Last Update: December 25, 2022

聖書通読の会 2021

メール配信記録

一週間に一度、基本的に日曜日の朝、配信したメールの記録です。これ以外に、日曜日夜に、聖書通読の会 2021の参加者からの投稿にわたしが応答を書き配信したものは、非公開にしてあります。
  1. BRC 2021 no.001:創世記1章ー創世記6章
  2. BRC 2021 no.002:創世記7章ー創世記20章
  3. BRC 2021 no.003:創世記21章ー創世記34章
  4. BRC 2021 no.004:創世記35章ー創世記48章
  5. BRC 2021 no.005:創世記49章ー出エジプト記12章
  6. BRC 2021 no.006:出エジプト記13章ー出エジプト記26章
  7. BRC 2021 no.007:出エジプト記27章ー出エジプト記40章
  8. BRC 2021 no.008:レビ記1章ーレビ記14章
  9. BRC 2021 no.009:レビ記15章ー民数記1章
  10. BRC 2021 no.010:民数記2章ー民数記15章
  11. BRC 2021 no.011:民数記16章ー民数記29章
  12. BRC 2021 no.012:民数記30章ー申命記7章
  13. BRC 2021 no.013:申命記8章ー申命記21章
  14. BRC 2021 no.014:申命記22章ーヨシュア記1章
  15. BRC 2021 no.015:ヨシュア記2章ーヨシュア記15章
  16. BRC 2021 no.016:ヨシュア記16章ー士師記5章
  17. BRC 2021 no.017:士師記6章ー士師記19章
  18. BRC 2021 no.018:士師記20章ーサムエル記上8章
  19. BRC 2021 no.019:サムエル記上9章ーサムエル記上22章
  20. BRC 2021 no.020:サムエル記上23章ーサムエル記下5章
  21. BRC 2021 no.021:サムエル記下6章ーサムエル記下19章
  22. BRC 2021 no.022:サムエル記下20章ー列王記上9章
  23. BRC 2021 no.023:列王記上10章ー列王記下1章
  24. BRC 2021 no.024:列王記下2章ー列王記下15章
  25. BRC 2021 no.025:列王記下16章ー歴代誌上4章
  26. BRC 2021 no.026:歴代誌上5章ー歴代誌上18章
  27. BRC 2021 no.027:歴代誌上19章ー歴代誌下3章
  28. BRC 2021 no.028:歴代誌下4章ー歴代誌下17章
  29. BRC 2021 no.029:歴代誌下18章ー歴代誌下31章
  30. BRC 2021 no.030:歴代誌下32章ーエズラ記9章
  31. BRC 2021 no.031:エズラ記10章ーネヘミヤ記13章
  32. BRC 2021 no.032:エステル記1章ーヨブ記4章
  33. BRC 2021 no.033:ヨブ記5章ーヨブ記18章
  34. BRC 2021 no.034:ヨブ記19章ーヨブ記32章
  35. BRC 2021 no.035:ヨブ記33章ーマタイによる福音書4章
  36. BRC 2021 no.036:マタイによる福音書5章ーマタイによる福音書18章
  37. BRC 2021 no.037:マタイによる福音書18章ーマルコによる福音書4章
  38. BRC 2021 no.038:マルコによる福音書5章ールカによる福音書2章
  39. BRC 2021 no.039:ルカによる福音書3章ールカによる福音書16章
  40. BRC 2021 no.040:ルカによる福音書17章ーヨハネによる福音書6章
  41. BRC 2021 no.041:ヨハネによる福音書7章ーヨハネによる福音書20章
  42. BRC 2021 no.042:ヨハネによる福音書21章ー使徒言行録13章
  43. BRC 2021 no.043:使徒言行録14章ー使徒言行録27章
  44. BRC 2021 no.044:使徒言行録28章ーローマの信徒への手紙13章
  45. BRC 2021 no.045:ローマの信徒への手紙14章ーコリントの信徒への手紙一11章
  46. BRC 2021 no.046:コリントの信徒への手紙一12章ーコリントの信徒への手紙二9章
  47. BRC 2021 no.047:コリントの信徒への手紙二10章ーエフェソの信徒への手紙4章
  48. BRC 2021 no.048:エフェソの信徒への手紙5章ーテサロニケの信徒への手一紙4章
  49. BRC 2021 no.049:テサロニケの信徒への手紙一5章ーテモテへの手紙二4章
  50. BRC 2021 no.050:テトスへの手紙1章ーヘブライ人への手紙10章
  51. BRC 2021 no.051:ヘブライ人への手紙11章ーペトロの手紙二1章
  52. BRC 2021 no.052:ペトロの手紙二2章ーヨハネの黙示録4章
  53. BRC 2021 no.053:ヨハネの黙示録5章ーヨハネの黙示録18章
  54. BRC 2021 no.054:ヨハネの黙示録19章ー詩篇10篇
  55. BRC 2021 no.055:詩篇11篇ー詩篇24篇
  56. BRC 2021 no.056:詩篇25篇ー詩篇38篇
  57. BRC 2021 no.057:詩篇39篇ー詩篇52篇
  58. BRC 2021 no.058:詩篇53篇ー詩篇66篇
  59. BRC 2021 no.059:詩篇67篇ー詩篇80篇
  60. BRC 2021 no.060:詩篇81篇ー詩篇94篇
  61. BRC 2021 no.061:詩篇95篇ー詩篇108篇
  62. BRC 2021 no.062:詩篇109篇ー詩篇122篇
  63. BRC 2021 no.063:詩篇123篇ー詩篇136篇
  64. BRC 2021 no.064:詩篇137篇ー詩篇150篇
  65. BRC 2021 no.065:箴言1章ー箴言14章
  66. BRC 2021 no.066:箴言15章ー箴言28章
  67. BRC 2021 no.067:箴言29章ーコヘレトの言葉11章
  68. BRC 2021 no.068:コヘレトの言葉12章ーイザヤ書5章
  69. BRC 2021 no.069:イザヤ書6章ーイザヤ書19章
  70. BRC 2021 no.070:イザヤ書20章ーイザヤ書33章
  71. BRC 2021 no.071:イザヤ書34章ーイザヤ書47章
  72. BRC 2021 no.072:イザヤ書48章ーイザヤ書61章
  73. BRC 2021 no.073:イザヤ書62章ーエレミヤ書9章
  74. BRC 2021 no.074:エレミヤ書10章ーエレミヤ書23章
  75. BRC 2021 no.075:エレミヤ書24章ーエレミヤ書37章
  76. BRC 2021 no.076:エレミヤ書38章ーエレミヤ書51章
  77. BRC 2021 no.077:エレミヤ書52章ーエゼキエル書8章
  78. BRC 2021 no.078:エゼキエル書9章ーエゼキエル書22章
  79. BRC 2021 no.079:エゼキエル書23章ーエゼキエル書36章
  80. BRC 2021 no.080:エゼキエル書37章ーダニエル書2章
  81. BRC 2021 no.081:ダニエル書3章ーホセア書4章
  82. BRC 2021 no.082:ホセア書5章ーヨエル書4章
  83. BRC 2021 no.083:アモス書1章ーヨナ書4章
  84. BRC 2021 no.084:ミカ書1章ーゼパニア書1章
  85. BRC 2021 no.085:ゼパニア書2章ーゼカリヤ書10章
  86. BRC 2021 no.086:ゼカリヤ書11章ーマタイによる福音書7章
  87. BRC 2021 no.087:マタイによる福音書8章ーマタイによる福音書21章
  88. BRC 2021 no.088:マタイによる福音書22章ーマルコによる福音書7章
  89. BRC 2021 no.089:マルコによる福音書8章ールカによる福音書5章
  90. BRC 2021 no.090:ルカによる福音書6章ールカによる福音書19章
  91. BRC 2021 no.091:ルカによる福音書20章ーヨハネによる福音書9章
  92. BRC 2021 no.092:ヨハネによる福音書10章ー使徒言行録2章
  93. BRC 2021 no.093:使徒言行録3章ー使徒言行録16章
  94. BRC 2021 no.094:使徒言行録17章ーローマの信徒への手紙2章
  95. BRC 2021 no.095:ローマの信徒への手紙3章ーローマの信徒への手紙16章
  96. BRC 2021 no.096:コリントの信徒への手紙一1章ーコリントの信徒への手紙一14章
  97. BRC 2021 no.097:コリントの信徒への手紙一15章ーコリントの信徒への手紙二12章
  98. BRC 2021 no.098:コリントの信徒への手紙二13章ーフィリピの信徒への手紙1章
  99. BRC 2021 no.099:フィリピの信徒への手紙2章ーテサロニケの信徒への手紙二2章
  100. BRC 2021 no.100:テサロニケの信徒への手紙二3章ーテトスへの手紙3章
  101. BRC 2021 no.101:フィレモンへの手紙1章ーヘブライ人への手紙13章
  102. BRC 2021 no.102:ヤコブの手紙1章ーヨハネの手紙一1章
  103. BRC 2021 no.103:ヨハネの手紙一2章ーヨハネの黙示録7章
  104. BRC 2021 no.104:ヨハネの黙示録8章ーヨハネの黙示録21章
  105. BRC 2021 no.105:ヨハネの黙示録22章


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  1. BRC 2021 no.001:創世記1章ー創世記6章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 明日から2021年となります。BRC2021の通読の予定も明日からはじまります。すでに、何回かこのスケジュールで聖書を通読された方も、始めたけれど終わることができなかったかたも、かなり遅れてしまって、迷っておられるかたも、聖書をもういちど一緒に通読しませんか。一日二章ずつ読み続け、二年間(2022年12月26日まで)で、旧約聖書1回と新約聖書2回通読する計画です。この通読の会についての基本情報と、なかなか続かないかたのためへの、簡単な助言はホームページに書いてあります。長いので引用することはしませんが、一度読んで頂ければと思います。(新しいBRCを始めるとき、前回のものを引き継ぎながら少しずつ更新しています。) https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html 創世記から読み始めヨブまで読み終わったら、新約聖書を読みます。予定では一週間に一度、原則として日曜日朝に、月曜日から次の日曜日に読む部分について簡単に記したメールを送らせて頂きます。(卒業をひかえていたりなど、他のアドレスがより継続的に受け取れるかたはご連絡ください。)今回は第一回です。明日からの三日間分ですので、創世記1章から創世記6章の部分です。わたしは、このメールを送るために、ほぼ二週間先の部分を日課として読んでいます。皆さんにお送りするときには、次の一週間の部分を読み終わっているようにしているので、その部分の私の「聖書ノート」もホームページには載せてあります。様々な予定から、少し先を読まれる場合は、下のホームページを見ていただければと思います。 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html ここには、各巻について、たとえば「創世記」について、簡単に記しています。できれば、改訂をしていきたいのですが、あまり欲張らないこととします。 今回は、聖書の各章ごとにまとめたページの作成をはじめました。BRC2013 から配信を始めたわたしの聖書ノートを章ごとに集めたものです。(BRC は、2011 から始まっていますが、聖書ノートのシェアをはじめたのは、BRC2013 からになります。)多少作業が必要なので、まだ、創世記を作業中ですが、この通読にあわせて作業をすすめることができればと願っています。 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 現在の登録者でメールが届いていると思われる方の人数は75です。BRC2019 終了後に3名の方々が加わってくださいました。 みなさんが、感想をシェアしていただくこともできるようにしてあります。BRC2019 では、二年間で 109 の投稿がありました。投稿は無論任意ですが、何人もの方に投稿していただけると、嬉しいですね。読む幅も広がり、他の参加者にとっても、助けになると思いますよ。 シェアしていただける部分を、メールで送って下されば、一週間分ほどためてから、基本的には日曜日の夜に、皆さんに、配信します。どのようにすればよいかもふくめて、最初にお読み下さいという記事を「この会について」という題で、以下に書いてあります。私を除いては、お互いには、知らない相手に配信されるわけですから、ニックネームか、イニシャルをつけて送っていただけるのがよいと思います。 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#introduction すでに、以前からこの会に加わっておられる方も、一度、読んで頂ければと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記1章ー創世記6章はみなさんが、明日1月1日(金曜日)から1月3日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。章ごとにまとまったページは、作成途中ですが、少しずつ整えていきたいと思います。過去のものも含めてそ、その回、たとえば BRC2019 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2019 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方があるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Genesis 1:18 昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。 新しい通読が始まった。とてもわくわくする。今回、聖書協会共同訳を読むことにしたからもある。BRC2019 開始のときにすでに出版されており、手元にあったが、電子版が公開されておらず、引用を考え、断念した。序文から読んだ。「礼拝で朗読するのにふさわしい格調高い日本語を目指した」とある。引照と注が付いているものを読んでいるが、それが新共同訳とは変化している。聖書学の研究も取り入れられており注が整理されている。引用箇所は「神は言われた。『天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。』そのようになった。」(14,15)と始まっている。全体として、「分ける」ことが記され、ここでは「光と闇を分けるため」となっている。分けることは、人間の世界では、差別を生む。しかし「良し」とされる状況には、分離が伴うのだろう。単純な読み方に偏らず、丁寧に読んでいきたい。「昼と夜」を「光と闇」と言い換えている。詩的であり、示唆的でもある。 Genesis 2:10 エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。 4つの川の名前、ピション、ギホン、ティグリス、ユーフラテスは、実在の川をイメージさせる。それらがエデンから流れ出ている。地域的にも、民族的にも、多様な時代は想定されていない。創世記が書かれた時代、世界はすでに、広がりをもち、多様になっていただろうに。地球の一箇所、それも、一つの民族から世の中を見ることの危なさを感じる。しかし、エデンを描くことで、最初は、ひとつであることを、思い起こさせているのかもしれない。神によって創造されたものとして。記者はおそらく、世界の広がりを知っていただろう。そのうえで、神が創造した世界を、神との交わりという経験を通して描いているのだろうか。あせらずに、断定的にではなく、柔軟性も持ちながら読んでいこう。 Genesis 3:22 神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」 創世記がいつの時代に書かれたかわからないが、人間を、そして、人間と神の関係を、さらに、善悪といのちの問題をこのように記していることは、ほんとうに興味深い。神をそして、神のもとにある真理、善なるものを、真剣に求めた人たちの一つの告白でもあるのだろう。命の木は2章9節にあるが、食べることを禁止はされていない。善悪を知る木については、食べることを禁止はされているが、食べることが可能だったことも確かである。命の木の実を食べて生きるのがエデンの園での生活だったのだろう。引用句では、善悪を知りながら、命の木の実を食べることが問題だと言われていると解釈すべきだろう。善悪を自分で決める生活と、神との関係に育まれる生活は、両立しないと言っているのだろうか。すくなくとも、創世記記者はそう考えたのだろう。善悪を考えながら、自分の内にはない、真理をもとめて生きる生活。人間は大きな課題を背負って生きている。それは、変化が大きく、先が見通せない、いまの時代の難題であることは、確かである。神との平和の中で生きることはほんとうに難しい。主なる神も苦しんでおられるのだろう。 Genesis 4:6,7 主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」 翻訳が少しずつ変化し4節は「アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、」と訳され、肥えた羊の部分が強調される訳になっている。「アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。」(口語訳)とはかなり印象が異なる。原語ではそこまでのニュアンスが私にはわからないが、英語の訳でも原語の言葉の並びに近いと言われる NKJV や NASB を見るとそこまでの強調はない。統計学でまず学ぶことは "Correlation is not causation"「相関関係は因果関係にあらず」である。ひとは、ものごとを因果関係で捉えたがる。人間の思考の癖である。しかし、実際には、背後に多くのことがあり、因果関係を特定することは、簡単ではないばかりか、因果関係とは言えない場合がほとんどである。ナイチンゲールが言っているように、(統計学を通して)神様の行動の癖を知ることはたいせつだとわたしもおもう。人間が恵みがどうしても受け入れられないことの背景にもこのことがあるだろう。引用句も、様々なことが並行して起こっているなかで、どう生きるかが問われているようにおもう。思考において、因果関係に縛られやすい人間の癖には、気をつけないといけない。 Genesis 5:3-5 アダムは百三十歳になったとき、自分の姿やかたちに似た男の子をもうけ、その子をセトと名付けた。セトをもうけた後、アダムは八百年生きて、息子、娘をもうけた。アダムが生きた生涯は、合わせて九百三十年であった。そして彼は死んだ。 洪水以前の世界のひとたちが子孫を残した年齢と、寿命が書かれている。6章3節までの暫定期間である。数字も作った感じを否めない。いまとは違った状態であったことを、人々は悟っただろう。エデンで、善悪を知る木の実を食べたことに対する神様の対応だけでは、まだ、完成していない、または、現代に至るひとになっていないことを示しているとも言える。ひとの生い立ちを書きたかったのだろうから。こんなことはありえないという読み方ではなく、ここで伝えようとしているメッセージをうけとらなければならない。このあたりに、一つのハードルがあるのだろうが。 Genesis 6:3 主は言われた。「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」 「肉」は、2章21-23節で「女を造り上げ」(22)たところに出てくるのみで、はっきりしない。ひとは、神の霊が、ひとのうちに永遠にとどまる仕様にはなっていないということを言っている。ネフィリムも似たことの表現なのかもしれない。神との交わりをもつが、霊はいつまでもはとどまらない「ひと」。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、 地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(5・6)神の苦悩が表現されている。神は失敗したり悔いたりすることはないと考えることは普通だが、そうではない描き方をしている。そのようなことを凌駕する、難しい現実がここにあるのだろう。地上の悪は、今に至るまではびこっている。それを認め、悔やみ、心を痛められる神。「ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった。」この神とともに歩むこと、苦悩される神とともに歩むひとを、正しく全き人だと言っているのかもしれない。著者の意図を受け取っているかどうかは不明だが、深さを伴った、示唆に富んだ記述である。 皆様からの投稿も楽しみにしています。疑問、わからないことをシェアすることもふくめて。互いに学びながら、共に読んでいくことができることを願っています。違いと共通のこと両方を思いながら、見えない相手ではありますが、それぞれがたいせつにしているものをたいせつにし、かつ、緩やかな帰属意識が育まれればと願っています。 新しい年が、みなさん、ひとり一人にとって、神様の祝福をうけとることとなる年となりますよう祈っています。 2020.12.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  2. BRC 2021 no.002:創世記7章ー創世記20章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 2021年、皆さんの通読は始まりましたか。今週は、創世記を読み進めます。創世記について概略を確認したいかたは、サポート・ページに少し書いてありますので、参考にしてください。7章から20章は、大雑把にいうと、アブラム(後のアブラハム)という族長の時代の歴史といえるように思います。創世記では「系図(トーレダー towledah)」(2:4, 5:1, 6:9, 10:1, 32, 11:10, 27, 25:12, 13, 19, 31:1, 9, 37:2)という言葉が一つの区切りとして何回か使われていますが、「アブラハムの系図」ということばは不思議なことに書かれていないようです。アブラハムは新・旧約聖書を通して重要な人物ですので、どのように描かれているか受け取ることができると良いですね。 創世記はそして聖書はいつどのように書かれたのだろうと思われるかたもおられるでしょうね。天地創造から書かれているのですから。キリスト教会ではよく引用される箇所を、一箇所上げておきます。 「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」(テモテ後書3:16) 霊感は英語では inspiration です。誰が霊感を受けたか、聖書記者については、受け身表現によって省略されています。聖書記者よりも、この「神の霊感」によって書かれたことが重要だよと、解釈されていると思います。しかし、この 「神の霊感」をどう解釈するかには、いろいろな理解の幅があるようです。また、これは、新約聖書にかかれていることで、この「聖書」に新約聖書が含まれるのか、この記述自体「神の霊感」によるのか、テモテの第二の手紙はどのように成立したのか、などと問い始めると、迷路に入り込むようにも思います。個人的には、そのようなことをしっかり考えることはたいせつであるということとともに、まず出だしとして、聖書記者がいることは否定してはいけないと思います。聖書は、聖書記者が(なんらかの方法で)神からのものとして受け取ったメッセージが書かれています。その聖書記者が信頼できないと思われるかたもおられるかもしれませんね。 いろいろな違和感に出会うとき、または、これは問題だということに出会うとき、または、この人のこんな考えは問題だと思うとき、人生には頻繁にありますよね。そんなとき、わたしは、いくつかの「呪文」を唱えることにしています。その1つ目を紹介しておきます。「あなたのことを教えて下さい。」です。聖書を通読していても、違和感や、受け入れられないことに多く出会うのが自然だと思います。時間も距離も文化的にも離れている記者からのメッセージをうけとるには、まずは、「あなたのことを教えて下さい。」というこころで向き合いたいと願っています。その方々とも、共に生きるために。 みなさんは、共に歩むとか共に生きるとかいうとき、どのようなことを想像しますか。一番、そのことが現実となるのは、その人の悩みのとき、苦しんでいるときに、共にいることではないでしょうか。そのときに、そこに至った因果を考え、間違いを批判するところから始めますか。おそらくそうはしないですよね。聖書記者が見ている世界の理不尽さ、苦悩を理解しようとすることが、聖書記者と共に歩み、生き、神様のみこころをもとめること、そして、それが、イエス様や、神様の苦しみ、悩みを受け取ろうとすることかもしれません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思っています。「こんな気持で今回の通読をはじめました」なども良いですし、共に読んでいる方への「わたしはこんなことをしています」という自己紹介でも良いですし。ただ、前回書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でも良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記7章ー創世記20章はみなさんが、明日1月4日(月曜日)から1月10日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。章ごとにまとまったページは、作成途中ですが、少しずつ整えていきたいと思います。過去のものも含めてそ、その回、たとえば BRC2019 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2019 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方があるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Genesis 7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである。 ノアとその家族だけが残されたのは、ノアの正しさによると書かれている。家族の正しさは書かれておらず、動物については、滅ぼされたものも、救われたものもその選別の理由は書かれていない。「主は、地上のすべての生き物を、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまで消し去られた。彼らは地から消し去られ、ただノアと、彼と一緒に箱舟にいたものだけが残った。 」(20)しかし、このあとの展開を見ると、主のこの事業は、成功ではなかったように見える。つまり、主は、最初の創造を悔い、ノアの箱舟による再出発を図るが成功には至らせてはいない。事実かどうかではなく、そのように、聖書は語っている。まだ、急いではいけないだろうが、世の救いのために御子イエスを送られたことは、成功なのだろうかとも問いたくなる。聖書記者も、そしておそらく、主も、苦悩しておられるのだろう。その苦悩をともにして、主の願われる、ともに交わりを持ち、互いに仕え合い、愛し合うことを目指すことが、わたしが今回受け取っているメッセージのようである。 Genesis 8:21,22 主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」 聖書記者の人間理解なのか、神の理解なのか、はっきりはしないが、この創世記物語でのあらたな起点のように思える。結局、ここがスタート地点だよと。これが現実、環境だけれど、そのなかで、わたしたちは、どう生きるのだろうか。どの方向を向いて歩いていくのだろうか。このように書いてあるから、地球温暖化などは心配しなくてよいと Greta Ernman Thunberg さんにメッセージを送った牧師先生もおられるようだが、聖書のメッセージは、むろん、そのようなところにはないと思う。「心に計ることは、幼い時から悪い」人間がどう生きるか。聖書記者とそして神とともに、聖書を読み、世界を見ながら、苦悩していきたい。 Genesis 9:6 人の血を流す者は/人によってその血を流される。/神は人を神のかたちに造られたからである。 命は神が与えられたものと言う以上のことが書かれている。神のかたちである。神学的に昔から多くの論文が書かれ議論のあるところだろう。わたしの理解では、尊厳の基盤である。「『神を愛している』と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。」(1ヨハネ4章20節)の基盤を支えていると思う。人間の尊厳は、神なしにも説かれるが、それは、動物との違いについて、なにも言えない。動物や他の生物との違いをここでは言及できないが、聖書は、明らかな形で区別して始まっている。応答すべきものとして、優位というより応答責任を課せられているのだろう。そして応答は、互いに愛し合うこと、隣人となることである。むろん、多くの議論があるところではあるが。 Genesis 10:8,9 クシュはまた、ニムロドをもうけた。ニムロドは地上で最初に勇士となった者である。 彼は主の前において勇ましい狩人であった。それゆえこういうことわざがある。「主の前における勇ましい狩人ニムロドのようだ。」 単に名前だけではない記述は、9章にもあるハムの子カナンの記述、25節のペレグについての記述があるが、圧倒的なのは、このニムロドから始まる記述である。引用箇所のあと「彼の王国の初めは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。 彼はその地からアッシリアに出て、ニネベ、レホボト・イル、カラ、そしてレセンを築いた。レセンはニネベとカラとの間にあり、それは大きな町であった。」(10,11)アッシリアには、長い歴史があるので、定かではないが、イスラエル王国を滅ぼし、ニネベを首都とする、無視できない国である。バベルもここで登場し、ウルク、アッカドと続く。歴史的にはアッカドの文明は多く記録されている。ウルクはカルデヤのウル(11章28節)とは異なるだろうが、地域的にはニムロドの地がアブラハムが旅を始めた地域でもあるように思う。エジプトも含め、世の権力の系譜をも語ることで、アブラハム以降につながる、イスラエルの出自を示しているのだろう。なにを中心として伝えようとしているのだろうか。簡単には、言えないように思う。 Genesis 11:6,7 言われた。「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」 言語が混乱し、互いに言語が理解できないようになっている理由が書かれていると考えていたが、この章は、この次の章から始まるアブラハム物語の、序章という役割も果たしている。「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1章2節)が神の創造がはじまる状況だったように、そして、ノアの時代の混乱のように、ここでも、その混乱の時代に新しいことを始められたことの背景を記していると考えたほうが良いのかもしれないと思った。いまも、コロナで、混沌とした状態である。神は、どのようなことを考えておられ、そして、わたしたちは、その混沌と混乱の中で、なにを始めるのだろうか。考えてみたい。 Genesis 12:10 ところが、その地で飢饉が起こった。その飢饉がひどかったので、アブラムはエジプトへ下って行き、そこに身を寄せようとした。 アブラハム物語の最初は、神の祝福の約束で始まる。しかし、最初の物語は、飢饉とそこでのアブラハムの問題行動ではないかと思われる記事である。神様はなにを考えておられるのだろうか。また、失敗なのだろうか。まずはとてもむずかしいことをしておられるのだと受け取っておこう。神様とともに苦しむために。 Genesis 13:5-7 アブラムと一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。そのため、その地は彼らが一緒に住むには十分ではなかった。財産が多く、一緒に住むことはできなかったのである。それで、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが生じた。当時、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。 この二人も、一緒に住むことができなかったという。原因は不明であるが、「アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。」(2)とあり、引用箇所には「アブラムと一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。」とある。それは原因ではないだろうが、それによって、争いが生じたとある。しかし、不思議なことに、当時すでに、「その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。」ともある。その人達との関係はどうだったのか。自らを寄留者と自認し、丁寧に対応していたのではないだろうか。かえって親しいものどうしのほうが、問題が起きる。対等なものとして見てしまうからだろうか。公平さは、平等を基盤として考えるとすぐに、崩れ去る。近くを見すぎているから。神様の見守りによって生かされていることに対する応答として生きることを根本におき、互いに仕え合い、愛し合う存在として召されているものの目指すものとして、公平をみる必要があるのだろう。争う前に。現実は難しい。 Genesis 14:14 アブラムは親類の者が捕虜になったと聞き、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者を動員し、ダンまで追って行った。 この戦いについては、不思議なくらい、詳細が書かれている。同盟を結んでいたエシュコルとアネルやマムレのこと(13,24)、引用箇所にある追跡していった人数、正確は距離は不明としても、ダンや、ダマスコの北のホバの地名まで書かれており、移動距離にも驚かされる。なんらかの実際の戦争が背景にあるのだろう。無論、焦点は、戦いではない。アブラハムがどう行動したかだろう。ロト一家を助けたこと、財産に関しては、人のものには手を出さないことを厳格におこなっていたこと、そして、サレムの王メルキゼデクには、特別の捧げものをしたことだろう。22節以降の、アブラハムのことばはよくは理解できないが、この地である平和を保って生きていくための知恵が隠されていると考えるのがよいようにおもう。むろん、絶対的なものではなく、アブラムが考えた知恵である。興味深い。 Genesis 15:2,3 アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」 アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」 この箇所まであまりアブラムのことばは記されていない。豊かなかつ祝福された何不自由もないひとのように描かれている。しかし、ここに、アブラムの苦悩が主の言葉への応答として現れる。ひとの苦しみは傍からみていてもわからない。自分でも、なるべく見ないようにしている場合もあるだろう。実際の約束を信じるというよりも、その苦悩と向き合うことが、主を求めることなのかもしれない。子孫に対する祝福をアブラムは十分には見ることはできない。しかし、その悩みと向き合うこと。12節に深い闇を見るように、単純な解決ができるわけではなく、闇は残るのだろう。そのなかで、神に希望を持ち続けることだろうか。そのように言う神の実態はよくわからないにしても。 Genesis 16:5,6 そこでサライはアブラムに言った。「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。あなたに女奴隷を差し出したのはこの私ですのに、彼女は身ごもったのが分かると、私を見下すようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。」 アブラムはサライに言った。「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライの前から逃げて行った。 これだけを見ていると、アブラムとサライの身勝手さが際立っている。ここだけを切り取ってはいけないのだろう。しかし、読者が、もっとよい方法があったはずだと考えるのは自然だろう。しかし、聖書は、ハガルの物語を通して、神はまた別の方法でも働いておられることを示しているように思われる。とはいえ、民族対立の火種をこのように描くのはとても危険でもある。現代的に見ると配慮にかけると言わざるをえない。自らの苦悩の歴史を語るときに、他者の視点を入れることは無理なのだろうが。キリスト教界での証になにか違和感を感じることが多い理由でもあるように思う。自らのストーリーをナラティブを通して、いやしを受けることを批判するわけではないが、それはその事に関する一つのストーリーに過ぎないことも、知り、見つめるべきである。難しいことは確かだが。 Genesis 17:1,2 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」 中心は、前半にあるように思う。神のかたち(1:26,27, 5:3(?), 9:6, 姿(5:1))かどうかはわからないし、それがなにを意味するのかもわからないが、神の子となるため。神の前に(「神を背負って・神の祝福を受け継ぐものとして」だろうか)歩むこと。ここに、(善く)生きることのすべてが入っているように思う。「私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである。」(7)とあるが、子孫がどうなるかは、その子孫の生き方によるのだろう。割礼のことが書かれているが、これは、人間としての応答だったろう。割礼は、いくつかの民族でなされていたようである。 Genesis 18:2 ふと目を上げると、三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、 引用句から一節一節読んでいくと、アブラハムがこの三人をこころを込めてもてなす様子が痛いほど伝わってくる。引用句の中でも「走り出て、地にひれ伏し」とある。神の前を歩むものとしての生活、神の御心を真剣にもとめながら歩むものの生活は、この三人のひととの出会いをとおしても神様からのメッセージをうけとりたい、または、神様の前を歩むものとして出会いたいと願っていたように感じさせられる。そのひとがイエス様であるかのように(マタイ25章40,45節)。まずこのひとは、神から来たものかどうか、疑心暗鬼に探ることから始めるのではないかもしれない。旅人に仕えるところから、そして、そのことが、イサクについての預言だけでなく、ソドムとゴモラに関する会話にも発展する。あたかも、神の苦しみや悩みを自分の苦しみや悩みと同期するかのような瞬間を経験する。神の前に全きものとして歩む生き方が、ここにあるように思う。 Genesis 19:19,20 確かに僕はあなたの恵みを得ています。あなたは私の命を救うため、慈しみを豊かに示されました。しかし私は山へ逃れることはできません。災いが襲いかかって来て、私は死んでしまいます。御覧ください。あの町は近くにあるので逃げ込むことができます。しかも小さな町です。どうかそこへ逃れさせてください。小さな町ではありませんか。私はそこで生き延びることができるでしょう。」 ロトを見ていると、残念な部分が多い。もてなし方(3)娘に対すること(8)優柔不断(16)そしてこの箇所。結局は、30節にあるように山に住んでいる。その中で引用句を選んだのは、恵みを得ていることを告白しているからである。因果を考えるのではなく、恵みに目をむけることが最初ではないかと、わたしが考えているからもある。今日の箇所には「彼らの叫びが主の前に大きくなり」とある。主の前に生きていることへの認識をたいせつにしていた、または、われわれはみな主の前に生きていると記者は告白しているのだろう。一人ひとりの生き方がどのようなものであれ。それを恵みとして認識するかどうかは、ひとによるのだろう。 Genesis 20:12,13 それに実際、彼女は私の父の娘で、妹でもあるのです。ただ母の娘ではないので、彼女は私の妻となることができたのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうしてくれると助かる。行く先々で、私のことを兄と言ってくれないか』と頼んだのです。」 系図が書かれている、11章27節から32節を見ると、テラの子が、アブラム、ナホル、ハラン、ナホルの妻ミルカはハランの娘、つまり、姪だとあるが、サラについては書かれていない。父親が同じであれば、母親は異なっても、遺伝的にも問題は起こりやすい。なにか、この場をつくろうための作文だったのかもしれないと思う。いずれにしても、不自然さを感じる。アブラムにもいろいろな問題があったということだろう。そして、聖書記者はそのことを知っている。 2021.1.3. 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  3. BRC 2021 no.003:創世記21章ー創世記34章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 通読はいかがですか。今週は、引き続き、創世記を読み進めます。使徒言行録7章32節に「私は、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」とあるように、このあと、聖書では何度も、この三人の名前を出しています。今回の通読箇所は、この三人が皆登場します。実はイサクについては、実質的には短いですが。イスラエル(ヤコブの呼称)は、その信仰の起源を、この三人に置いているということなのでしょう。個人的には、物語としても、非常によく書かれていると思います。現代にも通じる、考えさせられる箇所も何箇所もあります。 神との関係、兄弟や近親者との関係、周囲の他者との関係の持ち方、理解の仕方、どのように共に歩むかとも表現できるでしょうか。(バベル後、または、バベルに象徴される世界)互いに理解し合うことが困難な中で、わたしたちは、どのように、共に生きていったら良いのでしょうか。神様と共に歩むとは、神様が共にいてくださるとはどのようなことを意味しているのでしょうか。自分にとって、そして、他者においても。 そう考えると、聖書の読み方、受け取り方も、いろいろとあってよいのだと思います。正しい解釈を求めるのではなく、そこで描かれていることを受け取り、理解しようとし、自分ならどうするらろうかと、考えることによって、他者を逆に理解することにつながることもあるかも知れません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思っています。「こんな気持で今回の通読をはじめました」なども良いですし、共に読んでいる方への「わたしはこんなことをしています」という自己紹介でも良いですし。ただ、前回書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でも良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記21章ー創世記34章はみなさんが、明日1月11日(月曜日)から1月17日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。創世記は完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めてそ、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Genesis 21:1,2 主は、言われたとおり、サラを顧みられた。そして主は、語られたとおり、サラのために行われた。彼女は身ごもり、年老いたアブラハムに子どもを産んだ。それは、神がアブラハムに語った時期であった。 最後に「それは、神がアブラハムに語った時期であった。」は、これが偶然ではないことを示すことばであろう。約束は直接的には「主にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」(18章14節)を指すと思われる。しかし、アブラムにとっては、12章での祝福以降長い歴史がある。御使い、神からの使者からのメッセージ以外にも、様々な思いがあったろう。それを思い巡らし、信仰に生きること。イシュマエルが生まれたのは、アブラムが86歳のとき。(16章16節)世継ぎが生まれるかどうかだけではない、主への信頼をともなった期間だったろう。アブラム(アブラハム)の一生についても、一度、年譜を書いて学んでみたい。アブラハムの思いはほとんど記されていないが。(11など少しある) Genesis 22:2 神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」 モリヤは検索すると聖書に二箇所しか現れない。この箇所と「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である。」(歴代誌下3章1節)である。同じ、モリヤの山と考えるのは、問題がある。14章のサレムがエルサレムかどうかは別としても、エルサレムも長い歴史がある街、その中のモリヤ山とする可能性は難しいし、歴代誌下にだけ一回出てくることも、問題であるように思う。ただ、信仰的に、それを結びつけて考えようとした人がいたということだろう。それは、十分理解できるように思う。モリヤの山が礼拝の場所となる。地理的には同一でなくても。 Genesis 23:4 「私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。あなたがたが所有している墓地を譲っていただきたいのです。そうすればこのなきがらを移して葬ることができます。」 この「寄留者・滞在者」ということばに惹かれる。このあとのエフロンとの商談の400シェケルは、異様に高額だとも言われる。しかし、その正当さよりも、異なるところに価値観があるのだろう。寄留者だと言うだけでなく、そのように生きることである。天に国籍があるということばは象徴的であるが、高慢な響きもある。神の支配を待ち望み、この地でも御心が行われるように願う、世とは異なる価値をたいせつにしていきるものである。そして、これが絶対に神の御心というものも、未だ持っておらず、それを、探し求めながら生きる民でもある。世の正しさ、多くの場合損得に依存した正しさ・公正さに縛られない、神様がたいせつなことをたいせつにしようとする生き方だろうか。寄留者はその意味で、放浪者、探求者でもあるように思う。 Genesis 24:7,8 私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた天の神である主は、あなたの前に御使いを遣わされる。それであなたはその地から息子に妻を迎えることができる。 しかし、もしその人があなたに付いて来るのを望まなければ、あなたは私との誓いを解かれる。ただ、息子を向こうへ連れて行くことだけはしてはならない。」 アブラハムは神の計画を完全に信頼している。しかし、そうであっても、このしもべ(財産のすべてを管理している家の老僕(2))への配慮も怠らない。信頼しているゆえ、また、謙虚さの故の、ことばだろう。最後は「息子を向こうへ連れて行くことだけはしてはならない。」には、アブラハムの強い意志が現れている。しかし、このあとのヤコブ物語などを見ると、そう単純でもない。アブラハムが思っていた御心と、実際には、やはりある隔たりがあったように思う。主は、しかしながら、アブラハムの願いと祈りに答えられたのだろう。恵みである。 Genesis 25:5,6 アブラハムは財産のすべてをイサクに譲ったが、側女の子らには贈り物を与え、まだ自分が生きている間に東の方にあるケデムの地に移住させ、息子イサクから遠ざけた。 側女の子とこのように分けることは、現代では、問題視されているが、そのことは一旦おくと、アブラハムの子はひとりであったことを証言しているのだろう。そのひとり子のイサクを捧げたことに、聖書の預言的価値があるのだろう。象徴的なことはどの程度意味があるのか不明であるが。気になるのは、アブラハムは、おそらく、近親者同士が近くにいることが、問題の種となることを配慮して、移住させただろうということである。賢いとも言えるし、悲しくもある。この章の後半では、エサウとヤコブのはなしが始まる。長子の権利を売り買いできるものではないだろうが、そこでは、エサウのほうだけが、長子の権利を軽んじたとしている。ヤコブは、それが欲しかったろうが、売り買いができるものとしたことから考えると、軽んじたことは確かだと思うが。 Genesis 26:4,5 私はあなたの子孫を空の星のように増やし、これらの地をすべてあなたの子孫に与える。地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるであろう。アブラハムが私の声に聞き従い、私に対して守るべきこと、すなわち、私の戒め、掟、律法を守ったからである。」 祝福の更新である。後半の部分について考えた。直後に、イサクが、アブラムのときと同じように(12章・20章)妻を妹と偽ったことに「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民の誰かがあなたの妻と寝るところであった。あなたは私たちに過ちを犯させようとしたのだ。」(10)というアビメレクのことばを加えている。アビメレクのほうがよっぽど、過ちに敏感である。むろん、イサクとの(対人)関係を注意していた結果だろうが。そう考えると、「私(主)の戒め、掟、律法」は、一つ一つの過ちをさすのではなく、第一義的には、主の声を聞こうとするかどうかを言っているのかもしれない。主に従って生きようとする基本姿勢だろうか。むろん、主がたいせつにされる他者をたいせつにすることも、含まれるはずであるが。「戒め、掟、律法」とまだこの時代には確立していないと思われるものを、含めているので、後世へのメッセージなのだととることもひとつの解釈である。 Genesis 27:41 こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」 ヤコブは、母リベカの兄ラバンのもとに身を寄せる。33章でエサウとヤコブが再会するまで、20年(31章38・41節)の年月が必要である。このあとのヤコブについては、記述があるが、エサウについてのそれはない。ひとには結局いつになっても見えない部分がある。このイサクによるヤコブの祝福の記事も、見えない部分もあるのだろう。ある程度認知症があると思われるイサクも、自分には制御できない部分があることを承知で、委ねたのかもしれない。エサウにも、そのことをある程度悟るための期間が必要だったのかもしれない。祝福を奪ったヤコブの記事も、ひとつの時点の描写であり、このあとヤコブが背負って、自分とも、他者とも向き合って生きていく、こころに焼き付いているシーンだったのだろう。 Genesis 28:20-22 ヤコブは誓いを立てて言った。「神が私と共におられ、私の行く道を守り、食べる物、着る物を与えてくださり、私が無事、父の家に帰ることができ、そして主が私の神となられるなら、その時、柱として私が据えたこの石は神の家となるでしょう。そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」 いくつもの条件を並べ立てているようにも見えるが、それは、現代的な視点から、A/B の選択を考えているからで、ひとつの決意と見るほうがよいのだろう。このことを心にとめて、歩みを続けていくと、こころに誓ったと理解したい。「十分の一」が現れるのは、創世記では、14章20節でアブラハムが、サレムの王メルキゼデクに贈り物を贈った箇所とここの二箇所である。ひとつの起源として書いているとも、後の時代の慣習を使って表現しているとも取れる。自分以外のものに支えられていることへの感謝の表明だろうか、敬虔の表現ともいえるかもしれない。 Genesis 29:9,10 ヤコブがまだ彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊の世話をしていた。ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊を見ると、すぐに井戸に近寄ってその口から石を転がし、おじラバンの羊に水を飲ませた。 8節にある井戸のルールとは異なる行動のように思われる。「ヤコブはラケルに口づけし、声を上げて泣いた。 」(11)とあるように、かなり興奮していたのだろう。ルール違反はおそらく土地(ハラン)のひとが許さなかっただろうから、ルールを犯してはいないのだろう。ラケルが連れてやってきたのが、おそらく「最後の群れ」で、ヤコブは、他の人達と協力して、石を転がしたのだろう。しかし、周囲が見えていない様子が秀逸に描かれている。レアに対する「優しい目(rak: tender, soft, delicate, weak)」(17)はおそらく良い意味ではないだろうが、ヤコブの視野が狭かったとも言える。こどもたち(イスラエル12部族)の名前の由来も含めて、うまくまとめられている。文学的表現としても、優れているように見える。 Genesis 30:41 たくましい羊が発情する度に、ヤコブは群れの目の前の水槽に枝を置いた。これらの枝で発情させるためであった。 これらの科学的根拠は不明である。しかし、「縞やぶちやまだら」といった特性は、雄と雌の遺伝子の複雑な組み合わせによって定まる遺伝子の発現によって決まるであろうから、何らかの意味はもっているのだろう。特に、わたしは、羊や山羊のことに関しては全く無知であるが、イスラエルの中には、詳しい人がたくさんいたと思われる。明確ではなくても、そうかもしれないと思わせる表現なのかもしれない。ヤコブが学び得たある智をずる賢さとして活用したことは表現されているのだろう。裁くつもりはないが、「私が神に代われるというのか。あなたの胎に子を宿らせないのは神なのだ。」(2)とは言っているものの、ヤコブの神との交わりはまだとても限定的なものであったように、思われる。若いことの文学的表現なのかもしれない。 Genesis 31:52 この石塚は証しであり、この柱もまた証しなのだ。害を加えようとして、私がこの石塚を越えてお前の方に行くことがなく、お前がこの石塚と柱を越えて、私の方に来ることがないためである。 ラバンとヤコブ、お互いのことを十分理解できているわけではないだろう。しかしここで、契約を結ぶ。棲み分け、分離である。そしてこれはおそらく、有期の契約だろう。人の世界の契約は、紛争を避けるひとつの有効な手段であるが、本質的解決ではない。しかし、そのようなもので紛争を回避している。ここから学ぶことは多いように思う。この章は「ヤコブは山でいけにえを献げ、一族の者を食事に呼んだ。そこで一同は食事をして、山で夜を過ごした。」(54)と終わっている。ヤコブは礼拝をし、おそらく、ラバンはテラフィムも盗まれ、それがなければ、礼拝にこころが向かわなかったかもしれない。しかし幸いなことに、共に食事をし、平和な夜を迎えている。主の悩みはおわらないだろうが、この晩は、主も喜ばれたかもしれない。 Genesis 32:26 ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。 このあとには「ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日はすでに彼の上に昇っていたが、彼は腿を痛めて足を引きずっていた。」(26)ともある。この箇所もいろいろな解釈があるが、ヤコブの贈り物作戦とはべつに、苦悩の中での「男」との格闘の中で、肉体的にも、びっこになったそのへりくだった姿を、神様は用意されたのかもしれない。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」(29)と告げているが、この苦悩を正直にぶつけたこと、その苦闘は、簡単に解決できるものではないことを表しているのかもしれない。神様はそのヤコブを受けいれ、さらに、その苦悩を、足を引きずるすがたに変えている。ヤコブにとっても、これを見るものにとっても、これは、ある変化を表現している。策略を労するヤコブではない。神様は、おそらく、それとは別に、エサウもたいせつに、導かれているだろうが。創世記記者の表現力にも、驚かされる。 Genesis 33:19,20 彼は天幕を張った土地の一部を、シェケムの父、ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取り、そこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。 「エル・エロヘ・イスラエル」は、「イスラエルの神エル」の意味と注にある。イスラエルは、33章29節で「男は言った。『あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。』」として与えられた名前である。個人的な神との交わりに対する信仰告白であるとも言える。しかし「イスラエルと呼ばれる」とあるように、呼称であり、他のひとのヤコブの認識も関わっていることは興味深い。キリスト者についても呼称であったことを思いだす。(使徒11章26節)33章のヤコブの、エサウとの出会いは、裏に秘められた、注意深さも感じるが、やはり、感動的である。放蕩息子の帰還を思わせる。多くのことが、ヤコブに去来していたことは確かだろうし、それをこのように描いている著者にも驚かされる。 Genesis 34:30,31 ヤコブはシメオンとレビに言った。「厄介なことをしてくれたものだ。お前たちは私を、この地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者にしてしまった。こちらはごく僅かなのだから、向こうが集まって攻撃して来たら、私も家族も滅ぼされてしまうだろう。」だが二人は、「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいというのですか」と言い返した。 割礼を相手を攻撃する道具に使ったこと、有効的な解決を計れなかったこと、ヤコブが何もしなかったことなど、考えることは多い。ヤコブがシェケムの町の前に宿営したときから考えておくべきだったのかもしれない。しかし、全くの分離主義者として生きるのか、他の方法を取るのか、イスラエルの人たちにとっても、大きな課題だったろう。ユダヤ人の歴史においても、キリスト者の歩みにおいても。ゆっくり考えていこう。 2021.1.10. 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  4. BRC 2021 no.004:創世記35章ー創世記48章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 読み始めた創世記も来週に2章残し、ほとんど最後の部分を読みます。通読は続いているかな。BRCのホームページの「リンク」にもすこし書いてありますが、スマートフォンをお持ちなら、日本語でも旧新約聖書が読めるようにいくつかのサイトがありますし、読み上げてくれるサイトもあります。ダウンロードできるサイトもあります。自分にあった時間に、あった方法を見つけて、読む・聞くことも通読を続けるひとつの秘訣です。わたしは、最近は、感想を書くようにしているので、コンピュータの前で、聖書を開き、引用箇所は聖書協会のサイトからとるようにしていますが、いろいろな形があると思います。 今週は、イサクの死から始まり、ヨセフ物語そして、そのクライマックスへと進みます。文学性も高い、物語としても興味深い箇所だと思います。そこで、内容については、今回は、書かないこととします。冷めた目でみると、イスラエル十二部族の成り立ちをドラマ化して説明したものとも取れるかも知れませんが、そうではない読み方もあると思いますよ。学者により意見は異なりますが、まあ、大雑把に、3000年ぐらい前に書かれた、4000年近い昔の物語に、わたしは涙したりします。不思議なものです。 中断してしまった方も、また通読を始めませんか。読んだ箇所がわかるように、通読表(BRCのサポートページのこの会についてにあります)を印刷しておいて、線で消しておくのもよいですよ。時間のあるときに、読んでいない部分を読むこともできます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思っています。「こんな気持で今回の通読をはじめました」なども良いですし、共に読んでいる方への「わたしはこんなことをしています」という自己紹介でも良いですし。ただ、前回書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でも良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記35章ー創世記48章はみなさんが、明日1月18日(月曜日)から1月24日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。創世記は完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めてそ、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Genesis 35:29 イサクは老いた後、生涯を全うして息絶え、死んで先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが父を葬った。 実は今回は引用箇所ではなく「時に、リベカの乳母であったデボラが亡くなり、彼女はベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。ヤコブはそこをアロン・バクトと名付けた。」(8)に惹かれた。24章59節に「彼らは、妹のリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを送り出すことにし、」とある乳母のことだろう。この二箇所しか登場しない。「アロン・バクト」は「嘆きの樫の木」の意味だとある。なにか、深いものを感じる。イサクは、28章の最初にヤコブを祝福するところ以降現れない。しかし、ここまで生きていたことを聖書記者は書いている。特別の伝承があったのか、聖書記者の心の通い方の凄さか。デボラは、家を支える重要なリベカの乳母として、覚えられていたのだろう。リベカの死については、書かれていない。物語の表面以外を支える人々。その死のあとに、この時代が終わるように、イサクが生涯を全うして息絶えていったのだろう。デボラの死を嘆きで表現し、イサクの死を二人の息子の和解の行為で描いていることについて、考えさせられる。 Genesis 36:6-8 エサウは、妻、息子と娘、家のすべての者、家畜とすべての動物、カナンの地で蓄えたすべての財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へと赴いた。一緒に住むには彼らの財産があまりにも多く、彼らが身を寄せていた地は、その家畜のゆえに、自分たちの生活を支えることができなかったのである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。 すでに32章4節で「ヤコブは自分より先に、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに使いの者を送り、」とあり、同16節にも「そこでエサウは、その日セイルへの帰途に着いた。」とある。すなわち、この時点でエサウの本拠地はセイルであり、引用したような理由ではない。しかし、創世記記者はそのようにまとめているのだろう。エサウのほうがヤコブから離れていったと。イスラエルと呼ばれるヤコブが中心にいる。カナン中心の物語である。このあとも周辺のエドムの歴史から始める。イスラエルの歴史が中心だからだろう。しかし、エサウがヤコブを受け入れたように、イスラエルの歴史観とは、ちがった視点にも、神様はおられ、愛しておられるように思う。他者の尊厳を意識することは、難しいが。 Genesis 37:20 さあ、彼を殺して、穴の一つに投げ込もう。悪い獣が食い殺したと言えばよい。あの男の夢がどうなるか、見てみよう。」 ヨセフは一般的には「嫌な奴」である。そのような人と対するときに神を畏れるかどうかが試されるのだろう。神が愛しておられる存在として見ることができるかどうかだから。「ヨセフはこれを父と兄弟に話したので、父はヨセフをとがめて言った。『お前が見たその夢は一体何なのだ。私やお母さん、兄弟たちがお前にひれ伏すとでもいうのか。』兄弟はヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた。」(10,11)とある。「心に留める」ことは、神を畏れることのひとつの表れとも言える。人を憎み、神を試すことがこの兄弟たちのしていたことである。ルベンは長男として父に対する責任を負っていることとともに、35章22節のことも、(父に対する)負い目として自覚していたかもしれない。26,27節にある四男ユダの発言には、多少、他の兄弟の悪を和らげようという意図も感じられるが、とどめることはできない。シェケムで男たちを皆殺しにした、シメオンとレビは首謀者だったのだろうか(42章24節参照)。あれは、正しかったと考えていたか、そう単純ではない心が芽生えていたか。わたしなら、この場にいて、どうするだろうか。互いに愛し合うこと(ヨハネ13章34節)は、イエスの愛というモデルを失い、人間どうしの平和を維持することにおいて、神が愛されるひとりひとりの尊厳を考えることなしに求めると、大きな間違いを引き起こすことも心に留めたい。 Genesis 38:26 ユダはそれらを確かめて言った。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ。」ユダは再びタマルを知ることはなかった。 Levirate(ラビラト)婚を支える記事である。levir はラテン語で兄弟を意味するようだ。「その頃、ユダは兄弟のもとから下って行って、ヒラという名のアドラム人の近くに住んだ。」(1)とあり、ここから始まっている。「友人のアドラム人ヒラ」(12)とあり「友人のアドラム人」(20)がもう一度登場する。友好関係を結んでいたのだろう。群れを飼って生活するものは、拠点をもちつつ移動を繰り返す。ケニアのマサイ族を訪ねたときに、少し考える機会があったが、その長の責任は重大である。その土地の他の部族との友好関係を保つことと、子孫を残すこともその責任のひとつなのだろう。男性と女性で家畜に対する責任もことなり、遊牧地をめぐり、男性は争いにも頻繁に関与することになる。独立した部族の部族長がその部族を養い、存続するために、定められた慣習だったのかもしれない。オナニー(オナンがしたようなこと)や、単に倫理的な問題として議論するのは、的を得ていないだろう。おそらく、ユダ部族の歴史にも、一つの危機があり、それがどのように克服されていったかという記述でもあるのだろう。いずれにしても引用した「彼女のほうが私よりも正しい。」は、印象的なことばである。 Genesis 39:14 家の者を呼び寄せて言った。「見てごらん。主人がヘブライ人の男を連れて来たから、私たちが弄ばれるのです。あの男が私と寝ようと私のところに来たので、私は大声で叫びました。 ヨセフをすべてにおいて恵まれた主は、この事件の背後にもおられたのだろうか。興味をもったのは、引用箇所で「主人が」とし「『私たちが』弄ばれるのです」と語っている。主人の責任にしようとしていること以外に「私たち」とすることで、使用人など、ヨセフが高い地位につくことに不満を持っていたひとを味方につける効果があったろう。ヨセフが主人の信頼を失う背後に複雑な背景があったことも想像させる。創世記記者があまり細かい解説はせず、しかしこのような言葉をはさむことで、想像力を掻き立てることをしているようにも見える。文学的表現か。表面的な立身出世で評価できない世界があることも、示唆しているように思う。Against Reductionism. 還元主義に注意。限られた指標のみによる評価の危なさ、論理に頼りすぎる議論の不十分さでもある。 Genesis 40:15 私は実はヘブライ人の地からさらわれて来たのです。またここでも、私が地下牢に投げ込まれるようなことは何もしていないのです。」 兄弟のことは述べていない。それを述べると、複雑な関係が想起されるからだろう。ヨセフが、これら一連のこと、そして結局献酌官がこのことを忘れてしまったこともどのように受け止めていたかは不明である。背後におられる神様の計画について知ることはできない。そのなかで、どのようにひとは生きていくのか。大きな試練ではあるが、ヨセフの物語は、理不尽とも言える状況にあるひとに、希望を与えることも事実であるように思う。現実世界の日常的な、浮き沈み、一喜一憂の苦しみをも相対化する神様への信頼だろうか。信仰であると同時に、智恵でもある。 Genesis 41:34 そしてファラオが指示して、国中に監督を任命し、豊作の七年の間、エジプトの地で産物の五分の一を徴収なさいますように。 具体的な提言がヨセフの賢さを物語っている。夢の解き明かしには含まれていない部分である。夢の解き明かしも含めて、このような智恵も、神からのものとヨセフは考えていたのかもしれない。ヨセフはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻としている。ファラオが与えたとはいえ、原理主義的な行動はしていない。モーセもミデアンの祭司の娘と結婚している(出エジプト2章16節)。モーセの場合は異邦人の妻のことを後に批判されているが。(民数記12章1節)自然体である。無論、様々な困難は書かれていないだけかもしれないが。結婚はいずれにしても、異なる文化の結びつきであり、(価値観の)衝突がないほうがおかしいのだから。 Genesis 42:24 ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。やがて戻って来て、話をしたうえでシメオンを捕らえ、彼らの目の前で縛った。 このときの涙はなにを表しているのだろうか。ここでは、因果が語られている。罪の故とひとは考える。しかし、神の計画は、そんなことには、とどまらない。そう考えると、ヨセフの涙は、人間的には、自らが陥れられたことを思い出してのことだったろうか、しかし、神の涙は、このような人間の思いと行為、それによって引き起こされたことに対する悲しみだろうか。この涙からは、両方の要素が感じられるように思う。人間の涙のなかに、神の涙が垣間見えることもある。 Genesis 43:14 どうか、全能の神がその人の前でお前たちを憐れみ、もう一人の兄弟とベニヤミンとを返してくださるように。子どもを失わなければならないのなら、失うまでだ。」 前には「お前たちは、私から子どもを奪ってしまった。ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった。そして今度はベニヤミンを私から取り上げようとする。すべて私にばかり降りかかる。」(42章36節)と言っていたヤコブの言葉である。神に委ねる決意ができるには、様々なものを失い、生きるか死ぬかの瀬戸際にならないと(8)いけないのだろうか。必要条件ではなく、そうなってはじめて受け入れられることがあるということだろうか。ユダも「こんなにためらっていなければ、今頃はもう二度も行って来られたはずです。」(10)と、計算高い(または功利的な)発言をしているが、論理的な議論の範疇にはないのだろう。単純に信仰と言えるだろうか。贈り物を整えるなど、様々な配慮をしていることも伺える。「自立的な判断か」「委ねる信仰か」という二者択一で考えることも問題なのだろう。存在のすべてをかける部分に、神様のみ心を受け入れることをしっかりと持つということだろうか。表現をまた見直したい。 Genesis 44:32-34 僕は父にこの子の安全を請け合って言いました。『もし、この子をあなたのもとに連れ戻さないようなことがあれば、私は生涯、父に対してその罪を負います。』それでどうか僕をこの子の代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。 この子が一緒でないかぎり、どうして私は父のもとへ上って行けるでしょう。父に降りかかる災いを見るに忍びません。」 感動的な瞬間である。何度読んでも涙で目が潤む。「安全を請け合う」「その罪を負う」そして「父に降りかかる災いを見るに忍びません。」短絡的に、イエス・キリストの贖罪に結びつけるのは飛躍があるが、本質には相似性があると思う。日常的にも、愛するというときに、内包されるものの重さをずっしりと感じる。ユダがヤコブに述べたとき(8,9)そこまでの覚悟でいたかどうかは不明だが、この勇気には、ヨセフならずとも感動する。神様もこころが動かされているのかもしれない。ヨセフ物語のクライマックスである。これだけのものを書く、創世記記者にも驚かされる。 Genesis 45:24 こうしてヨセフは兄弟を送り出し、彼らは出発した。ただその時ヨセフは言った。「途中で争ったりしないでください。」 ヨセフは関係が正常になり平安のうちに共に生きるようになることは簡単ではないことをよく理解している。ヨセフにとっても「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。」(4b,5)と(信仰の)告白ができるまでには、長い長い道のりであったことは、よくわかっているからだろう。「ヨセフは兄弟皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟はヨセフと語り合った。」(15)の内容は不明だが、ヨセフがどのようにして現在に至ったかも、ある程度話されたろう。そうであっても、兄弟は、そして他者とはなかなか平安のうちに共に生きることはできない。(50章15節)それが罪に縛られた人生とも言えるが、一般的に、内面化し、(さらに、自分の中では理解し得ない部分として)神との関係の中でヨセフのような信仰告白に至るのは、単純なことではない。それは、こころしなければいけないだろう。共に平和のうちにいきるためには、これが非常に困難なことであることを覚え、正しさで判断しないことがたいせつであるように思う。無論、ヨセフが(引用句で)とったような他者への配慮と率直な語りかけをしながら。 Genesis 46:34 次のように答えてください。『あなたの僕どもは、幼い頃から今に至るまで、家畜を飼う者です。私たちも先祖もそうです。』そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人が忌み嫌うものだからです。」 ヨセフの頭の切れ味は、変わっていないようだ。「イスラエルは、ユダを前もってヨセフのところに遣わした。ゴシェンへと先導させるためであった。やがて一行はゴシェンの地に着いた。」(28)とあるように、おそらく、ルベン、シメオン、レビを差し置いて、四男のユダが、信頼される存在になっていることを示しているのだろう。ヤコブも、「父イサクの神にいけにえを献げた。」(1)とあるように、自分の持ち物(1)とともに、自分のものではない神に感謝をささげている。自分のいのちを生きているとは異なる感覚をもっていきていたのだろう。現代人が失ってしまっている「敬虔」神を畏れることだろうか。一通りに理解するのではなく、様々なことに目を向けたい。それだけの価値のある「ヨセフ物語」である。 Genesis 47:11 ヨセフはファラオが命じたように、エジプトに所有地を与え、父と兄弟を住まわせた。それはラメセスの地にある最良の地であった。 ヤコブとその子らは、エジプトで地を得ている。しかし、これが約束の成就だとは見ていない。「『私が先祖たちと共に眠りに就くときには、私をエジプトから運び出し、先祖たちの墓に葬ってほしいのだ。』ヨセフは答えた。『お言葉どおりにいたします。』」(30)イシュマエルが生まれたときと同じように、不完全な形では神の約束の成就としては受け入れていない。それは、ある程度先まで知っているものの書き方かもしれない。そして、さらに先までは理解できていない人間の限界でもある。わたしが求めるのは、達し得たところに従って、こだわりをもたず、誠実に、そして謙虚に歩むことだろうか。 Genesis 48:7 かつて私がパダンから帰って来るときのこと、途中のカナンの地でラケルに死なれてしまった。エフラタに着くまでにはまだ道のりがあったので、私はラケルを、エフラト、すなわちベツレヘムに向かう道のそばに葬った。」 創世記35章16-20節にラケルの死について書かれている。しかし、ここでなぜ急にそのことが語られ、また突然終わっているのか不明で不自然な感じを受ける。ラケルがベニヤミンを産んだ直後に死んでいることから、さらにラケルの子が生まれるはずだったことを思い、それを、ヨセフの子によって実現しているのだろうか。いずれにしても、ここでラケルのことが語られるのは、興味深い。 2021.1.17. 鈴木寛 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  5. BRC 2021 no.005:創世記49章ー出エジプト記12章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、創世記の残り2章を読み、出エジプト記に入ります。通読は続いていますか。すでに続かなくなっている人もいるかもしれませんが、出エジプト記からまた、読み始めるのも良いですよ。昔は巻物だったわけで、合本ではありません。日課となるとよいですね。日常生活とは違う時間、3000年ほど前に生きたひとたちと向き合ってみる。わたしにとっては、かけがえのない時間になっています。 創世記は、(人類と)イスラエルの生い立ちが書かれていますが、出エジプトという出来事は、イスラエルの「(信仰の)原点」とも言えるものだと思います。わたしにも信仰のというより、人生のと言えるような「原点」があります。高校1年生のときの学園紛争と、そのなかで準備を始め、高校2年生の夏に、大学生以上が中心の教会の青年会に混ぜてもらって7人で回った53日間東南アジア貨物船での旅。その時の仲間はすでに3人亡くなりましたが、わたし自身の基盤が「(答えのない)問い」として形作られたと思います。記憶は正確さを欠き、「問い」へのヒントも、人生のそれぞれの時に与えられ、「原点」は、解釈されてきていますが、今も、同じように「原点」の「問い」を持ち続け、「原点」に戻って考えることがあります。また、「原点」と明確に考えるようになったのも、だいぶたってからだったように思います。 イスラエルの原点としての出エジプトはどのようなもので、どのように描かれているのでしょうか。伝説のようになったり、ここだけは譲れないとして明確なことばで書かれていたり、いろいろな解釈が入り込んだりもあるのかもしれません。 3章「柴の箇所」(マルコ12章26節・ルカ20章37節・使徒7章30節参照。章は後代のものですから、このような呼び方で引用しています)、今回は、聖書協会共同訳を読んでいるので、神様の名前が「わたしは、ある」から「わたしはいる」に変わっています。be 動詞の訳し方ですね。そのことについても、わたしの聖書ノートに書いておきました。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記49章ー出エジプト記12章はみなさんが、明日1月25日(月曜日)から1月31日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#gn 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。創世記は完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めてそ、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Genesis 49:28 これらすべてがイスラエルの十二部族である。これが、彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らをそれぞれにふさわしい祝福をもって祝福した。 創世記の成り立ちに興味を持つ。まず、今回の通読で考えたのは、祝福の順番である。祝福は通常、生まれた順、または祝福したい順でなされるのが慣習と思われるが、ここでは、生まれた順とはことなる。29章31節から30章24節と36章16節から18節によると、(レアの子)1. ルベン、2. シメオン、3. レビ、4, ユダ、(ラケルの召使いビルハの子)7. ダン、10. ナフタリ、(レアの召使いジルパの子)8. ガド、9. アシェル、(レアの子)6. イッサカル、5. ゼブルン、(ラケルの子)11. ヨセフ、12. ベニヤミン(数字は祝福の順番)。さらに、ここで十二部族ということばが使われているだけでなく、預言のことば、「王笏はユダから離れず/統治者の杖は足の間から離れない。/シロが来るときまで、もろもろの民は彼に従う。」(10)は、王国時代以降の成立を予想させる。またこの節にある「シロ」については不明。創世記ではここのみ。あとは、地名としては現れるが詳細は不明である。文学的には、このような祝福のことばが現実の特徴としてあるときに、それを背景として、物語を作成したとも考えられる。強く否定するひともいるだろうが、否定する心理にも興味がある。個人的には、共に生きるものとして、創世記記者の表現力と神理解の深さに驚嘆する。 Genesis 50:17 『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」この言葉を聞いてヨセフは泣いた。 この涙はどのような涙だったのだろう。ヨセフはゆるす、ゆるさないの地点には、もういない。兄弟たちの浅知恵を見抜いたとしても、関係なかったのだろう。神様によって導かれた人生が優先しているという表現が適切かどうかはわからないが、人生のたいせつな部分として、他者への態度も変化させている。兄弟たちはどうだったのだろうか。ルベンやユダ、そして、シメオンやレビのことばも聞きたい。それは、創世記記者の中になかったのだろうが。ヤコブの葬儀にも驚かされる、同行したメンバー(7)の豪華さと、場所として、ゴレン・アダド(アベル・ミツライム)が、マムレ以外に書かれていることである。カナン人の地ではできなかったのかもしれない。 Exodus 1:8-10 ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに立ち、自分の民に言った。「このとおり、イスラエルの民は、我らよりも多く、強い。さあ、知恵を働かせて、彼らが増えないようにしよう。戦いが起こると、彼らも敵に加わって我らと戦い、この地から出て行くかもしれない。」 新しい王からみた問題がまとめられている。人数が増えて十分な勢力になってきた。忠誠心があるわけではない。さらに、エジプトから出ていくことも恐れている。有益性は認めているようだ。この言葉から現実を推測することは、適切ではないかもしれないが、異質なしかし有能・有力な民で、統治のためには危険だと考えられたのだろう。解決方法は、奴隷化である。現代でも、このような問題は存在する。どのようにしていったら良いのだろうか。共に生きることは、この時代も現代も重要な課題である。 Exodus 2:19 娘たちは言った。「あるエジプト人が羊飼いたちから私たちを助けてくれたのです。私たちのために水を汲み、羊の群れにも水を飲ませてくれました。」 娘は「エジプト人」と言っている。みただけでは、土地の人も区別はつかなかったのだろう。服装などで判断したのだろうか。違いは些細なことである。この2章に書かれているいくつかのエピソードも興味深い。特に、裁こうとして、咎められるモーセ。正しさで、行動することでは解決しないことを、学ぶ必要があったのかもしれない。ヘブライは 'one from beyond’ の意味ということである。自らを呼ぶ言葉ではなく、他の人達にとってどのように認識されていたか、自らを他者に説明するときに使った言葉のようである。平たく言うと「よそもの」か。そう考えると、ここで、エジプト人と言ったことが少し、ポジティブにも聞こえてくる。「よそもの」よりはマシだから。 Exodus 3:14 神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」 聖書協会共同訳における改訂箇所として以前から知っていたが「私はある」と「私はいる」はかなり感覚が異なる。12節の「私はあなたと共にいる。」との関連性を理解しての訳とのことである。その前には、「今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私はエジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。 」(9)とあるが、神はずっと前からそんなことはご存知のはず。そして、創世記にも書かれていること。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。」(創世記15章13節)主が共におられるということは、私達の側、出エジプト記者の信仰告白でもある。そしてそれは、過酷な現実の中で告白される。それは、主が、そのような現実を、深く憐れまれる(スプラッグニーゾマイ:はらわたが傷つく)ことと呼応しているのだろう。主が憐れみ深い方で、その主がともにおられることを告白することが、信仰告白のように思われる。信仰というより、信頼関係ということばがより適切なのかもしれない。 Exodus 4:11,12 そこで主は彼に言われた。「誰が人に口を与えたのか。また、誰が口を利けなくし、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、見えないようにするのか。主なる私ではないか。だから行きなさい。私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう。」 杖が蛇になることも、手が「規定の病気」になったり治ったりするのも、水が血に変わったりするのも、主が共におられるからである。それぞれのもの、またはモーセにその力があるわけではない。さらに、他者(アロン)との協力も伝える。アロンをそこに置かれたのも主、そしてアロンにとっても主が共におられるかどうかが、鍵なのだろう。実際にアロンと会うのは、27節である。モーセは、主が共におられることの大きさを、17節の時点で理解していたと表現されているのだろう。アロンの雄弁さを信頼したのではなく、主が共におられることにかけたのだろう。 Exodus 5:2 ファラオは答えた。「主とは何者か。私がその声に聞き従い、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らないし、イスラエルを去らせはしない。」 ファラオは「主が何者か」(自らのいのちの営みに関係のある方としては)知らない。イザヤ書などには「主を知るようになる」という表現が現れるが、イスラエルの民にとって、このうえなくたいせつな「主が何者か」を、イスラエルも、イスラエルと関わる人々にも、知ってもらうことが、この出エジプト記や、聖書が書かれた主たる目的なのかなと思った。17節では、ファラオは、イスラエルの民を「怠け者」と見ている。他者を知ることは、そのひとのたいせつなひと、たいせつなことについて知ること。それがわからないと、異質なだけでなく、よくないものとある価値観を持って排斥してしまう。そのひとのたいせつなこと、その人にとってたいせつな方について少しでも、理解が進めば、見方も変わってくる。異質なものに出会ったとき「あなたのことを教えて下さい」という謙虚さをもつこととともに、自分にとって、たいせつなこと、たいせつな人について、他者が理解できるように、ていねいに伝えることも、たいせつなことなのだろう。理解は、和解を、そして、あたらしい平和、共に生きる世界を造り出すように思う。そのための努力を、わたしは、十分しているだろうか。この聖書通読の会も、そのようなものにもなりうるかもしれない。他者に自分のたいせつな営みをつたえ、他者の受け取り方を理解しようとすることによって。 Exodus 6:1 さて、主はモーセに言われた。「私がファラオに行うことを、今こそあなたは見るだろう。すなわち、力強い手によってファラオは彼らを去らせ、力強い手によってファラオは彼らをその地から追い出すことになる。」 