Last Update: May 12, 2024

聖書通読の会 2023

メール配信記録

一週間に一度、基本的に日曜日の朝、配信したメールの記録です。これ以外に、日曜日夜に、聖書通読の会 2023の参加者からの投稿にわたしが応答を書き配信したものは、非公開にしてあります。
  1. BRC 2023 no.001:創世記1章ー創世記16章
  2. BRC 2023 no.002:創世記17章ー創世記30章
  3. BRC 2023 no.003:創世記31章ー創世記44章
  4. BRC 2023 no.004:創世記45章ー出エジプト記8章
  5. BRC 2023 no.005:出エジプト記9章ー出エジプト記22章
  6. BRC 2023 no.006:出エジプト記23章ー出エジプト記36章
  7. BRC 2023 no.007:出エジプト記37章ーレビ記10章
  8. BRC 2023 no.008:レビ記11章ーレビ記24章
  9. BRC 2023 no.009:レビ記25章ー民数記11章
  10. BRC 2023 no.010:民数記12章ー民数記25章
  11. BRC 2023 no.011:民数記26章ー申命記3章
  12. BRC 2023 no.012:申命記4章ー申命記17章
  13. BRC 2023 no.013:申命記18章ー申命記31章
  14. BRC 2023 no.014:申命記32章ーヨシュア記11章
  15. BRC 2023 no.015:ヨシュア記12章ー士師記1章
  16. BRC 2023 no.016:士師記2章ー士師記15章
  17. BRC 2023 no.017:士師記16章ーサムエル記上4章
  18. BRC 2023 no.018:サムエル記上5章ーサムエル記上18章
  19. BRC 2023 no.019:サムエル記上19章ーサムエル記下1章
  20. BRC 2023 no.020:サムエル記下2章ーサムエル記下15章
  21. BRC 2023 no.021:サムエル記下16章ー列王記上5章
  22. BRC 2023 no.022:列王記上6章ー列王記上19章
  23. BRC 2023 no.023:列王記上20章ー列王記下11章
  24. BRC 2023 no.024:列王記下12章ー列王記下25章
  25. BRC 2023 no.025:歴代誌上1章ー歴代誌上14章
  26. BRC 2023 no.026:歴代誌上15章ー歴代誌上28章
  27. BRC 2023 no.027:歴代誌上29章ー歴代誌下13章
  28. BRC 2023 no.028:歴代誌下14章ー歴代誌下27章
  29. BRC 2023 no.029:歴代誌下28章ーエズラ記5章
  30. BRC 2023 no.030:エズラ記6章ーネヘミヤ記9章
  31. BRC 2023 no.031:ネヘミヤ記10章ーエステル記10章
  32. BRC 2023 no.032:ヨブ記1章ーヨブ記14章
  33. BRC 2023 no.033:ヨブ記15章ーヨブ記28章
  34. BRC 2023 no.034:ヨブ記29章ーヨブ記42章
  35. BRC 2023 no.035:マタイによる福音書1章ーマタイによる福音書14章
  36. BRC 2023 no.036:マタイによる福音書15章ーマタイによる福音書28章
  37. BRC 2023 no.037:マルコによる福音書1章ーマルコによる福音書14章
  38. BRC 2023 no.038:マルコによる福音書15章ールカによる福音書12章
  39. BRC 2023 no.039:ルカによる福音書13章ーヨハネによる福音書2章
  40. BRC 2023 no.040:ヨハネによる福音書3章ーヨハネによる福音書16章
  41. BRC 2023 no.041:ヨハネによる福音書17章ー使徒言行録9章
  42. BRC 2023 no.042:使徒言行録10章ー使徒言行録23章
  43. BRC 2023 no.043:使徒言行録24章ーローマの信徒への手紙9章
  44. BRC 2023 no.044:ローマの信徒への手紙10章ーコリントの信徒への手紙一7章
  45. BRC 2023 no.045:コリントの信徒への手紙一8章ーコリントの信徒への手紙二5章
  46. BRC 2023 no.046:コリントの信徒への手紙二6章ーガラテヤの信徒への手紙6章
  47. BRC 2023 no.047:エフェソの信徒への手紙1章ーコロサイの信徒への手紙4章
  48. BRC 2023 no.048:テサロニケの信徒への手紙一1章ーテモテへの手紙一6章
  49. BRC 2023 no.049:テモテへの手紙二1章ーヘブライ人への手紙6章
  50. BRC 2023 no.050:ヘブライ人への手紙7章ーペトロの手紙一2章
  51. BRC 2023 no.051:ペトロの手紙一3章ーユダの手紙
  52. BRC 2023 no.052:ヨハネの黙示録1章ーヨハネの黙示録14章
  53. BRC 2023 no.053:ヨハネの黙示録15章ー詩篇6篇
  54. BRC 2023 no.054:詩篇7篇ー詩篇20篇
  55. BRC 2023 no.055:詩篇21篇ー詩篇34篇
  56. BRC 2023 no.056:詩篇35篇ー詩篇48篇
  57. BRC 2023 no.057:詩篇49篇ー詩篇62篇
  58. BRC 2023 no.058:詩篇63篇ー詩篇76篇
  59. BRC 2023 no.059:詩篇77篇ー詩篇90篇
  60. BRC 2023 no.060:詩篇91篇ー詩篇104篇
  61. BRC 2023 no.061:詩篇105篇ー詩篇118篇
  62. BRC 2023 no.062:詩篇119篇ー詩篇132篇
  63. BRC 2023 no.063:詩篇133篇ー詩篇146篇
  64. BRC 2023 no.064:詩篇147篇ー箴言10章
  65. BRC 2023 no.065:箴言11章ー箴言24章
  66. BRC 2023 no.066:箴言25章ーコヘレトの言葉7章
  67. BRC 2023 no.067:コヘレトの言葉8章ーイザヤ書1章
  68. BRC 2023 no.068:イザヤ書2章ーイザヤ書15章
  69. BRC 2023 no.069:イザヤ書16章ーイザヤ書29章
  70. BRC 2023 no.070:イザヤ書30章ーイザヤ書43章
  71. BRC 2023 no.071:イザヤ書44章ーイザヤ書57章
  72. BRC 2023 no.072:イイザヤ書58章ーエレミヤ書5章


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  1. BRC 2023 no.001:創世記1章ー創世記16章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) まだ、BRC2021 が終わったばかりと感じておられるかもしれませんね。いつも、聖書通読の会(BRC) は、日曜日の朝に、月曜日から次の日曜日の分を、配信してきましたが、来年、2023年は、1月1日が日曜日ですから、一回目だけ変則で、少し早めに、それも、8日分(創世記1章から16章)を、送らせていただくことにいたしました。BRC2021 に登録されていた方は、引き続き、BRC2023 を遅らせていただきます(現時点で私を除いて79名)。むろん、もうやめたいという方は、メールを頂ければ、送信リストからはずさせていただきます。 最初に読む創世記は、非常に興味深い書物ですが、わたしも感想を下に書いていますし、リンクもいくつかついていますから、今回は、このメール自体が少し長いので、特別に何かを書くことはやめておこうと思います。一つだけ書いておくと、下のわたしの感想にも登場しますが、並木浩一先生と、奥泉光氏の対談調の、「旧約聖書が分かる本」を最近、読みました。わたしの感想にも、多少影響しているかもしれません。 毎回、最初は、似た文章で、先週の日曜日には、すでに公開していましたから、ご覧になった方もおられるかもしれませんが、第1回目の配信ですから、この会についての文章を送らせていただきます。 この会について 聖書を一緒に通読しませんかにお申し込み下さった皆様へ 登録ありがとうございます。できれば、多言語コミュニケーションをしたいのですが、わたしの語学力は非常に乏しいので、基本的に、すべて日本語で書かせていただきます。 Bible Reading Club からとって、略称は、BRC 2023 です。第一弾 BRC 2023 no.001 は 2022年12月30日に配信。 mailing list や、group をネット上に設定することも可能ですが、匿名参加も可とするため、BCC (Blind Carbon Copy) にアドレスをいれて、メールで送信する形式とします。 みなでグループとして共同体のようにして読んでいくのは楽しいのですが、いろいろな背景の方がおられますし、残念ながら途中でやめる方も出てくるかも知れませんので、原則は匿名とします。 投稿のときはイニシャルでも、全くの匿名でも構いません。 1月1日は創世記1章と2章を読んで下さい。 一日2章ずつ進みます。次の二種類のシート(pdf)を参考にしてください。わたしに声をかけてくだされば印刷したものをさしあげます。 • 通読表:聖書にはさんで、読んだ部分を斜線で消していくのがおすすめです。(https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/BRC2023.pdf) • 通読日程表:その日に読む場所を確認するためのものです。(https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/BRC2023-1.pdf) 通読表の1ページ目、出エジプトのあとに 2023.2.14 と書いてあるのは、その日に39章と40章を読み出エジプト記を読み終わるということ、 レビ記の最後に2023.2.28-1 と書いてあるのは、この日はレビ記の27章を読みレビ記を読み終わり、同じ日に民数記の1章を読むことを意味しています。つまり、レビ記の最後の章を読むのは2023.2.28に読む2章のうちの1章目だということです。 予定通りに進むことができないことは、何度も生じます。読んだ部分をはっきりさせておくことで、ある達成感と、どこから再開するかを考える助けにもなります。何度挫折してもよいのです、また始めれば良いですから。これらのシートを活用して頂ければ幸いです。 これに加えて、 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html を参照して下さい。BRC2021 のものをベースにしていますが、少しずつ新しい気持ちで改訂しています。お時間のあるときに、お読み頂ければ幸いです。 卒業が近い方など、現在受け取っているものとは違うメールアドレスに送った方が良い場合は、早めにご連絡下さい。 はじめに 聖書を読む目的はいろいろだと思います。 わたしは、みなさんそれぞれ異なる目的で読むということでよいと思っています。 しかし、これからメールを送るにあたって基本的なことをまず書いておきます。 ここでは 「聖書またはその巻を書いた方(著者)が何を私たちに伝えようとしているのか。」 を読み取ることを第一の目的としてわたしは書いていこうと思います。 クリスチャンにとって(わたしもそうですが)は、聖書を読むことは、神様からのメッセージを読み取ることを含んでいると思いますが、そのことに集中する事は危険でもあります。 まず、その箇所で著者は何を伝えようとしているかを受け取ることはどんな読み方にしても基本的です。 基本的なだけでなく共通の目的ともなり得るものです。 クリスチャンでない方の中には、キリスト教の聖典にはなにが書いてあるのか、西洋人の精神的基盤を支えると言われるものはなになのか、それに、論理的、科学的矛盾は無いのか、クリスチャン以外にとっても有効な道徳的指針はなにかあるか。などという動機で読まれる方もいるかも知れません。しかしそのような方にとっても、まずは、著者が伝えようとしていることをしっかり受け取ることはたいせつでしょう。 クリスチャン、クリスチャンでない方と書きましたが、わたしは基本的な姿勢として、わけることはしません。神様は、すべてをみておられていると思いますが、人間世界では、そのような区別は、弊害はあっても、あまり良いことはないと個人的に考えているからもあります。わたしは、イエスに従うものでありたいと願っていますが、わたしがどういう者であるかの判断は、すべてを知っておられる神様のものです。 聖書の各巻についての基本的な情報は、読み進める上で助けになると思い書いています。しかし、長文になるので、メールでは配信せず、ホームページ(https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html)に載せることにしました。現在載っているのは、これまでに書いたものです。ときどき更新できればと思いますが、どうなりますか。すべての巻の簡単な解説がすでにありますので、通読とは別の目的にも使って頂ければ幸いです。個人的に書いたものですから、むろん、不十分ですし、極力学説に依存する部分をさけていますから、学問的な価値はありません。あくまでも、皆さんの通読の助けとなればと書いています。 教義や解釈、背景などをわたしが書くこともあるかもしれませんが、断定的には書かないつもりです。 ひとつには、私の専門は数学で、断定的に書くほどの学識がないこともありますが、 同時に数学で正しいというほどに確実な解釈や学説があるわけではないと私が考えているからでもあります。 さらに、私は、教義や解釈は、まずは聖書の中身の理解から帰納的に出てくることで、教義や伝統的な解釈から、聖書を理解していく(演繹する)のは方向が逆だと考えています。むろん、教義や伝統的解釈が、ひとりよがりの解釈を生み出すことをおしとどめたり、他の聖書の箇所に目を向けることを促す助けとなる面を否定しません。しかし、人間が理解できることは一部分だと思いますから、解釈の正しさの議論は、聖書を少しずつ読んでいくときには、極力避け、様々な読み方があるという豊かさを楽しんで頂ければと願っています。そこで、わたしが、教義や、伝統的解釈について書くときは、ひとつの参考として受け取って下さい。 質問、感想など、私宛に送って下さい。 どうしても個人的に答えてほしいという場合をのぞいて極力公開の質問、感想として下さい。 質問、感想の部分をわたしが転送しますので、できれば、ハイフンで線をひき(--- から --- で区切り)、 匿名にするか最後にイニシャル(または自分で決めたハンドルネーム)をつけて下さい。 前にも書いたように、お互いに知っているわけではないひとにも転送されますので、多少気をつけたいと思います。 最後に、聖書に頻繁に現れる単位と、聖書の箇所の略記法(実は何種類もありますが)を書いておきます。通読の記録でわたしがときどき使います。 キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン OT 旧約聖書:Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth ルツ記、Sam or Smサムエル記、Kings or Kgs 列王紀、Chron or Chr 歴代誌、Ezra エズラ記、Neh ネヘミヤ記、Esther or Est エステル記、Job ヨブ記、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、Eccl 伝道の書、Song of Sol or Sg 雅歌、Is イザヤ書、Jer エレミヤ書、Lam 哀歌、Ezek or Ez エゼキエル書、Dan ダニエル書、Hos ホセア書、Joel ヨエル書、Amos アモス書、Ob オバデヤ書、Jon ヨナ書、Mic ミカ書、Nah ナホム書、Hb or Hab ハバクク書、Zeph ゼパニア書、Hag ハガイ書、Zech ゼカリヤ書、Mal マラキ書 NT 新約聖書:Mtt or Mt マタイ福音書、Mark or Mk マルコ福音書、Luke or Lk ルカ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Acts 使徒、Rm ロマ書、Cor コリント書、Gal ガラテヤ書、Eph エペソ書、Phil ピリピ書、Col コロサイ書、Thess テサロニケ書、Tim テモテ書、Tit テトス書、Phlm ピレモン書、Heb ヘブル書、James or Jas ヤコブ書、Pet ペテロ書、1Jn ヨハネ書、Jude ユダ書、Rev 黙示録 1月1日からみなさんと一緒に聖書を通読できることを楽しみにしています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記1章ー創世記16章はみなさんが、明後日1月1日(日曜日)から1月8日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Genesis 1:26,27 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。 やはり、人の創造の記事を選んだ。何が正しいかではなく、どんなメッセージがここで語られているかをまずは受け取りたいと思う。ここで語られているのは、おそらく、特別な一人を想像したのではなく、一般的に、人を神のかたちに創造したということだろう。それも、男と女に。「自分のかたち」については、明確にはわからないが、神と、関係を持ちうる存在とのイメージがある。その意味で、ひとは、特別である。創世記記者は、それを、神との関係の最初に置いたのだろう。素朴であるが、驚かされることでもある。 Genesis 2:18 また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」 第二の創造記事である。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」(7)ここでも、一般的な人の創造についてのべている。「神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた。」(8)東の方が人の活動するところという意味らしい。(「旧約聖書がわかる本」並木・奥泉)引用句でも、独りと訳しているが、社会的な交わりをいっているのであって、(単数形ではるが)数が一だとは言っていないということなのだろう。助け手も、どちらが、どちらを支配するという意味ではないのだろう。互いに助け合う可能性もある。しかし、そうではない、支配・被支配関係もある(3:15,16)。「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。」(17)も、相互関係、信頼関係を築くには、契約・協定・約束が前提なのかもしれないと今回考えた。 Genesis 3:12,13 人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」 神の命令を破ったことから、さまざまな変化が生じている。ここで取り上げたのは、パートナー、助け手(協力者と読んでも良い)に対する裏切りである。これは、信頼関係の喪失とも表現されるだろう。なぜかも考えてみたい。神の命令も、神を尊重するといういみでの、信頼関係維持のために守るということなのだろう。もし、どうしても、守りたくないなら、訴え、語り合えばよい。そうはしていない。ある方との相互性に問題が生じると、他者との間にも亀裂がはいるということか。これが神が教えたことと理解しても良いし、聖書記者が学んだことと考えてもよいだろう。 Genesis 4:13,14 カインは主に言った。「私の過ちは大きく、背負いきれません。あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、私はあなたの前から身を隠します。私は地上をさまよい、さすらう者となり、私を見つける者は誰であれ、私を殺すでしょう。」 この流れを見ていると、理不尽と思える点や、不明な点もあるが、まず、主が最初に語りかけたときに応答していれば、結果は違ったのではないかと思う。「主はカインに向かって言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。』」(4,5)対話だろうか。関係性だろうか。信頼関係、平和を築くものだろうか。これが、互いに愛し合うことにつながっているように、わたしには思われる。さらに、このような大きな罪を犯しても、カインは生かされ、守られる。これも、驚きである。 Genesis 5:32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。 いくつか気づくことがある。この章は、アダムの系図として、カインの系図とは分けられていること。また、「男と女に創造された」とあるものの、ここにあるのは、男系の系図で「もうけ」と男性が子を得る表現になっていること。基本的に、男の子の名前だけが記され、かつ、かなり歳がいってからこどもが得られたような表現になり、子どもをもうけてから、かなり長く生きていること。ただし、21節からのエノクは例外。また、ノアも例外である。ノアがセム、ハム、ヤフェトをもうけた年齢は、ほかのひとの死ぬまでの年齢を考えると、物語上、仕方がなかったと思われるが、エノクについては、突然「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(24)と記している。他の人が長寿だったことは、ノアの物語への背景としてのつながりなのかもしれないが、長く生きるかどうかに重要性はないとも言っているように見える。いずれにしても、不明なことが多い章である。 Genesis 6:18 だが、私はあなたと契約を立てる。あなたは、息子たち、妻、息子の妻たちと一緒に箱舟に入りなさい。 契約(בְּרִית(bᵊrîṯ):covenant, alliance, pledge)ということばが、聖書中、最初に現れる箇所である。「神が地を見られると、確かに地は腐敗していた。すべての肉なる者が、地上でその道を腐敗させたからである。」(12)とある。実際、洪水のあとも、この状態が変わるわけではない。変わるとすると、園での、命令(善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない(2:17))が、ここでは、契約という形式になっていることである。契約の内容は、(「ノアはすべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した。」(22)とはあるものの)ここには、記されていないと考えるべきだろうが、神が定めたように思われるが、ことばは、相互性を含んでいる。この契約という形式がここからスタートするということである。これは、ひとを分けることにもつながる。契約を受け入れるものと、受け入れないもの。しかし、それは、差別ではないのだろう。この違いもしっかり考えていきたい。 Genesis 7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである。 ネフィリム(6:4)は、あてにせず、主の目に適う者(6:8)として、ノアを選び、引用句のように記すが、ここには、その前の6章22節の「ノアはすべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した。」があるように思われる。おそらく、ノアも完璧なひとではなかったろう。しかし、相互の信頼関係を持てるとしたのだろう。異なるフェーズに入ったということである。箱舟に入ったものの記述のあと「神がノアに命じられたとおりであった。」(16b)としている。人と人との信頼関係でも、むろん、完璧なものは、存在しない。しかし、そのような関係性をたいせつにしていると表現していることは、確かなように思われる。 Genesis 8:1 神は、ノアと彼と一緒に箱舟にいたすべての獣、すべての家畜を忘れることなく、地上に風を送られたので、水の勢いは収まった。 神が「ノアと彼と一緒に箱舟にいたすべての獣、すべての家畜を忘れることなく」と表現され、それに応答するかのように「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた。」(20)とある。やはり、この応答性に本質があるように思う。これが、聖書が表現しているところの、信仰でもあるのだろう。しかし、それは、完璧なものではない。そして、「主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた」内容「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」(21,22)も絶対的なものと考えないほうがよいのだろう。エルサレムの陥落、バビロン捕囚などを考えると、すくなくとも、完全なものとして、記述もしていないように思われる。 Genesis 9:9-11 「私は今、あなたがたと、その後に続く子孫と契約を立てる。また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」 このあとに、契約のしるしの記述があるが、基本的に、引用箇所が、契約の内容である。ここに、契約ということばが、二回出てくる。契約とは、相互関係ではないのか。神と、わたしたちのように、同等でない者にとっては、相互関係であっても、対等ではないということだろうか。約束とは何が違うのだろうか。ここには、人間の側については、なにも記されていない。4節に「ただ、肉はその命である血と一緒に食べてはならない。」と、少し、命令のようなものがあるが、それが鍵だとは思えない。白紙ということだろうか。ゆっくり考えていきたい。 Genesis 10:25 エベルには二人の子が生まれた。一人の名は、その時代に土地が分けられたことにちなんでペレグと言い、もう一人の名はヨクタンと言った。 「以上が、国ごとの系図によるノアの息子の氏族である。洪水の後、地上の諸国民は彼らから分かれ出た。」このことが、この系図の中心であろうが、8,9節のニムロドの記事や、引用句のように、少し、それとは、直接関係のない記述が含まれている。すべてが繋がっているわけではないだろうが、いくつかの、伝承がべつにあり、それを含めたのだろう。何らかの歴史的できごとが関係しているのかもしれない。しかし、あまり多くはない。メソポタミヤや、エジプトの歴史を踏まえるようなことはしていない。伝えたいことがここに含まれているのだろう。 Genesis 11:9 それゆえ、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言語を混乱させたからである。主はそこから彼らを全地の面に散らされた。 一般的には、ひとが全地に散らされ、広がっていったから、言語が多様になり、互いの言語が理解できないようになったと考えるだろう。個人的にもそうだと考える。しかし、因果関係で物事をみるのは、非常に限られた視点なのかもしれないと最近思う。因果関係は証明できない場合も多く、現実は理解できても、現実の様々な見方を得ることのほうがたいせつに思われるからである。ここでは「全地の面に散らされることのないように」(4)名をあげるために、塔を築いている。それに対して「主は、人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来て、」(5)ことばを、混乱させる。「名をあげ、自分たちが中心となってなんでもすること」を主が嫌われたというのが(主の、または、聖書記者が受け取った)メッセージのようである。そう考えると、散らされ、互いの言語が理解できないことも、積極的な意味もあるのかもしれないと今回思った。本当に、そのことが、主が望んだ、中心だったかは、わからないが。このあとに、アブラハムが登場する。個人に視点が向けられていくとも言える。 Genesis 12:1,2 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ/私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。/あなたは祝福の基となる。 ここに、散らされていったひとりの人の物語が始まる。主が、個人に語りかけられている。出発は、このことばが起点となっているわけではない。「テラは自分の息子アブラム、ハランの息子で自分の孫であるロト、息子アブラムの妻である嫁のサライを連れてカルデアのウルを出発し、カナンの地に向かった。彼らはハランまで来て、そこに住んだ。」(11章31節)とあるように、出発したのは、テラである。しかし、ここに新たなる出発があると、聖書記者は記しているのだろう。旧約聖書の原型が今の形に近いものとなったのが、バビロン捕囚、離散後と考えると、様々な伝承や、記録を踏まえた上で、ここからのメッセージは、(聖書記者・編集者の)自分史の語り直しだとも考えられるかもしれない。丁寧に読んでいきたい。 Genesis 13:14,15 ロトが別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう。 イスラエルの土地を、アブラハムの子孫に与えるという主の約束が書かれていると取るのが普通だろう。しかし、今回読んでいて、ロトが別れていった土地も含まれており、すべたの場所が、あなたが自由にかつどうできる場と言っているのかもしれないと思った。土地所有は、人間が決めた、それも、統治政策に関係したものである。マサイランドのことなども思い出した。Private Land, Community Land, Public (State's) Land のように、個人の所有ではなく、活動の場所と考えると、見方も、ビジョンも変わってくる。 Genesis 14:14-16 アブラムは親類の者が捕虜になったと聞き、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者を動員し、ダンまで追って行った。夜になって、アブラムと僕たちは分かれて相手を攻撃し、ダマスコの北のホバまで追って行った。アブラムは財産のすべてを取り戻し、親類のロトとその財産、女たちとその他の人々も取り戻した。 マムレが13章18節にあるようにヘブロンであるなら、大変な距離を追いかけて、取り戻したことになる。「シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルの時代に、」(1)や、ケドルラオメル(4)など、一つ一つ王についても調べなければいけないが、何らかの歴史的事件があったのだろう。13章での約束とは、関係がないかもしれないが、土地を縦横に駆け巡っており、約束の一部の成就も感じさせる。すくなくとも、アブラムはこのようにして、土地を所有しようとは考えなかったようである。 Genesis 15:3,4 アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」すると、主の言葉が彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」 ここに子孫のことが書かれている。血筋は、本来は、本質的ではないだろう。しかし、部族(大家族)ごとに別れている、当時は、これ抜きには、語れなかったのだろう。興味深いのは、ここでの、神と、アブラハムの対話である。上に書いたことも含めて、絶対的な正しさを押し付けるわけではない。関係を構築しようとしているように見える。それが信頼関係であり、信仰なのかもしれない。このあとにも、「主は言われた。『私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である。』」(7)とあるが、このときは、まだ、テラの時代である。直接ではない関係も、信頼関係のもとにはあるのだろう。最後に、「そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」(16)とまことしやかな理由が書かれているが、それは、単に、一つの説明で、因果関係としては、理解しないほうがよいように思う。わたしたちの知る(受け取ることのできる)ところは一部。主の、たいせつな独立な存在と考えるなら、その尊厳も尊重すべきである。 Genesis 16:7-9 すると、主の使いが荒れ野にある泉のほとり、シュルへの道沿いにある泉のほとりで彼女を見つけ、尋ねた。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」彼女が、「私は女主人サライの前から逃げているところです」と答えると、主の使いは言った。「女主人のもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えなさい。」 ハガルの物語も興味深い。まず、ダマスコのエリエゼルは、家系として血では繋がれないが、ハガルは、アブラハムの子を宿している。しかし、ここでは、あくまでも「サライの女奴隷」である。今回興味深く感じたのは、「ハガルは、自分に語りかけた主の名を、『あなたはエル・ロイです』と呼んだ。『私はここでも、私を見守る方の後ろ姿を見たのでしょうか』と言ったからである。」(13)と言っているが、引用句では「主の使いが彼女を見つけ」となっている。探し出してくれたとも言えるし、主の使い(おそらくひと)が関与しているともとれるし、迷い出た奴隷を見捨てないとも言える。社会的背景もあり、単純な結論を出さず、丁寧に、いろいろな視点から読んでいきたい。 2022.12.30 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  2. BRC 2023 no.002:創世記17章ー創世記30章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 新年、あけましておめでとうございます。みなさんは、どのような年末年始を過ごされたでしょうか。また、年頭に何らかの決意や、今年にこめた願いを言語化されたかたはおられるでしょうか。お正月をべつに、特別な時(カイロス)とする必要はありませんが、ある時を、特別な時として、自分の人生を振り返り、新しい決意を持って生きようとすることは、やはり意味があるように思います。 さて、BRC2023 はすでに始まり、旧約聖書の最初に置かれている、創世記を読み始め、今週も、創世記を読み継ぎます。創世記はいかがですか。創世記がいつ誰によって書かれたは、不明としか、わたしには書けませんが、創世記の書かれた背景には、いろいろな伝承があったことは、確かでしょうし、一定の時期に、この形にまとめられたことも確かでしょう。実際に、まとめたのは、一人なのか、複数の人なのかもわかりませんが、それを、創世記記者と呼ぶことにすると、創世記記者だけでなく、伝承者に思いを寄せることもたいせつなようにも思います。 創世記は、11章までが、創造物語、12章からアブラハム物語、そのあと、イサク物語、ヤコブ物語と続きます。このヤコブはイスラエルという名前でも呼ばれ、イスラエル十二部族の父となります。その後半は、ヨセフ物語と呼ばれ、このあと、出エジプト記以降につながるものとなっています。 わたしの感想などを記した下の聖書ノートを見てくだされば伝わるかと思いますが、いろいろと考えさせられ、わたしは、楽しんで読んでいます。みなさんは、どのような感想や、疑問を抱かれるでしょうか。 BRC2023 のホームページにも少しか書きましたが、通読の会もいつまで続けられるかなと、今回考えながら BRC2021 からの更新作業をしていました。BRC2011 を始めた頃は、1982年から、聖書ノートを書きながらの通読を続けており、わたしの生活の一部としてたいせつなものだったので、そのたいせつなものを、分かち合うことができればとの気持ちが強く、みなさんが、聖書通読ができるとよいなと心から願い、そのサポートをしたいと思ってメールを送っていました。そのころから、このBRCのメールを受け取っておられる方も、何人もおられるでしょうね。現在は、私を含めると、80人の方が BRC2023 に登録されており、原則として日曜日に、メールを配信しますが、それが不達で戻ってこないで届いていそうなことに、とても大きな喜びを感じています。通読の会の予定通りに、読んでおられる方がどの程度おられるかはわかりませんが、メールの最初の部分をチラッと読んだり、わたしの感想(聖書ノート)をざっと読まれる方もおられるようですし、単に、また来たなとメールの着信を確認されるだけのかたもおられるでしょう。むろん、登録されているアドレスは通常はチェックしないという方もおられるかもしれません。わたしは、相互性ということばをよく使いますが、ひとと人との相互の関係ですかね、そのようなものが、非常に希薄な場合も含めて、継続することは、とてもうれしいことだと感じています。歳をとったからかもしれませんが、いろいろなかたちでの、ひととのつながりが、一番の財産のような気がしているのです。ほとんどのみなさんは、わたしよりずっとお若いですから、感覚はかなり異なるかもしれませんが、わたしは、今回の BRC2023、ひょっとすると、最後になるかもしれないという気持ちをもって、ていねいに向き合えると良いなと願っています。わたしだけでなく、まあ、ほとんどのばあい、短期間で終わってしまう、年頭の決意ですかね。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記17章ー創世記30章はみなさんが、明日1月9日(月曜日)から1月15日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Genesis 17:23 アブラハムは、息子のイシュマエル、家で生まれたすべての者、銀で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家の人々のうち、すべての男子を集め、その日、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。 ほとんど一章をかけて、この割礼のことが書かれていて、少なくとも、これが書かれた時点では、非常に重要であったことがわかる。同時に、これがイスラエル民族に限ったものでないことも、よく知られていただろう。そうであっても、重要視されるのは、主の約束を、特別なものとして、部族で受け取るという表現なのだろうか。むろん、聖書に書かれている割礼は、男性のもののみで、女性のFGM などは、関連性はない。この、割礼の意味付けは、よくわからない。生殖行動と関係はあるのだろうが。 Genesis 18:32,33 彼は言った。「わが主よ、もう一度だけ申し上げても、どうかお怒りになりませんように。もしかすると、そこには十人しかいないかもしれません。」すると主は答えられた。「その十人のために、私は滅ぼしはしない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムは自分の住まいに帰って行った。 「旧約聖書がわかる本」(並木・奥泉)に、なぜ、独りだけでもいればと問わなかったかについて書かれていた。その箇所かどうかは忘れたが、「神の行動基準を人間が認識するのは、神の自由を制約することになるから。神の自由は徹底的に尊重される。神の自由が守られるから、人間も自由人として行動できる。」(p.201) と書かれていた。これには、考えさせられることが多かった。神の行動基準を人間が認識し、そこから演繹するようなことは、神の自由を制限するという考え方である。そうしないことによって、人間の自由も守られる。責任とともに、信頼関係がどういうものかについても、考えさせられた。 Genesis 19:1,2 二人の御使いが夕方ソドムにやって来たとき、ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって出迎え、そして地に顔を付けてひれ伏して、言った。「皆様、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして明日の朝早くに起きて、旅を続けてください。」ところが彼らは、「いえ、私たちは広場で夜を過ごします」と答えた。 今回は、この箇所を読んで、ロトの行動を見ると、予め、アブラハムから、使いが来るかもしれないこと、そして、ソドムが滅ぼされるかもしれないことを聞いていたのではないかと思った。わたしがアブラハムならもちろん知らせようとするだろう。アブラハムからの連絡が実際にあったかどうかは不明だが、ロトは、おそらく、できる限りのことをしている。御使いを引き止めて、招き入れ、もてなそうとし、街の人から守ろうとし、婿(許嫁(いいなずけ)なのだろう)たちに連絡をする。しかし、どれをとっても、もうひとつだと感じさせられてしまう。おそらく、天地が滅びるという連絡をもらったときにどう行動するかが問題なのではなく、日常的に、気をつけて、こころをととのえて、生活することなのだろう。それが「気をつけていなさい」と繰り返すイエスの教えにもつながる。危機のときにどう行動するかではなく、それに備えて日々を生きるものでありたい。街の人や、近しい人と信頼関係を築き、たいせつなことを共有し、つねに、旅人をもてなし、感謝して与え、神様の御心を求め続けることだろうか。 Genesis 20:7,8 さあ、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者であるから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたとあなたに連なる者は皆、必ず死ぬと覚悟しなさい。」アビメレクは次の朝早く起きて、すべての家臣を呼び集め、これらすべての出来事を語り聞かせた。すると一同は非常に恐れた。 イサクの誕生の前の物語である。アビメレクの「次の朝早く起きて」にも惹かれたが、ここでアブラハムが「預言者」と呼ばれていることにも興味を持った。神のことばに預かるものということなのだろう。そのようなものだから「あなたのために祈り、命を救ってくれる」その力があるわけではないだろう。主のみこころを求めて、とりなしの祈りをしてくれるということなのだろう。強制的な魔術ではない。やはり、対話、コミュニケーション、相互性が、底流に流れているように感じる。 Genesis 21:17,18 一方、神は子どもの泣き声を聞かれ、神の使いが天からハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子どもの泣き声を聞かれた。さあ、子どもを抱え上げ、あなたの手でしっかりと抱き締めてやりなさい。私は彼を大いなる国民とする。」 ハガルとイシュマエルの問題について神が語り、具体的な指示がされたかどうかは不明だが「アブラハムは朝早く起きて、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、肩に負わせ、子どもと共に送り出した。彼女は出て行って、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。」(14)とある。神が、アブラハムの友として、行動しているかのように見える。神様を信頼するとは、そのようなことなのかもしれない。単に、あることを委ねることではなく、日常的な信頼関係が育まれてこそでもあろう。友人とはそのようなものだろう。ここでは、それが描かれているようだ。 Genesis 22:14 アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、「主の山に、備えあり」と言われている。 イサクにとっては、トラウマになるのではないかとも言われる。しかし、やはり信頼関係の構築が最高潮に達したところと見るべきだろう。イサクも、自問自答しながら、この「主の山に、備えあり」を、こころのなかで唱えたことだろう。人生には、様々な危機がある。イサク物語は、アブラハム、ヤコブと比較すると非常に短いが、消化しなければいけない期間だったのかもしれない。いずれにしても、ものごとを点で捉えるのでは、ほんのいち部分しか見ることができない。それも、丁寧に見ていくたいせつな部分なのだろう。 Genesis 23:12,13 アブラハムはその土地の民の前にひれ伏した。そして、その土地の民が聞いているところで、エフロンに言った。「いやそれでも、私の願いを聞いてくださるのでしたら、畑地の代金はお支払いします。どうかお受け取りください。そうすれば、亡くなった妻をそこに葬ってやれるでしょう。」 引用句以外にもう一回「アブラハムは立ち上がり、その土地の民であるヘトの人々にひれ伏し、」(7)とも書かれている。ひれ伏すは、18章2節の三人のひとを迎えるときにも行っている。ロトも同じようにひれ伏し、さらに、モリヤでは、礼拝(22:5)と訳されているが、これも同じことばである。7節の立ち上がり、ひれ伏しは、動作がよくわからないが、いずれにしても、「私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。」(4)を表現するものなのだろう。小さな土地でも、正当に契約により取得したことに、意味があるのだろうが、おそらく、このような、アブラハムの謙虚さ、アブラハムが自分のこの地での位置をどのように理解していたかも大切なのだろう。今回、そのことがとても印象的に感じた。わたしたちも、この世では、寄留者である。謙虚な生き方をしたい。 Genesis 24:6-8 アブラハムは答えた。「いや、息子は向こうへ連れて行かないように注意しなさい。私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた天の神である主は、あなたの前に御使いを遣わされる。それであなたはその地から息子に妻を迎えることができる。しかし、もしその人があなたに付いて来るのを望まなければ、あなたは私との誓いを解かれる。ただ、息子を向こうへ連れて行くことだけはしてはならない。」 厳しい条件を課している。しもべもさらに、条件を課している。あとのヤコブ物語などを見ると、必ずしも、「息子を向こうへ連れて行かない」ことが本質であるとは思えない。しかし、このようなやりとりを、主と、アブラハムの関係を写し取ったものとして描いているように思われる。普遍化するのは危険であるが、神の友と呼ばれる信頼関係が背景にあるのだろう。「こうして『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2章23節)しもべは、15章2節のダマスコのエリエゼルかどうかは不明だが、アブラハムとの信頼関係がしっかり築かれていることも感じる。モリヤについていった二人の従者のひとりかどうかはわからないが、そのようなエピソードも知っていただろう。神とアブラハムの関係を知っていたことが背景にあるように思われる。 Genesis 25:18 イシュマエルの子孫が住んだのは、ハビラからエジプトに近いシュルまでの、アシュルに向かう地域であった。イシュマエルはすべての兄弟と対立して暮らした。 編集など様々な意図があるのかもしれないが、周辺の民族・部族と思われるリストを子孫とする、妻ケトラのことが最初に書かれている。続けて「アブラハムは財産のすべてをイサクに譲ったが、側女の子らには贈り物を与え、まだ自分が生きている間に東の方にあるケデムの地に移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(5,6)とあり、これからすると、イシュマエルとケトラの子がケデムの地に移住させられたようである。しかし、アブラハムの死と、イシュマエルとイサクによる埋葬の記事のあと、イシュマエルの系図が続く。ここには、十二人の族長(16)ともあり、ハガルへの預言(21章18節)も連想させられる。引用句には「すべての兄弟と対立して暮らした。」とあり、独立性を描いているようにも見える。近隣の民族を関連付けてしめすことが背景としてあると思われるが、つぎはぎのようなイメージもうける。いくつかの資料の編集なのかもしれない。アブラハムのいる土地に住む民族とは、区別しているのだろうか。これだけでは、判断が難しい。 Genesis 26:28,29 すると彼らは言った。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで、私たちの間で、つまり、私たちとあなたとの間で誓約を交わしてはどうかと考えました。私たちはあなたと契約を結びたいのです。私たちはあなたに害を加えることをせず、むしろあなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたがたを送り出しました。そのように、あなたも私たちに悪いことはしないでください。あなたは今や、主に祝福されている方なのです。」 この直前(23-25)に主のイサクとの契約更新のような記述があるが、それに引き続いて、ペリシテ人(1,8,15)の王アビメレク(20章のアブラハム時代のアビメレクはゲラルの王とされ、地域的にもかなり離れているように思われる。話は将軍ピコル(20:22,32)の記述も、契約についても含め酷似している。資料は同じなのかもしれない。)との、契約を結ぶ。イサクの記事が少なく、ゲラルをペリシテに代えて、転用したのかもしれない。時代的には、BC2000年からすこし下ったあたりが想定されており、他の地域でも、記録は十分ではない時代と思われる。(文書が極端に増えるのは、新バビロニア以降だろう。)いずれにしても、契約が紛争に終止符をうつたいせつなものとして記録していることは印象的である。異質な他者が出会った時、関係性、相互性を通して、信頼関係を築くことがたいせつであるが、その最初、完全な信頼関係がないときに、契約・条約のようなものが問題を大きくしない、武力衝突を避ける重要な機能をもっていることが、この時代からあったと言っていることは興味深い。 Genesis 27:40,41 あなたは剣によって生き/弟に仕えるようになる。/ただいつの日か、あなたは束縛から脱して/自分の首からその軛を解き放つだろう。」こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」 創世記記者の意図が感じられる。「いつの日か」を、ここでは「父の喪の日」と、個人的にむりやり解釈して、計画を練る姿が見える。創世記での記述では、これから、ヤコブが戻ってくるまで、20年以上(31:41)の期間があり、イサクがなくなるのはさらにそのあとのようである(35:28)。この期間が与えられたことが、エサウが考え直す期間となったように見える。信仰者には、祝福の約束があるが、それがいつどのような形でと、自分なりに解釈することは、気をつけないといけないのだろう。しかし、エサウの怒りと痛みにわたしのこころも苦しむ。様々なところに存在する、世界の紛争の種のように、映るので。 Genesis 28:20-22 ヤコブは誓いを立てて言った。「神が私と共におられ、私の行く道を守り、食べる物、着る物を与えてくださり、私が無事、父の家に帰ることができ、そして主が私の神となられるなら、その時、柱として私が据えたこの石は神の家となるでしょう。そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」 ヤコブの主への応答としての、誓約である。ここに十分の一(14:20)が登場する。祭儀との関連性が記録としては意識されるが、主の約束ではなく、人間のがわの応答として、これが記録されていることは興味深い。問うことや、願うことは、これまでも記録されているが、ここでは、感謝とともに、自分がすることを規定している。信頼関係は、このようにして、築かれていくのだろう。6-9 のエサウのような行為を、わたしたちもするように思う。的外れだと批判することもできるが、悲しさも伝わってくる。愛すべき、エサウと感じる。 Genesis 29:31,32 主はレアが疎んじられているのを見て、その胎を開かれた。一方、ラケルは不妊であった。レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名付けた。「主は私の苦しみを顧みてくださった。これで夫も私を愛してくれるでしょう」と言ったからである。 わたしはこれを「信仰告白」と呼ぶが、二通りの理解がまず考えられる。レアが主がそのように働れかれたと受け取ったということの告白。もう一つは、創世記記者というより、もととなる伝承をつむいだひとたちが、主の憐れみ深さをこのように表現したということである。主は、そのように働かれるかもしれないが、それを普遍化するのは危険である。神の随意の働きを人間が見えている世界からの判断で制限してしまうからである。しかし、いずれにしても「疎んじられている」という痛みに応答される主と受け取ることは、素晴らしいと思う。主は、そのようなことに関心があり、働かれる。その憐れみ深さを告白する、それも、信仰告白なのかもしれない。 Genesis 30:22-24 一方、神はラケルを忘れず心に留めておられた。神は彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれた。彼女は身ごもって男の子を産み、「神は私の恥を取り去ってくださった」と言い、その子をヨセフと名付け、「主が私にもう一人男の子を加えてくださいますように」と言った。 前の章から引き続き、全部で11人の男の子が生まれる物語が書かれている。これが事実かどうかを問うことは、根拠を確かめることが不可能で、このころの資料が残っていることも考えにくいので、虚しいことだろう。ここから伝えられているメッセージを受け取るべきだろう。引用句には「神はラケルを忘れず心に留めておられた。」としている。非常に、個人的に、信仰的な関わりをみていることもわかる。それを、どう理解するかは難しい。人々との関係、神様が愛される一人ひとりとの関係が広がり、すこしずつ世界がひろがっていくと、観察できる部分も変わっていくからである。そのあたりを、どう考えればよいのか、尊厳と公平性とわたしが表現する部分だが、とても、難しようにも思う。しかし、神様の憐れみ深さを、自分も求めるという信仰と、それに基づいた生き方は、そのあたりを、丁寧に理解し、紡いでいくことにも深く関わっているように思われる。 2023.1.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  3. BRC 2023 no.003:創世記31章ー創世記44章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 創世記はいかがですか。 何度も読んできている、創世記ですが、今回は、わたしは、なにか、新しい気持ちで読んでいるように感じています。全知全能の創造主、絶対的に正しくすべてをお見通しの神様ということは、すこし、向こうにおいやっておいて、わたしたち、人間ひとりひとりとの関係性をたいせつにして、応答や、問いや、対話、そして、まじわりを望み、喜んでくださる方。わたしたちの自律的・自立的な決断や行動も、ちょっとへんなものも含めて、尊重してくださるが、ご自身の随意性・主権についても確保して行動され、ひとにもそれを尊重してもらいたいと願っておられる方。そんな感じで、神様を、そして、主との関係をとらえ、読もうとしているからでしょうか。そして、いつも、どのひともではありませんが、そのようなことを感じられるひとも登場し、かつ、創世記記者自身にも、そのようなモードもあるかもしれないと思えるからでしょうか。むろん、それは、あくまでも、ひとつの読み方で、間違っているかもしれませんし、それがよいとは、言えないかもしれません。でも、そんな交わりを楽しみながら、今回読んでいます。あたた(神様、主)のこと、あたなの望んでおられることを教えてくださいと。みなさんは、どうでしょうか。 創世記は、50章まであります。今週は、その後半部分を読みます。最初(27章から)は、ヤコブ物語と呼ばれる部分、37章からは、ヨセフ物語と呼ばれる部分に入ります。ヤコブ物語の間も、35章までは、イサクも生きていますし、ヤコブが息絶えるのは、49章です。前回の繰り返しになりますが、ヤコブはイスラエルという名前でも呼ばれ、イスラエル十二部族の父となり、ヤコブ物語には、その子供たちの物語も含まれ、ヨセフは、ヤコブの十一番目の子で、兄弟との関係も描かれています。また、ヨセフ物語は、このあと、出エジプト記以降につながる背景を教えてくれます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記31章ー創世記44章はみなさんが、明日1月16日(月曜日)から1月22日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Genesis 31:14-16 ラケルとレアは言った。「父の家には、私たちの取り分や相続分がまだあるのでしょうか。私たちは父に他人のように見なされているのではありませんか。父は私たちを売り渡しながら、私たちのそのお金を使い果たしてしまったのです。神が父から取り上げられた富は、すべて私たちのもの、また私たちの子どもたちのものです。ですから、さあ今すぐ、神があなたにおっしゃったことは何でもなさってください。」 ここには、あまり説明されていないことが書かれている。「父は私たちを売り渡しながら、私たちのそのお金を使い果たしてしまったのです。」の部分である。ラバンは、ヤコブを通しての祝福があることを見ながら、浪費してしまったようである。「ヤコブは、ラバンの息子たちが次のようなことを言っているのを耳にした。『ヤコブは父のものをすべて奪い取ってしまった。彼があのような財をなしたのは、すべて父のものによってなのだ。』」(1)ともある。神様の祝福と理解するか、不公平とみるか、それは様々だろう。公平だとみなが受け取る状況はないのかもしれない。すると、公平さは、人間の側の責任として委ねられていることなのかもしれない。わたしは、ラバンやその息子たち、その家族とともに祝福を受け継ぐものとなりたい。 Genesis 32:26,27 ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。男は、「放してくれ。夜が明けてしまう」と叫んだが、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と言った。 この格闘は、いろいろに理解できる部分だろう。わたしは、今回、ヤコブが自分の弱さを担いながら、どのように生きていくかの葛藤が表現されているのかと思った。ラバンとの関係においては、ラケルがテラフィムを盗んだことも考えるべきだろう。見つかっていたらどうなったのだろうか。ヤコブは、前の章で、ラバンの前で、自分の正しさを主張し続けている。それも、簡単に崩れてしまいかねないことである。この章の最初にある、神の使いたちに会い「これは神の陣営だ」(3)と叫び「マハナイム(2つの陣営)」と名付けた箇所、自分の正しさではなく、神の使いに目を向けたことの表現なのかもしれない。ヤコブは、おそらく、当時の人は、神の使いが現れた場所を大切にしたのだろう。 Genesis 33:2-4 すなわち、召し使いとその子らを先頭に、レアとその子らはその後に、そしてラケルとヨセフを最後に配置した。ヤコブは先頭に進み出て、兄に近づくまで、七度地にひれ伏した。するとエサウは走り寄ってヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。 「ヤコブは先頭に進み出て」からすると、ヤコブは、後ろの方に居たのだろう。しかし、前に進み出ている。このあと、順に、妻や、子どもたちも前に進み出る。感動的であると同時に、エサウの側の物語や、この再会のときの詳細は書かれていない。あくまでも、ヤコブの側の物語ではあるが、ヤコブは、自分が主人公ではない、自分の制御できないことが起こっていることを描いているのだろう。エサウとは、一緒には住まない。トラブルを避けるためだったかもしれない。しかし、そのようなハッピーなときが、それで終わるわけではないことを、描くのが聖書である。 Genesis 34:27 ヤコブの息子たちは倒れている者たちに襲いかかり、町を略奪した。彼らが自分たちの妹を汚したからである。 このあとに、略奪についての詳細が続く。ヤコブは「厄介なことをしてくれたものだ。」(30)と言い、ディナの兄弟シメオンとレビは「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいというのですか」(31)と言い返している。ここには、主は登場しない。ヤコブの行動も最後の部分を除いて書かれていない。十二部族のシメオンとレビをここに登場させたことには、何らかの意味があるのだろうか。ヨセフ物語にはつながっているように思われるが。(42章24節、49章5-7節)あまり、因果関係を強調しないほうがよいのだろうが。創世記記者の意図を強く織り込むのは問題もあるのかもしれない。ここで、わたしがヤコブだったら、シメオンやレビだったら、どうしたら良いのだろうかと考えてしまう。ここまで、娘については、ほとんど書かれておらず、女性の社会的な存在や役割についても、わからないので、単純には、判断できないが。 Genesis 35:11,12 神はまた彼に言われた。「私は全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、そして諸国民の集まりが起こり、あなたから王たちが出る。私は、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」 この段落は「ヤコブがパダン・アラムから戻って来たとき、神は再び彼に現れ、祝福して、」と始まり、32章23-31節のペヌエルでのことが想定されているように思われるが、それに引き続き書かれている、引用句、祝福の言葉は、いつのことかは不明である。パダン・アラムから戻ってきたという出だしからして、祝福の言葉と似ている、逃亡のときに見た幻(28章10-21節)は想定していないように思われる。あまり、そう厳密にわけなくてもよいように思うが、ディナの事件とその顛末のあと、ベテルに礼拝に行くこの章の記述の中には、直接的に主との、やりとりが書かれていないことも、不思議であり、神は沈黙しておられるようにすら感じる。 Genesis 36:6-8 エサウは、妻、息子と娘、家のすべての者、家畜とすべての動物、カナンの地で蓄えたすべての財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へと赴いた。一緒に住むには彼らの財産があまりにも多く、彼らが身を寄せていた地は、その家畜のゆえに、自分たちの生活を支えることができなかったのである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。 32章4節にすでに「ヤコブは自分より先に、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに使いを送り」とある。論理的には、引用句の説明はつながらない。資料にも混乱があるのかもしれない。ただ、ここでは、エサウの側から退いたことが語られている。いろいろな解釈があって良いのだろう。カナン人もおり、エサウの住む土地は、出エジプトのときまで、少し離れた地と理解されていたのかもしれない。少しずつ、謎が解けていく可能性もあるが。やはり、編集が入っている可能性も否定できず、難しい。 Genesis 37:26,27 ユダは兄弟に言った。「兄弟を殺し、その血を覆い隠したところで、何の得になるというのだ。さあ、イシュマエル人に売ってしまおう。彼に手をかけてはならない。彼は我々の兄弟、我々の肉親ではないか。」兄弟はこれを聞き入れた。 このあとに、ルベンは「ルベンが穴に戻ってみると、穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣服を引き裂き、兄弟のところに戻って言った。『あの子がいない。私は、この私はどうしたらいいのだ。』」(30,31)と語っている。ルベンもこのあとの偽装行為には、加担したようなので、正しい行動をしているわけではない。(35章22節参照)ユダも「彼に手をかけてはならない」と言いつつも、損得を、基準としている。(次章参照)これを記したひとたち、また、語り伝えた人たち、時代的には不明であるが、自分たちの先祖について、語り、このように表現することは、ある意味では自虐的である。それが、記録され、残されていることに価値があるのだろう。ある程度の、美化が入り込むほうが普通だから。 Genesis 38:23 ユダは言った。「では、保証の品はあの女に取らせておこう。蔑まれては困るから。いずれにせよ、私は子山羊を送り、あなたは女を見つけることができなかったのだから。」 ここにユダとしてのまとめがある。友人とは、このようなことをもしてくれる。助言をするものではないのだろう。このあと、タマルを売春によって、殺そうとしている。自分が、その買春をしたにも関わらず。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ。」(26)に至りはするが、神殿娼婦と交わる記述などもあり、このあたりには、主との交わりはない。ヨハネ物語の途中に挿入された形になっているが、イスラエルも子供の扱いに公平さがないなど、課題が多い。主との交わりが、それぞれの人の中で、大切なものとなっていくのには、時間がかかるということか。教育はたいせつでも、教育だけでも、達成できないのかもしれない。 Genesis 39:9,10 この家では、私より上に立つ者はおりませんし、私に禁じられているものは何一つありません。ただ、あなたは別です。あなたはご主人の妻ですから。一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は彼女のそばで寝ることも、一緒にいることも聞き入れはしなかった。 このあとの記述を見ると、もう少し注意をしたほうがよいと感じたり、主人は、信頼は得ても、友ではなかったなど、いろいろと考えることもあるが、それは、おそらく、あらさがしで、物語として、素直に受け取ることがたいせつなのだろう。イスラエルや、ヨセフの兄弟たちについては、主のことが書かれていないが、ここには「主がヨセフと共におられた」(2,3,5,21,23)と、かなりしつこく書かれている。それは、おそらく、他の兄弟たちや、イスラエルと共におられなかったということではないだろう。この、困難な期間、それを、ヨセフが、そして、イスラエルや、ヨセフの兄弟たちが、あとから、信仰告白として、表現したことでもあるのかもしれない。それは、イスラエルの一つの信仰の形に結びついていくのだろうか。 Genesis 40:16 料理長は、ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて言った。「私も夢を見たのですが、なんと三つのパン籠が私の頭の上にあったのです。 このような箇所から、この料理長の問題点を指摘することもできるが、物語の一部であり、自業自得というより、それ以前の、献酌官と料理長の日常に関係すると考えたほうがよいだろう。ヨセフは「解き明かしは神によることではありませんか。どうぞ話してみてください」(8b)と言っている。危険さも含むが、まさに、そのとおりであると思う。これが、ヨセフの信仰告白なのだろう。ヨセフの日常が、ここにある。むろん、願いは「そこで、あなたが幸運に恵まれたときには、私を思い出し、どうか私に慈しみを示してください。ファラオに私のことを話し、この獄から私が出られるようにしてください。」(14)に表現されているのだろうが。辛い期間でもあり、多くの制約があるが、神の働きを理解しようとした期間でもあるのかもしれない。 Genesis 41:15,16 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、あなたは夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオに平安を告げられるのです。」 当時は、夢で神様は、みこころを示されたのだろう。または、そのことを人々は信じ、行動していたとも理解できる。現代は、科学的に、様々な情報を得ることができる。神様はそれを通してみこころを示されるだろう。そして、そのことを十分に利用する責任が人間にはあるように思う。それが表現されていることばのひとつが、ナイチンゲールの「神の御心を知るには統計学を学ばなければならない」 “To understand God's thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose.” であるように思う。環境問題も、平和の問題も、ある自由と選択によって、人間に委ねられているのだから。 Genesis 42:36 父のヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、私から子どもを奪ってしまった。ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった。そして今度はベニヤミンを私から取り上げようとする。すべて私にばかり降りかかる。」 この最後の部分が気になった。神様の仕打ちとして、神に問いたいが、そこまでは、言えないヤコブがここにいるように思う。ヨブとの違いとも言えるが、ヤコブなりに、自分の人生、神様の導きを考えているのかもしれない。多くのことがひとには隠されている。おそらく、そこで残されるのは、神様に信頼することだけなのかもしれない。それは、神様が善いものを与えてくださるという信仰である。ひとつの価値観でもある。たんなる楽観主義とは、ことなる経験則なのだろうか。わたしも、神様が善いものを与えてくださることを信じ、神様の御心を求め続けることをたいせつにしたい。 Genesis 43:14 どうか、全能の神がその人の前でお前たちを憐れみ、もう一人の兄弟とベニヤミンとを返してくださるように。子どもを失わなければならないのなら、失うまでだ。」 ヤコブは、最後には、諦め、または神様に委ねるしかないとこのことばを発している。ユダは「あの子のことは私がその安全を請け合います。その責任は私が取ります。あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前に立たせることができなければ、私は生涯あなたに対してその罪を負い続けます。」(9)と言う。ルベンの応答は前章にかかれている。「もし、お父さんのところにベニヤミンを連れて帰らないようなことがあれば、私の二人の子どもを殺してもらってもかまいません。私に任せてください。私がお父さんのところに連れて帰ります。」(42章37節)それぞれの中で、この苦境に向き合う覚悟が出来ていったということのように思われる。ほんとうの家族となったのかもしれない。むろん、不信もあり、完全に互いに信頼できているわけではないが。(創世記50:16,17節) Genesis 44:33,34 それでどうか僕をこの子の代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。この子が一緒でないかぎり、どうして私は父のもとへ上って行けるでしょう。父に降りかかる災いを見るに忍びません。」 ユダをイエスの予型とすることは、可能かもしれないが、まずは、ユダがなぜこのように言ったのかを考えてみたい。レアの最初の子らは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ。それぞれこれまでにエピソードが書かれている。ルベンは、父の寝床をけがしたこと。(35章22節)シメオンとレビはディナのことで、だまし討にしたこと(34章)。ユダについては、38章。明確に、自らの過ちを認めているのが、ユダである。(38章26節)それが関係しているかどうかはわからないが、43章9節の前から、ある覚悟ができていたのかもしれない。もう少し、考えてみたい。 2023.1.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  4. BRC 2023 no.004:創世記45章ー出エジプト記8章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 創世記はいかがですか。今週は、創世記の最後の部分、45章から50章までを読み、次の出エジプト記に入ります。創世記の最後には、ヨセフ物語の最後の感動的な部分と、ヤコブが臨終にあたって、こどもたち、一人ひとりに語った、通常「祝福のことば」と呼ばれるものが記されています。 律法(トーラー)とか、モーセ五書と呼ばれる、旧約聖書の最初の五巻のうち、出エジプト記、レビ記、民数記、そして、申命記は、創世記とは、だいぶん構造が違っています。中心的人物は、モーセひとり、そして、イスラエルの人々は、すでに大きな民族になっています。今回、皆さんが読む、出エジプト記の最初の部分は、出エジプトと呼ばれる、イスラエル民族の原点とも言われる特別な経験が書かれています。 創世記の最後からモーセが登場する出エジプト記までの間に何があったのか、聖書はほとんど語りません。しかし、数だけを見ると、全員で、100人から200人ぐらいだったと思われず人々が、100万人から、200万人ぐらいになっています。何代の間にこのようになったのでしょうか。少し系図も書かれていますから、それが正確であれば、推測はできますが、それは、おいておくとして、個人の信仰をどのようなものと考えるか、個人の信仰と宗教の関係とは、民族の宗教とはと、かなり難しい面が問われて行く場面でもあると思います。どのようなことがあったかを問うと同時に、どのように記録され、書物として書かれ、それが、どのように受け継がれていったかも、たいせつな問題のように、思います。世界史的には、まだ、石板に彫られたもの以外は、残っていない時代です。このような文書、または、その内容は、どのように、継承されていったのでしょうか。あまり、早急・拙速・簡単に、結論をださず、少しずつ、問いを持ちながら、読んでいくことができればと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記45章ー出エジプト記8章はみなさんが、明日1月23日(月曜日)から1月29日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記と、出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#gn 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Genesis 45:4,5 ヨセフは兄弟に言った。「さあどうか近寄ってください。」彼らがそばに近づくと、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。かし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。 「私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」が印象に残った。「こうしてヨセフは兄弟を送り出し、彼らは出発した。ただその時ヨセフは言った。『途中で争ったりしないでください。』」(24)でも争うなと言っている。過去のことは、簡単に霧消するわけではなく、自己正当化など、後ろ向き、内向きにこころが向かうことは自然であることが前提なのだろう。そうならないため、引用句では「神」を指ししめしている。人間の性(さが)は変わらない。しかし、そこに固執しないで、前を向き、神の恵みとして生きることを勧めているのだろう。むろん、これで、すべてが解決するわけではないが、現代の信仰者にとっても、同じであると思う。 Genesis 46:3,4 神は言われた。「私は神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。私はそこであなたを大いなる国民とする。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。ヨセフがその手であなたのまぶたを閉じるであろう。」 ここには、奴隷となるようなことは、書かれていない。ヤコブの憂いを取り、慰めを与えるためだったろうか。神は、そして、筆者が知っていても、それを伝えないことがある。隠されているとも取ることができるが、そこに配慮があるのだろう。将来について、わからないことは、不安でもあるが、何でも知ることが恵みではないことも確かだろう。たいせつなのは、恵みをうけとり、神様、そして、その御心にこころを向けて、今を生きることなのだろう。感謝を持って。 Genesis 47:4 さらに続けてファラオに言った。「私たちはこの地に一時、身を寄せるためにやって来ました。カナンの地での飢饉がひどく、僕どもの羊のための牧草がありません。そこでどうか僕どもをゴシェンの地に住まわせてください。」 前の章にあるヨセフの指示「次のように答えてください。『あなたの僕どもは、幼い頃から今に至るまで、家畜を飼う者です。私たちも先祖もそうです。』そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人が忌み嫌うものだからです。」(46章34節)と微妙に食い違っている。引用句の直前の「あなた方の仕事はなにか」(3)までは同じである。しかし、ヨセフは「そうすれば」と言っているが、ここで兄弟たちは「僕どもをゴシェンの地に住まわせてください」と願っている。すでに、ゴシェンにおり、そこが適した地であることを見ていたのだろう。その場所は、「ラメセスの地にある最良の地」(12)とある。おそらく、ゴシェンの中にラメセスがあるのだろうが、その中でも、最良の地が与えられたということだろう。ひとの浅ましさと、神の恵みが強調される構造になっている。 Genesis 48:21,22 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬ。だが神はお前たちと共にいてくださり、先祖の地に連れ戻してくださる。私はお前に、兄弟よりも一つ多く分け前を与える。それは私が剣と弓によってアモリ人の手から奪ったものである。」 このあとに、ヤコブの祝福のことばが続くが、基本的に、最後の言葉である。「私はあなたを子孫に恵まれる者とし、子孫を増やして、多くの民の集まりとする。また、この地をあなたに続く子孫にとこしえの所有地として与える。」(4)と神のことばが記されている。多くの民の集まりとしている。一つの民ではないところが注意をひいた。そのなかで、ヨセフに Double Portion 二倍の分け前、通常は、長男に与えられるものが、与えられている。経緯からも、だれが長子の権利を受け継いだかは、複雑な構造になっている。エサウと、ヤコブの関係の、延長線上にあり、単なる出生順などではない、祝福を表しているのかもしれない。十二部族のひとたちは、どのように、この物語を理解していたのだろうか。今度、ユダヤ人のひとたちに聞いてみたい。 Genesis 49:3,4 ルベンよ、お前は私の長子。/私の力、強さの初め。/堂々とした威厳、卓越した力量がある。だが水のように奔放で/もはやほかにまさる者ではない。/お前は父の寝台に上って汚した。/私の床に上った。 ヤコブの臨終の前の祝福のことばとされているが、内容はまちまちである。引用したルベンには、「長子」であるが「もはやほかにまさる者ではない」こと、「私の力、強さの初め」との祝福とも言える賞賛のことばとともに、「水のように奔放」と弱点とともに、過去の過ちを記している。シメオンとレビは二人一緒に記し、形式は、ルベンに似ている。ユダは特別で、ゼブルンはのちに住む地域、ガド、アシェル、ナフタリは非常に短い。過去のことなのか、預言なのか一定しない。しかし、なんらかの古い伝承がなければ成立しないようなもの、かつ、北イスラエルが滅びる前にそれができていたことも確実だろう。詩形式のものは、古いことが多いと言われるが、謎に包まれたヤコブの最後のことばである。 Genesis 50:22,23 ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生きた。ヨセフはエフライムの三代の子孫を見ることができ、マナセの息子マキルの子どもたちも生まれてヨセフの膝の上に置かれた。 三代の子孫は、エフライム、その子、その孫と、ヨセフの曾孫ということだろう。早婚であれば、60歳程度で、曾孫を抱くことも可能だろう。年齢がおそらく当時としては高齢であることが書かれていると同時に、祝福されたこともこのことばによって表現しているのだろう。「喪が明けると、ヨセフはファラオの宮廷の者に言った。「願いを聞いてもらえるなら、ファラオに次のように伝えてほしい。『父は私に誓わせて言いました。私は間もなく死ぬが、その時には、カナンの地に掘っておいた墓に私を葬りなさい、と。ですから、どうか上って行かせてください。父を葬ればまた帰って来ます。』」」(4,5)これを見ると、王の側近とは言えないように感じた。41章40節の王のことばなどは、誇張があるか、または、一定の時期または、穀物の管理などに限定したものなのかなと感じた。エジプトの、古文書からは、ヨセフの存在が明らかにされていないと言われている。しかし、イスラエルにとって、ヨセフは、偉大な先祖だったのだろう。 Exodus 1:6,7 さて、ヨセフとその兄弟たち、ならびにその世代の人々はすべて死んだが、イスラエルの人々は多くの子を産み、おびただしく増えて多くなり、ますます強くなって、国中に溢れた。 このあとには、エジプト人によるさまざまな方策がとられたが、(守られて)人数が増えていったことが書かれている。アブラハムの家族は、ウル(おそらく古代ウル王朝後)から、出てくるが、カナンの地での三代の間には、高々70人(5, おそらく男性の家長・族長の数)であったものが、エジプトでの何代(数代)かの間に、登録された男性だけで 60万人(出エジプト時)になる。一人から10人程度が生まれれば、不可能ではない数字であるが、脅威の増大である。いずれにしても、民族としては、エジプトがふるさとである。エジプトの異民族ということだろうか。エジプトは、イスラエルにとって、非常に重要な意味をもつのは、自然だろう。 Exodus 2:6 開けてみると、赤子がいた。それは男の子で、泣いていた。彼女は不憫に思って、「この子はヘブライ人の子です」と言った。 ヘブライ人(עִבְרִי: ʿiḇrî , Hebrew = "one from beyond")は、創世記14章13節に最初に現れ、その後、ヨセフ物語でエジプト人から見てよそ者を表すことがとして使われている。基本的に、よそ者が、イスラエルを表す言葉になったということだろう。ここで登場するモーセの姉は、ミリアムだと思って読んでいたが、その可能性は低いように思う。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるとき、お産の台を見て、男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ。」(1章16節)とあり、女性は、おそらく、エジプト人に嫁ぐことが普通に行われていたのだろう。この姉の行動から、10歳前後にはなっていると思われ、モーセがミデアンの地にいる間に嫁いだ可能性が高く、かつ、多産だったことから、姉も何人もいたのではないかと思われるからである。むろん、どちらにしても、確証はない。 Exodus 3:9,10 今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私はエジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」 モーセに使命が与えられる箇所である。引用句に、「今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。」とあるが、これは、それまで、届いていなかったというよりも、モーセに主も同じ思いであることが共有されたということなのかなと今回思った。モーセの出自を除くと最初の記事が「それから長い年月がたち、モーセが大きくなってからのこと、彼は自分の同胞のところに出て行き、彼らが苦役に服しているのを見た。モーセは一人のエジプト人が同胞のヘブライ人を打つのを見た。」(2章11節)である。ここでの行動は失敗するが、これが、たんなる苦役、虐げという状況ではなく「人々の叫び」として、主が、行動を起こされるような事態であることを、モーセが受け取ったということだと思う。ある意味の信仰告白であり、それは、主との関係のなかで、生じたものである。超自然的な、神の声というより、まさに、信仰の告白なのだろう。 Exodus 4:1 モーセは答えた。「しかし、彼らは私を信じず、私の言うことを聞かず、きっと、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」 この「彼ら」は、エジプト人だろうか、ヘブライ人だろうか。おそらく後者なのだろう。この前に書かれているのは、民の長老たちに告げることばについてであり、モーセは過去のことからも、ヘブライ人からの信頼が得られるかに不安があったと思われる。むろん、ここで示される二つのしるしは、ファラオの前でも行われ、魔術的であるが、モーセにとって、生涯の課題は、民の信頼だったとも思われる。それを表している、エピソードと考えるのが自然であるように、思う。「さて、その途中、宿泊地でのことであった。主はモーセと出会い、彼を殺そうとした。」(24)については、よくわからないが、この前に「あなたの長子を殺す」(23b)とあり、文脈からは、頑なになるファラオの息子が殺されると取れるが、それだけの緊迫感、重大性が語られていることの表現かもしれないとも思った。 Exodus 5:1 その後、モーセとアロンはファラオのもとを訪れて言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『私の民を去らせ、私のために荒れ野で祭りを行わせなさい。』」 なぜ最初の要求が「祭り」なのかよく理解できなかったが、まず、エジプトの王のもとで言うべきこととして「彼らは(イスラエルの長老たち)あなたの声に聞き従うだろう。そこで、あなたとイスラエルの長老たちは、エジプトの王のところに行き、言いなさい。『ヘブライ人の神、主が私たちに現れました。どうか今、私たちに三日の道のりをかけて荒れ野を行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」(3章18節)とある。この実行である。しかし、単にそう命じられたからではいけないだろう。このあとの、ファラオの対応の方が、自然に見えてしまう。「主とは何者か。」「イスラエルを去らせはしない」(2)「彼ら(イスラエル)は怠け者」(8)「あの者たちの仕事を増やすべきだ。そうすれば、彼らはそれにかかりきりになり、偽りの言葉に目を向けなくなるだろう。」(9)自分達と行動様式が違う人たち、ひきこもりなども含め、理解不能な行動をする他者にたいして、現代でも多く身近にある対応である。礼拝も、そのひとたちが、たいせつにするものをたいせつにする基本なのだろう。同時に、良い悪いではなく、理解できないのも自然であると思う。ただ、理解できないものと出会った時に、どう対応するかについては、考えさせられる。 Exodus 6:2-5 また、神はモーセに告げた。「私は主である。私は、アブラハム、イサク、そしてヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名は彼らに知らせなかった。私はまた、彼らと契約を立て、カナンの地、彼らがそこにとどまっていた寄留地を与えることにした。私はまた、エジプト人が奴隷として働かせているイスラエルの人々の呻き声を聞き、私の契約を思い起こした。 引用箇所には、三つのことが書かれている。「主(ヤハウェ)の名の告知」「カナンの地を与える契約」「奴隷としての呻き」。このあとに「モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは落胆と過酷な労働のために、モーセの言うことを聞こうとしなかった。」(9)とある。労働が増えたあとであるので当然だとも言える。三つについて考えても、実際には、奴隷としての呻きが増大せざるを得ない状況になっていること、すでに、カナン人が住んでいる、カナンの地に行くことが適切なことなのかどうか、非常に疑問である。紛争が頻発し、増大することは確実である。そう考えると、最初に置かれている、「主の名の告知」が重要なのかなと思った。主のみこころとしても、イスラエルが受け取ったメッセージとしても。それは、主と、民との、人格的な(他に言葉が見つからないのでこの表現を使うが)交わり、関係性の構築の開始を意味しているのだろう。丁寧に見ていきたい。この章の最後には、レビがイスラエルの第三子でることとレビからモーセとアロンまでの系図がある。レビーケハトーアムラムーモーセとアロン。この三代、またはモーセやアロンの孫までをふくめても、五代という短期間に、70人から、60万人はちょっと異常である。驚異としておこう。 Exodus 7:5 私がエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの人々を彼らの中から導き出したとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる。」 ここから過越まで7つの災厄と言われるものが下され最後にイスラエルはエジプトを去ることになる。その前提として「しかし、私はファラオの心をかたくなにするので、私がしるしと奇跡をエジプトの地で重ねても、ファラオはあなたがたの言うことを聞かない。」(3,4a)と語られている。イザヤ書(6章9,10節)などの「悟ってはならない。よく見よ、しかし理解してはならない。」とも近いように思った。さらにこの章の最初には、「見よ、私はあなたをファラオに対して神とし、兄のアロンはあなたの預言者となる。」(1b)とある。本当に、主のみこころは「主が主であること」を知ることなのだろうか。歴史的にみると、それは失敗しているように思う。イスラエルの民にとっては、このことが「主が主であること」を理解する原体験になったとは言えるだろう。もっと、複雑なことを伝えようとしているのかもしれない。たとえ、これが、聖書記者が受け取ったものであったとしても。 Exodus 8:14,15 魔術師たちも秘術を使って同じように行い、ぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよは人にも家畜にもついたので、魔術師たちはファラオに、「これは神の指によるものです」と言った。しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が語られたとおりである。 この章では、最後、ファラオもイスラエルを去らせることを一旦受け入れることが記述されている。実際には「心をかたくなにして」(28)去らせないが。これまでは、魔術師たちが秘術を使って同じことをしたことが書かれている。(3, および、7章11, 22節)魔術師について、詳細は不明だが、現代で言うと、科学者といっても、良いのかもしれない。そんなまやかしならすることが可能だとか、そのたねはこんなことだと説明して、その背後にあるものを見ようとしないことは現代でもある。しかし、ここでは、同時に「これは神の指によるもの」と、告白している。人間の知識では理解できず、人間技では不可能だということなのだろう。そう書いているからといって、現代の知識や、技術でそれが解明できないということでは無論ない。ひとつの文学的表現なのだから。しかし、状況の変化の描写としては、興味深い。背後には、主の全能性があるのだろうが、それをもって、主が主であることを示すことが本当に、御心なのかと考えてしまう。聖書記者と一致できない点である。 2023.1.22 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  5. BRC 2023 no.005:出エジプト記9章ー出エジプト記22章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 出エジプト記はいかがですか。今週は、イスラエルの民が、最後の災い過越を経て、出エジプトを果たし、荒野での旅が始まり、十戒とよばれる掟などが与えられる箇所です。イスラエルの民がエジプトを出たのは、なぜで、なにのためだったのでしょうか。奴隷として使役される状態からの解放が、最終的な目的だったのでしょうか。なぜ、このあと、ずっと荒野を旅することになったのでしょうか。何をたいせつにして、約束の地を目指すのでしょうか。すでに、先住民が住んでいる場所ですし、なにを目指しているかは、そう簡単には、わからないように思います。皆さんは、何が目的だったと思いますか。 わたしたちも、現実を改善したいとか、不公平・不公正な社会がすこしでもよくならないか、失敗ばかりで、なかなか前に進んでいけない自分が変わることはできないか、その背後に根本的な問題があり、それを罪というなら、罪の縄目から解き放たれたい、もっと、自由になりたいなどと考えることもあるかと思いますが、では、なにを目指しているのでしょうか。自由は、何のためでしょうか。みなさんは、何を求めていますか。なかなか、難しい問いです。自由になったら、なにをしますか。自由になる目的は何なのでしょうか。さて、イスラエルの民は、なにを望んでいたでしょうか。考えながら読んでいただけると幸いです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記9章ー出エジプト記22章はみなさんが、明日1月30日(月曜日)から2月5日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Exodus 9:25,26 雹は、エジプト全土で野にあるすべてのものを、人から家畜に至るまで打った。雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。 この章には、疫病と、腫物と、雹の災いについて書かれており、疫病と、雹については、イスラエルと、エジプトの家が区別されたことが書かれている。また、雹についての記述が長く「しかし、主の言葉に心を留めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した。」(21)などの記述もある。非常に多くの家畜がいるときには、野ではないところに置くとは、どこなのか不明であるが、いずれにしても、自然災害における、ひとの区別は、おこらない。それは、一般恩寵のようなものである。(マタイ5章45節)引用句では、「イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。」とすることで、ある合理性を確保している。しかし、これは、ひとつの信仰告白と考えるべきで、普遍性のある事実だと考えるのは、問題がある。ひとりひとりの事情は不明、あるメッセージは含まれていても、神様にその責任を委ねることはできない。 Exodus 10:13,14 モーセがその杖をエジプトの地の上に差し伸ばすと、丸一昼夜、主は地に東風を吹かせられた。朝になると東風はばったを運んで来た。ばったはエジプト全土を襲い、エジプトの領土全体にとどまった。このようにおびただしいばったの大群は前にも後にもなかった。 この章には、ばったの災いと暗闇の災いについて書かれている。しかし、イスラエルとエジプト人をと区別することは書かれていない。一般的にも、雹は地域性が高いが、エジプトなどでのバッタの被害はかなり広範囲で、区別することなどは、当時も考えられなかったのだろう。わたしは、バッタの被害を経験したことはないが、映像ではみたことがある。訪問した、アフリカの地でのバッタの被害などを思い浮かべると、ほんとうになすすべがない、人間の無力さを感じる。同時に、あるときに、さっといなくなることも確かなようである。ひとのコントロールできないものなのだろう。三日間の暗闇については、不明である。厚い雲なのだろうか。 Exodus 11:2,3 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」主はエジプト人が民に好意を持つようにした。モーセその人もまた、エジプトの地でファラオの家臣や民から厚い尊敬を受けた。 「銀や金の飾り物」と「厚い尊敬」について考えた。荒野で、高価なものは、基本的には、不要である。食料などを購入するという記述もこのあとにもないので、おそらく、礼拝する、神の幕屋のためだろう。主の配剤(ほどよく取り合わせること)とも言えないこともないが、準備が良すぎるように感じた。厚い尊敬も、すこし唐突である。高価なものを求めれば得られる背景を説明しているのかもしれない。伝承として語り伝えられていく中で、加わっていった説明的なものかもしれない。 Exodus 12:39 彼らはエジプトから携えて来た生地で、種を入れないパン菓子を焼いた。パン種がなかったからである。エジプトから追われ、大いにせかされていたので、道中の食料を自分のために用意する余裕もなかったのである。 過越祭と除酵祭の起源が書かれている。しかし、調べてみると、旧約聖書では、除酵祭は、出エジプト記、レビ記、申命記、歴代誌下、エズラ記にしか記されていない。過越祭は、これらに加え、民数記、ヨシュア記、列王記下、エゼキエル書だけである。「王はすべての民に命じた。『この契約の書に記されているとおりに、あなたがたの神、主の過越祭を祝いなさい。』実に、イスラエルを治めていた士師の時代から、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われたことはなかった。ただヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われただけであった。」(列王記下23章21-23節)とあり、少なくとも、大々的には祝われていなかったことがわかる。国家存亡の時に、民族団結のために、使われたようにも感じてしまう。起源とともに、伝承・継承に興味を持った。 Exodus 13:14,15 将来、あなたの子が、『これはどういうことですか』とあなたに尋ねるときはこう答えなさい。『主は力強い手によって私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださった。ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』 なぜ雄なのか、初子なのかなどの社会的な疑問は、存在する。この章では除酵祭と過越祭の規定が書かれており、祭りは特別なことを思い起こすため、それを経験したものとしてのアイデンティティ、そして、団体としての結束を確認するものなのだろう。現代は、自由と平等も関係して、なにを伝えていくかによって団結することは、一般的には難しくなっている。宗教儀式も同様なのかもしれない。しかし、わたしたちの「子」の世代と共有すべきことはあるだろう。そこに、主がかかわっているという、普遍性と謙虚さは、やはり、たいせつなように思われる。強制はできず、任意団体、選択できる契約による集まりだろうか。それが差別的にならず、排除の構造を生じさせないようにも考えなければならず、難しい。 Exodus 14:21,22 モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。 実際になにが起こったかは、再現性はなく、不明である。これに近い現象が起こることがあると証言するひともいるようだ。13章17節に「神は彼らをペリシテ人の住む道に導かれなかった。」とある、関連で考えた。海岸線沿いに行った方が明らかに近いが、それを避けたという記述だろう。しかし、葦の海のほうに回るのでは、海に行き止まることは確実で、そのことは知っていたと考えると、湖が点在している、スエズ運河の方向に進んだということなのかもしれないと思った。当時の地形は不明だが、スエズ運河を作るころの地図であればあるだろう。このようなことを考えること自体、あまり意味がないかもしれないが、解釈はいろいろとあり、規模などは不明として、故事の伝承がもととなっていることは、十分にあるのではないかと考えるからである。祭りをしなかった、長い期間があるとはいえ。 Exodus 15:25,26 そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」 マラでの出来事である。ここで「法と掟」とあるが内容は不明である。また、ここに、「彼を試みて」は、モーセなのだろうが、詳細は不明である。「癒すもの」とある「(民の)不平」(24)に対する、モーセとの交わりを述べているのだろう。すると「掟と法」も、モーセとの間のものなのかもしれない。ここで引用されているような。 Exodus 16:6,7 そこでモーセとアロンは、イスラエルの人々すべてに言った。「夕方には、あなたがたは主があなたがたをエジプトの地から導き出されたことを知り、朝には、あなたがたは主の栄光を見る。あなたがたの主に対する不平を主がお聞きになったからだ。あなたがたが私たちに向かって不平を言うとは、私たちを一体何者だと思っているのか。」 最初に、主がこれまで、どのように導いて来られたか、エジプトの地から導き出されたことと、主の栄光をみていることを思い出させ、引用句に続く箇所では「あなたがたが不平を言ったのは、わたしたちに向かってではなく、主に向かってなのだ」(8b)と言っている。民の指導者の問題か、主に不平を言っているのか。しかし、ここでは、生存欲求が背景にあり、民を責めることはできないように思う。おそらく、主に願う、主の御心を求めるように導かれる訓練なのだろう。この直後にうずらとマナを得るようになる。 Exodus 17:2 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争うのか。なぜ主を試すのか。」 このように、繰り返し繰り返し言い争い、不平を漏らす、自虐的な内容を、語り伝えた人たちについても考えた。自分達は、元来このようなものだと気づくのは、辛いことだろう。同時に「飲み水をください」は、基本的な生存欲求で、それを訴えるのは、当然であるとも言える。民にも、長老にも、モーセにも、いろいろな葛藤があったのだろう。ただ、モーセは主と語り合っている。そこに救いの可能性が潜んでいるのかもしれない。この章には、神の杖のことが何回か登場する。(5,9)いつも持っていたわけではないのだろうか。魔術的でもある。最後にアマレクについて「このことを書物に書き記して記念とし、ヨシュアに読んで聞かせなさい。私はアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」(14b)と命じているが、これによって、記憶が残るわけで、意味は理解できるが、ちょっとおかしい。 Exodus 18:17,18 しゅうとはモーセに言った。「あなたのやり方はよくない。あなたも、一緒にいるこの民も、きっと疲れ切ってしまう。これ ではあなたに負担がかかりすぎ、一人でそれを行うことはできない。 興味深い。「翌日になると、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセのそばで立って待っていた。」(13)この状態を改善する、問題解決は、主の命令ではなく、モーセのしゅうと、ミデアンの祭司(2章16節)のアドバイスによる。ひとの知恵を学び十分に適切に生かす柔軟性のたいせつさでもある。表面には出てきていないが、荒野で水をさがしたりなども、さまざまな人間の知恵を使っていたろう。十分は見えていない部分を切り捨ててはいけない。 Exodus 19:8,9 すると民は皆、口をそろえて答えた。「私たちは、主が語られたことをすべて行います。」そこでモーセは主に民の言葉を持ち帰って伝えた。すると主はモーセに言われた。「私は密雲に包まれて、あなたのもとにやって来る。私があなたと語るのをこの民が聞き、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」そこでモーセは、民の言葉を主に告げた。 このあとに、十戒を受け取る準備の命令が書かれている。引用句の前には「私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(4-6a)とあり、この言葉への応答が引用句である。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば」とあるが、これができないことは、主はご存じだろう。ただ、このような関係を望んでおられることを、明確に告げ、契約の民とするということのように思う。無理なことを負わせるということではないのだろう。 Exodus 20:24 私のために土の祭壇を造り、その上で焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして羊と牛を屠りなさい。私は、私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。 十戒のあとの礼拝規定である。「私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」場所を特定せず、そこに主が臨み、祝福する。形式は少しずつ、変化していくように思われるが、共におられ、祝福を与えてくださる神が、表現されている。基本的には、律法を守ればと条件のように取れるが、基本的な姿勢であると理解した方が良いのだろう。「もし」や「だから」の愛ではなく「でも」の愛だろうか。 Exodus 21:2,3 あなたがヘブライ人の奴隷を買った場合、彼は六年間仕えれば、七年目には無償で自由の身として去ることができる。一人で来たのなら、一人で去り、妻がいたのなら、妻は彼と共に去ることができる。 奴隷に関する規定である。奴隷制を認めていること、男奴隷と女奴隷の扱いの違いなど、現代的に考えると問題を感じることが多い。しかし、少し前の世界の状況を考えただけで、驚かされる基準でもある。これが、どの時代に、どのように、行われていたか、正確にはわからないが、このような律法を持っていることを長い間誇りとしていたことは確かだろう。ここでは、ヘブライ人の奴隷を買った場合とはじまり、主体は、契約をしている、ヘブライ人が想定されているが、ヘブライ人、ユダヤ人が、このような状況に置かれていたことも、多くあり、そのような、自身の経験も、この律法をたいせつにすることを支えていたのかもしれない。やはり、驚くべき民族であると言わざるを得ない。周囲の民族は、奇異と驚嘆の目を持って、接し、ある時は排除しようとしたことも、理解できるように思う。キリスト者はどうだろうか。そのような高い基準を、自らのものとして持っているだろうか。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハネ13章35節) Exodus 22:1,2 もし盗人が家を壊しているところを見つかり、打たれて死んだなら、死なせた人には血の責任はない。しかし、もし日が昇っていたなら、その人には血の責任がある。一方、盗人は必ず賠償しなければならない。もし彼が何も持っていなければ、盗んだものの代償として、自分自身を売らなければならない。 盗みや、横領、未婚の女性との性交、呪術、寄留者の虐待などと続き、最後には、神や民の指導者を呪ってはならないと続く。神を畏れること、そして、自分勝手な判断をしてはいけないことが示されているのかもしれない。詳細については、現代的な公平性から考えると、問題があるように思われるが、公平性を求めることは、人間の責任だと、わたしは考えているので、変化するのは当然のようにも思う。引用句は、昼か夜かで、判断が異なることが興味深い。日が昇っていたら、共同体で対応すべきということだろうか。むろん、簡単ではない場合が多い。そして、かなり詳細に書かれてはいるものの、ここに書かれている基準だけでは、判断できないことが多いことも確かである。まさに、ひとに委ねられていたのだろう。本質を受け取りながら、主のもとでの、公平性を求めるのは、責任であると同時に、困難であることは確かである。 2023.1.29 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  6. BRC 2023 no.006:出エジプト記23章ー出エジプト記36章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 出エジプト記はいかがですか。出エジプト記は、全体で40章ありますから、大体半分読み終わりました。今週は、後半を読みます。私は、長い間、通読を続けていますが、正直、このあたりから、民数記の最初のあたりまでは、なかなかチャレンジングなところです。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、モーセ五書または律法(トーラー)と呼ばれ、ユダヤ教では旧約聖書のなかでも最も大切にされているものです。ただ、みなさんが、今まで読んでこられた、創世記や、出エジプト記前半は、律法という感じではなく、歴史(物語の)記述といってもよいようなものでしたよね。わたしがチャレンジングと読んだのは、まさに、この律法の部分です。その意味で、イスラエルの人たちが、長年、とてもたいせつにしてきたものの中でも中核をなすものとも言えると思います。イスラエルの人たちがたいせつにしてきたものは、どのようなものなのでしょうか。「あなたのたいせつなものはなんですか。」これは、他者理解、共生の核をなす問いだとも思いますから、チャレンジングではあっても、この部分から、みなさんが豊かなものを受け取られることを期待しています。 わたしは、今回、どのようなことを考えながら読んでいるかは、私の通読ノートにもありますし、夜、お送りする便で送っている、感想を共有してくださる方々もおられますから、そのようなものも参考にしながら、関心の幅を広げていっていただければと思います。そして、わたしにとっては、チャレンジングと書きましたが、みなさんから、感想や、質問や、疑問に感じたことなど、送っていただけると嬉しいですよ。それが、一緒に読むたいせつな、そして豊かな部分だと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記23章ー出エジプト記36章はみなさんが、明日2月6日(月曜日)から2月12日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Exodus 23:1-3 あなたは根も葉もない噂を流してはならない。悪人に加担して、悪意のある証人になってはならない。多数に追従して、悪を行ってはならない。訴訟において多数者に合わせて答弁し、判決を曲げてはならない。また、訴訟において、ことさらに弱い者をかばってはならない。 興味深い記述が多い。わたしには、適切に言語化できないが、律法と法律の違いだろうか。まず、当たり前のことのような引用句も、実はとても難しい。Evidence Based Argument 根拠を明確にした議論と言われ、今は、データ・サイエンスを学び、まさに Data Based Argument データに基づいた議論、論拠をデータに戻って構築することを学んでいるが、さまざまな困難があり、簡単ではない。多数に追従しないことも、同様に難しい。興味深いのは、続いて「ことさらに弱い者をかばってはならない。」ともあることである。人間の責任と神様の働きについても考えさせられることである。このあとには、寄留者のこと(9,12)や、貧しい者(11)、女奴隷の子(12)などなどについての記述がある。少しずつ追記されていった、または、まとめられていったのではないかとも思うが、その思考には、神を畏れつつ、人の責任、その範囲についても、考えられていることが見て取れ、深さを感じる。 Exodus 24:12 主は、モーセに言われた。「山に登り、私のもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける。」 「石の板」とある。当時の正式な文書は「石板」であったことが、認識されているのだろう。絵画では、十戒が掘られた二枚の石板を持ったモーセが描かれるが、ヨシュアを伴ったのも「石板」の運搬のためだったかもしれない。十戒だけであれば、すでに示されており(20章前半)ここで言われている「律法と戒めを書き記した石の板」は、もっと詳細なものを、想起させる。また、このあとには、「モーセは長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。ここに、アロンとフルがあなたがたと共にいる。訴えのある者は誰でも、彼らのところに行きなさい。」(13)ともあり、ある程度長くなるかもしれないことが予想されている。アロンとフルそして、「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」(7, 3も同様)と応答した、民の責任が明らかにされている。契約とは、内容の明確化と、誓約、そして、誓約をお互いに誠実に守ろうとする責任を伴った、関係性の構築のように、思った。ちょっと破ったら終わってしまうものではなく、この関係性のなかから、信頼が生み出され、醸成されることが本来の目的のように思う。 Exodus 25:1,2 主はモーセに告げられた。「私のために献納物を取りそろえるようイスラエルの人々に告げなさい。あなたがたは、心から進んで献げるすべての人から、私への献納物を受け取りなさい。 山に登ったモーセと主との対話で、示されるのが、礼拝所、幕屋建設である。主と民との契約が適切に継続され、関係性が深まり、信頼(信仰)が醸成されるには、何が必要か。民の移り気、必ずしも、従順ではないことを、モーセも、主も、そして、後代のひとたちも、よく知っていたろう。しかし、まず、整えなければならないのが、礼拝所での礼拝、そのためには、立派なものが必要だと考えたのだろう。ここは、荒野であり、その行き着いたものが、幕屋である。詳細は、読んでいてもあまりよくわからないが、特別に大切なものとして、詳細が書かれているのだろう。神殿の予型でもあろう。 Exodus 26:30 このように、あなたが山で示された設計に従って幕屋を建てなさい。 これは、どのように、記録されたのだろう。世界的に見ても、文書が残され、それが継続的に伝承されることはない時代だと思う。石板に記録することはあったかもしれないが、このような詳細は、残されなかったろう。すると、伝承、口伝である。だいたいの形が伝えられ、ある時点で、書かれたのだろうか。神殿のことを知っている人はいても、幕屋は知らないはずである。不思議に思う。どのようにして、記録されたのだろうか。しかし、非常に熱い思いがあることは、読み取れる。 Exodus 27:21 会見の幕屋の中の証しの箱の前にある垂れ幕の手前で、アロンとその子らは、夕暮れから夜明けまで、その灯を主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。 この章には、祭壇と幕屋の庭のことが詳細に書かれている。最後に、引用句の灯火について書かれている。正直、幕屋がなくなり、神殿となった期間、その後、それも、消滅、再建などがあるわけだが、そのあいだ、この詳細を引き継ぐ努力をしたのは、なぜなのか、よくわからない。ただ、引用句は、理解できるように思う。どのような状況であっても、この灯火を消さないことは、どのような状況においても、守り続けたことなのだろう。 Exodus 28:43 アロンとその子らはこれらのものを身に着けていなければならない。会見の幕屋に入るとき、あるいは祭壇に近づいて聖所で仕えるとき、罪を負って死ぬことのないようにするためである。これは、彼と後に続く子孫にとって、とこしえの掟である。 この章には、祭司特に、大祭司とおもわれるひとたちの祭服についての規定が書かれている。詳細は、正直理解できないし、それぞれの期間に、それがどのていど実際に守られたのかも、不明である。ただ、引用句の最後にあるように、神に近づく祭司、民にかわって特別な役割を果たす祭司は、命がけのたいせつな仕事であることが強調されていることは理解できる。キリスト教のもとでは、万人祭司とされるが、このような畏れは強調されない。かえって不思議でもある。考えてみたい。 Exodus 29:38,39 あなたが祭壇の上に献げるものは次のとおりである。毎日欠かすことなく、一歳の雄の小羊を二匹、朝に一匹、夕方にもう一匹を献げなさい。 毎日欠かすことなくと始まる項目は、このあと、上質の小麦粉、オリーブ油、ぶどう酒が加わる。これができなかった期間が長いのではないだろうか。しかし、たとえそうであっても、これが大切だとして、伝えられたのだろうか。祭司の文化のようにも思うが、正直よくわからない。 Exodus 30:9 この祭壇の上で規定外の香をたいてはならず、焼き尽くすいけにえも穀物の供え物も献げてはならず、また、その上に注ぎの供え物を注いではならない。 規定外の香、それは、他の神のための香ということなのだろう。乱れていた時期もあるようなので、適切に守るべきことが強調されているようにも思う。礼拝の基盤ができるということは、大変なことであろう。やはり、多くの時間がかかったのではないかと思う。 Exodus 31:18 主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。 この章には、会見の幕屋、証しの箱などの、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工するために、ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエルを指名し、ダンの部族のアヒサマクの子オホリアブを共に任命すること(2-11)がまず書かれ、次に、安息日を守るべきことと、「安息日に仕事をする者はすべて、必ず死ななければならない。」(15b)ことが書かれ、最後に、引用句で締められている。まず、板に何が書いてあったのかが気になる。「二枚の証しの板」であると、24章12節に石の板のことが書かれて以降、たくさん命じられたことすべてが書いてあるとは思えないからである。絵画などでは、十戒が書かれたものが多く、分量としては適切なのだろうが、それが「証の板」なのかは、不明である。神の指でも気になる。神様との特別な関係を示すものだったのだろう。この章にある、安息日を守らないものは、死ななければならないということばは、処刑に処すということではなく、民から、または、神様との交わりから、さらには、契約関係から絶たれるという意味ではないかと思う。それにしても、厳しい。 Exodus 32:25 モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。 興味深い表現である。民と、アロンを分け、アロンについては「民に勝手な振る舞いをさせ」と表現していること、さらに、「敵対する者の嘲りの的になった」と表現していることである。これは、ひとつの信仰告白で、当時は、周囲に敵対する者がいた差し迫った状況があったとは、思われないからである。ただ、ヨシュアは「宿営で戦いの声がします」(17)とも言っており、それなりの脅威はあったのかもしれないが。このあと、レビ人が、自分の兄弟、友人、隣人を殺し、民のうち三千人が倒れた(27,28)という記事がある。アロン、そして、レビ人も、同じように滅びる存在であることを、確認した後に、このようなことがあったことが大切なのだろうが、やはり、違和感がある。 Exodus 33:15-17 モーセは言った。「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。そうすれば、私とあなたの民は、地上のすべての民のうちから特別に選ばれた者となるでしょう。」そこで、主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも行う。あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」 なかなか難しい箇所である。主が共にいるのは、なぜか。主が共にいるとはどういうことなのか。それは、主の目にかなうからか。これも、対話(Dialogue)の一部として、普遍化しないほうがよいのだろう。罪を犯し続ける、主に従い続けることができない民、人間、主はそのような人間と共にいてくださるのか。もし、そのような自分と共にいてくださるのであるとしたら、それは、自分が目に叶うからか。さらに、リーダとして、それをどう考えれば良いのかという問題もはらんでいる。ユダヤ人も悩んだことだろう。そして、キリスト者にも同じような問いがあることは確かである。単純に、恵みの教理として受け入れてしまえば良いのだが、それでは、主のみこころをうけとることには、至らないようにも思う。 Exodus 34:5-7 すると主は雲に包まれて降り、彼と共にそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎて、宣言された。/ 「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。/怒るに遅く、慈しみとまことに富み幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪とを赦す方。/しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方。」 どう理解するか、難しい。後半の引用文の後半をどう理解するかもあるが、引用文は、定型のものをここに入れたと考えることもできる。ここで引用したかったのは、前半だと考える。前半は、この箇所にまさにふさわしい句である。そして、その前にある、リード文は、共にいることが強調されている。共にいる主の表現として、引用しているということだろう。ことさら「主の名によって」とあるのは、従来は「私はある」と訳されていたものを、「私はいる、という者である。」「私はいる」という方、と、聖書協会共同訳で訳された、出エジプト3章14節を思い出させる。この訳が適切かどうかは不明だが。 Exodus 35:20 イスラエル人の全会衆はモーセの前から出て行った。 幕屋や祭服など、礼拝に必要なものを指示通りに作りようにとの奨励をうけ、出ていった箇所である。キリスト教の礼拝における、最後の、派遣の祈りと祝福に似ている。このあと、「人々は、(さまざまな)主への献納物を携えてきた」と「携えてきた」(21, 23, 24, 25, 27, 28, 29)の記述が続く。それだけでなく、「主に差し出した」(22)他にも「紡いだ」(25)などが続く。同時に「心を動かされた人」(21)や、「男も女も」(22)「心から進んで捧げる人」(22)「心に知恵のある女たち」(25,26)とあり、素晴らしい。と、思うと同時に、背後の一人一人のストーリーがないと、厚みは感じられないとも思う。 Exodus 36:20-22 また、幕屋の壁板をアカシヤ材で作った。一枚の壁板の長さは十アンマ、幅は一アンマ半であった。それぞれの壁板に二つのほぞを作り、壁板をつなぎ合わせた。幕屋のすべての壁板には、このようにした。 このあとには、「壁板を金で覆い」(34)とか「銀の台座を四十作った」(26)などの記述もあり、かなりのもので、分解は可能なように作ったのだろうが、運搬は、困難だったのではないかと思われる。そのために、レビ人が召されるわけだが。少し、現実から、離れてしまっているようにも感じる。祭りや、礼拝の記述が、聖書でも、出エジプト以降、あまり書かれていないことも気になる。 2023.2.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  7. BRC 2023 no.007:出エジプト記37章ーレビ記10章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 出エジプト記はいかがですか。出エジプト記は、全体で40章あと少し。次には、レビ記を読みます。レビは、12部族の一つで、モーセやその兄アロンが属する部族ですね。そのレビ族が、祭儀を取り扱う仕事をすることになります。祭司とともに、その手伝いをする人たちです。レビ記には何が書かれているのでしょうか。それは、読んでからのお楽しみとしておきましょう。 前回も少し書いたように、出エジプト記の後半から、レビ記、そして、民数記の前半までが、通読の最初の難所のように思います。最近は、書かれている内容だけでなく、それを書いた人、そして、それを延々とたいせつなものとして、受け継いでいったひとたちのことを考えながら読んでいます。その間には、立派な神殿があった時代もありますが、過越祭などもほとんど祝われなかった時代もあるようです。そして、神殿も破壊され、そこで礼拝はできなくなり、バビロンなどに、捕囚となった時代もありました。一部の人は戻ってきましたが、多くのイスラエル人は、さまざまな地域に散らばって生活していました。そのひとたちが、ある時代からは、羊皮紙だったようですが、書き写し、書き写し、継承してきたものです。ほんとうに、たいせつなものとして、受け継いできたわけですね。そのひとたちの思いも受け取りながら読みたいと願っています。 たいせつなものといえば、みなさんは、いのちは、どこにあると思いますか。レビ記を読んでいると、イスラエルの人たちがそれがどこにあると考えていたかがわかるように思います。下のリンクにある「レビ記」の箇所には、日野原重明先生が「いのちはどこにあるのでしょう」と語りかける、授業のことも書いてあります。みなさんは、どう答えられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記37章ーレビ記10章はみなさんが、明日2月13日(月曜日)から2月19日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 出エジプト記とレビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ex レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Exodus 37:1 ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。その長さは二アンマ半、幅は一アンマ半、高さは一アンマ半であった。 契約の箱、贖いの座、台、燭台、香を焚く祭壇の詳細が続く。正直、あまり意味を感じないが、これを書いた人だけでなく、引き継いだ人たちも、これを、大切にしたかったのだろう。そのほとんどは、幕屋をみたことがなく、神殿も見たことがない人たちだったろう。ある伝承を、語り伝える。このイメージは、私たちには、想像もできない価値を持っていたのだと思われる。通読時には、なかなか集中できないが、他者がたいせつなものと向き合う時、それを自分もたいせつにすることができないことはある。しかし、そのときは、せめて、なぜ、そのひとたち(書いた人、伝承した人)にとって、大切なのかを考えたい。共に生きるために。 Exodus 38:26 これは、二十歳以上の男で登録された者、六十万三千五百五十人が一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルを献げた量であった。 ここに「二十歳以上の男で登録された者」の数が登場する。「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。女と子どもは数に入れず、徒歩の男だけで約六十万人であった。」(12章37節)にあるが、正確な数は、民数記にもあるが、出エジプト記では、ここだけである。大雑把に、大人100万人から200万人と、わたしは考えているが、数え方によっては、もっと多い数なのかもしれない。金の総量は「二十九キカル七百三十シェケル」(24)、引用句は、銀の総量で「百キカル千七百七十五シェケル」(25)とある。キカルは、聖書巻末の表によると、約34.2kg、シェケルは、約11.4g とあるが、割ると、丁度、3000になる。つまり、3000シェケルが、1キカルである。どうしてこのような単位になったのだろうか。約であるので、後付けであることは十分あるだろうが。 Exodus 39:30 聖なる冠である花模様の額当てを純金で作り、その上に印章を彫るように、「主の聖なる者」と彫った。 この章には、アロン(大祭司)の祭服についての記述が続く。非常に高価なものが使われていることもあるが、引用句は、純金で冠を作成している。これが荒野で、アロンのために作成されたと考えるのは、非常に難しい。わたしは、詳細を知らないが、鋳造ではないにしても、加工もかなりの作業場の構築が必要だろう。衣裳は後の大祭司のものが入り込んでいるのだろう。記述者だけでなく、伝承、書写しの間に変更が加えられることは自然なことだから。そう考えると、最初のアロンがどのようなものを来ていたかを再現することは、難しいのだろう。同時に、大祭司の祭服の重要性を伝えたかった人たちも介在したということだろう。 Exodus 40:17 第二年の第一の月の一日に、幕屋が建てられた。 「第二年」と書かれているのは、出エジプト記でここだけ「第一年」はモーセ五書にはない。イスラエルが、エジプト王にエジプトを出ることを願い出た理由は、礼拝であった。(出エジプト記5章3節)奴隷としての扱いからの解放を中心に考えるが、何度も、礼拝、いけにえを献げることを願い出ている。単なる解放、自由になることではなく、自由になって、イスラエルが契約の民として、主との結びつきを持つことが目的だったとも表現できるのだろう。ルターの「何々からの自由」だけでなく「何々への自由」と結びつくことでもある。しかし、救いを語るときの難しさと同様に、何々からの自由、解放、救いは、理解できても、何々への自由、自由は何のためか、何をするのか、主とむすびつくことは何のためで、なにを望むのかは、簡単ではない。天国の生活を描写しようとすると、陳腐になることと似ている。単純に自由は責任とセットと原理的なことを語っても、やはり理解は深まらないように思う。 Leviticus 1:5 その人が主の前で若い雄牛を屠ると、祭司であるアロンの子らはその血を携えて行き、会見の幕屋の入り口にある祭壇の周りに打ちかける。 出エジプト記の最後は、幕屋が立ち上がったところで終わるが、レビ記の最初には「アロンの子ら」の務めが書かれている。このように、表現することで、実際の子だけでなく、祭司職一般について記しているのだろう。このあとの民数記を見ても、不信と混乱が続く荒野で、祭儀だけが、粛々と完璧な形で、行われたと考えるのは困難である。しかし出エジプトを起源として、アロンの子らの祭司職、礼拝形式を記述することは、特別な意味があり、必要不可欠と考えた人たちがいるのだろう。 Leviticus 2:1,2 人が穀物の供え物を主への献げ物にする場合、その献げ物は上質の小麦粉でなければならない。その小麦粉に油をかけ、乳香を載せ、祭司であるアロンの子らのもとに携えて行きなさい。祭司は油のかかった上質の小麦粉一握りとすべての乳香をつかみ、記念の分として祭壇で焼いて煙にする。これは主への火による献げ物、宥めの香りである。 荒野でマナとうずらだけを食べていたときの規定とは思えない。家畜は飼っていたとしても、収穫はずっとあとである。実際にそのようなことが始まってから、少しずつ整備されていったものを、書き加えていったのか。または、さらに、のちの時代に、それを忘れないように、詳細に書き記したのか不明であるが、それを大切にした人たちが連綿と続いていたのだろう。 Leviticus 3:16,17 祭司はそれらを祭壇で焼いて煙にする。これは食べ物としての、火による献げ物、宥めの香りである。脂肪はすべて主のものである。これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」 二つのことを考えた。一つは脂肪のこと。「脂肪はすべて主のものである。」として「脂肪も血も決して食べてはならない」とある。一番の活力源となる脂肪を食べない。どのような意味があるのかは、書かれていないが、「主のもの」ということが理由なのだろう。健康への影響など、あまり普遍性の高い理由を考えることは、意味がないのかもしれない。もう一つは、レビ記にはいり、現代にはあまり関係しない記述が延々と詳細に続くことである。継承されていったのは、これをたいせつだと考えた人がたくさんいたからだろう。実際に、神殿でこのことを生業としていた、祭司が、忘れてはならないものとして、神殿が亡くなったころから、記述を丁寧に伝承したのかもしれない。しかし、それが続くことにも驚かされる。そのころには、羊皮紙の巻物などでの伝承が容易になっていったのだろうか。 Leviticus 4:1-3 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて、人が過って違反した場合、次のようにしなければならない。もし油を注がれた祭司が違反して、民にもその罪責を及ぼすことになるなら、犯した過失のために、欠陥のない若い雄牛を清めのいけにえとして主に献げなければならない。 違反について書かれている。最初は、祭司、13節からは「イスラエルの全会衆が過失を犯した」場合について書かれ、22節からは「民を導くものが違反した場合」とあり、27節からは「この地の民の一人が誤って違反し」た場合について書いてある。だれでも、違反することが前提とされており、それをどのように扱うかが明確になっている。原因を追求するようなことや、改善については書かれていない。あるルーティンが書かれている。過ちを犯さないようにではなく「主が行ってはならないと命じた戒め」に違反するということが、契約に違反すること、主との関係が壊れる可能性を避けることに主眼があるように思う。 Leviticus 5:1 人が違反した場合、すなわち、証人として呪いの声を聞いているのに、目撃して知っていることを証言しないなら、罰を受ける。 このあとには、かなり詳細な例が続く。主を畏れ、主との関係を適切に継続するために、必要なこととして、書かれているのだろう。ただ、個別のことについては、より、詳細に議論しないと、適切かどうかはわからないと思う。そこには、主が愛され、また、主を求める、他者が存在し、その他者との関係も、主がたいせつにされるからである。そして、公平さ、互いに愛し合うことは、主が望まれることであると同時に、人間の責任でもある。すこしずつ、丁寧に見ていきたい。 Leviticus 6:1,2 主はモーセに告げられた。「アロンとその子らに命じよ。これは焼き尽くすいけにえについての指示である。焼き尽くすいけにえは、夜通し朝まで祭壇の炉の上に置き、祭壇の火を燃やし続ける。 アロンの子ら、すなわち、祭司職の務めが語られている。正直、このようなことが、どの時代に、どの程度、続けられていたのか、知りたいと思った。主との関係を、礼拝行為によって、適切に保つことは大切であるが、引用句も含め、正直、異常に感じる。ある時代に、これが行われていたかも、少し疑問である。どのように引き継がれていったのだろうか。 Leviticus 7:22-24 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。牛や羊や山羊の脂肪を決して食べてはならない。自然に死んだ動物の脂肪や、野獣に殺された動物の脂肪は、あらゆる用途に用いることはできるが、食べてはならない。 この章には「償いのいけにえについての指示」(1-6)「清めのいけにえ」(7-10)「会食のいけにえ・感謝のいいけにえ」(11-15)「誓願の献げ物、あるいは自発の献げ物のいけにえ」(16-18)とあり、その後に、汚れたものに触れた肉、そして、この脂肪のことに関する記述があり、供物を民が捧げる場合の詳細が書かれている。これらがどのような場合に献げられたのか不明である。聖書の訳によって異なる用語が用いられているので、口語訳などの名前を思い出すが、やはりよくはわからない。引用句の段落には、脂肪と血を食べてはならないことが「食べるものは一族から断たれる」(25,26)と強い言葉で書かれていることが印象的である。ただ、今回引用句を取り上げたのは「自然に死んだ動物の脂肪や、野獣に殺された動物の脂肪は、あらゆる用途に用いることはできる」とも書かれている点である。焼き尽くして「主への火による献げものとする」(2)ものではあるが、特定の死に方をした動物の場合は、その脂肪の有効利用がされていたということだろう。 Leviticus 8:1-3 主はモーセに告げられた。「アロンと彼と共にいるその子らを伴い、祭服と注ぎの油、清めのいけにえにする雄牛一頭と雄羊二匹、それに種なしパンを入れた籠を取りそろえて、会見の幕屋の入り口に全会衆を集めよ。」 任職式の詳細が書かれている。備忘録だろうか。つまりこれを行うことができないときに、正確に引き継ぐためか、理想的な形式を明示したものか、祭司の仕事、祭司がたいせつにしたことについては、正直よくわからないが、今でもある程度はなされているのだろうか。いつか学んでみたい。 Leviticus 9:1,2 八日目になり、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び、アロンに言った。「清めのいけにえにする欠陥のない若い雄牛と、焼き尽くすいけにえにする欠陥のない雄羊を選び、主の前で献げなさい。 任職式の7日間終了後最初にすることが書かれている。実際の祭司としての仕事ということだろう。アロンとその子らと書かれているが、このあとは、アロンはとなっている。アロンの子ら、すなわち、大祭司が行うものとして、アロンに行動が集約されているのだろう。しかし、いずれにしても、かなり詳細で、わたしのようなものが興味をもって読み続けるのは難しい。同時に、このことをいのちのようにたいせつにし、それが、行えないことを忸怩たる思いで(深く恥いって)いた人たちがいたということだろう。正直、理解が難しい。 Leviticus 10:4,5 モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼んで言った。「進み出て、あなたがたの兄弟を聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」彼らはモーセに告げられたとおり進み出て、二人を短衣のまま宿営の外へ運び出した。 「アロンの息子ナダブとアビフは自分の香炉を取って、火を入れて香をたき、命じられていない規定外の火を主の前に献げた。」(1)唐突にも感じられるが、事件の顛末は興味深い。ここでは、アロンやその子らではなく、アロンのおじ(モーセのおじでもあろうが)に依頼して、遺体の処理をしている。大祭司は、たとえ自分の家族であっても、死体のことなどで、穢されてはいけないという規定が背景にあるのだろう。しかし、ある程度、アロンのこころについても記されている。「アロンはモーセに告げた。『あの者たちは、今日、自分たちのために清めのいけにえと焼き尽くすいけにえを主の前に献げました。しかし、このようなことが私に起こってしまったのです。このような日に私が清めのいけにえの肉を口にして、果たして主の目に適ったでしょうか。』」(19)形式的に整えられているが、モーセのことばとして書かれている「『私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す』と主が言われたのは、このことであった。」(3b)を民に伝承するためだったのだろう。実際に何をして、何が起こったのかや、死との因果関係は、明らかではない。 2023.2.12 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  8. BRC 2023 no.008:レビ記11章ーレビ記24章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) レビ記はいかがですか。