神と映る。(中略)人間は最初から罪人であり、そうであるのは、最初の人間のカップルが罪を犯したからだという考え方である。しかし、パウロが展開したこの原罪という考え方(ローマ5:12-21, 7:13-23)は、本当にヘブライ語聖書に存在するものだろうか。」(p.152)「自由意志の問題。どの程度まで、人間は自らの運命の自由で絶対的な支配者であるのか。そしてどのようなかたちで、人間の自由は神に依存しているのだろうか。」(p.158)「トーラーの権威者もトーラーを続けて研究するように求めている。『法』は常に再創造されなければならない、それこそイエスが山上の説教で行っていることであり、法の再解釈を推し進めたのだ。」(p.164)「神はカインに対して父親のように語りかけ、罪に陥ることがないように勧告している。創世記4:7で罪ということばが初めて聖書に登場する。従って、聖書のテクストによれば、『原罪』とは『りんごの物語』つまり創世記3章に記された神の命令に対する過ちの物語ではない。真の罪とは、暴力に好き勝手させてしまうことなのだ。」(p.180)「本書の目的はこのような神学的複合体を強化することではなく、ヘブライ語聖書の読者が戸惑い、あるいは排除したいと思うような神の側面に光を当てくることであった。」(p.225)「言い過ぎを承知で言えば、多くの新約文書はユダヤ教のミドラシュ(ヘブライ語の聖書のテクストを実践や解釈によって書き直したもの)の伝統に沿って構成されているのだ。ゆえに、マタイによる福音書はモーセ五書のミドラシュとして読むことができる。マタイによる福音書は五部構成であり、イエスを新しいモーセとして表しているのだ。」(p.227)「私が所属する国際基督教大学教会の礼拝でトーマス・レーマー教授の説教を聞いたのは、2014年5月のことでした。私たちの判断基準で聖書を評価してはならないと明快に語った説教は、私だけでなく多くの教会員を魅了しました。こんな素晴らしい説教をする方の本を読んでみたい。そう思って買い求めたのが本書の英語版です。」(p.244)
(2024.4.24)