この出エジプトという事件によって、イスラエルの民は、主を知るようになる。「私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。あなたがたは、私が主、あなたがたの神であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出す者であることを知るようになる。」(8)しかし、ファラオやエジプトに対して行うことは、乱暴でもある。主は、ほんとうに、そのような乱暴な方法に訴えて、自らを知らしめることを望んでおられるのだろうか。イスラエルの民が、主を知るようになった、経緯を絶対化しているようにも思う。他のひとが主(ほんとうに大切な方、普遍的真理(それがあるとして))を知る道筋は、違うかもしれない。14節から、27節まで、アロンの系図が書かれている。創世記などの執筆意図かもしれないが、自分もこの系図のどこかにつながっていることを発見することによって、関係性を知ることは、語られているイスラエルの民にとっては良いかもしれないが、やはり乱暴に思われる。血筋によらない、つながりを、発見または造り出すことが、お互いを知り、共に生きることにとっては、必要である。イエス様は、それを、神の御心を行う、神の子として生きることによって、モデルを示してくださったように思う。 Exodus 7:1 そこで、主はモーセに言われた。「見よ、私はあなたをファラオに対して神とし、兄のアロンはあなたの預言者となる。 これは誤解を生むからよくないことだと以前は考えたろう。しかし、そういうものなのかなと今は思う。わたしの周囲の人、学生などでも、わたしを通して、キリスト教を、キリスト教の神を、知る、知ろうとするひとはいる。わたしがそれは違うと言っても、その方たちにとって、神様を知る最も身近な存在なのだから、仕方がない。「私がエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの人々を彼らの中から導き出したとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる。」(5)ともある。私が主であるとあるが、この「主」はヤーヴェ(私はいる)をアドナイ(主)と読んでいる箇所だろうから、「神があなた方と共にいるものだということを知るようになる」とも訳せる。神がわたしたちと共におられる(インマヌエル)。まさに、イエス様は、神様の子として生き、イエス様を知った人は、神はこの方とともにおられると認識したのだろう。へりくだりつつ、この恐るべき事実を認識して生きなければいけないし、それこそが恵みであることを証することが、永遠の命を生きることなのかもしれない。「蛇になった杖を手に持ち」(15)も誤解を与えそうだと前は考えたが、上に書いたことから、異なる感覚を持った。聖書協会共同訳では「蛇」が「大蛇」となっている。 Exodus 8:18,19 しかし、私はその日、私の民の住むゴシェンの地を区別し、そこにはあぶの群れが入らないようにする。主である私がこの地のただ中にいることをあなたが知るためである。私は、私の民をあなたの民と区別して贖う。明日、このしるしは起こる。』」 このような区別の信仰はどの時代にもあるが、ひとの幼児期には、特に一般的である。自分が愛されていることの表現を、自分が他と区別されて愛されていると表現する。ここを通ることも、おそらくたいせつなのだろうが、そこにとどまっていては、神様をそして世の中を、他者を理解することはできないだろう。コロナ下にあっても、ひとりひとりは特別である。かけがえのない存在である。しかし、それは、他者も同じように、特別であり、かけがえのない存在、神様が愛し、共にいてくださる存在であることへと開かれていくべきことなのだろう。ファラオが、「一息つく暇ができたのを見て、心をかたくなにし」(11)たように、自らに起こることから、判断するのは、自然なことではあるが。一つのバイアス、宗教的には罪(まとはずれ)なのだろう。このような、神の普遍性を知ることは、むろん、わたしも含め、過去も、今も、これからも、人類の共通の課題である。 Exodus 9:19 それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう。』」 「主は翌日、このことを行われたので、エジプトの家畜はすべて死に、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。」(6)とすでに書かれており、読んだり聞いたりした人で文字通りではないことを悟ったひとは古代でも多かったろう。それでも、前章から、分離が書かれている。全体としては、あらゆる自然災厄といわれるものが書かれている。前章までには、杖が大蛇には災厄ではないが、水が血に変わり、蛙で溢れ、ぶよ、あぶと続き、この章でも、疫病、腫れ物、雹、次章では、ばった、暗闇、そして最後に過ぎ越しの起源とされる、初子である。これらは、みな神から来ている、神からのメッセージが込められていると考えていたことが背景にあるのだろう。自然の驚異をまともにうけていた時代である。それは「しかし、私があなたを生かしておいたのは、私の力をあなたに示し、私の名を全地に告げ知らせるためである。」(16)だと述べている。現代でも、このような自然災害から真理について考える面があるだろうが、日常的とは言えない。現代では、複雑な社会の中で、精神的な悩みのほうが、日常的になっているように思われる。いずれにしても、素朴とも言えるが、記述が、単純で、乱暴に感じられる。 Exodus 10:26 私たちは家畜も連れて行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも、そこに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきか、私たちには分からないのです。」 24節からのファラオとモーセのやりとりは複雑である。複雑さを表現しているのかもしれない。ファラオはなぜ、イスラエルを去らせることを拒んだのだろうか。奴隷としての労働力を失うことを避けたかったのだろうか。当時の正確な状況は不明である。欧米での奴隷解放の動き、そして現代にも残る人種差別、日本をはじめ、多くの国での差別の問題と枠組みは異なるかも知れないが、背後には、意識・無意識のうちの搾取があったのだろうか。引用箇所でのモーセのことばは、こじつけとも言えるが、同時に、すべてをもって、主に仕えることの表現とも言える。自由になること、解放は、すべてをもって主に仕える自由をもつことなのかもしれない。 Exodus 11:2,3 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」 主はエジプト人が民に好意を持つようにした。モーセその人もまた、エジプトの地でファラオの家臣や民から厚い尊敬を受けた。 不思議なことが書かれている。ここまでの災厄を文字通りに受け取れば、エジプトの地の民は、大きな苦しみが与えられたことになる。それを与えたモーセや、特別扱いされた民が厚い尊敬を受け、また、民が、高価なものを受け取ったことは、不思議である。いくつかの解釈があるだろう。個人的に、奴隷解放、植民地独立の時期を思った。それまで多大な搾取をしたにも関わらず、去っていくものに、厚遇はせず、そのあとにも、差別が残る。西洋での、Black Lives Matter も、日本での在日などの問題も。少しずつ、差別はなくなっていったとしても、搾取したものを返すことは、今後も起こらないのだろうか。さらに、このようにして去るときに、好意をもたれる秘訣については、じっくり考えたい。平和のうちに、生きる秘訣があるかも知れない。 Exodus 12:14 「この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしえの掟として代々にわたって祝いなさい。 「過ぎ越し」は元来、イスラエルと、エジプトの他の民との分離である。しかし、過越祭、そして、それに引き続いて行われる、除酵祭は、恵みの継承に主眼があったと思われる。親が恵まれていて、子がその恵みを受ける、物質的なこと、そして、愛情も含めて。親だけではなく、近親者、隣人、教師など、そして歴史のなかで、支えられることなしに、生きていくことは不可能であるにも関わらず、恵みはあまり継承されない。親や、隣人などに、感謝をする機会は多くはない。結婚式などでは、語られるが。定期的に、多くの人々から、そして、神様から頂いている恵みを覚えること、感謝すること、それは、人間にとって、根源的なことであると思う。それが、排他的にはたらくのではなく、緩やかな帰属意識と、共に生きることにつながっていくことを願いながら。 2021.1.24. 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  6. BRC 2021 no.006:出エジプト記13章ー出エジプト記26章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆さん、通読はいかがですか。創世記を読み終わり、達成感を持ち、さあ出エジプト記と二巻目を読み始めた方も、すでに、続かなくなり、自分には、通読はあっていないと、聖書通読の意味も問いたくなるかたもおられるかもしれませんね。そして、ちょっと遅れてしまったけれど、ぼちぼち自分のペースで読んでいけたら良いかなと考えている方もおられるかもしれません。一ヶ月が過ぎました。みなさんは、どのような気持ちで、このメールを読んでおられるでしょうか。 今週は、出エジプト記を読み進めます。ついに、出エジプトを果たし、20章には、通常十戒と呼ばれる、モーセを通して与えられた十の戒めが登場します。そして、様々な決まり事が書かれています。創世記から申命記は通常モーセ五書と呼ぶ場合もありますが、歴史的には、律法(トーラー)と呼ばれ、これこそが神のことばとし、ユダヤ人の派によっては、この5書だけを特別に扱っているようです。名前からもわかるように、決まり事、法律です。法律と律法は、なにか違うのでしょうかね。わたしたちの社会の決まり事ではなく、神様と出会う幕屋についての規定が細かく書かれています。ささげ物の規定が多く書かれている、レビ記の終わりまでは、正直に言うと、多くの方々にとって聖書通読の最初の難所です。個人的には、最初は、あまり、細かい意味を考えず、こんなことが書いてあるんだぐらいに、気楽にどんどんよんでいくが良いのではないかと思います。時々、わたしや、ほかの人がどんなことを考えながら読んでいるか、ちらちら見るぐらいでしょうか。同時に、イスラエルにとっては、それが決定的にたいせつなものであったことは覚えながら読んでいきたいですね。わたしたちは、そのたいせつなものを、どのように受け取っていったら良いでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記13章ー出エジプト記26章はみなさんが、明日2月1日(月曜日)から2月7日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。出エジプト記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Exodus 13:15 ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』 ここまでは、家畜に関しては初子とのみ書かれているが「あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。」とあり、過越祭で屠る子羊はやはり雄が想定されているようである。牧畜業における、雄・雌の重要性については、知識がないが、遊牧においては、男の指導力は重要だったと思われる。いずれにしても、キリストの贖罪がこの背景を強く受けていることについては、特別な歴史的背景・文化的・社会的背景が影響していると考えざるを得ないのだろう。過ぎ越しの贖いのための子羊は、民族性があまりに強いことも、覚えるべきだろう。エジプトや、カナンの人たちにとっては、受け入れがたいものかもしれない。 Exodus 14:11,12 そして、彼らはモーセに言った。「エジプトに墓がないから、荒れ野で死なせるために私たちを連れ出したのですか。私たちをエジプトから導き出すとは、一体何ということをしてくれたのですか。 私たちはエジプトであなたにこう言ったではありませんか。『放っておいてください。私たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです。』」 不満に対して、主のことばとして「なぜ私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に出発するように告げなさい。」(15)とも記されている。一般的には、自分たちで決めたことではないからと考えるが、おそらく、物事はそれほど単純ではないのだろう。自分で決めたのだからという理由にされたら、それは、自己責任論である。多数決で決めるにしても、十分な情報が提供されていない場合もある。ひとが、自分の状況に不満をもつことは頻繁に生じる。すべてが満たされている状態にないことは明らかである。おそらく、神の国(神の完全な支配のもと)でも、すべてが満たされている状態ではないだろう。自分に見えていないことを覚え、まずは、恵みに感謝し、達し得たところに従って、謙虚に一歩一歩歩むことだろうか。月なみだが、わたしには、それしかいま書けない。Covid-19 下の世界を見ても、どのような政治体制、社会体制、文化的背景が適切なのか、答えをひとは持っていないように見えるのだから。 Exodus 15:25,26 そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」 一般的には伝承において、歌や詩文体のものは、古いことが多いと言われるようだ。しかし、このモーセの歌をみると、ことばは、かなり整えられているように、思われる。17節には「ご自分の山」が登場し「聖所」ともあり、エルサレムを想起させる。引用句はマラで苦い水に不平を言った民に答えて主の命令で木を投げ込むと甘くなったということの直後ににある。「戒め・掟」はなにか唐突に感じる。王国時代以降のエルサレム神殿と律法が中心のユダヤ教の影響も感じられる。ただ、ここで「あなたを癒やす(רָפָא:rapha')者」とあることには、魅力を感じる。イエス様を思い出す。9節に敵の思い「追いかけて、追いつき、戦利品を分け/思いのままに剣を抜き、この手で奪おう。」が書かれているが、追いかけるものの気持ちを理解することは難しいと思った。追いかけるものにも、神の前に生きる人生があったろうから。 Exodus 16:4,5 そこで主はモーセに言われた。「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。民は出て行って、毎日、一日分を集めなさい。これは彼らが私の律法に従って歩むかどうかを試すためである。六日目に持ち帰ったものを整えると、日ごとに集める分の二倍になるだろう。」 「律法(תּוֹרָה: towrah)」はすでに、Gen 26:5, Exod 12:49, 13:9 にありここが4箇所目である。辞書には、1. instruction, direction (human or divine), 2. Law, 3. custom, manner, 4. the Deuteronomic or Mosaic Law と意味が書かれている。4 を背景として、1, 2 の意味に取ることが多いが、3 も重要だと思った。一つには「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」(Mtt 6:11)主の祈りの中のことばの背景を思ったからである。引用句の後半に引き寄せられて、安息日の掟と考えることもできるだろうが、主たる部分は、前半、または、主の祈りにある、「日ごとの糧」を当然のこととしてではなく、恵みとして求め、恵みのうちに養ってくださる神様のご性質、方法、神様の御心とも呼べるものを、学び受け取るところに主眼があるのではないかと思う。そのうえで、5節が続く。ひとはまずしなければならないこと、命令や、それを守らないときの罰などに心が行ってしまうが、中心は、日ごとに糧をあたえてくださる、主の恵みを感謝して、受け取り、そこを起点にして神様を、自分を、人生を、そして他者を、さらに、真理を理解することなのかもしれない。 Exodus 17:13,14 ヨシュアはアマレクとその民を剣にかけて打ち破った。主はモーセに言われた。「このことを書物に書き記して記念とし、ヨシュアに読んで聞かせなさい。私はアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」 ヨシュアはこの章(9節)が初出である。アマレクについては「ティムナはエサウの子エリファズの側女であって、エリファズにアマレクを産んだ。以上がエサウの妻アダの子孫である。」(Gen 36:12)とあり、傍系から系図について述べる聖書の手法で、エサウの系統の最後に書かれている。ただ、初出は創世記14章7節である。ヨシュアは、モーセのあと、カナンを(侵略して)征服するときのリーダである。それが唐突にここで登場する。この章は水に関して民がモーセと争ったと表現されるマサとメリバの記事(7)がまずあるが、水がない、荒野であっても、すでに、その周辺をおそらく放牧地としていた先住民がいたことを表しているのだろう。男だけで60万人(Ex 12:37)とある。正確な数字はわからないが、大部隊が移動すれば、必ず争いが起こる。遊牧民では、水と牧草地を争って常に争いがあるようである。表面的なことを捉え、戦いの拒否を唱えてアマレクとの争いを批判することでは、本質的な解決にはつながらないだろう。しかし、もう少し大きなスケールで、背景にあることを丁寧に考えることは、重要だろう。共に生きることは極端に難しい。 Exodus 18:23,24 もしあなたがこのやり方を実行し、神があなたに命じてくださるなら、あなたはその任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の場所に帰ることができるでしょう。」モーセはしゅうとの言葉を聞き入れ、すべて言われたとおりに行った。 「モーセのしゅうとでミデヤンの祭司であるエトロ」(1)との再会を描くこの章はとても興味深い。「モーセのしゅうとエトロが神への焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを取りそろえたので、アロンとイスラエルの全長老たちがやって来て、モーセのしゅうとと共に神の前で食事をした。」(12)と表現には配慮されているように思われるが、助言を聞き入れての組織改革がここに書かれている。神権政治のような統治組織で、エトロの経験と智恵は有効だったと思われる。ある意味で、そのグループ外のものとの接触のたいせつさとともに、どのように受け入れていくのかは難しく、簡単に定式化はできない。その難しさと恵みをていねいに受け取ることも必要だろう。これからも、ていねいに考えていきたい。 Exodus 19:4-6 『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。 それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。 そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 主の山(シナイ山(11,18,20,23))で、モーセが、そしてモーセを通して民が受け取った主の言葉である。「鷲の翼」はなにかとても格好が良い。鷲は他にも出てくるが、このことばは旧約聖書ではここだけのようだ。その「鷲の翼の上に乗せ」主のもとに連れてこられたというのである。特別な背景を思い起こさせるには、十分である。わたしも最近、自分の人生を振り返って考えるのは、いま、このように生活しているのは、ある意味でまったくの偶然、ある意味で、特別な恵みだと感じるということである。他者にまさるものになる必要はないが、「鷲の翼の上に乗せ」てここまで連れてきてくださった主のものとして生きること、それが、他の人達にも意味のある生き方となるとの約束には、アーメンと唱えたい。互いに仕え合い、互いに愛し合い、ともに主の前を歩んでいくものとして。「契約を守るならば」は条件のように書かれているが、主がたいせつだと言われることをたいせつにすることだと考えれば、主との交わりのうちにとも解釈できる。み言葉を行い、み言葉に生きるものが、神の子として生きるものなのだから。 Exodus 20:18,19 民は皆、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音と山が煙るのを目の当たりにした。民は見て震え、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。そうすれば私たちは聞き従います。しかし神が私たちにお語りにならないようにしてください。私たちが死なないためです。」 十誡が与えられた場面である。主との交わりのうちに生きることは、イエスさま(インマヌエル:神は私たちと共におられる(Mt1:23))なしには、現実のものとして、考えられないだろう。ここでの民の反応は当然だったと思われる。これらのことばに続いて、「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」(20)とモーセは語っている。(偶)像を作ることの強い禁止もこのような特別な体験の上に乗っているのだろう。リアルな体験をひとつの像であらわすことは、そこで起こったことを冒涜することでもあるだろうから。福音書がすぐには書かれなかった背景もそのようなところにあるように思う。 Exodus 21:1,2 あなたが彼らの前に置くべき法は次のとおりである。あなたがヘブライ人の奴隷を買った場合、彼は六年間仕えれば、七年目には無償で自由の身として去ることができる。 法(מִשְׁפָּט:mishpat)は judgment, justice, ordinance で、法令または、判断基準と訳されるが、20章の十戒のときは、神の言葉とされているので、異なる。内容的にも、十戒のように、基本事項というより、詳細ついて語られている。聖書にあるのだから、これらをそのまま守るべきと考える人たちもいるが、おそらく、そのようなものではないのだろう。背景があり、実際の問題に対応することとして、その判断基準を示したものだろう。そう考えると、どのような問題が起こっていたのかを想像することはできる。引用箇所でも、ヘブライ人の中で奴隷となるもの、奴隷を買う者、使うものがいたことがわかる。奴隷の存在自体については、述べられていない。そうではあっても、当時としては、七年目には無償で自由の身として去ることができるなど、特記すべきことがあるように思われる。人間社会は、少しずつ変化していくものなのだろう。悪くなる面もあるが、よくなる面もあり、価値判断が難しいことが多い。人間社会が試されているとも言える。そして、その中にいる、わたしたち一人ひとりにある責任があることも、確かである。ある弁護士が、「司法には、多数決では決定することが不適切な個別の問題について、適切に対応する弱者保護が基本にある」と、言っていたことを思い出す。神ではなく、われわれの責任に属する営みである。 Exodus 22:21-23 いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。私の怒りは燃え上がり、あなたがたを剣で殺す。あなたがたの妻は寡婦となり、子どもは孤児となる。 勢いで(因果応報的な)最後の部分に着目することはないだろう。ここで言われているのは、寡婦や孤児を苦しめることは、主の怒りを買う(主が悲しむ)ということである。わたしが子供の頃は、寡婦や孤児が多かったが、現在のわたしたちの周囲には、離婚や、育児放棄で、母子家庭・父子家庭や、養護者不在の子供が多く存在する。自分は、そんなことに関わっていないというひともいるかも知れないが、われわれの住む社会の問題で、そこには、あらゆるレベルで、一人ひとりが関わっており、そのなかで生じる歪(ひずみ)のなかで、起きる問題のように思う。どのようなレベルの問題であっても、目を塞がず、自らの問題として、取り組まなければいけないと思う。それが、互いに仕え合うこと、互いに愛し合うことであり、共に喜び、共に泣きながら、共に生きることにつながるように思われる。聖書の時代から我々の目の前にある課題である。 Exodus 23:33 彼らはあなたの地に住んではならない。彼らのせいで、あなたが私に罪を犯さないためである。あなたが彼らの神々に仕えるなら、それは、あなたにとって罠となる。 この章は、前半にも、そして後半にも、興味深い記述が多い。しかし、最後の部分を考えてみたい。これは、出エジプトの時点に語られているが、これがイスラエルが学んだ一つの信仰告白なのではないかと思う。どの時点かはやはり不明であるが。ある時点での。「私はあなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海まで、荒れ野から大河までと定める。私はその地の住民をあなたがたの手に渡し、あなたは彼らを自分の前から追い払う。」(31)大河は通常、ユーフラテス(ときにはチグリスもあわせて)を意味するから、この全域を支配することは、ダビデ、ソロモンのころにもない。世界の様々なひとびとのことを考えると、アジア・アフリカ・ヨーロッパが交わる、その交流の十字路のようなパレスチナの地で、分離主義に持続性はない。すくなくとも、極端に困難である。それでも、それが神の御心として、それを頑なに守り、大国に滅ぼされて、一人になっても守ることも一つの信仰告白で、学んだことは大きいのだろう。しかし、引用句を見ても、背景はもっと普遍的な真理をもとめることに対する危険を逃れる道として書かれているように思われる。創造主が、他者をも愛しておられることを受け入れる、過渡期なのかもしれない。単純にグローバリゼーションを求めることも、同様な危険を孕(はら)む。ほんとうにたいせつなこと、その本質を探ることは、不可欠である。それを怠ると律法主義に陥り、たいせつなことに至る方法論を絶対化してしまう。無論、本質を探ることに、ゴールはないが。 Exodus 24:12 主は、モーセに言われた。「山に登り、私のもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける。」 「律法と戒め」ということばが目にとまった。このあとのことなどを考えると、おそらく、十戒の映画にも影響されていると思うが、十戒が刻まれた、2つの石を抱えて山を降りてくる、モーセをイメージしてしまう。しかし、「律法と戒め」というと、もっと詳細が書かれている、イメージがある。むろん、映画にあるように、超自然的な方法で、石に刻みつける必要はないが、やはりなにを絶対的な、神からのものとするかは、重要に思われる。たとえそれが人間側の応答としての、信仰告白であったとしても。わたしはいま、信仰を告白しながら、生身の人間として、生きていくことのたいせつさを感じ、文字として書かれたものを絶対化しない方向に進んでいる。聖書をも含めて。むろん、同様に、真剣に真理をもとめて歩んだひとたちと歩みを共にする中心に、聖書をおいていることも間違いがないが。まだまだよくわからないことばかりだと書いておこう。 Exodus 25:8 彼らが私のために聖所を造るなら、私は彼らの中に住む。 批判的に読むことには注意しよう。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」(1King 8:27, See Chapter 8)ソロモンの祈りである。そして、「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 」(John 4:21)さらにステファノの祈り(Acts 7:48,49)もある。しかし、聖書に引用句のように記されていることは、これらを許容して、わたしたちの、とても遅い歩みを主は見守っていてくださるとも言える。特に、他者に対して、異教の神を礼拝するものに対しても、上から目線で批判してしまうことがあるが、この出エジプトのときに、ひとはどのような気持ちで、持ち物を献げ、神の幕屋を作ろうとしていたか、それを、受け止めることをしたい。わたしより、ずっと純粋な気持ち、真実をもって、ささげものをしていたのではないかと思われるから。 Exodus 26:30,31 このように、あなたが山で示された設計に従って幕屋を建てなさい。青や紫、また深紅の糸、および上質の亜麻のより糸で垂れ幕を作り、その中に意匠を凝らしてケルビムを織り出しなさい。 正直、個人的には、あまり興味が持てない箇所である。しかし、2つのことは理解できる。これは、(民の宗教的指導者)モーセを通して、示されたことに従ったもので、個人がかってに、これが神が喜ばれるとして作ったものではないこと。そして、2つ目としては、意匠を凝らした、おそらく、当時の最高級品であったことである。もしかすると、現代においても、驚くようなものであったかもしれない。これは、Ex 31:1-11 にあるように、特別な職人が中心となって責任をもって作ったとある。ある、統率は取れている。民が揃って礼拝を献げるのであれば、混沌とした状態ではいけないのだろう。主は、不完全さを忍耐をもって見守っておられるとともに、カオスは望まれない。創世記の最初の天地創造を思い出させる。ていねいに見ていきたい。真理を求めて。達し得たところに従って。 2021.1.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  7. BRC 2021 no.007:出エジプト記27章ー出エジプト記40章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆さん、いかがお過ごしですか。出エジプト記は40章までですから、今週は、出エジプト記の最後の部分を読みます。 イスラエルの宗教の核ともいうべきものが述べられています。いろいろな表現の仕方があるかと思いますが、いくつか挙げてみると、まず、出エジプト記20章に書かれ、34章にも十の言葉として述べられているものを中心とした律法。決まり事。幕屋(会見の幕屋と訳す聖書もありますが)でモーセの兄であるアロンとその子らからなる祭司が中心となって執り行われる礼拝、この二つを核とした、共同体の生活でしょうか。 現代的に批判的思考で考えると、これはおかしいのではないかと思われる箇所が多くあるように思います。せめてこうしなければいけないのではと修正を考えたり、こんなことに意味はあるのだろうかと考えたり。また、逆に、ここでたいせつにされていることを考え、それをいろいろな意味で失ってしまっている現代がこれでよいのだろうかと考えることもあるかもしれません。そして、イエス様は、どう考えておられたのだろうかとも考えます。単に、正しさで、切り捨てていく読み方では、たいせつにされていたことを受け取れないかもしれません。背後におられる神様は、どのような思いで、イスラエルを見ておられたのでしょうか。前回も書きましたが、聖書の中でも、どう理解したら良いか、あまり簡単ではない箇所でもあると思います。みなさんは、どのような思いで、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記27章ー出エジプト記40章はみなさんが、明日2月8日(月曜日)から2月14日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。出エジプト記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Exodus 27:20 あなたは、イスラエルの人々に命じて、オリーブの実を砕いて採った灯のための純粋な油を、あなたのところへ持って来させなさい。灯を絶えずともすためである。 荒野でオリーブの実を砕いて採った灯のための純粋な油を得ることは不可能だろう。それも、長期間となれば。しかし、この章の記述から、イスラエルの民が、祭壇とこの灯火を非常にたいせつにしていたと思われることがわかる。灯(ともしび)は神秘的でもある。キリスト教会でも、永く守られている灯があり、仏教など他の宗教でもある。オリンピックの灯火リレーも関係しているのだろう。命の灯ということばについても考える。この灯もつねに、あなた(主)を覚えていますということの証なのだろうか。現代において、そのような象徴が失われても、本質が残っていればよいのだが、それはそれで困難であるように思われる。 Exodus 28:35 これをアロンは務めを行うときに身に着ける。その音は、主の前、聖所に入るときも出るときも聞こえなければならない。そうすれば彼は死ぬことはない。 かなりのものを身につけている。そして、周囲のひとたちは、それを見、一般のひとたちは、それを想像したのだろう。この「音」も含めて。万人祭司ということばは、とても、平らな横の関係を意味して心地よい響きをもつ。しかし、同時に、失っていることもあるように思った。畏れおののくこころだろうか。イエス様は、神の子として、わたしたちとともに歩んでくださった。素晴らしいことだが、近くに居た弟子たちが、それぞれの場面で伝える、畏れも受け取らなければいけないのかもしれない。形式を批判することは容易く、形式を維持することにもどることもひとつの選択肢として残るが、畏れをもって、主のみこころをもとめ、主の前を歩むことは、どちらにしても、それほど簡単なことではない。この音を神聖な気持ちで聞いたひとたちの心を想像してみよう。 Exodus 29:42.43 これは、代々にわたって会見の幕屋の入り口で主の前に献げる日ごとの焼き尽くすいけにえである。私はその場所であなたがたと出会い、あなたと語る。私はそこでイスラエルの人々と出会う。彼らは私の栄光によって聖別される。 ここまでに書かれている詳細になにか特別な意味があるのかと考えて、象徴的な意味もふくめて考えながら読んでいたことがある。今は、あまりそのような確かなものとしては、受け取ることができないことに頼ることに消極的になっている。これら細かい規定によって、アロンの子等(アロン直系の子孫 14)を通して、主がイスラエルの人々と出会う枠組みが踏襲されていくことに、制度的重要性があったのだと考えるようになっている。万人祭司は、カオス、混沌を生じさせる可能性が高いのかもしれない。それは、プロテスタント教会を見ていると、そうなのかもしれないと思う。カトリック教会では、最近またすこし、聖職者の女性がミサにおいてできることが増えたようである。その変化があまりに遅いと考えることもできるが、その遅さもプラスである面もないことはない。いずれにしても、礼拝の仕方というより、神と出会うことを続けることは、神がともに住んでくださり、そこに自分がいることは、困難を伴うことである。形式と単に批判することはできない。わたしも、このような、通読などのルーティンを生活の重要な部分においている。ひとつの、わたしにとって、かけがえのない形式である。 Exodus 30:15 主への献納物を納めて自分の命の贖いをするためには、富んでいる者も半シェケルより増やしてはならず、貧しい者もそれより減らしてはならない。 当時の生活様式に基づいた、文化・社会的背景を考慮しても、二十歳以上の男性だけ(代表?)であることの批判はあるとして、貧富の差とは関係なく、同額をひとり一人の命の贖いとして献げる。1シェケルは約11.4g ということは、5.7g となり、ペルシャなどで使われたシェケル銀貨の重さと近い。100円硬貨は 4.8g、500円硬貨は 7.0g だそうである。昔の穴の開いていない50円硬貨(5.5g)ぐらいだろうか。主への献納物との関係ははっきりしないが、いずれにしても、この贖いの銀が、会見の幕屋の仕事に当てられる。まったく同じ額ということは、興味深い。贖いは同じ代価という考え方が明確だったのだろう。登録の時とあり、頻度は不明だが、文脈からすると、毎年、これが献げられたとすると、イエスが納めた神殿税(Mt17:27)につながっているものだろうか。1デナリオン銀貨(兵卒一日の給与、なんとなく10000円ぐらいだろうか)は、4.5g 位のようである。これで二人分だったようだが。老若男女、成人は、みなが、500円玉を献げる(価値からすると5000円ぐらいのほうが良いかもしれないが)。いのちが一年守られた証として、神殿では、とくべつな香がたかれている。同じ割合で調合することは禁止されている(37)という特別な香の香りを嗅ぐ。それも、よいかもしれないと思った。人のこころの腐敗はどんなことにも生じるだろうが。 Exodus 31:6 今、私はダンの部族のアヒサマクの子オホリアブを彼と共に任命する。また、心に知恵のあるすべての者に知恵を授けて、私があなたに命じたものをすべて作らせる。 実際に荒野で起こったことかどうかは不明であるが、少なくとも描かれていることからは、様々な知恵と技術がここに結集された姿が映し出される。「彼(ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエル)を神の霊で満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けた。 」(3)特別な神さまからの賜物を与えられているリーダーのもとに、多くのひとたちが召し出され、荒野では、自分達が与えられていると感じていただろう賜物も、受けてきた訓練もなにも役に立たないと思っていたかもしれない。そして、このことを通して、自分に与えられていること・もの・ちからを発見したり、それが、神さまからの賜物で、まさに、このときのためにあったのだと考えた人もいたかもしれない。まさに、Be Available と、自らを整えていつでも、神さまに使っていただく準備と心構えが、荒野においても、発揮されるということを示しているのかもしれない。安息日を守るべきことが続いていることも、このことは、神様の前に生きることだということを、日々思い出させることであったかもしれない。そして、最後はその安息日(20:8)のことも書かれていると思われる神の指で書かれた板の記事で結ばれている。「主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。 」(18) Exodus 32:27-29 そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。モーセは言った。「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる。」 この金の子牛事件については、考えることが多い。背景には、すべてのひとが救われることを望む、神様の葛藤が描かれているように思う。モーセとの対話の中に「私に罪を犯した者は誰でも、私の書から消し去る。」(33)という厳しい言葉があるとともに、すぐには、人々を滅ぼさない。このことの中にも葛藤が現れているように感じる。すでに裁かれている(John 3:18)のかもしれないが。そのなかでも、目を覆いたくなることが、引用句に記されている。この文章からわかるのは、ここで行動した人たちは、レビ人であったこと。殺されたのは、その兄弟、友人、隣人だったことである。レビ人が指導的立場をとったこととともに、おそらく、アロンを利用して、この子牛の事件を導いた中にも、多くのレビ人がいたということだろう。兄弟はレビ人、友人、隣人は不明であるが、一般的には、同族でわかれて生活していたようであるから。まだ、レビ人の宗教的行事における指導的立場は確立されていないが、モーセとアロンのもと、ある程度の指導力は持っていただろう。宗教的な指導的地位の根拠を示してるとも言えるが、その責任の表現でもある。最初にもどり、すべてのひとが救われることが主の望み(1Tim 2:4)であっても、現実はそうはならない、難しさがある。悩みがある。浄土真宗のように、万人救済と簡素化してしまったほうが、人々は受け入れやすいだろうが。世の中はもっと複雑である。主の悩み、葛藤を受け取りたい。 Exodus 33:16 私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。そうすれば、私とあなたの民は、地上のすべての民のうちから特別に選ばれた者となるでしょう。」 わかりやすく(?)主の心が描かれている。「乳と蜜の流れる地に上りなさい。しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない。私が途中であなたを滅ぼすことのないためである。あなたはかたくなな民であるから。」(3)しかし、モーセは、これに食い下がり「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。」(15)と言い、引用句が続く。まずは、モーセは主が共に歩んでくださらないのなら約束の地にのぼらせないようにという。興味深いことは、12節を見ると、目に適っているのは、モーセのようであるが、16節では、一緒にのぼっていくのであれば、あなたの民も目に適っているはずだ。その証拠を示せと迫る。32章に金の子牛のことが書かれており、「悪い民」であることは、明らかななかで、「主の目に適う」という。「目に適う」は、正しいという意味ではなく、恵みを注いでくださる、共に歩んでくださることを表現しているのかもしれない。何か、主よりモーセのほうが上のように描かれているが、恵み、こんな民と共に歩んでくださることと、それが特別に選ばれた民と理解した部分をどのように受け取っていったかが、書かれているのかもしれない。精緻に整えられていないだけ、かえって面白い。11節には、ヨシュアのことが書かれ、12節には「私と共に遣わされる者」についても言及されていることも興味深い。 Exodus 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜主と共にいて、パンも食べず、水も飲まなかった。彼は、板の上に契約の言葉、十の言葉を書き記した。 この章は「主はモーセに言われた。「前のような二枚の石の板を切り出しなさい。そうすれば、私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記そう。」(1)と始まる。二度目でありながら「四十日四十夜主と共にいて」ことばを「モーセ」が書き記したようだ。今回は、民もおとなしく待っていたようである。十の言葉とあり、20章の十戒を想像させる。32章19節で砕いた板とは内容がことなるのだろうか。「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。/怒るに遅く、慈しみとまことに富み/幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪とを赦す方。/しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方。 」(6,7)は、契約の重さを表現するものなのだろう。文章の乱れが感じられる。編集なのか、ソースが複数なのか、混乱も感じる。そのほうが自然かもしれないが。 Exodus 35:6 六日間は仕事をすることができる。しかし、七日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。その日に仕事をする者はすべて死ななければならない。 「仕事をすることができる」という表現は面白い。「死ななければならない」は、本来は、いのちに関わることだと言っているのかもしれない。主の命令(1)として最初に安息日のことが書かれている。十戒の数え方もいくつかあるようだが、第四戒だろうか。他に神々があってはならない、偶像を造ったりひれ伏したり仕えたりしてはいけない、主の名をみだりに唱えてはならないに続いている。このあとは、父と母を敬えが第五戒、そして、人間関係のことが第六戒の殺すなかれから、第十戒まで続く。安息日の規定はやはり十戒の中でも特徴的である。歴史的にも珍しいのではないか。このあとは、「心」が多いと感じた。(5,10,21,22,25,26,29,34,35)人々の心からの応答が強調されているのだろう。形式になってしまっては、意味はないのだろう。一つ一つの心の表現をていねいに受け取りたいものである。ここに書いてある人たちだけではなく、現代においても。応答は、生きていることの証明、生かされていることへの感謝なのかもしれない。 Exodus 36:8 仕事をする者のうち、心に知恵のある者たちは皆、幕屋を十枚の幕で造った。上質の亜麻のより糸、青や紫、また深紅の糸を使って、意匠を凝らしてケルビムが織り出されていた。 ケルビムは何回も現れ、重要な位置を占めるようなので、調べてみた。「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3章24節)が初出で、創世記ではここだけである。出エジプト記では、25:18, 19, 20, 22, 26:1, 31, 36:8, 35, 37:7, 8, 9 である。旧約聖書ではこのあとも、何回かあらわれるが、新約聖書では、Heb 9:5 のみのようである。以前の訳では、単数のケルブと区別して書かれていたように思うが、聖書協会共同訳ではその区別はないようである。ケルビムはどのような意味があるのだろうか。「私はそこであなたに臨み、贖いの座、すなわち証しの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために命じるすべてのことをあなたに語る。 」(Ex 25:22)とあり、神の世界と、人間の世界の中垣を守るものなのだろうか。創世記の記事は象徴的である。直接的には対面できない、仕組みになっているのだろう。しかし、そのケルビムの向こうにおられる、神と会見する。そのような感覚だろうか。「ケルビムは両翼を上に広げ、その両翼で贖いの座を覆い、互いに向かい合って、ケルビムの顔は贖いの座に向いているようにしなさい。」(Ex 25:20)とあり、天とつながっている感じが表現されており、王国の歴史(1,2 Sam, 1,2 King)には「ケルビムの上に座す主」に近い表現が多い。 Exodus 37:24 燭台とそのすべての祭具類を一キカルの純金で作った。 「純金」が多い。(2, 6, 11, 16, 17, 22, 23, 24, 26/出エジプト記全体で26)聖書全体でも、純金はこの章に集中している。זָהָב טָהוֹר: tahowr (pure, clean) zahab(ヘブル語は右から書くが、修飾は後ろからなので、ヘブル語の並びは、右から、金、純粋となる。)3節に鋳造も出てくるが、かなりの技術だったのだろう。しかし、純金は、用語の使い方からしても、おそらくかなり貴重であったろうから、素晴らしいものが結集されていたのだろう。それが、すべて民からのささげ物で、賄われている。(36:3-7)意匠を凝らした垂れ幕などとともに、人々はものも技術も、心も献げたのだろう。これが自発的になされたと記述さている。理想論かもしれないが、そのような中でないと、すばらしいものあできない。そしてそれは、このときの奇跡であり、形式だけを再現することは、できないのだろう。 Exodus 38:21 これらは、証しの幕屋である幕屋建設の記録である。モーセの命令に従い、祭司アロンの子イタマルの指導の下、レビ人の奉仕によるものである。 記録が詳細であることにも驚かされる。どのように記録されたのかは不明であるが、重さも総計が書かれている。1キカルは34.2kg と聖書の後ろについている表にある。金の総量は 29キカル730シェケル(24)とある。シェケルは11.4g とすると、ほぼ 1000kg = 1t である。精製の仕方にもよるだろうが、今日の価格で、68億5千万円ぐらいとなる。成人男性が 60万人であると、一人、1万円である。金だけでである。この記録は、なにを意味するのだろうかとも考える。実際の記録であったとしても、後代に編集したものであっても、驚かされる緻密さである。 Exodus 39:42,43 イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。 モーセがすべての仕事を見ると、主が命じられたとおりに彼らが行っていたので、モーセは彼らを祝福した。 「主がモーセに命じられたとおりであった。」は聖書に14回あるが、そのうち7回が39章、残り7回が40章である。その39章の部分が引用句で締めくくられている。二つのことを考えた。ひとつは、厳格に主が命じられたとおりにしないといけないと言う面を以前考えていたが、おそらく、モーセを注解としての、神と民とのコミュニケーション、そして交わり(当時はこのようには表現しないだろうが)が、適切に行われ、それを祝福しているということだと思ったことである。もうひとつは、このまえに金の子牛事件(32章)のあと、神様が望まれることが適切に伝えられ、望まれるように行うことがたいせつであることが認識されたことの表現なのだろうということである。自分勝手に、主のみこころを思い計ってはいけないということを教え、体験として共有することだろうか。そのためには、詳細な仕様を確実に、達成していくことが求められたのだろう。本質を見失わないようにしたい。形式主義に陥らないように。 Exodus 40:1,2 主はモーセに告げられた。 「第一の月の一日に、幕屋、すなわち会見の幕屋を建てなさい。 第一の月の一日、新しい生活の始まりである。出エジプトは何だったのかを考えると、神を礼拝することを中心とした生活の確立だったのかもしれないと思った。自由な身でないとできないことかどうかはわからないが(こころが自由でないとできないのかな)ファラオの前での奇跡を行うときにも、いけにえをささげる(礼拝をする)ことが目的のように書かれている。(3:18, 5:3, 8, 17, 8:4, 21, 22, 23, 24, 25)自由にされる、解放されることと、いけにえをささげる、めぐみを神に感謝し、献身をあらわすこととの関係についても考えてみたい。Free From ではなく、Free To であることが、キリスト者の自由としていわれるが、その本質がここにもあるのかもしれない。むろん、この礼拝によって、自由で無くなってしまうのであれば、本末転倒であるが。 2021.2.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  8. BRC 2021 no.008:レビ記1章ーレビ記14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆さん、いかがお過ごしですか。予定では今日の通読箇所が出エジプト記40章で、今週は、レビ記を読み始めます。通読は続いていますか。 何回か書いているように、この聖書通読の会は2011年に始まり、最初のBRC2011では、わたしの聖書ノートではなく、聖書のそれぞれの巻の概要を送っていました。BRC2013から、聖書ノートを送りはじめましたが、その時に、BRC2011で送った巻についての説明を見直し、聖書のそれぞれの巻の概要を書き足しています。それらが、下にもリンクをつけてあるものです。毎回、BRC を送るときには、わたしは、そのときに送る、聖書ノートを読み返し、新しい巻に入るときには、これらの概略を読み返しています。そのレビ記の冒頭にわたしは次のように書いています。 「聖書の通読は続いていますか。通読する人の最初の関門は、習慣とできるかつまり毎日の予定に組み込めるかですが、第二の関門は、レビ記だというひとがたくさんいます。2月15日からそのレビ記を読み始めます。」 ひとによっては、出エジプト記の後半から、民数記の前半が関門だと言われるかもしれません。脅かすつもりはありませんが、少なくとも、わたしが何回か通読をするなかで、苦労しているということを表現したものでもあります。だからということもないでしょうが、聖書ノートもそれなりにていねいに書こうとしていると思います。「サポート・ページ」に載せているのですから。 レビ記の概要(2)には、「いのちはどこにあるのだろう」として日野原重明先生のことばを引用したり、「たいせつなひとをたいせつにすることは、たいせつなひとのたいせつなひとをたいせつにすること」と、わたしがよく使うフレーズがここに書かれています。レビ記などを読みながら、考えたこと・思いをことばにしたものだと思います。お時間のあるときに、読んでいただけると嬉しいです。 どう理解したら良いか、あまり簡単ではない箇所であることは確かだと思います。みなさんは、どのような思いで、読んでいかれるでしょうか。わかちあって頂ければ嬉しいです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 レビ記1章ーレビ記14章はみなさんが、明日2月9日(月曜日)から2月21日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 レビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Leviticus 1:3,4 もしその人の献げ物が牛の焼き尽くすいけにえであるなら、欠陥のない雄牛を献げなさい。主の前でそれが受け入れられるよう、会見の幕屋の入り口にそれを引いて行きなさい。その人が焼き尽くすいけにえの頭に手を置くと、それはその人の代わりに受け入れられて、その贖いとなる。 献げるのは「欠陥のない雄牛」であること「その人の代わりに、その人の贖いとなる」ことが書かれている。献げるときは、自分のものとして不必要なものを献げようとすることへの戒め、それが受け入れられて、身代わりになる宣言である。このあとに、それがどのように扱われるか、その詳細が続く。詳細にはなかなか興味が持てないが、この細かいルーティンと、アロンやその子孫が適切に、定められた方法で扱ってくれることへの信頼と、神秘性によって、主に受け入れられ、自分が購われたものとなることを信じ、日々を生きることができるようになるのだと感じた。これは、ここでは、男性だけについて、言われていることだろうし、現代では、神秘的秘蹟によって、受け入れられることは困難になってきている。それは自然な流れだと思うが、それに代わるもの、主を信頼する、そして、(主の恵みによって(このようには言い切れなかったとしても)すくなくとも、自力だけで生きる存在ではなく)生かされている存在であることを、認識するためのなんらかの方策は必要なような気がする。人間の弱さは、当時も、今も変わらないだろうから。 Leviticus 2:10 残った穀物の供え物はアロンとその子らのものになる。これは主への火による献げ物の中で、最も聖なるものである。 祭司の取り分も明確になっており、透明性が高くなっている。ただ、当時は、アロンとその子らは、人数も少なく、どのようにされていたのかと考えてしまうが、時代とともに、修正されていったのかもしれない。構造的には、祭司である、アロンとその子らはよいが、レビ人は、何を受けるのかと思った。貧しい場合が多かったとも聞く。現代のキリスト教会でも、そのような不公平・不均衡は起こっている。透明性とともに、不公平さは、悲しい現実である。特に、女性が献身者として、聖職者となり、その後、病気をしたような場合の困難さを多く見ている。一般社会のひずみが現れるのだろう。カトリックや、聖公会、大きな教団では、多少ましなようだが。構造に安住せず、きめこまかな配慮と、体制の改善はやはり必要である。 Leviticus 3:3,4 その人は会食のいけにえから主への火による献げ物として内臓を覆う脂肪と内臓周辺のすべての脂肪、二つの腎臓と腱に付いた脂肪、そして腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を携えて行く。 動物をさばいているひとにとっては、よくわかることなのだろうが、わたしには、殆どわからず、意味をなさない。そして最後には「これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」(17)とある。これを主が定められたのだろうか。これをイスラエルが受け取ったということだろう。なぜ、脂肪と血なのかは、不明だが、とくべつに神秘的な、いのちと直接つながるものだと、考えていたのではないだろうか。それは、主のものとする。自由な考え方、普遍性、科学性を求める中で、失ってしまっているものもあるように思う。主から多くをいただいていることは確かである。主を畏れるものとして、なにを主のものとすべきだろうか。おそらく、共有すべきものがあるのだと思う。主の前を歩むために。共に生きるために。わたしにとって、主にささげるべきものは、共に感謝して食するものは何だろうか。 Leviticus 4:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて、人が過って違反した場合、次のようにしなければならない。 このあと、油を注がれた祭司、イスラエルの全会衆、民を導く者、この地の民の一人がそれぞれ過失を起こした場合の対応の仕方が書かれ、祭司の時以外は「祭司がその人のために過失の贖いをすると、彼は赦される。」(20,26,35)となっている。例外的な祭司の扱いも述べられていること、贖いによって、赦されるとしていることが、特徴的であろう。過失はどこにでも起こりうるものである。その配慮が欠けていては、適切なルールとは言えない。ここで、興味を持つのは、贖いの思想の源泉と、過失ではない過ちである。この二つはかなり困難である。また、それが出てきたときに考えよう。 Leviticus 5:4 また、悪いことのためであれ、良いことのためであれ、人が口で軽率に誓った場合、その人が軽率に誓ったあらゆることに対して、その時違反したことに気付いていなくても、後にそれと知るなら、これらの一つに対して罪責ある者となる。 様々な過失について書かれている。特に、気付いていないとき、「後にそれと知るなら、罪責ある者となる。」は興味深い。気付いていて、気付かないふりをすることが問題なのだろうか。過失があるにも関わらず、それを言い表さないことだろうか。聖書協会共同訳では「罪責ある者」であるが、訳によってそれぞれ異なる。「責めを負う」(新共同訳)「とがを得る」(口語訳)おそらく、対象は神に対してであろう。過失であっても、それが自分の前(気付いているなら)にあると、神との交わりの妨げになる、神の前に立てないということだろうか。または、そのように考えたということだろうか。ヨブの記載を思い出す。「その祝宴が一巡りする度に、ヨブは使いを送って子どもたちを聖別し、朝早く起きて、彼らの数に相当する焼き尽くすいけにえを献げた。『もしかすると子どもたちは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1章5節)念には念を入れである。神の前を歩くものとして、わたしはどのようにしたらよいだろうか。考えたい。形式にこだわらずとも、考えることはあるように思う。 Leviticus 6:8 穀物の供え物である油のかかった上質の小麦粉一握りとその上に置かれたすべての乳香をすくい上げ、祭壇で穀物の供え物の記念の分として焼いて煙にし、主への宥めの香りとする。 新共同訳とは区切りが同じだが、口語訳は異なっている。殆どの英語訳は、口語訳と同じ形式になってっているように見える。訳の元とした定稿がことなるのだろう。”The priest is to take a handful of the finest flour and some olive oil, together with all the incenseon the grain offering, and burn the memorial portion on the altar as an aroma pleasing to the Lord. “ (NIV Lev 6:15) 「すなわち素祭の麦粉一握りとその油を、素祭の上にある全部の乳香と共に取って、祭壇の上で焼き、香ばしいかおりとし、記念の分として主にささげなければならない。」(口語 レビ6:15)宥めの香りとはなんだろうか。主に喜ばれるにはどうしたらよいか、考えられていった結果なのだろう。祭儀の意味を考えるのは難しいと同時に、そのこころを継承するのは、おそらく、もっと難しい。 Leviticus 7:35 これはアロンとその子らが主に仕えるように献げられた日より、主への火による献げ物の中からアロンの取り分とその子らの取り分となった。 アロン子らは特別である。しかし、それは、この律法を知り尽くさなければいけないことを含んでいる。同時にそれは、規定に、形式にとらわれることにもつながる。神に奉仕するものの責任だろうか。カトリックの司祭もこれと近い存在であるだろう。女性はどうだったのだろうか。こどもは。「一族から絶たれる」(20, 21, 25, 27)とレビ記に他に三件しかなく(17:9, 19:8, 23:29)あとは民数記9:13にあるだけである。厳しさにも驚かされる。実際には、どうだったのだろう。 Leviticus 8:33 あなたがたの任職式の期間が明けるまでの七日間、会見の幕屋の入り口から外に出てはならない。七日間かけて任職式が行われるからである。 アロンの任職式について書かれている。これが、アロンの子らにも適用されたのだろう。7日間である。特別に重要な儀式で、会衆も集められている。(4)このような記述は、会衆にとっても特別なことだったろう。儀式の意味づけはよくはわからない。しかし、それだからといって、簡単にないがしろには、できない。難しい。 Leviticus 9:5 そこで、彼らはモーセが命じたものを会見の幕屋の前に取りそろえた。全会衆は近づいて、主の前に立った。 アロンの大祭司(祭司長)任職の八日目、初めて、その職をなすときの記録と思われる。「主の前に立(つ)」とあり、このあと、モーセは「これは、あなたがたが行うように主が命じられたことである。行えば、あなたがたに主の栄光が現れる。」(6)といっている。主の臨在の証が現れると言い、実際にいけにえを献げ、民を祝福すると「その時、主の栄光が民全体に現れた。」(22)とある。主が共に居てくださること(臨在)を願うが、われわれが主の栄光を目で見ることは無い。しかし、実際に見ているのかもしれない。いずれにしても、モーセとアロンの祝福と、栄光の顕現は、美しい光景に見える。最後つぎのように締めくくられている。「主の前から炎が出て、祭壇にある焼き尽くすいけにえと脂肪をなめ尽くした。これを見て、民は喜びの叫びを上げ、ひれ伏した。」(24)おそらく、奇跡を記述したのではなく、喜びを表現したのだろう。 Leviticus 10:1,2 アロンの息子ナダブとアビフは自分の香炉を取って、火を入れて香をたき、命じられていない規定外の火を主の前に献げた。すると主の前から火が出て、彼らをなめ尽くし、彼らは主の前で死んだ。 9章24節に引き続き起こったかどうかは不明だが、アロンの息子、ナダブとアビフ、そしてエレアザルとイタマルのことが書かれている。痛ましい事件であるが、おじに死体処理を依頼したこと、さらに、最後に、アロンとその子ら、おそらく、エレアザルとイタマルが規定に従わなかったことが書かれており、アロンのことば「あの者たちは、今日、自分たちのために清めのいけにえと焼き尽くすいけにえを主の前に献げました。しかし、このようなことが私に起こってしまったのです。このような日に私が清めのいけにえの肉を口にして、果たして主の目に適ったでしょうか。」(19)が書かれ「モーセはそれを聞いて納得した。」(20)と結ばれている。主に喜ばれることを求めることも、簡単ではない。単純ではないとも書いておこう。 Leviticus 11:46,47 これが動物、鳥、水の中でうごめく生き物、地に群がるものについて、汚れたものと清いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別するための指示である。」 この規定がそれなりに守られてきたようである。「しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。』」(使徒10:14,15)清い神様が共に住んでくださるという恵みを受けるために、自らを清く保とうとすることは、非常に自然なことで、推奨されるべきことである。しかし、問題もある。そのことが逆転し、共に住んでくださること、共に居てくださることを恵みとしてではなく、自らが清いからだという錯覚に陥りやすい。恵みという他力から、精進という自力に頼ることになることである。そして、もう一つは、その実践をしないものは、汚れていると判断してしまうことである。それは、やはり清いから共に住んでくださるという論理の逆転とともに、自らを清めてくださる(神との交わりがゆるされるようにしてくださる)のは神であることを忘れてしまうこと、さらには、神が望まれる清さとはなにかを、神がなぜ交わりを望まれるかを考えなくなることでもある。 Leviticus 12:1-3 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。女が身ごもって、男児を産む場合、月経の汚れの日数と同じく、七日間汚れる。八日目には、その子の包皮に割礼が施される。 適切な処理がされず、特に不衛生さから、母親やこどもが死ぬことは頻繁にあり、日本語でも産褥(産褥(さんじょく、英: puerperium)とは、妊娠および分娩によってもたらされた母体や生殖器の変化が、分娩の終了(医学的には分娩第3期、いわゆる後産期終了)から妊娠前の状態に戻るまでの期間のこと。)と言われ、産褥熱なども有名で、感染によって起こることなどがわかってきたのも近代になってからだと言われる。センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ (Semmelweis Ignác Fülöp, 1818 - 1865)医師による消毒法が提案されたのも、19世紀中頃である。そうかんがえると、その期間の扱いが特別なものとされていたことは、理解できる。しかし、それを表現するのに「辱:はずかしめる」という字が使われるのは、おぞましくもある。ここでは、一般的な出産ではなく、男児を産む場合となっている。割礼も不衛生ななかで行われると、問題も発生するだろうが、ナイフを火であぶる程度ですんだのかもしれない。良かれと考えてすることで、大きな問題を生じることは多々ある。無知であることをどのように受け止め、謙虚に生きて行くかは非常に難しい。 Leviticus 13:2,3 「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、その人は祭司アロンか、祭司であるその子らの一人のもとに連れて行かれる。祭司がその皮膚の患部を調べて、その患部の毛が白く変わり、皮膚の下まで及んでいるなら、それは規定の病である。祭司はそれを確認したら、その人を汚れていると言い渡す。 日本聖書協会の訳では昔は「癩(らい)病」と記されており、それはハンセン氏病をさす言葉だが、ハンセン氏病ばかりではなく、「癩病」と書くことは差別を生むとして「重い皮膚病」という表現に変化し、聖書協会共同訳では「規定の病」となっている。配慮はたいせつなことである。ここで書かれている本質は、重い感染病である程度目で見て判断できるものについて書かれており。その判断は、祭司が慎重に行うこと。完全にはわからない場合も多いこと。礼拝には参加できない(汚れている)とされたことだろう。十分な教育を受け知識があり、責任をもって判断できる指導的立場のひとは、この時代は祭司であったこと。感染を抑えることは、その民族(共同体として共に生活する集団)の存続にとって最重要項目といってもよいものであること。接触感染をまずは、防止することが必要だったということだろう。しかし、ハンセン氏病のことを考えると、実際に科学的な知見が増し、適切な対応法がわかっているにもかかわらず、分離の方策だけが残るということについて考えさせられる。ひとのこころの中の差別的な感覚に対しても、ていねいな教育の欠如だけでなく、この「変化するものである」ことをひとが受け入れることが苦手で、すり込まれていることに、頼った判断をしてしまう傾向が強いことも意味しているのだろう。人間の弱さが背景にあり、とても難しい。 Leviticus 14:2,3 「これは規定の病を患っていた人が清められるときの指示である。その人は祭司のもとに連れて行かれる。祭司は宿営の外へ出て行き、確認する。規定の病の患部が癒えているなら、 一過性の皮膚病の場合の対応である。公的なかつ見える形での宣言が差別が継続しないために必要だったことも背景にあるだろう。宿営の外というのも興味深い。皆の見ている前で、いろいろな意見がでることを避けているのか。判断が難しい場合もあったろう。祭司の判断を信頼することと共に、それが間違っていたときの対応も、適切にする必要があったろう。宿営の外に連れて行くのは、感染が広がらない配慮もあったかもしれない。しかし、ハンセン氏病のように、ゆるやかに進行したり、治癒してからも、皮膚にそのあとが残っている場合には、判断は困難だったろう。43節以降にある、家に生じるかびについても、似た規定があることは、興味深い。無知をあざけることは、本質をみていないように思う。それこそが人間の無知、弱さである。わたしたちも、ほとんどのことがわかっていないのだから。同時に、達し得たところにしたがって、理解したことに基づいて、そのときに受け取った科学的知見とその限界もわきまえながら、さらに、最先端の研究状況にも目を向けながら、少しずつ見直していくべきこともとてもたいせつな歩みである。単に、批判しているだけでは、いけない。愛に向かうことを妨げるのは、裁き続ける(批判ばかりする)ことであるように思う。 2021.2.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  9. BRC 2021 no.009:レビ記15章ー民数記1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆さん、いかがお過ごしですか。今週は、レビ記後半を読み、民数記を読み始めます。出エジプト記後半からレビ記は、創世記から申命記の呼称ともなっている「律法(トーラー)」を中心に書かれており、その当時のイスラエルとは違った生活を、異なった制度のもとで送っている私たちには、なかなか理解困難なものだと思います。おそらく、本当にたいせつにすべき本質は、わたしたちの神様(の御心の)理解が急激に進むわけではないので、それほど変わらないけれど、それをどのようにたいせつにするかは、状況にあわせて変えて(変わって)いくものなのかも知れません。受け取っている神様のこころをこころとしながら。贖いや血のことや性的交わりもふくめ、いのちに関することの記述が多いように思います。今は、医学的・科学的見地からみてこれはおかしいと言ってしまうことが多いように思いますが、我々がそれほどよく理解できているわけではなく、私たちが、その背後にある、ほんとうにたいせつなことにしっかりと向き合おうとしているかは、疑問かもしれません。みなさんは、どう思われますか。 そんな中、レビ記19章には、隣人を愛することが書かれていますね。読み飛ばしてしまうぐらいさらっと書かれていますが、イエス様だけでなくイエス様の時代たいせつに考えられていた箇所でもあります。見つけてくださいね。いのちのこととつながっているのでしょうか。 民数記は、最初と最後に人口調査の記述があるので、それが中心かと考えてしまいますが、さてどうでしょうか。民数記についての説明や、下にあるわたしの聖書ノートの民数記1章(Numbers 1)にもすこし書いてあります。通読は、大変だと感じておられる方もいると思いますが、夜に送っている投稿も参考にして、読み続けていけるとよいですね。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 レビ記15章ー民数記1章はみなさんが、明日2月22日(月曜日)から2月28日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 レビ記と民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#lv 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Leviticus 15:31-33 あなたがたはイスラエルの人々を汚れから遠ざけなさい。あなたがたの中にある私の住まいを汚して、彼らがその汚れの中で死なないためである。以上は漏出による汚れについての指示である。精液を出して汚れた男、月経中の女、男であれ女であれ何らかの漏出があった者、また汚れている女と寝た男についての指示である。」 現代的な視点からみると、不適切と思われること、汚れについて疑問をもつこともある。しかし、ひとつは、汚れを遠ざけることが言われていること。そして、いのちに関わることについてとくに注意をしていることだろう。いのちというものは人間のいとなみでありながら、神が直接関わっていると信じていたであろうこと、また一つ一つについては、理由もよくわからないことがあったのではないだろうか。表面的なことで裁くことには気をつけるべきこと。社会的分離は、必要な場合でも特別な配慮のものでされるべきこと。そして主がなにを求められるかも探し求め続けるべきことだろうか。おそらく、様々な社会において、このようなことが立法化されているかは別として存在し、現代にもあるのだろう。すくなくとも、ひとのこころの中には。難しい問題である。不明なことに囲まれていることを覚えることも含めて。 Leviticus 16:10 一方、アザゼルのためのくじに当たった雄山羊は、主の前に生きたまま留めておき、贖いの儀式を行って、荒れ野のアザゼルに放つためのものである。 「アザゼル」は、聖書全体でこの16章にしか現れない。不思議である。文脈から、贖いと関係しているのだろう。動物が贖いとして、ひとの身代わりとして献げられるが、動物においても、くじであるものは献げられ、あるものは、生かされて残されることを示すことで、このようにして生かされている者との意識を、ひとり一人が持つためだろうか。たしかに、偶然のように生かされているという感覚はときどき持つ。それを覚えることは、畏れることにもつながる。この章の最後には「これはあなたがたのとこしえの掟である。第七の月の十日には身を慎みなさい。どのような仕事もしてはならない。イスラエル人も、あなたがたのもとでとどまっている寄留者も同じである。」(29)と贖罪日について書かれている。罪が購われ生かされていることを覚える日なのだろう。過越に代表される贖い、すごいことを受け継いだ民がいたものである。驚かされる。 Leviticus 17:11 肉なるものの命、それは血にある。私はあなたがたの命の贖いをするために、祭壇でそれをあなたがたに与えた。血が命に代わって贖うのである。 「血」がキーワードのようだ。1-9節が何を語っているのか明確ではないが、「彼らが慕って淫らなことをしてきた山羊の魔神に、二度といけにえを献げてはならない。」(7a)とあり、おそらく、当時残っていた他の神にいけにえを献げる因習を禁止するものなのかもしれない。後半は血と命その贖いが結びつけられて、血は食べてはならないとしている。人間の体についてはわからないことが多いが、血もおそらくいまでも理解がむずかしいものなのだろう。血中にどのようなものが流れそれが体を制御するかは、健康維持や、あらゆる病に関わっているのだから。ただ、現代では、血を食べるな、特別な方法で血抜きをしたもののみを食べよということは、なかなか受け入れられないだろう。おそらく、本質は、自分が命購われた者であると考えるかどうかなのだろう。自分のいのちのことは自分で決めると考えることは、現代では一般的だが、不遜であるともいえる。知らず知らずに、たいせつなものが失われていることは確かだろう。どのように表現したらよいかわたしもよくわからない。 Leviticus 18:4,5 私の法を行い、私の掟を守り、それに従って歩みなさい。私は主、あなたがたの神である。私の掟と法を守りなさい。人がそれを行えば、それによって生きる。私は主である。 わたしには「法」と「掟」の違いもよくわからない。「戒め」はどう違うのだろうか。「神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです。」(1John3:23)またマタイ22章34-40節(マルコ12章28-34節)にある「最も重要な戒め」、マタイ19章16-22節にある金持ちの青年との対話の中での戒めなどを思い出す。それで十分ではないかと思ってしまうが、社会として、共同体として生活するときには、「最も重要な」(本質的な)戒めだけでは、そのたいせつなことも、失われるのだろう。この章に書かれている性交に関係する行為についての倫理規定がそれほど重要ではないとすることは、最も重要なことをも犯すことだと理解されたのかもしれない。中心的な戒めと法と掟の問題は、主要なことと些末なことの区別、扱い方は、とても難しい。自発的には守ることができず、教えられなければたいせつさがわからないことも多い。同時に、それを守っていれば良いと考えるのも人間の弱さの一つであり、無視することはできないのだから。 Leviticus 19:17,18 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を繰り返し戒めなさい。そうすれば彼のことで罪を負うことはない。復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。 レビ記の中で最も有名な節だろう。「隣人を自分のように愛しなさい。」の引用としてはこの箇所があげられるからである。ということは、これだけ基本的なことがここにしか書かれていないともいえる。おそらく、この章にも隣人に対することがいくつか書かれているように、このことにつながることは多く書かれているが、このことばで書かれているのはこの箇所だけだと言うことなのだろう。前章で「わたしの掟と法を守りなさい。」(18:26)とあるが、この章の前半(引用節まで)は、出エジプト記20章にある十戒と重なることの記述が多い。引用節を見てみると「心の中で兄弟を憎んではならない。」から始まっている。愛することの逆を憎むと表現しているのだろう。逆というより、「愛に向かわせない・愛に向かうことを妨げるもの」ということかもしれない。戒めることが書かれており「そうすれば彼のことで罪を負うことはない。」となっている。「罪」は、おそらくそれに続く、「復讐」や「(後々に影響する)恨み」に関係しているのだろう。非常に具体的である。隣人愛は、抽象的・観念的なことばではなく、具体的な生き方なのだろう。引用節以降は、何か問題を感じてしまう掟が続く。「隣人愛」といっても、いろんなことが世の中にあると言っているかのようだ。あなたはそれぞれ具体的な課題を前に日々どう生きるかと問われているようにも感じる。 Leviticus 20:8 私の掟を守り行いなさい。私はあなたがたを聖別する主である。 このまとめのようなことばの前には「モレク神に自分の子どもを献げてはいけない」ということから始まっている。イサクを献げたアブラハム、神の子イエスを献げた神と混同してはいけないと言っているようにも見える。背景にあるのは、神を畏れることかもしれない。掟を守ることが我々のつとめ、しかし、聖別するのは主である。このあと性的な交わりについて書かれ、「私があなたがたの前から追い払おうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらのことをすべて行ったので、私は彼らを忌み嫌った。」(23)「私は主、あなたがたの神、あなたがたを他の民から区別する者である。」(24b)とある。このように、受け取ったのだろう。すると、(滅ぼされてはいけないと)厳格になっていき、通常の性的な交わりに合わないものに対して死という究極の裁きを適用することになっている。モレクのことも、わかりやすく解釈して形式を踏襲してしまう過ちが含まれるように、聖別されている状態を形式から認識してしまうことだろうか。聖別は神様の愛を受け取るひとつの表現であるにも関わらず。難しい。 Leviticus 21:23 ただし体に欠陥があるからには、垂れ幕の前に出てはならない。祭壇に近づいてはならない。私の聖所を汚してはならない。私はそれらを聖別する主である。」 人の側から見て主が喜ばれると考えることと、主が願っておられることは違うのだろう。祭司長という特別な職において、欠陥のある者はその任にあたることができないということは、人間の側からはそれなりに自然である。しかし、最後にあるように、聖別(神様と交わることのできる特別に聖いものと)するのは主である。その主が望まれることを示されたのが、主イエスなのだろう。むろん、具体的な指示は多くないかもしれないが、イエスが悲しむものを悲しみ、イエスが喜ばれることを喜ぶ者でありたい。体に欠陥があることは、そのひとに神様の栄光が現れるためなのだから。(John 9:3) Leviticus 22:32,33 私の聖なる名を汚してはならない。イスラエルの人々の間で、私は聖なる者とされなければならない。私はあなたがたを聖別する主、あなたがたの神となるために、エジプトの地からあなたがたを導き出した者である。私は主である。」 主のみこころをわたしたちがわからないことは、主はご存じなのだろう。そして、聖別されるのは主である。ただ、そのようなことは、他のひとにも、他の民にも起こりうることを知っていなければならないだろう。これが、主が喜ばれることとして受け取ったことを、主は喜ばれないのではないかと思ったとき、どうしたらよいのだろうか。主イエスならどうされただろうか。自分のすべてをもって主に仕えること。みこころだと信じることを謙虚に生きてみることだろうか。聖別してくださる主を思いつつ。 Leviticus 23:43 それは、私がイスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、仮小屋に住まわせたことを、あなたがたの子孫が知るためである。私は主、あなたがたの神である。」 祭りは、一般的に、ある出来事を思い出すために催されることもあるだろう。この章には、祭りの規定が書かれている。まず、安息日を主の祭りとし(1-4)次に、過越祭とそれに引き続き行われる除酵祭(5-7)。このときが最初の収穫を献げるときでもあるのだろう。(9-14)そして、50日後に初穂の祭り(15-21)。ペンテコステ(50日の祝い)で、聖霊降臨祭とキリスト教で呼ばれるときである。そして、贖罪の日(23-32)、その一週間後の仮庵祭(33-43)。この最後に引用句がある。また一節飛ばした22節には「あなたがたが土地の実りの刈り入れをするとき、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。」とあり、収穫の時に覚えるべきことが述べられている。これら一連の祭りをみていくと、祭りは、イスラエルの人々のアイデンティティを形成するのに、十分だったと思わされる。ルーティンのなかにある教育・継承だろうか。むろん、キリスト教も例外ではない。それが、他者との区別にもつながっていくわけであるが、それぞれのひとの尊厳の根幹にもつながっているように思われる。 Leviticus 24:16,17 主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない。イスラエル人であれ、寄留者であれ、御名をそしる者は死ななければならない。人を打って命を奪う者は必ず死ななければならない。 明らかに矛盾するようなことが、このように並べて書かれているところに、なにかすごさを感じてしまった。主を呪ったのはエジプト人との混血の寄留の人である。「彼はイスラエルの男と宿営内で争った。イスラエル人を母とする、その男が御名をそしって呪ったので、人々は彼をモーセのもとに連れて行った。」(10b,11a)とあるが、詳細がよくわかるわけではない。留置してから決めたとあり(12)、慎重におこなったのだろう。引用句にあるように「主の名をそしる者は必ず死ななければならない。」と「人を打って命を奪う者は必ず死ななければならない。」の狭間で苦しんだことの表現だとも考えられる。そして、それは、主の悩みと苦しみを共にした時だったのかもしれない。単に、正しさから、矛盾として片付けることでは、見えてこないことも多い。ほんとうに難しい。 Leviticus 25:55 イスラエルの人々は私の奴隷である。彼らは、私がエジプトの地から導き出した私の奴隷である。私は主、あなたがたの神である。 このことばは特に強烈であるが、この章全体のメッセージにはほんとうに驚かされる。基本的に、自分の働き方、産物を生成する土地にたいする考え方、雇い人や同胞にたいする根本に関わることでもあり、その結びが、引用句である。「七年目に種も蒔かず、その産物を収穫もしないのなら、何を食べたらよいのかと言う者もいるだろう。」(20)にも答えている。ヨベルの年というと、ジュビリー2000(Jubilee 2000 was an international coalition movement in over 40 countries that called for cancellation of third world debt by the year 2000. (Wikipedia))を思い出す。実際にどの程度のことが起こったのかはいずれ調べてみたいと思うが、現代の大きな課題だと思う。自由が利己的なものとしてしかとらえられていない現代。イスラエルの解放は、主の奴隷となるためのものであるというのが、ここのメッセージなのだろう。キリスト者の自由は、その自由によって、主と共に喜ぶ生き方をすることだろう。ヨベルは原義は雄羊の角で、転じてそれで作ったラッパを意味し、それが吹き鳴らされる年の意味を持つようになったようである。これを歓喜をもって迎えるか、そのために自分の利益を確保する算段をするか、全く無視するか。自由の使い方は、任されているだけに難しい。 Leviticus 26:13 私は主、あなたがたの神、奴隷にされていたエジプトの地からあなたがたを導き出した者である。私は軛を砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。 このことばにははっとさせられる。「私は軛を砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」この章には、基本的に、このことばの前に祝福が、このことばの後に呪いと裁きの記述が続く。そして、後半の方がずっと長い。おそらく、民も、この後半を読み、または聞き、自分は、自分達は、どこで間違ってしまったのだろうと考えたろう。しかし、メッセージはおそらくこの引用句に立ち戻ること。そして、主のこころをこころとして生きることを求めることだろう。この章の最後は「以上が、シナイ山において、主がモーセを通してご自分とイスラエルの人々との間に授けられた掟と法と指示である。」(46)で締めくくられている。まだ一章残っているが、レビ記の最後は重い。 Leviticus 27:2-4 「イスラエルの人々に告げなさい。人を査定額に従って主に奉献する、特別な誓願を行う場合、二十歳から六十歳までの男の査定額は聖所のシェケルで銀五十シェケル、女は銀三十シェケルである。 「査定額」ということばは、レビ記にしかないようで、聖書協会共同訳では全部で19回、27章以外では5章15,18,25節にある。「人が背信の罪を犯した場合、すなわち、主の聖なるものに対して過って違反したなら、主への償いのいけにえとして、羊の群れから査定額に見合う、聖所のシェケルで二シェケルの銀に相当する欠陥のない雄羊を引いて行かなければならない。」(5章15節)直接的に人間の査定額について言及しているのは、引用箇所から7節である。そして引用箇所にあるように、特別な誓願を行う場合についてである。それぞれの個人の聖別・年齢によって、誓願に関わる査定額がことなると言うのである。これをどう考えるかは、難しい。おそらく、個人の価値ではなく、その誓願をしたときの社会的責任のようなものを表しているのだろう。ということは、社会への関わり方によって変わってもよさそうであるが、そうはなっていない、それぞれのカテゴリーで均一である。正直、変わった共同体で、十分に理解することはできない。おそらく、この金額を説明できるひとは、いないのだろう。これが支払えない場合の例外規定も8節にあり、ある配慮はあるようである。 Numbers 1:2-4 「あなたがたはイスラエル人の全会衆を、それぞれの氏族と、その父祖の家によって調べ、男子一人一人の名を数え、兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者を軍に登録しなさい。あなたとアロンは、各部族の者、すなわちそれぞれの父祖の家の頭である者と共にそれを行いなさい。 ヘブル語の聖書では、四番目の「荒野」を意味する単語 מִדְבָּר(miḏbār:ベミドゥバル)からとり「荒野にて」と呼ばれているようである。二回の人口調査について書かれているが、荒野での様々なことが書かれており、そのほうが書名としてもふさわしいように思う。また、人口調査といっても、限定的で、軍に登録する「兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者」を数えている。何歳までかは、書かれていない。各部族毎にまとめられているが、レビは含まれておらず、ここで、12部族は、ヨセフの二人の子がはいり、レビ以外で構成されることが明確になる。ある意味で(戦いという)職務分担のための人数である。また、ガドのみ、五十人(25)という端数が現れるが、そのガドの人数も含めて丸められている。実際の数と考えるかも、問題となるが、全体の人口を表しているわけではないことは、覚えるべきだろう。そしてその総数が「六十万三千五百五十人」(46)である。現在、わたしは杉並区に住んでいるが、東京都のサイトによると人口は、575,691人とある。