今週も、レビ記を読み進めます。 レビ記には、さまざまな汚れについて書かれています。科学的知見が、未発達の時代ですから、大きな要因として、コミュニティ(共同体)の中で、感染症をおそれたことは、背後にあると思います。20C までは、死因の多くは、感染症、伝染病だったのではないかと思います。その影響で、平均寿命(life expectancy at birth)も40歳代でしたから。むろん、その科学的知見がひろがった現代でも、感染症に関しては、分からないことばかりで、極度に恐るかたもたくさんおられますから、当時のことを考えると当然だったのでしょう。 しかし、そのような部分を除いても、汚れに関することがさまざまに書かれ、正直、疑問に思う事柄もたくさんあるのではないかと思います。聖なる神様が共にいてくださるということと関係して、汚れやそれからの清めがたいせつにされたのではないかと思いますが、みなさんは、どう思われますか。同時に、ほんとうに、神様は、そのような方なのかとも、考えてしまいます。神様が、汚れを好まれるとは思いませんが、「汚れている」と人に言われるような人を排除するようなかたではないように思うのですが、どうでしょうか。イエス様をとおして、神様をみているから、そう考えるのかもしれませんが。 同時に、ひとりの、または、個人個人の信仰と、共同体、または民族や国家、または契約のもので成立している団体(教会もある意味でそのようなものでしょう)としての宗教の問題も、考えさせられます。宗教とは何かということでもあるかもしれません。レビ記は、なかなか読むのが辛い箇所でもありますが、ところどころに、イスラエルの民は、本当に、特別な民だったのだなと思わされる箇所もあります。目指す基準の高さでしょうか。みなさんは、どのようなことを考えながら、読んでおられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 レビ記11章ーレビ記24章はみなさんが、明日2月20日(月曜日)から2月26日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 レビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Leviticus 11:16,17 これが動物、鳥、水の中でうごめく生き物、地に群がるものについて、汚れたものと清いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別するための指示である。」 この理由が直前に書かれている。「私は主、あなたがたの神である。私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい。地を這い、群がるどのようなものによっても、あなたがた自身を汚してはならない。」(44)主を畏れ、清くあらねばならないという気持ちから、このようなリストになったように思われる。しかし、それが主が告げられたこととして受け継がれていく。イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ15章11節)といい、さらにペトロに「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」(使徒11章9節)と示し、食べ物だけではなく、異邦人への福音宣教へと進んでいく。清くあらねばならないということが、膨大なリストを作っていったのだろう。おそらく、その中には、ある程度、健康のためなど理由のあるものもあったかもしれない。しかし、ひとの思いであり、主の思いとは異なるということか。判断は簡単ではない。 Leviticus 12:2,3 「イスラエルの人々に告げなさい。女が身ごもって、男児を産む場合、月経の汚れの日数と同じく、七日間汚れる。八日目には、その子の包皮に割礼が施される。 このように受け取ったということだろう。男性世界という背景もあるだろうが、いのちのもとと信じられていた血が流されることを、極度に怖れていたということだろうか。しかし、割礼も血が流れるように思う。論理的とは言えないものがたくさんある。このようにして、聖別が、区別を生み、それが差別へとつながる。主がどのような方なのか、まさに、Welcome 歓迎されるかた、Inclusive 包摂を尊ばれるかたと変化するには、時間がかかったということだろうか。人間の性(さが)でもあるように思う。 Leviticus 13:2 「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、その人は祭司アロンか、祭司であるその子らの一人のもとに連れて行かれる。 聖書協会共同訳では「規定の病」と訳され、新改訳では「ツァラアト」と訳され、口語訳は当初「らい病」と訳していて、そのご「重い皮膚病」と訳された言葉である。訳の背後には、さまざまな考えがある。新改訳のサイトでは「『ツァラアト』とは何ですか? と聞かれた場合、何と答えればよいでしょうか?」(https://www.seisho.or.jp/archives/about-3rd/q-and-a/)の回答が掲載されていたり、「聖書協会共同訳について」(https://www.bible.or.jp/wp-content/uploads/2021/03/si_bible.pdf)でも「規定の病」という訳語について説明されている。基本的に、科学的知見が十分ではないときに、また、差別の構造などを社会科学的にも十分深く考えられなかったときに生み出されたとも言えるが感染症、特に、目に見える形でおこる、病が’怖れられ、どうにか遠ざけることが、さまざまに試みられていたのだろう。御心を知るには、文字だけでなく、科学的にしめされることも、たいせつだとわたしは理解しているが、聖書解釈の根底がゆるぐと考え、明言をさけるというのが、現在の状況のように思われる。 Leviticus 14:1,2 主はモーセに告げられた。「これは規定の病を患っていた人が清められるときの指示である。その人は祭司のもとに連れて行かれる。 この章には、最後にまとめられているように、規定の病に限らず、さまざまな汚れが清められたとする手続きが書かれている。基本的には、祭司に見せる。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」(ルカ17章14節)のイエスのことばも、これを背景としている。社会的なとりあつかいは、重要だということだろう。科学的知見が欠けていたときは、祭司に頼る以外になかったのだろう。公平さとともに、知識人としての働きもあったと思われる。 Leviticus 15:31-33 あなたがたはイスラエルの人々を汚れから遠ざけなさい。あなたがたの中にある私の住まいを汚して、彼らがその汚れの中で死なないためである。以上は漏出による汚れについての指示である。精液を出して汚れた男、月経中の女、男であれ女であれ何らかの漏出があった者、また汚れている女と寝た男についての指示である。」 男性も女性も陰部からの漏出は汚れたものとみなされ、対応が必要だとして、詳細が書かれている。血や性交などいのちに関わることにおそれを持っていたことがわかる。科学的知見が十分でないことが背景にあるが、他者への感染を避けるための措置とも言えるだろう。しかし、このことにより、社会的に排除されることも、おこりうるので、問題でもある。明示的に「その者は汚れている」(3節など多数)、「彼女は汚れている」(25)という記述もあり、問題である。おそらく、さらに、広く、聖であることを単純に求めることが、差別を生む構造が見て取れるとも言える。「聖」であることを、主のみこころをもとめて生きると表現し直すことも大切であるように思う。 Leviticus 16:34 これはあなたがたのとこしえの掟である。年に一度、イスラエルの人々のために、あらゆる罪の贖いをしなさい。」アロンは主がモーセに命じられたとおりに行った。 年に一度の贖罪の日の規定である。この章の最初は「アロンの二人の息子が主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。」と始まっているが、大祭司という、特別な存在を担うものにおいても、滅ぼされるという緊張感が背後にあったのだろう。ナダブとアビフが異火を焚いて死んだという事件(10章1,2節)の詳細はわからず、単なる事故だった可能性もあるが、おそれが生じたことと、大祭司の家系であっても、特別ではないことを教える教訓にはなっていたのだろう。どのように、引き継がれていったかは、事件の詳細とともに、不明であるとしか言えないが、主をおそれることを徹底することが、このような儀式をたいせつにすることにも、つながっていったのだろう。しかし、それは、主との対話、交わりを遠ざけることにもつながる。イエスから浮かび上がる、主との関係は、すこし違って見える。 Leviticus 17:3,4 イスラエルの家に属する者が牛、羊、あるいは山羊を宿営の内、あるいは宿営の外で屠り、主への献げ物とするために、主の住まいの前、会見の幕屋の入り口に引いて来なければ、その者には血の責任が問われる。血を流したからである。その者は民の中から絶たれる。 恐ろしいことが書かれている。中央集権。幕屋、そして、神殿以外で、主への献げ物を献げてはいけないという規定である。ヨブのようなひとはどうなのだろうか。神殿がなくなったらどうするのだろうか。神殿を1箇所以外作らないとうのも、特徴的である。そのことも、興味深い。正統は一つということなのだろうか。 Leviticus 18:27,28 あなたがたより先にいた者がこれらの忌むべきことをすべて行ったので、その地は汚れた。あなたがたより先にいた国民をその地が吐き出したように、あなたがたがその地を汚して、その地があなたがたを吐き出すことのないようにしなさい。 この章は、「あなたがたは、住んでいたエジプトの地の風習に倣ってはならない。また私が連れて行くカナンの地の風習に倣ってはならない。その掟に従って歩んではならない。」(3)と始まり、「自分の肉親に近づき、これを犯してはならない。私は主である。」(7)に関係したことの記述があり、「あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父を辱めることである。」(8)この形式が続く。論理は不明としか言えないが、近親をたいせつにすることの延長にあるのだろう。ただ、引用句は、この書の成り立ちについても考えさせられる。鍵が、カナン侵入前に書かれたということだろうから。 Leviticus 19:20 男が、他の男のものになるはずの女奴隷と寝て交わり、まだ身請け金が支払われていないか、彼女に自由が与えられていなかった場合には、男に償いの義務はあるが、二人は死刑にはならない。彼女は自由の身ではなかったからである。 「聖なる者となりなさい。」(1b)が外面的な清さから他者に対する倫理的な面に及ぶ。「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」(16b)も現れる。その背後には「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である。」(34)として、他者視点も入っている。しかし、引用句は、女奴隷をその視点からは見ていない。エジプトでも、寄留者であったとして、奴隷とは書かれていない。自分と同一視する視点は秋からに広がっているが、限界もあるように思われる。バビロン捕囚もある自由が与えられていたようで、アッシリアの場合とは異なるのかもしれない。その後のさまざまな人類の歴史から学び、他者視点が広がっていかなければならないように思う。 Leviticus 20:24 それで私はあなたがたに言ったのである。『あなたがたが彼らの土地を相続する。私は乳と蜜の流れる地をあなたがたに相続させる。』私は主、あなたがたの神、あなたがたを他の民から区別する者である。 「必ず死ななければならない」が続き「民の中から絶たれる」もある。そして、引用句では「他の民から区別する者」とある。選民としての認識である。聖書で、一貫しているとは言えないが、時々現れるように思われる。聖であること、特別な律法を授かったことが特別な恵みとすることは、主観であるが、区別となると、差別につながり、交わりが制限される。他者視点との関係が、重要であると感じさせられる。いろいろな受け取り方があったのだろうが。 Leviticus 21:21,22 祭司アロンの子孫で、体に欠陥のある者は誰でも、主への火による献げ物を献げるために近づいてはならない。欠陥のある者が神の食べ物を献げるために近づいてはならないのである。しかし彼らも、神の食べ物である最も聖なるものや、聖なるものを食べることはできる。 祭司アロンの子孫は、聖なる仕事をするから、一般の人とは異なり、聖でなければならないことが詳細に書かれている。身近な肉親以外の一族の死者のことで汚れてはならない。(1-4)などなどである。汚れについては、正直よくわからず「処女をめとたなければなない」や、引用句にもある「体に欠陥のある者」についてなど、問題も感じる。しかし、それは、時代背景をもった、ひとの価値観なのだろうと思う。聖である主に仕えるのだから、聖でなければならないことを、できる限り表現したものだろう。逐次霊感説など、聖書の文字を重視する人には受け入れられないだろうが。「主のようにあること」が「主が聖であるように、聖でなければならない」と解釈され、主が聖であることの意味を十分吟味されずに、規定が膨らんでいくということだろう。これを避けることは一般的には難しい。しかし、立ち止まって、少しずつ修正していくことは、人間の責任であると思う。 Leviticus 22:4-6 アロンの子孫で、規定の病や漏出のある者は、清くなるまで聖なるものを食べてはならない。死者の汚れに触れた者や、精液を漏らした者、また汚れをもたらす群がるもの、あるいはどのような汚れにせよ、汚れている人に触れた人、このような人は夕方まで汚れる。体を水で洗わずに聖なるものを食べてはならない。 「聖である」は「欠けがない」ことを含むことが想定されているのだろう。理解できるし、ここでも、アロンの子孫、特別な任務にあたるものについて述べている箇所であるが、やはり、課題も感じる。主がどのような方であるかよりも、主がなにを望んでおられるか、そして、わたしたちが主と共に、どのように生きてほしいかを考えるべきであるように思う。そう考えると、わたしたちが「欠けがある」ことをも乗り越えられるように思う。公平さを求めることひとつをとっても、膨大なことであると同時に、基本的には「欠けがある」世界でどのように生き、御心がおこなわれる世界を共に喜ぶにはどうしたら良いかに視点が移って行くように思われるからである。 Leviticus 23:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたが聖なる集会を召集すべき主の祭り、すなわち私の祭りは次のとおりである。 祭りの規定が書かれている。「どこに住もうとも」(31b 贖罪の日の規定内)とあるが、基本的に農耕が想定されているように思われる。安息日、過越祭・除酵祭(第一の月)五旬祭(初穂の祭り50日後)贖罪の日・仮庵祭(第七の月)、安息日以外は、基本的には年三回にわけて祭りが行われるようである。この途中にある規定は、やはり目をひく。「あなたがたが土地の実りの刈り入れをするとき、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。」(22)単なる祭りの規定ではないことを示唆している。これも聖であることの表現か。 Leviticus 24:16 主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない。イスラエル人であれ、寄留者であれ、御名をそしる者は死ななければならない。 非常に厳しいと思うのと同時に、問題を感じる。イエスも言われているように、主の名をそしるどころか、「きょうだいに腹をたてるもの」(マタイ5章22節)などについても言及している。こころの中まで考えれば、裁くことはできない。おそらく、主も、このような裁きを望んでおられないのではないか。それよりも、悔い改め、敵を愛することに招かれること、互いに愛し合うことを求めることを望んでおられるのではないかと思う。しかし、このように文字で書かれると、そこに集中し、離れられなくなってしまう。ひとつのステップであるのかもしれないが。 2023.2.19 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  9. BRC 2023 no.009:レビ記25章ー民数記11章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) レビ記はいかがですか。今週は、レビ記を読み終わり、次の民数記に入ります。 何回か、出エジプト記の後半から、民数記の最初までは、通読の最初の難所と書きました。出エジプト記20章には、十戒について書かれ、そのあと、さまざまな規定について書かれて、出エジプト記の最後の40章の17節には「第二年の第一の月の一日に、幕屋が建てられた。 」と書いてありました。民数記の冒頭には「エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日、シナイの荒れ野において、主は会見の幕屋でモーセに告げられた。 」(民数記1章1節)とあり、また「彼らがエジプトの地を出て二年目の第一の月、主はシナイの荒れ野でモーセに告げられた。」(民数記9章1節)とあり、ここから、おおかた、物語の記述に戻ります。「第二年の第一の月」と「二年目の第一の月」が、同じかどうかは正確には、分かりませんが、こんな感じの記述、大枠になっています。ということで、今回が、わたしがいうところの、通読の最初の難所の最後の部分ということになります。むろん「通読の難所」などというのは、適切な表現だとは思えません。みなさんは、どんなことを考えながら読んでおられるか、聞かせていただけると嬉しいです。 民数記の冒頭は、上に引用しましたが「荒れ野」ということばが出てきました。ヘブル語聖書の最初は וַיְדַבֵּר יְהוָה אֶל־מֹשֶׁה בְּמִדְבַּר סִינַי となっています。右から読むのですが、通常通り左から書くと「(ワ・イダベル)そして言った・(ヤーワー)ヤーウェは・(エル・モーシェー)モーセに・(ベミドゥベル)荒野で・(シナイ)シナイの」となっています。そこで、最初のことばをとり、ワ・イダベルと呼ばれているとのことですが、ヘブル語聖書では、ベミドゥベルをとって、「荒野で」と呼ばれているそうです。民数記というタイトルよりも、ふさわしいように思うので、少し書いてみました。さて、荒野では、どのようなことがあったのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 レビ記25章ー民数記11章はみなさんが、明日2月27日(月曜日)から3月5日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 レビ記と民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#lv 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Leviticus 25:55 イスラエルの人々は私の奴隷である。彼らは、私がエジプトの地から導き出した私の奴隷である。私は主、あなたがたの神である。 この章では、安息日からはじめ、ヨベルの年の規定が書かれている。神を畏れるとは、このようなことかと感銘をうける一方、奴隷に関することについては「あなたが男女の奴隷として所有できるのは、あなたがたの周りにいる異邦人である。彼らからなら男奴隷や女奴隷を買うことができる。」(44)とあり、イスラエルの人々と、それ以外の人々を区別する規定を見ると、他者視点、主の愛の普遍性の理解の欠如をもって、批判したくもなる。そして、この章の締めくくりが、引用句である。おそらく、イスラエルの人々とそれ以外を分ける、区別する根拠として書かれているのだろう。他者視点が未熟とも言えるが、意識はしているということのように思われる。ヨベルの年の規定がどの程度、守られていたかの議論もあろうが、厳格なユダヤ教徒は、ある程度守っていただろうから、神を畏れることを示す規定としての意義は十分にあったように思われる。これすら、差別や分裂を産むこともあるのだろうが。 Leviticus 26:33-35 私はあなたがたを諸国民の中に追い散らし、背後で剣を抜く。地は荒れ果て、町は廃虚と化す。その荒廃の期間に、地は安息を享受する。あなたがたが敵の地にいる間、地は安息して、安息年を享受する。あなたがたが住んでいた間、安息年では得られなかった安息を、その荒廃の期間に享受する。 「私の安息日を守り、私の聖所を畏れなさい。私は主である。私の掟に従って歩み、戒めを守り行うなら、私は季節に応じて雨を降らせる。大地は実りをもたらし、野の木は実を結ぶ。」(2-4)の祝福の約束と、「しかし私に聞き従わず、これらの戒めをすべて守らないなら、」(14)から始まる呪いのことばの箇所の後半には、引用句から始まる、イスラエルの人々が散らされること、その後に続くことついて書かれている。これがいつ書かれたかは不明であるが、モーセ五書をたいせつにしたひとたちの思いは、少し理解できるように思う。さらに、引用句にある、荒廃の期間が、イスラエルの民が住んでいた間、安息年では得られなかった安息を享受するとある。安息日から始まるこの章における、安息の重さを考えさせられる。主の、Give me a break! の意味もあるのかとすら考えた。 Leviticus 27:2-4 「イスラエルの人々に告げなさい。人を査定額に従って主に奉献する、特別な誓願を行う場合、二十歳から六十歳までの男の査定額は聖所のシェケルで銀五十シェケル、女は銀三十シェケルである。 この「特別な誓願を行う場合」がなにを意味するのかは不明である。願掛け(神仏に願いをかけること。その成就のため,百度参りとか断ち物をするといった一定の行為を自分に課すのが通例。)と通常いわれるようなものだろうか。ここには、その基本的な査定額が書かれている。このあとのさらに詳細な年齢・性別ごとの査定額が書かれている。不平等ということもできるが、賠償などが関連する事項がこのあとに続くことを考えると、訴訟や、税など、さまざまなものの基準として、公平さを期すために、定められているのかもしれないと思った。貧富の差は、ここでは関係ない。実際の運用がわからないとなんとも言えないが。この章がレビ記の最後で結語には「以上が、シナイ山で主がモーセに命じられた、イスラエルの人々への戒めである。」(34)とある。 Numbers 1:2-4 「あなたがたはイスラエル人の全会衆を、それぞれの氏族と、その父祖の家によって調べ、男子一人一人の名を数え、兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者を軍に登録しなさい。あなたとアロンは、各部族の者、すなわちそれぞれの父祖の家の頭である者と共にそれを行いなさい。 十二部族について数が列挙された後「レビ人は彼らと一緒に父祖の部族へ登録されることはなかった。」(47)と書かれている。何のためにこのようなことがなされたかは、この時点では書かれていないが、中央集権的な国家体制では、税金を集めたり、軍を編成するなど国家のためになされることが多い。レビ記の最後の章は、「特別な誓願を行う場合」の査定額であったが、ここでは、「軍」への登録となっており、皆兵制がとられたことが書かれている。公平に分担するという意味と共に、常に戦いがあったことも、暗示している。 Numbers 2:2 「イスラエルの人々はそれぞれの旗の下、父祖の家の旗印ごとに宿営しなさい。会見の幕屋を囲み、幕屋から距離を置いて宿営しなければならない。 全軍の配置が描かれており、1章の登録者数と相まって、戦いの準備をしていることがわかる。しかし、本当に、これが、モーセの時代のものか、よくわからない。その後の、入植する地域にも関係するのだろうか。東西南北に分かれ、それぞれに、旗頭となる部族とそこに属する他の部族の配置が書かれている。東はユダ、南はルベン、西はエフライム、北はダンである。まずは、北に進むことが基本のように思われるが、北が一番弱そうに感じる。ダンが旗頭となる軍団となることには、後に北に遠征し、最も北の地域を得るように、別の意味があり、統一された編成方針があったわけではないのかもしれない。 Numbers 3:39 モーセとアロンが主の言葉に従って、各氏族によって登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。 他の部族の登録は二十歳以上であることを考えると(もしかすると軍の編成なので六十歳以下かもしれない、その可能性はレビ人の数においても同様であるが)レビ人だけ、極端に少ないように思われる。すくなくとも、最も少ない。一般的には、平均寿命は、四十歳ぐらいと思われるので、二十歳未満もほぼ同数いたと考えられるからである。なんらかの理由があったのだろうか。もしかすると、レビ人は、系図があきらかにならない人を加えなかったのかもしれないとも思った。むろん、推測の域を出ないが。 Numbers 4:46-48 モーセとアロン、およびイスラエルの指導者たちが、それぞれの氏族と、その父祖の家によって登録したレビ人は皆、会見の幕屋での仕事に就き、運搬の仕事をすることのできる三十歳から五十歳までの者たちである。登録された者の数は八千五百八十人。 3章39節には「モーセとアロンが主の言葉に従って、各氏族によって登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。」とある。30歳から50歳までは、8,580人である。全体では、22,000人であるから、この範囲に入らない人は、13,420人 である。50歳を超える人と、30歳未満の人の割合は不明であるが、19世紀までは、平均寿命が40歳または、40歳代であったことを考えると、ほとんどが、30歳未満であると思われる。それは、30歳になるまでになくなる人が多かったことも裏付けている。この割合は、かなりの精度で決定できるだろうと思われる。一度、考えてみたい。モーセ(120歳)やアロンの年齢は正確ではないかもしれないが、異常に長寿だったこともわかる。 Numbers 5:21,22 ――そこで祭司は彼女に呪いの誓いを立てさせ、こう言う――主があなたの腿をしぼませ、あなたの腹を膨れさせて、あなたを民の中で呪いと誓いとされる。この呪いの水があなたの体内に入って、あなたの腹は膨れ、あなたの腿はしぼむであろう。」彼女は「アーメン、アーメン」と言わなければならない。 かなり精神的な圧迫を伴う儀式であったろうと思う。しかし、同時に、毅然としていれば、無罪が証明されたこともあったかもしれない。いずれにしても、妬み・恨み・嫉みは難しい。訴えたものも、根拠が明確ではないのだろうから。この当時は、他に適切な方法がなかったと思われるが、むろん、今も、明確な判定方法はないだろう。それよりも、問題だと思うのは、信頼関係が回復されるのは、非常に困難であったろうことである。しかし、それは、現代でも同じである。 Numbers 6:2,3 「イスラエルの人々に告げなさい。男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身するナジル人の誓いをするときは、ぶどう酒と麦の酒を断ち、ぶどう酒の酢も麦の酒の酢も飲まず、どのようなぶどうの果汁も一切飲んではならない。また、ぶどうの実は、生であれ干したものであれ、食べてはならない。 さらに「ナジル人の誓願を立てている期間は、頭にかみそりを当ててはならない。その人は、主に献身している期間が満ちるまで聖なる者であり、頭髪をそのまま伸ばしておく。主に献身している期間は死体に近づいてはならず、」(5,6)と続く。酒を断ち、葡萄に関しては、果汁も飲まない、頭髪を伸ばす、死体に近づかない。とある。ナジル人の誓いは特別な誓いなのだろうが、詳細は不明のようである。葡萄は、イスラエルにとって、おそらく最も馴染みの深いものだったろう。それを断つことは、他者から明らかにわかることだったのだろう。男であれ女であれとはじまるが、女性の場合は、頭髪を伸ばすことも、酒を飲まないことも、あまり顕著な行為ではなかったのではないかと思われる。主に献身する誓いは、公的に認められる形で行われるということが特徴的に見える。誓いや、信仰は、個人のものではないと言っているように思われる。それは、他者から助けられ、支えられることも含んでいるのかもしれない。 Numbers 7:2,3 イスラエルの指導者たち、すなわち親族の頭たちも進み出て――彼らは部族の指導者であり、登録に当たった者たちである――、幌付き車六台と、雄牛十二頭を献げ物として主の前に引いて来た。すなわち、指導者二人につき一台の車と、一人につき雄牛一頭を、幕屋の前に差し出した。 このあとには、十二部族が毎日献げた記事が載っている。全く同じものが、12日間続く。以前、TEV (今は、Good News Translation というのだろうか)を見たときに、以下同様という感じで、部族と献げた人と献げもののリストだけが箇条書きになっていたので、驚かされたことがある。しかし、これが、荒野で献げられたものとはどうしても思えない。規格が統一されているからである。もし、そうでないとすると、いつのものなのだろうか。公平さが表現されることが大切なのかもしれない。また、第一日から第十二日となっており、安息日の記述もない。それとは、独立なカレンダーなのだろう。これが大切だとして、丁寧に、語り継がれ、筆写を続けていたことを考えると、そのこと自体にも驚かされる。 Numbers 8:19 私はイスラエルの人々の中から、アロンとその子らに仕える者としてレビ人を与えた。それは、イスラエルの人々がなすべき会見の幕屋の仕事に携わり、人々のために贖いをするためであり、イスラエルの人々が聖所に近づいて、災いがイスラエルの人々に起こらないようにするためである。」 レビ人が選ばれた経緯が書かれている。なぜ、レビ人かの説明はない。モーセとアロンがとくべつな存在だったということ以外には。一部属全体がこの役目を担うということには、驚きがあるが、ある家系が神職のようなものを担うことは、他の地域でもあると考えると、特別なことではないかもしれない。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は務めに就き、会見の幕屋における仕事に就く。だが、五十歳からはその仕事から身を引かなければならない。再びその仕事をしてはならない。あるいは、会見の幕屋でその兄弟たちが奉仕の務めを守るとき、彼らを助けることはできるが、自分で仕事に携わってはならない。あなたはレビ人の務めについて、このようにしなければならない。」(24-26)兵役は、二十歳であったから、差異が設けられている。学ぶ必要があったのかもしれない。単に、儀式についてだけでなく、共同体をどのように導くかも含めて。司法もすくなくともある程度担ったようなので。ここには、定年の規定もある。五十歳が現在の何歳ぐらいに対応するかは不明だが、定年の意義についても考えさせられる。この時期(いつかは不明だが)に定められたことにも驚かされることでもある。 Numbers 9:7,8 「私たちは死者の体によって汚れていますが、なぜ、イスラエルの人々の中で、この定めの時に、主に献げ物を献げることから除外されなくてはいけないのでしょうか」と言ったので、モーセは彼らに「待っていなさい。主があなたがたに何と命じられるか聞いてみよう」と言った。 祭りに参加できないことについての対応を求める箇所である。過越祭もその守り方も適切にという部分が衝突を起こしているとも言える。たいせつなことがふたつ、両方は取れない。解決方法を主に求めている。公平性の問題だとも言える。神知恵をもとめることは、大切であるが、基本的にはひとの責任なのだろう。律法も、人間が受け取ったとする神の掟なのだから。たいせつなものを共にたいせつにする、公平性の確保は難しく、正解はない場合があるが、ここでのモーセのように、丁寧に対応することこそがたいせつなのだと思わされた。それこそが、主を畏れることではないだろうか。 Numbers 10:11-13 第二年の第二の月の二十日、雲が証しの幕屋から離れて昇ったので、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパランの荒れ野にとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命によって、初めて旅路に着いたのである。 構造的には、出エジプト記19章でシナイ山に到着してから、ここまで約一年、ずっと、留まっていたことになる。出エジプト記18章1節にはモーセのしゅうとエテロの訪問が記されているが、この章の29節にあしゅうとの名前はホバブとなっているが、そのやりとりも記されている。14節から軍の出発順序が書かれている。民数記2章には、軍の配置が書かれているが、それを参考にすると、まず東側にいるユダを中心とした部族、次に南側にいるルベンを中心とした部族、次に、西側にいるエフライムを中心とした部族、最後に北側にいるダンを中心とした部族が出発する順序が書かれている。方角は北に向かうはずであるが、広がっていた部族が幕屋を中心に結集する感覚だろうか。ラッパのことなどもかかれており、整然と出発したように、記述されている。最後には、モーセの歌が記され非常に整っている。 Numbers 11:29 モーセは言った。「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいるのだ。」 前章末のモーセの賛美の直後に書かれていることには驚かされる。「民は主の耳に届くほど激しい不平を漏らした。主はそれを聞いて怒りに燃え、主の火が彼らに対して燃え上がって宿営の端を焼き尽くした。」(1)このような現実が描かれていることはとても興味深い。不満としては食べ物のことが書かれている。霊的なものだけでひとは生きているわけではないということだろう。このあとには、モーセが主にいのって火が収まったことが書かれているが、つづいて、モーセが「私一人ではこの民すべてを負うことはできません。私には重すぎます。」(14)と告白している。主の命によって「モーセが知っているもの」(16b)七十人をモーセが選ぶと「主は雲の内にあって降り、モーセに語りかけ、モーセの上にある霊の一部を取って、七十人の長老に分け与えられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは一時の間だけ預言者のようになった。」(25)とある。これをうけてのヨシュアが制止するようにもとめたことに対するモーセの言葉が引用句である。出エジプト記18章には、エトロの助言で千人の長百人の長などが立てられたと記述があるが、呼応している感じもする。構造的にも興味深い。 2023.2.26 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  10. BRC 2023 no.010:民数記12章ー民数記25章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 民数記はいかがですか。最初は、軍隊を編成するための住民登録が書かれていて、無味乾燥な感じもしますが、すこしずつ、この「荒野で」のことが書かれていますね。荒野ではどのようなことがあり、それを、どのように記述しているのでしょうか。それは、みなさんに、読んでいただくことにしましょう。 昨年夏に、ロシアのウクライナ侵略、または、ロシアとウクライナの戦争について、キリスト者はどのように、向き合ったら良いのかについて、考える機会があり、ロシアや、ウクライナ、ポーランド、バルト三国などの歴史をしらべたり、プーチンさんや、近代ロシアについて、勉強したのですが、非常に複雑であると同時に、いろいろなことを考えさせられました。世界史としてはみなさんご存じだと思いますが、モンゴルが征服したり、その影響下の国が続いたり、イスラム圏、正教会、ローマ・カトリック、プロテスタント、プロテスタントでも、再洗礼派などの争いもあり、それに加えて、国を持たない、多くのユダヤ人などの勢力がどのように関わり合っていったのか、そのなかで、それぞれの人々が、どう生きるかなどの複雑な問題がずっと続いていたことも、知りました。 そのような世界史的な視点でみると、出エジプトから、カナン定住はどのようなもので、どのように理解したら良いのだろうかとも考えています。民数記の最初の記述をそのまま受け取ると、成人男性だけで、60万人以上、全体の数は書かれていませんが、200万人ぐらいでしょうか。その大部隊が、エジプトから、カナンの地に、向かっている。難民という見方もできますが、土地のひとにとっては脅威だったでしょうね。むろん、最近の聖書学では、このような出エジプトを全面的に否定はしなくても、基本的には、パレスチナにおける、ある部族連合だろうとする解釈もされているようです。しかし、それは、おいておいて、このようなことが起こっているということを想定して、周囲のひとたちのことを、考えると、なにか、とても、胸が締め付けられる気持ちになってしまいます。みなさんは、どうですか。イスラエルのひとたち、ユダヤ人は、歴史を生きる中で、これをどのように捉えていったのでしょうか。聖書のなかには、どのように描かれているのでしょうか。 人間はあまり変わっていないという面と、考え方も少しずつ変わってきているのかなという面と両方があるように思います。丁寧に読んでいくことができると良いですね。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記12章ー民数記25章はみなさんが、明日3月6日(月曜日)から3月12日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Numbers 12:6-8 主はこう言われた。/「聞け、私の言葉を。/あなたがたの間に預言者がいるなら/主なる私は幻によって自らを示し/夢によって彼と語る。私の僕モーセとはそうではない。/彼は私の家全体の中で忠実である。口から口へ、私は彼と語る。/あらわに、謎によらずに。/彼は主の姿を仰ぎ見る。/あなたがたはなぜ/私の僕モーセを恐れもせず非難するのか。」 モーセと預言者との違いが語られていて興味深い。モーセには幻で語るのではないと語り、そして、忠実さに言及する。忠実は、信仰と同じだろうから、信頼関係と言い換えることができるかもしれない。その信頼関係によって、主の姿を仰ぎ見て口から口へ(なぞなどを用いず)直接語るということである。人々も、それを理想としたのではないだろうか。ただ謎は残る。特別扱いされるのだろうか。一般化してある原理を導くのではなく、一つの表現として受け取ることで留めるべきなのだろう。 Numbers 13:32,33 偵察した地について、イスラエルの人々の間に悪い噂を広めて言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」 確かに、主への信頼は微塵も感じられない。しかし、さまざまな人々が住んでいるところを侵略して、とることを思いとどまらせようとすることに関して必死ならば、赦されることもあるように思えてしまう。いままであまり考えてこなかった視点だが、どう考えるべきなのだろうか。もしかすると、侵略の意味が豊かになってきているのかもしれない。共に生きることはできないのだろうか。難しい問いである。 Numbers 14:7-9 イスラエル人の全会衆に言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう。ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」 一般的には、カレブのことばがキリスト教会では賞賛される。しかし「彼らは私たちの餌食にすぎない」など恐ろしくなる。このような歴史観は、イスラエルに長くとどまり、キリスト教会にも引き継がれたとしたら、非常に残念である。実際には、イスラエルの民の規模などは、不明であろうから、侵略とか、大量難民とかとは、異なるのかもしれない。カナンの地における、部族連合を考える方が、かえって良いかもしれない。課題は、ほんとうに、このような歴史観を主の御心として、受け取るのかということだろう。おそらく、主に責任を被せているところに問題があり、人間としてなにを受け取るかを、慎重に考えるべきなのかと思う。継続して考えていきたい。 Numbers 15:30,31 ただし、イスラエル人であれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒瀆する者であり、その者は民の中から絶たれる。その者は主の言葉を侮り、その戒めを破ったのであるから、必ず絶たれ、有罪とされる。』」 カナン偵察とその後のことが書かれた前章の直後に「イスラエルの人々に告げなさい。私があなたがたに与えて住まわせる地に、あなたがたが入り、火による献げ物を主に献げるとき、すなわち、焼き尽くすいけにえ、誓願を果たすためのいけにえ、自発の献げ物や祝祭日のいけにえとして、牛か羊を主への宥めの香りとするとき、」(2,3)と献げものの規定が再開される。引用句にもあるように、誤って罪を犯したものと、故意に罪を犯したものについての言及もあり、興味を持った。これらは、内心の問題で、簡単にはわからない。裁判などにおいては、行動など外的なことから、内心を判断する。おそらく、ここで言われているのは、主との向き合い方なのだろう。主に対して罪を犯すかどうかが背後にあり、それは、偵察隊の報告をどう聞いたか、その反応にも、繋がることのようにも思う。同時に、叛逆の後に、襟を正すようなかたちで、おごそかに、「私があなたがたに与えて住まわせる地に、あなたがたが入り」(2b)とはじまる書き出しも印象的である。正確には、この章の位置付けはわからないが、考えさせられることも多い。 Numbers 16:15 モーセは激しく怒って主に言った。「彼らの供え物を顧みないでください。私は彼らからろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちの誰にも害を与えたことはありません。」 レビ人は、通常下級祭司と言われるが、アロンの子かどうかで、大きな差ができてしまうことに、憤りをもつのは、自然である。ここでは、珍しく、モーセが、怒って主に語っている。主とのやりとりが興味深いが、これは、対話とも言えないことはないが、信仰者の中の葛藤とも言えるかもしれない。この直後にモーセとアロンは「二人はひれ伏して言った。『神よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ。あなたは一人が罪を犯すと、全会衆に怒りを下されるのですか。』」(22)と訴えている。その前の主の言葉(20)から、モーセとアロンたち以外は、滅ぼされると思ったのかもしれない。これは、おそらく、14章11,12節のことばと繋がっているのだろう。主の考えが揺れているというより、主のみこころの理解がゆれているというのが現実だろうが。 Numbers 17:12,13 アロンがモーセの言ったとおりにそれを取り、集まっている人々の中へ走って行くと、民の間に疫病が広まり始めていた。アロンが香をたき、民のために贖いをし、死んだ者と生きている者との間に立つと、疫病は治まった。 「主はモーセに言われた。『この民はいつまで私を侮るのか。私が彼らのうちに行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまで私を信じないのか。私は疫病で彼らを打ち、彼らを捨てて、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう。』」(14章11,12節)がここにつながっている、または、この章の記事が、14章につながっているのかなと思った。集団生活、共同体にといては、疫病は、大きな課題である。ここでは、アロンが特別な役割を果たしたことが書かれている。祭司の役目ということだろう。現代では、科学的知見が拡大し、科学者の役割も増えているが、はっきりいって、不明なことばかりである。やはり、どこかで、科学的なものだけでは、解決しないことがあることも思わされる。 Numbers 18:4,5 彼らはあなたに連なり、会見の幕屋の務め、幕屋のすべての仕事に携わる。一般の人はあなたがたに近づいてはならない。あなたがたが聖所の務めと祭壇の務めを守る。そうすれば、再び怒りがイスラエルの人々の上に臨むことはないであろう。 これは、レビ人が、祭司を助けるのであって、一般の人が、幕屋の仕事をしてはならないと書かれた部分であるが、「一般の人はあなたがたに近づいてはならない。」だけを読んで、驚かされた。ただ、やはり、そのような面もあったのかもしれない。仕事中は、近づけないわけだから。この章の後半には「イスラエルの人々は二度と会見の幕屋に近づいてはならない。罪を負って死ぬことのないようにするためである。」(22)これは、主が聖であることの一つの表現であろうが、本当に主が望んでおられるかは、不明である。少なくとも、主イエスは、そのような方でなかったことは確かである。 Numbers 19:7 祭司は自分の衣服を洗い、体を水で洗う。その後、宿営に入ることができるが、祭司は夕方まで汚れる。 死体に触れたものが汚れるということについてこの章では書かれているようである。かなり徹底している。清さと汚れの問題は、神への畏れから来ているのだろうか。「これは、彼らにとってとこしえの掟である。清めの水を振りかけた者は自分の衣服を洗うが、清めの水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた者が触れるものはすべて汚れ、また、それに触れる者も夕方まで汚れる。」(21,22)あまりの徹底さに滑稽さすら感じる。主イエスの葬りに関係した、アリマタヤのヨセフやニコデモもこのようにしたのだろうか。(ヨハネによる福音書19章38-42節)そうかもしれない。そのあたりも、知りたい。イエスが死人に触り、生き返らせたときはどうなのだろうか。 Numbers 20:1,2 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。 この章の最後には、アロンの死とエレアザルへの引き継ぎ、また、モーセも約束の地に入れなさそうなこと(24)も書かれている。最初には、引用句のように、ミリアムの死が、書かれている。12章15節には、民が、ミリアムを見捨てないような記述があるが、やはり、ここでの扱いはとても軽いと感じさせられた。続いて、水のことが書かれている。マナは、継続的に、降ったようで、うずらは、一時的なもののように思うが、水は、つねに、問題だったのだろう。民の不満を責めることはできないように思う。主との信頼関係をたいせつにするとしても、民のなかに、そのような不満が出ない世界は、わたしには、想像できない。それを、不信として、切り捨てるとすると、人々が共に生きていくことはできないし、そのような思いは、口には出さなくても、だれのこころにもあると思うから。 Numbers 21:21 イスラエルは、アモリ人の王シホンに使者を遣わし、次のように言った。「私にあなたの土地を通らせてください。私たちは道をそれて畑やぶどう畑に入るようなことはしません。井戸の水も飲みません。あなたの領土を通り過ぎるまで『王の道』を進みます。」 20章14-21節には、エドム人の王と交渉するが決裂し、エドムの地を通ることを避けたとの記述があり、ここでは、アモリ人の王シホンとのことが書かれている。こちらは、滅ぼすこととなる。エドムも、アモリも、このあとの、モアブも、カナンに入ってからも、さまざまな関係・軋轢がつづくこともあり、このような記述があることは重要なのだろう。このときだけのことではない。しかし、エドムとの違いははっきりしているように思われる。創世記にある、血縁の近さだろうか。このあとの歴史の故か、周辺の民族との関係は、情報も乏しく、よくはわからない。 Numbers 22:2,3 さて、ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に行ったことをすべて知った。モアブはこの民を大いに恐れた。その数がおびただしかったからである。モアブはイスラエルの人々を前にして恐れをなした。 モアブのバラクの気持ちは、十分理解できる。このようなとき、ひとはどうすれば良いのだろうか。バラクとバラムの物語は、聖書の記述によると、残念な結末が待っている。(民数記25章)もしかすると、これは、モアブに関係する複数の伝承があり、それが書かれているのかもしれないが。わたしが、バラクならどうしたら良いのだろうかと考えた。簡単なことではない。しかし、相手を知ること。「あなたのことを教えてください」と「互いに平和に過ごしなさい」のみちを探ることだろうか。一般的にはとても難しいことである。しかし、このことに、わたしは、力を傾けたい。このような、小さな努力を、し続けてきた人たちに、囲まれて、いままで生きてきているのだから。 Numbers 23:25-27 バラクはバラムに言った。「もう彼らに呪いをかけることも、祝福することもしないでくれ。」バラムはバラクに答えた。「主が告げられることをすべて行わなければならないと、あなたに言わなかったでしょうか。」バラクはバラムに言った。「どうか来てほしい。別の場所に連れて行こう。恐らくそこからなら、神の目に適い、彼らに呪いをかけてもらうことができるかもしれない。」 バラクの必死さと、混乱が伝わってくる。このことが記録されているのは、自分達が見えないところでも、働いておられる主を知るためだろう。しかし、バラクは、バラクなりに、最善を尽くそうとしているようにも見える。ここでは、バラムに語りかける主が中心に置かれて理解される場合が多いが、バラクと主との関係にも注目したい。むろん、それは、主のみがご存じで、そして、バラクもすこしは、知っているだけなのかもしれないが。 Numbers 24:10,11 バラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵に呪いをかけるために私はあなたを招いたのに、あなたは三度も祝福してしまった。今すぐ自分のところに逃げ帰れ。私はあなたを手厚くもてなすと言ったのに、主はあなたをもてなすことを拒まれたのだ。」 このバラクのことばに続いてバラムの応答が書かれ、託宣が続く。そして、次の章では、異なるエピソードが書かれている。バラム視点から考えることが多いので、今回は、バラク視点から考えてみたいと思う。バラクはモアブの王である。難民とは言い難い、強い民族が迫ってくる。そして、近隣のアモリ人の王シホンを滅ぼしている。そして、そこに、神の力が宿っているとみれば、バラクのような対応は、非難できないように思う。引用句には「主はあなたをもてなすことを拒まれたのだ。」ともある。これ以上の、主の働きをみることは、困難だろう。そのような人に対して、わたしは、何も言葉が出ない。そこに、共にいることだろうか。そのことによって、イスラエルに、共に滅ぼされることになったとしても。 Numbers 25:7-9 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはこれを見ると、会衆の中から立ち上がって槍を手に取り、そのイスラエル人を追いかけて奥の部屋まで行き、この二人、すなわち、そのイスラエル人と女を突き刺した。槍は女の腹にまで達した。イスラエルを襲った疫病はこれによってやんだが、この疫病で死んだ者は二万四千人であった。 疫病のことは、この章には、これ以前には書かれていない。しかし、膨大な数のひとが疫病で亡くなったことが記録されている。前章までとは、別の伝承物語が、入り込んでいるとも考えられるが、違った視点とも言えるのかもしれないと思った。事実を確認することはできないが、疫病が起こったことは、規模は別として確かなのだろう。そのうえで、何が原因かを問う。聖なる主が働いておられ、大勝利を得させられたにもかかわらず、淫らな行為が、土地の人(モアブだかミデアンだか不明だが)との間で行われていたことに、目が向けられ、粛清が行われ、疫病が治まったという話なのだろう。主がどのように働いておられるかは別として、興味深い記述である。記録が断片的であることも、理解が困難な背景にはあるが、少しずつ、いろいろな見方を学んでいきたい。 2023.3.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  11. BRC 2023 no.011:民数記26章ー申命記3章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 民数記はいかがですか。今週は、民数記を最後まで読み、次の申命記に入ります。申命記は、最後に、ヨルダン川を渡って、約束の地に入る前、まだ、ヨルダン川の東側にいるときにした、モーセの説教集という形式になっています。説教集ということもあるかと思いますが、物語より、戒め、律法に関する、教えが中心で、新約聖書での引用も多い内容になっています。モーセは、ヨルダン川を渡る前に、召されることになりますが(どこに書いてあるのでしょう)、それに先立って、ミリアム(モーセのお姉さん、20章1節参照)や、アロン(モーセのお兄さんで、最初の(大)祭司、20章26節参照)も召されますから、世代交代、そして、指導者交代とも言えます。 民数記の最後には、カナン入植後のための申し送り事項のようなことや、旅程も書かれています。しかし、気になるのは、他民族を滅ぼしていく(聖書の訳によっては「聖絶」する)ことが書かれています。今の言葉でいくと、ジェノサイド(集団殺害:共同社会や民族を滅ぼすほどの大量殺害。集団殺戮(さつりく)。あるグループの存在を抹消することを目的として行われる暴力的な犯罪行為。)と同じではないかと考えさせられる面もあります。そのような面でみると、民数記の最初の人口調査も、軍の編成のためですし、十二部族の軍事同盟が国の成り立ちという見方も、間違っていないように思われます。その面は、否定しようもないものとしてありますし、歴史的には、国が安定して大きく強固になっていくのも、軍事的な面が強かったのかもしれないとも思います。GDP(国内総生産)が大きな国が、軍事的には強く、安定するという現実もあります。 しかし、聖書はむろん、そこにとどまるものではありませんし、そのように軍事的に強くなっていくことに対しては、何度も、釘をさしています。異なる価値観が背景にあることは確かでしょう。おそらく、上のようなことを批判して、そこで、読むのをやめてしまうのではなく、そのことは、心に留めつつ、そこに書かれている、価値観、それは、神様の御心として、受け取っていった、信仰告白とも言えるとおもいますが、受け取らなければ、聖書を読む意味はないのでしょう。みなさんは、どのようなメッセージを受け取られますか。ジェノサイドについても含めて、お考えをお聞かせ願えれば嬉しいです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記26章ー申命記3章はみなさんが、明日3月13日(月曜日)から3月20日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 民数記と、申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#nm 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Numbers 26:35-37 エフライムの家系の各氏族は次のとおりである。シュテラとシュテラ家の氏族、ベケルとベケル家の氏族、タハンとタハン家の氏族。シュテラの一族は次のとおりである。すなわちエランとエラン家の氏族。以上がエフライムの家系の諸氏族であり、登録された者は三万二千五百人。以上がヨセフの家系の諸氏族である。 創世記48章19節には、エフライムのほうがマナセより大きくなるとあるが、ここでは、マナセは「五万二千七百人」(34b)で、だいぶん多い。エフライムは、北イスラエルを代表して使われる部族名でもあり、勢力ではないのかもしれないと思った。中心に位置することと、また、なんらかの意味で、ヨセフに関連して、リーダーシップを持っていたのかもしれない。数も、一度、丁寧に調べてみたい。二度の人口調査の記録があるのだから。 Numbers 27:21 ヨシュアはこうして、祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、彼のためにウリムによる裁定を求める。ヨシュアと、彼と共にいるすべてのイスラエル人、つまり全会衆は、エルアザルの指示に従って出陣し、また帰還しなければならない。」 モーセとアロンの役割が、ヨシュアと、エルアザルに引き継がれたように、ぼんやり思っていたが、型式は変わっている。アロンもモーセのリーダーシップのもとにいたが、ここでは、ヨシュアが、エルアザルのもとにいる。とはいっても、ヨシュア記はあるが、エルアザル記はない。だんだんと軍事など、生活に関係するリーダーシップが強くなって、王制につながるのかもしれないとも思った。祭司がリーダーシップを取る場合もあるだろうが。 Numbers 28:1,2 主はモーセに告げられた。イスラエルの人々に命じて、彼らにこう言いなさい。あなたがたは、私への献げ物、すなわち私の食物を、火による献げ物、宥めの香りとして、定められた時に必ず私に献げなさい。 前の章で、ヨシュアが選ばれたことが書かれており、エルアザルと協力して、指導していくことが書かれている。そのあとで、また、祭儀についての記述が始まる。それをたいせつにしていたとも取れるが、それを特別に大切にしていた人が、書いた、書き込んだとも考えられると思う。この章には、基本的な献げものについて書かれている。火による献げものについて。安息日、毎月の第一日、第一の月の十四日の過越祭十五日からの一週間。初穂の日すなわち五旬節についてである。 Numbers 29:39 以上が、定められた時に、あなたがたが主に献げるものである。これらは、誓願の献げ物、あるいは自発の献げ物として献げられる焼き尽くすいけにえ、穀物の供え物、注ぎの供え物、会食のいけにえとは別のものである。 この章では、第七の月の第一日、十日、十五日からの七日間と贖罪の日の献げものが続いて、最後に、引用句がある。献げものについては、レビ記にも記述があり、どのような関係になっているかは、詳細に調べてみないとわからない。実際に、これがなされていたのは、どのような期間なのだろうか。それも興味を持った。 Numbers 30:9 しかし、もし夫がそれを聞いた日に反対するなら、彼女が立てた誓願も、軽率に口にしたその身に対する物断ちの誓いも、夫は取り消すことができる。主は彼女を赦されるであろう。 「軽率に口にしたその身に対する物断ちの誓い」に意味があるのかなと思った。男性は、教育を受けていることが前提とされていたのかもしれない。ということは、平等に教育されている場合は、意味をもたない。いずれにしても、最後の部分は、夫、おそらく、父にも厳しい。「もし夫が妻に何も言わずに翌日を迎えるなら、妻の立てた誓願や、物断ちの誓いは、すべて有効となる。それを聞いた日に黙認したからである。もし夫がそれを聞き、後になってそれを取り消すなら、夫は妻の罪を負わなければならない。」(15,16)いずれにしても、あまり普遍化することには問題があるが、保護を受けるものを大切にし、それは、保護者の責任であるということは、他の場合に、適用されることなのだろう。 Numbers 31:32-35 奪い取ったもの、すなわち兵役に就いた民が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭。人については、男と寝ておらず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。 この数がただしいなら、夥しい数の人が殺されたことになる。まさに、ジェノサイドである。男を知らない女を区別することも、血が混じることを避けたのだろうが、科学的でもない。歴史は、本当に残酷なことを記録する。共に、平和に生きることはできないのだろうか。 Numbers 32:1 ルベンの一族とガドの一族は多くの家畜を持っており、それはおびただしい数に上った。彼らがヤゼルの地とギルアドの地を見ると、そこはまさに家畜を飼うのに適した場所であった。 33節には「モーセは、ガドの一族とルベンの一族、また、ヨセフの子マナセの部族の半数に、アモリ人の王シホンの王国とバシャンの王オグの王国、すなわちその領内にある町、およびその周辺の地にある町を与えた。」と書かれ、マナセの半部族が加わっている。そして、その経緯は書かれていない。2章の記述によるとルベン軍は、46,500人、ガド軍はルベン軍の旗頭のもとにおり、45,650人、ここには、他にシメオン軍が 59,300人いるが、家族を守るために留まる人たちがいると、南側が少なくなることは確かである。マナセ軍は、エフラエムの旗頭のもとにおり、32,200人である。半部族は、ここからは、特定できないが、15,000人程度だろうか。全体からみると、6分の1位だろうか。このヨルダン川の東に住む人たちについて、もっと情報が欲しい。おそらく、最初に、離散した民だと思われる。 Numbers 33:34 アルシュを出発して、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。 これまでも、水がなかったことは、何回も書かれているが、この旅程表では、引用句のみである。民数記では、20章に、ツィンの荒野で水がなかったことが書かれ(20章1節)さらに「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、飲み水さえもありません。」(20章5節)ともあるが、おそらく、十分ないということだろう。200万人程度が移動していることを考えれば、計画的に、水があるところに、移動することは当たり前である。しかし、荒野で、水があるところは、ひとがいたと思われるから、多くの軋轢も生み出される。それがどうなっていたのかも、聖書はほとんど語らない。水について民が不平を言ったことだけが記されている。それが重要だったのだろう。考えてみたい。 Numbers 34:1-3 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に命じてこう言いなさい。あなたがたが入ろうとしているカナンの地、すなわち、相続地として与えられるカナンの地の境界線は、次のとおりである。あなたがたの南側の境界は、エドムに接するツィンの荒れ野から始まる。すなわち南の境界線は、塩の海の端を東の境界とし、 このようなことばを主のことばとして書くことは、大きな問題を生じることは、明らかである。同じように、他の神がこう告げられたとして、異なる境界線がしめされたときはどうなるのか。衝突せざるをえない。本当に、主は、そのようなことを望んでおられるのだろうか。一つの考え方は、ずっと将来の先の先の目標を示すという考え方。もう一つは、境界線といっても、それは、独占的なものではないなどなど。言い訳はいろいろと考えられるが、いずれも、他者にとって、受け入れらるものではないだろう。まさに、自己中心である。信仰告白として、このようなメッセージを受け取ったとして書いてはいても、違ったメッセージを受け取ることもあり、主のみこころがかわるわけではなくても、これを絶対的なものとないことがたいせつだろう。われわれが、主の御心を学んでいく過程で、わたしたちの受け取り方も多くの間違いを含むのだから。 Numbers 35:10,11 「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたがヨルダン川を渡って、カナンの地に入ったら、幾つかの町を設けなさい。そこは逃れの町であり、過って人を殺した者はそこに逃げ込むことができる。 故意でない、殺人の規定は、出エジプト記21章12 節以下に書かれている。ここでは、逃れの町の規定が書かれている。ヨシュア記20章に、実際に定められたことが書かれている。それ以降も、逃れの街を背景としたことと思われる箇所は、ないことはないが、実際に、どのように運用されていたかは不明である。混乱期も長いので、確かなことは言えないのではないだろうか。ただ、このような、原則を、定めたことは、興味深い。「逃れの町に逃げ込んだ者のために贖い金を受け取り、大祭司が死ぬ前に、その者を地元に帰すようなことがあってはならない。」(32)とあり、そのようなことが実際にあったのではないかとも思われる。故意かどうかは、内心の問題で、人が判断するのは、難しいだろう。極端なことを言えば、自分でも、わからなくなることもあるだろう。殺人を大きな罪とすること、故意と、過失を分けることも合理性はあるが、実際は、非常に難しい。その公平さは、人間に委ねられているのだろう。 Numbers 36:8,9 イスラエル人の諸部族のうち、相続地を所有している娘は皆、その父の部族のいずれかの氏族の者の妻とならなければならない。これは、イスラエルの人々がそれぞれ、その先祖の相続地を所有するためである。相続地が、ある部族から他の部族に移るようなことがあってはならない。イスラエル人の諸部族はそれぞれ、その相続地を固く守らなければならないからである。」 ツェロフハドの娘たちの嘆願に発したこの土地所有に問題が、ここで、普遍化されている。相続する男子がいない場合には、女性も相続可能。ただ、嫁ぐ先が、他の部族であってはならない。部族内で留まらなければならない。ということである。詳細は不明だし、問いたくなることはいくつもあるが、原則は、部族ごとの相続地を固く守るということだろう。「ツェロフハドの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。娘たちは自分たちの気に入った者の妻となってよい。ただし、自分たちの父の部族の氏族の者に限って、その妻となることができる。」(6)と書かれていることも、興味深い。実際、ユダヤ社会で、特に、土地所有が関係しているときは、どうだったのだろうか。 Deuteronomy 1:7,8 向きを変え、出発して、アモリ人の山地、またその近隣のすべての場所、すなわち、アラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方へ、さらにカナン人の地、レバノン、大河ユーフラテスにまで行きなさい。さあ、あなたがたにこの地を与える。あなたがたは行って、主があなたがたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブとその子孫に与えると誓われた地を占領しなさい。」 このように話してからモーセのモアブの地での説教(5)が始まる形式になっている。そして最初は「そこで、私は、あなたがたの部族の頭で、知恵と知識のある人たちを選び、その人たちをあなたがたの頭、すなわち、千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長、また、あなたがたの部族の役人とした。」(15)と統治組織のことが書かれている。指導者として、学ばなければならないことという意味があるかもしれない。引用句を上げたのは、やはりかなり乱暴だということである。これを、御心ととるのはとても危険である。世界の指導者がこのようなことを始めたら、平和は決して訪れない。 Deuteronomy 2:9-12 そこで主は私に言われた。「モアブを敵視して、戦いを挑んではならない。私がその地を領地としてあなたに与えることはない。アルは、ロトの子孫に領地として与えた。――かつて、そこはエミム人が住んでいた。その民はアナク人のように大きくて数が多く、背が高かった。彼らはアナク人と同じようにレファイム人だと見なされていたが、モアブ人は彼らのことをエミム人と呼んでいた。また、セイルにはかつてフリ人が住んでいたが、エサウの子孫が彼らを追い払って滅ぼし、彼らに代わって住んだ。ちょうどイスラエルが、主から与えられた領地に対して行ったことと同様である。―― この章の最初には、エサウについて、9-11節には、アンモン人についても似た記述がある。「あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられ、あなたは何一つ不自由しなかった。」(7)の記述は、後から振り返った信仰告白であり、事実とは、異なることは、これまでの記述からも明らかである。この言葉からも、かなり後代に書かれたものかとも思われるが、不明なことについては断言しない。引用句で、一つ注目すべきは、「ちょうどイスラエルが、主から与えられた領地に対して行ったことと同様である。」とあることである。「主から与えられた領地」は通常、カナンの地、ヨルダン川の西側を意味するから、モアブにいるときには、まだ征服していない場所である。同時に、ある意味で、侵略と非難する人もいるかもしれないが、いろいろな場所で、そのようなことが起こっていることを述べているようにも見える。もう一つ、気づいたのは、この章での記述には、フェライム人など、巨人族についての記述が何度も登場することである。そのような強さによって決まるわけではないことを強調するためか。 Deuteronomy 3:25,26 どうか私を渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの美しい地、美しい山、レバノン山を見せてください。」しかし主は、あなたがたのゆえに私に怒りを示し、私の願いをお聞きにならなかった。主は私に言われた。「もう十分だ。このことを二度と語ってはならない。 モーセはヨルダン川を渡っていけないのは、イスラエルの不信によるといっているようである。しかし、主のことばとして記されているのは「もう十分だ。」だけである。興味深い。わたしのいまの状況を、神様は「もう十分だ」と言ってくださるのだろうか。それとも、わたしは、もっともっと、主にお仕えすることをするのだろうか。いつか、「もう十分だ」と言っていただける日まで、誠実に生きていきたい。 2023.3.12 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  12. BRC 2023 no.012:申命記4章ー申命記17章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 申命記はいかがですか。今週は、申命記の前半を読みます。前回、申命記は、荒野での最後の期間のモーセの説教集という形式をとっていると書きました。申命記は、他の旧約聖書と同様、ヘブル語聖書ではその最初のことばから取って「エーレ・ハッデバーリーム(これらはことばである)」あるいは短く「デバーリーム(ことば)」と呼ばれています。17章18節にある「מִשְׁנֵה הַתּוֹרָה ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということば、または、短く「ミシュネー(写し)」と呼ばれることもあるようです。日本語聖書の申命記は、漢語の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。ということは、本則(律法)の解説みたいなものでしょうか。創世記から民数記までとは、文体が大きく変わっています。 みなさんも、十戒はご存じかと思います。出エジプト記20章にありますが、十戒(עֲשֶׂרֶת הַדְּבָרִים エセレット ハッダバリーム: 十の言葉 )ということばは、訳にもよるかもしれませんが(写本によっては出エジプト34章18節にも含まれているようです)、おそらく、申命記にしかありません。申命記4章13節と10章4節にあります。そして、その十戒は少し出エジプト記とは異なりますが、申命記5章に含まれています。みなさんは、シェマーということばを聞いたことがありますか。「聞け」ということばですが、ユダヤ教徒がとても大切にしており、申命記 6:4-9, 11:13-21, 民数記15:37-41 から取られています。さらに、わたしも今回引用していますが「あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。」(申命記4章2節a)とも書かれています。それだけ、申命記のことばは重要だということですね。  同時に、私は、少し、心配にもなってきます。聖書は、このあとにも続きますから、何ひとつ加えても、削ってもならないということを、どう理解したら良いのかも考えなければいけなくなります。ユダヤ教徒の中には、このような理由のためでしょうか、申命記までの部分だけを、律法として、他とは区別して扱う人たちも多いようです。モーセは特別な存在であったこと、そして、特別な存在として認められていたことは、理解できると思います。しかし、わたしは、おそらく、あまり、原理主義的にならないほうが良いと考えています。原理主義とは、根本的なものは、これだけとして、そこだけに依存して、論理を組み立てようとするのだと思いますが、わたしたちの知ることは、一部であることも、事実ですし、さらに、少しずつ、学んでいることも確かだと思うからです。一緒に、少しずつ、学んでいきましょう。謙虚に、そして、柔軟な心を持って。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記4章ー申命記17章はみなさんが、明日3月20日(月曜日)から3月27日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Deuteronomy 4:2 あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。 これを原理としてとると、聖書は申命記で終わりということになるのだろう。それが、わたしの理解では、サドカイ派の解釈であり、預言書や諸書は含まれず、ましてや、新約聖書などを主のことばとすることはできない。聖書をどのようなものとするかに、大きく影響する。絶対的なことを言っているのではなく、自分勝手に変えて行ってはいけないと言っているのだろう。主の御心を求めることは、続けていなければならない。 Deuteronomy 5:1-3 さて、モーセはイスラエルのすべての人々を呼び集め、彼らに向かって言った。「聞け、イスラエルよ。私が今日あなたがたの耳に語る掟と法を。これを学び、守り行いなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。私たちの先祖とではなく、まさに私たちと、今ここで生きている私たちすべてと、主はこの契約を結ばれた。 「聞け、イスラエルよ。」から始まる。そして、根幹をなすものは、契約である。契約の内容は何なのだろうか。それがおそらく、このあとに続く、十戒であり、掟と法であり、これに応じるものにとって、契約となるのだろう。この契約関係を基としている以上、どうしても、中と外の区別は生じる。契約を結んだものと結ばなかったものである。だからといって、内容は、差別を生じるものではないということなのだろうか。基本的な点をしっかり理解できるようにしたい。 Deuteronomy 6:16 あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。 試すとはどういうことだろうか。この章には有名なシェマーがあり「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」(4,5)この主を愛することの反対なのだろうか。おそらく、試すとは、不信から生じる行為、そして、信頼しないということなのだろう。信仰・信頼・忠実が、愛することと深く結びついていることは確かだが、試すということとの対比で考えたことはない。試すことと、疑問を抱くことは、異なるだろう。懐疑的になるのはどうだろうか。ことばも、いくつもあげて考えてみたい。そして、わたしは、どうなのだろうか。主と、ずっと関係を保っていきたい、ともに歩んでいけたらと願っている。信頼し、互いに愛あってと表現できるように。 Deuteronomy 7:2 そして、あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない。 理由も書かれている。「それはあなたの息子を私から引き離すことになり、彼らは他の神々に仕えるようになる。そうすれば、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、たちまちあなたを滅ぼし尽すことになる。」(3)あまり表現は良くないが、排他的になる特徴は、イスラム教にもみられ、結婚するときなどは、イスラム教徒でないといけない、イスラム教とそれ以外を明確に分ける。キリスト教原理主義といわれるひとたちも同様である。ひとつには、自分達の弱さを知っているゆえに、このような方策をとるともいえる。イスラエルも、バビロン捕囚などを経て、他者・異教徒にどのように、神様が関わるかを考え始めて、少しずつ変化が生じきてきたように思われる。申命記は、それ以前のものなのかもしれない。そして、それは、ユダヤ教原理主義的なひとたち、サドカイ派のひとたちに、特別に大切にされる。すこし、乱暴な書き方かもしれないが。 Deuteronomy 8:15,16 この方は、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。 正直、このような解釈には、疑問を感じる。信仰告白として、主からの苦難を、益となったと告白することあるが、苦難の理由が、そのためであったとするのは、因果応報的な、単一の演繹であり、さまざまな理由があり、ひとり一人の受け取り方はさまざまであることを無視し、押し切るような部分があるからである。申命記記者は、それが主の御心と確信したのだろうから、それは否定しないが、このことばから、普遍的な解釈を得ることは、とても危険であると感じる。 Deuteronomy 9:4,5 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、「私が正しいから、主が私を導いてこの地を所有させてくださった」と考えてはならない。むしろ、この諸国民が悪かったから、主はあなたの前から彼らを追い払われるのだ。あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出すのである。こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。 何度かこの言葉について考えてきた。本当にそうなのだろうかとも思うが、これも、ひとつの教育的配慮なのかもしれないと思った。主の配慮ともとれないことはないし、申命記記者の配慮とも取れないことはない。多元的な解釈が可能であることを、認めることがまずは、たいせつなのかもしれない。 Deuteronomy 10:4 あの集会の日に山で火の中から主があなたがたに語られた十戒と同じものを、主は板に記して、私に与えられた。 「主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。」(4章13節)にも「十戒」ということばが現れるが、引用句と含めて、聖書協会共同訳では二回だけである。なにが、気になったかと言うと、「十戒」ということばが確立した経緯である。出エジプト記20章には、いわゆる「十戒」が書かれているが、石の板に書かれた言葉が、「十戒」であるとは書かれていない。膨大な戒め、教えがそのあとに続いており、どこまでが書かれたものかは不明だからである。しかし、現実的に、二枚の石の板と考えると、「十戒」程度の内容しか書けないことも理解できる。とはいえ、それは、「十戒」が独立して、重要視されてからのようにも思う。 Deuteronomy 11:10,11 あなたが入って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地とは違う。エジプトでは、あなたが種を蒔くと、野菜畑のようにあなたの足で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山や谷のある地で、天の雨で潤っている。 日本でも、降水量が乏しい地域はあるが、そこまで水を渇望するところではない。しかし、エジプトや、シナイ半島などと考えると、雨がとても重要だったのだろう。創世記でも、井戸のことが何度も現れる。大きな川がなく、乾季には干上がる場所が多かったのだろう。それゆえのことばだろう。ただ、イスラエルの土地も、北のエズレエルなどと、南のユダの山地ではかなり違うのではないかと思うが、実際に行ったこともないので、不明である。 Deuteronomy 12:12 あなたがたの神、主の前で、あなたがたも、息子も娘も、男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も、共に楽しみなさい。レビ人にはあなたがたのような割り当て地や相続地がないからである。 「あなたがたはヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに継がせる地に住むようにな」(10)ったら「あなたがたの神、主がその名を置くために選ぶ場所に、あなたがたは私が命じるすべてのもの、すなわち、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、主に誓った最良の誓願の献げ物などをすべて携えて行き、」(11)とあり、引用句に続いている。今回、印象的だったのは「共に楽しみなさい」という言葉である。共生は、生物学では、symbiosis、共に生きるといえば、living together だが、それ以外にも、conviviality(⦅かたく⦆ 陽気(さ), 友好的なこと, にぎやかさ.)を使うとかなり昔に聞いた。どんちゃん騒ぎも同じことばを使うので、このことばが、ほんとうによいのか不明だが、共に楽しむというのは、とても、よいことばだなと思った。むろん、その内容がたいせつなのかもしれないが。 Deuteronomy 13:2-4a あなたの中に預言者や夢占いをする者が現れ、しるしや奇跡を示し、その者が告げたしるしや奇跡が実現して、「さあ、あなたの知らない他の神々に従い、仕えようではないか」と言っても、あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。 この章の最初は「私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。」(1)と始まる。そして、引用句である。興味深いのは「その者が告げたしるしや奇跡が実現して」という部分である。それは「あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。」(4b)だと、解説まである。科学的視点が発達した現代であっても、奇跡的なことがおこり、それに、目を奪われることもある。そして、科学的には説明できないことも多々ある。それを、このように説明を付け加えることには、必ずしも同意しないが、たいせつな、教育と学習の一環だったのだろうと思う。学びをたいせつにしていきたい。不完全なのだから。 Deuteronomy 14:27 また、あなたの町の中にいるレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのような割り当て地や相続地がないからである。 地方にいるレビ人の生活が、なかなかイメージできない。多少の資産を持ち、家畜などもあったようだが、割り当て地がなく、十分な仕事も、祭司のようにあるわけではなく、かつ世襲であり、そこから逃れることはできない。ある程度の知識人として、司法の補助をし、祭儀を司る手伝いをし、長老的な役割はあったかもしれないが。このあたりも、勉強してみたい。 Deuteronomy 15:11 この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。 明確に「この地から貧しい者がいなくなることはない」と言っていることが印象に残った。現実直視、世の中の見方が、冷静である。皆が幸せになることを望んでも、そうはならない状態がずっと続くことを認識している。理想を目指すのはよいが、理想の状態を見るあまり、現実をていねいに評価しないのは誤りである。また、政治や指導者の責任として、問題を終わらせてはいけない。それを踏まえて、自分ごととして「あなたの神、主があなたに与えられた地のどこかの町で、あなたの兄弟の一人が貧しいなら、あなたは、その貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。彼に向かって手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさい。」(7,8)と語り、起こりそうなことを予測し「あなたは、心によこしまなことを抱き、『七年目の負債免除の年が近づいた』と言って貧しい同胞に物惜しみをし、彼に何も与えないことのないよう気をつけなさい。彼があなたのことで主に訴えると、あなたは罪に問われることになる。」(9)このあたりに、魅力を感じる。 Deuteronomy 16:13-15 麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだなら、七日間、仮庵祭を祝いなさい。 息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。あなたの神、主が、あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されるのだから、あなたは心から喜びなさい。 「年に三度、男子は皆、除酵祭と七週祭と仮庵祭のときに、主が選ぶ場所で、あなたの神、主の前に出なければならない。」(16b)とある。祭りの意味などを考えながら読んだ。引用句では、楽しみ、喜びということばが目に止まった。いろいろとあっても、やはり祭りは楽しいものなのだろう。仮庵祭についてこう書かれているのもわかる。最初の収穫のあとの祝いである。感謝を献げ、喜ぶのは、当然かもしれない。ついついストイックになることがキリスト教では言われるが、そのようなときも、大切にしていきたい。 Deuteronomy 17:18-20 王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。それは、王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。 なにか、反省のようにも、聞こえ、現実とは、違う世界を語っているようにも見える。申命記はヨシヤ王の改革と関係があるとも言われるが、いずれにしても、歴史の反省があるように思われる。この前には、「また、妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。」(17)ともあり、ソロモンをも明確に否定している。ダビデも否定することに繋がりかねない。いずれにしても、理想の統治は難しい。 2023.3.19 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  13. BRC 2023 no.013:申命記18章ー申命記31章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 申命記はいかがですか。申命記は34章までありますが、今週読む範囲は、18章から31章は、申命記の後半と言っても良いと思います。 前回は、申命記が、特にユダヤ教のひとたちに大切にされていること、そして新約聖書でも何回も引用されていることを書きました。今回読む箇所をみていくと、具体的な記述も多く、現代的な人権感覚からすると、受け入れられないと思えることもたくさん登場するように思います。民族間の分断と差別、わたしも下で取り上げていますが「アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい」のように、ジェノサイド(民族などの全体を絶滅させようとする大量虐殺, 集団殺害)と思える記述も登場します。女性蔑視と現代なら理解されることもたくさん登場します。聖書に書いてあるのだからと、これが正しいこと、神様が願っておられることと、すべて受け入れるひとたちもいますし、主のみこころの未熟な理解が書かれていると、批判的に、理解する人もいるでしょう。また、問題がありそうなところは、封印して、読まないようにし、好きな、よさそうな箇所だけを、読むひともいるかもしれません。さらに、だから、聖書などといっても、たいせつにする必要はないと言う人もおそらく、現代人には多いでしょう。それを理由に、通読をやめてしまったひともいるかもしれません。みなさんは、どのように、考えられるでしょうか。 わたしが、どのように、考えながら読んでいるかは、下に書いてありますから、あえてかくことは致しません。正しいか否かは、一つの大切な要素ではあると思いますが、それだけで判断してはいけないのでしょう。さらに具体的なことは、その場での選択肢で、一般化して考えることは、問題があることは、みなさんも日常的に経験することだと思います。みなさんは、何のために、聖書を読んでいますか。みなさんにとってたいせつなことは、何ですか。いろいろな視点を持ちながら、そして、問いをもち、普遍的なことを求めることはたいせつにしつつ、拙速に結論を急がず、一つ一つの課題と丁寧に向き合いながら読んでいきたいですね。探究的に。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記18章ー申命記31章はみなさんが、明日3月27日(月曜日)から4月2日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Deuteronomy 18:21,22 もしあなたが心の中で、「私たちは、その言葉が主の語られた言葉ではないことを、どのように知りえようか」と考える場合、その預言者が主の名によって語っていても、その言葉が起こらず、実現しないならば、それは主が語られた言葉ではない。預言者が傲慢さのゆえに語ったもので、恐れることはない。 聞き従うことについて書かれ、「私(モーセ)のような預言者」(15)がたてられることが語られ、偽預言者の見破り方について、語っているのが引用句である。実現するか問う。簡単そうにみえて、そうでもない。いくつかは実現し、他は、解釈によって判断が分かれる場合が起こりうるからである。いずれにしても、自分で、判断すべきことが語られていることは興味深い。批判的思考(Critical Thinking)である。現代でも、これが難しいのだが。 Deuteronomy 19:21 あなたは憐れみの目を向けてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足である。 ここでは、文脈として、次のことばから続いている。「どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。悪意のある証人が立ち、相手に対して不利な証言をするならば、」(15,16)他にも、引用句は聖書に含まれる。「目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、」(出エジプト21章24節)「骨折には骨折、目には目、歯には歯。人に傷を負わせるなら、同じようにされる。」(レビ記24章20節)これだけあである。(マタイによる福音書5章 38節参照)丁寧にみていきたい。 Deuteronomy 20:10,11 あなたが町を攻めようとして近づくときは、まず降伏を勧告しなさい。その町が降伏を受諾し、門を開くならば、そこにいるすべての民は苦役に服して、あなたのために働くことになる。 このあとに、「このようにできるのは、遠く離れた町に対してであって、次に挙げる国民の町に対してではない。あなたの神、主があなたに相続地として与えるこれらの民の町からは、息のあるものを決して生かしておいてはならない。」(15,16)通して読むと、どうも、引用句は相続地には適用できないようである。論理的に、わかりにくい。ギブオンのようなこともこれから生じることを考えると、不徹底のようにも感じる。いずれにしても残虐である。主の命令として、行うだけの信仰はわたしにはない。 Deuteronomy 21:18-20 ある人にかたくなで反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、父母が懲らしめても聞かない場合、両親は彼を捕らえて、その町の門にいる長老たちのところに連れて行き、町の長老たちに、「私たちの息子は、かたくなで反抗し、私たちの言うことを聞かず、放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。 そして石打の刑になる。しかし、そうであれば、親は事前にどうにかするだろう。つまり、そのような掟なのかもしれない。それだけ、両親の責任は重い。しかし、むろん、事情は単純ではない。愛するのは、ほんとうに、むずかしいこと。 Deuteronomy 22:28,29 もしある男が婚約していない処女の娘と出会い、捕まえてこれと寝て、二人が見つけられたなら、娘と寝たその男は、娘の父親に銀五十シェケルを支払い、娘を自分の妻としなければならない。娘を辱めたのであるから、生涯、彼女を去らせることはできない。 「処女」にこだわる記述が多い。「処女の証拠」(14,15,16,17,30)も何箇所にもある。科学的ではないとも言える。どう解釈したら良いのか言語化は難しい。一定の秩序を守ることが、個人の尊厳を犯すことがあるとは、表現できるのだろう。これを理解することは、あまり簡単ではないということだろう。より、本質的なことがあることを見抜くのには、時間もかかるのかもしれない。 Deuteronomy 23:8,9 エドム人を忌み嫌ってはならない。彼は、あなたの兄弟だからである。エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである。彼らに生まれた子どもは、三代目には主の会衆に加わることができる。 この前には、アンモン人と、モアブ人について、主の会衆に加わることはできないとある。(4)エドムは別格、エジプトも特別扱いである。このような線引き、分類は、不適切であることは、ある程度の期間でわかるだろう。しかし、そこには、痛みもあり、苦しみもあるはずである。差別との関係は難しい。 Deuteronomy 24:1 ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。 ジェンダー(文化的・社会的役割としての性)的には、問題がある。当時、決定権をもっていた男性が考えた離婚、再婚に関する規定なのだろう。この章の後半には、非常に興味深い規定も含まれていて、それらをトータルに判断しなければならないことも確かで、粗探しをするのでは、全体を理解することはできないだろう。男性も女性も、若い人も年寄りも厳密ではなくても、バランスをもってそれぞれが尊厳をもって生きることに関わることに関しては、決定に関与することは大切であると思う。同時に、個人の考えだけではなく、ひとびとの福祉、幸せに配慮するためにも、「われわれ」ということばで表現されるものは、なになのかを、その都度、検証することは大切だろう。 Deuteronomy 25:19 あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。 アマレクに関しては、極度に厳しい。交流を持つなではなく、単に、滅ぼせでもなく「記憶を天の下から消し去れ」。ジェノサイドのような感覚さえ受ける。アマレクについては、聖書に何度も登場するが、詳細は不明である。しかし、他の部族とは異なる、独立して行動している印象を受ける。また、よく調べないといけないが、交戦的な印象も受ける。どのような人たちだったのか、興味深い。イスラエルにとっては、理解し難い、受け入れ難い存在だったのかもしれない。そのような存在、そして、実害を及ぼす存在に、どう向き合うかは、非常に難しい。 Deuteronomy 26:17,18 今日あなたは、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います」と明言したので、主も、今日あなたに向かってこう宣言された。「あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。 定型化されていて、随意(自由)契約ではないが、一応、ここには、整えられた、主と民の契約の形が書かれている。しかし、それが本質的なのか、正直よくわからない。人間の側に目を向けたときには、団体に加わる宣誓のようなものが加入において考えられるが、掟と戒めと法を守り、御心にそった道を歩む決意表明をどのようにすれば良いかも、不明確である。しかし、それが、キリスト教に引き継がれているのかもしれない。根本的な部分がよく理解できていないように感じる。 Deuteronomy 27:26 「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。 いくつかの、呪いのことばが、書かれている。引用句が、結びである。呪いは何なのだろうか。読んでいて、ここまでに書かれている、主の言葉とされるものが、書かれてはいるが、この呪いは、共同体のもので、共同体の一員でいたければ、これらをするなと言っているように感じた。また、自分達に言い聞かせる言葉なのかもしれないとも思った。克己(自分への誘惑に打ち勝つこと)が求められているのかもしれない。 Deuteronomy 28:1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。 対応する聞き従わない場合の記述が15節から始まる。その方が長い。いずれにしても、背景にあるのは、因果応報の考え方で、すべては神から来ること。私たちがすべきことは主の声に聞き従い、モーセが命じるすべての戒めを行うこととなる。因果応報の世界観は、そのように理解したい、人間の特性でもあり、科学や、ビッグデータを扱えるようになった、近年にならないと、実際との乖離はいかんともしがたく、批判できるようなことではない。善いことをもとめること。神の御心を求めることも、大切なことである。しかし、鍵となるのは、ここで「私が命じる」と言い切ってしまうことである。歴史の中でも、これからも、神の御心はわからないもので、それを求めていくのが、信仰者の歩みであることを、認識すべきである。科学的認識も含めて、少しずつ、ひとは、神様から、教えていただいているのだから。 Deuteronomy 29:28 隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものであり、私たちがこの律法のすべての言葉を行うためである。 いろいろな解釈があるだろうが、人間の目からみて、隠されていることがたくさんあることを、認識することは大切である。同時に、現されたことも、受け取ったこととの間に、乖離がある可能性があることを、肝に銘じるべきである。知ることが一部であるということは、理解できること、範囲も、非常に狭いのだから。難しいことを、簡単に理解した気になって、理解したことだけを、心に止めるのではなく、たいせつなことは、求め続けること、ここにこそ、大切なものがあると思う。 Deuteronomy 30:4-6 たとえ天の果てに追いやられても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、連れ戻してくださる。あなたの神、主は、あなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れてくださり、あなたはそれを所有することができる。そして、主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やしてくださる。あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。 おろどかされる。通常は「地の果て」というと思われるが、ここでは「天の果て」である。さらに「所有することができる」と断言する。冷静に考えると、問題のある言葉でもある。そこに、だれも住んでいないことはあり得ないのだから。さらに「心に割礼を施す」どのようなことを表現しているのかは、明確ではないが、少なくとも、そのあとに「あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。」というのである。これが、旧約聖書としては、まだ、約束の地に入る前の説教で語られているという枠組みになっている。やはり「天の果て」とでも言いたくなるところに、追いやられることが現実となった背景が、あるように思われるが。サマリヤ陥落だろうか、それとも、バビロン捕囚? それは、不明ではある。 Deuteronomy 31:20,21 私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼らを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太り、他の神々のもとに赴いて仕え、私を侮り、私の契約を破るであろう。そして、多くの災いと苦難が彼らを襲うとき、この歌は、民に対して証言となる。子孫の口から忘れられることがないからである。私が誓った地に彼らを導き入れる前から、私は彼らが今、たくらんでいることをすでに知っている。」 次の章に書かれている「モーセの歌」について語られている。印象的なのは、主を侮り、主の契約を破ることを明確に書いていること。そしてそのことを知っていると述べていることである。むろん、これは、実際にそれらが起こってから、書かれたとすることもできる。おそらくそうなのだろう。しかし、これを読む人たちは、どの時代の人であっても、心を痛めたことは確かだろうと思う。いろいろな立場のひとにとってのメッセージ。自分ごととして、聞いたのだろうと思うとわたしも、胸が痛くなる。 2023.3.26 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  14. BRC 2023 no.014:申命記32章ーヨシュア記11章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 申命記はいかがですか。あと3章ですが、モーセの死と、モーセの歌が記録されています。前に、モーセの死はどこに書いてあるのでしょうかと書きましたが、民数記の記述は明確ではなく、はっきり書いてあるのは、申命記ということになります。申命記に最後の部分にも、モーセが特別であったことが書かれていますが、モーセの死については、他に伝説もあるようです(ユダの手紙9)。それだけ特別な人ということなのでしょう。 さて、申命記の次は、ヨシュア記に入ります。モーセの従者として、これまでも何回か登場していますね。ヨルダン川の東で、モーセから引き継ぎをうけて、約束の地を戦い取ることを使命として受けたリーダーが、ヨシュアということになります。ある意味の、侵略戦争ですが、同時に、少しずつ読んでいくと、必ずしも、全体を占領したわけでもないこともわかります。ヨシュアの死後もふくめ、かなりの長期間かかることになります。ヨシュア記と、士師記は、このあとの、王国の歴史への橋渡しの時期について、書かれていますが、いつごろ書かれたか、著者もふくめて、不明なことが多いように思います。そうであったも、この期間の記録、伝承をまとめたものが、ある形で残っていることは、たいせつだと思います。いろいろな思いを持たれるかと思いますが、ぜひ、皆さんの、感想も聞かせてください。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記32章ーヨシュア記11章はみなさんが、明日4月3日(月曜日)から4月9日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 申命記とヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#dt ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Deuteronomy 32:26,27 私は考えた。彼らを切り刻み/人々から彼らの記憶を消し去ろうと。しかし私は敵が誇るのを恐れる。/敵対する者が誤解して/『我々の手が勝ちを得たのだ。/これはみな主がされたことではない』/と言うことを。 モーセの歌とされるものである。全体として、モーセが語るが、主の思いを代弁する形式になっている。ということは、御心を受け取ったとする、モーセの信仰告白であるとも言える。引用句なども、ほんとうに、主が、そのように、考えたと証言することではないだろう。私が主ならこう考える(裁いて滅ぼす)だろうが、そうでないのは、おそらく、このような理由だからだろうと、述べているように感じる。たとえ、主の御心をうけとっても、それは、一部なのだから。このような詩歌は一般的には、ある程度古いとされるが、これはどうなのだろうか。よくはわからない。興味深い言葉は多いが。 Deuteronomy 33:6 ルベンを生かし、殺さないでください。/その数が少なくなるとしても。」 ここから、十二部族について語るが、最初が、ルベン、長子である。それが、これだけと驚かされるほどである。最初に、失われた民なのかもしれない。もしかすると、アッシリア侵攻より前に、周辺の民族との争いで、すでに、ほとんど消滅していたのかもしれない。物語として、長子に据えたことも、不思議に思うが、何らかの言い伝えなのだろうか。そして、ある伝説では、このルベン族が日本人のひとつのルーツになったと言われる。証拠は、並べられても、正しいとは言えないが、それだけ、最初に消滅したということが、神秘性を醸すということだろうか。 Deuteronomy 34:5 主の僕モーセは、主の言葉のとおり、モアブの地で死んだ。 このように書かれていることはそれ自体興味深い。一人の人間として、死んだことの証言である、しかし、最後には、特別なことが書かれている。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった。」(10-12)「私の僕モーセとはそうではない。(略)口から口へ、私は彼と語る。」(民数記12章7節)と対応しているのだろう。ここでは「顔と顔を合わせて」とある。そのような存在はいないとして、特別であることを主張している。イエスはどう考えていたのだろうか。神の子ということばは、もっと自然で強いように感じられる。そしてモーセの場合は、上に引用したように、限定的な働きがあったように思われる。 Joshua 1:5,6 あなたの命の続くかぎり、誰一人あなたの前に立ちはだかる者はいない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。私がこの民の先祖に誓い、今この民に与える地を、彼らに受け継がせるのはあなただからだ。 「強く、雄々しくあれ」とある。これが、ヨシュアのなすべきことだったのだろう。それが、モーセとの一つの区別だったのかもしれない。モーセの幕が、終わり、ヨシュアのもとでの、幕が上がるということなのだろう。そして、軍事的な勝利が必要である。モーセのもとでの従順の訓練が、ここで、どのように発揮されるかを、見ていきたい。 Joshua 2:9,10 二人に言った。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたの前で葦の海の水を干上がらせたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたアモリ人の二人の王、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、私たちは聞いています。 この状況で、わたしは、ラハブのように行動するだろうかと考えた。奇跡的なことが起きているとここでは証言している。それに賭ける。しかし、十分な根拠を確認できるわけでもない。そして、ほとんどの人は、ラハブのようには考えていない。その状況で、わたしは、やはり、ラハブのようには、行動しないのではないだろうか。隣人との関係が大切だからである。では、どうなっていたら、決断できるだろうか。科学的判断ではないのかもしれない。主の恵みと憐れみだろうか。もう少し考えてみたい。 Joshua 3:15,16 ヨルダン川は刈り入れの季節の間中、水が岸まで満ちていた。ところが、箱を担いだ者たちがヨルダン川に達し、その水辺で、箱を担いだ祭司たちの足が水につかるや、上流から流れて来る水が、遠く離れたツァレタンのそばにある町アダムのところでとどまり、一つの堰となった。アラバの海すなわち塩の海へ流れて行く水は完全にせき止められた。民はこうして川を渡り、エリコに向かった。 手品の種明かしのように、ついつい、なぜこんなことが起こったのだろうかと考えてしまう。むろん、ある説明はあるだろう。しかし、それを考えることはあまり、有益ではない。これは、信仰告白として、真実を伝えようとしているので、事実を表現しようとしているのではないからである。「主はヨシュアに言われた。『今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする。私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。(略)』」(7)このあとにも続くが、そのためのことで、そのようになったことを証言していることが中心にあるのだろう。 Joshua 4:12,13 ルベンの一族とガドの一族、およびマナセ族の半数は、モーセが彼らに告げたとおり、隊列を組んで、イスラエルの人々の先頭に立って渡った。約四万人の武装した軍勢が主に先立って渡り、戦うためにエリコの平野に向かった。 少し、複雑な構造になっている。ヨルダン渡河ははすでに(前章で)完了しているので、その意味と、記憶すべきことがふりかえりとして書かれているのかもしれない。二つ気づいたことは、このあとに、エリコでの戦いに移っていくが、イスラエルを食い止めるなら、このヨルダン渡河の時が戦略的には良いと思われるが、それはされなかったこと。一つには、「約四万人の武装した軍勢が主に先立って渡り、戦うためにエリコの平野に向かった。」と引用句にあり、これを向かい打つことは困難だと判断したのだろうとも考えた。すでに、大軍による侵略である。引用句に続いて「その日、主はイスラエルのすべての人々の目の前でヨシュアを大いなる者とされた。彼らはモーセを畏れ敬ったように、生涯を通じてヨシュアを畏れ敬った。」(14)ともある。このような記憶をまとめるのが、この章の目的なのだろう。 Joshua 5:14,15 その人は「いや、私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ」と答えた。ヨシュアは地にひれ伏して礼をし、「ご主人様は僕に何をお告げになるのですか」と尋ねると、主の軍勢の長はヨシュアに答えた。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。 ここで終わっている。正直、中途半端である。ヨシュアに、主の使い、主の軍勢の長が現れたことが重要なのだろうか。この章の、最初には、割礼のことが書かれているが、全体として、チグハグで、さまざまな話を繋げた感じが否めない。しかし、それは、伝承に基づいているとも言えるのかもしれない。このときのことを、どうにか、記録する必要が生じたのだろう。何時ごろのことだろうか。ヨシュア記の成立は。 Joshua 6:1 エリコはイスラエルの人々を前にして城門を堅く閉ざし、誰も出入りする者がいなかった。 戦いの準備をしていたとも理解できるが、基本的に、外で戦っては勝ち目がないと恐れ慄いていたのだろう。「彼らは町の中にあるすべてのものを滅ぼし尽くした。男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで剣にかけた。」(21)それを、滅ぼし尽くす。明確には書かれていないが、大人だけでなく、子供も。以前は、主に従わないものは、滅ぼされることが原則だから、仕方ないと思っていた。本当にそうなのだろうか。今の、わたしには、許容できない。同時に、このことと向き合うことを避けてきた自分の愚かさ、弱さも、どうしたら良いのだろうと思う。このようなことだけではなく、さまざまなことに関して、似たことがあり、目が塞がれているのだろう。謙虚に、学び続けたい。互いに愛し合うことを求めて。 Joshua 7:25 ヨシュアは言った。「お前は何という災いを私たちにもたらしたのだ。今日この日に、主はお前に災いをもたらされる。」イスラエルの人々は皆、彼を石で打ち殺し、彼の全財産を火で焼き払い、石を投げつけた。 他者を滅ぼす主の手は清くなければならないという考え方が背景にあるのだろう。しかし、本当に、主がそのことを望まれたかどうかとともに、主がそのような理由から許容されるかどうかも、一つ一つ検証すべきである。あることを、主の御心と正当化することが、他のことへの演繹される。主が示されていることは一部に過ぎないことを、肝に銘じなければならない。難しいのだろうが。謙虚さ、自分は、ほんの一部しか知らないことを常に、覚えていたい。これも、難しいのかな。 Joshua 8:25-27 その日、倒れた者は、男女合わせて一万二千人。すべてアイの人々であった。ヨシュアは、アイの住民を滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差し伸べた手を元に戻さなかった。ただし、主がヨシュアに命じた言葉どおり、イスラエルはこの町の家畜と戦利品を自分たちのために奪い取った。 若かった頃は、ヨシュアの戦略が素晴らしいと思ったりもしていた。しかし、今は、違う。主の名による、虐殺についてどう考えたら良いのかという問題である。アイはあまり大きくない街とされるが、それでも「男女合わせて一万二千人」と書かれている。正確な数字かどうかは別として、殲滅を意味しているのだろう。ここでは、戦利品を自分たちのために奪い取ることも許容している。エリコの場合とは異なっており(6章24節、7章1節)また、「その後、ヨシュアは律法の言葉、祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。」(34)とも記して、主に従ったことを確認している。本当に、それで良いのだろうか。歴史を考えると、簡単には、答えが出ない。これからも、考えていきたい。 Joshua 9:4,5 彼らは賢く立ち回った。パンを調達し、古びた袋と、破れを繕ってある使い古したぶどう酒の革袋をろばに載せ、継ぎ当てをした古びたサンダルを履き、着古した上着を身にまとい、食料のパンはすべて乾いてぼろぼろになっていた。 神に誓ったことは、根拠が間違っていても、守らなければならないことを教えているが、同時に、賢さは、イスラエルか、他の民族かは関係ないこと、つまり、イスラエルが優秀であるとはいえないことも、示しているようである。ギブオンなどの住民は、奴隷となる。ここでは「今からあなたがたは呪われ、奴隷となる。わが神の宮のために薪を集める者、水を汲む者が、あなたがたから絶えることはない。」(23)と書かれている。奴隷にも、さまざまなレベルがあったのだろう。おそらく、代表的な例として記されており、他にも似た例があった、または、イスラエルの中に住む、異民族についての歴史的背景を記述しているものなのかもしれない。 Joshua 10:5 そこで、アモリ人の五人の王が結集した。エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムトの王、ラキシュの王、エグロンの王が、その全軍勢を率いて攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。 ギブオンを攻めるために集結した五人の王について記述している。イスラエルを攻めるのではなく、ギブオンを攻めることも、興味深いが、いずれにしても、このような戦いを避けられたかを考えると非常に困難である。しかし、どんどん、遡り、エジプトを出てきたこと自体に、はじまりがあるように思われるし、ある民族が大きくなったところにすでに、課題があるようにも思う。人数が多くなると軋轢が増えるからである。また、価値観を守ろうとするという課題にも遭遇する。人々が平和に生活するのは、とてつもなく、難しいのかもしれない。目先のことだけでなく、本質的な問いを考えることもしていきたい。 Joshua 11:14,15 これらの町の戦利品と家畜は、イスラエルの人々がことごとく自分たちのために奪い取った。ただ、人間は皆、剣にかけて討ち、滅ぼした。息のあるものは何も残さなかった。主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。 モーセがいても、同じことが行われたのだろう。しかし、それを、避けているのかもしれないとも感じた。これらが、本当に主の御心なのかは、残虐的行為の中で問い続けることは、難しいからでもある。ヨシュアは、しかし、それを成し遂げたということだろう。それが、彼にとって、主に従う道だったのだろう。単に、現代的観点から批判することはできない。しかし、武力制圧では、たとえ、「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼き払いなさい。」(6)のように、戦いの道具を消滅させても、平和は来ないと思う。人の心には、親族が、殺害されたことなどが、残るからである。平和的に、共存することが、たとえ、非常に困難だったとしても。 2023.4.2 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  15. BRC 2023 no.015:ヨシュア記12章ー士師記1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨシュア記はいかがですか。今週は、ヨシュア記の後半を読み、次の士師記に入ります。士師記の最初は、ヨシュア記の最後と繋がっていますから、士師記については、また、次回に書くことにします。 ヨシュア記の後半は、一仕事を終え、分割のことが書かれてありますが、実際には、まだまだ、カナンの地を平定ということにはなっていないようですし、分割も、平等とは言えないように見えます。実際には、ヨシュア記、そして、士師記と、次の王国時代への過渡期のことが書かれているのかもしれません。ただ、正直、あまり状況はよくわからないとしか言えないように思います。みなさんは、どのように読み取られるでしょうか。 本日、4月9日(日曜日)は、イースター(復活祭)ですね。イエス・キリストの復活を記念する日です。カレンダーを調べてみると、今年は、4月6日(木)13時35分が満月と書いてありました。わたしは、火曜日の夜に、空を見上げ、ほとんど満月の(ちょっと左下が欠けている)とても美しいお月様を見ました。水曜日、木曜日は、特に夜は、あいにくの天気で、お月様は見えませんでした。ご存じの方が多いと思いますが、春分の日のあとの満月の次の日曜日が、イースターとなっています。(日曜日が満月のときは、次の日曜日だそうです。基準は、その前の安息日、土曜日にあるからでしょうね。どの程度正確に運用されていたかは不明ですが。)それが、本日ということになります。今年の春分の日は、3月21日でした。毎年大体、その頃ですから、イースターは、3月後半から、4月の中旬あたりの間にあることになります。イエス様が十字架にかかったのが、過越祭の始まる金曜日(日没)の前、となっており、それから三日目(安息日(土曜日)あけ)の日曜日の朝に復活したとされています。そこで、イースターには、早天礼拝を持たれる教会も多いようですね。 GPT-4 への質問と答:正しいかどうかは不明です。 質問:How did the Jews determine the date of the Passover festival in the old days? The determination of the full moon is tough in the old days, I believe. So is the date of easter. 答え:In the old days, the Jewish calendar was based on lunar cycles and was primarily determined by observation rather than calculation. The date of Passover was determined as follows: • Lunar months: A lunar month is approximately 29.5 days, so the Jewish calendar alternates between 29-day and 30-day months. The month of Nisan, in which Passover falls, is the first month of the Jewish calendar. • Observation of the new moon: The new moon (called "Rosh Chodesh" in Hebrew) was observed by witnesses who would watch for the first sliver of the new moon in the sky. Once they spotted it, they would report their sighting to the religious authorities, the Sanhedrin. • Sanhedrin's declaration: The Sanhedrin would interrogate the witnesses to ensure the accuracy of their report. If the sighting was confirmed, the Sanhedrin would declare the new month. • Passover: Passover begins on the 15th day of Nisan, which is a full moon because the lunar cycle is about 29.5 days. The first day of Passover is always a full moon, as it's the middle of the month. As for Easter, it is a Christian holiday that celebrates the resurrection of Jesus Christ. Its date is determined using a different method. According to the First Council of Nicaea (325 CE), Easter should be celebrated on the first Sunday following the first full moon after the vernal equinox (the start of spring). This means that the date of Easter varies between March 22 and April 25. In summary, the date of Passover in the old days was determined by observing the new moon and counting the days until the 15th of Nisan. The date of Easter, on the other hand, was calculated based on the first full moon after the vernal equinox. 以前に、クリスマスは、キリスト教では、お祝いしない宗派もあり、また、クリスマスの日もまちまちだと書きましたが、このイースターと、ペンテコステ(五旬節、過越の日から50日目)は、ユダヤのカレンダーが元になっていると思っていましたが、GPT-4 さんが正しいのかもしれませんね。復活の意味は、それぞれの受け止め方があると思いますが、わたしは、今も、生きて、共にいてくださるということかなと思っています。みなさんにとっては、イースターはどのような日でしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨシュア記12章ー士師記1章はみなさんが、明日4月10日(月曜日)から4月16日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記と士師記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jo 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jd 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Joshua 12:7 ヨシュアとイスラエルの人々は、ヨルダン川の西側をも討った。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルの途上にあるハラク山に至る地を、イスラエルの各部族の割り当てに従って所有地として与えた。その地の王たちは次のとおりである。 この前には、ヨルダン川の東地域のことが書かれている。リストは、9節から始まり、31王のことが書かれている。「エリコの王一名、ベテルに近いアイの王一名、エルサレムの王一名、ヘブロンの王一名、」(9,10)とそのリストは始まるが、これを見ただけで、難しさを感じる。最初の二つについては、ストーリが記されていたが、次の二つのうち、エルサレムは、ダビデの町と言われ、エブス人が長らく住んでいたとされている、ヘブロン(キルヤト・セフェル)については、ヨシュア記14章と士師記の最初に書かれている。おそらく、一つ一つに、いろいろな物語があったのだろう。または、ヨシュアの戦いで、優勢が築かれ始めていたのかもしれない。しかし、それほど簡単ではないはずである。三十一の王が書かれているが、そこには、住民がいたはずである。それを、抹殺していったのだろうか。主の命令として。考えさせられる。実態は、おそらく、もっと複雑で、それを、信仰告白として書いているのだろうが。 Joshua 13:7 さあ今、この地を九つの部族とマナセ族の半数に相続地として割り当てなさい。」 前章で全体像が語られ、具体的なことが、この章から書かれている。最初が、ヨルダン川の東側である。しかし「ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。「あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。」(1)と書かれており、実際には、制圧されていない地域が多く含まれたいたこともわかる。それを、くじでわけるというのは、暴挙であるが、分割は、早い時点で決まっていたと、記録するためであったかもしれない。あまり、現実のこと、事実と、書かれた事実を混同しない方が良いだろう。そして、それから、批判的に考える時にも、冷静に、丁寧に。しかしである。やはり乱暴。そのように、記述することを許容したことには、驚かされる。20世紀の大きな二つの大戦のあとの時代に住んでいるものが、多少まなんだことをひけらかせて言うことではないのかもしれないが、ひとは、主の御心を学び続けなければいけない。 Joshua 14:10,11 御覧ください。主は約束してくださったとおり、私を生かしてくださいました。主がこのことをモーセに約束された時から四十五年がたち、その間、イスラエルは荒れ野を歩みました。今日、私は八十五歳になりました。今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。 わたしは、まだ、この年齢にはなっていないが、それでも「今の私の力は当時と同じです」には言えない。むろん、これも、信仰告白であり、事実を述べたものと混同してはいけないだろう。また、ヨシュア記として伝えたいメッセージもある。同時に、この背後にある「今の私の力は当時と同じです」と言いうるものを、考えてみると、私の場合は、御心とまでは明確に言えなくても、真理を求め日一日生きる力は、すくなくとも、今はまだ変わっていないように思う。すこし時間の余裕ができて、よりそのことに注力し、かつ、思考だけでなく、生きることにおいても、求め続けているように思う。このことをたいせつに、生きていきたい。 Joshua 15:63 ユダの一族は、エルサレムの住民であったエブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている。 この章の前半には境界線について書かれ、後半には町と村について書かれている。最後は、引用句である。境界線を勝手に決めているとも言える。他者との境界を決めることは、分断を意味する。合意によって平和的に決めることはすばらしいが、それが永続することはさまざまな意味で困難である。境界線を設けずに、共に生きることが理想かもしれないが、価値観を共有することは不可能かもしれない。困難な問題である。分離も問題だらけだが、理想だけを追いかけることもできないのだろう。答えはない。しかし、その中で、丁寧に生きていくことが求められているのかもしれない。 Joshua 16:9,10 また、エフライムの一族に配分された町は、マナセの一族の相続地の中にもあった。そのすべての町とそれに属する村もエフライムのものである。彼らはゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムの中に住み着き、今日に至っている。ただし、カナン人には苦役が課された。 どうみても、エフライムの割り当て地は小さいように思われる。また、マナセの一族の相続地の中にもあったとあるが、明確には記されていない。追い出すことができなかったとの記述は、他の部族にもあるので、これだけではわからないが、少なくとも、争いは続いたことがみてとれる。難しい状態であるが、それが良いのかもしれない。 Joshua 17:16 ヨセフの一族は言った。「山地だけでは私たちには十分ではありません。しかし、谷間に住むカナン人は、ベト・シェアンとその周辺の村落の住民も、イズレエルの平野の住民も皆、鉄の戦車を持っています。」 ヨセフの一族とあり、エフライムなのかマナセなのかは書かれていないので、両方だろうと思われる。この書き方からして、このあとの歴史でも何回か現れるが、イスラエルの中心をしめつつ、精神的に支えていたわけではないように見える。いろいろな反逆においても、現れるが、もしかするとそのような役回りが与えられているのかもしれない。 Joshua 18:1,2 イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の幕屋を設置した。この地はイスラエルの人々によって征服されていたが、彼らの中には、まだ相続地を割り当てられていない七つの部族が残っていた。 いままでは、あまり注意を払わなかったが、やはり異様である。すでに、割り当てを受けているものと、そうでないものたちがいて、この後を見ると、「ヨシュアはイスラエルの人々に言った。『あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか。(後略)』」(3)とかえって、責められている。みなで、分けるものではないのか。これも、ある程度、すでに、決まっている部族があり、それらと協力した他の部族はあとから、相続地を得ているように見える。すくなくとも、公平には見えない。エフライムとユダについてだけ、決める。そのあたりからも、ヨセフ、ユダ連合が中心になっているように見える。どうでもよいとも言えるが、そのような細部から見えてくる部分もあるのだろう。 Joshua 19:9 シメオンの一族の相続地は、ユダの一族の割り当て地からのものであった。ユダの一族の割り当て地が大きすぎたため、シメオンの一族が彼らと共に相続地を受け継いだのである。 前の章の終わりには、7つのくじでの割り当ての最初に、ベニヤミンが、エフライムとユダの中間が割り当てられ、この章には残りの六部族、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンについて書かれている。引用した、シメオンと、ダンには、特記事項があるように見える。かなり、不平等に見える。というより、平等は考えられていないということだろうか。なにをたいせつにしたのだろうか。むずかしい。 Joshua 20:7,8 そこで彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライムの山地ではシェケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。また、ヨルダン川の向こう側、すなわちエリコの東では、ルベンの部族からは台地の荒れ野にあるベツェル、ガドの部族からはギルアドのラモト、マナセの部族からはバシャンのゴランを聖別した。 「聖別した」という表現について考えてみることにした。ヘブル語では וַיַּקְדִּשׁוּ(And they appointed)となっていて קָדַשׁ(kaw-dash' カダーシュ: to consecrate, sanctify, prepare, dedicate, be hallowed, be holy, be sanctified, be separate)が用いられている。もともとの意味は、分ける(set apart, consecrated)と言う意味である。それだけといえば、それだけだが、引用句の次には「以上が、すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である。その者が会衆の前に立つまで、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにしたのである。」(9)と続く。後半ばかり考えていたが、寄留しているものにも、適用されている。この町のひとたちの、または、そのリーダーたちの責任も感じさせられる。 Joshua 21:43,44 主が先祖に与えると誓われた地を、ことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを所有し、そこに住んだ。主は、彼らの先祖に誓われたとおり、周囲から彼らを守り、安住の地を与えられた。彼らの敵のうち誰一人として彼らの前に立ちはだかる者はなかった。そのすべての敵を、主は彼らの手に渡されたからである。 ここで一段落であることがわかる。このあとには「主がイスラエルの家に告げられた恵みの言葉のうち、実現しなかったものは一つもなく、ことごとく成就した。」(45)のことばが続くが、この目的を考えてみた。つまり、安住の地が与えられたことがゴールなのだろうか。ということである。もし、主の選びの民であるなら、その土地のひとたちを滅ぼして、虐殺して、安住する。それでよいのだろうか。と言う問いである。たしかに、軋轢、紛争は、複雑で、避けるべきではあるが、避けられない場合もある。しかし、そのようなものを背負って生きているものとして、どう生きるか、そこに、中心がなければいけないように思う。そして、そこに、主の御心があるところをめざさなければいけない。 Joshua 22:4 今、あなたがたの神、主は、同胞に告げられたとおり、彼らに安住の地をお与えになった。あなたがたも自分の所有地の天幕へ、すなわち主の僕モーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側に帰りなさい。 この章は、前の章の最後のことば「主がイスラエルの家に告げられた恵みの言葉のうち、実現しなかったものは一つもなく、ことごとく成就した。」(21章45節)をうけて、ルベン人、ガド人、マナセ族の半数がヨルダン川の東側の割り当て地に戻っていく経緯が書かれている。しかし、少し異なることを考えた。それは、戦いはほんとうに終わったのだろうかと言うことだ。戦争ははじめるのは容易いが、終わるのは困難である。侵略された土地のひとには、殺された人が多く、生活が奪われた人が多い場合は、なおさらである。実際は、どうだったのだろうか。ほとんど描かれていない。これも、もともと居住していた十二部属連合を支持する理由なのかもしれない。痛みは、消えず、何代も継承される。それを、少しでも知っているのであれば、共に生きる生活を丁寧に、模索しなければならないだろう。互いに愛し合うために。 Joshua 23:15,16 そしてまた、あなたがたの神、主が約束されたすべての恵みの言葉が成就したように、主はすべての災いの言葉をあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が与えられたこの良い土地から、あなたがたを滅ぼされる。あなたがたの神、主が命じられた契約を破り、他の神々のもとに行って、これに仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りがあなたがたに対して燃え上がり、主が与えられたこの良い地から、速やかに滅びうせるであろう。」 あるバランスをとっているが、基本的に「因果応報」である。世の中の理解が、わたしは明らかに変わってきていると思う。少しずつ、わかってきたというより、視点が広くなってきたからだろう。たしかに、因果関係は、説明がわかりやすい。実際は、関係している項目が膨大であったとしても。世界観が変化していくとき、たいせつなこと、倫理観、共に生きること、互いに愛し合うことにどのように向かっていったら良いのだろうか。それこそが、課題であるように思う。 Joshua 24:31 ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた。長老たちは、主がイスラエルに行われたすべての大いなる業を見ていたからである。 シェケム契約(25)が書かれている。「ヨシュアが民に向かって、『あなたがたが主を選び、主に仕えるということの証人は、あなたがた自身である』と言うと、民は『私たちが証人です』と答えた。」(22)とあり、興味深い。困難であることは、みな知っていたようである。しかし、引用句には、素晴らしいことが書かれている。長老たちが生きていた間は、主に仕えたとある。「大いなる業を見ていたから」反復的に経験したことは、強いと言うことだろうか。しかし、同時に、伝えていくことは難しい。新しく経験しないといけないのだろう。 Judges 1:34 アモリ人はダンの人々を山地に追い込み、谷に下りて来ることを許さなかった。 ユダとシメオンの連合軍については、華々しい、勝利が描かれているが、そのあとは、課題が多く残ったことが書かれている。ヨセフの家とあり(22)そのあとには、マナセ、エフライムとある。多少、連合軍的なニュアンスを感じる。結局は、滅ぼすと言うより、苦役をさせる、ことが書かれている。状況理解は難しい。いろいろな時があり、必ずしても、イスラエルが圧倒していたわけではないことがわかるとだけしておこう。他に、推測できる証拠はあるのだろうか。 2023.4.9 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  16. BRC 2023 no.016:士師記2章ー士師記15章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。4月に入り、メールが不達な方が、二人ありました。継続して受信されたいかたは、現在、どのアドレスに送られているかを確認し、最近、よく使っているメールアドレスをおしらせください。) 士師記はいかがですか。