軍隊は、つねに全員で行動するわけではないだろうが、そのぐらいの規模である。 2021.2.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  10. BRC 2021 no.010:民数記2章ー民数記15章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆さん、いかがお過ごしですか。一年前の今ごろから、日本ではコロナウイルス感染にどのように対応したら良いか考え始め、生活においても、まるで世界が変わってしまったような日々が始まったのでした。この一年、みなさまにとって、どんな年で、これからの一年をどのように過ごそうと考えておられるでしょうか。春だからでしょうか、今頃を一年のはじめとするカレンダーも世界にはいくつもあるように思います。日本の多くの地域では梅など、様々な花が咲き始める季節、春にいのちを感じながら、新たな一歩を歩み始められると良いですね。 民数記を読み始めました。個人的には、出エジプト記の35章ぐらいから、民数記の9章あたりまでは、毎回通読の難所だと感じます。細部に至る決まりごと、儀式に関すること、会見の幕屋に関すること、そして、軍の編成、身近に感じることができず、自分のこと、課題や喜びに引き寄せて理解することが困難だからでしょう。通読が、すこし遅れ始めたり、通読の意味が感じられなくなったりしておられる方もいるかも知れませんね。このように一緒に通読をすることは、そのような苦しみも共にできることでもあります。一緒に読んでいる仲間を思い描きながら、一章ずつ読み進めることができると良いですね。共に苦しみ、共に喜び、これは素晴らしいことです。 今週後半からは、少し状況が変わります。ただ、素晴らしいことが書いてあるわけではないように思います。理不尽だと考えること、公平ではないと感じること、聖書にこんなことが書かれているのだと驚かされるようなことが多いかも知れません。しかし、それは、身近な問題として、考えながら読むことができるということでもありますよね。疑問に思ったことを、簡単に、判断して(裁いて)しまわないで、わたしたちの周囲で起こっている、または、自分にもこころあたりのある問題として心に留め、できれば、ちょっと書き残しておくとよいように思います。考えたこと、感じたことは、案外すぐ忘れてしまうものです。しかし、そこにとどまっていないで、また、他の箇所や、時に、さらにそのことを深めることができれば、聖書が伝えようとしていること、神様について、当時の人達が受け取ったことについて、ちょっとだけ、理解が深まるかも知れません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記2章ー民数記15章はみなさんが、明日3月1日(月曜日)から3月7日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Numbers 2:3 東側、日の出る方角に宿営する者は、ユダの宿営を旗頭とする軍団となる。ユダの一族の指導者はアミナダブの子ナフションであり、 書き方から、ユダがイスラエル軍の中心であるようだ。東側のユダが旗頭の部隊は、イッサカル、ゼブルン、南側のルベンが旗頭の部隊は、シメオン、ガド、それから、会見の幕屋に仕えるレビ、西側のエフライムが旗頭の部隊はマナセ、ベニヤミン、そして北側のダンの部隊は、アシェル、ナフタリとなっている。ユダ、ルベン、エフライムはリーダーとなる理由が多少あるように思うが、ダンが旗頭となっているのは、なにか理由があるのだろうか。ダンが最北の部分を嗣業地として得る部族であることは確かだが。勇猛?だったからか。おそらく、東に向かうことが想定されている。実際には、主として、東、北、西、ヨルダンを渡ってからは、北、南に向かうわけだが。後の、イスラエル、ユダ王国分裂のときの、ユダ、ベニヤミンが異なる部隊に入っており、ユダの中に嗣業地をうけることになる、シメオンも別の部隊に入っている。ヨルダンの東の地域を嗣業地として得る、ルベン、ガド、マナセ(の半部族)の中では、ルベンとガドは同じ部隊である。全体をバラバラに分けたわけでもなさそうだ。後の時代のことから逆に見ているが、実際にこのような部隊構成で戦ったとすると、一つの部隊に属する部族は、よりコミュニケーションが多かったとも、考えられる。いずれにしても、よくはわからない。 Numbers 3:40,41 主はモーセに言われた。「イスラエルの人々のうち、生後一か月以上のすべての男子の初子を登録し、その名を数えなさい。あなたはレビ人を、イスラエルの人々のすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を、イスラエルの人々の家畜のすべての初子の代わりに、私のものとして取り分けなさい。私は主である。」 この章ではじめて、レビ族の役割が定められている。アロンの(息)子が4人というのは、おそらく一般的には当時として少ないのだろう。このあと「レビ人をイスラエルの人々のすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜をイスラエルの家畜の代わりに取りなさい。レビ人は私のものである。私は主である。」(45)とあり、「イスラエルの人々の初子の数は、レビ人の数より二百七十三人多い。」(46)とある。どのように数えているかは不明だが、十二部族の軍が 603,550人とし「登録され、名を数えられた生後一か月以上の初子の総数は二万二千二百七十三人であった。」(43)ことを考えると、その商、約 30 は一人の(息)子の数としては、あまりにも多いので、子どもをまだ持っていない、長男の数だったのかもしれない。遊牧民時代は一夫多妻だったと思われることを考えると、この初子はどのように、数えたのか、興味を持つ。家族社会の構成原理だろうか。明確ではないが、家畜についても書かれているのは興味深い。 Numbers 4:18-20 「あなたがたは、ケハト家の諸氏族をレビ人の中から絶やしてはならない。彼らが最も聖なるものに近づくとき、死ぬことなく命を保つために、こうしなさい。アロンとその子らが中に入り、ケハトの子ら一人一人をそれぞれの仕事と運ぶべきものに割り当てなさい。しかし、彼らが中に入るとき、聖なるものを一目でも見てしまい、死ぬことのないようにしなさい。」 この章でまず目につくのは「じゅごんの皮の覆い」で7回書かれている。「じゅごんの皮(の覆い)」は出エジプト記(25:5, 26:14, 35:7, 23, 36:19, 34)およびエゼキエル書16:10 にあるのみである。תַּחַשׁ(タハシュ taḥaš: a kind of leather, skin, or animal hide)となっており、じゅごんかどうかは不明のようである。いずれにしても、それは聖なるものを覆うもので、それを扱ったのが、ケハト族で「一目でも見ない」で扱う配慮の表れのようである。(神ご自身に象る)偶像化とは区別されるとしても、なかなか理解しづらい。それは、神をどのような方と理解するかによっているのだろう。イエス様を通して示された、お父ちゃんとよぶ、神様があまりにも、身近に感じられるからか。このようなことは理解できるが、それによって神の理解が深まるとは思えない。 Numbers 5:29-31 以上が、嫉妬の律法である。妻が夫のもとにありながら、道を外して身を汚したとき、または嫉妬の念が起きた夫が妻を妬んだときのものである。その時、夫は妻を主の前に立たせ、祭司は彼女に対してこの律法をことごとく行う。夫は罪を負わず、妻は自らの罪を負う。 明らかに公平ではない。実際の例は、聖書には書かれていないと思うので詳細は不明である。呪いの水は、23節に苦い水とあるので、苦いのはあたりまえであるが「水を飲ませたとき、もし妻が身を汚して夫を欺いていたら、呪いの水は彼女の体内に入って苦くなり、腹を膨らませ、腿をしぼませる。彼女は民の中にあって呪いとなるであろう。」(27)とある。この帰結はすぐには、起こらないことだろう。その中で、夫婦が試されるということなのだろう。まったく不明であるが、実際に「腹を膨らませ、腿をしぼませる」ことはなかったのではないだろうか。しかし、少しの体の変化も不安を来すことは確かである。どの世の中でも、正直さは、試され、真実を得ることの困難さはどの社会にとっても、チャレンジである。それを暴くこと以外の解決方法を探すべきである。正しさに訴えるのではなく。 Numbers 6:1 「イスラエルの人々に告げなさい。男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身するナジル人の誓いをするときは、 今まで「ナジル人」(この章以外は、士師13:5,7, 16:17, 哀歌4:7, アモス2:11,12のみ )規定の方にばかり目が行っていたが、「その人は、ナジル人である期間は、主に献げられた聖なる者である。」(8, 5節参照)とある。出エジプト記22章30節a に「あなたがたは、私にとって聖なる者でなければならない。」(他にレビ記11:44, 45, 19:2等)とあるが、祭司やレビ人が特別に「聖なる者」として「聖なる」神に関わる、様々なことを行うことが述べられていると、祭司に任せておけばよいように考えてしまうのが常だろう。ここでは「男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身する」ものについて述べられている。共同体としても、このことを、尊重し、たいせつなこととしたのだろう。これは、たまたまだろうが、この章の最後は、礼拝の最後などでも唱えられる有名な祝福のことばで終わっている。結びは「彼らがこうして私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。」(27)となっている。個人個人が誓願をたて献身し、聖なるかたのように聖なるものとなり、交わりをもつことを祝福しているように感じられた。わたしは誓願は立てないが、主のこころをこころとし、イエスのように神の子として生きることをもとめていきたい。 Numbers 7:89 モーセが神と語るために会見の幕屋に入ると、証しの箱の上にある贖いの座、その上に据えられた二つのケルビムの間から彼に語りかける声が聞こえた。神は彼に語りかけられた。 幕屋の奉献式である。(1)12日間、毎日ささげ物が献げられていると言うことは、おそらく、毎日が安息日だったのだろう。安息日の規定には反することもあるように思われるが。最後が、以前、ケルビムのことで調べた箇所である。語りかけた相手は、モーセのようだが、この祭壇が、会見の幕屋の中心になったことを記録しているのだろう。主にお会いする場。それは、限定された場所ではないだろうが、通読で聖書を読みながら、単に、文字に引き寄せられるのではなく、神に出会う一瞬一瞬でありたいものである。二つのケルビムの間から、モーセが声を聞いたように。 Numbers 8:24,25 「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は務めに就き、会見の幕屋における仕事に就く。だが、五十歳からはその仕事から身を引かなければならない。再びその仕事をしてはならない。 これに引き続き、「あるいは、会見の幕屋でその兄弟たちが奉仕の務めを守るとき、彼らを助けることはできるが、自分で仕事に携わってはならない。あなたはレビ人の務めについて、このようにしなければならない。」(26)ともある。ボランティアはよいが、正式の職ではなくなるということである。イスラエルの人々の奉納物(11)だともあり、すべての初子の代わりにレビ人を主のものとする(16)ともある。そうであっても、定年制がある。そして、ボランティアになる。あくまでも補佐である。わたしも、その補佐として、ボランティアをしていきたい。それが、わたしの役目である。若い人に、大切な仕事は委ねつつ、仕える。この気持ちを持っていたい。 Numbers 9:21 雲が夕方から朝までとどまるときも、朝になって雲が昇れば、彼らは進んだ。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは進んだ。 これは考えてみるとたいへんなことである。特に、レビ人にとっては、たいへんだろうが、一般のひとにも負担が多く、次に水のあるところに着けるかどうかも不明である。正直、不可能だろう。そう考えると、これも、信仰告白なのかもしれない。後から考えると、まさにそうだったと告白するようなことなのかもしれない。 Numbers 10:30,31 だが、ホバブはモーセに言った。「私は行きません。私の生まれた地、私の親族のところに帰ろうと思います。」モーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは荒れ野でどこに私たちが宿営すればよいかをよくご存じです。私たちの目となってください。 「第二年の第二の月の二十日、雲が証しの幕屋から離れて昇ったので、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパランの荒れ野にとどまった。」(11,12)とあり、ここから(この章からでもよいが)第二幕である。ホバブについては、出エジプト記2:15-22, 18:1-12, 士師記1:16にあり、エトロとも、レウエルともとれるが、士師記によるとカイン人、出エジプト記によるとミデアン人の祭司である。幕屋が立てられたのが第二年の第一の月の一日で、準備ができ約束の地に向かっていく。ここまで、ホバブは一年ほどいっしょにいたのだろうか。ホバブの視点からは、イスラエルはどのように見えていたのだろうか。様々な問題を含めて。引用箇所では、しゅうと(義父)ということもあるのかもしれないが、モーセが懇願している。この理由が最大だったかどうかは、不明であるが、モーセにとっても、重要な存在だったことは、現れているのだろう。現代では、たとえば、支配者と被支配者など、さまざまな視点から歴史をみることができるが、当時のことは、わからない。残念である。 Numbers 11:17 私はそこに降って、あなたと語り、あなたの上にある霊の一部を取って、彼らの上に置こう。そうすれば、彼らはあなたと共に民の重荷を負うことができるようになり、あなた一人で負うことはなくなる。 民の不平とモーセの不平から始まる。出エジプト記18章にはエトロの助言によって、千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長を定めた記事がある。ここでは、もうすこし、ことなる部分を担うリーダーが立てられているのだろう。さらに、モーセは「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいるのだ。」(29)ともヨシュアに言っている。段階的であることも、たいせつなのだろう。実際、主の民すべてが預言者(主のことばにあずかるもの)になることが目標地点であったとしても、そう簡単ではないことは容易に想像がつく。民主的(わたしは Democratic のほうが好きだが)とか平等ということばは、耳に心地よい、しかし、悪魔の囁きのようにも聞こえる。平等ではなく、公平を、民主的というような名前はなくても、みなが、ゆるやかな帰属意識を感じ、一員であることが実感できるようななかで、ひとりひとりの尊厳を(たいせつな一人として受け入れられた)もった存在として、不平ではなく、めぐみをそして祝福をうけとることができればと願う。 Numbers 12:1,2 ミリアムはアロンと共に、モーセが妻にしたクシュ人の女のことで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にした」と言った。二人は「主はただモーセとのみ語られたのか。我々とも語られたのではないか」と言った。主はこれを聞かれた。 理解が困難な物語である。ただ、民数記記者が伝えようとしているメッセージはなんとなくわかる。主のことばを使って、モーセと神との関係について浅薄な言説をしたことについて批判している。引用箇所からすると、(クシュ(北アフリカ、ヌビア地方名称)の女の部分もツィポラ(Ex.2:21,4:25,18:2)のことなのか不明だが)もともとは、もっと生活に密着したある意味で些細なことが積み重なったことに起点があるように思われる。そのことから、つまり、神様との関係を度外視して考えたところから、出発して、神様との関係について非難している。おそらく、わたしたちは、逆の道をたどるべきなのだろう。すなわち、目には見えないし、他者のことで自分にはよくわからないが、神様がそのひとをたいせつにしている、愛していることを起点に、目に見える、自分にも関わってくる、日常的な不具合について、絶対的な判断をくださず、裁かないこと。「人を裁くな。」(マタイ7章1節)まずは、見え(てい)ないものからスタートすべきなのだろう。難しいが。 Numbers 13:22 彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイがいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。 これから征服する土地、カナンの地は、このヘブロンが中心だったのだろう。とても詳細に書かれているように感じられる。アヒマンとシェシャイとタルマイは名前なのだろうか。部族なのだろうか。エジプトのツォアン(Ps 78:12, 43, Is 19:11, 30:4, エジプトの高官たちが住む場所だろうか)もよくわからないが、七年前とは、いやに正確である。おそらく、アナク人(33)という、有名な勇者集団のなかでも特別な人達が住んでいることと、とても古い歴史のある町であることを伝えているのだろう。そしてエシュコルの谷で切り取った豊かなぶどう。これが、この物語の背景として淡々と、ある意味で客観的に、語られている箇所である。 Numbers 14:9 ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」 なんとも乱暴である。しかし、そこだけを取り上げて、批判してはいけないのだろう。この箇所もあとからある意図をもって書かれているであろうし、普遍性をもった愛のこころがこのときから、すでに存在していたら、イエス様は来られなかったろうから。そして、現代にしても、そして自分にしても、このことをもって、この時代の考え方をあざ笑ったとしても、まだまだ理解てきていないことばかり、できていないことばかりなのだから。結末のようにして書いてある「その地の悪い噂を広めた者は、主の前で疫病にかかって死んだ。」(37, 36-38 参照)とあるが、これも、そのときすぐに起こったとは書かれていない。事実を記しているというよりも、ある信仰告白のようなものなのだろう。それを取り違えると、語られているメッセージに耳を傾けることもできなくなってしまう。 Numbers 15:35,36 主はモーセに言われた。「その男は死ななければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」全会衆は、主がモーセに命じられたとおりに、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。 レビ記24章16,17節で、主の名をそしるものについて、石打にする記述があったが、今回は「安息日に薪を拾い集めていた」ことについてである。直前に「ただし、イスラエル人であれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒瀆する者であり、その者は民の中から絶たれる。」(30)とある。留置をして主のことばを待つなど、慎重にしている。故意に主を冒涜するような行為であったのだろう。ここだけからは、判断できないが、同時に、主の裁きと、ひとの裁きの違いも感じる。モーセが主に聞いたとしても、主のみこころを完全に受け取ることができることもなく、主の苦しみを受け取ることはさらに、困難であろうから。謙虚でありたい。すくなくとも、これらを文字から得られる情報だけで、普遍化することには、注意しなければならない。 2021.2.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  11. BRC 2021 no.011:民数記16章ー民数記29章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、民数記を読み進みます。各巻の解説にも、民数記1章の聖書ノートにも書きましたが、民数記は「ヘブル語の聖書では、四番目の『荒野』を意味する単語 מִדְבָּר(miḏbār:ベミドゥバル)からとり『荒野にて』と呼ばれている」そうですが、10章あたりから、まさに、その「荒野」で起こった事件が、次から次に書かれています。内容については、皆さんに、読んで頂くことがよいので書きませんが、荒野での生活は、40年と言われていますから、むろん、毎日のように起こったわけではないでしょう。とすると、たいせつなこと、記録に残すべき事件を書いているとも言えます。さらに、それぞれの事件について、それは、どのような意味があったのだろう。神様からのメッセージはと、考え、受け取ったと思うことが書かれているのだと思います。 聖書は、原因や意味、メッセージが、いろいろと書かれており、そのような書だと言えばそうかも知れませんが、一般的には、様々な事件の原因や意味はわからないことが多いように思います。冬学期に、データ分析のコースを教えていましたが(わたしもこの分野は素人ですから、一緒に学んでいたという表現のほうが適切ですが)、統計学やデータ分析で常に言われるのは、相関関係は因果関係にあらず(Correlation is not causation. Correlation does not imply causation.)ひとは、どうしても、因果関係で理解したがる傾向にあるのではないでしょうか。性癖ともいえます。それを、神様がなされたことに結びつけて理解しようとすることも信仰者の性癖です。原因や意味が明確にあり、理解できてよいはずだ、との仮定に立っています。しかし、一般的には、とても、多くのことが関係していて、単純な因果関係として受け取ることは危険だとも言えます。他にもたくさん理由があるのに、理由がわかったとしてほかを考えなくなるからです。そのことを「相関関係は因果関係にあらず」で表現しているとも言えます。 そのような目で聖書を読むと、事件について、異なった理由が書かれている箇所も多いのですが、それは、いろいろな理由を考えた結果なのかもしれないと思います。長いあいだに、他にも理由があるかも知れないと考える。とても健全なことだと思います。聖書にある理由が書かれていても、それだけが理由だとしてしまう必要はないとも言えます。そのときに、受け取った理由です。それを神様からのメッセージとして受け取り、ある行動を変えていく。他の理由や意味を考えるのには、時間がかかるかも知れませんが、ゆっくり、ここでは、そのように受け取ったのか、他にも理由はあるかもね、として、読むこともたいせつかなと思います。単純に、矛盾と考えてしまったり、ある一面だけで全体を理解してしまった(ような気になった)り、複雑なことは、やはり人間、だれでも不得意ですからね。Agaist Reductionism! 還元論に注意。謙虚に、少しずつ理解していきたいものです。 さて、だからこそ、いろいろな方の受け取り方をこのように、分かち合うことができることも、たいせつで、意味のあることなのかなと思っています。いろいろな、まったく異なる受け取り方があることは、自然なのです。神様が一人ひとりを愛しておられるその愛もいろいろな形で現れるのですから。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記16章ー民数記29章はみなさんが、明日3月8日(月曜日)から3月14日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Numbers 16:1,2 レビの子ケハトの子であるイツハルの子コラは、ルベンの一族であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレトの子オンと組み、会衆の指導者、すなわち会衆の中から指名された二百五十人の名のあるイスラエルの人々と共に、モーセに反逆した。 この事件も考えるべきことが多い。しかし、まずは、枠組みを確認しておこう。自然に読むと、レビ族一人と、ルベン族二人(オンについては、ルベン族かどうか不明ともとれるが)に、会衆の指導者(会衆の中から指名された者)二百五十人が加わって造反(組織や体制の中からそのあり方に対して批判・抵抗を行うこと。〔中国で反逆・謀反(むほん)の意。))を起こした事件である。祭司職にない、レビ族や、本来は長子であるルベン族の中に不満があったととることもできるが、会衆の指導者が二百五十人も加わったということは、それだけの不満があったということだろう。リーダーシップのあり方について問うとともに「実際には私たちを乳と蜜の流れる地に導き入れもせず、相続地として畑もぶどう畑も与えてくれなかったではないか。」(14)と言っている。これは、否定できない現実である。結局、モーセは「これらすべてのことを行うために、主が私を遣わされたのであって、私の考えではない」(28b)ということに集約させている。モーセにとっては、あくまで神に従ってきたことであっても、人々は、現実的には、モーセに従ってきたと考えていたことの矛盾が現れたとも言える。神に従う民の形成、ここには「妻、子、幼子たち」(27)も含まれている、それは、わたしには、不可能に思われてしまう。ほんとうに主は当然にして起こったとも言えるこのことを善しとしておられたのか。わたしの願いは何なのかを問われているとも思った。 Numbers 17:3 命を失った罪人たちの火皿を打ち延ばして板金にし、祭壇の覆いを作らせなさい。それらは主の前に献げられ、聖なるものとなった。これをイスラエルの人々にとってのしるしとしなさい。」 この章の理解も難しい。まず、引用箇所は、聖となるのは、主により、そのものが特別に清いわけではないこと、さらに、それは、この場合は、この事件を思い出させる神様の特別の役割が付与されているということなのだろう。しかし「あなたがたは主の民を殺した」(6)と「全会衆」が不平を言う。疫病が起こり、アロンがモーセの命じたように、贖いをし、それがおさまったことが書かれている。モーセは、全会衆のリーダーの役割を果たしていても、疫病に象徴されるように、神との間に立つもの、神からのものを伝えるものなのだということを、明確にしているようにもとれる。しかし、人々の側から見ると、神権政治(統治者が神または神の代理者として支配の正統性を主張し,支配する政治形態。神政。テオクラシー。theocracy)である。簡単に結論を下すのは、問題であるが、生身の人間の集団の中で、神権政治のゆえに構造的に起こる問題、悲惨な事件とも表現でき、神権政治という形態が、神様の御心なのか大いに疑問である。このことを理解する過程が述べられているのかもしれない。 Numbers 18:26 「レビ人に告げなさい。私が相続分として与えた十分の一を、あなたがたがイスラエルの人々から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を主への献納物として取り分けなさい。 コラの子らの造反の続きだと考えられる。「あなたがたは分を越えている。会衆全体、その全員が聖なる者であり、その中に主がおられるのだ。それなのに、なぜあなたがたは主の会衆の上で思い上がっているのか。」(16:3)への答えの整備とも言える。祭司は、聖所に関する罪を負う存在であること(1)から始まり、職務と捧げものの管理、相続地を受けないこと、レビ人の職務と相続地などについて書かれている。その流れのなかで、贖いのことや、十分の一の捧げもののことが書かれ、それは、レビ人にとっても同じことを記しているのが、引用箇所である。長老派系では、教会での献金の十分の一は外部に捧げることが決められているようだが(どこに捧げるかの詳細はどの程度定まっているか不明だが)組織としても、このようなことを考える基盤は、こんなところ(引用箇所)にもあるのだろう。十二部族という背景のもとで、十分の一が決まっているようにも思われるが、最上のものを献げる、単なる規定、律法を超えた、こころを持っていたいものである。レビ族は貧しい場合が多かったようだが、そのような状態にならないように。レビ人も、献げることによって祝福を得られるように。 Numbers 19:21 これは、彼らにとってとこしえの掟である。清めの水を振りかけた者は自分の衣服を洗うが、清めの水に触れた者は夕方まで汚れる。 なかなか理解は困難である。背景として、祭司はつねに動物をほふるわけで、生死と直面することをする仕事であること、さらに、一般的に、命に対する畏敬だろうか、人々に、特別な気持ちがあったことはたしかだろう。いのちが特別なものであることは、現代でも変わらないが、ここでは、汚れと清めが語られている。よごれ、きたないという感覚とは異なると思われる。ただ、断定的には、わたしにはまだ語れない。清めの水に触れたものがまた汚れるということは、興味深い。生死の境界線にはたらくものと考えたのだろうか。 Numbers 20:28 モーセはアロンから衣を脱がせ、その子エルアザルにそれを着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルは山から下りた。 アロンの思いはほとんど記されていない。出エジプト記32章の子牛の像を作った事件のところぐらいしか思い浮かばない。「アロンは先祖の列に加えられる。私がイスラエルの人々に与えた地に、彼が入ることはない。あなたがたがメリバの水のことで私の言葉に逆らったからである。」(24)とあり、モーセとともにこの章に書かれているメリバでの対応が問題だったとされる。同じメリバは出エジプト記17章にも現れる。そちらはツィンの荒野ではなく、シンの荒野である。この件については、また考えたいが、今回は、アロンの人生について考えた。遊牧民の長(おさ)にとって、水を求めることなど、リーダーシップが問われることは多く、責任重大である。これだけ大きな部隊では、モーセとアロンの二人が役割を分けていたのだろう。しかし、聖書が主として記すのは、モーセのことである。アロンの気持ちを聞きたい。このアロンから、エルアザルへと大祭司が受け継がれる。そして、静かに去っていく。おそらく、多くの人が、自分の人生についてよくわからずに、この世を去っていくのだろう。ミリアムのときもそうだったかも知れない。(20章1節)それで良いのかも知れないが。元来、自分の人生について理解することのほうが特殊なのだから。いつかアロンやミリアムに焦点をあてても学んでみたい。神様をどのような方だと考えていたのだろうか。 Numbers 21:5,6 民が、神とモーセに対して「なぜ、私たちをエジプトから導き上ったのですか。この荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、私たちは、この粗末な食物が嫌になりました」と非難したので、主は民に対して炎の蛇を送られた。これらの蛇は民をかみ、イスラエルの民のうち、多くの者が死んだ。 「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」(列王記下18章4節)に出てくる、ネフシュタンの起源が書かれている。ただ「ネフシュタン」と出てくるのは、引用箇所だけである。WHO のエンブレムについては「The staff with the snake has long been a symbol of medicine and the medical profession. It originates from the story of Asclepius, who was revered by the ancient Greeks as a god of healing and whose cult involved the use of snakes.」(https://www.who.int/about/who-we-are/publishing-policies/logo)とあり、古代ギリシャのいやしの神だとの説明がある。わたしは長いこと、ネフシュタンだと思っていた。幸福の科学のマークも似ているがこちらは全く異なるようだ。現代でも、疫病退散を願って、アマビエなど、いろいろなものが祀られている。気持ちはわかるが、聖書を通じて頻繁に書かれているのは、少し観点が異なる。不平を漏らす民の姿である。基本的に神様が善しとすることが理解できないということなのだろう。たしかに、理解はできないが、そのときに、どのような行動を起こすかなのだろう。おそらく今のときにも。民数記の後半は忙しい。多くのことが書かれているが、前章のエドム、そしてこの章の記述、このあとの歴史の背景を急いで語っているように思われる。あとから追加していったのかも知れない。 Numbers 22:6 この民は私より強いので、どうか今すぐに来て、この民を呪ってもらいたい。そうすれば、恐らく私はこれを打ち破り、この地から追い払うことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、私は知っている。」 興味深い箇所である。バラクはひとを見ている(より多くの、位の高い高官を遣わすなど(15)からもそれを感じる)が、バラムは神に問うており、この章の最後に、「御覧のとおり、私は今あなたのところに来ました。しかし、私に何を告げることができましょうか。私はただ、神が私の口に授けられる言葉だけを語りましょう」(38)と言っている。少なくとも民数記の記述によると、バラムというアンモン人の地)ユーフラテス川のほとりのまちペトル(5)(アンモン人がこのあたりに住んでいたことは驚かされるが、創世記19章37節によると、モアブとアンモンがロトの子と記述されている)(23章7節ではアラムとなっており、地域としてはこちらのほうが自然。合理的に場所はアラムとすることも可能だが)は、神に問い、託宣を受けている。ろばとの会話など興味深い。22節にある、神の怒りの背景は、不明であるが、神のことばだけを告げなければならない(20)を軽く考え、受け取っていないと見たのかも知れない。イスラエル以外の人のなかにも、このように神と語るものがいたことを証言していることは興味深い。さらに、殆ど神となっているが「主」も使われている。(8,13,18,19,22-28,31,32,34,35) Numbers 23:27 バラクはバラムに言った。「どうか来てほしい。別の場所に連れて行こう。恐らくそこからなら、神の目に適い、彼らに呪いをかけてもらうことができるかもしれない。」 バラクは「どうか私と一緒に、彼らが見える別の場所に来てほしい。そこから見えるのは彼らの一部だけで、全体を見ることはできないが、そこから彼らに呪いをかけてほしい。」(13)と言っているが、ここでは「神の目に適い」と言っている。バラクとバラムの話をどう理解するかは、難しいが、不平ばかり言っているイスラエルの民の話が続く中で、外から、イエスラエルがどのように見られているかを語っている点で興味深い。前の章にあったように「さて、ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に行ったことをすべて知った。モアブはこの民を大いに恐れた。その数がおびただしかったからである。モアブはイスラエルの人々を前にして恐れをなした。」(22:2,3)である。数の多さ(10)だけでなく「見よ、これは独り離れて住む民/自らを諸国民の一つとして認めない。」(9)と書いてある。これが、恐怖を感じさせたのだろう。それは、理解できる。 Numbers 24:25 バラムは立ち上がって去り、自分のところに帰って行った。バラクも自分の道を戻って行った。 民数記にはこのあと25章の最初と、31章に後日談が書かれている。「その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。」(31章8節)引用句を境に記述が変わるように思われる。民数記を書いたときの資料の入手経路や執筆意図もふくめて、不明な点が多い。イスラエル側でもモアブ側でも評価が定まっていなかった、わかっていなかった、ともとれる。しかし、民数記が与えられている、イスラエルに集中して考えると、外から見た自分たち、そして、その神への評価が高く書かれていることは、誇らしいとともに、それにふさわしくない自らを恥ずかしく感じさせたのではないかと思う。その意味で教育的効果はある。むろん、それをどのように、受け取り、どのように生きていくかは別問題である。自分のことを考えても、他者の評価は気になり、高評価はとても嬉しいとともに、それに、影響を受け、実際とは、離れ、高慢になったり、自らを実際以上に惨めな存在だと考えて、自暴自棄になったりするものである。評価は神様に任せる、神様の前にどう歩むかに常に戻るものでありたい。自分でもよくわからない自分に対する他者の評価は、完璧な神様からの託宣と信じる場合は別だろうが、同じ人間として、その人自身も、その人自身のことを含め十分にわからないのだから、示唆を与えることは多いが、絶対的なものではありえないのだから。 Numbers 25:1-3 イスラエルがシティムにとどまっていたとき、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。娘たちは民を招いて、自分の神々にいけにえを献げ、民はそれを食べて彼女たちの神々にひれ伏した。イスラエルはこうして、ペオルのバアルに付き従ったので、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。 実際にこれがどのような規模で起こったかは不明である。しかし「彼らはあなたがたを巧妙な手口で襲い、ペオルの事件を引き起こし、また、この事件が原因で疫病が襲った日に、殺された彼らの姉妹、ミデヤン人の指導者の娘コズビの事件を起こしたからである。」(18)とあり、ミデヤン人の指導者階層が関わっていたとある。このようなことが、バラクとバラムの情報入手経路だったかも知れない。ただ、ここでは、ミデヤン人、引用句では、モアブの娘である。イスラエルからみて、これは許されざるべきことだったろうが、モアブやミデヤンにとっては、滅ぼされないように、できることは何でもするという意味でも、自然な行為だったように思う。一方で、ピネハスは、高い評価を受け(13等)、以後、モアブに対する差別(申命記23章4節)や偏見にもつながっていることを考えると、複雑である。遊牧民がともに平和に暮らすことは生活様式からして、困難であはるが、平和の神の解決方法をわれわれは模索しなければいけない。モアブ(ダビデの曾祖母のルツの家系)やミデアンは隣人であり、このあとも何度も相まみえることになるのだから。 Numbers 26:9-11 エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムは会衆の中から指名された者であったが、コラの仲間が主に逆らったとき、共にモーセとアロンに反逆した。地がその時、口を開いて彼らとコラを吞み込み、その仲間は死んだ。火がその時、二百五十人を焼き尽くした。彼らはこうして、警告のしるしとなった。ただし、コラの息子たちは死ななかった。 民数記の16章の記事との相違が気になった。「地はその口を開き、彼らとその家族、コラに属するすべての者たちとすべての持ち物を吞み込んだ。」(16章32節)とあるからである。「コラの息子たち」のことを考えてしまった。生き残ったことを主の恵みとして生きていったか、常に後ろ指さされて、コラの息子たちとして生きることが辛く、警告と神の恵みを受け止められなかったか。これも、考えてみると、本人たちではなく、周囲の人たちがどう見、行動するかにかかっているとも思った。ここには「警告のしるし」とあり、どこにでも潜む、不満からくる不信、反逆である。さらに、聖書が誤りなき神の言葉ということを文字通り受け取る人たちにとっては、一つ一つに、説明を加えなければならず、その先を考えることが困難だろうなとも思った。第二の人口調査の意味は64,65節なのだろうが、その背後では、様々なひとの営みがあったことも覚えたい。そこには、私たちの営みも隠れているのだから。 Numbers 27:11 父の兄弟もない場合には、相続地を氏族の中で最も近い親族に与え、その人に相続させなさい。主がモーセに命じられたとおり、これはイスラエルの人々にとって判例による掟となる。」 この章の重要な箇所とは言えないが「判例による掟」ということばに目がとまった。「ツェロフハドの娘たち」のことは、このあと判例の修正も含め、何回か登場する。(民数記36章、ヨシュア17章、歴代誌上7章)詳細は、整合性と公平性のためには、本質だけでは決められない難しさがあるのだろう。「判例による掟」は一般論では決められないことに対応する。我々の日常の多くも、そうである。そのなかで、なにをたいせつにして生きるかが求められる。同時に、この章の中心とも言える継続性も大きな集団の中では重要である。たいせつなことを守ること、公平性を担保するために。本質論はたいせつだが、ひとは、些末なことの中で生きている。その中でも、主を求めること、教条主義に陥らないこと、ある程度普遍化し公平性をそこなわないかを考えることなど、チャンレンジは多い。しかし、わたしは、そのチャレンジもたいせつに受け止めて生きていきたい。 Numbers 28:22 また、あなたがたの贖いをするために、清めのいけにえとして雄山羊一匹を献げる。 この章にはもう一度贖いが出てくる「また、あなたがたの贖いをするために、雄山羊一匹を献げる。」(30)献げものについて、日ごとの献げもの(1-8)、安息日(9-10)、毎月一日(11-15)、過越祭(16-25)、初穂の日・七週祭(26-31)についてこの章には書かれている。そのうち、贖いは過越祭と初穂の日である。キリスト教では、日程的に、イースターと、ペンテコステに対応する。自分が贖われたものであることを、定期的に覚えることが、イスラエルには定着していたことがわかる。贖いについては、まだ、よく理解できていないので、少しずつ考えていきたいが、辞書には「罪のつぐないをする。あるものを代償にして手に入れる。また、買い求める。」とある。原語では כָּפַר(kāp̄ar: to cover, purge, make an atonement, make reconciliation, cover over with pitch)。もともとの意味は覆うという意味とのことである。本来は、神の前に立つことができない存在だということだろうか。恵みだろうか。イスラエルの人たちは、この言葉をどのような感覚を持って聞いたのだろうか。ゆっくり、少しずつ考えていきたい。 Numbers 29:5,6 また、あなたがたの贖いをするために、清めのいけにえとして雄山羊一匹を献げる。これらは、新月に献げる焼き尽くすいけにえと、それに添える穀物の供え物、および日ごとの焼き尽くすいけにえと、それに添える穀物の供え物と注ぎの供え物とは別のものである。これらのものを規定に従って献げ、主への宥めの香り、火による献げ物とする。 第七の月の一日、十日、そして、十五日からの一週間、通常贖罪の日と言われる期間の規定が書かれている。イスラム教のラマダンは5月から6月ごろで7月までかかることもあるが、イスラム暦で規定される。引用句にも、新月とあり、ユダヤ暦も、太陰暦である。一日は新月、十五日ごろは満月である。年に一度は、特別の贖罪の時を覚え、断食をしたようである。しかし、この章にかかれているのは、たくさんの動物のいけにえ。ラマダンのときは夜に食べるようだが、贖罪の第七月は、どうしていたのだろう。イエスの時代は、贖罪の日には断食をしていたと伝えられているが、断食はあとからのものだろうか。実際、モーセ五書には、断食ということばは無いようだ。清めと訳されているのは原語では、חַטָּאָת(ḥaṭṭā'āṯ: sin, sinful, sin-offering, purification from sins of ceremonial uncleanness)で、基本的に罪のためのいけにえという意味のようである。贖いとはペアなのだろうか。本当に基本的なことがよくわかっていない。 2021.3.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  12. BRC 2021 no.012:民数記30章ー申命記7章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、民数記の最後の部分を読み、申命記に入ります。以前「個人的には、出エジプト記の35章ぐらいから、民数記の9章あたりまでは、毎回通読の難所だと感じます。」と書きましたから、民数記の10章以降は読みやすいかなと期待していたけれどやっぱり難しいと、思っておられる方も多いかもしれません。しかし、これは、おかしいとか、こんな酷(ひど)いことが聖書には書いてあるんだとか、こんな掟は守られたのだろうかとか、感じることはあるのではないでしょうか。そのように感じることができるのは、すばらしい出発点だと思いませんか。まったく、背景も、時代も、住んでいる環境も、生業(なりわい)もことなるひとたちの世界、それもある意図をもって書かれた世界を見させていただいているのですから。同時に、神様(真理とも言えるかもしれません)を理解しようとし、神様に喜ばれる生き方をしたいと願いながら、それを真剣にもとめたひとたちの記録でもあります。現代でも、ある人たちが、たいせつなものを追い求めているようだが、どうも、自分とはかなり異なる。あれはおかしいのではないかと思うことはありますよね。少しでも、理解しようとする営みは、その人たちと関係を築き、共に生きようとすることであり、今の世界において、なかなかできないこの共に生きることにつながるのではないかとわたしは思っています。ただ、正しい、間違っていると考え、裁くことにとどまらず、わたしとは、わたしが今到達していることとはだいぶ違うけれど、このようなひとたちと共に生きることはどういうことなのだろう、この人たちから学ぶことは何なのだろうか、本当に、自分たちの生き方のほうが良いと言えるのだろうかと、わたしは、考えながら読んでいます。学ぶことはたくさんあるように思います。 今朝、まさにこれを書いている頃、NHKラジオの「マイあさ」の著者からの手紙で森本あんり氏(ICU宗教学教授)の「不寛容論」に関するインタビューがありました。らじる・らじるの聞き逃し配信で一週間ほどの間は聞くことができると思います。7:40頃です。私が上に書いたこととはだいぶ異なりますが、一つの考え方として、あんり氏らしい鋭い考察があると思いました。 申命記に入りますね。下でもわたしが引用していますが「第四十年の第十一の月の一日に、モーセはイスラエルの人々に、主が命じられたとおりに語った。」と1章3節にあり、モーセが最終盤(荒野は40年と言われていますからその最後、モアブの地でモーセが死ぬ直前)において語った説教集という形式をとっています。これまでの、四書とはかなり文体も異なるので、成立についてもいろいろな説があるようです。モーセがというより、イスラエルが、なにをたいせつに、信仰を継承していこうとしていたかがわかるように思います。イエスが引用したことばもいくつか含まれています。メッセージとして受け取ることもいろいろとあると思いますよ。同時に律法とは何なのだろう、神殿や律法を中心とした集団とはどのようなものなのだろうと、考えることもあるかもしれません。みなさんは、どのような感想を持たれるでしょうか、 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記30章ー申命記7章はみなさんが、明日3月15日(月曜日)から3月21日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 民数記と申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#nm 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Numbers 30:4 女がまだ若く、父の家にいるとき、主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをした場合、父が彼女の誓願や、その身に対する物断ちの誓いを聞いて黙認するなら、その誓願も、その身に対する物断ちの誓いも、すべて有効となる。しかし、もし父がそれを聞いた日に反対するなら、その誓願も、その身に対する物断ちの誓いも、すべて無効となる。父が反対したのだから、主は彼女を赦されるであろう。 このあと、妻については、より詳細な規定が書かれている。不公平と切り捨てることは可能だが、それは、同じ規定を異なる状況に当てはめようとするために起こる不適当さだとも思う。遊牧または狩猟から生活を大きく変化させている途中のケニアのマサイ族を訪れて多少考えたことも背景にあるかも知れないが、我々の社会であっても、私の両親の世代と、我々の世代、そして子供たちの世代で大きな変化があることも感じるからでもある。おそらく、個人の尊厳がたいせつにされることは、よいとして、ひとは、歴史によって営みによって育まれ、また社会との関わりの中で生きており、未知のものの中で、一人ひとりが異なった弱さを担って生きているということだろう。では、たいせつにすべきことは何で、何が聖書のメッセージなのだろうか。やはりすぐには答えられない。すくなくとも、立法者・記者にとっての他者について、このばあいは、女性について、理解しようとしないといけないということだろうか。同時に、十分理解できない中で、現実と向き合わなければいけないことも多い。正しさで判断しなければいけないとしても、それが絶対的なものではないことを覚えることだろうか。難しい。 Numbers 31:16,17 イスラエルの人々にとって、彼女たちはバラムの言葉に唆され、主への背信の罪を犯させたペオルの事件の張本人であり、そのために、主の会衆のうちに疫病が起きたのだ。だから今、子どもたちのうち、男の子は皆、殺しなさい。男と寝たことのある女も皆、殺しなさい。 残酷である。「男と寝たことのない少女たち」を残したのは、男系社会であったことと、部族の繁栄を示すのだろう。幼い頃から、ずっと平和について考えて来たと思って来た。おそらく、相手を肉体的に傷つけるようには、戦わないことを考えてきたと表現したほうが適切かもしれない。非暴力無抵抗主義だろうか。しかし、実は、平和は考えていなかったのかもしれない。ケニアの国旗は、マサイ戦士の盾と槍が中心にあり、三本の線が背後にあり、黒は国民、赤は独立のために流れた血、緑は豊かな自然を表している。独立の歴史は多少複雑だが、ある時点で、戦わなければ植民地の状態から独立が得られなかったことは確かである。そして、血が流され、それを覚えることをたいせつにしている。引用句でも、背後にあるのは、宗教的なきよさを保つため、主から離れないため、その妨げになるものを排除する考え方である。ある意味では、イスラエルの独立を維持するためとも言えるかも知れない。現在の紛争についても考えさせらえる。共生、ともに生きる、共に喜び悲しみながら生きる道を模索することは、神様とともに喜び悲しみ、神様にとってたいせつな、神様が交わりを喜んでおられるかたと共に生きることだと思うのだが、道は果てしなく遠い。 Numbers 32:16,17 彼らはモーセのところへ進み寄って言った。「私たちはここに、群れのための羊の石囲いと、子どもたちのための町を築きます。私たちはそれから武装し、イスラエルの人々をその場所に導き入れるまで、彼らの前に立って進みます。ただ、私たちの子どもたちはこの地の住民から守るため、城壁に囲まれた町に住まわせたいのです。 背後には、様々な社会的要請もあったように思う。ヨルダンの東側は、イスラエルが移住を予定していた土地ではなかった。しかし、支配することになった。それをどうするかは、重要な問題だろう。人が住まなければ、荒れてしまうからもある。子どもたちとあるが、女性は残ることになったろう。町にすめば安全だったかもあるが、多くの家畜の世話は男性は必要なかったのかという疑問もある。ケニアのマサイ族を訪ねたときに知ったことでは、羊や山羊という小家畜は女性とこどもの仕事であるという。この当時は、牛のような大家畜は飼わなかったろうから、もしかすると、女性が担う仕事だったのかも知れない。リベカなどの記事からも、女性が羊を飼うことに関わっていたことはわかる。すると、男性のしごとは何だっのか、おそらく戦い、部族を守ることが重要な位置を締めていたと思われる。むろん、家畜の世話もしただろうが。表面で議論されていることとは別に、実際的には良い案だったのだろう。ここでは、ルベンとガドとなっているがこれにマナセの半部族も加わる。この背景のもとで、この課題の扱い方をみると、伝えたかったことも見えてくる。「心を挫く」が7節と9節に二回現れる。「ご主人様」(25,27)がモーセに対して使われるのはここだけだが、それも気になり、すべて「まあるく」収まったのかどうかは不明だが、意思決定のプロセスとしても興味深い。 Numbers 33:51,52 「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたがヨルダン川を渡って、カナンの地に入ったときは、その地のすべての住民をあなたがたの前から追い払い、すべての石像を打ち壊し、すべての鋳物の像を打ち壊し、高き所をことごとく破壊しなければならない。 ヨルダンの東側をどうするかの課題のすぐあとに旅程に付して、このことばが記録されていることが気になった。ヨルダンの東側は、詳細は不明だが、アッシリアによって北イスラエルが滅亡するころ、最初に占領されたところで、ルベン、ガド、マナセの半部族は他の部族より先に、歴史から消滅する。ルベン族が日本に来たなどという話にもつながるわけだが、ヨルダンの東側は、約束の地ではなかったのだろうか。現在は、ヨルダン川西岸地域とガザ地域という、最初の国連の裁定(これもよく理解はしていないが)にはなく、あとから、イスラエルが占領した地域の問題があり、ワクチンの分配にも、課題がある。BBC の PodCast Program で、MIRIUAM & YOUSSEF を聞いた程度の知識しかないが、引用句を変更不可能な神のことばとして受け入れ、それをその通りにしようとすることを、わたしは、愚かだと考えてしまう。聖書の理解の仕方はほんとうに、難しい。 Numbers 34:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に命じてこう言いなさい。あなたがたが入ろうとしているカナンの地、すなわち、相続地として与えられるカナンの地の境界線は、次のとおりである。 境界線が書かれている。いくつか問題を感じる。まず、神がそれを定められるのだろうかということ。二番目に、それは、どのような条件で相続地として受け継がれるのかということ。三番目に、ヨルダンの東側の境界線は定められていないようであることである。さらに、マナセの半部族がヨルダン川の東側を受け継ぐことがここで明らかになっているが、少し唐突に思ったことである。この四番目は、32章39-42節の背景を受けたものなのだろうと思う。境界線の中にはまだ他の民族が住んでおり、一番目のように、この境界線は主によって定められたものだとすることは、二番目のことをも考えずに、そのことを利用して、正しさの根拠とする可能性が高く心配である。おそらく、このような問題は、相続地だけのことではないだろうが、その土地の民の一人ひとりや、その人々に対する神の働きが見えないことは、現代においても、人間の弱点である。完璧を押し付けることは、今の状態をみてもできないことは確かである。ここに書かれている神のことば、境界線の指示を、どう捉えるかはいろいろだろうが、少なくとも、神の御心を理解していく人の営みは、とても時間がかかり、主は、おそらく、寛容さと、恵みと、忍耐、それにおそらく苦しみを持って、それを見守っていてくださることも、学ぶ必要があるのだろう。難しい。 Numbers 35:15 これら六つの町は、イスラエルの人々ならびにその中にいる寄留者と滞在者にとって逃れの場所であり、過って人を殺した者は誰でもそこに逃げ込むことができる。 逃れの町の規定は基本的には「過って人を殺した者」の保護である。人が殺されたときに、その人が死んだ事実のみから、それに関わった人に復讐のように罰することをさけることが主たる根拠だろう。特に、殺人者は殺されなければならないとする以上、適正な裁判が行われることは、非常に重要である。興味を持ったのは、ここでも「寄留者と滞在者」も同様の権利のあるものとして規定されていることである。よそ者は、とかく、差別されやすい。理解も困難であるため、悪者にされやすいこともあるだろう。どの程度、適切に行われていたかは不明であるが、一般的にイスラエルは、この時代も、それ以降も、イエスの時代も、そして今も、様々な人達が混在している世界だと思われる。成立背景からも理解できるし、このような句が頻繁に付け加えられていることからもわかる。出エジプト自体が、単純な純血のイスラエル(ヤコブ)の子らである、12部族の移動ではなかったかもしれない。イスラエルの人々は、その中で、公平さが試され、いろいろなひとがいろいろな方法で主に従っていたのだろう。その現実を思い、単純化することの危険も感じた。 Numbers 36:7 イスラエルの人々に属する相続地が、ある部族から他の部族に移ることはない。イスラエルの人々はそれぞれ、父祖の部族の相続地を固く守っていかなければならないからである。 これは、12部族という括りのことを言っているのだろうか。どの範囲であっても、とても大きな制限である。特に、牧畜から違うしごとに移った場合は、維持が非常に困難である。王国時代以降にこの制約を維持することはおそらく不可能だったろう。すると、この記述は、王国時代よりもずっと以前、このことが実行され得る時代に成立した証拠ともなるように思われる。現存のイスラエルは、基本的に、南ユダ王国の系統、つまり、ユダ、ベニヤミンとレビのみだと思われる。これは、地境も変更になることを意味している。当時のひとたちは、どのように考えていたのだろうか。神から与えられたとすると、変更はかなり困難である。 Deuteronomy 1:5 モーセはヨルダン川の向こうにあるモアブの地で、この律法を説き明かし始めた。 律法(תּוֹרָה(tôrâ): law, direction, instruction)とあるが、ここで語られているのは、モーセによる説教である。しかし「第四十年の第十一の月の一日に、モーセはイスラエルの人々に、主が命じられたとおりに語った。」(3)とあり、神からのメッセージであるとしている。つまり、単なる決まりではない。神からのメッセージ、それが広い意味では、トーラーが聖書全体を意味するようになったのだろう。むろん、いろいろな解釈がありうるが。しかし、引用句では、モーセが主体として説き明かしたとして描かれている。なかなか複雑である。 Deuteronomy 2:6 食べ物は、彼らから銀で買って食べ、水も彼らから銀で買って飲まなければならない。」 この章の記述は気になることが多い。ヤコブ(イスラエル)の兄弟エサウ、ヤコブの祖父アブラハムの甥ロトの子とされるモアブとアンモンの土地の通過が書かれ、最後にアモリ人との戦いが書かれる構成になっている。「ただし、あなたはアンモン人の地、すなわち、ヤボク川沿いの全域と山地の町、また私たちの神、主が禁じられた地には一切近づかなかった。」(37)とあるが、実際は、様々な問題があったことが伝えられ、民数記には、モアブの王バラクやミデアンとの戦いについて記述されている。この章は、近親の部族に対して正当に振る舞ったことが書かれているのだろう。引用句では、商取引のような銀の使用について書かれているが、いくら、エジプトからとってきたものが多かったとしても、ためただけのものは、すぐに無くなる。商取引のようなものが存在しない限り。セイルの山地を長い間歩き回ったようであるから(1)様々な交流があったことが、想定されるが、聖書には、何の記述もない。あるひとつのまとめ方なのだろうが、かえって不安になる。 Deuteronomy 3:26 しかし主は、あなたがたのゆえに私に怒りを示し、私の願いをお聞きにならなかった。主は私に言われた。「もう十分だ。このことを二度と語ってはならない。 「だが、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。』」(民数記20章12節)の記述とは異なる。申命記は基本的に、モーセの最終説教集とされ、意図が異なるとして、終わりにすることも可能だが、申命記自体の成立の背景を問い、ヨシア王の時代など後代のものとする聖書学者たちの意見のほうが整合性が高いように思われる。判断はできないが、なにか、読んでいて、臨場感が無いばかりか、特に、当時の実際の問題(ここではモーセが約束の地に入れない理由など)への記述から深さを感じられない。伝えたいメッセージは他のところにあるのだろう。引用句については、傍観者的には「もう十分だ」ということばは、特に、出エジプト記と民数記の概観を眺めた時、人間的にはそのとおり、アーメンと言いたくなる言葉である。人間的な思いでもあるが。約束の地に入れないのは、恵みでもあったと思わされる。まだまだ、先は長く、現代に至るまで、殆ど終わりはないのだから。 Deuteronomy 4:2 あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。 申命記の神学と言われるものに興味をもつ。王国時代末期に書かれたなど様々な説があるようだが、どのように成立したものであれ、しっかりと向き合いたいからでもある。これは、新約聖書についても言えることだから、実際の著者が誰かで、その書の価値を定めることは適切ではないと思われるからである。もし、モーセだからという理由で、この申命記が価値あるものとなるのであれば、モーセを特別視し、我々から引き離していることになる。引用句は、この考え方で読むと、困難を生じるとも言える。モーセ以外の人が書いたとすると、すでに、自らを批判する記述になっているからである。しかし、記述目的による正当化を考えたのかも知れない。目的絶対化は目的を絶対化することで、危険でもあるが。この章を読むと、偶像礼拝に対する警告の面が強く(3,4, 15-26)、イスラエルは律法を与えられた特別な民であり(8)、神は、妬む神(24, Dt5:9, 6:15, Ex20:4, 34:14, Jo24:19, Nah1:2 参照)だとして、捕囚となる場でどう生きるかまで書かれており(27-31)、神は憐れみ深い方であることも書かれている(31)。また、出エジプトを確認している。(32-38)しかし、モーセが、約束の地に入れない理由は、民の不従順にしている(21)など他の書との食い違いも見られる。44節からは、モーセを第三者として書いており、他に著者がいることも示唆している。複雑な文書ということが、現在の印象である。 Deuteronomy 5:22 主はこれらの言葉を、山で、火と雲と密雲の中から、集会に加わったあなたがたすべてに大きな声で語り、これ以上加えられなかった。主はそれを二枚の石の板に書き、私に授けられた。 「十戒」(このことばは聖書協会共同訳では聖書全体で 4:13,10:4のみ。Ex34:28 に「十の言葉」)が述べられ、その最後にあるのが、引用句である。出エジプト記20章における十戒の記述では、このあとにも、掟、戒めが続いているが、ここでは、特別なものとされているように感じる。父と母を敬えに関する記述は、出エジプト記(Ex20:12)においても、祝福がともない特徴的であるが、ここでは「あなたの神、主が命じられたとおりに、あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生き、幸せになることができる。」(16)と、さらに「幸せになることができる」と付け加わっている。(人が持てるほどの大きさの)二枚の石がとても個人的には印象に残ってしまうが、そこに書こうとすると、ちょっと長過ぎるように思う。17節などの「殺してはならない。」ぐらいに短くしたものがいろいろと考えられ、教会でも利用されてきたのであろうが、決定版を作るのは難しい。 Deuteronomy 6:6,7 今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。 4節から9節はシァマー(שָׁמַע šāmaʿ: to hear, listen to, obey 聞け)と呼ばれて、とてもたいせつにされている言葉である。信仰継承である。とてもむずかしい課題である。特に、信仰のように、それを生きることに価値のあることは、ことばでは、伝わらず、受け取り側がそれを心のそこからそのとおりと受け取るには、経験も必要で、empirical((理論ではなく)実験[実証, 経験]に基づいた)とも言える理解が必要だからである。わたしも、一つ一つを受け取るまで、どれだけ、それに反することをしてきただろうか。失敗を繰り返しただろうか。ましてや、教えるものなどには、なれないと思う。それとは、全く違う次元で、今日注意をひいたのは「今日私が命じるこれらの言葉」である。人生を通して真理と確信したことを伝えるという意味で、真実な言葉だと感じると同様に、ここでモーセというひとが語ったとされることばが絶対化されることへの問題点である。信仰は生きたもの、信仰に生きてはじめて、意味があるもので、研究室・実験室での実証実験とは異なるからである。モーセにおいて真実であっても、そのことがことばでは、たとえ同じような表現になったとしても、本来伝えられないことのようにも思う。信仰・真理の普遍化の問題である。同時に、何らかの媒体がないと、伝わらないとも言えるが。それは、ともに生きるというようなことで置き換えることはできるのだろうか。わからない。 Deuteronomy 7:26 忌むべきものを家に持ち込んではならない。あなたもそれと同じように滅ぼし尽くすべきものとなる。憎むべきものを憎み、忌むべきものを忌み嫌わなければならない。それは滅ぼし尽くすべきものだからである。 6節から8節の主の恵みと憐れみと愛によって救い出されたことの記述や「あなたの神、主は、これらの国民を、あなたの前から少しずつ追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼすことはできない。あなたのところで野の獣が増え過ぎないためである。」(22)など、心に残ることばが多い。しかし、同時に、滅ぼすべき相手・敵についても、考えてしまう。最近では、人類の敵コロナ・ウイルスを滅ぼすなどとも表現される。たしかに、自分の内側をみても、滅ぼさなければならないと感じるものが存在する。日々、その戦いの中にいるとも言える。また、引用句は、人間、自分の弱さを考えると、真実である。危険を呼び込んではいけない。公衆衛生(Public Health みんながすこやかであるための営み)などは、その分野の営みだろうか。敵は、人間でなければ、よいのだろうか。なにか、そうも思えない。おそらく、コロナ・ウイルスにも、いろいろな働きがあるのだろう。滅ぼし尽くしても、ウイルスという敵が、野の獣に置き換わるだけかも知れない。といって、最初から、共生を求めるものでもないように思う。二分法のような、単純な思考に、わたしは抗っているのだろうか。その面はたしかにある。このような思考と経験を通して、少しでも、神様の御心・真理を受け取ることができればと願う。 2021.3.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  13. BRC 2021 no.013:申命記8章ー申命記21章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、申命記を読み進めます。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の旧約聖書の最初の五書は、律法と総称されますが、今まで読んでこられてどうですか。ある部分は、律法という名がふさわしいかもしれませんが、そうとは呼ぶことが適切とは思えない箇所が多いですよね。しかし、この申命記は、モーセの説教という形式をとってはいますが、律法と呼ばれるのにふさわしい記述が多いように思います。申命記5章には、出エジプト記20章に書かれていた、十戒と呼ばれるものが、詳細は異なりますが、書かれています。普遍性もあるものに映ります。キリスト教会の礼拝でも唱えられることもあります。しかし、民が生活していくためには、問題は様々にたくさん起こりますから、かなり詳細に記述され、さらにその説明が書かれている場合もあります。説明やその掟の理由は書かれていない場合もあります。 いくつか問題を感じます。これだけで十分という程度に、すべて書かれているのだろうかということと、新たな問題はどんどん起こることを考えると、その時代時代の中で追加や修正は必要なかったのだろうかということです。申命記は、モアブの荒野、カナンの地に入る前に書かれたとされていますから、文字通り取るかどうかは別として、生活は変化しますよね。そう考えると、イスラエルの人たちは、この律法を、どのようなものとして受け取っていたのかとも思います。また、わたしたちは、どのように受け取っていけばよいのでしょうか。 そのままの記述が直接的に適用されることに違和感を感じたり、こんなことにまで配慮されていると驚かされたり、いろいろかもしれませんね。神様のみこころ(真理・たいせつなこと)をうけとり、それを日常生活の中で生きることは、それほど簡単なことではないのでしょう。しかし、同時に、神様がたいせつにされることはなになのだろう。神様はなにを喜ばれるのだろう。神様がたいせつにされること、神様にとってたいせつなひとをたいせつにし、神様がよろこばれることを、喜ぶものでありたいと望んだ人たちが、旧約聖書が書かれた時代、律法を守ろうとして時代におられ、そして、今にもつながっているのではないでしょうか。わたしは、そのようなひとたちと出会いたいと願っています。聖書をよみながら。 律法は、そして聖書は、礼拝する場所が失われ、離散して生きるようになると、さらに重要な意味を持っていったでしょう。それは、キリスト教会においても、特に少数派であるときには、そうなのかもしれません。みなさんも、当時のひとたちと、一緒に考えたり、生きてみようとしたり、してみませんか。書かれていることをていねいにうけとることがたいせつであると同時に、生活環境は異なりますから、いろいろと状況を翻訳したり、同様の課題を考えたりすることが必要で、ことばや、直接的な記述にとらわれると難しいかもしれません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記8章ー申命記21章はみなさんが、明日3月22日(月曜日)から3月28日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Deuteronomy 8:2,3 あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。 これまで、マタイ4章4節(ルカ4章4節)に引用されている、最後の部分だけ読んでいたが、今回は、主が与えた試練の部分が目に止まった。後半には「あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。」(16)とある。さらに「あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない。」(17)と続く。実際には、主を忘れ、滅びる方向に向かう。引用句に戻ると、前半からは、神のために、試みがなされたようにもとれるが、やはり引用句の後半が中心で、ある意味で、超自然的な養いとも言える、マナで養うことで、手ずから収穫したように思われるパンだけで生きるものではないことを知らせることに中心があるのだろう。しかし、苦しみの意味を考えると、なかなか単純ではない。ひとは無知であること。学ぶ者であると同時に、十分に受け取ることは難しい存在であると思うからだ。「自分の強さと手の力で、この富を生み出した」のではないことが鍵だということは、普遍性もあり、たいせつなこととして、受け取ることができると思う。その一つの信仰告白が、イエスが言われた「『人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」(マタイ4章4節)であるように思う。 Deuteronomy 9:5 あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出すのである。こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。 ひとつのイスラエルの民へのメッセージ。イスラエルの民と主との関係の相対化があり、すばらしい。しかし、問題も感じる。まず、イスラエルがましなわけではないなら、このことは、繰り返され、皆、滅ぼし尽くされるであろうこと。つぎには、それを、父祖たちへの約束の成就に結びつけていることである。一つ目を、人間の弱さ、または、原罪により引き起こされていることとし、二つ目を重視し、神の壮大なご計画のうちのひとつのステップだと考えるのが、一般的なキリスト教神学であるように思う。救済史としての理解である。しかし、それは、小説を後ろから読むようなもので、そのときどきの、人々の苦しみや、葛藤に対して、メッセージを送っていない(その人にいのちを与えることにつながっていない)ように思う。救済史はひとを救わない。イエス様は、どう考えたおられたのだろうか。「なになにのため」ということであれば、やはり「神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)と、その人の痛みの中に見る、神の働きを注視することかと思う。これで十分な解決は与えられていないかも知れないが。謙虚に、求め続けたい。 Deuteronomy 10:12,13 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に、心を尽くし、魂を尽くして仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。 主が望まれることは「わたしが」幸せになること。強烈なメッセージである。このあと、「頑なになるな」(19)というメッセージがあり、主はどのような方であるかが続く(17-19)。そして、主こそあなたの誉れ(21)と続く。申命記記者がいちばん伝えたかったことなのかも知れない。この中でひとに関わる部分は、まず、最初の部分であるが、これは、「主との関係をたいせつにしなさい。」とまとめられられるかもしれない。しかし、難しいのは「頑なになるな」である。「だから、あなたがたの心の包皮に割礼を施し」(16)とあるが、それは、ひとには、できないのではないだろうか。わたしが言えることは、「主との関係をたいせつにしなさい。」を守ろうとする日々のなかで、少しずつ学んでいくことなのかと思う。それは、主について少しずつ知っていくことともつながるのかもしれない。それが、心の包皮に割礼を施すことなのだろうか。「割礼」の背景があることは、理解できるが、表現が卑猥である。女性はこころの中であっても唱えにくいだろう。やはり、どこかいのちを生み出すところに起源があるのかもしれないが。 Deuteronomy 11:11,12 しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山や谷のある地で、天の雨で潤っている。あなたの神、主が心にかけ、あなたの神、主が、年の初めから年の終わりまで、常に目を注がれている地である。 約束の地の潤いと、主の目が常に注がれていることが結び付けられている。なにか、とても物質的祝福を感じてしまう。一般的には、チグリス・ユーフラテス川流域からの三日月型肥沃地帯の先端部分とその南に広がる山地と言われる地である。わたしは、行ったことはないが、とくべつに恵まれた土地だとは思えない。アフリカ大陸とユーラシア大陸をつなぐ要の部分で、その意味では、重要な土地であろうが。エジプトの地との比較の問題ではなく、一年を通して、主の恵みを感謝するものでありたい。主の恵みが見えないとき、感じられないときもあるかも知れないが、そこに神様がおられることを覚えて。 Deuteronomy 12:8 あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。 おそらく一般論を言っていのではなく、礼拝する場所について語っているのだろう。約束の地に入ったら、今のように移動型ではなく「あなたがたの神、主がその名を置くために選ぶ場所」(11)で礼拝しなさい、ということだろう。「むしろ、あなたがたの神、主が、その名を置くためにすべての部族の中から選ぶ場所、その住まいを尋ね求めなければならない。あなたはそこへ行きなさい。」(5b)である。特に、北イスラエル王国において、ずっと、他の神に犠牲を献げることが続くことについて言われているように思う。「私は、私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」(出エジプト記20章24節)をどう取るかにもよると思うが、イスラエル入植後も、神の幕屋を移動しており、一定の箇所に定まるのは、ダビデの子のソロモンの時代である。この「場所」については、ステファノの説教の中でも語られており(使徒7章)、イエスのことば(ヨハネ4章21-24節)を見ても、70年に神殿が破壊されてから、再建されていないことなどを考えても、普遍性のある考え方ではないように思う。ユダヤ教にとっては、一定の重要さがあるわけだが。ただ、引用句に戻ると、これは、普遍性があるかも知れない。「無知な者の目には自分の道がまっすぐに映る。/知恵ある人は忠告に聞き従う。」(箴言12章15節)「自分にはまっすぐに映る道も/終わりは死に至る道ということがある。」(箴言14章12節、16:25参照) Deuteronomy 13:1 私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。 これは、じっくり腰を落として考えるべき言葉である。「預言者や夢占いをする者は、死ななければならない。」(6a)とある。むろん、主から引き離すもののことを言っているが、そのときの体制を批判するようなもの、人々が聞きたくないことであれば、同様の判断をする可能性は高い。王国時代には、顧問預言者のような存在もあったようだが、歴史を通して、預言者のイメージは反体制、荒野で離れて住む存在である。批判に耳を傾けることなしには、神様の御心を理解することはできないだろう。サドカイ派などが、モーセ五書のみを聖典とした背景にも、このことばがあるだろうし、聖書のことばを絶対化し、無謬性を厳格に主張する場合にもは、同じ問題は生じる。わたしたちの求めるのは、神様のみこころ、真理であること、そして、わたしたしは、それを十分には、理解できていないことをしっかりと受け止めなければならない。謙虚に、みこころをもとめ、簡単に、聖書のことばを変更しない、誤っていると考えても、簡単には、拒否せず、まずは、御言葉を守り生きることも含まれるだろう。神様が愛しておられる一人ひとりの理解は、自己理解から始まり、隣人、異性、こども、病気の人、障害者、異邦人、他の宗教を信じる人達、自分たちを傷つける存在、まったく真理に無関心なひとたちへと、広がっていくのだから。謙虚に、御手の業に目をとめ、神様の愛に、応えていくものでありたい。 Deuteronomy 14:1,2 あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。死者のために自らを傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主はあなたをご自分の宝の民として、地上のすべての民の中から選んだのである。 前半がよくわからない。また、後半は、選民思想から問題が生じているように思う。神様に愛されていることを、自分たちが特別だと思ってしまう。幼児期には、あることであるが、それが、継続して、生き方にまで影響することは問題である。「自然に死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。子山羊をその母の乳で煮てはならない。」(21)このような生き方をしていると、差別が生活の中で、いろいろと生じてくるのは自然だろう。おそらく、引用句の前半も、主の子ら、主の民だから、他の世界のものに、命をさくなということなのだろう。神様が、自分を愛していることから、他者も愛しているところに、向かうにはなにが鍵なのだろうか。これも、公平さだろうか。特別な体験をすると、その経験が、そのひとを形作り、そこからのがれられなくなるということだろうか。難しい。 Deuteronomy 15:11 この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。 二つのことを感じた。ひとつは、対象が、同胞であること。もう一つは、このようにしても、やはり、貧しいものはいなくならないと宣言していることである。どちらも、難しい問題である。前者は同胞以外にある程度緩和できても、後者が真実なら、この地に住むと言われている適用範囲を無限に拡大することはできないということである。しかし、日々をどう生きるかは考えられる。何を大切にして生きるかである。神に愛されているものとして、ひとりひとり隣人を兄弟とするなら、まずは、ここに書いてあるように生きることだろうか。しかし、やはり、申命記の記述は気になる。「外国人からは取り立ててもよいが、同胞があなたに負っている負債は免除しなければならない。あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福されるから、あなたの中に貧しい者は一人もいなくなるであろう。」(3,4)貧困の問題は、本当に難しい。わたしには、なにも答えられない。 Deuteronomy 16:16 年に三度、男子は皆、除酵祭と七週祭と仮庵祭のときに、主が選ぶ場所で、あなたの神、主の前に出なければならない。主の前に何も持たずに出てはならない。 年に三度の祭について簡潔にまとめられている。「男子」とあるのは、当時の文化的背景から一家の代表はというような意味だったのだろう。主が選ぶ場所とここでも明示されている。エルサレムでの神殿が想定されているのだろう。移動が当然だった時代から考えると、違和感もある。そして、献げもの。これは、献身のしるし、贖われたものであることの確認だろうか。非常に整えられた感じをうけるのは、直後に書かれている、裁きとアシェラ像についても同様である。荒野では、まだそのような状態ではなかったとも考えてしまう。特に、イザヤ、ミカ時代のアシェラ像を切り倒すとの表現と「あなたは、自ら造った、あなたの神、主の祭壇の傍らに、いかなるアシェラの木像も立ててはならない。」(21)が対応しているとも思った。どの時代とは、特定しないが、信仰的行為の象徴だったのかとも思う。 Deuteronomy 17:2,3 もし、あなたの中に、あなたの神、主が与える町で、男であれ女であれ、あなたの神、主の目に悪とされることを行い、契約に背き、他の神々のもとに行って仕え、その神々や、私が命じたこともない太陽や月や天の万象などにひれ伏す者がいて、 信仰は、契約が基盤にあることがまず述べられている。この契約のもとにあるのだから、契約を破ったものは、よく調べてから証言者の証言を確認し、証言者からそして、すべての民が手を下してそのものを殺すことが述べられている。信じる信じないは自由という感覚とはかなり異なる。基本として、契約の元にない、外国人・異邦人を規定する法律ではないことである。しかし、人生には、いろいろな時がある。契約から派生する、様々な生活の制約や儀式など、派生的に人が定めたものの矛盾や問題点から、そこに属することに疑問を持つこともある。寛容さは、いろいろな問題をも含むが、宗教を基盤とした集団の存続を考えても、やはり問題があると思う。献げものにおいて、自発性がたいせつにされていることなどを考えても、ひとを全体的に理解することが必要だからである。ゆるやかな契約、ゆるやかな帰属意識、厳密には規定できないもののたいせつさを思うが、ことの性質上、明確にはできない。むずかしい。 Deuteronomy 18:6,7 レビ人は望むままに、彼が寄留している、イスラエルのすべての人々のどの町からもやって来て、主が選ぶ場所に移ることができる。彼は、主の前に立っているレビ人、すなわち自分のすべての兄弟と同じように、彼の神、主の名によって仕えることができる。 理解がしにくいが、レビ人は分散して、かつそれぞれのイスラエルの部族に寄留して住んでいるが、主が選ぶ場所(エルサレム)に移住して、そこで仕え、何らかの取り分(8)が与えられることのようである。「イスラエルの人々に、自分たちの所有している相続地の一部を、レビ人が住むべき町として与えるよう命じなさい。また、その町の周囲の放牧地もレビ人に与えなさい。」(民数記35章2節、以下参照)町の周辺の放牧地が、レビに与えられるが、主が選ぶ場所に移住は可能としているようだ。礼拝する場において、主が選ぶ場所を特別な場所とすると、地方ですることは、非常に限られることになる。さらに、この体制は、町に住み、職業が多様化すると、まずは、家族から、別の道を選ばなければいけなくなる。レビ族が、一般的には困窮する原因ともなるだろう。現代では、回復することはできないだろう。つまり、普遍性はないことである。 Deuteronomy 19:3 あなたは自分で道を整備し、あなたの神、主があなたに継がせる領土を三つに分け、人を殺した者が誰でもそこに逃げられるようにしなさい。 逃れの町の規定の詳細がこの章に書かれている。実際にどのようにこの規定が守られたかに興味がある。過失であっても、殺人者が逃げ込む町である。過失か故意かは判然としないことを考えると、その町のひとの負担が重いと同時に、様々な差別なども起こりうると思ってしまうからである。他方、裁判により、なんらかの方法で罪が確定されるまで、そのひとの権利が保証される手立てをこの時代に考えたことは、凄いことだとも思う。おそらく、正しさを考えることは、悪とは何かを考えることであり、その境目の決定が困難であることの認識とともに、どうにか区別することと、決定されるまでていねいに扱うべきことへと進んだのだろう。たいせつにする部分については、深い思考がなされるということか。同時に、実際どのように、なされるかをみながら修正していくことも必要である。その部分は、どうだったのだろうか。興味を持つ。 Deuteronomy 20:17,18 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように、必ず滅ぼし尽くさなければならない。これは、彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行いをあなたがたに教えて行わせ、あなたがたの神、主に対して、あなたがたが罪を犯すことのないためである。 戦争に関して書かれている。民の福利について書かれていることは、興味深いが、申命記によると、相続地の民は滅ぼし尽くすべきことと、その理由が、イスラエルの民が罪を犯すことがないためとしている。一般的に、分離主義(separatism: the advocacy or practice of separation of a certain group of people from a larger body on the basis of ethnicity, religion, or gender)と言われるが、日常的にも、危険なひとには近づかないようにしようという形で現れる。そして、絶対非暴力・平和主義者は、分離主義へと傾くことがある。実効性はある程度あるのだろう。しかし、それが他者の抹殺に及ぶことは、問題である。そう考えると、ここで語られている、ジェノサイド(genocide: the deliberate killing of a large number of people from a particular nation or ethnic group with the aim of destroying that nation or group)は、極端な例ではあるが、社会の中では、同様なことが多く存在するようにも思う。あるグループの排斥である。その社会で不道徳と言われる行為をするもの、薬物依存、アルコール依存、性的依存など、さまざまな依存症などもそうだろうか。人間を自己実現を目指す存在だと規定すると、「自己」という言葉を使う以上、他者の自己と調和は得られず、人間存在自体がこの難しい問題を孕んでいるとも言える。共に生きることは、つねに、様々なレベルで大きな挑戦である。だからこそ、イエスは、その本質を打破されようとしたのだろうか。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節b、15章12節参照) Deuteronomy 21:22,23 ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。 この章では「あなたの神、主があなたに所有させる土地で、殺されて野に倒れている人が見つかり、誰が殺したのか分からない場合、」(1)、「あなたが敵に向かって出陣し、あなたの神、主が敵をあなたの手に渡され、あなたが捕虜を捕らえたとき」(10)「ある人に二人の妻があり、一人は愛され、もう一人は疎まれていた。愛されている妻も疎んじられている妻もその人の子を産み、疎んじられていた妻の子が長子である場合、」(15)「ある人にかたくなで反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、父母が懲らしめても聞かない場合、」(18)そして、引用句について書かれている。どれも解決方法以前に問題があるように思われるが、社会には、根源を断つことが困難で、対応しなければならないことがたくさんあるのだろう。難しい問題であるが、それらにも、誠実に対応していくことがひとのつとめである。公平性を求めることとも言える。公正とまでは言えないが。引用句は、多少特殊であるが、新約聖書で引用されているため、有名である。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木に掛けられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3章13節)なぜ、「木に掛けられた者」が呪われた者なのかは、わたしにはわからないが。 2021.3.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  14. BRC 2021 no.014:申命記22章ーヨシュア記1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、申命記の最後の部分を読み、ヨシュア記に入ります。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の旧約聖書の最初の五書は、律法と総称され、旧約聖書の核となる部分であるとも言われますから、その部分を読了することになります。続かなくなってしまっているかたもおられるかもしれませんが、ヨシュア記(2)の冒頭に、わたしは「ヨシュア記から、列王紀下までは、変化も多く、物語としても面白いので、興味をもって読めるのではないかと思います。」と書いています。単純に楽しめるかは不明ですが、また、ヨシュア記から読み始めるのは、おすすめですよ。 申命記はいかがですか。申命記については、他の四書と成り立ちがことなると言われる場合もありますが、文体や内容、目指していることも違うように思われます。みなさんは、自分がモーセのような存在だったとしたら、なにを、残したいと思いますか。出エジプトをイスラエル民族の原体験としてひとつのまとまりが続いていくように望むとすると、なにを伝えたいと思いますか。おそらく、不安もあるでしょうね。自分はどうしてきたかは伝えられても、次の世代そして、後の人達には、別の苦難があり、やはりそのひとたちが、課題と向き合っていかないといけないことですね。でも、伝えることはあるように思います。共通のことがあると感じるとともに、共にいきるもの、ひとつのいのちを生きるものであることを願うからではないでしょうか。それは、どのように実現されるものでしょうか。 日本では、いまは、新しい一歩を踏み出す季節ですね。別れもあるでしょう。それは、少し前に経験したひともいるでしょうし、これからのひともいるでしょう。一つのいのちを生きているとでもいえるような毎日を送ってきた人と別れて生活をする。そして、新しい、歩みがはじまる。なにがたいせつなのでしょうね。そして、はなれてしまうと、ひとつのいのちを、共に生きることはできないのでしょうか。すでに、別れてしまったひととも、しばらく連絡をとっていなかったひととも、ともに生きることについて考えてみませんか。わたしも、それを考えながら、これを書いているのかもしれません。 ヨシュア記に入ります。下の、ヨシュア記のところにもリンクがありますが、地図は、時々眺めてみると役に立つかもしれません。 ホームページにあるリンクをあげておきます。 The Tribal Allotments of Israel: http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/039.jpg みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記22章ーヨシュア記1章はみなさんが、明日3月29日(月曜日)から4月4日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 申命記とヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#dt ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Deuteronomy 22:1 同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ずそれを同胞のもとに戻さなければならない。 かなり細かいことまで書かれている。また、後半は、強姦を含め、性に関わることが詳細に書かれている。どこまで詳細に書かれていたとしても、実際の問題を判断するには、不足するだろう。引用句も、例示だと考えたほうがよいように思う。社会の成り立ちの変化によって、問題自体が変化し、対応も変化する可能性は十分にあるからである。本質は、なにを伝えようとしているのだろうか。まず、目をひくのが「同胞」の所有物または管理を委ねられているものと「見ない振りをしてはならない」という言葉である。同胞にとってたいせつなものを、たいせつにあつかうとも表現できる。同胞を自分のようにとも、同胞の問題を、自分の問題としてとも言えるかも知れない。同胞は、共に生きるものとすれば「私の隣人とは誰ですか」(ルカ10章29節)と問わないですむ。その意味で「共に生きるとは」について書かれているとも言える。性に関わることも、同様の枠組みで考えるべきなのだろう。尊厳をもったひと同士がともに生きることである。これを脅かすものは、何なのだろうか。自己中心か、神を畏れない生き方か。 Deuteronomy 23:2-4 睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない。混血の人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。 自分たちを清く保つにはとして、考えられたことなのだろう。忌み嫌うべきものが書かれているとも言える。しかし、このように排他的に切り捨てていって、自らを清く保つことができないことは、十分理解できていただろう。また、ルツの物語なども、異邦人(この場合はモアブ)が、イスラエルの民以上に、同胞を、隣人を愛し、共に生きることの模範となるような例もいくつも知っていたろう。なぜ、このように、書いたのだろうか。純血・純潔がある程度可能で、それが重要だった時代だろうか。わからない。このように書いてもすぐ、ここに書いたような問題が生じることは、明らかだからである。背後にあること、清く保つべきことを教えるためだろうか。しかし、これを利用する人も現れるだろうから、やはり問題である。 Deuteronomy 24:21,22 あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。それゆえ私は、あなたにこのことを行うように命じるのである。 一つ一つ掟をとって、素晴らしいとか、欠陥があるとか考えていたが、もう少し、背後にある考え方を受け取らないといけないと思った。まずは、共助・共生の考え方が背後にあることである。自業自得とか、因果応報とか、自力本願ではないということである。恵みと憐れみによって生かされている存在であることをまずは覚えること。恵みの根拠が自分の中にあるわけではないことを「あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。」と表現しているのだろう。最近、思い立って賀川豊彦資料館まで散歩した。日本国が利益を得るため軍国主義へと進み、隣国から搾取しようとすることにも、貧しいものを放置することにも、革命によって労働者のための社会主義・共産主義国家を建設しようということにも、抗(あらが)い、貧困や、過酷な労働、病苦のひとなど、あらゆる生活苦と戦った賀川からもう一度学んでみたいと思ったからである。社会の中の活動に身を置けば、さまざまな問題と直接向き合わなければならない。正しさでは割り切れないことが山ほどある。単に、霊的な問題、信仰の範囲で解決することはできない。賀川にとっては、病気で死ぬのが当然であったことが「(イスラエルが)奴隷であったこと」と対応しているのかも知れない。そして新川の貧民街に身をおいて、貧しさの極致を垣間見たこともあるだろう。そのことを、共助・共生に向かわせるのは何なのだろうか。自動的ではないように思う。わたしの場合はどうなのだろう。神の恵み憐れみによって生かされていることについてはアーメンと言わざるを得ない。このことも、アーメンと言えない場合もあるだろうが。 Deuteronomy 25:18,19 彼らは道であなたと出会い、あなたが疲れ切っていたとき、あなたの後方にいる、疲れ切ったすべての者たちに背後から襲いかかり、神を畏れることがなかった。あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。 アマレクに関する記述である。出エジプト記17章8節から16節の箇所が対応しているように見える。最後に「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」(出エジプト記17章16節)とあるところも対応しているが、引用箇所の記述とは食い違いがあるように思う。民数記24章20節に、バラムの託宣の中には「アマレクは諸国民の頭、しかし、その末はとこしえの滅びに至る。」とある。何らかの言い伝えが背景にあるのだろうが、裁判の公平さについて述べている箇所であることを考えると、不公平である。たとえ、イスラエルと戦ったときに、卑怯なことがあったとしても、その子孫の滅亡にまで、言及するのは公平さを欠く。神様の御心について少しずつ理解していっていると考えるのがよいのだろう。わたしも、もちろん、殆ど理解できていないのだから。 Deuteronomy 26:17,18 今日あなたは、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います」と明言したので、主も、今日あなたに向かってこう宣言された。「あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。 契約や、取引のようにも聞こえるが、本質は、関係構築なのかも知れないと考えるようになった。何年か前から「互いに愛し合う」ということばの「互いに」について考えてきたが、これは、愛が一方的なものではなく、関係構築のなかで生きたものとなることを言っているように思うようになった。背後に、一方的な神の愛があるのかもしれないが、それが認識されるのは、応答したときである。そして、信仰と呼ばれる、信頼関係が育まれる。引用箇所では、民のことばがまず書かれ、それに応答する形で、主の宣言がある。しかし、たんなる応答関係ではなく、それがより深い関係を生み出している。その中で、さらに、お互いに答えていくことで、互いに愛し合う関係が成立していくのだろう。これを、ひとと人との間で、なされることが、「互いに愛し合う」ことであり、その背後に「わたしがあなたがたを愛したように」があるように思う。弟子たちにとって、わたしがあなた方を愛したようにが、単に観念的なものではなかったように、わたしたちが、互いに愛し合う時にも、実態が存在するのだろう。 Deuteronomy 27:18,19 「盲人を道で迷わせる者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。 ここに「十二の呪い」が書かれている。十二の部族が揃い、レビびとが宣言している。引用句は、四番目と五番目である。六番目から九番目まで性的交渉について書かれていることが特徴的に見える。最後は「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」(26)で結ばれている。盲人は、障害者の代表的なものだったのか、それとも、盲人は特別だったのか。おそらく、不衛生な状態や、他の病気によって失明するひとが多かったのだろう。賀川豊彦の妻ハルも、病人の看病をしていて自ら疱瘡にかかり、片目を失明している。「寄留者・孤児・寡婦の権利」とある、尊厳が守られるべきだと当時から考えられていたことには、やはり驚かされる。互助・共助の精神が根強くあったのだろう。現代においても、その理解は十分とは言えないのに。そして、おそらく、配慮すべき範囲を理解し(心の中でも)拡大しながら、実際にその権利を守ろうとする営みは、現代においても、ひとの営みの中で、基本的なことなのであろう。 Deuteronomy 28:15 しかし、もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従わず、私があなたに今日命じる戒めと掟のすべてを守り行わないならば、これらのすべての呪いがあなたに臨み、あなたに及ぶ。 「もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。」(1,2)と対応している。最初の祝福(3)と呪い(16)も対応している。しかし、明らかに呪いが長い。ていねいに見ないと中身について書けないが、神様からの祝福が実感できる状態と、なにをしても報いられず、不安の中に暮らす呪いの生活が対比されているようだ。現世利益とも言える。しかし、もっと深いものを意味しているようにも思われる。これを聞いたひとには、よく通じるものだったのだろう。確かに、呪いの世界は、辛いと感じさせられる。現代的なことばで書くとどうなるだろうか。一度、書いてみたい。 Deuteronomy 29:23 また、あらゆる国民は言うであろう。「主はなぜ、この地にこのようなことをされたのか。どうしてこのように大いなる怒りを燃やされたのか。」 なんとあまりに先のことが書かれているように思われる。捕囚の時代だろうか。その時代の人は、これを読んだら、どう感じただろうか。まずは、偶像礼拝のことを思っただろう。実際、捕囚後の民は、神殿を失い、律法を中心とした宗教集団となっていった。偶像礼拝は、すくなくとも、バビロンからの帰還者たちのあいだでは、見られなかったようである。これらのことばがしっかり受けとめられたのだろう。しかし、それで、祝福へと向かうわけではなかったようである。もし、祝福の道を歩んでいたら、イエスは来られなくてよかったろうし、十字架にも掛からなかったろう。複雑な気持ちである。 Deuteronomy 30:14 その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。 引用箇所で「その言葉」と呼ばれる律法とは何なのだろうと考えた。この章には「そうすれば、あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から連れ戻し、あなたを憐れみ、あなたの神、主があなたを散らした先のすべての民の中から再び集めてくださる。」(3)と捕囚からの帰還についてまで言及されている。(レビ記26章40-45節にもある)どの部分をいつ、誰が書いたかまで考えると特定はおそらく不可能だろう。いずれにしても、モーセを神格化し、モーセが書いたことに権威をもたせる考え方には注意をすべきだろう。王国時代はソロモン以降神殿を中心に礼拝をし、その礼拝が宗教の中心であったことは、想像できる。しかし、捕囚以後は、律法が特別な意味をもったことは、十分考えられる。そこにはある程度の普遍性もあり、エルサレムで礼拝できなくても、信仰の継承が可能になる。そして、引用句はそれに言及していると考えられる。しかし、その中身はどうなのだろうか。引用箇所の前には「私が今日命じるこの戒めは、あなたにとって難しいものではなく、遠いものでもない。」(11)とあり、引用箇所は、ことばを書いて箱に入れ、体につけるようなこと(実際にそうしているユダヤ教徒が今でもいるようだが)によって物理的に近くにみ言葉を置くことは可能かもしれないが、その背景にある神様のみこころを行うことはそれでは不可能だろう。しかし、わたしたちに委ねられたことを受け取りたいものである。 Deuteronomy 31:10,11 そして、モーセは彼らに命じた。「七年の終わりごとに、すなわち負債免除の年と定められた年の仮庵祭に、イスラエルのすべての人々が、あなたの神、主の前に出るために、主の選ぶ場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人々の前でこの律法を読み聞かせなければならない。 七年に一度、律法を読み聞かせたのだろうか。創世記から申命記だろうか。律法を読み聞かせることは、七年毎かどうかは不明だが、続いたようである。しかし、聞くだけで理解できるのだろうか。ましてや、行うことはできるのだろうか。確かに聞くことは最初かもしれないが。こう考えるのは、わたしにとっては、通読も、礼拝での説教も、単にストイックに、我慢の時間だったことが多かったからである。それでも、続けたことによって、いまこのように、聖書のことばと毎日向き合える幸いを得ている。しかし、辛かった時期も長い。祭りのときに読まれる律法はどのくらい時間がかかったのだろうか。そのことの恵みに深く感謝しているわたしのようなものが読み続けたのだろうか。それは、おそらく迷惑なことだったろう。どうしたらよいかは、難しい。このときも、今も。 Deuteronomy 32:1-3 天よ、耳を傾けよ。私は告げよう。地よ、聞け、私の語る言葉を。私の教えは雨のように降り注ぎ/私の言葉は露のように滴る。/若草の上に降る小雨のように/青草の上に降る夕立のように。私は主の名を呼ぶ。/栄光を私たちの神に帰せよ。 モーセの歌(31:30)として語られている。引用句には「私」が多い。ひとりの人として、主について、主との関係について(天に向って)告白していると同時に、民(地)に語りかける形式をとっている。美しいことばが多い。モーセは、イスラエルを導いてきたことについて、この枠組でどんなことを考えていたのだろうか。そして、イスラエルを導いたのは、大雑把に言って、聖書によれば、80歳から120歳であるから、モーセにとって、自分の歩みは、家族のこと、若かった頃のことなどどう考えていたのだろう。それを聞きたい。自分がそのように、振り返るときだからかもしれないが。申命記記者の伝えたいことは「(この書に記録されたことが)あなたがたにとって空しい言葉ではなく、あなたがたの命(である)」ということなのだろう。残念ながらわたしには、そのようなものとしては、映らないが、いのちとして養われていることは否定できないのかもしれない。 Deuteronomy 33:1 これは、神の人モーセがその死に臨んで、イスラエルの人々に述べた祝福の言葉である。 4節に「モーセは私たちに律法を命じ/ヤコブの会衆のものとした。」とあり、モーセのことばとしては違和感がある。創世記49章に記されているヤコブ(イスラエル)の最後のことばと形式は対応しているのだろう。そちらは「後の日に起こること」(創世記49章1節)と書きながら、過去のことについても言及している。この箇所はどうなのだろうか。なにか「ルベンを生かし、殺さないでください。/その数が少なくなるとしても。」(6)が一番印象に残った。もう一つは意味がよくわからないことば「エシュルン」(32:15, 33:5, 26, イザヤ44:2 のみ、イスラエルの民の総称のひとつか?)である。それぞれの部族についての表現は、いずれていねいに見ていくことができるか不明であるが、おそらく、ある時点での実際とあまり変わらない状態が表現されているのだろうから、とても気になる。 Deuteronomy 34:10-12 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった。 モーセが特別だったことと、その理由が書かれている。「あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。」(18:15)は、神の臨在を直接的に経験することにより死ぬことがないため民ば求めたこととある。またこの箇所は、イエス預言として引用されることもある。引用箇所では、出エジプトをイスラエルの原体験として、特別なものとし、イスラエルを自由にするようにファラオなどの前で奇跡を行うことと、人々の前で恐るべき業を行うためとしている。しかし、問題も感じる。イスラエルにも、そして、人生にも、その後、様々なことが起こること。従い続けることが荒野でもそうであったように、もっとも困難であることである。その応答が律法であり、この書なのだろうが。 Joshua 1:7 あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。私の僕モーセがあなたに命じた律法をすべて守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功を収める。 「強く、雄々しく」と「律法をすべて守る」ことである。構造上しかたないかもしれないが、とても単純に感じる。人生には、そのようなときもあるのかもしれないが。ヨシュアにはこれは可能かもしれないが、次の世代が継続できるものではない。環境も変化し、一人ひとりが、神の御心を少しずつ理解していく営みなしに、信仰が生きたものとして継承はされないからである。そして、それは、わたしも、どうしたらよいかわからなかったことでもある。毎日、失敗を繰り返しながらも、まさに、この単純なことを守ろうとしてきたのが、わたしの人生だったのかもしれない。そして、それで良かったのかは、今もよくわからない。難しい。 2021.3.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  15. BRC 2021 no.015:ヨシュア記2章ーヨシュア記15章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヨシュア記を読み進めます。モーセの働きを読んでくると、なぜ、神様は、モーセに約束の地に踏み入れることを許されなかったのだろうと思うこともあります(申命記34章1-5節等)。しかし、このヨシュア記を読んでいくと、ピスガの頂からはるか彼方の約束の地を眺め、足を踏み入れることなく天に召されたことは、モーセにとっても恵みだったのかなと思ったりもします。 最近、ひょんなことから、Apple の創業者の一人、Steve Jobs の Stanford 大学の卒業式での有名な講演メッセージを聞き・読み返す機会がありました。(https://news.stanford.edu/2005/06/14/jobs-061505/)3つのトピックについて言われており、一つ目が点つなぎ(connecting the dots)、あとから点がつながっていることがわかること。上に書いたことも、そのようなものなのかもしれません。2つ目は、愛と喪失(love and loss)おそらく、誰の人生においても、たとえ栄光に満ちたと見える人生においても、様々なことがあるのでしょう。ヨシュアについてそれが何を意味しているかは、書かないことにしましょう。ヨシュア記だけでなく、士師記までつながることかもしれませんから。3つ目は死(death)について。死は避けられないものとしてあってよいのではないかなと語ったあとで、"Death is very likely the single best invention of Life. It is Life’s change agent. It clears out the old to make way for the new. “ と語り、だから、と言って、"Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life. Don’t be trapped by dogma — which is living with the results of other people’s thinking. " と語り、最後に、引用として、有名な "Stay Hungry. Stay Foolish.” を三回繰り返して終わっています。今回、この言葉も、わたしが時々語っている、”Be available, stay vulnerable” と通じる部分があるのかなと思い、モーセや、ヨシュアの生き方から、彼らが去り、わたしたちが歩むようにあけてくれた道を思い、一人の人 Steve Jobs のメッセージを振り返ってみました。 いま、私たちがしているように、考えながら、自分で聖書を読んでいくことは、Dogmatic(教条的)にならずに、どう生きていくか考え、モーセやヨシュア、さらに、自分と、そして、おそらく神様(真理と表現してもよいですが)と向き合うことなのかなと思います。そして、もっとたいせつなことは、こうかなと思ったことを生きてみることでしょうか。 ヨシュア記を読むと、いろいろな批判が出てくるかもしれません。でも、ヨシュアというひとと共に(愛と喪失の人生でしょうかを)歩みながら、読み進め、その時代の他のひととも、共に生きることを考えながら読み進めると、批判とは違う面も見えてくるかもしれないと思っています。その人達が、委ねてくれたものをしっかり受け取って、いまを生きていきたいと思いながら、読んでいます。後の世代の人たち(それは、みなさんかな)に道をあけるときまで。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨシュア記2章ーヨシュア記15章はみなさんが、明日4月5日(月曜日)から4月11日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Joshua 2:12 私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたも、私の家族に誠意を尽くすと、今、主の前で誓ってください。そして、確かなしるしをください。 「確かなしるし」は何だったのだろうと思った。以前は斥候の選んだ先が遊女であることを疑問に思い、あまりにも整然と語っていることに驚いたこともあったが、おそらく、斥候の入り込んだ先として最も適切だったのだろうと思う。遊女は、個人的な通常は明かさない情報をたくさん聞いていただろうし、それを明かさないことが仕事上も重要な規範だったのだろう。さらに、遊女をしていることにも、多くの背景があるだろうし、ここには「私の父、母、兄弟、姉妹、そして彼らに連なるすべての者を生かし、私たちの命を死から救ってください。」(13)ともある。遊女ならだれでもよいわけではなかったろうが、適切な情報源が与えられたということだろう。「確かなしるし」も、ここで約束されていること、形はないが、それをしっかりと「確かなしるし」として受け取ることができるラハブだったのだろう。そして、マタイ1章5節の「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1章1節)にも登場する。むろん、エリコの住民に対しては、裏切り者であるが。 Joshua 3:7,8 主はヨシュアに言われた。「今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする。私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。今、契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水辺に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれ』と命じなさい。」 ヨルダン渡河の奇跡物語である。しかし、もっともたいせつなことは、引用句なのだろうと思う。奇跡は真実を語るもので、事実とはずれている場合もあるとわたしは今は考えている。この章には「ヨルダン川は刈り入れの季節の間中、水が岸まで満ちていた。」(15)と書きながら、これがいつだったかは4章19節「第一の月の十日」まで書かれていない。春分前(3月中頃)だから、収穫の時期(5月)よりはだいぶ前である。水の量は別途調べないといけないが、一番多い時期ではなかった可能性も高い。(季節によってはかなり水量が少ない時期があると記述しているものもある。)このヨルダン渡河の記述が、それなりに歴史的事実を反映しているとすると、何らかの措置はとり、渡河が驚くほど簡単にいったのだろう。ヨルダン渡河と、エリコ陥落が、ヨシュアの働きの中で、ハイライトだろうし、これがヨシュアが生涯信頼された要因であることも確かだろう。(4:14)真実は、(おそらく民は心配していたが)すごいことが起こったということだろう。単純に信じてもなにも問題はないとも思う。わたしは、いろいろな人たちの理解を助けたいとも思う。 Joshua 4:7 こう答えなさい。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる。』」 22節から24節にはより詳しく、葦の海を渡ったことも含め、主の手の力強さを知るため、主を畏れるためとある。信仰継承と「(記念の)もの」について考えた。背景に「ものをして自らを語らしめる」という題で最近研修があったからもある。ものには、執着しないわたしは、なにか「もの」を選んで参加するのが困難だったが、深いことを語るには、ものがないと抽象的になり、ものから語ることで、具体性をもつとともに、理解しやすいことを経験した。わたしが選んだのは「聖書の会」のときの靴がいっぱいにならんでいる玄関の写真(学内住宅のシンポジウムのチラシからとったもの)というわたしが避けてきた「写真」を選ぶことになった。それが信仰継承にここでは使われている。個人的にも、こどもたちの自由に委ねていると、たいせつなことをたいせつにする、そのたいせつなことを伝えることがとてもむずかしい。ついついことばにたより、抽象的になってしまうからだろう。かたちの無いものにあまりに偏ったからだろうか。また、考えてみたい。 Joshua 5:15 主の軍勢の長はヨシュアに答えた。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。 この章には、周囲のアモリ人、カナン人の王たちの心が挫けたこと、割礼のこと、過越祭とマナが途絶えたことが書かれ、最後に「抜身の剣を手にした人」(13)とヨシュアが会う記事が書かれている。このあとがエリコの記事であることを考えると、ヨルダン渡河のあとの非常に重要な時だったのだろう。新しい地、新しい経験のもとで、新たなとてもたいせつな一歩を踏み出す時、自ら、主との関係を確かめること、自らを省みることだろうか。この章は、非常に広範囲のことと関わっており、考えさせられることが多い。戦略的(strategic)なと思わせる、技術的(technical)配慮も感じさせられる。 Joshua 6:2 主はヨシュアに言われた。「見ていなさい。私はエリコとその王、力ある勇士たちをあなたの手に渡す。 見ていなさいは、רָאָה(rā'â: to see, look at, inspect, perceive, consider)まさに「見よ」である。ヨシュアが命じていることもいくつかあるが、それを神の働きを見よとまとめているのだろう。わたしも、特に、様々な困難の中で、神様の御手を見たいと願っている。同時に、そのときのエリコの状況を考えてみると、ラハブが斥候に語った言葉に「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。」(2:9)とある。ヨシュア軍の異様な行動は、この恐怖心をさらに大きなものとしただろう。戦略的にも、この場合に適していたのだろう。もう一つ、エリコの住民になって考えてみる。ラハブとその家族は助かるが、他の人達が自業自得で滅びるわけではない。わたしがエリコの町の一人なら、どうだろうか。自分の罪を悔い、神に祈るのではないだろうか。神の業を十分理解すること(こころの目で『見る』こと)はできない。 Joshua 7:7 ヨシュアは言った。「ああ、わが主なる神よ。なぜ、あなたはこの民に強いてヨルダン川を渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡し、滅ぼそうとされるのですか。私たちはヨルダン川の向こう側にとどまることで満足していればよかったのです。 ヨシュアの心が揺れている。ヨルダン川の向こう側は「約束の地」ではない。このひとつの敗戦を過大評価している。このあと、主のことばが臨み、背景が示されているが、おそらく、ヨシュアは、なにか自らに、そして、イスラエルに罪があったのかもしれないと考え調査したのだろう。新改訳聖書で「聖絶」と訳されていることばの重さの認識である。「くれぐれも言っておくが、滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出してはならない。あなたがたが滅ぼし尽くしたはずの献げ物に手を出すとき、イスラエルの宿営もまた滅ぼし尽くされるものとなり、災いがもたらされるだろう。」(6:18)を明確にすることで、エリコは神が滅ぼ(聖絶)される町として、自らの行為を正当化しているとも言える。そのための高い倫理性である。背景には、申命記7章など(恵みだろうか)の考え方があるのだろう。自業自得・因果応報に結びつけて理解するのは困難である。むろん、ここに書かれているのも、ヨシュアたちが受け取った、ひとつの神理解であり、その意味で信仰告白であり、神のみこころのすべてではないことも、確かだろう。 Joshua 8:29 ヨシュアはまたアイの王を夕方になるまで木につるし、太陽が沈む頃に死体を木から下ろすよう命じた。人々は町の門の入り口に死体を投げ捨て、その上に大きな石塚を築いた。それは今日に至っている。 「あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。」(申命記21章23節)がここで守られている。申命記とヨシュア記の共通性は高いように思われる。エバル山とゲリジム山での祝福とのろい(30節と申命記11章29-31節)、律法の写しを刻んだこと(32節と申命記27章8節)、「イスラエルのすべての人々が、あなたの神、主の前に出るために、主の選ぶ場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人々の前でこの律法を読み聞かせなければならない。」(申命記31章11節)も、34節・35節で実施されている。ヨシュアが律法に忠実であったことの証とも取れるが、申命記とヨシュア記の著者が同じであるとも取れる。また、この8章でヨシュアの栄光について、一区切りつける狙いもあったかもしれない。律法の書を読み上げるのは祭司エレアザルでも良かったはずだから。「ヨシュアはこうして、祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、彼のためにウリムによる裁定を求める。ヨシュアと、彼と共にいるすべてのイスラエル人、つまり全会衆は、エルアザルの指示に従って出陣し、また帰還しなければならない。」(民数記27章21節)しかし、ここでは、ヨシュアだけが中心にいる。民数記との違いも感じる。 Joshua 9:19,20 指導者たちは会衆全体に向かって言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちのなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。私たちが彼らに誓った誓いのゆえに、私たちの上に怒りが下ることはないだろう。」 ヨシュアと指導者たちの判断ミスに対し、会衆が不平を言ったことに対する、指導者たちの答えである。興味深いのは、二点。相手の虚偽があったにも関わらず、主にかけて誓ったことを守り通そうとしたこと。もう一つは、主に誓ったことを守り通すことを主は肯定してくださるだろうという判断である。神への忠実と、人への誠実が、ここに表されている。間違うことがあること、謙虚に、神や他者との関係を適切に行うことに誠実であろうとする姿勢からは、学ぶ点がある。間違いを修正しようとしないことにかえって、美しさを感じる。ヨシュアの判断に身を委ねるギブオンのひとたちの誠実さと謙虚さ(25)にも、心を打たれる。民はいつも不平を言うようだが、この不平の中身にも注意したい。ひとの欠けにたいして不平を言っているようだ。考えさせられる。 Joshua 10:40 ヨシュアは山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地などこの地のすべてを討ち、王たちを一人も残さず、息のあるものすべてを滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。 地域はこの書を読む人たちは、聞けばすぐ理解できた地域なのだろう。聖書地図によると、ヨルダン渡河を果たしたと考えられる、エリコの近くギルガルに陣を置き、その西南の地域である。最初に戦ったのは、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、ヤフィアの5人の王とあるが、エルサレムは歴代誌上11章の記述によると、王に指名された直後にエブス人から奪った町としている(士師記1章8-11節、21節参照)。ヘブロンは、カレブに割り当てられる地である。ヤルムトはこの5人の王(何回か述べられるが)の士師記の記述以外には現れず不明である。ラキシュはアッシリアが攻略した有名な町でもある。(歴代志下32章9節、大英博物館に壁画がある)、ヤフィアについては、あまりよくわからない。ヨシュア記の記述としては、神様の配慮により、いっぺんに、(イスラエルの南半分)南ユダ王国に属する地は平定されたということなのだろうか。なかなか現実は複雑である。 Joshua 11:23 ヨシュアはこうして、すべて主がモーセに告げられたとおり、この地のすべてを獲得した。ヨシュアはそれを、各部族の割り当てに従って、イスラエルの相続地として与えた。こうして、この地の戦いは終わった。 「ヨシュアは長い間、これらすべての王たちとの戦いに明け暮れた。」(18)ともあり、この章や、前の章にあることは、その概略なのだろう。王(מֶלֶךְ (meleḵ): king)と書かれているが、町を統治していた人なのだろう。部族長とは、少しことなる町・都市が成立していたということだろう。当時がどのような状況だったかも興味がある。王たちが連絡を取り合い、共闘している。同時に、それほど大きな集団にはなっていないようである。民数記にあるように、60万人かどうかは別として、大集団(特に遊牧民)が移動してくることは、歴史的には、現在のヨーロッパの形成も含め、民族大移動で世界地図を変えることが何回も記録されており、不明なことも多いのだろうが、この移動もその一つだったのかもしれない。その最初のほうの例だったのだろうか。世界史的なレベルでも、どのような意味があったのか学んでみたい。それと似た部分、ヨシュアたちの物語の特殊性も。 Joshua 12:7,8 ヨシュアとイスラエルの人々は、ヨルダン川の西側をも討った。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルの途上にあるハラク山に至る地を、イスラエルの各部族の割り当てに従って所有地として与えた。その地の王たちは次のとおりである。山地、シェフェラ、アラバ、傾斜地、荒れ野、そしてネゲブには、ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人がいた。 どのような状態だったかも、簡単にはわからないが、おそらく、エリコから見て西と西南の地域に少し北に広がった地域なのだろう。このあとに31人の王の名前が記されているが、引用句の記述からして、多くの先住民が住んでいたのだろう。現在のイスラエルの地域とは、異なるが、国連の統計では、面積が、22,072平方キロメートルで、日本の面積の6% 程度である。おそらく、いくつもの、他(異)民族の町が各所にあり、たくさん住んでいたのだろう。割り当てたというのも、現在のような国としての支配とは、異なることは頭に入れておかなければいけないだろう。牧畜と農耕が主であろうが、現在の土地所有の考え方とは異なる。逆に、仲間同士の放牧地を割り振った程度なのかもしれない。仲間通しでの争いが起こりにくいように。 Joshua 13:1 ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。「あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。 土地所有はどのような社会においても、重要だったろう。この時代どのような決まりになっていたかは、個人的には知らないが、ケニアで、わたしの理解するところでは、State Land(国の直轄地), Community Land(部族ごとの共有地), Private Land(個人の所有地)の区分けが明確になったことで、遊牧(一定の土地に定住せず,牛や羊などの家畜とともに水や草を求めて移動し,家畜を飼養する牧畜形態)が困難になり、族長を中心とした大家族や、部族ごとの生活が壊れ、都市化が進んだようである。おそらく、この時代には、Community Land の区分けがなされたのだろう。民数記の記述のように、兵役につくことのできる年齢の人口が、60万人とすると、全体で200万人程度だろう(現在は880万人)。人口も正確にはわからないが、かなりの人数であったとすると、社会が変化していくことになるだろう。士師記の時代はそのような時代だったのかもしれない。精神生活を考えると、引用句は、辛さを感じるとともに、自分の世代では解決できないことも、悟らされることばだったろう。そのなかで、どう生きるか、ヨシュアはどのように考えたのだろうか。約束の地に生きることをどのように考え、感じていたのだろうか。 Joshua 14:8 私と一緒に上って行った兄弟たちは民の心を挫きましたが、私はわが神、主に従い通しました。 民数記14章の記事である。特に、7節bから9節にカレブの言葉が記されている。「私たちが偵察のために行き巡った地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう。ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」特に、真ん中の部分の、信頼なのだろう。それを、引用句では「従い通しました」と表現している。そして、それは、その後の45年間においても、変わらないことがここに表現されているのだろう。信頼、信仰は、一度限りのことではなく、信頼関係であり、長い人生の中で試されるものだろう。おそらく、様々な反乱が起きる中で、カレブのこころも揺れることもあったろう。たとえそのように揺れることがあっても、わたしも「私はわが神、主に従い通しました。」と告白できるものでありたい。因果関係として「今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。」(11)を主張するわけではないが、健やかさの重要な要因であるとは思う。 Joshua 15:18.19 アクサは到着すると、父を唆して畑をもらおうとした。アクサがろばから降りると、カレブが「何か用か」と言ったので、彼女は「お祝いをいただきたいのです。私にネゲブの地をくださったのですから、泉もください」と言った。カレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。 これだけから判断することはできないが、アクサとカレブはかなり異なっていたように思う。父の信仰が子に引き継がれない例は、聖書でも多いように思う。統計における回帰のひとつだろう。「ある特定の性質について親が際立っている場合、子もある程度はそれを受け継ぐが親ほどではない」と Francis Galton は表現しているが、他の性質は際立つことが他のひとと同じようにあるわけで、このアクサさんについて、短絡的な判断は避けたほうがよいだろう。ひとは、たくさんの観点から判断することが苦手で、一つの指標で、そのひとについて判断してしまうことが多いものだから。カレブの気前の良さも気になる。公平性とは、程遠いように思うので。カレブは、弱さもたくさん持っていたのだろう。むずかしい。 2021.4.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  16. BRC 2021 no.016:ヨシュア記16章ー士師記5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヨシュア記の後半を読み、次の士師記に入ります。すでに皆さんが読まれたヨシュア記の前半で、大きな戦いは終わり、ヨシュア記の後半では、その後の土地の分割、相続地の割当のことが書かれています。士師記は、そのあとの世界について描かれ、ルツ記を挟んで、その次の、サムエル記上・下、列王記上・下へとつながる王国時代への橋渡しになっています。 春は、特に日本では、新しい歩みが始まるときでもあります。この春が、進学や就職ではなくても、新しい部署に異動になったり、少し前を振り返ると、それぞれが、いろいろな変化を経験しながら、新しい環境で生活を始める機会が何回かあったのではないかと思います。夢がかなって、新しいステップを踏み始める。おそらく、イスラエルもそのようなときだったのではないでしょうか。そのようなときのこと、どのようなことがどのように描かれているのでしょうか。それを読まれてみなさんは、どのような感想を持たれるでしょうか。 一言で表現すると、問題だらけ、新しい環境で、まさに、新たな問題と向き合う生活の始まりのように見えます。聖書は、主(神様)を中心とした集団イスラエルを中心にかかれていますから、この時までは、ある意味で、一人旅または狭い世界、その集団の中での葛藤が描かれていました。しかし、ここで描かれているのは、他の様々な集団の中に、自分たちの居場所を確保したあと、他のことをたいせつにする集団や人々との関わりの中で、自分たちはどのような存在で、どのように生きていったらよいかが日々問われている時代なのかもしれないと思います。そう考えると、ほとんどのみなさんが、生きている今と、同じなのかもしれません。 きれいごとでは済まされないことと同時に、異なる価値観をもっている人達とどのように、生きていったら良いのか、共通な価値観をたいせつにしたい仲間とは、どのように生きていったら良いのか、その狭間で、上手にお付き合いしていくのか、分離して、誘惑を避け、純潔を保つのか、それぞれに、どのような困難と問題が生じるのか。そして、どのような解決を模索するのか。とても、普遍的な問題が洗い出された時代なのかもしれません。 一つ一つが事実かどうか、どの程度、歴史的事実に基づいたエピソードなのかと考えながら読むことも可能だと思いますが、上に書いたような課題を考えながらそれがどのように描かれ、当時の人達は、それをどのように受け止め、向き合い、解決しようとしていたのかを考えながら読む読み方もあるように、思います。わたしたちの世界の課題も見ながら、当時のひとたちと共に生きることができればと願っています。当時のかたたちも、現代の難しさを理解してくださるかもしれません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨシュア記16章ー士師記5章はみなさんが、明日4月11日(月曜日)から4月18日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記と士師記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jo 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jd 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。レビ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Joshua 16:8,9 西の境界線は、タプアからカナ川に沿い、海に至ってその極限となる。以上がエフライムの家系の部族、その諸氏族の相続地である。また、エフライムの一族に配分された町は、マナセの一族の相続地の中にもあった。そのすべての町とそれに属する村もエフライムのものである。 イスラエルが地域の部族連合であるとされることもある。その真偽は確かめられないこともありここでは別とする。しかし「くじで割当てられた」(1)とされているが不自然であることは、確かである。ユダとエフライムという二大部族が中央部で南北にわかれ、ユダは山地、エフライムは、平地への入り口、しかし三日月型肥沃地帯からみると南端のさらに南だろう。さらに、マナセは東西に分かれるが(17章)、(ルベンとガドはヨルダンの東側にすでに割当地を得ているので)あとは、残りの七部族(18章2節)と記されている。公平とは言えない。引用句では、「以上がエフライムの相続地である」としたあとに、飛び地の記述がさらに加わっている。さらに「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムの中に住み着き、今日に至っている。ただし、カナン人には苦役が課された。」(10)も重要な記述であるように思う。 Joshua 17:18 山地の森林地帯をあなたのものにしなさい。そこを切り開き、隅々まであなたのものとしなさい。カナン人は鉄の戦車を持ち、強いだろうが、きっと追い出すことができるだろう。」 信仰的な記述とも言えるが、マナセ族についての記述は、非常に複雑かつ変わっていると感じた。系図と息子がなかったツェロフハドのことが再述され(民数記 26:33,34, 27:1-11, 36)そのあとは、領土の記述があるが、まだ割当地がきまっていない「アシェル領」(7)「イッサカル領」(10)を引用し、最後には、割当地の狭さへの不平があり、それに続いて、引用句となっている。カナンの地を平定し、それを分割するという形態をとっているが、そのような状況でなかったことは、確かなのだろう。真実は不明であるが。どのような背景のもとで、なにを伝えようとしているのだろうか。 Joshua 18:3-5 ヨシュアはイスラエルの人々に言った。「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか。あなたがたは部族ごとに三人ずつ選び出しなさい。私が彼らを遣わすから、すぐにこの地を巡回させ、相続地ごとに土地のことを調べ、戻って来てもらおう。そうしたら土地を七つに分割しなさい。ただし、ユダは南部の領土に、ヨセフの家は北部の領土に、それぞれとどまらなければならない。 くじ(6,8,10)で決めることは、ひとつの公平さの担保だろうが、あまりにいびつな、とても公平とは言えない決め方である。もしかすると、創世記のヨセフ物語あたりからつながっているのか、当時の人達にとっては納得できるものだったのかもしれない。そうでなければあまりに理不尽で、内紛がおこらないほうがおかしい。ヨルダンの東の地域については、不明であるが、そこには、長子のルベン族がおり、創世記の最後で祝福された、ヨセフの子ら、エフライムとマナセ、そして、ユダが特別扱い。そしてヨセフの弟のベニヤミンはすこし特別扱いされているように思われる。ある程度、その地域にすでに帰属していたのだろうか。不思議である。 Joshua 19:51 以上が、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、親族の頭たちが、イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた。 祭司エルアザルは、登場しない。しかし「シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた」と記述することはたいせつだったのだろう。今回は、今まで以上に、やはりイスラエルは、この地域の部族連合で、出エジプトは、ひとつになるためのエピソードと言われることがそうなのかもしれないと思った。そのようなことを学んだ牧師たちでさえ、キリスト教会の中で、それを語らないのは、それを認めた上で、聖書を神のことばとして受け取ることが簡単ではないからだろう。そのことは、十分理解できる。その意味で、わたしのような読み方を続けることも、例外的なものなのだろう。しかし、そのことが、ひとを活かす、神様のいのちに生かされる方向に進まず、教派間の争いや、協力が困難な状態を作り出したり、異教に対して不寛容を生み出すのは、とても悲しい。謙虚に聖書を読んでいきたい。明確にはわからないことも事実である。 Joshua 20:9 以上が、すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である。その者が会衆の前に立つまで、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにしたのである。 逃れの町についての最後には、それは、「(すべてのイスラエルの人々、ならびに、)寄留している者のために指定された町」ともある。「イスラエルの人々のうち、イスラエル人であれ、あなたがたのもとにとどまっている寄留者であれ、過って罪を犯した場合には同一の律法に従う。」(民数記15章29節)とあり、公平さを保つためであったのだろう。寄留者(sourjourner だが、現代では、migrants や refugees とも言える)への配慮は非常に多く聖書には記されている。期限は「裁きのために会衆の前に立つときまで、もしくは、現職にある大祭司が死ぬまで」(6)である。基本的には、未決のひとへの配慮であろう。それは、社会において、それなりに難しい問題である。差別を生む可能性は高いからだ。逃れの町の実際について、聖書には、書かれていないように思うが、どのようなものだったのか知りたいと思う。現代ではどうなのだろう。一般的保護規定はあるとしても、公平さの確保と特別な配慮はどうなっているのだろうか。 Joshua 21:41,42 レビ人の町はイスラエルの人々の所有地の間にあり、合計四十八の町とその放牧地であった。以上の町は、それぞれが周辺に放牧地を持っていた。すべての町がそうであった。 逃れの町がすべて含まれるのかは調べていないが、多く含まれるようである。レビにおいては、相続地ではなく、「住む町と家畜のための放牧地」(2)とあり、Community Land のような共同放牧地として与えられたのだろう。町での活動や奉仕が多かったのだろうか。実際の生活についても知りたい。会見の幕屋で礼拝をしていたころや、その後神殿を中心に礼拝をしていたころ、さらに、捕囚などで、離散してから。宗教的に指導的立場をとっていたのだろうか。それとも、単に、作業に定期的にかり出されるだけだったのだろうか。 Joshua 22:31 祭司エルアザルの子ピネハスは、ルベンの一族、ガドの一族、マナセの一族に向かって言った。「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知った。あなたがたが主に対してこの背信の罪を犯さず、こうしてイスラエルの人々を主の手から救い出したからである。」 事前のコミュニケーションを十分すべきだったと思うが、帰っていく途中で、このようなことに傾いたのかもしれないし、後の時代、分裂の危機があったときに、このように考えたのかもしれない。いずれにしても、引用したこのことばは、味わいがあるとも、難しいとも言える。「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知った。」これは、同じ主が主だという信仰告白なのだろう。同時にその理由として「こうしてイスラエルの人々を主の手から救い出したから」と言っているが、これは、分裂の危機、お互いにお互いを抹殺しなくて良くなったことを言っているのだろうか。主による救いは、どのように表現したらよいのだろうか。最近、わたしがよく使っている「ゆるやか」を使うと「主という共通の方、主にある一致という共通の目的を追求しながら、ゆるやかな、帰属意識をもち、それをお互いに認め合い、共有した」ということだろうか。それ以上をもとめると、中においても対外的にも、問題がおこるように思う。 Joshua 23:12,13 もしも、あなたがたが主に背を向け、あなたがたの隣に残っているこれらの国民に付き従って婚姻関係を結び、彼らと混じり合ったり、彼らがあなたがたと混じり合うならば、あなたがたの神、主がもはや、これらの国民を追い払うことはないと覚悟しなさい。彼らはあなたがたの罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭となり、目に突き刺さる棘となり、あなたがたは、あなたがたの神、主が与えられたこの良い土地から滅びうせる。 ここが、わたしが、理解できない、共有を拒むところだろう。しかし、だからといって、この分離主義を簡単に批判はできない。おそらく、それが「ゆるやかな」帰属意識で表現している内容なのだろう。混じり合うことは、どのように考えればよいのだろうか。追い払わなくてもよいように思うが、「罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭となり、目に突き刺さる棘」となると書かれている。さらに「主が与えられたこの良い土地から滅びうせる。」とある。捕囚を経験したものの、経験則のようにも見える。時代のなかでは、何度も繰り返されて来たことなのかもしれない。どのように生きたら良いのだろうか。許容と寛容の違いと簡単には、言えない。おそらく、日々の営みの中に、戦いのように、現れることだから。 Joshua 24:31 ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた。長老たちは、主がイスラエルに行われたすべての大いなる業を見ていたからである。 最後は「アロンの子エルアザルも死に、その息子ピネハスに与えられたエフライムの山地のギブアに葬られた。」(33)で締めくくられている。すなわち、主がイスラエルに行われた大いなる業をみていたヨシュアや長老たち、アロンの子、祭司エルアザルとその子ビネハスがが死ぬと、民は主に仕えなくなったということを結語とし、士師記につなげているのだろう。この章には、これまでのイスラエルの歴史(His-Story - History)が書かれ、ヨシュアの決意と民の決意表明が書かれている。これは、シェケム契約とも呼ばれる。その意味では、この人達は、ある程度、この決意表明、約束を守ったということだろう。このような決意表明・約束・契約・信仰告白は(枠組みは)任意であり、貴重なことであるが、引用したことばがすでに「主がイスラエルに行われたすべての大いなる業を見ていたから」という困難さの表明があるように、継承は困難である。 Judges 1:21 ベニヤミンの一族は、エルサレムに住むエブス人を追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている。 この「追い出さなかった」という表現が、この章に21,29,30,31,32,33節と6回登場する(これ以外はヨシュア記16章10節のみ)「追い出さなかった・追い出せなかった・追い出そうとはしなかった」これを厳密にわけることはできないだろう。そして、問題だとも断言しにくい。しかし、これが火種であることを、士師記は言っているのだろう。実際は、もっと複雑なのだろう。多様性の中で、共に生きる。その困難さは、明らかである。イエス様は、このことにヒントと力を与えてくださったと思うが、解決をもたらしてくださったわけではないのだろう。いそがずゆっくり考えていきたい。 Judges 2:21-23 それゆえ、私もまた、ヨシュアが死んだときに残していた諸国民を、これ以上一人も彼らの前から追い払わない。これはイスラエルが、先祖が守ったように主の道を守って歩むかどうかを、この人々によって試みるためである。」主はこうして、諸国民を直ちに追い払うことなく、ヨシュアの手に渡すこともなく、そのまま残したのである。 この章には最初に「主の使い」の警告、そして、ヨシュア記24章にもあったヨシュアの死の再述、その後の世代の背信、士師(שָׁפַט -šāp̄aṭ: to judge, govern, vindicate, punish)を起こされたことが書かれ、引用箇所に至る。この士師記の背景設置であろう。しかし調べてみるとこの「士師」ということばは、士師記が初出で士師記には、この章の16-19節に出るだけのようである。ただ、引用箇所は、最後の文章は、帰結なのか、前提なのか不明で、主の方針が変わったようにも思われる。おそらく、これが、人々の受け取ったことなのだろう。王制へと移行する時代、これから士師について書かれているが、おそらく、狭い地域で活躍した勇者列伝なのだろう。書き方から、ヨシュア記と同じ記者のように思われるが、書かれたときの時代背景はどのようなものだったのだろう。偶像礼拝が最大の問題だったように思われるが。 Judges 3:1,2 カナンとの戦いの経験が全くないイスラエルを試みるため、主が残しておかれた諸国民は次のとおりである。それは、戦いを経験したことのないイスラエルの世代に、戦い方を学ばせて経験させるためにほかならなかった。 「紛争地に中立はない」アイルランドで、テロリストから牧師になった方のメッセージに出てきた言葉だが、残念ながら非暴力中立を維持することができない状況がたくさん世の中にはあるのだろう。たくさんの民族が混在し、かつ移動が欠かせない牧畜が中心で、農耕をはじめていた人達と混在していればなおさら、争いは日常的なものだったのだろう。現代の日本では考えにくいが、わたしも、日々、ぎりぎりの線で戦っているように思う。公平さをたもつために、問題が繰り返されることがないように改善することにおいて、傷つくひとたちを守ろうとして、気づきにくいことを知らせるために、そして、世の中の様々なできごとから学び日々の中で活かすために。どうでもよい。とすることの反対側に、戦いがあるのかもしれない。受容がたいせつなこともあるだろう。しかし、戦いも日々あるように思う。では、単に、肉体的に、他者を傷つけることだけが問題で、それを避ければよいのかという問にも、やはり NO と言わざるをえない。まだまとまっていないが、これからも戦いの記録をみながら考えていきたい。 Judges 4:11 カイン人ヘベルは、カインにいるモーセのしゅうと、ホバブの一族から離れ、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張った。 非常に唐突である。これは、17節の「シセラはカイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に徒歩で逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベルの家とは親しかったからである。」につながっている。親しくしていた、ヤビンではなく、イスラエルを支援したということだろう。何度か、カイン人と書かれている、モーセのしゅうとの家系である。イスラエルの中に住み、引用句では、最初に定められた土地からも離れ、住んでいたが、イスラエルへの帰属・寄留を重視したということで、詳細は不明であるが、非常に興味深い。4節には「その頃、イスラエルを治めていたのはラピドトの妻、女預言者デボラであった。」とあり、この章の中心人物は、ふたりとも女性である。女性が重要な役割をはたしただけでなく、おそらく、男性とはことなる勇敢さを発揮したことも伝えているのだろう。興味深い。 Judges 5:16,17 なぜ、あなたは二重の柵の中で座り/家畜の群れを導く笛の音を聞いているのか。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。ギルアドは、ヨルダン川の対岸にい続け/ダンは、なぜ安穏としてとどまるのか。/アシェルは、海辺に座し、舟着き場にい続ける。 イスラエルを治めていた(Judges 4:4)と言われている女預言者デボラがどの程度影響力を持っていたかは不明である。しかし、この(デボラとアビノアムの子バラク(1))の歌からみると、ここに(ギルアドが与えられた、マナセの子であるマキルの記述があることも含めると、エフライム、ベニヤミン、ゼブルン、イッサカル、ルベン、ダン、アシェル、ナフタリ)9つの部族の名が現れ、レビを除くと、現れていないのは、南に住む、ユダとシメオンと、ヨルダン川の東(ギルアド)の地の、ガドだけである。かなりの範囲を掌握していたのかもしれない。その中で、引用句は、ルベン、ダン、アシェルと、おそらくギルアドの、ガドとマナセの半部族は動かなかったことが書かれているのだろう。すでに、一つではないことが見て取れる。いずれ、もう少していねいに見ていきたい。関係はないだろうが、メロズ(מֵרוֹז Mērôz - refuge)が「駿馬の群れが駆け抜ける」の直後にあり「走れメロス」を思い出した。私の散歩コースに「入水の地」の碑がある作家は名前をこのようなところから見つけたのかもしれないとちょっと想像した。 2021.4.11 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  17. BRC 2021 no.017:士師記6章ー士師記19章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、士師記を読み進めます。士師記は21章までですから、殆ど最後まで読むことになります。今回の箇所には、ギデオンやサムソンといった、聞いたことのあるかたも多い勇者も登場します。物語としても興味を持って読むことができるかもしれませんが、物語の筋だけではなく、少していねいに見ていくと、いろいろ疑問も出てくるかもしれません。士師記の最後には、2つのちょっと目をそむけたくなるようなエピソードとともに、「その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。」との記述も現れます。このあと、ルツ記をはさんで王制への移行について書かれているサムエル記へと進みます。出エジプト後、王制との間の世界が書かれているとも言えます。宗教だけでなく、戦争や内紛にどう向き合うのか、統治制度や政治や外交がどのように生まれてきたかが書かれているとも言えるかもしれません。その中で、士師記記者は、どんなことを伝えようとしているのでしょうか。 様々な、要素が関係しており、なにかひとつ教訓を学び取るということではなかなか済まされない箇所のように思われます。単純に因果応報のような、原因と結果、神様は何を好み、何をお嫌いになられるかといったことで、読んでいくことが困難なようにも思います。しかし、そのようなときのことがある形ではあっても書かれていることは、凄いことのように思います。辻褄のあっているストーリーを書くときは、様々な要素を加えるなどして行くことができるかもしれませんが、混沌としている世界を描くことは、あまり簡単ではありません。混沌は、神様の働きがよく見えないということができるかもしれません。しかし、わたしたちは、いつもそのような時代を生きているようにも思います。わたしたちは、どう生きていったら良いのでしょうか。みなさんは、士師記からどんなことを読み取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 士師記6章ー士師記19章はみなさんが、明日4月19日(月曜日)から4月25日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 士師記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jd 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。士師記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Judges 6:10 そして、私は言った。『私は主、あなたがたの神である。あなたがたは今住んでいる地のアモリ人の神を畏れ敬うな。』しかし、あなたがたは私の声に聞き従わなかった。」 この章の最初には「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミデヤン人の手に渡された。」(1)とある。この悲惨な状況は、「主の目に悪とされることを行った」から、そして、主を主とせよ、と述べる。ギデオン物語の始まりである。ひとは、苦しみの意味を考え、意味のないことを受け入れられない。それが因果応報・自業自得につながる。しかし、わたしは、意味があるかないかではなく、原因は多岐にわたっていること、したがって簡単にはわからないことも受け入れなければいけないと思っている。科学的思考の功罪と書いておこう。しかし、真理の探求という個人的によりたいせつに思うことが背景にあることも確かである。同時に、このような状況のなかで、自分はどのように、考え、どのように行動するかもとてもたいせつである。わからないから何もしないという選択肢はない。わたしがギデオンなら、ギデオンの父親なら、アビエゼルのひとなら、マナセや同じ苦しみを抱えている人なら、そしてアマレクやミデアンのひとならと考えながら、読んでいきたい。 Judges 7:7 主はギデオンに言われた。「手で水をなめたこの三百人をもって、私はあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡そう。残りの兵は皆、それぞれ自分の家に帰しなさい。」 昔は、一つ一つ選びの理由を考えていた。おそらく、理由もある程度はあるのだろう。しかし、それで決められるのではないように思う。主の選びは多くの場合よく理由がわからない。恵みと同じだろう。因果応報のほうが、わかりやすいように思うが、少し考えればそう単純でないこともわかる。もう一点「ギデオンはその夢の話と解き明かしを聞くやその場にひれ伏し、イスラエルの陣営に戻って叫んだ。」(15a)とある。主は、敵陣の人を通して御心を伝えることもあるということである。熱心に求めれば神様の声を聞くことができるようになるわけではない。謙虚でありたい。 Judges 8:3 神はミデヤンの長、オレブとゼエブをあなたがたの手に渡された。あなたがたに比べて、私に何ができたと言うのか。」彼がこのように語ると、彼らの憤りは和らいだ。 この章には山のようにそのときそのときを誠実に生きることの難しさが書かれているように思う。それは、わたしが日々経験してきたことで、今も経験していることだ。エフライムの不満(1)、ギデオンのエフライム(3, 引用箇所)、スコト(7)やペヌエル(9)の対応、また、スコト(6,13-16)やペヌエルの住民・長老の対応(8,17)、ゼバとツァルムナ(18)、イエテル(20,21)、ギデオンの対応(21)、ギデオンの信仰告白(22,23)、その後(24-27)。それぞれの立場で、誠実に、神の前を歩くことは、本当にチャレンジングであり、日々戦いである。わたしは、自分の人生を振り返り、そして、今を思うと、まさに、そのようなチャレンジを受け止めて戦って来た日々だったと思うとともに、なかなかその重要さに気づかなかったり、できなかったり、しなかったことを思い出す。今日も、これからも、精一杯、誠実に、主の前を(神と共に神なしに)歩んでいきたい。一つ一つていねいに学んでいきたい。 Judges 9:5 彼はオフラにある父の家にやって来て、自分の兄弟であるエルバアルの息子七十人を一つの石の上で殺した。ただ、末の子ヨタムは身を隠したために生き残った。 「エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる母方のおじたちのもとに行き、母の実家に属する氏族全員に告げた。」(1)から始まっている。最近、アラビア語、現代ヘブル語を少しだけかじって、その言語の近さに驚いているが、メレクは王であることも知った。アビメレク(אֲבִימֶלֶךְ - 'ăḇîmeleḵ - Abimelech = "Melek is father" or "my father is king")の名前は、通常は、ギデオンに引き寄せられて、父は王と訳されるが、アビメレクという名前は聖書に多く現れ、後ろから形容するので、直接的な意味は「王の父」である。呼称かもしれないが、ギデオンが「父は王」という名前を子につけるだろうかとも考えた。なお、ヨタム(יוֹתָם - Yôṯām - Jotham = "Jehovah is perfect")。上に引用した1節や5節からも、母が異なる子どもがたくさんいたのだろう。族長としては、別に珍しいことではなかったろう。しかし、やはり、問題を引き起こしている。これも、ギデオンが向き合うべき課題だったろうか。ある程度は、生前にわかっていたはずでもある。士師記は、それぞれが自分勝手に(自分が信じる生き方で)生きている時代だったとも言える。英雄に救われることもあるが、長く見ると問題ばかりであることが書かれているとも言える。編集なのか、現実なのか。おそらく両方だろう。 Judges 10:16 彼らは異国の神々を自分たちの間から取り除き、主に仕えるようになった。主はイスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。 非常にナイーブ(素朴)な記述・神理解である。士師記記者の神観とも言えるが、この時代を評価することばだとも言えるかもしれない。その意味でも、これを不変・普遍の真理と取るには問題もある。この章では、まず、イッサカル人トラ、そしてギルアド人ヤイルとその後が中心で、11章のエフタにつながっているようだ。ギルアドに焦点が移動するが、ギルアド人と書かれ、12部族名は記されていない。ヨルダンの東の地区、ルベン、ガド、マナセの半部族は、すでに、アンモンなどの影響のもと、明確な部族の独立性はどの程度存続していたのだろう。このあとの記述で確認していきたい。 Judges 11:28 しかし、アンモン人の王は、エフタが送ったこの言葉を聞き入れなかった。 歴史解釈の難しさを物語っている。エフタが語ったことはひとつの真理だったろうが、アンモン人の見る歴史ではなかったということだろう。ギルアドは創世記(31,37章)に地名として現れる。「マナセの一族は、マキルとマキル家の氏族。マキルはギルアドをもうけた。ギルアドとギルアド家の氏族。」(民数記26章29節)「ルベンの一族とガドの一族は多くの家畜を持っており、それはおびただしい数に上った。彼らがヤゼルの地とギルアドの地を見ると、そこはまさに家畜を飼うのに適した場所であった。」(民数記32章1節)とあり、さらに「モーセは、マナセの子マキルにギルアドを与え、そこに住まわせた。」(民数記32章40節)とある。正確にはわからないが、地名とマナセの子、マキルの子、ギルアドと、両方書かれていることを確認しておく。聖書協会共同訳では、エフタの娘に関する記述が和らいでいる。犠牲として献げたことを想像させる記述から、請願通り、一生処女でいたことを思わされる記述になっている。あまり解釈を明確にさせるのは、良くないかもしれない。やはり Study Bible と言えるような、他の訳し方についても、併記したものが個人的には望ましいと思う。わからないのだから。それがこの訳の方針「礼拝で読まれるのにふさわしい」ということなのだろうが。 Judges 12:7 エフタは六年間イスラエルを治めた。ギルアド人エフタは死んで、ギルアドの町に葬られた。 「イスラエルを治めた」がこの章には、7, 8, 9, 11, 13, 14 節と5回書いてある。イスラエルの地の部分的な統治のように思われるが、士師記記者としては、イスラエルを治めたと書く必要があったのだろう。なぜだろうか。だれかが、リーダで、一つにまとまっていたことは、継承されていたと証言するためだろうか。ただ、エフタと、エフライムの戦いは、熾烈である。当時、エフライムの兵力がどの程度であったかわからないが、殺された(倒された(6))のが、4万2千人とある。民数記での二度目の登録では、エフライムは、32500人である。(民数記26章37節)殆ど全員だとは、思えないが。 Judges 13:12 マノアは言った。「あなたのお言葉どおりになりましたら、その子が守るべきことや、なすべきことは何でしょうか。」 なにか、マノアがオロオロしている感じが微笑ましい。ナジル人の誓約が守るべきことであることは、理解しただろう。もう少し、他に聞き方はあったように思う。でも、「わが主よ。どうぞ、あなたが遣わされた神の人をもう一度私たちのもとに来させ、生まれてくる子に何をすべきか教えてください」(8)とともに、謙虚でもある。なにか、かえって、新鮮味を感じる。それが「不思議」(18,19)につながっているように思われる。 Judges 14:10,11 サムソンの父がその女のもとに下って来たとき、サムソンは若者たちの習慣に従って祝宴を催した。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れて来てサムソンと同席させた。 いままであまり気に止めなかったことが2つあある。一つ目は、サムソンの自由さである。イスラエルの中だけに閉じこもらる、外界のことに興味も多かったのかもしれない。15章2節にサムソンの友人という言葉も出てくる。なんども、ティムナに行っていたのかもしれない。また、引用箇所では、単に、若者たちの習慣に従ったサムソンを見て、人々は、負担をかけるために、三十人の客を同席させたのかもしれないと思った。微妙なやりとりがあるように思われる。その仕返しもあっての謎かけかもしれない。武勇伝・英雄伝として、語り継がれるなかで、興味深い話になっていったのかもしれない。むろん、士師記として伝える内容はあるのだろうが。 Judges 15:6 ペリシテ人は言い合った。「こんなことをしたのは誰だ。」「ティムナ人の婿サムソンだ。サムソンの妻が友人のものになってしまったからだ。」ペリシテ人は攻め上り、女とその父を火で焼き滅ぼした。 この女と父もペリシテ人であるから(14:1)仲間割れも招いたということだろう。サムソンがどの程度考えてしかけたのかは不明だが、ユダがペリシテ人に支配されているときに(11)驚くべきことで、これをもって「ペリシテ人の時代に、サムソンは二十年間イスラエルを治めた。」(20)と記しているのだろう。パレスチナの語源ともなったペリシテ人、海洋民族のフェニキア人の流れと言われているが、高度の文明をもっており、牧畜・農耕を生業としていたイスラエルとは、文明的に大きな差があったと思われる。このような差から生じる支配・被支配も歴史的には、様々な形で生じた、難しい問題で、現在も形を変えて、存在している。公平さは、ほんとうに難しい。 Judges 16:4 その後、彼はソレクの谷にいる女を愛した。女の名はデリラと言った。 相手の名前が書かれているのは、このデリラが最初であり、他では「彼女のもとに入った」(1, なお14:3 では「(見て(14:2))気に入った」)ここには「女を愛した」とある。記述の仕方も変えている。愛の関係の中で起こったこととして、神に献げられたものとについて、書かれているのが枠組みだろうが、なにかを教訓として教えるものではないのだろう。最後の「彼は二十年間イスラエルを治めた。」(31b)からも、この表現が必ずしも、通常の意味での統治を意味するのではなく、ある時代の英雄として描かれていることがわかる。なお治めるは שָׁפַט(šāp̄aṭ - to judge, govern, vindicate, punish)新共同訳は「裁いた」口語訳は「さばいた」。何でも、教訓に結びつけるのは、かえって危険でもある。 Judges 17:6 その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。 同じ表現がもう一度、21章25節に登場する。数は少ないが、士師記後半のキーワードのように思う。おどろくような、そして、正視できないような事件が二件書かれている。その最初の物語の序章である。2節の「銀千百シェケル」は、ペリシテの領主たちがデリラに約束した額(16章5節)と同じである。この章にもう一回現れるが、聖書全体でもこの三箇所のようだ。数の符合は気にすると、中心から外れることがあるので、注意を要するが、気づいたので書いておく。1シェケルは、11.4g。価値は簡単には、測れないが、この章の記述から、一生暮らすのに十分なお金だったのだろう。ローマ通貨では、デナリ2枚として、兵卒の2200日分の給与。2200万円ぐらいか。「今や、主が私を幸せにされることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」(13)このミカのことばから、少し、一般の人の価値観が見える気もする。引用句をどうとるかにも関係するだろうが。 Judges 18:7 五人は歩き続け、ライシュにやって来た。彼らが見ると、その地の民は安らかに暮らしており、シドン人のように静かで無防備であった。その地には人を辱め、虐げる権力者はなく、シドン人から遠く離れ、どの人とも交渉がなかった。 ライシュは理想郷のようにも思うが、おそらくそうではないのだろう。安らかで無防備の反対は、常に危険が迫り戦いの準備がされていることか。人を辱め、虐げる権力者がいることの中で、錬られることも多いのかもしれない。アラブの春とその後を見ていると、虐げる権力者を倒し、民主的な体制になることが、問題を解決すると考えるのは間違いなのだと思う。民主的な統治は長い歴史の中で、選択するようになったセカンド・ベストのようなもので、他よりは酷くはない程度のことなのだろうから。我々はどのような生き方をすればよいのだろうか。よく見ると問題・課題ばかりのこの世において、誠実に課題と向き合い生きようとすれば、戦いを常に意識することになるのだろう。だからこそ「あなたの敵を愛しなさい」が生き生きとしてくるのかもしれない。理想郷に見える状況は、単に、周囲が見えていない、見ていないだけなのかもしれない。むろん、だからといって、ダンの部族の乱暴なやりかたが正当化されるわけではない。しかしこれも、割当地が公平に与えられていなかったことが背景にあるとも言える。そこから遡れば、やはり我々は、課題ばかりの世界に生きていることもわかり、正当性の判断はとてもむずかしいことも見て取れる。 Judges 19:22  彼らがくつろいでいると、突然、町の男たち、町のならず者たちが家を囲み、戸を叩いて、家の主人である老人に言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」 「男色」のことを言っていると思い、いままで読んできたが、おそらく、「辱め、朝まで一晩中弄」(25)ぶことを言っているのだろう。嬲り者にする(人をからかったり苦しめたりして喜ぶこと)もしかすると嬲り殺し(すぐに殺さないで,苦しめながら殺すこと)だったかもしれない。この章の最初は「その頃、イスラエルには王がいなかった。」(1a, 18:1参照)から始まる。側女の父とこの男とのやり取りをみても、このあとのことを見ても、女性が人間として扱われていないように感じるが、おそらく、さらに酷いことととしてこの章の事件を受け取ることが期待されているのだろう。18章のことは、そんなこともあるかもしれないと思えるが、この章のことは、まったく受け入れられない、そう読者に思わせることが士師記の意図なのだろう。王がいない時代のことである。王がいれば解決することではないが、司法がある程度有効になることなのだろうか。 2021.4.18 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  18. BRC 2021 no.018:士師記20章ーサムエル記上8章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、士師記の最後の2章を読み、ルツ記を読み、そして、サムエル記上に入ります。すでに、通読が続かなくなってしまった人、通読自体、諦めてしまっている方おられるかもしれませんが、このルツ記から、列王記上下は、とてもおすすめです。物語としても読めますし、その中に、現代に通じる様々な課題も見え隠れしますし、さらに、文章表現がとても美しい。文章表現というより、ひとをどのように表現するかでしょうか。社会制度や政治体制は、現代とはとても異なり、文化や生活様式、宗教との関係も理解するのは難しいかもしれませんが、それでも、さまざまなことを感じ、受け取ることができるのではないかと思います。ルツ記から読んでみませんか。サムエル記上からでもよいですよ。 すでに書いたように、士師記の最後は、目をそむけたくなるような陰惨な事件、さらに今回の箇所では、イスラエル12部族のうちの一つが消滅しそうになる危機も書かれています。そんなことは、記述しないほうが楽でしょう。なぜそれを淡々と書いているのでしょうか。目をそむけてはいけないこと、次の時代への転換期が描かれているのかもしれません。そしてその「士師たちが世を治めていた頃」(ルツ記1章1節)のひとつのエピソードとして、ルツ物語が書かれています。そんな時代については、知りたくないと思ってしまうかもしれませんが、人々の生活はどのようなものだったかを垣間見ることもでき、楽しめるのではないかと思います。そしてサムエル記上に入ります。特に、上巻は、イスラエルの王制への移行期間のことが書かれていますが、中身は、政治体制のことではありません。みなさんに、まずは、読んでいただきたいので、あまり内容については、書かないようにしています。最初に書いたように、続かなくなってしまった方も、通読をやめてしまった方も、もういちど、始めてみませんか。ルツ記から、列王記上下はおすすめです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 士師記20章ーサムエル記上8章はみなさんが、明日4月26日(月曜日)から5月2日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 士師記、ルツ記とサムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jd ルツ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ru サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。サムエル記上のみなさんが今週読まれるところまでは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Judges 20:4,5 殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私と私の側女は、ベニヤミンのギブアに着いて夜を過ごそうとしましたが、ギブアの豪族たちが私を襲って来ました。夜、私のいた家を取り囲んで私を殺そうとたくらみ、さらに私の側女を辱めて死に至らしめたのです。 19章22節「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」のコメントとして「男色」ではなく「嬲り殺し」のことを言っているのではないかと書いたが、ここでは「私を殺そうとたくらみ、さらに私の側女を辱めて死に至らしめた」とあり、かなり逼迫した状況であったことが証言されている。このあとの戦いで双方で倒れた(「地に打倒した」)者の数が膨大であることに驚かされる。無論、年とともに語り継がれる中で数は変わっていく可能性は否定できないが、まだ鉄器の無い時代(「投石の名手」(16)「剣(おそらく青銅製)と携えた者」(35)の記述もある)で、倒されても簡単には死に至るものだったかは不明である。最後「皆殺しにした」(42)ともあり、原語も詳しく見てみないとわからない。これらの思考の背景には、どうも自分の中には、殺さなければよいかなという思いがあるようだ。一生障害を負うことなど、単に生きているかで判断するのは、不適切でもある。 Judg:es 21:21,22 よく見ていなさい。シロの娘たちが踊りを踊りながら出て来たら、ぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から妻とする者をそれぞれ捕まえ、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。もし彼女たちの父や兄が我々に文句を言いに来たら、我々は彼らに言おう。『私たちに免じて、彼らに憐れみをかけてください。私たちは戦いの間、それぞれ妻をめとることができなかったし、あなたがたも彼らに娘を嫁がせることができなかったからです。嫁がせていたら、あなたがたは罪に問われたでしょう。』」 ほんとうに乱暴である。単純に現代のそれもある地域・人々の価値観を適用することには、気をつけなければならない。しかし、意思決定と運用には、それに関わるすべてのひとが関わることが望ましい。こどもなど、それが困難な場合はあるが。同時に、このように一部の人(ここでは男性の指導者たち)の意思が極端に強く反映される背景には、価値観が狭く、評価項目(たいせつにすべこと)が少ない(認識されず多様性も受け入れられない)という面もあるのだろう。難しい。 Ruth 1:1 士師たちが世を治めていた頃、国で飢饉が起こったので、ある男がユダのベツレヘムからモアブの野に身を寄せようと出かけて行った。妻と二人の息子が一緒であった。 「士師たちが世を治めていた頃」は短くはないだろうが、あまり落ち着いた時代ではなかったろう。そのなかで、ダビデ(ルツは曾祖母)の家系を描いた物語として書かれたのだろうが、人々の生活が描かれているのは興味深い。(4:18-22)引用句からも、家族でモアブに逃れたことがわかる。「アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。」(申命記23章4節)がこの当時どの程度有効だったかは不明であるが、偏見を持っている人は十分いただろう。その意味で「私は満ち足りて出かけて行ったのに/主は私を身一つで帰されたのです。/どうして私をナオミ(快い)と呼ぶのですか。/主は私を痛めつけ/全能者は私に災いを下されたのです。」(21)は、極端な表現で、冷静であるとは言えない。「それはいけません、娘たち。あなたがたよりも私のほうがはるかにつらいのです。主の手が私に下ったのですから。」(13b)も、おそらく視野が狭くなってしまっているのだろう。それが苦しみの表現だとも言える。 Ruth 2:8,9 ボアズはルツに言った。