今週は、士師記を読み進めます。 士師記は、17章から二つのエピソードが描かれ、それが締めくくりとなっていますが、今回読むのは、それ以前の部分、各地に、士師と呼ばれる、リーダが起こって、カナンの地の(先住)民に圧迫されるイスラエルの部族を救うという物語が描かれています。最初の士師は、オトニエル。ヨシュア記の最後と、士師記の最初に登場します。このあと、何人もの、士師について描かれ、最後に、ギデオン、サムソンも、今回読む箇所に登場します。 サムソン以降、士師記から、サムエル記上においては、ペリシテ人との争いが頻繁に登場します。ペリシテは、パレスチナの語源となったとも言われ、海岸沿いに、いくつかの都市をつくっていたようです。サムエル記上に入ってから、また、説明することがあると思いますが、下に、少し説明を加えておきました。 前回もAIの応答を載せましたが今回も一つ。問いはわたしが書いたもの。GPT4 は、最近ニュースでよく出てくる、ChatGPT の改良版で、有料ですが、無料でも限定利用は可能なのでわたしは、それを Poe(https://poe.com/)で利用しています。携帯などのアプリもあります。他のAIとの比較も可能です。 問い:旧約聖書に出てくるペリシテ人(Philistine)は、フェニキア人のような、海洋民族が定住したと言われていると思いますが、歴史学や考古学では、どのようなことが解明されているのでしょうか。 応答(GPT4):ペリシテ人は、旧約聖書においてイスラエル人と敵対する民族として描かれています。彼らは、フェニキア人と同様に、地中海沿岸の海洋民族の一部でした。歴史学や考古学の研究によって、ペリシテ人に関していくつかのことが解明されています。 1. 起源 ペリシテ人の起源は、現在の研究でシャルディン人(キプロス島の古代民族)やエーゲ海文明(ミケーネ文明、ミノア文明など)と関連付けられています。紀元前12世紀頃、海の民(Sea Peoples)と呼ばれる一連の侵略者が東地中海地域に押し寄せ、その中にペリシテ人も含まれていたとされています。 2. 定住地 ペリシテ人は、現在のイスラエルとガザ地区にあたる地域に定住しました。彼らは5つの主要な都市国家(アシュドッド、アシュケロン、ガト、エクロン、ガザ)を築き、ペリシテ同盟を形成しました。この地域は、古代エジプトとメソポタミアの間を結ぶ交易路に位置していたため、戦略的に重要な場所でした。 3. 文化 ペリシテ人の文化は、考古学的発見によって部分的に明らかになっています。彼らは陶器、宗教的なアイテム、建築様式など、エーゲ海文明の影響を受けた文化を持っていました。また、彼らは地中海沿岸の他の文化と交流し、フェニキア人と同様に、海洋貿易や交易を通じて文化的影響を受けたり与えたりしていました。 4. イスラエル人との関係 ペリシテ人は、旧約聖書においてイスラエル人と敵対する民族として描かれています。ダビデ王とゴリアテの物語は、その代表的な例です。考古学的な証拠も、イスラエル人とペリシテ人が何度も戦争を繰り広げていたことを示唆しています。 5. 消滅 紀元前7世紀に、アッシリア帝国やバビロニア帝国の征服によってペリシテ人の政治的な存在は終わりを迎えました。その後、彼らの文化は周囲の文化に同化され、ペリシテ人としてのアイデンティティは消滅しました。 ペリシテ人に関する研究は現在も進行中で、新たな発見があるごとに彼らの歴史や文化の理解が深まっています。 わたしが覚えていることはここに含まれており、基本的なことはよくまとまっていると思います。正確さは不明としか言えませんが、古代のことについて「正確」とは何を意味するのかは難しいですし、Wikipedie などを調べるよりも、簡潔に、かつある程度、バランスをとった回答のように思います。 わたしは、昨年末からプログラミングなど(わたしは初心者なので)に活用していますが、自然な言語をあやつることができるということで、広がる世界は、画像や音の分析ができるようになったことより、人間世界へのインパクトは大きいのでしょう。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 士師記2章ー士師記15章はみなさんが、明日4月17日(月曜日)から4月23日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 士師記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jd 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Judges 2:2 だから、あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇は壊されなければならない。』しかし、あなたがたは私の声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。 前の章には、十二部族の割り当て地とその状況が語られ、この章では、士師の時代についての概要が語られる。最初にあるのが、引用句である。「二者と契約を結ぶことはできない」ことが前提にあるようだ。たしかに、複数のグループと契約を結ぶと、矛盾が起こりうる。しかし、協定・条約・約束は、共に住むにはどうしても必要なことだろう。おそらく、これを守ろうとすると、分離して、孤立しないと困難である。ほんとうに主はそれを望んでおられるのだろうか。単純ではないことは、主もご存じだろう。 Judges 3:9-11 イスラエルの人々が主を叫び求めると、主は一人の救助者、すなわちカレブの弟ケナズの子オトニエルを起こし、イスラエルの人々を救われた。主の霊が彼に臨み、彼はイスラエルを治めた。彼が戦いに出ると、主はアラムの王、クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。オトニエルの力はクシャン・リシュアタイムよりも強く、国は四十年にわたって平穏であった。こうしてケナズの子オトニエルは死んだ。 ひとつの定式なのだろうが、乱暴に感じる。そのような時代だったとも言えるかもしれず、学習過程と考えた方が良いかもしれない。いずれにしても、士師の最初は、カレブの弟ケナズの子オトニエルである。カレブの子ではないところも、興味深い。伝承があったのだろう。 Judges 4:11 カイン人ヘベルは、カインにいるモーセのしゅうと、ホバブの一族から離れ、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張った。 このあとに、ヘベルの妻ヤエルがカナンの王ヤビンの将軍シセラ(2)を殺し、バラクに引き渡したことが書かれている。ヤビンと、ヘベルの家は親しかったとある。この物語には、デボラの預言も加わっている(8,9)。十分な伝承があったのだろう。なぜ、ヘベルの妻ヤエルがシセラを殺したのかは明らかではないが、ホバブの一族と一緒にいたことが関係していると暗示している。イスラエルを助ける人たちが、周辺にも、それなりにいたこともわかり興味深い。 Judges 5:15,16 イッサカルの長たちは、デボラと共にいる。/イッサカルはバラクと同じく/歩兵と共に平野に送られた。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。なぜ、あなたは二重の柵の中で座り/家畜の群れを導く笛の音を聞いているのか。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。 なかなか一つになれないイスラエルの姿が描かれているように見える。特に、ルベンについて、ここでは2回同じ言葉で表現されている。長子の部族でありながら、戦いには、積極的に参加しなかったように見える。すでに、この時から、失われた民の性質を強めていたのか。枝分かれしも気になる。心も体も、分裂しているように見える。 Judges 6:13,14 ギデオンは答えた。「お言葉ですが、わが主よ。主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。先祖が『主は私たちをエジプトから導き上られたではないか』と言って、私たちに語り聞かせたあの驚くべき業は一体どこにあるのですか。今や、主は私たちを見捨て、ミデヤン人の手に渡してしまわれました。」すると、主は彼の方を向いて言われた。「行きなさい。あなたは持っている力を尽くして、イスラエルをミデヤン人の手から救うのだ。あなたを遣わすのはこの私だ。」 最初の「お言葉ですが」(「わたしの主よ、お願いします。」(新共同訳)「ああ、君よ、」(口語訳)「ああ、主よ。」(新改訳))がインパクトがある。嘆きと問いである。それに主は答えられ、問いかけたギデオン自身が行動することを促す。そして、このあとも、やりとりが続き、ギデオンはそのように行動することになる。むろん、答えたのが本当に主なのかという問いは残る。しかし、行動したのは、ある一定の事実なのだろう。構造的には、神と人との「対話」とも取れるし、また、主の責任と考えることが「自分ごと」となっていく過程とも捉えられる。どちらにもいかず、自分のまわりの社会がどうにか回ればよいと考える場合もあるだろう。そうならないところに、信仰があり、希望があるように思う。 Judges 7:20,21 三つの隊は角笛を吹き鳴らし、水がめを砕き、左手に松明を、右手には吹き鳴らす角笛を握りしめ、「主のため、ギデオンのための剣」と叫び、各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵陣の者は皆走り出し、叫び声を上げて逃げ場を求めた。 このあとには、同士討ちが始まったことが書かれている。混乱した状態がわかる。ギデオン物語は、意味不明のものが多い。ここでも、水がめを砕くことがなにを意味するのか分からない。ただ、手は2本だから、水がめは、捨てたということだろう。そして、剣は持っていないのか。十分な武器はなかったのかもしれない。ミデアン人の方はどうだろうか。13節に夢の話が書かれているが、一部に、すでに、ギデオンの噂から、おそれがあったように思われる。それが混乱を引き起こす。主への信頼がないといえばそれまでだが、ギデオンの主への訴えからはじまった物語は、普遍化しないほうがよいが、考えさせられることはある。 Judges 8:27 ギデオンはそれでエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。すると、イスラエルのすべての人々がその場所を慕い、淫行に走るようになった。このことはギデオンとその家にとって罠となった。 ギデオンは「私はあなたがたを支配しない。私の子もあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。」と言っているが、結局、記念のようしして得たものも、罠となる。ただ、ここでは、「ギデオンとその家にとって罠となった」とある。ギデオンについては、「ヨアシュの子ギデオンは良き晩年を迎えて死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。」(32)とは書かれているが、実際には、望んでいたようにはならなかったということだろう。詳細はわかならい。士師記のパターン化もあり、簡単ではない。 Judges 9:4 彼らがバアル・ベリトの神殿から銀七十シェケルを取ってアビメレクに渡すと、彼はその銀で命知らずのならず者たちを雇い、自分に従わせた。 母方のおじたち、長老たちに、知恵がなかったということか。個別の問題よりも、荒れ果てた、時代だったということなのだろう。リーダーシップの欠如は、民主的な時代にも付き物なのかもしれない。難しい。バアル・ペリトが何かはよく分からないが、さまざまな偶像があり、ある意味では、ギデオンの計画性のなさに問題があったのかもしれないとも思う。戦いの強さで判断される時代なのだろうが。 Judges 10:3,4 その後、ギルアド人ヤイルが立ち上がり、二十二年間イスラエルを治めた。彼には三十人の息子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていた。それらは今日までハボト・ヤイルと呼ばれ、ギルアドの地にある。 この章は、トラと、ヤイルについての、短い記述から、はじまる。そして、イスラエルが主の目に悪とされることをおこなったとつづく。気付いたのは、引用句で、ヤイルが、三十の町を持っていた。という記述である。王ではないかもしれないが、かなりの勢力をもっていたことがわかる。このようなひとがたくさんいたのだろうか。部族長のようなものも考えられるが、町とあるので、首長だろうか。有力者である。どのようになっていたのだろうか。割り当て地は、変わっていたのだろうか。 Judges 11:34,35 エフタがミツパにある自分の家に戻ったとき、娘がタンバリンを持って踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、ほかに息子も娘もいなかった。エフタは娘を見ると衣を引き裂いて言った。「ああ、わが娘よ。あなたは私を打ちのめし、私を苦しめる者となった。私は主に対して口を開いてしまった。取り返しがつかない。」 「アンモン人のもとから無事に帰ったときに、私の家の戸口から迎えに出て来る者を主のものとし、その者を焼き尽くすいけにえとして献げます。」(31)を受けてのことだが、文字通り、焼き尽くすいけにえとして献げたのかが問題である。何度も、考えた箇所だが、結局は不明である。しかし、こどもを実際に火祭とするのであれば、それは、やはり主に忌み嫌われることとということは、合意されていたと思われる。モレクへ献げるいまわしいことと何度か書かれているのだから。(レビ記18章21節および20章)また、この章にも、エフタが歴史的なことにも、明るく、単なる乱暴者ではないことは、明らかだから。断定はできないが。 Judges 12:6 彼らは「ではシボレトと言ってみよ」と言った。その人が正しく語れずに「スィボレト」と言うと、彼らはその人を捕まえ、ヨルダン川の渡し場で殺害した。この時、四万二千のエフライム人が倒れた。 このときすでに、ヨルダン川の東岸と西岸でことばの違いがあったことが書かれている。民数記の2度目の人口調査では、エフライムは32,500人とある。これは、軍に登録された人ではあるし、それからある時がたっていることは確かだが、ここで、42,000人が倒れたと書かれているのは、かなりの数であることがわかる。ギデオンの時も(8章1節)、エフタの時も(12章1節)文句を言っている。そのような役回りなのか。情報はあまり多くないので、適切な判断は難しいが。プライドがあると、謙虚になれないということか。 Judges 13:21-23 主の使いが再びマノアとその妻に現れることはなかった。マノアはその時、その人が主の使いであることを知ったのである。マノアは妻に言った。「私たちは神を見てしまったから、必ず死ぬことになる。」妻は夫に言った。「もし主が私たちを死なせようと望まれたのなら、私たちの手から焼き尽くすいけにえと供え物をお受けになることはなかったでしょう。今頃、私たちにこのようなことを見せることも、聞かせることもなかったでしょう。」 マノアは、原理・原則主義、マノアの妻は、現実主義である。興味深い。男女差ではないだろうが、考え方の違いが、くっきり現れている。わたしたちが、知ることが少ないのだとすると、現実主義のほうが、よいように思われる。演繹よりも、帰納である。原理原則は、現実をみながら、少しずつ修正していかなければいけないのだろう。それを教えているとも取れる。わたしたちは、主について、じつはまだほとんど知らないのだから。 Judges 14:3 両親は言った。「あなたの兄弟の娘の中にも、私の身内の中にも、妻になる女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは。」サムソンは父に言った。「あの娘を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです。」 ペリシテ人は、海洋民族のフェニキア人が住み着いた都市国家と考えられている。国際的にひらけた人々だった可能性が高い。文明もイスラエルよりも進んでいたと思われる。無割礼という宗教に関係した部分が強調されているが、国際結婚に始まる軋轢なのかなと今回考えた。「サムソンの父がその女のもとに下って来たとき、サムソンは若者たちの習慣に従って祝宴を催した。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れて来てサムソンと同席させた。」(10,11)にも、一定度、相手を探り合いつつ、交流を持つ様子が見て取れる。サムソンは、この章では、単なる力が強い、乱暴ものに映る。 Judges 15:1,2 しばらくして、小麦の刈り入れの頃、サムソンは一匹の子山羊を携えて妻を訪ね、「妻の部屋に入りたい」と言った。だが、彼女の父は彼を入らせず、こう言った。「あなたが彼女を嫌ったと思い、あなたの友人に与えてしまいました。妹のほうがきれいではないですか。彼女の代わりに、妹をあなたの妻にしてください。」 通い婚がどの程度一般的であったかは不明だが、「あなたの友人」とあり、妹について言及していることからも、父親には、敵対心があったわけではないだろう。このあと「ペリシテ人は言い合った。『こんなことをしたのは誰だ。』『ティムナ人の婿サムソンだ。サムソンの妻が友人のものになってしまったからだ。』ペリシテ人は攻め上り、女とその父を火で焼き滅ぼした。」(6)と書いてあるところをみると、この家族は、それほど、政治力があったわけではないこともわかる。ペリシテ以外の人との結婚に、父親は寛容だったのかもしれない。サムソンは「これがあなたがたのやり方だと言うのなら、私はあなたがたに報復せざるをえない」(7)と言って、「彼らが立ち上がれなくなるほど徹底的に打ちのめした」(8a)とある。乱暴な日常的な事件に見える。その背後に、主が働いていると、イスラエルの人は見るのだろう。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を今週から再開しようと計画しています。以前と同じように毎週木曜日夜7時半です。初回の案内は明日(月曜日)にBRC2023受信者と過去の聖書の会送信リスト(不達が多いかと思いますが)に案内を送る予定です。マルコを中心に共観福音書を読みたいと思います。 2023.4.16 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  17. BRC 2023 no.017:士師記16章ーサムエル記上4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 士師記はいかがですか。今週は、士師記の最後の部分を読んでから、短いルツ記(4章)を読み、サムエル記上に入ります。 士師記は、17章から、ちょっと読むのが辛いような、二つのエピソードが描かれ、それが締めくくりとなっています。これまでの部分も含めて、乱暴だなと感じられた方も多いかもしれません。最後の部分は乱暴を通り越して悍(おぞ)ましい(たけだけしく、恐ろしく、怖い)感じさえします。ただ、士師記記者も意識して書いているのでしょう。「その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。」(17章6節、21章25節)と書かれています。士師記の神学と呼ぶ人もいます。他の見方をすると、この最後の事件までは、イスラエルがばらばらに行動していたものが、最後に一緒に行動することが書かれているとも読むことができます。王を求める前段階として、ひとつにまとまることが必要だったのでしょう。 いずれにしても、士師記は、いくつものエピソードをあつめたものという形になっていますが、その次には、これも一つのエピソードのようなルツ記が、サムエル記上の前に入っています。ルツ記は、ダビデの先祖についての物語が描かれているのですが、士師記の時代にこんなこともあったのかと思わされるような美しい小品です。 その次に読む、サムエル記上は、文学的にも、王国へとつながる文書としても非常にていねいに書かれています。内容をどう評価するかは、みなさんに読んでいただいてからにして、サムエル記上は、通読が中断していたり、かなり遅れてしまった人は、ここから、読み始めるのもおすすめの箇所です。サムエル記上・下と列王記上・下は、ひとまとまりともみることができます。王国の歴史、ただ、文書的には、先の預言者とも言われています。さて何が書かれているのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 士師記16章ーサムエル記上4章はみなさんが、明日4月24日(月曜日)から4月30日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 士師記とサムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jd サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Judges 16:5 ペリシテ人の領主たちがこの女のもとに上って来て言った。「サムソンを説き伏せ、あの怪力が何によるのか、どうすれば彼を打ち負かし、縛り上げて苦しめることができるのかを探ってくれ。そうすれば、私たちはそれぞれ銀千百シェケルをあなたに与えよう。」 たまたま17章を先に読んだが、そこでは、銀1100シェケルが盗まれた話とともに、レビ人に報酬として、毎年、銀10シェケルを払うとある。ここでは、デリラに約束した金額は、銀1000シェケル。かなりの高額だったのだろう。「ソレクの谷にいる女」(4)とだけあり、デリラについては、不明である。デリラはこの1000シェケルを受け取ったのだろうか。そして、幸せだったのだろうか。 Judges 17:13 ミカは言った。「今や、主が私を幸せにされることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」 「このミカという男は神の宮を所有しており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人を任命し、自分の祭司としていた。その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。」(5,6)とあり、礼拝に関しても、ほとんど、無秩序状態のようだとおもったが、最後のことばは、レビ人が、それなりのプロと認めてられていたこともわかる。レビ人は、旅をしているようだが、よくはわからない。相続地をもたないということから、このようなひともいたということだろうか。 Judges 18:30,31 ダンの人々は自分たちのために彫像を立てた。また、モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、この地の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を務めた。こうして、神の宮がシロにあった間、彼らはミカの造った彫像を据えていた。 ヨシュア記と士師記はいつの時代に編纂されたものだろうかと思っていたが、ここには「捕囚とされる日まで」とある。通常はアッシリアに滅ぼされる時を意味するから、それ以降と考えられる。このあとの歴史を見て、これが書かれていると考えるのが自然なのだろう。ダンと名前を変えたライシュと彫像の由来を記した箇所である。受け入れ難い物語でもある。「五人は歩き続け、ライシュにやって来た。彼らが見ると、その地の民は安らかに暮らしており、シドン人のように静かで無防備であった。その地には人を辱め、虐げる権力者はなく、シドン人から遠く離れ、どの人とも交渉がなかった。」(7)とある。ライシュの人たちに目がいってしまう。悲しい歴史が、たくさんある。本当に乱暴。 Judges 19:23,24 家の主人は彼らのもとに出て行き、こう言った。「兄弟たちよ、どうか悪いことをしないでください。この人が私の家に入った後で、そのような恥ずべきことをしないでください。ここに処女である私の娘と、この人の側女がいます。この二人を差し出しますから、辱めるなり、好きなようにしなさい。しかし、この人にそのような恥ずべきことはしないでください。」 女性の地位の低さがよくわかる箇所である。家の主人は、娘を差し出す。このひとの側女について、どう了解をとったかわからないが、それは、問題ないと考えたように映る。しかし同時に、これが大きな戦いに向かうことを考えると、どこからが、この社会において、一線を超えていたかも、考えなければいけない。「イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう」(12)がかえって仇となったことが、背後にあるのだろうが、それは、脚色とも見える。世の中には常に痛みと苦しみがあると感じる。 Judges 20:4,5 殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私と私の側女は、ベニヤミンのギブアに着いて夜を過ごそうとしましたが、ギブアの豪族たちが私を襲って来ました。夜、私のいた家を取り囲んで私を殺そうとたくらみ、さらに私の側女を辱めて死に至らしめたのです。 19章22節には「町の男たち、町のならず者たち」とあるが、ここには、ギブアの豪族たちとある。背景は不明だが、ギブアが、襲った人たちを差し出さなかったことを見ると、有力者が絡んでいたように思われる。ベニヤミンが非常に少なくなった経緯が書かれている物語ではあるが、士師記に入って、はじめて、全体がまとまり、かつ、祭司ピネハスや、契約の箱も(26-38)についても記されており、宗教的な営みが続いていたことを証言もしている。不思議でもある。 Judges 21:13-15 全会衆は、リモンの岩場にいるベニヤミンの人々に使者を送り、和解を呼びかけた。この時、ベニヤミンが立ち帰ったので、彼らはベニヤミンに対し、ギルアドのヤベシュの女たちの中で生かしておいた娘たちを与えた。しかし、まだ数が足りなかった。民はベニヤミンのことを悔やんだ。主がイスラエルの諸部族の間を引き裂かれたからである。 理解し難い、不思議な記述が多い。最後には、民は悔やみ、主は引き裂かれたとある。この背後に、主がおられるというだけの表現なのだろうか。しかし、ここでの決定を見ると、同族意識が強く、悔いたことは伝わってくるように思う。主の思いの方が、もっと辛いだろうに。 Ruth 1:16,17 しかしルツは言った。/「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰るなど/そんなひどいことをさせないでください。/あなたが行かれる所に私は行き/あなたがとどまる所に私はとどまります。/あなたの民は私の民/あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に/そこに葬られたいのです。/死に別れでなく、私があなたと別れるならば/主が幾重にも私を罰してくださいますように。」 すごい言葉だ。「国で飢饉が起こったので」(1b)とあり、どうにもならない状況、そこには、国も、民族もない。その寄留地で、どのようにして、これだけの信頼関係が結ばれたのだろうか。この言葉が表現するもの、それが、国境を越え、神様が与えてくださる、平安のように思う。無論、美化して書かれたのかもしれないが。表現されているものに、魅了される。 Ruth 2:22 ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、あの人の召し使いの女たちと一緒に出かけるのはよいことです。よその畑でいじめられずに済みますから。」 前章のボアズのことば(8)からも、同様のことが語られている。それだけの、危険があったのだろう。それを、ボアズも、ナオミも知っていた、と言うことだろう。士師記の時代は、そのようなまだらな世界。その中でも、美しいストーリが残されているのは、希望を与えられる。感謝を持って、読んでいこう。 Ruth 3:3,4 あなたは体を洗って油を塗り、上着を身に着け、麦打ち場に下りて行きなさい。ただ、あの人の食事が終わるまでは気付かれないようにしていなさい。あの人が休むときになったら、その休む場所を見届けておいて、そこに行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。あの人は、あなたがなすべきことを教えてくれるでしょう。」 物語として、秀逸である。この書の最後には、ダビデの名が出てくる。すなわち、ダビデの祖母がモアブ人であることを認めて、そのストーリーを書き残す意図があるのだろう。これだけ美しい表現が描かれていることで、おそらく「アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。」(申命記23章4節)を凌ぐ価値を加えているのだろう。モアブはミディアンとともに、バラム、バラクの事件にも関係していたとされる(民数記22-25章)。そのためにも、明確にしておいた方がよかったのだろう。 Ruth 4:18-22 ペレツの系図は次のとおりである。ペレツはヘツロンをもうけた。ヘツロンはラムをもうけ、ラムはアミナダブをもうけた。アミナダブはナフションをもうけ、ナフションはサルマをもうけた。サルマはボアズをもうけ、ボアズはオベドをもうけた。オベドはエッサイをもうけ、エッサイはダビデをもうけた。 士師記11章26節には「イスラエルはヘシュボンとその周辺の村落、アロエルとその周辺の村落、およびアルノン川沿岸のすべての町に住んで三百年になるが、なぜ、あなたがたはこの間に取り戻そうとしなかったのか。」との記述がある。単純に理解すると、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入って、300年となる。ペレツは、ユダの子だが、それから、ここには、ダビデまで9代、ユダから考えても、10代である。ペレツがユダとともにエジプトに行ってから、出エジプトまでは、明確にはわからないが、そのあと、荒野での四十年、少なくとも、400年と考えると、10代では、不足に思われる。それでも、ぎりぎり辻褄が合うようになっているのかもしれない。ダビデがユダ族の末裔であること、そこに、モアブの血が入っている、その説明とともに、この物語が作られたと言うことだろう。ヨシュア記、士師記とは、だいぶん、雰囲気がことなる物語である。 1Samuel 1:26-28 ハンナは言った。「祭司様。あなたは生きておられます。私はここであなたのそばに立って、主に祈っていた女です。私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。私はこの子をその生涯にわたって主にお委ねします。この子は主に委ねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。 美しいものがたりに仕上がっている。エリが「あなたの苦しみは何ですか」とは言えず「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」(14b)と、完璧とはいえない応答をしたことも含めて。願い事をするひとは、洋の東西を問わずたくさんいる。叶えられてからの行動だろうか。引用句には、「主」が3回現れる。それを強調した表現になっている。美しい信仰の表現は、変わっていないのかもしれない。 1Samuel 2:25,26 仮に人が人に罪を犯したとしても、神が間に立ってくださる。しかし、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれようか。」しかし、息子たちは父の声に従おうとはしなかった。それで主は彼らの命を絶とうとされた。一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。 物語として書かれており、詳細を議論することは、不適切だろうが、士師の時代、ヨシュア記、士師記と読むと、祭司のもとに、あるリーダーシップがあることだけでも、驚かされる。このように、後の年代の基準からのみ評価するのは適切ではないようにも思う。サムエルについて、その出自を証言するものとしての物語としては、興味深い。イスラエルの王が登場するまでには、特別な人物が必要だったのだろう。 1Samuel 3:13,14 私はエリに告げ知らせた。彼の息子たちが自ら災いを招いているのを知りながら、戒めようとはしなかった罪のため、私はエリの家をとこしえに裁くと。私はエリの家について誓った。エリの家の罪はいけにえによっても、供え物によっても、とこしえに償われることはない。」 少年サムエルに告げられた主の言葉とされている。少年とはどのぐらいの歳をいうのだろうか。この主の言葉を理解するのは難しい。表面的には、理解できるかもしれないと考えると、のちにまとめた言葉かもしれない。内容を丁寧に見ると、前半は、エリが息子たちが自ら災いをまねいているのを知らせたのに、戒めようとしなかったとある。すなわち、この内容は、エリも知っていることを意味する。後半は、いけにえや供え物によっては償われない。という内容。この時、悔い改めたらどうなるかを考えるが、おそらく、悔い改めないことを言っているのであって、悔い改めても赦さないと言っているのではないのだろう。 1Samuel 4:8,9 大変なことになった。一体誰が、この偉大な神の手から我々を救い出すことができるというのだ。これは、荒れ野においてあらゆる災いをもってエジプト人を打ったあの神だ。ペリシテ人よ、雄々しく、男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたがたに仕えていたように、あなたがたが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」 興味深いことが二つ含まれている。一つめは、エジプト人を打った場所を「荒れ野」としていることである。出エジプト記に書かれていることとは異なる物語が流布していたのだろうか。それとも、エジプト人を打ったという部分が中心で、荒野での生活を通してと、それが一つになった表現なのか。もう一つは、このあと、自分達を、奮い立たせることばである。フェニキア人の系列で海洋民族であると言われるが、すでに、歴史のさまざまな場面について知り、相対化ができているということだろうか。エジプトの強さと、強いからと言って、必ずしも、絶対ではないことを知っているのかもしれない。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日(聖書の会第1回)から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。登録をよろしくお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 2023.4.23 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  18. BRC 2023 no.018:サムエル記上5章ーサムエル記上18章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) サムエル記上はいかがですか。今週は、サムエル記上を読み進めます。 サムエル記は上と下(または1と2)に分かれ、書名はサムエル記ですが、サムエルは、サムエル記上25章の最初で亡くなっています。内容としては、上は、サウル王の時代、下は、ダビデ王の時代と別れています。しかし、上でも、ダビデが主人公のように書かれていますから、全体として、ダビデ王朝(イスラエル統一王朝・カナン侵入当時の範図支配)の確立の物語としてもよいと思います。 さて、ダビデはどのような人だったのでしょうか。非常に丁寧にかかれてありますから、かなりのことがわかります。むろん、サムエル記記者の描いたダビデであることは、覚えておくべきですが。新約聖書にもダビデのことが何回か出てきますし、救い主は、ダビデの子と呼ばれたりもします。イスラエルの(国の)復興を考えると、英雄としての、ダビデはとても重要だったのでしょう。しかし、サムエル記を読んでいくと、単純な英雄の描き方とは違うことも気づかれると思います。みなさんに、読んでいただきたいので、これ以上は中身に入りませんが、あまり単純に考えず、サムエル、サウル、ダビデや、それ以外にも、登場する様々な人々について、理解していっていただきたいと思います。とても、興味深い書です。前回も書いたように、サムエル記・列王記は「先の預言書」と呼ばれていますが、そのなかでも、サムエル記は内容がとても濃いと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記上5章ーサムエル記上18章はみなさんが、明日5月1日(月曜日)から5月7日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Samuel 5:1,2 ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ。ペリシテ人は神の箱を奪って、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンの傍らに安置した。 魔術的な力の物語である。伝承があったのだろう。アシュドド、ガド、エクロンと、たらい回しにすることが語られている。イスラエル居留地と接し、聖書に何度も登場する、ペリシテの街である。このように、災いをもたらしたことが書かれているのだろう。神の箱に、それだけの、魔術的な力があったと信じられていたのかもしれない。それは、だれもが接することができるものではなかったからもあるだろう。主が望んでいたこととは正直言って、思えないが。 1Samuel 6:17 ペリシテ人が主に対する償いのいけにえとして送り届けた金の腫れ物は、アシュドドのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガトのために一つ、そしてエクロンのために一つであった。 4節には、「ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金の腫れ物と五つの金のねずみ」とある。おそらく、五つは、引用句の、アシュドド、ガザ、アシュケロン、ガト、エクロンなのだろう。アシュドドが最初にあるのは、ダゴンの神殿の場所でもあり、中心であったのかもしれない。ペリシテについては、あまりよくわかっていないというが、もう少し調べて見たい。 1Samuel 7:15-17 サムエルは生涯にわたってイスラエルの人々を治めた。毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、これらの地でイスラエルの人々を治めた。それから自分の家があるラマに戻って行き、そこでもイスラエルの人々を治め、主のための祭壇を築いた。 ベテル、ギルガル、ミツパと、ラマをしらべてみた。エフライムとベニヤミンの地にあり時によってはユダの北部地方に含まれていたかもしれないが、非常に狭い範囲である。当時は、このあたりが、イスラエルの勢力の及ぶ範囲であったのかもしれない。エリコの陥落も、考古学的には、否定されているようだが、もう少し実態を知りたい。 1Samuel 8:7-9 主はサムエルに言われた。「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に聞き従いなさい。ただし、彼らに厳しく命じ、彼らの上に立って治める王の権利を知らせなさい。」 これが、サムエル記の歴史観である。しかし、状況を考えると、当時は、非常に狭い範囲に、留まっていたようで、約束の地という形では、占領していない。むろん、それが良いかどうかはわからないが、歴史的に、どの時代から見るかによっても、変わるように思う。少なくとも、王のリーダーシップに頼ることについては、否定的である。ただ、サムエルであったも、子どもは、不正な利益を求めた(3)とあり、王がそうではないことを、どのように考えたかは不思議である。軍事力だろうか。もう少し考えてみたい。 1Samuel 9:19 サムエルはサウルに答えた。「私がその先見者です。あなたはまず高き所に上って行き、今日は私と一緒に食事をしなさい。明朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にあることをすべてお話しします。 サムエル記についても、たくさんの疑問を持つ。サムエルは、「高き所」(12等)で、いけにえを献げる。かつ祭司とは書かず、先見者と呼ばれている。出自からも、歴代誌上(6章12,13節)以外は祭司の家系としては描かれていない。引用句では、「あなたの心にあることをすべて」と書かれ、主の御心を告げるわけではない。これは、理解が難しい表現である。このあとすぐ「三日前にはぐれてしまった雌ろばについては、案ずることはありません。もう見つかっています。それより、全イスラエルの期待は誰にかかっていると思いますか。あなたと、あなたの父の家のすべての者にではありませんか。」(20)と続く。チグハグな感じもする。サウルを王位につけることは、主の命令としつつ、早く先を急ぎたいかの如く、記述に精緻さが感じられない。 1Samuel 10:7,8 これらのしるしがあなたの身に起こったら、ふさわしいと思うことは何でも行いなさい。神があなたと共におられます。私より先にギルガルに下りなさい。私も焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げるために、あなたのもとに行きます。私が到着するまで、七日間待っていなさい。そうすれば、あなたがなすべきことを教えます。」 この後半は何なのだろうか。この先に起こることを預言しているようにも見える。(サムエル記上13章8節-14節)サウルが主お命令を守り主に従うことよりも「ふさわしいとおもうことは何でもする」ことをしてしまうことを。この背後には、主の霊の働きの理解が隠されているようにも見える。しかし、この時点で、それを理解するのは難しいだろう。神の子として生きる自由(権限)は、どのように使われるべきなのだろうか。弱さを担った人間にとって。 1Samuel 11:6-8 それを聞くや、神の霊がサウルに降り、彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえて切り分け、それを使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルに従って出陣しない者があれば、この牛のようになる。」主への恐れが民に広がり、彼らは一斉に出て来た。サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルの人々が三十万、ユダの人々が三万であった。 アンモン人のナハシュから、ギルアドのヤベシュを救った記事である。(1-8)後にまで、関係する事件であるが、神の霊によるサウルの激昂が描かれている。そして、信じられないような軍勢が記録されている。士師記の最後に、イスラエルがまとまった記事があるが、一体となって戦う姿が記録されていると考えても良いのかもしれない。ユダとイスラエルというこの後の王国の姿を表す分け方になっているところも興味を惹く。 1Samuel 12:12 ところが、アンモン人の王ナハシュが攻め上って来るのを見ると、神である主があなたがたの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々を治めるべきだ』と私に言った。 11章の記述とは少し異なる印象を受ける。しかし、主が出エジプトにおいても(6,8)、そのあとの士師時代の、ペリシテ人や、モアブの王との争いについて(9)のことと共に、主に従わなかったことが書かれ、上に至る。サムエルの告別の辞をこのようにまとめたのだろう。歴史観は、重要なのかもしれない。それが、将来どう生きるかの判断を決めていくのだろうか。このあたりが、わたしは、まだよく理解できていない。歴史観は人生観なのか。そのような部分はあるようにも思う。しかし、そうとも言い切れない部分もあるように思う。 1Samuel 13:5,6 一方、ペリシテ人はイスラエルと戦うために集結した。その戦車は三万、騎兵は六千、兵は海辺の砂のように多かった。彼らは上って来て、ベト・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。イスラエルの兵士は、自分たちが窮地にあるのを見た。兵は追い詰められて、洞穴、あざみの茂み、岩の間、穴蔵、地のくぼみなどに身を隠した。 この章で初めてヨナタンが登場し(2,3)、サムエル記上10章 08節に関係すると思われる「七日間」の問題が書かれているが、世界史的な観点から引用句を選んだ。ペリシテの状況が描かれており、また「その頃イスラエルの地には、どこにも鍛冶屋がなかった。ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないと、ペリシテ人が考えたからである。それで、イスラエルのすべての人々は、鋤の刃や鍬、斧や鎌を研いでもらうために、ペリシテ人のところへ下って行かなければならなかった。」(19,20)とあり、イスラエルは(青銅または)鉄器時代に入っておらず、剣や槍を持っていたのは、サウルとヨナタンだけ(22)とも書かれている。なぜ、サウルとヨナタンが持っていたのかも不思議だが、何よりも、ペリシテとの差には驚かされる。ただ、引用句にある、戦車と騎兵は、古代では広い平原のような場所で力を発揮するもので「洞穴、あざみの茂み、岩の間、穴蔵、地のくぼみなど」では力を発揮できない。とはいえ、とんでもない差で、明らかにかなう相手ではないことが表現されている。 1Samuel 14:3 そこにはエフォドを身に着けたアヒヤもいた。アヒヤはイ・カボドの兄弟アヒトブの子であり、イ・カボドはシロで主の祭司を務めたエリの子ピネハスの子である。兵もヨナタンが出て行ったことを知らなかった。 この章も内容満載である。引用箇所は、イ・カボドが登場したからである。2度も名前が書かれている。4章に書かれている、イスラエルの大敗のときに生まれたのがイ・カボド(栄光はどこにの意と注にある)である。その対比が描かれているのだろう。サウルが兵に、「私が敵に報復する夕方まで、食べ物を口にする者は呪われる」(24b)と誓わせていたことにまつわるエピソードが書かれているが、34節には、どうも、結局、皆、食べたようにも書かれている。焦点は、サウルのリーダーシップが崩れていく過程が書かれていると言うことなのだろう。ヨナタンは「私の父は皆を悩ましている。見よ、この蜜をほんの少し味わっただけで、私の目は輝きだした。もし今日、兵が敵から奪った戦利品を自由に食べていたなら、今頃は、ペリシテ人の損害はもっと大きなものになっていたであろう。」(29,30)と言い、裁こうとするサウルには、兵が「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないというのですか。とんでもないことです。主は生きておられます。彼の髪の毛一本なりとも地に落ちてはなりません。神が共におられたからこそ、ヨナタンは今日これを成し遂げたのです。」(45b)と正論をぶつけている。神の箱が登場し、主に問う場面もチグハグさが描かれている。「神の箱を運んできなさい」(18b)「もうよい」(19b)そして、主は答えられない(37)など。文学的記述としても、興味深い。さらに、血のついた肉についても、書かれていて著者の背景についても、ヒントがあるように思われる。 1Samuel 15:11 「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた。 興味深い章である。まず、引用箇所はこのあと「イスラエルの栄光である方は、偽ることも悔いることもない。人ではないので、悔いることはない。」(29)とも書かれているので、この矛盾を考えるために挙げてみた。両方とも、サムエルが受け取ったメッセージだとすれば、矛盾はない。サムエルの理解が、そして、信仰告白が深くなっていったと言うことだろう。もう一つの考え方は、主は、悩まれる方、苦しまれる方であるということである。イエスのように。いずれも、簡単な決断ではないのだから。民が、一人一人が「心して聞く」(22b)ことを願っておられるなら、そう簡単ではない。主は悩んでおられるように見える。むろん、わたしたちについても。この章はアマレクを滅ぼし尽くすことについて描かれている。「あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。」(申命記25章29節)から繋がっている。最後はアマレクの王アガグをサムエルが切り殺す(33)。アマレクを滅ぼすとは何なのだろうか。 1Samuel 16:12,13 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。彼がその人である。」サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。 今回読んでいて、これも、信仰告白、歴史の内面化かと思った。サムエルがこのときに、ダビデを特別な存在と強い印象を受けたのかもしれない。すなわち、ここで油を注いだのは、内面的なことなのかもしれない。振り返って語っているのかもしれない。そのような考え方を批判するひとも多いだろうが、この書も、サムエルが後日かたったことなどを、根拠にしていると考えることは自然である。神様からのメッセージを受け取ることは、そのような真実を語ることのように思う。 1Samuel 17:26,27 ダビデはそばに立っている兵士たちに言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルから恥辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列を嘲笑うあの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」兵はダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を打ち倒す者はこのようにしてもらえる」と言った。 何か、褒美を確認しているようにも見える。このあとの、熊やライオンとの戦いについても、誇張があるのではないかと感じる。ダビデがそうだったというよりも、書き手の脚色なのかもしれない。不明である。この章には「青銅の兜」(38)と出てくる。ゴリアトについても鎧兜は青銅で、槍の穂先は鉄である。(5-7)青銅と鉄が使われていたことがわかる。まだ、軽く強い鉄はなかったのだろう。また、16章の終わりにダビデがサウルの前で琴をひいていた記事があるにも関わらず(16:14-23)、サウルはダビデを知らないという記述が出てくる(55-58)。今読んでいる、中西進著「日本神話の世界」に「日本書紀は養老4年(720)にできた歴史書である。(中略)昔から伝えられるうちにできた伝承上のちがいもけっして統一せずに、全部ならべてあげるところに大きな特徴がある。お蔭でわれわれは、さまざまな伝承を知ることができるのである。」(ちくま学芸文庫 pp.11-12)とある。複数の伝承を残してくれていることは、ポジティブに捉えるべきなのだろう。 1Samuel 18:1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結び付き、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。 ダビデとヨナタンの物語がはじまる。これに続いて「その日、サウルはダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。」(2)ともあるので、ヨナタンとサウルのダビデとの関係の比較とも捉えられるかもしれない。「この日以来、サウルはダビデに猜疑心を募らせた。」(9)ともある。疑いと愛、まさに、反対のことを言っているように思う。そのあとには、長女メラブを妻として与えると約束して、与えなかった記事が続く。さらに「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。それをサウルに告げる者があり、サウルには好都合であった。」(20)とあり、サムエル記記者もある対比を意識しているように思われる。愛と嫉妬だろうか。ヨナタンと、ミカルの違いにも注意して読んでいきたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第3回:5月4日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章9節〜11節と、他の福音書の関連箇所から学びます。 2023.4.30 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  19. BRC 2023 no.019:サムエル記上19章ーサムエル記下1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) サムエル記上はいかがですか。今週は、サムエル記上を最後まで読み、サムエル記下に入ります。 前回、少し、サムエル記上とサムエル記下の区切りについて書きました。元来一つの書で、巻物としては、二巻ということなのでしょうから、二つに区切ることに大きな意味がないとも言えるかもしれません。 聖書は、たくさんの著者によって、長い期間かかって記されたと思われます。口伝のような伝承をまとめて書いた部分も多いでしょう。また、時代が進み、何回も、写しを作っていく中で、追記されたり、修正されたりした部分もあるように思われます。ですから、統一性がなく、様々な考えが入り込んでいるとも言われ、いくつかの文書・集団が背景にあるのではないかと考える人たちもいます。 しかし、このサムエル記を読んでいると、サムエル記に関しては、文体も含めて、統一性も高く、簡単には、解釈(これは主がなされたことなど)を挟まず、注意しながら、複雑なことを、それでも、まとめながら、書いているように思われます。読む場合にも、あまり、単純に、このひとは、いい人、このひとは悪い人、これは、神様がこちらをいいとしたとか、即断せずに、読んでいくのがよいように思います。わたしは、「主が」と書かれている部分も、サムエル記記者は、そう考えたのだろうなと思いながら読んでいます。 このような、読み方に、反発を覚えられる方もおられるかもしれませんね。でも、現代を生きるわたしたちも、これは、神様が良しとされることなのか、そうではないのか、よくわからない中で生きているように思います。これは、神様は嫌われることだろうと考えていることでも、背景を知ると、なかなか、複雑であることがわかってくることもあります。 すでに、書きましたが、わたしは、サムエル記上・下が、旧約聖書全体の中でも特別好きなのですが、それは、神様の御心を求めつつも、よくわからないことを、そのままに、書いていることに起因しているように思います。なかなかスッキリしない面もある一方、その中で、神様の御心を求め続けることについて励ましが与えられるように思うからでしょうか。 サムエル記下については、また次回以降に書きますが、ダビデに対する記述も、少しづつ変化します。しかし、そのような時をも知っている記者が書いているサムエル記上だとも言えます。みなさんも、様々な感慨を持たれるかと思いますが、違和感や感動をメモでもよいですから、書き残し、もし、可能ならば、分かち合っていただけたらと思います。 他の人が、どのような思いを持っているかを知ることは、新しい気づきを与えられるとともに、人間や聖書の理解も深く、広くなっていくように思います。それは、神様が愛される人々の多様性と、そのような様々な人々を愛される、神様の愛の大きさを受け取り、神様の理解が深くなっていくことにもなるとわたしは、考えています。みなさんは、どのような思いで、読んでおられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記上19章ーサムエル記下1章はみなさんが、明日5月8日(月曜日)から5月14日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記上とサムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#sm1 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Samuel 19:18 逃げて難を避けたダビデはラマのサムエルのもとに行き、サウルが自分にしたことをすべて話した。ダビデとサムエルはナヨトに行き、そこにとどまった。 このあとに起こったこと、最後に、サウルに神の霊が降り預言しながらナヨトまで歩き続けたという表現など、何を意味するのか不明の部分もあるが、サムエルとの交流が特別な意味を持っていたことを表すことなのかもしれない。その前の段落で、テラフィムが2回(13,16)登場する。תְּרָפִים(ter-aw-feme': idolatry, idols, image(s), teraphim, family idol)は、単に像という言葉だが、家族の信仰の対象としての偶像が通常の意味で、イスラエルでは偶像と嫌われたはずのものが、ここに使われていることに驚いた。しかし、ここは、単純に、人形のようなものを使ったということと理解してもよいように思う。 1Samuel 20:30,31 サウルはヨナタンに激怒して言った。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの息子に目をかけて自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。エッサイの息子がこの地上に生きているかぎり、お前もお前の王権も安泰ではないのだ。すぐに人をやって彼を捕らえ、私のもとに連れて来い。彼は死ななければならない。」 サウルのことばは、ヨナタンとダビデが性的交わりをもっているとの批判のように思われる。たしかに、それを想起させるほどの親密さではあるが。ヨナタンは「ダビデを自分自身のように愛していた」(17)と表現し、ダビデは慎重に「お父上は、私があなたの好意を得ていることをよくご存じです。それでヨナタンが悲しむといけないから、知らせないでおこうと考えておられるのです。主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」(3)と言っている。引用句を見ても、サウルがヨナタン、もしかすると自分の家の将来を心にかけていることが見て取れる。また「ヨナタンはダビデの家と契約を結んで言った。『主がダビデの敵に報復してくださるように。』」(16)とここにも家が登場することも注意を要する。 1Samuel 21:6,7 ダビデは祭司に言った。「言うまでもなく、私たちはこれまでと同様、女を遠ざけています。私が出陣するときには、部下たちは身を清めています。通常の出陣でもそうですから、まして今日は、部下たちは身を清めています。」そこで祭司は、聖別されたパンをダビデに与えた。その日は、パンを取り替えて焼き立てのパンを備える日で、普通のパンがなく、主の前から取り下げた供えのパンしかなかったからである。 この箇所は、イエスが引用する箇所でもあるが(マタイ12:3,4、マルコ2:25,26、ルカ6:3,4)「自分も供のものたちも」とある。しかし、ここには、供のものはいない。また、「女を遠ざけている」と語っているが、平穏な状態ではないことは確かだ。身を清めているとも思えない。また、ここでは、普通のパンがないとういことは、祭司たちがたべるパンは、これでなくなってしまうことも意味している。イエスの言いたかったことは別にあるとしても、難しい引用であることも確かだ。 1Samuel 22:1,2 ダビデはそこを出て、アドラムの洞穴に逃れた。それを聞いた彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆、彼のもとに集まって来た。ダビデは彼らの長になった。おおよそ四百人の者がダビデと共にいた。 唐突に感じられるが、このあとを読むと、ダビデは両親をモアブの王に託している。さらに、「サウルはダビデとその仲間たちを見つけたという知らせを受けた。」(6)とあり、ダビデを捜索していることがわかり、家族は危険な状態だったことも想像ができる。それが最高潮に達するのが、祭司アヒメレクとその家族の殺害である。(18)文学的にも、非常によく書けているように思われる。サムエル記上・下は、これに続く列王記上・下とともに、先の預言者と呼ばれるが、背後にある部分をも、解釈して書こうとしているように思われる。ただ、それがそのまま事実とは限らないことは、致し方ないが。 1Samuel 23:1,2 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪しているという知らせがあった。それでダビデは主に伺いを立てた。「行って、あのペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行って、ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」 ダビデが伺いを立て、それによって行動する姿が描かれ、それはサウルの行動にも影響を与えたこと(19-23)が、いくつかの例とともに描かれている。ダビデの行動の背後にあることを伝えるエピソードなのだろう。直接的に、主に伺いを立てたと書かれている場合(1,4)と、祭司エブヤタルにエフォドを持って来させて問う場合(9,10)が書かれているが、それ以外にも、ダビデが多くの情報を得ていることも書かれており、諜報活動や、または、友人などからの情報(16)もあったのだろう。当時としては、かなりのものだったのではないだろうか。ダビデの強みでもあり、アヒメレクなど祭司が殺されたことから学んだことなのかもしれない。著者の意図として、重要な決断のためには、主の声を聞くことを描ている面もあるのかもしれない。 1Samuel 24:21-23 今、私は知った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される。どうか今、主によって誓ってくれ。私の後に続く私の子孫を絶つことなく、私の名を父の家から消し去ることはないと。」ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の家に帰り、ダビデとその部下たちは要害へ上って行った。 ひとつの区切りを描いている。サウルの上着の端を切り取ったことを後悔し部下たちに「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ。」(7)と語ったことが書かれている。このあとの、サウル家の属するベニヤミン家との戦いなどに関わる重要な記述だったのかもしれない。戦略的とも言えるが、最終的になにを求めているかも、考えていたということかもしれない。単に誠実さ、忠実さで判断してはいけないのだろう。ダビデの描かれ方もあるだろうが、英雄について、イエスはほとんど語らない。 1Samuel 25:10,11 ナバルはダビデの部下たちに答えた。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者か。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。私のパン、私の水、それに毛を刈る者のために私が屠った肉を取って、素性の知れぬ者に与えろと言うのか。」 ナバル(נָבָל naw-bawl', foolish, senseless, fool, 愚か者)名前の由来が不明である。同音異義語で、なにかを表現したのかもしれない。しかし、サムエル記上では、愚か者であることが、強調されている。ただ、引用句を見ると、適切に判断ができないことを意味しているだけとも言える。何らかの障害があったのかもしれない。現代的な見方かもしれないが、このようなことも、乗り越えないと、平和はこない。「朝、ナバルが酔いからさめたとき、妻は事の次第を報告した。するとナバルは意識をなくして石のようになった。十日ほどして、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。」(37,38)とある。正直、不憫になってしまう。他者が自分と同じ知的判断力があると考えることは、他者の尊厳をたいせつにする公平さのようでいて、そうではないように思う。 1Samuel 26:23,24 主は人の正しい行いと忠実さに応じて、それぞれに報いてくださいます。今日、主はあなたを私の手に渡されましたが、主が油を注がれた者に手を下すことを、私は望みませんでした。今日、私があなたの命を重んじたように、主も私の命を重んじ、あらゆる苦難から私を救ってくださいますように。」 ダビデの神学をここに著者は表現しているのだろう。「正しい行い צְדָקָה tsed-aw-kaw': justice, righteousness」と「忠実さ אֱמוּנָה em-oo-naw': firmness, fidelity, steadfastness, steadiness」と書かれている。因果応報なのだろうか。もう一つ、主の主権を犯さなことが、主が油を注がれた者に手を下さないことなのだろう。24章の終わりで、一件落着するかと思われたが、またここで、同じことが繰り返されている。簡単ではないとも言えるし、伝承が複数ありそれをまとめたとも言えるのだろう。どちらにしても、単純ではない。 1Samuel 27:1 ダビデは考えた。「このままではいつかはサウルの手にかかるに違いない。ペリシテ人の地に逃げるほかはない。そうすればサウルはイスラエル全土で私を捜すことを断念するだろう。それで私は彼の手から逃れることができる。」 24章の終わり、26章の終わりでも、和解しているように見えるが、現実はそう単純ではないとダビデは考えており、このあとも抜け目なく生き抜く手段に訴えている。ガトの王、マオクの子アキシュ(2)のところに逃れた記事は、21章11-16節にもある。整合性をとるのは、難しいようにも思う。複数の伝承があるのか。いずれにしても、アキシュはダビデを信じ、完全に騙されてしまっている。「彼は自分の民イスラエルにすっかり疎まれてしまったのだから、いつまでも私の僕でいるだろう」(12)ダビデの巧妙さとも言えるが、目的のためには手段を選ばず、主はどのような思いで見ておられるのだろうか。 1Samuel 28:21,22 女はサウルに近づき、サウルが非常におびえているのを見て、言った。「仕え女はあなたの声に従いました。命を懸けて、あなたが言われたことに従ったのです。今度は、仕え女の声に従ってください。ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がってください。お帰りになる力がつくでしょう。」 すばらしい女性がいたものだと驚かされる。霊媒・口寄せは、一般的には避けられていた。おそらく、主のことばかどうか、はっきりせず、人心を迷わすからだろう。現代の AI 論争にも似たところがある。そのような女性が、ここでは、誠意を尽くす。また、ここで「ささやかな食事」と表現している内容が次に説明してある。「サウルは断って、『私は食べない』と言った。しかし家臣もその女も強く勧めたので、彼らの声に従い、地から身を起こして、台座の上に座った。女の家には肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。女がサウルと家臣にそれを差し出すと、彼らはそれを食べて、その夜のうちに立ち去った。」(23-25)感動的である。わたしはこのように生きられるだろうか。 1Samuel 29:6,7 アキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたはまっすぐな人間だ。私と一緒に戦陣に加わるのを、私は歓迎している。実際あなたが私のもとに身を寄せてからこの方、今に至るまで何の落ち度もない。だが領主たちはあなたを快く思ってはいない。だから今は引き返して、穏便に事を収め、ペリシテ人の領主たちの気に入らないことをしてはならない。」 このあとにもアキシュは「だから、明日、早く起きて、明るくなりしだい、あなたも、一緒に来た部下たちも立ち去るように。」(10)と、ダビデに配慮している。信頼を得ることが大切であるが、信頼は、最終目的ではないように思う。ダビデの欺きによる信頼獲得、憤りを感じる。戦略的には、優れているのだろうが。勝利も、信頼獲得も最終目的にはなり得ないということなのだろう。もっとも、たいせつにすべきことは何なのだろう。「互いに愛し合う」ことのようにいまは思う。信頼も勝利も、たいせつに見えるが。 1Samuel 30:6 ダビデは非常な苦境に立たされた。というのも人々は皆、自分の息子、娘のことで苦しみ、ダビデを石で打ち殺そうとまで言いだしたからである。だがダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった。 サムエル記記者は、ダビデのすべての行為を肯定しているように見える。戦略を用いて勝利を得ることは、最終的な目標ではないと思うが、それが、ここにも現れているように思う。不在の間にツィクラグは襲撃され「ダビデも一緒にいる人々も声を上げて泣き、やがて、泣く力も尽きた。」(4)とある。わたしは、策略を用いず、町に残ることを選んだろう。しかし、それが適切なのかどうかも、また、簡単に判断はできない。目先の「互いに愛し合う」状態を維持することだけでは、おそらく十分ではないのだろう。それにしても、「ダビデはツィクラグに戻ると、戦利品の一部を友人であるユダの長老たちに送り、こう言った。『これはあなたがたへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です。』」(26)のように、信頼関係を育む、戦略とも言える行為、わたしには、なかなかできない。ダビデの評価は本当に難しい。 1Samuel 31:7 谷の向こう側と、ヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの兵士たちは、イスラエル軍が敗走し、サウルとその息子たちが死んだのを見ると、自分たちの町を捨てて逃げ去った。ペリシテ人は町に入り、そこにとどまった。 意味がよくわからないことが書かれている。ペリシテがシュネム、サウルがギルボア山に陣取ったようだが(27章4節)、なぜ、これほど北の方で戦うことになったかがまずは不明である。ペリシテはすでに五つの都市国家ではなく、イスラエル全域を推させていたのかもしれない。谷の向こう側、ヨルダン川の向こう側もあまりよくわからないが、ヨルダン川の向こう側は、ギルアドだろう。そのようなところにいた人たちも、町を捨てて逃げ去ったということだろうか。このあと、サウルに恩がある、ギルアドのヤベシュの人たちは、サウルの死体を取りに来る。このヤベシュは、ヨルダン川から遠くない場所のようなので、より危険なようにも思う。地勢的な関係がよくわからない。 2Samuel 1:10 そこでおそばに行って、とどめを刺しました。すでに倒れており、もはや生き延びることはできないと分かったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕に付けておられた腕輪を取って、ご主人様に届けに参りました。これでございます。」 詳細な説明を書かないのが、サムエル記の特徴だとは思うが、暗示するだけで、正確にはよくわからないと思ってしまう。サムエル記上31章4,5節に、サウルの死が書かれていることからも、このアマレク人の寄留者が褒められると思って、したことと断定しているように見える。ただ、王冠と腕輪と、サムエル記上31章9節にある武具との関係はわからない。王冠と腕輪はこのアマレク人が盗んでから、ペリシテ人がサウルの死体を発見したということだろうか。いずれにしても、ここでも、アマレク人が登場する。かなりの敵意も感じられる。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第4回:5月11日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章12節〜13節と、他の福音書の関連箇所から学びます。 2023.5.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  20. BRC 2023 no.020:サムエル記下2章ーサムエル記下15章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) サムエル記上はいかがでしたか。今週は、サムエル記下を読みます。 以前にも、サムエル記上・下、列王記上・下は、ヘブル語聖書では、王国の歴史として、ひとまとまりの文書だと書きました。たしかに、文体などは、似ており、統一感もあるように思います。しかし、サムエル記上、サムエル記下、そして、列王記上のソロモンの記述の部分とそれ以後では、記述方法・方針が変化しているように見えます。サムエル記上の最後に、サウルとその子ヨナタンなどが死に、いよいよ、ダビデが王となります。ダビデの時代は、王になる前も、王になってからも、戦いに次ぐ戦いがあったようですが、内容的には、今回、みなさんが読む2章から、15章の間に、大きな変化が起きます。詳細は、書かないことにしますが、聖書全体の中でも、いろいろと考えさせられる、内容的にも富んだ箇所でもあります。 サムエル記上に書かれている、ダビデの前半生は、サウルに狙われ続け、逃亡の日々でした。ダビデの生き方に、感動したり、おやっとおもったり、さまざまかと思いますが、王となってからの、ダビデの後半生は、ダビデにとっては、とても、苦しい時だったのではないでしょうか。その苦しさを、ぜひ、ダビデと共に、考えながら歩んでいただきたいと思います。あまり、簡単に、善悪など判断せずに。非常に豊かな表現で、ダビデについては、書かれています。ひとりの人にとっての、さまざまな出来事、苦しみ、そこでどのような決断をし、どのように生きていったかは、むろん、サムエル記記者の記述ではありますが、聖書の中でも特別に詳細に書かれているように思います。単なる英雄(伝)ではない、ダビデのあゆみを通して、サムエル記は何を伝えているのか、それを、わたしたちは、どう受け取ったら良いのか。共に考えていきましょう。 前回も書きましたが、ダビデ以外の、人物についても丁寧に描かれています。むろん、よくは分からないことが多いのですが、それも、サムエル記下の興味深い点のように思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記下2章ーサムエル記下15章はみなさんが、明日5月15日(月曜日)から5月21日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2Samuel 2:8,9 サウルの将軍、ネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェトを擁してマハナイムに移り、彼をギルアド、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。 地名が大切だと感じた。ヘブロン(2,3)、最初にカレブやオトニエルがとったユダの古い町なのだろう、ヤベシュ・ギルアド(4,5)、サウルを葬ったと書かれているが、サウルとの関係に関して重要な町、マハナイム(8,29)、創世記22章にも登場する、さらに、ギブオン(12,16,24)、最初にイスラエルと協定を結んだカナン人の町、などである。引用句では、全イスラエルとして、リストされ、部族名と、アシュル人と「人」がついているもの、ギルアドや、イズレエルという昔からの地名が、併記されている。部族としては、アシュル、エフライム、ベニヤミンと並べられていて、これらが全イスラエルを代表するということも興味深い。ベニヤミンは、ある鍵を担っていたのかもしれない。ヤベシュ・ギルアドに対することなど、ダビデの忠義心にのっとった、独特の計らいとして、描かれているが、戦略とも考えられると共に、ギルアドへの入り口の拠点として、重要だったのかもしれないとも思った。ヨルダン川の両岸で分裂する可能性もあるわけだから。 2Samuel 3:8-10 アブネルはイシュ・ボシェトの言葉に激しく怒って言った。「私がユダにくみする犬の頭だとでも言われるのですか。今日まで私は、あなたの父上サウルの家とその兄弟、友人たちに誠実を尽くし、あなたをダビデの手に渡さないでいました。今になって、あの女のことで私を罪に問おうとなさる。主がダビデに誓われたことを、私がダビデのために行わないなら、神がこのアブネルを幾重にも罰してくださいますように。それは、王権をサウルの家から移し、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に、ダビデの王座を打ち立てることです。」 さまざまな要素があり、興味深い。まず、アブネルも、ダビデも、女性関係のことがとても重要な要素になっている。アブネルは、サウルの側女のアヤの娘のリツパ、ダビデは、サウルの次女で、ライシュの子パルティエルの妻となっているミカル。この章は「サウルの家とダビデの家との戦いは長引いたが、ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は次第に衰えていった。」(1)と始まっているが、その状況を一番良く知っているのは、アブネルだったのだろう。引用句では「私がユダにくみする犬の頭だとでも言われるのですか。」と始まっている。意図が明確にわかるわけではないが、このあとの、自分は「サウルの家とその兄弟、友人たちに誠実を尽くし」に、思いが表れている。アブネルの状況分析と、自分がたいせつにしてきたことが書かれ、さらに、著者の脚色も感じられるが「主がダビデに誓われたこと」を持ち出している。この物語は、最後、アブネルは、ヨアブに殺され、ダビデがアブネルの死を悼むことに「兵は皆これを知って、良いことだと判断した。王のしたことはすべて、兵士全員の目に良いことと映った。」(36)として、終わっている。原理原則ではないものが、判断基準に付されているのも興味を惹く。 2Samuel 4:1,2 アブネルがヘブロンで死んだと聞いて、サウルの子イシュ・ボシェトは力を落とし、イスラエルのすべての人々がおののいた。このサウルの息子のもとに略奪隊の長である二人の男がいた。一人の名はバアナ、もう一人はレカブと言い、共にベニヤミンの者で、ベエロト人リモンの息子であった。というのも、ベエロトはベニヤミンに属すると見なされていたからである。 バアナとレカブは、略奪隊の長と紹介されている。アブネルとの違いは明らかだ。とは言え、ダビデの決断には、作為的なものも感じられ、判断が難しい。最後には「ダビデが命じたので、従者は二人を殺し、両手両足を切り落として、ヘブロンの池のほとりにつり下げた。そしてイシュ・ボシェトの首はヘブロンに運ばれ、アブネルの墓に葬られた。」(12)とあり、ヤベシュ・ギルアドのタマリスクの木の下(サムエル記上31章13節)のサウルの墓ではないことも印象的である。ダビデの判断に普遍性はないように見える。それでも、人々から人気があれば、よいのだろうか。アブネルとの違いも考えさせられる。 2Samuel 5:1-3 イスラエルのすべての部族はヘブロンのダビデのもとに来て、こう言った。「御覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であった時にも、イスラエルの進退を決めていたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる。』」イスラエルの長老たちは皆、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。 ここでも、契約である。結んだのは、ダビデとイスラエルの部族の長老たちであり、ダビデの子孫と結んでいるわけではない。まさに、部族連合で、それぞれの独立性が、保たれていたのだろう。簡単に、国の王となったと、考えるのは誤っているように思われる。注意して、見ていきたい。 2Samuel 6:21,22 ダビデはミカルに言った。「あなたの父やその家の誰でもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者と定めてくださった主の前なのだ。その主の前で私が踊ろうというのだ。私は今にも増してもっと卑しくなろう。自分の目にさえ卑しい者となろう。だが、あなたの言う仕え女たち――彼女たちからは、誉れを受けるであろう。」 ミカルの「今日のイスラエルの王はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから。」(20b)に対する応答で、このあと、「サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。」(23)となっているが、ウザのこともふくめて、因果関係を決めつけすぎているように見える。また、引用句の最後のことばは、たんなる意地悪とも聞こえる。ダビデを称賛することが、サムエル記の基本的な路線なのだろうか。イスラエルの統一王朝を築いたことを考えると、重視するのは当然かもしれないが。 2Samuel 7:15,16 私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」 サムエル記記者は、イスラエルやユダの滅亡を知っているのではないかと思うが、このことばをどのような思いで記したのだろうか。かえって感動的である。ダビデは「主なる神よ、あなたこそ神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこの良いことを約束してくださいました。どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主なる神よ、あなたが約束してくださったのです。あなたの祝福によって、この僕の家がとこしえに祝福されますように。」(28,29)と応答している。これも、契約と受け取っているのだろう。もうすこし、契約について、学んでみたい。 2Samuel 8:2 また、モアブを討った。そして、彼らを地面に伏せさせ、測り縄で測り、縄二本が必要な者たちを殺し、一本分の長さで済む者たちは生かしておいた。モアブはダビデに隷属し、貢を納める者となった。 この章には、ペリシテ、引用句のモアブ、ツォバ、アラム・ダマスコ、ハマトなどのアラムの王、さらにエドムに勝利を収め金銀青銅などを奪い取ったことが書かれている。近隣ではペリシテが強く、もう少し広い範囲では、アラム、そして、ハダドエゼルが強大だったのだろう。もう少し調べないといけないが。連戦連勝であったことが書かれているが、この前の章では、神殿建設を思い止まらされたことが書かれているが、この戦いに明け暮れたことが、神殿を建てられなかった原因であると同時に、神殿を建てるための準備は、やはりこの戦いによって得たものであるという事実も見えてくる。ソロモンの神殿も、悲しい神殿である。 2Samuel 9:12,13 メフィボシェトには、その名をミカと言う幼い息子がいた。ツィバの家に住む者は皆、メフィボシェトの僕となった。メフィボシェトはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が不自由であった。 この直前には「ツィバには十五人の息子と二十人の僕がいた。」(10b)ともある。ツィバはそれなりの大家族、メフィボシェトは、両足が不自由で、自分を「この僕など何者でありましょう。死んだ犬も同然のこの私を顧みてくださるとは。」(8)のように表現している。この二人の、問題はあとで起こるが、ダビデの個人的関係によって、個人の判断でする施作の問題と、背後に隠されている、課題と、残忍さも見え隠れする。策略を自分で意識しているかどうかは不明だが、サムエル記記者はある程度、それに気づいているようにも見える。このあたりは、いずれ丁寧に調べてみたい。人生は短いが。 2Samuel 10:2,3 ダビデは、「ハヌンの父ナハシュは私に誠実であったのだから、私もその子ハヌンに誠意を示そう」と言い、使いを送って彼の父に弔意を表そうとした。ところが、ダビデの家臣たちがアンモン人の地にやって来ると、アンモン人の高官たちは主君ハヌンに言った。「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の使いを送って来たとお考えですか。ダビデがあなたのもとに家臣をよこしたのは、この町を調べ、探り、覆すためではないでしょうか。」 信頼関係を、さらに進んで互いに愛し合う関係を築くのは非常に難しいという一般論からの見方もあるだろうが、ここに書かれていることからも問題を感じる。課題だろうか。まず、このような一つのことで、戦いや、相手を滅ぼすことを考えるようでは、平和は来ない。このあと、アンモン人はアラム人など(6)の傭兵を雇い入れて戦いに臨むことが書かれている。最終的には、実利が関係しているのだろうから、このような対応も自然なのかもしれない。サムエル記記者は、このように、ダビデが制圧していった世界を描いているのだろうが、ダビデ側に立って、賞賛して終わってはいけないと思った。引用句の最初に、誠実や誠意ということばが書かれているが、相手がどうであるかに関わらず、それが貫かれるために、どう生きるかを学びたい。そしてそれを共有することができるように。 2Samuel 11:11,12 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営しておりますのに、私だけが家に帰って食べて飲み、妻と寝ることなどできましょうか。あなたは確かに生きておられます。私には、決してそのようなことはできません。」ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、あなたを送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。 このあとも、何日かそのようなことが続いたと書かれている。(13)編者の脚色があるだろうが、それにしても、立派に映る。「あれはエリアム(אֱלִיעָם (el-ee-awm'): God of the people, or God is kinsman)の娘バト・シェバ(בַּת־שֶׁבַע (bath-sheh'-bah): daughter of an oath)で、ヘト(Hittite)人ウリヤ(אוּרִיָּה (oo-ree-yaw'): Jehovah (Yahweh) is my light (flame))の妻です」(3)とあるが、名前からして、ヘト人とはあるが、イスラエルにある程度長くいる人ではないかと思われる。そのような名前にしたのかもしれないが。ウリヤは情報を得ていたのだろうか。おそらくそうではなく、ダビデについて知っていたのではないだろうか。策略家であることを。ここでも、私の主人ヨアブと言っている。ヨアブにはある信頼を抱いているのだろうか。そのように呼ぶことで、ダビデへの立場を示しているのだろうか。サムエル記記者についても考えさせられる。背後にあるものについても、おそろしく、考え抜かれているように感じさせられる。 2Samuel 12:24,25 ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに入り、床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、その名をソロモンと名付けた。主はこの子を愛し、預言者ナタンを送って、主のために、その子の名をエディドヤとも呼ばせた。 「エディドヤ」は主に愛された者の意と欄外にある。ナタンが主がその子を愛すると告げそのような名で読んだのだろう。この名は聖書中ここだけに記されている。ここにこのように記すことで、主の御心を伝えるという構成になっているのだろう。ナタンの譬え話から始まるこの章は、罪を犯したと指摘され「私は主に罪を犯しました。」(13b)と告白したダビデに「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。しかし、あなたがこの行いによって大いに主を侮ったために、生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬであろう。」(13d,14)とし、この子が死ぬことも書かれている。ダビデ王朝への配慮とも取れる。これは、解釈であって、主の御心がそこにあったかどうかは、不明としか言えないが、かえって、問いとして、人々が考える種とはなったろう。人生、わからないことが多いのだから。王朝への配慮と書いたのは、このあとの、ラバの占領において、「ヨアブはダビデに使者を送って言った。『私はラバを攻め、さらに水の町を攻め取りました。今すぐ残りの兵を集めてこの町に陣を敷き、これを占領してください。さもないと、私が町を占領したことになり、この町が私の名で呼ばれることになってしまいます。』」(27,28)ナタンの預言の剣がダビデの家からとこしえに離れないこと(10)ことの表現以外にもそのような政治的なことが背景にあるのかと考えたからである。聖書は内容豊かであると共に、わからないことも多い。それが良いのかもしれない。 2Samuel 13:20-22 彼女の兄アブシャロムはタマルに言った。「兄アムノンがあなたと一緒だったのか。妹よ、今は黙っていなさい。あれはお前の兄なのだ。このことで気に病むことのないように。」タマルは兄アブシャロムの家でわびしく暮らした。ダビデ王は事の一部始終を聞き、激しく怒った。しかし、彼は息子アムノンを罰することはなかった。アムノンは長男だったので、ダビデは彼を愛していたからである。アブシャロムはアムノンに対して、良いとも悪いとも言わなかった。だがアブシャロムは、アムノンが妹タマルを辱めたので彼を憎んでいた。 前章のナタンの預言は、剣がとこしえに離れることがないことと、子が死ぬことと「主はこう言われる。『見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす。あなたの目の前で、あなたの妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼は白日の下で、あなたの妻たちと寝るだろう。あなたはひそかにこれを行ったが、私はイスラエルのすべての人々の前で、白日の下にこれを行う。』」(12:11,12)とある。このことの序章がここから始まっている。死んだ子に思いがいくことが多いが、生きているものの世界にも、さまざまな波紋があることをも言っているように見える。ダビデの権威の失墜である。ダビデの後半生は、おそらく、苦しみに満ちたものだったろう。ダビデの人生は、美化された英雄の人生として書かれてはいないことに興味を持つ。サムエル記記者に会ってみたい。 2Samuel 14:22 ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福の言葉を述べて言った。「今日、あなたの僕は、王様のご厚意にあずかっていると悟りました。王様は僕の願いを聞き入れてくださったからです。」 この章は「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた。」(1)と始まる。引用句やこのあとのアブシャロムとのやりとりを見ると、ヨアブの謙虚さ、大きな野心はないこともみて取れる。特に、アブシャロムを担ぎ出して、王にしようとする野心があるようには、思えない。一方、アブシャロムの扱いは難しい。結局、ヨアブのとりなしも、よくない結果を得たとも言える。難しいことが多い。ダビデの力が衰え、アブシャロムと向き合う力が残っていなかったところに課題があるようだが、後付けで、批判的になるのは、適切ではないだろう。丁寧に書かれていることに驚くとしておこう。 2Samuel 15:6 アブシャロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのように振る舞った。こうしてアブシャロムは、イスラエルの人々の心を盗んだ。 「盗んだ」ということばが印象に残った。アブシャロムは策略家である。しかし、それは、ダビデのものを受け継いだようにも思われる。ダビデも、主に自分の道を委ねつつも、祭司のツァドクの子ら、アヒマアツとヨナタンや、フシャイを残し、策略を用いる。どちらが賢いかは言えないが、ダビデがツァドクに言ったことばとして記されている「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の目に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるであろう。しかし、もし主が、『私はあなたを喜びとしない』と言われるなら、主がその目に適う良いことを私にしてくださるように。」(25b,26)からすると、少なくとも、サムエル記記者はそれが大きな違いだとしているように見える。主の御心を完全に知ることはできない。しかし、求め続けること、それこそがわたしたちに委ねられていることのように思う。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第5回:5月18日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章14節〜20節と、他の福音書の関連箇所から学びます。 2023.5.14 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  21. BRC 2023 no.021:サムエル記下16章ー列王記上5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) サムエル記下はいかがですか。今週は、サムエル記下の後半を読み、列王記上に入ります。 少し予告していたように、サムエル記下は、基本的に、ダビデ王朝について描いていますが、特に、9章あたりからは、ひょっとすると、それ以前からも、ダビデにとっては、辛い期間だったかもしれません。そんな苦しさも描かれています。そして、ソロモンへの王位継承が、列王記上の最初に描かれていますが、それも、簡単には行きません。みなさんは、サムエル記上のダビデと、サムエル記下のダビデについてどんな感想を持たれますか。ダビデの苦しいときには、民も、混乱と紛争の時期を過ごします。ダビデを継いだのは、ソロモンですが、ソロモンは、このような混乱をどうみていたのでしょうか。 列王記上の最初のソロモン王の箇所を読んでいると、行政官も任命されたようで、国としても、統治が確立していったように見えます。政治や経済の視点から、王朝を見ると、ソロモンの経済的成功の原因は何だったのだろうかとも、考えてしまいます。いくつかヒントは書いてあるように思いますが、聖書は、政治・経済的なことについては、あまり書かないのかもしれません。聖書と書きましたが、少なくとも、列王記記者には、編集方針があったように思います。 サムエル記上・下、列王記上・下は、歴史書と言って良いと思いますが、たんなる出来事の記録ではなく、ある視点から、書いているようにも見えます。同時に、皆さんが、今回読まれる、サムエル記下から、列王記上の最初は、単純には、結論を出せないような、複雑な状況を、わからないことはわからないとして、記録しているようにもわたしには見えます。みなさんは、どのように、読まれますか。そして、どのように、王国の歴史のからメッセージを受け取られますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記下16章ー列王記上5章はみなさんが、明日5月22日(月曜日)から5月28日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記下と列王記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#sm2 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#kg1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2Samuel 16:11,12 そしてダビデは、アビシャイとすべての家臣たちに言った。「私の身から出たわが子でさえ、私の命を狙っている。ましてこのベニヤミン人なら、なおさらのことではないか。呪わせておきなさい。主が彼に命じているのだから。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 危機にさまざまな人間模様が展開するそんな章である。ダビデの「主が彼に命じているのだから」を少し考えてみた。ダビデは、明確には主が命じているとは、判断できなかったろう。ただ、ナタンのことば12章7-12節は、何度か心に去来していたのではないか。シムイが言っていることが全体として、また、シムイが正しくはないとしても、その背後に主がおられると考える。それはその通りであるように思う。引用句の最後には、「主が私の苦しみを御覧になり」とある。単純ではないが、主との関係を生き生きと描いていることは確かだろう。ダビデについては、多くの批判をわたしも持っている。また、考え方に同意できない面もあるが、ここにも主を愛したひとりの人がいることは否定できないと思う。しかし、主を愛したということで、すべてが免罪になるわけでもないとも思う。 2Samuel 17:1-3 アヒトフェルはアブシャロムに言った。「私に一万二千の兵を選ばせてください。私は今夜にも出発してダビデを追跡して、急襲します。ダビデは疲れて力を失っているところですから、恐怖に陥れることができます。彼と一緒にいる民は皆逃げ出すでしょう。私は王だけを討ち取ります。花嫁が夫のもとに戻るように、私は民のすべてをあなたのもとに連れ戻します。あなたの捜しているすべての者が戻って来れば、民のすべてが平和になるでしょう。」 アヒトフェルの助言が機能したかどうかは、不明である。しかし、ダビデを撃つことができたかもしれないとは思う。ダビデの行動をみていると、狡猾さは残っているように見えるが、以前の策略をめぐらす勇者ではないように見える。ただ、全体としては、引用句の後半のようにはならないように思う。ダビデを支える人たちも多く、アブシャロムを必ずしも信頼していないように見えるからである。ここまでは表面的な状況分析だが、どうなったとしても、主がダビデに与えた苦しみという表現は当たっているように思う。そのような苦しみのなかでひとは生きていくのだろう。そうであっても、主に従う喜びを最後の望みとして持って。 2Samuel 18:14,15 ヨアブは、「このまま、お前につきあってはいられない」と言って、三本の投げ槍を手に取り、テレビンの木の真ん中でなお生きていたアブシャロムの心臓を突き刺した。そして、ヨアブの武器を持つ十人の従者がアブシャロムを取り囲み、彼を打って殺した。 心臓を突き刺せば、とどめは必要ないように思うが、ヨアブに忠誠を尽くす、従者がいたことも記録しているのかもしれない。ヨアブに知らせに来たもの。このあとの、アヒマアツ、伝令として走るクシュ人、いろいろなことを考えてしまう、それは、ひとつの文学的表現なのだろう。18節には、アブシャロムには、子がいなかったことが書かれている。アブシャロムが後をついだとしても、安定した国になることはなかったように思う。ヨアブのような人物の存在がたいせつだとわたしは考えるが、聖書記者はどう考えて表現しているのだろう、それは不明である。 2Samuel 19:41,42 王はギルガルに向かい、キムハムも共に進んだ。ユダの人々全員とイスラエルの半分の人々もまた王と共に進んだ。するとほどなく、イスラエルの人々が皆、王のもとに来て、王に言った。「なぜ、我々の兄弟ユダの人々はあなたをひそかに連れ出し、王様とご家族、また同行する王様のすべての家臣たちにヨルダン川を渡らせたのですか。」 複雑な状況がいろいろと見える。アブシャロムのことは、ある意味で、ダビデ王への不満が噴出したとも考えられるのかもしれない。この直前にあるバルジライのことば「私はもう八十歳になります。善悪の判断もおぼつきません。何を食べても何を飲んでも僕には味がよく分からず、男女の歌い手の声さえもよく聞こえません。どうしてこの上、王様の重荷になれましょうか。」(36)は、私にも身近になってきたと感じる。まだ10年ほどはあるかもしれないが。謙虚にバルジライのように身の引き方も含めて、適切な判断をしていきたい。引用句に戻ると、イスラエルの人々の真意は分かりづらい。ただ、ユダの家の内紛のように、理解していたのかもしれない。部族の違いは大きいのだろう。ベニヤミンはことなる対応をしているようだが。不明なことが多い。 2Samuel 20:6,7 そこで、ダビデはアビシャイに言った。「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ。彼が城壁に囲まれた町を手に入れ、我々の目を逃れることのないよう、あなたは自分の主人の家来を率いて、彼を追跡しなさい。」ヨアブの兵、クレタ人とペレティ人、および勇士全員が彼に従ってエルサレムを出発し、ビクリの子シェバを追跡した。 ベニヤミン人、ビクリの子シェバの事件は、不明な点が多い。ダビデも強い支持はユダ部族だけだったことが背景にあるのかもしれない。そして、ユダ族も一枚岩ではなかったろう。「王はアマサに言った。『ユダの人々を三日のうちに召集して、ここに来なさい。』アマサはユダの人々を召集するため出て行ったが、手間取って、王が定めた期日には間に合わなかった。」このことも何らかの関係があるかもしれない。また、ヨアブとダビデの確執が拡大していることがわかる。わたしは、どうしても、ヨアブを支持してしまう。実務的な面だろうか。ダビデへの忠誠は、尽くしているが、ダビデが個人的な思いからなす施策・判断を支持しない。さらに、実質的に、ヨアブがダビデを支えてきたことも確かだろう。ダビデも、ヨアブに聞かざるを得ない面もある。最後がどうなるかは、知っているが、簡単には、結論が出せない問いのように思われる。あまりにもナイーブ(純真・素朴・幼稚)なダビデにはついていけないと私自身は思ってしまうが、それは、わたしが生きてきた時代に関係しているのかもしれない。 2Samuel 21:8,9 王は、アヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子アルモニとメフィボシェト、そしてサウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、ギブオン人の手に渡した。ギブオン人は彼らを山で主の前にさらした。これら七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは、刈り入れの初め、大麦の収穫が始まる頃であった。 「ダビデの時代に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデが主に伺いを立てると、主は言われた。『サウルとその家に責任がある。ギブオン人を殺害し、彼らの血を流したからである。』」(1)から始まる。何事も因果関係を考えるのは、簡単な説明を欲する人間の性ではあるが、ここでも、それは、悲しい結果を導く。引用句にあるアヤの娘リツパはサムエル記下3章7節、ミカルの夫メホラ人バルジライとあるがサムエル記上18章19節では、メラブの夫がメホラ人アドリエル、ミカルの夫となったのは、ライシュの子パルティエル(サムエル記下3章15節)であり、混乱があるように思われる。もしかすると「ゴブで再びペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを討ち取った。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒のようであった。」(19)が正しく、このことをダビデに寄与したのかとすら考えてしまう。 2Samuel 22:48 この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせる方。 この詩は、詩篇のものと似た表現が多い。詳細は、今は調べられないが、素朴な信仰を感じた。引用句は、すこし、恐ろしくもなる。機能的に、主の御心を受け取るときは、そのようなこともあるとだけに限らなれければいけない。体験できることは、あまり多くないのだから。しかし、同時に、そのように、告白できるのは、幸せなのかもしれない。すべてを知ることはできないのだから。神が、許されなければ、報復することはできないし、民が従うこともないとは、考えていたことがわかる。他者視点は、十分とは言えないが。 2Samuel 23:3-5 イスラエルの神は語り/イスラエルの岩は私に告げられる。/人を正しく治める者、神を畏れて治める者は太陽の輝き昇る朝の光/雲一つない朝/雨の後、地に若草を芽生えさせる日の光。私の家は神と共にある。/神は永遠の契約を私に賜り/すべてを整え、すべてを守られる。/私の救い、私の喜びを/すべて神はかなえさせてくださる。 ダビデの最後の言葉とされる。このあとには、勇士たちのリストが続く。ダビデは戦いに明け暮れた指導者だったことは、確かだろう。しかし、その働きによって、カナンの地を支配下に置くことになる。聖書の記述をそのまま信じると、それは、ダビデとソロモンの時だけである。それが約束の地、ここでも、永遠の契約とするのは、困難があるように思うが、それが、サムエル記記者の歴史観ではあるのだろう。前半の「人を正しく治める者、神を畏れて治める者」の記述はさわやかである。戦いで勝利をするのとは異なり、より複雑な判断を必要するのだろうが。 2Samuel 24:14,15 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の手に陥らせてほしい。主の憐れみは深い。人の手には陥りたくない。」そこで主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされ、ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。 この章は「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主はダビデを唆して民に向かわせ、『すぐにイスラエルとユダの人口を調べよ』と言われた。」(1)と始まる。主の怒りとありながら「主が唆した」とある。このときに、ヨアブが調査した土地も興味深い。ガド、ギルアド、タフティム・ホドシ(ヘト人の地のカデシュ)、ダン・ヤアン、シドン、ティルス、ヒビ人のカナン人の町、ユダのネゲブにあるべエル・シェバ。まあまあ全国を回っているようだ。ただ、このあとの報告は「ヨアブは調査した民の数を王に報告した。イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」(9)となっている。引用句を興味深く思ったのは、ダビデの判断と、主の手に陥ることが、疫病だと考えられていたこと。ダビデの信仰は、主との個人的な結びつきだったのだろう。また、サムエル記下には、ダビデの問題行為がいろいろと書かれているが、イスラエルの人々はダビデの子の出現を望んでいる。全体を熟知していたわけではないのかもしれないと思った。 1King 1:5,6 さて、ハギトの子アドニヤは思い上がり、「この私が王になるのだ」と言って、戦車と騎兵と五十人の護衛兵をそろえた。こうなったのも、彼が生まれてこの方、父親が、「どうしてこんなことをしたのか」などと言って厳しくしつけることがなく、またアドニヤ自身、容姿端麗で、アブシャロムの次に生まれた子だったからである。 このあとに、二派に分かれたことが書かれていて「彼は、ツェルヤの子ヨアブと祭司のエブヤタルに話を持ちかけたので、彼らはアドニヤを支援した。しかし、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、預言者ナタン、シムイとレイ、およびダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。」(7,8)となっている。ダビデのリーダーシップが弱まったことを意味しているのだろう。老人になったこともあると思われるが、自信喪失もあるだろう。人生は、難しい。個人の信仰ではなく、民のことを考えなければ、個人的にも平安は得られないことをいっているのだろうか。先の預言者の神学をもう少し理解したい。 1King 2:31-33 王は言った。「彼の言うとおりにし、打ち殺して、葬り去りなさい。こうしてヨアブが訳もなく流した血を、私と私の父の家から拭い去るのだ。主は、ヨアブが流した血を彼自身の頭上に返される。父ダビデが知らないうちに、ヨアブは自分よりも正しく善良な二人の者、イスラエルの将軍ネルの子アブネルと、ユダの将軍イエテルの子アマサを討ち、剣にかけて殺していた。二人の血は、ヨアブとその子孫の頭上にとこしえに降りかかるように。だが、ダビデとその子孫、王家とその王座には、いつまでも続く主からの平和があるように。」 ダビデからソロモンへの言葉を忠実に実施していることが書かれている章である。ソロモンの名でもある「平和」が鍵となっている。ただ、正しいわけではないことも感じる。たしかに、アブネル、アマサ殺害を快く思っていなかった一群がいたことは確かだろう。しかし、この二人が殺害されたために安定したと考えた人たちもいただろう。この章の最初には「あなたの神、主への務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおりに、主の掟と戒め、法と定めを守りなさい。そうすれば、何をしても、どこに行っても成功するだろう。また、主は私に告げられた次の言葉を実現してくださるであろう。『あなたの子孫が、誠実に私の前を歩もうと、心を尽くし、魂を尽くして、その道を守るなら、イスラエルの王座に着く者が絶えることはない。』」(3,4)後半は、引用だとは思えないが、列王記の鍵となる言葉なのかもしれない。また、「律法」ということばは、サムエル記上・下にはなく、列王記上ではここだけで、列王記下から登場する言葉である。 1King 3:11,12 神は言われた。「あなたが願ったのは、自分のために長寿を求めることでもなく、富を求めることでもなく、また敵の命を求めることでもなかった。あなたが願ったのは、訴えを聞き分ける分別であった。それゆえ、あなたの言うとおりに、知恵に満ちた聡明な心をあなたに与える。あなたのような者は、前にはいなかったし、この後にも出ないであろう。 この章は「ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚関係を結び、ファラオの娘をめとった。ソロモンは彼女をダビデの町に迎え入れ、宮殿、主の神殿、エルサレムを囲む城壁の建築が終わるまで、そこに住まわせた。」(1)と始まる。カナンの地が平定されて、エジプト王が一目置くようになったということだろう。文化的な交流も始まると思われる。引用句はそのあとに置かれている。逆の順序にはおそらくならないのだろう。注意深く配置されている。ダビデの機略に富んだ戦い、ヨアブなど周囲を固める軍事力とはべつのものとして、訴えを聞き分ける分別と書かれている。このあとに有名な例が続くが、民を治める分別は、難しい。なにを目的とすべきかはまだ明確ではないように見える。主に従うことが何を意味するのかは、難しい。 1King 4:1-4 ソロモン王は全イスラエルの王であり、その高官たちは次のとおりであった。ツァドクの子アザルヤは祭司。シシャの二人の子、エリホレフとアヒヤは書記。アヒルドの子ヨシャファトは史官。ヨヤダの子ベナヤは軍の司令官。ツァドクとエブヤタルは祭司。 このあとも続く。ダビデの時代にも多少の記述がある。(サムエル記下8章15-17節、同20章23,24節)しかし、非常に簡単である。また、全軍の指令官は重要で、つねに最初にあり、ヨアブなどがそれにあたるが、ソロモンの時代では、祭司から始まり、文官が続く。また、12人の知事の記述が続く。地方統治が確立したのは、この時期と考えるのが適切なのだろう。ダビデの時代は、内戦のさなかなのかもしれない。しかし、そう簡単に落ち着かないのは、悲しい。まだ十分な知恵が確立していなかったということだろうか。 1King 5:24,25 こうしてヒラムは、彼の望みどおり、杉の木材や糸杉の木材をソロモンに提供した。一方ソロモンはヒラムに対し、王家のための食料として、小麦二万コル、オリーブの実を砕いて採った油二十コルを提供した。このようにソロモンは、毎年、これらのものをヒラムに提供した。 経済学などにとっては、興味深い取引があるように思われる。未発達の部分もあり、ここでは、見返りとして支払っているのは、王家のための食糧である。小麦二万コルとある。対する、ソロモンのほうは毎日三十コル(2)。一年に換算すると、大体一万コルぐらいだから、その倍である。ティルスは、フェニキア人系の海洋都市国家と思われるから、商取引には、長けていたのかもしれない。材木なども、巨大建築とともに、大きな船を作るために重要だったと思われる。この交易は、ソロモン王朝にとっても、非常に重要だったろう。サムエルによる王についての記述(サムエル記上8章10-18節)の内容は、このソロモンにおいて実現しているように見える。奴隷や徴用ということばが使われており、この章の記述もおそらく近いものなのだろう。賃金を払う契約についてもヒラムとの間には書かれているが、民との間には、そのような概念がまだなかったのかもしれない。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第6回:5月25日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章21節〜34節と、他の福音書の関連箇所から学びます。 2023.5.21 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  22. BRC 2023 no.022:列王記上6章ー列王記上19章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) サムエル記下を読み終わり、列王記上に入りました。今週は、列王記上を読み進めます。 これまでにも何度か、サムエル記上・下、列王記上・下は、ひとつの書であることを書きました。また、先の預言書とも呼ばれています。予言ではありませんから、未来を予想することではありませんが、神の言葉として預かったことを伝えるのですから、それほど多くはありませんが、神様の評価とそれに基づいて、今後起こることが書かれています。とはいっても、ほとんどは、列王記下の、最後までに起こることです。 さて、列王記の上と下に別れています。サムエル記の上と下は、ダビデが王位につく以前と、王位についてからという分け方になっていますが、列王記はどうでしょうか。それは、みなさんに、考えていただくことにして、今週、皆さんが、読まれる箇所について、少しだけ書いておきます。 最初は、ソロモンが神殿を建てるところから始ります。それから、王国の分裂。それ以後は、それぞれの王についての寸評と、いくつかの出来事について書かれています。評価も単純に見え、ほんとうにそうなのだろうかと、わたしなどは、考え込んでしまいます。みなさんは、どうでしょうか。そして、今週皆さんが読まれる後半には、旧約聖書最大の預言者と呼ばれるひとが登場します。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記上6章ー列王記上19章はみなさんが、明日5月29日(月曜日)から6月4日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 列王記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#kg1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1King 6:1,2 イスラエルの人々がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となって四年目のジウの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の神殿を建て始めた。ソロモン王が主のために建てた神殿は、長さ六十アンマ、幅二十アンマ、高さ三十アンマであった。 ソロモンの治世は970–931 BCE ごろとされるので、957BCEごろであろうか。ただし、完成については「第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿はその設計どおりに完成した。神殿を建てるのに七年かかった。」(38)とある。すると、エジプトを出たのは 1436BCE。色々な説があるようだが現在認識されているよりも古い。しかし、一つには、ここでも、エジプトの地を出てからと、基準を出エジプトに置いていることである。この章は、神殿の詳細が書かれているが、設計について、祭司などは登場しない。近隣の神殿などを参照したことも考えられる。できる限りのことをしたのだろう。エジプトから、妻を迎えてもいるので(3章1節)かなりの交流があったと思われる。これも、知恵がなければなされない技だったろう。ソロモンを批判することも多いが、ダビデと比して信仰的にもどう評価するかはあまり簡単ではない。そして、通常信仰的という言い方にも問題があるのだろう。主の見方はおそらくわたしたちの見方とは異なる。 1King 7:51 ソロモン王は、主の神殿のためになすべき製作すべてを終えた。ソロモンは父ダビデが聖別したもの、すなわち、銀、金、祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた。 この記述には少し驚かされた。これだけの金や銀などはどこから集めてきたのだろうと思い、おそらく、ダビデがあつめたもの(略奪したもの「ダビデ王はこれらの品々を、すでに征服した国民から奪って聖別しておいた銀や金に加えて、主のために聖別した。」(サムエル記下8章11節))を使ったのだと考えていたが、どうも、そうではない表現になっている。交易であるとすると、ソロモンが即位して4年、完成まで7年、あわせて11年未満ということになる。そのように推測するのではなく、ソロモン神殿の細部や祭具もふくめ、段々と整えられていったと考えた方が良いのかもしれない。しかし、膨大な金などの量に思える。 1King 8:31,32 ある人が隣人に対して罪を犯し、その人が呪いの誓いを立てさせられるとき、この神殿のあなたの祭壇の前に誓いに来るなら、あなたは天でそれを聞き、あなたの僕たちを裁いてください。悪しき者は悪しき者として、その行いの報いを頭上に下し、正しき者は正しき者として、その正しさに従って報いてください。 願い事の最初は引用句から始まる。しかし、このあとは「あなたに罪を犯したため」(33,35)と続き、さらに「罪を犯さない者は一人もいませんから、人々はあなたに罪を犯し、あなたは怒ってその人たちを敵の手に渡されるでしょう。人々は敵の捕虜として遠く、あるいは近くの敵地へ連れて行かれるでしょう。」(46)とまで書かれている。その地での悔い改めにまで言及されている。捕囚帰還後までが視野に入っているということだろう。そして最後は「それは地上のすべての民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るためです。」(61)と結ばれている。スケールの大きな、歴史を見通し見据えての祈りとも言える。しかし、そのようなものも、隣人に対する罪から始まっているところに興味を持った。矮小化、個人主義と見る面もあるが、隣人に対する罪と、主に対する罪がつながっていなければ、主との交わりも、互いに愛し合うこともできないと思うからである。わたしはどう祈るだろうか。 1King 9:15,16 ソロモン王が、主の神殿と王宮、ミロとエルサレムの城壁、およびハツォル、メギド、ゲゼルを築くために課した労役の事情はこうであった。かつて、エジプトの王ファラオが攻め上って来て、ゲゼルを占領し、火を放って焼き払い、その町に住んでいたカナン人を殺すということがあった。その時ファラオは、この町をソロモンの妻である自分の娘に贈り物として与えていた。 この前には、ヒラムにガリラヤの二十の町を「カブル(無に等しい)の地」(13)と呼んだことも書かれている。町を贈ることは、一般的だったのだろう。ここにも、ファラオの娘であるソロモンの妻のことが書かれている。友好関係が緊密であったことが窺われる。それだけ、一目置いていたのだろう。経緯は明確ではないが、おそらく、歴史的にも根拠があることなのだろう。引用句にも「労役」のことが書かれている。労働力を税のようなものとして使ったことを意味するのだろう。これが、のちに、重荷になってきているようだ。民が誇りとするものはあったかもしれないが、喜ぶものは作らなかったのかもしれない。平和はたいせつではあるが。 1King 10:22,23 海には、王のタルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった。三年に一度、タルシシュの船団は、金や銀、象牙、ひひや猿を運んで来た。ソロモン王は、富と知恵において、地上のいかなる王にもまさっていた。 シェバの女王の訪問から書き出し、ソロモンが以下に富と知恵とに富んでいたかが書かれている。疑問に思うのは、原資である。労働力などは、民のちからを利用したのだろうが、それだけでは、ここまで一代で豊かにはなれないだろう。引用句にある貿易は重要であるが、ヒラムの船団の指導のもとである程度可能だったのだろう。タルシシュの船団があたかも、王のものであるかのごとく書かれている。これも、海洋民族だろう。友好関係を持ったのだろうか。クエからの馬(28)エジプトからの戦車(29)など購入のことは書かれているが、なにを売ったのだろうか。ヒラムの協力を得て、レバノンの杉だろうか。ダビデの収奪したものがそこまで多かったとは思えない。 1King 11:35,36 私はソロモンの子の手から王権を取り上げ、十部族をあなたに与える。ただ彼の子には一つの部族を与える。私の前で、私が名を置くために選んだ都エルサレムで、いつも僕ダビデが灯を保つためである。 ソロモン王国への敵対者について書かれ、最後にヤロブアムについて書かれ、29節からアヒヤ預言が始まる。引用句はその一部で、このあとに「だが、私はあなたを選んだのだから、あなたは自分自身の望みどおりにすべてを治め、イスラエルの王となりなさい。私が命じたすべてのことに聞き従い、私の道を歩み、私の目に適う正しいことを行い、僕ダビデが行ったように掟と戒めを守るなら、私はあなたと共にいて、ダビデのために建てたように、あなたのために揺るぎない家を建てる。そして私はあなたにイスラエルを与える。このために、私はダビデの子孫を懲らしめるが、いつまでもというわけではない。」(37-39)これが契約の民における預言者の役割か。ソロモンの良い点は評価されない。なかなか納得はできない。ダビデとヨアブについても同様のことが言えるのだろうか。 1King 12:28,29 王は周囲に助言を求めたうえで、二体の金の子牛を造り、そして言った。「あなたがたがエルサレムに上るのは大変である。イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った神々である。」彼は一体をベテルに置き、一体をダンに配した。 ヤロブアムは、周囲にも助言を求め、ベテルとダンという、イスラエルの北の南に、象を据えている。これ以上分裂しないことにも配慮している。律法を重んじるという面から見ると「このことは罪となった。」(30a)とあるように、大きな罪である。しかし、施作としては、適切であるように見える。かえって、レハブアムの方に問題があるように思われる。しかし、これも、列王記記者の歴史観なのだろう。あまり、一面的に判断したくはないが、このことも覚えながら今後も丁寧に読んでいきたい。 1King 13:2 その人は主の言葉に従って、祭壇に向かって叫んだ。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤと言う。彼は、お前の上で香をたく高き所の祭司たちを、お前の上で屠り、人の骨をお前の上で焼く。』」 この列王記、または、王国の歴史(サムエル記上・下、列王記上・下)は、ヨシヤによる宗教改革の歴史観のもとで書かれていると言われているが、たしかに、ここにヨシアが登場している。これまでの記述も考えると、その根拠は十分理解できる。むろん、それだけではないだろうが。この神の人の話は、不思議である。正直に言うと、結論が短絡過ぎ、それがヨシヤによる改革をもとにした、歴史観の一部であるなら、すこし残念でもある。そのような仮定にとらわれず、丁寧に読んでいきたい。 1King 14:8,9 私はダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。だが、あなたは僕ダビデのようではなかった。ダビデは私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。あなたはこれまでの誰よりも悪を行い、自分のために他の神々や鋳像を造り、私を怒らせ、私を背後に捨て去った。 二つ気づいたことがある。一つ目は、このあとに「それゆえ、見よ、私はヤロブアムの家に災いをもたらす。奴隷であれ、自由な者であれ、イスラエルにいる男子で、ヤロブアムに属する者を滅ぼす。人が汚物をきれいに除き去るように、ヤロブアムの家を除き去る。」(10)とあることである。ユダの王、レハブアムについて、21節から書かれているが、厳しさがかなり異なることである。そして、もう一つは、引用句にあるように、ダビデに対して「私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。」と述べていることである。これは、サムエル記上・下ではなかった表現である。王国の歴史とひとまとめにされているが、やはり、サムエル記と列王記にかなりの違いがある。別に存在したサムエル記につなげる形で編集が行われたのか。いつの時代かは、不明であるが。 1King 15:16 アサとイスラエルの王バシャとの間には、二人が生きている間中、戦いが絶えなかった。 この章には、レハブアムの子アビヤムとアビヤムの子アサの治世について述べられている。ソロモン以降は、評価が単純化され、ダビデとの比較になっている。14章30節には「レハブアムとヤロブアムの間には絶えず戦いがあった。」とあり、また「レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、主の神殿の宝物および王宮の宝物を奪い取った。何もかも奪い取り、ソロモンが作った金の盾もすべて奪い取った。」(14章25,26節)との記述もある。ソロモンの時代は、書かれていない。世界状況の変化だろうか。同時に、ユダとイスラエルの間に常に戦いがあったこともわかる。世界史的な背景もあるように思われる。 1King 16:19 これは彼が犯した罪のためである。ジムリは主の目に悪とされることを行ってヤロブアムと同じ道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を犯し続けたからである。 この章にはイスラエルの王バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、アハブまでが短評とともに書かれている。パターン化しており、評価も雑であるように感じた。引用句は、ジムリに関してであるが、実際には、7日間統治(15b)とあり、これだけで判断するのは、一般的には不可能である。アハブまで、ずっと主の目に悪とされることを行った王が続いたことを記したかったように思われる。ここに登場するオムリは、モアブの碑の中で、オムリの国と記されている有力な王で、サマリアに首都を置き、このあとずっとそこを中心とした王でもある。場所的にも良いところのようで、他のことの評価は一切排除している。それが、列王記記者の歴史観なのだろう。もしかすると、分裂以後の歴史観、それも特定の人たちのなのかもしれない。聖書に書いてあるというだけで、評価を確定することは問題があるように思う。聖書にも、他の見方もあるのだから。 1King 17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人、あなたは私と何の関わりがあるというのですか。あなたは私の過ちを思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 サレプタのやもめのことばである。この章から、エリヤが中心となる。引用句は、当時、不幸があることは、何らかの罪の結果だと考えられていたことがわかる。しかし、同時に、そこに限定してはいけないことも事実だろう。ここでも、最後に女は「あなたが神の人であることが、たった今分かりました。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(24b)と告白るところで終わっている。因果応報が基本だと考えられているなかでこそ、恵の大きさを受け取ることができるのかもしれない。同時に、普遍化しにくい、難しい案件でもある。列王記の別の面がここに表現されているように思う。 1King 18:40 エリヤが、「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな」と言ったので、民は彼らを皆捕らえた。エリヤは彼らをキションの渓谷に連れて行き、そこで彼らを残らず殺した。 旧約聖書最大の預言者と言われるエリヤの有名な働きである。しかし、わたしには、これは、受け入れられない。これで、本当に、民や王が、主に従うようになるのだろうかと考えてしまう。一瞬、主の聖名が崇められることに価値を置いて良いのだろうか。それが主が求めることなのだろうかと考えてしまう。このあとの動向も見ていきたい。オムリの家の裁きというひとつの契約更新の実行が重要なのか。たしかに、私たちは、御心を知らない。その一部であっても、それを信じて従うべきなのか。正直わたしにはよくわからない。 1King 19:20,21 するとエリシャは、牛を打ち捨て、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と答えた。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を引いて来て屠り、牛の軛を燃やしてその肉を調理し、人々に振る舞って食べさせた。それから、直ちにエリヤに従い、彼に仕えた。 「また別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ9章61節・62節)を思い出す。普遍化・一般化することの危険性がある。エリシャが決断していたことは明らかである。エリヤも、主の御心を確認しようと思っていたのかもしれない。弱さのゆえに。ルカは、これを記したかったのかもしれない。主の御心は簡単にはわからない。丁寧に求めていきたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第7回:6月1日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章29節〜34節と、他の福音書の関連箇所から学びます。 2023.5.28 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  23. BRC 2023 no.023:列王記上20章ー列王記下11章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 今週は、列王記上を最後まで読み、列王記下に入ります。 旧約聖書最大の預言者とも言われる、エリヤが登場しましたが、同時に、エリヤの時代は、北イスラエル王国のアハブ王とその子らの時代だともいえます。すなわち、列王記は、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされるまでは、南ユダ王国ではなく、北イスラエル王国に中心が置かれているように見えます。また、それぞれの王について書かれていますが、同時に、預言者にも焦点が当たっています。先の預言者、または、預言者文書と言われるのもそのあたりに、根拠があるのかもしれません。それぞれの王の、王としての政策や、外交はどうでしょうか。少し、うかがい知ることができます。その評価は、ほとんど書かれていませんが。 エリヤの後を継ぐように、預言者エリシャがこのあと登場します。この二人の預言者が中心に、列王記上の後半から、列王記下の前半が推移します。列王記は全体としては、ちょっと、つぎはぎのようなイメージも受けます。元となった文書がいくつか存在したのでしょうね。王国の歴史は、イスラエルとユダが国としては滅びるところまで書かれてありますから、完成したのは、そのあとということになるでしょう。ちょっと考えると当然のようにも思います。みなさんは、どのようなことを受け取られますか。非常に興味深い記事が多いと共に、深みは、このあとの捕囚の苦しみを通して得られるのかもしれません。列王記記者は、何を伝えようとしているのでしょうか。神様は、どのように働いておられるのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記上20章ー列王記下11章はみなさんが、明日6月5日(月曜日)から6月11日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 列王記上と、列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#kg1 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1King 20:34 ベン・ハダドは言った。「私の父があなたの父から奪った町はお返しいたします。ですから、父がサマリアでしていたように、あなたはダマスコで市場を開いてください。」アハブは答えた。「それでは、私は、協定を結んだ上であなたを釈放することにしよう。」アハブはベン・ハダドと協定を結び、彼を釈放した。 興味深い章である。アラムの王ベン・ハダドとの争いについて書かれている。軍勢の記述からもわかるように、当時アラムはイスラエルの北の大国だったと思われる。ここで、主に従わないアハブに無名の預言者(13,22)が現れ、危機を救う。引用句の提案を受け入れるアハブへの預言を語るのも「預言者のうちの一人」(35)である。譬え話まで入れてある。基準がよくわからないが、絶対者との契約が厳密である世界では、他者と契約を結ぶことは、主との契約の下にあることを否定する考えがあるのかもしれない。また「232名の首長に仕える若者たち」の働きも興味深い。 1King 21:21,22 『見よ、私はあなたに災いをもたらし、あなたの子孫を除き去る。奴隷であれ、自由な者であれ、イスラエルにいる男子で、アハブに属する者は滅ぼす。あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたが私を怒らせたためであり、またイスラエルの人々に罪を犯させたためである。』 この章も興味深い。個人の罪のその人への罰ではないことが当時は当たり前だったのだろう。このあとへりくだったアハブに対し、この災いは、その子の時代(29)となっているので、さらに次の代への持ち越しとなっている。原罪の考え方のように、それを代々担っていくのが人間だとも言えないこともないが。ナボトは「ナボトはアハブに言った。「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」(3)とも言っている。これも、主の契約が背景にあるが、絶対的ではない。契約の地が相対化される、全世界的視点の必要があるのだろう。 1King 22:39 アハブの他の事績、彼の行ったすべてのこと、彼が建てた象牙の家、彼が築いたあらゆる町、それらは『イスラエルの王の歴代誌』に記されているとおりである。 エリヤの記述があるからもあるが、アハブについての記述が長く、詳細である。アラムと商取引契約を結んだことも書かれており、ここにも、象牙の家とあり、国はある程度繁栄したのだろう。対してユダの王ヨシャファトは、主に従い通すが「ヨシャファトは金を求めてオフィルに行こうとして、タルシシュの船を数隻造った。しかしながら、船団はエツヨン・ゲベルで難破したため、行くことができなかった。」(49)とあり、成功していない。詳細は不明であるが、アハブの家と戦いはしなかったが、協力しなかったことが、背景にあるように見える。(50)ミカヤの話もあり興味深い。 2King 1:8 使いの者が、「毛衣をまとい、腰に革帯を締めた人でした」と言うと、彼は、「それはティシュベ人エリヤだ」と答えた。 このことをよく知っているイスラエルの民は、バプテスマのヨハネを見て、エリヤだと考えたのだろう。マラキ書との関連もあるだろうか。以前から興味がある「アハズヤはエリヤの告げた主の言葉どおりに死んだ。彼には息子がなかったので、代わってヨラムが王となった。それはユダの王、ヨシャファトの子ヨラムの治世第二年のことである。」(17)であるが、ユダの王がイスラエルの王にもなったのだろうかと考えてしまう。正確にはわからない。アハブの子の一人なのか。アハブは、ユダの王とも婚姻関係があったようだが。 2King 2:25 エリシャはそこからカルメル山に行き、カルメル山からサマリアに戻った。 エリシャがエリヤの霊の二倍の分け前(9)を受け取り、継承者として歩み始めることが記されている。その最後が引用句で、列王記上18章のバアルの預言者との戦いの場所であったカルメル山に行き、その後、サマリアに戻ったことが書かれている。サマリアは、北イスラエル王国の首都、王がいる場所である。そこが本拠地であることがわかる。継承は、簡単ではない。ただ、エリアの最後のときを共に過ごして、継承するということはどういうことか、自分に欠けているものはなにかを考えたのかもしれない。エリヤは旧約最大の預言者と言われる。エリシャは何を使命として受け取ったのだろうか。新たな世界、エリヤが見なかったものも見据えているのだろうか。この章に書かれていることは、多少魔術的に感じる。 2King 3:27 そこで彼は、自分に代わって王になるはずだった長男を取り、城壁の上で焼き尽くすいけにえとして献げた。するとイスラエルに対して激しい怒りが起こったので、彼らはそこを引き揚げて国に帰った。 事実関係ははっきりしないが、エリシャが主のことば(17)を取り継ぎ、イスラエル、ユダ、エドム連合軍が、モアブを打ち破ったことが書かれ、最後に引用句が書かれている。子供を献げるということは、宗教儀式としてあったのかもしれないが、興味深いのは、ここで、「イスラエルに対して激しい怒りが起こった」とあり、モアブに対してではない。それほどまでに、苦しめてはいけないということだろうか。この四つ巴の戦いは、この時代、さまざまな形であったのだろう。エジプトや、アラムなどの勢力がそれほどではなかったのかもしれない。他の地域はどのような状況だったのだろうか。 2King 4:27 山にいる神の人のもとに来ると、その足にすがりついた。ゲハジは引き離そうと近寄ったが、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女は苦しい思いをしているのだ。主はそのことを私に隠し、知らされなかった。」 エリシャの奇跡記事の一つである。興味深いのは、「エリシャが、「それでは、彼女のために何をしてあげたらいいだろうか」と言うと、ゲハジは、『実は、彼女には子どもがなく、夫は年を取っています』と答えた。」(14)とあり、エリシャは、シュネムの女の欠乏はわからない。そして、引用句では、「苦しい思い」もわからない。奇跡的なことができても、他者の痛みはわからないということなのだろう。同時に、この女の好意に報いようともしている。それが、深い話になっていく。