「よく聞きなさい、娘さん。よその畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから移ったりしてはいけません。召し使いの女たちのそばを離れず一緒にいなさい。刈り入れをしている畑に目を留めて、彼女たちの後に付いて行きなさい。私は僕たちに、あなたの邪魔をしないように命じておきます。喉が渇いたら水がめのところに行って、僕たちが汲む水を飲みなさい。」 「よそ者」(10)に対しても、「よその畑でいじめられずに済」(22)むように、ボアズはルツに語り、ルツを理解しようとし(14,15)親切にし(14)、僕たちにも命じている(15,16)。これが、「隣人となる」(ルカ10章36節)ことである。愛は、単なる行為ではなく、「主があなたのそうした行いに報いてくださるように。あなたがその翼のもとに逃れて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(12)と神と共に生きるもののひとりとして、互いに愛し合うものとなるように、少しずつ関係を築いていくことのように思う。応答を得るには時間がかかるとしても。無私の愛、犠牲的な愛と美化されるものとは、少し違うように思う。 Ruth 3:10,11 ボアズは言った。「あなたは主に祝福されるように。娘さん。この度のあなたの誠実さは、以前にも増して尊いものです。あなたは貧しい者であれ、富んでいる者であれ、ほかの若い男たちの後に付いて行くことはしませんでした。さあ、娘さん、心配することはありません。願うことは何でもしてあげましょう。あなたが立派な女性であることは、町の住民なら誰でも知っています。 美しく描かれている。いろいろな意味で十分な才能のあるひとが関わっているのだろう。現代の目からみるといろいろと問題も感じるだろうが、ルツ個人のすばらしさが本人の行為だけでなく、他者の証言によって書かれている。ボアズの描き方も同様である。ある当時の宗教・習慣・文化・社会的な枠組みの中で輝いて見える。それが、周囲に影響しあっている。それが祝福に満ちた豊かな人生だと描いているのだろう。現代ならそのようなことをどのように描くだろうか。 Ruth 4:6 するとその親戚の人は言った。「私には買い戻すことはできません。私が先祖から受け継いだ地を損なうことになります。親戚として私が果たすべき責任はあなたが果たしてください。私は買い戻すことはできません。」 背景は不明であるが、ナオミの夫のエリメレク(1:2)が土地を売った状態にあるのだろう。しかし、それを、買い戻す権利は、近い親戚に残っていたということか。民数記27章などにあるツェロフハドの場合は娘のみということで、嫁のみということとは多少ことなるが、その家系を大切にするということとは関係しているのかもしれない。すると、(この親戚の身代である)ある富を犠牲として支払って買い取った土地が、自分の家系の名前では呼ばれず、親戚の名前で呼ばれることをここで言っているのか。ドラマならハラハラする場面であるが、ボアズはよく習慣も知り、司法的な知識も持っていた、立派な人として描かれているということだろう。 1 Samuel 1:12-14 ハンナが主の前で長く祈っているので、エリは彼女の口元を注意深く見ていた。ハンナは心の中で語っていたので、唇は動いていたが、声は聞こえなかった。エリは彼女が酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」 誤解が最初にかかれている。しかし、人間は、基本的に他者の気持ちを、こころを受け取ることができないので、当然といえば当然である。しかし、物語が、動き出すのは、声をかけたことである。まさに、誤解のことばだが、このことばをかけなければ、このあとのやり取りもなく、エリの「安心して行きなさい。イスラエルの神があなたの願いをかなえてくださるように。」(17)もその応答としての、「あなたの仕え女が恵みにあずかれますように。」(18a)もなく、すなわち、「それからそこを離れて、食事をした。彼女の表情はもはやこれまでのようではなかった。」(18b)のような変化も生じなかったろう。関係構築は、誤解から、不器用に始まるかもしれないが、それこそが、たいせつなのかもしれないと思った。 1 Samuel 2:30 それゆえ――イスラエルの神、主の仰せ――私は確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえに私の前に歩むと言った。しかし、今は違う――主の仰せ。私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。 神の自由意志が表明されているのだろうか。ちょっと不思議にも感じる。主の前を歩むのは、全員ではないのだろうか。たしかにそのようには見える。主は最終的に、何を望んでおられるのだろうか。計画はされないのだろうか。痛みは、共有してくださるようだが。 1 Samuel 3:9 サムエルに言った。「戻って休みなさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って、元の場所で寝た。 私の家には Sir Joshua Reynolds の The Infant Samuel の絵がかかっておりそれを見て育った。「しもべ聞く、主よ語り給え」(文語)と言って祈っている「幼き祈り」とか「祈るサムエル」と呼ばれる絵だと父は説明していました。いつも名前がはっきりしない絵だったので今回調べてみてわかった名である。わたしは、日常的に頻繁に熱心に祈るわけではないが、祈りにおいて、いつも、この姿を思いだす。エリとの関係が美しく描かれている。おそらく「サムエルは成長し、主が彼と共におられたので、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでイスラエルの人々はことごとく、サムエルが信頼するに足る主の預言者であることを認めた。」(19,20)と書くまえのエピソードなのだろう。今でも、このように、主に聞くことを祈りにおいては、たいせつにしたいと願っている。「祈りはかみさまのこころとのシンクロナイゼーション」とわたしは何度か言っていたが、どのように表現するにしても、主との交わりに招かれていることを覚えて、主の前で祈ることをこれからも求めていきたい。 1 Samuel 4:7,8 彼らは神が陣営に来たのだと言い合いながら、恐れて言った。「大変なことになった。このようなことはついぞなかった。大変なことになった。一体誰が、この偉大な神の手から我々を救い出すことができるというのだ。これは、荒れ野においてあらゆる災いをもってエジプト人を打ったあの神だ。 歴史を科学的に調べる必要があるが、一般的に言われているのは、ペリシテ人(Philistines)は、フェニキア人で海洋民族で鉄器の使用など貿易で獲得した高度の文明を継承していたようで、イスラエル南部の海岸に近い地域に、紀元前12世紀 頃、都市を建設したり、植民したとされ、紀元前604年頃、ネブカドネザルに滅ぼされるまで続いたと言われている。初期のイスラエルのような、遊牧・牧畜民も移動が多く起源を特定しにくいが、海洋民族については、なおさら移動や土着化もあり、正確に、起源を特定することは困難のようだ。商取引で交流も多く、単一民族として純潔を保つことの正反対と言ってもよい存在だったかもしれない。科学的とは言えないが、引用句も興味深い。情報を正確に分析しつつ、それにどう立ち向かうかを考えている。一方、イスラエルは内面化はしているが、世界の理解については、どうみても十分とは言えない。我々はどうだろうか。キリスト教に限らず宗教では内面化が重要視されるが、(国や民族のではなく世界の)創造主信仰を重視するなら普遍性に目を向けること、世界全体をみること、科学的に考えることも、重要なはずである。 1 Samuel 5:11,12 彼らは人をやってペリシテ人の領主全員を集め、相談した。「イスラエルの神の箱を送り返し、元の場所に戻ってもらおう。そうすれば、私と私の民は殺されはしないだろう。」町全体が死の恐怖に襲われ、神の手がそこに重くのしかかっていたからである。死を免れた人々も腫れ物で打たれ、助けを求める町の叫びは天にまで達した。 アシュドドでも「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災いをもたらす。」との声が記録されている。このようなことが、神の箱に特別な魔力があったのか、神の介入による奇跡だったのか不明である。しかし、この人々の感覚・信条が背景として大きく影響していることは事実だろう。現代では、やはりこのようなことは起こらないように思う。そして、この記述を読んだ人も、それを素直に受け取ることができたのだろう。疑問に思う人もいたかもしれないが。そのような背景のもとでのメッセージである。真理は変わらないが、伝え方は、伝える相手に依存するので、普遍性はない。そのなかから、普遍的なメッセージを読み取るのが、たいせつなのだろう。現代ならどのように、表現するだろうか。他者(イスラエル)がいのちのようにたいせつにしているものを奪い取り、ぞんざいにあつかうことは、逆の立場にたつと、あってはならないこと。信条は、ひとりひとりの尊厳にも関わることだから、尊重しなければいけないと気づいたかもしれない。それが、争いが減る方向につながればよいのだが。 1 Samuel 6:4,5 ペリシテ人は言った。「それでは、返すにあたって、償いのいけにえには何がよいのか。」彼らは答えた。「同じ災いがあなたがた全員とあなたがたの領主に下ったのですから、ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金の腫れ物と五つの金のねずみにするとよいでしょう。腫れ物の像と地を荒らすねずみの像を造って、イスラエルの神に栄光を帰すなら、恐らくイスラエルの神は、あなたがたとあなたがたの神々、そしてあなたがたの地に重くのしかかっているその手を引いてくださるでしょう。 これをくだらないと思ってはいけない。黄金律とも言われる「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章12節)を実践したと理解するべきだろう。これは、それをすれば満点というような完全解答を示す黄金律ではなく、このようにすることが真理に近づく、不完全な人間の道だと示しているのだろうから。やってみながら、相手を理解し、真理に近づき、神の御心のほんの一部を理解していくのだろうから。 1 Samuel 7:13 こうしてペリシテ人は屈服し、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの生涯にわたって、主の手がペリシテ人を抑えていた。 「サムエルは生涯にわたってイスラエルの人々を治めた。」(15)とあり、サムエルを士師としても描いている。預言者であり、士師。この特別な存在を経て、王制へと移行していくことがここに語られているのだろう。ペリシテとの戦いはこのあとも続く。サムエルの時代、ある年月を経て「イスラエルの家は皆、主を慕い求めるようになっていた。」(2)と書かれている。歴史の解釈は難しい。科学的認識とは、かなりかけ離れたところにありながら、人間の行動様式を定めるものとしても、重要なのだろう。わたしは、まだよくその関係を理解できていない。内省はどのあたりに位置するのだろうか。 1 Samuel 8:7 主はサムエルに言われた。「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。 とてもむずかしい。宗教がすべてに先立っていた時代、それが平和な、良い時代だとは言えないだろう。「彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ。」(8)ひとは、常に信仰的に生きることはできないのだから。社会体制を整えることは、そのような人間社会の知恵だとも言える。かなり、方向性はことなるが、これも、科学的認識と信仰と対立するものではないが、特徴的な違いのように思われる。上の考察によると、人間の性質を理解することも背景にあることになる。それは、科学的認識でありながら、信仰の部分を侵食するように思われる。「今は彼らの声に聞き従いなさい。ただし、彼らに厳しく命じ、彼らの上に立って治める王の権利を知らせなさい。」(9)は、社会体制を整えるところに、完全な解決があるわけではないよということなのだろう。 2021.4.25 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  19. BRC 2021 no.019:サムエル記上9章ーサムエル記上22章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ルツ記はどうでしたか。今週は、サムエル記上を読み進めます。サムエル記は、サムエルが油を注いだ二人のひと、サウルとダビデの時代について書かれています。この時代は、部族連合から、王制への移行期間という面も持っています。サウルとダビデと書きましたが、物語は、かなりの部分ダビデを中心にかかれているようでもあります。しかし、周囲のひとたちについても、丁寧に書かれています。単にヒーローの素晴らしさを称えるものではないようです。サムエル記記者が伝えたかったこともあるのでしょうが、もしかすると、サムエル記記者も、あれはどういうことだったのだろうかと、考えながら書いているのかもしれません。現実の世界は複雑で、ひとつの見方で理解したつもりになると、たいせつなことを、見逃してしまい、しばらくして問題を引き起こすこともあるように思います。サムエル記記者の目を通してみたことではあっても、ていねいに書くことで、様々な要素があることを伝えているように思います。 章ごとにまとめた頁をすこしずつ作っています。実は、以前は、ルーズリーフノートに聖書の章ごとにわけて、毎回の通読で感じたこと、考えたこと、すなわち、この下の方に書いてあるようなことを書いていました。すると、何かを書こうとするときに、前回読んだときに書いた箇所、その前に読んだときに書いたことなど、いくつか目に入り読んでから書くこともしばしばありました。みなさんに、聖書ノートを送るようになってから、電子的なノートにすこしずつ移行し、いまは、紙媒体のノートは使っていません。しかし、上に書いたような、振り返りもしながら、通読ノートを書くことが意味があると強く感じ、それを、形にしたのが(BRC を始めていこう、最近4・5回分だけですが)この章ごとにまとめたものです。特に、サムエル記に入ってから、それを見返すようになりました。一章ごとに、考えたいこと、書きたいことが、様々にあり、それを整理してから書きたいとの思いもあるからです。むろん、日常生活のなかで、なかなか時間がとれないこともありますが。わたしは、それだけ、このサムエル記は濃いのだと思っています。ダビデは、優等生で、ヒーローで、神様や人々に愛された人なのね、と簡単に読もうとすると、受け取れないメッセージがたくさんあると思いますよ。サムエル記記者は預言者集団だとも言われていますが、ほんとうに、すごいなと、驚きながら、そして、考えさせてもらいながら、読んでいます。振り返りもしながら。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記上9章ーサムエル記上22章はみなさんが、明日5月3日(月曜日)から5月9日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。サムエル記上までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1 Samuel 9:19 サムエルはサウルに答えた。「私がその先見者です。あなたはまず高き所に上って行き、今日は私と一緒に食事をしなさい。明朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にあることをすべてお話しします。 サムエルはサウルを見てこれとわかるが、サウルは先見者がわからない。興味深いことは「あなたの心にあること」という部分である。おそらく、それも、サウルにはわかっていないだろう。とすると、それは、サムエルに近い方、主が心に置かれたということを指しているのだろうか。それを汲み出すという考え方は表現としては、一般的だったのだろうか。以下の言葉を思い出した。「人の心にある企ては深い水。/英知ある人がそれを汲み出す。」(箴言20:5)「心にあることは何でも行いなさい。主はあなたと共におられます。」(2サムエル 7:3)これは、預言者ナタンがダビデに言った言葉である。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」(申命記8:2)「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。」(申命記30:14, ローマ10:8で引用)「心にあること」というのは、一つの慣用表現なのだろう。 1 Samuel 10:25 サムエルは王の権利について民に語り、それを書に記して、主の前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれ自分の家に帰した。 ここで言われている王の権利については8章11-18節に書かれている。徴兵や徴用、税の徴収、統治のための管理体制の設定などが書かれていて、最後に「こうして、あなたがたは王の奴隷となる。その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない。」(8章17b, 18)とある。この部分は含まれないであろうが、このような制度がそれまではなかったことも意味する。モーセのころはある程度整っていたとしても、部族ごとに別れてしまっているときは、効力を発揮する制度はなかったのだろう。そのような制度はなくてもよいのだろうか。人間の性質を考えると、そうも思えない。政治制度・体制は永遠の課題とも言えるほど困難である。非常に多くの因子が関係しており、目指す方向も、ひとつには定まらないからだろう。神様が愛しておられる一人ひとりの尊厳をたいせつにする以上。そして、人間は、孤立した存在ではなく、社会的存在であると同時に、それも、一部で、人間を規定することはできないのだから。 1 Samuel 11:12,13 民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言った者は誰であれ引き渡してください。我々は彼らを殺します。」しかしサウルは言った。「今日は誰も殺されてはならない。今日、主がイスラエルのために救いの業を行われたのだから。」 このあとには、サムエルがサウルを正式に王に任職する記述が続く。サウルに関する唯一の成功体験かもしれない。そう考えると、この前の記述も注意して書かれているように思われる。「声を上げて泣い」(4)ている民からその理由を聞き「それを聞くや、神の霊がサウルに降り、彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえて切り分け、それを使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。『サウルとサムエルに従って出陣しない者があれば、この牛のようになる。』主への恐れが民に広がり、彼らは一斉に出て来た。」(6,7)も、かなり感情的に書かれている。このあとの「サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルの人々が三十万、ユダの人々が三万であった。」(8)も多少の伏線があるのかもしれない。ギレアドのヤベシュは聖書地図によると、ガリラヤ湖と死海のほぼ中程ヨルダン川から遠くないところにある。ユダの本拠地の南部の山地とは多少距離があるが、ユダとそれ以外と書く理由があったのだろう。割合としては少なくないが、いままで先陣を任されたことが多いユダの記述としては少ないのかもしれない。 1 Samuel 12:16,17 今こそしっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今日は小麦の刈り入れの時ではないか。私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。それを見て、自分たちのために王を求めたことが主の目にどんなに大きな悪であったかを知るがよい。」 「主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見」そして主について「知り」、自らの悪について「知る」ことがとてもたいせつだと私も思っている。しかし実際には困難である。心の目で見なくてはいけないし、神の業として見抜きにくい。すべてが神の業というなら何も見ていないのと同じである。ここでは、「私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。」直後に起こることを示している。「今日は小麦の刈り入れの時ではないか。」が何を意味しているのか不明である。もしかするとそのときには、雨は降らないのかもしれない。ヨシュア記3章15節には刈り入れ期にはヨルダン川の水があふれるほどになっていることが書かれている。それより少し前に雨が多いということだろうか。現在のデータなら調べられるので今度調べてみよう。それほど長い川ではないが、乾燥地でもあるので、雨の時期は重要だったかもしれない。この章のサムエルのメッセージは興味深い点が多い。普遍的真理というより、サムエルがこれこそ主に従う道として誠実に歩んできた道なのだろう(3,23,24)。そこで主の働きを見ながら。主に従っているとはいえない息子たち(8章2,3節)を、民の側においてのメッセージということも感慨深いし、22節も印象深い。 1 Samuel 13:1,2 サウルは三十歳で王位につき、十二年間イスラエルを統治した。さてサウルはイスラエルから三千人を選んで、二千人は彼自身と共にミクマスとベテルの山地にとどめ、千人はヨナタンと共にベニヤミンのギブアにとどまった。残りの民はそれぞれ自分の天幕に帰らせた。 王の権利として最初に語られていた徴兵・徴用のことが書かれている。常備の軍が編成されたということだろう。1000人規模の軍をもてば、小さな争いにおいては、勝利できる。常に略奪など、圧迫を受けていたと思われるから、その意味では、ヨナタンが実践したように、王制は即効性がある。しかし、巨視的(macroscopic, holistic view)でみると、経済や技術的な側面も、鍛冶屋のことから書かれているように、複雑に絡み合っており、地勢的にみても、山地に済むイスラエルと、海岸沿いの平地に住むペリシテでは、様々な違いがあったろう。しかし、サムエル記記者は、いけにえを献げ、「主に願い求め」(12)ることは王のすべきことではないと責めているようである。理解は困難である。ただ、王制にすれば問題は解決するという見方は、近視眼的であることは、確かだろう。3節の「ヘブライ人よ、聞け」におけるヘブライ(עִבְרִי ʿiḇrî: one from beyond よそ者)の使い方に違和感を感じた。 1 Samuel 14:47,48 サウルはイスラエルに対する王権を握ると、周囲のすべての敵、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、そしてペリシテ人と戦った。向かうところ敵なしであった。彼は勇気を奮ってアマレクを討ち、イスラエルをその略奪者の手から救い出した。 サウルについて問題なエピソードが中心にかかれているが、ことは、それほど単純ではないのかもしれない。このあともふくめ、サウルの物語は複雑である。あまり簡単に、結論を引き出そうとしないほうがよいのだろう。サムエル記記者の見方はあるのだろう。「しかし今となっては、あなたの王権は立ち行かない。主は御心に適う人を求められ、その人をご自分の民の指導者として任命される。あなたが主の命じられたことを守ろうとしなかったからである。」(13 章14節)から、ダビデへと向かう過渡期との表現と考えるべきか。ダビデの友人ヨナタンの描き方には、注意が払われている。特にこの章は複雑である。もう少していねいに読んでみたい。 1 Samuel 15:35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルに会うことはなかった。サムエルはサウルのことで悲しみ、主はサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。 この章も文学的にもよく書かれている。「イスラエルの栄光である方は、偽ることも悔いることもない。人ではないので、悔いることはない。」(29b)と対比されている。サムエルは、サウルの故に、主と苦しみをともにしたのだろう。あたかも悔いているように。しかし、すでに、背後で、少なくとも、サムエル記の物語は進んでいる。アマレクのことは、サウルが悔い改めるチャンスだったのかもしれない。22, 23 節のサムエルの言葉も興味深い。「主が喜ばれるのは/焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。/それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。/見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる。/反逆は占いの罪に等しく/強情は偶像崇拝に等しい。/あなたが主の言葉を退けたので/主はあなたを王位から退けられた。」 1 Samuel 16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老たちは不安そうに出迎えて言った。「お出でになったのは、平和なことのためですか。」 なぜ不安そうに出迎えたのだろうか。神を恐れるように、サムエルを一般的に恐れていたのか。「サウルは兵を召集した。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、それにユダの兵士が一万いた。」(15章4節)のユダの兵士が異常に少ないことがすでに背景としてあるのかもしれない。ユダが、サウル王を支持していなかったかもしれない。そして、サムエルは、形式上、サウルの後見人である。サムエルについては、十分認められていたと思われる。不安は、確かではない理由でも起こる。他にも理由が隠されており、様々な背景があったのかもしれない。 1 Samuel 17:45-47 ダビデはそのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に渡される。私はお前を討ち、その首をはね、今日、ペリシテ軍の屍を空の鳥と地の獣に与える。全地はイスラエルに神がおられることを知るだろう。主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される。」 ダビデの言葉かもしれないが、それを採用した事も含めサムエル記記者のメッセージなのだろう。このことをしっかりと心に留めることがたいせつであると同時に、このことばが独り歩きする危険性も感じる。この告白のもと、生きることこそがたいせつなので、このことばを絶対化してはいけない。サウルの「アブネル、あの若者は誰の息子か。」(55)は16章14節から23節の記事とあわせて考えると不思議である。いくつかのエピソードを編集したものの可能性もあるが、文脈からは、その素性を知りたくなったと考えるのも自然なように思った。実際に知っている人について「いったいこのひとは何者なのか」と知りたくなることがあるのだから。 1 Samuel 18:3,4 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を、剣、弓、帯に至るまで与えた。 14章の記事などからすると、ヨナタンは、ゴリアトの挑戦(17章8-10節)に挑戦したかったろう。しかし、王子がそれをすれば、打ち負かされた場合の全責任も被ることになる。その状況を考え、ヨナタンではなく周囲の判断も相まってだろうか、挑戦できなかった可能性もある。そのときに現れたダビデの潔さである。新鮮に映ったことだろう。ヨナタンの愛、そして、サウルの次女で、ダビデの妻となるミカルの愛についても少しずつ見ていきたい。引用句にある「ダビデを自分自身のように愛し」は、上に書いたような、分裂した自分の一部と投影したこころのヒーローだったのかもしれない。この時点でのことである。愛は関係性であり、このあと、どのように愛の関係、二人の交わりが進展していくのかていねいに見ていきたい。ミカルの愛については、この時点ではわたしにはよくわからない。アイドル的な存在だったのだろうか。これについても、ゆっくり見ていきたい。 1 Samuel 19:13 ミカルはテラフィムを取って寝床に横たえ、その頭に山羊の毛で編んだものをかぶせて、それを衣服で覆った。 テラフィムが気になった。通常このことばが使われるときのように、偶像なのだろうか、単なる像なのではないかと。テラフィム תְּרָפִים(tᵊrāp̄îm: idolatry, idols, image(s), teraphim, family idol a kind of idol used in household shrine or worship)。創世記31章19,34,35節で使われているのは、おそらく、家の守り神だろう。士師記17章5節、18章14,17,18,20節でも、それに近いものかもしれない。礼拝に用いている。サムエル記上15章23節は「反逆は占いの罪に等しく/強情は偶像崇拝に等しい。/あなたが主の言葉を退けたので/主はあなたを王位から退けられた。」まさに偶像礼拝なのだろう。ことばは同じものまたはその派生語が使われており、原義は、像だが、ある時代から、厳格化から、イスラエルでは、その言葉は、偶像礼拝に使われるようになったのだろう。ここでは、わからないが、単なる像と考えてよいように思われる。ヨナタンとミカル、サウルの息子と娘である。そのダビデへの愛が描かれている。この二人がいなければ、たしかに、ダビデはサウルに滅ぼされていたのだろう。ただ、ダビデの努力によって、これらの二人がこのようなある意味では危険な行為をしたわけではない。背後に神様がおられるとしか表現できないことなのだろう。 1 Samuel 20:31,32 サウルはヨナタンに激怒して言った。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの息子に目をかけて自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。 エッサイの息子がこの地上に生きているかぎり、お前もお前の王権も安泰ではないのだ。すぐに人をやって彼を捕らえ、私のもとに連れて来い。彼は死ななければならない。」 前半の「心の曲がった不実な女の息子よ。」はサウルに何人か妻がいたことを意味しているだろうが、この次の「自分の母親の恥をさらしている」は、一般的には、同性愛を意味していると思われる。次の部分は後継のことで論理的にも見えるが、思いつきかもしれない。ここでは、事実とは異なる中傷、いわゆる汚いことばで罵ったという部類なのだろう。サウルが精神不安定であることも、見て取れる。ダビデも、ヨナタンも正しさを議論している。(1,8,12,13)隣の席にはアブネル(25)がいるが、このサウルの心を聴いてくれる友はいなかったのだろうか。 1 Samuel 21:12 アキシュの家臣たちはダビデについて言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。人々が踊りながら、/『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った』と歌ったのは、この男ではありませんか。」 王(מֶלֶךְ meleḵ: king)とあるが、基本的には、このあとに地名がつづき、何々の王となる。ここでも、הָאָרֶץ (haʼerets: the land)であるから、国の王を考える必要はないのだろう。ある地域の長であれば、おそらく、族長もある程度大きな部族なら、王だったかもしれない。なお、アヒメレク('ăḥîmeleḵ = "my brother is king" or "brother of Melek")は、王の兄弟である。この章の記事は、マタイ12章3,4節、マルコ2章25,26節、ルカ6章3,4節でも引用されている。イエスのダビデの行為引用は二箇所のみだと思うがその一箇所である。イスラエルの人々の認識と異なり、ダビデを高く評価していない、またはダビデと結び付けられることに注意していることを感じる。後に現れる、火種(ドエグのことなど)が書かれている。ダビデにとっても、非常に難しい状況だと思った。 1 Samuel 22:5 やがて預言者ガドが、「要害にとどまっていないで、ユダの地に出て行きなさい」と言ったので、ダビデはハレトの森に移った。 サムエル記下24章11節のダビデの晩年の記事に、ガドが現れ、歴代誌上29章29節には『予見者ガドの言葉』が現れる。同じガドと思われるが、歴代誌はこれら2つの記事を利用しただけかもしれない。ここの記述は、よく意味がわからない。この章には、ダビデのきめ細かな家族への配慮・対応が書かれ、アヒメレクの家族については、ドエグのことで懸念を持っていたが対応しなかったことを悔いるような表現(22)がある。ひとの配慮は十全とはいえないとも言えるが、やはり困難な時期だったことは確かだろう。また、ダビデの兄(弟)は、17章28節で、ダビデの行為に、批判的な発言をしているが、一般的にも弟に仕えるのは、単純なことでは無いだろう。しかし、危険を避けるためであったことは、十分伝わってくる。 2021.5.2 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html 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  20. BRC 2021 no.020:サムエル記上23章ーサムエル記下5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) サムエル記はいかがですか。今週、上巻を読み終り、下巻に入ります。サウルの勢力が衰退していき、ダビデが王となることが書かれています。そして、サムエル記上25章冒頭に短く、この二人に油を注いだサムエルが亡くなったことが書かれています。サムエル記となっていますが、サムエルが書いたわけではなく、おそらく、サムエルが油を注いだ二人の指導者の記録なのでしょう。サウルは「残念な王様」ダビデは「イスラエルの星・英雄・(ちょっと失敗はあったが)模範的な王・信仰者」と捉えられるかもしれませんが、それほど単純ではないようにも思います。ダビデ中心に書かれている部分が多いですが、英雄として描いているのとはすこし異なるようです。丁寧に描くことで、様々なことが浮き上がってくる。おそらく、サムエル記記者の人間理解と神信仰の深さとが、背景にあるのでしょう。 何度か書いていますが、わたしは、少なくとも旧約聖書の中では、サムエル記上下、列王記上下が一番好きです。その中でもサムエル記が好きですが。読めば読むほど味わいが出てくるように思うと同時に、わたしの日常とも関係することがとても多く、通読のとき、毎回毎回、考えさせられることが多く、かつ、井戸からいくらでも汲み出すことができるような、新鮮さを常に感じるからかもしれません。むろん、現代とは、背景や設定はかなり異なるのですが、それも、サムエル記記者の人間理解と神信仰の深さの故、時代を超えた通時性、多くの人に関係する普遍性、そして、背後におられる神様は同じだという不変性でしょうかを感じることができ、そして、そこから学ぶことが多いからでしょうか。もし、できることなら、ダビデやサムエルではなく、サムエル記記者(集団かもしれませんが)と語り合ってみたいと思っています。そのような願いを持って読んでいるということでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記上23章ーサムエル記下5章はみなさんが、明日5月10日(月曜日)から5月16日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記上とサムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#sm1 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。サムエル記下の今週の箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1 Samuel 23:9 ダビデはサウルが自分に危害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに、「エフォドを持って来なさい」と言った。 ダビデが最初のケイラのときのように(1-5)単に自分で主に問うことをせず、エブヤタルを通して主の御心を問おうとしている。ここでエブヤタルはウリムとトンミムでうらないのようなことをして、皆に、主からの指示を伝えたのだろう。しかし、引用句にもあるように、「ダビデはサウルが自分に危害を加えようとしているのを知り」とあり、情報は持っていたようである。ケイラのときは、部下の反対を押して、自分が主から受け取ったと信じることを行っているが、今回は異なる。同時にエブヤタルの責任も重大である。主への信頼とともに、十分な情報分析もしていたのだろう。これらは、矛盾することではないと思う。自らのすべてを用いて、主に問い、信頼して生きていきたい。主は、様々な方法で、御心を知らせておられるのだろうから。 1 Samuel 24:6,7 だがその後でダビデはサウルの上着の端を切り取ったことを後悔し、部下の者たちに言った。「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ。」 部下も「主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、この時のことではありませんか。」(5)主のことばを引用している。「それで」(5)とあり、ダビデもその判断に従ったあとの言葉が引用句である。「どうか分かってください。私には悪意も、背く意志もありません。あなたに対して罪を犯しておりません。」(12b)との整合性は難しいが、ひとつのことだけで、自分を納得させてはいないことも確かだろう。そして、全体として、自分の態度を示しているのだろう。ひとは、完全ではありえない。ここでも、ダビデを評価するとともに、揺れがあったことも、認識すべきだろう。このようなことを経験しながら、神理解が深まっていくことを願いたい。 1 Samuel 25:29 ナバルが死んだと聞いて、ダビデは言った。「主はたたえられますように。主は、ナバルが加えた私への恥辱に裁きを下し、僕に悪を行わせず、ナバルの悪をナバルの頭に返された。」ダビデはアビガイルに人を遣わし、彼女を妻にしたいと申し入れた。 様々な要素が書かれており、簡単には判断できないが、ダビデの行為(の記述)について問題も感じる。「あなたの判断はたたえられ、あなた自身もたたえられるように。今日、あなたは私が自ら手を下して、血を流すことのないように引き止めてくれた。」(33)とも言っており、ダビデも様々な見方ができたとサムエル記記者は書いているのだろう。この章を、自業自得、(ダビデの妻となる)賢いアビガイルと取ることは可能だが、本当にそのように単純なのだろうか。サムエル記記者は、そうは考えていなかったかもしれないが、引用句を見ると、一応、このように結論しているのだろう。ナバル נָבָל (nāḇāl: foolish, senseless, fool)なぜこのような名前を付けたのだろう。アビガイル אֲבִיגַיִל('ăḇîḡayil: my father is joy)ギル גִּיל (gîl: a rejoicing, a circle, age)とあり、喜ぶ父が原義だろう。 1 Samuel 26:10,11 また、ダビデは言った。「主は生きておられる。時が来て死ぬにしろ、戦いに出て倒れるにしろ、主は必ずサウルを打たれる。主が油を注がれた者に手を下すようなことを、主はお許しにならない。今は枕元の槍と水差しを取って立ち去ろう。」 これがダビデがたいせつにしていたことと伝えているのだろう。しかしサウルの呼びかけ「私は罪を犯した。わが子ダビデよ、帰って来なさい。」(21a)には答えない。最後の「こうして、ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」(25b)の記述は印象的である。サムエル記上下、列王記上下は、預言者集団の中で書かれたのではないと言われているが、文学的筆致も優れていると思う。どのような人だったのだろう。エリヤ、エリシャや、イザヤ、エレミヤなどとは、また違った印象を受ける。 1 Samuel 27:6,7 その日、アキシュは彼にツィクラグを与えた。今日に至るまでツィクラグがユダの王に属するのは、そのためである。ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は、一年と四か月であった。 ガトの王アキシュとの関係については 21章11節から16節にもある。その記述は理解し難いが、ある信頼関係がなんらかの方法で築かれていたのだろう。今回は「一年と四か月」という、ある程度の期間であることが書かれている。ペリシテは、フェニキアの流れをくむ海洋民族が定住した都市国家のようなもので、商工業が中心だったろうから、牧畜・畑作のイスラエルとはある程度住み分けることができたのかもしれない。また、都市国家連合はあまり強い絆ではなく、特別のときだけ一緒に動いた独立国家だったのだろう。しかし、ダビデたちは、いわゆる「略奪隊(raiders)」である。生産活動を十分する基盤が得られていなかったのだろう。倫理的なことで責めても仕方がないように思う。現代においても。共生や福祉は難しい。このあとの部分は、地名をていねいに調べないといけない。ヨシュア記、士師記に地名は出てくる。おそらく、ユダの南の地域なのだろう。通常カイン人と呼ばれている。すこし、民族の系統としては離れていると理解されていた地域か。 1 Samuel 28:15 サムエルはサウルに言った。「なぜ私を呼び寄せ、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困り果てています。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神は私から離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべきことを教えていただくためです。」 ペリシテが連合して責めてくることは、あまりないことだったのだろう。その意味でたいへんなことが起こっている。ただ、その理由は書かれていない。税やルールなど、ペリシテが課していたものに従わなかったのだろうか。領土を取ることはあまり考えていなかったのではないかと思う。イスラエルも王制への移行過程で、単に、農耕・牧畜ではないものが生じていたのかもしれない。それが軋轢を生じ始めていたことは理解できる。サウルは困り果てている。サムエル記記者は「主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。明日、あなたとあなたの息子たちは、私と共にいるだろう。また主はイスラエルの軍隊をペリシテ人の手に渡される。」(19)のあと、サウルは卒倒したと書いている。アマレクに対して(15章)主に従わなかったことをここでも理由として書かれているが、それは、ひとつのわかりやすさで、やはりサウルには、問題もあったように思う。主を求め、御心を求めることではなく、自分のこと、人からの評価ばかりに、心が奪われていたように見える。しかし、この章の最後にあるように、霊媒の女や家臣を通して、主の憐れみが示されているように思う。女や家臣は、サウルを慕っていたからこうしたのではないだろう。ここに主の恵みと愛を感じる。 1 Samuel 29:4,5 だがペリシテ人の長たちはアキシュに腹を立てて言った。「この男を帰らせ、あなたが与えた居住地に引き止めておくべきだ。我々と一緒に、戦いに参加させてはならない。戦いの最中に裏切らないとも限らない。ここにいる者たちの首だけで、この男の主人を喜ばすのに十分だ。この男は、/『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」 おそらくこの考えが正しいだろう。わたしも、その場にいたら、そのように判断すると思う。持っている情報を分析してもっとも可能性の高いものを選択する。科学的とも言える。実際、ダビデたちは、何をしようとしていたのか不明である。少なくとも、ダビデや一緒にいた部下たちは、戦闘には長けていたようだが、いろいろな関係をもっているイスラエルの諸部族と戦うことを善しとはしなかったろう。(27章8-12節)「主は生きておられる。あなたはまっすぐな人間だ。」(6)「分かっている。あなたは申し分のない者で、私の目には神の使いのように映っている。」(9)わたしはこのナイーブ(純真なさま。また,物事に感じやすいさま。素朴。)なアキシュに同情してしまう。 1 Samuel 30:26 ダビデはツィクラグに戻ると、戦利品の一部を友人であるユダの長老たちに送り、こう言った。「これはあなたがたへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です。」 この章も興味深いことが多い。引用箇所は、ユダの諸部族との関係が強いことも示している。もしかすると、このような行為は、他の略奪においてもあったのかもしれない。すでに、ダビデの王権の道筋は、整い始めているとも言えるかもしれない。さらに、イスラエル全体が一つになることは難しかったのかもしれない。個人的に、様々な理由から、ダビデを好きになれないが、優秀な、おそらく素晴らしいリーダーであったことは確かなのだろう。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、あの襲って来た一団を我々の手に渡されたのは主なのだ。」(23)このように語り、みなもそれを受け取るだけのことをなしているのだろうから。 1 Samuel 31:11-13 ギルアドのヤベシュの住民は、ペリシテ人がサウルに行ったことを聞いた。勇敢な者はこぞって立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬にした。そして彼らの骨を拾って、ヤベシュのタマリスクの木の下に葬り、七日間、断食した。 ギルアドのヤベシュは、ベニヤミンと戦いベニヤミン族が滅びそうになったときにこの地の女たちとの婚姻関係でそれを防いだ経緯があり(士師記21章8-12節)、この地をアンモン人が攻めたとき、サウルが救った経緯がある(サムエル記上11章)。サウルが軍を率いた最初の戦いでもある。サウルの問題も知っていだろうが、それを最後まで支えたのかもしれない。死んだことではなく、これがサウルとその息子たちの最後だとも言える。ひとの一生は、善と悪で簡単にわけられるわけではない。なにか慰められる記事である。 2 Samuel 1:19 「イスラエルよ、かの麗しき者は/お前の高い丘の上で刺し殺された。/ああ、勇士らは倒れてしまった。 ダビデは勇士としてサウルたちをたたえることから始め、最後も「ああ、勇士らは倒れた。/戦いの器はうせてしまった。」(27)で閉じている。ヨナタンとの関係は「あなたを思って私は悲しむ。/兄弟ヨナタンよ、あなたはまことに私の喜び。 /あなたの愛は女の愛にもまさってすばらしかった。」(26)と述べるが、サウルとの関係、サウルの主との関係については述べない。問題はいろいろと思っていたことだろうが、このような詩が付与されているのは、ダビデを称賛することにもつながっているのだろう。そしておそらく、全イスラエルを結びつけることにも。しかし、この戦いの経緯をみると、複雑である。背景としては、王制に移行し、常備軍を持ったからといって、戦いですべてを解決できることはないことも、告げているのかもしれない。 2 Samuel 2:1 その後ダビデは主に尋ねた。「どこかユダの町に上って行くべきでしょうか。」主は答えた。「上って行きなさい。」ダビデは言った。「どこに上って行けばよいでしょうか。」主は答えた。「ヘブロンへ。」 この章を読んでいて、それぞれの地名もたいせつなのだなと思った。ヤベシュ・ギルアドもそうだが、マハナイムは「ヤコブは彼らを見たとき、「これは神の陣営だ」と言って、その場所をマハナイムと名付けた。」(創世記32章3節)に出てくる場所であり、「ガド族からは、人を殺した者の逃れの町ギルアドのラモトとその放牧地、マハナイムとその放牧地、」(士師記21章38節)で逃れの町に指定された場所である。ヨルダン川の東、ギルアドでもかなり奥にあり、陣営を立て直すには、歴史的にも、安全性からも、戦略的にも良い場所だったのだろう。ヘブロンは「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築いた。」(創世記13章18節)場所であり、アブラハムの妻サラが葬られた土地でもあり(創世記23章2節)イサクも一時アブラハムと共に住んでいた場所である。(創世記32章8節)また、「ヨシュアは(ユダ族の)エフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えた。」(ヨシュア記14章13節)土地でもある。ユダの嗣業地の中心に位置している。またここも逃れの町に指定されており、祭司アロンの一族が住んだ場所でもある。(ヨシュア記21章13節)この陣の敷き方で、多くのことを人々は理解したのだろう。わたしは、改めて調べないとよくはわからないが。その地に住んでいる人とは、理解できることがとても違うのだろう。 2 Samuel 3:37 すべての兵と、イスラエルのすべての人々はこの日、ネルの子アブネルの殺害は王の意図によるものではなかったと知った。 この章にあることは、どれも、興味をひく。個人的には、人心掌握術を持ち、ある種の誠実さを貫く、ダビデよりも、現場で手を汚すことを恐れず、信じたことに忠実に生きるヨアブに共感する。自分の生き方とも通じる、または、ヨアブを意識して、このようなひとの存在がとても貴重だと思い生きているからかもしれない。ダビデがアブネルの申し出を受けたのは「アブネルはダビデに使いを送って言った。『この地は誰のものですか。』またさらに言った。『私と契約を結んでください。そうすれば、私はあなたに協力し、全イスラエルがあなたの味方となるように計らいましょう。』」(12)この故か、ミカルの故か。パルティエルの件も残酷である。「サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えた。」(サムエル記上25章44節)経緯はともかく、長く一緒に生活していれば、いろいろな変化が生じるものである。ミカルのことばは記されていないが、ライシュの子パルティエルのこの様子を見ると、ダビデの行為はどうしても、受け入れられない。 2 Samuel 4:2,3 このサウルの息子のもとに略奪隊の長である二人の男がいた。一人の名はバアナ、もう一人はレカブと言い、共にベニヤミンの者で、ベエロト人リモンの息子であった。というのも、べエロトはベニヤミンに属すると見なされていたからである。ベエロトの人々は、かつてギタイムに逃げて来て、そこで寄留する者となり、今日に至っている。 略奪隊 גְּדוּד(gᵊḏûḏ: a band, troop, marauding band)ということばに引っかかった。原語的には、確定はできないが、徴兵制でもなく、遊牧をしていたひとが多いときには、略奪行為は、普通だったのかもしれない。「アブネルがヘブロンで死んだと聞いて、サウルの子イシュ・ボシェトは力を落とし、イスラエルのすべての人々がおののいた。」(1)とあるが、ギルアドのような離れた地にとどまり、共存する道はなかったのだろうか。戦いにおいて、サウルに従ったという程度のことだったかもしれない。良し悪しを議論しても仕方がないのかもしれない。 2 Samuel 5:3 イスラエルの長老たちは皆、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。 サムエルが油を注ぎ(サムエル記上16章3節・13節)、そして今、イスラエルの長老たちが油を注いでいる。「いけにえを献げるときには、エッサイを招きなさい。あなたがなすべきことは、その時に私が教える。あなたは、私がそれと告げる者に油を注ぎなさい。」(サムエル記上16章3節)とあり、サムエルは、主に告げられた者に油を注いだのだろう。しかしそれは、ダビデがまだ、羊飼いの少年のときである。それからかなりの年が経ている。サムエルはすでに亡くなっている。これを主のみこころの成就と理解するにしても、長い時間が背後にあり、その期間に起こったことを考えると、サムエルに油を注がれたことは、そんなこともあったな。ぐらいだったのかもしれない。これも、意味の理解の一つで、因果関係として、主の御心として油が注がれていたから、王となったとは考えないほうがよいように思う。サウルは、実際、王とよべるかどうか、不明なのだから。そして、他に、サムエルが油を注がなかったという証拠もないのだから。 2021.5.9 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  21. BRC 2021 no.021:サムエル記下6章ーサムエル記下19章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) サムエル記上を読み終わりましたね。今週は、下巻を読み進めます。ダビデは全イスラエルの王となります。サムエル記上などに書かれている背景の理解も多少必要だと思いますが、サムエル記下はとても読み応えがあると思います。ていねいに書かれていると思いますが、簡単に判断することは危険なように思います。前回も書きましたが、わたしは毎回読むたびに「サムエル記記者の人間理解と神信仰の深さ」に驚かされています。ダビデは、戦(いくさ)上手、また、いろいろな場面で機略を用い、人心を掌握することにも長け、そして神信仰をたいせつにしていたように思います。しかし、やはりダビデが最も力を発揮したのは、戦いにおける優れたリーダシップだったように思います。その戦いにおけるリーダーシップは、ヨアブ(正確にはわかりませんが、姉の三人の息子の長男のようですから、ダビデの甥ということになります)に委ねるのですが、様々な問題が生じていきます。さて、どうなっていくのでしょうか。サムエル記下だけ読んでも、考えさせられることが多いのではないでしょうか。 ダビデは「いいもん」でしょうか「ワルモン」でしょうか。みなさんがすでに読んだ、サムエル記上の最後に、戦いの中で死ぬ、サウルはどうでしょうか。上にすこし書いた、ヨアブはどうでしょうか。そう簡単には、言えないのではないかと思います。現在、わたしは、キリスト教メンタル・ケア・センター(http://www.mmjp.or.jp/cmcc/)で事務局長(ボランティア)をしていますが、こころの悩みや、病、精神病についても学んでいます。最近学んだのは、病跡学(Pathographie: 精神病理学の一領域。芸術家・思想家・科学者など傑出した人物の伝記や作品を精神医学的に解明し,精神的異常性がその人物の創造活動に及ぼした影響や意義を明らかにしようとするもの。)という分野があること。どの程度学問的なものになっているのかはわかりませんが、サウルは、統合失調症だったかもしれないとも言われているようです。このようなことをわたしは議論しませんが、障害は、簡単に分類できるものではなく、かつ健常者と障害者も区別できるわけではなく、スペクトラムということばが使われるように、連続的に変化していること、また、遺伝的な要素が認められるものであっても、それが発現されるかは、不確定要素が高く、環境要因なども、大きく関わっているが、よくはわからないとのことです。そのような、一人ひとりをどう捉えるかとともに、そのような自分がどう生きていくかが一人ひとりに課せられた課題です。ひとはついつい「いいもん・ワルモン」に分けたり、相関があると因果関係に置き換えたがったり、因果応報ならひとは生きていけないのに、それで判断しようとしたり、理解できることは一部分なのに、不確定なものを受け入れられなかったり、さまざまな弱さを担いながら、生きているのでしょうね。サムエル記は、そのようなことも含めて、丁寧に、書いてくれているように思います。みなさんは、どのようなことを考えながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記下6章ーサムエル記下19章はみなさんが、明日5月17日(月曜日)から5月23日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。サムエル記下までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2 Samuel 6:6-8 だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。ダビデも怒りに燃えた。主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。その場所はペレツ・ウザと呼ばれて今日に至っている。 以前から気になる箇所ではあったが、今回は、事故がおこり、それを人々がどのように受け取り、ダビデも、どう応じたかが書かれているのだと思った。主や神の主体で起こったように書かれているが、むろん、これは、そのように受け取ったサムエル記記者の信仰告白である。神様の心を理解しようとして、神様を真剣に求めていた記者が受け取ったことからわたしたちは、多くを学んでいる。しかし、それは、そのひとの中での内面化があり、一つの解釈であることも、忘れてはいけない。神様も、もっと他のご計画、意味も持っていた可能性は高い。聖なる箱をそれこそが特別なものとすること自体偶像礼拝の要素を含む。すべての業は神の業、すべてのものは神のものだとも言えるのだから。この中で、ダビデも、神の箱について、自分の考えだけでは決められないことを学んだことだろう。ひとつの敬虔の表現である。この章のミカルについての記述も「サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。」(23)とあり、これが、サムエル記記者のミカル評価に結び付けられ、背後に主がおられるようにも見えるが、ライシュのパルティエルと一定期間過ごした後、そう簡単に、関係がうまくいくとは限らない。特に、パルティエルはミカルをたいせつに思っていたようなので。わたしが書いたことが正しいわけではないだろうが、いくつもの解釈(内面化、主のメッセージとして受け取ること)があることは、確かだと思う。 2 Samuel 7:29 どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主なる神よ、あなたが約束してくださったのです。あなたの祝福によって、この僕の家がとこしえに祝福されますように。」 いままで、サムエル記下のとても感動的な箇所として読んでいたが、サムエル記記者は、それなりに注意して、ダビデ全面支持ではない面をのぞかせているのかもしれないと思った。前の章の「ウザ撃ち」も同様に単純に考えてはいけないように思った。ここでは「ダビデの家の祝福」が語られている。これは、「主は告げられる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。」(11b,12)と呼応している。ある人は、これらの中にキリスト預言があると読む。系図や血のつながりを意識し過ぎで、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3章9節)の方が普遍的で本道だと思う。ダビデの家系が、このあと、ユダ王国では守られるわけだが、それも終焉が訪れる。この時代も、主の御心を受け取る過渡期であることを忘れてはいけない。むろん、キリスト以後の今もそうである。 2 Samuel 8:5,6 アラム・ダマスコがツォバの王ハダドエゼルを助けに来たが、ダビデはこのアラム軍二万二千人をも討ち、アラム・ダマスコのもとに守備隊を置いた。こうして、アラム人もダビデに隷属し、貢を納める者となった。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。 アラム・ダマスコという言い方は珍しい。この二箇所と、同じ文章を引用した歴代誌18章5,6節だけである。特別な意味を持っているのかもしれないが、アラムはイスラエルの北に位置し、この地域で、アッシリアなどの侵攻までは、最大の国だったと思われるので、驚きである。ただ、守備隊と書いてあるものも、出張所のようなものかもしれず、ある関係を持ったという程度なのかもしれない。最後は「主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。」と締めくくられ、金や青銅を奪い取ったことが書かれている(7,8)。これらは、神殿に納められるものである。単純な見方はできないが、サムエル記記者も、一つの判断を下すこと無く、歴史を記述しているように見える。だから、かえっていろいろなことが見えて何度読んでも、新たな気持で読めるのかもしれない。 2 Samuel 9:7,8 ダビデは彼に言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに誠意を尽くそうと思う。あなたの祖父サウルの地所は、すべてあなたに返そう。また、あなたはこれからいつも私の食卓で食事をしなさい。」メフィボシェトは礼をして言った。「この僕など何者でありましょう。死んだ犬も同然のこの私を顧みてくださるとは。」 「その日、ダビデは言った。『エブス人を討とうとする者は誰でも、水汲みのトンネルを抜けて町に入り、このダビデを憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。』このため、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。」(5章8節)とかなり乱暴なことを言っているが、ここでは、両足の萎えたメフィボシェトの権利回復をしている。整合性、公平性という概念は未発達なのだろう。個人的信仰においては、ありうることでもある。ここでは「あなたの父ヨナタンのために」とある。ダビデの気持ちはわかるが、本人とどのように関係を築いていくことが(愛においては)本質であるはずである。ここでは、土地を返却することと、王の食卓で食事をすることが語られている。王権が確立していたとすると、重要なことであるが、このあとの記述(19章25-31節)から考えると、信頼関係まで十分築けていたかは不明である。 2 Samuel 10:2,3 ダビデは、「ハヌンの父ナハシュは私に誠実であったのだから、私もその子ハヌンに誠意を示そう」と言い、使いを送って彼の 父に弔意を表そうとした。ところが、ダビデの家臣たちがアンモン人の地にやって来ると、アンモン人の高官たちは主君ハヌンに言った。「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の使いを送って来たとお考えですか。ダビデがあなたのもとに家臣をよこしたのは、この町を調べ、探り、覆すためではないでしょうか。」 このあとに「そこでハヌンはダビデの家臣たちを捕らえ、ひげを半分そり落とし、衣服も半分、尻までに切り落としてから追い返した。」(4)と続く。これは酷い、野蛮だと思ったものだが、適切にコミュニケーションが取れていなかっただけだと今回感じた。アンモンとイスラエルも長い歴史があり、サムエル記上11章では、サウルがアンモン軍を破っている。王がダビデになったからといって、不信は十分に残っているのが当然である。平和を求めるものは、屈辱をも甘んじて受け、そこから学ばなければいけない。しかし、この章の中心は、次の章に続く後半のヨアブ軍(とアブシャイ軍の)の必死の戦いなのかもしれない。アンモンを助けたアラムとの戦いである。「アラム人は、自分たちがイスラエルに敗れたのを見ると、団結した。ハダドエゼルは使者を遣わし、ユーフラテス川の向こうにいたアラム軍を出動させ、ヘラムまで呼び寄せた。彼らの先頭に立つのはハダドエゼルの将軍ショバクであった。」(15,16)これは、たしかに特筆すべきことである。8章の、アラム・ダマスコは、アラムの本体ではないという意味で区別する記述だったのかもしれない。 2 Samuel 11:1 年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を皆殺しにし、ラバを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。 前の章での記述からも、戦いはヨアブにまかせてよいと思われる状況だったのだろう。これまでいのちをかけてしていたことから離れて、こころのすきが生じる。十戒(出エジプト記20章、申命記5章)の後半5つは、隣人との関係で、基本的に、その最後にある「隣人の家を欲してはならない」つまり、自分のものでないもの、神様がそれぞれのひとに与えられたもの、そのひとの真実を自分のものにしようとしてはいけない。自分に与えられたものを感謝して受けること、とまとめられる。ダビデは、すでに、何人も妻を持っていた。これに対して、ヘト人ウリヤの忠誠を際立たせることばは脚色としても凄い。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営しておりますのに、私だけが家に帰って食べて飲み、妻と寝ることなどできましょうか。あなたは確かに生きておられます。私には、決してそのようなことはできません。」(11)自分の分をわきまえている証言である。なおヘト人は「それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る。」(出エジプト記3章8節)などとあるように、カナンの地の被征服民である。このようなひとたちがそれなりにいたのだろう。 2 Samuel 12:13,14 ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯しました。」ナタンはダビデに言った。「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。しかし、あなたがこの行いによって大いに主を侮ったために、生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬであろう。」 ダビデは「主は生きておられる。そのようなことをした男は死ななければならない。」(5)と、このような罪は死ななければならないと自ら言っているが、ナタンは「あなたは死なない。」と言い、さらに「生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬ」と続ける。罪を犯したものが死に、その故に生まれてくるいのちは生きるほうが良いと我々は思う。自業自得に縛られているからだろう。実際には、責任など、負うことが出来ないにもかかわらず。そして、罪をそのときの失敗と捉えてしまうからか。ここで語られているものは、もっと深いのだろう。これから、サムエル記下では、ダビデは経験したくないことを、いくつも経験する。これは、罪の結果というより、へりくだり、神理解が深くなるためのように思う。そして、それを通して、後代のわたしたちも、学ぶことができるように。この息子については、主の御手にあることを思う。わたしたちがどうにかすることではないのだろう。中心にはないが、「今すぐ残りの兵を集めてこの町に陣を敷き、これを占領してください。さもないと、私が町を占領したことになり、この町が私の名で呼ばれることになってしまいます。」(28節)忠実に、自分の与えられた使命を果たし、それを自分の栄誉としない、わたしがダビデではなく、ヨアブに憧れるいくつかの理由の一つである。 2 Samuel 13:7 そこでダビデは、宮殿にいるタマルのもとへ人を遣わし、「あなたの兄アムノンの家に行き、彼のために食べ物を作ってやってほしい」と伝えた。 あまり問題点を探すのは適切な読み方だとは思えないが、思春期から青年期と思われる異母兄妹に注意を払うことは当然だと思ってしまう。このあとにも、アブシャロム事件を避けることができたと思われる機会は何回もあったように思う。「ダビデ王は事の一部始終を聞き、激しく怒った。しかし、彼は息子アムノンを罰することはなかった。アムノンは長男だったので、ダビデは彼を愛していたからである。」(21)との記述があるが、サムエル記記者の編集意図が反映しているだけかもしれない。そのような、ダビデを描いているのだろう。神を恐れつつも、様々な問題のあったダビデを描いていたとも言える。単なるヒーローにしたり、いいもん、ワルモンに分けず、ていねいに描くことが記者の視点だったとも言える。むろん、それは、事実を忠実に描くこととも、異なるのだろう。わたしたちは、それぞれ、どんなメッセージを受け取るのだろうか。 2 Samuel 14:21,22 王はヨアブに言った。「よかろう。そのようにしよう。行って、あの若者アブシャロムを連れ戻すがよい。」ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福の言葉を述べて言った。「今日、あなたの僕は、王様のご厚意にあずかっていると悟りました。王様は僕の願いを聞き入れてくださったからです。」 ヨアブに興味があるが、ヨアブとダビデの関係、特にヨアブがダビデをどう見ていたかにも興味がある。その意味でもこの章のやりとりは興味深い。ヨアブとダビデはどちらも戦いにおいて優れていること、おそらく、軍の信頼を得ることにおいても、ある程度共通点を持つが、価値観も異なり、地位も異なる。社会においては、頻繁に起こることである。実際、この件は、ヨアブのそしておそらく二人の望む方向には進まないが、ある努力をしたことは伝わってくる。ダビデの影が薄いのは、全体の流れの中で、バト・シェバ事件のあと、この時期のダビデをそのように描いているのだろう。表現していることばもすばらしいと思う。このようなこと、そしてそれを記述するもの、学ぶことが多い。 2 Samuel 15:25,26 王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の目に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるであろう。しかし、もし主が、『私はあなたを喜びとしない』と言われるなら、主がその目に適う良いことを私にしてくださるように。」 主の御心に委ねているように見える。しかし、イタイのことについては別の記述をしているが、この「ツァドクと、神の契約の箱を担ぐレビ人」(24)と、「ダビデの友フシャイ」(37)へのダビデの言葉をみると、以前のような狡猾な、ダビデが戻ってきているように、描かれている。サムエル記記者の描き方であることではあるが、このあたりに、ダビデの本質を見る。批判するつもりはないが、このような面も含めて、ダビデであることは、覚えるべきだろう。アブシャロムについても、考えてみたい。残念ながら、アブシャロムは、見えている範囲が狭く、周囲にも十分なアドバイザーはいなかったように思う。聞く耳を持たなかったのかもしれない。個人的な判断には、いろいろな要素があるが、全体を治めることを考えると、たいせつな要素は多い。そのことにおいて、王制・王政はコントロールが難しいのかもしれない。個人の資質に依存してしまうので。 2 Samuel 16:3,4 王が「あなたの主人の息子はどこにいるのか」と尋ねると、ツィバは王に答えた。「あの方はエルサレムにとどまっています。『イスラエルの家は、今日、父の王国を私に返す』と申しておりました。」王はツィバに言った。「それならば、メフィボシェトに属するものはすべてあなたのものにしてよろしい。」ツィバは言った。「伏してお礼を申し上げます。王様のご厚意にあずかることができますように。」 19章25-21節に後日談があるわけで、ツィバのことばと比較すると、メフィボシェトの言葉の方に真実性を感じる。しかし、ツィバのことが書かれている9章を見ると、ダビデのヨナタンへの思い(気まぐれとも言えなくもない)に、新たな歩みと思っていたことが翻弄されたのかもしれない。そして、このときが好機会だと考えたのだろう。大きな転換期には、賭けに出ることもあるだろうから。しかし、日常的にたいせつにすべきことは背景にある課題を丁寧に受け止めることかもしれないと思った。 2 Samuel 17:1,2 アヒトフェルはアブシャロムに言った。「私に一万二千の兵を選ばせてください。私は今夜にも出発してダビデを追跡して、急襲します。ダビデは疲れて力を失っているところですから、恐怖に陥れることができます。彼と一緒にいる民は皆逃げ出すでしょう。私は王だけを討ち取ります。 「その頃、アヒトフェルが提案する助言は、神に伺いを立てた言葉のように受け取られており、ダビデにとっても、またアブシャロムにとっても、アヒトフェルの提案はそのようなものであった。」(16:23)は、こちらの提案につながっているのだろう。たしかに、ダビデに惹かれているひとは多かったろうから、ダビデが死ねば、人心を掌握することは、可能だったかもしれない。「アブシャロムも、イスラエルの兵士も皆、アルキ人フシャイの提案はアヒトフェルの提案より優れていると思った。これは主がアブシャロムに災いを下そうとして、アヒトフェルの優れた謀を打ち壊そうと決めておられたからである。」(14)も、サムエル記記者がそれを支持していることを示すものだろう。このあと、アヒトフェルは自殺してしまうわけだが、プライドが高かったのだろうか。正しさに固執していたのか。よくはわからない。 2 Samuel 18:19-21 ツァドクの子アヒマアツは言った。「私が走って行って、主が敵の手から王を救ってくださったことを伝えます。」ヨアブは彼に、「今日、あなたが知らせに行くのはよくない。日を改めて報告するがよい。今日は知らせずにおきなさい。王の息子が死んだのだ」と言い、クシュ人に命じた。「行って、あなたが見たとおりに王に報告せよ。」クシュ人はヨアブに一礼して走り去った。 それぞれの思いが伝わってくる。ヨアブは、自分が手を下したが、その痛みを知っている。特に「王の息子が死んだ」という表現において、王の気持ちも十分理解していただろう。そして、アブシャロムに手を下すことも、自分がせざるをえないことも理解していただろう。ツァドクの子アヒマアツはどうだろうか。王の痛みは十分予想し理解していただろう。だから、アブシャロムのことを知っていても告げない。しかし、喜び「あなたの神、主はたたえられますように。主は、王様に手を上げる者どもを引き渡してくださいました。」(28b)とともに、悲しむダビデがどうするか、共にいたかったのかもしれない。クシュ人はそれは理解できていない。アブシャロムは木にひっかかって身動きがとれなくなるが、14章25,26節の髪の毛の豊かさが美しさとともに仇となったのかもしれないと思った。「足の裏から頭のてっぺんまで、非の打ち所がなかった」(14章25節)アブシャロムの最後である。 2 Samuel 19:38,39 どうか、僕が帰って行くのをお許しください。父と母の墓のある私の町で死にたいのです。ここに、あなたの僕キムハムがおります。これに王様のお供をさせますから、あなたの良いと思うようにお使いください。」王は言った。「キムハムには、私と共に来てもらおう。あなたが良いと思うように、キムハムを使おう。また、あなたの望みはすべてかなえることとしよう。」 バルジライは、マハナイムで王の暮らしを支えたとある。2章8節にあったように、イシュ・ボシェトを擁した、アブネルが拠点としたのも、マハナイムだった。バルジライはどのときはどうしていたのだろうか。引用句は興味深い。ダビデの配慮が伝わってくる。バルジライは、キムハムを、ダビデの良いと思うようにお使いください、といい、ダビデは「あなたが良いと思うように、キムハムを使おう。」と答える。おそらく、このダビデの一番の理解者は、ヨアブである。22節では、サムエル記記者は、アビシャイに答えさせている。ダビデは「ツェルヤ(歴代誌上2章16節の記述によるとダビデの姉妹、おそらく年上の姉だろう。)の息子たちよ」と言い、この時点では、息子たちは、ヨアブとアビシャイであると思われるので(三人兄弟)、ヨアブも同意見であることを知っている。しかし、ヨアブは結末も知っていたろう。ダビデと、ヨアブのそれぞれの個性と二人のバランスがとても興味深い。 2021.5.16 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  22. BRC 2021 no.022:サムエル記下20章ー列王記上9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、サムエル記下の最後の部分を読み、列王記上に入ります。ダビデの晩年の記事と、ダビデから、その子ソロモンへの王権の移行と、神殿などの建築について書かれています。サムエル記上・下は、あわせてダビデについて書かれているとも言えると思います。ダビデの最後は、そして、王権の移行はどのようなものだったのでしょうか。 ホームページの方の、サムエル記や、列王記のところに、すこし書いてありますが、サムエル記上の部分から引用すると「サムエル記は先の預言者とよばれる区分に属し、七十人訳とよばれる紀元前2世紀ごろまでに訳されたギリシャ語訳では、列王紀とともに『もろもろの王国』と呼ばれた4巻本の一部となっています。」と書いています。サムエル記・列王記とあわせてひとつと考えているようですが、サムエル記と列王記、特に、列王記上のソロモン以降は、書き方が変わっているようにも思います。それは、すこしずつ、皆さんに発見していただくのがよいでしょう。 サウル、ダビデ、ソロモンは、名前を知っていても、そのあとは、よくわからないかたも多いのではないかと思います。何度も読んでいるわたしも、ときどき整理して流れを確認しないと、わからなくなることもよくあります。はじめてのかたもおられると思いますので、下のリンクの図を印刷しておいて、聖書にはさんで、混乱してきたら眺めてみるのもよいと思います。下にリンクのある、各巻の説明には、年表など、もう少し他のリンクも付けてあります。参考にしてください。わたしも、下の聖書人物略図を聖書に挟んであります。 聖書通読のたすけ:http://biblestyle.com/help.html 聖書人物略図:新改訳(http://biblestyle.com/help/treejr.pdf)・新共同訳(http://biblestyle.com/help/treeji.pdf) さて、ダビデによって王国となったといっても、よいと思いますが、次のソロモンが王制という意味では、その後の鍵を握っているともいえるように思います。ダビデのときもすでに、そうであったように、おそらく、ソロモンについての評価も難しいのでしょう。ひとつだけ書いておくと、列王記は、王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、捕囚となるまで書かれています。ということは、列王記は、そこまでを知っている人が書いている(まとめた)ことになります。そこまでの歴史を知っている人は、どのように、王国の歴史を描いているのでしょうか。みなさんなら、どんなことを考えて書きますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記下20章ー列王記上9章はみなさんが、明日5月24日(月曜日)から5月30日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記下および列王記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#sm2 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#kg1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。列王記上までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2 Samuel 20:1,2 そこに、ベニヤミン人ビクリの息子で、シェバという名のならず者が居合わせた。彼は角笛を鳴らして言った。/「ダビデのうちに、我々の受け取るべき分はない。/エッサイの子のうちに/我々の受け継ぐべき分はない。/イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰るがよい。」そのため、イスラエルの人々は皆ダビデから離れ、ビクリの子シェバに従った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、彼らの王に従った。 ユダとそれ以外のイスラエルの部族の分裂は、それなりに、過去からあったことを示しているようだ。しかし、ここで、ダビデが「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ。」(6)とまで言う根拠は明確ではない。実際「シェバはイスラエルのすべての部族を巡り歩いて、アベル・ベト・マアカに来ていた。ビクリの一党も皆集まって来て、彼に従った。」(14)とあり、従ったのは非常に限定的であったようだ。その意味でも、ダビデの判断はある程度は当を得、程度の判断は十分ではなかったのかもしれない。アマサは、ダビデの考えを十分受け取っていなかったのかもしれない。全体的判断は間違っていなかったかもしれないが、人の関係までは、十分把握できていなかったということか。 2 Samuel 21:14 彼らはサウルの遺骨とその子ヨナタンの遺骨を、ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの地の祈りに応えられた。 この章は「ダビデの時代に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデが主に伺いを立てると、主は言われた。『サウルとその家に責任がある。ギブオン人を殺害し、彼らの血を流したからである。』」(1)から始まっている。「主」「神」が主語で書かれている部分をどう受け取ればよいのだろうか。わたしは、かなり自由に読んでいる。それは、これも、われわれと同じ信仰者が受け取ったメッセージなのだから、軽く見てはいけないが、絶対視してはいけないとして読んでいるからである。しかし、それは、キリスト教界で一般的ではない。いまのところ、大きな問題は生じていないが、どうなのだろうか。歴史的には、わたしのように考えると、様々な部分から信仰が失われていくと考えられているのかもしれない。その危険性も同時に学ばなければいけないということだろう。この章には、サウルやヨナタンのことだけでなく、ギブオン人のこと、アドリエル(ここは、ミカルではなくメホラだと思われる(サムエル上18章19節))のこと、ヤベシュ・ギルアドのことなども登場する。知識人は、歴史を知り、そこから物事を評価することも多かったことを意味しているのだろう。そして、ダビデの行動を見ても、どちらかを正しいとすることは、単純にはできない。 2 Samuel 22:2-4 「主はわが岩、わが城、私を救い出す方。わが神、わが大岩。私はそこに逃れる。/わが盾、わが救いの角、わが砦。/私の逃げ場、救い主。/私を暴虐から救ってくださる。ほむべき方、主に呼びかけると/私は敵から救われる。 ここまでサムエル記上・下とダビデについての記事を読んできた。「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った。」(1)とあり、いつの歌かは不明であるが、まさに、信仰告白なのだろう。むろん、これだけでは語り尽くせないもので、あくまでも、ダビデが危機から脱したときに「主に語った」ものである。だからこそ、肯定的なものが中心となっている。そして、全てではなくても、この表現の一部は、わたしも「アーメン(אָמֵן 'āmēn: verily, truly, amen, so be it)」と唱えたくなる。ことばが美しいからもあるだろう。さらに、皆で唱和することもあるだろう。他者の信仰告白であるにも関わらず。ここに、宗教が誕生するのだろうか。 2 Samuel 23:18,19 ヨアブの兄弟でツェルヤの子アビシャイ。三兄弟の頭。槍を振るって三百人を殺し、三勇士と並ぶ名を上げた。彼は三十人の頭の中で最も誉れが高く、彼らの長となったが、三勇士には及ばなかった。 三兄弟は、ヨアブ、アビシャイ、アサヘル(2章18節)である。アサヘルはほとんど、2章にしか登場しないが、アビシャイは、何箇所か特別な機会に登場する(サムエル記上26章、アサヘル関連のサムエル記下2章, 3 章、それ以後も、16, 18, 19, 20, 21 章)。勇士としては、卓越していたのだろう。ヨアブとは違った働きのように思う。しかし、ここで、アビシャイを、ヨアブの兄弟としつつ、三兄弟の頭としているのは、興味深い。前線において戦うとき、常に先頭に立って戦ったということに、いまはしておこう。いずれゆっくり調べてみたい。 2 Samuel 24:14,15 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の手に陥らせてほしい。主の憐れみは深い。人の手には陥りたくない。」そこで主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされ、ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。 13節で「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか。三か月間、敵の前を逃げ回り、敵に追われることか。三日間、あなたの国に疫病が起こることか。」とある。これらは、みな、主の手に陥ることのハズである。ここでは「疫病」が引き起こされている。理由は不明だが、王としての誤りは、民に大きな影響が及ぶことを示しているとも言える。現在のコロナ禍のなかで、人はどう思っているだろうか。人間の自然破壊が進んだからだとか、特定の国で、情報公開が進んでいないからだとか、他者から学ぶことが特に政治の世界では進まないからだとか、いろいろと理由は言われるが、実際に、因果関係を特定はできない。神の意図をうけとることは、困難である。しかし、実際に生じていることの意味を理解し、改善していこうとする営みは、ひととして人間らしい営みであると思う。直接的な主の働きをどう受け止めるかは様々だろうが。ここでは、正式な軍隊が存在していたわけではなく、現在の軍の兵卒の数を把握するのとはことなることも、たいせつだろう。ダビデはなにを知りたいと思い、ヨアブは、なぜ止めたのか、そして、サムエル記記者ななにを伝えようとして書いているのか、これも、丁寧に理解したい。 1 King 1:30 イスラエルの神、主にかけてあなたに誓ったこと、『あなたの子ソロモンが、私の後に王となり、私に代わって王座に着く』ということを、今日この日、私は確かに実行する。」 13節のナタンのことばを、17節でバト・シェバが実行している。「ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに入り、床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、その名をソロモンと名付けた。主はこの子を愛し、預言者ナタンを送って、主のために、その子の名をエディドヤ(主に愛された者)とも呼ばせた。」(サムエル記下12章24,25節)とあり、ナタンとも近いことがわかる。しかし、引用句のようにダビデがバト・シェバに誓ったのかどうかは不明である。おそらく、そんなことは言ったのだろう。しかし、それがここで、持ち出されるかどうかは、また別のことである。「今日、アドニヤは下って行って、雄牛、肥えた家畜、羊を多く屠り、王様のご子息全員、軍団長、祭司エブヤタルを招きました。皆はアドニヤの前で食べたり飲んだりしながら、『アドニヤ王、万歳』と叫んだのです。」(25)からみても、アドニヤの高慢さ(5,6)は見て取れる。ヨアブなども、現状を十分理解していなかったかもしれない。または、衰えがあったのかもしれない。もうこれは、王制である。王権の争いが権謀術策を用いるレベルになっているのだから。難しい。 1 King 2:5,6 またあなたは、ツェルヤの子ヨアブがこの私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の将軍、ネルの子アブネルとイエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは二人を殺し、平和なときに戦いの血を流し、腰の帯と足のサンダルに戦いの血を付けたのである。あなたは知恵を働かせて行動し、彼の白髪が安らかに陰府に下ることを許してはならない。 ことの判断は、難しい。正直、アブネルと、アマサが残っていたら、様々な困難が生じていただろうと思う。ヨアブに、軍の長としての権勢欲がなかったとは言えないと思うが、あるバランスをもって冷静に見る目は持っていた。早めに、芽をつんでおくことは重要だと、自らが手を下したのだろう。そしてそれはダビデは好まないことも知っていただろう。それでも、それを実行する。そのような強い男の最後は、寂しく悲しい。ちょっと集中力が足りない。 1 King 3:26 すると、生きている子の母親は、その子を哀れに思って胸が張り裂けそうになり、王に言った。「王様。お願いでございます。生きているその子は、その女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もう一人の女は「私のものにも、あなたのものにもならないよう、切り分けてください」と言った。 ソロモンの願い事のひとつの成就として、このエピソードが語られているのだろう。このようなとんちは、たくさんあったのだろうか。昨晩も遅く、今日は昼寝もできなかったので、ちょっとつらい。明日の分は、すこしでも進めておきたいのだが。 1 King 4:1 ソロモン王は全イスラエルの王であり、その高官たちは次のとおりであった。ツァドクの子アザルヤは祭司。 サウルには、このようなリストはなく、ダビデ王については、サムエル記下23章に勇士のリストがあるが、この高官たちのリストをみると、王制が整ってきていることを見て取ることができる。かなりの変化である。後代に書かれたと言われる歴代誌の書き方とは異なる。(歴代誌上11章等)高官は שַׂר(śar: prince, ruler, leader, chief, chieftain, official, captain)、イスラエルでこのことばが最初に使われるのは、アブネル(サムエル記上26章5節)のようだ。最初に、ツァドクの子アザルヤとあるが、このあとに、「ツァドクとエブヤタルは祭司。」(4)とある。まだ代々の役職について記述するようにはなっていないのかもしれない。また、全イスラエルとあるが、このあとに続く地域をみると、エフライムから始めており、北イスラエルを含むことを言っているのだろう。しかし、同時に、ヨルダン川の東側の地域が目立つのと、最北部のゼブルン、ナフタリ、アシェル、ダンの地域は見えたらない。国境などがあるわけではないので、ここは、概略なのだろう。 1 King 5:5 ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでも皆それぞれ、自分のぶどうの木や、いちじくの木の下で安心して暮らした。 章の区切りが、訳によって異なっている。多くが5章14節までが4章となっており、聖書協会共同訳では他の訳の4章21節から5章になっているようだ。ソロモン שְׁלֹמֹה(Šᵊlōmô: peace)は平和である。ここに出てくる表現「皆それぞれ、自分のぶどうの木や、いちじくの木の下で安心して暮らした。」が平和の象徴として使われることは聞いたことがあった。わたしたちは、それをどの様に表現するだろうか。最近、あるかたのメッセージを聞いていたら「ぶどうの木」が「いのち」を表すと言っておられた。すると「いちじく」は「知恵」なのだろうか(ヨハネ1章48節)。非常に根本的なことも、わたしは思い至らなかったことを知った。イスラエルの人にとってはそのようなイメージが有り、その完全なかたちのものがエデンの園にあり、それが平和と結びついているのかもしれない。また勉強してみたい。わたしは、これまで、アダムや、エバが、りんごのような果物ではなく、ぶとうをたべている様子はなかなか想像できなかった。 1 King 6:1 イスラエルの人々がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となって四年目のジウの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の神殿を建て始めた。 「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である。ソロモンが建設を始めたのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった。」(歴代誌下3章1,2節)いずれ、列王記と歴代誌の対比はしてみたい。歴代誌は、神殿を建てた場所が歴史的にも意味がある特別なところだとあり、列王記は、エジプトを出てから480年経ていることを記している。列王記は、その間の様々なことをこの数字に込め、特別な主張はしていない。むろん、その間、ずっと、契約の箱は天幕の中にあり、神殿はなかったと主張することは可能であるが、もっと様々なことがこの背後にあることを示唆しているかのようだ。むろん、この480年が現代的な正確さで記述されているかは不明である。しかし、何らかの根拠があり、そして、ある真実を伝えているのだろう。この歴史の上に建てられる神殿。11-13節が、列王記記者にとってたいせつなメッセージなのだろう。 1 King 7:13,14 ソロモン王は人をやって、ティルスからヒラムを連れて来させた。彼はナフタリ族出身の寡婦の子で、父はティルス人で青銅の細工師であった。ヒラムは青銅のいろいろな細工をする知恵と英知と知識にたけていた。彼はソロモン王のもとにやって来て、そのあらゆる仕事をした。 宮殿の造作について書かれている。柱頭には百合の花の細工があり、側面が膨らんだ格子模様が施され、二百個のざくろ、などとあり、さらに「海」のまわりにはひょうたん、さらに牛などなど。造作が実際どのようなものなのか、わたしにはわからないが、これを読んだだけで、素晴らしいものだったろうとの印象を受ける。この責任を担ったのがヒラムである。イスラエルの血を引いているが、父はティルス人、イスラエルと比較すると、海外との交流が圧倒的に多く、技術的にも非常に高かったのだろう。そして、当時の世界で価値のあるものが表現されていたのだろう。芸術性は、どう考えたらよいか難しい課題である。人の感性、神様が与えた可能性を表現するものであるとともに、やはり神様から離れていく面も感じる。宗教改革においても、問われ、宗派によって、さまざまな解釈がなされた難しい問題でもある。おそらく、ソロモンのころにも、賛否両論だったろう。どう考えるのか、困難な課題である。 1 King 8:11,12 その時、ソロモンは言った。/「主は、密雲の中に住む、と仰せになりました。そこで私は、あなたのために荘厳な神殿/とこしえのあなたの住まいを建てました。」 この前に「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。」(10)とありその部分と、ソロモンのことばの最初が対応している。このあとに、「イスラエルの全会衆の方に向きを変え、彼らを祝福した。」(14a)とあり、民へのメッセージと、祈りが続く。いままでソロモンの信仰告白と考えていたが、ひょっとすると原稿執筆者がいたのかもしれないと思うようになった。むろん、ソロモンがそれでよいとして語り、祈ったのだろうが。それも含めてソロモンの知恵なのだろう。「荘厳な神殿」はダビデには建てられなかったろう。ましてサウルには、そしておそらくサムエルにも。列王記記者が、このメッセージを(多少の記録はあったかもしれないが)書いたのかもしれない。そう考えると、列王記記者の信仰告白とも言えるかもしれない。執筆者(Writer)が誰であれとてもたいせつなメッセージと祈りであることに変わりはない。ひとつ気になったのは、この章の出だしである。「ダビデの町、シオンから主の契約の箱を運び上げるためであった。」(1b)シオンと、神殿のある場所とを区別していることである。また「ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。」(29)も、申命記(申命記12:11,21)、歴代誌(創世記22:2, 歴代誌下3:1)解釈とも関係して、おそらく、宗教改革においても議論されたであろう、そして、ステパノの祈りにも現れる、特定の場所に関する解釈の分かれるところなのだろう。ここだけを読むと、どちらにもとれるように思う。 1 King 9:25 年に三度ソロモンは、主のために築いた祭壇で、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げ、主の前で香をたいた。こうして彼は神殿を完成した。 この一連の記事の締めに興味をもった。「こうして彼は神殿を完成した。」は定期的にソロモンが礼拝したことをもって完成したという記述である。神殿は礼拝する場所なのだから。そして、ソロモンは、それを継続したことも証言している。このあとには、次の章へと続く、ソロモンの他の業績が書かれている。この章には、主のことばがソロモンに語られたことが書かれているが、神殿を建てたばかりのときに、神殿が廃墟となる預言のようなものを含む、祝福とのろいが書かれている。どの時代に、この列王記が書かれたかとも関係する。たしかに、捕囚まで書かれているのだから、完成時には、その後どうなったかわかっていたのだろう。それを反省し、思い返して書かれたとすると、預言の要素は減っても、かえってその重さも伝わってくる。列王記記者の痛みが。おそらく通常第二神殿と言われる、捕囚後に再建された神殿は知らないのだろう。 2021.5.23 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  23. BRC 2021 no.023:列王記上10章ー列王記下1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記上の後半を読み、列王記下に入ります。列王記は、ダビデからソロモンへの王位継承書き始め、その後の分裂、北イスラエル王国と南ユダ王国の王位継承について書かれていますが、同時に、エリヤ、エリシャを中心に、預言者についても、中心的なトピックとして書かれています。ホームページの列王記下の箇所には、列王記の記者も持っていたかもしれない問として次の2つを上げてあります。 • 神の民の王国が分裂し、再統一はできず、異教徒に滅ぼされたのはなぜだろうか。 • 預言者の役割は何であるか、そして、預言者のことばから、歴史をとおしての神様の働きをどう受け止めたらよいのか。 列王記記者は、王国が滅びてしまうところまで書いているわけですから、最初の問いはとても大きかったと思います。何が原因か、何が悪かったのかと考えるのは、たいへんな事が起こった時、わたしたちもまず考えることかもしれません。因果関係はそう簡単に、わかるわけではありませんし、人類史として、世界がどう動いているかと切り離して考えることもできないでしょう。因果応報と、神様の恵みに生きることをどのようなバランスで考えたら善いのでしょうか。 また、当時の教養人、ものごとの本質(主の働き・御心)を真剣に捉えようとしながら、先見性を持って、王政の近くで、または、かなり離れたところで、忠告や助言をしていたのが、預言者でしょうから、その預言者から学ぶこともたいせつに思います。同時に、それは、神様について知ることでもありますから、人間がすこしずつ神様について、真理について知っていく過程の一段階だとも言えます。後の時代のわたしたちのほうが知っている面と(歴史も含めて、情報はより多く持っていることは確かです)、そうでもなく、失われている面と両方あるのかもしれません。 みなさんは、どのような問を持ちながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記上10章ー列王記下1章はみなさんが、明日5月31日(月曜日)から6月6日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 列王記上および列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#kg1 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。列王記下の今回皆様が読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1 King 10:8 あなたの国民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの御前に仕え、その知恵を耳にしている家臣はなんと幸せなことでしょう。 サウル、ダビデ、ソロモン、それぞれに特徴がある。しかし、王たる者の資質は非常に難しいことも、露呈している。王制は、その王に依存してしまうが、それでは「国民はなんと幸せなのでしょう」といえる状態にはならないのだろう。一番困難なのは、どの時代も、平等ではなく公平性と、 繁栄ではなく、持続性だろうか。このあたりに、平和と豊かないのちを生きることが関係しているのかもしれない。ひとは、歴史を通して、さらに、謙虚に求め続けることによって、すこしは、平和と豊かないのちに近づけるのだろうか。シェバの女王が驚いたように、その驚きでまずは、よいとすべきだろうか。 1 King 11:9,10 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。主はかつて二度ソロモンに現れ、このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。 これが、列王記記者の歴史観なのだろう。捕囚になった頃から、歴史をさかのぼって、なにが問題だったのだろうと考えて行き着いたのが、この時点、ソロモンの背信だったのだろう。確かに 6章12節と9章6節に警告が記されている。しかし、それが絶対的かというと、疑問も残る。ソロモンの知恵は、この多くの外国人の妻により支えられていたかもしれない。「その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。」(7,8)もその知恵故に、普遍的な宗教にこころも向かい、他民族、他宗教にたいして寛容になっていったのかもしれない。それは、絶対に許容される道ではないと考えるのも、ひとつだが、神・真理の理解がそれほど単純ではないことを、知ったとも言える。しかし同時に、国としては衰退を余儀なくされる。一人の知者によっては、ひとの心は変わらず、育むには、さらに最低でも、3000年程度は必要なのだから。ソロモンが自分は間違っていなかったと言ったとしても、それも、適切とは言えないだろう。難しさは、現代にも引き継がれている。愚者よ学べ、知者よ驕るな。主を畏れよ。 1 King 12:7 すると、彼らは次のように答えた。「もしあなたが、今日にでも、この民の僕となって彼らに仕え、彼らの求めに応じて利益になることを約束されるなら、彼らはいつまでもあなたの僕となるでしょう。」 通常 Servant Leadership と呼ばれる形式が不完全かもしれないが表現されている。「存命中の父ソロモンに仕えていた長老たち」(6)と書かれている。この章には、危ういとも思われる歴史解釈がいくつも存在する。1つ目は「このように、王は民の言うことを聞かなかったが、それは主が仕向けられたことであった。主は、シロ人アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに語られた言葉を実現しようとされたのである。」(15)である。すべてのことの背後に主がおられることよりも、踏み込んでいて、特定の解釈を与えている。「今のままでは、私の王国はダビデの家に戻ってしまう。この民がいけにえを献げるため、エルサレムの主の神殿に上るようなことがあるとすれば、民は再び彼らの主君であったユダの王レハブアムのもとに戻ってしまうだろう。彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに戻ってしまうだろう。」(26)ヤロブアムのこの言葉は、冷静で知恵に満ちている。そうであれば、簡単に、主が仕向けられたとは言えないように思う。そして「このことは罪となった。」(30a)としている。サムエル記の慎重な筆致と変わっているようにも思う。このヤロブアム革命による分裂ををどう捉えるのか、難しかったのだろう。実際、ユダとイスラエルが一つになること自体かなり難しかったろうから。 1 King 13:18,19 だが預言者は言った。「私もあなたと同じ預言者です。御使いが主の言葉に従って、私に、『その人を家に連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませなさい』と告げられました。」彼は噓をついたのである。そこで神の人は預言者と一緒に戻り、その家でパンを食べ、水を飲んだ。 不思議なはなしである。一方で「この後も、ヤロブアムはその悪の道から立ち帰ることがなかった。」(33)とあり、ヨシア王預言ともいえる(2)が書かれており、北イスラエルの地にも、預言者が誠実に主に従おうとしていたこと、それは、常に試されることであったと証言しているのだろう。しかし、納得はできない。もしかすると、ソロモンのころかそれ以後でもかなり早い時点で、サムエル記が成立し、そのあと、付け足されていったのかもしれない。サムエル記は、一気に書かれたように見えるが(多少の追記や修正はあったとしても)列王記は、追記につぐ追記だったのかもしれない。サムエル記に続くものとして編纂しようとして、揺れが生じているようにも思う。まったくの推測でしかない。 1 King 14:7-9 行ってヤロブアムに言いなさい。『イスラエルの神、主はこう言われる。私はあなたを民の中から取り立て、わが民イスラエルの指導者とした。私はダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。だが、あなたは僕ダビデのようではなかった。ダビデは私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。あなたはこれまでの誰よりも悪を行い、自分のために他の神々や鋳像を造り、私を怒らせ、私を背後に捨て去った。 正直、ヤロブアムも困るだろうと思った。ダビデを選んだときのような慎重な記述は書かれていない。単に、ソロモンの子だけではない状態になったところに、ヤロブアムは関わっているが、それ以上の役目は、すくなくとも、ヤロブアムは最初から考えていなかったろう。背景に、列王記記者の歴史観があるのだろう。この章には、『イスラエルの王の歴代誌』(19)『ユダの王の歴代誌』(29)が現れる。これが、聖書に含まれる歴代誌とどのように関わっているかは不明である。『ヤシャルの書』(サムエル記下1章18節)『ソロモンの事績の書』(列王記上11章41節)以降は、上の2書だけが引用されているようである。歴代誌のほうは、それと比較して、引用が多い、いずれ調べることにして例として上げておく、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』『予見者ガドの言葉』(歴代誌上29章29節)『預言者ナタンの言葉』『シロ人アヒヤの預言』『ネバトの子ヤロブアムに関する予見者イエドの幻』(歴代誌下9章29節)『預言者イドの注解』(歴代誌下13章22節)『ユダとイスラエルの列王の書』(歴代誌下16章11節、25章26節 )『ハナニの子イエフの言葉』『イスラエルの列王の書』(歴代誌記下20章34節、33章18節、36章8節)『ユダとイスラエルの列王の書』(歴代誌下28章26節、32章32節)『預言者であるアモツの子イザヤの見た幻』(歴代誌下32章32節)『哀歌』(歴代誌下35章25節)これで全てではないだろうが。 1 King 15:14,15 人々は高き所を取り除かなかったが、アサの心は生涯を通じて主と一つであった。アサは、父が聖別したものと自分自身が聖別したもの、すなわち、銀、金、祭具類を主の神殿に運び入れた。 このように書いた直後に、イスラエルの王バシャとの戦いのために、背後にいる「ダマスコに住むアラムの王、ヘズヨンの子タブリモンの子であるベン・ハダド」(18)に「主の神殿の宝物庫、および王宮の宝物庫に残っていた銀と金のすべて」(18)を贈ったとある。むろん、このあとにも、宝物は残っているので、誇張表現が入っているのだろうが、一時しのぎのような面が伺える。列王記記者は、明らかにアサを高く評価しているが、アサが治めた41年間(10)をどう評価するのかは難しいように思う。エリヤ・エリシャ物語へといそぎ、丁寧に書いていないのかもしれない。サムエル記とはかなり異なるように見える。サムエル記記者は「ダビデは主の目に適う正しいことを行い、ヘト人ウリヤのことを除けば、生涯を通じて主が命じられたすべてのことに背くことがなかったからである。」(5)とはまとめなかったのではないだろうか。 1 King 16:23,24 ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間統治した。彼は、六年間、ティルツァで統治した後、シェメルからサマリアの山を銀二キカルで手に入れ、山を切り開いた。彼は切り開いたその町の名を、山の所有者シェメルにちなんでサマリアと名付けた。 歴史的にはアッシリアの記録にもオムリの国(英語では Omrides)と記録に残っているようだ。イスラエルでは、このあと、アハブ、アハズや、ヨラムと、オムリの家系が収めることになるからだろうか。聖書としては、アハブの時代の記述が多い。オムリについては「オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前の誰よりも悪を行った。彼は、ネバトの子ヤロブアムのすべての道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返し、空しい偶像によって、イスラエルの神、主を怒らせた。」(25,26)とまとめられているが、北イスラエル王朝の首都ともなる、重要な町サマリアを建てたわけで功績は大きいとも言える。サムエル記の歴史観からみると狭く感じるが、書きたいことは、中心的な預言者、エリヤとエリシャの記述に向かっているのかもしれない。 1 King 17:12 すると彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には、焼いたパンなどありません。かめの中に一握りの小麦粉と、瓶に少しの油があるだけです。見てください。私は二本の薪を拾って来ましたが、これから私と息子のために調理するところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬばかりです。」 有名な箇所であるが、あまり無理に合理的な説明をしないほうがよいのだろう。この章は「ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。』」(1)と始まっており、このやもめのような状態の人はたくさんいたろう。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。」(ルカ4章25,26節)ルカにおいてはほとんど最初のイエスの説教の中に出てくる。こちらも、どのように解釈したらよいか難しい箇所だが、一般的なものとは違った見方をイエス様がみていたことは確かだろう。背後に、イエスの痛みがあったのかもしれない。引用句の背後にも神の痛みが隠れているように思った。 1 King 18:39,40 これを見た民は皆その前にひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。エリヤが、「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな」と言ったので、民は彼らを皆捕らえた。エリヤは彼らをキションの渓谷に連れて行き、そこで彼らを残らず殺した。 エリヤと「イゼベルの食卓に連なる四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者」(19)の対決である。そこには「全イスラエル」も招集されている。カルメル山は、ガリラヤ湖の西、地中海に突き出た半島にある。エリヤはそのときのイスラエルの状態を憂えていただろうが、なにを目指していたのだろう。民が、主こそ神であることを知り、民の信仰を惑わす、他の宗教の預言者を滅ぼすことだろうか。オバドヤの存在は興味深い。19章にも出てくるが、おそらく、主の預言者はエリヤ一人ではなかったろう。「主の預言者としては、ただ私だけが一人残った。」(22)は真実ではないことになる。主は、このことを通しても、一つのことではなく、いくつものことをなされているように思った。また、バアルは、豊穣神、アシェラは豊穣の女神・神々の産みの親のようだ。非常に自然な信仰形態で、このような対決で、イスラエルの心と生活が、主に向かうことはないように思う。だからといって、冷ややかに見ているのもいけないのだろうが。難しい。 1 King 19:7,8 すると、主の使いがもう一度エリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。エリヤは 起きて食べ、そして飲んだ。その食べ物で力をつけた彼は、四十日四十夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。 眠ることと食事がまずは与えられている。規則正しい生活とも言えるかもしれない。すでに、べエル・シェバから先に1日路行っていたとすると、ホレブはそれほど遠くない。200km ほどだから、4日ぐらいだろう。これは、四十年間さまよい続けた出エジプトの民のように、さまよい続けることを意味しているようにも思われる。ここにある期間の省略があることも、重く受け止めなければならないのだろう。いずれにしても、18章のあとにこの章の記述が続いていることは、とても貴重である。エリやは、バプテスマのヨハネはエリヤの生まれ変わりではないかと語られるだけでなく、変貌の箇所でも(マタイ17章1-13節など)イエスがエリヤを読んでいるとも取られており(マタイ27章45-56節)、ローマ11章1節から6節では、この19章について語られており、旧約最大の預言者とも言えるかもしれない。しかし、なぜそれほどまでに語られるのかは、すこし疑問に思う。 1 King 20:42 預言者は王に言った。「主はこう言われる。『私が滅ぼし尽くすと決めた人物を、あなたは手元から逃がしてしまった。それゆえ、あなたの命が彼の命の代わりとなり、あなたの民が彼の民の代わりとなる。』」 この預言者はこのメッセージをアハブ王に告げに来ている。自ら傷を負い、その命に従わなかったひとにさばきを下してまで。(36)アラムは頻繁に聖書の現れるが、アラム側でなにが起こっていたかは記されていない。ベン・ハダトが「私の父があなたの父から奪った町はお返しいたします。ですから、父がサマリアでしていたように、あなたはダマスコで市場を開いてください。」(34)と語っていることからも、様々な交流があったのだろう。ダビデ・ソロモンの時代にも、様々な交流がある。ここでは、山岳地帯の神、平野の神という表現も現れる。(23,25,28)しかし、おそらく、列王記記者は事はそれほど単純ではないことをよく知っていたろう。アッシリアやバビロンというような巨大な王国がこのあと、攻めて来て、巨大なエジプトすら滅ぼしてしまうのだから。つまり、「主はこう言われる」ということばが使われていても、それが直接的に主の御心の全体像ではないことは、知っていたのだろう。深いとも言えるし、恐ろしいとも言える。預言者集団、主により頼んだ当時の教養人を見くびってはいけない。 1 King 21:22 あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたが私を怒らせたためであり、またイスラエルの人々に罪を犯させたためである。』 エリヤ再登場である。20章にも「神の人」(20:28)、「預言者のうちの一人」(10:35)が登場するが、おそらく、エリヤではないのだろう。ナボトのことば「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」(3)からも、まさに「バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者(七千人)」(19:18)がこのように存在したのだろう。ナボトの町の「貴族」(8)のように、アハブ・イゼベルに簡単に従ってしまう人も多かったのだろうが。引用句では、ヤロブアムの家、バシャの家と出てくる。イスラエル王国は、アハブはオムリの家系、すでに、3つ目の家系となる。家系のことは、あまり意識していなかったが、この預言を見ても、意識されていたことを意味するのだろう。へりくだったアハブをみて「アハブが私の前にへりくだったのを見たか。彼が私の前にへりくだったので、その生きている間は災いを下さない。その家に災いを下すのは、その子の時代においてである。」その子の時代と記されている。現代の感覚とは異なる。 1 King 22:45 ヨシャファトはイスラエルの王と友好的であった。 通常は、まとめがあり、そのあとに具体例が続く。ラモト・ギルアドの戦いにヨシャファトがアハブと一緒に行ったことが書かれ、ここは、ヨシャファトについて引用句のように書かれている。これも、列王記は、北イスラエル王国中心に書かれたことの証と捉えればよいのかもしれないと思った。ここに付け足しのように、ヨシャファトについて書かれている。「ヨシャファトは父アサの道をそのまま歩み、そこから離れず、主の目に適う正しいことを行った。」(43)ともある。有効的にすることは、特別良いとも悪いとも書かれていない。ヨシャファトの子ヨラムの妻は、アハブの娘で、その子アハズヤがユダで王となるわけで、王家にアハブの家系が入り込むことはあったわけだが。(列王記下8章)平和は、難しい。列王記の区切りは、エリヤの時代とエリシャの時代とも言えるが、基本的には、やはりアハブの死で区切られているのだろう。 2 King 1:13-15 アハズヤはさらに、三人目の五十人隊の長と部下五十人を送り出した。五十人隊の長は上って来ると、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人、私の命と、あなたの僕であるこれら五十人の命が、どうかあなたの目に尊いものとなりますように。見てください。天から火が降り、先の二人の五十人隊の長と、その部下五十人を焼き尽くしました。どうか、私の命をあなたの目に尊いものとしてください。」主の使いがエリヤに、「彼と一緒に下りて行きなさい。彼を恐れるには及ばない」と言ったので、エリヤはすぐに、隊長と一緒に王のもとへと下って行った。 前の二人の隊長は「神の人、王が下りて来なさいと言われています」(9)「神の人、王が急いで下りて来なさいと言われています」(11)と言っていることに、滅ぼされた理由を求めることもできるだろうが、ここでは、エリヤの神理解が進んだとも言えるかもしれない。「私の命と、あなたの僕であるこれら五十人の命が、どうかあなたの目に尊いものとなりますように。」とあるが、主の恵みに生きる感覚がこの隊長には、あったのだろう。因果関係としては、捉えないが。「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに伺いを立てに行くというのは、イスラエルには神がいないためなのか。」(3,6)と問うているが、この問も、列王記記者の問だろう。エリヤの解く、神に仕えることは喜ばしいことには見えなかったのだろう。それは、ある程度、わかるように、思う。その感覚と、この隊長二人と、その部下100人が殺されたこととも交錯する。 2021.5.30 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  24. BRC 2021 no.024:列王記下2章ー列王記下15章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記下を読み進めます。前回は、ホームページの列王記下にある問を書きました。次々とそれぞれの王の統治時代について書かれていますが、列王記上の後半には、エリヤとアハブのことも書かれていました。列王記下には、エリシャについても書かれています。列王記はいかがですか。列王記は、王さまの名前がたくさん出てきて、さらに、イスラエルの王とユダの王と同じ名前のこともあるので、わたしも混乱してしまうことがよくあります。年をとって?(実は若い頃からそうでしたが)すぐひとの名前を忘れてしまうことも関係しているかもしれませんが。 列王記は巻名からも王に焦点があっているのは仕方がないかもしれませんが、すべての良し悪しを王の信仰がどうであったか、熱心な王のようであったか、分裂を引き起こし、それを定着させたヤロブアムのようであったかに集約しすぎているようにも思います。違った視点を与えてくれるのが、預言者、預言者集団の働きの記述のように思いますが、どうでしょうか。王からは距離をおいて生活していたようですね。おそらく、預言者だけでなく、様々なひとびとの生活が背後にあったのでしょう。 アハブや、列王記下で書かれている、ヤロブアム(II世)のころは、経済的発展を遂げ、支配地域も拡大したようです。列王記はそのことには、ほとんど興味を示していないようです。しかし、他の周囲の民族との関係は、様々に書かれています。王制では、政治・経済・外交など、王や人々の関わり方も変わっていっているのかもしれません。そして、近くの大国アラムだけでなく、アッシリアやバビロンも登場します。このようなことは、人々の平和や救いや幸せと関係ないのでしょうか。列王記記者は、それをどう捉えていたのでしょうか。 これは、わたしの疑問ですが、みなさんも、問を持って、読み進めませんか。最初に書いたように、王の名前による混乱もあるでしょうが、その中で、考えながら、当時のひとたちのことも理解しようとしながら、可能ならその方々との交わりも持ちながら、読みすすめることができればと願います。列王記記者のそれぞれの王の評価からすこし距離をおいて、この王様いいもん、この王様はワルモンと裁く読み方とは違った理解ができるかもしれませんよ。みなさんも、そして、みなさんの周囲の方も、いいもん、ワルモンと分けるひとたちではないことを願います。 みなさんは、どのような問を持ちながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記下2章ー列王記下15章はみなさんが、明日6月7日(月曜日)から6月13日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。列王記下までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2 Kings 2:24,25 エリシャは振り返り、彼らを見て、主の名によって呪った。すると、森から二頭の熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人を引き裂いた。エリシャはそこからカルメル山に行き、カルメル山からサマリアに戻った。 神はやはり恐れるものなのかもしれない。このように、主の預言者を侮辱またはからかった子どもたちがたくさん熊に引き裂かれたことが記録されているのだから。それは、列王記記者にとっては、自然な表現だったのだろう。「どうかあなたの霊の二倍の分け前をくださいますように」(9)このエリシャの願いが叶えられたことの表現がこの章の後半のテーマなのだろう。最後は、エリシャがカルメル山に行ったことが記されている。列王記上18章のときは、すくなくともその場にはいなかったろうから、エリヤの経験したこと、バアルやアシェラの預言者と対峙したことを、こころに刻みたかったのだろう。そこではなにを受け取ったのだろうか。「主がエリヤをつむじ風で天に上げられた」(1)ことはどのように理解すればよいのだろうか。 2 Kings 3:4,5 モアブの王メシャは羊を飼っていて、イスラエルの王に十万匹の小羊と十万匹分の雄羊の毛を納めていた。しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。 具体的な隷属関係・契約が書かれていて興味深い。モアブは、羊の牧畜が主たる産業だったのだろう。「十万匹の小羊と十万匹分の雄羊」が全体のどのような割合なのかは不明だが、おそらく、かなりの量だったろう。ここでは、「モアブの王メシャは羊を飼っていて」と始まるので、おびただしい数の羊を飼っていることが、モアブの王の権威で、それが辱められていたのだろう。イスラエルでも牧畜が重要な位置を占めていただろうから、これらは、他の産品との商取引に用いられていたのかもしれない。アハブがかなりの力をもっていたことがわかる。イスラエルの王に背いたことが書かれているが、アハブの子ヨラムは「彼は主の目に悪とされることを行った。ただ、父や母ほどではなく、父が造ったバアルの石柱は取り除いた。しかし、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪にしがみつき、それから離れなかった。」(2,3)とあり、なにか評価として薄っぺらい感じがするが、まだイゼベルが生きていた頃であるから、大変なことだったろうと思う。ただ、アハブのように威圧的ではなかったことが、モアブが背いたことと関係しているようである。ここには、エドムも登場する。イスラエル、ユダ、モアブ、エドム、アンモンもそうだろうか、長い歴史的な複雑な力関係があったことが伺える。しかし、おそらくそれも、アッシリア以前のことである。まだ、平和な時代だったのかもしれない。平和の時代に育むべきことは何なのだろうか。 2 Kings 4:43,44 従者は、「どのようにして、これを百人の人たちに配るのですか」と尋ねた。エリシャは答えた。「皆に配って食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べても、なお残すだろう。』」そこで配ってみると、主の言葉どおり、彼らは食べて、なお残した。 この章には、エリシャの奇跡と言われるものが書かれている。最初は多くの器を油で満たし、次には、こどもを生き返らせ、そして3つ目がこのパンである。イエスのなされた、カナの婚礼での水をぶどう酒に、そして青年や少女を生き返らせ、さらに、パンで養うことを彷彿とさせる。同じことをしているというより、イエスは、エリシャの働きを通して、神の国、神様が支配されている世界を生きることについて、考え、生き、伝えているように思う。相違をどう理解したら良いのか、わたしには、まだわからない。これらの奇跡を全体として捉えたことがいままでなかったように思う。丁寧に見ることで、イエスの働きについても、よりよく理解したい。 2 Kings 5:11,12 ところが、ナアマンは怒って立ち去り、こう言った。「私は、彼が自ら出て来て私の前に現れ、彼の神、主の名を呼んで、患部に手をかざし、病を癒やすものとばかり思っていたのだ。ダマスコの川であるアバナやパルパルのほうが、イスラエルのどんな水よりも良いではないか。それなのに、これらの川で洗っても、清くなれないというのか。」ナアマンは身を翻し、憤って立ち去った。 このあとに家臣たちは「ご主君、あの預言者が大それたことを命じたとしても、あなたはきっとそれをなさったことでしょう。ましてあの方は、『身を洗って清くなれ』と言っただけではありませんか。」(13)と進言している。まず、ナアマンは、自分の願いが、叶えられる道筋までを願いの一部にしてしまっている。いままで、十分苦しみ、そのなかで、こうであったらと、様々な期待や夢を妄想する中で、本当に願っていることがぼやけてしまっているのだろう。他方、周囲の家臣たちは、なにか、困難なことをすることで、願いが叶えられるかもしれないと考えていたかもしれない。そのどちらもが覆された。それを受け入れるのは、当事者のほうがより困難であることも証言している。それだけ、悩み、苦しみが深かったのだろう。同時に、それを消化して、受け入れる時間と機会が与えられてもいる。神の国に生きることは、自分の思いから自由になることなのだろうか。そして、背後には、神の恵みがある。 2 Kings 6:23,24 王が盛大な宴会を催したので、彼らは食べて飲んだ。王は彼らを主君のもとへと送り返した。アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった。その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集して攻め上り、サマリアを包囲した。 4章から8章途中までエリシャのエピソードが続き、その間はイスラエルの王と記され、名前は書かれていない。3章と8章を見るとアハブの子ヨラムの名が記されているので、おそらく、ヨラム王の時代なのだろう。しかし、切り離して記されているように思われる。それは、このような奇跡物語が普遍的な歴史記述とは異なるレベルで記されているからではないかと思った。引用箇所は、連続した2節であるが、普通に読めば矛盾している。これも、エピソード集で、歴史的事実として記述しているものとは異なることを意味している。このエリシャのような存在がいれば、アッシリアにも、バビロンにも、滅ぼされなかったかもしれないと思ってしまうが、おそらく、列王記記者は、そのことは主張していないのだろう。同時に、エリシャの近くで起こったことの記述が多く、エリシャに近いものたちからの、伝承も多かったのだろう。それらを編集せずに掲載していることが、かえって価値があるのかもしれないと思った。編集すると、列王記記者の視点・解釈が強くなりすぎてしまうので。 2 Kings 7:1,2 エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今頃、サマリアの門では、上質の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルとなる。』」王の介添えをしていた侍従が神の人に、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはありえない」と答えると、「あなたは自分の目でそれを見ることになる。だが、それを食べることはない」とエリシャは言った。 この章の最後にこれがどのように実現するかが書かれている。しかし、エリシャのエピソードの始まる前の3章1節から3節のアハブの子ヨラムについての記述が、エリシャの時代の背景を記述しているのかもしれないと思った。「彼は主の目に悪とされることを行った。ただ、父や母ほどではなく、父が造ったバアルの石柱は取り除いた。」(3:2)エリヤについては、列王記19章でその内面がある程度書かれているが、エリシャについては、シュネムの女との関わり以外は、それが表現されていないように見える。エリシャが語ったことではなく、その周囲の人が語ったことが書かれているのかもしれない。エリシャの奇跡物語は、おそらく、そのような背景もあり、理解が難しい。 2 Kings 8:16,17 イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第五年、この時、ユダの王はヨシャファトであったが、ユダの王、ヨシャファトの子ヨラムが王となった。彼は三十二歳で王位につき、八年間エルサレムで統治した。 毎回混乱するのでまとめておく。アハブ אַחְאָב('aḥ'āḇ, Ahab : father's brother)、アハブの子ヨラム יוֹרָם(Yôrām, Joram: Jehovah is exalted)はイスラエルの王、ユダの王ヨシャファト יְהוֹשָׁפָט(Yᵊhôšāp̄āṭ, Jehoshaphat: Jehovah has judged)の子も同じくヨラム יְהוֹרָם(Yᵊhôrām, Jehoram or Joram: Jehovah is exalted)だが、こちらのヨラムには、ה ハーが入っている。厳密には異なるのだろうか。ただ、ה はいろいろな形で付け加えられるので、大きな差はないのかもしれない。その子は、アハズヤ אֲחַזְיָה('ăḥazyâ, Ahaziah: Jehovah (Yahu) holds (possesses))で、その母は、アタルヤעֲתַלְיָה(ʿăṯalyâ, Athaliah: afflicted of the Lord)でオムリ עָמְרִי(ʿāmrî, Omri: pupil of Jehovah)の孫娘とあるが、言葉としては、単に娘 בַּת(Baṯ: daughter)である。オムリは、クーデターを起こし、ヤロブアムの家系を絶やしたジムリを7日後に滅ぼした王で、アハブはその子、アタルヤはその娘なので、孫娘という訳になっているのだろう。たしかにそのような関係もこのことばで表現されたようである。 2 Kings 9:22 ヨラムはイエフを見ると、「どうしたのか、イエフ」と尋ねたが、彼は、「何がどうしたのかだ。あなたの母親イゼベルの淫行と呪術がはびこっているというのに」と答えた。 4節から、エリシャに託された言葉を、若い預言者が告げる場面が書かれているが、興味深いのは、11節から13節のイエフと他の将軍たちとのやり取りの方だ。引用箇所からも、イエフはおそらく、アハブ、その妻イゼベル、その子ヨラムについて、これではイスラエルは滅びると考えていたのだろう。「ヨラムは、全イスラエルを率い、アラムの王ハザエルに対して、ラモト・ギルアドを防衛していたが、アラムの王ハザエルとの戦いでアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに戻っていた。」(14b,15b)とあり、イエフや他の将軍は、アラムの王ハザエルと戦っていた最中である。現場では、王の命令系統の乱れなどから、これではいけないという実感が強かったのだろう。しかし、敵と対峙しているときに、簡単には動けない。しかし、ここで、他の将軍たちの支持を取り付け、急いで、イズレエルに向かっている。時間も大切だったのだろう。それが、エリシャの言葉「それから戸を開け、逃げなさい。ぐずぐずしてはいけない。」にも乗り移っているのだろう。平穏にみえる世界が一変する出来事である。列王記上19章で、エリヤに告げられた預言の成就である。 2 Kings 10:31,32 しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。この頃から、主はイスラエルを切り崩し、ハザエルはイスラエルの全領土に侵攻した。 イエフはエリシャによって油注がれ、アハブ家を滅ぼす任務を負う。まずは、イスラエルの王ヨラムと、アハブの娘の子であるユダの王アハズヤ、その後もアハブの家系のものを徹底的に滅ぼし、かつバアルに仕えるものも殺す。しかし、列王記記者の記述を見ると、あまり好意的ではない。ヤロブアムの罪(ベテルとダンに金の子牛を置いたこと)の故である。まずは、アラムのハザエルの侵攻を記している。これが歴史観なのだろう。偶像礼拝から離れなかったことこそが鍵とも言えるが、ヤロブアムの罪は、ユダにある、エルサレム神殿にイスラエルの民の心が向かわないようにしたこと、分裂を固定化しようとしたことなのだろう。そこに問題を集約することはひとつの歴史解釈だろうが、罪人は救われないというのに近い。アッシリアやバビロンに滅ぼされることは、あまりに大きなことではあるが、主を知ることは、単純には、達成できないように思う。到達点を明示するよりも、求め続ける謙虚さだろうか。 2 Kings 11:20 国の民は皆喜んだが、都は静まり返っていた。彼らはアタルヤを王宮で剣にかけて殺したのである。 興味深い表現である。この章では、アハブの子アタルヤが殺されるが、アタルヤの孫でもある、アハズヤの子ヨアシュは助け出され王となる。結局、アハブの家系を根こそぎにすることは、できない。国の民が喜んだのは、イスラエルの影響が減ったことも原因かもしれないが、都は、このクーデターのような状態の中で、血が流されたことを喜べなかったということだろうか。ヨシェバ、ヨヤダについても、あまりよくわからない。おそらく、まだ、基本的なことも、十分理解できていないのだろう。アタルヤはイスラエル・ユダを通して唯一の女王であるように思う。その事自体については、ほとんど記されていない。たんなる、レッテルを貼っているだけのように思われる。少なくとも、イスラエルとユダが統一されるのぞみはないのだろう。 2 Kings 12:15-17 実際、献金は工事担当者に渡され、それで彼らは主の神殿を修理した。工事担当者に渡すように献金を託された人々が、監査を受けることはなかった。彼らは忠実に仕事をする者だったからである。償いのいけにえのための献金、清めのいけにえのための献金は、主の神殿に納められず、祭司たちのものとなった。 ヨアシュの改革が書かれている。神殿での献金は、いけにえに関わる分は基本的に祭司の取り分として定められているが、それ以外について、別の管理の仕方にしたことが書かれている。神殿の改修がなかなか行われなかったことが背景にあるようだ。祭司の管理のもとですることも可能だったろうが、祭司以外が担当することになり、それが適切になされたようである。「監査を受けることはなかった」とあるが、これは、不適切と指摘されるようなことはなかったという程度の意味だろう。神殿や宗教の運営が世俗に移行していったとも言える。そのもとで適切になされることはたいせつだろう。世俗(secular)の人々が、責任を持つことで、改善されていくことも、多いと思う。ただ、このあとには、ハザエルに主の宝物庫のもののすべてを渡さざるを得なかったことが書かれている。(18,19)一般の人の関与だけではなく、政治が適切に行われていることも関係している。ユダ王国では、神殿を中心とした、王制が整っていく中で、課題が多くあったことも見えて興味深い。 2 Kings 13:14 さて、エリシャが死に至る病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが彼のところに下って来て、その前で泣いて言った。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。」 ヨアシュについては「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムのあらゆる罪から離れず、それに従って歩み続けた。」(11)と書かれているが、おそらく、それほど単純ではないのだろう。エリシャの死に臨んで、会いに来ている。つねに「ネバトの子ヤロブアムのあらゆる罪」と表現されている。これが解決されなければ、エルサレムでの礼拝によって、主を主とすることができないとの判断が背後にあるのだろう。次の14章には、ヨアシュの子ヤロブアム(2世)が領土を回復したことが書かれており、列王記には、書かれていない多くのことがあったのだろう。エリシャの記述も、奇跡の記述となっており、その背後にあるものは、なかなか伝わってこないように思う。歴史解釈はとても、むずかしいということだろう。 2 Kings 14:5,6 アマツヤは国を掌握すると、父であった王を殺害した家臣を打ち殺した。しかし、モーセの律法の書に記されているとおり、殺害者の子どもは殺さなかった。主が次のように命じておられるからである。「父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される。」 「父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される。」(申命記24章16節)を引用しているのだろう。イスラエルでは、イエフによってアハブの家系を根絶やしにすることが行われた。結局、完全にはできなかったようだが。このように、引用するのは、なにか虚しく響く。また、父であった王とはだれだろうか。ヨアシュと考えるのが普通である。(1)このあたりも、イスラエルの王とユダの王に似た名前があり、混乱しそうになる。記録も、不正確なのかもしれないと思ってしまう。一般的に考えると「主の目に悪とされることを行う」(24)ヤロブアム二世のもとでの繁栄(23-26)をどう解釈するべきかの混乱もあるように思われる。 2 Kings 15:5 主が王を打たれたので、アザルヤは死ぬ日まで規定の病にかかり、離宮に住んだ。そのため、王の子ヨタムが宮廷長として国の民を治めた。 アザルヤは「その子ヨタムが代わって王となった」(7,32)という記述の共通性から、ウジヤと同一と考えられている。ウジヤについては、主が王を打たれた経緯も含め、歴代誌下26章に詳しく書かれている。ただ、列王記記者は、歴代誌に書かれていることがこの規定の病(癩病と総称されていた伝染病)にかかったことの原因であるとは、証言していない。補完しあってより完全な出来事の記録(account)を作成することが一般的だが、それは、それぞれが書かれた意図を無視することでもあり、気をつける必要があるとも思う。共通するのは、「主が王を打たれた」背後に主の存在を告白することだろう。ただ、これも、重い病を主からの罰と考えることが文化的背景にあったと思われ、世の光(ヨハネ9章4節)であるイエス・キリストのメッセージ「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)をしっかりと受け取ることもたいせつであると思わされる。聖書を読む最大の目的は「主(真理)を知る」ことなのだから。 2021.6.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  25. BRC 2021 no.025:列王記下16章ー歴代誌上4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記下の最後を読み、歴代誌に入ります。王様の名前が次々に出てきますし、似た名前も多いので、混乱しますね。わたしも、何度読んでも混乱します。以前は王の名前も暗記していてすらすら言えましたが、いまは、もうだめですね。単に名前を覚えても、完全に混乱を回避できるわけでもないように思います。列王記下の、今回皆さんが読む部分は、北イスラエル王国の滅亡と、南ユダ王国の最後が書かれています。何人かの王様の記述を読むと、期待を持たされることもありますが、みなさんは、どのような気持ちで読まれるでしょうか。自分たちの滅亡の歴史を書くというのは、辛いことだったでしょう。しかし、それを、その人達なりにきちんと書いてくださったことにより、わたしたちは、その痛みを共有することができるとともに、いくつもの課題について共に考えることができるように思います。わたしたちの将来への教訓として、神様を知るため。おそらく、列王記記者も、希望の灯火を消さないで、自分たちの歴史と向き合っているのでしょう。一つ一つの記述について、これはすごいと思ったり、批判的になったりすることもあると思いますが、サムエル記・列王記という、王国の歴史を編集したひとたちからの、メッセージと、その人たちのこころを丁寧に受け取りたいと思います。サムエル記・列王記記者と共に神様の前にいきるために。 歴代誌を読み始めると、まず、人数の記述も含めた膨大な系図にまず圧倒され、次に、サムエル記・列王記とほとんど同じではないかと思われるかもしれません。しかし、同時に、捕囚から書き始め、捕囚から帰ってきた人たちの記述があり、それから、系図が書かれ、そして、(他の部族をも含む)ユダ王国の歴史が中心に書かれていると理解することもできるでしょう。捕囚から帰還したひとたちは、どのような人たちで、その人達の背景や課題、たいせつにしたいと考えたことは何だったのでしょうか。サムエル記・列王記とは異なる記述にはどのようなものがあるでしょうか。別の情報を提供してくれているわけで、王国の歴史を補完して読む面と、歴代誌記者がそれを挿入したり、編集して書いた意図を考えることなども興味深いかもしれません。そして、それを通して、歴代誌記者にとっての神信仰について、そのメッセージを受け取ることができると良いですね。実は、長いこと、私にとっては、歴代誌は鬼門でした。なかなか興味をもって読めませんでした。いまは、少し違いますが、みなさんは、どうでしょうか。 みなさんは、それぞれのエピソードをどのように受け取り、どのような問を持ち、どのようなことを考えながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記下16章ー歴代誌上4章はみなさんが、明日6月14日(月曜日)から6月20日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 列王記下および歴代誌上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#kg2 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。歴代誌上の今回読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2Kings 16:17,18 アハズ王は台車の鏡板を切り離し、台車の上から洗盤を取り外し、「海」をその下にある青銅の牛の上から引き下ろし、敷石の上に置いた。また、アッシリアの王のために、神殿の中に建てられている安息日のための廊と、外側にある王の入り口を、主の神殿から取り除いた。 アハズの事績(19)であるが、当時、中東はアッシリア中心に動いていることがわかる。北イスラエルはまだ完全には滅ぼされていないが、すでに一回目の捕囚によりアッシリアの属国となっている(列王記15章29節)。そして、長い歴史を持つこの地域の最強国アラムの王レツィンもアッシリアによって殺されている。(7-9)このことに、ユダのアハズが加担しているわけだが、この時点では、選択肢がなかったのかもしれない。アッシリア自体の衰退を待つよりなかったかもしれない。アッシリアに敗れたアラムのダマスコの祭壇を築くことに祭司ウリヤが従順に従うことも書かれている。外から見ると滑稽に感じるが、それは、当時の危機をまったく理解しないものの感覚なのだろう。列王記記者はどうなのだろうか。まだ、希望が残っていたはずだと信じているように思われる。 2Kings 17:27,28 そこで、アッシリアの王は命じた。「あなたがたが捕囚として連れ去った祭司の一人を、元いたところに連れ戻しなさい。連れ戻してそこに住まわせ、その地の神のしきたりを教えさせなさい。」こうして、サマリアから捕囚として連れ去られた祭司の一人が戻って来て、ベテルに住み、どのように主を畏れ敬うべきかを教えた。 サマリア教団とでも言えるものの起源(の一つ)が24節から31節に書かれている。実際にライオンのことが重要な契機だったのか、祭司一人だけだったか、不明である。目的は、ヤーヴェ礼拝の復興ではなく、「その地のしきたりを教え」混乱を回避することであり、その責任を、この祭司の流れを組むものたちに押し付けることはできないだろう。実際、自分がそこに派遣されたらと考えてみると、状況は非常に困難である。北イスラエルと、南ユダに分かれたときがこの起点のようにも見えるが、その前から、かならずしも一体ではなかったことを考えると、人間の性(さが)なのかもしれないとも思ってしまう。主を主として平和に暮らすことはどれほど困難なことなのだろうか。ひとは、しかしながらそれを求め続けるものとして造られているのかもしれない。そして、その困難さは、神様が一番よくご存知なのかもしれない。 2Kings 18:31,32 ヒゼキヤに聞き従うな。アッシリアの王はこう言われるからだ。『私と和睦し、降伏せよ。そうすれば、お前たちは皆、自分の畑のぶどうやいちじくを食べ、自分の水溜めの水を飲むことができるようになる。私が来て、お前たちを、お前たちの土地と同じような土地、穀物と新しいぶどう酒の土地、パンとぶどう畑の土地、新しいオリーブ油と蜜の土地に連れて行くまで、死んではならない。生きよ。』ヒゼキヤに聞き従うな。彼は、『主が私たちを救い出してくださる』と言って、お前たちを欺いている。 アッシリアのラブシャケの言葉である。ラブシャケはユダの言葉で話したようである。(26)「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上って来たと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ。」(25)を見ても、相手を理解し、兵を失わずに、屈服させる技術も持っているように思われる。引用箇所は、通常言われている、アッシリアの征服民に対する政策について書かれている。つまり、他の土地に移動させることで、地域での結びつきを希薄にさせることである。結局は、このゆえにアッシリアに対する反発が大きくなったとも言われているようだが、残念ながら、世間知らずのユダとは、かなり異なるように思われる。列王記記者は、ヒゼキヤを最高の王としているようだ。(1-4)確かに、モーセが作ったネフシュタンであっても、偶像礼拝につながるのであれば、打ち砕く(4)など、信仰的態度に関しては称賛に値する。しかし、本当に、それをもって最高の王として良いのだろうか。難しい。それは、何を幸せとするかにも関わっていることなのだろう。そしてそれを全体的に捉える(holistic view)だろうか。わたしも、もちろん、よくわからない。 2Kings 19:19 私たちの神、主よ、どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地上のすべての王国は、あなただけが神、主であることを知るようになるでしょう。」 ヒゼキヤの祈りとして記されている。「主よ、確かにそうです。アッシリアの王たちは諸国民とその国土を荒廃させました。」(17)まず、このようにも述べて、アッシリアが善いものをもたらしてはいないことを観察して、これは主からのものではないと確信しているようである。列王記記者は、ヒゼキヤの何代かあと、またはヒゼキヤ後も、ヒゼキヤのような王が続けば、ユダは滅ぼされなくて済んだと考えているのだろうか。巨大帝国時代の魁(さきがけ)としてのアッシリア、このあとも、多少途切れはするが、強大な王国が続く。因果応報として、神の働きを捉える事自体に問題があるのではないだろうか。おそらく、列王記のように、神の選びの民が捕囚となるという大事件をあとに控え、歴史を振り返る営みをしていてくれることが、われわれにヒントを与えてくれているのだろう。難しい課題であるが、その難しさをしっかり受け止めたいと思う。それが、ヒゼキヤが使っている意味とは異なるだろうが、新たな神理解「あなただけが神、主であることを知る」ことなのかもしれない。 2Kings 20:3 「ああ、主よ。私がまことを尽くし、誠実な心で御前を歩み、あなたの目に適う良いことを行ってきたことを、思い起こしてください。」ヒゼキヤは涙を流し激しく泣いた。 結局、ヒゼキヤの思いは因果応報である。列王記の記述によると、それを、主がうけとめて答えたように書かれている。これも、恵みなのだろう。そして「ヒゼキヤはイザヤに、『あなたが告げられた主の言葉はありがたい』と答えた。自分の在世中は平和と安定が続くと思ったからである。」(19)とある。報いも、自分の時代だけのことを考えているかのようである。むろん、この19節の言葉には、様々な解釈があるが。そして最後「ヒゼキヤの他の事績、すべての功績、貯水池と水路を造って都に水を引いたこと、それらは『ユダの王の歴代誌』に記されているとおりである。ヒゼキヤは先祖と共に眠りに就いた。その子マナセが代わって王となった。」(20,21)と結ばれている。このマナセが問題だったと、このあと続くのだろう。ヒゼキヤ絶賛(18:1-4)から始まったヒゼキヤについて記した結びである。淡々としてもいるが、全体としては、トータルに評価しようとしているようでもある。サムエル記記者や、列王記記者なら、わたしの人生をどう記述するだろうか。おそらく、それは重要ではない。神の御心・真理をもとめて日々悩みながら、しかし、委ねながら謙虚に歩むことなのだろう。主の恵みに生かされていることを覚えつつ。 2Kings 21:3,4 父ヒゼキヤが破壊した高き所を建て直し、バアルの祭壇を築き、イスラエルの王アハブが造ったように、アシェラ像を造った。また天の万象にひれ伏し、これに仕えた。主の神殿には、他の神々の祭壇を築いた。そこは主が、「エルサレムに私の名を置く」と言われた所である。 わたしはあるときに、このことを学んだと思っている。いくら適切なことをしても、一瞬のうちにそれが失われることが頻繁にある。適切なことと言っていてもそれでは、自己満足と大きく変わらない。どのように、それが受け継がれていくべきか、それにはなにが必要で、それは、人間の普遍的性質を考えたときに、適切になされうるものかを十分に考えなければいけない。先見性と言われまた普遍性にも関わることである。おそらく、それこそが、教養人・知識人、そして、当時であれば、そしておそらく、現代でも、預言者の責任であり、役割であるのだろう。実際にことをすすめるひとは、どうしても、その時々の益を求める。それは、ある程度仕方がない。しかし、しっかりと伝え続けるとともに、それが受け継がれ、検証もされなければならない。信頼を得られるために。この最後の部分「エルサレムに私の名を置く」は検証が必要な部分である。聖書的基盤も薄弱である。そして、イエスは、この部分を開放されたかただとも言える。当時、そのことを理解することは無理であったかもしれない。われわれはほとんどのことを理解できていないように。謙虚(それが本当に主のみこころか継続的に検証をしながら求め続けると共)に同時に Proactive に(先のことを考えた, 事前に対策を講じ)行動しながら。ヒゼキヤ・マナセ父子から学ぶことは多い。 2Kings 22:15-17 彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたがたを私のもとに遣わした者に言いなさい。』主はこう言われる。『見よ、私はユダの王が読んだこの書の言葉どおり、この場所とその住民に災いをもたらす。彼らが私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったあらゆるものによって、私を怒らせたからである。私の憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。』 ヨシヤ王の記事が書かれている、まずこの章では、神殿修復については、12章の(ユダの王)ヨアシュの神殿への献げものについての記述と酷似している。しかし同種類のことであることも書かれていない。そのあとに、「あるとき、大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『主の神殿で律法の書を見つけました』と伝えた。」(8)とあり、シャファンは読み、それを王に報告し、さらに、女預言者フルダに使いをよこしている。引用句はそのときのフルダのことばの前半である。最後は、ヨシアが主の前にへりくだったことが書かれ「それゆえ、私はあなたを先祖の列に加えるので、あなたは安らかに自分の墓に葬られ、私がこの場所にもたらすいかなる災いも、その目で見ることはないであろう。」(20)と結ばれている。しかし、23章29節にはエジプトの王ファラオ・ネコとの戦いの中で死んだことも書かれている。列王記記者はそれも知っている。いろいろと議論はできるだろうが、評価は困難である。民も含めて神の御心に生きることは不可能である。では、求められていることは何なのだろうか。小さなヒントはいくつかあるが、難しい。 2Kings 23:21-23 王はすべての民に命じた。「この契約の書に記されているとおりに、あなたがたの神、主の過越祭を祝いなさい。」実に、イスラエルを治めていた士師の時代から、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われたことはなかった。ただヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われただけであった。 これは驚くべきことである。レビ記23章5節、民数記9章2-14節、申命記16章2-8節に書かれている。それだけではなく、出エジプト記の記事をすこしでも知っていれば、過越の祭は非常に自然なことでもある。律法が確定していなかったのか、考えるのは自然でもある。ダビデのころから記録が詳しくなっているが、だんだんと祭司などを中心として、それまで蓄積されていたものが、まとめられ確立していったのかもしれない。このときに、できたと考えるのも、不自然に思う。さらに後代の成立として、神殿もなくなり、律法を中心に宗教集団が形成された、エズラのころまで下がる説もどうなのだろうか。たしかにその頃に、極度に重要なものになったことは確かだろう。聖書はいったいどのような書物なのだろう。今回の通読では、列王記記者も、知らなかったのかもしれないと思った。聖書学として、いろいろな議論があることはある程度知っているが、個人的通読者としての感想である。 2Kings 24:1,2 ヨヤキムの治世に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。ヨヤキムは三年間彼に隷属していたが、一転して反逆した。主はカルデアの部隊、アラムの部隊、モアブの部隊、そしてアンモン人の部隊を送られた。僕である預言者たちによって告げられた主の言葉のとおり、ユダを全滅させるために送られた。 アッシリアがいつの間にかバビロンに代わっている。ヨシヤはエジプトの王ファラオ・ネコとの戦いの中で死ぬが、その戦いの経緯も書かれていない。世界史的観点は、欠落している。できごとの内面化だけでは、神様がどのように働いておられるかを知ることはできないと思う。認知しなければ、考察できないとしても、認知する範囲を限定すれば、適切な考察もできないのだから。引用句には、カルデアの部隊、アラムの部隊、モアブの部隊、そしてアンモン人の部隊についても書かれている。これらの背後に主がおられることを告白しているが、他者を知ることはどこまでできていたのだろうか。まだ、そこまでの交流・交易がなかったのかもしれない。アッシリア、バビロンと続く、大帝国時代は、中東の交流・交易の枠も広げたことだろう。その渦に、むりやりに入れられている面もあるのかもしれない。あまり醒めすぎてみるのは、適切ではないが。もう一つ考えたのは、この時代にエリヤやエリシャがいれば、ユダ(やイスラエル)は滅びなかったかという問いである。おそらく、問題をそう単純化はできない。このあと、預言書を読むが、その時代の預言者もいるのだから。 2Kings 25:8,9 第五の月の七日、すなわちバビロンの王ネブカドネツァル王の治世第十九年に、バビロンの王の家臣、親衛隊長ネブザルアダンがエルサレムにやって来た。そして主の神殿と王宮を焼き払い、エルサレムの建物をすべて、大きな建物もみな火で焼き尽くした。 「王の軍勢は皆、王を見捨てて散って行った。」(5)とあり、無残な最期である。バビロンの王に反逆した(20)王の政策の失敗を批判し、もしかすると平穏な日がくると思ったひともいるかも知れない。一ヶ月弱で、親衛隊長が事後処理に訪れる。このときの破壊と略奪が書かれている。親衛隊長の役得もあったのだろうか。(15)シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤについては不明だが、系図が三代書かれており、ユダに関係した人物だったかもしれない。アッシリアのラブシャケが土地の言葉で語りかけたように、イスラエル・ユダについて、他の国では十分な知識を収集していたのかもしれない。そうでなければ、アッシリアやバビロンのような大帝国はできなかっただろう。イエスが現れるのは、一般の人の間の国際的な交流が進んでからである。考えるべきことは多い。 1Chronicles 1:46 フシャムが死んで、代わりに王となったのはベダドの子ハダド。彼はモアブの野でミデヤン人を討ち破った者で、その町の名はアビトと言った。 創世記25章の記事からとったものだろうか。「主はソロモンに敵対する者として、エドム人ハダド הֲדַד(Hăḏaḏ: Hadad = "mighty")を起こされた。彼はエドムの王家の血筋を引く者であった。」(列王記上11章14説)とあり、また、イシュマエルの子にもハダド(30)がおり、アラムの王ベン・ハダド(ハダドの息子の意。列王記上15章)も登場する。一般的な名前であるととともに、エドムにとっては、重要な名前だったのかもしれない。「モーセのしゅうとであるカイン人の一族」(士師記1章16節)など、カイン人の記録は多い。系図は、イスラエルとの近さを表現したものなのだろうか。どこまでが記録で、何を伝えたかったのはは、不明である。イスラエルは、系図を大切にしたことは確かなのだろう。 1Chronicles 2:16,17 彼らの姉妹はツェルヤ、アビガイル。ツェルヤの子らはアブシャイ、ヨアブ、アサエルの三人。アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシュマエル人イエテルであった。 あまり系図のことで議論したくないが、列王記までの資料にないことが書かれている場合、それなりの意味をもたせるものと、知られていることを加筆している面があるだろう。ここでは、アマサの父がイエテルであることは、列王記上2章5節、32節にかかれているが、母がダビデの姉妹(おそらく姉)であったことや、イエテルがイシュマエル人であることは書かれていないように思われる。イシュマエル人がそれなりに登場することを考えると、近い関係にあったのだろう。少なくとも、エッサイ家は。それが軍事力の背景にあったかもしれない。このあとには、ベツァエル(出エジプト31章2節)がカレブの孫であることも書かれている。おそらく、ウリの子とは書かれているが、カレブの孫だとはこれまでに書かれていないのではないか。そうだとすると、指導者の家系ではあるが、若かったのかもしれない。むろん、最初に書いた、加筆のどの種類によるかにも関係するが。 1Chronicles 3:15,16 ヨシヤの子らは長男ヨハナン、次男ヨヤキム、三男ゼデキヤ、四男シャルム。ヨヤキムの一族は、その子エコンヤ、その子ゼデキヤ。 ダビデの子らについて詳しく記したあと、次に詳しいのは、このヨシヤの子らである。このあとに、捕囚の身となった人たちのリストが続く。ダビデ王家としての起源とともに、血筋を明確にして書きたかったのだろう。当然、北イスラエル王国については現れない。おそらく、この時点で、ユダとその近くに住んでいた部族とユダの中に住んでいたレビ以外は、ほとんど失われていたのかもしれない。しかし、ダビデに結びつけることで、少数いた、イスラエルの他の部族を含めようとしているのか。詳細はわからない。 1Chronicles 4:21-23 ユダの子シェラの子らは、レカの父エル、マレシャの父ラダ。彼らはベト・アシュベアで上質の亜麻布の仕事に就く氏族であった。それにヨキム、コゼバの人々、モアブの主人となったヨアシュとサラフ、そしてヤシュビ・レヘム。これらの記録は古い。彼らは陶工で、ネタイムとゲデラの住民であった。王の仕事を手伝うため、そこに住んだのである。 この章には、王家以外のユダ族とシメオン族について記されている。このあと他の部族について記されているが順序についてはなぜこのようにしたか不明である。自分たちが持っている古い記録はすべて記そうとしたように感じる。引用箇所では、亜麻布の仕事、陶工について記され、それが王の仕事を手伝うためとあり、代々そのような働きをしたのだろう。 2021.6.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  26. BRC 2021 no.026:歴代誌上5章ー歴代誌上18章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌上を読み進めます。歴代誌上は最初から系図が9章まで続きます。その後はダビデ、ソロモンから、南ユダ王国の歴史を中心に書かれています。列王記は、北イスラエル王国の記述が多いですが、その列王記やサムエル記からの、完全な引用もたくさんあります。しかし、完全な引用ではなく、変更している箇所も、たくさん認められます。前回、わたしは「実は、長いこと、私にとっては、歴代誌は鬼門でした。なかなか興味をもって読めませんでした。」と書きました。理由は上に書いたように、系図や繰り返しに興味が持ちにくかったことも背景にあるでしょうが、変更している箇所に対しても、どちらかというと、否定的な感じを受けたからもあると思います。比較は、時間もかかり、基本的に、なかなか大変ですが。 加筆や変更は、どのような場合にされるのでしょうか。そこに書かれていないがたいせつだと考える情報を持っている場合と、ある内容の強調も含めて書かれていることの歴史解釈を加えたい場合かなと思います。他には、どのようなことが考えられるでしょうか。もし、お考えがあれば教えてください。歴史的解釈は、個人においては、あることがらの人生における意味づけとか内面化とも言えることのように思いますが、その反対側にあるのが客観的記述でしょうか。事実の羅列では意味がないとも言われ、内面化の営みがひととしてたいせつだとも言われます。同時に、それが、個人のことではなく、たとえば、国の盛衰に関わる場合は、意味付けや解釈だけでは、危ういとも思われ、よく、evidence based と言われますが、客観的な事実に則った議論の大切さも唱えられます。コロナ禍のような、多くの人に関わる危機の中では、自分や他者の行動とともに、政策の是非などが、通常以上に議論されますが、十分な客観的事実が整っているわけでもない状況では、困難でもあります。 歴代誌の書かれた背景も似ているのかなと思います。歴史的解釈と、客観的事実(系図や人数や住んでいる場所から読み取ることができることもあります)を背景とした分析、しかし、それを十分手にしているわけではない。そのなかで、神様のみこころを読み取ろうとしているように思います。これは、わたしの考えですが、(この国が異教の国に滅ぼされ、捕囚となった理由について)歴代誌記者もよくわからなかったのではないかと思います。それで、ちぐはぐになったり、一方的な解釈になったり、事実の記述とかならずしも合致していなかったり。でも、だれにとっても、難しいことですから、歴代誌記者と共に、一緒に悩み、考えるのもよいかなと、最近思っています。ひとの苦しみや辛さは、基本的に他者にはわかりませんが、それでも、その人とともにいることでなにかのメッセージを受け取ろうとすることでしょうか。神様のことばとして書かれていても、それは、ひとつの受け取り方というようなことを書くと、怒られるかもしれませんが。 みなさんは、それぞれのエピソードをどのように受け取り、どのような問を持ち、どのようなことを考えながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌上5章ー歴代誌上18章はみなさんが、明日6月21日(月曜日)から6月27日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。歴代誌上までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1 Chronicles 5:17,18 彼らは皆、ユダの王ヨタムとイスラエルの王ヤロブアムの時代に登録された。ルベンの一族、ガド人、およびマナセ族の半数は勇者の一族であり、盾と剣を取る者、弓を引く者、戦いに熟練した者など、四万四千七百六十人が兵役に就いていた。 これまで、歴代誌は捕囚帰還後にひとつの歴史認識のもとで編集された文書と考え、なかなかていねいに読めなかったが、そう簡単には記述できないことを、書こうとしている面も今回はみつけて新しい気持ちで読めるかなと思っている。この章はヨルダンの東側の「ルベンの一族、ガド人、およびマナセ族の半数」について書かれ、最後にレビのことについて書き始めている。ガドは人として区別している。ガドは、レアの召使いジルパの子だが(創世記30章9-11節)ここでは「ユダの王ヨタムとイスラエルの王ヤロブアムの時代に登録された。」となっている。ヤコブ(イスラエル)の直系というわけではないのか。引用句の後半は、兵役に就いたもののかずが書かれいる。これは、いつの時代のものなのだろうか。このあとには、戦いにおいて、神の助けがあったことが書かれている。ひとつの解釈なのだろう。「彼らがハガル人、エトル、ナフィシュ、ノダブと戦ったとき、神は彼らを助け、ハガル人とその味方を皆、彼らの手に渡された。これは、戦いに際して彼らが神に叫び求め、神への信頼のゆえにそれが聞き入れられたからである。」(19,20)整理されたいないことがかえって興味深い。わたしの歩みについて考えても、整理して表現する部分は、内面化の後であり、単純な事実の記述ではないのだから。 1 Chronicles 6:39-42 領内の宿営地ごとに彼らの居住地を挙げると、次のとおりである。ケハトの氏族に属するアロンの一族には、くじが当たったため、ユダの地のヘブロンとその周辺の放牧地が与えられた。ただし、この町の畑と、町に属する村落はエフネの子カレブに与えられた。またアロンの一族には、逃れの町であるヘブロン、リブナとその放牧地、ヤティル、エシュテモアとその放牧地、 このあとにはまだまだ続く。系図をある程度修正することは考えられても、居住地を変更することは知っている人が多いため困難だろう。ここでは、ヘブロンがカレブの町だっただけではなく、アロンの一家の居住地であったことが書かれている。それがユダの中にあり、中心地でもある。ダビデはエルサレムに移る前、そこを拠点としている。ユダが祭司との交流が多かったことは容易に想像がつく。ヤロブアムが北イスラエルを独立させるときに、ユダの影響から離れることを考えたことは当然だろう。そしてその後、国が一つになることはない。逃れの町がどの程度実効性を持ってその機能を発揮したかは不明だが、レビ族との関係が深かったことは、確かだろう。レビ族では、ゲルションの家系は、北イスラエルとともに大半は消滅したのかもしれない。 1 Chronicles 7:13 ナフタリの子らはヤフツィエル、グニ、イエツェル、シャルムで、ビルハの一族である。 ナフタリについてはこれだけである。ラケルの妾ビルハの子である。軍の数も書かれていない。「ダンの息子はフシム。ナフタリの息子はヤフツェエル、グニ、イエツェル、シレム。以上が、ラバンが娘ラケルに与えたビルハの子らである。ビルハがヤコブに産んだのは、これらすべて合わせて七名である。」(創世記46章23-25節)を見ると最初からエジプトに行った人数が少なかったこともわかる。(歴代誌上6章47,62節参照)しかしそうすると、他の部族も気になる。ダンとゼブルンである。歴代誌上12章34節にはゼブルンについて、36節にはダンについて書かれ、レビに与えられた放牧地について、ゼブルンは歴代誌上6章48,62節に登場する。つまりこのまとまりには、ダンとゼブルンは登場しない。ゼブルンはレアの子であり、正妻かどうかが関係しているわけでもないようである。少なくとも、歴代誌が書かれた頃には、部族の人数や記録の多寡にも差があったのだろう。 1 Chronicles 8:28 以上は、系図に記された親族の頭である。頭である彼らはエルサレムに住んだ。 ベニヤミンの子孫について書かれ(7章6節から12節にも記録がある)ている。注目すべきは、ここに、頭はエルサレムに住んだことである。サムエル記上・下を通して書かれている、ダビデのサウルとその子ヨナタンへの対応がここに反映しているのだろうか。三年続いた飢饉をサウルの家に責任があるとして、サウルの家系の者を7人一度に処刑することもしているが。(サムエル記下21章1-14節)少なくとも、北イスラエル王国ではなく、南ユダ王国にとどまったベニヤミンの家系のものが多かったのだろう。その子孫の中に、使徒パウロもいることになる。 1 Chronicles 9:2,3 最初に自分たちの町の所有地に戻って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿に仕える者であった。エルサレムにはユダの子孫の一部、ベニヤミンの子孫の一部、エフライムとマナセの子孫の一部が住んだ。 この章の第1節は「イスラエルの人々はすべて登録された。彼らのことは『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは背信の罪のために、バビロンに捕囚として連れ去られたが、」と始まる。最初の一文は前章につながっているのかもしれない。気になったのは、イスラエルはなにを意味するのかである。7章にはダンとゼブルンは入っておらず、ここでも、レビ以外で名が書かれているのは、4部族のみである。たしかに、これらが、イスラエル全体を代表するという考え方もあるが、このあとに人数が書かれていることを考えると、それほど単純でもないだろう。歪(いびつ)さも気になった。エルサレムに住んだ部族の人数かどうかは不明だが、ユダ 690人、ベニヤミン 956人、祭司の同族 1760人。最後はレビを表しているかもしれないが、これで町を形成するのは不可能である。そして、このリストには、エフライムとマナセは登場しない。南ユダ王国に少数のエフライムとマナセが住んでいただろうことは別として、北イスラエル王国の人たちがどうなったかはとても興味がある。ユダ滅亡よりも180年程度前に滅びており、こちらは、アッシリアにより、おそらく様々な場所に捕囚となったであろうから。歴代誌からは歪みが感じられるが、それは、その社会自体が、歪んでいる苦しさを表しているのかもしれない。批判的にではなく、その歪さの中に身をおいて、読んでいければと思う。 1 Chronicles 10:13,14 サウルは主に対する背信の罪のために死んだ。彼は主の言葉を守らず、霊媒に伺いを立て、これに尋ねながらも、主に伺いを立てようとはしなかった。そのため主は彼の命を絶ち、王権をエッサイの子ダビデに渡された。 毎年、この箇所を考えている。サウルに問題があったことは、否定できないが、本当に、ここに書いてあることを死の理由とする解釈でよいのだろうか。霊媒については、サムエル記上28章3-25節にかかれているが、「主に伺いを立て」る行為の一部として書かれている。サウルの苦しみを切り捨てることは簡単だろう。しかし、他者理解の範囲が広がりつつあることを踏まえての神理解という視点からは、サウルの精神状態。確かに欠けのある人間であったとしても、サウルの苦しみとそれを理解しその背後におられる主に目をむけることがたいせつなのではないだろうか。歴代誌記者は、ダビデに望みを抱いているのだろうか。それは、これから読んでいくこととする。キュロスの解放令により、帰還してはみたものの、幸せについて考える時、やはり安定した基盤、強い国家は必要不可欠なものだったのかもしれない。なぜ、ダビデを追い求め、イエスはダビデの子とよばれ、しかしながら、イエスは神の子として生きようとし、その道を説いたのか、理解していきたい。 1 Chronicles 11:1 イスラエルのすべての人々はヘブロンのダビデのもとに集まり、こう言った。「御覧ください。私たちはあなたの骨肉です。 1節から3節は、サムエル記下5章1節から3節と同じである。骨肉ということばは、とても強いように思うが、契約はあくまでも、ダビデとだったのだろうか。統一王朝はそう長く続かない。この章のリストをみても、ダビデが戦士として人望が篤かったことはわかる。26節からのリストには、外国人と思われる名前も多い。しかし、それに混じってルベン人とあるのも興味を引く。ルベンはどのような存在だったのだろうか。 1 Chronicles 12:1,2 ダビデがまだキシュの子サウルを避けていたとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである。彼らも勇士たちに連なり、戦場でダビデを助け、弓を手放さず、右手でも左手でも石を投げたり弓矢を射たりした。彼らはサウルと同族で、ベニヤミン出身であった。 ツィグラグ時代からの者の中に、サウルと同族の者が含まれているのは興味深い。あとからまとめたものにも、「サウルの同族であるベニヤミンの一族からは三千人。その大多数はそれまでサウルの家への忠義を守ってきた。」(30)とある。引用句の人たちとは、別なのだろうか。ただ、ここに書かれた部族ごとの人数に比して「ヨルダン川の向こうのルベン族、ガド族、マナセ族の半数からは、あらゆる武器を携えた者十二万人。」(38)この人数は多い。なにを意味しているのだろうか。不明である。 1 Chronicles 13:3 私たちの神の箱を私たちのもとに移そうではないか。サウルの時代には、これをおろそかにしたからである。」 「これをおろそかにした」に直訳「これに伺いをたてなかった」と注がついている。新共同訳「サウルの時代にわたしたちはこれをおろそかにした。」(口語訳も似た表現)となっている。主語は一人称複数である。むろん、一人称複数は人々をさすこともあるが。このあとの記事はサムエル記下6章1節から16節にある。「力の限り」(8)はサムエル記にはないなど、細かい違いはいくつかある。この「力の限り」はサムエル記下6章14節からとったものかもしれない。サムエル記6章を読んだときにも考えたが、やはり事故だったかもしれないと思った。問題は事故で人が死んだときその理由をどう受け取るかなのだろう。一般的には、事故の背後に神がおられたとしても、その意図は示されない。「宿営の移動の際には、アロンとその子らが聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後で、ケハトの子らが中に入って担ぎ上げる。だが、彼らは聖なるものに触れてはならない。触れると死ぬであろう。以上が、会見の幕屋のものでケハトの一族が運ぶものである。」(民数記4章15節)から、契約の箱の運び方に問題があったと理解する場合が多い。(歴代誌上15章2節参照)個人的には疑問を持つ。主はそのような方なのだろうか。むろん、聖であることを教育するある段階として、このようなことを用いられたことを否定はできないが。気になるのは、ウザの家族や子孫のことも、考えてしまうからである。そして、そのようなことは、現代でも多い。 1 Chronicles 14:12 ペリシテ人が自分たちの神々をそこに捨てて行ったので、ダビデは火で焼き捨てるよう命じた。 サムエル記下5章17-25節に並行記事がある。引用箇所については「ペリシテ人が自分たちの偶像をそこに捨てて行ったので、ダビデとその部下たちはそれを運び去った。」(サムエル記下5章21節)となっている。印象はかなり異なる。歴代誌記者の強調点なのだろう。ダビデが伺いをたてる部分は詳細に比較してはいないが、少なくともこの記事をいれたということは、その重要性も主張しているのだろう。かならず主のみこころを求める。これは、たいせつなことである。しかし、一般的には、占いのようなことをしなければ、答えは得られない。一つ一つに関して御心を求める重要性を強調することで、祭司や儀式を行うもの、または宗教が重要視される(おろそかにされない)ことは確かだろう。しかし、祭司や宗教儀式を行うものが、答えを得られないと悩む側ではなく、神の側に立つことになる。とても危険であると同時に、堕落も誘発することになるだろう。