一般的には、奇跡物語だが、それ以外にたいせつなことがあるのだろう。25節には、エリシャがカルメル山にいたことも書かれている。巡回もしていたようだが、エリヤとも関係が深い、カルメル山は、特別だったのだろう。 2King 5:26 エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて、あなたを迎えたとき、私の心もそこに行っていなかったとでもいうのか。今は銀を受け取る時であろうか。衣服、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男や女の奴隷を受け取る時であろうか。 この最後の部分が不明である。ゲハジが受け取ったのは「銀二キカルと、着替え二着」(23)である。1キカルは、34.2kg とあるから、銀ニキカルは 68.4kg。それは、一人では担えない。しかし、ここには、衣服に続けて、「オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男や女の奴隷」となっており、さらに「受け取る時であろうか」とある。一般化しているように見える。受け取ったものを知らなかったわけではないのだろう。このあと、規定の病にかかることが書かれている。不明なことも多い、エリシャの奇跡物語である。なお、ここでは、エリシャはサマリア(の近く)にいることになっているようだ。 2King 6:23,24 王が盛大な宴会を催したので、彼らは食べて飲んだ。王は彼らを主君のもとへと送り返した。アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった。その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集して攻め上り、サマリアを包囲した。 二つの対立することが続けて書かれている。丁寧な編集作業を経ているのではなく、伝承を一つ一つ書いていったように見える。それにしても、奇跡物語が多い。なぜだろうと不思議になる。エリヤ伝承とは、性格が異なるように見える。何を伝えているのだろうか。エリヤ以後、預言者集団の働きが活発化し、伝承を伝える人が多くなったということだろうか。一貫性はなく、それぞれの人が伝えたエピソード集に見える。 2King 7:6,7 主が、戦車の響き、馬のいななき、また大軍のどよめきをアラムの陣営に響き渡らせたので、彼らは、「イスラエルの王が我々を攻めるため、ヘト人の王たちやエジプトの王たちを雇ったのだ」と互いに言って、夕暮れには、逃げ去っていたのである。彼らは、天幕も馬もろばも捨て、陣営もそのままに、命からがら逃げ去っていた。 アラムとの闘いについて書かれている。なにか、奇跡的なことで、イスラエルは滅亡を免れる。しかし、このあたりの内容を見ると、ある程度危機的な状況になっていることもわかる。すでにこの頃には、大帝国、アッシリアが力を増しているのだろう。アラムもその影響を受けていたことだろう。ただ、アラムと書かれていて、正確にはわからない。15節にはヨルダン川の方向に逃げたことが書かれている。ダマスコを首都とする国というのではないのかもしれない。このあたりの中東の状況をもう少し理解しておきたい。 2King 8:16,17 イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第五年、この時、ユダの王はヨシャファトであったが、ユダの王、ヨシャファトの子ヨラムが王となった。彼は三十二歳で王位につき、八年間エルサレムで統治した。 このあとには「イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第十二年に、ユダの王、ヨラムの子アハズヤが王となった。」(25)との記述もあり、同じヨラムがアハブの子となっている。ヨシャファトの子ヨラムについては、列王記上22章5節にも書かれており、繰り返しの記述は、資料が複数あるのではないかとも思わされる。王国の歴史は一貫した書物と思っているのが間違いなのかもしれない。たしかに、この時代には、いくつかの資料がすでにあったかもしれない。ヨシャファトの子ヨラムについては引用句の後「彼はアハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩んだ。アハブの娘が妻だったからである。彼は主の目に悪とされることを行った。しかし主は、僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えず灯を与えると約束されたからである。」(19)と続く。このあたりは、列王記記者の編集方針が一貫しているように見えるのだが。 2King 9:6,7 イエフは立って、家に入った。若者はイエフの頭に油を注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『私はあなたに油を注ぎ、主の民、イスラエルの王とする。あなたは主君アハブの家を打ち倒さなければならない。こうして私は、僕である預言者たちの血、イゼベルの手にかかって流されたすべての主の僕たちの血の復讐をする。 エリシャが預言者仲間の一人を遣わしてイエフに油を注ぐ箇所である。王にすると言っているが、特定の目的が掲示されている。イゼベルが生き残っており、エリヤ預言を実現させたように取れる。しかし、乱暴でもある。同時に、エリヤの影響のもとでことが推移しており、エリシャが中心ではないようにも見える。あくまでも、エリヤの後継者なのだろうか。エリシャ物語は項目数も多いが、エリヤの後継者以上ではないのか。御心もよく見えない。 2King 10:30,31 主はイエフに言われた。「あなたは私の目に適う正しいことをよく成し遂げ、私が心に定めていたことをことごとくアハブの家に対してやり遂げた。それゆえ、あなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座に着く。」しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。 主の言葉は、預言者が告げたのだろう。非常に残酷な記事が描かれている。アハブの家のものを殺し、バアルの祭司を殺す。エリヤ預言を実施したということで、功績が評価されている。ここには、信仰深いものの、評価があったろう。ただ、神に従って生きることは、そして、ひとの心が神に向くことは、このようなことのよっては生じないように思う。このあとには「この頃から、主はイスラエルを切り崩し、ハザエルはイスラエルの全領土に侵攻した。」(32)とあるが、因果関係で見るのは危険であると思う。当時の人々がどのように考えたか、少なくとも、列王記記者の考えは受け取りたい。 2King 11:20 国の民は皆喜んだが、都は静まり返っていた。彼らはアタルヤを王宮で剣にかけて殺したのである。 ユダの王、ヨシャファトの子、ヨラムの妻でその子アハズヤの母であるアタルヤは、アハブの娘であることもあり、ここで、ユダ側でも粛清が行われたことが描かれている。確認しないと、わたしも自信がないほど、複雑である。正直、アハブの子孫を殺すことに、どれだけの意味があるのかと考えてしまう。遺伝子で、神に従うかどうかが決まるわけではないのだから。背景には、エリヤ預言があるのだろうが、このような子孫を殺すと言うことが、ものごとの解決にはならないことを示しているとも言えるかもしれない。簡単ではないだろうが。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第8回:6月8日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章35節〜45節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.6.4 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  24. BRC 2023 no.024:列王記下12章ー列王記下25章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 今週は、列王記下を最後まで読みます。王国の歴史の終了です。 本当は、もっと早くに書こうと思っていたのですが、遅れてしまい、あわてて先週の日曜日の夜の配信のときに、王の系図のリンクを送りました。再度書いておきます。 王様については、名前も混乱しますから、なにか系図があると良いですよね。ホームページからのリンクもありますが、わたしは、下の図を、印刷して、聖書に挟んであります。 http://biblestyle.com/help.html このリンクの、聖書人物系図の二ページ目が「王の系図」になっています。 新共同訳表記:http://biblestyle.com/help/treeji.pdf 新改訳表記:http://biblestyle.com/help/treejr.pdf 作成者は、不明ですが、Wikipedia にも 「イスラエル分裂後の王の系譜」の画像が載っています。 今回皆さんが、読む箇所には、ヒゼキヤ王や、ヨシヤ王など、主に従い通した王も登場します。しかし、みなさんもご存知のように、北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ(BCE722)、南ユダ王国も、たとえば、ヨシヤ王は、宗教改革と言われるようなことも実施したようですが、その後、新バビロニアに滅ぼされます(BCE586)。そして、王国の歴史は、そこで終わっています。最後は、ソロモン神殿も破壊されほんとうに惨めな敗北を喫します。 あとで、預言書を読みますが、それも、この時代に集中しています。神の選びの民だと信じていたイスラエルが異教の民に滅ぼされてしまうのです。この歴史を、当時の人たちはどのように考えたのでしょうか。さまざまな評価をして、土地と神殿から切り離された状態の中で、ユダヤ教という宗教が出来上がっていくのには、少し時間がかかるのかもしれません。(神殿は、このあと第二神殿と言われるものが再建され、改築もされ、最終的には、AD70にローマによって滅ばされます)しかし、このみなさんが今回読まれる期間に、その準備がなされていたのかもしれません。 当時のひとたちを少しでも理解しながら、読んでいけるとよいですね。どのようなことを考えていたのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記下12章ー列王記下25章はみなさんが、明日6月12日(月曜日)から6月18日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2King 12:5,6 ヨアシュは祭司たちに言った。「主の神殿に納められるすべての聖なる献金、すなわち各人にその割り当てに従って課せられた献金と、主の神殿に自発的に献げられるすべての献金は、祭司たちがおのおの自分の担当の者から受け取り、神殿の破損を修理しなければならない。神殿で見いだされるすべての破損についてである。」 ヨアシュの改革について記されている。祭司ヨヤダの教えを受け(3)、また、「母の名はツィブヤと言い、ベエル・シェバの出身」(1)とあるので、北イスラエルのアハブ王の家系およびイゼベルと関係が薄かったのだろう。7歳から40年統治した(2)とあるが、単純には、神殿の修理もうまくいかなかったようである。「生涯を通じて主の目に適う正しいことを行った」(3)とはあるが、実質的には、気持ちだけではできないように思われる。しかし、この記録は興味深い。これがこのあとにつながるのかもしれない。 2King 13:4,5 しかし、ヨアハズが主に願い求めたので、主はそれを聞き入れられた。イスラエルに対する抑圧、アラムの王が彼らを虐げるのを見られたからである。主がイスラエルに一人の救い手を与えられたので、彼らはアラムの支配から脱することができた。それでイスラエルの人々は、以前のように自分たちの天幕に住むことができるようになった。 列王記の史観は単純にも見えるが、そうではない部分もある。ここでは、ヨアハズの治世についてある程度詳しく書いてある。このあとにエリシャがなくなる記事もあり(20)、この章にも「ユダの王ヨアシュの治世第三十七年に、ヨアハズの子ヨアシュがサマリアでイスラエルの王となり、十六年間統治した。」(10)とユダの王とイスラエルの王に同じ名前のヨアシュが登場し、個人的にはすぐ混乱してしまうが、交流もあり、いくつか資料があったと言うことだろうか。引用句では「主がイスラエルに一人の救い手を与えられたので」と、士師記のような記述がある。そのあとには「天幕に住むことができるようになった」ともあり、逃げ惑っていたのか、サマリヤに住まなければならず、生活の基盤が失われたのか、不明なことも多い。 2King 14:10 あなたはエドムを討ち破って思い上がっている。誇ってもよい。しかし自分の家にとどまっているがよい。なぜ、災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」 引用句はイスラエルの王ヨアシュのことばとして記されている。王国の歴史は、先の預言者と呼ばれ、預言者文書、北イスラエルの預言者が関与していると思われる。ダビデに基準を置いて、王の評価を単純化しているようにも見えるが、それは、設定であって、記者はそうは考えていないのかもしれないとも思った。この章には、「しかし、モーセの律法の書に記されているとおり、殺害者の子どもは殺さなかった。主が次のように命じておられるからである。『父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される。』」(6)と申命記24章16節も引用されており、引用句も含め、複雑化している。単純な読み方ではいけないのかもしれない。 2King 15:36 ヨタムが行ったその他の事績、それらは『ユダの王の歴代誌』に記されているとおりである。 この章でイスラエルがアッシリアに敗北し、捕囚となったことが記されている。(29,30)少し前から記述があるが、歴代誌の記述が増えているように思ったので、調べてみることにした。『イスラエルの王の歴代誌』(上14:19, 15:31, 16:5, 14, 20, 27, 22:39, 下1:18, 10:34, 13:8, 12, 14:15, 28, 15:11, 15, 21, 26, 31, )、『ユダの王の歴代誌』(上14:29, 15:7, 23, 22:46, 下8:23, 12:20, 14:18, 15:6, 36, 16:19, 20:20, 21:17, 25)この15章以降は、ユダの王の歴代誌しか登場しないのは当然だが、やはり、このあたりに集中している。上では、イスラエルの歴代誌の方が多少多い。これだけからは、詳細はわからないが、いずれも、上の14章あたりから記述が始まっている。歴代誌の記録が安定したと言うことだろうか。 2King 16:7-9 アハズは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使いを送ってこう言った。「私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王の手とイスラエルの王の手から、私を救い出してください。」またアハズは、主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送った。そこで、アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに連れ去り、レツィンを殺した。 このように表現されているが、おそらく、事実は、アッシリアが、ダマスコのアラム人を打ち破ったと言うことなのだろう。アハズの治世の何年目か不明だが、北イスラエルの王ペカが、アッシリアに打ち破られるのも同時期なので、ここでも、アッシリアへの従属を先手を取って、表明した記事なのかもしれない。今考えるよりも、ずっと、国際情勢についての情報を持っていたように思う。とはいっても、ダマスコの祭壇のことなど(10-16)悲しいとしか言えない混乱も見受けられる。それを批判してもいけないのかもしれない。アッシリアは、中東最大の巨大帝国になっているのだから。 2King 17:24 アッシリアの王は、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりに、彼らをサマリア各地の町に住まわせた。そこで、彼らはサマリアを所有し、各地の町に住むことになった。 この章には、列王記の史観のようなものもまとめてあり興味深い。ただ、一つの史観であり、他の考えもあったのではないだろうか。引用句に描かれているのは、アッシリアの移民政策である。住民を移住させ、そのあとに、他の地域から移民させる。そこで、トラブルが起こったことも描かれている。サマリア教団の発生とまでは、言えないかもしれないが、イスラエルの歴史的にも、混乱を招いたことが起こっている。この経験は、イスラエルにとって、たいへんなことだったろう。移住させられた民はどうなったのだろうか。詳細は不明である。 2King 18:31,32 ヒゼキヤに聞き従うな。アッシリアの王はこう言われるからだ。『私と和睦し、降伏せよ。そうすれば、お前たちは皆、自分の畑のぶどうやいちじくを食べ、自分の水溜めの水を飲むことができるようになる。私が来て、お前たちを、お前たちの土地と同じような土地、穀物と新しいぶどう酒の土地、パンとぶどう畑の土地、新しいオリーブ油と蜜の土地に連れて行くまで、死んではならない。生きよ。』ヒゼキヤに聞き従うな。彼は、『主が私たちを救い出してくださる』と言って、お前たちを欺いている。 詳細がよくわかるわけではない。この章の最初には、アッシリアがサマリアを占領してから、ユダに攻め入ってきたことが描かれている。(9-12)そして、ヒゼキヤは、要求を完全に満たすものかどうかは不明だが、貢ぎを送る。(13-16)そして、ラブ・シャケが攻めてくる。そして、ヘブル語だろうか、地方のことばで語りかける。引用句を読むと、やはりアッシリアの政策として「連れて行く」移住させることは明確に語られている。言語の使用も含めて、状況としては、明らかに、ユダは負けている。そのことを、イザヤ登場までに、確認しているかのように見える。 2King 19:29-31 これがあなたへのしるしである。/今年は自然に実った穀物を食べ/二年目は自生したものを食べ/三年目は種を蒔いて刈り入れ/ぶどう畑を作ってその実りを食べよ。ユダの家に残り、難を逃れた者は/再び根を下ろし、上に実をつける。エルサレムから生き残った者が/シオンの山から難を逃れた者が現れ出る。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げられる。 このあとには「私のため、また私の僕ダビデのため/私はこの都を守り、これを救う。」(34)ともある。ラブ・シャケのことばを否定していることは確かだろう。そして、ダビデのために。ただ、それだけでは、問題が解決しないことがこれから起こる。ここで、すぐには、滅ぼさず、しばらく残ることが重要だったのかもしれない。主の憐れみとも、歴史的に、受け取るための神認識を深めるためにも、この期間が必要だったのかもしれない。同時に、世界史的な動きもあり、世界規模の信仰、主は、世界の主であるとの認識になることは、不可能に近いような、変革が民のこころにも必要だったのだろう。 2King 20:19 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」と答えた。自分の在世中は平和と安定が続くと思ったからである。 いろいろな解釈が可能だろうが、このあとには、「ヒゼキヤは先祖と共に眠りに就いた。その子マナセが代わって王となった。」(21)と続く。マナセのことをある程度知っているからかもしれないが、やはりヒゼキヤが自分というより自分の時代にしか関心がなかったことは、やはり残念な気がする。共に生きるのは、自分の時代に生きる人だけではなく、時代を超えて、他の人たちも含まれると思うからである。そのような希望を持って、今を生きて行きたい。 2King 21:3 父ヒゼキヤが破壊した高き所を建て直し、バアルの祭壇を築き、イスラエルの王アハブが造ったように、アシェラ像を造った。また天の万象にひれ伏し、これに仕えた。 列王記の評価なのだろうが、少し、寂しい感じを受けた。王だけ、または、マナセ個人の責任だけではないと思うからである。本当に、このことが重要ならば、それを協力して守らなければならない。逆に、ダビデに希望を置き過ぎているようにも感じる。むろん、この時代を知らないものが言うことではないかもしれないが。また、55年王位にあったマナセの記述が、このことに集中していることも、残念である。歴代誌下33章には、多少、他のことも描かれている。列王記の時点では、なぜ、王国が異教徒に滅ぼされてしまったのだろうという問いが中心だったのかもしれない。その重さを受け止めなければ、列王記も理解できないのだろう。 2King 22:14 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女はハルハスの子ティクワの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネに住んでいた。彼らがフルダに尋ねると、 ヨシヤ王の時代に「あるとき、大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『主の神殿で律法の書を見つけました』と伝えた。そしてヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。」(8)のあとのことである。このことはさまざまに解釈され、申命記がこのときに成立したとも言われる。いくつか感じたことがあった。一つ目は、直前の7節にある「監査は不要」ということ。なぜ、監査を日常的にするのかという理解には達しておらず、一部の人のリーダーシップに頼らざるを得ない実態があったこと。引用句でも、預言者フルダのところに行くわけだが、もっと、さまざまなひとに聞くことはないことなどである。律法の書についても、理解は一部のひとにとどまっていたのだろうと思う。「彼らが私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったあらゆるものによって、私を怒らせたからである。」(17a)とあるが、彼らは、民の指導者以上ではないように思う。 2King 23:25,26 彼のようにモーセの律法に従い、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼以前にはいなかった。また彼以後にも、彼のような者は現れなかった。しかしながら、主はユダに対して燃え上がった激しい怒りの炎を鎮めようとはされなかった。マナセが主を怒らせるようなあらゆることを引き起こしたためである。 後半は、このあと「ヨシヤの治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かって、ユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王は彼を迎え撃つために出て行ったが、ネコはメギドで彼を見つけて殺した。」(29)とあり、改革は貫徹できなかった背景から、原因をマナセに求めたように思われる。ヨシヤの宗教改革と言われる、旧約聖書の成立にも関係すると言われる大改革である。しかし、王や祭司の主導では、人の心は変わらないように思う。キリスト教では、聖霊を助け主として重要視するが、現実はそれほど単純でもない。永遠の課題なのだろうか。ひとはなにが幸せなのかも、よくわからないのだから、主の御心を求め続けるところから始める以外にないように思う。 2King 24:2,3 主はカルデアの部隊、アラムの部隊、モアブの部隊、そしてアンモン人の部隊を送られた。僕である預言者たちによって告げられた主の言葉のとおり、ユダを全滅させるために送られた。ユダでこうしたことが起こったのは、まさに主の命令によるものであり、ご自分の前からユダを取り去るためであった。それはマナセの罪のためであり、彼の行ったすべてのことのためである。 この章の終わりには、ユダ最後の王、ゼデキヤが王位に就く。そして、引用句が歴史観なのだろう。ここでは、マナセの罪に帰しているが、当時の人でも、必ずしも、皆がそう考えていたわけではないように思う。マナセが悔い改めた記事も歴代誌下33章13節, 18節などにあり、王一人に罪を帰すことはできない。ひとの心が神に向かうのは難しい。自分の幸せが何であるかもわからないのだから。 2King 25:3,4 第四の月の九日、都の中では飢えが厳しくなり、ついに国の民の食料が尽きてしまった。その時、都の一角が破られ、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通り抜けた。カルデア人が都を取り囲んでいたが、一群はアラバ方面へと向かった。 シリアスな書き方になっている。飢えが厳しくなり、そのとき、都の一角が破られる。このあとの状況も、混乱である。敗者は、このようなものなのかもしれない。しかし、ここから、ユダヤ教が成立していったと考えるのは、とても意味があるように思う。出発点でもあるのだろう。しっかりと受け止め、主の御心を求めていきたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第9回:6月15日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書1章40節〜45節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.6.11 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  25. BRC 2023 no.025:歴代誌上1章ー歴代誌上14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 王国の歴史(サムエル記上・下、列王記上・下)はいかがでしたか。今週は、歴代誌上に入ります。 歴代誌上は、8章の終わりまで、系図、また、系図と続きます。下に引用しているホームページの歴代誌上の箇所にも書いてありますが、系図が終わった次の9章1節〜3節には次のようにあります。 1 イスラエルの人々はすべて登録された。彼らのことは『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは背信の罪のために、バビロンに捕囚として連れ去られたが、 2 最初に自分たちの町の所有地に戻って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿に仕える者であった。3 エルサレムにはユダの子孫の一部、ベニヤミンの子孫の一部、エフライムとマナセの子孫の一部が住んだ。 (聖書協会共同訳) ここからも、バビロン捕囚帰還後に書かれたことがわかります。そして、破壊された神殿が置かれていたエルサレムに戻ってきた人たちの中心は、祭司、レビ人、神殿に仕える者であったこともわかります。その人たちが、たいせつにしたことが、書かれていると言ってもよいのではないかと思います。 歴代誌は二巻に分かれていて上は、ダビデ王朝の最後までが書かれています。下は、それ以降の王国の歴史ですが、ユダ王国に焦点を合わせ、王国の歴史とは違った編集方針になっていることも、読んでいくとわかると思います。 実は、歴代誌上下は、現在のヘブル語聖書では、一番最後に置かれ、諸書と呼ばれる範疇に入っています。王国の歴史は、先の預言書でしたから、区分も違っているのですね。とはいえ、全く同じ文章も含まれています。同時に、王国の歴史以外にも、いろいろと資料は持っていたのかなとも思わされます。 正直にいうと、わたしは、以前、歴代誌を読むのが苦手でした。理由はご想像にお任せしますが、いまは、上に書いたように、捕囚帰還後のひとたちにとって、なにが大切なものだったのか、なにをたいせつにしようとしていたのか、王国の滅亡と捕囚いう大変な時期、その後の捕囚帰還と、イスラエルの将来を、そしてこれらを通しての神様の働きについてどう考えていたのか、その痛みも覚えながら読むようにしています。みなさんは、何を受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌上1章ー歴代誌上14章はみなさんが、明日6月19日(月曜日)から6月25日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 歴代誌上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ch1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Chronicles 1:34 アブラハムはイサクをもうけた。イサクの子らはエサウ、イスラエル。 系図が続く。短い時間では、創世記の記事との違いをみることはできない。しかし、たとえばアブラハムにしても、まずは、「アブラハムの子らはイサク、イシュマエル。」(28)とあり、イシュマエルの子らの名前があり、次に、側女ケトラの子ら、そして、引用句に至る。順序も重要なのだろうが、明らかにわかることは子供の数、イシュマエルの子らとして記されているのは、12人(12部族か)、ケトラの産んだ子は、6人、そのあとにも、ミデアンの子として、5人が続き、11人と見るべきかどうか不明だが、ケトラの一族と書かれている。引用句のあとは、エサウの子らが5人、長男エリファズの子らが、7人、次男、レウエルの子らが4人書かれ、そのあとにセイルの子らについて書かれている。省略や、混乱もあるように思われる。さまざまな伝承があるのだろう、創世記以外にも。やはり成立について知りたくなる。 1Chronicles 2:21-23 その後、ヘツロンはギルアドの父マキルの娘のもとに行き、これをめとったが、その時彼は六十歳であった。この娘は彼との間にセグブを産み、セグブはヤイルをもうけた。ヤイルはギルアドの地に二十三の町を持っていたが、ゲシュルとアラムがその中からハボト・ヤイル、ケナトとそれに属する六十の町を奪い取った。以上は皆、ギルアドの父マキルの一族である。 ギルアドの父マキルの一族とあるが、民数記27章などにあるマキルの子、ギルアドの子、ヘフェルの子、ツェロフハドとも関係していて、別の伝承があったのだろう。この町のとりかたからしても、いくつもの部族が住んでいたと思われる。出エジプトのときがどのような状態だったかは、不明である。 1Chronicles 3:9 以上が側女らの子を除く、すべてのダビデの子である。タマルは彼らの姉妹である。 ここには、ヘブロンでの7年6ヶ月の間に生まれたダビデの子6人、エルサレムでの33年の間に生まれた子が、バト・シュアの子4人と、それ以外の9人、あわせて、19人の名前が書かれている。そして、引用句には、これ以外の側女の子は書かれていないとある。一般的には、これだけの子供を丁寧に教育することは難しいだろう。さまざまな問題も生じる。側女の子はどのような位置付けだったのか。女の子については、事件が関係している、タマルだけが名前が記されており、あとは書かれていない。おそらく、息子と同じぐらいはいただろうから、40人ぐらい子供がいたことになる。首長とは、このようなものだったのかもしれない。そしてそれが、ダビデの家や、ユダの力を増やすことにも貢献していたのかもしれない。批判的にはなれないが、サムエル記の記述にはない記録がたくさんあったのだろうとも思う。 1Chronicles 4:27 シムイには息子が十六人、娘が六人いたが、兄弟の子は多くなかったので、これらの氏族はどれもユダの一族ほどに多くはならなかった。 この章には、ユダの系図と、シメオンの系図が書かれ、後半は、シメオンの範図が書かれている。ユダについては2章3節からにもあり、二つ目である。シメオンについては、系図とはあまり言えないほど簡単である。おそらく、系図というより、シメオンに属する部族とその居住地域について書いてあるのだろう。シメオンは、ユダの地域の中に住んだことがこれまでも書かれていたが、引用した「ユダ一族ほどに多くはならなかった」という記述以外に、「以上は、ダビデが王となるまで彼らの町であった。」(28b)との記述もある。このあとには「ここに名を記した人々は、ユダの王ヒゼキヤの時代にやって来て、ハム族の人々の天幕とそこにいたメウニム人を討って滅ぼし尽くし、今日に至っている。そこには羊の群れのための牧草地があったので、彼らが代わって住むようになったのである。」(41)や「シメオンの一族のうち五百人は、イシュイの子孫ペラトヤ、ネアルヤ、レファヤ、ウジエルを先頭に、セイルの山へ行った。彼らは、逃れて生き残っていたアマレク人を制圧してそこに住み、今日に至っている。」(42,43)のような興味深い記事もある。ここでいう、今日は、捕囚帰還後を意味するのだろうか。 1Chronicles 5:1,2 イスラエルの長男ルベンの一族は次のとおり。ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、その長男の権利はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。そのため彼は長男として登録されていない。兄弟の中で力があったのはユダで、そこから指導者が出たが、長男の権利はヨセフのものとなった。 このことが記されているのは、おそらくここだけだろう。はじめてである。しかし、だれでも、疑問に思い、これが理由だろうとも考えていたとは思う。そして、それがヨセフの子らに与えられたことも予想はできる。ただ、ここでは、子らとなっており、エフライムか、マナセかは不明である。さらに、部族間で、長男の権利は何らかの意味があったのか。盟主なのだろうか。どのように、認識され、実質的な意味を持っていたかは興味がある。 1Chronicles 6:12,13 その子エリアブ、その子エロハム、その子エルカナ。サムエルの一族は、長男ヨエル、次男アビヤ。 レビの系図にサムエルが入っている。祭司のような仕事をしていたことは、確かであるが、サムエル記には、レビ族である記述はない。エルカナの子とだけある。ここには、8節、11節、12節とエルカナの名が3回登場する。サムエルについては、エルカナの子とは、書かれていない。系図を調べている中で、このような記述を見つけ、それを書くことで、明示的にではないが、サムエルはレビ族であるかのごとく、しかし、嘘はつかずに、書いているように今回感じた。どうかわからないが。いずれにしても、膨大な系図、それだけの系図を確認することが重要だった時代なのだろう。契約よりも、または、契約とともに、血筋だろうか、これも自然ではある。 1Chronicles 7:23,24 彼は妻のもとに行き、妻は身ごもって男の子を産んだ。彼はその子の名をベリアと付けた。妻が災いの中、彼の家にいたからである。エフライムの娘はシェエラ。彼女は下と上のベト・ホロン、およびウゼン・シェエラを建てた。 系図が続く。引用箇所は、エフライムに関する箇所だが、エピソードがいくつか含まれている。エフライムの子供2人について「その子ザバド、その子シュテラ。それにエゼルとエルアドもいたが、この地の生まれであるガトの人々が二人を殺した。二人が下って行って彼らの家畜を奪おうとしたからである。」(21)の後のことが、引用句である。女性が複数登場する。一人目は、エフライムの妻、表現をみると、通い婚、そうでなくても、天幕が分かれていたように見える。そして、エフライムの娘シェエラ。有力者であったことがわかる。男性が乱暴をして、その種族が苦境にあるときに、明るい話題であったのだろう。このようなエピソードは、文字で残されていたのだろうか。そのあたりに興味が行く。普通に計算すると、BC15世紀から、BC12世紀頃となるのだが。神話の世界ではないように思える。 1Chronicles 8:28,29 以上は、系図に記された親族の頭である。頭である彼らはエルサレムに住んだ。ギブオンの父はギブオンに住んでおり、妻の名はマアカと言った。 系図だけではよくわからない。士師記に書かれているベミヤミンが激減した事件などは、どの時代なのだろうか。ここでは、エルサレムに住んだとあるので、ダビデの時代以降なのだろう。そして、ギブオンからは、サウルにつながる系図が書かれている。系図をたどって、物語を記録することが一般的だったのか。どのような家族の記録を持っていたかも知りたい。 1Chronicles 9:1,2 イスラエルの人々はすべて登録された。彼らのことは『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは背信の罪のために、バビロンに捕囚として連れ去られたが、最初に自分たちの町の所有地に戻って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿に仕える者であった。 さらに「さらに、彼らの同族であり、親族の頭である者が千七百六十人いた。彼らは神殿奉仕の仕事に秀でた人々であった。」(13)とも書かれている。この親族の頭にもヒントがあるのかもしれないが、捕囚にならなかった貧しい人たちについての、記述がないことが残念である。むろん、これは、現代的視点である。神殿での礼拝を中心とした民、ここにイスラエルの中心と、ユダヤ教の成立がかかっていたように思う。一般の人は文字も読めなかったろうから、このころに、あまり大きなことを期待するのはいけないかもしれないが。 1Chronicles 10:13,14 サウルは主に対する背信の罪のために死んだ。彼は主の言葉を守らず、霊媒に伺いを立て、これに尋ねながらも、主に伺いを立てようとはしなかった。そのため主は彼の命を絶ち、王権をエッサイの子ダビデに渡された。 霊媒(口寄せ)に伺いをたてたことは、サムエル記上28章に詳しく書かれている。また、同じサムエル記28章3節には、このときすでにサムエルが死んでいたことと「サウルは国内から霊媒や口寄せを追放していた」とある。この内容を読んでも、それを、ここで背信の罪として取り立てて書くことには、疑問を感じる。しかし、それが、歴代誌の歴史観なのだろう。「祭司、レビ人、神殿に仕える者」(歴代誌上9:2)にとっては、まったく自然な帰結だったのかもしれない。 1Chronicles 11:6-8 ダビデは「真っ先にエブス人を討つ者は誰であれ、頭となり、将軍となるであろう」と言った。するとツェルヤの子ヨアブが真っ先に攻め上り、彼が頭となった。ダビデがこの要害に住んだことから、そこはダビデの町と呼ばれるようになった。彼は町の周囲、すなわちミロから石囲いに至るまでを再建した。町の他の部分はヨアブが修復した。 この記事は、対応するサムエル記下5:6-10 などにはない。「真っ先にエブス人を撃つ者」は特定できるのだろうかと思った。それが可能なような戦いだったのかもしれない。一般的な武器である刀も皆が持っていたわけではなかったようなので、そのなかで力があるものだけが可能だったのかもしれない。さらに、ヨアブが町の再建にも、ヨアブの名前が書かれている。サムエル記または列王記を含む王国の歴史の記者とは、個人に関する異なる評価があるのかもしれないと思った。概して、人間は、他者の評価を公平にすることは、不可能なのだから。それを主の判断に帰するとしても、それは、記者、または当時の人が受け取ったと信じている主の御心、または、主の御心の一部だと、わたしは考えている。 1Chronicles 12:9 荒れ野の要害にいるダビデのもとに、ガド人を離れて力ある勇士がやって来た。彼らは戦いにたけたつわものぞろいで、盾と槍を携え、その顔はあたかも獅子のようであり、速さは山を駆けるガゼルのようだった。 この章は最初に「ダビデがまだキシュの子サウルを避けていたとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである。彼らも勇士たちに連なり、戦場でダビデを助け、弓を手放さず、右手でも左手でも石を投げたり弓矢を射たりした。彼らはサウルと同族で、ベニヤミン出身であった。」(1,2)とある。ベニヤミン出身のサウルと対峙していたダビデのもとにベニヤミン出身の人たちが加わったという記述である。南ユダ王国を形成する、ユダとベニヤミンの結びつきは、ダビデ個人の資質によった面もあるのかもしれない。引用句は、「ガド人を離れて」と表現されている。当初は、ダビデは略奪隊のような形で生活基盤を持っており、あぶれ者もいたのかもしれない。わたしは、ダビデの行為をあまり肯定しないが、戦いに次ぐ、戦いの中で、このようなチームを束ねるのは、おそらく、簡単ではなかったろう。わたしが理解できていない部分は、大きいと感じる。 1Chronicles 13:5 ダビデは神の箱をキルヤト・エアリムから運んで来るために、エジプトのシホルからレボ・ハマトまでのイスラエルすべての人々を召集した。 エジプトのシホルは地図上では特定できなかった。しかし、エジプトの中なのだろう。レボ・ハマトは列王記8章65節に「ソロモンはこの時、イスラエルのすべての民、すなわちレボ・ハマトからエジプト川に至るまでの大会衆と共に、私たちの神、主の前で祭りを執り行った。それは七日間、さらに七日間、合わせて十四日間に及んだ。」とある。しかし、地図上では、シリアの北である。そこまでの範図をイスラエルに含めるのは、誇張もあるのだろうが、捕囚になった民にとっては、それが最大の回復すべきイスラエルとなったのかもしれない。エジプト川は特定の川の名前としては、見つからないので、ナイル川のことを意味しているのかもしれない。このウザ撃ちが関係した記事の背後には、さまざまな思想が見える。 1Chronicles 14:14,15 ダビデがもう一度神に伺いを立てると、神は言われた。「彼らを追って攻め上るのではなく、彼らを避けて回り込み、バルサムの茂みの反対側から彼らに向かいなさい。バルサムの茂みの先から進軍する音が聞こえたその時、戦いに出なさい。神があなたに先んじて出陣され、ペリシテ人の陣営を打つからである。」 作戦も神に伺いを立てているように見える。まさに神がかりだったということだろう。それが「こうしてダビデの名声はすべての国々に及んだ。主は、諸国民が皆、彼を恐れるようにされた。」(17)へとつながっている。神に寄与することは、謙虚さの現れともとれるが、合理的な作戦を、神に委ねることで、神の力を使う魔術的な意味もあるように思う。そのあたりに関して、ダビデは非常に長けていたということだろう。ダビデの評価は難しい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第10回:6月22日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書2章1節〜12節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.6.18 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  26. BRC 2023 no.026:歴代誌上15章ー歴代誌上28章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 歴代誌はいかがですか。歴代誌上は29章までですから、1章だけ来週に残りますが、今週は、歴代誌上の後半を読みます。 前回も書いたように歴代誌はユダ王国を中心に書かれていますが、歴代誌上は、ダビデ王朝のことが書かれています。つまり、歴代誌、ユダ王国の歴史の半分は、ダビデ王朝ついて書かれているということです。どうしてだと思いますか。ぜひ、その問いも持ちながら、歴代誌を読んでいただければと思います。一つの歴史観でもあるのでしょう。そして、ダビデ王について、我々が、サムエル記下で読んだたいせつだと思われることも、省略されています。 歴代誌は、ユダ王国の歴史を振り返るとともに、捕囚帰還後の人々が、国を、民を、そして、宗教を、再構築する歩みの起点として、書かれているのかもしれません。みなさんは、様々なことがあったあとの再出発のときに、なにを思われ、どんなことを考えますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌上15章ー歴代誌上28章はみなさんが、明日6月26日(月曜日)から7月2日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 歴代誌上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ch1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Chronicles 15:2 その後、ダビデは言った。「神の箱を担ぐのはレビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、とこしえに主に仕えるために主に選ばれた者である。」 歴代誌6章4節には、レビ人のなかにもウザの名前がある。混乱もあるかと考えたが、ベニヤミン族にも、ウザの名があり(8章7節)そこに、アヒフドもある。これらの二人かどうかは定かではないが、ダビデの近くに、ベニヤミン族も何人もいたことを考えると、可能性はある。ただ、そうではあっても、ダビデの時代に、律法を根拠に、ここまで考えられたかどうかには、疑問がある。神の箱も、顧みられず、祭儀は行われず、過越の祭りなども、ずっと後代まで記録がないのだから。歴代誌記者の歴史観のようにも思われる。むろん、断定はできないが。 1Chronicles 16:35 そして言え。/「我らの救いの神よ、私たちを救い/国々から集め、救い出してください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。」 ダビデによる主への感謝の最後に、「そして言え」として、引用句がある。明らかに、捕囚以後の言葉なのだろう。ただ、それを、責める気にはならない。主の箱のための天幕を据えたダビデの祈りに合わせて、自分たちの祈りを加えているのだろう。わたしたちの聖書の読み方にも、そのような面が常にあるように思う。正しさだけでひとが伝える言葉を受け取らないようにしたいものである。 1Chronicles 17:20,21 主よ、私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。この地上に、あなたの民イスラエルのような国民が一つでもありましょうか。神はこれを贖うために来られて、ご自分の民となさいました。大いなる畏るべき御名を置くために、エジプトから贖ったあなたの民の前から、諸国民を追い払ってくださいました。 バビロン捕囚のあと、キュロスの勅令もあり、帰還した民、また、バビロンに残っているひとや、他の地域で生活をしている人たちもいる。その背景をもったひとにとって、謙虚にならざるを得ない面もあるのだろう。この章でもう一つ興味深かったのは「昔、私の民イスラエルの上に士師を立てた頃のように、私はあなたの敵をことごとく服従させる。私はあなたに告げる。主があなたのために家を建てる。」(10)と士師の時代のことが述べられ(6参照)ていることである。士師の時代を取り扱った記事は他には知らない。(サムエル記下7章11節、列王記下23章22節とこの二箇所のみ) 1Chronicles 18:7,8 ダビデは、ハダドエゼルの家臣が携えていた金の盾を奪って、エルサレムに持ち帰った。ダビデはまた、ハダドエゼルの町ティブハトとクンから大量の青銅を奪い取った。ソロモンはこれを用いて青銅の「海」、柱、青銅の品々を造ったのである。 歴代誌の歴史観でも、ソロモンが神殿に用いた、金・青銅は、略奪品であったとの結論なのだろう。労して得た正当な報酬の一部を献げるという考え方は、まだなかったのだろう。戦いについてどのように考えていたかも、興味を持つ。ダビデの時代は、戦いに次ぐ戦い、そのようなダビデを称賛すること自体にも、嫌悪感をもつのは、あまりに現代的なのか。 1Chronicles 19:4 そこでハヌンはダビデの家臣たちを捕らえ、ひげをそり落とし、衣服も半分、腰までに切り落としてから追い返した。 この章は、サムエル記下10章とほとんど同じように思われる。詳細は調べていないが。あまり注意してみていなかったが、隠しどころも隠せなかったということなのかもしれないと思った。「ひげが生えそろうまでエリコに止まり、それから帰るように」(5b)とあるが、殺されるよりも大きな恥だったのだろうか。戦争以外に、手立てはなかったのだろうか。 1Chronicles 20:1 年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ヨアブは軍勢を率いてアンモン人の地を荒らし、ラバに来てこれを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを討ち、破壊した。 サムエル記下11章1節は「年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を皆殺しにし、ラバを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。」とあり、酷似しているが、このあと、2節から「ある夕暮れ時、ダビデは寝床から起き上がり、王宮の屋上を散歩していたところ、屋上から一人の女が水を浴びているのを見た。女は大層美しかった。」と始まる部分は、書かれていない。どのような意図なのか、やはり考えてしまう。 1Chronicles 21:5-7 ヨアブは調査した民の数をダビデに報告した。イスラエル全土には剣を扱うことができる男子が百十万人、ユダには剣を扱うことができる男子が四十七万人いた。しかし、レビ人とベニヤミンをその中に含めることはしなかった。ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものだったからである。このことは神の目に悪とされ、神はイスラエルを打たれた。 サムエル記下24章9節「ヨアブは調査した民の数を王に報告した。イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」と異なる。また、ベニヤミンをその中に含めることはしなかったとの記述は、サムエル記下にはない。別の記録があるのかもしれない。歴代誌では「このことは神の目に悪とされ、神はイスラエルを打たれた。」とあり、ウリヤのことは、書いていない。また、ここでも、何が実際に問題なのかは、明確ではない。理解も難しいように思う。 1Chronicles 22:2 ダビデはイスラエルの地にいる寄留者を集めるよう命じ、彼らを神殿建築に用いる石材を切り出す石切り工に任じた。 寄留者としているが、労役を課したということで、奴隷に近い存在として使ったということだろう。ダビデは多くの血を流し、征服していった王でもある。そのことが、「ところが主の言葉が私に臨み、こう告げた。『あなたは多くの血を流し、大きな戦争を重ねた。私の前で、あまりに多くの血を大地に流したため、あなたが私の名のために神殿を建てることはない。」(8)と表現され、ソロモンについては「見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人となる。私は周囲のすべての敵からその子を守り、安らぎを与える。その子の名はソロモンである。私は、彼の生涯の間、イスラエルに平和と静けさを与える。」(9)と書いている。どの時点での言葉か不明だが、預言的に表現されている。王位継承でもめたことが、列王記上には書いてあるが、それについては、記されていない。 1Chronicles 23:1-5 ダビデが年を取って最期の時が近づくと、息子ソロモンをイスラエルの王とし、イスラエルの全高官、祭司、レビ人を集めた。三十歳以上のレビ人を数えると、男子は三万八千人であった。そのうち、二万四千人は主の神殿の仕事の責任者に、六千人は役人と裁判官に、四千人は門衛に、四千人はダビデが賛美のために作った楽器を奏でて主を賛美する者になった。 今まで気づかなかったが、ここには、レビ人のことが書かれている。男子は全員で 38000人、それらを、神殿の仕事の責任者、役人と裁判官、門衛に分けたことが書かれている。最初に、全高官、祭司、レビ人を集めたとあるので、全高官には、レビ人以外もいたのかもしれないが、レビ人を役人に配置したということである。おそらく、誇張や、背後に特別な意図があるのだろうが、ある部族にこのような役割を与えることは、代々継承することにもなり、問題も起こると思われる。しかし、これは、捕囚帰還の民の役割を反映しているのかもしれない。行政が整えられたのは、列王記をみると、ソロモンの頃だと思われるが、それをダビデ由来とすることにも、ある価値があると考えたのだろう。帰還当時の苦労を思うとともに、問題も感じる。 1Chronicles 24:31 彼らは、頭である父たちも、弟の家系の者も、同族であるアロンの一族と同じように、ダビデ王やツァドク、アヒメレク、祭司とレビ人の親族の頭たちの前でくじを引いた。 レビ人が系図によって、確実に登録されることが、祭司を中心とした統治体制を捕囚帰還後に確立するためには、必要だったのだろう。そこで、ここでも「アロンの一族の組分けは次のとおりである。アロンの子らはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。ナダブとアビフは父に先立って死に、息子もなかった。そこでエルアザルとイタマルが祭司となった。」(1,2)とアロンの子孫から始めているが、レビの系図は、明確ではない場合もあったと思われる。それが、ある程度整理されたことが書かれているのだろう。血筋に依存することの、課題も感じる。われわれ、人々、すべての人、一人一人を出発点にすることが非常に困難になる。 1Chronicles 25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを奉仕のために選び分けた。彼らは琴、竪琴、シンバルを奏でて預言する者となった。この奉仕を務めとする人々の数は次のとおりである。 整備された賛美のグループが組織されている。サムエル記下や、列王記上・下を読むと、このように、整備されたのは、かなり後になってからではないかと思われる。少なくとも、歴代誌記者は、礼拝のためのこのような整備が基本的であることと、それは、ダビデの時代に起源を持つことを記述することがたいせつだったのだろう。組織だった組分けなど、アロンの子孫とレビ人の役割が書かれているが、アサフ、ヘマン、エドトンについては、同名の人が少し現れるが、少なくとも、ダビデの時代の人としては、王国の歴史には現れない。また、「将軍たち」という言い方がされているが、ダビデの時代には、将軍たちが力を持っていたことは確かだろうが、このような組織だった行政に関わったことは、考えにくいように思う。 1Chronicles 26:31,32 ヘブロン人の頭はエリヤ。ヘブロン人の親族の系図はダビデの治世第四十年に調査され、彼らのうちから、ヤゼル・ギルアドに力ある勇士が見いだされた。エリヤの同族である勇者二千七百人は親族の頭であり、ダビデ王は神と王に関わるすべての事柄のために、彼らにルベン族、ガド族、マナセ族の半数を管理する役割を任せた。 サムエル記下4章4,5節によると、ダビデの在位は40年である。おそらく、そのことは、皆知っていたと思われるので、引用句が最後になされたことだということは理解できただろう。ヘブロンは、ユダ族の本拠地のような場所だから、その人たちが、他の部族を管理する役割を持っていたとしたら、これは、大きな出来事のはずである。軽々に、判断できない、問題を孕んでいる。エズラの時代以降、困難が多かったと思われるが、将来を見据えて、歴史を書くことも、様々な問題があったろうと想像する。 1Chronicles 27:1 イスラエルの人々の数は次のとおりである。親族の頭、千人隊と百人隊の長、それに役人たちは王に仕え、一年中どの月も、月ごとに交替する各組のあらゆる事柄に当たった。一組は二万四千人から成る。 不思議な書き方になっている。イスラエルの人々の数とあるが、このあとに、あるのは、輪番での統治体制である。また、名前をみると、私が知る範囲では、まだ、ダビデが王になる前に、集まってきた、ユダや、略奪隊の長などの名前が並ぶ。12部族による統治ではなく、ダビデの仲間による統治に近いように思われる。しかし、同時に、ここにあるような組織化までは、完成されていなかったようにも思われる。捕囚帰還は、祭司、レビ人が多かったと予想されるが、それ以外の人たちも、適切に、組織に組み込まないと行けなかったのだろう。むろん、ある程度の、文書が残されていた可能性はあるが、捕囚帰還という背景を考えると、それらを収集するのは、それほど単純ではなかったことは、容易に想像がつく。 1Chronicles 28:9 わが子ソロモンよ、あなたは父の神を知り、誠実な心と自由な魂で神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。もし主を尋ね求めるならば、主はあなたの前に現れてくださる。もし主を捨てるならば、主はいつまでもあなたを拒まれる。 この章にも、「イスラエルの神、主は私の全家族の中から私を選び、とこしえにイスラエルの王となるようにされた。主はユダを指導者として選び、そのユダの家の中でわが父の家を選び、わが父の子らの中でこの私を全イスラエルの王として喜び迎えてくださったからである。」(4)と、「ユダを指導者として選んだ」ことが書かれている。王国の歴史までには、書かれていなかったことである。歴史の帰結からは、受け入れざるを得なかったと思われるが。そして、引用句。美しい言葉が、ダビデの言葉として、書かれている。ここからも、主に拒まれ、捕囚となった起源を求めようとしているように見える。しかし、同時に、預言書から、罪を担うのは一代限り、父の罪が子に引き継がれることがないことも、言われている。しかし、まだ、指導者の問題として捉えることが一般的だったのだろうとも思う。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第11回:6月29日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書2章13節〜17節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.6.25 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  27. BRC 2023 no.027:歴代誌上29章ー歴代誌下13章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 歴代誌はいかがですか。今週は、歴代誌上の最後の29章を読んでから、歴代誌下の前半を読みます。 前回も書いたように歴代誌はユダ王国を中心に書かれ、歴代誌上は、ダビデ王朝、歴代誌下は、ソロモン王朝からはじめて、バビロンによって、ユダ王国が滅亡するまでが書かれています。王国の歴史(サムエル記・列王記)と同時期を扱い、共通の文も含まれますが、かなり編集方針が異なっていることもわかります。問題意識と言った方が良いかもしれません。みなさんは、どのようなことに気づかれるでしょうか。 通読に関して、わたしは、歴代誌が苦手だった言うことも以前に書きましたが、下の、歴代誌下のリンクに、王国の歴史と比較した時の、歴代誌の特徴とともに、なかなか、歴代誌にわたしが馴染めなかった理由も書かれています。興味のある方は、読んでみてください。 最近は、歴代誌に苦手意識はありませんが、現代まで続く歴史観、我々は、過去から何を学び、将来に向かってどのように、神様の御心を求めていったら良いのかについては、考えさせられます。わたしは、その答えを持っていないことは、はっきりと言えるように思います。だからこそ、求め続け、繰り返し、通読をしているのでしょうが。みなさんは、どのような感想を持たれますか。 歴代誌は、ユダ王国の歴史を振り返るとともに、捕囚帰還後の人々が、国を、民を、そして、宗教を、再構築する歩みの起点として、書かれているのかもしれませんが、その当事者の方のことがなかなか理解できないのかもしれません。みなさんは、様々なことがあったあとの再出発のときに、なにを思われ、どんなことを考えますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌上29章ー歴代誌下13章はみなさんが、明日7月3日(月曜日)から7月9日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 歴代誌上と歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ch1 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Chronicles 29:4 すなわち建物の壁を覆うためのオフィル産の金三千キカルと、精錬された銀七千キカル。 このあとに「すると、親族の長たち、イスラエル諸部族の長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の仕事に携わる高官たちが自ら進んで、神殿の奉仕のために金五千キカルと一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。」(6,7)とある。比較すると、金に関しては、同じ単位なので、約3割増しの献げものがイスラエルの諸部族の長たちなどによって献げられたとある。聖書の末尾の表によると、キカルは、34.2kg、しかし、ダリクについては、ダリク金貨として、8.4g とある。この単位を使うと、8.4kg となり、銀7000キカルとは、バランスが取れない。単位が異なるのかもしれない。いずれにしても、なにか、整えられたもので、明確な根拠があるようには見えない。わかることは、略奪したものであることである。「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(14)これも、神様からの報酬なのだろうが、現代的にはいろいろと考えてしまう。 2Chronicles 1:16 ソロモンの馬は、エジプトとクエから輸入されたものであった。王の御用商人は代価を支払い、クエからそれを買い入れたのである。 クエについて調べてみたが、はっきりとはわかっていないようだ。トルコあたりかとも言われている。馬は、おそらく、軍隊に使われるものだろうから、当時の国の勢力図も関係しているのだろう。また、調べてみたい。 2Chronicles 2:16,17 ソロモンは父ダビデが数えたように、イスラエルの地にいるすべての寄留民を数えた。すると彼らは十五万三千六百人であった。彼はそれらのうち、七万人を荷役、八万人を山で働く石切り工、三千六百人を民を働かせるための監督とした。 最初には「ソロモンは荷役七万人、山で働く石切り工八万人、彼らの監督三千六百人を動員した。」(1)とある。数があっていることからも、これらは、寄留民であろう。しかし、寄留民は、被征服民が一般的だろう。結局、この神殿は、略奪によって得られた金・銀などで建てられ、その労力は、被征服民によって提供されたということだろう。それが、隠さず書かれている。当時としては当然のことだったのだろう。華美な神殿は、その力の象徴だったのだろう。 2Chronicles 3:1 ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である。 ここには地名が二つ出てくる。「モリヤ山」と、「オルナンの麦打ち場」である。その歴史的に重要な場所に神殿を建てたということを記述している。「オルナンの麦打ち場」は、歴代誌上21章にエピソードが書かれている。「主の使いは、ダビデにこう告げるようにガドに言った。『ダビデはエブス人オルナンの麦打ち場に上り、主のための祭壇を築かなければならない。』」(18)のあとに、オルナンから買い取った土地とある。また、「モリヤ山」は、創世記22章に出てくるイサクをささげ、神が止められ「主の山に備えあり」とした場所である。これがすべて一致しているという根拠はおそらくないと思われる。エルサレムは、古くから城壁に囲まれた街だったのだから、このことも考えにくい。しかし、重要な場所を結びつけたのだろう。非難することではあるまい。ただ、このように、検証なしに神話がつくられていくことには、やはり違和感は感じる。 2Chronicles 4:3,4 「海」の下には牛の像がその周囲を取り巻いていた。牛の像は、一アンマにつき十頭の割合で「海」を取り巻いていた。牛の像は二列であったが、これは「海」の鋳造のときに鋳られたものである。「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はそれらの上にあったが、牛の後部はすべて内側に向いていた。 神殿の設計はどのようにしたのか、考えているが、少なくとも、出エジプト記25章〜27章に書かれている幕屋の建設のときのような、主からの設計図の提示は書かれていない。牛は、エジプトの影響が強いのではないかと思い、引用した。しかし、詳細に書かれている。おそらく、再建のときに、参照するための記録だったのではないかと思うが、この神殿の作りや、天幕の設計図がいつごろ文書として成立したかにも興味をもった。おそらく、科学的(反証可能性 falsifiability を伴った)な議論は難しいのだろう。 2Chronicles 5:9,10 担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の箱からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。箱の中には二枚の石の板のほか何もなかった。それは、主がエジプトを出たイスラエルの人々と契約を結ばれたとき、モーセがホレブでそこに納めたものである。 気になったことがいくつかある。一つは、捕囚帰還後に再建された通常第二神殿と呼ばれるものには、「二枚の石の板」はあったのかという疑問。そして、棒について「今日に至るまで」と書かれていることについてである。契約の箱の記述の前に、この句があることを考えると、これが記述されたときには、二枚の石の板は失われていたのだろうかと思う。一方、契約の箱と担ぎ棒は、作られたのだろう。契約の箱には、アロンの杖やマナを入れた壺も契約の箱の前に納められていたとの記述がある(民数記17章、出エジプト記16章33,34節)が、それも失われていたと思われる。これらも失われ、契約の箱は、第二神殿では、空だったのだろうか。 2Chronicles 6:41,42 神である主よ、今、立ち上がってください。/あなたご自身も、その力の箱も/あなたの憩いの場にお進みください。/神である主よ、あなたの祭司たちが/救いの衣をまとい/あなたに忠実な人々が/恵みの内に喜びますように。神である主よ、あなたが油を注いだ人を拒まず/あなたの僕ダビデに約束した慈しみを/思い起こしてください。」 ソロモンの祈りの最後が引用句で閉じられている。さまざまな思いが、ここに込められていると思うが、「神である主よ、今、立ち上がってください。」は特に、印象的である。この祈りを、日々口にしたのかもしれないと思った。捕囚帰還後の祈りであっても、祈りが伝わってくるようで、心が痛くなる。 2Chronicles 7:19,20 もしあなたがたが背を向け、私が与えた掟と戒めを捨て、他の神々のもとに行って、これに仕え、これにひれ伏すなら、私が与えたこの土地から彼らを引き抜き、私がその名のために聖別したこの神殿を、私の前から投げ捨てる。それをすべての民の中で、物笑いの種とし、嘲りの的としよう。 因果関係で説明することは限界がある。しかし、このように祈る時の、心は伝わってくる。まさに、自分たちの罪を認め、悔い改めが背後にあるからだろう。イスラエルの民は、物笑いと嘲をどのように聞いていたのだろうか。驕りが嗜められたと感じただろうか。このときも、希望を持ち続けただろうか。少し、好転したときに、それこと、神が顧みてくださったと感謝したのだろうか。 2Chronicles 8:7-9 イスラエル人ではない者たち、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人など、生き残りの民すべて、すなわち、イスラエル人が滅ぼし尽くすことができず、この地に生き残った彼らの子孫を、ソロモンは労役に徴用し、今日に至っている。しかしソロモンは、自分の工事のためにイスラエルの人々を奴隷にすることはなかった。彼らは戦士や補佐官の長、戦車隊や騎兵隊の長だったからである。 これがソロモンの支配体制ということだろう。しかし、このことができたのも、ダビデとソロモンの戦力の所以だろう。さらに「フラムも家臣たちに託して、船団と航海の心得のある者たちを送り込んだ。彼らはソロモンの家臣たちと共にオフィルに行き、そこで金四百五十キカルを手に入れ、ソロモン王のもとに運んだ。」(18)正確には、分からないが、貿易でも、高額の収入があったことを示しているのだろう。 2Chronicles 9:31 ソロモンは先祖と共に眠りに就き、父ダビデの町に葬られた。代わって王となったのは、その子レハブアムである。 ソロモンについての記述は、十分な長さがあるが、家族のことについては、ほとんど何も書かれていない。知恵においても、地上のいかなる王にもまさっていた(22)との記述はあるが、次のリーダーを育てる力はなかったのか。レハブアムをみていると、訓練も足りなかったように見えてしまう。ただ、多くの外国からの妻を娶ったことによって、信仰から離れたことについては、書かれていない。神殿を建てて、基礎を築いたことで、十分だとの評価だろうか。難しい。 2Chronicles 10:16,17 イスラエルのすべての人々は、王が自分たちの言うことを聞かないのを見て取り、民は王に次のように答えた。/「ダビデのうちに/何か我々が受け取るべき分があろうか。/エッサイの子のうちに、受け継ぐべき分はない。/イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰るがよい。/さあ、ダビデよ、自分の家は自分で見るがよい。」こうして、イスラエルのすべての人々は自分の天幕に帰って行ったが、ユダのすべての町に住むイスラエルの人々は、レハブアムが統治した。 列王記上12章とほとんど同じである。ヤロブアムについては列王記上11:26-43に記述があり、有能なエフライム出身の人であることはわかるが、シロ人アヒヤの預言が大きく影響したように取れる。ソロモンの評価が低かったのだろうか。正しさが分裂を生む。非常に残念な結果でもある。レハブアムの統治に反対したことは理解できるが、イスラエルが一つにまとまる合理性はない。ダビデの時代またはそれ以前からも、基本的には、ユダと、エフライムと、少数部族だったのだろうか。よくはわからない。 2Chronicles 11:16,17 また、祭司とレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族のうち、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちは、先祖の神、主にいけにえを献げるために、エルサレムにやって来た。彼らは三年間、ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを励ました。彼らが三年間、ダビデとソロモンの道を歩んだからである。 やはりよくわからない。おそらく、このような人たちが、イスラエルのリーダーシップをとることはできなかったのだろう。おそらく、それは、以前から。このあたりの書き方も、列王記とほとんど同じで、別の情報がないために、判断ができない。それが、ダビデ、ソロモン王朝についても、事実ではないのではないかとの疑念を抱かせる元になっているのかもしれない。このあたりの経緯(いきさつ)は不明としか言えないのかもしれない。 2Chronicles 12:1,2 レハブアムは王権を確立し、自らが強くなると、主の律法を捨てた。イスラエルのすべての人々も彼に倣った。レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上った。彼らが主に背いたからである。 このあとにも、「主が彼らのへりくだった様子を御覧になると、主の言葉がシェマヤに臨んだ。『彼らがへりくだったので、私は彼らを滅ぼさず、間もなく彼らに救いを与える。私の憤りがシシャクの手でエルサレムに注がれることはない。しかし、彼らはシシャクに仕えることになり、私に仕えることと、地の王国に仕えることの違いを知るだろう。』」(7,8)解釈が書かれているが、「しかし」とあり、単純ではない表現である。捕囚帰還後、一つ一つの歴史の場面を復習しているようにも見える。一つ言えることは、因果関係で捉えていることである。冷静に分析しつつ、行動を律し、また、それによってのみ状況が変化するわけではないことを受け入れるのは難しい。訓練が必要だとも言えるし、主の御心の求め方の難しさも感じる。この背景にある、エジプトや中東に歴史についても学びたい。最後に引用句で「イスラエルのすべての人々も彼に倣った」という表現にも興味を持ったことを加えておく。レハブアムはユダの王で、イスラエルの統一王ではない。それでもこのように表現する記者にも興味を持った。(列王記上14:21-31参照) 2Chronicles 13:12 見よ、頭には神が我々と共におられ、その祭司たちは出陣のためのラッパをあなたがたに対して吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、あなたがたの先祖の神、主と戦ってはならない。あなたがたが勝利を手にすることはないからである。」 立派なメッセージが書かれているが、実際には、ヤロブアムと、ユダの家との間には、戦いが絶えなかったようだ。他者視点がとてもたいせつである。しかし、このように、書くことで、ユダの歴史を振り返り、問題点を探っているのだろう。それは、ひととしてたいせつな営みだとも思う。しかし、原因を特定することには、注意を払う必要がある。さまざまな理由が背後にあるのだから。そこから、さらに、主の御心を受け取る。簡単ではない。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第12回:7月6日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書2章18節〜22節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.7.2 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  28. BRC 2023 no.028:歴代誌下14章ー歴代誌下27章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 歴代誌はいかがですか。今週は、歴代誌下の後半を読みます。 列王記を読んでいるときにも書きましたが、王様の名前も多く混乱しますから、下のリンクの王の系図を印刷して聖書にはさんでおくと良いと思います。 http://biblestyle.com/help.html このリンクの、聖書人物系図の二ページ目が「王の系図」になっています。 新共同訳表記:http://biblestyle.com/help/treeji.pdf 新改訳表記:http://biblestyle.com/help/treejr.pdf 今回みなさんが読まれる箇所は、ソロモン以降のユダの王について書かれています。この期間に、国内問題や、北イスラエル王国との関係だけでなく、さまざまな民族や、国と関係や戦いがあったことが見て取れます。世界史的には、ユダ王国は、エジプト、リビア、エチオピア、イエメンなどの南方の国や、アラブ系の民族、そして、シリアや、そのさらに先の中東の国に挟まれた、ある意味では、多くの人たちが交流する国際的に重要な交差点のような位置にあります。巨大な国々が、あまり強くなかった時期に、地域の他の民族との力関係の中で、統一王朝が生まれたとも言えるのかもしれません。また、この歴代誌下の後半の時代は、エジプトだけでなく、アッシリア、バビロン、ペルシャと中東ではそれまでになかったような巨大な帝国が次々に盛衰する時代でもあります。また、地方行政や、軍事面、そして、通商と、さまざまな面で国内を整備していくことが、喫緊の課題であり、また、巨大な国々と外交的にも、どこの国と協力し、どのように交渉していったら良いか、難しい時期でもあったでしょう。 歴代誌を見ていると、歴史の評価が、少し単純化し過ぎているようにも見えますが、それも、このあと、国が滅び、バビロンに捕囚になり、それから、ペルシャの支配のもと、一部は帰還して、さまざまな圧力のもと、過去を振り返りながら、何が問題だったのかを考え、身を正そうとし、大きな制限のなか、神様の御心を求めながら、この書が、まとめられたのではないかと思われます。そう考えると、その単純化された、歴史観を批判はできないように思います。 わたしたちは、今、生きている日本の歴史について、たとえば、第二次世界大戦について、把握し、悔い改め、神様の御心をもとめるような歩みをしているでしょうか。時代のそれぞれの時に、自分が生きていたとして、何がたいせつなこと・神様の御心なのか、どうすれば良かったのかと考えながら、今を、そして将来をどう生きるかを求めて。そう考えると、はなはだ、自信がなくなります。みなさんは、どうでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌下14章ー歴代誌下27章はみなさんが、明日7月10日(月曜日)から7月16日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2Chronicles 14:6 彼はユダの人々に言った。「我々はこれらの町を築き、城壁を巡らそう。塔、城門、かんぬきもだ。この地はまだ我々の前にある。我々が、我々の神、主を求めたからだ。我々が求めたからこそ、主は周囲から我々を守り、安らぎを与えられたのだ。」こうして彼らは建設を始め、これを完成した。 アサ王の時代のことである。このあとの10節の祈り「主よ、あなたにとって、力の強い者を助けるのも、力の弱い者を助けるのも変わりはありません。我々の神、主よ、我々を助けてください。我々はあなたを頼りとし、あなたの名によって、この大軍に向かってやって来ました。あなたは我々の神、主であって、いかなる人間もあなたには対抗できません。」など、信仰を感じ取ることができるが、結果は、クシュ人が攻めてきたとき、皆殺しにしたり、周囲の街を打って多くの戦利品を得るなど、自分たちが得をしたという表現である。これが少しずつ変化するには、捕囚を通して遜ることも必要だったのだろうか。 2Chronicles 15:2,3 彼はアサの前に出て言った。「聞け、アサよ。ユダとベニヤミンのすべての人々よ。あなたがたが主と共にいるなら、主はあなたがたと共におられる。もしあなたがたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主はあなたがたを捨てられる。長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。 歴代誌の神学が表れている箇所であるが、最後の「律法もなかった。」ということばは強烈である。וּלְלֹא כֹּהֵן מוֹרֶה וּלְלֹא תוֹרָֽה׃ (KJV: and without a teaching priest, and without law.)これほどはっきりと書かれている箇所があることは知らなかった。このアサの道から離れてしまったと言いたいのだろう。 2Chronicles 16:8,9 クシュ人とリビア人は大軍で、戦車と騎兵は非常に多かったのに、あなたが主を頼りとしたので、主は彼らをあなたの手に渡されたではないか。主の目は全地を行き巡り、心が主と一つである者たちに御力を示す。このことについて、あなたは愚かなことをした。今後、あなたには戦争が続く。」 アサに対して厳しい。イスラエルやアラムとの関係は常に微妙である。敵対することが本当に良かったのだろうか。わたしには、とうてい簡単には、受け入れられない。このような簡単な因果関係でひとを判断して良いのだろうか。そこから、変化していく途中なのかもしれない。 2Chronicles 17:9 彼らは主の律法の書を携え、ユダの教育に当たった。ユダのすべての町を巡って、民の教育を行ったのである。 「教育」という語を検索すると、旧約聖書では、ここと、7節にあるだけである。ただし、לָמַד (to learn. teach, exercise in)は、他にも使われている。民を教えたではいけなかったのだろうか。律法の書がでてくるところから、特別なものを感じた。「主の律法の書」も多くない。ここと「彼らが主の神殿に納められた献金を取り出したとき、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけた。」(歴代誌下34:14)、「彼らは自分たちの場所に立ち、その日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、また四分の一は、罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した。」(ネヘミヤ9:3)のみ。起源は不明だが、歴代誌に重要な影響を及ぼしているように見える。 2Chronicles 18:33 ところが、一人の兵士の引いた弓が、図らずもイスラエルの王の鎧の継ぎ目の間を射抜いた。王は御者に、「手綱を返して、戦場の外に出せ。傷を負ってしまった」と言った。 言い伝えは、プロパガンダ(宣伝)として、利用されるのだろう。アハブの人生も、ヨシャファトの人生もなにかはかない。しかし、信仰とは、主への信頼とは、それも、受け入れることなのかもしれない。それを素直に受け入れる気にはなれないが。 2Chronicles 19:5-7 彼はその地に、すなわちユダのすべての城壁に囲まれた町に、それぞれ裁判官を配し、その裁判官たちに言った。「あなたがたは自分のすることに十分注意をしなさい。あなたがたが裁くのは、人のためではなく、主のためだからです。裁きが行われるとき、主はあなたがたと共におられます。今、主への畏れがあなたがたの上にあるように。気をつけて行いなさい。私たちの神、主には不正も、偏り見ることも、賄賂を取ることもない。」 司法体制を整備したということだろう。これは、人々の信頼を得ることには寄与するのではないだろうか。むろん、これだけで、良いわけではない。「ヨシャファトはまた、エルサレムでは、レビ人と祭司たちの一部、イスラエルの親族の頭たちの一部を、主の裁きと訴訟のために任命した。こうして彼らはエルサレムに帰った。」(8)これなどは、問題だろう。しかし、それを、人間の歴史の中で、この時点で責めることはできないのかもしれない。 2Chronicles 20:9 『もし、裁きの剣、疫病、飢饉などの災いが私たちに臨むなら、私たちはこの神殿の前で、あなたの前に立ちます。御名がこの神殿にあるからです。苦難の中からあなたに叫び求めるとき、あなたがそれを聞き入れ、救ってくださいますように。』 この章には、モアブ人とアンモン人、さらに、メウニム人、加えて、エドムからも、大軍が攻めてきたときのことである。ただ、このような、対応の仕方が、対アッシリア以降、大変化を遂げる。このような祈りでは、聞き届けられなかったということだろう。さらに、深い、神学的解釈が必要になる。 2Chronicles 21:20 ヨラムは三十二歳で王位につき、八年間エルサレムで統治した。彼は惜しまれることなく去り、ダビデの町に葬られた。人々は彼を王の墓には納めなかった。 最後の件(くだり)はすごい。王に対して、このようなことができたのも、驚かされる。民の力が強かったということだろうか。この章には、エリヤからの手紙も記されている。それも「また、あなたは内臓の病で大病を患い、日に日に病が進み、内臓が外に出るまでになる。」(15)まで書かれている。一人一人の王について、もう少し丁寧に、学んでみたい。 2Chronicles 22:10 アハズヤの母アタルヤは、息子が死んだのを知り、直ちにユダの家の王族をすべて滅ぼそうとした。 名前が多く、何度読んでも混乱する。ユダの王とイスラエルの王に同じ名前が登場することも一因ではある。一応、名前をあげてみよう。ユダの王ヨラム(ヨシャファトの子)、その末の子アハズヤ(年長の王子はすべて殺されてしまった(1)とある)、その母、アタルヤ(イスラエルの王オムリの孫娘(2)でアハズヤの相談役、オムリの子イスラエル王アハブとその妻イゼベルの子)、アハブの子ヨラムとアハズヤが、アラムの王ハザエルと戦い、ヨラムは傷をうける(5)。アハズヤ、サマリヤに潜むが、アハブの家を絶つ使命を帯びたニムシの子イエフに殺される。引用句の状況で王子ヨアシュを助けたのは、王女ヨシャパト(ヨラム王の娘で、祭司ヨヤダの妻、アハズヤの姉妹)。少し整理できたかな。引用句に戻って、王族を滅ぼすという計画があったことは、興味深い。そして、ダビデの家系を守ろうとする人たちがいる。同時に、深い姻戚関係にあるアハブの家を滅ぼすために、イエフは油を注がれている。すでに、矛盾をさまざまに孕んでいるようにも見える。 2Chronicles 23:7,8 レビ人はおのおの武器を手にして、王の周りを固めよ。神殿に入る者は殺される。王が出入りするときは、常に王のそばにいなければならない。」レビ人とユダのすべての人々は、すべて祭司ヨヤダが命じたとおりに行った。彼らはそれぞれ安息日が当番の者と、安息日が非番の者を引き連れて来た。祭司ヨヤダが組分けを解かなかったからである。 レビ人が神殿と王の防衛のために、武器をとって、守ったことが書かれており、そのあとに、あまり連続性のない記述がある。このあとに、ヨアシュを王にする特別な時であったので、安息日の当番と非番両方投入したということなのだろう。安息日にも、武器をとって警護していたものがいることをも、記そうとしたのかもしれない。ダビデ王朝のひとつの危機がこれによって、守られたという記述なのだろう。 2Chronicles 24:9,10 そして、荒れ野で神の僕モーセがイスラエルに課した税を主に納めるようにとの布告がユダとエルサレムに出された。高官も民も皆、喜んで納め、いっぱいになるまで箱に投げ込んだ。 「高官も民も皆」と書いてあるが「ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪責のため、ユダとエルサレムに怒りが下った。」(17,18)となっている。風見鶏だったのか。神殿を整えることでは、こころは整えられなかったのか。いろいろと考えさせられる。しかし、まず、歴代誌記者が、神殿整備を重視していることはわかる。同時にこのあと預言者やヨヤダの息子などが正そうとするがそうはならない。難しさを感じる。 2Chronicles 25:18,19 だが、イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに使いを送ってこう言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使いを送って『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか』と言った。ところが、レバノンの野の獣が通りかかって、あざみを踏みにじった。あなたはエドムを討ち破ったと言って、思い上がり、誇っているが、今は自分の家にとどまっているがよい。なぜ災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」 列王記下14:8,9 の再録である。しかし、ユダの側から見ると、このことが記されていることの意味を考える。一般的に言われているように、イスラエル王国のほうが、繁栄していたのかもしれない。神殿中心のユダ王国には、できなかったことが多かったのか。預言者の活動も、イスラエルの方が活発に思われる。ユダでは祭司である。図らずも、このような関係が浮き彫りになっているように思われる。むろん、どちらも、超大国に、滅ぼされる運命にあるわけだが。 2Chronicles 26:14,15 ウジヤは全軍のために盾、槍、兜、鎧、弓、投石用の石を準備した。彼はまた、エルサレムで、技術者の考案した兵器を造った。それは塔や城壁の角の上にあって、矢や大きな石を放つものであった。ウジヤの名は、遠くにまで及んだ。彼が神の驚くべき助けを得て、強くなったからである。 ダビデの時代には、ほとんどの人たちが武具をもたず、日常的なものを武器にしていたことを考えると、大きな違いである。それをしないと、どうにもならない状況が周辺にあったのだろう。しかし、引用句のあとには「ところが、彼は強くなると、その心が驕り高ぶり、身を滅ぼすことになった。彼は自分の神、主に背き、主の聖所に入り、香をたく祭壇の上で香をたこうとした。」(16)と続く。どちらか一方ではなく、主のみこころを求め続ける、学び続けることなしには、ひとは、傲慢になってしまうのだろう。 2Chronicles 27:1,2 ヨタムは二十五歳で王位につき、十六年間エルサレムで統治した。母の名はエルシャと言い、ツァドクの娘であった。彼は父ウジヤが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。 最後の「ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。」を除いて、列王記下15章 33節〜34節と同じで、列王記ではそのあと3節に続く。ツァドクについては、不明であるが、名前は、祭司の家系になんどか現れるので、祭司の家系なのだろう。最後の、民についての記述からは、捕囚帰還後の祭司たちの厳しい目を感じる。祭司と、祭司に近いものは、問題なかったと言いたいのだろうか。そこまでいうのは、言い過ぎかもしれないが。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第13回:7月13日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書2章23節〜28節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.7.9 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  29. BRC 2023 no.029:歴代誌下28章ーエズラ記5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 歴代誌はいかがですか。今週は、歴代誌下の最後の部分を読み、エズラ記に入ります。 歴代誌は、南ユダ王国の歴史、それも、歴代の王について、信仰的に、善か悪であったかの判断が書かれており、単純過ぎるようにも思いますが、どうしようもない、大国の侵攻のもとで、翻弄されている面もあるように思います。ネブカデネザル率いるバビロン軍に二度エルサレムが陥落し、バビロンに多くの人たちが二度にわたり捕囚となります。その後、バビロンも、ペルシャなどの連合軍に敗れ、ペルシャ王クロス(キュロス)のもとで、帰還を許され、何回かに分けて、帰還しますが、ある自由もあったようで、バビロンなど、ペルシャ王国内にとどまる人たちもたくさんいたようです。帰還も、書記官をしていたエズラがリーダーとなってのグループ、その後、献酌官をしていた、ネヘミヤが総督となって統治する期間もあります。王妃となったエステルによってユダヤ人たちが滅ぼされるのを免れるというような時期もあったようです。そのような歴史を少しずつ読んでいきます。 下のリンクにもありますが、捕囚以後の簡単な年代表をつけます。 BC586 ユダ王国の滅亡。バビロン捕囚 BC550-530 ペルシャ王クロスの治世 BC539 バビロン陥落 BC538 クロス王の第一年 BC536 エルサレム帰還と神殿再建工事の開始 BC530-522 カンビュセス王の治世 BC522-486 ダリヨス一世の治世 BC520-515 神殿再建工事の再開と完成 BC486-465 クセルクセス一世(アハシュエロス)の治世 BC479 エステル、王妃となる BC475 ユダヤ人虐殺計画 BC465-424 アルタクセルクセス一世(アルタシャスタ)の治世 BC458 エズラ帰還 BC445 ネヘミヤ帰還、城壁完成 BC433 ネヘミヤ再度帰還 「エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」勝原忠明、工藤弘雄著、いのちのことば社新聖書講解シリーズ 旧約9, p.14-15. エズラ帰還は BC398との説もあります。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌下28章ーエズラ記5章はみなさんが、明日7月17日(月曜日)から7月23日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 歴代誌下とエズラ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ch2 エズラ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ez 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2Chronicles 28:9-11 、そこには主の預言者がいた。その名をオデドと言った。彼はサマリアに帰って来た軍勢の前に出て、彼らに言った。「あなたがたの先祖の神、主はユダに対して怒り、彼らをあなたがたの手に渡された。あなたがたは、天に届くまでの憤りをもって彼らを殺した。ところが、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従わせ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたがた自身も、あなたがたの神、主に対して罪責があるではないか。今、私の言うことを聞き、あなたがたの同胞の中から連れて来た捕虜を帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたの上にあるからだ。」 この章には、アハズ王時代のユダがアラムや、イスラエルに、敗れ、多くの人が捕虜となったことが書かれ、引用句に至る。ほとんど信じられないことが書かれている。レマルヤのペカについては、列王記下15:27-31、アハズについては、列王記下16章にあるが、上の記事は書かれていない。しかしすでに、アッシリアが攻めてきており、壊滅的な状態になりつつもある。そのなかで引用句が記録されているのは、何が目的なのであろうか。 2Chronicles 29:10,11 今こそ、私はイスラエルの神、主と契約を結ぶつもりである。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるであろう。わが子らよ、さあ、安穏としていてはならない。主があなたがたを選ばれたのは、あなたがたが御前に出て主に奉仕し、主に奉仕する者や香をたく者となるためである。」 ヒゼキヤの改革である。このような改革が無駄だとは思えないが、主のみこころを狭めて考えてはいけないのではないかとも思う。わからないことをたいせつにすることも覚えておきたい。当時の、祭司やレビ人はどのような生活をしていたのだろうか。 2Chronicles 30:25-27 ユダの全会衆、祭司たち、レビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者たち、ユダに住む者たちは喜んだ。 エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことはエルサレムになかった。祭司たちとレビ人は立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き入れられ、彼らの祈りは主の聖なる住まいである天に達した。 これが大切なことだと、歴代誌記者は考えたのだろう。そして、ここにあるように、喜びがあると、わたしも、ここに委ねたいとも思う。歴史を知っているからだろうか、やはり虚しくも感じる。主の御心には、やはり遠いと感じるからだろうか。安全なところにいて、裁いているのだろうか。そうかもしれない。この時点でどうすればよかったかはおそらく、だれも、現在においても、わからないのではないだろうか。 2Chronicles 31:20,21 ヒゼキヤはユダの全土でこのように行い、彼の神、主の前に良いこと、正しいこと、真実なことを行った。彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた。 列王記下20章の記述とは異なっているが、丁寧には、比較できない。歴代誌においては、このヒゼキヤによる祭司とレビ人の奉仕の整備を重要なことだと考えていたのだろう。それは、センナケリブがエルサレムを落とせなかった理由としているのだろうか。よくはわからない。 2Chronicles 32:24-26 その頃、ヒゼキヤは病を得て死にかけたが、彼が主に祈ると、主は彼に答え、彼にしるしを与えられた。ところが、ヒゼキヤは受けた恩恵に報いることをせず、かえってその心を驕り高ぶらせたので、彼の上に、またユダとエルサレムの上に怒りが下った。ヒゼキヤはその心の高ぶりを捨ててへりくだり、エルサレムの住民もそのようにしたので、主の怒りがヒゼキヤの時代に襲うことはなかった。 センナケリブが攻めてきた時のことが書かれたあとに、この記事がある。当時、または、歴代誌の歴史観は、因果応報に強く結びつけられていると感じる。現代的な科学的視点がまだないからだろう。現代でも、因果応報に強く影響される考え方が多いことを考えると、批判的になることはできない。脳がサボろうとするという言い方も正しいのだろう。少しずつ学んでいきたい。 2Chronicles 33:15-17 異国の神々と偶像を主の神殿から取り除いて、主の神殿の山とエルサレムに築いたすべての祭壇も町の外に投げ捨てた。そして、主の祭壇を築き、その上に会食と感謝のいけにえを献げて、イスラエルの神、主に仕えるようユダに命じた。しかし民は、彼らの神、主に対してではあったが、依然として高き所でいけにえを献げていた。 マナセについての記述は列王記下21:1-9 にある。そのあと、列王記下21:10-18にマナセの評価が書かれ、いずれも、厳しいもので、ユダが滅んだのは、マナセが原因という書き方をしている。しかし、歴代誌は異なる。冷静にしらべたときに、そうではないことが見つかったということなのかもしれない。違う味方としては、歴代誌は、偶像礼拝が悪の根源という考え方に集中しているため、引用句のような表現になり、この点に関してある貢献をしたマナセに全責任を取らせることはせず、民についての記述を加えているのかもしれない。他方、預言者文書といわれる、列王記では、王のことを書くことで、民を代表させているのかもしれない。難しい。 2Chronicles 34:31-33 それから王は自分の場所に立って、主の前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記された契約の言葉を実行することを誓った。王はエルサレムとベニヤミンにいるすべての者をこの契約に加えた。エルサレムの住民は先祖の神であるその神の契約のとおりに行った。ヨシヤはイスラエルの人々のすべての地から忌むべきものを取り除き、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主から離れることはなかった。 ヨシヤの宗教改革について書かれている。主の律法の書を見つけた(14)ところから、始まっており、これが、申命記で、このころ成立したのではとも言われている。それは、不明であるが、引用句にあるような契約のことばが読まれたり、契約更新がされたりはしていなかったことは確かなのだろう。過越の祭もヒゼキヤのときに帰している。危急存亡のときに、宗教回帰が起こったことは、理解できる。アッシリアからバビロニアへの覇権が移っていったことなども、知っていたのだろう。しかし、それについは、記さない。社会状況を通して、神様の御心を知ることは、未発達だったことは確かだろう。そして、この歴代誌も、エルサレム陥落、バビロン捕囚、そこからの一部のユダヤ人の帰還後に書かれたものであることも、考える必要がある。 2Chronicles 35:18,19 預言者サムエルの時代以来、イスラエルでこのように過越祭が祝われたことはなく、イスラエルの歴代の王も、ヨシヤ、祭司、レビ人、そこにいたユダとイスラエルのすべての人々およびエルサレムの住民が行ったような過越祭を祝ったことはなかった。ヨシヤ王の治世第十八年に、この過越祭は祝われた。 「このように過越祭が祝われたことはなく」と規模のことを言っている。ヒゼキヤの時代にも祝われた記述がある。しかし、「また、すべてのイスラエルを教え導く者たちで、主のために聖別されたレビ人たちに言った。『イスラエルの王、ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めなさい。もはやあなたがたの肩に担う必要はない。あなたがたの神、主とその民イスラエルに仕えなさい。』」(3)の記述をみると、契約の箱ですら、神殿に収められていたわけではないこともわかる。ヨシヤの死もあっけない。当時、どのように受け取られていたのだろうか。 2Chronicles 36:20,21 彼はまた、剣を免れた生き残りの者をバビロンに連れ去った。この人々は、ペルシアの王国が統治するようになるまで、バビロンの王とその息子たちの僕となった。これは、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである。 イスラエルが捕囚になったときや、ヨヤキンの時とは異なり破壊と殲滅と捕囚が徹底されたように見える。ここで「僕となった」ということばは、強烈である。しかし「安息を取り戻すため」は、なかなか理解できない。言葉である。考えてみたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第14回:7月20日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書3章1節〜6節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.7.16 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  30. BRC 2023 no.030:エズラ記6章ーネヘミヤ記9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) エズラ記に入りました。今週は、エズラ記の後半を読んで、次のネヘミヤ記を読みます。 前回年表をつけましたので、今回もそれを参照してください。ユダ王国の滅亡と捕囚から、50年弱後には、ユダ王国を滅ぼした、バビロン(通常新バビロニアと呼ばれる帝国の首都)が、ペルシャなどの連合軍によって、陥落。約50年後(BC538)に、ペルシャ王クロス(キュロス)の勅令によって、帰還して神殿再建する道が開かれます。第一陣の帰還後、他の場所から移住させられたりなどで、その土地にいた人たちの妨害などもありますが、20年ほどで、神殿が再建されます。しかし、城壁は、壊されたままで、十分な礼拝もできなかったようです。生活も困窮を混乱をきたし、しばらくの時が過ぎます。 そして、BC458 ごろ、書記官で、祭司のエズラをリーダとする一行が帰還します。さらに、そのあと、BC445 には、献酌官だったネヘミヤが総督として赴任し、そのリーダシップのもとで、城壁が修理され、基本的な仕組みが整います。そのあたりの経緯が書かれているのが、エズラ記、ネヘミヤ記です。しかし、読んでいくと、なかなか、簡単ではない問題が、山ほどあることがわかります。 ユダヤ教が確立していく時期とも言われています。どのような苦しみの中、何を大切にして、何を守っていったのでしょうか。そして、支配者でもある、ペルシャ帝国との関係をどのように、保っていったのでしょうか。さらに、土地の人々とは、どのような関係を持っていったのでしょうか。外国に留まった人たちは、どうしていたのでしょうか。少しずつ、考えていくことができればと願っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エズラ記6章ーネヘミヤ記9章はみなさんが、明日7月24日(月曜日)から7月30日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 エズラ記とネヘミヤ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エズラ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ez ネヘミヤ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ne 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ezra 6:8-10 この神殿を再建するために、あなたがたがユダヤ人の長老たちになすべきことについて、私は命令を下す。その経費は、アバル・ナハラ州からの税収による王の資産から、これらの人々に確実に支払われるようにし、滞ることのないようにしなさい。また必要なもの、すなわち、天の神に焼き尽くすいけにえとして献げる若い雄牛、雄羊、小羊、それに小麦と塩、ぶどう酒と油が、エルサレムにいる祭司の提言どおり、日々彼らに支給されるようにし、手抜かりのないようにしなさい。彼らが天の神に宥めの香りを献げ、王とその一族の長寿を祈るためである。 第二神殿と言われるものも、このように、ペルシャ王の支援のもとで建てられ、いけにえも、支給されていたことが書かれている。そして、神殿での礼拝の目的は、「王とその一族の長寿を祈るため」である。これを潔しとしない人たちもいただろうが、ペルシャの支配下での再建では、致し方なかったのだろう。最後には、「捕囚から帰って来たイスラエルの人々、またイスラエルの神、主を求めてこの地の異国の民の汚れから離れてきたすべての人々が食事をした。」(21)とあるが、ここにも分断の種があることは、感じる。難しい。 Ezra 7:23,24 天の神の宮のために、天の神によって命じられていることはすべて注意深く行いなさい。王とその一族の国の上に怒りが下ることのないようにするためである。祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿に仕える者など、この神の宮に奉仕するすべての者には、税として、銀、物品、あるいは兵役を課すことは許されていないということを通告しておく。 最初にエズラに至る系図が書かれ、また「次に記すのは、アルタクセルクセス王が、祭司であり書記官であるエズラに与えた書簡の写しである。彼はイスラエルに授けられた主の戒めと掟に通じた書記官であった。」(11)とある。おそらく、捕囚帰還後のユダヤ教の基礎を据えたと思われる、エズラ登場である。引用句には「王とその一族の国の上に怒りが下ることのないようにするため」とあるが、対ローマにおいても、護教論の中で使われた論理であるように思う。ペルシャでは、すでに、書記官という地位に捕囚民がついていたこともあり、スムーズだったのかもしれない。それと比して、ローマでは、市民権が政策の道具であったため、キリスト者が、役職をえることが簡単ではなかったのかもしれない。純潔をたもつのも、政治利用も、それなりに困難がある。 Ezra 8:21-23 私はアハワ川のほとりで断食を呼びかけた。それは神の前にへりくだり、私たちのため、幼い子らのため、その他の財産のために、道中の無事を求めてのことであった。私は道中、敵から我々を守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に頼むことを恥としたからであり、また、私たちは王に次のように言っていたからである。「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」それゆえ、私たちは断食して神に願い求め、神はその祈りを聞き入れられた。 この章から「私」とエズラが一人称で書かれ、まずは、祭司はいたが、レビ人がいないといことで、レビ人を集めたことが書かれ、引用句に至る。断食をしている。単に、帰還すること以上のビジョンがあり、そのために、自らを顧みて、身を苦しめたのだろう。断食の基本的な姿勢が現れているように思う。 Ezra 9:15 イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。まさに今日ここにあるように、私たちは逃れて生き残った者です。御覧ください。このようなままで、誰もあなたの前に立つことなどできませんが、私たちは罪責の中であなたの前におります。」 民、祭司、レビ人も、この地の民の習慣に倣い、この地の民の娘をめとり、この地の民と混じってしまった(1,2)と聞き、祈った言葉である。早く帰還したひとたち、土地のひとたちの反対や妨害にあったり、生活が苦しくなっていたひとたちと、帰還して意気揚々のエズラたちとでは大きなさがあったろう。このような中から、ユダヤ教が出来上がっていったことも、無視できないように思う。 Ezra 10:13,14 しかしながら、民は多く、長雨の季節でもあり、外に立っている力はありません。また、この件に関して私たちは多くの背きの罪を犯しましたので、一日や二日で解決できることではありません。全会衆の上に私たちの長を立て、外国の女と結婚した町の者が皆、約束の日時に、その町の長老および裁判官と共に来るように命じてください。そうすれば、この件に関して、神の燃える怒りは私たちから離れるでしょう。」 この章には、外国の女性と結婚した人たち、特に、祭司、レビ人の問題について書かれている。そして、この章すなわちエズラ記の最後は「以上は皆、外国の女をめとっていた。それらの女の中には子を産んだ者もあった。」(41)とリストで、終わっている。容易に想像がつくが、容易ならざる事業だったのだろう。引用句には、長老および裁判官も登場する。この時代に、どこまで結婚契約書(ケトゥバー(Ketubah)・イスラム教ではマハール(Mahr)と呼ばれたらしい)があったのかどうかは不明だが、契約の民には、ある程度、結婚に関する正式な合意があったのかもしれない。むろん、大変なことだが。 Nehemiah 1:3 彼らは私に言った。「捕囚の生き残りで、その州に残っている人々は、大変な苦悩と恥辱のうちにいます。またエルサレムの城壁は崩され、門は火で焼かれてしまいました。」 どの時点のものか不明であるが、再建しては、壊されることが、繰り返されていたのかもしれない。その歴史は残っているのかもしれないので、調べてみたい。エズラBCE538、ネヘミヤBCE445、ハガイ・ゼカリヤBCE520 ごろとして、アポクリファも今なら興味をもって読むことができるかもしれない。 Nehemiah 2:10 ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のために援助しようとする人間が来たということを聞いた。それは彼らにとって甚だ不都合なことであった。 ユダヤ人が長官(役職は不明)となって着任することは、予期せぬ事態だったに違いない。ホロニ人はどのような人だろうか。どうも、聖書の中ではネヘミヤ記にしか登場しないようである。いくつか説(サマリアの町ホロンに関係があるのではなど)はあるようだが、基本的には不明のようだ。一方、アンモン人の記録が多いが、中東における位置については、あまり知らない。現代のヨルダン人、アラブ人の祖先なのかもしれない。 Nehemiah 3:3-5 魚の門を再建したのはハセナアの子らである。彼らはそれに梁を置き、扉と錠とかんぬきを取り付けた。彼らの隣ではハコツの子ウリヤの子メレモトが修復に当たり、またその隣ではメシェザブエルの子ベレクヤの子メシュラムが修復に当たり、その隣ではバアナの子ツァドクが修復に当たり、さらにその隣ではテコアの人々が修復に当たった。しかし、彼らの中の有力者たちは自分たちの指導者たちの仕事に敬意を表さなかった。 総動員ではあるが、最後にあるように、テコアの有力者たちの中には、敬意を表さなかったひともいることが書かれており、かえって真実性を補償するように思われる。ペルシャから派遣された、政治的リーダもおり、財政的な支援もある、そのなかで、支援をしないのは、自分の街ではないからか、関係ないと思っていたからだろうか。たしかに、エルサレムの城壁再建は、民族的な事業ではあり、完全に一つになることはできなかったのかもしれないが、すくなくとも、ネヘミヤの記事としては、貧富や地位の差なく、多くの人がこの事業に参加したことがみて取れる。 Nehemiah 4:4-6 しかし、ユダは言った。「荷役の力は衰え、瓦礫の山はおびただしい。城壁を再建するなど、私たちには不可能だ。」我々の敵は言った。「気付かれず、見つからないように彼らの中に入り込んで、彼らを殺害し、工事をやめさせよう。」彼らの近くに住むユダヤ人がやって来て、十度も私たちに、「あなたがたが私たちのところに戻って来ると、あらゆるところから私たちは攻められます」と言った。 ユダということばで、代表されているのだろうか。状況は危機的である。外部(サンバラトとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドド人)の反感と妨害、内部(ユダ)の傷心、傷つき折れる心、そして中傷。このときには、戦わなければならないのか。「そこで私は城壁の後ろ、低い所の空き地に、民を氏族ごとに、剣と槍と弓を持たせて配置した。私は彼らの様子を見て、立ち上がり、貴族、役人、および残りの民に言った。『彼らを恐れるな。大いなる畏るべき主を思い起こし、あなたがたの仲間のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。』」(7,8)この状況下で、わたしならどうするだろうか。やはり、ネヘミヤにつくしかないように思う。神に従う、他の生き方もあるように思うが。 Nehemiah 5:4,5 またある者は言った。「王の税金のために、私たちは畑やぶどう園を抵当にして金を借りた。しかし、私たちの体も同胞の体と同じであり、私たちの子どもは彼らの子どもと同じである。それなのに、私たちは息子や娘を奴隷にしなければならない。私たちの娘の中にはもう奴隷になっている者たちもいる。私たちの力ではどうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものになっているのだ。」 なんとも悲しい状況である。しかし、ここでも、ネヘミヤはこの問題を解決していく。知恵というより、彼の日々の献身だろうか。夜も、城壁内にとどまり、臨戦体制でいたことも、評価していたのだろう。信頼をえていたということか。単なる提案や、問題の指摘では、解決しなかったろう。「あなたがたのしていることは間違っている。私たちの敵である異国の民にそしられないように、私たちの神を畏れて歩むべきではないのか。」(9)このことばは、信頼なしには、受け入れられない。 Nehemiah 6:10 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家を訪れると、彼は閉じこもっていた。彼は言った。/「神殿で、聖所の中で会おう。/聖所の扉は閉じておこう。/彼らがあなたを殺しにやって来るから。/夜、彼らがあなたを殺しにやって来る。」 これも、ネヘミヤを陥れる罠だったのだろう。正しいことをし続けることは、信頼を維持すること。どちらが大切かと言えば、むろん、信頼を維持すること、それは、神様との交わりをつねにもっていることか。いずれにしても、落とし穴は色々なところにある。ここでは、ネヘミヤや「私のような立場の者が逃げてよいものだろうか。私のような者で、聖所に入って、なお生きている者があろうか。私は行かない。」(11b)と答えている。命に関わることに関して、失敗は許されないということだろう。 Nehemiah 7:66-68 会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百四十五人いた。らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。 非常に細かいことが気になった。エズラ記2章64-67節には「会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百人いた。彼らの馬は七百三十六頭、らばは二百四十五頭、らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。」これだけ、細かい数が並んでいて、違いが1箇所である。男女の詠唱者。写本の影響だろうか。 Nehemiah 8:9-12 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラと、民に律法を説明していたレビ人たちは、民全員に言った。「今日はあなたがたの神、主の聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らはさらに言った。「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」レビ人たちも民全員を静かにさせて言った。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」民は皆、行って、食べ、飲み、分かち合い、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。 美しい光景である。あまり、聖書にそのような記述はない。最後には、民は皆「分かち合い、大いに喜んだ」とある。さらに「教えられたことを理解した」ともある。読まれたのが、どの部分だったのかは、不明だが、創世記だったのかもしれない。 Nehemiah 9:36,37 このとおり、今日私たちは奴隷の身です。/その実りと恵みを享受するようにと/あなたが私たちの先祖にお与えになった/この地で/このとおり、私たちは奴隷の身です。この地の豊かな産物は/私たちの罪のゆえに/あなたが私たちの上にお立てになった/王たちのものとなっています。/彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。/私たちは大変な苦しみの中にいます。」 税金を納めることが、奴隷と言われているようだ。他者の支配のもとにあるということなのだろう。しかし後半を見ると、「彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。」とも告白している。労働や、収奪などもあったのだろう。「祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿に仕える者など、この神の宮に奉仕するすべての者には、税として、銀、物品、あるいは兵役を課すことは許されていないということを通告しておく。」(エズラ7:24)とはあるが、これも、一部に限られたのかもしれない。帰還者の中での分裂も考えられる。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第15回:7月27日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書3章7節〜12節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.7.23 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  31. BRC 2023 no.031:ネヘミヤ記10章ーエステル記10章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 今週は、ネヘミヤ記の最後の部分を読んでから、エステル記を読みます。エステル記は、10章までですから、ちょうど最後までということになります。その次は、ヨブ記。ヨブ記は42章ありますが、ヨブ記までで旧約聖書が大体半分ですから、そこで、一旦旧約聖書を離れ、今年の後半は、新約聖書を読みます。通読が続かなくなったかたもおられるかと思いますが、新約聖書から始めるのも、ヨブ記や、エステル記などから再開するのも、良いですよ。通読は続けるのが大変ですが、一緒に聖書を読んでみませんか。 ネヘミヤ記はいかがですか。エズラとネヘミヤ、ペルシャでもある程度の地位についていたリーダーのもとで、神殿の再建、エルサレムの城壁の修復、ユダヤ教の再興と整備が行われます。それが、どのように行われたのか、課題もたくさんあったように思います。同時に、ユダヤ人としてのアイデンティティーをどう取り戻すか、人々をどうまとめていくか、生活はどうするか、他の宗教との関係はどうするかなど、私が、そこに生きていたらどうしていただろうか考えてしまします。信仰をたいせつにすることは、周囲の人々との分離を意味するのでしょうか。現代まで続く大きな問いです。 エステル記は、前々回挿入した年表や、下のエステル記に関するリンクを確認していただければと思います。現在もイスラエルで行われているプリム祭の起源が語られる物語です。ペルシャ時代に、ユダヤ人が滅ぼされそうになったときに、奇跡的に救われたことを起源としています。みなさんは、どのような感想を持たれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ネヘミヤ記10章ーエステル記10章はみなさんが、明日7月31日(月曜日)から8月6日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ネヘミヤ記とエステル記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ネヘミヤ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ne エステル記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#es 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Nehemiah 10:31-33 私たちは娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘を私たちの息子の妻に迎えない。私たちは、この地の民が安息日に商品やいかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日や聖なる日には彼らから買わない。私たちは七年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する。私たちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルを納入する規定を設ける。 新たな誓約である。ネヘミヤの名前が筆頭にあるが、8章に登場する祭司エズラの名前はない。すでに、亡くなっていたのかもしれない。律法の説明も、レビ人がしており、エズラがしていないことも、不思議であった。(8:7)ここには、律法に書かれていることの一部が取り出されて、契約とされている。取り決めとしては、正確性が十分ではないようにも見えるが、新たな出発だったのだろう。ただ、異邦人との分離ははっきりしてきていることも確かである。 Nehemiah 11:1 民の長たちはエルサレムに住んだが、他の民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人は他の町に住むようにした。 また「イスラエルの他の人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の受け継ぐべき地に住んだ。」(20)ともあり、耕地の近くに住んだことも書かれている。これも、ネヘミヤが総督だったからこそできたのだろう。その土地に、すでに、住んでいた異邦人もいたはずである。ネヘミヤの政策は、素晴らしいとは思うが、同時に、現代的な軋轢も産んだと思われる。ペルシャの支配下においては、政策決定がこのあとも、ネヘミヤのようにはできないだろうから。その中でも、契約は守られるのかもしれない。分離は維持しつつ。 Nehemiah 12:43 その日、人々は大いなるいけにえを献げ、喜んだ。神が大いなる喜びを彼らにお与えになったのである。女も子どもも喜び、エルサレムの喜びは遠くまで響いた。 この章の最初には「シェアルティエルの子ゼルバベルとイエシュアと共に上って来た祭司とレビ人は次のとおりである。」(1a)があり、そのあとに「エルサレムの城壁の奉献に際し」(27)とあり、引用句がある。城壁の完成を祝うときであるとともに、神殿での祭儀が行えるようになった証という面があるように思う。エズラも登場するが(33)重要な位置をしめていない。すでに代替わりがあったのだろうか。単に、神殿ができれば礼拝ができるわけではなく、ともに喜んで、礼拝するためには、ネヘミヤのような存在が不可欠であると思う。あまり、キリスト教会では、強調されないが。 Nehemiah 13:1-3 その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆にとこしえに加われないとそこに記されているのが分かった。彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の人をすべてイスラエルから切り離した。 この章には、一時期的にバビロンに帰還していたときに起こったことが次々と書かれている。ネヘミヤなしには、問題の解決ができなかったこととともに、ネヘミヤが求めていた神殿を中心とした礼拝が、ほんとうに、このような形でよいのかという、課題も提示しているように思われる。分離、分断、ほんとうに、主はこのことを望まれるのだろうか。引用句の部分を守れば、ダビデは神の会衆に加われないのではないのか。考えさせられる。 Esther 1:10-12 七日目に、クセルクセス王はぶどう酒で上機嫌になり、王の前に仕える七人の宦官、メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスに、王妃の冠をかぶらせて王妃ワシュティを王の前に連れて来るように命じた。彼女は容姿が麗しいので、その美しさを民と高官たちに見せるためであった。ところが、王妃ワシュティは宦官たちが伝えた王の命令に従わず、行くことを拒んだ。王は大いに憤り、怒りに燃えた。 これがどのようなことであったかについても、いくつか説があるようだが、いずれにしても、このあとの、側近の一人のメムカンのことばは、現代とあまり変わっていないと感じる。ただ「酒は金の杯で供され、その杯は一つ一つ異なっていた。王室用ぶどう酒が、王の寛大さにふさわしく、惜しみなく振る舞われた。しかし法に従い、飲むことは強いられなかった。王が宮廷のすべての役人に、人々がめいめいの好みのままにできるように命じていたからである。」(7,8)とあるのは、興味深い。おそらく、王のお好みのグループの中では、一人一人の意思が尊重されるということはあったのだろう。その適用範囲が広がっていくのがとても難しい。 Esther 2:8 さて、王の命令と法が布告され、多くの娘がスサの都に集められて、ヘガイの手に託されたとき、エステルも王宮に連れて行かれ、女たちを監督するヘガイの手に託された。 このあとも間接的には、連絡が取れたようだが、連れて行かれたのは、強制的だったのだろう。なぜ「エステルは、自分の属する民と出自を明かさなかった。」(10a)のか、よくはわからない。非征服民かどうかは、王の側でわかっただろうから、ユダヤ人で、とくべつの宗教を信じているということが理由だろうか。「エステルはモルデカイに命じられたように、自分の出自と自分が属する民を明かしていなかった。エステルは、モルデカイに養い育てられていたときと同様、彼の言葉に従っていた。」(20)は多少、そのことを匂わす。このあと、謀反の計画について「モルデカイはそのことを知ると、王妃エステルにこれを告げた。エステルはモルデカイの名を挙げて、これを王に話した。」(22)とあり、これは、あとに続く情報であるが、「エステルはモルデカイの名を挙げて」とあり、少し、どのように情報を得たか、制約があり、自然とは言えない。 Esther 3:8 ハマンはクセルクセス王に言った。「あなたの国のすべての州に、諸民族のうちに散らされ、分離されている一つの民族がいます。彼らの法はどの民族のものとも異なり、彼らは王の法を守りません。彼らをそのままにしておくのは、王にとって益ではありません。 「王の門にいる王の家臣たちは皆、ハマンにひざまずいてひれ伏した。王が彼のためにそのように命じていたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、ひれ伏しもしなかった。」(2)においても「モルデカイは自分がユダヤ人であることを彼らに告げていたからである。」(4b)とあり、跪かないことは、主以外に跪かないことを理由にとしたと思われる。日本における、神棚や、御真影に拝礼するかとも関係するように思う。強要は問題ではあるが、政教分離問題として捉える考え方もあり、簡単ではない。やはり本質は、引用句にあるような、異質のものを排除する人間の単純化バイアスにあるように思われる。同時に、それと戦うことができるのも、人間である。 Esther 4:11 「王の家臣と王の諸州の民が皆知っているとおり、呼ばれないのに内庭に入って王のもとへ行く者は、男であれ女であれ、殺されなければならないという一つの法があります。ただ、王が金の笏を差し伸べた者だけが死を免れます。私はこの三十日間、王のもとに行くよう呼ばれておりません。」 エステルの住む世界のルールである。モルデカイの住む世界とは、その制約条件が異なる。そうであっても、共通の喜びと悲しみがあるということなのだろう。「あなたは行って、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために断食してください。三日の間、夜も昼も、食べても飲んでもいけません。私も私の侍女たちも、同じように断食します。このようにしてから、法に背くことですが、私は王のもとに行きます。もし死ななければならないのであれば、死ぬ覚悟はできております。」(16)それを結ぶものは、主に結びつきながらする断食、そして書いてはないが、祈りだろうか。これには、エステルの侍女も含まれている。このことの影響の及ぶ範囲についても、考えられているように見える。 Esther 5:11-13 ハマンは、自分の富の豊かさ、息子たちの多さ、自分が王に重んじられたこと、王が他の大臣や家臣たちより上に自分を昇進させたことを、彼らに余すところなく語り聞かせた。ハマンはまた言った。「王妃エステルは、彼女の催した酒宴に、私のほかには誰も王のお供として招かなかった。明日もまた私は王と共に彼女に呼ばれているのだ。だが、ユダヤ人モルデカイが王の門に座っているのを見る度に、このすべてが私には空しいものとなる。」 興味深い表現である。ハマンが誇りだと思っていたこと、そして、それを承認しないようなモルデカイの行動・存在が描かれている。妻のゼレシュとハマンの親しい者たちは、モルデカイを抹殺することを王に進言するように、提案する。自分の評価を人の評価に依存していることが不安につながるのだろう。なにを喜びとすべきか、それは、簡単ではない。しかし、それを求めながら、そこに生きるものでありたい。 Esther 6:13 ハマンは妻ゼレシュと彼の親しい者たち皆に、自分に起きたことをことごとく話した。そのうちの知恵ある者たちと妻ゼレシュは彼に言った。「あなたは、すでにモルデカイに負け始めているのに、もし彼がユダヤ人の子孫なら、あなたは彼に勝つことはできません。あなたは必ず彼の前に敗れるでしょう。」 妻ゼレシュは、ハマンの抹殺提案にも加担している。しかし、ここでは、知恵のある者たちと共にハマンに言っている。柔軟だとも言えるが、ハマンの心を理解しないで生きてきたとも言える。夫婦が、多くの子供達をもうけても、互いの大切なものを知り、一緒にたいせつなことを求めていく歩みは、簡単ではない。夫婦ではなくても、共に集う人々のもとでも、同じように考えるべきことであると同時に、難しいことでもあるのだろう。 Esther 7:4 私と私の民は売られて、根絶やしにされ、殺され、滅ぼされようとしています。もし私たちが、男も女も奴隷として売られただけなら、その苦難は王様を煩わすほどのことではないので、私は黙っていたでしょう。」 無論、こんなことが起きてはいけない。しかし、この時代、多くの民族に生じていたことなのではないかと思った。ユダヤ人が、恵を得たのは、たまたま、エステルのゆえだろうか。そして、ユダヤ人も同様のことを過去に行っている。それについては、どのように理解したら良いのか。日本人に対しても、同じことを考えてしまう。公平は視点は、難しい。 Esther 8:7,8 クセルクセス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った。「私はハマンの家をエステルに与え、ハマンを木につるさせた。彼がユダヤ人たちを殺そうとしたからである。あなたがたはユダヤ人について、あなたがたがよいと思うように王の名によって書き、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書かれ、王の指輪で印を押された書面は、撤回することができないからである。」 分断を生じる、復讐も。ひとは、この方向以外には、進めないのだろうか。わたしには、分からない。 Esther 9:4,5 モルデカイは王宮で大きな勢力を持ち、その名声はすべての州に広がった。このモルデカイという人物は、ますます勢力を増していった。ユダヤ人は敵をすべて剣で打ち、殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者たちに対してほしいままに行った。 モルデカイがペルシャのクセルクセス王(おそらく一世)の記録に残っているかどうか不明だが、このようなことを通して、エズラや、ネヘミヤが登用されていったのかもしれない。かなり乱暴で、目をしかめたくなるが、あとの歴史に影響を及ぼしているのかもしれないと今回思った。どの程度まで、記録に残っているのだろうか。 Esther 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位に就き、ユダヤ人にとって偉大な者となり、多くの兄弟たちに愛された。彼はその民の幸福を求め、そのすべての子孫に平和を語ったのである。 多くの兄弟たちに愛されても、憎む人はいただろう。クセルクセスの好みもあって、重用されたのだろうが。この辺りは詳細は分からないので、それ以上はわからない。ただ、このような記録が、ユダヤ人に残ったことが、祭りとしても祝われ、さらに、実質的にも意味があった可能性がある。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第16回:8月3日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書3章13節〜19節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.7.30 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  32. BRC 2023 no.032:ヨブ記1章ーヨブ記14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) エステル記はいかがでしたか。さまざまな、感想を持たれた方もあるかと思います。どのようなものでも構いませんから、感じたこと、考えたこと、共有してくだされば幸いです。 いよいよ、今週は、ヨブ記に入ります。ヨブ記は42章ありますが、先週も書きましたが、ヨブ記までで旧約聖書が大体半分です。そこで、一旦旧約聖書を離れ、今年の後半は、新約聖書を読みます。通読が続かなくなったかたもおられるかと思いますが、新約聖書から始めるのも、ヨブ記から再開するのも、良いですよ。通読を続けるのはなかなか大変ですが、一緒に聖書を読んでみませんか。新約聖書の最初は、四つの福音書、その最初の三つは、共観福音書と呼ばれます。毎回、一番下に書いてありますが、現在、マルコによる福音書を中心に、共観福音書をゆっくり、読んでいます。対面と遠隔(Zoom)です。お時間の許す方はぜひどうぞ。 ヨブ記は、ヘブル語聖書の三つの区分、律法、預言者、諸書の中の三つ目の諸書の区分に入っています。概要について、下のリンクに書いたことからすこしだけ引用します。 非常に敬虔な生活をし、神様に祝福された生活を送っていたヨブが、祝福をすべて取り上げられ、財産を失い、子ども達を失い、自分自身も潰瘍を生じる病に冒されます。そこに訪ねてくる「友」と苦難の意味について議論する、そして最後の神様が語られるという構成になっています。苦難の意味、神の沈黙、人間の正しさ、神の主権と愛などについて考えさせられるもので、好きな人も多いようです。 しかし、なかなか難解に感じられる方も多いかと思います。「友」との議論も、友の言うことにも一理あるように思うし、ヨブが正しいとも言い切れない。いずれにしても、ほとんどの部分は、ヨブの独白になっています。それ以上は、読んでからのお楽しみ。一つだけ付け加えておくと、歴代誌、エズラ、ネヘミヤ、エステルと読んでくると、民族的宗教として、律法と神殿での礼拝などを重んじるユダヤ教のイメージがあるかもしれませんが、このヨブは、どうも、ユダヤ地方には住んでおらず、宗教的にも、神殿礼拝などの背景は描かれていません。「友」もそのような議論はしません。神について、神と人との関係、苦難の意味について語り合いますが、あまり、議論が噛み合っているとも言えません。なにか、答えを欲しくなりますが、そう簡単には、得られないと思って読んだ方が良いのかもしれません。みなさんは、ヨブ記からなにを読み取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨブ記1章ーヨブ記14章はみなさんが、明日8月7日(月曜日)から8月13日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Job 1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。 いくつかの候補があるようだが、ウツの位置は不明のようである。このヨブ記自体が、歴史的事実を記しているわけではないので、それを問うことは無駄かもしれないが、いくつかの候補をみていて、イスラエルの中ではないようだということは、興味を持った。ヨブ自体が何人だかは不明だが、ユダヤ人、またはその強い宗教的背景からは、離れたところの義人という設定なのだろう。それが、儀式などにおける落ち度のなさなどに囚われずに、書けた理由なのかもしれない。 Job 2:11-13 さて、ヨブの三人の友人は、ヨブに臨んだこのすべての災いを耳にし、それぞれの場所からやって来た。それは、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルである。彼らは互いに相談して、ヨブをいたわり慰めるためにやって来た。遠くから目を上げて見ると、それがヨブであると見分けることもできなかった。彼らは声を上げて泣き、それぞれ上着を引き裂き、天に向かって塵をまいて自分の頭の上に散らした。彼らは七日七夜、ヨブと一緒に地面に座っていたが、その苦痛が甚だしく大きいのを見て、話しかける者は一人もいなかった。 非常に真摯な向き合い方である。それでも、人は、批判を始める。なぜなのだろうか。自分の生き方と交錯するからだろうか。この謎を解き明かさなければ、平和や共に生きることはできないのだろう。