宗教に頻繁におこる罠でもある。謙虚に求め続けるものでありたい。 1 Chronicles 15:12,13 彼らに言った。「あなたがたはレビ人の親族の頭である。あなたがたとあなたがたの兄弟たちは身を清め、イスラエルの神、主の箱を、私が用意した所へ運び上げなさい。以前にはあなたがたがいなかったので、私たちの神、主は私たちに怒りをあらわにされた。定めに従って神に伺いを立てなかったからである。」 「あなたがた」は「祭司ツァドクとエブヤタル、レビ人のウリエル、アサヤ、ヨエル、シェマヤ、エリエル、アミナダブ」(11)であるが、おそらく「祭司一般」だろう。三つのことが気になった。一つは「レビ人の親族の頭」という表現である。モーセ五書にはなかった表現である。(出エジプト6章25節、ヨシュア21章1節と比較)もう一つは、アロンの家系はヘブロン、すなわちユダの町で、ダビデが最初に王となった場所にいたことである。 (歴代誌上6章39-42節)これでは、ユダのダビデ家に代々支配されることを望まない他の部族は、この構造を受け入れることは、できなかったろう。三つめは「以前にはあなたがたがいなかった」とあることである。2節の「神の箱を担ぐのはレビ人でなければならない。」は多少理解できるが、祭司までもいなかったというのは、不思議である。ダビデのころまでには、まだ、祭司・レビ人の祭儀での役割はできていなかったのかもしれないとも思わされる。モーセ五書(全部ではないにしても)の成立時期についても考えさせられる。 1 Chronicles 16:35 そして言え。/「我らの救いの神よ、私たちを救い/国々から集め、救い出してください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。」 サムエル記にはない歌なのだろう。サムエル記上7章18節から29節のものは、かなり個人的な祈りに思われるが、ここでは最後に「私たちを救い/国々から集め、救い出してください。」とある。歴代誌記者の祈りなのだろう。そう考えると「主の僕イスラエルの子孫よ/主に選ばれたヤコブの子らよ。」(13)とあるように、イスラエル全体に向けられている。すべての部族が均等にいたわけではないが、様々な部族がある程度ずついる中で、イスラエルがひとつのまとまりなのだろう。イスラエルとそれ以外は、おそらく、ダビデ・ソロモンの頃は弱く、その後消滅し、捕囚帰還後にそのアイデンティティがつよくなっていったのだろう。興味深い。 1 Chronicles 17:13 私は彼の父となり、彼は私の子となる。私は、あなたに先立つ者から取り去ったようには、その者から慈しみを取り去ることはしない。 まず注目すべきはここに「彼」が「わたし(神)の子」となるという表現である。このあとには「私は彼をとこしえに、私の家と私の王国に立たせる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。』」(14)と続く。引用は7節途中から「万軍の主」の言葉として預言者ナタンが語ったことになっている。(『』は原文にはない。)「彼」をどう理解するかは、明確ではない。「あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの末裔、あなたの子の一人を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。」(10)とあり、あなたの末裔、あなたの子となっており、ダビデの子を意味するが、必ずしも、第2代目を指してはいない訳し方になっている。キリスト教では、この彼をイエス・キリストと理解することが主流なのだろう。しかし、イエスは「ダビデの子」を否定している(マタイ22章11-46節)。歴代誌記者はどのように理解していたのだろうか。不明である。しかし、ダビデが告白しているように、ダビデを特別な者としていることが、中心であることは、文脈からは確かだろう。「主よ、あなたこそ神です。あなたは僕にこの良いことを約束してくださいました。どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主よ、あなたが祝福されたものは、とこしえに祝福されるのですから。」(26,27)「私達の知識は一部分であり、預言も一部分的だからです。」(コリント前書13章9節)として、ここで、キリストを指し示しているが、完全ではないと理解することもできるが、文脈からすると、やはり「ダビデの子」に期待をもたせる形式になっている。いずれにしても、無理に読み込みをせず、歴代誌記者や同時代の人々、つまり、捕囚から帰還した人にとっての願いが詰まっていると考えるのが自然であるように思う。 1 Chronicles 18:13,14 エドムに守備隊を置いた。こうしてエドムのすべての人々はダビデに隷属した。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。ダビデは全イスラエルを統治し、すべての民のために公正と正義を行った。 この前にも軍事的勝利が書かれており、それは、サムエル記下8章にある記述と似ている。後半の「公正と正義」もサムエル記下8章15節と同じである。その意味で目新しいことがあるわけではないが、ダビデの活動の詳細を省いており、これが、歴代誌記者が描きたかったダビデ像であるとともに、ダビデの子に期待することなのかとも思った。公正と正義はなにを意味するのだろうか。あくまでも、すべての民は、イスラエルの民(または寄留・帰属したもの)で、周囲の国としては「一時的に」劣勢に立たせられた軍事にたけた指導者だったろう。そうであっても、公正と正義についてもう少し理解したい。ひとが、望む平和は、不完全であるばかりか、神の平和とはかけ離れていることがおおいと思うからである。歴代誌記者にとっての公正と正義の中身が知りたい 2021.6.20 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  27. BRC 2021 no.027:歴代誌上19章ー歴代誌下3章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌上を読みおわり、歴代誌下に入ります。歴代誌上は、ダビデの時代まで。歴代誌下は、ソロモンの時代から、バビロン捕囚までと言いたいところですが、それより大分あと、ペルシャの王キュロス1世によって、第一陣がイスラエルに、そして、エルサレムに帰還がゆるされたことが記されて終わっています。(捕囚から、帰還までの帰還については、書かれていませんが。)その意味でも、列王記と少しズレがあります。ダビデ王の記述で、サムエル記とは違うものは見つけましたか。とくに、歴代誌下にはいると北イスラエル王国からの視点と、南ユダ王国からの視点の違いも認められて、興味深いですよ。とても自然なことですが、二者が争っている時、それぞれの側からの記述は変わってきますよね。読み飛ばしてしまうことも多いかもしれませんが、そのような両者の視点が、編集後ではありますが、残っていることも興味深いと思います。むろん、列王記からの単なる引用もありますが。 歴代誌は、『ユダの王の歴代誌』(列王記に多数引用)という文書も残っていてそれを参照した可能性も十分大きいですが、基本的には、バビロンなどからの帰還後にまとめられたものでしょうから、どのような気持ちでこの書を書いたのかとても考えさせられます。なぜ、出エジプトを経験した選びの民が、そして、ダビデの王国がずっと続くと神が約束してくださったと信じていたのに、主を知らない異教徒に滅ぼされてしまったのか。どこまで遡ればよいのだろうかと考えたと思います。そして、答えが完全にわかるわけではない。しかし、問い続ける。大変な作業だったと思います。そうして歴史書が編纂される。しかし、北イスラエルの目から見た、南ユダ王国とは、その記述に大きな違いがある場合も生じます。通読はゆっくりは読んでいられませんが、ちょっとメモなど残しておくとよいと思いますよ。章ごとにまとめた聖書ノートもわたしは作っていますが(Web上は現在作業中)ときどき眺めながら読んでいます。確認できないときもありますが。 みなさんは、それぞれのエピソードをどのように受け取り、どのような問を持ち、どのようなことを考えながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌上19章ー歴代誌下3章はみなさんが、明日6月21日(月曜日)から6月27日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌上および歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch1 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。歴代誌下の今回読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1 Chronicles 19:9-11 アンモン人は出陣して町の入り口に陣を敷き、援軍に駆けつけた王たちはそこから離れた野に陣を敷いた。ヨアブは戦線が自分の前と後ろにあるのを見て、イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり、アラム人に向かって陣を敷き、残りの軍勢を兄弟アブシャイの指揮に委ね、アンモン人に向かって陣を敷かせた。 16節からアラムとの戦いがもう一つ書かれているが、この記述からして、この最初の戦いが重要だとしているのだろう。ただ、後のほうは、ユーフラテス川の向こうにいたアラム軍(16)となっており、本体ではないかもしれないが、族長のようなものとは異なる軍だったのだろう。最後に「ハダドエゼルに仕えていた人々は、自分たちがイスラエルに敗れたと分かると、ダビデと和を講じ、彼に隷属した。アラム人は、二度とアンモン人を助けようとはしなかった。」(19)とあり、あくまでもアラムとしては和を講じたのみで、アラムが隷属したわけではないのかもしれない。引用句に戻ると、アンモンは「町の入口」に陣を敷いたとあり、いつでも逃げられる態勢であることを感じさせられる。8節には「ヨアブをはじめ勇士の全軍」という表現がとられ、引用句でも、「イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり」とあり、ヨアブはここを叩くことが鍵だとしてそこに力を注いだのだろう。アラムも「銀千キカルを送って、アラム・ナハライム、アラム・マアカ、ツォバから戦車兵と騎兵を雇った。」(6)傭兵で、おそらく土地の族長または豪族だったのだろう。興味深い記述と多少の誇張がアラムとの関係の記述にはあるようだ。ヨアブは客観的(一種科学的)な分析のもと戦略を練ったように思われるが、周囲はそのようなことは受け取れなかった可能性も高い。 1 Chronicles 20:2,3 ダビデもやって来て、彼らの王の頭から冠を奪い取った。それは金一キカルの重さがあり、中に宝石がはめ込まれていた。これはダビデの頭を飾るものになった。ダビデはこの町からおびただしい戦利品を持ち出した。また、そこにいた民を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、斧を持たせて働かせた。同様のことを、ダビデはアンモン人のすべての町に行った。こうして、ダビデと兵は皆、エルサレムに凱旋した。 「年が改まり、王たちが出陣する季節になった。」(1)を読むたびに、サムエル記下11章のウリヤの妻バト・シェバの件を隠していると思っていた。どうもそうでもないと今回思った。引用句はダビデが自分を飾ることに移行していることが書かれている。ダビデはおそらく優秀な戦士だったろうが、将軍として作戦を立てて軍を動かすことのできるヨアブに任せたことで、その力が発揮できなくなり、このような嗜好に移っているとも言えるかもしれない。歴代誌記者は、そちらのほうが問題だったと考えていたかもしれない。個人的な罪よりも、国家の指導者として責任を全うしていないということだろうか。ある意味では、歴史を通して見たとき、課題は、不倫ではなく、王の個人的嗜好のもとでの蓄財だと考えた可能性もある。 1 Chronicles 21:1 サタンがイスラエルに対して立ちはだかり、イスラエルの人口を調べるようにダビデを唆した。 歴代誌ではサムエル記下11章から24章にとんでいる、さらにこの記事と対応するサムエル記下24章の記事との対比は興味深い。一度時間を作って比較検討してみたい。引用箇所についてのみ簡単に書いておく。引用箇所に対応するのは「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主はダビデを唆して民に向かわせ、『すぐにイスラエルとユダの人口を調べよ』と言われた。」(サムエル記下24章1節)唆したのは、主なのか、サタンなのかがまず気になるが、サタンはヨブ記のように、神のもとにいる「誘うもの」と考えると、どちらも、主から出たこととしているとも言える。歴代誌は表現を弱めているだけかもしれない。罰としておこる疫病も、すべては主の主権のもとで起こる。主の主権という考え方、さらに主がある理由のもとでそのようにされたのだろうといる考えが強いのだろう。実際に起こったと記述されていることを考えると、反対するものもいる中人口調査をする。すると、そのあとで、疫病が起こる。特別な祭壇を築き祈ると収まる。この一連のことをどのように、理解するかである。預言者やほかの人達も、主の御心としてその理由を告げただろう。わたしたちは、どのように、そのメッセージを受け取り、または、冷静にわからないとすべきなのか、考えさせられる場面でもある。 1 Chronicles 22:5 ダビデは言った。「わが子ソロモンは若く、経験もない。また、主のために建てるべき神殿は、この上なく壮大で、万国に名声と誉れを得るものでなければならない。それならば、この私が彼のために準備をしよう。」こうしてダビデは死ぬ前に多くの準備をした。 批判するわけではないが、このような親心が問題なのかもしれないと思っている。自分は、公平性をずっと考えてきて、こどもがある程度に育ってからは手を出さなかったことも関係しているかもしれない。ソロモンにやらせたほうがソロモンは信仰的にも成長できたかもしれない。むろん、歴代誌記者の執筆意図として、ダビデが準備していたことを書きたかったのかもしれない。「見よ、私は苦労して主の神殿のために金十万キカル、銀百万キカルを準備した。」(14a)の表現も気になる。寄留者を集めたり、石材を切り出すことなど(2)は、列王記上5章31,32節によるとソロモンがしたことになっているのだから。ただ、手を出してしまう一番大きな原因は、自分の価値観に照らして、その事業の価値を最大化してしまうことだろう。子のソロモンに対する配慮があるように見えて、やはり価値観を押し付けている。ある意味では神への信頼が欠ているともいえる。わたしは、すこしダビデに厳しいのだろうが、世の中によく見え隠れする構造でもある。そしてこのように考えること自体、実は、わたしの、自分のこどもにたいする考え方を、このように書くことによって正当化しているのかもしれない。構造は複雑である。 1 Chronicles 23:28 彼らの役目は、アロンの子らの傍らで主の神殿の奉仕に就き、それぞれの庭と部屋を管理し、すべて聖なるものの清めをつかさどることであった。すなわち、神殿の奉仕を行うこと、 わたしの今日の気分が背景にあるかもしれないが、アロンの子ら以外のレビ族の身になって考えると、階級が固定化されるたいへんな記述だとも感じた。それは、レビ以外の部族もそうかも知れない。この章はダビデからソロモンへの移行の時代を背景として書かれている。しかし同時に、捕囚帰還後のひとびとの社会で書かれている。歴代誌上7章の捕囚帰還後(おそらく歴代誌が書かれた背景にある時代の)エルサレムの住民の構成の歪(いびつ)さとあいまって、新たな出発はたいへんだったのだろうと思わされる。まだ、整理して書けないが、ダビデのことばとして「イスラエルの神、主はその民に安らぎを与え、とこしえにエルサレムに住まわれる。レビ人はもはや、幕屋とその奉仕に用いる祭具一式を担ぐことはない。」(25,26)がひとつの鍵として書かれている。神殿中心かつ、役人はレビ人(1-6)これを理想として、捕囚帰還後の世界を構成しようとしたのだろうか。今朝は、緻密な思考は困難なのかもしれない。少しずつ理解していきたい。 1 Chronicles 24:3 ダビデは、エルアザルの一族の一人ツァドクと、イタマルの一族の一人アヒメレクと共に、それぞれに与えられている奉仕の役割に応じて、アロンの一族を組に分けた。 系図とともに、組織図が書かれている。捕囚帰還後の人たちは、一旦は各地に分かれ、それがまとまった集団を作ってエルサレムとその周辺の町に戻ってきているのだろう。自分たちのルーツを確認することは、重要だったのだろう。そして、捕囚のころまで遡ることは可能な場合も多かったのかもしれない。問題は、そこまで辿れないもの。そして、祭司やレビ族であれば、引用句のようなわけかたの構造の一部だと確認できなかったものだろう。捕囚の期間は、70年程度としても、その前には、荒廃した期間が続き、いくつもの集団に分かれて帰還し、帰還後も困難が続いていたことを考えると、自分のルーツの確認ができたひとと、できなかったひとの関係も難しかっただろう。今の、イスラエルもそうかも知れないが、破壊のあとの再構成は、不可能なのかもしれない。新しい社会を創らない限りは。自分で書いていても、空なることばに感じる。 1 Chronicles 25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを奉仕のために選び分けた。彼らは琴、竪琴、シンバルを奏でて預言する者となった。この奉仕を務めとする人々の数は次のとおりである。 ダビデと将軍たちとまずなっている。もともとは、略奪隊から出発したダビデたちが、琴・竪琴・シンバルを奏でて予言するものを組織している。ダビデが琴を奏でる記事がサムエル記上16章14-23節に登場する。将軍たちに戦いを任せるようになって、ダビデが楽しんだのが賛美で、それが組織されていったのだろう。アサフについては「ヘマンの右手に立つのは兄弟アサフ。彼はベレクヤの子、ベレクヤはシムアの子、 シムアはミカエルの子、ミカエルはバアセヤの子、バアセヤはマルキヤの子、マルキヤはエトニの子、エトニはゼラの子、ゼラはアダヤの子、アダヤはエタンの子、エタンはジンマの子、ジンマはシムイの子、シムイはヤハトの子、ヤハトはゲルションの子、ゲルションはレビの子である。 」(歴代誌上6章24-28)となっている。実にレビからは、15代目となる。ヘマンは、やはり、歴代誌上6章18b-23 にあり、レビの子ケハトの子孫で、レビから、21代目とある。ちょっと違いすぎるようにも思う。エドトンについては、書かれていない。ダビデの信仰にも、平安にも関係しているのだろうか。 1 Chronicles 26:30-32 ヘブロン人ではハシャブヤとその同族、すなわち勇者千七百人が、主に対するすべての仕事と、王に対する奉仕がなされるように、ヨルダン以西のイスラエルを監督することとなった。ヘブロン人の頭はエリヤ。ヘブロン人の親族の系図はダビデの治世第四十年に調査され、彼らのうちから、ヤゼル・ギルアドに力ある勇士が見いだされた。エリヤの同族である勇者二千七百人は親族の頭であり、ダビデ王は神と王に関わるすべての事柄のために、彼らにルベン族、ガド族、マナセ族の半数を管理する役割を任せた。 よく見ると、ヘブロン人が、ヨルダンの以西のイスラエルも、ヨルダン以東のルベン族、ガド族、マナセ族の半数もヘブロン人が管理・監督しているようだ。ヘブロンは、カレブの町で、ユダの主要な町さらに、祭司が住んだ町でもある。エルサレムに移るが、結局、ヘブロン出身のひとたちが、全イスラエルを支配していたのかもしれない。そこまでは考えていなかった。それを、捕囚帰還後の人たちは知っていたのだろう。 1 Chronicles 27:25,26 王の貯蔵庫の管理はアディエルの子アズマベト。畑、町、村、塔にある貯蔵庫の管理はウジヤの子ヨナタン。地を耕して畑仕事を行う者の管理はケルブの子エズリ。 軍の組織については、違和感がある。サムエル記下24章9節には「ヨアブは調査した民の数を王に報告した。イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」となっている。ここでの月ごとの常備軍は、どのようなものだったのだろうか。引用句はそれに続く箇所だが、ここでは、王の貯蔵庫の管理と、農地の管理などが書かれているが、あくまでも、王に関する部分の管理で、ユダ、イスラエル全土には及んでいないようである。そうであれば、全土から兵を集めることはできない。ヘブロンやエルサレム中心のそこにいる十二部族だったのだろうか。ちょっと唐突にも感じる。 1 Chronicles 28:19 「すべては主の手によって記されたもの、主が私に悟らせたもので、この見取り図が作業のすべてである。」 この章の最後は「見よ、祭司とレビ人の組が神殿のあらゆる奉仕に当たっている。どの務めを果たすにも、あらゆる奉仕に必要な知恵を身に着け、献身的に働く者たちが、あなたと共にいる。高官も民衆も皆、あなたの指示を待っている。」(21)と結ばれている。将来の幻をみて語っていると取れないこともないが、主たることは、神殿が、ソロモン神殿ではなく、ダビデに由来するものだと主張しているようだ。引用句では、見取り図は、ダビデが主から受け取ったものとしている。「わが子ソロモンよ、あなたは父の神を知り、誠実な心と自由な魂で神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。もし主を尋ね求めるならば、主はあなたの前に現れてくださる。もし主を捨てるならば、主はいつまでもあなたを拒まれる。今、心に留めなさい。主は聖所とすべき家を建てるためにあなたを選ばれた。勇気をもって行いなさい。」(9,10)と書かれているが、これでよいと思ったとすると、なにか悲しくなる。少なくともソロモンには、反発があるだろう。これは、編集意図で、実際とは異なるのだろうと思った。すべてをダビデに帰することが、捕囚帰還後のリーダーたちがまず考えたことなのだろうか。 1 Chronicles 29:18,19 私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にあるこのような思いをとこしえに保たせ、彼らの心をあなたに向かうものとしてください。わが子ソロモンが、あなたの戒めと定めと掟を守って何事をも行い、私が準備した神殿を建てることができるよう、誠実な心をお与えください。」 ダビデに続いて「親族の長たち、イスラエル諸部族の長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の仕事に携わる高官たち」(6)が自ら進んで、神殿の奉仕のために金・銀・青銅・鉄を寄贈したことが書かれ、それをダビデが大いに喜んで10節からの祈りが始まっている。主の賛美、とくにすべては主のものであること、また、自らは取るに足らない者であることを「私たちは、先祖が皆そうであったように、あなたの前では寄留者であり、滞在者にすぎません。私たちの地上での生涯は影のようなもので、希望などありません。」(15)と表現している。神殿のために献げたものもすべてあなたのものと再度告白し「わが神よ、あなたが人の心を試し、正しいことを好まれることを私は知っています。」(17a)とし、民が進んで献げたことに対する喜びをのべ、引用箇所に至る。厳密なことばは、後代のものかもしれないが、現代の教会に引き継がれている表現も多い。今回は、特に、民とソロモンについての祈りが印象的だった。このような祈りが、歴代誌記者の祈りだったかもしれないし、わたしも、最近、このような祈りのたいせつさを、特に感じているからだろう。世界中の人々、わたしと関係の強い人々、そして、家族や子どもたち・孫たち、さらに、これから生まれてくるすべての人々のことを覚えて「主が、誠実な心をあたえ、ひとりひとりの心が主に向かうように」祈っていこう。神の前に、神とともに、そして、すべての人々と共に生きるものとして。 2 Chronicles 1:11 神はソロモンに言われた。「あなたの心にあったのは、富を求めることでもなく、財宝を求めることでもなく、栄誉を求めることでもなく、憎む者の命を求めることでもなく、また長寿を求めることでもなかった。あなたが願ったのは、私の民を治めるための知恵と知識だった。私があなたをその民の王として立てたのだ。 ソロモンに続く王たちは、このようには求めてなかったのだろうか。そして、ソロモンも、当初の願いとは、異なる方向に向かっていったのだろうか。誠実に、常にこころを主にむけて歩むことの難しさだろうか。それを、歴代誌記者はどう考えたのだろうか。これらを求めて祈る美しさと、実際には、そこから心が離れ、主の喜ばれることよりも、自分を喜ばすことに向かってしまう、その両方を併せ持つのが人間であることを覚えていたい。 2 Chronicles 2:2-4 彼はまた、ティルスの王フラムに人を遣わして言った。「あなたは父ダビデに、彼の住む王宮を建てるためにレバノン杉を送ってくださいましたが、私も、わが神、主の名のために神殿を建てようとしています。それを主のために聖別し、御前にかぐわしい香をたき、供え物のパンを絶やさず、朝と夕に、安息日と新月祭に、我らの神、主の祭りに、焼き尽くすいけにえを献げます。このことは、とこしえにイスラエルに命じられていることです。私が建てる神殿は壮大なものです。我らの神はすべての神々よりも大いなる方だからです。 前の章の最後に「ソロモンは主の名のために神殿を、自分の王国のために王宮を建てようと思った。」(1章18節)とある。ティルスの王フラムは(10)「天と地を造られたイスラエルの神、主はたたえられますように。主はダビデ王に悟りと分別をわきまえた知恵ある息子をお与えになりました。その者は今、主のために神殿を、王国のために王宮を建てようとしています。」(11)と返信しており、この膨大な追加依頼が「王国のための王宮」のためであることを理解している内容になっている。列王記上5章15節から7章51節までに書かれていることの要約とも言えるが、抜書きされているフラムの手紙の内容は、神殿のことだけを強調しているように見える。列王記の記述からはこのような依頼は何度もあったと思われるから、あまり、細かいことを気にしてもいけないかもしれないが、歴代誌記者は、ソロモンが、華美なものに力を注いだことに多少批判的になっているのかもしれないと思った。個人的には、それよりも、神殿建設について考えた。現代でも、教会堂建築で問題がおきる教会は多いからである。個人の嗜好にもよるのかもしれないが、ここでも、重い労役などが、王国の分裂につながることを考えると、問題を感じる。単に、ひとに投資すべきだと短絡に結論したくもないが。 2 Chronicles 3:17 これらの柱を神殿の前に、一本を右、一本を左に立て、右の柱をヤキン、左の柱をボアズと名付けた。 以前読んだときは神殿の場所をヤハウェ・イルエ(主は備える)と呼ばれる「モリヤ山」(1、創世記22章2,14節)としたことが気になったが、神殿を建てた場所をそれになぞらえたとも考えられるのであまり、同一の場所と考える必要もないかとも思った。引用句の表現を読んで、ヤキンとボアズを調べてみたくなった。ヤキン יָכִין (Yāḵîn: He will establish)シメオンの子など人名にも使われるが、特別な人は現れないように思う。もしかすると聖書の書かれていないだけかもしれないが。ボアズ בֹּעַז(Bōʿaz: fleetness)やはり、なぜ、これらの名前を選んだのか不明だった。なにか、名前に込めた思いや、特別な意味があるのだろう。しかし、あまり考えなくてよいのかもしれないとも思った。 2021.6.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  28. BRC 2021 no.028:歴代誌下4章ー歴代誌下17章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌下を読み進めます。歴代誌はどうですか。私は歴代誌が長い間苦手だったとすでに何回か書きましたが、苦労されている方もおられるのではないかと思います。理由はいくつかあるかもしれませんね。そんなときは、ちょっと違った視点を探して読んでみることかなと思います。下にリンクもあるホームページに書いてある「歴代志下」(この漢字が使われています、訳により書名が異なります)は、2011年と2013年に書いたのではないかと思いますが、歴代誌記者は次のような問をもって歴史を振り返っているのではないかとあります。 Q1. 神の選びの民であるイスラエルが異教徒の国に滅ぼされたのはなぜか Q2. 今は異教徒の王の庇護の元にどうやら宗教集団として存続が認められている、このような状況をどう受け止めたらよいのか わたしが想定した問です。Q2 は、歴代誌が、捕囚帰還後の記述からはじまりますから、捕囚から帰ってきたひとたちの当時の課題を受け止めたいということを表現しているのでしょう。(他人事のように書いていますが。) わたしたちも、人生で様々な困難や変化に出会います。そのときには、よくわからなくても、あとから、あのときは、そのようなときだったなと思うこともあるでしょう。このコロナ禍の2年間(今年で終わらないかもしれませんが)もそのようなときなのかもしれません。渦中(かちゅう)にあると、ほとんど考える余裕もないでしょうね。最近考えているのは、主観と客観、意味づけ・内面化・信仰告白と、科学的思考・現実の情報収集と分析の関係です。まだ適切な言葉で表現できませんが。宗教や信仰の世界は、この前者がたいせつにされる傾向があるのでしょう。現実には、あることの背景にはざまざまな要素があり、そう簡単には原因と結果は確定できない。しかし意味付けをする。後者は、ひとのいのちを活き活きさせることはできないとも言われますが、そこから出発してつぎのステップに進もうとする時は、これなしには、すぐ立ち止まざるを得なくなりますし、意味づけ・内面化の前段階の状況把握は、まさにこの後者なにしは成り立たないことでもあります。 歴代誌記者はどのように、これらを行き来していたのかなと思います。今、わたしたちが知る世界史的には、イスラエルが異教徒の国に滅ぼされ、また帰還も可能となる時代は、アッシリア・バビロン・ペルシャの大帝国時代にあります。どうしても、指導者(王)の決断・行動が決定的になってしまうとともに、小国ではどうにもならない面もあるでしょう。その中で、生きている人は、そして、それを振り返る時、わたしたちは、どのように考え、行動したら良いのでしょうか。信仰とは、宗教とは何なのでしょうか。庶民の生活や視点はあまり書かれていません。それは、預言書などからある程度表現されているかもしれません。 歴代誌記者は当時の宗教指導者だったのではないかと思われますが、宗教指導者の立場からも、この時代にどう生きたら良いのか考えてみたいと思います。単に、科学的思考が上から目線になってしまうなら、いのちを生き生きさせることはできないでしょうから。 みなさんは、それぞれのエピソードをどのように受け取り、どのような問を持ち、どのようなことを考えながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌下4章ー歴代誌下17章はみなさんが、明日7月5日(月曜日)から7月11日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。歴代誌下の今回読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2 Chronicles 4:3,4 「海」の下には牛の像がその周囲を取り巻いていた。牛の像は、一アンマにつき十頭の割合で「海」を取り巻いていた。牛の像は二列であったが、これは「海」の鋳造のときに鋳られたものである。「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はそれらの上にあったが、牛の後部はすべて内側に向いていた。 いままであまり気にしないで、軽く読み飛ばしていたが、このような記述も議論を呼ぶ難しいことを含んでいるのだろうなと感じた。芸術的造作で、おそらく素晴らしいものだったろう。そこには、人間の思い描く、神殿の至高の表現があり、それを見る人にも、畏怖の念と神を褒め称えるこころを起こさせたかもしれない。(見ることができるのはほんの一部の人だったろうが。)同時に、あくまでも、ある個人の想像であり、おそらく、他の宗教的背景も含まれ、分析的にみると、問題を呈した人もいるだろう。宗教改革後に起こった議論も思い出される。教会の装飾などについてである。制作の中心にいたフラム・アビ(2章12,13節)は、ダンの一族の女の息子で、父はティルス人である。その技能の高さとその造作は目をみはるものだったろう。両側の意見が聞こえてくるようで当惑もする。個人的には、その素晴らしいものを鑑賞することと、神殿のようなものの、価値を普遍化・絶対化しないことが、肝要に思うが。 2 Chronicles 5:9 担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の箱からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。 おそらく、そしてほぼ確実に、歴代誌が書かれたときには、契約の箱はそこになかったろう。「失われた聖櫃(アーク)」である。むろん、担ぎ棒だけは、残っていたと主張する人たちもいるだろうが。それは置くとすると、「今日に至るまで」はなにを表現しているのだろうかと思った。この時点のものを永遠化する文学的表現だろうか。読者を、この時点、少なくとも、それよりあまり時間がたっていない、または神殿の栄光の姿に釘付けにするためだろうか。単に、引用句として、そのまま残ったということだろうか。おそらくこの最後のものなのだろう。「担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。」(列王記上8章8節)逆に、引用する者の気持ちを考えてしまった。辛かったろう。ここにある「今日」は、もう「今日」ではないのだから。分析的・客観的に考えたあとで、そのひとの辛さに寄り添うものでありたい。 2 Chronicles 6:1,2 その時、ソロモンは言った。/「主は、密雲の中に住む、と/仰せになりました。そこで私は、あなたのために荘厳な神殿/とこしえのあなたの住まいを建てました。」 ソロモンによる神殿奉献式の祈りで、列王記上8章に同様なものがあるが、詳細は異なるようだ。ひじょうにたいせつな祈りだと思うので、いつか分析してみたい。でも、できないかな。「密雲」は「すると主はモーセに言われた。「私は密雲に包まれて、あなたのもとにやって来る。私があなたと語るのをこの民が聞き、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」そこでモーセは、民の言葉を主に告げた。」(出エジプト記19章9節)「民は遠く離れて立っていた。モーセは神がおられる密雲に近づいて行った。」(出エジプト記20章21節)にある。十誡が与えられる重要な箇所である。「主は密雲を足元に従え/天を傾けて降り」(サムエル記下22章10節)ダビデのほぼ最後の祈りの中である。「その時、ソロモンは言った。/「主は、密雲の中に住む、と仰せになりました。」(列王記上8章12節)の対応箇所である。そして、引用箇所、あまり数は多くない。ただこのあとヨブ記、詩篇などある程度登場する。気になったのは、列王記でも同じであるが、そこで、とつなげることである。神殿が絶対化している鍵かと思ったが、おそらく、そうではないのだろう。神殿で礼拝してきた、礼拝の場所としてのたいせつさ以上をもとめるのは、問題であることは、当時も認識されていたのかもしれない。 2 Chronicles 7:21,22 かつては比類なく高かったこの神殿に、そのそばを通る人は皆、驚いて言うであろう。『主はなぜ、この地とこの神殿に、このようなことをされたのか。』すると人々は答えるであろう。『それは彼らが、先祖をエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々にすがってこれにひれ伏し、仕えたからだ。それゆえ、主は彼らにこのあらゆる災いをもたらされたのだ。』」 同様の記述が、列王記上9章8,9節にあるが、申命記29章23,24節にもある。理由は、ここにあるように「主を捨て、他の神々にすがってこれにひれ伏し」たからなのだろうか。そう考えるのは自然であるが、そして、それは一つの理由かもしれないが、今のわたしにはそうは思えない。世界史的な大きなながれを、その時代を、自分の生きている時代を、広い目で、分析的に見ながら、主の御心を探り求めることがなかったことも、とても大きいと思う。内面化はたいせつであっても、それを急ぎすぎると、自分の外の世界が見えなくなり、いびつになる、ひとつの精神の病でもある。むろん、とても、難しいことである。外を見回しているだけで、内面化できないことも多いのだから。 2 Chronicles 8:11 ソロモンは、ファラオの娘をダビデの町から、彼女のために建てた宮殿に移らせた。「私の妻はイスラエルの王ダビデの宮殿に住むべきではない。そこは主の箱が納められた聖なる所だ」と考えたからである。 この節の背景は複雑である。「ダビデの宮殿」ということばはここだけである。すなわち、同じ表現は、列王記にない。「ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚関係を結び、ファラオの娘をめとった。ソロモンは彼女をダビデの町に迎え入れ、宮殿、主の神殿、エルサレムを囲む城壁の建築が終わるまで、そこに住まわせた。」(列王記上3章1節)「ソロモンが住まいとした建物は、この広間の後ろの庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは、妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。」(列王記上7章8節)とあり、少なくとも「私の妻はイスラエルの王ダビデの宮殿に住むべきではない。」との価値観は表現されていない。歴代誌では「さらに、父ダビデの定めに従い、祭司の組をその役目に就かせ、またレビ人たちをその務めに就かせて、日課のとおりに、祭司の前で賛美と奉仕をさせた。また、門衛たちをその組分けに従い、それぞれの門に配した。これが神の人ダビデの命令だったからである。祭司とレビ人に関する王の命令はすべてのことに及び、宝物庫に至るまでおろそかにされることはなかった。」(14,15)とあり、ダビデの定めに従ったことと、祭司とレビ人に関することを適切に管理したことが書かれている。これを伝えたかったのだろう。11節もその適切さの表現の一つだろうか。15節のほうは、ダビデの命令というより、ソロモンの知恵によっているかもしれない。ヨアシュ(列王記上12章)やヨシヤ(列王記上22章)の神殿修復との関連性も思う。歴代誌記者に、そのような管理の大切さにたいする意識もあったのだろうか。 2 Chronicles 9:8 あなたを王座に着け、あなたの神、主のために王とすることをお望みになった、あなたの神、主はたたえられますように。あなたの神は、イスラエルをとこしえに続くものとするほど愛しておられるので、公正と正義を行うために、あなたを王とされたのです。」 対応箇所は「あなたをイスラエルの王座に着けることをお望みになった、あなたの神、主はたたえられますように。主は、イスラエルをとこしえに愛しておられるので、公正と正義を行うために、あなたを王とされたのです。」(列王記上10章9節)である。「とこしえに」を神の愛の対象から「イスラエルをとこしえに続くものとするほど愛しておられる」に変更している。歴代誌記者のメッセージを痛みと希望とともに受け取りたい。シェバの女王は、ソロモンの知恵の称賛としても引用されるが、列王記にあるもう一つの記事は引用されていない。列王記上3章16節から28節の「二人の遊女」に対する裁きである。遊女だから省略したのか、それとも、イスラエルがとこしえに続くための知恵を中心に据えたかったのか不明であるが、おそらく、後者ではあろう。しかし、前者もあるかもしれない。視野に入っていない課題として。 2 Chronicles 10:17 ユダのすべての町に住むイスラエルの人々は、レハブアムが統治した。 何箇所か気になるとことがあった。一つは「このように、王は民の言うことを聞かなかった。しかし、それは神が仕向けられたことであった。主は、シロ人アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに語られた言葉を実現しようとされたのである。」(15)アヒヤを通して語られたことばは、歴代誌には書かれていない。9章29節に『シロ人アヒヤの預言』と書かれているだけである。この書については、存在も不明である。列王記上11章29-32節を仮定しているということであろう。引用句は、列王記上12章 17節にもあるが「ユダのすべての町」とあり、その町にいる、他の部族が含まれることを意味していたのだろう。シメオン、ベニヤミン以外にも、いたようであるから、すでに、複雑に絡み合っている。そんなに、簡単に部族でわかれたとも思えない。どのように、国境が定まったのか、不思議に思った。 2 Chronicles 11:23 王は賢く行動し、息子全員をユダとベニヤミンの全土、すなわちすべての砦の町へ配置し、彼らに食料を豊富に与え、また大勢の妻を探し与えた。 レハブアムについては、列王記上12章1節から15節に分裂の経緯について書いてあるが、それ以外は、列王記上14章21節から31節に簡単にまとめてあるだけである。その最後に『ユダの王の歴代誌』が登場するが、それがいま読んでいる歴代誌だとは思えない。今読んでいるものは、捕囚帰還から書かれているのだから。しかし、列王記とは別の資料があったことを否定するものではない。11章の記述は、レハブアムに好意的である。また、分裂後「全イスラエルのあらゆる領域から、祭司とレビ人がやって来て、レハブアムのもとにとどまった。」(13)および「また、祭司とレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族のうち、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちは、先祖の神、主にいけにえを献げるために、エルサレムにやって来た。」(16)とも書かれており、「ソロモンの子レハブアムを励ました。」(17)ともある。それは、3年のみだったようだが(17)なぜ、変化するのか。一応、12章1節には書かれているが、これも、主から出たことなのか。(4)よくわからない。 2 Chronicles 12:1,2 レハブアムは王権を確立し、自らが強くなると、主の律法を捨てた。イスラエルのすべての人々も彼に倣った。レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上った。彼らが主に背いたからである。 わたしはこのようなことの総称を「内面化」と呼んできたが、もう少しわかりやすく、様々なことばで表現しないといけないとても重大なことだと考えるようになった。わたしが使う「信仰告白」ということばも同様の意味に使っているかもしれない。この1,2節のような考えは、信仰者にとっては、とても大切である。なにか重大なことが起こった時、神様との関係を見直し、そこから生き方を立て直す信仰的決断を生み出す。しかし、客観的に見ると、正しくない。背後に神様がおられるとすると、このような面を完全に否定することはできないとしても。エジプトの王がエルサレムに攻め上った理由は、様々にあるのだろう。「エジプトの王シシャクは、エルサレムに攻め上って来て、主の神殿の宝物および王宮の宝物を奪い取った。何もかも奪い取り、ソロモンが作った金の盾をも奪い取った。」(9)これをみて、物欲のために、金をめあてに攻め上ったのだと考える人も多いだろう。それを完全に否定することはできないものの、それも一つの理由に過ぎないだろう。他者を理解することは困難であるし、おそらく、政策的な両者の間の軋轢も様々にあったと考えられる。困難な問題である。ここでは、ここに書いた面があることに注意して、簡単に結論をくださないようにしたいと自分の決意表明を書いておこう。 2 Chronicles 13:17 アビヤとその民は彼らに大打撃を与えた。イスラエルの打ち倒された者たちは五十万で、いずれも精鋭であった。 列王記上15章1節から8節ではアビヤムとなっている。その記述と、この章の記述は極端に異なる、評価はかなり異なる。「ネバトの子ヤロブアム王の治世第十八年に、アビヤムがユダの王となり、三年間エルサレムで統治した。母の名はマアカと言い、アビシャロムの娘であった。アビヤムは、かつて父が犯したすべての罪を犯し続け、その心は、父祖ダビデの心と異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。」(列王記上1-3)北イスラエルからみるか、南ユダからみるかなのか、預言者視点なのか、祭司視点なのかだろうか。それほど簡単に分類はできないだろう。引用句には驚かされる。「アビヤムの他の事績、彼の行ったすべてのこと、それらは『ユダの王の歴代誌』に記されているとおりである。アビヤムとヤロブアムとの間には戦いが絶えなかった。」(列王記上15章7節)との比較は興味深い。これまで記述されていたイスラエル全体の戦力からして、もし引用句に書いてあることを事実ととると、北イスラエルは維持できないだろう。客観的事実の分析の大切さについても、考えさせられる。だからといって、それだけで良いわけではないが。とても、興味深い。 2 Chronicles 14:8,9 クシュ人ゼラが、百万の兵士と三百の戦車を率いて、マレシャまで出て来た。アサは彼の前に出た。彼らはマレシャ近くのツェファタの谷で戦いに備えた。 アサについては列王記上15章9節から24節にあるが、引用句の記述はない。北イスラエルとの戦いについて書かれ、それを有利にするために、宝物庫に残っていた銀と金でアラムに助けを求めたことが書かれている(列王記上15章18-20節)歴代誌の記述にしても、最後は戦利品の略奪ばかりである。「アサとその兵は、彼らをゲラルまで追った。クシュ人は倒れて、主とその陣営の前で砕かれたので、生き残った者は一人もなかった。アサとその兵は非常に多くの戦利品を運んだ。彼らはまた、ゲラル周辺のすべての町を打った。主への畏れが彼らの上にあったからである。彼らはそのすべての町で略奪した。そこには奪い取れるものが多かったからである。彼らは家畜の天幕も打ち払い、多くの羊とらくだを捕らえて、エルサレムに帰った。」(12-14)10節の告白は立派だが、それだけで判断することの問題性を強く感じる。ひとを盲目にしている。これらのことを踏まえつつも、共に生きることを目指す。困難ではるが、そこに喜びと平和がある生き方だと信じて。 2 Chronicles 15:11-13 その日、彼らは戦利品の中から牛七百頭、羊七千匹を主にいけにえとして献げ、契約を結んだ。心を尽くし、魂を尽くして先祖の神、主を求め、子どもから大人まで、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はすべて死ななければならないこととした。 とんでもないことが書かれている。いけにえとして献げるのも、戦利品である。しかし、この章の最初にある「オデドの子アザルヤ」(1)のことばを見ると、国の内外に、様々な混乱があったことが見て取れる。その中で、自分たちを顧みてなすべきことを求めた結果がこれなのだろう。単に、字面だけで、さばいてはいけないと思う。しかし、外圧が強まる中、または、環境が悪化する中、ひとはどういきたらよいのか、おそらく、短期的、自分の人生のスパンでは、見えないことが多いのかもしれない。それは、希望を持つことでもあるが、絶望と捉える人もいるだろう。その時代に生きることは、本当に、むずかしい。 2 Chronicles 16:7,8 その時、先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った。「あなたはアラムの王を頼りとし、あなたの神、主を頼りとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍はあなたの手から逃げた。クシュ人とリビア人は大軍で、戦車と騎兵は非常に多かったのに、あなたが主を頼りとしたので、主は彼らをあなたの手に渡されたではないか。 歴代誌記者は、このハナニが正しい神のことばを伝えていると評価しているのだろう。正直よくわからない。北イスラエルとの抗争はずっと続いている。アラムを頼らざるを得なかったことをどう評価するかは簡単にはわからないが、列王記には無い記述でもある。ここでは「アサは先見者に対して怒り、彼を獄に投じた。このことで、彼に激しい怒りを覚えたからである。この時、アサは民の中のある者たちを虐げた。」(10)とも書かれている。さらに「アサはその治世の第三十九年に、足の病にかかり、その病は非常に重かった。その病の中でも、彼は主を求めず、医者を求めた。」(12)ともある。このようなことで判断するほうが簡単であることは確かで、わかりやすいとも言える。しかし、神が世界の人々を創造し愛しておられるのであれば、もっと複雑であることは十分理解できる。この時代にそれを求めることも、不適切でもあるが。真理の探求によりすぎているのだろうか。わたしの聖書の読み方もすこし、ここにきて淡白になってきているように思う。 2 Chronicles 17:9,10 彼らは主の律法の書を携え、ユダの教育に当たった。ユダのすべての町を巡って、民の教育を行ったのである。主への畏れがユダの周囲の地のすべての王国にあったので、彼らはヨシャファトと戦おうとはせず、 教育のことが書かれている。エズラなどの帰還後の学者のモデルなのか、エズラなどが大切にしたことがここに強調されているのか不明だが、興味深い。ただあくまでも、王の行動として書かれ、どのように民が受け取ったかは不明である。また「主への畏れがユダの周囲の地のすべての王国にあった」が具体的になにを意味しているのかも不明である。実際には、ヨシャファト(BC872-848頃)の時代にも戦いがあり、この時代は、北イスラエルのアハブ(BC874-853)の時代と大きく重なっているので、エリヤが活躍した時代でもある。一切交流の記載がないことも興味深い。預言者の視点と祭司の視点とが大きく異なるからだろうか。やはり、理解は難しい。 2021.7.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  29. BRC 2021 no.029:歴代誌下18章ー歴代誌下31章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌下を読み進めます。歴代誌はいかがですか。今週、みなさんが読む箇所では、王国時代もだんだん終焉に近づいています。29章からは、ヒゼキヤ王の時代について書かれています。29章は、「ヒゼキヤは二十五歳で王位につき、二十九年間エルサレムで統治した」(1a)と始まります。列王記下18章には、ヒゼキヤの時代の前半に、サマリヤ(北イスラエル王国の首都)がアッシリアによって陥落し、北イスラエル王国が滅亡したことが書かれています。それまでは、アラムという大国がイスラエルの北にあり、イスラエルと各地でぶつかっていたことも書かれていますが、アッシリアはそのアラムをも飲み込み、世界史的には、そのあと、バビロン、ペルシャと、大帝国時代となり、パレスチナは、エジプトと、アラムの間をしめていたわけですが、エジプトという大国も、いずれ滅ぼされてしまいます。イスラエルにも、おそらく、世界(現代の言葉では中東)の情報はある程度入っていたでしょう。そして、アッシリアでも、イスラエル、ユダについて十分知っていたようです。そのような中、南ユダ王国は、どのような課題と向き合っていったのでしょうか。この時代の世界史をすこし調べてみることで、理解の幅が広がるかもしれませんよ。 先住民のカナン人や、海洋民族の都市国家のペリシテ、そして、周辺のエドムや、アンモン、モアブといった、遊牧民族と争ったり、同盟を結んだりしていた、イスラエル、そして、南ユダ王国。世界が変化するとき、神様の御心をどのように求めていったら良いのでしょうか。現在は、コロナ禍にありますが、おそらく、それだけではなく、様々な危機と、変化の時を迎えているように思います。その中で、真理を、神様の御心を求め続け、いのちを豊かに生きていこうとする。当時のひとたちと、同様の状況にいるのかもしれないと思います。自分がたいせつだとおもうことをたいせつにする。そのことしかできないようにも思いますが、同時に、他者がたいせつにしていることを学び、自分も変わり、共に真理をもとめ、共に喜び、共に泣くことをもとめていくことはできないのでしょうか。 単に、特定のことを拾って学んだり、批判したりするのではなく、その喜びや苦しみも受け取りながら、共に、考えることができればと思いながら、読んでいけるとよいなと思っています。 みなさんは、それぞれのエピソードをどのように受け取り、どのような問を持ち、どのようなことを考えながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌下18章ー歴代誌下31章はみなさんが、明日7月12日(月曜日)から7月18日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。歴代誌下の今回読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2 Chronicles 18:1,2 ヨシャファトは大いに富と栄誉に恵まれたが、アハブと姻戚関係を結んだ。数年の後、彼がサマリアのアハブのもとに下ると、アハブは彼とその民のために多くの羊と牛を屠り、ラモト・ギルアドに攻め上ろうと彼を唆した。 アハブとの関係についてこのことだけ記録しておきたかったのだろう。歴代誌上22章の記事である。ラモト・ギルアドは11節からもわかるようにアラムと争っていた場所のようで、列王記下9章14節などにも登場する。列王記上4章13節が初出であるが、ある地域を意味し、そこにいくつも町があったようなので、その攻防がアラムとの間に続いていたのだろう。ミカヤの預言の詳細は不明だが、エリヤ・エリシャの時代であるが登場しないことを考えると、ミカヤは王が相談する預言者のような役割だったのかもしれない。冷静に、アハブの政策に反対していたと取ればよいように思う。その勇気には、学ばされる。 2 Chronicles 19:8 ヨシャファトはまた、エルサレムでは、レビ人と祭司たちの一部、イスラエルの親族の頭たちの一部を、主の裁きと訴訟のために任命した。こうして彼らはエルサレムに帰った。 予見者ハナニの子イエフのことばとして「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛するのですか。そのため、主から出た怒りが、あなたに下るでしょう。しかし、あなたには良いことも見いだされます。あなたはこの地からアシェラ像を取り除き、心を定めて神を求めました。」(2,3)の良いこととして司法について語られているのかもしれない。ただ、5-7節と8節以降の関係はよくわからない。混乱があるようにすら思われる。引用句を見ると、「エルサレムでは」とはじまり、「エルサレムに帰った」と文章が終わっている。''Moreover in Jerusalem, for the judgment of the Lord and for controversies, Jehoshaphat appointed some of the Levites and priests, and some of the chief fathers of Israel, when they returned to Jerusalem.'' (NKJV) ''In Jerusalem also, Jehoshaphat appointed some of the Levites, priests and heads of Israelite families to administer the law of the Lord and to settle disputes. And they lived in Jerusalem.'' (NIV)「イスラエルの親族の頭たちの一部」もよくわからない言葉である。北イスラエルから逃れてきた人などがユダにはたくさんいたことは確かだが。 2 Chronicles 20:10 今、アンモン、モアブ、セイルの山の人々を見てください。かつてイスラエルがエジプトの地からやって来たとき、あなたは彼らの中に入るのを許されませんでした。そのためイスラエルは彼らから離れ、彼らを滅ぼすことはしませんでした。 多くの問題を感じてしまう。引用箇所と似た記述は何度か出てくるが、「アンモン、モアブ、セイルの山の人々」にとっての歴史解釈はおそらく異なるものだろう。他者のことを理解できないことを理解し、自分の見方にも反映させるのは非常に困難である。人を裁くことの背後には、自分はわかっているということがあることは確かである。おそらく、苦しみもあるのだろうが。しかし、他者の苦しみはわからない。それがわかっていないこともわからない。ある状況から「主がイスラエルの敵と戦われたことを聞くと、神への畏れが地のすべての王国に臨んだ。ヨシャファトの王国は平穏であった。神は周囲から彼を守り、安らぎを与えられた。」(29,30)でおしまいにすることは可能かもしれない。しかし、それで神様のみこころを理解したことになるのだろうか。求め続けていきたい。 2 Chronicles 21:12-15 彼のもとに、預言者エリヤから次のような手紙が届いた。「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。『あなたは父ヨシャファトの道、ユダの王アサの道を歩まず、イスラエルの王たちの道を歩み、アハブの家が淫行を行わせたように、ユダとエルサレムの住民に淫行を行わせた。また、あなたの父の家で、あなたよりも優れた兄弟たちを殺した。それゆえ、主は大きな災いをもって、あなたの民、子ども、妻、財産のすべてを打たれる。また、あなたは内臓の病で大病を患い、日に日に病が進み、内臓が外に出るまでになる。』」 エリヤという名前は歴代誌に他にも登場するが、預言者エリヤは、この一箇所のみである。列王記下1章および2章の記事からは、エリヤが天にあげられる時期ともとても近いように思われる。ここで、エリヤが登場する重要性については不明である。もっと交流はあったのではないだろうか。列王記上19章でエリヤがホレブまで行ったときも、ユダを通ったはずであるし、アハブやイゼベルとのことで、ヨシャファトやヨラムについても、何らかのメッセージを伝えていたのではないかと思われる。いずれにしても、この状況下においても「しかし主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えず灯を与えると約束されたからである。」(9)とあることばの複雑さを歴代誌記者はよく知っていただろう。引用句はもうすでに単純にダビデとその子孫との約束に、頼ることができないことを示唆しているのだろうか。 2 Chronicles 22:9,10 さらにアハズヤを捜し求めたところ、サマリアに潜んでいたアハズヤは捕らえられ、イエフのもとに連れて来られて処刑された。人々は、「これは心を尽くして主を求めたヨシャファトの子だ」と言って、彼を葬った。こうして、アハズヤの家には国を治める力を持つ者がいなくなった。アハズヤの母アタルヤは、息子が死んだのを知り、直ちにユダの家の王族をすべて滅ぼそうとした。 アハズヤは、ダビデの家系、ヨシャファトの子、そして、母アタルヤはオムリの孫娘、アハブの娘である。ダビデの子孫の統治が揺らいでいることを記述しているともいえる。神様がダビデにしたとされる約束と、イエフを通してアハブの家系を絶やすこと。その矛盾が出ているとも言える。むろん、合理的に解釈しようとするひともいるだろう。ただ、家系・系図から自由になることも、すでに見え隠れしているように思われる。それは、救い主としての「ダビデの子」についても、同様である。と思う。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3章9節) 2 Chronicles 23:20,21 さらに百人隊の長、有力者、民の支配者および国の民全員を率いて、主の神殿から王を連れて下った。彼らは王宮の上の門の中に入り、王を王座に着けた。国の民は皆喜んだが、都は静まり返っていた。彼らはアタルヤを剣にかけて殺したのである。 興味深い記述である。「国の民は皆喜んでいたが、都は静まり返っていた。」民はこのクーデターのために集まってきた民を指しているのだろう。都は、ヨシャファトの息子ヨラムが32歳から8年間(21:5,20)、その末の子アハズヤが42歳から1年間(22:2)治めたとある。この記述自体に問題があるが、そのあとアタルヤが治めていたと思われる期間が7年(23:1)である。イスラエルの王、オムリやアハブ、そしてその娘アタルヤ関係のひとや、その統治を助けたひとたちもエルサレルムはたくさんいたことだろう。この困難ななかでも、どうにかできないかと苦しみながら、助けたひとたちも。その複雑さがこのことばで表現されているのだろう。痛みも感じる。 2 Chronicles 24:17,18 ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪責のため、ユダとエルサレムに怒りが下った。 ヨヤダはクーデターにおいて大きな役割を果たしたのだろうが、それが全てではなかったろう。神殿改修においても、制度を定め「荒れ野で神の僕モーセがイスラエルに課した税を主に納めるようにとの布告」を出したのはヨアシュのようである。ヨヤダができたこととできなかったことがあったのだろう。しかし、歴代誌記者はこのようにまとめている。何が悪かったかを単純な理由で説明したかったのかもしれない。人間の性(さが)とも言える。客観的に、分析的に、考えると、単純に、悪者をみつけることも困難になる。そこから一歩を歩み出せるかでもある。 2 Chronicles 25:19 あなたはエドムを討ち破ったと言って、思い上がり、誇っているが、今は自分の家にとどまっているがよい。なぜ災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」 イスラエルの王ヨアシュのことばを引用している(列王記下14章9,10節参照)が、ここに本質をまとめているのだろう。これも、ひとつの解釈ではある。アマツヤのこの章の記述は、いろいろな要素があり、複雑に見える。おちついて、列王記とも比較してみたい。いつそれが可能かわからないが。 2 Chronicles 26:5 神を畏れることを教えたゼカルヤの在世中は、ウジヤも神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を繁栄させられた。 ウジヤは列王記ではアザルヤ(列王記下15章1節から7節)となっているが、その記述は短い。「主の目に適う正しいことを行った」(2Kg15:3)「主が王を打たれたので規定の病にかかり、離宮に住んだ」(2Kg15:5)である。歴代誌ではかなり詳細に記述されている。引用句のように、主の目に適うことを行った理由、規定の病にかかった理由まで書かれている。まさにひとつの解釈が書かれている。因果の「因」を特定している。おそらく「果」のほうの規定の病は事実なのろう。列王記を書いたと思われる預言者集団は、ウジヤが正しいことを行った「しかし、人々は高き所を離れなかった。」(2Kg15:4)としそのあとに、規定の病のことが続く。規定の病は主が背後におられると信じられていたようだから、そのことは書いているが、それを罪の結果、それもどのような罪とは特定していない。歴代誌を記述したと思われる祭司集団が、特別な情報を持っていたとも考えられるが、預言者集団はそれを知っていても、書かなかったかもしれないとも考えた。「因」を特定することで、他の課題が見過ごされるからである。正解(神様のみこころ)は不明であるとしながら、預言者集団や、祭司集団そして、アザルヤ(ウジヤ)や、民と共に、真理を生きる生き方を求めたい。それが、今のわたしの信仰告白である。聖書の解釈に一定の枠をはめることも可能だろうが。列王記下15章36節に『ユダの王の歴代誌』についても書かれていることを付け加えておく。情報の量の違いで片付けるのは、問題があるように思う。 2 Chronicles 27:2 彼は父ウジヤが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。 ここにも、ウジヤの背景がある。ウジヤの名前についても調べておこうとおもった。ウジヤ עֻזִּיָה(uzzîâ = my strength is Jehovah:主は我が力)アザルヤ עֲזַרְיָה(ʿăzaryâ = Jehovah has helped 主の助け)どちらも良い名前である。ヨタム יוֹתָם(Yôṯām = Jehovah is perfect 主は完全または完全な主)これも良い名前である。ウジヤについては、あまり批判する気にはなれない。まずは、病で苦しんだ人にたいし、その原因を罪と特定することに、問題を感じるからでもある。むろん、そのように解釈する人を、間違っているとして、交わりを切ることは問題だと思うが。「弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である』」(ヨハネ9章2-5節)わたしは、このイエスを主としているのだから。この世に住まわれた、生きてくださった主から学びたい。 2 Chronicles 28:12-14 エフライムの一族の頭のうち、ヨハナンの子アザルヤ、メシレモトの子ベレクヤ、シャルムの子エヒズキヤ、ハドライの子アマサは、軍から帰って来た者たちに対して立ち上がり、彼らに言った。「捕虜をここに連れて来てはならない。我々の上にある主に対する罪責を、あなたがたは我々の罪の上に増し加えようとしている。我々の罪責は大きく、燃える怒りがイスラエルの上にある。」そこで、武装した者たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を捨てた。 列王記下16章にアハズ王のことが書かれているが引用箇所のことは書かれていない。この章を読むだけでも、少なくとも、アラムだけでなく、アッシリアの脅威が大きかったこともわかる。歴史的には、北イスラエル王国は風前の灯で、列王記下17章で、サマリヤが陥落する。そのような背景のもとでのこととして、引用句が記されている。すごいひとたちがいたことがわかる。それも、ある程度の数いたのだろう。サマリヤや北イスラエル王国が滅んだ理由や、その後、南ユダ王国も滅んだ理由を検討することは大切だろうが、簡単な因果関係では理解できないことは、この記述からもわかるように、思う。王国の滅亡の裏だけでなく、これらの人々の背後にも、主はおられたのだろう。理解できたとせず、ていねいに、求め続けていこう。謙虚に、誠実に生きながら。 2 Chronicles 29:6 私たちの先祖は背信し、私たちの神、主の目に悪とされることを行い、主を捨てた。彼らは主の幕屋から顔を背け、背を向けた。 列王記下18章の記述によれば、ヒゼキヤの治世の第4年に、アッシリア王シャルマナサルがサマリアを包囲、三年後(長く持ちこたえたことになる)第6年にサマリヤを占領している。その背景のもとで、ヒゼキヤがどのように生きたか、統治しようとしたかが、書かれている。アハズ、ヒゼキヤについては、列王記でも、歴代誌でも、記述が詳細である。そして違う内容も含まれている。資料がたくさんあったのだろう。世界史をある程度知っているものとすると、虚しいことのようにも思えてしまう。しかし、それは、現代でも同じかもしれない。コロナ禍や、これからどのように世界が動いていくかはわからないが、それとはべつに、または、それだけでは評価できないものとして、ひとりひとりのいのちの営みがあるのかもしれない。わたしがどう生きるかだけでなく、それぞれのひとがどう生きるか、そこに神様は関心を持っておられるのかもしれない。たとえそうでなくても、そこに尊厳と価値があるように思う。預言書から読み取ることができることもあるかもしれない。簡単に、結論を導かず、ていねいに読んでいきたい。 2 Chronicles 30:1 ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使者を遣わし、エフライムとマナセには手紙を書いた。エルサレムの主の神殿に集い、イスラエルの神、主のために過越祭を祝うためである。 大々的な過越祭について書かれている。第二の月(2)とはあるが、何年かは書かれていない。3年間の包囲後のヒゼキヤの治世(BC729-BC687)の途中(BC722)にはサマリヤが陥落している。(列王記下17章)これは二度目で一度目の陥落は南ユダ王国も関与しているようだが、それより前である。これがいつのことだか不明だが、祭司が身を清めていなかった(3)との記述もあり、常に過越祭をしていてそれを拡大したものではおそらくないだろう。「そうすれば主は、アッシリアの王たちの手から逃れて生き残ったあなたがたのもとに帰って来てくださる。」(6b)の記述もあり、背景はわかるが、歴代誌は、北イスラエル王国の滅亡については書かない。全イスラエルと書かれている範囲に使者を遣わしたり、手紙を送ったりしてこのような企画をするということは、おそらく、滅亡後なのだろう。配慮に富んでいるとも言えるが、北イスラエル滅亡に関しては、アッシリアに加担したとも思えるので、背景は複雑である。ゆえに「急ぎの使いはエフライムとマナセの地を町から町へと渡り、ゼブルンまで行ったが、人々は彼らを物笑いにし、嘲った。それでも、アシェル、マナセ、ゼブルンから、へりくだって、エルサレムに来た者もいた。」(10,11)この解釈のしかたも、難しいのかもしれない。もう少し、この期間の出来事を丁寧に紡ぎ合わせて理解したい。ヒゼキヤは、主を求めようとしたことは確かだろう。それゆえ美化しようとすることは起こりうる。実際には、世界史的に、巨大王国時代に入り、小国が生き残ることは非常に困難になっている。このことも確かだろう。 2 Chronicles 31:19,20 また、アロンの一族、すなわち、町の放牧地に住む祭司たちのために、どの町にも指名された人々がいた。彼らは、祭司ならすべての男子と、レビ人なら登録されているすべての者に、取り分を分配した。ヒゼキヤはユダの全土でこのように行い、彼の神、主の前に良いこと、正しいこと、真実なことを行った。 21節「彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた。」の最後の部分の証拠を示しているのだろう。しかし、アッシリアにも貢をおくっており、北イスラエルや南ユダからもアラムやエジプトにも助けをもとめるような状態で、レビ族への分配がすぐにできるようになるとは思えない。おそらく、歴代誌記者の理想とする社会がこの(北イスラエルは滅び、南ユダも風前の灯火の)時代にもまだあったことを記述しようとしているのだろう。ヒゼキヤのようにすれば可能だったと考えたのだろうか。それほど単純ではないと考えてしまう。このときに、ユダの多くの町がアッシリアの侵略にあっているのだから。(列王記下18章13-16節参照)そして、おそらく、歴代誌記者もそのこともわかっていただろう。その苦しさも一緒に受け取らないといけない。主の平和をもとめる旅の途中では、正しさは限定的な意味しか持たないのだから。 2021.7.11 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  30. BRC 2021 no.030:歴代誌下32章ーエズラ記9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、いよいよ歴代誌下を読み終え、次のエズラ記に入ります。新しい巻にはいるときはチャンスです。挫折してしまった方も、通読を再開してみませんか。 ヘブル語の聖書では「歴代誌」「エズラ・ネヘミヤ記」などは「諸書」という分類に含まれ、歴代誌は聖書の一番最後に置かれています。サムエル記や列王記とは別の括(くく)りなのですね。歴代誌はいかがでしたか。苦労された方もいたかもしれません。最後はどのような場面で終わっているでしょうか。この最後の部分と、エズラ記の最初の部分を見ると、上に書いたような聖書の構成についても、ある程度イメージできるかもしれません。 通読の会ですから、みなさんに読んで頂くことが目的なので、内容には触れず、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記の背景となっている年代を「いのちのことば社新聖書講解シリーズ」から引用しておきます。同じものが、下のリンクにあるエズラ記にも掲載されています。 BC586 ユダ王国の滅亡。バビロン捕囚 BC550-530 ペルシャ王クロスの治世 BC539 バビロン陥落 BC538 クロス王の第一年 BC536 エルサレム帰還と神殿再建工事の開始 BC530-522 カンビュセス王の治世 BC522-486 ダリヨス一世の治世 BC520-515 神殿再建工事の再開と完成 BC486-465 クセルクセス一世(アハシュエロス)の治世 BC479 エステル、王妃となる BC475 ユダヤ人虐殺計画 BC465-424 アルタクセルクセス一世(アルタシャスタ)の治世 BC458 エズラ帰還 BC445 ネヘミヤ帰還、城壁完成 BC433 ネヘミヤ再度帰還 もうすでにご存知だと思いますが聖書には「ペルシアの王キュロスの治世第一年」などと治世の何年という書き方で年が書かれていますから、西暦にしたときに、1年程度の誤差はあり、他の年表と食い違っている箇所もあります。大体の目安だと考えてください。(アカデミックな世界では最近は、BCE: Before the Common Era という表記が一般的になっていますが、まだBC, AD 表記が一般的だと思いますので、キリスト教を中心に置く語用ではなく、一般的用語として、ここでは、BC を使っています。) また、エズラ記の箇所には、以前、わたしが司会をして聖書の会で学んだときの質問表も掲載されています。最近のわたしの問のたてかたとは異なりますが、個人的には、眺めてみると、それなりに、問を考えたころを懐かしくも思います。成長と呼べるかどうかはわかりませんが。そのときに、問をたてて読んだことが今につながっていることは確かだと思っています。みなさんは、どのような問を持ちながら、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 歴代誌下32章ーエズラ記9章はみなさんが、明日7月19日(月曜日)から7月25日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ch2 エズラ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ez 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。今週読むエズラ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2 Chronicles 32:27 ヒゼキヤは比類のない富と栄誉に恵まれた。銀、金、宝石、香料、盾、その他あらゆる宝物のための宝物庫を造り、 大英博物館にはラキシュの戦い(9)のレリーフがあり(YouTube: Lachish Battle Reliefs (https://www.youtube.com/watch?v=ZqFbxHZz_bU), Siege of Lachish in 3D (British Museum, 他にもたくさん関連のビデオや資料がネット上にある。)時間をかけて眺めたことがある。高い櫓をたてて攻めるなど、そのスケールに圧倒された。そのときに、なぜ、アッシリアが北イスラエルを制服し、ユダを攻めたのだろうと思った。(エジプトを含む地域の)覇権かなと思う。それは、税だろうか。支配欲もあるかもしれないが。それだけでは、帝国の拡大は続かないように思う。引用箇所には、ヒゼキヤが誇ったのも、富であったことである。比較もされていないので規模もわからないが、これを書くことで、アッシリアに圧倒されなかったことを示しているのかもしれないと思った。考え始めると難しい。ラキシュのあとエルサレムなのだろうが、人々は、いろいろなところに住んでいたわけで、エルサレムは、王や祭司にとっては重要だったろうが、ユダのひとたちにとっては、ほかのまちもたいせつだったろう。戦争、大国の覇権。そのなかで、ひとは一人ひとりどのように生きればよいのだろうか。考える要素はたくさんあると思った。 2 Chronicles 33:7,8 彼はまた自分が造った彫り物の偶像を神殿に置いた。その神殿について、かつて神はダビデとその子ソロモンにこう言われていた。「私はこの神殿に、イスラエルのすべての部族の中から選んだエルサレムに、私の名をとこしえに置く。私が命じたすべてのこと、モーセによるすべての律法、掟、法を行うように努めさえすれば、私があなたがたの先祖のものと定めた土地から、イスラエルを二度と移すことはしない。」 この約束も、聖書の中で、時代とともに、少しずつ表現が変わってきている。丁寧に比較することもたいせつだろう。しかし、受け取り側はこのように確信していったのだろう。「私が命じたすべてのこと、モーセによるすべての律法、掟、法を行うように努めさえすれば」これは、簡単なことではない。そして、イスラエルの外の世界との関係も重要性が増してきている中で、どのように、生きていったら良いのかは、すでに困難な状況に陥っているように見える。律法を守ることがなにを意味しているのか、解釈に幅があり、すくなくとも、主の御心に生きることからは離れてしまう。そして、主の御心がなにかを求めることは置き去りにされてしまう。さらに、人類全体における、真理(神のみこころ)探求との整合性、普遍性もなくなってしまうからである。ほんとうにむずかしい。しかし、この時代に生きていた一般のひとは、声さえあげられず、信仰深く生きようとしていたかもしれない。現代も似たりよったりのようにも思う。 2 Chronicles 34:33 ヨシヤはイスラエルの人々のすべての地から忌むべきものを取り除き、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主から離れることはなかった。 ヨシヤは歴代誌記者たちが望むすべてを完璧におこなったように見える。しかし、気になることもある。たとえば、預言者フルダのもとに向かったこと。もっと、意見を聞くひとは、たくさんいたのではないか。信仰的決断の弱点は、特定のひとから聞いたことを、神の言葉として絶対化することのように思われる。このときには、たとえば、アモツの子イザヤはいなかったのか。ミカや、イザヤの流れをくむ預言者集団はいたのではないだろうか。現代において考えると、セカンド・オピニオンや、宗教指導者に議論してもらうことは、多くの場合困難である。個人的に、これが神様から与えられた御言葉としてうけとり、内面化し、信仰告白としてそれを生きることは、信仰生活の重要な部分である。しかし、それを、他者にとっても、同様に、神の言葉として普遍化することは、注意すべきことである。宗教の場合、それがとてもむずかしいように思う。一人ひとりと神様の関係、そして神様が一人ひとりに示されていることをどう受け取るか。集団として何かを決めなければいけないとき、方向性をもとめるときは、やはり客観的な視点が必要である。ひとは、それをバランスよく、扱えるだろうか。 2 Chronicles 35:25 エレミヤはヨシヤのために哀歌を詠んだ。男も女もすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝え、今日に至っている。それはイスラエルのしきたりとなり、『哀歌』に記されている。 まず、ヨシヤのあっけない死について書かれている。エレミヤ書の冒頭は「ベニヤミンの地アナトトにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、主の言葉が彼に臨んだ。さらにユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。」(エレミヤ書1章1-3節)とあり、ヨシヤの治世は、31年(34:1)だから、エレミヤはかなりの期間を知っていることになる。引用した節の引照箇所は「死んだ者のために泣くな。/彼のために嘆くな。/去って行く者のために大いに泣け。/彼は二度と帰らず/自分の生まれ故郷を見ることがないからだ。」(エレミヤ書22章10節)「レバノンに上って叫び/バシャンで声を上げ/アバリムから叫べ。/あなたの愛する者が皆、砕かれたからだ。」(エレミヤ書22章20節)であるが、どうもピンとこない。エレミヤは、たとえば「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。」(エレミヤ22:3)のように、民に呼びかけているように、思われる。王の過越祭の壮大なパフォーマンスはどう評価していたのだろうか。歴代誌記者と、預言者集団の末裔とはどう関わっていたのだろうか。 2 Chronicles 36:21 これは、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである。 ヒゼキヤとその次のマナセ(33章)までは、アッシリアのことが書かれ、ヨシヤのときはアッシリアは登場せず、エジプト(35章)、そしてこの章で、バビロンのネブカドネツァルが登場する。カルデヤ人とも書かれている。南ユダ王国は滅び、エルサレムは神殿を含めて破壊され「彼はまた、剣を免れた生き残りの者をバビロンに連れ去った。この人々は、ペルシアの王国が統治するようになるまで、バビロンの王とその息子たちの僕となった。」(20)とある。最後に、「主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。」(22b)として、ペルシャ王キュロスの神殿建設の布告が書かれ歴代誌は終わっている。どの程度、世界の歴史を南ユダ王国は理解していたのだろう。そして、歴代誌記者は。神様のみこころ、そして、神の御手の働きは、自分が認識できる範囲から読み取る。非常にすくないサンプルから、帰納的に結論する。それは、仕方がないとして、自分がどの程度のことを認識できているかを知ることはとてもたいせつだと思った。自分には、わからないこと、神様の御心と確信したことであっても、他の理解の仕方をするひとがたくさんいるだろうということを認めることは必須であることも、理解しないといけないのかもしれない。神様のみこころとしてうけとめ、それを内面化し、自らを省み、神様のみこころにそう生き方をもとめることは、すばらしいことだと思う。しかし、受け取ったことを普遍化し、帰納的に得たことから演繹することは、サンプルがすくないときには、非常に危険であることも知らなければいけない。謙虚でありたい。引用句の「地は安息を得た」は、心に響く。現実は「荒廃」である。そして、他の民族が移り住んでくる期間でもある。出エジプトのイスラエルがそうであったように。そして、現代にも同じようなモデルがあるように。しかし、それをここでは、安息と表現している。主を求める民不在の期間を表現しているとも取れないこともなく、良い意味でも、悪い意味でも、考えさせられる。 Ezra 1:1,2 ペルシアの王キュロスの治世第一年のことである。主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。王は国中に布告を発し、また文書をもって次のように述べた。「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。 歴代誌36章22,23a節のことばと一言一句同じである。歴代誌36章23節後半は「あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」となっており、エズラ記1章3節とは少しことなるが、そこで歴代誌を閉じている。両方の書の記者(集団)に強い関連性があることが見て取れる。この布告の原文はわからないが、3節の「その方はエルサレムにある神である」というちょっと不自然な表現を見ると、ある程度、原文に忠実なようにも思われる。これに続く「残る者は皆、どこに寄留している者であっても、自分のいる所で、エルサレムにある神の宮への自発の献げ物を用意し、また銀や金、財産や家畜をもって彼らを援助しなさい。」(4)はさらに興味深い。バビロンからペルシャに変わり、捕囚になったイスラエルの民はどのような状態だったのだろうか。ネヘミヤ記やエステル記などから部分的にしかわからないが、ある程度の自由はあったのかもしれない。「自分のいるところで」は、"Bloom where you're planted" 「植えられたところで咲きなさい」だろうか、を連想させる。ここでは、それが、寄附に結び付けられており、このあとに、「周囲の人たちは、自発の献げ物のほかに、銀の器、金、財産や家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。」(6)とあるが、規模はわからない。神殿再建がまず先という気持ちはわかるが、礼拝の場所から始める、それは不自然でもある。困難の始まりであるが、そのことは、簡単に予想もできたことだったろう。それを敢えてしたと受け取ろう。 Ezra 2:64,65 会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百人いた。 2つ気になった。一つは、奴隷の存在。もう一つは、会衆のほかとして、男女の詠唱者について記録されていることである。2つ目は、会衆の中であるが、別途最後に記述した可能性もあるが、神殿に仕える(58)会衆の中にいれていても良かったはずである。奴隷は、バビロンなどにいたころにすでに、奴隷を所有していた裕福なひとがかなりいた可能性を感じる。異民族だったのか。このあとに、馬、らば、らくだ、とともに、非常に多くのろばの数が書かれているが、奴隷も、労働力として、重要だったのだろう。特に、中心は、裕福な、支配階級のひとたちだったろうから。しかし、神殿建築を考えると、やはり問題も感じる。また、1節には、エルサレムとユダのそれぞれの町に帰ったとあるので、やはり南ユダ王国の末裔だったのだろう。サマリヤのグループとは、最初から断絶して活動を開始したように思われる。 Ezra 3:11 彼らは「主は恵み深く、その慈しみはイスラエルの上にとこしえに及ぶ」と、主への賛美と感謝をもって唱和した。主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな喜びの叫びを上げた。 批判的な目でも見てしまうが、喜んでいるもの、たいせつにしているものが蘇っていくひとたちのこころと一緒にいたいとも思う。主のかわらない愛を強く感じられるのは、このようなときなのだろう。わたしも、人生で何度か、そのような時をもったのかもしれない。あまりそれを味わうことが得意な性格ではなかったが。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ書12章15節)これが難しいのはなぜだろうか。考えさせられる。「貧しい人を嘲る者は造り主を見くびる者。/災いを喜ぶ者が罰を免れることはない。」(箴言17章5節)のように、貧しい人を嘲り、他者の災いを喜ぶほうが自然なのだろうか。 Ezra 4:2 彼らはゼルバベルと親族の頭たちに近寄って来て言った。「私たちにも一緒に建てさせてください。私たちも同じように、あなたがたの神に伺いを立てております。アッシリアの王エサル・ハドンが私たちをここに連れて来た時から、この神にいけにえを献げています。」 このときの対応はどうすればよかったのかと思う。とても悩ましい。この人たちは「ご存じのように、私たちは王宮から俸給をいただいておりますので、王様に対する非礼を見過ごすわけにはまいりません。それゆえ、私たちは王様に使いを送ってお知らせする次第です。」(14)とも書いており、「そこで、アッシリアの王は命じた。「あなたがたが捕囚として連れ去った祭司の一人を、元いたところに連れ戻しなさい。連れ戻してそこに住まわせ、その地の神のしきたりを教えさせなさい。」こうして、サマリアから捕囚として連れ去られた祭司の一人が戻って来て、ベテルに住み、どのように主を畏れ敬うべきかを教えた。」(列王記下17章27,28節)とある人たちの末裔だろうか。この政策が、アッシリアから、バビロン、ペルシャに引き継がれているのか。理のあることでもある。しかし宗教的には、エズラ記記者たちとは、かなり離れてしまっていることも確かだろう。さて、どうしたら良いのだろうか。神様のあらたなチャレンジにようにも見える。そして、このようなことは現代でも頻発しているように思う。このひとたちの社会的・政治的役割を理解し、かつ、その人たちが担ってきた、神様から委ねられてきたものを受け取り、少しずつ協力を模索する。とても、難しいだろう。わたしなら「一緒に聖書を読みませんか」かな、または、通読をいっしょに始めてみることだろうか。時間もかかるように思う。妥協と思われることもあるかもしれない。 Ezra 5:17 それゆえ、王がお許しになりますならば、キュロス王がエルサレムにあるこの神殿を再建する命令を下されたのかどうか、バビロンにある王の保管庫をお調べください。そして、この件に関する王のお考えをお知らせください。」 ここに引用されている「アバル・ナハラ州の総督タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその同僚であるアバル・ナハラ州の統治者たちがダレイオス王に送った書簡の写し、」(6)は秀逸である。