このあとどのように変化するのか、ここで引用したことは、上部だけのことなのか、注意してみていきたい。 Job 3:26 私は安らかではなく、憩うことはない。/私に休息はなく、心は乱されている。 ヨブが語り始める。「この後、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日を呪った。」(1)この言葉が中心に置かれるが、引用した最後の言葉の方が真実を表しているように見える。ヨブは1章21b節で「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう。/主は与え、主は奪う。/主の名はほめたたえられますように。」と言っている。真実の信仰告白だろう。しかし、休息がなく、魂が憩うことがない時には、「主は与え、主は奪う。」のどちらもなかった方がよいと感じるのは、当然だろう。そのようなヨブに何かをいうことはわたしには、できない。 Job 4:6,7 神を畏れることが/あなたの頼みではなかったのか。/その歩みが完全であることが/あなたの望みではなかったのか。思い起こしてみよ。/罪がないのに滅びた者があったか。/正しい人で絶ち滅ぼされた者がどこにいたか。 ヨブにとって、このときも、「神を畏れることが頼み」だというのではないかと思う。しかし、これに続く因果応報には、受け入れられない。わたしは、因果応報を相対化しているが、丁寧に考える必要はあるだろう。無視するわけにはいかないのだから。これからの議論を丁寧に見ていきたい。 Job 5:8,9 しかし、私は神に尋ね求め/私のことを神に委ねる。この方は偉大なことをなされ、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。 ヨブもこれについては、同じ気持ちではないだろうか。しかし、エリファズはそう言いつつも、「神から懲らしめを受ける人は幸いである。/全能者の諭しを退けてはならない。」(17)とも語る。これも真実だろうが、苦しみの中にいるものには、神に尋ねもとめている真中においては、苦しみを増大させる言葉でしかないのかもしれない。苦しみの中にいる人に、語りかけることは本当に難しい。 Job 6:24,25 私に教えてほしい、そうすれば沈黙する。/私がどんな過ちを犯したか/私に悟らせてほしい。まっすぐな言い方は/なんと苦しみをもたらすことか。/あなたがたは何を懲らしめているのか。 生まれた日を呪ったヨブ、ここでも「どうか私の願いがかなえられ/神が私の望むものをくださるように。神が私を打ち砕くことを良しとし/御手を下して私を絶たれるように。」(8,9)と語る。エリファズへの応答は、引用句だろう。神に尋ね求めている。求め続けているヨブの信仰生活の核心がそこにあるのだから。真剣に求めている人には、その立ち位置が、わたしの立ち位置と異なっていても、その姿勢を大切にしたい。共に、尋ね求めるものとして。 Job 7:19-21 いつまで、私から目を離さず/唾を吞み込む間も/私を放っておかれないのですか。人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても/あなたに何をなしえるでしょうか。/どうして、私を標的にしたのですか。/どうして、私が私自身の重荷を/負わなければならないのですか。どうして、あなたは私の背きを赦さず/私の過ちを見過ごしてくださらないのですか。/今、私は塵の上に横たわります。/あなたが私を捜しても、私はいません。 「私は命をいといます。/いつまでも生きたくはありません。/私に構わないでください。/私の日々は空しいのです。」(16)と告白するヨブ、主が見放さないことが重圧となる。これは、一つの信仰告白でもあるように感じた。そうであっても、主は答えてくださらない。このように苦しんでいる人もいるのだろうか。他の表現で、同じようなことを語るのか。簡単に死なせてくれないと感じている人はいるだろう。命の重さだろうか。 Job 8:3 神は公正を曲げるだろうか。/全能者は正義を曲げるだろうか。 シュア人ビルダドの言葉である。その通り。しかし、同時に、主の働きを理解できていないことでもあろう。主が望まれるのは、公正と正義が最終目標ではないのだからだろう。主が、この世を造られた理由それを考えてみたい。それを理解していきたい。どこかに書かれているだろうか明確に。 Job 9:21,22 私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。/私は生きることを拒む。すべて同じことなのだ。/それゆえに私は言う/「完全な者も悪しき者も神は滅ぼす」と。 「私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。」は興味深い。この章では、引用句が大切であるように思うが、全く関係のない「神は大熊座、オリオン座、プレアデス/そして南の星座を造られた。」(9)が気になった。ヘブル語では、עֹֽשֶׂה־עָשׁ כְּסִיל וְכִימָה וְחַדְרֵי תֵמָֽן׃ で、כְּסִיל(ケシール)は、星座のこと、כִּימָה (キーマー)は、ななつ星のことのようである。ギリシャの名前を引用しているのではないようである。しかし、おそらく、古代社会には、現代で考えるよりも、さまざまな交流があったのであろう。そして、七十人訳では、対応するオリオン座、プレアデスなどが用いられているようである。 Job 10:2,3 私は神に言おう。/「私を悪しき者としないでください。/どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。 このことを聞きたいのだろう。主に。主の御心を求め続け、主の喜ばれる生き方をしたいと願ってきたことは、確かだろう。たとえ、欠点は、いろいろと見つかったとしても。わたしは、そこまでは言えないかもしれないけれど。「また会う日まで」の、最初の部分を思い出す。その姿こそに、真実があり、主は喜んでくださるのではないのだろうか。 Job 11:4,5 あなたは言った。/「私の教えは純粋で/あなたの目にも私は清廉だ」と。ああ、神が語りかけ/あなたに対して唇を開いてくださるように。 「ナアマ人ツォファルが答えた。」(1)と始まる章である。短絡かもしれないが、神の沈黙と、神との対話は、ヨブ記の重要なテーマだと思ってしまった。ヨブ記では、最後に神が答えられるが、一般的にはそうとは言えない。つまり、そこに解決の糸口を見つけることはできない。それを、ある程度可能にしてくれているのが、仲保者としてのイエスとの対話、そして、神を信頼しつつ人間通しの対話である。しかし、まさに、いま、友との対話が行われており、すべての解決を、仲保者としてのイエス、または聖霊との対話とするのも、問題があるように思う。やはり、難しい。 Job 12:24,25 神はその地の民の頭から悟りを取り去り/彼らを道なき不毛の地に迷い込ませる。彼らは光なき闇の中で手探りする。/神は彼らを酔いどれのように迷わせる。 主、神の自由、自律性だろうか。それを、制限することは、他者を支配することでもある。しかし、その神の自律性のもとで、人生が翻弄される人間を考えると、問題は単純ではない。この神の自立性・自律性だけでは、痛みはそのまま残るように思う。整理はたいせつである。 Job 13:1-3 見よ、私の目はすべてを見た。/私の耳は聞いて、それを悟った。あなたがたが知っていることは私も知っている。/私はあなたがたに劣らない。しかし、私は全能者に語りかけ/神に訴えたい。 ヨブがいまの世界を知っていたら、こうは言わなかったのではないかと思う。全能者と語りたい、このことは、理解できるが、周囲を排除してしまっている。たしかに、知識は、ヨブのもっているものに勝らないとしても、他者や、自然など、さまざまなところから、主が語りかけられると、わたしは、考えている。真っ直ぐとは言えるが、やはり、寂しく感じる。 Job 14:6 その人から目を離してください。/そうすれば、休息を得て/雇い人のように/その日を楽しむことができるでしょう。 最初には「女から生まれた人間は/その人生も短く、苦悩に満ちている。」(1)と始まり、後半には、死のあとには、なにもない。虚しさが書かれている。しかし、引用句が響いた。ずっと、主にみられていることが重荷だということだろう。なにか、もっと、のびのびとしたいというより、背後に、すべてのことを裁かれるという感覚があるのだろう。わたしは、人生をどう思っているのだろうか。正直、よくわからない。それは、主との関係も、はっきりしないということなのかもしれない。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第17回:8月10日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書3章20節〜30節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.8.6 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  33. BRC 2023 no.033:ヨブ記15章ーヨブ記28章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ヨブ記を読み始めました。先週は、その最初の三分の一、すなわち、前半を読みました。今週は、真ん中の三分の一、来週は、最後の三分の一、それでちょうど、ヨブ記を読み終わります。先週も、先々週も書きましたが、ヨブ記までで旧約聖書が大体半分です。そこで、一旦旧約聖書を離れ、今年の後半(8月28日から)は、新約聖書を読みます。通読が続かなくなった方もおられるかと思いますが、新約聖書から始めるのはおすすめです。通読を続けるのはなかなか大変ですが、一緒に聖書を読んでみませんか。新約聖書の最初は、四つの福音書、その最初の三つは、共観福音書と呼ばれます。毎回、一番下にお知らせを書いていますが、現在、マルコによる福音書を中心に、共観福音書をゆっくり、読んでいます。対面と遠隔(Zoom)です。ご興味のあるかたで、お時間の許す方はぜひどうぞ。 ヨブ記はいかがですか。知恵文学とも呼ばれますが、聖書の中に類型もなく、どう読んだら良いか、苦労される方もおられるかもしれません。下にもリンクをつけてありますが、章ごとにまとめたページの、ヨブ記の箇所をみると、わたしの6回分の通読のノートに書かれたことが載っています。毎回、苦労して読んでいると共に、少しずつ読み方も変わってきているように思います。あまり、テーマはとか、神様はヨブ記を通して、なにを語っておられるのかなどと考えなくても良いのかもしれません。ヨブの友人たちのことばを、ヨブになったつもりで聴き、ヨブのことばを、自分や(絶対他者と言われる神様を含めた)他者に、語られていることとして、聞いてみるのもよいのかなと思います。わからなくても、良いのではないでしょうか。すくなくとも、わたしも、よくはわかりません。みなさんは、どのような感想を持たれるでしょうか。人間には、生物としても、単純化バイアス(世の中は単純のはずたとの先入観を持ち、ある程度以上は深く考えたり、難しくなることを避けるため複雑さを許容しないようにする自己防衛本能)が常に働いているように思います。同時に、単純化バイアスを、そうでもないのかなと、相対化することも、ひとりひとりできるようにも思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨブ記15章ーヨブ記28章はみなさんが、明日8月14日(月曜日)から8月20日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Job 15:2-4 知恵ある人は風にすぎない知識で答え/東風で自分の腹を満たすだろうか。無益な言葉で論じ/役に立たない議論をするだろうか。あなたは神への畏れを捨て/神の前で祈ることをやめている。 ヨブは神の前で祈ることをやめているのだろうかと考えた。神に問うていること、それこそが、祈りであり、神に信頼を残していることの表れではないだろうかと思った。同時に、知恵や知識は静的なもので、関係性ではない。関係性の中で育まれるものかもしれないが、性質が違うのだろう。背後には、他者を理解できないという、これも関係性の問題があるように思う。それは、どのように変化しうるのだろうか。 Job 16:6,7 たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。/語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。 この前には、もし、自分が友の立場なら「私の口はあなたがたを励まし/私は唇を動かしてあなたの苦痛を和らげる。」(5)と語り、引用句では、この人々のことばは、友情をことごとく壊したとある。苦しい時こそ、知識ではなく、関係性なのかもしれない。関心を持つこと。簡単ではないのかもしれないが、それは、神様が、関心を持っておられることと関連しているように思う。 Job 17:3,4 どうか、私を保証する者を/あなたの傍らに置いてください。/ほかに誰が私の味方をしてくれるでしょうか。彼らが悟ることのないように/あなたが彼らの心を閉ざしたからです。/ですから、あなたが彼らを/高めるはずはありません。 ヨブ記は難しい。つい、この3節を選んでしまう。逃げ道を探っているのか。イエスに。一緒に次の節も選んでみた。この「彼ら」とは誰だろうか。友人だろうか。そして、あなたは、神だろうか。彼らのかわりに、私を保証するものを置いて欲しいというのだろうか。イエスが共におられることに感謝したい。 Job 18:2 いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。/まず悟りなさい。それから私たちは語ろう。 なぜ、ここまで理解し合えないのだろうか。平行線が続くのだろうか。痛みがわからないのだろうか。自分の知識や経験で、世の中をみてしまうからだろうか。それは、当然なのかもしれない。そうであっても、そこから、自由になることができるのかもしれない。それは、他者との関係からだろうか。やはり、そのような経験をしないと、無理なのだろうか。 Job 19:19 親しい仲間たちは皆、私を忌み嫌い/愛していた者たちも私に背を向ける。 興味深い表現が多い。「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。」(4)そうであっても、ヨブを責め立てる。そして、中心は「さあ、知るがよい。/神が私を不当に扱い/罠で囲っていることを。」(6)にあるという。その神がされることとして「神は私から兄弟を遠ざけ/知人たちもまた私から離れて行った。」(13)とあり、ここから、周囲の人から疎まれることが書かれている。そして「あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。」(21)と言い、最後には「あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後/私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。」(25,26)交わりが、究極的には、神との交わりを真摯に求めている。これが信仰者の姿なのだろう。 Job 20:27-29 天は彼の過ちをあらわにし/地は彼に向かって立ち上がる。彼の家の実りは消えうせ/神の怒りの日に滅び去る。これは、悪しき者が神から受ける分/神から告げられた受け継ぐべきものである。 信賞必罰なのだろう。因果応報だろうか。ヨブ記のテーマは、他者の痛みは、わからないということのようにも思う。ひとは、ある程度のことを知っている。そして、それを、大切にしている。しかし、他者の痛みを知り得ない。これは、とても、重要なことである。もう少し、考えたい。 Job 21:15,16 全能者とは何者なのか/我々が仕えなければならないとは。/彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と。彼らの幸いはその手の内にないというのか。/悪しき者の謀は私から遠い。 この章は理解が難しい。もしかすると、反語的なことばで語られているのかもしれない。それぞれの、裏にあることを主張しているようにも見えた。論争のなかの、詩文体なので、論理的に理解できると考える方に無理があるのかもしれない。 Job 22:29,30 低くされた者たちに/あなたが「立ち上がれ」と言えば/神は目を伏せている人を救う。罪ある者さえ神に救われ/あなたの手の清さによって救われる。 テマン人エリファズの三度目の弁論である。すでに、完全に、分裂してしまっているようにも思われる。ここでも、ヨブが神に問い続ける姿勢に対して、エリファズは因果応報の神の姿を語り続ける。しかし、引用句など興味深い。ひと(あなた)のはたらきにたいして、神が応答されると言っているようにも見える。そのようなことを、普遍化することは危険だが、そのようなことに、希望を持つこともあるのかもしれない。 Job 23:3-6 私は知りたい。/どうしたら、私はその方に会えるのか/御座にまで行けるのか。私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。/いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。 ここにヨブの願いが凝縮されていると思う。神にお会いすること。抗議し、神の答えを聞くこと。しかし、同時に、最後には、「私を心に留めてくださる」と語る。そこにあるのは、おそらく、論争ではなく、交わり、関心を寄せておらることを知り、共にいることなのだろう。それを願っても、ヨブは得られない。わたしにとっては、イエスと会うことが、この交わりを支えてくれるものだと信じている。そして、真理を求める人たちと共に。 Job 24:9-12 みなしごは母の乳房から引き離され/貧しい人の乳飲み子は質に取られる。衣服もなく、裸で歩き/飢えたまま麦の束を運ぶ。オリーブの並木の間で油を搾り/搾り場でぶどうを踏んで、なお渇く。町から男たちの呻きが聞こえ/傷ついた者たちの魂が叫ぶが/神はその惨状を心に留めない。 神に答えてもらえないものの苦しみが、自分だけではなく、社会的不公正、苦悩の部分について語られている。ここに表現されているものを、ヨブの時代にも、見ることができている人がいる。それにも驚かされる。最後に「神はその惨状を心に留めない」とある。おそらく、それを神も苦しんでおられるのだろう。それを共有すること、それが、その神と会うことなのかもしれない。 Job 25:2 支配と恐れは御もとにあり/神はその高みに平和を作る。 シュア人ビルダドの言葉、6節しかない。最後には「まして、人は蛆/人の子は虫けらにすぎない。」(6)と人が正しくなく、清くないことを表現している。神観の違いだろう。そのような神観にも訴えているのが、ヨブ記の特徴なのかもしれない。ユダヤ教ど真ん中にはなっていない。ユダヤ教の教義からの反論もない。神をどう考えるか、人間が創り出すものだとも言える。神自身を知るには、やはり啓示に依るしかないのだろうか。しかし、それが危険であることも、人間は知っている。 Job 26:2-4 どのようにして、あなたは力のない者を助け/無力な腕を救ったのか。どのようにして、知恵のない者に助言し/豊かでよき考えを授けたのか。あなたは誰に対して言葉を告げ/誰の息があなたから出たのか。 ヨブの言葉である。神との関係は、ひととの関係と不可分であることが想定されているように見える。神を人間の社会、自分と断絶した超然とした存在として捉えるのではなく、他者との関係性の中で捉えて、はじめて、神のさばきもあるという考え方にも取れる。神の望むことがまず存在するということだろうか。そして、それは善いことを願っていることでもある。 Job 27:2-4 生ける神は私の権利を奪い/全能者は私の魂を苦しめる。私の息が私の内にあり/神の息吹が私の鼻にあるかぎりこの唇は不正を語らず/この舌は欺きを言わない。 ヨブは、毅然とした態度で語る。しかし、続けて「私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。」(5)と続け、神理解の独白が続く。正直、この章だけでは、意図は読み取れない。一度、ゆっくり全体を読むことが必要なのだろう。 Job 28:12-14 では、知恵はどこに見いだされるのか。/分別はどこにあるのか。人はそこに至る道を知らない。/生ける者の地には見いだされない。深い淵は言う/「それは私の中にはない」と。/海は言う/「私のところにもない」と。 ヨブのことばである。「知恵は生ける者すべての目に隠され」(21)とあり、「神はその道を悟り/神がその場所を知っておられる。」(23)と断言する。しかし、このことが、断絶を生み、相互に理解できない関係を産んでいるのかもしれない。わたしは、神様もその道をご存知ないのかもしれないと思っている。それゆえに苦しんでいると。おそらく、両方の面があるのだろう。人間と比較すれば、神様は知恵を持っておられると。しかし同時に、神様も苦しんでおられることを否定することも、理解の幅を狭めることのように思う。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第18回:8月17日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書3章31節〜35節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.8.13 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  34. BRC 2023 no.034:ヨブ記29章ーヨブ記42章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ヨブ記はいかがですか。先々週は、その最初の三分の一、先週は、真ん中の三分の一、今週は、最後の三分の一を読みます。ヨブ記は全体で42章ですから、次の日曜日(27日)に読み終わります。ヨブ記までで旧約聖書の大体半分です。そこで、一旦旧約聖書を離れ、今年の後半(8月28日から)は、新約聖書を読みます。通読が続かなくなった方もおられるかと思いますが、新約聖書から始めるのはおすすめです。通読を続けるのはなかなか大変ですが、一緒に聖書を読みませんか。新約聖書の最初は、四つの福音書、その最初の三つは、共観福音書と呼ばれます。一番下にお知らせを書いていますが、現在、マルコによる福音書を中心に、共観福音書をゆっくり、読んでいます。対面と遠隔(Zoom)です。ご興味のあるかたで、お時間の許す方はぜひどうぞ。 ヨブ記の最後の三分の一は、少し変化があります。真ん中の三分の一は、三人の友人との対話といっても、ヨブが語る部分が多かったと思いますが、最後 31章までは、ヨブの独白、そして、32章から37章は、今までの三人の中にはいない、エリフという若いひとが語ります。そして、38章から、神が語り出し、ヨブの応答と、エピローグ(終章)と続きます。 エリフの部分をどのように解釈するかは、研究者にとっても難しいようで、後からの挿入とする学者も多いようです。みなさんは、どう読まれるでしょうか。明らかにそれまで語った三人の友人とは異なることを語り、三人の友人とヨブとは議論が噛み合っていないように見えますが、エリフは、ヨブのことばを受け取っているように見えます。また、エリフが語っていると、突然、神が語り始めます。人の話を聞いている中で、より普遍的な、神の声かなとおもうようなことばを受け取り、自分の中でも、さまざまな考えが変わっていくようなことは時々あるように思います。その意味でも、興味深い部分です。 神はどう語られるのでしょうか。そして、最後はどうなるのでしょうか。個人的には、少し不満もありますが、非常に難しい問題を扱っていることは確かだと思います。みなさんは、どのような感想を持たれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨブ記29章ーヨブ記42章はみなさんが、明日8月21日(月曜日)から8月27日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Job 29:15-17 私は見えない人の目であり/歩けない人の足であった。貧しい人の父であり/見知らぬ人の訴えに力を尽くした。不法な者の顎を打ち砕き/その歯の間から獲物を取り戻した。 ヨブは「今が昔の日々のようであったらよいのに。/神が私を守ってくれた日々のように。」(2)と始め、充実していた日々を語る。引用句はその一部である。このあとには「私の巣で私は死のう。/砂のように日々を増やそう。私の根は汀に広がり/露は私の枝に宿るであろう。私の栄光は私と共に新しくなり/私の弓は私の手の中で勢いづく」(18b-20a)と語っている。気持ちはよく理解できる。わたしにもそのように思う時が来るのだろうか。来ないとは限らない。そして、因果応報も、偶発的なことも、やはり受け入れるのは、難しいと思う。どう備えて生きたら良いのだろうか。 Job 30:19,20 神は私を泥の中に投げ込み/私は塵や灰のようになった。私があなたに向かって叫び求めても/あなたは答えず/私が立ち尽くしても、あなたは私を顧みない。 ヨブの祝福が取り去られたときを思うと、人為的なことと、天災とが含まれている。この章でも、前半は、人為的に、ヨブを貶めたことについて語っているように見える。しかし、ヨブの一番の悩みはやはりこの神への訴えに現れていると思う。このあとには、「私は知っている/あなたは私を死へと/生ける者すべてが集まる家へと帰らせることを。」(23)とも書いている。限りある命の中で、神に問い続ける。その歩みが尊いのだとは思うが、やはり苦しい。「私の腹は煮えたぎって、鎮まらないのに/私は苦しみの日々に向かい合わなければならない。」(27) Job 31:33,34 もし、私がアダムのように背きを覆い隠し/過ちを私の胸に隠したことがあったならもし、私の天幕の人々が/「あの人の肉で誰もが満足した」と言わないなら 群衆の騒ぎに震え上がり、一族の蔑みにおののき/沈黙して戸口に出なかったことがあったなら。 このような言葉が並び、「私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう。」(37)と言い切っている。わたしには、そんなことはできないが、引用句は興味深いので書いてみた。まずは、アダムについて「背きを覆い隠し」とある。そのように明言されていることに、ちょっと驚いた。そして、それに続く、ことばは、また、かなり異なったものである。いずれも、すべてを持って、毅然として、神の前に出る覚悟を表しているのだろう。この章で、ヨブのことばは完結し、エリフが語りだす。 Job 32:9,10 多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない。それゆえ、私は言うのだ。/聞け、私もまた自分の意見を述べよう、と。 謙虚さのある若者は貴重だが、やはり、自由に語れることが優先されるべきだと思う。たとえ浅薄であったとしても、それを語り、違った意見を聞くことが、来るべき世界を作っていくのだから。その意味でも、年をとったわたしも、若い人のことばに、極力耳を傾けなければいけない。そうありたい。なかなかできていないのが現実だが。 Job 33:12-14 これについて、「あなたは正しくない」/と私は答える。/神は人より偉大であるからだ。なぜ、あなたは神と争うのか/自分の言葉に神が一つも答えないからといって。神は一度語り、また再び語るが/人はそれに気付かない。 ヨブが正しさを主張することについては、神の偉大さを語ることにより、正しくないとし、神が応答されないことについては、応答を気づいていないかもしれないと応じる。これが適切な答えかどうかは不明だが、これら二点について、特に、二点目について、ヨブが語ることを受け取っていることはエリフが他の友人との違いだろう。ただ、やはり、痛みにどう寄り添うか、痛みは、自分にはわからないことをはっきりとさせることは出発点として、逃せないように思う。 Job 34:17 公正を憎む者が統治できようか。/あなたは正しく力ある方を悪しき者とするのか。 正直、エリフの言説について、十分は批判的に理解できないが、引用句は、最近考えさせられてことともあっていて、そうだなと思う。短期間統治するものは、さまざまであるが、長期間、それも、最初からずっと責任を持って統治するのであれば、それは、公正を求めないと成り立たないと思う。神にそのことを帰するのは自然である。「人は神に言えるだろうか。/『私は懲らしめに耐えました。もう不正はしません。私に見えないものを私に教えてください。/不正を働いたならば、もう二度といたしません』と。」(31,32)これも確かにそうだろう。ただ、ヨブが主張していることとはずれているようにも思う。 Job 35:14-16 確かに、「あなたはそれを顧みられない」と/あなたは言っている。/しかし訴えは御前にある。/あなたはただ神を待つべきだ。今、神は怒りをもって罰せず/愚かさを少しも心に留めないので ヨブはその口を空しく開き/知識もないのに言葉を重ねている。 エリフの箇所は難しい。あとから、追記されたのではないかとも言われているようだが、たしかに、三人の友人のことばとは異なるが、それが適切かどうかは判断できない。また、主イエスによる啓示もないので、神との交わりという部分もほとんどない。引用句においては、「待つべきだ」とある。たしかにその通り。しかし、苦しんでいる人にそれは慰めとなるだろうか。 Job 36:2-4 しばらく待て。あなたに知らせたい。/神についてまだ言うべき言葉があるのだ。私は遠い時代からの知識を携え/私の造り主に義を帰する。本当に私の言葉に偽りはない。/完全な知識を持つ者があなたと共にいる。 最初のことばは、このあと、神が語り始められるのを知っているようにも見える。しかし、それに続く言葉は、危険でもある。ここまでは、ひとには、断言できない。ヨブ記の成り立ちにも関係するので、それ以上は書けない。物語として、語ることの限界だろうか。 Job 37:14,15 ヨブよ、耳を傾けてほしい。/立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。 一部だけを取り上げたが、この辺りから、次の章の主が嵐のなかから答えられる内容に、つながっている。それをみて、挿入したとも言えないこともないが、流れとしては、エリフが語っている途中から、ヨブが神の声を聞いたとするのも自然だと思う。エリフが神の代弁者というわけではなく、他者が語ることを聴きながら、それが引き金となって、異なった思考を通して、新しい発見をすることがあり、啓示を受けることがある。むろん、エリフのことばは、十分とは思わないが。 Job 38:33 あなたは天の掟を知り/その法則を地に据えることができるか。 ここに書かれている、かなりの部分が自然科学的視点である。当時は、ほとんど何もわかっていなかった。わかっていなかったことを書いたのだろう。今は、ほんの少しわかっている。しかし、ほとんどは今もわかっていない。これらすべての背後に主がおられるとして、それを、人間にある程度理解できるようにしておられるとしたら、その法則を知ろうとし、それを、地においても、据えようとする努力は、たいせつな営みなのではないだろうか。じっくり考えてみたい。 Job 39:1 あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。/雌鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。 このあとも、自然の不思議についての記述が続く。それは、神の領分と言っているようだ。このいくつかは、誤っていることが確認され、他にも研究されていることがあると聞く。わからない部分を、神が支配しておられるとするのは、ひとつの考え方だが、おそらく、アインシュタインが言うように、神の働かれる部分をどんどん、闇の中に追いやることのように思う。神にとっても、人間にとっても、ほんとうに、困難なことに目を向け、それと共に向き合う方向に行くべきだというのが、わたしの現時点での考え方である。神様と痛みと苦しみを共にする。そこから、神様の御心を受け取って、生きる。やはり、かなり難しいが。 Job 40:25 あなたはレビヤタンを釣り鉤で/引き上げることができるか。/綱でその舌を押さえつけることができるか。 このあとも、レビヤタンについての記述が、29節まで続く。レビヤタンは海に住む龍、すなわち、神に抗うものなのだろう。ここで、神には、ここに描かれてあることができると理解することも可能だが、それは、できないと理解することもできるように思う。まさに、神が、人間のことばを使って、格闘していることについて、述べているとも言える。神の苦しさまでは、表現されていないが。すくなくとも、わたしの解釈と、整合性はあると思う。勝手な解釈かもしれないが。いずれにしても、神は全知全能としてしまうことは、神の苦悩、御子(神の子として、神に愛されたものとして生き抜かれたイエス)が死ななければならなかったことには、つながらない。神義論の難しさが全知全能にあるように思う。 Job 41:25,26 地の上にはこれに肩を並べるものはない。/レビヤタンは恐れを知らぬ被造物だ。これはすべての高ぶるものを見下す/誇り高い獣たちすべての王である。 この章にも、レビヤタンに関する記述がながく続く。「日を呪う者/レビヤタンを呼び起こすことのできる者が/これを呪え。」(3章8節)以外は、40章(3回)と、41章(7回)に集中し、あとは、聖書には、詩篇に2回(74:14,104:26)、「その日、主は/鋭く大きく、強い剣によって/逃げようとする蛇レビヤタンと/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また、海にいる竜を殺される。」(イザヤ27:1)だけに限られる。制御しにくい、どちらかというと、悪の役割を果たすものという存在なのだろう。実際には、さまざまな理由があっても、それをレビヤタンとすることは理解できる。科学的とは言えないが。 Job 42:12-16 主はその後のヨブを以前に増して祝福した。彼には羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛千軛、雌ろば千頭が与えられた。また彼には七人の息子と三人の娘が与えられた。彼は長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのような美しい女は地のどこにも見いだせなかった。父は、彼女たちにも兄弟たちの間に相続地を与えた。この後、ヨブは百四十年生き、子、孫、四代の先まで見届けた。ヨブは老いた後、生涯を全うして死んだ。 回復が語られている。特徴的だと思ったのは、娘のことである。息子は名前すら書かれていないのに、娘たちについては、「彼女たちにも兄弟たちの間に相続地を与えた」とも書かれている。これが、ちょっと変化した祝福の記録なのかもしれない。所有物や、こどもたち、長寿、この世での祝福は、神の祝福としてわかりやすい。それが文学的表現なのだろう。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第19回:8月24日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書4章1節〜9節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.8.20 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  35. BRC 2023 no.035:マタイによる福音書1章ーマタイによる福音書14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ヨブ記はいかがでしたか。今週から、いよいよ、新約聖書を読みはじめます。何度か書いてきましたが、通読が続かなくなった方もおられるかと思いますが、新約聖書から、一緒に聖書を読みませんか。新約聖書の最初は、四つの福音書、その最初の三つは、共観福音書と呼ばれます。これら共観福音書の、聖書における順番は、マタイ、マルコ、ルカとなっていますが、書かれた順番としては、まず、マルコによる福音書が書かれ、それから、マタイによる福音書とルカによる福音書が書かれたと言われています。マタイによる福音書や、ルカによる福音書は、マルコによる福音書をなぞったような箇所、ほんの少しだけ、変えたと思われる箇所がたくさん含まれています。ヨハネによる福音書は、共観福音書より少し後に書かれたようです。 一番下にお知らせを書いていますが、現在、マルコによる福音書を中心に、共観福音書をゆっくり、読んでいます。対面と遠隔(Zoom)です。ご興味のあるかたで、お時間の許す方はぜひどうぞ。 さて、マタイによる福音書については、下に、リンクがついている箇所に、説明してありますので、参照してください。基本的なことだけを書いておくと、マタイさんは、イエスの十二弟子の一人で、収税人だったようです。当時、ユダヤ人は、ローマ帝国に支配下にあり、そのローマに収める税金を集めていたわけですから、ローマの手先として、蔑まれていたようです。マタイが、弟子となった次第も、途中に出てきます。 マタイは、ヘブル語で、イエスの説教などを記録していたとの伝承が残っています。そして、マルコによる福音書を下敷きとして、マタイ由来のものを入れて、マタイによる福音書ができたと言われています。マタイによる福音書は、マタイ由来の福音書ぐらいの意味でしょうか。どのように読まれるか、あとは、皆さんに委ねたいと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マタイによる福音書1章ーマタイによる福音書14章はみなさんが、明日8月28日(月曜日)から9月3日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。 今朝、Dietrich Bonhoeffer の言葉を読んだ。「Gott gibt uns zu wissen, dass wir leben müssen als solche, die mit dem Leben ohne Gott fertig werden. Der Gott, der mit uns ist, ist der Gott, der uns verlässt. ... Der Gott, der uns in der Welt leben lässt ohne die Arbeitshypothese Gott, ist der Gott, vor dem wir dauernd stehen. Vor und mit Gott leben wir ohne Gott. 神は私たちに、神なしの人生にも対処できる者として生きなければならないことを教えてくださいます。 私たちとともにおられる神は、私たちを離れる神です。 ...神の作業仮説なしで私たちを世界に生きさせてくれる神は、私たちが常にその前に立っている神です。 神の前で、神とともに、私たちは神なしで生きています。(Google)」(https://www.ekd.de/060307_huber_dessau.htm)神は私たちと共におられる。そして、その神は、神の作業仮説なしで私たちを世界に生きさせてくれる神なのかもしれない。神の子となる力(エクスーシア:ἐξουσία - power of choice, liberty of doing as one pleases)を与えてくださる神様。深い言葉だと思う。 Matthew 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。 この解釈を、榊原康夫先生の「マタイによる福音書講解」で読んで、このように聖書を読むこともできるのかと驚かされ、それから、聖書を考えながら読むようになったことを思い出す。「彼らはメシヤのいる所を知らないので、ユダヤの都エルサレムに一度来た上で、メシヤはどこにおられますかと尋ねなければなりませんでした。彼らがベツレヘムへ向かったのも、ユダヤ教側の学問的解答を教えられたからであって、決してメシヤの星の導きによったのではありません。事実、都エルサレムから、わずか八キロメートルほど南にあるベツレヘムまでは、ただ一本の大きな街道が通じているだけなので、星の道案内などはいらないのです。その上、中天高く輝く星がどこかの上に止まったとしても、おおよそどの星もみな止まっているのですから、この星の真下はどこ、あの星の真下はどこ、とわかるものではありません。どの星でも、わたしたちが夜空を仰いで歩けば、わたしたちに一歩ずつ先んじて、どんどん「先へ進む」のではないでしょうか。わたしたちが立ち止まると、見よ、星も止まるのです。」大阪大学工学部を中退されたと聞いたが、理系の論理的思考も働いているようで、親近感を感じたこともあるのかもしれない。 Matthew 3:1-3 その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」預言者イザヤによって、/「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。 今回、この「悔い改めよ。天の国は近づいた。」を読んで、地上が神の国になるということとは、違うのかもしれないと思った。神様の支配はすぐそこだとして、生きることを言われているのかもしれない。だからこそ、信仰を持って生きることが求められているのだろう。 Matthew 4:17 その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 近づいた、であって、来たではない。そのことを間違ってはいけないと感じた。それが信仰をもって、神にしたがって生きることなのだろう。混乱しないように、生きていきたいものである。 Matthew 5:3-5 「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。 山上の垂訓である。通読で、一日半で読んでしまうのはもったいない。引用句では、悔い改めに導かれることを言っているのかなと感じた。ひとは、過ちをする。聖霊の語りかけを聞いても、簡単には、受け入れられない。それが受け入れられるのは、このような人たちなのかもしれないと思った。心の貧しい人、悲しむ人、へりくだった人。 Matthew 6:19-21 「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 この章には「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。」(1)とか、「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」(5)とか、「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」(16)の言葉が並ぶ。痛いところをつかれている。わたしも、どこかで、地上での報いを求めてしまっている。神の前に歩んでいると言いながら。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」アーメン。そのような生き方をしていきたい。 Matthew 7:26,27 私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 山上の説教はには、さまざまなことが書かれている。そして、それは、これだけ守れば永遠の命(神様の御心によって生きる命)がいただけるとは言っていない。おそらく、どれひとつをとっても、大切なのだろう。それを、語っている。しかし、ひとつの鍵は、この最後の部分に書かれているところにあるのかもしれないと思った。やってみること。やらなければ、おしまいだよ。ということだろうか。イエスも、簡単に、ことがなるとは考えていなかったのだろう。これも、人間の単純化バイアスだろうか。 Matthew 8:34 すると、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、その地方から出て行ってもらいたいと言った。 なぜ、このようになったのかを考えた。経済的理由、豚の群れが崖から下って湖になだれこみ、水に溺れて死んだからか。たしかにそれによって損失を受けたものたちがいただろう。しかし、悪霊に憑かれた二人の人から、悪霊が追い出されたのである。そちらに目を向けても良いはずである。おそらく、人々は、そのことをそれほどまでには、望んでいなかったのではないだろうか。つまり、神様の御心がなることを望んでいない。この章には、イザヤ書からの引用「彼は私たちの弱さを負い/病を担った。」(17b)がある。これは、望まれる、救い主の姿ではなかった。つまり、神様の御心は、望まれなかったということではないだろうか。 Matthew 9:32-34 二人が出て行くと、人々が、悪霊に取りつかれて口の利けない人をイエスのところに連れて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。 このあとの、ベルゼプル議論(12:22-32)では、悪霊にとりつかれ、目もみえず、口も聞けない人が登場する。ここでは、口が聞けない人、このことが、ルカでは、ベルゼブル議論(ルカ11:14-23)に書かれている。マタイが正しいのかもしれない。そして、ここで、悪霊の頭が登場し、ベルゼブル議論の、予兆を感じさせるようになっている。興味深い。 Matthew 10:16 「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。 イエスは心配でたまらなかったのだろう。しかし、いま、送り出すことをしなくてはいけない。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」(6,7)と言っている。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)の悔い改めはない。さらに、難しいことのように思われる。聖霊の働きが必要なのか。 Matthew 11:1 イエスは十二人の弟子に命じ終えると、方々の町で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。 ペトロの説教の中には、弟子たちだけに語られたことは、含まれていなかったろうと思う。すなわち、弟子たちだけに、語られたことを学ぶには、マタイやルカやヨハネなど他の証言が必要だということである。そのような見方で、福音書を分けてみることも、大切かもしれない。むろん、自分の子と呼ぶマルコに、ペトロがある程度は、弟子としての心得を語ったことは考えられるが。 Matthew 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。 いつから話しておられたのか特定することは難しい。マルコでは、22節からのベルゼブル論争の前に、家族が家にきたとして、これが、家で起こったことと、家族がきていたことを書いている。それに沿って考えると、イエスが語られたのは、22節からで、一続きと考えるのが良さそうである。しかし、場所について、マタイは、沈黙する。おそらく、カファルナウムで、そこには、イエスがいられる場所は、何箇所もあったのかもしれない。 Matthew 13:34,35 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いずには何も語られなかった。それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。/「私は口を開いてたとえを語り/天地創造の時から隠されていたことを告げよう。」 「私は口を開いてたとえを語り/いにしえから隠されていたことを告げよう。」(詩篇78章2節)からの引用とある。なぜ、たとえで語るかは、それほど簡単には、わからない。考えることはあると思うが、いくつもの解釈ができてします弱点もある。しかし、自分が欲するものをもとめるだけではいけないこと。さらには、イエスのことばに耳を傾けることの重要性は伝わるのだろうか。よくはわからない。 Matthew 14:13,14 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。 バプテスマのヨハネが殺された直後の記事である。このあと、五千人の給食の記事が続く。イエスのこころの中を理解することはできないが、ここでも、イエスはおそらく、祈っただろう。しかし、民は、押し寄せてくる。神の国を求めてではなく、イエスが与えてくれるものを求めて。イエスは、どんなことを考えていただろうか。ゆっくり考えていきたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第20回:8月31日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書4章10節〜12節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.8.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  36. BRC 2023 no.036:マタイによる福音書15章ーマタイによる福音書28章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 新約聖書はいかがですか。マタイによる福音書を読み始めました。マタイによる福音書は、全体で28章ですから、たまたまですが、今週は、マタイによる福音書のちょうど後半部分を読むことになります。一章に、いくつもエピソードが詰まっていますから、一日で二章読んでしまうのは、ちょっともったいねい気がするかもしれません。しかし、同時に、どのような流れの中に、そのエピソードが登場するか、エピソードのつながり方に興味を持ったりもします。教会に行っておられる方は、知っておられるエピソードが多いかもしれませんが、そのつながり方にも発見があるかもしれませんね。 もっと、ゆっくりじっくり考えながら読みたい方は、4月から毎回下に案内している、聖書を読む会もしていますので、登録してくだされば案内を送ります。現在は我が家で開くと共に、Zoom で遠隔でも参加できるようにしています。 たくさんのエピソードが詰まっていますが、ひとつでも、こころに残ったものがあったら、書き留めておくことをお勧めします。このあと、マルコによる福音書、ルカによる福音書と読んでいきますが、似たエピソードで、少し違った表現のものも登場します。通読では、来年にももう一度、新約聖書を読みますから、そのときに、記録を見返すこともできます。そのような記録を、わたしは、みなさんにお送りしているわけです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マタイによる福音書15章ーマタイによる福音書28章はみなさんが、明日9月4日(月曜日)から9月10日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Matthew 15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 「なぜ、あなたの弟子たちは、長老たちの言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(2)から始まり、ここから群衆に語り、そして、弟子たちが近寄ってきて、弟子たちに話す。まとめとして「あなたがたも、まだ悟らないのか。口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない。」(15b-20)となっている。引用句を選んだのは、オープンスペースで、おそらく、ファイサイ派のひとも何人かは聞くことができただろうということである。イエスは区別をされない。弟子たちに語ったことも、このように公開されているのだから。そして、それこそが、異邦人宣教の道が、ペトロを通して開かれた鍵ともなっている。使徒10章15節等。 Matthew 16:2,3 イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。 時のしるしなどを通して、神様は、さまざまな「天からのしるし」(1)を与えておられるということだろう。それを、見分けるのは、簡単ではない場合もある。自然科学や社会科学なども、ひとつのツールではあるように思う。 Matthew 17:15-17 言った。「主よ、息子を憐れんでください。発作でひどく苦しんでいます。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまであなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに連れて来なさい。」 現代の状況について、イエスは喜ばれるだろうか。おそらく、そうではないように思う。熱心さが足りないと言っているのだろうか。おそらく、そうでもないだろう。神様が働かれるようにされること、それをみることなのだろうが、そう簡単ではない。 Matthew 18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。(✝★底本に節が欠けている箇所の異本による訳文 人の子は、失われたものを救うために来たのである。) 「誰が一番偉いのか」(1)からはじまり「これらの小さなもの」として、こどもを、彼らの真ん中に立たせ、そして、「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」(6)について語り、引用句がある。まさに、傷ついた葦を折ることなく、消えかけた灯を消さない、ということは理解できる。しかし、おそらく、それ以上のことを言っているのだろう。神様のみこころ、かみさまが大切にされることだろうか。 Matthew 19:20,21 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(16)ここから対話がはじまる。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(17)と答えられるイエス。このあと、引用句の最初の部分の答えをするやりとりがあるわけだが、イエスは戒めを守ることは、御心を行うことだったのだろう。それが、引用句の後半に現れている。イエスと共にいるとそれは、明らかだったかもしれない。イエスの教えを聞いて、この青年も、なにか足りないと感じとっていたのかもしれない。 Matthew 20:13-16 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 最後の言葉が直前の19章30節にある。その説明のたとえなのだろう。なにがいただけるかから始まっているこの議論の最後に、引用句がある。主人がしてやりたいこと、神がしたいことそれを妬むことが戒められている。そして、気前の良さだろうか。御心を行うとはなかなか難しいことである。それは、御心を受け取ることでもある。 Matthew 21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」 「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。』」(23)から始まった議論である。引用句のイエスの答えのあとにも、イエスは話し続けてている。「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(31b,32)ここでも、ヨハネのことを語っている。まさに、このことを伝えているのだろう。「後で考え直」す必要がながす必要がある。ということだろう。このことはよくわかる。 Matthew 22:31,32 死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 驚きのことばである。子が無く死んだ場合のサドカイ派のひとの質問に答えている。死をどう考えるかという根本に関わる答えが用意されている。それは、すぐ思いつくものではないだろう。現在の状況の認識が違うのだろうか。イエスは、アブラハム、イサク、ヤコブとも交わりを持っているのではないだろうかと思った。その日常が背景にあるように思う。 Matthew 23:11,12 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 律法学者たちやファリサイ派の人々を批判したことばのあとに、引用句が続く。背景がわからないので、なぜ、ここに書いてあるほど厳しく糾弾するかわからないが、たいせつなことは、この部分にあるように思う。これに反することをしていていながら、自らが偉く、他の人はそうではないというような行動をする人たちに対して語っているのだろう。謙虚さは、わからないということからくる。たんに、へりくだるだけではなく、仕えることを学びたい。 Matthew 24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 ここから終末について語られる。しかし、イエスは、質問に応答されるが、最後に、たいせつなことを語る。ここでは、途中でも、「人に惑わされないように気をつけなさい。」とまず言っているが、このあとに、忠実な僕と悪い僕のたとえがあり、三つのたとえがつぎの章に続く。このあたりに、悟ってほしいことがあったと考えるのが正しいだろう。その最後は、この最も小さきものに、である。しっかりこのことを覚えたい。 Matthew 25:1 「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 断食についての問答(マタイ9:14-17, マルコ2:18-22, ルカ5:33-39)のときに考えたが、花婿はイエスであり、おとめは、婚礼の客、まさに、迎えられるひとたちなのだろう。通常の結婚式だと考えると、混乱が起きる。この章の三つのたとえは、すべて終末、または、人生の評価について語っている。そのもとで、読まないといけないと思う。 Matthew 26:26-28 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。 贖罪については、福音書にあまり書かれていない。しかし、この箇所は、贖罪について語っている。同時に、ここでは、契約の血という言い方をしている。いのちをかけた、証拠だと言っているのだろう。もう1箇所は、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章28節)他にはないのだろうか。探してみたい。 Matthew 27:15-17 ところで、祭りの度に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。時に、バラバ・イエスと言う名うての囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」 このときに、声をあげられるか。ひとつの問いである。しかし、声をあげることによって、そのひとの救いが得られるわけではないことも考えるべきである。たしかに、ここには、ひとりも、声をあげたひとのことが書かれていない。他にも、さまざまな場合に、そのようなことは起こる。戦争においても、戦争をやめる場面においても、社会主義者や、他の国の人をいじめるときにも。整理してみたい。 Matthew 28:16,17 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 マタイでは、復活のイエスに会ったのは、マグダラのマリアと、もうひとりのマリア。そして、引用箇所だけである。ここでは、ガリラヤで起こったこととして書かれ、かつ、疑うものもいたことが書かれている。たしかに、他の箇所には、さまざまな記録があるが、不完全であることも、確かであるように思われる。一番、早い証言は、パウロだろうか。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。次いで、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。」(1コリント15章3-8節) お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第21回:9月7日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書4章13節〜20節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.9.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  37. BRC 2023 no.037:マルコによる福音書1章ーマルコによる福音書14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) マタイによる福音書はいかがでしたか。マタイによる福音書は、マタイが書き残したものを使って、最初ヘブル語で書かれたという説もあるようで、旧約聖書からの引用も多く、自然に繋がっていることもあり、新約聖書の最初に置かれているのかもしれません。 今週は、マルコによる福音書を読みます。マルコによる福音書は、16章ですから、ほとんど、最後の方まで、読むことになります。マルコは、ペトロ(シモン、ペテロ)の通訳だったと伝えられており、新約聖書の何回か登場します。詳細は、下のマルコによる福音書のリンクを参照してください。内的、外的証拠から、四つの福音書の中では、最初にマルコによる福音書が書かれ、次に、マタイとルカが書かれ(順序はわかっていません)最後によヨハネによる福音書が書かれたとされています。 現在、聖書の会では、マルコによる福音書を中心に、似た内容が書かれており共観福音書と呼ばれている、マタイによる福音書と、ルカによる福音書とあわせて読んでいます。素朴ではありますが、ペトロ由来であるためでしょうか、マタイによる福音書や、ルカによる福音書とは違った、直接証言と思われる箇所も多く、非常に魅力的だと感じながら読んでいます。みなさんは、どのようなことを感じられるでしょうか。 マタイによる福音書で読んだのと同じ記事が何度も登場すると思いますが、そとのきは、ちょっと、マルコによる福音書と、マタイによる福音書を比較してみると、新しい発見、それぞれが伝えようとしていることなども考えさせられ、より立体的な理解ができるのではないかと思います。通読では、なかなか、落ち着いては読めませんが、おすすめです。マルコを中心に、対象箇所を下のリンクにまとめてありますから、必要に応じてご利用ください。 マルコによる福音書表題:https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/tables.html みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マルコによる福音書1章ーマルコによる福音書14章はみなさんが、明日9月11日(月曜日)から9月17日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 マルコによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#mk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Mark 1:8 私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。 ヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマ。イエスのバプテスマ、または、やはり、促すものは、悔い改めかもしれない。しかし、それは、聖霊によるのであれば、神様の霊によって、つねに、語りかけてくださるものなのだろうか。かたくなにならないように、受け入れられるように。その鍵は、イエスと共にいること、イエスに従うことだろうか。 Mark 2:19,20 すると、イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。 マタイによると、この質問は、ヨハネの弟子たちがしたことになっている。ヨハネはすでに、捉えられ、ある意味で、彼らの花婿は、取られている。イエスはまだ弟子たちと一緒にいるが、それが取られる日が来る。それは、ヨハネの弟子たちへの配慮のように思われる。このあとの、「誰も、真新しい布から布切れを取って、古い服に縫い付けたりはしない。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れが古い服を引き裂き、破れはもっとひどくなる。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(21,22)が、ヨハネの弟子たちに言っているのであれば、余計、意味がはっきりしてくるように思える。 Mark 3:28,29 よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」 聖霊の働き、あまり教義から出発して考えない方がよいように思う。教義に詳しい人たちは、それこそがイエスを通して教えられたことだと考えるのだろうが。イエスは、もっと、ナイーブなこころで、答えたのではないだろうか。一人一人に神様は、聖霊をとおして、働いておられると考えておられたのではないか。それを、日々実感していたのかもしれない。 Mark 4:31,32 それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 成長を与えてくださるのは、神様だろう。しかし、それが自然にそうなっているのか、神様の介入があるのかは、わからない。土壌の違いもあるのかもしれない。これも、複雑系なのかもしれない。ここでは、とても、小さいものが、大きくなることのたとえである。イエスはそれを信じて、メッセージを語っていたのだろう。 Mark 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」 この章には、印象的な話が連続して記されている。レギオンに取り憑かれた人、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女。イエスは、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、『私の衣に触れたのは誰か』と言われた。」(30)と言われている。力が出ていった。エネルギーがなくなったのを感じたのかもしれない。しかし、それを、引用句で補っている。ここに、病を負う、イエスの姿がある。犠牲は十分にあるのだろう。 Mark 6:24 そこで、少女は座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 ヘロデの妻はこれで幸せになれたのだろうかと考えた。なにが幸せかよりも、目障りだったのだろうか。わからない。これで一生幸せになれるとはとうてい思えない。目前の批判者を消すということか。なにかとても寂しい。そのような精神生活は、食べ物のために日々、毎時毎時を生きざるを得ないひとと同じに見える。 Mark 7:14,15 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」 外から人に入って、問題を起こすものは、たくさんある。ただ、そのことと、宗教的な清さとを混乱してはいけないと言っているのだろう。ただ、この箇所は、「そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(2)から始まっている。衛生の問題と取ることができないことはない。ここも、弟子たちを、守るために、議論をはじめ、より本質的なことに話を導いていっているようにも思われる。 Mark 8:34,35 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。 ここは、弟子の覚悟について語っている。しかし、イエスに従うという意味では、真理を求める人すべてに適用されるかもしれない。そして、ここに書いてあることが、まさに、従うということなのだろう。しかし、「自分を捨て」は、ある意味ではアーメンと言えるが、そのままは、受け入れられない。イエスは、どのような意味で言っているのだろうか。 Mark 9:38,39 ヨハネがイエスに言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。 いくつもトピックがあり、通読で、みな考えるのはむずかしい。ここにあるのも一つの真理ではあろうが、判断はむずかしいだろう。いろいろな場合があるのだから。イエスは、ここに記されていない情報を持っていたのだろうか。そうかもしれない。同時に、一旦は、従わなくても、従うかもしれないとの期待が込められているのかもしれない。 Mark 10:29-31 イエスは言われた。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(23b)とイエスが語ったところから続いている段落である。イエスのさまざまな配慮を感じる。すぐに、弟子たちをしからず、しかし、注意すべきことを述べる。イエスは、弟子たちの成長を望んでいたのだろう。わたしたちの理解をも。 Mark 11:30-33 ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」 群衆は「ヨハネは本当に預言者だと思っていた」ことを考えてみたい。イエスよりも、人気は高かったようにも見える。ユダヤの外でも、バプテスマのヨハネの知名度は高かった。ひとつには、旧約の預言者と近い方法で語り、生活したからか。祭司の子でありながら、それを捨てたことに、既存勢力への不満が民にあったからか。悔い改めの必要を、受け取ることができたからか。ひとは、自分が惨めな状態であることは、知っている。しかし、どのように、生きるか、神の子として、生きることに、焦点が置かれている、イエスには、ついていけなかったのかもしれない。理解できるのは、現実の病や悪霊に疲れている人の癒しなど。 Mark 12:32-34 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。 最後の「あなたは神の国から遠くない」には、いろいろな解釈がありうるだろう。そこで、考えてみることにした。この律法学者の答えは、この枠組みでは、正解だろう。同様な記事が、マタイ22:34-40と、ルカ10:25-28 にある。この後者は、善きサマリヤ人のたとえに続く部分である。つまり、答えとしては正しいが、どのことばをどう生きるかが問われているように思われる。それが、遠くないが、それで終わってはいけないということだろう。みことばに生きることに挑戦することに、つねに招かれている。 Mark 13:1,2 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう。」イエスは言われた。「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」 終末論とも言えるものが、このあと展開される。正直にいうと、そのことにわたしは懐疑的である。まず、引用句において、物質的なことに目を向けている弟子に、そのようなものは、崩れ去ると言っている。そして、このあとも、苦難の時が起こることは言っているが「人に惑わされないように気をつけなさい。」(5)「また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13)「主がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(20)「気をつけていなさい。」(23b)このあと、再臨を思わせる箇所はある。丁寧にみていきたい。 Mark 14:33-35 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、 このあとには「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(36b)の祈りが続く。今回は、「この時を過ぎ去らせてくださるように (καὶ προελθὼν μικρὸν ἔπιπτεν ἐπὶ τῆς γῆς καὶ προσηύχετο ἵνα) εἰ δυνατόν ἐστιν παρέλθῃ (παρέρχομαι: i) to go past, pass by, to come near, come forward, arrive) ἀπ’ αὐτοῦ ἡ ὥρα,」に目が止まった。過ぎ去るとは、どのような感覚なのだろう。苦しみの一つの表現なのだろうか。よく考えてみたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第22回:9月14日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書4章21節〜25節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.9.10 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  38. BRC 2023 no.038:マルコによる福音書15章ールカによる福音書12章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) マルコによる福音書はいかがですか。マルコによる福音書は、たとえば、文章の3分の2が Kai(And そして)で始まるなど、ギリシャ語としても素朴な文体になっているといわれ、長さも四福音書の中では一番短いですが、マルコにしか含まれていないようなことを発見することもあります。前回も書いたように、マルコはペトロについて通訳として語ったと言われていますから、内容的には、ペトロ由来とも言えるかもしれません。最初に書かれたこともあり、やはり、イエスの活動とことばを伝えるとてもたいせつな資料であると思います。今週は、最後の部分、死と復活です。しかし、最古の写本は、16章8節で終わっているようです。たしかに、そのあとは、文体も変わっています。その箇所で破られたあともあると伝えられます。どのようないきさつかは気になります。 マルコによる福音書の次はルカによる福音書を読みます。今週はその前半。ルカは、福音書のあとに収められている書簡を書いたとされるパウロに近しいギリシャ人で、医者、パウロの伝道旅行に一部同行した人のようです。ルカによる福音書の最初には、 敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。(ルカ1章3節) とあり、パウロはイエスの弟子として一緒に行動した人ではありませんから、パウロ由来というより、自分で詳しく調べたことが元になっているようです。マルコによる福音書も調べた資料の一部だったでしょうが、パウロと一緒にエルサレムに行ったときには、いろいろな人たちから聞き取り調査をしたものと思われます。イエスと共に行動をした弟子たちや、イエスや弟子たちから直接、または、間接的に話しを聞いたひとたちの話も聞いたでしょう。それをまとめたということになります。用語も豊富で、美しいギリシャ語で書かれていると言われています。たとえなどもたくさん書かれていますし、女性が多く登場するのも特徴的だと言われます。みなさんは、どのようなことを読み取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マルコによる福音書15章ールカによる福音書12章はみなさんが、明日9月18日(月曜日)から9月24日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 マルコによる福音書とルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#mk ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Mark 15:8-10 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。 悲しさも感じる。ピラトは、祭司長たちは、妬みからイエスを引き渡したと考えている。群衆たちは。しかし、ここでも、祭司長たち、民の指導者のことばに抗(あらが)ってまで、違う意見を言わなかったということか。このあと、「しかし、祭司長たちは、バラバのほうを釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』」(11-13)と続く。そして、最終的には、「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(15)と結んでいる。積極的には、責任を取らないということではあったろう。 Mark 16:8 彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 ここが、一番、古い、写本の最後である。復活の記事を、切り裂いたと考えるのが自然だろう。どのような気持ちだったのだろうか。自らが信じていない、幻ではと考えていることを、含めたくなかったのか。それとも、何回か、書き換えがなされたのか。確かに、現存の結びは、整えられ過ぎているようにも見える。 Luke 1:1-4 私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。 「伝えたとおりに」からも、語られた事実であって、事実と言っているわけではない。これは、実証不可能なことでもある。しかし、やはり、受け取ったものが伝えられ、それが書かれたという事実は、踏まえて読むべきだろう。それが、事実と比べると、正確ではないことはありうる。聖書を神の言葉と信じることを仮定しないと、確定できないことと、証言として、受け入れられることは、やはり区別して考えた方が良いように思う。 Luke 2:48-50 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。 善意に解釈することも可能だが、相手の気持ちが理解できない、未熟者とも考えることができる。ただ、「なぜ、こんなことをしてくれたのです」に対する、いさめる気持ちはあったかもしれない。難しい判断である。さまざまに解釈しうる。 Luke 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 福音という言葉が出てくる。ヨハネがその意識があったかどうかはわからないが、ヨハネのメッセージはどのようなものだったのだろう。マタイとルカが詳しい。「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(3)基本的に、悔い改めであるように見える。マタイには「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3章2節)とイエスと同じメッセージが書かれている。神の国が近づいた。これは、福音だろう。しかし、ヨハネにおいては、裁きを前にして悔い改め。イエスは、神の国の到来自体を知ることのように思われる。福音ということばで結ぶのは、一体であることを示すためだろうか。 Luke 4:23,24 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」そして、言われた。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 この記事は、マルコでは、6章、マタイでも、大体対応する場所にあるが、ルカでは非常に早い段階に置かれている。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」とあるが、カファルナウムでの記事は、このあとに置かれている。ペトロたちを弟子に招く記事もこれよりもずっと後に置かれている。何らかの意図はあったのだろう。イエスの動線を単純にしたかったからか、ナザレから、ガリラヤ、ユダヤ、そして世界と、反発とともに、広がっていくことに焦点を起きたかったか。少しずつ学んでみたい。 Luke 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。 ルカはなぜ、ここに、ペトロたち四人の漁師が弟子となった記事を入れたのか考えながら読んだ。この章では、これが最初のエピソードで「私は罪深い人間です」と告白している。イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10)。このあとは、規定の病にかかった人の癒しである。「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」(12)イエスは「私は望む。清くなれ」(13)。そのあとは、運ばれてきた体が麻痺した人に対して「人よ、あなたの罪は赦された」(20)。最後は、レビの家での会食の場面で「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31b,32)である。罪からの清めが、中心テーマとしてあるように感じた。ルカの編集である。 Luke 6:46-49 「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった。しかし、聞いても行わなかった者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」 平地の説教のあとで言われている言葉である。やはりここでも、「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」と言い、さらに、「私の言葉を聞いて行う者」について述べている。ここに核心があるのだろう。しっかり受け取りたい。 Luke 7:33-35 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。」 最後のことばが心に残った。「知恵の子であるすべての者が証明する。」どういうことだろうか。いずれ、静まって考えれば、わかるということだろうか。おそらく、ここで引用されていることは、おかしいことは、理解できるのだろう。さらに、ここで話しているのは、弟子たち、さらに、ヨハネの弟子たちのことをよく知っている人たちである。批判に対して、それにたじろいではいけないと言っているのかもしれない。 Luke 8:1-3 その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。 このあと種まきのたとえが語られる。仕えていた女性たちも、そのたとえを聞いていただろう。「イエスが独りになられたとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人と共に、たとえについて尋ねた。」(マルコ4章10節)これは、この女性たちなど、十二弟子以外が、十二弟子に尋ね、わからなかったので、イエスに尋ねたという構図を浮き上がらせる。十二弟子の権威を貶めることは、マタイや、ルカは、書かなかったのかもしれない。しかし、ルカのこの証言によって、わたしたちは、ある程度それを知ることができる。十二弟子が、必ずしも、「神の国の奥義」を理解できていたわけではないことがわかる。それは、おそらく大切なことだろう。 Luke 9:33-35 この二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆った。彼らが雲に包まれたので、弟子たちは恐れた。すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。 興味深い。「ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかった」と書いてある。しかし、それを咎めるのではなく、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」で結ばれている。イエスの権威に委ねられたとも言えるが、ペトロを咎めなかったことも背景にある。印象的な出来事だったのだろう。 Luke 10:20 しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」 「七十二人は喜んで帰って来て、言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」(17)を受けている。そして、イエスは、それに答える形で語り、その節の後にも、賛美のことばが続いている。一連の、悔い改めなかった町を叱ることで、ある総括をしていると同時に、ほんの少しのみのりも確認しているのだろう。そのバランスと、自らを顧みる姿勢だろうか。考えさせられることが多い。 Luke 11:4 私たちの罪をお赦しください。/私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。/私たちを試みに遭わせないでください。』」 何度も読んでいる箇所ではあるが、「私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」が特に、印象的に響いた。この決意、できるかどうかは別として、それが、神様との関係を築くのかもしれないと思った。むろん、神様との関係は対等ではない。しかし、互いに愛し合うことをある部分、自由意志に委ねられているのだとすると、そのような決意と、行動がともなわなければいけないことも、事実だろう。たんに、甘えているだけでは御心を行うことにはならない。できないと、すぐ、結論してしまうが、それも、単純化バイアス。できることだけでも、少しずつする決意なのかもしれない。「"なにもかも" はできなくとも、"なにか" はきっとできる。」(「すべての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはできる」ボブ・ピアス)わたしも、そのように生きたい。 Luke 12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。 主体的判断。この前にあるのが、「イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹くと、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように地や空の模様を見定めることは知っているのに、どうして、今の時を見定めることができないのか。」」(54-56)である。科学的探究・知識を含むように思われる。様々なことが、神様から、知らされている。そこからもメッセージを受けなければならない。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第23回:9月21日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書4章26節〜34節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.9.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  39. BRC 2023 no.039:ルカによる福音書13章ーヨハネによる福音書2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ルカによる福音書はいかがですか。今週は、ルカによる福音書の後半を読み、ヨハネによる福音書に入ります。 前回もルカによる福音書について少し書きましたが、少し追加しておきます。ルカは、パウロと近しい関係にあったギリシャ人の医者だとされています。マタイ、マルコ、ヨハネは、皆、ユダヤ人で、イスラエルに基盤を持っていた人たちですから、現地のことば、ヘブル語、アラム語で話す人達だったと思われますが、ルカだけは、ギリシャ語を話し、おそらく、ヘブル語などは、理解できなかったのではないかと思います。また、ユダヤ人ではありませんから、ユダヤ人からみると異邦人ということになります。つまり、異邦人が伝えるイエスの生涯ということになります。ユダヤ教の伝統の中で生きてきたひとではない、異邦人クリスチャンが書いた福音書ということでしょうか。最初にパウロに近いと書きました。ヨハネによる福音書の次には、ルカによる福音書と同じ著者、すなわちルカが書いた、初代教会の歩みが書かれている使徒言行録(訳によっては、使徒の働き、使徒行伝)が続き、その後半はずっとパウロの伝道旅行について書かれています。新約聖書の後半には、かなりの部分がパウロ由来の手紙がおさめられています。また、福音書よりも先に、パウロの主要な手紙が書かれただろうとも考えられています。すると、記録として残っているものとしては、まず、パウロが手紙で伝え、それから、福音書で、イエスの生涯が伝えられということになります。パウロの手紙を読むと感じられると思いますが、福音書とは、かなり違った雰囲気があります。そう考えると、パウロの手紙と、福音書をつなぐたいせつな役目を持っているのが、ルカによる福音書や、使徒言行録だとも言えるかと思います。その意味でも、たいせつな文書だと思います。ルカによる福音書には、様々な魅力がありますが、新約聖書の構成から少し書かせていただきました。 ルカによる福音書の次には、ヨハネによる福音書を読み始めます。ヨハネによる福音書は、聖書に含まれている、福音書の中では一番最後に書かれたもので、一世紀の最後だろうとされています。このヨハネは、ほとんど最初のイエスの弟子となった、ゼベダイの子で、ヤコブの兄弟です。最後の章は、文体も異なり、ヨハネの死後に書かれたと思われる内容になっていますが、全体としてヨハネ由来としてよいと思います。今週読む部分は、印象的な言葉で始まり、バプテスマのヨハネについて、他の福音書には書かれていないことが書かれています。最初の三つの共観福音書とは少し異なる書き方、そして内容が多い福音書です。また、新たな気持で読んでいただければと思います。書かれた順序からすると、パウロ書簡、共観福音書、そして、しばらくしてから、ヨハネによる福音書。イエスの活動のほとんど最初から行動を共にした、ヨハネが、60年以上たってから、記録として残し、伝えたこと。みなさんは、どんなことを読み取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ルカによる福音書13章ーヨハネによる福音書2章はみなさんが、明日9月25日(月曜日)から10月1日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書とヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#lk ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Luke 13:4,5 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 この前には「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(1)ことからの、イエスのコメントがある。悲劇的な死に方をした人は、特別に負い目のあるものかということについて答えている。しかし、今回は、最後の、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」に中心があるように思われた。悔い改めて生きることが難しい現実をイエスはみているからだろう。しかし、希望も捨てていないように見える。 Luke 14:12,13 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 「ある安息日に、イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったときのことである。人々はイエスの様子をうかがっていた。」(1)から始まる。このときにも、イエスの目には、様々なことが入ってきたのだろう。「水腫を患っている人」(2)「招待を受けた客が上席を選んでいる」(7)様子、そして、引用句からは、招かれた人全体だろうか。これがどのような人かはわからないが、「ファリサイ派のある議員」で、イエスに興味を持ち、尊敬していた人ではないかと思われる。アリマタヤのヨセフや、ニコデモのような人たちがいたのだろう。しかし、そのひとたち、ある意味で、富んでいるものが、神の国に入るのは難しいことも、ここに表されているように見える。ひとつひとつたいせつなことではあるが。 Luke 15:31,32 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」 この兄は、ファリサイ派のひとや、律法学者などをさすと言われるが、その理解だけで、止まっていては、幾つもの受け取るべきメッセージを受け取れないように思った。この兄のような気持ちになるのは、様々な場合にあるが、同時に、この最後のことばを理解できるかどうかにかかっているようにも思った。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」の評価だろうか。ともに生きる弟と認識するところだろうか。日常的な課題である。父の感覚ともギャップとも言えるが、兄弟愛、互いに愛し合うことがここに詰まっているように思った。 Luke 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 この章は「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。」(10)のメッセージから始まっている。この最後のことばも、関係しているように思った。キリスト者も、復活に集中すると、小さなことに不忠実になってしまうように思う。ここでは、「モーセと預言者に耳を傾け」れば、それで十分であることも言っている。イエスによってあたらくしなったというより、やはり連続性が強調されているのだろう。 Luke 17:5,6 さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。 大きい小さいは関係ないということか。イエスは、本当に、小さな信仰表明であっても、そこに神の国の到来を見られるように思われる。それが信仰なのだろう。しかし、それで良いのだろうかとも思う。この前には、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたの方を向いて、『悔い改めます』と言うなら、赦してやりなさい。」(4)とある。こんなときにも、おそらく迷いがある。しかし、からし種一粒ほどの信仰があれば、そこで赦すことができるということかもしれない。 Luke 18:41,42 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」 中途失明者ということか。明確に、見えるようになることを希望するのは、そのような場合なのかもしれない。人生が変わることへの恐れも一般的にはある。目が見えない中で、幸せを求めている場合との少しの違いがあるのかもしれない。難しいが。 Luke 19:14 しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。 タラントのたとえと似ているムナのたとえである。むろん、さまざまな箇所が異なっている。共通の部分を見つけ出すこともできるが、独自に理解した方がよいようにも思った。イエスは、ほんとうにたくさんのたとえを人々に語られたのだろう。神の国のことは、理解できないのは当然だから、こんなことから理解してねといろいろな方法で。引用句では、「我々はこの人を王に戴きたくない」という人たちが出てくる。イエスを主としては受け入れられないひとはたくさんいるのだろう。それは、神の御心を受け入れないことではあっても、それが現実なのだろう。すべてのひとの救いを神様が願っていたとしても、神の救いを願っていない人がたくさんいることも知らなければならないと思った。 Luke 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活の子として神の子だからである。 このあと、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」(38)さらに、「律法学者の中には、『先生、おっしゃるとおりです』と言う者もいた。」(39)ともある。アーメンというひとも律法学者の中にいたということだろう。復活の子として神の子ということばに、ちょっと驚いた。マルコにも、マタイにもない。パウロの近くにいた、ルカが理解したことのように感じた。そのようにイエスは言われたのだろうか。そうではないようにも思う。 Luke 21:37,38 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。 最後の晩餐の直前である。このときにも、まだ、イエスの話を聞こうと民衆が集まってくる。さまざまなひとがいたのだろう。しかし、このあと、すこしで、イエスは十字架に架けられる。他には道がなかったのかを正直に思う。もっと、イエスの話を聞きたかったと思うのは、わたしも、この民衆たちと同じように思う。 Luke 22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。 「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ26:28)「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マルコ14:24b)マタイ20:28の「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と、マルコ10:45 「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」以外に、共観福音書で贖罪死のことを言っているとすると、聖餐のことばだと思って比較して調べてみた。ヨハネには、贖罪死については、書かれていると思われるが、聖餐の記述はない。しかし、よく読んでみると、やはり明確とは言えないように思う。契約の内容は明確ではなく、契約には、血は、通常付随するものだからである。福音書の不思議でもある。パウロ書簡の不思議かもしれない。 Luke 23:50,51 さて、ヨセフと言う議員がいたが、善良な正しい人で、同僚たちの決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 群衆や、弟子たちの中で、声を上げた人のことは書かれていない。しかし、ここには、議員のヨセフが、同僚たちの決議や行動には同意しなかったとある。声を上げたかどうかまでは正確には分からないが、勇気ある行動だったのだろう。ルカを読んでいて、ピラトの法廷には、一般群衆というより、議会からついてきた、一部の群衆が中心だったのかもしれない。それは、たんなる安易な付和雷同だったのだろうか。考える。そのなかで、わたしは、声をあげられただろうか。沈黙して、ことの成り行きを見るしかなかったかもしれない。 Luke 24:25-27 そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。 おそらく、このことは、共有されていただろう。しかし、復活証言の理解は難しい。特に、福音書が書かれたのは、かなり時間がたってからだから。この引用句のような共通認識のもとで、イエスが生きておられるということを、証言した人が、たくさんいたのだろう。 John 1:17,18 律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネによる福音書は、バプテスマのヨハネについて丁寧にかつ気をつけて書いているように感じた。イエスの弟子たちとの関わり(弟子の一部がヨハネの弟子であったこと)をこの時点から書いていることもあるが、イエスがたんに、ヨハネの後継者ではないことも明示している。特に引用句は、前半は「恵みと真理」後半は、神を示したと記している。神の、恵みと真理という面を、明らかにしたとも言える。それも、この世を生きて。「神の恵みと真理の性質」を受け取っていきたい。 John 2:16 鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」 神の子であることを意識した行動だということだろう。ヨハネは初期にこのことをおいている。これだけの記述では判然としないが、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 」(15)このことをせざるを得ない衝動に駆られたのか。正直、よくはわからない。やはり、乱暴である。ひとつの過程と考えることもできるのだろうか。このあとには、人の心の中にあることは信用ならないこと(24,25)が書かれているのだから。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第24回:9月28日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書4章35節〜41節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.9.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  40. BRC 2023 no.040:ヨハネによる福音書3章ーヨハネによる福音書16章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ルカによる福音書はいかがでしたか。ヨハネによる福音書に入りましたが、今週は、ヨハネによる福音書を読み進めます。 ヨハネについては、前回も少し書きました。イエスの弟子として従っていたときは、若かったと思われますが、それから、長いこと(おそらく60年程度)、キリスト教世界を見てきて、イエスから、受け取ったことで、これをどうしても伝えなければと考えたことについて、書いているように思われます。それは、ヨハネが歩んできた人生の中で、理解したことも多いでしょうし、当時の表現形態もあるでしょうから、わたしたちにとっては、理解しにくいこともあっても仕方がないのかもしれません。しかし、まずは、ヨハネが伝えようとしたこと(神様から、ヨハネが受け取ったメッセージでしょうか)を、しっかりと受け取りたいですね。 個人的なことを少し書かせていただくと、大学の職員宿舎で、聖書の会を開いていたとき、むずかしいと思って、最後まで敬遠していたのが、ヨハネによる福音書でした。まず、いくつかのたとえをまなび、それから、マルコによる福音書、ルカによる福音書、使徒言行録、マタイによる福音書と読んで、最後にヨハネによる福音書に取り掛かりました。印象的な言葉で始まる、一章をよみはじめて、やはり難しいなと思ったのを思い出します。しかし、2章の最後にたどりつき、次の言葉を読んだときに、衝撃のようなものが走り、それから真剣に読むようになりました。そして、いまは、一番好きな福音書、聖書の巻になっています。たとえイエスがキリストだと信じても、ひとが簡単には理解できないことをイエスはご存知だったのでしょう。群衆も、そして、おそらく、弟子たちも、なかなかイエスのことを理解できなかったのではないかと思いました。その理解できない一人として、少しでも、学んでいければと願っています。ヨハネがこのことばを記したときの気持ちにも寄り添いたいと願っています。 過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2章23節から25節) みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネによる福音書3章ーヨハネによる福音書16章はみなさんが、明日10月2日(月曜日)から10月8日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート John 3:2,3 この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは、神のもとから来た教師として、イエスを認めている。しかし、イエスは、さらに突っ込んで切り込んでいく。この直前にある「しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2章24,25節)と繋がっているのかもしれないと思った。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5b)へと進む。「神のもとから来られた教師」という認識では不足なのだろう。しかし、むずかしい。 John 4:16,17 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「私には夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』というのは、もっともだ。 「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」(15b)への応答である。夫の許可が必要である背景のもとでの会話であるように思った。それを配慮しつつ、あたらしい展開になっている。どうして、この女の婚姻歴について言い当てたかは不明だが、自然さは感じる。当時の社会を壊そうとはしておられないように見える。 John 5:15-17 この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」 安息日論争は、共観福音書にも何回も出てくるが、特にマルコでは、躍動感を感じる。弟子を守るためだったり、一つのことを示すためだったり。しかし、ここでは、すでに、教義のようになっている。神の働きを指し示している。ただ、それが完璧な答えかというと、疑問も生じる。神が休まれたところから、安息日はスタートしているのだから。 John 6:41,42 ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやいて、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」 ここには、それなりに、近い人達がいるように思われる。そこで、ヨセフの息子、父と母も知っているとある。ヨハネは、処女降誕を認めていたのだろうか。ヨハネほど、弟子たちの中で、イエスに近いひとはいなかったと思われるので、非常に興味深い記述である。このあとの、イエスの反論も、肉的なことには、言及していないように思われる。続けて考えたい。 John 7:37-39 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。 本当に「ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われた」のだろうか。ヨハネにとっては、天に昇り、栄光を受けたことが、大きな切れ目となっているのか。これは、注意してみていかないといけない。どこかで切れ目があると理解するのかどうかである。 John 8:58 イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」 本当に、このように言われたのだろうか。共観福音書を読んでいると、そのような感覚はない。やはり、ヨハネが理解したことだろうか。とすると、全体的な理解がとても難しくなる。信仰告白として受け取ることになるのだから。いずれ、ヨハネによる福音書の学びに突入できるだろうか。ちょっと心配である。 John 9:39 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 イエスは裁きについて語っている。ここからわかることは、イエスがさばくというのは、白か黒か判断するということではなく、イエスと出会うこと、イエスが示すことを通して、それが明らかになるということなのだろう。判決を下すことではなく、そちらに本質がある。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41b) John 10:4-6 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 最後のことばからすると、前の章の最後の部分が関係していると思われる。さばきである。声はどのようにして聞き分けるのか、ここには、書かれていない。しかし、9章の生まれつき目の見えなかったひとで見えるようになったひとと、ファリサイ派の人とのやり取りを見ていると、ヒントはあるように思われる。耳を覆っているもの、目を塞いでいるものは何なのだろうか。それは、取り除けるのだろうか。そのひとの責任なのだろうか。わからないことばかりである。 John 11:33,34 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 「憤りを覚え」「心を騒がせて」"ἐνεβριμήσατο τῷ πνεύματι καὶ ἐτάραξεν ἑαυτὸν" を調べてみようと思った。イエス自身の強い心の動きについて知りたかったので。前者は、ἐμβριμάομαι(to charge with earnest admonition, sternly to charge, threatened to enjoin)、ただ、聖書で使われている箇所は、11:38 「イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石で塞がれていた。」以外は、マタイ9:30、マルコ1:43、マルコ14:5 のようだ。もう一つは、ταράσσω(to agitate, trouble (a thing, by the movement of its parts to and fro)だろうか。これは、マタイ2:3、14:26、マルコ6:50、ルカ1:12、24:38、ヨハネ 5:4、7、12:27、13:21、14:1、27 近いうちに、ちょっと時間をかけて調べてみたい。 John 12:7,8 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」 これは、ユダが悔い改める最後の機会だったかもしれない。同時に、今回読んでいて、この出来事が、ルカ7章36-50節の記事とは明らかに違う場面であると確信した。ルカの記事がマグダラのマリアかどうかは不明だが、ガリラヤでの記事である。ヨハネなど(マタイ26:6-13、マルコ14:3-9)にかかれている記事はエルサレム近郊のベタニアである。また、トマスのことば(11章16節)からもわかるように、かなり切迫した状況であることは、皆知っていただろう。その中で来られたイエス。最後の機会かもしれないと思い、マリアは、最大のことをしたかったのだろう。打算ではできない。このあと20節以降には、イエスに会いに来たギリシャ人に、どうも、イエスは丁寧には会わなかった印象をうける箇所がある。いつも、available だったイエスが、available ではない、特別なときだったことを表す記事なのかもしれない。 John 13:15-17 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。 引用句を通して「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34b)について考えた。この「私があなたがたを愛したように」の部分の「私」を軽々しく、他に置き換えてはいけないと思った。「私に倣う者となりなさい」(1コリント4:16,11:1,フィリピ4:17)が危険だと思った。たしかに、模範が見えないなかで、パウロはその模範となろうとしたのだろうが、分派に近いものを作り出す可能性も出てくる。イエスを特別視し、自分たちにはできないとするのも問題だが、自分がイエスになることを模索してはいけない。 John 14:15,16 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 イエスを愛すること、そして、聖霊の助けを得ることだろう。しかし、それも、なかなか難しい。イエスを愛するためには、イエスのことを知らなければならないが、基本的には、福音書以外に、それを知る手立てはない。だから、福音書をわたしは学ぶのだが。もう一つの聖霊。聖霊のはたらきなのか、そうでないかの区別がとてもむずかしい。おそらく、イエスを愛することと結びついているのだろうが、それを確かめるすべもない。この分離が、分派に結びつくように思うので、途方に暮れる。 John 15:5 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。 イエスにつながっていること、そしてイエスがつながっていてくださること、こここそが基本なのだろう。そして「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」(12)。イエスが友と呼んでくださるようなものでありたい。それだけを求めて生きていければと願う。 John 16:7 しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 やはり、わたしには、このようには思えない。もっと、イエスに教えてもらいたかった。活動において、そして、言葉において。神の子として実際にこの地上で生きることとと、聖霊によって教えられることは、質は同じでも、おろかな私達には大きな違いがあるように思う。聖霊と悪霊の働きの違いもよくわからないのだから。イエスにつながっている以外に、結局はないのだから。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会(2018年12月で一旦終了し、2020年1月から3回開催、その後コロナ感染症拡大もあり中止していた)を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すでに、このメールの受信者には、4月17日にご案内しましたが、すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読みはじめました。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 次回は第25回:10月5日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書5章1節〜10節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 また、11月3日から5日、聖書の会万座温泉(第6回)を企画し、9月30日 未明に案内を配信しました。繁忙期で、少しでも早くホテルに伝えたいので、締め切りを10月7日深夜としていますので、参加を希望される方は、メールを確認し、返信をお願いいたします。 2023.10.1 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  41. BRC 2023 no.041:ヨハネによる福音書17章ー使徒言行録9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ヨハネによる福音書はいかがですか。今週は、ヨハネによる福音書の最後の部分を読み、次の使徒言行録に入ります。使徒言行録は、聖書の訳によっては、使徒の働き、使徒行伝となっています。 ヨハネによる福音書は、最後の部分、弟子たちとの最後の食事の最後の部分から死と復活について書かれています。書き方も、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の、共観福音書と、共通部分もあるものの、異なる書き方になっています。当時の、最後の生き証人とも言える、ヨハネはなにを伝えようとしたのでしょうか。 使徒言行録は、ルカによる福音書の最初と似た書き方で始まり、同じ著者ルカが書いたことは、受け入れられており、イエスの復活以後、昇天と、その後の弟子の活動について書かれています。前半は、ペトロなどを中心とした活動、後半は、パウロ(最初はサウロ)の活動の記録で、今週に読むのはその、前半です。ルカは、ある部分からパウロと一緒に行動した医者だと言われていますから、後半の記述については、証人であるとも言えるでしょう。そして、前半の内容についても、エルサレムなどで、様々な人達に直接聞いて書いたものと思われます。使徒言行録を通して、聖霊の働きが特徴的に書かれています。イエスが近くにいたときは、わからないときは、イエスに聞くことができましたが、それができません。そのなかで、一つ一つの課題について決断をしていく様子が書かれているとも言えると思います。みなさんは、なにを読み取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネによる福音書17章ー使徒言行録9章はみなさんが、明日10月9日(月曜日)から10月15日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書と使徒言行録(使徒の働き・使徒行伝)については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jn 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート John 17:22,23 あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。 「あなたがくださった栄光」とは何だろうか考えた。この文脈からすると、明らかではないが、父なる神様と、子なるイエスが完全に一つであること、すなわち、御心と、イエスのこころが一つで、イエスのなすことが、御心にかなったことであることを表しているように受け取れた。すると、彼らが完全に一つとなることも、そこにつながってくるのだろう。世が知るようにはなっていないように見えるが。イエスの願いは、最後にある「私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」(26)で、これも、神様が何を望んでおられるかを語っているように思われる。 John 18:19-21 大祭司はイエスに、弟子のことや教えについて尋ねた。イエスはお答えになった。「私は、世に向かって公然と話してきた。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。隠れて語ったことは何もない。なぜ、私に尋ねるのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている。」 弟子たちに直接語ったことは多くあり、会堂や神殿の境内ではなく、海辺で教えたこともあった。ここでは、エルサレムでのことを語り、焦点は、隠れて語ったことは何もないという宣言なのだろう。そして、それは、「それを聞いた人々に尋ねるがよい。」に繋がっている。それを語る責任は「私の話したことを知っている」人々に移っていると言っているのだろう。そしてそれは、わたしたちの責任である。イエスに委ねられたもの、しっかりと受け取っているだろうか。 John 19:10,11 そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 すごいやり取りだ。正確に、このようなやりとりがあったかどうかは分からないが、ヨハネは、ずっとイエスと一緒にいて、このようなメッセージを受け取っていたのだろう。もしかすると、イエスの死後も生きていた中で、このような言葉として結実したのかもしれない。「私をあなたに引き渡した者」は一義的には、イスカリオテのユダを意味する。しかし、直前に「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」(7b)とユダヤ人が言っており、このユダヤ人たちを意味するとするほうが自然であるように思う。さらに、自分に語りかける聖霊の促しに抗して、イエスの業とことばを見ようとしない、聞こうとしないものも一緒なのかと思った。わたしはどうだろうか。 John 20:5-8 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見たが、中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。 今回読んでいて、最後の「信じた」が気になった。なぜ、「確認した」ではないのだろうと。'τότε οὖν εἰσῆλθεν καὶ ὁ ἄλλος μαθητὴς ὁ ἐλθὼν πρῶτος εἰς τὸ μνημεῖον καὶ εἶδεν καὶ ἐπίστευσεν·' 「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」(2)のマグダラのマリアのことばの内容を信じたということだろうか。やはり、信じたということばとはズレが有るように感じる。前章の19章35節「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」と区別しているのだろうか。一つ一つ正確に記す必要があったのだろう。また、考えてみたい。 John 21:12,13 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 ある人に間違いないと思うのは、どのような理由だろうか。いまは、DNA 検査などもあり、生体についてかなりの確率で、同一体だと見分けることが可能である。しかし、おそらく、ここでは、イエスの仕草を見て、いつも一緒にいた弟子たちは、疑う余地はなかったのだろう。厳密に何によってとすることはできないが、そのような行動はたくさんあるだろう。そして、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。至福のときだったに違いない。そのようなものをここで弟子たちは共有したということだろう。DNA 検査とは違うレベルの同一性であるように思われる。 Acts 1:15 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていたが、ペトロはその中に立って言った。 正確な数ではないだろう。なんとなく、十二人の十倍という数を暗示させる。しかし、おおよそという意味では、正確なのだろう。十二人をイエスが選ばれたときとは、おそらく状況が異なっている。しかし、イエスの死と、復活という出来事を通して、残り、呼び集められた人たちであることは確かだろう。「きょうだい」と書かれている。そのなかで、くじを使うことになった。人間のできることには、限りがある。その意味で、新しい、一歩だったとも言えるかもしれない。むろん、その方法を絶対化するわけではない。しかし、ゆだねつつ、自分たちで決めなければいけないことがいくつも世の中にはあるのだから。主はそれを信頼して見守ってくださっているのだろう。 Acts 2:36 だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 この二章のメッセージはとても重要であると思う。しかし、わからないことも多い。ここでは、メシアとなさったと言っている。イエスはそのような方なのだろうか。復活の証人ということばが出てくるが、この時点で、弟子たち皆の合意ができていたのだろうか。ルカが、少しあとから、聞き取ったことを、振り返って、描いているのだろうが、ここから、一つ一つ確認していくのは、難しいように思う。あまりにも証言が少ない。 Acts 3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 「あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。」(15)にある復活と、引用句にある、再臨信仰が固まっている。やはり、大分、時間がたってからのことのように思われる。しかし、事実を確認して、イエスまで戻ることは難しいように見える。どうしたら良いのだろうか。 Acts 4:19-21 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。 やはり、状況をみると、たとえ一方的な記事ではあっても、「大祭司(たち)、議員、長老、律法学者たち」(5)のかたくなさに目が行ってしまう。しかし、この「人々」の側に立ってみると、ひとりの足の不自由なひとがいやされたことが、世界をかえるようなしるしとして受け入れられないと考えても不思議はないとも思った。同時に「人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。」(13)からも、目をそらしてはいけないとも思った。謙虚さだろうか。守りたいものがあると、柔軟にはなれないのは、確かである。そしてそれは、だれでも持っている。 Acts 5:30-32 私たちの先祖の神は、あなたがたが木に掛けて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはこのことの証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、そのことの証人です。」 非常にまとまっている。そのように証言させているのだろう。実際のペテロやヨハネの証言を知りたいが、同時に、ヨハネは、このような証言を受け入れてもいたのだろうとも思った。すくなくとも、キリスト教会に、これが書かれた当時には受け入れられていたということか。イエスの死後、50年ぐらいだろうか。この急成長には、驚かされる。 Acts 6:9 ところが、「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」と呼ばれる会堂の人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などが立ち上がり、ステファノと議論した。 どうも、なぜ、この人たちが「また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。」(12)ここまでするのかよくわからない。しかし、一つわかるのは、パウロが「私は確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの町の市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」(使徒21章39節)と言っていることである。すなわち、ここには、サウロ(後のパウロ)もいたということか。でも、どうも、他のグループもいたようである。もう少し背景を理解したい。 Acts 7:51,52 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。 怒らせたのは、ここだろうか。イエスのことは、まだ、ほとんど述べていない。かなり衝動的に見える。これを止めることはだれもできなかったのか。恐ろしい状態である。 Acts 8:15-17 二人は下って行って、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った。 ステファノ殉教後の迫害で「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」(5)から始まっている。そして、魔術師シモンの事が書かれ「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした。」(14)に続いて書かれているのが引用句である。フィリポでは、聖霊は降らなかったようである。使徒と使徒以外で、差が表現されている。つまり、常に、聖霊が下ったわけではないのだろう。同時に、多少、魔術的な感じをうける記述にもなっている。全体としては、シモニアを諫める記述にはなっているが、すでに、伝説化しているとも言える。正確に理解するのは、難しいと感じた。 Acts 9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」 聖霊が降るかどうか、興味をもって読んでみた。しかし、明確ではない。聖霊の働きがたいせつであることを主張しているとともに、アナニアが手を置き祈った結果については書かれていない。これからも、丁寧に読んでいきたい。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第26回:10月12日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書5章11節〜20節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 また、11月3日から5日、聖書の会万座温泉(第6回)を企画し、昨晩を締め切りとしました。今夕にホテルに連絡する予定です。参加をご希望の方は、本日夕方までに、返信をお願いいたします。 2023.10.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  42. BRC 2023 no.042:使徒言行録10章ー使徒言行録23章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 使徒言行録(訳によっては、使徒の働き・使徒行伝)はいかがですか。今週は、使徒言行録を読み進めます。使徒言行録は、28章までありますから、来週も少し読みますが、そのあと、ローマの信徒への手紙から、パウロ書簡とよばれる手紙に入ります。 使徒言行録9章には、サウロ(13章からパウロと呼ばれます。13章9節参照)の回心について書かれています。回心については、他に22章と26章にも書かれています。前回も書いたように、使徒言行録の後半は、パウロの活動が中心として書かれていますが、その前に、10章から12章にペトロのこと、特に、異邦人であるコルネリオの回心について書かれ、13章から、パウロがバルナバとともに、宣教活動を始めることが書かれています。異邦人で回心するひとが増える中、律法を異邦人も守らなければいけないかという問題のために、会議が開かれた様子が、15章に書かれています。このあとの、パウロ書簡でも、この問題が扱われていますが、律法を守ることと救いの問題、下のリンクにかかれている4つの問を書いておきます。 A. ユダヤ人に与えられた律法や言い伝えを守らなければ、ひとは救われないのか。 B. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。 C. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。 D. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないか。 背景が異なる人びとが、ともに交わりを持ちながら生きていくときに、とても重要な課題だったのでしょう。いろいろと議論もあるようですが、個人的には、使徒言行録の後半は、編集が少なく、ルカが体験したことも含め、かなり正確に書かれているように見えます。みなさんは、パウロを中心とした宣教活動による、教勢の拡大(シリア、キプロス、小アジア(現在のトルコ)、ギリシャなど)と、それにともなう、様々な課題をどのように受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 使徒言行録10章ー使徒言行録23章はみなさんが、明日10月16日(月曜日)から10月22日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 使徒言行録(使徒の働き・使徒行伝)については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Acts 10:44,45 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。 ペトロという使徒のもとでは、聖霊が直接的に降る。そして、それが大きな証拠となる。それが、使徒言行録のひとつの論理なのだろう。おそらく、難しい判断を、この特別啓示にゆだねているのだろう。「それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファのきょうだいも何人か同行した。」(23)ともあり、ことが慎重に、しかし、信頼関係を築きつつ行われたことがうかがわれる。サマリヤ人への宣教とともに、ここは、特別に重要な転機だとしているのだろう。 Acts 11:15 私が話しだすと、聖霊が最初私たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 ここでも、聖霊による認証が行われたことが書かれている。さらに、バルナバについても、立派であることの証拠として、聖霊に満ちたという表現をしている。「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。」(24)上からの啓示に頼る以外に、方法はなかったとも言えるが、イエスが地上で、神の国は近いといったこととは、少しずつズレてきているようにも見える。 Acts 12:12 そうと分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 使徒言行録にマルコは四回(引用句と、12:25, 15:37, 39)登場するが、ここが最初である。ルカの時代にも、重要なひとだったと思われる。引用句は、ヤコブがヘロデ王に剣であっけなく(何の説明もなく)殺され、ペトロにも矛先が向けられて、捕まり、そこから、逃げ出すことができ、行った先として、マルコの母の家がで登場する。この時点では、様々なところに信徒がいたのではないだろうか。このときの番兵について聖書協会共同訳では「ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで連行するように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在した。」(19)とあり、以前の「処刑するように命じ」から変わっている。ἀπάγω(to take off (in various senses):—bring, carry away, lead (away), put to death, take away.) Acts 13:48,49 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を崇めた。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 ここに、「異邦人のほうへむかう」(46)との記述があるが、聖霊がくだったという記述はない。パウロとバルナバ、またはパウロの宣教で、いつから聖霊が降るようにかかれているかは注目して見ていきたい。ルカはどう考えていたのだろうか。 Acts 14:16,17 神は過ぎ去った時代には、すべての民族が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」 「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(15b)と語りだしている。創造は、すべてのひとに関わるということ、そして引用句では、一般恩寵について語っている。しかし、それと、イエスが神の子キリストであることを結びつけるには、かなり大変であるようにも見える。創造についても、現代では、様々な考え方があり、単純には、受け入れられないだろう。 Acts 15:22 そこで、使徒と長老たちは、教会全体と協議して自分たちの中から人を選び、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することにした。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの間で指導的な立場にいた人たちである。 お目付け役の指名である。パウロが議論に強いことは、十分知られていただろう。すると、シラスは、ある程度の年齢で、パウロにも、しっかりと意見ができるひとだったのかもしれない。同時に、人格的にも優れて、皆の信頼が得られる人だったのだろう。そのようなシラスとの旅、そのことをあまり意識していなかったので、シラスについても、注意して少しずつ学んでいきたい。 Acts 16:37 ところが、パウロは警吏たちに言った。「高官たちは、ローマ市民である私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ったあげく投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ。」 看守の感動的な話が書かれているあとの記事である。わたしは、ローマ市民であることを、このように使うことにあまり良い感情をもたないが、その社会を理解していないということなのだろう。ここは「わたしたち」と書かれている箇所が多く(11,16)ルカも一緒にいたと思われる。ルカはどのように感じていたのだろうか。まだ、ほとんどキリスト者がいない状況で、どのようにしていくことがよいと考えたのだろうか。 Acts 17:16,17 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て、憤りを覚えた。それで、会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合った。 パウロを責めることはできないが、パウロの特質と、キリスト教の未熟さも感じてしまう。そして、それは、現代にまで続いているのかもしれない。神様が他者を愛することを受け入れることは、そう簡単ではないのだろう。難しい。 Acts 18:4,5 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。 「メシアはイエスである」と証しするということは、相手はユダヤ教に十分な知識を持っていたことがわかる。すると「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。」の部分も、ギリシャ人で、ユダヤ教に改宗したり、または、それに近い人達ということになるように思われる。コリントだけでなく、エフェソでも(19)「一行がエフェソに到着すると、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。」ユダヤ人または、ユダヤ教に近い人達に語っている。実際、アテネで経験したように(17章)まったくの異邦人に語ることは難しかったのかもしれない。それにしてもパウロは我が道を行く。「人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロは聞き入れず、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って、別れを告げ、エフェソから船出した。」このようなひとと話すのは、疲れただろう。 Acts 19:5-7 人々はこれを聞いて、主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。 エペソでのこの経緯は興味深い。「何人かの弟子」と言われており、ヨハネのバプテスマを受けているが、聖霊については知らないという。そして、ここで、聖霊が降る。このときが最初ではないかもしれないが、人数など詳細が書かれており、これまで、明確に書かれていたのは、十二使徒であったもの(ほとんどペトロ)に、パウロが加わる。パウロはこのことを明確には語らないが、聖霊によるバプテスマとういことでは、使徒にしかできないかもしれないと思われていたことに道が開かれたのだろう。ここでは、コリントなどとは異なり、異邦人にも語っているようである。それ故に、デメトリオら、銀細工人の反発を買っている。 Acts 20:24-26 しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと、私には分かっています。私はあなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。 ルカが同行していたと思われるので、ほぼこのようなことをパウロは語ったのだろう。しかし、正直、これを、主のみこころとするかどうかは、わからない。パウロは、確信していたのだろうし、それを、間違っていると言うこともできないが。ただ、現代でも似たことは起こる。そのときに、自分であっても、近くにいる人であっても、どう対応したら良いかは非常に難しい。そして、宗教の怖さでもある。絶対化が図られてしまう。しかし、直接啓示を否定することもできない。主のみこころがはっきりしないなかで、主に従っていく。そこに信仰があるように思うが。 Acts 21:20,21 人々はこれを聞いて、神を崇め、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセに背くように教えているとのことです。 非常に微妙な問題で、パウロは、もっといろいろと言いたいことがあり、議論もしたかったろう。「あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して」とすることで、これは、間違いだとできるのだろうが、微妙なケースは、ルカもたくさん知っていただろう。異邦人の間にいるユダヤ人、このひとたちが、キリスト者になったときは、異邦人でキリスト者になった人の側も、ユダヤ人でキリスト者になった人にも、多くの難しい問題があっただろう。特に、ユダヤ人でキリスト者になった人たちにとっては、家族や、同族などに、なかなか理解されないことも多かったろうから。その中で、ともに、食卓を囲むのは、たいへんだったろうと、想像もつく。 Acts 22:21,22 すると、主は言われました。『行け。私があなたを遠く異邦人のもとに遣わすのだ。』」パウロの話をここまで聞いていた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」 「ここまで聞いていた人びとは」の「ここまで」が、直前のことばを意味するかは不明だが、まずは、そこから考えてみることにした。ユダヤ教でも、異邦人に伝えることは、ある程度されていたようである。ただ、それは、律法を受け入れて、契約をもって「ユダヤ人」に成ることである。しかし、パウロは、この証で、二回の啓示について語っている。ダマスコ途上(6-11)と、エルサレムでのこと(17-21)。背景になっていることは、ユダヤ人は理解できていたはずである。それが、これらの啓示で変わり、かつ、ユダヤ人がなかなかできなかったことを大々的に行い、「成功」をおさめ、ユダヤ教で大切にしていることを変更している。そのことに脅威を感じたか。もう少し、ユダヤ人の気持ちになって、考えてみたい。 Acts 23:14-16 彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も口にしないと、堅く誓い合いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところに連れて来るように、最高法院と組んで大隊長に願い出てください。私たちは、彼がここに来る前に殺してしまう手はずを整えておきます。」しかし、パウロの姉妹の息子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。 パウロの姉妹たちも、エルサレムにいたこと、おそらく、キリスト教(ナザレ人の分派(24章5節))に改宗していたことがわかる。それにしても、血気盛んである。おそらく、パウロもそうだったのだろう。日本にいると、なかなか理解できない。どう考えればよいのだろうか。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第27回:10月19日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書5章25節〜34節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.10.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  43. BRC 2023 no.043:使徒言行録24章ーローマの信徒への手紙9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 使徒言行録(訳によっては、使徒の働き・使徒行伝)はいかがですか。今週は、使徒言行録の最後の部分を読み、そのあと、ローマの信徒への手紙から、パウロ書簡とよばれる手紙に入ります。 使徒言行録の最後の部分は、ローマにパウロが護送される旅についてで、ローマに到着するところまでが書かれています。このあとパウロはどうなったのだろうと考えます。最終的には、ローマで、皇帝ネロの時代(54-68)に殉教したとの伝承が残っていますが、使徒言行録もなにか中途半端な感じがします。みなさんは、どのように考えられますか。 ローマの信徒への手紙から、フィレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。しかし、実際にパウロが書いたものかどうかには、多くの議論があります。実際に読んでいくと、連名になっていたり、最後に、この部分はパウロが自分の手で書いていると証言している箇所もありますから、パウロが実際にペンをとって書いたかどうかという点では、おそらく殆どの手紙がそうではないと言えるでしょう。しかし、それだけでなく、用語の使い方などとともに、かなり時が経過して、パウロの死後に書かれたものではないかと考えられるものもあります。それを、明確に区別することは困難でもあります。聖書に著者が書いてあれば、それが、誤っているはずがないと考え、現代の感覚から、他の人が、パウロの名前を使って書いたなどということはありえないとするのも、性急すぎるように思います。異邦人世界にキリスト教を伝えた最大の功労者が、パウロであったことは、確実でしょうから、パウロの書簡は、影響力が強かったことは、十分理解できますし、共通の教えとして、一致を保つためにも、パウロの手紙という形式が使われた可能性も否定できないように思います。 個人的には、手紙によって、福音が届けられて間もない時期に書かれたと思われるものと、かなり時間が経過し、教会制度が確立してから書かれたものがあることは、読んでいてわかりますし、みなさんも、読んでいて、そのことは、気づかれると思います。上に、使徒言行録に書かれているローマ到着後のパウロの行動が気になるのは、このへんとも関係しています。いずれにしても、パウロの宣教開始から、死まで、おそらく、20年ほど。その間に、できた教会はどのよう成長していったかを想像しながら、わたしは、パウロ由来(パウロの影響が強い文書)として、読んでいます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 使徒言行録24章ーローマの信徒への手紙9章はみなさんが、明日10月23日(月曜日)から10月29日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 使徒言行録(使徒の働き・使徒行伝)とローマの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ac ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#rm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Acts 24:14,15 ただ、このことははっきり申し上げます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道に従って、先祖の神に仕え、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。さらに、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 微妙な言葉だと感じた。前半も、「先祖の神」とし、「律法に則したことと預言者の書に書いてあること」と書きつつ、守っているとはせず、「信じています。」としている。微妙に、争点をずらしている。さらに、後半、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」も、誰の希望なのか、微妙だが、「この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」ということで、ユダヤ人の中に、分断を生じさせている。同時に、ルカは、注意深く、言葉を選んでいるようにも思える。 Acts 25:10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのように、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 このあとに、皇帝に上訴している。明らかに、ユダヤ人との対話に背を向けている。自分が正しいということを、絶対化しているように見える。わたしには、このような生き方はできない。イエスは、これを良しとはしなくとも、受け入れておられるのだろう。難しいが、イエスの道を求めていきたい。 Acts 26:22,23 ところで、私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる、と述べたのです。」 アグリッパの前での弁明である。ここで、要点は、二つ。一つは「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。」と「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」ということ。後者が、パウロの信仰の核心であることは、理解できるが、前者は、訴えた者たちや、ユダヤ教の伝統を否定しているわけではないということだろう。パウロなら、ここからスタートして、様々な議論ができるのだろうが、あまりにも、膨大で、やはり、人間の知恵に属することのように思われる。どうなのだろうか。極力公平に見ていきたい。 Acts 27:43,44 百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船にある物につかまって行くように命じた。こうして、全員が無事に上陸した。 百人隊長がどの程度、このことによって、パウロを信頼したかを確認しておきたい。それは、おそらく、ローマについてからの、パウロにも大いに影響をきたしたと思うからである。「船にいた私たちは、全部で二百七十六人であった。」(37)とあり、ルカも同行していると思われることから、概ね、(真実の告白というより)事実と考えてよいだろう。パウロは「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」(24)と告げられた天使の声を根拠としている。これが、神の御心かどうかは、確認できないが、パウロがエルサレムで捕らえられてから、または、その前から、望み、御心と確信していたことではあろう。「かなりの時がたって、すでに断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。」(9)このパウロの助言に従っていればと語っているが、これは、特別啓示ではないように思われる。その意味では、パウロの知識と勘だとも言える。様々なことが混在している。しかし、引用句から、百人隊長の信頼が増していたことは、確かなように思われる。ただし、「アグリッパ王はフェストゥスに、『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに』と言った。」(26章32節)の重さがわからないので、やにわに(時間をかけないで)は、判断ができない。百人隊長は、下級管理職であり、彼の判断が、直接、皇帝に伝えられることはおそらくないだろうから。継続して、考えていきたい。パウロのローマ到着後について、考えたいからである。 Acts 28:18,19 ローマ人は私を取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何もなかったので、釈放しようとしました。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、私はやむなく皇帝に上訴しました。これは、決して同胞を告発するためではありません。 ルカが書いていて、パウロの意図とまったく合致しているかどうかは不明だが、このような証言があり、それが受け入れられていれば、パウロは釈放されたのではないだろうか。百卒長の進言が聞き入れられる訳では無いにしても、そのあたりの合理性は、大きな危険がない限り、認められた可能性も高いように思う。その後のパウロが書かれていないのは、このあたりに、原因があるのではないかと思う。もう少し丁寧に継続してみていきたい。もう一つ「時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、癒やしてもらった。それで、彼らは私たちに深く敬意を表し、船出のときには、私たちに必要な物を持って来てくれた。」(8-10)ここにも、ルカの存在があるように思う。ここには「私たちに」と書かれている。医者のルカが、なにもしないで、眺めているだけという方が、異様である。ルカも最善を尽くしたろう。 Romans 1:18-20 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。 一般啓示・恩寵をどう理解するかは、特別啓示・恩寵をどう受け入れるかと同時に難しい課題である。本当に、明らかなのだろうか。多様性が受け入れられ、そこにも、神様の御心が現れていると考えられている現代では、そう簡単に、結論はできないのではないだろうか。様々なこと、自然界のこともふくめて、そこから、神様の御心を知ろうとすることは、たいせつで、そのようなことを通して、神様が御心をしめされないとするほうが、特殊だからである。しかし、そうであっても、そこから読み取る御心を、御心と確信することは、簡単ではない。まして、それがみ心だと断言することは。 Romans 2:19-21 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それなら、どうして、他人には教えながら自分には教えないのですか。盗むなと説きながら盗むのですか。 1章の終わりには「そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。」(24)とし、そのあとに、様々な「してはならないこと」(28)のリストが続く。引用句では、律法をもっているユダヤ人の罪が書かれているが、どのレベルで語っているか不明でもある。イエスの述べるレベルであれば、律法を守ることは難しい。どうも、わたしは、しっかり理解していないようだ。いつか、ローマ人への手紙も、しっかり読む必要があるのだろうか。 Romans 3:27,28 では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 ここで核心に至る。このあとに述べられているように、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」(29,30a)に根拠を委ねている。この根拠は、大切だろう。しかし、それが、信仰の法則に至るわけではない。これも、単純化バイアスのようにも見える。少しずつ理解していきたい。 Romans 4:13 世界の相続人となるという約束が、アブラハムとその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるのです。 アブラハムのころにも律法はあったと考えているのだろうか。一般的には、モーセによって律法が与えられたとしている。いずれにしても、アブラハムが、割礼の前に義と認められたというのは、たいせつだとは思うが、人間の論理には限界がある。それに頼ることには、個人的には躊躇がある。 Romans 5:15,16 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。 論理的に理解するのは困難である。結局、啓示とする以外にないのではないか。すると、やはり分断を生じる。数学のような厳密な論理を使えばある程度の普遍性は確保できるが、多くの人が納得できるわけではない。神の意思なのだろうか。人の間に、それが理解でき、受け入れられる共通のものがないといけないだろう。難しい。 Romans 6:6-8 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。死んだ者は罪から解放されているからです。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 この元となっているのは、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。」(3)である。しかし、その根拠があるわけではない。また、イエスの(弟子たちが授けていた)バプテスマが、イエスと共に生きるバプテスマと言われればそうかも知れないが、少なくとも、福音書からは「キリストとともに十字架につけられた」とは、証言されない。ということは、特別啓示ということになる。正直、わからない。また、実感としても、異なる。同じ状態であるとは思わないが、罪の力が無力にされたり、罪の奴隷ではないとは、やはり言い切れない、と思う。 Romans 7:18-20 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。 パウロの論理を、ゆっくり整理して考えないと、自分自身が混乱してしまう。「罪の体が無力化された」(6章6節)とあり、かつ「自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいない」。やはり、イエスは、その名を信じるものに、神の子となる権威(イクスーシア:そのことを選択する自由)を与えられたとするヨハネの書き方のほうが、実際とも近いように思う。神の子としていきましょう。私とともに。わたしに従ってきなさい。それが、共観福音書のみかたでもあるように思う。いつか丁寧に考えられるときが来るだろうか。 Romans 8:14,15 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 わたしはこのことを望んでいる。しかし、このことの確信はない。わたしのなかに、さまざまなものが混在しているからである。神の霊に導かれることは、イエスも約束したことなのだろうが、なにか、もう、ワンステップあるように思う。単純に盲信するのでも、拒否するのでもなく、少しずつ丁寧に理解していきたい。 Romans 9:24-26 神は、私たちをこのような者として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました。ホセアの書でも、言われているとおりです。/「私はわが民ではない者をわが民と呼び/愛されなかった女を愛された女と呼ぶ。『あなたがたはわが民ではない』/と彼らに言われたその場所で/彼らは『生ける神の子ら』と呼ばれる。」 ホセア2章25節「私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬもの)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民ではない)に向かって/『あなたはわが民』と言う。/彼もまた言う。『わが神よ。』」ホセア1章9節「主は言われた。/『その子の名をロ・アンミ(わが民ではない)と呼べ。/あなたがたは私の民ではなく/私もまた、あなたがたのものではないからだ。』」ホセア2章1節「イスラエルの子らは数を増し/海の砂のように/量ることも数えることもできなくなる。/彼らは『あなたがたはロ・アンミ(わが民ではない)』/と言われる代わりに/『生ける神の子ら』と言われる。」ホセア2章3節「あなたがたは兄弟に向かって/『アンミ(わが民)』と/また姉妹に対しては/『ルハマ(憐れまれるもの)』と言え。」かなりの意訳になっている。丁寧にみないとわからない。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第28回:10月26日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書5章21節〜24節・35〜43節と、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.10.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  44. BRC 2023 no.044:ローマの信徒への手紙10章ーコリントの信徒への手紙一7章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ローマの信徒への手紙はいかがですか。今週は、ローマの信徒への手紙の後半を読み、次の、コリントの信徒への手紙一の前半を読みます。 パウロの手紙から個人的に受ける印象としては、前半は、大きな問題について語り、最後は、一般的なことに関する奨励(薦めのことばが)多いように思います。前半は厳しく、難しいですが、後半は、読みやすいというように感じます。あくまでも、個人的な感想ですが。 ローマの信徒への手紙1章を読むと、パウロは、まだローマに一度も行っていないように見えます。ただ、パウロが知っている人が、何人も、ローマにいたことも最後の章の挨拶からはうかがい知ることができます。対照的に、コリントの信徒への手紙一は、パウロが、コリントに行き、伝道をし、信徒となったひとたちが中心となっている教会へあてた手紙で、コリント教会のひとたちを、全員ではないにしても、かなり知っているようです。ただ、パウロ以外から福音に接した人もいるようです。そのような背景から生じたと思われる、分裂の問題をはじめ、様々な具体的な問題について、パウロが熱く語るという形式になっています。 書簡という形式から生じることですが、背景が正確にはわからないですし、受け取り手からの、応答も聖書に含まれていないだけでなく、失われてしまっているようですから、理解が困難だと感じることもあると思います。しかし、当時生じてきた課題は、現代にも関係することが多いですし、そのような具体的な問題に、パウロがどのような指針を与えているかは、興味深いです。ただ、具体的な対応は、背景がわからないと、善悪を決めかねることがあることは確かですから、書かれていることを、そのまま、そのとおりにしなければいけないと受け取るのも問題があるでしょう。背景を想像しながら、パウロのこころとともに、受け取ったひとたちのこころも想像しながら読むことができればと思います。みなさんは、どのようなメッセージを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ローマの信徒への手紙10章ーコリントの信徒への手紙一7章はみなさんが、明日10月30日(月曜日)から11月5日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ローマの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#rm コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#cr1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Romans 10:2-4 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。 非常に大胆である。確信が背後にあるのだろう。しかし、正直、それは、特別啓示によるとしないかぎり、所詮、人間の論理である。正しい知識に基づいていないと言い切っているが、それは、パウロが、正しい知識のものとで裁く以外に成立しない。しかし、神の義をそれほど簡単に語れるのだろうか。最後には、キリストは、信じる者すべてに義をもたらしてくれると言い切っている。たしかに、それは、望ましいことである。しかし、それが現実ではないことは、ヨハネ2章23,24節からも見て取れる。イエスの行動は、人びとが、信じるといっても、神の国を求めることにはつながっていないことに、苦悩をもって対抗し続けたことにあるように思う。 Romans 11:25,26 きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。/「シオンから救う者が来て/ヤコブから不敬虔を遠ざける。 どうしても、わたしは、パウロに批判的になってしまう。おそらく、直接啓示を、限定したいという気持ちがあるからだろう。パウロへの直接啓示を際限なく認めてしまうことは、パウロを、わたしたちとは異なる存在にし、パウロが望むような、パウロに倣うものも、遥かに遠くなってしまうからである。イスラエルの問題は、今日も大きな問題になっている。それを、ここにあるパウロのことばのように、受け入れるのは、非常に困難である。直接啓示の秘義として受け入れない限りは。イエスは、神の子として生きることを生き抜いたかただと思っている。それをそうではないとするのは、ひとつの生き方である。しかし、わたしは、この福音書を通して伝えられているイエスの生き方に従っていきたいと思う。 Romans 12:1,2 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。 長く親しんできたことばだが「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」の表現を考えてみたくなった。「理に適った」は「なすべき」(口語訳・新共同訳)「霊的な」(新改訳1965年)「ふさわしい」(新改訳2017)λογικός(1. pertaining to speech or speaking, 2. pertaining to the reason or logic, a. spiritual, pertaining to the soul, b. agreeable to reason, following reason, reasonable, logical. STRONGs: rational (Vulg.rationabilis); agreeable to reason, following reason, reasonable)用例をしらべないと分からないが、理に適ったもひとつの訳としては適切だと理解した。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」これをどう実行するかが難しい。このあとの部分を読むと、「自分の体」は、日常生活を意味しているように見える。 Romans 13:4,5 権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるからです。だから、怒りが恐ろしいからだけではなく、良心のためにも、これに従うべきです。 一般論を教科書的に語っていると考えてもよいように思う。あまり、聖書の絶対的権威から、これこそ神の御心とする必要はないということである。様々な背景の人達が、キリスト者になるなかで、このような一般論を伝えることも、必要だったのだろう。個別には、そう単純ではないことを、わたしたちは、歴史の中で見てきている。もう一つは、この章の最後にもあるように「夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、主イエス・キリストを着なさい。欲望を満足させようとして、肉に心を向けてはなりません。」(12-14)この終末的意識が、背景にあることも無視できないであろう。このことに集中すべきというような考え方である。これも、現代では、相対化されることでもある。ひとつの原則として考えるべきだろう。 Romans 14:4 他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。 最初に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)とある。信仰の弱い人と書いているが、それは、わからないというのが私の見方である。そのように判断してしまうところに、ひとの弱さがある。たしかに、ある部分、合理的ではない、整合性がないようなことはあり、それが、その人には見えないことはあるだろう。しかし、それが、その人を判断する基準になってはいけない。主に委ねることなのだろう。同時に、互いに成長していくことができると良いのだが、それも、なかなか難しい。互いに愛し合うことはなんと難しいことか。 Romans 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 パウロも、このことを言い切っている。神の栄光、それが、互いに受け入れる、受け入れがたい人を受け入れることにかかっていること、つまり、愛について知っているということだろう。共通の信仰の上に立っていると告白できる根拠である。ひとは、ほんとうに、欠けがある。それは、その神のみこころを、このことについては、知っていると思ってしまうことなのだろうと、わたしは、考える。これも、間違っているかもしれないのだろうが。難しいということを受け入れつつ、御心と信じることを、少しずつ行っていきたい。 Romans 16:25,26 〔神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、代々にわたって隠されていた秘義を啓示するものです。その秘義は、すべての異邦人を信仰による従順へと導くようにとの永遠の神の命令に従い、今や預言者たちの書物を通して明らかにされ、知らされています。 括弧に括られた部分である。聖書協会共同訳には巻頭の凡例に新約聖書のこの記号について以下のように説明されている。「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す。」多くの研究の後にたどり着き、聖書協会共同訳の出版において、合意されたということなのだろう。翻訳によって、扱い方は多少異なるのかも知れない。たしかに、本文とのつながりにおいても、文体においても、内容においても、異なるように見える。断定するには、さまざまな難しさが伴うのだろう。そのような、営みにも敬意を払いたい。聖書を信仰の唯一の基準とするのであれば、この営みは、重要なのだろう。わたしは、もう少し、広く考えているが。 1Corinthians 1:21 世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。 どのように受け取るか困難な言葉である。知恵を排除しているともいえ、知恵によって神(神の御心、真理)を見出すことではなく、宣教という啓示の宣言によったというのが、基本的な理解だろう。同時に、これは、「さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10)以降、分裂の問題を解決することが、背景にある。すなわち、知恵に頼った知恵の宣言が、分断を産んでいるという理解だろう。たしかに、そのことは、理解できる。文脈と、演繹に注意することだろうか。丁寧に読んでいけると良いのだが、手紙の理解は、背景の理解が必須であるにもかかわらず、それがほとんどわからないので難しい。 1Corinthians 2:1,2 きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 このあとには「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。」(3)と述べ、使徒言行録18章にある程度書かれている、コリントに最初に入ったときの経緯に触れている。アテネでの落胆、その反省も背景にあるのだろう。ここには、復活が書かれていないことも気付かされた。また、秘儀は、聖霊によって与えられることが、6節以降にかかれている。それだけに限ることの危険性も感じる。霊的啓示を排除しては、神の御心、真理を語れないのだろうが。 1Corinthians 3:22,23 パウロもアポロもケファも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。 党派を作って分裂しているコリントの教会についてのメッセージで、最後にここに至っている。その前には、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。/『神は知恵ある者を/その悪だくみによって捕らえる』と書いてあり、また、/『主は知っておられる/知恵ある者の議論が空しいことを』とも書いてあります。」(19,20)ともある。むろん、世の知恵が無用のものというわけではないだろう。霊的啓示とともに、世の知恵を用いなければ、霊的啓示が独り歩きしてしまう。どう判断すればよいかは、難しい。 1Corinthians 4:17 このことのために、テモテをそちらに遣わしたのです。彼は、私の愛する子で、主にあって忠実な者であり、至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方をあなたがたに思い起こさせることでしょう。 イエスがキリストということは、真理として天にあげてしまい、地上では、自分にならうものになって欲しいというのがパウロの言っていることのように思われる。イエスに倣うことは、難しい。当時は、まだ福音書は書かれていないと思われるが、伝承として聞くものも、イエスは神だからできるというように受け取ることが多かったろうから。これが、ある程度、キリスト教に継続性が付与されることになった要因なのかも知れない。たしかに、わたしが求めるような真理探求の道は、一般の人の中で広がることは難しい。 1Corinthians 5:10,11 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を礼拝する者と一切交際してはいけない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かなければならないでしょう。今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。 これも非常に困難な問題である。教会は開かれていなければならない。つねに、Welcome するのが、神様の基本的姿勢ではないのか。これは、分断を作り出してしまう。しかし、同時に、受け入れることは、技術的には難しい/一人ひとりは、それほど強くないから。どちらにしても、難しい状況にあることは、確かである。 1Corinthians 6:1,2 あなたがたの間で、仲間の者ともめ事になった人が、それを聖なる者たちに訴え出ないで、よりによって、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのでしょうか。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな争いすら裁く力がないのですか。 状況がよくわからない中で、判断は難しいが、一般的には、ここに書かれていることは、問題を起こす可能性もある。パウロは、この前にも、コリントに手紙を書いているようだし(5章9節)、このあとに書かれたコリント後書で、前の手紙で悲しませたことが書かれている。これについても、手紙が他にもあったかも知れず、不明であるが、手紙で、引用句のようなことを書くのは、慎むべきだと思う。とくに、後半の「聖なる者たちが世を裁くのです。」のような断言的なことばは、とても危険である。 1Corinthians 7:20,21 おのおの召されたときの状態にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。 この後半は、別訳では「自由の身になれるなら、自由になりなさい」であるという。自然ではない方を、原文に近いとして選択することがなされたのだろう。最初の「召されたときの状態にとどまっていなさい。」との整合性を取ったのかも知れない。しかし、このあとに「人の奴隷になってはいけません。」ともあり、それとの整合性は、崩れている。いずれにしても、パウロの中では、主の日が近いということが、あったのだろう。それが大きく影響しているように見える。人間の限界でもある。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第29回:11月2日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書5章1節〜6節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.10.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  45. BRC 2023 no.045:コリントの信徒への手紙一8章ーコリントの信徒への手紙二5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ローマの信徒への手紙はいかがでしたか。そして、コリントの信徒への手紙はいかがですか。今週は、コリントの信徒への手紙一の後半を読み、次の、コリントの信徒への手紙二の前半を読みます。 通常は、多少、ホームページの、それぞれの書について書いてあるところから引用することはありますが、そのままコピー・ペーストすることはあまりありませんでしたが、今回は、コリントの信徒への手紙二について、下にもリンクがある、ホームページのコリントの信徒への手紙二(1)から引用したいと思います。今回、みなさんに書きたいと思っていたことが、ほとんどそのまま書かれていたからです。だいぶ前に書いたものではありますが。 コリント信徒への手紙は、ローマ信徒への手紙とちがい、教理的なものよりも、具体的な問題についての言及が多いこと、そして、パウロが感情をおさえきれないという感じで、配慮をしつつも率直に書いていることが、印象的です。ローマ信徒への手紙はパウロがまだ訪ねたことのないローマの教会に宛てて書かれたものであるのに対し、コリント信徒への手紙は、パウロが開拓伝道をし(使徒言行録18章)、その後も何回も訪れ、かつ長く滞在した教会に宛てた手紙ですから、コリント教会の人たちについても、コリントやそこの人たちの問題についても、したがって起こりうる状況の可能性についてもかなりよく知って書いている点が大きく違います。さらに、こころがつながっているコリントの人たちを思うと、ある意味では冷静ではいられない、いとおしくかつ心配な、霊的なこどもたちに対する思いが書かれています。同時に、すでに、アポロなどパウロ以外の影響を受けたグループもいくつもあったようですから、そのような背景から来る複雑さもあったでしょう。コリントは、すでにアテネよりも大きくなっており、商業的に栄えていた町です。この当時は大きな劇場などを使うことは困難なことも多かったでしょうから(エペソで「ティラノという人の講堂で議論した」という記事はあります(使徒言行録19:9))、いくつも集会があったとも思われます。この複雑な状況のなかで、「最高の道(新共同訳、口語訳では「最もすぐれた道」コリント信徒への手紙一12:31)」として愛をパウロは語ります。そのような背景を想像して読むとより豊かに読むことができるかも知れませんね。 コリントの信徒への手紙二 8・9章には、エルサレム教会への献金のことが書かれています。ユダヤ教の中心であるエルサレム、ユダヤ教徒でイエスを救い主と信じるようになった群れは、エルサレム周辺ではこの当時もモーセの律法をしっかり守って生活していたと思われます(使徒言行録21章17節-26節)。そのようにして、信仰を守りつつも、ときどき起こる熱心なユダヤ教徒からの反対の中で、使徒や、長老といわれる人たちも生活的には、かなり困窮を極めていたようです(ローマ信徒への手紙15章26節等)。AD70 にはローマ軍によってエルサレムが完全に破壊され、エルサレム教会は事実上指導的な役割を終えますが、この手紙の書かれたときには、発展しつつある異邦人教会が、エルサレム教会とひとつであることを示す、その大切な役割を担った献金が、パウロの祈りでもあったでしょう。ミッション(使命)が違うと、別々に行動することもできたかも知れませんが、パウロの信仰の中にある、キリストにある一致、キリストの体なる教会がひとつであるという真理からすれば、一致をたもちながら共に生きることは、キリストのいのちに生きるものたちにとって最も重要な課題だとパウロが考えたのはとても自然だと思います。現代にも通じる問題提起ではないかと思わされます。 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(コリント信徒への手紙二9章12-15) みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙一8章ーコリントの信徒への手紙二5章はみなさんが、明日11月6日(月曜日)から11月12日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#cr1 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#cr2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Corinthians 8:5,6 現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、私たちには、唯一の父なる神がおられ/万物はこの神から出/私たちもこの神へと向かっています。/また、唯一の主、イエス・キリストがおられ/万物はこの主によって存在し/私たちもこの主によって存在しています。 唯一の神としつつ、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしてもとしている。そのあとにあるのが、信仰告白だろう。普遍的真理だろうか。むろん、それを確かめる手段があるわけではない。その状況のなかで、何を大切にするかだろうか。 1Corinthians 9:1,2 私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなたがたは、私の働きの実ではないか。他の人々にとって私は使徒でなくても、あなたがたには使徒です。主にあるあなたがたが、私が使徒であることの証印なのです。 使徒とは何なのか。主イエスに直接派遣されたということだろうか。個人的には、弟子として、イエスに従うものだと思っているが、そこに食い違いがあるのだろう。「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。」(19)とあるように、宣教を最大の目的としている。わたしには、それはできない。ともに学ぶことしか。特別啓示に対して、特別な注意を払っているからだろうか。互いに愛し合うこととのずれを感じているからだろうか。正直よくわからないが、パウロとともにはいられない。 1Corinthians 10:4,5 皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 キリストだとどうして断定できるのだろうか。これも、特別啓示だろうか。滅ぼされてしまったことも、正直よくはわからない。本当に、カレブとヨシュア以外は、主に信頼しなかったのだろうか。そこまではわからないように思う。歴史を理解するのは難しい。評価するのはさらに難しい。 1Corinthians 11:27 従って、ふさわしくないしかたで、主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 聖餐についてのことばである。この前をみると、「第一に、あなたがたが教会に集まるとき、互いの間に分裂があると聞いており、私もある程度はそれを信じています。あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、分派争いも必要でしょう。しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることになりません。」(18-20)から繋がっているようである。ただ、この章には、被り物のことなど女性に対する規定もあり、最初には「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」(1)ともあり、完全に納得できる状況にはない。パウロにとっては、キリストに倣うものなのだろうが、やはりわたしにとっては、イエスに倣うものである。そこも、大きいように思う。むろん、この時点では、マルコによる福音書も書かれていないのだろうが。 1Corinthians 12:1 さて、きょうだいたち、霊の賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい。 このあとには、「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。」(27)へと続く、一つの体、多くの部分へと続く。まだ、頭で考えられているようだが、11章までと違って、少しずつ、普遍的になっている。パウロの手紙の特徴でもあるのだろう。頭が勝っている部分は、時代を超えることは難しいが、普遍性をもとめ、本質を求めると、時代を超えることができるのかも知れない。しかし、キリストの体のことなども、イエスの考えとはおそらく異なるだろう。どう判断するかは、難しい。 1Corinthians 13:8,9 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。 パウロにとって、愛とはどのようなものだったのだろう。ここに、書かれているはずだが、正直概念的で、あまり伝わってこない。しかし、この手紙の前半が不十分であることは、パウロは認識していたのだろう。「また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。」(3)ともあり、通常、チャリティといわれるものとも異なるのだろう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。」(4)は、愛の性質を規定しているが、愛について語っているわけではない。パウロは、愛はどのようなものだと考えていたのだろうか。 1Corinthians 14:1 愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。 このあとに、異言と預言について書かれているが、パウロは、なぜ、13章に愛の章を入れたのか、そして、パウロにとっては、愛とは何だったのか考えたいと思った。たしかに、ローマの信徒への手紙でも、ガラテヤの信徒への手紙でも、後半には、愛について書かれている。しかし、それが、中心にはなっていない。当然だったからだろうか。パウロが戦わなければならないことが、他にあったからだろうか。なかなか、繋がらないように感じる。わたしが、理解できていないだけかも知れないが。 1Corinthians 15:3-5 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。 わたしは、まだ、これが最も大切なことだとは思えていない。死を克服すること、それが、罪を克服することであり、それには、復活が是が非でも必要となるのだろう。それがパウロの論理である。しかし、イエスは、そのために生きたのだろうか。と考えてしまう。イエスは、死んで、復活するために、生きたのか。おそらくそうではないだろう。一人ひとりが、神のみこころに生きるために、その希望をもって、生きるために、生き、そして、死なれたのではないだろうか。そして、そのイエスは、今も生きていて、わたしたちの模範となっていてくださる。わたしには、それしか言えない。 1Corinthians 16:12 兄弟アポロについては、きょうだいたちと一緒にそちらに行くようにと、何度も勧めましたが、彼には今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。 「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在するつもりです。」(8)とあり、パウロは、エフェソに居ることがわかる。「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。彼も私と同じように、主の仕事をしているのです。」(10)とあり、テモテがこの手紙を持っていったと思われる。さらに、分争が起こっているところで名前が上がっている、アポロとパウロが連絡を取っていることがわかる。エフェソに居るかどうかは不明だが、おそらく、小アジアに居るのだろう。このように、独立に思考するひとの考えを聞きたいと思う。資料は残っていないのだろうが。公開文書のたいせつさを感じる。 2Corinthians 1:23,24 私は、神を証人として、命にかけて誓いますが、私がコリントに行かなかったのは、あなたがたに情けをかけたからです。私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰にしっかり立っているからです。 なにか、人間の思いに感じる。状況を、自分は、しっかり把握していると思っているように見える。会って話すことによる深い理解と交わりをわたしは大切にしたいと思う。 2Corinthians 2:8,9 そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。私が前に書き送ったのも、あなたがたが万事にわたり従順であるかどうかを確かめるためでした。 手紙の難しさを感じる。パウロが書いた手紙をすべてはもっていないと思われるからである。部分的な情報から判断すると、どのようにも、理解できる。引用句のようなパウロの言葉も、かなり傲慢に聞こえてしまう。詳細を理解すれば、そうではないかも知れない。同時に、手紙で、微妙な問題について指示することの難しさも感じる。この前には、「その人には、大多数の者から受けたあの処罰で十分です。むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。」(6,7)とあるが、これも、そう簡単に判断できるわけではないだろう。わたしは、ただ、黙するしかない。 2Corinthians 3:16-18 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。 「モーセが、やがて消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません。」(13)から繋がっている。モーセは霊を見ていなかったのだろうか。霊を受けていなかったのだろうか。それは、わからない。「主に向く」ことも、かなり観念的なもので、それから、簡単に導かれるものではないように見える。謙虚に、主を求めたい。 2Corinthians 4:2 かえって、恥じて隠したりせず、謀によって歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにし、神の前で自分自身をすべての人の良心に推薦します。 このあと「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(7)としているが、さらに「『私は信じた。それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです。」(13)としており(引用は「私は信じる/「とても苦しい」とあえぐときも。」(詩篇116:10)とあるが、文脈など不明。)受け取ったこと、信じたことを、伝えずにはおられない面が強いのだろう。正しさでもある。この章には、弱さについて書かれているが、正しさ故に、その弱さを奮い立たせている。共通の感覚を持ちつつも、距離を感じてしまう。ゆっくり語り合う時間も必要なように思う。 2Corinthians 5:14,15 事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。 このあとには「それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16)と続く。地上で完全なひととして生きたイエスについて語らないことも、含まれているように見える。パウロとしては、そうなのかも知れないが、パウロとは違う方法で、主と出会った人、主に従うことを決心した人もいただろう。ただ、この手紙の受領者には、ほとんどいなかったかも知れない。引用句の論理など、危険にも感じるが。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第30回:11月9日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書6章7節〜13節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.11.5 鈴木寛@万座温泉 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  46. BRC 2023 no.046:コリントの信徒への手紙二6章ーガラテヤの信徒への手紙6章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) コリントの信徒への手紙はいかがですか。今週は、コリントの信徒への手紙二の後半を読み、次の、ガラテヤの信徒への手紙を読みます。 前回は、下にもリンクがついている、ホームページに書いてある記事から引用しました。コリントの信徒への手紙は、一、二となっています。以前は、前書・後書という言い方もしました。この順番で書かれたことは、確かなようですが、このほかにも、それも、前書と後書の間にも、手紙があったのではないかとか、後書は、もともとは、いくつかに分かれていたのではないかと、いろいろな想像もされています。わたしは、そのことについては、わかりませんが、正直、この二つの書簡だけを読んでいるだけでは、理解できない背景があるのだろうなとは、感じます。コリントの信徒からの応答も知りたいですし、もっと、背景をしらないと、正確には、理解できないのだろうと思います。その意味でも、聖書の書いてあるからと、一般的なこととして、理解し、適用するのは、注意が必要なのかもしれません。他方、一人一人が、キリスト者となった経緯や、それぞれの性格も、かなり、手に取るようにわかり、自分の子どものように、心配している、パウロが、熱く語るのは、理解できるように思います。パウロは、特に後半、ところどころに、一般的に適用可能な、ことばも、入れています。下の、わたしのノートを見てくださればわかりますが、わたしも、時々、困惑しながら読んでいます。少しずつ、そして、注意しつつ、味わいながら、受け取っていただければと願っています。 ガラテヤの信徒への手紙のガラテヤは、現在のトルコ中部あたりの地域名です。ガラテヤの信徒への手紙は、パウロが、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2章16節)を福音の核心とし、救われたものが、その自由をもってどのように生きるかが書かれていると言われています。コリントの信徒への手紙のように、具体的なさまざまな問題について語るのではなく、キリスト信仰の核心とパウロが確信することについて、熱く語っている書です。みなさんは、なにを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙二6章ーガラテヤの信徒への手紙6章はみなさんが、明日11月13日(月曜日)から11月19日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙二とガラテヤの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#cr2 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#gl 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2Corinthians 6:12,13 私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。 正直、心に響いてこない。相手が、受け入れられない、こころを閉ざしていることにこころを向けるべきではないのだろうか。自分は、正しい、安全な地に居るように見えてしまう。このあたりにも、価値多様性に関するポストモダンの考え方に、わたしが囚われているからかも知れないが。今日の箇所でも、「なぜなら、/『私は恵みの時に、あなたに応え/救いの日に、あなたを助けた』と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(2)のようなことばに、ひかれているのでよいのかと考えてしまう。あまりに、わたしは批判的になりすぎているのかも知れない。パウロ書簡、もう少し丁寧に読んでみたい。 2Corinthians 7:8,9 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです。 原文を丁寧に読まないとわからないし、わたしがそれで十分理解できるかは不明だが「今は」ということばから、以前は、後悔していたように受け取れる。全体として、結果オーライのような雰囲気を受ける。他者を、悲しませることは、日常的に起こる。それに、一喜一憂はできないが、正しさは、自分の理解が不十分であることを考えれば、非常に限定的なものであることもわかる。しかし、おそらく、パウロは、小さい愛するこどものように、コリントの人たちを見ているのだろう。それを批判はできないが、コリントの人たちの応答も聞きたい。 2Corinthians 8:20,21 このような手順を踏んだのは、私たちが携わっている豊かな寄付について、人にとやかく言われないようにするためです。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大に振る舞うように心がけています。 パウロは、当時としては、十分な教養人であったこともわかる。一般の信徒がその基本的な知識を持っていないなかで、パウロが、小さい愛する子供に対するように、対応するのは仕方がなかったのかも知れない。「人の前でも公明正大に振る舞うように」のことも、どのように考えていたのか、受け取りたい。わたしが「たいせつなかたをたいせつにすることは、たいせつなかたのたいせつなひとたちをたいせつにする」と言っている論理なのだろうか。 2Corinthians 9:12 なぜなら、この奉仕の業は、聖なる者たちの欠乏を補うだけでなく、神への多くの感謝で満ち溢れるものになるからです。 他者の欠乏を補うことと、聖なる者たちへの奉仕は異なるかも知れないが、この背後にある、パウロの論理を受け取りたい。それが神への感謝で満ち溢れるものになる。このことを理解したい。どのような論理なのだろうか。縦の軸と、横の軸と両方の考え方があると思うが、パウロはどう考えたのだろうか。 2Corinthians 10:10,11 「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者がいるからです。そのような者は心得ておくがよい。私たちは、離れていて書き送る手紙の言葉どおりに、一緒にいるときも同じように振る舞うのです。 前半は有名なことばだが、この章全体としても、背景が理解できず、評価するのは難しいと思った。最後には「『誇る者は主を誇れ。』自己推薦する者ではなく、主に推薦される人こそ、適格者なのです。」(17,18)で終わっているが、途中も、「私たちは自分の範囲を超えたところで誇ることはしません。あなたがたのところまで行くという、神が割り当ててくださった尺度の範囲内で誇るのです。」(13)いたって常識的なことが書かれている。さらに、困惑するのは、判断の基準、たとえば「神が割り当ててくださった尺度の範囲」なども、確定しにくい。しかし、背景にある事情を知れば、なるほど、それで、このような書き方になったのかとわかることもあるのだろう。手紙の難しさである。 2Corinthians 11:9,10 あなたがたのところにいて生活に困ったときも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。私の内にあるキリストの真理にかけて言います。私のこの誇りがアカイア地方で封じられることは、決してありません。 少しだけ、具体的なことが書かれている。アカイア地方の宣教は、まさに、パウロによってなされたと言えるのだろう。この手紙のころまでには、他の宣教者も、キリスト者も入り、交流は拡大しているが。そのなかで、パウロの個人的な思いが強くなっているようにも思う。同時に、かなり低劣な批判もあったのだろう。しかし、そこから学ぶことはあまりないようにも見える。パウロ学者たちのことばを、学んでみたいと思う。わたしが考えるものとは、ことなった見方があるのだろう。 2Corinthians 12:19 あなたがたは、私たちがあなたがたに対し弁明をしていると、またもや思うことでしょう。しかし、私たちは神の前で、キリストにあって語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。 パウロ書簡をどう理解するかは、難しいと感じる。一人の伝道者の苦悩ということであれば、理解できるが。パウロの、小アジアやマケドニア、アカイアでの存在があまりにも大きかったことからくる、特殊状況もあったのだろう。しかし、この手紙のころまでには、他の人も、コリントに入り、交流を持ち、パウロを知らない人も増えてきていることもうかがい知ることができる。引用句のようなことばが適切に伝われば良いのだが。 2Corinthians 13:2,3 以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に、二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。そちらに行ったら、今度は情けはかけません。なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方です。 怖い。こんなひとに三度目に来てほしくはない。そう思うのは、私だけだろうか。ただ、最後は恵みの言葉で閉じる。「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者たちがあなたがたによろしくと言っています。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」(11-13)このような言葉だけでは通じないことがあることは確かだが、手紙という媒体の限界も感じる。難しい。 Galatians 1:11,12 きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。 冒頭にも「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、」(1)と直接的な召命によって使徒とされたとし、引用句でも、「イエス・キリストの啓示を通して受けた」としている。このあとも、「私よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行き、そこから再びダマスコに戻った」(17)など、誰かに、教えてもらった、誰かからか伝えられたということを拭い去るような記述が続く。とはいえ、「神の教会を徹底的に迫害」(13b)していたということは、かなり、「福音」について知っていただろう。理解していたとは言えないのしても。イエスについても、いろいろと知ってはいだだろう。しかし、それらを、切り捨てているように見える。それを、啓示ということばで強調しているように見える。 Galatians 2:16 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。 ここに核心がある。そして、これこそが、啓示によると言われていることなのだろう。このことは、特にプロテスタントにおいては、中心的教義をなしている。異邦人にも共通に適応できる、普遍性が基盤としてあることが、重要であろう。パウロが行き着いた真理である。そこには、イエスの地上での活動は、関係していないということなのだろう。ただ、全体として捉えると、イエスが伝えたこととの整合性をとり、どのように、イエスの活動に関連付けるかが重要になるのは自然だろう。一定の時間がかかるとしても。 Galatians 3:2,3 あなたがたにこれだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。あなたがたは、どこまで愚かなのですか。霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとするのですか。 真っ向から、間違っているとは言わないが、福音書に書かれている、イエスと出会った人たちで、なんとなく距離を感じる人は多いのではないだろうか。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」。(マルコ5:34)と言われた、長血の女はどうだろうか。このように、イエスから言われても、到底、信仰に聞き従ったから、救われたとは言えないだろう。イエスとの出会い、そして、交わりによって、命が与えられ、イエスは、非常に貧弱な信仰をも是としてくださったことがおおきなものとして残ったことが、その後、イエスに従っていこう、神様に従っていこうと求めたと思われるが。神様の御心がはっきりとは分からなければ、まずは、律法を守ろうとしただろう。パウロは一つの論理を示しているだけで、普遍的な真理を述べているわけではないように感じられるのは私だけだろうか。 Galatians 4:6,7 あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。 ここも、少し、ベクトルの方向が違うように感じる。神の子として生きようよ、一緒にそうしよう、とイエスに言われて「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」(ヨハネ1章12節)神の子として生きていいよ、そのように選択して良いと、言われており、イエスに従っていくということだと思う。ただ、パウロが間違っているとは言わない。分裂を招くことは、望んでいない。しかし、普遍的で、これこそが神の御心とするのには、大きな抵抗を感じる。 Galatians 5:13-15 きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句において全うされているからです。互いにかみ合ったり、食い合ったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。 少し前に「キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」(6)とある。この内容が、引用句なのだろう。ただ、これを実際にどのように生きるかを考えると、やはり、イエスに従うことになるのではないだろうか。それなしに、パウロに倣うと言われても、難しいように思われる。むろん、このガラテヤ書が書かれた頃には、福音書もなかったのだが。 Galatians 6:11,12 御覧のとおり、私はこんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。 自筆の部分に、厳しい言葉がある。たしかに、そのような人たちもいただろうと想像もつくが、非常に悩んでいる人もいると思われる。それを、一刀両断するようなことをわたしにはできない。それだけ、パウロが、特別に大切にしていたことが、ここに詰まっているのだろう。ただ、この表現の中に「強いている」も気になる。それが、迫害を受けたくないからなのだろうか。 お知らせ:我が家で開いていた聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第31回:11月16日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書6章14節〜29節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.11.12 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  47. BRC 2023 no.047:エフェソの信徒への手紙1章ーコロサイの信徒への手紙4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) パウロ書簡と言われている、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一・二、そして、ガラテヤの信徒への手紙をんできました。今週は、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙を読みます。 それぞれの書簡については、下のリンク先などを参考にしてください。たくさんの書簡を読みますから、全体的な把握だけして、あとは、みなさんの心に響くことばに注目するのもよいと思います。わたしは、最近は、少し変わってきましたが、ずっと長い間、そのような読み方をしていました。リンク先に、パウロ書簡の概要についての箇所がありますから、それを引用しておきます。 エフェソの信徒への手紙からフィレモンへの手紙まで ローマの信徒への手紙から、ピレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。パウロが書いたものかどうか議論のあるものもいくつもありますが、それを議論することは、ここではあまり有益だとは思えませんし、わたしが確信をもって、みなさんに説明することもできませんから、パウロ由来としておきたいと思います。基本的には、使徒言行録からも分かるように、パウロ達が伝道旅行をした地域の教会に書いた手紙がいくつもあり、それが集められたものです。テサロニケの信徒への手紙一は、テサロニケ伝道の後、コリントへ行ったパウロがテサロニケの信徒へ宛てて書かれたもので、これらの書簡の中で一番最初に書かれたと考えられています。 すでに読み終わった、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で特別な位置をしめており、四大書簡などとも呼ばれています。エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、フィレモン(ピレモン)への手紙は、獄中から書かれたと記されている(エフェソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, フィレモン1)ので、獄中書簡と呼ばれています。フィリピ4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」などという言葉もありますね。おそらくローマの獄にいたのでしょう。テモテへの手紙一、二、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれることもあります。テモテについては、使徒言行録16章などにも書かれていますね。使徒言行録を思い出しながら読むと良いかも知れません。 どの書簡も短いので、通読ではどんどん進んでいきます。ここでも細かな解説などはできません。しかし上にも書いたように基本的に、これらは、先輩のクリスチャンから、若い教会や信徒や、リーダー達への手紙です。実際の生活に関係することがたくさん書かれています。また、当時の問題についても知ることができると思います。すこし考えると、それらは、ちょっと違った形であっても、現代にもある問題を扱っている場合が多いと思いますよ。みなさんは、どのような事を読み取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エフェソの信徒への手紙1章ーコロサイの信徒への手紙4章はみなさんが、明日11月20日(月曜日)から11月26日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙と、コロサイの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エフェソの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ep フィリピの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ph コロサイの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#co 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ephesians 1:17-19 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。 気になったのは、「知恵と啓示の霊(πνεῦμα σοφίας καὶ ἀποκαλύψεως )」特に「啓示(ἀποκάλυψις: i) laying bare, making naked, ii) disclosure of truth, instruction, concerning things before unknown, b) used of events by which things or states or persons hitherto withdrawn from view are made visible to all, iii) manifestation, appearance)の霊」である。啓示は辞書によると、1) 明らかに表し示すこと。2) 人の力では知り得ないことを神が教え示すこと。とある。わたしは、2 の意味のみを想定したので、違和感があったのか。なるほどと、気付きが与えられることまでも含むのであれば、良いようにも思うが、やはりちょっと気になる。神に教えられたと、色々な人が言い出すと、多くの人々に、混乱を引き起こす。 Ephesians 2:20-22 あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であり、キリストにあって、この建物全体は組み合わされて拡張し、主の聖なる神殿となります。キリストにあって、あなたがたも共に建てられ、霊における神の住まいとなるのです。 キリスト教として、成熟した姿が描かれている。一つは、パウロがこの時代まで生きていたのかどうか。もう一つは、使徒が、この時代までに、預言者以上に重要な土台となっていることをどう理解するかだ。パウロは、自らが使徒であることを、示す努力をいろいろとしている。ここでは、神格化とまでは言わないが、預言者と同列になっている。マタイや、ルカを見ると、すでに、十二弟子を特別扱いする様子が見て取れるが、それは、ほとんど、または全員が、死んでしまったということのようにも思う。不可能と思いつつも、この手紙の、背景を知りたくなる。 Ephesians 3:5,6 この秘義は、前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続する者、共に同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるということです。 ここにも、「今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」という言葉が登場する。パウロを含めた、使徒による啓示(神から特別に伝えられたことまたは、解き明かし)が確立していたということだろう。パウロは、使徒と預言者と同列に並べて語ることをするだろうか。この章の最初には「このようなわけで、私パウロは、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっています。」(1)となっている。処刑されたことが、皆に、共有されていれば、このようなことばは書かれないだろう。そう考えると、パウロがどうなったか、明らかではない時代がある程度あったようにも思う。やはり、謎である。 Ephesians 4:26-29 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。 平易な言葉で書かれている。このような基本的なことを、パウロの権威のもとに伝えることが必要だったのだろう。初代教会は、様々な困難ななか、使徒の次の世代が育っていったのだろうか。もう少し、実情を知りたい。 Ephesians 5:1-3 ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません。 このような形で、キリストの愛が継承されていったのだろう。しかし、イエスの愛を通して、神の愛を知ることは、薄くなっていったのではないだろうか。概念的なものとして、愛の宗教を形作っていったようにも思う。むろん、わたしが受け取り、喜びを持って、学び続けている、イエスの生き方だけが、神の御心というわけではないだろう。どのように、全体を把握すればよいのか、牧会書簡などで、理解していくことができればと願う。 Ephesians 6:23,24 父なる神と主イエス・キリストから、平和と、信仰を伴う愛とが、きょうだいたちにありますように。恵みが、私たちの主イエス・キリストを変わることなく愛する、すべての人と共にありますように。 わたしが、聖書の学びで、毎回驚きを持って、イエスから学んでいることとは、少し方向性が異なるが、このような言葉を共有するキリスト教会が、成長していったことは、理解できるし、それで良かったのだろうなとも思う。わたしの理解は、どうしても、時代を超えなければいけないために、知的営みが大きくなってしまう、そして、そこから得ることも、多様になってくるだろうから、共有することが困難なように思う。自分の歩む道についても、ゆっくり考えていきたい。 Philippians 1:12-14 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。 根拠は明らかではないが、この投獄は、使徒言行録にかかれている、皇帝に上訴し、ローマに護送されたときのものとは、異なるように思う。ルカの書き方と、パウロがどう理解しているかの差もあるだろうが、この、フィリピの信徒への手紙における、入獄は、ローマ帝国世界における、いわゆる皇帝による迫害、弾圧の結果であるように見える。「主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得」の受け止め方で、使徒言行録の記述における投獄とすると、このような確信が得られるようには思えないからである。ただ、同時に、使徒言行録がローマ到着で終わっている謎は、残る。 Philippians 2:20,21 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。 今朝気づいたのは「親身になってフィリピの信徒を心にかけている」ことが「キリストのこと」を追い求めていることに、結び付けられていることである。テモテの働き、一つ一つの行為が、キリストのことに結びついていると、パウロは伝えている。それがどのような根拠によっているかは不明だが、尊いことのように感じる。 Philippians 3:2-4 あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者に気をつけなさい。神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。 このあとに、肉の頼みについて書き、「キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。」(8)としている。潔いが、みなに、それを押し付けることはできないように思う。パウロの真実が、なかなか皆の真理にならない、葛藤も書かれているように見える。その表現が、「きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。」(13)なのかもしれないと思った。 Philippians 4:6,7 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。 ここにも思い煩うなが書かれている。おそらく、この前の「主は近いのです」にも結びついているようにみえるが、イエスの教えは、そのような理由にはよっていないように見える。丁寧に学んでみたい。思い煩いについて。 Colossians 1:4-6 キリスト・イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖なる者たちに対してあなたがたが抱いている愛について、聞いたからです。その愛は、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています。 とても、概念的になっている。むろん、現実世界の投影であろうが、同時に、表現のことばが定型になっているようにも感じる。一つ一つ見ていくと、疑問も生じる。愛の範囲は、聖なるものたちに限られるのだろうか。それも、希望に基づくと言われている。そうなのだろうか。やはり、仲間内の宗教になってしまっているように感じる。迫害下(または、いつ迫害が怒るかわからない状況)であることを考えると、仕方がないのかもしれない。 Colossians 2:20-22 あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。 このようなことは、どの世界でも起こるようにおもわれる。ただ、ここでは、「使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくもの」としている。少し興味深いが、ほんとうに、それが問題なのかとは、考えてしまう。最後には、「このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。」(23)とある。「肉体を満足させるだけ」は、当を得ているように感じる。 Colossians 3:12,13 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 このあとに「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。」(14)が続く。美しい言葉だが、一つ一つが具体的な場面で、何を意味するかを考えると、単なる一般的出発点を与え、道徳的(ある社会で,人々がそれによって善悪・正邪を判断し,正しく行為するための規範の総体。)なものを感じる。イエスは、それを説いたわけではないように思う。同時に、後半は、主に目線が向けられている。パウロ的な教えだろう。イエスは、本当に、そのことを中心的なメッセージとして伝えたのだろうか。むろん、否定するものではまったくないが。 Colossians 4:10 私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。 現在、聖書の会で、マルコを読んでいるので、マルコのことは、気になる。聖書での記述は、使徒12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ4:10, 2テモテ4:11, ピレモン24, 1ペテロ5:13。パウロの著作が確実だと思われているものの中では、ピレモンがあるがその記述は「私の協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」となっている。非常に簡単な記述である。明らかに、パウロではないものとしては、ペトロの第一の手紙「共に選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、よろしくと言っています。」これも、著者は、ペトロではないと考えられているようだが、「私の子」という、近い関係が際立っている。ペトロの著作でなかったとしても、ペトロとの近さを人々は認識していたのだろう。コロサイの引用句はどう読めば良いのだろうか。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第32回:11月23日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書6章30節〜34節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.11.19 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  48. BRC 2023 no.048:テサロニケの信徒への手紙一1章ーテモテへの手紙一6章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙と、獄中書簡と呼ばれるものを読んできました。今週は、テサロニケの信徒への手紙一、テサロニケの信徒への手紙二、テモテへの手紙一を読みます。 前回、パウロ書簡についての概略について書きました。今週読む箇所のうち、テサロニケの信徒への手紙一は、聖書の含まれているパウロ書簡としては、最初に書かれたものとされています。パウロがどのようなことを大切なこととして伝えていたのかも、うかがい知ることができるように思います。特に、使徒言行録にかかれているように、イエスが昇天して、また、戻ってこられるという、再臨信仰が強かったようにも見えます。現在でも、キリスト教会で、キリストが再臨することは、一般的には信じられていますが、当時ほど、差し迫ったものとしては考えられていないと思います。おそらく、さまざまな、当時の状況も背景にあったのでしょう。 テモテは、パウロに同行した若い弟子で、聖書に何回か登場します。使徒言行録第16章1節、2節から引用しておきます。聖書協会共同訳です。 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ人女性の子で、ギリシア人を父親に持つテモテと言う弟子がいた。 彼は、リストラとイコニオンのきょうだいの間で評判の良い人であった。 前回読んだ、獄中書簡もそうですが、パウロの次の世代になにを伝えていくかも大切な要素だったのではないかと思わされます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 テサロニケの信徒への手紙一1章ーテモテへの手紙一6章はみなさんが、明日11月27日(月曜日)から12月3日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 テサロニケの信徒への手紙一・二と、テモテへの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テサロニケの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#th1 テサロニケの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#th2 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ti1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Thessalonians 1:9,10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。 この前には「そしてあなたがたは、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちと主に倣う者となりました。」(6)ともある。パウロが伝えた福音の原型を知りたい。それには、新約聖書の中で、最初に書かれたとされる、テサロニケ信徒への手紙一は、最良だろう。ただ、最初に、キプロスや、小アジアで宣教したときのことまではわからない。ここからキーワードをひろうと「偶像から神に」「再臨信仰」「神が復活されたイエス」となるだろうか。後では、キリストの使用が増え、「私に倣う」に変化しているように思うが、いつか丁寧に見ていきたい。 1Thessalonians 2:18 そこで、あなたがたのところに行きたいと願いました。ことに、私パウロは何度も行こうとしたのですが、サタンが私たちを妨げました。 サタンは「中傷する者」、ひとを誘惑して、神に逆らうようにさせるもの。だそうだが、その線で、このことを理解できるだろうか。パウロは、テサロニケに行くことが様々な理由で妨げられたことを言っているのだろうが、それは、神が止めていることという面もあるのかも知れないし、単に、パウロたちの活動を静観しているのかもしれない。価値判断は、それほど、簡単にできるものではないのだから。サタンの働きかどうかは、冷静に見極めたいものである。パウロのこのことばは、ひとつの、慣用句だったのかも知れない。あまり、例が多くないので、わからないが。 1Thessalonians 3:5 そこで、私も、これ以上我慢できず、試みる者があなたがたを試みて、私たちの労苦が無駄になることがないように、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。 「労苦が無駄になることがないように」人間的な思いとしては当然だろう。そして、そのために、できることは、それなりにある。同時に、信仰生活を深めることは、それぞれのひと、神様の働きに委ねなければならない面もある。とても、難しい。評価基準を単純化すれば、いろいろと考えられるかも知れないが、私たちの知るところは、ほんの一部にすぎないのだから。 1Thessalonians 4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように神から教えられているからです。 ここでは、互いに愛し合うことは、兄弟愛の範疇におさめられている。イエスの新しい掟も「わたしがあなた方を愛したように」(ヨハネ12:34)から判断すると、その愛に触れたひとを想定しているように思われる。しかし、それが、限定と排除になっていくと、愛とはいえなくなるのだろう。愛し得ないもの、歓迎できないと思えるようなものをたいせつにすることが、愛なのだから。開かれていないといけないと思うのだが、とても、難しい。そしてそれは、兄弟愛から始めるものでもあるのだと思う。 1Thessalonians 5:1,2 きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。 主の再臨が重要なトピックだったことがわかる。このあとの論理「しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(4)として、「夜にも闇にも属してい」ない「光の子、昼の子」として生きる(5)ことについて、その生き方について述べている。内容自体は、すばらしいが、やはり、イエスさまがどう生きたかには、結びついているわけではない。批判することではないが、正直、主の日については、イエスのメッセージの誤解だと思う。そのようなことが、たくさんあるのではないだろうか。丁寧に、見ていきたい。主に従い、その生き方に倣いながら。 2Thessalonians 1:6,7 実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。 「それゆえ、私たち自身、あなたがたがあらゆる迫害と苦難を受けながらも、忍耐と信仰を保っていることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」(4)ともあり、迫害下、苦難が続く中で「主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるとき」のことを思うことが、多くの信徒にとって、唯一の希望だったのだろう。それは、本道ではないように思うし、イエスの教え、生き方に立ち返るべきだと思うが、それは、一般的ではないことも確かだろう。わたしが、当時生きていたら、どうしただろうか。自分についでではなく、他者にどう語るかは、非常に難しい。最初には「パウロとシルワノとテモテ」(1)とあり、テサロニケの信徒への手紙一からは、シルワノが加わっている。シルワノが関係しているのだろうか。 2Thessalonians 2:7,8 不法の秘密はすでに働いていますが、それは、今抑えている者が退くまでのことです。その時、不法の者が現れますが、主イエスはご自分の口から吐く息で彼を殺し、来られるときの輝かしい光によって滅ぼしてしまわれます。 不法の問題は、難しい。ここに書かれている内容も、よくはわからない。特に、「今抑えているものが退く」はわからない。おそらく、「まず、離反が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が現れなければならないからです。この者は、神と呼ばれたり拝まれたりするものすべてに反抗して高ぶり、神の神殿に座り、自分こそ神であると宣言します。」(3b,4)について言っているのだろう。そのような時が来ると。しかし、そのあとに、書かれている、主イエスの魔術のような撃退については、驚かされる。わたしが、知っている、イエスが、することのようには思えない。当時の混乱も少しずつ理解していきたいと思う。 2Thessalonians 3:13-15 きょうだいたち、あなたがたは、たゆまず善を行いなさい。もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者があれば、その人とは関わり合わないように気をつけなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。そして、その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい。 ここに書かれているものは、善良な一キリスト者の生活として、違和感がない。といっても、イエスが大切にしたことと、同じというわけではないだろう。しかし、キリスト者の中に受け継がれたものとして、特に、最後にあるような「その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい。」は、親近感を感じる。イエスの表現とは、少し違っているかも知れないが、喜んでおられるのではないだろうか。 1Timothy 1:8-10 私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。すなわち、律法は、正しい者のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のためにあり、そのほか健全な教えに反することがあれば、そのためにあると知っています。 この前には、系図のことが書かれ、「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」(5)とある。「この命令」がよくわからない。「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に、異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように命じなさい。」(3-4)だろうか。引用した、律法についてのこともふくめて、混乱があるように、思われる。パウロの名を使っているが、権威がなくなり、いろいろなひとが様々なことを語り、それを統率できない状況になっていたのかも知れない。アナーキーな状態だろうか。指導者が次々と亡くなっていく段階では、考えられることでもある。 1Timothy 2:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保ち続けるなら、子を産むことによって救われます。 ここにあるような、ジェンダー関連の当時の考え方、聖書としての言説について、整理して、考えてみたい。イエスがどう考えていたかも、同時に調べてみたいが、背景まで、理解するのは、おそらく、困難なのだろう。ただ、普遍主義だけで、単純に理解することでは不十分だとも思う。最近、学んでいることに、影響されているのかも知れないが。 1Timothy 3:1,2 この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり、冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。 このような記述から、教会の監督(長老)は、男性に限るとしているところがある。教会組織が、このように整っていくのはいつ頃なのだろうか。整備されていくのは、適切なことだが、硬直すると、問題が起こるように思う。また、様々な文化背景のもとで、実質的な整備がされていくことを考えると、柔軟性が大切であると思う。しかし、それをまったく自由にしてしまうことも、おそらく課題があるのだろう。人間社会ではなくならない問題なのだろう。 1Timothy 4:14 あなたの内にある賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちが手を置いたとき、預言を通してあなたに与えられたものです。 テモテ前書は、若い頃から親しんできた手紙である。しかし、いま、落ち着いて読んでみると、いくつも、課題を内包しているように思う。ここにも、賜物について、長老たちが手を置いたときに、預言を通して与えられたとの記述がある。司式の方法も確立し、ある意味では、魔術化(神様の働きから分離されて、人の行為が神の働きを誘発するような変化の表現)が生じているようにも思う。この前には「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(13)とある。日常は、変わらないのかも知れないが、心配にもなる。 1Timothy 5:9-11 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、良い行いによって認められている人でなければなりません。子を育て上げたとか、旅人をもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善行に励んだ者でなければなりません。若いやもめは除外しなさい。情欲に駆られてキリストから離れると、結婚したがるようになり、 大きな組織の中の公助ではなく、共助の段階であろうが、このようなことを丁寧に決めていくのは非常に難しい。教会や、宗教団体でも起こる問題である。なにを基準にすればよいか難しい。極力、主観的な条件を排除すること、さらに、元々の理念である、苦しみを共有し、助け合い、互いに愛し合うことを実践することだろうか。このような責任を担うのは、難しい。 1Timothy 6:3-5 異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、敬虔に適う教えにも従わない者がいれば、その人は気が変になっていて、何も分からず、議論をしたり言葉の争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、妬み、争い、冒瀆、邪推、果てしのないいがみ合いが生じるのです。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の道と考える者たちの間で起こるものです。 この問題も難しい。そのようなひとを理解することは、基本的には困難である。あまり、断定しないほうが良い。あなたのことを教えてくださいと、そのひとの行動や思考の背後にあるものを、少しでも理解すること、愛を持って、としか言えない。互いに愛し合うことは永遠の課題である。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第33回:11月30日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書6章35節〜44節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.11.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  49. BRC 2023 no.049:テモテへの手紙二1章ーヘブライ人への手紙6章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) テサロニケの信徒への手紙一、テサロニケの信徒への手紙二、テモテへの手紙一を読んできました。今週は、テモテへの手紙二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙と読み、ヘブライ人への手紙に入ります。 前回、テモテについては、少し書きました。 テトスについて、下にリンクをつけたテトスへの手紙から一部引用します。 テトスについては、聖書に何回か記されています。ガラテヤの信徒への手紙2章1節から3節 1:その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。 2:エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。 3:しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。 これがいつのことか正確には分かりませんが、文脈からは使徒言行録15章に書かれているエルサレム会議とも呼ばれているときの事かもしれません。すると、パウロとバルナバによる一回目の伝道旅行の後と言うことになります。ここからテトスはギリシャ人であり、割礼を受けていなかったと書かれていますから、パウロたちの伝道の最初のころにはすでに、キリストを信じるようになっていた非ユダヤ人ということになります。上に引用した4節には、まことの子とありますから、パウロを通して、信仰を持つようになったのかもしれません。テトスについては、コリントの信徒への手紙二にも何回か出てきます。コリントに遣わしたテトスがよい報告をもって帰ってきたこと、それによってとても慰められたことが書かれています。(コリントの信徒への手紙二 7章5節から16節)また、同じ手紙の8章23節には、次のようにあります。 テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。 パウロが信頼をおいている、同志テトスにあてたとされているこの手紙も、テトス宛としながらも、もっと一般的なことが託されているのでしょう。 フィレモンへの手紙は、一章だけで短いものですが、先週読んだ手紙と同様、獄中書簡と呼ばれています。フィレモンのもとから逃れてきた奴隷のオネシモを、兄弟として、フィレモンに送り返す時に託した手紙のようです。キリストを信じるようになった奴隷の問題についてパウロはどのように書いているでしょうか。 ヘブライ人への手紙は、最後は手紙形式になっていますが、冒頭には、著者も、送り先も明確には書かれておらず、著者が不明な手紙です。しかし、読んでいくと、著者は、ユダヤ教やその礼典についてよく知っており、それを本質的な意味において、大切にしていることなど、いくつかの情報はわかります。著者は、使徒言行録18章24-28節に書かれている、アポロのような人なのかもしれません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 テモテへの手紙二1章ーヘブライ人への手紙6章はみなさんが、明日12月4日(月曜日)から12月10日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 テモテへの手紙二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙と、ヘブライ人への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テモテへの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ti2 テトスへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#tt フィレモンへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#pl ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#he 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2Timothy 1:10 今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。 命と不死、永遠の命というのであれば、わたしも、求めているが、一般的には、肉体的な死後の世界、または、復活を意味して、それを求める宗教としてキリスト教は広がったように思われる。このことばを読めば、そう取るのが自然だろうから。難しい。 2Timothy 2:11-13 次の言葉は真実です。/「私たちは、この方と共に死んだのなら/この方と共に生きるようになる。耐え忍ぶなら/この方と共に支配するようになる。/私たちが否むなら/この方も私たちを否まれる。私たちが真実でなくても/この方は常に真実であられる。/この方にはご自身を/否むことはできないからである。」 信仰告白の一形態だったのだろうか。最初の一文は、パウロ的であるが、二番目は、不明、三番目もよくわからない。四番目は、五番目に続いているが、「神の真実」は、通常用いられた用語なのだろう。最初と、最後に、キリスト教の真理が入っているようであるが、それを「次の言葉は真実です」として、定型の信仰告白とするのは、問題を感じる。 2Timothy 3:6,7 彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女たちをとりこにしている者がいます。その女たちは多くの罪を重ね、さまざまの情欲に駆り立てられており、常に学んではいるが、いつになっても真理を認識することができません。 文脈から、これは、ある特定の人々を表現しているようだ。それが、この章の最初にある、終わりの日の困難の一般的表現に結びついている。しかし、何を意味しているのだろうか。キリスト者の中に、そのようなことをする人たちが、ある程度いたということだろうか。不明である。終わりの日の困難な時期は、見方によっては、どの時代にもあるように思われる。 2Timothy 4:16 私の最初の弁明の際には、誰も助けてくれず、皆私を見捨てました。どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。 ここには、ある真実が含まれているように思う。なにを表現しているのだろうか。パウロの、使徒言行録以降については、あまり資料がないのだろうが、調べてみたい。キリスト教の拡大においては、とても重要だったろうから。今読んでいる本からすると、コンスタンチヌス帝の頃にも、キリスト者の割合は、それほど高くはなかったようだが、ローマ帝国で、10パーセント程度は越していたとすると、やはり大きなことであり、その最初の一歩は、パウロに帰する部分が多いのだから。 Titus 1:7-9 監督は、神の家の管理者として、とがめられる点があってはなりません。わがままでなく、すぐに怒らず、酒に溺れず、乱暴でなく、恥ずべき利益を貪らず、客を手厚くもてなし、善を愛し、慎みがあり、正しく、清く、自制心があり、教えに適った信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。それは、健全な教えによって人を励まし、また、反論する人たちを正すことができるためです。 この前には「長老は、とがめられる点がなく、一人の妻の夫であり、その子どもは放蕩を責められたり、反抗的であったりしない信者でなければなりません。」(6)ともある。引用句にはその理由も「健全な教えによって人を励まし、また、反論する人たちを正す」ためと書かれている。たしかに、ここは、クレタで町ごとに長老をたてることが主たる仕事であったようなので、ある程度理解できるが、一般化するのは、難しい。神の前に共に、謙(へりくだ)るものだろうか。そうはいっても、やはり、群れ全体に、気を配れる人が必要であることも確かである。祈って、わたしの役割について、考えたい。 Titus 2:14 キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです。 高校生の頃に、覚えた聖句でもある。いまの、わたしのことばで表現するとどうなるか、考えてみた。「キリストがわたしたちを愛するゆえに、十字架上で死なれたのは、わたしたちを、神のみこころにあらがうすべてものから、解放され、みこころをもとめ、それを生きる民と共に、生きるためだと、わたしは信じています。」だろうか。難しい。しかし、(みこころを行う)神の子として共に生きるように、招かれていることは確かで、その模範を示されたのだとは思う。 Titus 3:7 こうして私たちは、イエス・キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 ヨハネによる福音書を読んでいると、永遠の命は、今を生きるもののようにも思う。丁寧に、聖書全体について、永遠の命について、調べてみたい。まずは、マルコから「イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」(マルコ10:17)「今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:30)これが一番、原始的な福音書における永遠の命についての言及だろう。来るべき世での永遠の命である。 Philemon 7 兄弟よ、私はあなたの愛から多くの喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心が、あなたのお陰で元気づけられたからです。 パウロがフィレモンの活動、そして、愛についての評価をしている。互いに、愛し合い、慰め合う交わりがあるように思う。実質的な内容は不明だが、このような交わりを大切にしたい。自分も、相手も、元気づけられるような交わりを。 Hebrews 1:3,4 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。 直接的に読むと、イエスは、後に、天使たちよりも優れたものとなったと証言している。罪の清めを成し遂げられたからか。天使については、「天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。」(14)とも書かれている。地上では、人々に奉仕するために遣わされたのだろうか。そうかもしれない。 Hebrews 2:8 万物をその足元に従わせられました。」「万物を彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、私たちはいまだに、万物がこの方に従っている状態を見ていません。 冷静である。この前に書かれている部分は、詩篇8:5-7 のようだが「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ/栄光と誉れの冠を授け、御手の業を治めさせ/あらゆるものをその足元に置かれた。」ここでは「人とは何者なのか/あなたが心に留めてくださるとは。/また、人の子とは何者なのか/あなたが顧みてくださるとは。あなたは彼を僅かの間/天使たちよりも劣る者とし/栄光と誉れの冠を授け、万物をその足元に従わせられました。」(6b-8a)となっており、微妙に、異なる。特に、ある程度一般的と思える表現を、特定の人に変えているように見えるが、そうではない読み方もできるのだろうか。 Hebrews 3:2-4 モーセが神の家全体にわたり忠実であったように、イエスは、ご自分を任命した方に忠実であられました。家を建てた者が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。 分かりにくい。ここでは、イエスは、ご自身を任命した方に忠実であったことが書かれており、それは、神様なのだろう。また、家よりも、家を建てたものの、建てたものも、神なのだろう。「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。」(6)からすると、私たちが神の家ということになる。モーセと、イエスの関係、および、それぞれの役割、分かりやすいとは言えない。 Hebrews 4:12,13 神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。神の前にあらわでない被造物はなく、すべてのものは神の目に裸であり、逃れることはできません。私たちはこの神に弁明しなければなりません。 なんとなく理解できるとも言えるが、感覚的で、あまり内容がないようにも見える。「だから、神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたのうちから出るなどということがないように、注意しようではありませんか。」(1)「したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。」(9)とあるように、信仰告白で終わりではないことを言っているのだろう。これで、通じたのだろうか。 Hebrews 5:7 キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 やはり「あばたもえくぼ」なのだろうか。聖書を読んできて、好ましいと思ってきたことが、批判的な目で読むと、問題をさまざまに感じる。イエスの生き様だけは、いまでも、感銘をうけ、学ぶことが多いと感じているが、その周囲に付け加えられたことに対する感覚は、変わってきている。引用句も、やはり、ヘブライ人への手紙記者の個人的感想なのだろう。イエスが、そして、主がどのように考えておられるかは、別のことに見えてくる。このまま受け入れると、これを根拠に、誤った演繹に導かれるような不安に駆られる。 Hebrews 6:18 それは、この二つの不変の事柄によって――この事柄に関して、神が偽ることはありえません――目の前にある希望を手にしようと世を逃れて来た私たちが、力強く励まされるためです。 はっきり言って、何を言っているのかよくわからない。主を信じる信仰に導かれたものの希望について書かれ、そのひながたとして、アブラハムへの約束が書かれているのだろうが、二つの不変の事柄も、目の前にある希望もよくわからない。また、アブラハムについてかかれていることも「私は必ずあなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」(14)非常に抽象的である。「永遠にメルキゼデクに連なる大祭司」も正直、旧約聖書の証言も非常に限定的で、感覚的なものしかわからない。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第34回:12月7日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書6章45節〜52節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 2023.12.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  50. BRC 2023 no.050:ヘブライ人への手紙7章ーペトロの手紙一2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) テモテへの手紙二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙と読み、ヘブライ人への手紙に入りました。今週は、ヘブライ人への手紙を読み終わり、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一を読み始めます。 ヘブライ人への手紙はいかがですか。民の安息、大祭司のこと、聖所のことなど、旧約聖書と関連した記述が多く、正直、わたしもよく理解できない箇所がたくさんあります。しかし、おそらく、ユダヤ人や、ユダヤ人キリスト者にとっては、たいせつなことだったのだろうと思います。手紙の後半には、パウロ書簡でもそうであったように、キリスト者の生活について書かれています。違いを超えて、たいせつなことを、時代を超えて、分かち合うことができることは、幸いだと感じます。 ヤコブの手紙のヤコブは、主イエスの兄弟ヤコブのことだろうと言われています。これまでの言葉の用法からすると、ヤコブ由来と言っておいたほうが、安全でしょうか。同様の表現をすると、ペトロの手紙は、ペトロ由来とするのが安全でしょう。個人的には、ペトロは、文字の読み書きが自由にはできなかったのではないかと思っています。この手紙も、最後をみると、シルワノが書いたとされています。実際の著者については、いろいろと議論があるようですが、十二弟子や、イエスのことを実際に知っている人、そして、パウロのような異邦人伝道で中心的な役割を果たした人が、亡くなっていく中で、非常に広範囲に広がって生活している、キリスト者が、何を信じ、信仰継承をどのようにしていったら良いかは、とても大きな問題になっていたのではないかなと思います。そして、それは、現代にも通じる問題であるように思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヘブライ人への手紙7章ーペトロの手紙一2章はみなさんが、明日12月11日(月曜日)から12月17日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヘブライ人への手紙と、ヤコブの手紙と、ペトロの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#he ヤコブの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jc ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#pt1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Hebrews 7:17 こう証しされています。/「あなたこそ永遠に/メルキゼデクに連なる祭司である。」 旧約の祭司職との関係は、わたしには、正直理解できない。そのような議論が必要かも含めて。しかし、ユダヤ人にとっては、避けて通れないものだったのかもしれない。引用句は、詩篇からの引用である。「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110:4)この詩篇は、「ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/『私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。』」(詩篇110:1)から始まる有名な詩篇である。全体を読んでみたが、正直、よくは理解できない。しかし、メルキゼデクは「また、サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。」(創世記14:18)にある以外は、旧約聖書では、この詩篇の1箇所のみである。ヘブル書記者が、なぜここまでメルキゼデクについて展開するかは、最初に書いた、祭司職についての理解が不可欠だからなのだろう。 Hebrews 8:7,8 もし、あの最初の契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は彼らを責めて、こう言われました。/「『その日が来る。/私はイスラエルの家、およびユダの家と/新しい契約を結ぶ』と/主は言われる。 ここから、エレミヤ31:31-34の引用が続く。「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」ほぼ、同じである。ヘブライ人への手紙記者は、ヘブル語聖書を持っていることの証拠でもある。契約の更新の真偽がどうしても、必要だったのだろう。 Hebrews 9:9,10 この幕屋とは、今という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえが献げられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 幕屋について書かれている。これは、十分に論理的であるとは言えないが、至聖所に関する理解も、完璧になされなければいけなかったのだろう。おそらく、このような、ヘブライ人への手紙の努力によって、多くのユダヤ人が、キリスト教に招かれたのだろう。そのことを無視して語ってはいけないと思う。わたしには、とうてい理解できないが。理解できないからと言って、不要としてはいけない。 Hebrews 10:11-13 すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。 いけにえ、贖罪まで到達した。パウロが語り、キリスト教の中心的教義となったこの贖罪について、ユダヤ人にわかりやすく語ったのだろう。ただ、細部を見ると、パウロも考えなかったようなことが入っているようにも思う。この最後の部分である。どのような根拠なのだろうか。ヘブライ人への手紙を、集中して学ぶことは、これからもないだろうが、切り捨てることはしたくない。 Hebrews 11:39,40 この人たちは皆、信仰によって神に認められながらも、約束のものを手に入れませんでした。神は、私たちのために、さらにまさったものをあらかじめ用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。 微妙な表現である。いいたいことは、みな、共に、約束のものを受け取るということだろうか。約束のものは、明確だったのだろうか。ここまでのリストは、一つ一つの行動が、信仰に酔っているということだろう。しかし、信仰とは、信頼関係で、一生続くことではないのだろうか。一人の人の生き様、それも、自分の人生を振り返ることがたいせつなように思う。謙(へりくだ)って。 Hebrews 12:14 すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。 この章では、主による鍛錬が語られ、次に、引用句から始まる、聖なる生活の勧めが語られている。どちらも、重要であるが、なにか、あまり心に響かない。以前は、いろいろと学んでいたことなので、わたしの側の問題なのかもしれない。神様に信頼して、御心を求め続けて、生きること、その表現は、一人ひとりに少しずつ、違っているのかもしれない。謙虚に求め続けたい。 Hebrews 13:1,2 兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気付かずに天使たちをもてなしました。 マタイ25章の羊と山羊のたとえを思い出させる。それよりも、ヘブライ人への手紙も最後に、兄弟愛のこと、この前の章には、聖なる生活(12:14)について書かれていることを考えると、さまざまな言説・解説はヘブライ人への手紙の特徴だとしても、共通、求めることとして、この兄弟愛があったのではないかと思う。それが、キリスト教を支えていたのではないだろうか。パウロの手紙然りである。 James 1:25 しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。 この段落は「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。」(22)と始まる。完全な律法、自由の律法の意味は、明確ではないが、イエスがさし示した律法なのかもしれない。議論の余地は、はばは広すぎるかもしれないが、真理もあるように思う。互いに愛し合いなさいも、この、完全な律法、自由の律法の中核にあるのかもしれないと思った。聞くだけの人、聞いて忘れてしまう人ではなく、そのように生きるものとなりたい。 James 2:20-22 ああ、愚かな者よ、行いのない信仰は役に立たないということを知りたいのですか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義とされたではありませんか。あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。 「信仰が行いにより完成された」と宣言できるかどうかは別として、信仰が行いによって現れることは当然だろう。ただ、信仰義任の問題は、ファイリサイ派のパンだねに関係したことのように思う。単に、信仰か、行いかという二者選択になってしまう可能性を拭い去ることは難しいことも確かなのだろう。御心を行うものになりたい。 James 3:8 しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。 舌を制することは難しい。しかし、同時に、この舌の言葉によって、励まされること、励ましを与えることも確かである。むろん、励ましのことばがどのように働くかは、簡単には、見定めることはできず、暴力となることがあることも確かだが。舌を治めることができる人はひとりもいないことは、しっかりと受け取りたいメッセージではある。 James 4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。 このように生きられれば良いなと思う。人生にたいして、神様の招きに対して、available ということだろうか。しかし、同時に、計画性がないと、なにもなし得ない。それを考えながら、準備することも、やはりたいせつなように思う。おそらく、その間には、矛盾はないのだろう。あと少しの人生、その両面をたいせつに、生きていくことができればと願う。 James 5:14 あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 まさに、これが治療であり、癒しであり、奉仕だったのだろう。テラペウオー(θεραπεύω)である。語源から、どのように、用法が変化していったかも、調べられるのだろうか。どこまで、詳細がわかるのだろうか。難しいのかもしれない。Wikitionary によると、1. to wait on, attend, serve, 2. to obey, 3. to flatter, placate, 4. to consult, 5. to cure, heal, restore, 6. to cultivate, till (of land), 7. to protect とのことである。用法も含めて歴史を知りたいが。 1Peter 1:15,16 あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。 「私は主、あなたがたの神である。私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい。地を這い、群がるどのようなものによっても、あなたがた自身を汚してはならない。私はあなたがたをエジプトの地から導き上り、あなたがたの神となった主である。私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。」(レビ記11:44,45)「イスラエル人の全会衆に告げなさい。聖なる者となりなさい。あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。」(レビ記19:2)「あなたがたは身を清めて聖なる者となりなさい。私は主、あなたがたの神だからである。」(レビ記20:7)イエスがこのようなことを語っていたのかと思ったが、レビ記のようだ。19章18節bには、「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」ともある。しかし、聖なるものとなるとの意味をどう解釈するかにより、だいぶ変わってくるように思う。「あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」(22)どのようにして、ここに行き着くか、それは、論理的にも、生活の中のこととしても、示されてはいない。 1Peter 2:12 また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。 「悪人呼ばわり」されていたのだろう。そのゆえにこそ、「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。」(13a)も実質的な意味があり、大切なことだったのだろう。どのような理由で、悪人呼ばわりされたいたかは、わからないが、多くの場合、誤解、無理解があっただろう。さまざまな理由によって。解決は、それほど簡単ではない。心を痛めている人たちと共に、祈りたい。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第35回:12月14日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書6章53節〜56節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 (なお、12月28日と、1月4日は、聖書の会は、お休みとさせていただきます。) 2023.12.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  51. BRC 2023 no.051:ペトロの手紙一3章ーユダの手紙

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙と読み、ペトロの手紙一に入りました。今週は、ペトロの手紙一を読み終わり、ペトロの手紙二、ヨハネの手紙一・二・三を読み、ユダの手紙を読みます。このあとは、ヨハネの黙示録だけです。2023年も押し迫ってきましたが、新約聖書の1回目の通読ももう少しです。 ペトロとヨハネは、十二弟子の中でも、常にイエスと一緒にいた弟子で、使徒言行録によると、イエスの死と復活と昇天のあとも、二人でエルサレムでイエスがキリストであると述べ伝えた記事が何回か登場します。イエスに指名され特別な場所に立ち会ったのも、この二人と、ヨハネの兄弟ヤコブでした。ヤコブは、早くに、殉教の死を遂げますから、イエスと共に行動したこの二人の存在は、キリスト教会にとって、とても重要だったのだと思います。しかし、60年代には、ペトロ、そして、異邦人伝道をしたパウロが殉教の死を遂げたとされています。最後に残ったのは、ヨハネで、ヨハネは、90年代まで生きたと言われています。この人たちが、委ねたことは、何だったのでしょうか。ペトロの手紙一・二や、ヨハネの手紙一・二・三の著者についても、いろいろと議論はあるようですが、ペトロおよびヨハネ由来のメッセージを読み取っていただければと思います。 ユダは、イエスの兄弟の一人のユダだとされていますが、これも、正確な著者については、不明です。聖書以外からの引用もいくつかあり、聖書に加えるかどうかも、議論があったようです。著者云々より、さまざまな文書、証言が残され、わたしたちの手に届いたことは、とてもありがたいことだと、わたしは、考えています。それぞれのひとが受け取った、メッセージを、味わっていただければと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ペトロの手紙一3章ーユダの手紙はみなさんが、明日12月18日(月曜日)から12月24日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三と、ユダの手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#pt1 ペトロの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#pt2 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jn1 ヨハネの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jn2 ヨハネの手紙三:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#jn3 ユダの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#ju 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1Peter 3:21 この水は、洗礼(バプテスマ)を象徴するものであって、イエス・キリストの復活によって今やあなたがたをも救うのです。洗礼(バプテスマ)は、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。 ノアの時代の洪水のことを言っているが、それが、洗礼だとどうして言えるのだろうか。ここでは、肉の汚れを取り除くことではなくとも書かれている。ノアの洪水は、救いのためではなく、滅びのためというのが、旧約聖書の一貫したメッセージではないのか。 1Peter 4:1,2 キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです。 「肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っている」とどうして言えるのだろうか。背後には、迫害があったのだろうと想像する。それを、よいものと理解する必要があったのだろう。しかし、なにか、イエスが、神の国が近づいたと説いた福音とは、異なる方向に向かっているように感じざるを得ない。神の国は、終末を待ち望むことによって、来ると変化していったのだろうか。もう少し、考えてみたい。 1Peter 5:12,13 私は、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたに短い手紙を書き、勧め、これこそが神の真実の恵みであることを証ししました。この恵みの内に踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、よろしくと言っています。 ここにシルワノとマルコが登場する。短い手紙とあるが、おそらく、ペトロは、文盲だったのだろう。そして、それは、よく知られたことだったのではないだろうか。マルコも、ペトロと共にいたことが、このように表現されているのではないだろうか。むろん、このペトロの手紙は、ペトロが書いたのではないとされている。少し時代が降っていると思われていることもあるだろうが、ペトロが書くはずがないとも理解されていたのではないかと思う。しかし、パウロとは異なる権威の文書の価値も大きかったように思う。経緯は正確にはわからないが。 2Peter 1:20,21 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。 ここでいう聖書は、おそらく、旧約聖書だろう。そして、自分勝手にというか、アレゴリカル(寓意的)な解釈がいろいろと出されていたのではないだろうか。難しい状況である。しかし、そのなかで、どのように、正当な信仰が継承されていったのだろうか。それを知りたい 2Peter 2:1 しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。 かなり厳しいことが、少し乱暴に書かれている。書かれたのは、リーダーを失い、混乱していた時期なのかもしれない。ペトロの名を使わなければならず、異端もはっきりとはわからないものも含めて、たくさん、出てきたのかもしれない。教父と言われる人たちが現れるまでだろうか。教会史を学ぶことも必要である。 2Peter 3:3,4 まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、こう言います。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」 主の再臨によって、すべてが解決するというのは、わかりやすい福音だろう。その希望が、初代教会で、ある程度強かったように思う。それは、おそらく、現代でもある程度存在するのだろう。単純化バイアスである。しかし、それは、イエスが語られたこととは異なるように見える。ゆっくり学んでいきたいが。 1John 1: 7 しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 ヨハネの手紙は、真理として受け取られたものが凝縮しているように感じる。一つの表現ではあるのだろうが、ここでは「わたしたちが光の中を歩むなら」としている。そうではない選択肢もあるのだろう。しかし、その選択をすることは、「互いに交わりを持つ」ことに結びついているという。そして「罪から清められる」ということは、神との交わりに入れられるということなのだろう。教義的にとらなくても、実質的にすばらしいものが受け取れるように思う。逆に、教義として理解しようとすると、緻密さに欠け、まわりからこぼれ落ちるものが多くなってしまうのだろう。そのように感じる、ヨハネの手紙である。 1John 2:14 子どもたちよ、あなたがたに書き送ります。/あなたがたが御父を知っているということを。/父たちよ、あなたがたに書き送ります。/あなたがたが、初めからおられる方を/知っているということを。/若者たちよ、あなたがたに書き送ります。/あなたがたが強く/神の言葉があなたがたの内にとどまり/あなたがたが悪い者に勝ったということを。 12節から続いている。抽象的なことばで表現されており、厳密には理解しにくいが、なにか、励ましをうけるようには思う。それで良いのかもしれない。光の中を歩き続けるには、励ましが必要である。それを求め続けることは、あまり簡単ではないのだから。わたしは、すでに、脇道にそれてしまっているのだろうか。多少不安になる。 1John 3:23,24 神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです。神の戒めを守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。 ヨハネの手紙は、ヨハネ由来だと考えてきたが、もしかすると、少し関係性は弱いかもしれないと、今回読んでいて思った。ヨハネの近くにいた人が関与していたことは確かだと思うが。引用句を見ると、前半は、ヨハネが語ったメッセージに非常に近い。しかし、後半は、特に、最後、神が私たちに与えてくださった霊によってわかります、とあり、ヨハネ14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」 が引照箇所にあるが、霊によってわかるということとは、異なるように思う。丁寧に読んでいきたい。 1John 4:18,19 愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。恐れには懲らしめが伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。 「恐れ」について考えてみたいと思った。当時は、迫害もあったろう。この「完全な愛は、恐れを締め出します。」は、無謀な行動を誘発する可能性もあり、また、他者を批判することにつながる可能性もあるように見える。「恐れる者には愛が全うされていない」本当にそうなのだろうか。恐れとの葛藤の中で、主に従う。主ならどうされるだろうか。御心に従うには、どうしたら良いだろうかと迷うのではないだろうか。「神がまず私たちを愛してくださったから」とあるが、イエスがどう生きたか、単に、十字架をみるのではなく、イエスがそれぞれのときに、どう生きたのか、どのように、神の国が近いことを示されようとしたのかを受け取りたいと思う。よくわからない。それを大切にしたい。 1John 5:10-12 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しを持っています。神を信じない人は、神を偽り者にしています。神が御子についてされた証しを信じないからです。この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。御子を持つ人は命を持っており、神の子を持たない人は命を持っていません。 神秘的というか、明確にはなっていないように感じてしまった。この前には、「証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。」(7,8)とあるが、どれも、具体性に乏しい。これでは、感覚的に、理解しようとするしかなく、実際の生活の中で、どう生きれば良いかは伝わらない。なんとなく、これらがたいせつだということ以外は。この手紙の著者は、より具体的なものを持っているのだろうか。ひとに伝えること、分かち合うことはほんとうに難しい。 2John: 5,6 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい戒めではなく、私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということです。愛とは、御父の戒めに従って歩むことであり、この戒めとは、あなたがたが初めから聞いているように、真理の内に歩むことです。 ヨハネの手紙は難しいと感じている。このヨハネの手紙二は、一よりもさらに難しいかもしれない。しかし、それでも、少しずつ理解していきたい。ここでは、婦人よと語りかけ、ヨハネの福音書からの引用(ヨハネ13:34)が書かれている。しかし、その次には、「愛とは、御父の戒めに従って歩むこと」「真理の内に歩むこと」とあり、互いに愛し合うことの具体的なメッセージは伝わってこない。しかし、「選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」(13)とあり、この手紙の背後に、女性や、こどもたち(若い人たちかもしれない)が、たくさんいたと思われることは、引用句とも相まって、興味深い。 3John: 4,5 私の子どもたちが真理の内に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。 この「よそから来た人たち」については、このあとに少し書かれている。「彼らは、教会の集まりであなたの愛について証ししました。どうか、神にふさわしいしかたで、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅立った人たちで、異邦人からは何ももらっていません。」(6,7)しかし、これだけでは、よくはわからない。もしかすると、微妙な立ち位置なのかもしれない。しかし、誠実を尽くしていることが、「真理の内に歩んでいる」という表現と結びついているように思われる。宛先は、ガイオとなっているが、少し広い範囲の人たちへメッセージなのかもしれない。 Jude:9 大天使ミカエルは、モーセの体のことで悪魔と言い争ったとき、あえて罵って相手を裁こうとはせず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。 聖書には書かれていないことが引用されている。このあとの、「アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。『見よ、主は幾万の聖なる者たちを引き連れて来られる。すべての人に裁きを行うため、神を畏れぬ者たちが犯したすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人が主に対して口にしたすべての暴言とを罪に定めるためである。』」(14,15)も同様である。聖書のみの信仰では、これは、問題になると考えるのも自然だろうが、伝承は、いろいろな形で、聖書に入り込んでおり、それが聖書を成したとも言えるのだろうから、判断は、難しい。ユダの手紙についての聖典性の判断は、他の理由も含めて、難しいとしか言えない。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第36回:12月21日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書7章1節〜13節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 (なお、12月28日と、1月4日は、聖書の会は、お休みとさせていただきます。) 2023.12.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  52. BRC 2023 no.052:ヨハネの黙示録1章ーヨハネの黙示録14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三、ユダの手紙を読んできました。今週はいよいよ、新約聖書最後の巻、ヨハネの黙示録に入ります。来週は、ヨハネによる黙示録を読み終え、旧約聖書に戻って、詩篇から読み継ぎます。2024年は、旧約聖書を読み終え、新約聖書にもどって、もう一度最初から読む計画になっています。新しい気持ちで、詩篇から読み始めるのも良いですよ。通読が止まってしまっている方におすすめです。通読は、聖書の学びですが、さまざまなひとたち、旧約時代や、新約時代の人たち、現代のさまざまな人たち、そして、自分自身との対話の時だと思います。わたしは、1982年からは、ずっとノートをつけて聖書を読んでいますが、振り返って、毎日の至福のときだと思っています。一向に聖書を理解できるようにはなっていませんが。 さて、ヨハネの黙示録は、新約聖書の中でも、ちょっと特殊な書です。黙示文学と言われるものだそうですが、最初の3章は、7つの教会への短い手紙のような文章になっており、4章からは、これから起こることに関する幻という形式になっています。7つの教会は、すべて小アジア、現在のトルコ西部の街です。 5回、ヨハネの名前が登場します。十二弟子の一人で、最後まで生きていたと言われる、ヨハネ由来としている文書です。将来、世界は、どうなるのだろうかと考えるのは自然だと思いますが、やはり、当時の背景もある程度知っておくことが必要なように思います。一世紀末ごろでしょうか。紀元30年ごろに、イエスが十字架に架かってからも、70年ほどが過ぎ、70年には、エルサレムが完全に破壊され、キリスト者も、ローマ帝国内を中心に、さまざまなところに住んでいた時代。その一つの中心地が、エペソなど、ヨハネの黙示録に登場する7つの教会のある地域であったとされています。 ローマ帝国による国としての、キリスト者迫害は、何回かありましたが、全国的なものは、それほど多くなかったようです。しかし、ユダヤ人や、地域の人々との衝突、迫害はそれなりに断続的にあったのでしょう。パウロも特に最初は、キリストの再臨についてすぐにでもおこることのように語っていますから、一般的には、キリストの再臨を待ち望んでいたでしょう。当時の人たちのきもちになって、読むことができると良いですね。世代を超えて、共に考え、共に望み、互いに愛することを学ぶことができればと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの黙示録1章ーヨハネの黙示録14章はみなさんが、明日12月25日(月曜日)から12月31日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Revelation 1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。 背景としては「時が迫っている」という意識が強かったのだろう。「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。」(1)とあり「私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(9)と著者をヨハネに帰している。ヨハネがこのように書くことはまずないと思うが。しかし、最後の使徒ともいえるヨハネの名でこの文書をだすことは、重要だったのだろう。時代的なもの、それも、私には、よくは見えない。 Revelation 2:2-4 「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪しき者たちに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者たちを試し、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のゆえに忍び、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。 7つの教会、この章では、エフェソ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラと四つの教会に対して書いている。最初にエフェソについて書いているが、わたしの知る知識では、ヨハネが長く居た街であり、キリスト教の小アジアの一つの中心地でもあったと思われる。最初に書かれていることも、それを表しているかもしれない。「初めの愛を離れてしまった」はなにを意味しているのだろうか。教会が大きくなって、純粋に熱心に求めることは、あまりなくなったということだろうか。「それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改めないなら、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。」(5)を見ると、もうすこし深刻なようにも感じる。背景がわからないと、理解もできない。まして、解釈をして、自らに当てはめることは難しいように思う。 Revelation 3:1-3 サルディスにある教会の天使に、こう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星を持つ方が、こう言われる。「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死に瀕している残りの生活を立て直せ。私は、あなたの行いを、私の神の前で完全なものとは認めないからである。それゆえ、どのように教えを受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように来る。私がいつあなたのもとに来るか、あなたには決して分からない。 この章には、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに当てられた部分が書かれている。しかし、このサルディスについては厳しい。このあとを読むと、少しは、残りのものがいるようだが、危機的な状態だったようである。最後は、目を覚ましていなさいとしている。実際、どのような状態だったかは、想像するしかできない。それは、そこに実際のひとがいるのだから、危険でもある。相手を知らずに、判断するのは、大きな問題である。この著者は、それだけ、完璧に知っていたのだろうか。 Revelation 4:4 また、玉座の周りに二十四の座があり、それらの座には白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。 なぜ、二十四なのだろうか。この長老たちはなにを意味しているのだろうか。すくなくとも、この時代には、使徒はすでに亡くなり、それを受け継ぐ、長老たちが、教会を管理・指導していたのだろうとは思う。十二とすると、どうしても、使徒や、十二部族を考えてしまうので、それより多い数を書いているのかもしれない。それをもって、キリスト教会全体を表しているのだろう。詳細は不明だが。そのリーダーに語られ、リーダーが見るという形式なのだろうか。黙示録は、よく理解できないが、それでも、多少なりとも、理解してみたい。 Revelation 5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を解き、この巻物を開くことができる。」 イエスのことを言っていると思われるが、福音書によれば、ユダ族だということは、明らかではない。なにをもって、ユダ族とするのか。また、ダビデのひこばえ(蘖 - 樹木の切り株や根元から生えてくる若芽)も、イエスが、ダビデに結びつけられることを、極度に注意していたことを考えると、適切とは言えない。未来を覗きたい。神の計画を知りたいという欲求は十分理解できるが、それは、ひとの想いなのではないだろうか。イエスは、そのように、みこころを求めることを願われなかったのではないだろうか。 Revelation 6:6 私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。「小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油とぶどう酒を損なってはならない。」 この章では、七つの封印のうち六個が解かれ、四つのいきものと、白、赤、黒、青白い馬が、それぞれの役目を果たす。第三の封印の最後に引用句がある。コイニクスは、聖書巻末の注によると、1.1リットルとある。しかし、これが、高いのか、安いのかもよく分からない。大麦の方が、安いことは確かで、感覚的には、すこし安いのだろうか。いずれにしても、残虐な役目が果たされる。それを、知らせることがみこころなのだろうか。わたしには、そうは思えない。 Revelation 7:10 彼らは声高らかに言った。/「救いは、玉座におられる私たちの神と/小羊にある。」 「私は、刻印を押された人々の数を聞いた。それはイスラエルの子らの全部族の中から刻印を押された人々であり、十四万四千人であった。」(4)この刻印をおされた十四万四千人の宣言である。信仰告白なのだろう。ただ、このように、声高らかに言うことが、信仰なのだろうかと、思う。福音書のイエスの行動をみていると、まさに、神の国は近いことを、見て取る、その、神様に信頼することのように思われるから。しかし、それは、わかりにくいのだろう。このような信仰告白のほうが、通じやすいことも確かである。 Revelation 8:3-5 また、もう一人の天使が来て、金の香炉を手に持って祭壇のそばに立ち、たくさんの香を受け取った。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇の上に献げるためである。香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に天使の手から神の前に立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷鳴、轟音、稲妻、地震が起こった。 「小羊が第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた。」(1)と始まる。ここに、聖なる者たちの祈りと香が登場するが、そこで起こることは、悲惨な災厄ばかりである。なにを伝えようとしているのだろうか。十分、考えられているのだろうか。わたしには、わからない。祈りへの応答として、災厄があることが言われているのだろうか。悲しい。 Revelation 9:20,21 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった。 黙示文学に精通した記者がキリスト者の中にいたのだろう。そして、それが、聖書に含まれたと言うことだろう。聖書が誤りなき神のことばとして、信仰の唯一の基準とされたのは、それよりも、ずっと後だから、いろいろな乖離が起こっているのだろうとも思った。災厄が続いている。イエスは、気をつけていなさいとは言われたが、神の国は近いというメッセージからは、ここに書いてあることは非常に遠いと感じさせられる。 Revelation 10:2,3 手には開かれた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫ぶと、七つの雷がそれぞれの声で語った。 御心を知りたい。それを受け取りたい。それは自然な欲求だろう。ただ、問題は、それを受け取ったとしてしまうことのように思う。自分は、その巻物を持っている。そう宣言した途端、求めなくなってしまう。謙虚に、神の自立性を犯さず、ひととして、誠実にみこころを求め続けながら生きて行きたい。 Revelation 11:18 諸国の民は怒り狂い/あなたも怒りを現されました。/死者の裁かれる時が来ました。/あなたの僕である預言者、聖なる者/あなたの名を畏れる者には/小さな者にも大きな者にも/報いが与えられ/地を滅ぼす者たちが/滅ぼされる時が来ました。」 滅びが宣言されている。おそらく、当時は、それを待ち望む人たちが多かったのだろう。いつまで、耐えなければならないのだろうと。しかし、それが、御心なのかどうかは不明である。黙示録を記録した人は、これこそ御心だと信じて書き残したのだろうが。 Revelation 12:9 この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。 悪魔、神の支配に抗うものだろうか、の存在はリアルなものなのだろう。それをどう解釈するかは、さまざまである。ここでは、巨大な竜として描き、もともとは、天上にいたが、それが、地上に投げ落とされて地上にきたとされている。御心が天で行われるように、地でもとの祈りが背後にあるように思う。しかし、それを、具体的に描写するごとに、本質から離れていってしまうようにも思う。 Revelation 13:7,8 獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。 これも、当時の人たちへのメッセージなのだろう。聖なるものたちも勝つことができないことがある。それも、ご計画の一部で、獣の仕業。それを、聖なるもの以外は、拝む。その獣自体も、特定の人を意味していると言う説さえある。当時のひとたちは、これらの言葉によって、励まされたのだろうか。そして、現代でも、そのように苦しんでいる人がいるのだろうか。それを知らずに批判はできない。 Revelation 14:11-13 その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、誰でも、獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」 このような対照を示すことによって、苦しい時を過ごしている信徒を励ましているのだろう。労苦を解かれて安らぎを得る。死は、いまよりも、ずっと近くにあった時代、これは、感謝だったかもしれない。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第37回:1月11日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書7章14節〜23節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 (なお、12月28日と、1月4日は、聖書の会は、お休みとさせていただきます。) 2023.12.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  53. BRC 2023 no.053:ヨハネの黙示録15章ー詩篇6篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 新約聖書最後の巻、ヨハネの黙示録に入りました。今週は、その最後の部分を読み、旧約聖書に戻って、詩篇から読み継ぎます。2024年は、旧約聖書を最後まで読み、新約聖書にもどって、もう一度最初から読む計画になっています。新しい気持ちで、詩篇から読み始めるのも良いですよ。通読が止まってしまっている方におすすめです。 ヨハネの黙示録はいかがですか。わたしは、正直に書くと、あまり好きではありません。理解が難しいということもありますが、苦しみがこれでもかこれでもかと続き、その苦しみの中で、どう生きるかの指針も書かれていないように見えます。しかし、それは、現代人の見方で、当時のひとたちは、自分ではどうしようもないことばかりだったのかもしれないとも思います。いまは、ある程度、自分でできることがある、他の言い方をすると、一人一人に責任も生じているということなのかもしれません。今週、皆さんが読まれる箇所には「最後」についても書かれています。微(かす)かな、と言ってしまってはいけないかもしれませんが、希望を感じさせるのかもしれません。当時のひとに思いを馳せて、できれば、こころを近づけて読むことができればと願っています。みなさんは、どのように、ヨハネの黙示録を読んでおられるでしょうか。 旧約聖書に戻って最初に読むのは詩篇です。下の詩篇について書かれている冒頭部分を引用します。 詩編は聖書の中でもちょっと変わっていますね。まず、他はすべて章で区切られていますが、詩編は第1篇、第2篇と続き、第150篇まであります。なかなか長いですね。非常に長い第119篇などというのもありますが、それ以外は比較的短く、とても短いものもたくさんあります。通読であっても、一篇一篇を味わう余裕もあると思いますよ。 引用するときに、ちょっと混乱する可能性があるのは、節の振り方が翻訳によって違うことです。これは、表題を節として数えるかどうかに依っています。表題はついていないものもありますが、殆どについていて、日本聖書協会の新共同訳ではこれを本文の一部として節がふられ、口語訳や、日本聖書刊行会の新改訳ではふられていません。そこで多くの場合1節ずれます。 神様を求めるひとたちと、対話ができると良いですね。詩篇が書かれた、編まれたころのひとたちの信仰についても、考えることができればと願って、わたしは、読んでいます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの黙示録15章ー詩篇6篇はみなさんが、明日1月1日(月曜日)から1月7日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録と詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023sn.html#rv 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Revelation 15:6-8 そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。彼らは清く輝く亜麻の衣を身にまとい、胸に金の帯を締めていた。そして、四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。 災いにつぐ災い。これがなかなか終わらない。災いに対する忍耐を説いているように見える。時代性だろうか。簡単に、平和を説くことはできない。しかし、すべて受動的にみえることも、気になる。自分たちがなにをすべきかなど、考えられない時代だったのかもしれない。現代は、人間の責任がどんどん、増してきているように見える。 Revelation 16:15 ――見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。―― なにか、ちょっと奇異なことが書かれている。目を覚ましているようにと言う部分は理解できるが。この章では、七人の天使が鉢の中身を注ぎ、災厄が起こることが書かれている。受け身以外、なにもできなかった。その状況での、信仰なのだろう。現代では、災厄のある部分は、人間が自ら起こしたものと思われ、その影響の方が、大きくなってきているように見える中で、行動責任が一人一人のレベルで問われているように見える。それが、黙示録の時代との大きな差異のように見える。本質は、変わらないのかもしれないが。 Revelation 17:12-14 また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、一時の間、獣と共に王のような権威を受けるであろう。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣に与える。この者どもは小羊と戦うが、小羊は彼らに勝利する。小羊は主の主、王の王であり、小羊と共にいる者たちは召された者、選ばれた者、忠実な者だからである。」 最後は、小羊が勝利することが書かれている。しかし、それまでの間に、どれだけのひとたちが、苦しみ、なにもできず、それを受け入れて、死んでいかなければならないのだろうか。そのなかで、ひとは、どのように生きることが神様の御心なのだろうか。そのことを伝えることこそが重要なはずである。それは、黙示録には、ほとんど、出てこないように見える。 Revelation 18:2,3 天使は力強い声で叫んだ。/「倒れた。大バビロンが倒れた。/そこは悪霊どもの住みか/あらゆる汚れた霊の巣窟/あらゆる汚れた鳥の巣窟/あらゆる汚れた忌むべき獣の巣窟となった。すべての国の民が/情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み/地上の王たちは、彼女と淫らなことをし/地上の商人たちは、彼女の度を超えた贅沢により/富を築いたからである。」 黙示録も最後に近づいてきたと感じる。「大バビロンが倒れた」とあり、そのあとに、理由が書かれている。最初には、悪霊、汚れた霊、汚れた鳥、汚れた忌むべき獣とある。これらが、神の支配、地上で御心がなることの阻止しようとする勢力と言うことなのだろう。おそらく、地上で御心がなる勢力を表現するのが、これらなのだろう。その理解のもとで、聖書を読むことはたいせつなように思う。 Revelation 19:1,2 その後、私は、大群衆のどよめきのようなものが、天でこう言うのを聞いた。/「ハレルヤ。/救いと栄光と力は、私たちの神のもの。その裁きは真実で正しい。/神は、淫らな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き/僕たちの流した血の復讐を/彼女になさったからである。」 違和感を感じる。神の御心に抗うものを、擬人化しているからか。この場合は、大淫婦となっている。まず女性とされている。そして、淫婦ということばからうけるイメージも、特定の人たちを指し、その人たちの困難の背後にあるものについて考えてしまうからである。悪霊として、聖霊の働きに抗うものとするのは良いとして、ひとの世界は、複雑である。歓迎しにくいひとをどのように愛すれば良いか。それこそが神様から人間に与えられた課題ではないのか。 Revelation 20:12 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。 因果応報。ひとは、これを最初は求める。しかし、問題も生じる。まずは、自分も潔癖ではないと言うこと。これは、自分も罪人であるという自覚、さらには、原罪へとつながる。さらに、その一つ一つの罪を見ていると、実際には、非常に複雑で、背後に、弱さや、社会的背景もあることに気づく。それは、あきらめへともつながる。次に求めるのは、万人救済かもしれない。しかし、救いを示されると、それは求めないということも生じる。本当に難しい。この章の最後には、「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(14,15)とあるが、ほんとうに、これが素晴らしいことなのか、正直、途方にくれる。 Revelation 21:4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」 涙を拭い去るとは、悲しみが忘れられると言うことだろうか。または、悲しみがよろこびに変わると言うことだろうか。美しい表現ではあるが、人は、新しい天と新しい地(1)について知り得ないのではないかと思った。そして、神も、それをみることに躊躇があるのではないかと思う。やり直せば良いと言うものではないのだから。人は、分断ではなく、互いに愛し合うことによって、御心を行うことができるようになるのだろうか。いったん、造り替えなければいけないのだろうか。考えさせられる。 Revelation 22:14,15 命の木にあずかる権利を与えられ、門を通って都に入ることができるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬ども、魔術を行う者、淫らな行いをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、都の外に置かれる。 これは、分断である。確かに、結果として、そうなることは、避けられない。しかし、その中でも、希望を捨てず互いに愛し合うことを求めるのではないだろうか。わたしは、これからも、希望を捨ず、そのような世界を求め続けていきたい。 Psalm 1:1,2 幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。 前半は、本当に、その通りだと思う。わたしは、このことを求めてきたようにも思う。しかし、後半に対する感覚は異なる。それは、主の教えは、よく理解できていない、求め続けなければいけないと考えているからだろう。主の教えと言い切ることができるのは、互いに愛し合いなさいぐらいのように思う。そして、それも、実際に、どのように生きれば良いのか、わたしには、まだよく理解できていない。 Psalm 2:10-12 王たちよ、今こそ悟れ。/地上の裁き人らよ、諭しを受けよ。畏れつつ、主に仕えよ。/震えつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ。/さもなければ、主の怒りがたちまち燃え上がり/あなたがたは道を失うだろう。/幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。 この詩篇は「なぜ、国々は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。」(1,2)と始まる。それがここでは、子に口づけせよとなっている。「私は主の掟を語り告げよう。/主は私に言われた。/『あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。』」(7)の言葉もある。イエスについて、どのようにここから、解釈するかは別としたほうがよいようにも思う。預言的な要素は、断片に過ぎないのだから。 Psalm 3:2,3 主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。/多くの者が私に立ち向かい /多くの者が私の魂に言っています/「あの者に神の救いなどない」と。〔セラ 「賛歌。ダビデの詩。ダビデが息子アブシャロムから逃げたときに。」(1)となっている。同時に「私は決して恐れません/私を取り囲む幾千万もの民を。」(7)ともあり、立ち向かうもの以外にもこころを向けているので、丁寧に読む必要があるが、個人的には、あまり響かない。それは、単に、住んでいる世界が異なるからか。社会的な構造も異なるのかもしれない。それもあって、ここまで、「多くの者が私に立ち向かい」「あの者に神の救いなどない」という状況は想像できない。そうであっても、この詩篇記者の思いを受け取りたい。分断ではなく、共に生きるために。 Psalm 4:5,6 怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ /義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。 美しい言葉である。前半の根拠が、後半にあるように思う。ただ、わたしは、異なる感覚を持っている。後半からは、正しさを主に帰し、その裁きに信頼している印象をうけるが、わたしは、正しさは、結局わからないのではないかと考えている。正しさでは、解決できないことばかりのように感じているので。信頼は、この最後のことばで表現されている。「平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。」(9)わたしには、正直、そこまでの信頼はないと思わされるが、しかし、少なくとも、自分に望みを置いて、罪を犯すことはないようにしたい。 Psalm 5:9-11 主よ、義によって導いてください。/私に敵対する者がいます。/私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。彼らの口は確かなことを語らず/その腹は腐っています。/舌は滑らかでも、喉は開いた墓。神よ、彼らに罪を負わせてください。/その謀のために、倒れますように。/度重なる背きのゆえに、彼らを追い出してください。/彼らはあなたに逆らったのです。 旧約聖書では主として義が大切にされる。そしておそらく、私たちも、倫理的な生き方というと、まずは、正しい生き方を思い浮かべるだろう。それは、ここにあるように、敵対する者にどう対応するかの問題とも関係する。しかし、それは、自然と分断を生み出し、それを深刻化する。それを乗り越えるには、どうしたら良いのか。たとえ、悪とみえるものが、自分の周囲に存在しても、そちらに目をむけるのではなく、神の国の到来を想像することだろうか。とても、難しいが。イエスはそれを、チラリと見せてくださったようにも思う。 Psalm 6:5,6 主よ、帰って来てください。/私の魂を助け出し/慈しみによって、お救いください。死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。/陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう。 この人の恐れ、苦しみには、死の恐怖があるのだろう。昔は、常に、死と向かい合っていたとも言える。その次に来るのは、死なない、永遠の命を求めることだろう。しかし、イエスは、そのようには、永遠の命について、示さなかったと思う。神と、その子、イエスとの交わりのような、みこころを知り、生きようとする交わり、そこにこそ、永遠の命の本質があると伝えていると思う。それを本質的に理解することは、難しいが。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第37回:1月11日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書7章14節〜23節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 (なお、12月28日と、1月4日は、聖書の会は、お休みとさせていただきます。) 2023.12.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  54. BRC 2023 no.054:詩篇7篇ー詩篇20篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 旧約聖書に戻って、詩篇から読み始めました。詩篇はいかがですか。一篇一篇あまり長くないですし、詩文体ですから、味わいやすいのではないかと思います。詩は、音も大切で、韻を踏んでいたり、ヘブル語詩は、アルファベット詩とよばれる、冒頭の言葉の文字をそろえそれをアルファベット(22文字)順に変えていくという技法もあり、詩篇119篇は有名ですが、そのように作成された詩篇もいくつかあるようです。音も楽しめると良いですね。わたしは、できませんが。 もう一つ大きな特徴は、ダビデの詩とされているものが、今数えてみると、75篇もあることです。詩篇は、150篇ありますから、ちょうど半分ということになります。ダビデは他に15回登場します。実際に、ダビデが作ったかどうかは議論があるようですが、詩篇において、ダビデの存在はとても大きいのでしょう。そのせいでしょうか、詩篇作者が戦いの中にいることを想像させるものがたくさんあります。今回、わたしが読んでいる、聖書協会共同訳では、敵ということばが、96回、詩篇全体にまんべんなく含まれていることもわかりました。敵ということばは、直接出てこなくても、そのような存在に囲まれている中で、神に祈り、訴える詩篇が多いようです。正しさを求めることが強くあったように感じます。しかし、絶望とも言える状態の中で、神様を求め、救いをもとめる声、詩篇記者との対話、そしてそれを通しての自分自身、さらに、神との対話、それを色々な形でできるのが詩篇のように思います。みなさんは、どの詩篇にこころ撃たれますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇7篇ー詩篇20篇はみなさんが、明日1月8日(月曜日)から1月14日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 7:4-6 わが神、主よ/もし、このようなことを私がしたなら/私の手に不正があり/親しい友に悪事を働き/私を苦しめる者を故なく助け出したなら/敵が私の魂に追い迫り、追いつき/私の命を地に踏みにじり/私の栄光が塵にまみれてもかまいません。〔セラ 正しさを主張している。そして、義の神に裁きを求めている。そして、この詩篇は、ダビデ由来としている。しかし、人は、正しくはない。そして、悪を行うように見える他者にも、さまざまな背景があり、神は、その人をも愛しておられることを考えると、あまり、語り得ない。しかし、そのなかで、みんな違うということを乗り越えていかなければならない。どうしたら良いのだろうか。 Psalm 8:4,5 あなたの指の業である天を/あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。 このような感覚は理解できる。しかし、わたしは、おそらく、天を見上げ、実際にこの天と地、または宇宙を創造した主として、その神に信頼しているのではないように思う。むろん、そのように信頼される方はそれはそれで素晴らしいとは思う。おそらく、わたしが、信頼しているのは、福音書で語られている、イエスを通して示された神なのだろう。むろん、非常に断片的にしかわからないが。その神に、希望をもち、信頼しているうように思う。 Psalm 9:19-21 貧しい人が永遠に忘れられ/苦しむ人の希望が滅びることは決してない。/主よ、立ち上がってください。/人が己の力を頼むことなく/国々が御前で裁かれますように。/主よ、国々に畏れを抱かせ/思い知らせてください/己が人にすぎないことを。〔セラ 詩篇記者が「貧しい人が永遠に忘れられ/苦しむ人の希望が滅びることは決してない。」と語れるのは、なぜなのだろうか。現実そうなのだろうか。おそらく、そうではない。根拠には、正しさがあるように思う。こうであるはずだ。こうでなければいけない。それは、必ずしも、御心とは食い違っているかもしれないが、とても、貴重な信仰だとも思う。わたしは、神を、どのように信じているのだろうか。 Psalm 10:4 悪しき者は鼻高々で神を尋ね求めず/「神などいない」と/あらゆる謀をたくらむ。 「神などいない」という本質は何なのだろうか。このあとには、「私は代々に揺らぐことなく/災いに遭うはずがない」(6b)「神は忘れているのだ。/顔を隠し、永遠に見るまい」(11b)「神はとがめなどしない」(13b)といずれも「彼は心の中で言う。」とそれに近いことばが付されている。そして、詩篇記者は、そうではないと宣言しているのだろう。自分に望みを置いて生きることで良い。自分以外の他者や、自分以外の世界、周囲のこと、環境などは、関係ないと言っているのだろう。自分を自立・独立系と見ているということだろう。そこに問題があるということか。たしかに、それでは、互いにという概念は生じない。生かされているとも言えない。自立・独立の概念もしかしながら大切でもある。難しい。 Psalm 11:2,3 見よ、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。/闇の中、心のまっすぐな人を射るために。礎が崩れてしまっては/正しき者に何ができよう。 個人的に、正しさは分断を生み、共に生きることはできなくなると考えている。しかし、ここで表現されている状況をみると、簡単ではない。究極の状況、ここでは、礎が崩れてしまったことが書かれているが、悪き者が、今にも矢を放とうとしている。そんなとき、わたしのように言ったとして、それが何になるだろうかとも思う。イエス様は、どう考えておられたのだろうか。神様に委ねて、御心を生きようとする。そして、それは、嘲をも、死をも受け入れる生き方か。それを求めるのではなく、それは、あくまでも結果。今は、御心を求め続けたいと思う。 Psalm 12:6 主は言われる/「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。/今こそ、私は立ち上がり/あえぎ求める者を救いに入れよう。」 前半は、まさに、その通りだと思う。しかし、後半は、そうなのだろうかと思う。わたしには、わからない。もしかすると主も解決方法をご存じないのかもしれない。それは、ひとに委ねられておられることがあるから。同時に、時代を超えて、苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いているというのは、ほんとうに悲しい。その世界のなかで、わたしも生きていることを覚えたい。 Psalm 13:3,4 いつまで私は魂に思い煩いを/心に悲しみを日々抱き続けるのですか。/いつまで敵は私に対して高ぶるのですか。わが神、主よ、私を顧み、答えてください。/私の目を光り輝かせてください/死の眠りに就くことのないように。 ダビデの詩となっている。ダビデは、つねに戦いの中にあり、敵がいる。それを責める者ではないが、その敵から救い出し、自分の目が光り輝き、元気となり、死なないことを願うのが、信仰なのだろうかとは思う。旧約聖書に連綿と続く、個人的な神との交わりは、非常に貴重な基盤であるが、その内容をよいものとするのは、おそらく違うのだろう。求め続けること、そこにこそ、真理を見出していきたい。 Psalm 14:2-4 主は天から人の子らを見下ろし/神を求める悟りある者はいないかと探られる。/すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。/善を行う者はいない。一人もいない。/悪事を働く者たちは誰もこのことを知らないのか。/パンを食らうように私の民を食い尽くし/主を呼び求めようとはしない。 最後は「シオンからイスラエルに救いがもたらされるように。/主が民の繁栄を回復されるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜びに包まれる。」(7)と結ばれている。イスラエルの位置付けがよくわからない。イスラエルにも、神を求める悟りのあるものはいないと言っているのか。それなら、ある程度理解できるが、すると、最後にどう繋がるのかわからない。悔い改めは、説かれていない。最初は、「シオンからイスラエルに救いがもたらされるように。/主が民の繁栄を回復されるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜びに包まれる。」(1b)と始まり、暗唱した聖句だが、最後とどう繋がっているのだろう。 Psalm 15:1 賛歌。ダビデの詩。/主よ、誰があなたの幕屋にとどまり/聖なる山に宿ることができるのでしょうか。 この言葉に続いて、どのような人かの記述が続く。そして最後は「これを行う人はとこしえに揺らぐことがない。」(5b)で閉じられている。義なる方のもとに共にいることは、できない。そう考えるのは自然であろう。しかし、同時に、神様は、それでも、Welcome してくださる方であるとも思う。歓迎しにくいひとを歓迎する。神様が義なる方だとの認識から、自らを正しく保とうとすることは、良いことだろう。しかし、そこに、神様との交わり、永遠の命に生きることの本質はないように思う。同時に、このような詩篇を残してくださった記者や撰者は、尊敬し、敬愛し、感謝したい。そして、共に生きていきたい。 Psalm 16:7 諭してくださる主をたたえよう。/夜ごと、はらわたが私を戒める。 「はらわた כִּלְיָה (kil-yaw': kidneys a) of physical organ (lit.), b) of seat of emotion and affection (fig.), c) of sacrificial animals」が目に止まった。自分のうちなるものなのだろう。そこに、主が語りかけるということだろうか。あまり、感覚として、伝わってこないが、少なくとも、外側ではないということだろう。静まって、主に向き合わないと、その声を聞くことはできないのかもしれない。そのように、考えられていたのか、この詩篇記者がうけとった信仰告白か。わたしも、静まる時を持つようにしたい。 Psalm 17:1 祈り。ダビデの詩。/主よ、私の正しさをお聞きください。/叫びに心を向けてください。/耳を傾けてください/偽りのない唇から出る私の祈りに。 ダビデの詩とある。この分類については、注意して見たことがないが、この詩篇も正しさの主張になている。それが、歴史の背後に色濃くあるように思われる。歴史的には、人間の歩む道のようにも思う。イエスは、そのあとの時代である。ダビデのことを語らない。自らが、ダビデの子として、政治的な王にされることを避けた面が強いと思っていたが、この正しさをさけることも背後にあったのかもしれない。 Psalm 18:47,48 主は生きておられる。/わが岩をたたえよ。/わが救いの神を崇めよ。この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせた。 このことばを、正しいと受け取る人が多いのだろう。それが報復がやまない理由でもあるのかもしれない。報復は権利であると。しかし、それは、報復の繰り返し、連鎖となることも、我々は知っている。どのように、脱却できるのか。当時のひとや、その考えを切り捨てるわけではない。しかし、次のステップを求めることもしなければならない。 Psalm 19:8,9 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めはまことで、無知な者を賢くする。主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせ/主の戒めは純粋で、目を光り輝かせる。 求めるのは、主の御心。しかし、御心を知る、教育係が、律法なのだろう。定め、諭しなどの区別はわからないが。律法、旧約聖書から学ぶことは多い。しかし、それが、目標だとしてはいけないように思う。まさに、律法主義に陥る。この詩篇記者のように、魂を生き返らせ、心を喜ばせ、目を光輝かせると告白できるのは幸せ。そのような純粋な心で、主の御心を求めていきたい。 Psalm 20:7,8 今、私は知った/主が油注がれた者を救ったこと/聖なる天から彼に答えることを。/右の手による救いの力をもって。ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。/しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。 後半は、よく引用され、わたしも覚えていた。しかし、その背景に、前半が書かれていることを、見ていなかった。これが、この詩篇記者にとっての、救い、目に見える救いなのだろう。具体的に、なにが語られているのかはわからない。しかし、ここに抽象的なものではなく、リアルな生活の一場面が投影されているのだろう。わたしとは、かなり違う経験なのだろうが。 お知らせ:聖書の会を4月20日から対面と遠隔のハイブリッドで再開しました。毎週木曜日夜7時半です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第37回:1月11日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書7章14節〜23節、他の福音書の関連箇所から学ぶ予定です。 (なお、12月28日と、1月4日は、聖書の会は、お休みとさせていただきました。) 2024.1.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  55. BRC 2023 no.055:詩篇21篇ー詩篇34篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。詩篇は全部で150篇あり、しばらく詩篇を読み続けます。 詩篇は、全体が、祈りだとも、前回も書いたように、神との対話、またその対話をとおして、自分自身を理解し、生きる力を得るものとも言えるかもしれません。生きている背景は異なり、ダビデ由来とした詩篇、戦いの中にあり、敵に滅ぼされそうになっているものの訴えが多いですが、神との対話は、真理の探究ともいうことができるのではないかと思います。そこで発したことばで終わりではない。次には、また、ことばは変わっていくのでしょう。わたしは、祈りの中で、その対話を通して、神様が愛される他者を少しでも理解することを願っています。直接的に他者を理解することはできなくても、そして他者の痛みはわからなくても、神様が愛される存在として他者を理解しようとすると、違った面も見えてくるように思います。 何度か書いたことがありますが「たいせつな方(神様)をたいせつにすることは、たいせつな方(神様)にとってたいせつな方々(周囲のひとびと)をたいせつにすること」でしょうか。「たいせつな(愛する)ひとをたいせつにすることは、そのたいせつなひとにとってたいせつなひとびとをたいせつにすること」とも表現できるかもしれません。 ときどき、詩篇記者について、まったく理解できない、反発を感じる時もあります。しかし、そのときにこそ、詩篇記者をたいせつな方にとって、たいせつなひととして、まじわりを持とうとすることかなと思っています。また、信仰者としての美しい言葉も、たくさんありますね。そんな詩篇記者のともになることができればとも思います。みなさんは、どのような感想を持ちながら、詩篇を味わっておられるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇21篇ー詩篇34篇はみなさんが、明日1月15日(月曜日)から1月21日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 21:9,10 あなたの手はすべての敵を探り出し/右の手はあなたを憎む者を探り出す。主よ、御顔を現すとき/あなたは彼らを火のついた炉のようにする。/主は怒りで彼らを吞み尽くし/火は彼らを食らい尽くす。 主は、自分が正しいことをご存知で、相手に対して、裁きをしてくださると信じているように見える。朝のラジオで、警備をしていた息子がハマスに殺された女性が、「殺した人が憎い、しかし、対話をしなければならない。対話は、相手の苦しみや痛みを少しでも理解する営みである」と語っていた。他者のことはわからない。しかし、そのことを実際の行動で表すことは、とてつもなく、難しいのだろう。 Psalm 22:2 わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。/私の悲嘆の言葉は救いから遠い。 イエスの十字架上でのことばで、イエスは、この詩篇を暗唱されたのではないかとも聞いた。しかし、今回読んでみて、そうだろうかと疑問に思った。「だが私は虫けら。人とは言えない。/人のそしりの的、民の蔑みの的。」は、イザヤ53章の預言のように取れないこともない。しかし、イエスは、まさに、神ともにおられることを、生き抜かれた方、そして、神の国は近いと宣言しておられた方、単純に、その方の叫び、祈りととるのでよいように思う。「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。」は主旨としては、詩篇にたくさんあるモチーフのように思う。あまり、ことばに引き寄せられない方がよい。 Psalm 23:4,5 たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。 「あなたの鞭と杖」は、羊飼いの道具なのだろうか。羊飼いの自己満足のようにも響く。しかし、実際、それによって羊が助かることもあるのだろう。人間のこころの表現である。後半には「私を苦しめる者」が登場するが、その人との和解は語られない。多少、その状況を受け入れているようには見えるが。 Psalm 24:7,8 門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ。/栄光の王が入る。栄光の王とは誰か。/強く勇ましい主。/戦いの勇者なる主。 主、神に治めてもらうことが最善と考えられていたのだろう。「栄光の王とは誰か。/万軍の主、主こそ栄光の王。〔セラ」(10)しかし、それはどうなのだろうか。互いに愛し合うように、わたしたちに、責任が委ねられているのではないだろうか。前半は、この主を迎える心構えだろうか。「汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。」(4)とある。少し違った性質も、求められているのかもしれない。 Psalm 25:2 わが神よ、私はあなたに信頼する。/私が恥を受けることがないように。/敵が勝ち誇ることがないように。 この詩篇でも敵が出てくる。最後の方にも「見てください、どれほど私の敵が多く/残忍なまでに私を憎んでいるかを。」(19)今とは、状況が違うとはいえ、また、これも、ダビデの詩としているからもあるだろうが、やはり背後には、正しさがあるように思う。「私の若き日の罪や背きを思い起こさず/主よ、あなたの慈しみにふさわしく/あなたの恵みのゆえに/私を思い起こしてください。」(7)も、自分を正しいものと認めてほしいとの願望、それが、主が助けてくださることへの根拠としても、語られているように見える。 Psalm 26:1 ダビデの詩。/主よ、私を裁いてください。/私は全き歩みをしてきました。/私は主に信頼し/揺らぐことはありません。 裁きは שָׁפַט(shaw-fat': to judge, govern, vindicate, punish, i) to act as law-giver or judge or governor (of God, man), ii) to decide controversy (of God, man), iii) to execute judgment)神の支配のもとにいるということだろうか。それが、神の正しさ、ひいては、自分のほうが正当であることに、結びついているように思う。それは、主であり、王でもあるのかもしれない。特に、イスラエルでは、そのような権威が必要だったのだろうか。人が、絶対権力者には、なり得なかったときに。少しずつ考えていきたい。 Psalm 27:1,2 ダビデの詩。/主はわが光、わが救い。/私は誰を恐れよう。/主はわが命の砦。/私は誰におののくことがあろう。悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき/私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえって/つまずき、倒れる。 これも、ダビデの歌とされるが、今回は、救いについて考えてみた。現代の複雑な世界においては、救いを定義するのは難しい。さまざまな項目によらなければ、それを掬い取ることができない。しかし、ダビデにとっての救いはもっと単純だったように見える。殺されないこと。敵の手に落ちないこと。そのなかで、主への信頼を深めていく。それも、ひとつの信仰の形なのだろうが、正直、距離を感じてしまう。 Psalm 28:8,9 主こそ、その民の力/油注がれた者の救いの砦。あなたの民を救い/ご自分の民を祝福してください。/とこしえに彼らを養い、担ってください。 非常に、純朴な祈り、信仰である。わたしたちも、それを求めれば良いのだろうか。複雑な社会、そして、ある程度の情報が得られ、背景も見えるようになってきている中で、わたしたち一人ひとりのなすべきことも増えてきているように見えるのだが。そして、問題・課題自体に、わたしたちが、関わり、それを作り出しているようにも見えるのだが。当時とはかなり違うのだろうか。 Psalm 29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。 ちょっと変わった詩篇である。このあとも、主の働きを表現するのに「主の声は杉の木を砕き/主はレバノン杉をも砕く。子牛のようにレバノンを/野牛の子のようにシルヨンを踊らせる。」(5,6)などと続く。何を表現しているのだろう。主の力強さを表現しているのか。人が、恐るものにも、主が働いておられるということだろうか。最後は「主がその民に力を与えてくださるように。/主がその民を祝福してくださるように/平安のうちに。」(11)と終わっている。主の力強さが表現されているのだろうか。 Psalm 30:7,8 安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。 非常に正直である。ひとの弱さなのだろうか。信頼しているからこそ、このように揺れるのだろうか。ただ、やはり、狭いところに集中し過ぎているようにも見える。難しい。 Psalm 31:20 あなたの恵みはなんと豊かなことでしょう。/あなたは主を畏れる人のためにそれを蓄え/人の子らの目の前で/あなたのもとに逃れる人に施された。 残念ながら、この詩篇にも、敵(9)が登場する。常に、敵の前にいるのだろう。今回は、恵みを取り上げた。そして、目が止まったのは「主よ、まことの神よ/私の霊を御手に委ねます。/あなたは私を贖われた。」(6)に現れる「贖われた(פָּדָה (pāḏâ): to ransom, redeem, rescue, deliver)」ということば。もともとは 、切って分ける(sever(divide by cutting or slicing))からきた言葉のようだ。もとあった場所から、切り取って、自分のものとしてくださったということだろうか。よくわからない。恵は、自分についてのものは、ある程度、気づくことが可能だが、他人へのものは、わからない。他者には、厳しくしてしまうようにも思う。難しい。 Psalm 32:10 悪しき者には痛みが多い。/主に信頼する人は慈しみに囲まれる。 この有名な詩篇は「私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/『私の背きを主に告白しよう』と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ」にもあるように、罪を隠さず告白し、許されたものの詩篇である。そして、振り返り、引用句を語る。問題は、論理を逆にしてしまうことだろう。「痛みが多いものは、悪きもの」と。そのように、考えてしまう弱さが、ひとにはあるのだろう。単純化バイアスだろうか。丁寧に、考え、語っていければと思う。 Psalm 33:18,19 見よ、主の目は主を畏れる人に/主の慈しみを待ち望む人に向けられる。彼らの魂を死から助け出し/飢饉のとき、彼らを生き長らえさせるために。 興味深い句が多い。敵は登場しないが、戦いの中にあることは、16,17 節などから見てとることができる。そのなかで、主の性質について、理解したと思われることを詩として述べている。探究が背後にあるのだろう。主を求める心である。そのなかで、引用句のように、主の御心を知っていく。これは、現代でも同じように思う。主の御心を知っているというとたんに、問題がおこるのだろう。 Psalm 34:19,20 主は心の打ち砕かれた者に寄り添い/霊の砕かれた者を救い出す。正しき者に災いは多いが/主はそのすべてから助け出してくださる。 美しい言葉である。これが、信仰告白なのだろう。心の打ち砕かれた者は、正しい者なのだろうか。後半では、正しい者に災いが多いと、語っている。こう言い切るのは、勇気のいることだろう。"The LORD is nigh unto them that are of a broken heart; and saveth such as be of a contrite spirit. Many are the afflictions of the righteous: but the LORD delivereth him out of them all." קָרוֹב יְהוָה לְנִשְׁבְּרֵי־לֵב וְאֶת־דַּכְּאֵי־רוּחַ יוֹשִׁיעַ׃ רַבּוֹת רָעוֹת צַדִּיק וּמִכֻּלָּם יַצִּילֶנּוּ יְהוָה׃ 韻を踏み、かつ、アルファベット詩になっている。詩篇は、聞いてわかるようになると、格段と意味が増すのかもしれない。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第38回:1月11日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書7章24節〜30節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.1.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  56. BRC 2023 no.056:詩篇35篇ー詩篇48篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。詩篇は全部で150篇あり、しばらく詩篇を読み続けます。皆さんは、どのようなことを考えながら、詩篇を読んでおられるでしょうか。かなり、特殊ですが、わたしが、どのようなことを考えながら読んでいるか、少し書いてみたいと思います。感想、考えたことは、毎週、下に書いていますので、そこからも、ある程度読み取れるかと思います。 詩篇の書かれた時代と、今は、何が変わっていて、何が変わっていないのだろうか。当時の人たちと、私たちとでは、何が違っているのだろうかということを考えています。前回も書いたように、戦いの中にいて、今にも、敵に滅ぼされそうになっている、ダビデ、または、ダビデを想定して詠われた詩篇が、少なくとも半分あります。人生において、自分にできることはほとんどない。神様に助けていただく以外には、と思っているように見えます。これは、現代にも通じることではありますが、同時に、自分たちにも、選択肢が与えられているのが、現代でもあると思います。敵は、互いに向き合って話し合うことができない存在、自然も人生も、神に委ねる以外に方法がない、自然災害や、病気、死が間近にあり、吹けば飛ぶような存在。詩篇の時代には、そのような認識が背後にあるように見えます。現代では、相入れない他者と、互いに向き合って問題を解決することは、やはり、ほとんど不可能に近いけれど、不可能ではない。災害や病気などは、どうしようもないことも多いけれど、それに備えたり、治療を受けたりすることも、可能になっている。可能なことが増え、それは、責任も増えているということなのかなとも思います。詩篇記者たちには、解決を神に求め祈るしかできなかったことが、今、私たちにも一部可能なのかもしれません。それは、分断をなるべく、減らすために、相入れない他者と向き合ったり、どうしようもないことによって、夢破れ、人生が破壊されてしまうようなことにならないように備え、少しでも、地上で神様の御心が行われることを求め続けることでしょうか。もちろん、神様の御心を求め続けることが、最初に来るべきことですが。詩篇の記者と対話をしながら、違いを、ていねいに理解しようとし、共通の苦しみに共感し、ともに、御心を求める、それができればと願い、わたしは、詩篇を読んでいます。皆さんはどうでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇35篇ー詩篇48篇はみなさんが、明日1月22日(月曜日)から1月28日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 35:1,2 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。盾と大盾を手にし/私を助けるために立ち上がってください。 ダビデの詩とあり、戦いの中にいることが想定されている。これほどまでに、そのような詩篇が多いことに、いままで気づかなかった。詩篇記者の信仰的なことばのみに注意し、背景についてあまり考えていなかったからだろう。相手への呪いを求めるような言葉もある。「私の命を狙う者が恥と屈辱を受け/私に悪をたくらむ者が退き、辱められますように。」(4)このあとにも、延々と続く。わたしは、このようには、祈れない。詩篇全体について、しっかり学んでみたい。まず「敵 אֹיֵב ('ōyēḇ)」は詩篇で96回。案外少ないとも思う。どの巻かに固まっているわけでもないようだ。また、調べてみよう。ヘブル語でしらべても、詩篇が圧倒的に多い。 Psalm 36:6,7 主よ、あなたの慈しみは天にあり/あなたのまことは雲にまで及びます。あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。/主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。 ちょっと変わった表現だ。正義は神の山々、公正は深淵、人も獣も救う。さまざまな表現は、嬉しい反面、理解を難しくもする。この最初の「背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。」(2)わたしには、このような経験がないからだろうか。 Psalm 37:7,8 主の前に沈黙し、主を待ち望め。/成功の道を行く者/謀を遂げる者に怒りを燃やすな。怒りを解き、憤りを捨てよ。/怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。 自戒の詩篇だろうか。その意味で、興味深い表現が多い。成功の道を行く者/謀を遂げる者も、歓迎し、交わりをもてるようになりたい。自分の弱さをみとめ、主により頼みつつも。分裂に抗うすべについて学びたい。詩篇を読んでいると、難しいと感じるが。 Psalm 38:4-6 あなたの憤りのために/私の肉体に健やかなところはなく/私の罪のために、骨に安らぎはありません。私の過ちは頭を越えるほどにもなり/重い荷物のように重くのしかかります。私の傷は、愚かな行いのために/膿んで悪臭を放ちました。 直前には「あなたの矢が私を射抜き/あなたの手が私の上に降りて来ました。」(3)とあり、この詩篇は、神に撃たれたものについての表現がとても豊かである。少し自虐的にも感じるが、ここで表現されているようなことを自覚することも大切なのだろう。少しずつ味わっていきたい。 Psalm 39:5-7 主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。/そうです/あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。/私の寿命など、あなたの前では無に等しい。/確かに立っているようでも/人間は皆空しい。〔セラ/人は影のように歩き回り/空しいことであくせくしている。/積み上げはするが、誰が集めるかを知らない。 美しい表現である。自分の無力、自分のむなしさを表現して、主に願う。しかし、本当にそれでよいのかと、最近考える。周囲の問題は、人の活動によって起こっていること、自分たちも、主とともに、歩もうとすること、主の痛みを痛みとして受け取ることが、必要なのではないだろうか。 Psalm 40:13 数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。 表現が美しい。詩篇は、洗練された詩文体なのだろう。信仰を、このように表現したことに、感動を持つ。しかし、同時に、それを、わたしたちも、しなければいけないように思う。現代の信仰者の応答として。わたしには、できそうにないが。 Psalm 41:12 このことで、私は知りました/あなたが私を喜びとされていることを/敵は私に勝ち誇れないことを。 この詩篇にも敵の存在が色濃くあらわれている。その中で、主が自分の味方であるという信頼を表明している。ある段階として、これで良いのかもしれないが、イエスの教えとはかなりかけ離れているとも感じる。救済にのみ、集中すれば、許容することになるのかもしれない。難しい問題である。この詩篇もダビデ由来だとしているが、ダビデをどう捉えるかは、大きな課題である。 Psalm 42:11,12 私を苦しめる者は私の骨という骨を砕き/日夜、私を嘲って言う/「あなたの神はどこにいるのか」と。私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。 「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(2)で始まる有名な詩篇である。しかしこの詩篇にも「敵」(10)は現れる。分断を、避けることはできないのだろうか。敵から、主に目を移すこと、それが最初のステップなのだからよいのか。歓迎しにくいものを、歓迎する。そこに、愛があるのではないのか。考えさせられる。 Psalm 43:1 神よ、私を裁き/私のために争ってください。/神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から/私を救い出してください。 「神に忠実ではない国民」は何を意味するのだろうか。国民は、みなそうなのだろうか、それとも、そのような国民がいると言うことだろうか。いずれにしても、自分は、そうではないと言い切っているように感じ、やはり、敵と味方、神は味方の構造が見える。それが、信仰の最初の段階では、基本なのかもしれない。この詩篇には、最後に、前の詩篇で2回登場する句がある。「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/『御顔こそ、わが救い』と。/わが神よ。」(5)奮い立たせているのだろう。これも、自然なのかもしれない。 Psalm 44:10-12 しかし、あなたは私たちを拒み、辱め/私たちの軍勢と共に出陣されませんでした。あなたが私たちを苦しめる者の前から退かせたので/私たちを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。あなたは私たちを餌食の羊とし/国々の中に散らしました。 この詩篇は「あなたはその手をもって国々を追い払い/先祖を植えられました。/諸国の民を災いに落とし、先祖を広がらせました。」(3)と始まり、対照的に、今は、戦いに敗れ、略奪され、国々の中に散らしたことが書かれている。「コラの子の詩。」(1b)とあり、祭司由来としていることは、バビロンによる、エルサレム陥落以降のことか。自らの歩みを振り返り、主に訴えている。主との交わりにもどることが、ひとつの詩篇の鍵なのだろうか。 Psalm 45:1,2 指揮者によって。「百合」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。私の心に湧き立つ美しい言葉/私の詩を王のために歌おう。/私の舌は巧みに物書く人の筆。 王国時代の一つの詩の形式なのだろうか。勇者が王の敵を撃ち倒し、娘が王に傅(かしずく)く。比喩的に理解することは、形式的にも、困難なのだろう。これも、ひとつのひとの営みか。「神よ、あなたの王座は代々とこしえに。/あなたの王権の笏は公平の笏。」(7)と、神が王の王とすれば、それで良いのか。未発達は、普遍性に欠けているからのように思う。 Psalm 46:8 万軍の主は私たちと共に。/ヤコブの神は我らの砦。〔セラ 同じことばが、12節にもある。この後に「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」(11)が続くが、この、分裂をどううけいれるかが、難しい。ヤコブの神と、全地で崇められる神。天地創造の神である。神がひとのこころの中にあるとは、言わないが、ひとのこころの中に神があることは、確かだろう。それを、たいせつにしないことは、そのひとを愛することにはならないのだから。 Psalm 47:3,4 まことに主はいと高き方、恐るべき方/全地に君臨する偉大な王。もろもろの民を私たちに従わせ/諸国の民を私たちの足元に置かれた。 神がどのような神だと信じるかが、根底にあると感じる。この詩篇では、全地に君臨する偉大な王である。そのような神を期待し、その神に願うということになるのだろう。神支配ということでは、そのような表現も可能なのかもしれないが、王ということばは、人間社会の言葉、それを神にあてるのは、混乱を生じさせるようにも思う。むろん、人間の正直な願いの表現自体はたいせつなのだろうが。 Psalm 48:11,12 神よ、御名のように/あなたへの賛美は地の果てまで及びます。/右の手には義が満ち溢れている。あなたの裁きのゆえに、シオンの山は喜び/ユダの娘は喜び躍る。 正義とそれにもとづく正しい裁きに対する期待が背後にある。神は、やはり、人間の欲望、期待が作り出すものなのだろうか。それを否定することはできないように思う。同時に、神みこころを探求することは、それを理解しようとするこころみとあわせて、ひとに委ねられているように思う。難しいが、わたしは、残された日々、その探究をしたいと思う。なにも理解できていないことは確実だから。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第39回:1月18日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書7章31節〜37節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.1.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  57. BRC 2023 no.057:詩篇49篇ー詩篇62篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。詩篇は全部で150篇ありますが、以前も少しだけ書いたように、明記されている訳とされていない訳がありますが、全体が五巻にまとめられています。第一巻 第1篇-第41篇、第二巻 第42篇-第72篇、第三巻 第73篇-第89篇、第四巻 第90篇-第106篇、第五巻 第107篇-第150篇。最後は、いずれも、頌栄と言われる、主をほめたたえることばで終わっています。主をたたえよとか、ハレルヤとかですね。それぞれの詩篇は、さまざまですが、全体としては、主のすばらしさをほめたたえることを中心に編纂されたのかもしれません。今週はその第二巻を読むことになります。 今週は、第二巻の最後までは到達しませんが、第72篇の最後は、次のようになっています。 72:18 神である主をたたえよ/イスラエルの神を/ただひとり奇しき業を行う方を。19 栄光に輝く主の名をとこしえにたたえよ。/栄光が全地を満たしますように。/アーメン、アーメン。20 エッサイの子ダビデの祈りの終わり。 実は、このあとにも、ダビデの詩と書かれたものは、いくつも登場します。しかし、ある区分を意識していることはあるのでしょう。みなさんは、どのようなことを受け取られていますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇49篇ー詩篇62篇はみなさんが、明日1月29日(月曜日)から2月4日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 49:6-8 災いの日に、なぜ恐れることがあろうか/私を追う者の悪に取り囲まれるとも。彼らは財宝を頼みとし、富の力を誇る。しかし、人は兄弟を贖うことができない。/神に身代金を払うことはできない。 「まことに人が見るのは/知恵ある者が死に/愚かな者や無知な者と共に滅び/財宝も他人に遺さなければならない、ということ。」(11)ともあり、ルカ12章13-21節の愚かな金持ちの譬えを思い出す。しかし「陰府に置かれた羊のように/死が彼らの牧者となる。/朝には正しい人がその者らを支配する。/彼らの姿は消えうせ、陰府がその住まいとなる。」(15)をみると、イエスの譬えの趣旨とは、異なることもわかる。イエスも、この詩篇などから、みこころについて考えたのかもしれない。 Psalm 50:1,2 賛歌。アサフの詩。/神々の神、主は語りかけ/日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。この上なく麗しいシオンから/神は光を放たれる。 神々の神が登場する。これは、他の民の神を意識しているようにみえる。さらに「私のもとに集めよ/私に忠実な者を/いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを。」(11)ともある、これも、優位性を唱えているようにも見える。むろん、信仰生活を中心にのべている。底流にあるものに、多少の危険を感じる。ほとんどのキリスト者は、そう感じないだろうし、他の解釈をするだろうが。 Psalm 51:5,6 私は自分の背きを知っています。/罪は絶えず私の前にあります。あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。/あなたの前に悪事を行いました。/あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 立派な告白だとも言えるが疑問も感じる。まずは、「あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。」は、おそらく、主の前に悪事を行ったということが、いちばん、重大だと言っているのだろう。それは、素晴らしい信仰告白であるとともに、主が愛する他者に目が向いていないとも言える。考えることは多い。イエスは、異なる見方をしたのではないかと思う。 Psalm 52:3-5 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。/神の慈しみは絶えることがない。あなたの舌は破滅を思いたくらむ。/それは刃物のように鋭く、人を欺く。あなたは善よりも悪を/正しい言葉よりも偽りを愛する。〔セラ このあとには、裁きを願う。そこから、抜け出さなければいけない。イエスの愛のもとに。他者を愛される神様を理解するのは難しいのかもしれないけれど。未発達ということだろうか。難しいことは確かだが。 Psalm 53:6 恐れる必要のないところで、彼らは恐れおののいた。/神が、あなたに対して陣を張る者の骨を/まき散らしたから。/神が彼らを退けたので/あなたは彼らを辱める。 「愚か者は心の中で言う/『神などいない』と。」(2)から始まる。神を恐れないものが、恐れなくて良いものを恐るという枠組みなのだろう。しかし、引用句をみると、背後に、神は、敵を退けてくださる方という見方と、滅びに至るものと自分を同一視して恐れるものの姿があるように見える。愚か者は、神がいないかの如く生きるものなのだろう。それは、理解することができない隙間を、自分のはかない思いで埋める者なのかもしれない。謙虚にいきたい。 Psalm 54:5 見知らぬ者が私に逆らって立ち/荒ぶる者が命を狙っています。/彼らは自分の前に神を置こうとしません。〔セラ 「ジフ人が来て、サウルに『ダビデが私たちのもとに隠れていないか』と言ったとき。」(2)理解できないことばである。引用箇所は、サムエル記上23:19, 26:1 とある。2回、似たことがあったようだが、ジフ人がサウルにダビデの居場所を知らせたことを、反語表現しているようだ。つまりは、隠れていることを告げているのだろう。引用句には「自分の前に神を置こうとしない」もののことが書かれている。これも、「神などいない」(53:2)という者と同義語に響く。いずれも、神がないかのように、自分が世界の中心のように、真実を覆い隠す者だからである。 Psalm 55:10 わが主よ、滅ぼしてください。/彼らの舌を引き裂いてください。/都の暴虐と争いを、私は確かに見たからです。 ダビデの詩として、敵の中で歌っている。(4,13)敵ということばは、あまり多くないことも感じた。しかし、その存在は強く、その敵の謀略を見て、自分の救いと、敵の裁きを願っているという形式のようだ。そのなかで、主への信頼をうたう。「あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。」(23)現代の信仰と共通点は、見出されるが、やはり、違和感も大きい。 Psalm 56:10 私があなたを呼び求める日/その時、敵は退きます。/私は、神がそばにおられることを知っています。 「指揮者によって。『はるかな沈黙の鳩』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ペリシテ人がダビデをガトで捕らえたとき。」(1)「はるかな沈黙の鳩」が何かはわからないが、何度も詠われたことを意味しているのだろう。危機において、つねに、神がそばにおられる。そのためには、自分の身を清く保つ。そして、感謝をする。そのような信仰が語られているように見える。やはり、自分視点からは、出られていないように見える。イエスが現れるまでは、難しいのだろうか。旧約にも、この線を超えている部分がいくつもあるように見えるが。 Psalm 57:4,5 神が天より使いを送り/私をお救いくださいますように。/私を踏みにじる者が嘲っています。〔セラ/神が慈しみとまことを送ってくださいますように。/私の魂は雌獅子の群れのただ中に/人の子らを貪り食らう者たちの間に伏しています。/その歯は槍、矢。/舌は鋭い剣。 最初のことば「私を憐れんでください。/神よ、私を憐れんでください。/私の魂はあなたのもとに逃れました。/災いが過ぎ去るまで/あなたの翼の陰に私は逃れます。」(2)は美しい。このように祈れたらとも思う。しかし、引用句を見ると、詩篇記者は、争いの中にいることがわかる。さらにこの詩篇は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき。」(1)と始まっている。やはり、まずは、その争いのもとに対応しなければいけないように思う。むろん、そう簡単ではないどころか、できないのかもしれないが。ひとの責任、神の助けだろうか。 Psalm 58:11 正しき者はこの報復を見て喜び/悪しき者の血で足を洗う。/人は言う。/「まことに正しき者には実りがある。/地には裁く神がおられる」と。 御心を求める旅は、一生続き、それでも、ほとんどわからない、求め続けることこそに、我々のなすべきことがあるように思う。しかし、それは、だれでも、できるわけではないのかもしれない。途中で心折れてしまう。難しい問題である。しかし、わたしは、できるかぎり、それを求めていこう。ほとんどわからないということを、ある程度知り得たのだから。 Psalm 59:13,14 彼らの口の罪、唇の言葉/その高ぶりに彼らが捕らえられますように。/彼らは呪いと欺きを語っています。/憤りによって絶やしてください。/絶やし、一人も残さないでください。/その時、人は知るでしょう/神がヤコブを地の果てまでも治めることを。〔セラ この詩篇も敵について語ることからはじまる。「わが神、私を敵から助け出し/立ち向かう者から高く引き上げ、守ってください。」(2)引用句では、彼らが根絶やしになるように祈っている。せめて、「彼らのこころに語りかけてください」とか、「悔い改めさせてください」と祈るならまだしも。わたしが、状況をよくわかっていないことは、確かだろう。わたしも詩篇記者を裁いてしまっているのだから。この詩篇記者も、この詩篇記者にとっての敵をも、愛される、神様の Welcome から学びたい。 Psalm 60:12-14 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。/私たちを敵から助け出してください。/人の与える救いは空しい。/神によって私たちは力を振るいます。/神が敵を踏みにじってくださいます。 最初に「指揮者によって。「百合」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教えのため。ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。」(1,2)となっている。「教え」とあるように、最後の「神が敵を踏みにじってくださいます。」には、その前が必要であることを伝えているのだろう。ダビデなり、ダビデを通して学んだことが書かれている。なかなか、共感することは、できないが。 Psalm 61:6,7 神よ、あなたは私の誓いを聞き入れ/あなたの名を畏れる人に/継ぐべきものを与えてくださいます。王の日々になお日々を加え/その年月を代々に長らえさせてください。 これも、ダビデの詩となっているが、王は、だれを想定しているのだろう。王国が長く続くことを願う詩の定型を作ったのだろうか。そのような詩だから、ダビデ由来としたのだろうか。ジャンルとしては、身近さを感じないが、リーダーについて祈ることはたいせつなことなのだろう。自分だけではなく、多くの人に影響があるのだから。 Psalm 62:6,7 私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。/私の希望は神から。神こそわが大岩、わが救い、わが砦。/私は揺らぐことはない。 神に向かって沈黙せよということばは、わたしの感覚にはないが、それが信頼のひとつの表現だと考えているように見える。このあとにも、「民よ、どのような時にも神に信頼せよ。/御前に心を注ぎ出せ。/神は我らの逃れ場。〔セラ」(9)民も、そして自分も、神への信頼がたいせつだと言っているのだろう。敵をそうしてしていることもあるのだろうが。信仰者のひとつの信仰表現なのだろうか。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第40回:2月1日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書8章1節〜10節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.1.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  58. BRC 2023 no.058:詩篇63篇ー詩篇76篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。詩篇もそろそろ半分に近づいてきました。みなさんは、どのような思いで、詩篇を味わっておられるでしょうか。下に書いている、わたしの通読ノートをみると、それなりに、苦労して読んでいることもうかがえるかもしれません。以前は、心地よいことばを拾い読みして読んでいましたが、最近は、もうすこし、全体を受け取りたいと思い、詩篇記者がその詩篇を詠った背景を考えたり、あまり心地よくない、敵をのろうようなことばに目を向けて読んだりしています。 現在の世界の状況をみると、とても、難しい状況にあると思うからもあります。ここちのよいひととだけ、おしゃべりしていれば、それで済むのかもしれませんが、さまざまな人と語ろう、共に生きていこうとすると、簡単な状況ではないと思うからもあります。そんななかに、私たちは生きている。そう考えると、詩篇の中の、心地よい箇所だけ拾い読みしていてはいけないのだろうと考えるからもあります。それは、かなり背景も、考え方もことなる、他者とどのように向き合い、真理を、神様のみこころを求め、ともに生きる道を模索する歩みでしょうか。心地よいいとなみではありません。かえって、こころが痛み、胃がきりきりと痛むような経験でもあるときが多くあります。しかし、もしかすると、イエス様も、同じようだったのかもしれないと最近、思うようになっています。そして、神様も。正確には、イエス様が示される神様もかな。 わたしの読み方は、ちょっと最近特殊になってきているのかもしれないとも思っています。みなさんは、どのような思い出、詩篇を読み、詩篇記者との交わりを持ちながら読んででおられるでしょうか。お分ちいただければ幸いです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇63篇ー詩篇76篇はみなさんが、明日2月5日(月曜日)から2月11日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 63:10,11 私の命を根絶やしにしようとうかがう者が/地の底へと入り込みますように。剣に渡され/ジャッカルの餌食となりますように。 これまで、このような箇所は読み飛ばしてきた。おそらく、詩篇記者との仲間意識から、ことなること、ぶつかりそうなこと、受け入れ難いことを避けてきたのだろう。しかし、直視して読むようにすると、このような句があまりにも多い。敵にたいする裁きを願う祈り、詩篇である。わたしには、それが、イエスご自身が、ダビデにたいして、好意的な発言をしなかった理由であるようにも見える。 Psalm 64:4,5 彼らは舌を剣のように鋭くし/苦い言葉の矢をつがえています。物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。 ここにも「悪をなす者の群れ」の記述があり、そのあとに続くのが上の句だ。このようなことばは受け入れ難いが、正しく生きることが、よいことと考えられていなかった時代なのかもしれないとも思った。現代は、社会的に、それがよいことだと受け入れられ、教育もされている。むろん、まったく不十分ではあるが。それがなかった時代、そこでは、ひたすら苦しみ、祈るしかできなかったのかもしれないとも思う。イエスも教育制度がユダヤではある程度確立している頃に生きたこともあり、ある距離をもちつつ、批判もしなかったのかもしれない。 Psalm 65:2,3 シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。祈りを聞いてくださる方よ/すべての肉なる者はあなたのもとに来ます。 「あなたは地を訪れてこれを潤し/大いに豊かにします。/神の水路は水をたたえ、あなたは穀物を備えます。/あなたがそのように整えたのです。畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/萌え出でたものを祝福してくださいます。」(10,11)と自然の恵についてさまざまに語っている。美しい感謝と賛美の詩篇である。しかし、同時に、エルサレム優越でもある。この時代にとっては、仕方がないことのようにも見える。恵にまず、感謝しよう。 Psalm 66:5,6 来て、神の業を見よ/人の子になされた恐るべき業を。神は海を乾いた地に変えた。/人は大河を歩いて渡り/そこで、私たちは神を喜び祝った。 賛美で始まる。その背後には、このように、紅海をわたり、ヨルダン川を渡河したことが、あるのだろう。現在のことかた褒め称えることもあるが、原点は、つねに出エジプト。それは、ずっとそうなのだろうか。イスラエルの信仰と、アメリカ福音派の信仰は、似ているのかもしれない。福音派と言っているが、イエスは、そこにいないのだろうか。 Psalm 67:5 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ 「指揮者によって。弦楽器で。賛歌。歌。」(1)となっている。どのようなときに詠われていたかは、わからないが、内容の核心は、やはり、引用句であるように思う。つまり、神の、公平な裁きである。それは、現代的にみると、不可能に感じてしまうし、人間の側に責任があることが多いように思う。人間の世界理解が、すこしずつ広がり、かつ、変化していったからか。しかし、いまでも、同様のことを神に帰するひともおおいのかもしれないとも思う。難しい。拙速に、決断を出さないようにしたいものである。 Psalm 68:29 神は命じられる/あなたが力をさらに増すように、と。/神よ、あなたは私たちのために働いてくださる。 このような拡大していく意識が、あったのかもしれない。それが「エジプトから青銅の品々が到来し/クシュは神に向かって手を伸べる。」(32)と表現されているのかもしれない。たしかに、ソロモンの時代、これに近いことが記されている。ただ、それを望むことで良いのだろうか。それが、現代まで引き継がれていることも、確かだと思うと、本当に、難しい問題だと思う。 Psalm 69:5 いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く/私を滅ぼそうとする者/偽り者の私の敵は強いのです。/私は自分が奪わなかったものさえも/償わなければなりません。 これも「ダビデの詩」とある。「私は自分が奪わなかったもの」とあるが、ダビデは、略奪隊の隊長のようなことをしていたので、多くの略奪を繰り返していたことも、事実であろう。このような表現には、どうも、親近感を感じない。この詩篇の後半には、「彼ら」への罰について語られている。主は、そのようなかたと認識されていたのだろう。どうしても、受け入れられないが、信仰のはじめは、そうなのかもしれないとも思った。そして、わたしのような考えが、中心ではないとも。 Psalm 70:4,5 「あはは、あはは」とはやす者が/恥を受けて逃げ出しますように。あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「神は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。 この対比が、信仰の源泉だったのだろう。私は、不可知論者ではないが、簡単に決断をくだそうとはしない。それは、広くうけいれられるものではないのかもしれない。 Psalm 71:16-18 わが主よ、私はあなたの力によって進みます。/主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。/神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。/神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。 私は、このようには、祈れない。まず、最初の正義。ポストモダンの多様性重視に、毒されているからか。奇しき業についても語れない。イエス様の愛しか。しかし、それを語ること、そして「来るべきあらゆる代に語り伝える」ことは、していきたいと願ってはいる。そうであっても、やはり、迷いがある。私は、まだ、ほとんど、知らず、そのほんの少しを語ることは、他者をかえって迷い道に導くのではないかと。残るのはやはり、イエスについて、共に学ぶことだけのように思う。わたしが老いても生かされている期間。 Psalm 72:20 エッサイの子ダビデの祈りの終わり。 これが、この詩篇72篇の終わりなのか、詩篇全体において、ダビデの祈りの終わりなのか、五巻に分かれていると考えて、その一巻の中でのダビデの祈りの終わりなのか、わからなかった。実際、73篇以降にも、ダビデの祈り、ダビデの詩は続く。この詩篇が、第二巻の終わりであることは確かで、この直前に頌栄がある。「栄光に輝く主の名をとこしえにたたえよ。/栄光が全地を満たしますように。/アーメン、アーメン。」(19)しかし、五巻への区分は、現在の、聖書協会共同訳には含まれていない。五巻の区分についても、少し調べてみたい。 Psalm 73:1-3 賛歌。アサフの詩。/神はなんと恵み深いことか/イスラエルに、心の清い者たちに。/それなのに私は、危うく足を滑らせ/今にも歩みを踏み誤るところだった。/悪しき者の安泰を見て/驕り高ぶる者を妬んだ。 自分の過ちに目を止める。すばらしい。しかし「あなたは滑りやすい道を備え/彼らを廃虚に落とされる。」(18)と、結局、因果応報へといくようにみえる。たしかに、裁きは神のものという考え方は良いのだろうが、神様の御心は、なかなか見えない。因果応報は、非常に狭い考え方だと感じる。 Psalm 74:21,22 虐げられた人が再び辱められることのないように/苦しむ人、貧しい人が/あなたの名を賛美できるようにしてください。神よ、立ち上がり、ご自分のために争ってください。/愚か者が日夜あなたをそしるのを/心に留めてください。 神様の御心は、深く、ひとには、理解できないことが多いということを、まずは自覚すべきだろう。これらの節では、神の義が行われていないと断言しているように見える。自分は、見えている、わかっているということが根幹にある。それで良いのだろうか。 Psalm 75:2,3 神よ、私たちは感謝します。/あなたに感謝を献げます。/その名は近くにあり、人々は奇しき業を語ります。「私は時を選び/公平に裁く。 この詩篇の最後は、「私は悪しき者の角をことごとく折る。/正しき者の角は高く上げられる。」(11)で終わっている。結局、最初の裁きにしても、最後の表現にしても、因果応報が神の公平さだと讃えられ、賛美されているように見える。昔はそれこそが公平だと考えたのかもしれない。見えていない部分は、生まれながらの継承された不平等、さまざまな状況を見えてはいないからだろうか。それとも、公平さの重要な要素として、因果応報があるということだろうか。難しく感じる。 Psalm 76:2 神はユダに知られ/その名はイスラエルで偉大である。 いまは、このような言葉にも反発を感じる。イエス以外に、ユダ、イスラエルを導いた歴史の中の神をあまり重視しないようになってきているからか。旧約の神を大切にするゆえに、正しさによって、他者を裁くことに、反発を感じるからか。難しい。この詩篇記者とも共に生きることを求めていきたい。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第41回:2月8日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書8章11節〜13節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.2.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  59. BRC 2023 no.059:詩篇77篇ー詩篇90篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。詩篇もそろそろ半分に近づいてきました。みなさんは、どのような思いで、詩篇を味わっておられるでしょうか。今回の通読では、私は、いままであまり注意して読んでこなかった部分を注視して読むことが多いため、通常ではない読み方、少し批判的な読み方が強くなって、皆さんを戸惑わせているのではないかとちょっと心配しています。詩篇が好きな方は多く、特に好きな詩篇があるかたもたくさんおられると思います。わたしも、実は、詩篇を読んでいると、こころ惹かれる、そして、こんな表現をしてくれていると、自分の心の中や、自分のあるときの苦しみを、適切にそして、美しく表現している言葉に出会い、ハッとさせられます。詩篇には、その背後に、詩篇記者がおり、そして、その苦しみや、悩みがあるからではないかと思います。 わたしは、さまざまなことが理解できない。わからない。知っていること、理解できることはほんのわずかに過ぎないと思っていますが、一番、わからないと、考えているのが、他者の痛み、苦しみです。ときどき、自分の痛み、苦しみは誰も、理解してくれないと思う時もありますが、なによりも、他者のことばや、行動の背後にある、痛み・苦しみがわからず、それゆえに、ことばや、行動も理解できないと感じることが多くあります。最近、それが、その人の、尊厳自体であり、そのひとがその人であることの根源的なもので、すなわち、苦しみや痛みが、そのひとが、かけがいのない存在であることを意味しているのかもしれないと思うようになっています。しかし、同時に、理解できなくても、その他者と、互いに愛し合うように、招かれているのではないかと思います。 このあたりにしておきますが、イエス様の痛み、苦しみ、それは、神様の痛み、苦しみを表現していることなのかなと思いますが、理解できないまでも、それを少しでも、受け取ろうと思いながら、神様、イエス様が愛される、詩篇記者の表現から、その痛みと苦しみを受け取りたいと願っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇77篇ー詩篇90篇はみなさんが、明日2月12日(月曜日)から2月18日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 77:3,4 苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手を差し伸べた。/しかし、私の魂は慰めを拒む。/神を思い起こし、呻き、思い巡らそう/私の霊が萎え果てるまで。〔セラ 最後は、出エジプトでのことから神を讃えているが、引用句には、非常に微妙な葛藤が表現され、このあとも、その表現が続く。あまり、具体的な内容は見えないが、それゆえに余計、普遍性があり、共感を呼ぶのかもしれない。なにを伝えるのかは難しい。 Psalm 78:37,38 彼らの心は神のもとにとどまらず/その契約に誠実ではなかった。しかし、神は憐れみ深く/過ちを覆って、滅ぼさず/怒りを幾度も抑え/憤りをことごとくかき立てることはなかった。 過去の経験を次の世代に語りかけることは、重要なのだろう。たとえ、次の世代が経験することは、全く異なることであっても。伝えるものの謙虚さと、その変化を受け入れつつ、語ることだろうか。わたしは、まさに、そのときにいるように思う。できることは、何なのだろうか。 Psalm 79:12,13 わが主よ/近隣の民があなたをそしったそのそしりを/彼らの身に七倍にして返してください。私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。/とこしえにあなたに感謝し/代々にあなたの誉れを語り伝えます。 わたしも知っている箇所がある詩篇だが、結局、このようなことばで終わることを知らなかった。自分が好きな部分のみを、つまみ食いしながら読んでいたのだろう。結局、背後にあるのは、因果応報、そして、仕返しである。これでは、平和にはならない。わからない他者にどう向き合うか、わたしがいまいるところで学んでいきたい。 Psalm 80:5-7 万軍の神、主よ、いつまでなのですか/民の祈りにもかかわらず、怒りの煙を吐かれるのは。あなたは彼らに涙のパンを食べさせ/溢れんばかりの涙を飲ませました。あなたは私たちを隣国のいさかいの的とし/敵は私たちを嘲ります。 この詩篇も、バビロン捕囚後だろうか。「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。/力を奮い起こし、救いに来てください。」(2)ともあるので、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡だろうか。それとも、全体について、だいぶんあとに、振り返っているのだろうか。よくわからない。しかし、そのような詩篇が続くことは、ある編纂方針があるのだろう。もう少し丁寧に見ていきたい。 Psalm 81:16,17 主を憎む者が主に屈し/その災いの時はとこしえに続くがよい。「私は最上の小麦で民を養い/岩から出る蜜であなたを満たそう。」 引用した、最後の2節はよくわからない。最後は、神からの祝福のことばを思い出しているのかもしれない。いずれにしても、正しさと、対比、敵対、この中に住んでいたのだろうか。考えてみると、いまも、そうなのかもしれない。そのなかで生きることは、簡単ではない。難しい。 Psalm 82:8 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての国民をご自分のものとされます。 すべての国民は、イスラエルの民なのだろう。しかし、わたしには、そのようには、祈れない。神が愛されるものたち、むろん、そのものたちが、神を愛するわけではない。そして、滅びのなかにいることも、現実なのだろうが。わたしは、何を求めたら良いのかもわからない。しかし、求め続けたい。 Psalm 83:2,3 神よ、沈黙しないでください。/神よ、押し黙らないでください。/静まり返らないでください。御覧ください。/あなたの敵が騒ぎ立ち/あなたを憎む者は頭をもたげました。 自分の敵と神の敵が同一視されている。しかし、沈黙しないでくださいからは、必ずしも、自分の敵が神の敵ではないことも、加味されているように見える。その意味では、自分の敵を、神の敵として滅ぼしてくださいという祈りかもしれない。それは、十分理解できる。同時に、神の御心を求めるときに、そこから、いったん、離れて、自分も知らない、神の真理を求めなければいけないのだろう。 Psalm 84:4,5 あなたの祭壇の傍らに小鳥さえも住みかを見つけ/つばめも巣をかけて、雛を育てています。/万軍の主、わが王、わが神よ。/幸いな者、あなたの家に住む人は。/彼らは絶えずあなたを賛美します。〔セラ 祭壇や、神殿に巣をかけているつばめを見て詠んでいるのだろう。主の家に住むことは、主と共にいること。それを願っているのだろう。それが素晴らしいことだと、この詩篇は詠っている。わたしは、そこまで強い感覚を持っていない。それは、ひとつには、主が共におられることが当然だと考えてしまっているから、もうひとつは、神の前を、神なしに生きることを考えていつももがいているからか。もう少し、丁寧に表現したい。 Psalm 85:5-7 我らの救いの神よ、私たちを元に返し/私たちに対する憂いを鎮めてください。あなたはとこしえに私たちを怒り/その怒りを代々にまで及ぼすのですか。再び私たちを生かし/民があなたを/喜び祝うようにしてくださらないのですか。 最初には「主よ、あなたはご自分の地に恵みを示し/ヤコブの繁栄を回復してくださった。」(1)と始まる。しかし、どうも、ことは、単純ではないようだ。思いつくのは、バビロンからの捕囚帰還後の状況だろうか。元には返してくださらない。そのなかで、主の平和を求め、希望をも述べている。このように、自らを省み、神様の御心を求め続けることが信仰生活、すくなくとも、旧約聖書でそれなりに一貫しいたことなのかもしれない。あまり単純な結論を得ようとしてはいけないように思う。 Psalm 86:14 神よ、傲慢な者が私に逆らって立ち/荒ぶる者の群れが私の命を狙っています。/彼らは自分の前にあなたを置くことをしません。 受け入れがたい他者と向き合うときが難しい。いまは、その相手(の背景、内在的論理、価値観)を知ることこそが、最初に取るべき一歩だと思っているが、当時は、もっと、単純に考えられていたのだろう。そして、受け入れがたい、単純な悪が多かったのかもしれない。そして、それに寛容に対応すると、自分も、自分の家族も、一族も、隣人が滅ぼされる。それは、どう対応したら良いか難しい。むろん、わたしにもよくわからない。しかし、敵として、その滅びを待つことでは、解決は得られないように思うし、神様のみこころは、もう少し高いところにあるように思う。 Psalm 87:4,5 「私はラハブとバビロンを/私を知る者として挙げる。/見よ、クシュと共に、ペリシテとティルスも。/この者はそこで生まれたと。」シオンについては/「この者もあの者もそこで生まれた」と言われる。/これを堅く据えるのはいと高き方。 イスラエル中心史観、そして、周囲に拡大する、普遍主義。知っている範囲のみが、シオンが関係する範囲なのだろう。ここに現れない、メソアメリカや、アンデス文明のもとで育まれたひとたち、黄河流域からはじまって、東アジア文化圏のひとたちを、神様はしらないという史観である。しかし、このような旧約聖書を神のことばとして読んでいれば、そのような自己中心史観を周囲に少しずつ拡大していく、考え方から、逃れられないのは、仕方がないのかもしれない。そして、それは、イエスと出会わなければ、変わらないのだろうか。難しい。 Psalm 88:6 死人の中に捨てられ/刺し貫かれ/墓に横たわる者のようになりました。/もはやあなたはそのような者に心を留められません。/御手から切り離されたのです。 死が恐怖であり、絶対的な最後を表すと考えられていたのだろう。たしかに、死のあとは、わからない。まったく存在が消滅してしまうのかもしれない。とはいえ、そのひとの関係は、他者の中に生き続けることも、好むと好まざるとにかかわらず真実である。詩篇記者はこのなかで、主を呼び続けることで、主に望みを託している。それが、旧約の時代を生きたひとたちの基本的な信仰だったのかもしれない。 Psalm 89:50-52 わが主よ/あなたがまことをもってダビデに誓われた/かつての慈しみはどこにあるのでしょうか。わが主よ/僕が被っている嘲りを心に留めてください。/私はもろもろの民のそしりを/すべて胸に耐えています。主よ、あなたの敵が嘲るのです。/あなたの油注がれた者の足跡を嘲るのです。 主がダビデを選ばれたこと、ダビデに「あなたの子孫をとこしえに堅固なものとし/あなたの王座を代々に築こう」(5a)と誓ったことが書かれ、そのあとも、ダビデ王権についての記述が続く。しかし、本質的な部分は、引用句なのだろう。ここから、信仰が始まるのかもしれない。ここにも、敵に囲まれ、嘲られる存在としての詩篇記者、イスラエルの状況の記述がある。神様の御心を求め続け、受け取り続けることは、あまり簡単ではない。 Psalm 90:17 我らの神、わが主の麗しさが/私たちの上にありますように。/私たちの手の働きを/私たちの上に確かなものにしてください。/私たちの手の働きを力あるものにしてください。 ひとの命の儚(はかな)さが語られている。それを認めた上で、引用句のように語っている。その気持ちは理解できるが、わたしの感覚とは、ずれがあるように思う。それは、なぜだろうか。他者との交わりのなかに生きることに、価値を置いているからだろうか。そう簡単でもないのだろう。丁寧に考えたい。儚さのゆえに、苦しんでいる人も多いのだから。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第42回:2月15日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書8章14節〜21節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.2.11 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  60. BRC 2023 no.060:詩篇91篇ー詩篇104篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。今週の通読が終わると、詩篇も大体三分の二を読んだことになります。 わたしが感想に書いていることを見ると、詩篇記者が神様をどう考えているかについて、批判的な面が強いことに気づかれるかと思います。これまでに、詩篇について書いたことも、そのようなことが表れていると思います。簡単にいうと、神様に、敵を滅ぼしてくださいと祈り、神様は、義をもって、ただしく裁かれる方という認識がつよいということでしょうか。 現在、聖書の会では、マルコによる福音書を、ペトロ由来の可能性が色濃く現れている文書として、また、イエスの行動のもともとの姿が、他の福音書と比較してよく残っている文書として、マタイによる福音書や、ルカによる福音書と少しずつ比較しながら読んでいます。印象的なのは、非常に早くから、ファリサイ派のひとや、民の指導者から、危険視され、イエスを殺す計画についても書かれていること。群衆は、多少気を遣いながら、それでも、イエスについてきており、イエスは(腑が傷つくほど)群衆を深く憐れんでおられるが、群衆は飼うもののない羊のように病をいやしてもらうなどだけを期待しているように見える。弟子たちも、ほとんどイエスの行動やことばについて理解しておらず、しょっちゅう怒られる。そんな姿を見ながら、私たちも含めて、イエス様の語られる神の国についてよくわかっていないのだろうなと感じています。 最近、旧約聖書を教えておられる先生とお話しする機会があり、詩篇のことをすこし聞いてみました。そうしたら、ある本を紹介してくださいました。それは、カトリックの祈祷書で、敵を滅ぼすような祈りを削除している部分について、背景などを考えながら、削除することが適切かどうかを問うている本だとのこと。プロテスタントでも、礼拝の時に、交読文として、詩篇がよく読まれますが、それからも、敵を滅ぼしてくださいというような祈りは削除されているように思います。いずれ、紹介された本も読み、そのあたりも、調べてみたいと思っています。 学生から、宗教は、人々の分断を煽っているのではないかと言われます。いまの世の中をみると、分断は、ほんとうに大きな問題です。それに、宗教が一役買っているのではないか、または、宗教こそが、分断の原因なのではないかという問いです。キリスト教会の中ではいろいろな説明をしても、一般の人が、なっとくできる説明はないように思います。この状況こそが分断なのでしょう。イエス様がなかなか理解されなかったことも踏まえると、キリスト者も含めて、イエス様を理解できていないのかもしれないと思っています。分断は、とても、難しい問題ですが、詩篇を読み、イエス様に希望を委ねて、福音書を読みながら、悩みつつ、考えていることを、少し、共有させていただきました。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇91篇ー詩篇104篇はみなさんが、明日2月19日(月曜日)から2月25日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 91:1 いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。 この「いと高き方を隠れ場とする者」についての描写がつづき、最後に主の宣言のような箇所で終わる。「彼は私を慕う。/私は彼を助け出そう。/彼は私の名を知っている。/私は彼を守ろう。彼が私を呼び求めるとき/私は答えよう。/苦難の時には彼と共にいる。/彼を助け出し、誉れを与えよう。長寿を授けて彼を満たし/私の救いを見せよう。」(14-16)これが信仰告白なのだろう。批判的に考えるよりも、わたしなら、どう語るか、考えてみたい。 Psalm 92:10 主よ、あなたの敵は必ず/あなたの敵は必ずや滅び/悪事を働く者は皆、散らされる。 これが信仰告白なのだろう。あなたの敵と表現する。神は、痛みをもって、苦しむ方というよりも、裁きの神なのだろう。イエスによって、違ったことが表現されたのか、それとも、わたしが勝手にそう考え、表現しているのか。丁寧に、聖書を読んでいきたい。 Psalm 93:1 主は王となられた。/主は威厳をまとい/力の衣を身に帯びておられる。/世界は固く据えられ/決して揺らぐことはない。 サムエル記では、民が王をもとめることを、心良しとされていない。それは、イスラエルにとって、どの程度重要な歴史観なのだろうか。先の預言者の文書と、そのあとでは、変わってしまうのだろうか。イエスは、どう考えていたのだろう。現実主義だったのだろうか。少なくとも、王については、発言しておられないように見える。 Psalm 94:1,2 報復の神、主よ。/報復の神よ、輝き出てください。地を裁かれる方よ、立ち上がり/高ぶる者に報いてください。 むろん、これだけが、神理解ではないが、このことが色濃く現れている詩篇である。神がどのような方であるかを知ること、それが信仰に大きな影響を及ぼす。神の支配(神の国)とはどのようなものかを知ることが、信仰の本質なのかもしれない。それを、イエスは示しておられる。しかし、それをひとは、受け取らないように見える。受け取りたくないからか。それとも、イエスの伝え方が悪いのか。難しい。 Psalm 95:10,11 四十年の間、私はその世代をいとい/そして言った。/『彼らは心の迷える民/私の道を知らない。』私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは私の憩いに入れない』と。」 詩篇は、詩篇記者の考えたことだろう。聖霊による導きはあるのだろうが。これも、神はそう考えるだろうという信仰告白に見える。おそらく、神様は、ずっと高いところから、ひとの思いを、「彼らは心の迷える民/私の道を知らない。」とみておられるのではないかと思う。その意味で、シンクロナイズもしている。 Psalm 96:5 もろもろの民の神々はすべて空しい。/主は天を造られた。 やはり、優越思想が強い。他者を理解することは、ひとには、難しいのだろう。しかし、主は天を造られた。そして、ひとりひとりを愛しておられるのだろう。天を造られた神が、もろもろの民を愛さないことがあろうか。ご自身のあらわし方は少し異なるかもしれないが、神の愛の大きさ深さをみくびるような、神理解は貧しいと感じてしまう。 Psalm 97:1,2 主は王となられた。/地は喜び躍れ。/多くの島々は喜べ。雲と密雲は主を囲み/正義と公正が王座を支える。 ここに詩篇記者の理想があるのだろう。鍵は、正義と公正である。しかし、人間の責任が、いまは、どんどん大きくなってきているように思う。かつ、それが難しい問いいうことも。正義と公正を、神様は持っていると信じていることは確かだろう。わたしは、そのようには見えない。苦しまれる神様が浮き彫りになるが。 Psalm 98:2,3 主は救いを知らせ/正義を国々の目の前に現された。/イスラエルの家に対する/慈しみとまことを思い出された。/遠く地の果てまで/すべてのものが我らの神の救いを見た。 この詩篇は「賛歌。/新しい歌を主に歌え。/まことに主は奇しき業を成し遂げられた。/主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。」(1)と始まる。実際に、イスラエルの回復があって言っているのか、讃歌なのかは、不明だが、中心は、イスラエルの救いである。それを通して、主を賛美する。イエスは、少し違うように見える。それも、イエスが受け入れられなかった理由だろう。 Psalm 99:1 主は王となられた。/もろもろの民は震えよ。/主はケルビムの上に座しておられる。/地は揺れよ。 この詩篇も「主は王となられた」から始まる。調べてみると、詩篇93篇、96篇、97篇、99篇に、96篇10節以外は、すべて、冒頭にある。人間の王との対比もあると思われるが、公義、ただしい裁きが行われるためには、主が王になられる以外にないと考えられていたのだろうか。主の支配と考えると、神の国が来たと表現するのと、似ている。しかし、イエスが唱えたのは「神の国は近い」この違いをしっかり考えてみたい。この詩篇の終わりの方には「主、我らの神よ、あなたは答えられた。/あなたは彼らを赦す神。/しかし、彼らの悪行には報いる方。」(8)とある。わたしには、短慮に思えてしまう。わたしの聖書の読み方は、かなり特殊になっているのだろうか。 Psalm 100:2,3 喜びながら主に仕えよ。/喜び歌いつつその前に進み出よ。主こそ神と知れ。/主が私たちを造られた。私たちは主のもの。/主の民、その牧場の羊。 有名な詩篇である。主に仕えるとあるが、神殿などでの奉仕を意味しているのだろうか。万人祭司の考え方から、主に仕えることを考えると、難しい。主のみこころが、明確に示されていないことが多いからである。そのときに、喜びは、あまりよく理解できない。やはり、難しい。 Psalm 101:8 朝ごとに、私は/この地の悪しき者をことごとく滅ぼします。/主の都から悪事を働く者をことごとく絶やします。 最初は「ダビデの詩。賛歌。/慈しみと公正を私は歌い/主よ、あなたに向かってほめ歌います。」(1)で始まる。公正である。そして、最後は「この地の悪しき者をことごとく滅ぼします。」これでは、平和は来ない。それを、ダビデに、そして、旧約に求めるのは、無理なのだろう。現代でも、同じことが起こっているのだから。もしかすると、これでは平和は来ないと言って、結局、わたしも正しさを求めてしまっているのかもしれない。どうしたら良いのだろうか。とても、深い問いに思える。 Psalm 102:3 苦難の日に、御顔を隠さず、私に耳を傾け/呼び求める日に、速やかに答えてください。 この詩篇は「苦しむ人の祈り。弱り果て、主の前に嘆きを注ぎ出すときに。」(1)と始まるが、その解決には至っていないようだ。「これは、あなたの怒りと憤りのゆえ。/あなたは私を持ち上げ、投げ捨てられた。」(11)ともあるように、人には、あやまりがある。不完全さがつきまとう。すると、自分の苦難は、そのゆえと考えてしまう。ただしい、神の前ではなおさらだろう。「主は道半ばで私の力を挫き/私の生涯を短くされた。」(24)そして、このように告白し、最後は「あなたの僕の子らが住まいを得/その子孫が御前に堅く立てられますように。」(29)で終わっている。このひとの苦悩は、続いているように感じる。難しい。苦難は、時代を超えて共通であるとも感じるが。 Psalm 103:2,3 私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな。主はあなたの過ちをすべて赦し/あなたの病をすべて癒やす方。 「ダビデの詩。/私の魂よ、主をたたえよ。/私の内なるすべてのものよ/その聖なる名をたたえよ。」(1)と一貫して讃美の詩篇である。その最初が引用句。罪を赦し、病を癒すから始まる。個人的な関わりが最初に来ているところが興味深い。そのような宗教として、続いていったのが、ユダヤ教なのだろう。宗教はみなそうなのだろうか。「罪を赦す」は、因果関係からのがれて救われることを意味するのだろうか。その証拠はないが、それを過去のことに求める。イスラエルの場合は、大きな歴史の出来事に。 Psalm 104:33-35 私は命のあるかぎり、主に向かって歌い/長らえるかぎり、わが神をほめ歌う。私の思いが御旨に適うように。/私は主によって喜ぶ。罪人は地から消えうせ/悪しき者はもはやいない。/私の魂よ、主をたたえよ。/ハレルヤ。 この詩篇の最後の部分である。讃美は、わたしが、あまり得意としない部分であるように思う。神様と共に悩む、それは、イエス様と共にということだが、そこにわたしの信仰生活があるように思う。すくなくとも、わたしには、「私は主によって喜ぶ。罪人は地から消えうせ/悪しき者はもはやいない。」とは喜べないからだろう。神様も悩んでおられるのではないだろうか。これは、価値多様性にあまりにも、大切にしすぎなのかもしれないが、少なくとも、今、わたしが探求していることではある。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第43回:2月22日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書8章22節〜26節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。(2月29日を今年度最後とし、3月はお休みさせていただきます。4月から再開したいと考えています。) 2024.2.18 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  61. BRC 2023 no.061:詩篇105篇ー詩篇118篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。詩篇も大体三分の二を読み進めてきました。 みなさんは、神様がどのような方だと思いますか、どのようなところが素晴らしいと思いますか。今回、読む、聖書の箇所には、賛美の詩篇が多くあります。みなさんは、どのようなことを賛美しますか。自分の経験と結びついて、賛美することが多いのではないでしょうか。救いの喜びなど。同時に、神様の素晴らしさを、聖書から教えられて、賛美することもあるかもしれません。しかし、よく考えてみると、それらも、やはり、わたしたちの神様とはどのような方だと理解するかにかかっている様に思われます。実際の神様がどのようなかたと結びついていることを願いますが、同時に、詩篇を読んでいると、詩篇記者の神様理解が伝わってくるとも言える様に思います。 みなさんは、詩篇から、詩篇記者から、どのようなことを受け取られるでしょうか。詩篇記者とも、神様をとおしての交わりができるとよいですね。それが難しい時も、神様が愛される、ひとりの人を受け入れることができればと願いながら、わたしは、詩篇を読んでいます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇105篇ー詩篇118篇はみなさんが、明日2月26日(月曜日)から3月3日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 105:43-45 主は民を喜びのうちに/選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。彼らに国々の土地を与え/彼らは諸国民の労苦の実りをわが物とした。これは彼らが主の掟を守り/主の教えに従うためである。/ハレルヤ。 この出エジプトの意味づけは明確である。出エジプトでも、礼拝をするためとなっているが、ここでも、「主の掟を守り/主の教えに従うため」となっている。ピルグリム・ファーザースともつながることなのだろう。しかし、歴史は、実際には、この結果を産まなかったことも証言している。主の御心を求め続けること、そのなかで、主の働きを認めることだろうか。イエスは逃げ出さなかった。十字架にはかかってしまったが。 Psalm 106:48 イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ。」 イスラエルが、結局は、従わなかったことが、この詩篇には、書かれている。その上で、引用句が語られて終わっている。第四巻のおしまいである。105篇と106篇は区切りとする詩篇なのだろう。しかし、現在読んでいる、聖書協会共同訳には、5巻の区切りはついていない。 Psalm 107:28-30 苦難の中で主に叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出した。嵐を沈黙させたので、波は収まった。彼らは波が静まったので喜び/主は彼らを目指す港に導いた。 これが詩篇記者のことばである。しかし、この前には「主が言葉を発して暴風を起こすと/波が高くなった。」(25)ともあり、苦難の原因は、主にあることも書かれている。イエスが伝える主は、そのような方ではないとわたしは思う。苦しみは、神も同じように持っておられる。愛するが故に、自由意志をあたえ、かつ、従わない故に。 Psalm 108:12,13 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。私たちを敵から助け出してください。/人の与える救いは空しい。 主が全知全能で、すべてを統べ治められると考えると、いろいろなところに、不具合が生じる。イエスは、そうではない中で歩んでおられるように見える。イエスは、神との交わりのなかで、生きておられたのだろう。そこに信頼したい。そして、そのイエスから学びたい。 Psalm 109:29 私を訴える者らが辱めを衣とし/恥を上着としてまといますように。 わたしのメンタリティとはかなり異なる。わたしには「わが神、主よ、私を助けてください。/あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください。」(26) と訴える気持ちもない。神様の痛み苦しみを、イエスを通して、知ったからだろうか。むろん、ほんの一部だが。イエスと共にいることは、イエスの痛みを痛みとすること。それが神様の痛み苦しみを考えること、御心を知り、行うというわたしにとっての信仰告白ということになる。むろん、それは難しい。しかし、それが、イエス様に従っていくことだと思う。 Psalm 110:1 ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」 マルコ12:36、マタイ22:44、ルカ30:42,43に引用されている箇所である。このあとの「わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。」(5)からも、主、私の主、私の関係があり、私は、ダビデだと想定されている。しかし、この詩篇での、私の主がだれなのかは、明らかではない。ただ、このなかに「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(4)という、創世記14:18 にしか登場しない、メルキゼデクが登場し、それは、後にヘブル人への手紙で5:6,7:17,21 でイエスの祭司職と関連されて述べられているところからも、キリスト教の中で特別に重要な詩篇であることも事実である。ただ、ダビデにとっての我が主は、信頼するだれかだったのだろう。もしかすると、ダビデではないかもしれない。これは、よく学んでみたい。 Psalm 111:6,7 御業の力をその民に知らせ/国々の受け継いだ地を彼らに与えた。御手の業はまことと公正/その諭しはすべて真実。 やはり、神様が、どのような方なのか、どのように認識するのかが、大切なのだろう。その意味で、'The true foundation of theology is to ascertain the character of God. It is by the art of Statistics that law in the social sphere can be ascertained and codified, and certain aspects of the character of God thereby revealed. The study of statistics is thus a religious service.' by F.N. David は、その通りだと思う。いまなら、Data Science というだろうが。詩篇記者と認識がある程度違うのは仕方がないのだろう。生きる時代が異なり、観察することも異なり、イエスの生涯も見ていないのだから。 Psalm 112:1 ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。 信仰は、受動的な面が強かったのだろう。しかし、神様の御心を受け取ることが他からも受け取れるようになった今、もっと能動的になることができ、そして、協力も不可欠になってきているように見える。その背後にあるのは、互いに愛し合うこと、分断を避けることだろうか。もうすこし丁寧に言語化していきたい。 Psalm 113:6,7 天にあっても地にあっても/低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こし/貧しい人を芥の中から高く上げ このように告白するひとがいたことは、主の特性を現代とも共有できるように思う。ただ、ここに普遍的な面が加わるかだろうか。聖書の不思議な点、イエスが、旧約聖書の中から生まれてきた点も関係しているように見える。低きもの、弱い人、貧しい人の痛みは、おそらくわからない。しかし、そこに下って、共にいて、引き上げてくださるということか。 Psalm 114:1,2 イスラエルがエジプトから/ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき/ユダは主の聖所となり/イスラエルは主の治めるところとなった。 このような告白は理解できる。それほど、イスラエルにとって、大きな経験だったのだろう。しかし、だからといって、主にとっても、絶対的な価値があるかはわからない。それでも、良いのだろうか。いろいろな問題が生じさせていることも確かである。難しい。 Psalm 115:1 主よ、私たちにではなく/私たちにではなく/あなたの名にこそ、栄光を与えてください/あなたの慈しみとまことのために。 このあとには、偶像との比較、そして、主に信頼せよと続く。最後は、ハレルヤで終わり、賛美の詩篇でもある。しかし、最近は、違和感を感じてしまう。主がなにを望んでおられるか、みこころを、自分たちは知っているということが背景にあるように思えてしまうからだ。すくなくとも、わたしには、わからないし、イエスを人々が受け入れられなかった原因も、それがわからないからであるように思うからだ。まずは、謙虚に求めていきたい。 Psalm 116:15 主に忠実な人たちの死は/主の目に重い。 自然ではあっても、やはり、素直には受け入れられない。主に忠実な人は、往々にして、主に忠実だと自認しているひとを意味するからだろう。実際に主に忠実な人がどのようなひとなのか、それを、わたしは知らない。たしかに、主は、主に忠実な人たちを愛してくださっているとは思うが。同時に、そうなれないひとたちをも、憐れみ、愛してくださっているのではないだろうか。そして、苦しんでおられるのではないだろうか。わたしの主の理解が、間違っているのだろうか。 Psalm 117:1,2 主を賛美せよ、すべての国よ。/主をほめたたえよ、すべての民よ。その慈しみは私たちに力強く/主のまことはとこしえに絶えることがない。/ハレルヤ。 これがこの詩篇の全文である。賛美の詩篇である。印象的なものは「すべての国」「すべての民」「慈しみ」が「私たちに力強い」、そして「主のまこと」だろうか。最初の二つは、少し、気になってしまう。このように賛美することは、やはり、自分の信じるものを中心に置くところだから。後半は、私たちとなっており、それは、ひとつの経験からの信仰告白、賛美であり、理解できるが。 Psalm 118:22,23 家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。 福音書にも(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17)使徒言行録にも(使徒4:11)、書簡にも(エフェソ2:20、ペトロ前書2:6,7)登場する、有名な言葉である。しかし、あまり、背景を考えなくても良いのかもしれないと今日思った。言い回しを引用することもあるのかもしれない。主をどう理解するかが、鍵なのだろう。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催しています。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第44回:2月29日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書8章27節〜30節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。(2月29日を今年度最後とし、3月はお休みさせていただきます。4月から再開したいと考えています。) 2024.2.25 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  62. BRC 2023 no.062:詩篇119篇ー詩篇132篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。最後にお知らせがついています。) 詩篇はいかがですか。今週は、詩篇119篇から読みます。詩篇もあと少しですね。 みなさんは、詩篇119篇と聞いて、思い当たりますか。最も長い詩篇です。詩篇としてだけでなく、一章の長さとしても、聖書中最長です。一日の限られた時間で通読をしていると、どうしても、長いと辛いなと感じてしまいますね。でも、そうだとわかっていれば、ほかの感じ方もできるかもしれません。その意味でも、この詩篇について少し書いてみようと思います。明日(月曜日)に読むことになっている箇所ですが、可能ならば、この詩篇だけ、今日、日曜日に時間をとって、味わって読んでみるのもおすすめですよ。 翻訳によっては、ヘブル語のアルファベットが付いています。アレフから始まり二十二文字あります。一塊(8節)ごと、すべての節が、同じ文字で始まる言葉で始まってっています。数も、アルファベットを使うので、かぞえ歌ということもあります。YouTube には、詩篇119篇(Psalm 119)朗読も、この詩篇を使ったヘブル語の解説もあります。 詩篇119篇を読んでいくと、戒め、掟、ことばなど、神様の言葉に関する内容が続きます。しかし、下のわたしの感想にも書いておきましたが「あなたの」がとても多いですね。神様の、主のということです。下の詩篇のリンクでも、詩篇119篇を取り上げています。これだけのものを作り上げるというのはほんとうにすごいと思います。おそらく、みなさんが、好きな言葉も見つかりますよ。ぜひ、味わって読んでいただければと思います。どんなことを感じられるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇119篇ー詩篇132篇はみなさんが、明日3月4日(月曜日)から3月10日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 119:71 苦しみに遭ったのは私には良いことでした。/あなたの掟を学ぶためでした。 有名なそして聖書でもっとも長い詩篇・章である。戒めや、引用句にもある、掟など、神のことばの置き換えがたくさん入っていることは知っていたが、今回は「あなたの」に目が止まった。あなたの諭し、あなたの戒め、あなたの掟、あなたの正しい裁き、あなたの言葉、あなたの仰せ、現在読んでいる聖書協会共同訳で、163件ヒットした。詩篇全体で485件であることを考えても多い。それが、引用句にもある、学びに直結しているのだろうと思った。敵に近い概念は何度か登場するが、この学ぶ姿勢にひかれる。いつかゆっくり学んでみたい。 Psalm 120:6,7 平和を憎む者と共に/私の魂が久しくそこに住むとは。私が平和を語っても/彼らはただ戦いを好む。 この直前には「ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。」(5)とある。よくは理解できないし、これは象徴的に語っているのか、それとも、実際のこの地名を挙げているのかわからないが、たしかに、平和を憎むと思われるものはいる。そして、自分も他者にとっては、そうなのかもしれないとも思った。そうでないように生きるにはどうしたら良いのだろうか。それは、とても大きな問いである。 Psalm 121:5 主はあなたを守る方。/主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。 この主のもとにいる。主が近くにいる。このように実感できるときは良いが、いつもそうではないだろう。すくなくとも、そう感じられないひともいる。やはり、感覚的なものに響く。主との個人的な交わり、主に問い、主から学ぶ、そういうのは、簡単だが、やはり、イエスからではないと、学べないように感じる。どうだろうか。 Psalm 122:8,9 私の兄弟、友たちのために、さあ、私は言おう/「あなたの内に平和があるように。」我らの神、主の家のために私は願おう/「あなたに幸いがあるように。」 兄弟、友たちと、神、主の家について語られている。絶対他者と、他者である。平和と幸を願う。そのようなものでありたい。そして、神と、人間としての他者の関係にも、目を向けながら。 Psalm 123:3,4 私たちを憐れんでください。/主よ、私たちを憐れんでください。/蔑みは飽きるほど受けました。私たちの魂は飽きるほど受けました/高ぶる者らの嘲りを/傲慢な者らの蔑みを。 わたしは、辛い経験は、あるが、ここまでの蔑みを経験したことは、ないように思う。ということは、この詩篇記者を理解することはできないということだろうか。あわれんでください、と祈る経験がないということだろうか。神は、単に、憐れみを乞うかたではないと考えているからか。イエス様の苦しみ、痛みを、見過ぎているからかもしれない。 Psalm 124:1 都に上る歌。ダビデの詩。/「もしも、主が我らの味方でなかったなら」/さあ、イスラエルは言うがよい。 味方か、敵か、このような感覚は、わたしには無い。普遍主義に毒されているからか。わたしの理解している、イエスの教えは、限られているだろう。しかし、わたしには、いま、理解している、イエスを通して知っていると思う、主のみこころを大切にする以外にないとも思う。ただ、これも、敵か味方かではなく、もし、主の思いが、わたしの理解と正反対だったらと問うことはできるかもしれない。その可能性は十分にある。わからないのだから。 Psalm 125:5 しかし、曲がった道にそれる者らは/悪事を働く者らと共に/主が去らせてくださるように。/イスラエルの上に平和があるように。 排除による平和である。わたしには、やはり、受け入れられない。それは、いろいろと解釈もできるだろう。しかし、これは、主のみこころに沿わないと告白することもたいせつなことのように思う。同時に、詩篇記者を排除してはいけない。詩篇記者も、御心を求め続け、「主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に/幸いをもたらしてください。」(4)と賛美する中で、上の、ことばを書き記しているのだから。ともに、御心を求め続けるものでありたい。 Psalm 126:1 都に上る歌。/主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。 この喜びを否定してはいけない。どれほどのものか、わたしには、わからないのだから。ひとの悲しみ、苦しみと、喜びは、他者には、なかなか理解できない。しかし、ともに、喜び、ともに、泣くものでありたい。感謝を持って。 Psalm 127:1,2 都に上る歌。ソロモンの詩。/もし、主が家を建てるのでなければ/それを建てる人々は空しく労苦することになる。/もし、主が町を守るのでなければ/守る人は空しく見張ることになる。/空しいことだ/朝早く起き、夜遅く休み/苦労してパンを食べる人々よ。/主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。 有名な詩篇であるが、1節の2節の関係を考えたかったので選んでみた。1節は主が背後におられる、主のもとでの仕事ではないは、主がともにいてくださらなければ、それは、虚しいことを言っている。しかし、一般的には、主のみこころかどうかは、わからない。2節は、主に信頼することの大切さだろうか。しかし、神様は、わたしたちにさまざまなヒントを与え、自分で考えてすることも望まれるように思う。ともに、生きるために。神様と協働するために。やはり、求め続けるところに、鍵があるように思う。ここに書かれていることはたしかでも、主がそこにおられるか、みこころなのか、主が、どのようにすることを望み、ともに働こうとしておられるのかわからないのだから。 Psalm 128:1,2 都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。あなたの手が苦労して得た実は/必ずあなたが食べる。/あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。 自分の労苦の実が報われず、他者のものになることが、災いだとされているのだろう。しかし、それでも良いのではないだろうか。もし、主が喜ばれるなら、よしとされるなら。もともと、ともにいきることをめざせば、だれが労苦の実を得るかは、あまり問題ではない。それよりも、共にといえない、分断した社会に問題があるのではないだろうか。 Psalm 129:3,4 悪しき者らは私の背に鋤を当て/長い畝を作った。」主は正しい。/悪しき者らの縄を断ち切ってくださった。 キリスト教会の中でも、詩篇やカトリックの祈祷文や、プロテスタントの式文に多く現れる。しかし、おそらく、かなり、排除しているのだろう。聖書は、好きなところだけ、読めば良いのだろうか。それとも、新約だけで良いのだろうか。基本的には、キリスト教会は、それにたいして、NO という。それであれば、その向き合い方を、適切にすべきだと思う。そのことの教育も。それがなおざりにされていることが、分断を助長しているのではないだろうか。 Psalm 130:7,8 イスラエルよ、主を待ち望め。/主のもとに慈しみがあり/そのもとに豊かな贖いがある。この方こそ、イスラエルを/すべての過ちから贖ってくださる。 「しかし、赦しはあなたのもとにあります。/あなたが畏れられるために。」(4)と説いた美しい詩篇である。しかし、最後は、イスラエルである。シオニズムに結びつき、世界の分断を誘ったことにも結びついている。許しは、だれにたいしてもあることへ、昇華するのは、難しいのだろうか。この次のレベルに進まなければいけない。それには、普遍的な考え方が必須である。 Psalm 131:2 私は魂をなだめ、静めました/母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。/私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。 何を表現しているのだろう。この前には、「都に上る歌。ダビデの詩。/主よ、私の心は驕っていません。/私の目は高ぶっていません。/私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。」(1)とある。「奇しき業に関わることはしません。」が関係しているのだろう。無知を可とするということだろうか。神の領域に手を出さないということは、理解できるようで、そう簡単ではない。それが、なにか、正確にはわからないのだから。 Psalm 132:17,18 ここに、ダビデのために一つの角を生やす。/私が油を注いだ者のために一つの灯を据える。彼の敵には恥をまとわせる。/しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」 ダビデが、神殿を建てることを望んだことが背景にあるようだ。それをうけて「都に上る歌。/主よ、ダビデを思い起こしてください/彼が受けた苦しみのすべてを。」(1)となっている。しかし、なにか、わたしには、同意できないものがある。詩篇記者がたいせつにしたものが、受け取れないということなのだろうが。排除や、分裂はしないようにしたい。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催していますが、3月はお休みさせていただきます。4月から再開したいと考えています。 2024.3.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  63. BRC 2023 no.063:詩篇133篇ー詩篇146篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) 詩篇はいかがですか。今週は、詩篇133篇から読みます。詩篇もあと少しですね。詩篇のあとは、箴言を読みます。箴言は、ソロモン由来とされる知恵と教えが集められていますが、詩篇は、以前から書いている様にダビデ由来とされる、詩と、賛美と、祈りが中心になっています。この二人の統一王朝の王は、イスラエルの人たちにとって、とても大切であったことがわかります。詩篇を読んでいると、なかなか詩篇記者・作者がその詩を編んだそして編纂した背景まではわかりませんが、バビロン捕囚のあとのものもある様です。つまり、さまざまな苦しみや悲しみ痛み、さらに喜びが背景にあるのでしょう。単に、言葉面だけをみていると、受け取れないメッセージがたくさんある様にも思います。以前から、わたしも、ひとが一番理解できないのは他者の苦しみや痛みと書いていますから、その言葉面だけで、批判的に読んではいけないのでしょうね。どうしても、字面だけで、理解不能としてしまったり、住む世界が違うと言ってしまったりしますが、みなさんと一緒に、その背景にも思いを寄せながら、読んでいくことができればと願っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇133篇ー詩篇146篇はみなさんが、明日3月11日(月曜日)から3月17日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 133:1 都に上る歌。ダビデの詩。/兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。 兄弟に限定していることが気になるが、兄弟が他人・他者のはじまりであることも確かなのだろう。そしてこの兄弟を、きょうだいとして男性・女性に関係なくとらえたり、「人類はみなきょうだい」としてとらえたり「被造物」みなについてかんがえたりと広がっていくのかもしれない。そして、きょうだいは、おやたちの子でもある。それは、自分と親の関係ではなく、親の視点でみると、自分も、きょうだいもおなじであること、それが神様が愛しておられる人々につながるのかもしれないとも思った。たしかに最後にあるように「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。」(3b)なのかもしれない。旧約聖書をみていると、部族ごとの対立もいろいろと書かれているのだから。 Psalm 134:3 主がシオンからあなたを祝福してくださるように/天と地を造られた方が。 主に結びつけることが、宗教の分断をあおるようにも感じる。しかし、同時に、絶対他者に結びつけることは、自分の中、人間世界を相対化することにもなるのだろう。さらには、神様のみこころを求める態度さえ失わなければ、傲慢にはならない。宗教が分断を作り出すのは、神様のみこころを、自分たちは知っていると、結局、自分たちに目を向けてしまっているからなのかもしれない。宗教と平和・分断回避の問題は、これからも考えていきたい。 Psalm 135:10-12 主は多くの国を打ち、強大な王たちを殺した/アモリ人の王シホン、バシャンの王オグ/カナンの王国をことごとく。/彼らの領地を相続地として与えた/ご自分の民イスラエルに相続地として。 主が、自分に恵み深いことを感謝することは、宗教心の始まりなのかもしれないが、やはり、主が造られた他者に向かわないと、自己中心になってしまう。自己中心のおそろしさとも言える。自分の歴史を、HIS-STORY と神の歴史に置き換えてしまうところに、問題が生じるのかもしれない。自分の味方を相対化することは、やはりとても難しいが。 Psalm 136:5-7 英知をもって天を造った方に。慈しみはとこしえに。水の上に大地を広げた方に。慈しみはとこしえに。大きな光を造った方に。慈しみはとこしえに。 この方が他者にとって、どのような方なのか、やはりここでも「天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)まで、理解が向かわないと、自己中心になってしまうということか。それは、宗教人、おそらく、だれでも考えることだろう。しかし、具体的な問題の中では、そこに、こころが向かわない。その難しさなのかもしれない。 Psalm 137:5,6 エルサレムよ/もしも、私があなたを忘れたなら/私の右手は萎えてしまえ。私の舌は上顎に張り付いてしまえ。/もしも、あなたを思い出さないなら。/もしも、エルサレムを私の最上の喜びとしないなら。 エルサレムは、ユダヤ人にとって、神を最も近く感じられる場所なのだろう。その意味で特別である。「イエスは言われた。『女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。』」(ヨハネ4:21)これは、エルサレム以外で礼拝している、サマリヤの女との会話から生まれている。そのような他者との出会いが、新しい、真実に導いているとも言える。相対化だろうか。難しい。 Psalm 138:2-4 聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝を献げる。/あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされた。/私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。/主よ、地上の王は皆、あなたに感謝を献げる/あなたの口から出る仰せを彼らは聞いた。 感謝、賛美、そして、それが広がっていく。おそらく、その次に、相対化されることが必要なのだろう。それが、ポストモダンの考え方なのだろうか。相対化なのだろうか。しかし、単純な相対化ではないようにも思われる。中心が動いているのではないのだから。どう考えたら良いのだろうか。自分と神との関係をたいせつにしつつ、神と他者、自分と他者の関係を大切にするためには。 Psalm 139:19-21 どうか神よ、悪しき者を殺してください。/血を流す者ども、私から離れよ。/彼らはたくらみを抱いてあなたのことを語り/あなたの敵として空しい反抗をする。/主よ、あなたを憎む者を私も憎み/あなたに立ち向かう者を私も忌み嫌います。 なんとも激しい。「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。」(1)から始まるが、わたしたちが、主を知っているわけではないというこの不均衡が難しい。それが、他者を理解できない、背景にもある。求め続ける謙虚さ以外には、わたしには、ことばがない。 Psalm 140:9,10 主よ、悪しき者の欲望を許さず/そのたくらみを遂げさせず/彼らを高ぶらせないでください。〔セラ/私を取り囲む者の頭には/彼らの唇の害悪が覆いかぶさるがよい。 わたしは、このようには、祈れない。祈りたくない。祈るようなものでありたくない。だからといって、このようなことを望むこころが、わたしにないというわけではない。このように、吐き出すことによって、ひとりの弱い人の魂が守られるのだろうか。聖書をどう理解するかに、鍵があるのかもしれない。そこまで、丁寧に読むことが、わたしの使命のようにも思う。考えさせられる。 Psalm 141:9,10 私を守ってください/彼らが仕掛けた網の罠から/悪事を働く者の罠から。悪しき者がこぞって自らの網に落ちますように。/私はその間に逃れ去ります。 やはり詩篇は、いや、聖書は恐ろしい。探究を続けてきて、いま、わたしは、ここにいる。福音書を学ぶとき、特に、いま、マルコを学ぶときとかなりことなる。しかし、これからも、詩篇もたいせつに読んでいきたい、この詩篇記者とともに生きるために。 Psalm 142:7,8 私の叫びに心を向けてください。/私は弱り果てました。/追い迫る者から私を助けてください。/彼らは私よりも強いのです。私の魂を牢獄から引き出してください。/あなたの名に感謝するために。/あなたが私に報いてくださるので/正しき人々が私の周りに集まります。 わたしも昔、このように祈っただろうか。問題に引き込まれたとき、問題を起こしたことを気づいたとき、このような思いだったろうか。そうだったのかもしれない。いまは、正直覚えていない。しかし、今のわたしは、このようには祈れない。語れない。そうであっても、詩篇記者を無視したり、断交したりするきにもなれない。難しい状況である。 Psalm 143:11,12 主よ、あなたの名のゆえに、私を生かし/あなたの義によって/私の魂を苦しみから引き出してください。あなたの慈しみによって、敵を消し去ってください。/私の魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。/私はあなたの僕です。 救いと、敵を滅ぼすことは、表裏一体ということなのだろう。神の御心がなることを妨げる存在を悪魔と呼ぶなら、それを滅ぼすことが救いだとも言える。しかし、イエスの言動を見ていると、「神の国は近い」というメッセージにおいて、それが目的だとは思えない。神のみこころから離れるよう誘うものぐらいだろうか。それがなければ良いと考えるのは、自然であるが、単純化バイアスに陥っている様にも見える。少しずつ学んでいきたい。 Psalm 144:3,4 主よ、人とは何者なのか/あなたがこれを知るとは。/人の子とは何者なのか/あなたがこれを思いやるとは。人間は息に似ている。/その日々はさながら過ぎゆく影。 主の被造物だからか。正直、わからない。神は人間の創造物なのかもしれない。しかし、人間にとって、とてつもなくたいせつな存在であることは、確かだと思う。この詩篇のように、告白できるだけでも、ゆたかな命の営みになるだろう。善と悪ではなく、絶対他者視点を求め続ける生き方をしたい。 Psalm 145:14-16 主は、倒れそうな人を皆支え/うずくまる人を皆立ち上がらせる。/すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと/あなたは時に応じて食べ物をくださる。/あなたは手を開き/命あるものすべての望みを満ち足らせる。 最初の部分は、そうかなと思うが、のこりの二つは同意できない。最初のものも、単純ではないように思う。そう考えるのは、おそらく、わたしが科学的理解の世界をある程度経験しているからの様に思う。つまり、神様のこの世に関する関わりに関して、当時の人が、王の王のようなものだと考えていたのとは異なるということだろ。それは、仕方がないことなのかもしれない。しかし、異なる人が、どのように、考えているかも受け入れられるものでありたい。 Psalm 146:5,6 幸いな者、ヤコブの神を助けとし/望みをその神、主に置く人。天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り/とこしえにまことを守る方。 このあとに、主について書かれている。おそらく、それが大切だろうが、その前にある部分を選んだ。天地を造り、守かたが主であるという告白である。そうなのかもしれない。しかし、よくはわからない。主は、やはりひとりひとりの心の中におられるのかもしれない。すべてのこの世のものにとって、大切な存在であることも、確かだろうが。難しい。普遍的なことばでは語れない。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催していますが、3月はお休みさせていただきます。4月から再開したいと考えています。 2024.3.10 鈴木寛@Chicago O'Hare Airport ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  64. BRC 2023 no.064:詩篇147篇ー箴言10章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) 150篇ある詩篇もいよいよ最後の部分ですね。最後は、賛美が続きます。どのような時に、どのようなことを賛美はするのでしょうか。みなさんは、どうですか。いつでも賛美、どんなことでも賛美と答えられる方もおられるかもしれませんね。わたしは、なかなかそのように答えられませんが。感謝と賛美はどう違うのでしょうか。日本国語大辞典には、賛美・讃美について、「ほめたたえること。ほめそやすこと。賞賛、賛賞、賞揚、褒揚」とありました。結局よくわかりませんが、神様のすばらしさをほめたたえることなのでしょう。しかし、それには、神様の素晴らしさをしらないといけない様に思います。神様が喜ばれない様なことでも良いのでしょうか。そう考えていくと、なかなか難しくなってしまいますが、おそらく、神様は、なかなか神様を理解できない、私たちをも受け入れてくださるのでしょう。 さて、今週は、いよいよ、詩篇の次の箴言に入ります。わたしが下にリンクがある、箴言についての最初は「箴言は、ヨブ記、伝道の書(コヘレトの言葉)とともに、知恵文学と呼ばれています。一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。」とあります。また、箴言の最初は「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。」と始まります。おそらく、ソロモンの箴言もあるのだと思いますが、すべてがソロモンのものとは、書かれていません。実際、最後の方には他の名前が出てくる場合もあります。ソロモン由来としておくのが良いでしょう。知恵といえば、ソロモンと考えられていた人々のなかで編纂されていったのでしょう。章ごとにテーマがまとまっている場合もある様に見えますが、基本的には、一節、または二節ずつペアなど、短い格言になっている様です。みなさんは、どのような言葉が心に残りますか。気になった言葉を、じっくり考えてみるのも良いですよ。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇147篇ー箴言10章はみなさんが、明日3月18日(月曜日)から3月24日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇と箴言については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ps 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#pb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 147:6 主は苦しむ人々を支え/悪しき者らを地に倒す。 毎回毎回、このような言葉がある。少なければ、その背景を考えることもあるだろうが、詩篇には、おそらく旧約の時代には、まったく当たり前のことだったのだろう。それは、少しずつ変化しているのが人間社会のように思う。変化せずに残っており、聖書を引用して、それを助長するようなこともあるが。正直、キリスト教や、宗教を擁護する気にはなれない。それらの弱さを、しっかりと受け入れるべきだろう。特に、指導者は。 Psalm 148:14 主はその民の角を高く上げた。/賛美は主に忠実なすべての人のなすこと/主のそばにいる民、イスラエルの子らのなすこと。/ハレルヤ。 賛美は、主について知らないとできないと思ってしまうがどうだろうか。主のご性質を理解して、それを賛美する。問題は、わたしたちが、それを十分、理解できていないのではないかということである。むろん、それでも、賛美は自然にでてくることもある。神様は、それをよしとしつつ、求め続けることを願われるのだろうか。難しいが、謙虚でいたい。 Psalm 149:4 主はご自分の民を喜びとし/苦しむ人を救いによって輝かせる。 このように告白することがわたしはできない。問題ばかり感じてしまうから。そして、さらに、苦しむ人がいるのは、人間が、わたしたちが、その理由だとも思うからである。それが、少しずつ、見える様になってきた。むろん、すべて人間が原因だとは言えない面もある。たとえそうであっても、このようには、告白できない。それほど、厳格にならなくてもよいのだろうが。キリスト者以外への弁明を考えると、そうせざるを得ない様に感じる。 Psalm 150:6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。/ハレルヤ。 詩篇の最後のことばである。最後のいくつかの詩篇は、すべて、賛美である。わたしに欠けているものなのかもしれない。主を賛美せよ。ハレルヤ。賛美はきらいではないが、相対化しているのは、確信がないからだろうか。考えさせられる。 Proverbs 1:1 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。 詩篇は、ダビデ由来、箴言は、ソロモン由来ということなのだろう。どの程度、直接的にソロモン由来かは不明だが、編集者としては、個人的な主との交わりとしての信仰と賛美をたいせつにした、ダビデと、知恵をもって、イスラエルを治めた、ソロモンに、紐づけることの意味は大きかったのだろう。批判的に読むと、この箴言にも、裁きが色濃く現れているように感じる。「これが不正な利益を求める者の末路/それを得た者の命は奪い去られる。」(19)「その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。/探し求めても、私を見いだすことはできない。」(28)裁かれないため、主に答えてもらうため、因果応報が、底流にあるのは、仕方がないのかもしれない。恵みを絶対化することも、問題なのだから。 Proverbs 2:9 その時、あなたは見極められるようになる/正義と公正と公平が/幸いに至る唯一の道のりであることを。 正義と公正と公平。これらを正確に定義することはおそらくとても難しいだろう。"Then you will understand what is right and just and fair—every good path." (NIV) "צֶדֶק וּמִשְׁפָּט וּמֵישָׁרִים" 言葉の意味は、צֶדֶק が justice, rightness, righteousness, מִשְׁפָּט が judgment, justice, ordinance、מֵישָׁר が evenness, uprightness, straightness, equity. わたしには、これらも、相対的なものに見えてしまう。そして、人の合意と、努力によって、そのときそのときに、気づかれていくものだろうか。最終的な基準があるわけではないように見える。 Proverbs 3:2 あなたには長寿と命の歳月が与えられ/平和が増し加わる。 「長寿と平和」が望んでいたものなのだろう。他にも「知恵の右の手には長寿/左の手には富と誉れがある。」(16)ともある。知恵の勧めが書かれているが、その祝福として書かれているものにも興味をもった。因果を期待しているではないのだろうが、他にも興味を持った節があったので、書いておく。「あなたの手に善を行う力があるなら/なすべき相手にそれを拒むな。」(27)いろいろと応用もありそうだ。 Proverbs 4:1-3 子らよ、父の諭しを聞け。/分別をわきまえるために思いを向けよ。あなたがたに良い教訓を授ける。/私の教えを捨ててはならない。私も父の子であり/母にとっては、いとしい独り子であった。 父と母から受け継いだものを祝福として、子らに伝えていく。それは、幸せなことだと思う。しかし、どうも、現代は、変化の速度が大きすぎて、必ずしも、このようにはいかない。時代遅れになってしまうことがあまりにも多い。それだけではなく、普遍的ということが難しくなっている様にも思う。本当にそうかどうかも、確信はないが、個人的に、とても難しいことに感じている。 Proverbs 5:10 よその者があなたの富と/あなたが労苦して得たものによって/異国人の家を満たさないために。 この箴言では「よその女の唇は蜜を滴らせ/その口は油よりも滑らか。」(3)とあり、後半には「あなたの水溜めから水を飲め/あなたの井戸に湧く水を。」(15)と自分の妻、自分のもとにあるものをたいせつにせよ、他人のものを欲しがってはならないという教訓も伝えている様である。そのあたりは、十戒に近い。引用句は、すこし引っかかった。結局、他人のものを欲しがる人から自らを守ることによって、ものが大切だとする生き方を是としているのではないかということである。もう少し、表現も含めて、考えたい。 Proverbs 6:1-3 子よ、もし友の保証人となって/よその者に手を打って誓い/あなたが自分の口から出た言葉によって罠にかかり/自分の口から出た言葉によって捕らえられたなら/子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。/あなたは友の手中に落ちたのだから/気弱にならず、友にうるさく求めよ。 興味深い状況である。わたしは、すぐ諦めてしまうが、そのように簡単にできない場合もあるだろう。そのときには、どうしたら良いのだろうか。ここでは「気弱にならず、友にうるさく求めよ。」としている。どうも、わたしは、その気にはなれない。 Proverbs 7:1,2 子よ、私の言葉を守り/私の戒めをあなたの心に納めよ。私の戒めを守って生きよ。/私の教えを目の瞳のように守れ。 このあとには「知恵に「わが姉妹」と言い/分別に「わが親族」と呼びかけよ。それはあなたをよその女から/滑らかに話す異国の女から守る。」(4,5)と続き「女」に関するものが続く。わたしには、引用句のようには、子供たちに教えられなかった。言えなかった。一つには、価値相対化の中で生きてきて、自分の価値も、何度も揺さぶられたこと、さらに、時代の変化の中にあり、普遍的な真理というものが、わからなくなっていたこと、そして、自分は、適切には生きられなかったという後悔からか。それは、人である以上、当然のことなのかもしれないと思うと、そうであってもやはり、もっと大人になっていた子供達に、積極的に伝えるべきだったかとも思う。そのずれを甘んじて受けることが、自分の分だと思っているが、それではいけなかったのかもしれない。これからでも、機会があれば、話していきたい。伝えることは難しくなってはいるのだろうが、わたしのようなものにも、聞いてくれることもあるのかもしれないと思う。子供達も成長しているので。 Proverbs 8:12,13 私は知恵。熟慮と共にあり/知識と慎みを備えている。/主を畏れることは悪を憎むこと。/高ぶり、高慢、悪の道/そして偽りを語る口を、私は憎む。 わたしの若い時を考えると、このような熟慮は備えておらず、知識と慎みもなかった。このように言えないことは明らか。いまになって、少し、このことを思う。子どもたちはしかしながら、まだ、わたしが若い頃のこども、わたしには、伝えられなかった。そのようには、振る舞えなかった。難しい。これからでも、できるのだろうか。どのように語るかも難しい。 Proverbs 9:7-9 嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。/嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。/知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。/知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。/正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。 悲しいけれど、見つめなければいけない現実であるように思う。分断の根がここにもある。このようにして分断が広がっていく。背後にあるのは、無理解だろう。しかし、知的理解に偏ることが引き起こしているのかもしれない。箴言の性格上仕方がないのかもしれないが、平和を求め、共に生きることを目指すのであれば、乗り越えなければいけない、障害である。 Proverbs 10:1 ソロモンの箴言。/知恵ある子は父を喜ばせ/愚かな子は母の悲しみとなる。 家族の絆がつよいとこのことはいっそう増幅されるだろう。わがやはどうなのだろうか。自分自身が苦しみ、迷っている。この箴言のように、簡単には、表現できない。ただ、子は、それぞれの人生を歩むとするのは、やはり無責任なのかもしれない。喜びも、悲しみもともにするのが、家族である様にも思う。箴言のことばにも、丁寧に向き合っていきたい。知恵は、人間にとって、歴史を超えて、かなり共通なものであるのかもしれない。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催していますが、3月はお休みさせていただきます。4月から再開したいと考えています。 2024.3.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  65. BRC 2023 no.065:箴言11章ー箴言24章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) 箴言を読み始めました。今週も、箴言を読み進めます。箴言はどうですか。詩篇は、個人的な体験・経験が背景にあるものが多く、それがよく見えなかったり、時代や環境の違いから、想像しづらかったりがあると思いますが、箴言は、より一般的なことばが集められていますから、読みやすいかもしれません。むろん、どのことばも、現代にも響くとは限りませんが。同時に、知恵は、昔も今もあまり変わらないのかもしれないと、感じさせられる部分もあります。ということは、人間は、結局あまり学んでいない。または、ある時に学んでも、それが遺伝子の様に継承されるものではないのかもしれません。 あまり早く読まず、一つ一つの言葉、気になったことばだけでも、味わってみると良いかと思います。感想があれば、ぜひ共有してください。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 箴言11章ー箴言24章はみなさんが、明日3月25日(月曜日)から3月31日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 詩篇と箴言については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#pb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Proverbs 11:13 中傷して歩く者は秘密を漏らす/真実な思いを持つ人は事を覆い隠す。 興味深い。中傷自体は、秘密ではないのだろう。ただ、中傷して歩くことは、人への配慮が欠けていることを表していると言うことか。ことを覆い隠すは、悪い意味にも取られるが、ここでは、中傷の反対で、他者の悪いことを言いふらさないことなのだろう。不満があると、それを、ひとにぶつけることが私にもある。真実な思いを持ちたいものである。 Proverbs 12:9,10 軽んじられても自ら働く者は/重んじられていながらパンを欠くことにまさる。正しき者は動物の思いが分かる。/だが悪しき者の憐れみは、残忍の域を出ない。 ひとつひとつ考えさせられる。重んじられていながらパンを欠くは、対比であるなら、自ら働いてはいないことをも内包しているのかもしれない。重んじられることを好むことは、人からの評価を優先していることの象徴なのかもしれない。わたしは、動物の思いがわかるとは思えないので、十分理解できないが、さまざまなひとと置き換えれば、理解できる様に思う。悪き者の憐れみは、そこに真実がないと言うことだろうか。一つ一つ考えさせられる。 Proverbs 13:12 望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。 このような自然なことばも、大切だと最近思う様になった。若い頃はがむしゃらに、望みが叶えられることが目的ではないと生きてきた様に思うが。ここにも、真実があると思う。このようにして、平安が、そして、生きるエネルギーが与えられるのだから。喜びを大切にし、喜んでいる人とともに、喜ぶ者でありたい。 Proverbs 14:31 弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。/造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。 箴言のことばを紡いだ人たちは、どのような人たちなのだろう。造り主のことを知ろうとしていたことは確かだろう。それが、たとえ、わたしの認識とは異なっていても。そして、行き着くところは、とても近いように思う。弱い人、貧しい人も造り主は愛しておられることを知っているのだろう。神様の特別な目的のために造られたとは、解釈したくないが。 Proverbs 15:13 一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし/一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。 真実であると共に、そうでもないとも感じてしまう。他者の心と共にいることが難しくなっていると言うことだろうか。共に喜び、共に泣く、そして、互いに仕え合い、互いに愛し合う。その前提が、さまざまにあると言うことなのかもしれない。ただ、お題目の様に唱えていてはいけないのかも。考えたい。 Proverbs 16:32 怒りを遅くする人は勇士にまさり/自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。 箴言は一節選ぶのがあまり簡単ではない。この句を選んだのは、最近、思い当たることがあったから。わたしは、あまり怒る方ではないと思っているが、やはり、理不尽なことに対して、なかなか心が収まらず、他者にあたるような、責任を問う様なことがある。自分の心を治めるものでありたい。たしかにそれには、勇気も必要なのだろう。考えさせられる。学んでいきたい。 Proverbs 17:7 愚か者に優れた唇はふさわしくない。/高貴な人に偽りの唇などなおのこと。 たしかにこのようなことは真実であると思う。それが、人間社会の難しいこと。公平は本当に難しい。共に、公正をたもって生きることはなおさら。愚か者が聞き分けることができたら、おそらく、すでに愚か者ではないのだろう。難しい。 Proverbs 18:14 人の霊は大病にも耐えられるが/霊が沈めば誰が支えることができようか。 この霊は、スピリットだろうか。どのような者だろうか。たしかに、意気消沈してしまっていては、それをどうにかしなければなにもできない。それは、人為的にコントロールできる者なのだろうか。それなら、かえって、軽いものに映ってしまう。難しい。 Proverbs 19:1 貧しくても誠実に歩むことは/曲がったことを語る愚かな者にまさる。 わたしは、このように歩んできたと思う。べつに、貧しいことが、大変だとは思っていないが。現在望むのは、「見識ある人は怒りを遅くし/背きの罪を赦すことがその人の誉れ。」(11)このような生き方だろう。怒りは、すくなくとも、人間の怒りは、なにも良いことがない。何かの原動力になると言う人もいるかもしれないが、原動力を怒りに求めること自体に問題があるように思う。 Proverbs 20:24,25 人の歩みを確かなものとするのは主である。/人間は自らの道について一体何を見極められるのか。/人間の罠となるのは/これを聖別しようと軽々しく言い/後にその誓願を思い直すこと。 とても深いことと、ドキッとする様なことが書かれている。前半は、納得するだろう。しかし、次は現実の世界が活写されているように見える。神に誓ってとか、これこそが御心だからとか、安易に言って、新しいことを始めることはよくある。なんとも愚かなことだ。みこころを得たとせず、求め続けるものでありたい。 Proverbs 21:13 弱い人の叫びに耳を閉ざす者は/自分が呼び求めても答えを得ることができない。 強いものは、自分でできると考えるのだろう。そして、たしかに、それで問題ない場合が多い。それが、弱い人の叫びに耳を閉ざすことになる。たしかに、自分が呼び求めるときはこないかもしれない。すると、やはり価値観の修正が必要になる。それは、どうしたらできるのだろうか。難しい。 Proverbs 22:29 技に秀でた人を観察せよ。/その人は王の前に仕えるが/闇の者の前に仕えることはない。 箴言の構成をよく知らないが、この章は、少し他の章とは違った内容になっている様に感じる。ここでは、技術者というより、おそらく職人について語っているのだろう。そのひとは、必ずしも皆に理解されるわけではないが、宝を豊かに持っていることを知っているのだろう。その誇りが、闇の者の前に仕えさせない。しかし、あまりにも遇せられないと、そうはいかないかもしれない。そのような人は、秀でているとまでは言えないのだろうか。社会の構造との問題はやはり難しい。 Proverbs 23:17,18 心で罪人を妬むことなどせず/日夜、主を畏れよ。/そうすれば、未来もあり/希望が絶たれることもない。 信心深いユダヤ人は、このように生きているのだろう。素晴らしいことだと思う。しかし、この考えは、分断も生じさせる様に思う。このように、生きられない人が多いからだ。そして、違った価値観と交わることをも拒否しているように見える。主が求めることを、知っていると思ってしまうからだろうか。弱さをもったひととどのようにともに生きるかは、ほんとうに難しい。 Proverbs 24:28,29 理由もなく友に対する証人となるな。/唇で惑わしてはならない。/「人が私にしたように、私もその人にしてやろう。/それぞれの行いに応じて報いてやろう」/と言ってはならない。 あまり関係がないが、対になって書かれている。友があるという状態を維持したいからだろうか。証人は、そのような気持ちではできない。証言は、神の前で、人々に対してするのだから。そして、それは、十分理由を考えていないと、ひとびとを欺くことにもつながる。浅はかさである。後半は、浅はかさの極みであるが、わたしも、そこに陥ることがある。Prospective Theory について学んでみたいと思う。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催していますが、3月はお休みさせていただきます。4月から再開したいと考えています。 2024.3.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  66. BRC 2023 no.066:箴言25章ーコヘレトの言葉7章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) 箴言はいかがですか。印象に残る言葉、指針となるような言葉はありましたか。今週は、箴言の最後の部分を読んでから、コヘレトの言葉(訳によっては伝道の書、伝道者の書となっています)を読み始めます。以前書いたように、ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉(伝道の書、伝道者の書)は知恵文学と呼ばれています。次のように始まります。(聖書協会共同訳で書きます。) 1: ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉。 2: コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。 3: 太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。 1節からは、ソロモンを想起させますが、 12: 私コヘレトは、エルサレムでイスラエルの王であった。 ともあり、少なくとも終生王であったソロモンとは異なる視点で描かれているのではないかと多くの学者たちは考えているようです。いずれにしても、上で引用した部分、なかなか刺激的です。虚無的、厭世的というのでしょうか。ある書では、日本人キリスト者でコヘレトの言葉が好きな人が多いとありました。虚無的というよりも、ひょっとしたら、すべて虚しいかもしれないと考えるのは、とても自然なそして、深い問いなのではないかと思います。死んでしまったらどうなるのだろうというような問いとともに、自分の生きていることは特別な意味はないのではないか。というようなことでしょうか。ヨブ記もあるテーマを軸に、書かれているように思いますが、このコヘレトの言葉も、問いをもって書かれていると思います。すぐ答えを欲しがらず、コヘレトと一緒に、考えていただければと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 箴言25章ーコヘレトの言葉7章はみなさんが、明日4月1日(月曜日)から4月7日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 箴言とコヘレトの言葉については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#pb コヘレトの言葉:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ec 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Proverbs 25:2,3 事を隠すことは神の誉れ/事を極めることは王たる者の誉れ。/天は高く、地が深いように/王たる者の心は究め難い。 現代では、このようなことは、王と言わず、一人一人に関わってくることだと感じた。むろん、誰でもというわけにはいかないだろう。昔は、王のところに、富も、知識も、力も集中しており、その王だけが、事を極めることができたのだろう。現代では、事の定義にもよるが、多くのことが一人ひとりの責任のもとにできる可能性がある。それは、素晴らしいことでもあり、責任が重大なことでもある。また、特に、その中でも、富や力のあるものの、責任は重い。神の力が、少しずつ分配されているかの如く感じる。 Proverbs 26:4,5 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな/あなたがその人に似た者とならないために。/愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。/その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。 この章には、愚かなものについての言葉が並ぶ。聖書では、愚かなものとは、神をしらないとするものである。神にきくことよりも、他のことに価値を見出すものなのだろう。その受け答えに丁寧に対応していると、自分も、その価値に引き摺り込まれてしまうことは確かにある。それに注意することであって、頭の回転が悪い人のことを言っているのではないのだろう。 Proverbs 27:3,4 石は重く、砂も重しとなる。/無知な者の悩みはこれらのものよりもなお重い。/憤りは残忍、怒りは洪水。/妬みの前に誰が耐ええよう。 この章も考えさせられることが多い。ここは、愚かではなく、無知になっている。無知は、知識の広がりがないということだろう。そのことだけで、悩んでしまい、それを、過大評価してし、絶望の淵に陥る。それから抜け出すことは難しい。憤り、怒り、妬みの難しさは、わたしも感じている。そこから、自由になりたいが、なかなか簡単ではない。 Proverbs 28:22 悪に捕らわれた者は財産のためにあくせくするが/やって来るのが欠乏だとは知らない。 箴言は、考えさせられる言葉が多い。財産を増やすためにあくせくするという表現が秀逸だが、そのあとの欠乏もある真実を語っている様にみえる。あくせくすると、こころを失うのだろう。そして、何のために、あくせくしているかもわからなくなり、いくら富んでも、満足できず、残るのは、欠乏だけなのだろう。そのことは、理解できる。 Proverbs 29:18 幻がなければ民はちりぢりになる。/教えを守る者は幸いである。 湯浅八郎のICUへ寄せた言葉である。幻がなければ、民は滅びる。幻は、さまざまに解釈されうるだろう。あまり、強烈なプロパガンダ(思想・教義などの宣伝)は、害悪をももたらす。しかし、まったく方向が定まらなければ、まさに、民は滅びるだろう。現代は、合理的に目的を追求するモダンからの脱却を試みた、ポストモダン(正確には定義できない様に思う)のなかで、価値多様をうけいれつつ、それぞれがなにかを求めて、ざわついている状態なのだろう。まさに、ある意味で、幻がなくなっている状態なのかもしれない。どう生きたら良いのか、難しい時代でもあるのかもしれない。 Proverbs 30:21-23 大地は三つのことに震える/いや四つのことに耐えられない。/奴隷が王となること/愚か者であるのにパンに満ち足りていること/憎まれている女が結婚すること/仕え女であるのに女主人の座を継ぐこと。 どのような背景でこのように言っているのか不明だが、たしかに、王の素養を持っていないものが支配者となることは、恐ろしく、かつ悲しいことではある。愚か者、これは、神が無いという人だろうか。それがパンに満ち足りる。これは、神に従いながら、パンもなく飢え、死んでいくものが一方にいることを嘆いているのだろう。しかし次の女性の項は、かなり複雑である。作者が男性だからか。ちょっと公平には’みていない様に感じる。 Proverbs 31: 28-30 子らは立ち上がって彼女を祝し/夫も彼女をたたえて言う。「有能な働きをなす女は多いが/あなたはそのすべてにまさっている。」あでやかさは偽り、美しさは空しい。/主を畏れる彼女こそ、誇ることができる。 「レムエル王の言葉。/これは母が彼に与えた諭し。」(1)と始まり、これは、母親のことばだと思っていた。しかし、いま読んでみると、母親から学んだ、レムエルの言葉のように思う。つまり女性視点ではない。聖書には、女性視点が大幅に欠けているという人がいるが、それは、確かなのだろう。女性が登場すると、ここに、女性視点があると言いたくなるが、おそらく、それは誤りである。人間の尊厳という面では、キリスト教から、または、聖書に根拠があるとよく言われるが、本当にそうかどうかも、疑問に思うようになっている。人間が、長い期間を通して、学んできたことなのかもしれない。 Ecclesiastes 1:17,18 知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば、悩みも深まり/知識が増せば、痛みも増す。 真実を感じる。そして、最後のことばはとても響く。つまり、知識や知恵は、悩みや痛みには効果がないということだろう。悩みや痛みは、ここでは、自分のものを言っているのだろうが、他者の悩みや痛みもある。それを理解するには、知識や知恵は一定の力を発揮する様に思われる。しかし、そうであっても、自分の悩みや痛みがやわらがないように、他者の悩みや痛みにはほとんどなにも届かないのだろう。丁寧にコヘレトの言葉を読んでいきたい。 Ecclesiastes 2:18,19 私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦をいとう。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ。その者が知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう。太陽の下で私が知恵を尽くして労したすべての労苦をその者が支配する。これもまた空である。 この虚しさは、わたしも役職を経験して理解した。時代を超えてともに生きることは本当に難しい。自分のときだけに集中するのは、自己満足なのだろう。本当に、貢献できること、それは、それほど簡単ではない。そのときの人々と協力し、かつ次の時代の人とも協力しなければならない。それは、前の時代のひとの貢献をしっかりと評価することも含まれているのだろう。評価が難しい事柄について、これらはとても難しい。 Ecclesiastes 3:22 私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。/彼の後に起こることを/一体誰が彼に見せることができようか。 「すべての業に時がある。」これも、深い言葉である。時代を超えてなにかを達成したり、求めたりは、虚しいことなのかもしれない。普遍的なこと、それは、なにを意味するのだろうか。わたしは、数学を学び、聖書を学び、この普遍性を追求してきた様に思うが、それほど、単純ではない。世の中は。普遍性ということばは、魅力的であるが、適切に定義できないのかもしれない。数学を学んでそれが少し見えてきたと言えるかもしれない。本当に難しい。 Ecclesiastes 4:1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。/見よ、虐げられる者の涙を。/彼らには慰める者がいなかった。/また、彼らを虐げる者の手には力があった。/彼らには慰める者がいなかった。 考えさせらえる句が多い。虐げられる者にも、虐げる者にも、慰めるものがいないと続く。そしてこのあとには、「幸せなのは、まだ生まれていない人たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。」(3b)とある。感傷ではあっても、重く感じる。この次も印象的である。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」(4)妬みである。一般的には、そうなのかもしれない。ここから抜け出すことはできるのか。 Ecclesiastes 5:1,2 神の前に言葉を注ぎ出そうと/焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。/神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。/言葉を控えよ。仕事が増えれば夢を見/言葉が増せば愚かな者の声になる。 重いことばである。たしかに、軽薄になってしまうことが多い。そして、それは、仕事が増えると余計なのかもしれない。いまのときを丁寧に生きていきたい。神を畏れて。言葉数を減らし、神が愛される一人一人を愛する様になっていきたい。難しいかもしれないが。 Ecclesiastes 6:12 空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。 たしかに、何が幸せなのか、判断は難しい。わたしは幸せだろうか。幸せだと思っている。自己満足なのだろうか。少なくとも、貪欲にはならないで生きていきたいが、わたしが貪欲なものがあることも否定できない。難しい。それがわかることが大切なのだろうか。 Ecclesiastes 7:21,22 人が語る言葉にいちいち心を留めるな。/そうすれば、あなたの僕の呪いの言葉に/耳を貸すこともない。あなた自身が何度も他人を呪ったことを/心は知っているはずだ。 人の評価を気にしてしまうのだろう。全ての人が、自分を心に留めているわけではないのだから、一人でも、呪いの言葉を語れば、それに引き寄せられてしまう。しかし、それでも、それは、一人の呪いの言葉なのだろう。そして、最後が、秀逸である。たしかに、自分も、他人の責任にすることがある。それも、深い考えもなしに。 お知らせ:聖書の会を毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催していますが、3月はお休みさせていただきました。4月11日から再開の予定です。 2024.3.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  67. BRC 2023 no.067:コヘレトの言葉8章ーイザヤ書1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) コヘレトの言葉(訳によっては伝道の書、伝道者の書となっています)はいかがですか。今週は、コヘレトの言葉の後半を読み、その次の、雅歌を読み、大預言書と呼ばれるものの最初のイザヤ書を読み始めます。 コヘレトのことばは「人生とは」という問いと向き合っているように思いますが、みなさんは、どのように読んでおられますか。わたしは、若い頃に読んだときと、退職して5年が経ち、70歳を超えた今読むのとでは、考えることもかなり違ってはいますが、わたしにとっては、毎回、考えさせられる書です。 その次の雅歌、ホームページから引用すると次のようにあります。 「雅歌」は。ヘブル語聖書では「シールハッシーリ」と呼ばれていますが、これも単数形+複数形の「歌」という単語が重ねられているので、最上級を意味し「歌の中の歌」「最高の歌」と言う意味です。英語では、Song of Songs と訳されています。これを書いていたときに丁度、平原綾香の Not a Love Song という歌が流れていましたが、ちょっと通じるものがありますね。Not a Love Song は「(たくさんあるラブソングのうちのひとつではない)特別なラブソング」というような意味でしょう。内容からするとこの雅歌は「ラブソングの中のラブソング」と言っても良いかも知れません。 演劇の台詞(せりふ)のような形式で書かれていますが、翻訳によって、だれが語っているかが書かれているものと書かれていないものがあります。もともとは書かれていないのでしょう。個人的には、それが書かれていないと、理解できないが、書かれていると、本当にそうだろうかと疑いも生じる、難しいところです。みなさんの想像力も活用して、読んでいただければと思います。なぜ、聖書にこのようなものが入っているのかと疑問に思うこともあるかもしれませんし、それとはべつに、印象的なことばに出会うこともあるかもしれません。何回か現れることばを一つだけ書いておきます。互いに愛し合うのはなかなか難しいものです。 私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。(2:7, 3:5, 8:4) イザヤ書に入りますが、少し長くなりましたので、次回に書かせていただきます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コヘレトの言葉8章ーイザヤ書1章はみなさんが、明日4月8日(月曜日)から4月14日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 コヘレトの言葉と雅歌とイザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コヘレトの言葉:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#ec 雅歌:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#so イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ecclesiastes 8:1,2 誰が知恵ある者でありえよう。/誰が言葉の解釈を知りえよう。/知恵はその人の顔を輝かせ/その顔の険しさを和らげる。/私は言う。/神との誓いのゆえに、王の言葉を守れ。 いろいろと考えさせられる。確かに、ほんとうの知恵は、その顔の険しさを和らげるものなのだろう。わたしには、それだけの知恵はない。次のことばも興味深い。神との誓いのゆえにとある。単に、媚びへつらい自分を守ろうとするのとは異なるのだろう。なかなか解釈も難しいが。 Ecclesiastes 9:3 太陽の下で行われるすべてのうちで最も悪しきことはこれ、すなわち一つの運命がすべての人に臨むこと。生きている間に、人の子らの心は悪に満ち、無知に支配される。そして、その後は死者のもとへ行く。 おそらく、努力が報われないことを言っているのだろう。そうかもしれない。しかし、やはり神と真剣に向き合うことによって、見えてくるものもある。自分の愚かさ、知っていることの乏しさ、なんとひとを傷つけることが多いかなど。運命は同じ様に臨むとしても、やはり違った生き方の様に思う。神様とともに生きることは、神様の苦しみをも向けとることではないかと思う。 Ecclesiastes 10:1 死んだ蠅は香料職人の油を臭くし、腐らせる。/少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。 ある程度理解できる。そして、ある程度、このことを言っているのかなと思う経験もある。なぜ、ひとは、そのようなところに陥ってしまうのだろう。やはり、なにか損をしたくないという心理が働くのだろうか。そうかもしれないと思う。それから自由に生活したいと願いつつも、なかなかできない。でもそれに抗って生きることも大切な様に思う。 Ecclesiastes 11:1 あなたのパンを水面に投げよ。/月日が過ぎれば、それを見いだすからである。 少しこの意味がわかってきたのかもしれないと思う、アメリカと中国の旅だ。よいことも、悪いことも、満足できなかったことも、いろいろとある。しかし、そのすべてが何かの形で帰ってくること、それを見出すことも確かである。思っていたこととは少し違うのかもしれない。しかし、それは、とても、感慨深いことではある。いろいろと考えさせられる。 Ecclesiastes 12:1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。/災いの日々がやって来て/「私には喜びがない」と言うよわいに/近づかないうちに。 何度も何度も、この言葉に接してきたが、いま、考えてみて、わたしも、このように言いたいと思う。本当に、それが答えなのか正直にいうと、私にはわからない。しかし、これだけが言えることの様に思う。箴言の最後は「聞き取ったすべての言葉の結論。/神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。/神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。」(13,14)わたしは、正直に言って、ここまでの因果関係を認めていない。神様には、もっと他にたいせつなことがあるように考えているからである。神様の苦しみは、よくわからないが、神様も、人間の苦しみがやはりわからないのかもしれない。 Song of Songs 1:5,6 エルサレムの娘たちよ/私は黒くて愛らしい。/ケダルの天幕のように/ソロモンの幕布のように。/私を見つめないでください。/日に焼けたので、私は黒いのです。/兄弟たちが腹を立て/私にぶどう畑を見張らせたのです。/けれども、自分のぶどう畑は見張りませんでした。 雅歌は、劇の台詞のようになっているが、どこからどこまで誰が話しているのか、状況設定などもよくわからない。劇を記録したテープおこしをした文書のように見える。引用句には、明らかに、ひとつの対話がある。黒いことについて語られている。黒いものも愛らしいのか、女性はそれをよくないことの様に思っている様である。そして黒い理由が書かれている。どんな時代にも、このような搾取があったのだろうか。雅歌とは一体何なのだろう。 Song of Songs 2:7 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。 このあとには「私の愛する人はガゼルや若い雄鹿のようです。/ほら、あの方は私たちの家の壁の外に立ち/窓からのぞき、格子の間から見ています。」(9)とある。しかし、どうも、愛が目覚めるところまではまだいっていない様である。その表現が、これらの句のようにも見える。思い出深い句だが、あまり対話になっていないところが興味深くもある。相手のこころは弄ぶことができないだけでなく、やはりわからないのかもしれない。しかし、なにかがそこにおこっていくのだろうか。 Song of Songs 3:4,5 彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。/この方を抱き締めました。もう離しません。/私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。/エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。 男性か女性かよくはわからない。前の章でのことば(たとえば2:7)は、男性が語り、ここでは、女性が行動している様に見える。しかし、男性側は、急速に近づくことを望んではいないように見える。少し贅沢にも感じるが。相手のこころを受け止めるのは簡単ではない。波長が合うには、複雑な条件があるのだから。少しずつ理解していきたい。 Song of Songs 4:4 あなたの首は/武器庫として建てられたダビデの塔のよう。/千の盾がそこに掛けられている。/それらは皆、勇士たちの小盾。 この章の表現はよくわからないことが多い。引用句は、首が長く、そこに、首飾りなどの飾りがたくさん付いている様子を描いているのだろうか。女性のことばも書かれている様に思えるが、やはり男性目線のように見える。最後は「北風よ、目覚めなさい。/南風よ、吹きなさい。/私の園を吹き抜けて/その香りを振りまいてください。/愛する人が自分の園に来て/見事な実を食べますように。」(16)となっている。香りも大切なものなのだろう。認識は難しいが。 Song of Songs 5:8,9 エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。/私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。女たちの中で誰よりも美しい人よ/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。/私たちにそれほどまでに誓わせるとは/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。 この章は特に、だれが何をいっているのかよくわからない。いろいろな解釈があって良いのかもしれないが、最初は、あることが意識されたのだろうから。この最初の話者は、男性だろう。女たちの中で誰よりも美しいひとを求めている。このあなたの愛するひとは、誰なのだろうか。この前には、「私は愛する人に扉を開きました。/けれども、愛する人は背を向けて/去ってしまった後でした。/あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。/私は捜し求めましたが/あの方は見つかりません。/私は呼び求めましたが/あの方は答えてはくれません。」(6)ともある。抽象的に捉えることもできるだろうが、おそらく、通常の恋物語なのだろう。難しい。 Song of Songs 6:2,3 私の愛する人は自分の園へ/香料の花壇に下りて行きました。/園で群れを飼い、百合を集めるために。私は愛する人のもの。/私の愛する人は私のもの。/あの方は百合の中で群れを飼っています。 聖書協会共同訳には、だれの台詞かが書かれている。しかし、おそらく、それは、翻訳者である、研究者がつけたものなのだろう。訳によるのかもしれない。引用句では、おとめたちの語りかけに対して、おとめが答えているとしている。信頼関係があることを、表現しているのだろうか。「私は愛する人のもの。/私の愛する人は私のもの。」このような所有のような関係性は、自然なことなのだろうか。わたしには、よくわからない。 Song of Songs 7:11,12 私は愛する人のもの。/あの方は私を求めています。私の愛する人よ/さあ、野原に出かけましょう。/ヘンナの中で夜を過ごしましょう。 おとめの言葉とされる。最後のヘンナは何なのかよくわからない。KJV では、節数も違っているが、おそらく、כָּפָר(kāp̄ār:village, hamlet)だろうが、城壁にまもられた村のことなのだろうか。日本聖書協会共同訳には、何の注もついていない。詩文体は難しいのだろう。 Song of Songs 8:11,12 ソロモンはバアル・ハモンにぶどう園を持ち/番人たちに任せていました。/彼らは収穫に従って銀一千を納めます。/私の前にあるのは私のぶどう園。/ソロモンよ、あなたには銀一千/収穫物の番人には銀二百。 雅歌はやはりよくわからない。この最後の部分は何を表しているのだろう。もしかすると、ある断片が残ったのかもしれない。解釈は難しい。いつ頃の時代のものなのだろう。 Isaiah 1:2,3 天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。/主が語られる。/私は子どもたちを育て上げ、大きくした。/しかし、彼らは私に背いた。/牛は飼い主を知っており/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/しかし、イスラエルは知らない。/私の民は理解していない。 冒頭の時代的な背景を除き、冒頭の文である。イザヤの召命記事(6章)までの部分の時代的背景が議論されるが、この部分は、あとから、総論のようなものとして書かれたのかもしれないと今回読んで思った。しかし、かなり深く検討しないとわからない。預言書の理解は難しいのだろう。 お知らせ:聖書の会は、3月はお休みさせていただきました。4月11日から以前と同じく、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで再開の予定です。すぐには、出席できなくても、情報が欲しい方、繋がりが欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。ご関心のあるかたは、登録をお願いいたします。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第45回:4月11日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書8章31節〜9章1節、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.4.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  68. BRC 2023 no.068:イザヤ書2章ーイザヤ書15章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) コヘレトの言葉、そして、雅歌はいかがでしたか。今日から、イザヤ書にはいります。 下にリンクがある、イザヤ書の箇所に、いろいろと書いてありますから、興味のある方はぜひ読んでみてください。最初の部分だけ引用します。 イザヤ書から旧約聖書の最後まで基本的には預言書が続きます。預言は、予言ではありませんから、未来告知ではなく、神様の言葉に預かる、それを伝えるものですが、その中には、予言的な要素も多く含んでいます。また、かなり現実に密着した問題について語られています。さてその預言書でも、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書は大預言書と呼ばれています。さらにその中でもイザヤの名前は聞いたことのある方が多いのではないかと思います。おそらくその大きな理由は、新約聖書でたくさん引用されているからでしょう。イザヤ書からの新約聖書での引用は50箇所ほどあります。 イザヤ書は次のように始まります。(聖書協会共同訳から引用します) 1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤがユダの王であった時代のことである。 イスラエルは、ダビデ、ソロモンの統一王朝の時代を経て、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂しています、ウジヤ王は BC740年ごろまで在位で、その北イスラエル王国がアッシリアによって完全に滅ぼされるのが、BC721年、ヒゼキヤの即位がBC715年(〜BC687年)とされています。ヒゼキヤの時代には、アッシリアの侵攻で、南ユダもほとんど壊滅状態になりますが奇跡的に存続し続けることになります。列王記下15章から20章、歴代誌下26章から32章が対応しています。ホームページには簡単な年表もありますから、参照してください。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書2章ーイザヤ書15章はみなさんが、明日4月15日(月曜日)から4月21日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 2:2,3 終わりの日に/主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。/国々はこぞって川の流れのように/そこに向かい/多くの民は来て言う。/「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。/主はその道を私たちに示してくださる。/私たちはその道を歩もう」と。/教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出るからだ。 この章の初めには「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。」(1)とあり、特別な感じを受ける。終わりの日に関する預言。現状に問題があると、理想的な終わりを考えるのだろう。その初めの部分が引用句である。これが決定的なことというよりも、ここから、イザヤは、主について、主のみこころについて祈り考え求め始めたということの様に感じた。終わりの日のことは、基本的にわからないからである。そして、おそらく、それは、主にもわからない。丁寧に読んでいきたい。 Isaiah 3:1-3 見よ、万軍の主なる神は、エルサレムとユダから/頼りとなり、支えとなるもの/頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。/勇士と戦士、裁判官と預言者、占い師と長老/五十人の長と身分の高い者/参議、熟練の魔術師と巧みな呪術師を取り去る。 このあとに「私は若者たちを長とし/気まぐれな者が民を支配する。」(4)とあり、若者をこのように扱うのは違和感があって、丁寧に読むことにしたが、中心的なメッセージは、「頼りとなり、支えとなるもの(中略)を取り去る。」という部分なのだろう。ひとつの見方をすると、これは、バビロン捕囚を意味しているとも取れる。このような状態にならざるを得ないことを言っているのだろう。それだけ、イザヤが見た現実(幻かもしれないが)は厳しいものだったのかもしれない。表面的なことばではなく、メッセージを受け取りたい。 Isaiah 4:2,3 その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。こうして、シオンに残った者とイスラエルに残された者は、聖なる者と呼ばれる。その者たちはすべてエルサレムにおいて命の書に書き記されているのである。 この章の最初のことば「その日には、七人の女たちが/一人の男を捕まえて言う。/『私たちは自分のパンを食べ/自分の服を着ますから/どうか、私たちがあなたの名で呼ばれるようにし/そしりを取り去ってください。』」(1)に違和感を感じて丁寧に読めなかったが、前の章の4節の「若者たち」とも呼応し、「主の若枝」が登場している様にも見えた。エルサレムとユダの「頼りとなり、支えとなるもの」を取り去ったあとに、主の若枝が光り輝くというメッセージなのだろうか。丁寧に読んでいきたい。 Isaiah 5:30 その日には、主は彼らに対して/海鳴りのようにうなり声を上げる。/主が地に目を注がれると/見よ、闇と苦悩ばかりだ。/光は雲に閉ざされ、闇となる。 この章はぶどう畑の歌から始まる(1,2)。主のめぐみにこたえない民をどうするか。その裁きに行かざるを得ないと考えるのは、とても自然なことなのだろう。ただ、そのあとにみる、主のみこころにこそ、イザヤの神観が現れてくる様に思う。わたしにそれが読み取れるかどうかわからないが。 Isaiah 6:11 私は言った。/「主よ、いつまでですか。」/主は言われた。/「町が荒れ果て、住む者がいなくなり/家には人が絶え/その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」 イザヤ書でおそらく最も知られている、召命記事、それに続く、頑なにするメッセージの直後にあるものである。この「いつまでですか」の中に、信仰と希望は隠されている様に見えるが、その答えは、まずは、厳しい。そしてこのあとに、「主は人を遠くに移し/見捨てられた所がその地に増える。その中の十分の一は残るが/これも荒れるに任せられる。/切り倒されても切り株が残る/テレビンの木や樫の木のように/聖なる子孫が切り株となって残る。」(12,13)個人的には、一つ一つ、預言が成就したかどうかという感覚では、預言書を読まない方がよいと考えているが、そうであっても、さまざまなエッセンスが詰め込まれている。ここから出発して、イザヤはどのようなメッセージを受け取って行くのか、少しでも、イザヤの内面、そして、受け取ったものを受け取ることができればと願う。 Isaiah 7:13,14 イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 ウジヤ(792-740)のあと、ヨタム(750-732)をとばして、アハズ(743-716)の時代になっている。丁寧に見るべきことが多いのだろう。この次が、ヒゼキヤ(729-687)である。その意味では、このインマヌエルは、ヒゼキヤを意味しているのかもしれない。「その子が悪を退け善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れている二人の王の領土は必ず捨てられる。」(16)ともなっており、成就から逆算すると、難しい。あまり、これが何を意味するかを考えない方が良いのかもしれない。 Isaiah 8:13-15 万軍の主のみを、あなたがたは聖としなさい。/この方はあなたがたを恐れさせる方。/この方はあなたがたをおののかせる方。主は聖所となる。/だが、イスラエルの二つの家にとっては/妨げの石、つまずきの岩となり/エルサレムの住民にとっては網と罠となる。多くの者はそれに妨げられ/倒れ、打ち砕かれ/罠にかかり、捕らえられる。」 基本的には、主のみこころは、理解できず、かえって、妨げの石、つまづきの岩となるのかもしれない。そして、イザヤでさえも、主のみこころを完全にはわからず、誤解することもあることも、こころしておくべきなのだろう。なにか正解が見えたいた方が簡単で、そうでない世界は難しいが。 Isaiah 9:16 それゆえ、主は若者たちを容赦せず/みなしごもやもめも憐れまない。/すべての者が神を敬わない者となり、悪を行い/すべての口が愚かな言葉を語るからだ。/それでもなお、主の怒りは去らず/その手は伸ばされたままだ。 「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(5)このようなことばに希望をもってしまうが、じっくり読むと、そこに重点はない。聞きやすいことばを拾い読みしてしまうことには、十分注意しないといけない、それがメッセージであると思う。捻くれているかもしれないが。 Isaiah 10:20 その日になると、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者は、自分たちを打った者にもはや頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。 あまり完全な御心と考えない方がよいかもしれない。しかし、イザヤが受け取ったものとして、これは、どうしても必要ということが書かれているのだろう。その一つが、ここにある。主に真実をもって頼る。その反対は、主に頼らず、自分勝手な生き方をすることだろうか。あまり適切には表現できない。イザヤがこれはいけないと考えたことと、これは最低必要だと考えたことを、少しずつ受け取っていきたい。 Isaiah 11:16 アッシリアに残されたこの民の残りの者のために/大路が備えられる。/エジプトの地から上って来た日に/イスラエルのために備えられたように。 イザヤの時代は、アッシリアによって、北イスラエルが滅ぼされた時、同時に、南ユダにも危機が迫っていた時である。おそらく、何回にもわけて、危機があったのだろう。そして、アッシリアにある部分は滅ぼされる。そのなかで、主のみこころを求め続け、受け取ったことなのだろう。この章には、周辺の民族についても登場する。それらが裁きを免れないことはありえないとの認識もあっただろう。しかし、世界史的には、巨大帝国時代へと動いている。イザヤと一緒に、神様の御心を求めていきたい。 Isaiah 12:6 シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。/イスラエルの聖なる方は/あなたのただ中にいます偉大な方。」 その日の回復について書かれている箇所である。しかし、やはり、エルサレム、イスラエルということばに、抵抗を感じる。どこまで、これらの制約があるのだろうか。正直わたしにもわからない。キリスト教の中でも、様々だろう。やはり、正しさで判断してはいけないように思う。回復においても。 Isaiah 13:20 そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。/アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。 バビロンについての託宣とある。当時の、巨大帝国の首都をバビロンとしているのだろう。実際には、アッシリアの首都はバビロンではないと思うが、それは関係ないのかもしれない。抽象的な意味を持っているのかもしれない。そうであれば、誰も住まないとある部分も、場所的なものではないのかもしれない。どうなのだろうか。 Isaiah 14:22,23 万軍の主の仰せ――「私は彼らに立ち向かう。私はバビロンからその名も、生き残った者も子孫も末裔も絶ち滅ぼす」――主の仰せ。「私はそこをふくろうの住みか、沼地とし、滅びの箒で一掃する」――万軍の主の仰せ。 このように敵を滅ぼす、その預言によって希望を見出す。それで良いのだろうか。しかし、同時に、そのような希望が示されなければ、ほとんどの人は、力を与えられないことも確かだろう。イエスも、パウロがいなければ、パウロの解釈、信仰告白がなければ、普遍性を受け入れられなかったのかもしれない。しかしそうであっても、わたしは、問題を感じる。神様の御心とは何なのだろう。 Isaiah 15:1 モアブについての託宣。/一夜のうちにアルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。/一夜のうちにキルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。 バビロン、そして、アッシリアのあとは、モアブ、近隣の異民族である。もしかすると、異なる背景を持つ、同族なのかもしれない。いずれにしても、つねに、軋轢があったと思われる、モアブの滅びを預言している。それを、冷静に読めなくなっている。だからといって、わたしが解答を持っているわけではない。それも、大きな問いだ。丁寧に読んでいきたい。拒絶反応が強くなると、どうしても、メッセージを受け取ることはできないのだから。 お知らせ:聖書の会を、4月11日から以前と同じく、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで再開しました。マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第46回:4月18日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書9章2節〜9章13節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.4.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  69. BRC 2023 no.069:イザヤ書16章ーイザヤ書29章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) イザヤ書にはいかがですか。イザヤ書は、66章あります。前回も書いたように、下にリンクがある、イザヤ書の箇所に、いろいろと書いてありますから、興味のある方はぜひ読んでみてください。 イザヤ書は、内容や、文体などから、1章から39章が一つのまとまり、そして、40章から55章、56章から66章と三つに分かれているように見えます。学者は、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼び、それぞれ異なる著者、集団を想定する場合が多いようです。現在は、最初の部分を読んでいることになります。アモツの子イザヤは、旧約聖書の他の箇所にも登場します。列王記下19章と20章、あとは、歴代誌下26章22節と、32章20節、32節に少しだけ記述があります。しかし、他にはまったく記述がありませんが、前回も書いたように、新約聖書では、50回ほど引用されています。そのことは、また、次回以降に書きたいと思います。イザヤはどのような人だったのでしょうね。 イザヤが活躍した時期は、前回すこしだけ、歴史について書いたように、分裂していた北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国も、エルサレム以外の城壁のある街はすべて陥落するというような時です。このときから、ユダヤ教が少しずつ変化し、形成されていったと、旧約聖書学者は考えているようです。王という、頼りにしていたものに頼れなくなり、神様についても、理解が問われる、いままでの価値観が根幹から問われるような状況であったことは確かでしょう。そのようなとき、人々はどのようなことを考え、イザヤはどのように民に告げたのでしょうか。みなさんは、そのようなときに、どのようなことを考えるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書16章ーイザヤ書29章はみなさんが、明日4月22日(月曜日)から4月28日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 16:4,5 モアブから追放された者たちを/あなたのもとに宿らせ/破壊する者からの隠れ場となってください。」/抑圧する者が消え、破壊がやみ/踏みにじる者がその地から絶えるとき/王座が慈しみによって堅固に立てられる。/一人の裁く者/公正を求め、正義を速やかにもたらす者が/ダビデの幕屋で、真実をもって、その座に着く。 モアブへの託宣(15:1)の続きのようである。しかし、モアブから追放されたものという表現など様々な混乱が起こっているのだろう。そして、ダビデの幕屋から平和が来ることが宣言されているのだろう。細かいことを批判的に書くことは控えよう。わからないなかで、救いの希望が見えることを語っているのだろう。モアブについても、もう少し理解したい。なにか文書は残っているのだろうか。聖書では、複雑な関係があるにしても、モアブほとんど常に敵役である。 Isaiah 17:14 夕方には、見よ、恐怖がある。/夜明け前には、彼らは消えうせる。/これは私たちを略奪する者たちが受ける分/私たちを強奪する者たちの運命である。 ダマスコについての託宣(1)である。近隣の諸国と平和に過ごすのは、難しい時代なのだろう。もしかすると現代でもそうなのかもしれない。どうしたら良いのだろうか。平和に暮らすことはできないのだろうか。 Isaiah 18:7 その時、万軍の主に贈り物がもたらされる。/背が高く、肌が滑らかな民から/ここかしこで恐れられている民から/その国土が多くの川で分かたれている/強い力で踏みにじる国から/万軍の主の名が置かれた所/シオンの山へともたらされる。 「災いあれ、クシュの川のかなたで/高い羽音を立てている国に。」(1)と始まる。エチオピアあたりとされる。わたしたちが知る以上に、様々な交流があったのだろう。近隣のモアブ、そして、北のダマスコ、そして、南のクシュとなっている。このあとに、エジプトについて語られるのだろう。周辺部からだろうか。シオン中心、その史観からは、自由にならないのだろうか。普遍主義にわたしは毒されれているのだろうか。 Isaiah 19:23-25 その日には、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。「祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに」と。 世界情勢を知っており、その中で、イスラエルについて神様のみこころを知ろうとしているのだろう。平和はなかなか訪れない。そして、エジプトも、アッシリアも永遠には続かない。そして、イスラエルはその国々に、結局は蹂躙されてしまう。このなかで何をのぞみ、なにを御心とするのかは難しいだろう。しかし、そのようなものの中で、真理を求める心は強く深くなっていくのかもしれない。 Isaiah 20:4,5 アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若者も老人も、裸、はだしで、尻もあらわにして引いて行く。それはエジプトの恥となる。彼らは、自分たちが望みをかけていたクシュのゆえに、また誇りとしていたエジプトのゆえに、おののき、恥じ入るであろう。」 クシュとエジプトに対する表現の微妙な違いがよくはわからない。しかし、アッシリアに対して、旧来から交友のあったエジプトやクシュに望みを抱いていたのだろう。むろん、主に頼らないことが背後で批判されているのだろうが、当時としては、当然だったのではないだろうか。しかし同時に、国際状況が変化していることも確かなのだろう。それは、難しい。単に、啓示として、受け取ったことを、共有して、決断することは、困難である。神様が愛される、一人ひとりを大切にするという意味での民主主義は難しい。 Isaiah 21:2 厳しい幻が私に示された。/「裏切る者は裏切り/荒らす者は荒らしている。/エラムよ、上れ。/メディアよ、包囲せよ。/私はすべての嘆きを終わらせる。」 いつの時代に記されたかがやはり気になる。アッシリアの侵攻について前章で書かれており、そのアッシリアが、エラム、メディアによって滅ぼされることを言っているのだろう。現代の歴史理解と完全に一致しているかどうかは別として、預言がのちに、信頼を得るために、預言のある部分が強調して書かれる場合もあるのだろう。エラムはイラン南西部、メディアはイラン北西部の国のようである。 Isaiah 22:15,16 万軍の主なる神はこう言われる。/さあ、あの執事のところへ/宮廷をつかさどるシェブナのところへ行き/言いなさい。あなたはここで何をしているのか。/あなたはここの誰との関わりで/自分のためにここに墓を掘るのか。/高い所に自分の墓を掘り/岩をえぐって自分の住まいを造るとは。 シェブナについては書記官として、イザヤ36:3,22,33,37:2 に登場する。また全くの並行箇所とは言えないが、同様の記述が、列王記下18:18,26,37にもある。一つだけ引用すると以下のようである。「アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケを、ラキシュから大軍と共に、エルサレムのヒゼキヤ王のもとに送り込んだ。彼らはエルサレムに向かって上って来た。彼らは上って来て、洗い場に至る大通り沿いにある、上貯水池の水路に現れた。彼らが王に呼びかけると、宮廷長であるヒルキヤの子エルヤキム、書記官シェブナ、史官であるアサフの子ヨアが彼らのもとに出向いて行った。そこでラブ・シャケは言った。「ヒゼキヤに言うのだ。大王、アッシリアの王はこう言われる。お前が頼りにしているものは一体何なのか。」(列王記下18:17-19)これだけで評価するのは、公平性を欠くように思われるが、問題はラブ・シャケが来たとき以前にあったということだろうか。 Isaiah 23:17,18 七十年が終わると、主はティルスを顧み、彼女は再び遊女の報酬を得るようになる。そして、地のすべての王国と地の面で淫らな行いをする。しかし、彼女の利益と報酬は主の聖なるものとなり、積み上げられず、蓄えられもしない。その利益は、主の前に住む者たちのものになり、彼らは飽きるまで食べ、最上のもので着飾ることになる。 あまり正しさを検証することに固執したくないが、このようには、ならなかったように思う。ティルスが、新バビロニアに滅ぼされ、それからしばらく廃墟であったことは確かだろうか。とういことは、いろいろな解釈も可能だということなのだろうか。預言書の扱いは難しい。 Isaiah 24:1,2 見よ、主は地を空しくし、荒廃させ/地の面をゆがめ、そこに住む者たちを散らされる。民も祭司も、奴隷も主人も、女奴隷も女主人も/売る者も買う者も、貸す者も借りる者も/債権者も債務者も同じようになる。 このあとに「地はくまなく空しくされ、ことごとく略奪される。/この言葉を主が語られた。」(3)と続くので、他国に敗北することがどのようなことなのか、その次の世界を、イザヤは見ているのだろう。そして、その結果の一つとして「それゆえ、東の地で主を崇めよ。/海のかなたの島々でイスラエルの神/主の名を崇めよ。」(15)と、当時のイスラエルの人たちにとってはおそらく、考えられもしないことが語られている。同時に、イザヤでは最後(23節)に、シオン、エルサレムの回復が語られる。わたしにとっては、この最後の部分は、少し異なるように思うが。預言者は、時代の先の先を考え、見ていたことは確かなのだろう。 Isaiah 25:6-8 万軍の主はこの山で/すべての民のために祝宴を催される。/それは脂の乗った肉の祝宴/熟成したぶどう酒の祝宴。/髄の多い脂身と/よく濾されて熟成したぶどう酒。/主はこの山で/すべての民の顔を覆うベールと/すべての国民にかぶせられている覆いを破り/死を永遠に吞み込んでくださる。/主なる神はすべての顔から涙を拭い/その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。/確かに、主は語られた。 ここからイザヤの視野が広がっていくのだろうか。前の章の最後に、エルサレムの復興が語られていたが、ここでは、それは、すべての人、国民のためであることが書かれている。そうでなければいけないと考えたのだろう。驚かされるとともに、やはり、イザヤが見ることができなかったこともあるように思う。 Isaiah 26:1,2 その日には、ユダの地でこの歌が歌われる。/私たちには堅固な町がある。/主は救いのために城壁と塁壁を築かれる。/門を開け/真実を守る正しい国民が入ることができるように。 この前には、さまざまな国の裁きと滅亡が語られている。ここで、正しい国民と出てくるが、基本的には、ユダヤの民、イスラエルを意味するとしても、神の国の民を意味しているとも取ることができる。堅固な町の門を開く。やはり、救いを理解することは難しいように思う。この章に書かれている、主に信頼するものの記述は、興味深いものが多いが。 Isaiah 27:12,13 その日になると/主は、ユーフラテスの流れから/エジプト川まで穂を打つ。/イスラエルの子らよ/あなたがたは一人一人拾い集められる。その日になると/大きな角笛が吹き鳴らされ/アッシリアの地に失われた人々と/エジプトの地に散らされていた人々が来て/聖なる山エルサレムで主を礼拝する。 不思議なものだ。このような預言があり、アケメネス朝ペルシャのキュロスによって帰還を許されても、戻ってきたものは、一部分に過ぎない。それは、主に従わなかったというわけではないのだろう。もう少し、異なる価値観が広がったということだろうか。 Isaiah 28:24-26 耕す者は、種を蒔くために/いつも耕すだけであろうか。/その土地を起こして畝を造るだけであろうか。/地面を平らにしたら/黒種草を蒔き散らし、クミンを蒔き/小麦を畝に、大麦を定められた場所に/デュラム小麦を土地の境に植えるではないか。/神はふさわしいしかたを彼に示し、教えられる。 フローレンス・ナイチンゲールの「神のみ心を知るために、神の目的を計り知るものとして、われわれは統計学を学ばねばならない。("To understand God's thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose." Florence Nightingale, quoted in Karl Pearson, Life of Francis Galton, vol.II, ch.xiii, sect.i)」を思い出す。神は、さまざまなことについて、さまざまな方法で、教えられる。教え続けておられるとも言える。しかし、これを一般化することの難しさも感じる。 Isaiah 29:13,14 主は言われた。/「この民は口で近づき/唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。/彼らは私を畏れるが/人間の戒めを教えられているにすぎない。/それゆえ、私は再びこの民を/驚くべき業によって驚かす。/この民の知恵ある者の知恵は滅び/悟りある者の悟りは隠される。」 痛烈であるが、真実でもあるのだろう。ただ、やはり、神の心は、ひとには、わからないのは当然ではないのだろうか。わかったとしてしまうこと、探究をやめてしまい、人間の知恵で置き換えてしまうことに問題があるのであって、わからないことを責めるのはどうだろうか。驚かす。これは、一つの方法なのだろう。常識、人間の知恵が通じない状態を表現することなのだろう。これでわかるのは、間違っていたということのみ。正しい、真実、神のみこころがわかるわけではない。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第47回:4月25日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書9章14節〜9章29節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.4.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  70. BRC 2023 no.070:イザヤ書30章ーイザヤ書43章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) イザヤ書にはいかがですか。イザヤ書は、66章ですから、今週読む分あたりから後半に入ります。前回も書いたように、内容や、文体などから、1章から39章が一つのまとまり、そして、40章から55章、56章から66章と三つに分かれ、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれ、それぞれ異なる著者、集団を想定する場合が多いようです。イザヤには、列王記下や、歴代誌下にも登場しますが、その引用箇所と似た記述が、今回皆さんが読まれる箇所に登場します。通読は、続けることがなかなか難しいですが、ちょっと知っていること、馴染みのある記述を見つける楽しみも、たいせつなのかなと思います。36章から38章です。 そのあとは、上に書いた分類の第二イザヤに入ります。この部分は、新約聖書、特に、福音書に何回も引用されています。ここに、通常「しもべの歌」といわれるものが、含まれています。下にリンクのある、わたしのホームページから引用します。ここに登場する、鍋谷堯爾先生(1930年4月20日 - 2024年3月8日)は、昔、わたしが、神戸ルーテル神学校で聴講生をしていたときの、校長先生で、イザヤ書がご専門でした。少し、お話もさせていただきましたが、いまなら、いろいろとお聞きしたいことがある方です。亡くなられましたが。 もう一つ、40章からの第二部が特別なのは、新約聖書でも頻繁に引用されている、しもべの歌と言われているものが書かれているからだと思います。いくつかありますが、鍋谷堯爾氏の「現代に語るイザヤ書 鷲のように翼をかって」(いのちのことば社)にしたがうと、4つあります。しもべはヘブル語ではエベド「はたらく」という動詞からきたもので、奴隷とか家来の意味として使われたり、謙譲語として、へりくだって、自分をしもべとぶときに使っていますが、聖書では、特に、かみさまに特別の目的をもって用いられるといういみが強いでしょう。 第1番目のしもべの歌 42章1節-4節、第2番目のしもべの歌 49章1節-6節、第3番目のしもべの歌 50章4節-9節、第4番目のしもべの歌 52章13節-53章12節。 このような表現には、強い抵抗感がある方も多いかもしれませんが、わたしは、これらのしもべの歌、または、第二イザヤの部分は、イエス様にとても大きな影響を与えたと思っています。私の聖書ノートにも少し書いてありますが、いま、マルコによる福音書を、聖書の会で少しずつ読んでいることも、そのように考える背景にあります。みなさんは、どのような思いで、今週の箇所を読まれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書30章ーイザヤ書43章はみなさんが、明日4月29日(月曜日)から5月5日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 30:1 かたくなな子らに災いあれ――主の仰せ。/彼らは謀を巡らすが/それは私から出たものではない。/同盟を結ぶが/私の霊によってではない。/こうして彼らは罪に罪を重ねている。 このあとには、「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」(15b)とあり、さらに「しかし、あなたがたはそれを望まなかった。」(15c)と続く。主に信頼することの大切さを述べているのだろう。後半には、主に信頼することの帰結も書かれている。基本なのだろうが、偽預言者などさまざまな声があるなかで、どうしたらよいかわからなくなる状態は、容易に想像がつく。幸せの重要な要素は、人生の意味を知ることだと言われるが、それは、簡単ではない。自己満足との差は僅かのようにも感じる。 Isaiah 31:8,9 アッシリアは滅びる。/人間のものではない剣によって。/人間のものではない剣がアッシリアを食い尽くす。/彼らは剣の前から逃げ/若者たちは労役に服す。その岩でさえ恐れのゆえに消えうせ/その長たちはおののいて旗を捨てる。/主の火はシオンにあり、その炉はエルサレムにある/――主の仰せ。 確かに、イザヤの時代に、アッシリアは超巨大王国から、滅亡の道をたどる。そのなかには、人間のものではない剣によると思われる部分もあるのだろう。しかし、現代的にみると、やはり人間によって滅ぼされる。主に従わず背いていることも確かだろう。しかし、それだけで時代を理解することも難しいように思う。主のみこころを知るのはほんとうに難しい。 Isaiah 32:6,7 愚か者は愚かなことを語り/その心は悪事を行う。/神を敬うことなく/主について惑わせることを語る。/飢えている者を空腹のままにし/渇いている者に水を飲ませない。ならず者のやり方は悪質である。/彼は謀を巡らす。/たとえ貧しい者が正当な申し立てをしても/苦しむ者を偽りの言葉で破滅に陥れる。 このあとには「しかし、高貴な人は高貴なことを計画し/高貴なことを常に行う。」(8)が続く。イザヤはそのようなひとも知っていたのだろうか。愚かさを指摘することはできるだろう。しかし、高貴な生き方を生きることは簡単ではない。御心は基本的にわからないのだから、それを求め続ける生き方が、わたしは高貴な生き方だと思うが、実際には、どろどろとして、愚か者に見えるのかもしれない。 Isaiah 33:6 主はあなたの時代の確かな支え/救いの富、知恵と知識。/主を畏れることこそ、主からの宝である。 このぐらいしか、わたしにも言えないように思う。それ以上は、何も言えない。それが現時点でのわたしなのだろう。わからないことは、幸いとは言えない。しかし、それを一歩踏み出すことは、主を畏れることから離れるようにも感じる。難しい。イザヤとともに生きることができるだろうか。 Isaiah 34:16,17 主の書を調べて、読め。/これらのうち、一つも欠けるものはない。/それぞれが相手を見いだせないことはない。/主の口が命じ/その霊が集めたからである。/主が彼らのためにくじを引き/手ずから測り縄を用いて/彼らに土地を分け与えた。/彼らはとこしえに土地を所有し/代々そこに住むであろう。 エドムへの裁きについて述べられ、その最後に上の節がある。「烏とふくろうがその地を住みかとし」(11)から続いているように見える。全体の構成とともに、引用句に興味を持った。意味がよくわかるわけではないが、世界を統治しておられるということか。Anthropocene(パウル・クルッツェン。和訳「人新世」人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした年代)を考えると、衝突する概念でもある。長い歴史の中では、これは一時期のことかもしれないが。 Isaiah 35:8 そこには大路が敷かれ/その道は聖なる道と呼ばれる。/汚れた者がそこを通ることはない。/それは、その道を行く者たちのものであり/愚かな者が迷い込むことはない。 回復の希望が書かれているが、それが、このような分断、正しさの確立であるなら、わたしは、それを望まない。平和は訪れないからである。神は本当にそれを喜ばれるのだろうか。イザヤとも対峙しないといけないのかもしれない。 Isaiah 36:7 お前は、自分たちの神、主を頼りにすると言っている。だが、その神がヒゼキヤに高き所と祭壇を取り除かせたのではないか。ヒゼキヤがユダとエルサレムに向かい、この祭壇の前で礼拝せよと言ったのはそのためだ。 「この祭壇」がなにを指すのか不明だったが、文脈からするとおそらく、エルサレムの神殿のことなのだろう。ラブ・シャケについては詳細はわからないが「だがラブ・シャケは答えた。『主君が私を派遣されたのは、お前の主君やお前にだけ、これらのことを伝えるためだというのか。むしろ、城壁の上に座っている者たちのためではないか。彼らもお前たちと一緒に、自分の糞尿を飲み食いするようになるのだ。』」(12)からすると、もしかするとイスラエル人なのかもしれない。「ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダの城壁に囲まれた町すべてに攻め上り、これらを占拠した。」(1)とあり、これらの占領下のひとかもしれないし、おそらく、すでに占領されている、北イスラエルの人かもしれない。 Isaiah 37:33-35 それゆえ、主はアッシリアの王についてこう言われる。/彼がこの都に入ることはなく/彼がこの都に矢を射ることも/盾をかざして立ち向かうことも/この都に向かって塁を築くこともない。彼は元来た道を引き返し/この都に入ることはない――主の仰せ。私のため、また私の僕ダビデのため/私はこの都を守り、これを救う。」 この前のヒゼキヤのことばをみると、「彼らはそれらの神々を火に投げ込みました。しかし、それらは神ではなく、木や石であり、人の手で造られたものにすぎないので、滅ぼすことができたのです。」(19)とも言っている。このことばへの応答でもあるのだろう。しかし、このあとバビロンには滅ぼされる。意味づけをすることは大切だが、ここで知らされているのも、一部分に過ぎないことも確かなのだろう。 Isaiah 38:4-6 その時、主の言葉がイザヤに臨んだ。「行って、ヒゼキヤに言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す。私はこの都を守る。』 列王記下の記事と同じだと思っていたが、調べてみると多少異なる。「イザヤが中庭を出ないうちに、次のような主の言葉が彼に臨んだ。『引き返して、私の民の君主ヒゼキヤに言いなさい。「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。あなたは三日目に主の神殿に上るだろう。私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す。私自身のため、また僕ダビデのために、私はこの都を守る。」』」(列王記下20:4-6)この直後の7節に「イザヤが、『いちじくを干したものを取って来なさい』と言うので、人々はそれを取って来て腫れ物に当てた。するとヒゼキヤは回復した。」も含まれている。すなわち構成が変化している。同じ著者かどうか、背後にどのような資料があるのかを考える時にも重要であろう。個人的には、「イザヤが中庭を出ないうちに」(列王記下)「その時」(イザヤ書)にも興味を持った。イザヤはどのようは人だったのだろう。 Isaiah 39:5,6 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主の言葉を聞きなさい。『見よ、王宮にあるものすべて、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものすべて、それがバビロンへ運び去られる日がやって来る。何一つ残されはしない』と主は言われる。 命が長くなると、困難も増え、間違いも増えるのだろう。このあとの、(ヒゼキヤの)自分の時代におこらないということが告げられる部分も印象的だが、人生が短くおわるか、長く続くかにいまは、関心があるのかもしれない。個人的には、それは、あまり重要ではないと思っている。そのような時が来たら、どう考えるかはわからないが。1日1日を誠実に生きていきたい。 Isaiah 40:3-5 呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。」 マタイ3:3, マルコ1:3、ルカ3:4、ヨハネ1:23 と四福音書にバプテスマのヨハネとの関連で引用されている有名な箇所である。イエスが、山上での変貌からの帰途に語った、「しかし、言っておく。エリヤはすでに来たのだ。そして、彼について書いてあるとおり、人々は好きなようにあしらったのである。」(マルコ9:13)がもとにあるのかもしれない。同時に、ここにある、「彼について書いてあるとおり」は何を意味するのだろうか。イエスは、自分の進む道を確認し、それを弟子たちに示した時だったのだろう。もうすこしよく考えたい。 Isaiah 41:17 苦しむ人や貧しい人が水を求めても、水はなく/彼らの舌は渇きで干上がるが/主である私は彼らに応え/イスラエルの神である私は彼らを見捨てない。 しばらく、神様のわざを人々がどのようにあしらったかをみていきたい。ここには、主が恵深く、憐れみ深いことが書かれている。人間がどのよう応答するか、それが鍵なのだろう。一方的に、受けるだけのことを望んでおられないのだろう。丁寧に考えていきたい。 Isaiah 42:24 ヤコブを略奪者に渡し/イスラエルをかすめ取る者に渡したのは誰か。/それは主ではないか。/この方に対して我々は罪を犯し/その道を歩むことを望まず/その教えに聞き従わなかった。 主のしもべの歌である。エリヤのような存在を「好きなようにあしらった」ことについて考えている。イザヤ書にもそのような記事があるのだろうか。主のしもべに従わなかった。主のしもべのようには歩まなかったという箇所ならいくらでもあるように思う。この章にも「傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。」(3)のような箇所が何箇所か現れるが、このような生き方は、受け入れられないのかもしれない。 Isaiah 43:10 あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕である――主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。 このように、ひとは、生きられないのだろう。証人(עֵד(ayd)witness)はなにをするのだろうか。そのように生きることではないのだろうか。イザヤはおそらく、イエス様にとっても大切なものだったと思う。丁寧に読んでいきたい。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第48回:5月2日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書9章30節〜9章32節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.4.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  71. BRC 2023 no.071:イザヤ書44章ーイザヤ書57章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) イザヤ書にはいかがですか。イザヤ書は、66章ですから、そろそろ最後の部分ですね。前回も書きましたが、40章から55章は、第二イザヤと呼ばれる部分で、しもべの歌と言われるものが含まれています。 第1番目のしもべの歌 42章1節-4節、第2番目のしもべの歌 49章1節-6節、第3番目のしもべの歌 50章4節-9節、第4番目のしもべの歌 52章13節-53章12節。 キリスト教は、イエスはキリスト(メシヤ、神の子である救い主)と信じる宗教だとも表現できると思います。ただ、イエスの時代も、そしておそらく、現代でも、神様とはどのような方なのか、救い主とはどのような方なのかについて、さまざまな考え方があるのではないかと思います。キリスト者のなかでも、かなりの幅があるのかもしれません。イエス様は、その宣教の最初から、神の子として生きることを求められたのではないかとわたしは、考えています。神の子は、全知全能という意味ではなく、神様のみこころを生きるという意味です。神様のこころをこころとするとも表現できるかもしれません。それには、神様のみこころを知ることがまずは、求められるでしょう。正しさで裁かれる神様というよりも、わたしたちの弱さを担われる、苦しまれる神様だったのかもしれないと最近考えています。それは、このイザヤ書のしもべの歌などに表現されていることかなとも思います。ゆっくり、そして、これからも、丁寧に考えながら読んでいけたらと考えています。みなさんは、どのような、しもべ像を受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書44章ーイザヤ書57章はみなさんが、明日5月6日(月曜日)から5月12日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 44:21,22 ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。/イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。/私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。/イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。私はあなたの背きの罪を雲のように/罪を霧のようにかき消した。/私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。 イザヤ書は、新約聖書で最も引用されている預言書だと思うが、イエス様がどのように、それを読み、聞いていただろうかと考えた。ここにも購いが登場する。神様がどのような方かということに関して、イエス様は、さまざまなことを考えておられただろう。贖われる主ということも、その一つだったに違いない。 Isaiah 45:6,7 それは、日の出る所からも、日の沈む所からも/人々が知るためである。/私のほかは無に等しい/私は主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し/平和を造り、災いを創造する者。/私は主、これらすべてを造る者である。 イエス様は、普遍性についてどのように認識しておられたのだろう。一般的な知識は持っておられただろう。しかし、一人一人のこころの中の問題により関心があったかもしれない。「イエスは言われた。『まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。』」(マルコ7:27)イエスの心の中をのぞくことはできないが、イエス様のそして神様の御心が知りたい。 Isaiah 46:4 あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。 イザヤが語る神は、やはり特別であるように思う。イエスも、イザヤ書から、神についていろいろと考え、神の子として生きることについて、学んでいったのではないだろうか。僕の生き方、神の子の生き方。 Isaiah 47:4 私たちの贖い主、その名は万軍の主。/イスラエルの聖なる方。 この章は、「おとめである娘バビロンよ/下って、塵の上に座れ。/カルデア人の娘よ、王座のない地に座れ。/あなたはもはや/優美でしとやかな娘とは呼ばれない。」(1)と始まる。バビロンの裁きについて書かれている。そして、その合間に、引用句がある。贖いが、裁きなのだろうか。やはり、やりきれない。 Isaiah 48:20 バビロンから出よ、カルデアから逃れよ。/喜びの声をもって告げ、聞かせよ。/地の果てまで響き渡らせよ。/「主はその僕ヤコブを贖われた」と。 イザヤ書に「贖い」がこれほど多いとは知らなかった。引用句は、バビロンの滅亡と裁きについて書かれ、その中から、僕ヤコブを贖うことが書かれている。悪を滅ぼすという内容は、一面的なように思うが、贖いは、買い取るということだろう。神様の側が損失をうけとって、救うことだろうか。キリストの贖罪の根のようなものをしっかりと理解したい。 Isaiah 49:7 イスラエルの贖い主、聖なる方である主は/人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者/支配者らの僕に向かって、こう言われる。/「王たちは見て立ち上がり、高官たちはひれ伏す。/真実であり、イスラエルの聖なる方である主が/あなたを選んだからである。」 僕の歌の一部のようである。ここでも、贖い主が登場する。イエスは、イザヤ書を読み、聞き、神様のみこころを考えていったのかもしれないと思うようになった。同時に、自由に、神様との個人的な祈りを通しての交わりのなかで、形成されていったのだろう。神様のイメージ、神の子としていきるということについて。丁寧に考えていきたい。 Isaiah 50:10,11 あなたがたのうち、誰が/主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。/明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする者だ。見よ、あなたがたは皆、火をともし/松明で身を守る者。/あなたがたの火の光によって/あなたがたが燃やす松明を持って歩くがよい。/私の手によって/このことはあなたがたの身に起こり/あなたがたは苦痛のうちに倒れ伏すであろう。 興味深い。「明かりを持たずに闇を歩くとき」に主に信頼することと共に、「松明で身を守る者」とが対比されている。しかし、同時に、裁く神も提示されている。イザヤの時代について、そして、第二イザヤだろうか、この時代について、もう少し理解しないと、わからないのだろう。学び続けたい。 Isaiah 51:22,23 あなたの主なる神/ご自分の民を弁護してくださる神はこう言われる。/「見よ/私は、よろめかす杯をあなたの手から取り上げた。/私の憤りの大杯をあなたが再び飲むことはない。私はこれを、あなたを悩ます者の手に置く。/彼らはあなたに言った。/『ひれ伏せ、我々は踏みつけて行く』と。/あなたは自分の背中を地面のように/踏みつけて行く者の道のようにした。」 購(あがない)と裁き、裁きを受け入れられないのは、ひとは正しくはいられないこと、弱さを抱えているからだろうか。そのなかで正しさはやはり求めなければいけないだろう。どう考えたら良いのだろうか。そう簡単ではない。ひとは、強欲なのだから。 Isaiah 52:7,8 なんと美しいことか/山々の上で良い知らせを伝える者の足は。/平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え/救いを告げ/シオンに「あなたの神は王となった」/と言う者の足は。/聞け、あなたの見張りが声を上げ/共に喜び歌う。/主がシオンに帰られるのを/彼らは目の当たりにするからだ。 このあとには、12節から主のしもべの苦難が描かれている。回復、慰め、喜びの直後である。これは、主の僕について学ぶものにとって、衝撃だったろう。イエス様にとっても、その理由を考えた重要な箇所だったかもしれない。 Isaiah 53:6 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。 主の僕とは、主の思い、痛み、苦しみを体現するものなのだろう。それをイザヤはこのように表現し、イエスも、ここからしっかりとメッセージを受け取ったのだろう。いつからかわからないが。それは「それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。/彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。/多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(21)このようなことまで含んでいたのだろうか。人でなければ味わえない苦しみを、主にかわって担うためだったのかもしれない。すこし安直な感じがするが。 Isaiah 54:7,8 ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが/深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。怒りが溢れ/僅かな間、私は顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ/――あなたの贖い主、主は言われる。 しものべ歌の続きなのだろうか。よくわからない。しかし、引用句は、捕囚以後のことを思わされる。このあとには、「攻撃を仕掛けるものがあっても、(中略)あなたの前に倒れる」(15)とある。戦いで応じるわけではないが、やはり、正しさは気になる。 Isaiah 55:3,4 耳を傾け、私のところに来るがよい。/聞け。そうすればあなたがたの魂は生きる。/私はあなたがたと永遠の契約を結ぶ。/ダビデに約束した、確かな慈しみだ。見よ、私は彼を諸国の民への証人とし/諸国の民の指導者、司令官とした。 この「彼」は誰なのだろう。しもべなのだろうか。イザヤがすべて受け取っているとは思わないが、イザヤがうけとったものを、丁寧にうけとりたい。イエス様が好きだったのは、おそらく、イザヤ書なのだろう。すべてが心に残っているとは限らないが。 Isaiah 56:1,2 主はこう言われる。/公正を守り、正義を行え。/私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。なんと幸いなことか、このように行う人/それを揺るぎなく保つ人の子は。/安息日を守り、これを汚すことのない人/いかなる悪事にも手を出さない人。 このような規範がたいせつにされ、それで十分な世界だったのだろうか。現代は、そうはいかない。それだけではなく、多様性が、問題の波及効果を限定することにもつながっているように思う。戦争にむかわないためにもこのことは大切である。一方、結局、なにも改善されないこともあり、ここで述べられている、公正、公平は担保されない。正直、難しい。 Isaiah 57:17-19 彼の貪欲の罪に私は怒り、彼を打ち/姿を隠して怒った。/しかし彼は背いたまま、心の赴くままに道を歩んだ。/私は彼の道を見た。/私は彼を癒やし、導き/慰めをもって彼とその悲しむ人々に報い/唇に賛美の実りを創造しよう。/遠くにいる人にも近くにいる人にも/平和、平和があるように。/私は彼を癒やそう――主は言われる。 正確にはわからないが、興味深い記述である。貪欲の罪について描かれているが、これは、人間の性のようにも思う。神は、そのようなことにも関わられるのだろうか。人間の貪欲は、神様には理解できないのではないだろうか。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第49回:5月9日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書9章33節〜9章37節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.5.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html

  72. BRC 2023 no.072:イイザヤ書58章ーエレミヤ書5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています) イザヤ書にはいかがですか。今週は、イザヤ書を読み終え、次の、エレミヤ書に入ります。イザヤ書の最後、56章から66章は、第三イザヤと呼ばれる部分です。希望と絶望をも感じさせる悲しさの両方を感じさせる部分のように見えますが、みなさんは、どのような感想を、もたれるでしょうか。 イザヤ書は「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤがユダの王であった時代のことである。」(イザヤ1:1)と始まりましたが、エレミヤ書は次のように始まります。(聖書協会共同訳で引用します) 1:1 ベニヤミンの地アナトトにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。2 ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、主の言葉が彼に臨んだ。3 さらにユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。 最後の言葉に、エルサレムの住民が捕囚となるまでとあります。イザヤの時代には、アッシリアという中東最初の巨大帝国によって、北イスラエル王国が滅ぼされ、南ユダ王国もエルサレム以外の城壁の街はすべて破壊され、貢も送るようになりますが、旧約聖書の記述によると奇跡的に滅亡を逃れます。このあと、アッシリアは、新バビロニア帝国など複数の国の台頭もあり、急激に力を落としていきます。それがエレミヤに最初に主のことばが臨んだヨシヤの時代です。この時代には、アッシリアの力が衰えたこともあり、ある程度自律的に統治でき、宗教改革と言われるようなこともあったようです。学者によっては、この時に、旧約聖書のある部分がまとめられたともしています。すこし想像してみても、神様に愛された特別な国と思い、ダビデ王朝は永遠に続くと信じていたひとたちが、いままでほとんど知らなかったような遠くの帝国の前に風前の灯火のようになり、最後は完全に、滅ぼされ、捕囚となる時代です。そのような時にこそ、そしてそのような時を経て、自分たちは何を信じているのかという本質的な部分がさまざまな形で深まり、作られ、まとめられていくのかもしれません。その歴史の転換点にいた預言者がエレミヤです。エレミヤはなにを預言し、なにを伝え、どう行動したのでしょうか。上の引用箇所にもあるように、エレミヤは祭司の一人でもありました。民のリーダー的存在でもあったエレミヤの悲しみも読み取っていただければと思います。下にリンクがあるエレミヤ書のところに、より詳しい説明があります。参考にしてください。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書58章ーエレミヤ書5章はみなさんが、明日5月13日(月曜日)から5月19日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 イザヤ書とエレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#is エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2023 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2023 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 58:10,11 飢えている人に心を配り/苦しむ者の願いを満たすなら/闇の中にあなたの光が昇り/あなたの暗闇は真昼のようになる。主は常にあなたを導き/干上がった地でもあなたの渇きを癒やし/骨を強くされる。/あなたは潤された園のように/水の涸れない水源のようになる。 「なぜ、私たちが断食をしても/あなたは見てくださらず/苦行をしても、知ってくださらないのですか。」(3a)から、どのような断食が大切なのかについて、前半のようなことばが並び、応報の部分はこの後半だけである。因果応報を目的としても、原則としてもいけないように思う。基本的に、神様に喜ばれることを求めることのなかで、主は、導いてくださるように思う。それを感謝して受けよう。 Isaiah 59:1,2 見よ、主の手が短くて救えないのではない。/その耳が遠くて聞こえないのでもない。/ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て/あなたがたの罪が御顔を隠し/聞こえないようにしている。 このような目で見ることができるのは、素晴らしいことだと思う。後半には、因果応報のようなことも描かれているが、主をもとめること、それが、何なのかもわからないし、それが、この聖書の神様なのかも正直、はっきりとはわからないが、さまざまな見方を学びながら、真理を求めていきたい。それも、一つではないのだろうが。 Isaiah 60:16,17 あなたは国々の乳を飲み/王たちの乳房から飲む。/こうして、あなたは知るようになる。/私があなたの救い主、主であり/あなたの贖い主、ヤコブの力ある者であることを。私は青銅の代わりに金を/鉄の代わりに銀をもたらす。/木の代わりには青銅を/石の代わりには鉄をもたらす。/私は平和をあなたの管理者とし/正義をあなたの監督者とする。 難しいが興味深い箇所である。国々や、王たちは、すでに、イスラエルではないのだろう。そのなかで、主を知る。その結果も、当時のことがわからないと理解しにくい。鉄が二度出てくるが、おそらく、戦争ではなないのだろう。暴虐がなくなることなのかもしれない。後半の鉄は、技術なのだろうか。なにを良いとみるか、同じものを何に使うか(dual use)、難しい問題も含まれている。 Isaiah 61:5,6 他国の人々が立ってあなたがたの羊の群れを飼い/異国の子らがあなたがたの畑を耕す者/ぶどうを作る者となる。あなたがたは主の祭司と呼ばれ/私たちの神に仕える僕と言われ/国々の富を享受し/その栄光を誇る。 「主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。」(1)と始まり、メシヤ預言のようになっている。しかし、イザヤ書における「わたし」が誰かは判然としない。引用句も、ある特別な存在となることは理解できるが、幻だとしかわからない。 Isaiah 62:1 シオンのために、私は口を閉ざさず/エルサレムのために、私は沈黙しない。/その義が光のように現れ/救いが松明のように燃えるまで。 シオン、エルサレムの回復なしには、救いはなく、慰めは得られないと考えたのだろう。それは、仕方がないことなのかもしれない。どうしても、ひとは、自分の側に、神様のみこころを引きこもうとする。しかし、同時に、これらから、完全に自由になることもできないのだろう。真理への長い旅、それを続けていく覚悟を持ちたい。 Isaiah 63:15 天から見下ろし/聖なる美しいお住まいから御覧ください。/あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか。/あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、私には届きません。 ここからは、祈りになっている。懇願になっている。これより前も、そのような祈りと混在することは避けられないのかもしれない。それが、自分の側に引き寄せること。それを排除することはできない。わたしは、聖書にキリスト教に、イエスに何を求めているのかを丁寧に考えていきたい。 Isaiah 64:6,7 あなたの名を呼ぶ者も/奮い立ってあなたにすがる者もおりません。/あなたは私たちから御顔を隠し/私たちを罪の力に渡されました。しかし主よ、今、あなたは私たちの父。/私たちは粘土、あなたは陶工。/私たちは皆、あなたの手の業です。 主を創造主とすることは、主にこのように語りかけることにも繋がっているのだろう。創造神という考えはいつ頃から始まったのだろう。そして、それが、すべての人の創造主として理解するようになったのは、どのような経緯によってなのだろう。ここでは、最後に、「私たちの聖なる、栄光の神殿/私たちの先祖があなたを賛美した場所は/火で焼かれ/私たちが喜びとした場所はことごとく/廃虚となりました。/主よ、それでもなお/あなたはご自分を抑えて黙し/私たちをひどく苦しめられるのですか。」(10,11)と救いを求めている。 Isaiah 65:17 見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。/先にあったことが思い出されることはなく/心に上ることもない。 新しい天と新しい地について描かれているが、先にあったことが思い出されることはないと、断絶がある。それでは、どのような意味があるのだろうか。ノアのときは、八人だろうか、何人かによって、それが引き継がれたことが設定されている。もし、だれもいなければ、または、まったく記憶が引き継がれなければ、それは、どのようなものと受け取ったら良いのだろうか。そのようにしか、表現できなかったのかもしれない。または、このように表現されるほど、以前とは違う世界という修辞的・誇張・文学的表現なのだろうか。 Isaiah 66:24 彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。/それに付く蛆は絶えず/それを焼く火は消えることがない。/それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる。 この言葉がイザヤ書の最後であることを知らなかった。この直前には、「私の造る新しい天と新しい地が/私の前にいつまでも続くように/あなたがたの子孫とあなたがたの名も/いつまでも続く――主の仰せ。/新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者は私の前に来てひれ伏す/――主は言われる。」(22,23)とあり、新しい創造の業について描かれている。あたかも、それでは、終わらないと書いているかのようである。このことを伝えたいとおもっても、人々をみると、自分たちをみると、それが必ずしも、神のことばだとは確信できないということだろうか。そう簡単ではないことは、伝えているように見える。 Jeremiah 1:18,19 私は今日、あなたをこの全地に向けて/城壁に囲まれた町、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官/祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが/あなたに勝つことはできない。/私があなたと共にいて、救い出すからだ」/――主の仰せ。 エレミヤの預言者としての任命と、訓練が描かれている。このようなことばが時代を超えて残ったことは確かである。直近のことの預言であり、人々にとって切実な喫緊の課題について語ったからだろうか。エレミヤの生きた大変な時代について考えたい。エレミヤと共に。 Jeremiah 2:8 祭司たちも尋ねなかった。/「主はどこにおられるのか」と。/律法をつかさどる者たちも私を知らず/牧者たちは私に背き/預言者たちはバアルによって預言し/役に立たないものに従った。 アナトトの祭司のひとり(1:1)と自分のことを紹介してはじめている、エレミヤが、祭司を非難することからはじめている。さらに「あなたが造った神々はどこにいるのか。/災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら/彼らが立ち上がればよい。/ユダよ、あなたの神々は/あなたの町の数ほどあるではないか。」(28)ともある。当時の状況はどのようなものだったのだろうか。同時に、神礼拝、ユダの宗教はどのようなものだったのか、興味を持つ。わたしたちが持っている、旧約聖書の歴史通りではないにしても、どの程度、神礼拝が浸透していたかも知りたい。 Jeremiah 3:6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての生い茂る木の下に行って淫行にふけった。 ヨシヤ王の時代、すでに、このような状態だったことが、証言されている。しかし、その前はどうだったのだろうか。ヨシヤ王の時代は、アッシリアの力が弱くなってきたとも言われる。「背信の女イスラエルが姦淫したという理由で、私が離縁状を渡して彼女を追い出したのに、不実な姉妹ユダは恐れ気もなく、淫行を行ったのを私は見た。」(8)とある。ユダには「不実」とある。アッシリアに完全には、支配されなかったユダでありながらということだろうか。やはり当時の正確な状況を知りたい。 Jeremiah 4:26,27 私は見た。/実り豊かな地は荒れ野に変わり/町はことごとく、主の前に/主の燃える怒りによって打ち倒されていた。主はこう言われる。/全地は荒れ果てる。/しかし、私は滅ぼし尽くしはしない。 このかすかな希望に頼っていたのだろうか。エレミヤの時代、抗うことが不可能に見える、異邦人による破壊、力による蹂躙(じゅうりん)。エレミヤは、そこで神様のみこころとして何を見ていたのだろう。自分たちの罪は見えるだろう。しかし、希望は、憐れみの神様を知っているからか。難しい。 Jeremiah 5:24,25 彼らは心の中で言うこともない。/「我々の神、主を畏れよう。/時に応じて雨を、秋の雨と春の雨を与える方/刈り入れのために定められた数週間を/我らのために守られる方を」と。あなたがたの過ちがこれらの恵みを追い払い/あなたがたの罪が良いものを退けたのだ。 御心に抗うものたちと、恵みの神の対比が現れているように見える。この葛藤のなかで、エレミヤは生きていたのだろうか。そして、恵みが見えなくなるような現実もあったのだろう。なかなか丁寧に読んでいくことはできないが、単純化はしないで読んでいきたい。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回は第50回:5月16日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書9章38節〜9章41節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.5.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023s.html


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