ペルシャやバビロンの政治も十分理解しているひとが、自らの背景と、経緯を簡潔にまとめて書いているのだろう。このようなひとが与えられていることは感謝である。そうであっても、近隣のひとたちとの関係を適切に築くことはできなかったのか。正しさが前面にあり、義を確立することをつねに望んでいたのだろう。「隣人を自分自身のように愛し」「互いに愛し合う」ことを正しいとするのではなく、神の子らとして、この言葉に生きようと目指すには、まだ時間がかかるということだろうか。現代でも、そこに目を向けることに至るのは、遠いが。それを目指していきたい。 Ezra 6:8,9 この神殿を再建するために、あなたがたがユダヤ人の長老たちになすべきことについて、私は命令を下す。その経費は、アバル・ナハラ州からの税収による王の資産から、これらの人々に確実に支払われるようにし、滞ることのないようにしなさい。また必要なもの、すなわち、天の神に焼き尽くすいけにえとして献げる若い雄牛、雄羊、小羊、それに小麦と塩、ぶどう酒と油が、エルサレムにいる祭司の提言どおり、日々彼らに支給されるようにし、手抜かりのないようにしなさい。 敵対者もいることから、おそらくこの文書の内容は正確であると思われる。イスラエルの人から見て完璧である。キュロス王の記録の内容が確認され、総督に手を引くように命じ、引用句のように、再建のときの経費の支出、礼拝のために必要ないけにえに関わる支出についても記し「王とその一族の長寿を祈る」(10)の記述も内部の非難をさけるためにも重要だったろう。さらに、最後に、反対者への罰についても述べられており、「私ダレイオスは、これらが注意深く実行されるように、この命令を下す。」(12)と締めくくっている。おそらく、起草者の中に、イスラエル人またはよく知るものがいたのだろう。完璧であるが、心配もある。いくら財政基盤が貧弱だとしても、ペルシャの税収で賄われることである。これは、最初に神殿を再建するというビジョンに関係しているとも言える。気持ちはわかるが、一時しのぎであることも覚えないといけない。それだけの準備が整えられていくか、緊張感を失っていくか、信仰生活は単純ではない。神殿建設がゴールでは無いのだから。同様のことは、現代でも形を変えて起こることなのだろう。 Ezra 7:27,28 私たちの先祖の神、主はたたえられますように。主は、エルサレムにある主の神殿を誉れあるものとするために王の心を動かされ、王とその参議、および有力な王の高官すべてが私に対して好意を向けるようにされた。私の神、主の手が私の上にあったので、私は力を得て、共に上って行こうとする頭たちをイスラエルから集めた。 不明な点もあるが、王の側近との間にも、信頼関係が築かれていたことがみてとれる。「私」は「祭司であり書記官であるエズラ」(11)のようにも思われるが、文脈からは明確とは言えない。それと、書記官がイスラエルの書記官か、「アルタクセルクセス王」(11)の書記官であるか不明である。しかし、いずれも、「是 YES」 なのだろう。「このエズラが、バビロンから帰還した。彼はイスラエルの神、主が授けられたモーセの律法に精通した書記官であり、その神、主の手が彼の上にあったので、王は彼が求めるものすべてを与えていた。」(6)とあり、ここにも書記官とある。イスラエルで任命されることは、まだできないと思われるので、ペルシャの役職なのだろう。大勢いるひとりだったろうが、仲間も多く、それが、6章の手紙や、7章の手紙を書いていると思われる。どこにおいても、忠実に仕事に当たり、信頼を得ることの大切さとともに、利益誘導ではないかとも心配になる。不公正ではなくても、不公平を誘発する。考えることは多い。 Ezra 8:20,21 また、神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者として二百二十人を連れて来た。彼らは皆、指名された者であった。私はアハワ川のほとりで断食を呼びかけた。それは神の前にへりくだり、私たちのため、幼い子らのため、その他の財産のために、道中の無事を求めてのことであった。 エズラと共に帰還したひとたちのリスト、さらに、レビ族のひとたちがいないので召集をかけていることを考えても、目的は、神殿で神に仕えることが最優先であることがわかる。引用句には「神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者」についても記されている。レビ族ではなく、下請けなのだろう。この人達がいなければ、実際の仕事はできない状況だったとも言える。ダビデが整えた神殿周辺の仕事(ダビデの時代にはまだ神殿は無いはずだが)も継続しようとしたこともわかる。引用句には、幼い子らも登場する。男何人という記述が続くが、家族での帰還だったのだろう。その体制も維持しての帰還である。「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」(22)をどのように行うかは、あまり簡単ではない。わたしも、「神を尋ね求める者」でありたいと願っているが、なにがよいのかは、正直よくわからない。エズラたちは、それを過去の栄光にもとめたのか、それとも、律法を逐一守ることに求めたのか。わたしは、どうしたら良いだろうか。 Ezra 9:8,9 ところが今、僅かな間、私たちの神、主の憐れみによって、私たちを生き残る者とし、その聖なる所によりどころを与え、私たちの目に光を与え、奴隷の身の私たちに僅かに生きる力を与えられました。確かに、私たちは奴隷です。しかし、神は奴隷の身の私たちを捨て置かれず、ペルシアの王たちの前で私たちに慈しみを示されました。それは私たちに生きる力を与えるため、私たちの神の宮を再建するため、廃虚を復興するため、ユダとエルサレムで私たちに城壁を与えるためでした。 この自己分析には驚かされる。「奴隷」ということばが2回登場するがこれは具体的にはなにを意味しているのだろうか。ペルシャの王のものにあるということか、それとも、霊的な実態を含むのか。主が慈しみが示された目的が与えられている。「生きる力を与える」「神の宮を再建する」「廃虚を復興する」「城壁を与えるため」奴隷とはあまり結びつかない。さらに、キュロスの詔勅は、神殿建設について述べているが、それ以外は、どのような状態だったのかも不明である。エズラの計画なのか。それとも、ペルシャの命令か。奴隷の身のものが、慈しみを施され、生きる力を与えられたら、それが、私自身だったら、なにをするだろうか。あまりよくわからない。考えてみたい。 2021.7.18 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  31. BRC 2021 no.031:エズラ記10章ーネヘミヤ記13章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エズラ記はいかがですか。今週は、エズラ記の最後の章を読み、次のネヘミヤ記を読みます。ネヘミヤ記は、13章までですから、最後まで読むことになります。その次は、ヨブ記、そしてヨブ記が終わると、一旦旧約聖書から離れて、予定では8月28日から新約聖書を読みます。新しい巻にはいるときはチャンスです。挫折してしまった方も、通読を再開してみませんか。新約聖書から再開もよいと思います。お友達などを、「聖書を一緒に通読しませんか」と、お誘いくださるのもよいと思います。自己紹介を含めご本人からメールをいただければ、配信リストに加えさせていただきます。一緒に読み進めることができるのは、心強いですし、すばらしいことだと思います。 前回年表を参考のために載せましたが、ネヘミヤの総督としての1回目の赴任はエズラの帰還後14年後ぐらいでしょうか。ネヘミヤ記にもエズラが登場し、同じような事件の記述もあります。エズラは書記で祭司、ネヘミヤは献酌官でしたが総督として赴任します。それぞれの役割とともに、どのようにことに向かい合っていくか、その違いも興味深いものがあります。ネヘミヤ記には、ほぼ任務を終え、一度もどり、また戻ってきたときのことも書かれています。みなさんは、エズラのような働き、ネヘミヤのような働き、それぞれどのように思われますか。みなさんは、どちらのような働きをされているのでしょうか。昔の物語を傍観者として読むのではなく、ぜひ、自分が、ネヘミヤだったら、また他の登場人物だったらと考えながら、読んでみてください。また違った読み方ができるかもしれませんよ。自分が仕事で、役所や会社からオリンピックのコロナ対策メンバーとして派遣されていたらなどと考えながら、ニュースを見るのと似ているかもしれません。正しさでは解決できないことに、自分の身を置き、神さまのみ心を尋ね求めながら、その場で、誠実に生きるとはどのようなことかを共に考えながら読みたいと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エズラ記10章ーネヘミヤ記13章はみなさんが、明日7月26日(月曜日)から8月1日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エズラ記およびネヘミヤ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エズラ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ez ネヘミヤ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ne 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。今週読むネヘミヤ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(実は、昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Ezra 10:2,3 エラムの一族であるエヒエルの子シェカンヤはエズラに言った。「私たちは神に対する背信の罪を犯し、この地の民である外国の女と結婚しました。しかし、この件についてイスラエルには希望があります。この度、私たちは神と契約を結び、これらの女、および彼らから産まれた子らをすべて追い出します。わが主と、神の戒めを畏れ敬う人々の勧めに従ってのことです。律法に従って行いましょう。 この人たちなりに誠実に行ったことで、非難すべきことではないのだろうが、とても残念である。正しさが生む悲劇とも言える。現代における聖書理解にも影響があることだろう。「しかしながら、民は多く、長雨の季節でもあり、外に立っている力はありません。」(13a)ともあるが、外的要因もこの決断の背後にあるかもしれない。「アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤはこれに反対し、メシュラムとレビ人シャベタイが彼らを支持した。」(15)反対したひとがいることが書かれているのは、救いでもある。声をあげた理由は様々だろう。その中には、到底許容できないものもあったかもしれない。しかし、同時に、耳を傾ける必要のあるものもあったろう。引用句の「私たち」があくまでも、自発的な集団なのか、強制をふくむものなのかも、気になる。「同意」はとったようだが。(19)「三日のうちに出て来ない者は皆、長たちと長老たちの勧告に従って、その全財産が没収され、捕囚の民の会衆から除名することになった。」(8)からすると、ある範囲は限っているものの、強制的ともいえる。裁判官のもとでの離婚という整然と、「律法」にしたがってこのことがなされることにも恐れを感じる。そのようなことは、現代でもおそらく、起こっているのだろう。 Nehemiah 1:1,2 ハカルヤの子ネヘミヤの言葉。第二十年のキスレウの月に、私がスサの都にいたときのことである。私の兄弟の一人ハナニが、数人の者と共にユダからやって来たので、私は捕囚を免れて生き残っているユダヤ人について、またエルサレムについて尋ねた。 第二十年は「アルタクセルクセス王の第二十年」(2章1節)ともあり、現代の日本の元号についても考えさせられた。世界的にも元号(王朝のよる年代)が残っている国は、他にもあるのだろうか。ネットを調べると、紀元前465‐424年がアルタクセルクセス王の治世とあるので、第一年(元年)が465年とすると「第二十年」は、紀元前444年ごろだろうか。カレンダーの決め方も気になった。「捕囚を免れて生き残っているユダヤ人」についての記述も興味をひいた。応答は「捕囚の生き残りで、その州に残っている人々は、大変な苦悩と恥辱のうちにいます。またエルサレムの城壁は崩され、門は火で焼かれてしまいました。」(3)で、サマリヤの方のことは、知らされなかったようにも思われる。複雑な背景もあったはずである。エズラ記の最後を見ると、捕囚にならなかった人の中では、混血も進んでいただろう。さらなる分裂も心配される。それと、ヨーロッパやアメリカに連れてこられたアフリカからの黒人奴隷とは、捕囚の民は扱いが違っていただろうことも、このネヘミヤの例だけではないが、気付かされた。どのように、扱われていたのだろうか。背景として気になることが多い。 Nehemiah 2:20 私は彼らに反論した。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。その僕である私たちが立ち上がって再建する。あなたがたには、エルサレムの中に取り分も、権利も記録もない。」 「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のために援助しようとする人間が来たということを聞いた。それは彼らにとって甚だ不都合なことであった。」(10)エルサレムから来た同胞(ネヘミヤの兄弟の一人ハナニと数人の者:1章)からサンバラトとトビヤについても聞いていただろう。そう考えると、まずは、このグループを排除することが肝要だと思ったことは自然である。城壁修復など任務を持っており、城壁は、外敵を防ぐこと、外と中を分け、中を安全にすることなのだから。しかし「あなたがたには、エルサレムの中に取り分も、権利も記録もない。」と一蹴している。受け入れられる条件や、なにが問題なのかを明らかにできなかったのか。それは、傍からみているものの、見方で、仕方がなかったのだろう。しかし、望ましくはないが、その時点では、解決できなかった問題であるとの意識は持っていたい。それも、理想論で、現実的には難しいのだろうが。わたしが、ネヘミヤだったらどうするだろうか。そして、サンバラトやトビヤだったらどうするだろうか。 Nehemiah 3:38 私たちは城壁を再建し、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には復興への意志があったのである。 この章に記述されている場所で、エルサレムの城壁がすべて修復されるのかは、調べてみないといけないが、かなりの部分が修復されることになったのだろう。引用句「民には復興への意志があった」は、たしかに全員ではないだろうが、特別なことが起こったことは見て取れるように思う。サンバラトやトビヤも、これは信じられないことが起こっているとして、どうにかしなければいけないと思っただろう。祭司で書記官のエズラのように、神により頼み、護衛を頼まない(エズラ記8章22節)姿勢からも学ぶ点はあるが、献酌官で、王のそばで、統治について学んできた、ネヘミヤが総督として赴任したからこそできたことは多かったろう。これも、信仰的決断と、科学的判断の両方に適切に目をむけるたいせつさの一つだと思う。そして、このネヘミヤの準備周到な働きが、人々の協力と、一丸となる協働性も生み出している。ネヘミヤについては、学ぶことが多いように思う。 Nehemiah 4:11 城壁を再建する人々、荷を担いで運ぶ人々は、一方の手で作業をしつつ、もう一方の手は投げ槍を握りしめた。 以前この句を引用し、霊的に解釈して、証をしていたことを聞いたことがある。それが悪いわけではないが、この章を読むと、状況の認識・分析、それに対応するネヘミヤの指揮官としての有能さ、こまかいところまで行き届いた指示によって信頼をえることなど「荷役の力は衰え、瓦礫の山はおびただしい。城壁を再建するなど、私たちには不可能だ。」(4)とユダがつぶやいても「あなたがたが私たちのところに戻って来ると、あらゆるところから私たちは攻められます」(6)と、十度も訴えても、仕事を忠実にかつ精密に計画して行っている。ネヘミヤの資質もあるだろうが、異教徒の異邦の政府における訓練から多くを学んでいるのだろう。それがここに生かされているように思われる。単に、信仰を持ち出しても、解決しないことは多くある。信仰を否定するのではなく、神が働かれる、すべてを、それがどのようなことかわからなくても、受け取ろうとする、謙虚に、御心を求める姿勢が、必要なのだろう。いくつか、具体的に拾ってみよう。サンバラトやトビヤの意図を理解し行動を予測し、仲間内にも、それが入り込んでいることを理解している。(1,2,5,9)ユダの不安・心配・不審など、気持ちを受け止めつつも、それの根源を考えて、それらを考慮しつつ任を全うしようとしている。(4,6,8)書かれている具体的な指示は、すべてこれに当たるかもしれない。単なる、正しさで、任を全うしようとはしていない。そこに人がいて、その人々の信頼を得なければ、ことはなされないことを理解している。ネヘミヤとその部下が身をもってその中心に居続けたことも、重要なのだろう。ネヘミヤから学ぶ点は多い。 Nehemiah 5:6,7 彼らの叫びとこれらの訴えの言葉を聞いて、私は大いに怒り、よく考えた末、貴族と役人を責めて、彼らに言った。「あなたがたは同胞どうしで利息を取り合っている。」私はまた大きな集会を召集して、 「大いに怒り」とあるが、そのあと「よく考えた末」となっている。しかし、それだけではない、ネヘミヤの基本的姿勢、日常的な営みと神をどのような方と見るかが大切なのだろう。それなしに、単に怒りのあとの考慮を結びつけても無意味だろう。「労役がこの民にとって重荷となっていたからである。」(18b)の基本的理解の上で、この問題を解決している。おそらく、前の章で不平を言ったり、訴えたりしていたのは、ユダの中心的な人たち、リーダーだったろう。ことが動き出すと、この章では、内部の問題、指導者と一般の貧しい人たちの具体的な問題が浮上する。こちらは「叫びと訴え」(6)となっている。このネヘミヤならば、彼ら・彼女らの根本的な苦しみ、悩みも解決できるかもしれないと思ったのかもしれない。もしかすると、これは解決できないだろうと思いつつも、ネヘミヤをテストしているのかもしれない。指導者や富裕層が違法なことをしているとするのではなく、自分たちの姿勢をモデルとして示して、より本質的なこと、神様が喜ばれることへと導いている。「あなたがたのしていることは間違っている。私たちの敵である異国の民にそしられないように、私たちの神を畏れて歩むべきではないのか。」(9)それこそが、信仰的歩みであり、信仰者が「神を畏れて歩む」実質だろう。そのことに、向かい、共に、歩むものでありたい。ネヘミヤからは多くを学ばされる。 Nehemiah 6:10 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家を訪れると、彼は閉じこもっていた。彼は言った。/「神殿で、聖所の中で会おう。/聖所の扉は閉じておこう。/彼らがあなたを殺しにやって来るから。/夜、彼らがあなたを殺しにやって来る。」 ここでは、最後の挑戦のようにしてこのことが書かれている。この策略に動じず、最後には「城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちのすべての敵がこれを聞いたとき、私たちの周りの異国の民は皆、恐れを抱き、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16)とまとめている。これが信仰告白なのだろう。この背景には、忠実に、誠実に、それまで学んだことを最大限活かして、できる限りのことをしている。おそらく、それが、誠実さ、忠実さなのだろう。全身全霊ということだろうか。しかし、疲れている中で、何度も何度も、挑戦を受け、それを避けられるような別の方向からの誘いを受け、それに適切に答えるのは、そう簡単ではないだろう。わたしも、注意して、少しずつ歩みを修正して行きていきたい。 Nehemiah 7:69 親族の頭の幾人かは、工事のために寄付をした。総督は、資金として金一千ドラクメ、鉢五十個、祭司の短衣五百三十着を差し出した。 最初に「また私は、私の兄弟のハナニと城塞の長ハナンヤにエルサレムを治めるよう命じた。ハナンヤは誠実な人物で、誰よりも神を畏れていたからである。」(2)を見ると、ハナニが登場する。このハナニは、ネヘミヤ書の冒頭1章2節に登場するハナニだろう。引き継ぎとしても適切だと考えたのだろう。ハナンヤについては書かれているが、ハナニについては、ほかに情報がないので、少し心配ではある。この章6節以降は、エズラ記2章とほとんど同じである。微妙に異なる部分があるのが不思議なほど符合している。正確に違いは拾っていないが、写本の違いぐらいにしか、思えない程度の差である。しかし、引用句は少し違う。エズラ記2章68節の途中からであるが、最初から引用する。「エルサレムにある主の神殿に到着すると、親族の頭の幾人かは、その場所に神殿を建てるために自発の献げ物を献げた。彼らは自分の力に応じて工事資金として金六万一千ドラクメ、銀五千マネ、祭司の短衣百着を差し出した。」(68,69) Nehemiah 8:16,17 民は出て行き、枝を取って来て、各自、家の屋上や彼らの庭に、そして神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に、自分たちのために仮庵を作った。こうして捕囚から帰還した全会衆は、仮庵を作り、その仮庵で過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのように祝ったことはなく、それは大変大きな喜びであった。 8章は「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」(10)とあるように、喜びの日である。エズラが律法を読み(3)、レビ人が律法を民に解説し(7)ネヘミヤと、エズラとレビ人たちが、民を励まし(9)、二日目に仮庵祭をしていないことに気づき、引用句に至る。十分な家もない状況(7章4節)で、町の城壁や、門の修復作業をしていた人たちにとって、出エジプトの時を思うことは、とても意味があることだったろう。これまでの様々な労苦が喜びとなる時、それを共に祝える時、それはなんと喜ばしいことだろうか。むろん、問題が消滅したわけではないが。そのようなときも大切にしたい。 Nehemiah 9:36,37 このとおり、今日私たちは奴隷の身です。/その実りと恵みを享受するようにと/あなたが私たちの先祖にお与えになった/この地で/このとおり、私たちは奴隷の身です。この地の豊かな産物は/私たちの罪のゆえに/あなたが私たちの上にお立てになった/王たちのものとなっています。/彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。/私たちは大変な苦しみの中にいます。」 レビ人の賛美が5節から最後まで続いており、引用句がその最後である。レビ人のリスト(4)のうち、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ホディアは、8章7節のリストにも入っている。イスラエルの歴史を内面化して告白しているもので興味深い。最後は現状について述べ、奴隷の身としている。ネヘミヤ記を読んでいると、とても自由に行動しているように見えるが、収穫のどの部分かはわからないが、自分たちのものとはならないことが奴隷という意味なのだろうか。おそらく、もっと様々な不自由さがあったのだろうが。この章に含まれている、精神の自由さをみると、奴隷とはとても言えない、自由なこころの人たちだと思ってしまう。 Nehemiah 10:1 これらすべてを顧みて、私たちは誓約し、書き留め、私たちの長、レビ人、祭司が捺印した。 これは特別な新しい歩みである。これまでは、ユダヤ人すべてが国として、民族として、宗教集団として捉えられていたが、ここでは、誓約をしたものが核となっている。明確にはわからないが、他を排除するものではなかったろう。いくつかのことを考えた。まずは、ネヘミヤは王に任命され赴任しており、任期も明確だったろう。(2章6節)ハナニとハナンヤにエルサレムを治めるように命じ、そしてここでは、宗教的集団を契約によって形成している。教会や教団に近い。「以上は祭司である」(9)のリストが、ネヘミヤから始まっているが、かならずしも、ネヘミヤが祭司だということを言っているわけではないだろう。「ネヘミヤ、そして(וְצִדְקִיָּֽה (2)」と次のツィドキヤの前にワウがある。気になったのは、エズラの名前がないこと。30節から誓約の内容が書かれているが、詳細である。しかし、それだけで書き尽くせないこともあることも意味し、このゆえに、分裂もあったのかもしれないと思う。難しい。 Nehemiah 11:1,2 民の長たちはエルサレムに住んだが、他の民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人は他の町に住むようにした。民は、自ら進んでエルサレムに住む人々すべてを祝福した。 このあとのリストにいくつか説明が加えられていることも興味深い。「ジクリの子ヨエルが彼らの監督であり、セヌアの子ユダが町の次官であった。」(9)監督は他の集団にも書かれている場合があるが、町の次官も登場する。町はエルサレムだろうから、ある程度の組織があったこともわかる。「イスラエルの他の人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の受け継ぐべき地に住んだ。」(20)とあるが、このときの状況はどうだったのだろうか。まったくの廃墟が広がっていたわけではないだろう。前からいた人たちとの関係も様々だったことが想像される。捕囚にならずに、残された人たちも居るだろうから、どのように迎え、迎えられたかも気になる。そして、他民族で移住してきたひととの関係も。エルサレムに住むにしても、そうでなくても、大きな困難があったことだろう。 Nehemiah 12:47 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの人々は皆、詠唱者と門衛のその日一日の分を提供し、レビ人には聖なる献げ物を与え、レビ人はアロンの子らにその聖なる献げ物を分け与えた。 これまで読んできて、ゼルバベルの時代とネヘミヤ時代の関連が明確ではなかったが、ある程度この章に書かれている。ゼルバベルの時代とあるのは、最初のキュロスの勅令で帰還した第一陣のことだろうから、BC538年ごろ、エズラの帰還は BC458年ごろ、そしてネヘミヤが総督として赴任するのは、BC444年頃となる。ネヘミヤの時代に、エズラたちも含まれているのだろう。すると、1節のエズラは別人なのだろうか。しかし、この最初のリストに、ネヘミヤと共に労したひとたちと同じ名前がたくさん含まれるように見えるが、おそらく同じ名前が多いのだろう。このあと、年代は、「エルヤシブ、ヨヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代」(22)などと大祭司の名前で呼ばれているようである。どの程度厳密に、終生大祭司制が実行されていたかは不明だが。ペルシャなどで、王の第何年と呼ばれたり、日本の元号と共通点があるのかもしれない。しかし、後代のものには、わかりにくい。おそらく、まずは、整理することとして、この時代に、記録されていったのだろう。 Nehemiah 13:29-31 私の神よ、祭司職を、また祭司とレビ人の契約を汚したことについて、彼らを覚えていてください。私はすべての外国人から彼らを清め、祭司とレビ人のそれぞれの仕事における任務を定めました。また定められた時の薪の献げ物と初物について定めました。私の神よ、私を心に留めて、お恵みください。 ネヘミヤ記の最後の部分である。10章か11章で終わっていれば、ハッピーだったろう。しかし、ここまで記録したことの重さも感じる。私たちへの警告でもある。「この間ずっと、私はエルサレムにはいなかった。バビロンの王アルタクセルクセスの治世第三十二年に、私は王のもとに行っていたからである。やがて私は王にいとまを請い、エルサレムに帰り、エルヤシブがトビヤのためになした悪事、すなわち神殿の庭に彼のために部屋を手配したことを知った。」(6,7)最初の派遣から12年(BC432年頃)程度たっている。このあとには、宮清めのようなことが記録されている。ネヘミヤは素晴らしいリーダーだと思うが、そう簡単ではない。これも、大祭司の孫の代では、誓約は守られていなかったことが発端のようである。難しい。どうしたら良いのだろうかと、ネヘミヤも思ったことだろう。その難しさを、わたしたちも引き継いでいるように思う。しかし、イエスさまから学び担うというヒントも与えられつつ。 2021.7.25 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  32. BRC 2021 no.032:エステル記1章ーヨブ記4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ネヘミヤ記はいかがでしたか。予定では、本日でネヘミヤ記を読み終え、明日からは、エステル記そして、その次のヨブ記を読み始めます。前回も書きましたように、ヨブ記が終わると、一旦旧約聖書から離れて、予定では8月28日から新約聖書を読みます。新しい巻にはいるときはチャンスです。挫折してしまった方も、通読を再開してみませんか。新約聖書からの再開もよいと思います。お友達などを、「聖書を一緒に通読しませんか」と、お誘いくださるのもよいと思います。自己紹介を含めご本人からメールをいただければ、配信リストに加えさせていただきます。一緒に読み進めることができるのは、心強いですし、すばらしいことだと思います。 さて、今週はまず、エステル記を読みます。聖書には、女性の名前がついている書が二書あり、ルツ記ともう一つがこのエステル記です。「BRC 2021 no.030」に簡単な年表を書きましたが、エステル記に書かれていることをみると、この書は、エズラ・ネヘミヤより少し前の時代ということになります。ユダヤ人に対するホロコースト(Holocaust 大虐殺)計画が実行に移されるはずだった日が逆にその悪に報いる日となったことを祝うプリム祭(Purim)の起源が書かれた書です。もし、この計画が実施されていれば、エズラやネヘミヤも、存在しなかったのかもしれないとも思います。史実性など、疑問も呈されている書ではありますが、みなさんは、どのようなことを読み取られるでしょうか。 次はヨブ記を読みます。ヨブ記は42章まであります。最初の2章はプロローグ、最後の5章は別ですが、4章から37章は友人たちとヨブとがそれぞれの考えを語り合う、議論する内容になっており、そこが中心なのでしょう。最初の2章と最後の1章だけは、疑問は出るかもしれませんが、読んで分かる内容になっていますが、中間の部分はなかなか難しく、わたしも何度読んでもよくわからない箇所です。しかし、なにか結論を伝えることではなく、様々な考えを語り合いながら、全体として神の義とひとの苦しみの問題を問うている箇所なのかもしれません。みなさんは、なにを読み取られるでしょうか。よくわからなくてもそのときに感じたこと、受けたことを書き留めておくことは、みなさんの人生のタイムプリントでもあり、とても、たいせつなものだと思いますよ。苦しみ、悲しみ、痛みを伴うひとの不幸と、神の正しさの問題は、わたしたち一人ひとりにとって、そして、人類全体にとっても、とても大きなそして、重要な問いだと思いますから。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エステル記1章ーヨブ記4章はみなさんが、明日8月2日(月曜日)から8月8日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エステル記およびヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エステル記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#es ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。ヨブ記の今週読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(実は、昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Esther 1:1,2 これは、インドからクシュに至るまで百二十七州を統治していたクセルクセスの時代のことである。クセルクセス王がスサの都で王位についていた頃、 「クセルクセス王の治世の第三年」(3)とこのあとに続く。クセルクセス(Xerxes I, 治世 BC486-465, アケメネス朝第4代の王)はダレイオス(Darius the Great, 治世 BC522 – 486)の子であるので、BC484年 頃ということになる。歴史背景が正確に書かれているが、歴史性は疑われており、本書の最後に書かれているプリム祭の由来として書かれたと考えられているようだ。最初に王妃とのトラブルかが書かれており、全体として興味深い。モルデカイは帰還民のリストにもあり、一般的な名前のようだが、エステルはユダヤ系にはない名前のようである。 Esther 2:10,11 エステルは、自分の属する民と出自を明かさなかった。モルデカイが彼女に明かすなと命じたからである。モルデカイは毎日、エステルの安否と彼女がどう扱われるのかを知ろうとして、後宮の庭の前を行ったり来たりした。 現実離れしているように思われる。この章の最後には「その頃、モルデカイが王の門に座っていると、王の部屋の入り口を守る王の二人の宦官ビグタンとテレシュが、怒りに任せてクセルクセス王を討とうと謀っていた。」(21)と陰謀とこの二人が処刑されたことが記録されているが、絶対王政では、このような陰謀はつきもので、王妃候補者の出自を調べることは、当然のことと思われる。また、物語としては、モルデカイの行動も必要であるが、「後宮の庭の前を行ったり来たりした。」から明らかな不審者と認識されるであろうこともわかる。後宮の庭に入れることが異常、そこで、「王の部屋の入り口を守る王の二人の宦官」の情報をえることも、できすぎているようにも思う。この時期は、クセルクセス王の治世の第7年の第十の月とされているが、1章のときから、あまりに時間が立ちすぎていることも、気になる。 Esther 3:10,11 王は手から指輪を外し、ユダヤ人の敵、アガグ人ハメダタの子ハマンに与えた。そして王はハマンに言った。「その銀はあなたに与えられる。その民はあなたがよいと思うようにしなさい。」 この前にも「王の門にいる王の家臣たちは皆、ハマンにひざまずいてひれ伏した。王が彼のためにそのように命じていたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、ひれ伏しもしなかった。」(2)とあるが、引用句では、指輪を外して、ハマンに与えている。「こうして第一の月の十三日に、王の書記官たちが召集された。彼らは、王の総督たち、各州の長官たち、および各民族の長たちに宛てて、ハマンが命じたことをすべて書き記した。それは各州にはその書き方で、各民族にはその言語で、クセルクセス王の名によって書き記され、王の指輪で印が押された。」(12)まさにその指輪でこのことがなされている。「AI新生」などの本で、AI が発達した世界について学んでいる。副題は「人間互換の知能を作る」である。"Human Compatible: Artificial Intelligence and the Problem of Control" が原題である。王も自分の意思を実行する人材をえたと思ったかもしれない。しかし、その課題や、目的から生み出すものを見通すことはできない。おそらく、絶対王政の周辺で、AI の課題と似た現象が様々に実験されてきたのだろう。非常に難しい問題である。 Esther 4:14 もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解放と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか。」 暗唱もして何度も考えた句である。モルデカイの信仰がよく現れている。しかし、正しくはないかもしれないと思った。因果応報は、主のなされることの本質ではない。また、ナチスや他の迫害で死んでいった人たちも同じように、このような信仰をもって死んでいったのではないか。父の家が滅びるということも、価値判断にずれが生じているように思う。しかし、「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(ダニエル3章18節)の「たといそうでなくても」は日本帝国主義にもとで抵抗した韓国人が書いた書名にもなっているが、応報を求めるのではなく、信仰告白し「たといそうでなくても」誠実に忠実に主のみこころを求めていく生き方を探していきたいと思った。それが、主が喜ばれることそのままかどうかは不明だが。 Esther 5:13,14 だが、ユダヤ人モルデカイが王の門に座っているのを見る度に、このすべてが私には空しいものとなる。」妻のゼレシュとハマンの親しい者たちは皆、彼に言った。「五十アンマもの高さの柱を立て、明日の朝、モルデカイをその上につるすように、王に申し上げなさい。そして王と一緒に、楽しくその酒宴にお行きなさい。」ハマンはこの言葉が気に入り、その柱を立てさせた。 こころの闇を見るようだが、作り話のようにも見える。ひとのこころはわからない。そうであれば、モルデカイ以外にも、喜んでいないものが多くいることはわかるはずである。そして、同調圧力かもしれないが、妻やハマンと親しい者たちが皆いうことにしては、異常すぎる。事実とすると、エステル記記者もハマンや、ゼレシュを理解できていないということなのかもしれない。 Esther 6:13 ハマンは妻ゼレシュと彼の親しい者たち皆に、自分に起きたことをことごとく話した。そのうちの知恵ある者たちと妻ゼレシュは彼に言った。「あなたは、すでにモルデカイに負け始めているのに、もし彼がユダヤ人の子孫なら、あなたは彼に勝つことはできません。あなたは必ず彼の前に敗れるでしょう。」 物語としての効果を高める一つの演出なのかと思う。事実かどうかを、詮索しないほうがよいのかもしれない。この箇所も、劇場でのナレータの役をゼレシュとハマンの親しい者たちに演じさせているように思われる。ハマンの10人の息子は処刑されるが(9章13節)ゼレシュとハマンの親しい者たちはどうなったのだろうかと気になってしまう。文脈からすると、処刑されたように思われるが、つまり、ナレータではなく、当事者であるもののこのような発言が、わたしは、受け入れられないということなのだろう。集中して読めなくもなっているように思う。これは、自分の問題なのかもしれない。 Esther 7:7 王は憤ってぶどう酒の宴の席を立ち、宮殿の庭へ向かった。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王が自分に害を加えることが決定的になったのを見たからである。 なかなかの文学的才能だと思う。言葉ではなく、態度でこの瞬間の重さを伝えようとしている。整理をしていたのだろう。ハマンのことも、いろいろと考えながら。しかし、やはり正直、脚色が強すぎると思わされる。素直になれないのはなぜだろうか。 Esther 8:8 あなたがたはユダヤ人について、あなたがたがよいと思うように王の名によって書き、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書かれ、王の指輪で印を押された書面は、撤回することができないからである。」 なんともおぞましい民族主義である。具体的には「その中で王は、すべての町にいるユダヤ人に、集まって自分たちの命を守り抜き、迫害しようとする民族や州の軍隊を、子どもや女に至るまでことごとく根絶やしにし、殺し、滅ぼし、その財産を奪い取ることを許した。」(11)とあり、「ユダヤ人には光と喜び、楽しみと誉れがあった。」(16)ともある。これが喜びと楽しみと誉なのか。わたしには、受け入れられない。これはたんなる復讐である。 Esther 9:21,22 アダルの月の十四日と十五日を毎年祝うことを定めた。すなわちユダヤ人が敵からの休息を得た日として、悲しみが喜びに、嘆きが祝いの日に変わった月として、これらを祝宴と喜びの日とし、互いに食べ物を贈り合い、貧しい人々に施しをすることとした。 ユダヤ教も現在はいくつもの派に分かれているのでそれぞれがどのようにプリム祭を祝っているのか不明だが一応調べてみた。ユダヤ敬虔主義のサイト(https://www.chabad.org)には、Jewish Holiday の中に、Purim が入っており、次は来年の3月16日・17日だとあり、由来やそのときにすべきこと、すべきでないことが書かれている。(https://www.chabad.org/holidays/purim/default_cdo/jewish/Purim.htm)この章にも、ハマンの十人の息子たち(10)だけでなく、スサだけで500人(6)、全体で75000人を初日に殺したことが書かれている。「私と私の民は売られて、根絶やしにされ、殺され、滅ぼされようとしています。もし私たちが、男も女も奴隷として売られただけなら、その苦難は王様を煩わすほどのことではないので、私は黙っていたでしょう。」(7章4節)エズラ記でも、ネヘミヤ記でも「奴隷の身の私たち」、「確かに、私たちは奴隷です。」(エズラ9章8,9節)「今日私たちは奴隷の身です。」(ネヘミヤ9章36節)と語るものとは、差を感じる。しかし、あまり批判的にだけ見るのではなく、歴史上で、アンチシオニズムによって、迫害されてきた期間は長いのだろう。世界中に散らされながら、民族主義を守り続けたとも言えるのかもしれない。考えさせられる。 Esther 10:1 クセルクセス王は国土および海の島々に労役を課した。 全体としては、この一句はクセルクセス王が偉大な王であることを印象付けることばのように思われるが、「海の島々」には、少しおどろきを感じた。ただ、アケメネス朝ペルシャの4代目の王として、サラミスの戦いで敗れるまでは、ギリシャも征服しており、アフリカの東海岸にもかなり進出していたようなので、周辺の島にも進出していたのかもしれない。最後に、モルデカイのことは書かれているが、エステルについては、書かれていない。「ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位に就き、ユダヤ人にとって偉大な者となり、多くの兄弟たちに愛された。彼はその民の幸福を求め、そのすべての子孫に平和を語ったのである。」(3)エズラが書記、ネヘミヤが献酌官をしていたことなどを考えると、有能なユダヤ人が様々に登用されていたのかとも思う。 Job 1:20-22 ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、言った。/「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう。/主は与え、主は奪う。/主の名はほめたたえられますように。」このような時でも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。 ここで表現されているのは、神の前の正しさである。しかし、その以前に(またはそれと同時に)悲しみ、苦しみ、喜びが取り去られた感情と痛みがある。この痛みを、他者は、たとえそれが神であっても、理解できない。それは、他者であることと同義といってもよいほどのことでもある。この痛みと苦しみは、存在に関わるひとにとって非常に大きな部分である。そして、おそらく、神にとっても、そうなのだろう。それを、たとえばイエスは「深く憐れまれた(はらわたが傷んだ)」という表現で表すこともある。しかし、ここでは、一貫して、正しさが語られている。この関係もていねいに読み取っていきたい。 Job 2:7,8 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫れ物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って体をかきむしり、灰の中に座った。 「このような時でも、ヨブはその唇によって罪を犯さなかった。」(10b)ここでも肉体の痛み、おそらくかゆみ、力をうしなっていくことと、ひとの神の前の正しさは分離できるように記述している。しかし、いのちを生かすことはできないように思う。重い障害をもった友人、日々衰えていく筋萎縮性側索硬化症(ALS)の友人を思い出し、また、そのひとたちのことばの重さを受け止めようとすると、無力感だけが残る。それがすべてではないことを信仰告白してはいても、正しさを相手に向けることはできない。神がひとの痛み辛さを、ご自身の痛みとしておられるかも知りたい。周囲の、ここでは、三人の友人たちとの対話を通しても。ひとは一人、総体としての存在なのだから。 Job 3:20-22 なぜ、労苦する者に光を与え/魂の苦しむ者に命を与えるのか。死を待ち望んでも、それは来ない。/彼らは隠された宝よりも死を求めている。彼らが躍り上がるほどの喜びに溢れるのは/墓を見いだしたとき。 ここに今回のテーマの苦しみと喜びが書かれている。苦しみとは何なのだろう。これは、ある意味で、信仰を神の前の正しさと解釈するなら、信仰とは独立のようにも思う。しかし、そう単純に言えないのは、我々には、人の子として、来られた主イエスがおられるから。そして、その苦しみを少なくとも理解してくださるかたがおられるからである。超然とした神ももしかすると、そのような存在なのかもしれないが、痛みや苦しみ、そして喜びは神のものとは異なるように思う。そこに一人ひとりの尊厳のもとがあるように思う。 Job 4:3-5 あなたは多くの人を諭し/その萎えた手を強くした。あなたの言葉はつまずく者を起こし/弱った膝に力を与えた。しかし今、あなたにそれが降りかかると/あなたは耐えられない。/それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。 苦しみ、怯え、そこから逃れたいと願うのは、不信仰なのだろうか。たしかに、そのように言うこともできるのかもしれない。神への信頼が不足しているからと。しかし、苦しみ、悲しみは、人間の本質であり、それを避けることは、人間であることをやめてしまうことだとも言える。だからこそ、それが尊厳のもとなのだろう。では、ひとは、この苦しみのなかでどう生きたら良いのだろうか。神の栄光をもとめることか。それほど、簡単には、表現できない。 2021.8.1 鈴木寛@東十条 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  33. BRC 2021 no.033:ヨブ記5章ーヨブ記18章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨブ記を読み始めました。最近連続して書いていますが、ヨブ記が終わると、一旦旧約聖書から離れて、予定では8月28日から新約聖書を読みます。新しい巻にはいるときはチャンスです。挫折してしまった方も、通読を再開してみませんか。新約聖書からの再開もよいと思います。お友達などを、「聖書を一緒に通読しませんか」と、お誘いくださるのもよいと思います。自己紹介を含めご本人からメールをいただければ、配信リストに加えさせていただきます。一緒に読み進めることができるのは、心強いですし、すばらしいことだと思います。 ヨブ記はいかがですか。最初の2章または3章はプロローグ、おおよそ、今週と、来週は、3人の友人とのダイアローグ(対話)が続きます。対話と書きましたが、どちらかというと、議論、非難と弁論など、どのように表現すればよいかわかりませんが、みなさんは、どのように表現されるでしょうか。なかなか難しい箇所ですが、このような文書が聖書に含まれていることで、聖書の厚味が増していることは確かだと思います。わたしも若い頃は、3人の友人たち(それぞれ3回はなします)の言っていることは、全体としては誤りで、ヨブの語っていることはほぼ正しいが、すこし欠けた部分があり、それを最後に神様に指摘されると仮定して読んでいました。今は、それほど単純ではないと思っています。すくなくとも人は「いいもんとワルモン」に分けることはできないのでしょう。わたしたち人間には、わからないことばかりですから。丁寧に、ひとりひとりからメッセージをうけとり、かつ、それぞれのひとの痛みと背景、そして、自分ならどのように語るだろうか、様々な状況を考えて読むことができるとよいかなと思います。みなさんは、どのように、ヨブ記を読まれるでしょうか。分かち合っていただければ幸いです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨブ記5章ーヨブ記18章はみなさんが、明日8月9日(月曜日)から8月15日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。ヨブ記の今週読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Job 5:7-9 人は苦しむために生まれ/火の粉は高く舞い上がる。しかし、私は神に尋ね求め/私のことを神に委ねる。この方は偉大なことをなされ、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。 最初の「人」は文脈から「無知な者」「思慮なき者」(2,3)を指すのだろう。それに対比して「私(テマン人エリファズ)」が告白している。すばらしい信仰告白である。このあと、神が「信賞必罰(手柄のあった者には必ず賞を与え,あやまちを犯した者は必ず罰すること。情実にとらわれず賞罰を厳正に行うこと。)」「因果応報」的なことが事実かどうかは、不明であるが、エリファズの言っていることは、ある真理でもあるだろう。しかし、それは、苦しんでいる人には何にもならない。正しさはひとを癒やさないのだろう。事実を確認すること、その理解を促すことは、立ち直るときには必要な要素であるが、苦しんでいるその只中で、かけることばは難しい。「神から懲らしめを受ける人は幸いである。/全能者の諭しを退けてはならない。」(17)わたしはこうは言えない。しかしではどうすればよいのか。通常、一緒にいることがたいせつと言われるが、それだけでもないように思う。一緒にいる時間の過ごし方もたいせつなのだろう。少しずつ考えていきたい。 Job 6:11,12 私にどんな力があって、待てるというのか。/どんな結末があって/私の魂が忍耐できるというのか。私の力は石の力だろうか。/私の肉は青銅だろうか。 今回のヨブ記の通読では「ひとの、悲しみ、苦しみ、喜びが取り去られた感情と痛み」について考えながら読んでいる。引用箇所は、精神力にも限界があると言っているようだ。その前には、神に打ち砕かれることを望んでいる。おそらく、死を望んでいるのだろう。それによって、自分の正義が保たれる(10)ことも言っているようだ。過ちを具体的に指摘してほしい(24)と願うヨブ。懲らしめが、罪によるならその「過ち」を知りたい。もし、それが「過ち」によらないのであるなら、その理由が知りたい。それなしに、ひとの体と精神をもって耐えることはできないと言っているように思える。以前からわたしには、よくわからないことがある。「ひとは意味のない人生を生きることができないのだろうか。」ということだ。神様の側にその意味が隠されているかどうかは別として、わからないことが自然なように思う。そして、自分の人生の意味をことばにしてしまうことは、危険でもあるように思う。それは、この苦しみ、悲しみ、痛みについて、そしておそらく喜びについても、わたしがよく理解できていないということなのだろうが。 Job 7:1-3 地上の人には苦役があるではないか。/その日々は雇い人の日々のようではないか。奴隷のように日陰をあえぎ求め/雇い人のようにその賃金を待ち望む。そうだ/私は空しい月日を受け継ぎ/労苦の夜が割り当てられた。 雇い人は小作のようなものだろうが、このように表現されると、雇い人や奴隷の人生は虚しいとなる。そうかも知れない。ヨブに見下されているようにも思われるが、本質は「苦役」であり、その「空しい日々」が、「それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。」(11)とあるように、「霊の苦悩」「魂の苦痛」だと言っている。ひとの人生は、そのようなものであることは一面そのとおりだと思う。充実した日々から、「意味のある人生」と思うことでよいのだろうか。それも、幻影かもしれない。高慢かもしれない。ただ、人生は、自分だけで完結していないことも、知るべきだろう。自分だけの収支を見て、無意味な人生とすることは、できないように思う。しっかりと向き合ってみたい。 Job 8:8,9 先の世代に尋ねてほしい。/先祖たちの究めたことを確かめよ。私たちは昨日生まれた者にすぎず、何も知らない。/私たちの地上での日々は影にすぎない。 シュア人ビルダドのことばである。1-7節では「もし、あなたが清く正しいならば/今や神はあなたのために目を覚まし/あなたの義の住まいを回復する。」(6)と、苦しみは罪のため、罪がなければ、義の住まいを回復するとしている。神が因果応報であるとして、現在のヨブを見ていると同時に、引用句のように、過去の人々の英知から学べとしている。哲学的手法のように思われる。知恵を得、虚しさから開放されれば、痛みも霧散するというのか。しかし、それが自らの罪と結びつき、かつ解決できないものならどうなのだろうか。神の憐れみと、ひとの苦しみの問題を直視しないと、いけないように思う。簡単な解決をもとめてはいけないのではないか。そこに、苦しんでいる人がいるのだから。 Job 9:11 見よ、神が傍らを通り過ぎても、私は気付かず/神が過ぎ去っても、私は悟れない。 この章は「ヨブは答えた。確かに、そのとおりだと私は知っている。/人はどうして神に対し正しくありえようか。」(1,2)と始まる。さらに「私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。/私は生きることを拒む。」(21)おそらく、神に対して正しくありえない、自分でも、正しさがよくわからないなら、正しくありえず、それを神が裁くとしても「神は私のように人ではないから/『裁きの場に一緒に出ようではないか』/と私は応じることはできない。」(32)と。引用箇所は、神の働きを知ることができないことを象徴的に描いている。この状況のもとで神によって裁かれ、罪あるものとされ、その罰を受ける人生であるなら「私は生きることを拒む」ことも当然に思える。正しくあること、正しくないと神は罰を与えられる。この病や苦しみのように、と考えることが矛盾をはらんでいることを記している。「神は私のように人ではない」「我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない。」(33)キリスト者はここから希望も見出すのだろう。キリストがおられると。しかし、それは前の問題をしっかりと受け止めてはいない。イエスによって、上の議論にたいして、どのような答えが与えられたかをしっかり受け止めなければならない。わたしも、完全に理解しているわけではないが。 Job 10:2,3 私は神に言おう。/「私を悪しき者としないでください。/どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。 「私の魂は生きることを拒む。」(1a)と始まる。9章21節の繰り返しである。そして引用句のあとには「あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか。」(4)と続く。わたしが今考えている重要な課題である。「神様は、わたしたちの苦しみ、痛みをも理解したいと願っておられるが、完全にわかるわけではない。」と私は考える。ここでもそれが問われている。おそらく、ヨブが語っていること、そして論理が間違っているのではなく、ヨブが、そして、わたしたちが神様のことを理解できていないということなのだろう。聖書にも十分は書かれていないということも言えるかもしれない。しかし、特に、イエスを通して示された神様について、神の子として生きることを、少しずつでも理解し、歩んでいきたいと願う。それが、達し得た所なのだから。 Job 11:16 こうしてあなたは労苦を忘れ/それを流れ去った水のように思う。 この「こうして」に至るために「ナアマ人ツォファル」(1)が語っているのは、神の崇高さと、苦しみは不義の結果であるということのようだ。ヨブとの議論が噛み合っていない。「ああ、神が語りかけ/あなたに対して唇を開いてくださるように。」(5)ここで言われていることとはずれているのかもしれないが、ヨブもまさにこれを求めているのだろう。しかし、苦しみ、痛み、病む、生身の人間に、どれだけのなぐさめ、力となるだろうか。やはり、神の子として生きることが、鍵となるように思う。神様だったら、人の子である、神の子なら、どうするかと考えることだろうか。やはり、難しい。 Job 12:4,5 私は友人たちの笑いぐさ。/神を呼び、神が答えてくださったのに/完全で正しき人が笑いぐさとなっている。安楽な思いの中には不運な者への侮蔑があり/人が足を滑らせるのを待っている。 ナアマ人ツォファルや、すでに語った、テマン人エリファズ、シュア人ビルダドのことばもやはり「不運な者への侮蔑」があるのかは、断定しないが、暖かく、そばにともに居るようには、見えない。隣人になること、隣人であることは、そのような存在なのだろうか。少なくとも、「完全で正しき人が(を)笑いぐさ」にしたり、「侮蔑」を与えてたり「足を滑らせるのを待っている」のは、隣人ではない。 Job 13:21,22 あなたの手を私の上から遠ざけてください/あなたの恐怖で私をおびえさせないでください。そして、呼びかけてください。私は答えます。/あるいは、私に話させ、あなたが答えてください。 この章の前半は、ひとの批判は不要であることを伝え、後半で本当の望みを書いているようだ。引用箇所から、神の前に自由の身で、神と語りたいことが書かれている。このあとには、「私にはどれほど過ちと罪があるでしょうか。/私の背きと罪とを私に知らせてください。どうして、あなたは御顔を隠し/私をあなたの敵と見なすのでしょうか。」(23,24)と続くが、おそらく、神と自由に語りたいことに尽きるのだろう。自分の苦悩の説明を求めている。神を敬い(16)信頼するものとして。引用句の前半もたいせつだと思う。恐怖がなく、自由でないと、本当には、語れないから。少しずつ、ヨブの痛みを受け取っていきたい。 Job 14:7-10 木には望みがある。/たとえ切られても、また芽を出し/その若枝は絶えることがない。たとえその根が地中で古び/幹が土の上で死んでも 水気に会えば芽を吹き/苗木のように枝を伸ばす。しかし、人間は死ねば横たわる。/人は息絶えれば、どこにいるのか。 死には集中していないように思える。ヨブが求めているのは、「あなたが呼べば、私は答えます。/あなたの手の業を尋ね求めてください。」(15)のように、神と語り合うことのように思う。しかし、ひとは、やはり人生の意味がわからず、苦しみがの意味がわからず、朽ち果てて行くものなのではないだろうか。それを求めることと、完全回答をえることは異なるように思う。そして、全く答えが得られないわけでもないように思う。 Job 15:7,8 あなたは最初の人間として生まれ/丘に先立って生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり/知恵を自分のものにしたのか。 テマン人エリファズの二回目のことばである。同じことばはないが、38章以降の神が語られるテーマの一部でもある。すなわち、有限な人間と、到底及ばない、神との違いである。それはそのとおりであり、その神に、答えてほしいと望むヨブは、高慢なのかもしれない。しかし、信頼関係、交わりを求められる神は、やはり答える必要があるのかもしれない。どのようにしてかは不明だが。これは、とても、大きな問である。神は、ひとが求めさえすれば、得ることができるように、真理を提示しておられるのだろうか。これは、正直わからない。究極的には、NO だが、必要なものは与えてくださるのだろうか。ヨブにとって必要なものは、結局最後に、答えられたのか。わたしたちにとっては、どうだろうか。 Job 16:6,7 たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。/語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。 ここにも、苦しみについての記述がある。最後の部分は何を意味するのだろうか。私の仲間とは誰だろうか。苦しんでいる人を罪あるものと批判することは、その友をも離れさせるということだろうか。「まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。」(7, 口語)これはなにのことかわからない。"Surely, God, you have worn me out; you have devastated my entire household." (NIV) これはわかりすぎて言語との乖離が心配になる。"But now He has worn me out; You have made desolate all my company." (NKJV) おそらく、このあたりが、原義に近いのだろう。難しい。 Job 17:1,2 私の霊は破れ、私の日々は消え去る。/私にあるのは墓ばかり。ただ嘲りが私を取り囲み/私の目は彼らの挑発の中で夜を過ごす。 「霊は破れ」はよくわからないが、精神・こころがずたずただということだろうか。希望がない状態。そして、嘲笑に囲まれている。希望とする神はいくら叫んでも答えず、滅び以外、死しかない。わたしは、そのような中で、どう生きることを求めるだろうか。いままでの恵みを感謝するだろうか。それは、神の愛のもとにいると、告白できるときだろう。ヨブは、その危機のもとにある。わたしは、そのような危機について、理解できないのだろう。自分も絶望の中にいたときはあるが、そこには、まだ甘えがあったように思う。自分を悲劇の主人公にするような。ヨブについて、もう少しだけでも理解したい。 Job 18:3 どうして、私たちは獣のように見なされるのか。/あなたがたの目に汚れたものとされるのか。 シュア人ビルダドの二回目である。これをみると、「いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。」(2a)とも言っており、ビルダドも途方に暮れ、自らが責められていることに耐えられないようだ。それは、お互いにとって悲しい。たしかに、そのような状況は起こりうるように思う。一つの悲劇が、人々の間にさらなる悲劇を生じる。これはまたあらたな問題でもある。ヨブ記はやはり、とてもむずかしい。手に負えない部分が大きい。 2021.8.8 鈴木寛@東十条 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  34. BRC 2021 no.034:ヨブ記19章ーヨブ記32章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨブ記も後半に入りました。最近連続して書いていますが、ヨブ記が終わると、一旦旧約聖書から離れて、予定では8月28日から新約聖書を読み始めます。挫折してしまった方も、通読を再開してみませんか。新約聖書からの再開はおすすめです。お友達などを、「聖書を一緒に通読しませんか」と、誘ってみませんか。自己紹介を含めご本人からメールをいただければ、配信リストに加えさせていただきます。一緒に読み進めることができるのは、心強いですし、すばらしいことだと思います。同じいのちを共に生きることにつながっているようにも思います。一緒に読んでいる何人かの方々や、それぞれの方の心のうちにある方々の苦しみや悲しみや辛さや喜びについてもおぼえながら、一緒に聖書を通読しませんか。 ヨブ記はいかがですか。ヨブ記は「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。」(1章1節)と始まります。そのヨブが家族も、財産もすべて奪われ、皮膚病を伴う重い病にも悩ままされる。おそらくひとりのひとの実際の人生を具体的に描いたものではなく、これはヨブ記の設定かなと思います。知恵文学とも呼ばれています。中心部分をなす3人の友人との対話・議論・弁論は、難しいですが、様々な問いについて考えられていますね。その問を書き出してみるのも助けになると思います。次に読むときにはその問を頭において読むとすこし理解が深まるかもしれません。どのようなひとが書いたのでしょうね。それも興味を持ちます。それは、ヨブ記の中に、多くの苦しみや悲しみや痛みが語られているからです。 ヨブ記は、この3人の友人との対話(ほぼ三巡書かれています)で終わらず、エリフという比較的若い人が語りだします。そして神がヨブに応答します。それは、来週の部分で、この部分についても、いろいろな理解があるようです。特に、今週読む部分までは、よくわからない。それは大切なことなのではないかと、わたしは、ヨブ記を読んでいて思います。解決が与えられるのは、やはり嬉しいけれど、おそらく、悩み続け、求め続けながら、いのちを生きること自体に大きな価値があるのかもしれないと思います。それがひとりひとりの尊厳を形作っていくのではないでしょうか。みなさんは、どう思われますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨブ記19章ーヨブ記32章はみなさんが、明日8月16日(月曜日)から8月22日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。ヨブ記までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Job 19:21,22 あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。なぜあなたがたは神のように私を追い詰めるのか。/私の肉で飽き足らないのか。 「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。」(4)も興味深い。もし、誤りがあるとしても、それは、神との関係だけに限られていることを主張しているのだろうか。ヨブは、神と向き合い、そこに集中している。引用句は、そのようなヨブの側に共にいて憐れむものがおらず、神との関係においても、自分を追い詰めるだけの存在になっていると言っているようだ。せめて、このような深刻な課題をともに考えてくれる人はいないのかと訴えているようである。以前は「私は知っている。/私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる。」(25)からイエスによる救いを見て「ほっと」していたが、おそらく、そうではなく、このヨブと苦しみをともにしながら、神と向き合うヨブのそばにいることなのだろう。それとも、それも、正しさに寄りすぎていて、イエスがされることとは違うのだろうか。よくはわからない。 Job 20:2-4 心がいらだち、答えよと私に迫る。/私はせきたてられているのだ。諭しが私を辱めるのを私は聞く。/しかし、霊は私の分別によって私に答える。あなたも昔からのことを知っているのではないか/人が地上に置かれて以来のことを。 「ナアマ人ツォファルは答えた。」(1)とあるが、ツォファルはヨブと向き合っては答えていないように思う。たしかに、ヨブは、友人たちを非難しているようにも聞こえる。しかし、ヨブの求めているのは、自分に起こったことについて、自分と神との関係についての、ヨブの苦しみを前にして、神に向き合うものとして、問うものとして、ともにいてほしいということだろう。しかし、ここでも、一般論、ある意味では、正しさで答えている。どうしたらよいか、わかるわけではない。そして、神からの答えが得られるわけでもない。そのなかで、ひとはどうしたら良いのだろうか。ヒントはあるかもしれないが、よくはわからない。 Job 21:23-26 ある者は十分に満ち足りて死ぬ。 /彼らは皆、平穏で安らかだ。彼の器は乳で満ち/骨の髄まで潤っている。しかし、ある者は魂の苦しみを抱いて死に/幸せを享受することがない。彼らは等しく塵に伏し/蛆が彼らを覆う。 この問題は深く重い。人生の不平等である。因果応報と考えてしまうことから、恵みに生かされていることに考え方を変えることは一つである。しかし、それでは、解決できない、普遍的な課題である。「満ち足りたいのち」vs「魂の苦しみとともなるいのち」それは、気持ちの持ち方だなどとは言えない。ひとつ探求しているのは、いのちは、ともに生きるものと捉えることである。満ち足りたといえる人も、そうでないひとたちの魂に思いを致し、そして、恵みを分かち合う。十二分に。それで、解決するかどうかは正直わからないが、個々のいのちで考えると、つねに行き詰まるように思う。ひとりひとりの尊厳をまもりつつ、他者と喜びも悲しみも共有できなければ豊かになれない、そのようなものをいまは、求めたい。 Job 22:2,3 人は神にとって益となるだろうか。/悟りある者も自分を益するだけだ。あなたが正しいとしても/それが全能者を喜ばせるだろうか。/あなたの道が完全でも/それが神の利益になるだろうか。 「テマン人エリファズ」(1)が語る三回目である。翻訳もあるだろうが「あなたは神と和解し、平和を得てほしい。/そうすれば、幸いが訪れる。」(21)はこころをうたれる。引用句について考えてみたい。わたしにとって、神様は、イエス様を通して表された神様で、深く憐れみ、つねに、Available で、かつ、くびきを共に負ってくださり、vulnerability をもって、本質的な困難をも、取り除こうとしてくださるかたである。「益」かどうかはわからないが、共に喜び、共に泣いてくださる方だと信じている。そしてそれは、イエスさまだけでなく、我々も、共に喜び泣くものとなることをも目指している。「神を畏れるからといって、神はあなたを弁護し/あなたと共に裁きの場に臨むだろうか。」(4)イエス様は共にいてくださるように思う。「あなたの悪は多く/あなたの過ちは果てしないではないか。」(5)これは否定できない。「あなたはやもめを空しく去らせ/みなしごの腕を砕く。」(9)共に生きることを否定する、このようなことを認識することはたいせつだが。わたしも、どうしたら良いかわかるわけではない。 Job 23:4-6 私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。/いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。 この章のヨブには揺れもあるように思う。しかし、主に問い、答えを得たいという強い気持ちは変わらない。「きっと私を心に留めてくださるだろう」と告白できるのは、これまで、明らかにではなくても、神との交わりの中を生きてきたものの、告白のように見える。神の答えなく、ただ、滅ぼされる恐怖はあるように、思う。このように、問い続けること、それは、わたしの神のみこころ、真理の探求とは、少し違うように思う。それは、イエスのことを知っているからだろうか。そうなのかもしれない。しかし、そこに行き着くのは、ヨブにとっては、不公平、卑怯であるようにも、思う。やはり、難しい。 Job 24:24,25 彼らはしばらくの間、高くされるが/やがて姿を消す。/彼らは低くされ/すべての者と同じように刈り集められ/麦の穂先のようにしおれてしまう。 もしそうでなかったら/一体、誰が私を偽り者とし/私の言葉を空しくすることができるだろうか。 やはり、ヨブの中に、不法を働くものが、平安を享受し、義を求め続けた自分は、苦しむことへの、非合理さ、神への疑問があるのだろう。神の公平さ、因果応報を問うている。そうでなければ、どうなのだろうか。神の子として、生きることに、希望を持てるだろうか。それほど簡単ではないように、思われる。ヨブの、そして、ヨブ記の問をしっかり受け取りたい。 Job 25:6 まして、人は蛆/人の子は虫けらにすぎない。 「シュア人ビルダド」(1)が語る三回目であるが、とても短い。神と人との距離・違いを述べている。たしかに、これも、ひとつの見識だろうと思う。ヨブにとっての神は、違うし、イエスにとっても、わたしにとっても違う。しかし、ともすると、神を自分のものとあまりに近く考えてしまう、自分を省みると、この引用箇所は、強烈である。このような謙虚さ、このような告白は、やはり素晴らしいと思う。これがないと、神は、自分の神観が生み出したものになってしまう。創造者は神であって、私ではない。 Job 26:14 見よ、これらは神の道の一端。/神について聞きうる言葉はなんと僅かなことか。/その力ある雷鳴を誰が悟りえようか。 シュア人ビルダドが語る三回目に対するヨブの応答である。正直、もう、混乱してきて、わたしには、よくわからない。ここに書かれているのは、神について知りうることは限られていることである。たしかに、わたしたちは、神について、神の御心についても、ほとんどしらない。そのことは、理解しているように思う。ビルダドのようには断言できないということか。しかし、ヨブの明確な問は、正当なのだろうか。人生の意味、それは、ひとに、知らされるものなのだろうか。ほんの一部分しか知らないものに、神は語り得ないかもしれない。神との交わりのうちにあるものとしては、違うのだろうか。正直、よくわからない。 Job 27:5-7 私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。私は自分の義を保ち、手放さず/心は私の日々を責めることはない。私の敵は悪しき者のようになれ。/私に立ち向かう者は不法な者のようになれ。 かなり意固地に聞こえる。この次には、「神は彼(神を敬わない者)の叫びを聞くだろうか/苦難が彼に臨むときに。」(9)としている。自分に対してはそうではないはずだと自分の潔白・義を主張している。それを批判しても、仕方がないのだろう。ヨブの訴えは、自分を神よりも正しいとすることではなく、神を敬わないものとおなじでよいのか、神よ答えてほしいということなのだろうから。神との関係を第一にしていると読もう。しかし、たとえそうだとしても、神を敬わないものとの違いを主張するのは、わたしにはできない。そして、神との関係もすこし、捉え方が異なるように思う。難しい課題だが。 Job 28:20 では、知恵はどこから来るのか。/分別はどこにあるのか。 引用句が「そして、人に言われた。/『主を畏れること、これが知恵である。/悪を離れること、これが分別である。』」(28)と呼応しているように、思う。知恵を探し求めることは、ここでは、主を畏れることと言い換えられている。おそらく、わたしは、まだ、このことをよくわかっていない。単に、知恵を探し求めることで良いのではないかと。ゆっくり、考えてみたい。主を畏れることについて。それが、知恵のはじめ、分別であり、悪を離れること、すなわち、主のみこころなのだろう。 Job 29:4,5 私の人生が盛りであったとき/私の天幕には神との親しい交わりがあった。全能者が私と共におられたとき/私の周りには若者たちがいた。 「神が守ってくれた日々」(2)をまず記述している。これを読みながら2つのことを考えた。一つは自分のこと。もう一つはイスラエルのこと。自分も、今になって思い出すと、最後の何年かは、Service-Learning も含め、学習支援においても、聖書の会においても、数学の研究においても、データサイエンスに出会ったことについても、本当によかったなと思う。こどもたちが独り立ちしていったことについても。それらがヨブのようにすべて失われたとき、どう考えるのかはよくわからない。イスラエルについては、この章の後半に書かれているように、誠実に神を真理を求め歩んできたひとのことも、想定されているのかなと思った。代々、信仰を守り抜き、「私は見えない人の目であり/歩けない人の足であった。貧しい人の父であり/見知らぬ人の訴えに力を尽くした。不法な者の顎を打ち砕き/その歯の間から獲物を取り戻した。」(15-17)このように生きてきた人たちにとって、むろん、完全ではないにしても、奴隷の身になってしまった捕囚を振り返るとき、ヨブのような気持ちになるだろうとも思う。ヨブ記の成立にも、興味を持つようになった。 Job 30:16,17 今や、私の魂が私の上に注ぎ出され/苦しみの日々が私を捕らえる。夜が私の中から骨をえぐり取り/私の痛みはやむことがない。 わたしには、ここまでの苦しみ、痛みを感じたことが無い。すなわち、そのようなひとの心も理解できない。それは、わたしの感覚が鈍いからか。最近考えていることとして、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びをを感じ取ることができない存在、それが「他者」の定義かもしれないということである。それは、絶対他者とよぶ神との関係においても、同様である。聖霊は、神の心だとも言えるが、神の痛みを感じることができるのは、むろん、ほとんどゼロに近い。神も、有限の体を持った人間について、その痛みがわからないことはご存じでも、やはり、ひとの、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びは、わからないのだろう。 Job 31:13-15 僕や仕え女が私と争ったとき/もし、彼らの権利を私が退けたことがあるなら神が立ち上がるときに、私は何をなしえようか。/神が尋ねるときに、私は何と答えようか。私を胎内に造った方は/彼らをも造られたのではないか。/唯一の方が私たちを/母の胎に形づくられたのではないか。 ヨブは自分に罪があるなら、過誤があるなら示してほしいとしてあらゆることをあげている。ここでは、社会的な問題にまで言及している。社会的な課題、他者、それも、複数以上の他者と関わる問題に関して、特に公平性に関しては正解がないことが多いとも思い、ヨブのようにはなれない。しかし、これは、ヨブ記のひとつの設定、問題提起として受け入れるべきなのだろう。同時に、それが仮定なら、現実ではないなら、生きてみることから始めることとはズレが生じている。わたしには、大きな問題ではなくなってしまうようにおもう。 Job 32:1,2 この三人の者たちはヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと考えていたからである。そこで、エリフの怒りが燃え上がった。この人はラム族出身のブズの人、バラクエルの子である。彼の怒りがヨブに対して燃え上がったのは、ヨブが神よりも自分を正しい者としたからである。 エリフが語り始める設定を書いた部分で、いままではそのまま受け入れていた。そして、若いエリフがかっこいいとも思っていた。しかし、地の文は、聖書にあるのだから、すべて正しいとせず、丁寧に読もうとすると、今回はすこし違うのではないかと思った。たしかに、「ヨブが自分を正しいと考え」は、そのとおりだろう。「ヨブが神よりも自分を正しい者とした」かどうかは不明だが、ヨブは、神に応答を求めていることが中心だろう。それが、ヨブが神様に向き合うことなのだから。わたしは、そのように、み心を求めることはしないが。やはり、難しい。いつか、ヨブ記をある程度理解するときが来るのだろうか。 2021.8.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  35. BRC 2021 no.035:ヨブ記33章ーマタイによる福音書4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週はヨブ記の最後の部分を読み、ヨブ記が終わると、一旦旧約聖書から離れて、予定では8月28日から新約聖書のマタイによる福音書を読み始めます。挫折してしまった方も、通読を再開してみませんか。新約聖書からの再開はおすすめです。お友達などを「聖書を一緒に通読しませんか」と、誘ってみませんか。自己紹介を含めご本人からメールをいただければ、配信リストに加えさせていただきます。一緒に読み進めることができるのは、心強いですし、すばらしいことだと思います。同じいのちを共に生きることにつながっているようにも思います。一緒に読んでいる何人かの方々や、それぞれの方の心のうちにある方々の苦しみや悲しみや辛さや喜びについてもおぼえながら、一緒に聖書を通読しませんか。 ヨブ記はいかがですか。わたしもそうですが、難しいと感じられた方もおられるかもしれません。今週は最後の部分、エリフが語り、ヨブが神のことばを聞きます。昔は、ここに到達するとハッピーエンドの小説を読むようになにか安心して、かえって、あまり丁寧に読んでいなかったようにも思います。皆さんは、どのような問を持ち、どのような感想を持たれるでしょうか。 新約聖書を読み始めます。イエス・キリストと呼ばれ、神の子とされる方が生まれて以降のことが書かれています。いまは、イエスが生まれたのは、BC7年〜4年頃、十字架刑で亡くなったのは、AD28年か29年とされているようです。そして、新約聖書が書かれたのは、1世紀後半から2世紀はじめにかけてとされています。イエスのことを直接知っている世代やその人たちから話を聞いた世代でしょうか。それより少し後の世代の記者もいるようです。なにが書かれているのでしょうか。最初は、福音書と呼ばれているイエスの活動の記録が4つ収録されています。イエスについて伝えられていることから、イエスについて、みなさんは、どんなことを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨブ記33章ーマタイによる福音書4章はみなさんが、明日8月23日(月曜日)から8月29日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨブ記とマタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jb マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。マタイによる福音書の今週読む箇所までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Job 33:12-14 これについて、「あなたは正しくない」/と私は答える。/神は人より偉大であるからだ。なぜ、あなたは神と争うのか/自分の言葉に神が一つも答えないからといって。神は一度語り、また再び語るが/人はそれに気付かない。 正直にいって、ヨブ記はこのエリフのことばをどのような位置づけし、どう理解したら良いかという問いも投げかけていて難しい。「私は清く、背きの罪はない。/私は潔白で、過ちはない。それでも、神は私を責める理由を見つけ/私を敵と見なし私に足枷をはめ/行く道すべてを見張っている。」(9-11)ヨブのことばについてここで表現されているエリフの理解はわたしのそれと似ている。そして引用した応答も、今のわたしの応答と近い。神は様々なことでみこころを示されており、ひとはそれ受け取ろうと求めるが、そうであっても、受け取る部分は、一部分に過ぎない。しかし、同時に、これから受け取っていく部分も少しあるように思う。人文学、社会科学だけでなく、自然科学も少しずつではあるが発達してきている。それを通して、神様のみ心を受けとることも、あるように思う。他の視点もさらにあるのかもしれない。すくなくとも、わたしは、神が語られていることを少しずつ受け取っていきたいと願う。 Job 34:35-37 「ヨブは知識もないのに語る。/その言葉は悟りある者と共にはない。どうか、ヨブが終わりまで試されるように。/彼は悪事を行う者のように答えている。彼は自分の罪に背きの罪を加え/我々の間で手を叩き/神に向かって言葉数を多くしている。」 エリフの理解するヨブについて「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒やされない」(5,6)とまとめている。神の公正さについての問いである。これについて、引用句では、「ヨブは知識もないのに語る。」「ヨブが終わりまで試されるように。」としている。今回、テーマとして読んでいる、ヨブの苦しみ、痛みに寄り添っているとは言えない。しかし、正しさにおいて、おおよそ、わたしのもつヨブの言説に対する印象と近い。前章の「神は人より偉大である」ことから導かれることとも言える。ただしさを、ひとは主張することはできないのだろう。しかし、やはり、神が、ひとの苦しみ、悲しみ、喜びを共にすることはできないとしても、たとえ、異なる苦しみ、悲しみ、喜びであっても、神がともにいてくださり、苦しんでくださることを、イエス様を通して示されているようにも思う。自分の苦しみ、悲しみ、喜びとするということだろうか。共に喜び、共に泣くことの本質なのかもしれない。すこし、ヒントを得ているようにも思うが、エリフのことばとともに、考えていきたい。 Job 35:14 確かに、「あなたはそれを顧みられない」と/あなたは言っている。/しかし訴えは御前にある。/あなたはただ神を待つべきだ。 これもそのとおりだと思うが、今回はなぜかエリフの言葉を素直に受け入れられない。自分で肯定しているにも関わらず。エリフがヨブの正しさの主張に対して、正しさで答えているからだろうか。今のわたしには、共に痛みを担う存在がたいせつに見える。共に生き、ともに苦しみ、共に泣き、ともに喜ぶ存在なのか。たとえ同じことは経験できなくても、そして、そのひとの行動が誤解に基づくものであったとしても。しかし、それもあまりに単純すぎるように思う。イエスの深い憐れみの内容が知りたい。形式的なものでは無いはずだ。エリフが語るように、一方で神に深く信頼することだろうか。 Job 36:15,16 神は苦しむ人をその苦しみによって救い/彼らの耳を虐げによって開く。まさしく、神はあなたを苦しみから/束縛のない広々とした場所にいざなう。/あなたの食卓には憩いがあり/豊かな食物で満ちる。 エリフもやはり正しい者は、苦しみから救われると言っているようである。このことは、難しい。ヨブは、この引用句のようなことばを受け入れられるだろうか。ひとの苦しみには、ある限界もあるように思う。それを、精神的な頑強さによって乗り切ることはできないだろう。ただ、それでも、このような信頼を持つ頃は意味があることのようにも思う。いずれにしても、やはりエリフのことばはよくわからない。ヨブ記の枠組みと、三人とのやり取りがあり、あとから挿入されたのだろうか。やはりヨブ記の成立についても知りたい。決定的ではないにしても。 Job 37:14,15 ヨブよ、耳を傾けてほしい。/立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。 エリフは自然現象のことを様々に語る。その背後に主がおられることを認めても、それらについてほとんど知らないことを表明しているように思われる。このような読み方が適切かどうかはわからないが、現代において、自然科学は発達し、多少自然について理解が進んでも、こころの問題、神と人との個人的な関係に集中して行き詰まっているように見える、神理解と宗教界の動向にも一石を投じているように見える。現代はさらにAIや、データサイエンスによって、環境要因を意思決定に結びつけることがある程度可能になり、それを駆使する世の中において、宗教界がそれにまったく背を向けているのではと危惧する。エリフは次のように結んでいる。「全能者を見いだすことは私たちにはできない。/この方は力と公正に優れ/正義に満ち、苦しめることをしない。それゆえに、人々は神を畏れる。/神は心に自ら知恵があると思う者を/顧みることはない。」(23,24)すこし短絡に感じる。わたしは、全能者を見出すとは言わず、真理を、神のみ心を少しずつ理解することと表現するが、それが、神を畏れる生き方なのではないかと思う。 Job 38:10,11 私は海のために境を定め/かんぬきと扉を設けた。私は言った。/「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。/あなたの高ぶる波はここで止められる」と。 この二つの節は関連しているようにも思われる。詩文体であり、翻訳も難しいのかもしれない。海の境なら理解できるが、神がひとが到達できる境を設けているとはわたしには思わない。単に、人間というものには、とうてい到達できないもので満たされているだけのことのように思われる。それは、直線的な距離だけでなく、複雑さも関係しているように思われる。複雑系とは、単純に、因果が特定できない世界とも表現できるだろう。その中にわたしたちは暮らしている。そして、その背後に神様がおられ、働いておられると、わたしは受け止めている。神様がどのような実体なのかはわからないが。だから、真理と言い換えたりするわけだが。 Job 39:1-3 あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。/雌鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。これらが月満ちるのを数え/産むべき時を知ることができるか。これらは身をかがめて子らを産み/陣痛の実を送り出す。 自然界のことが並べられている。ヨブ記記者の不思議に思う探究心もここに披瀝されていて興味深い。むろん、この中に、誤りの記述があったり、現在は、よくわかっていることもある。しかし、エリフの唱えるような、神の偉大さ、ひとと異なることが書かれている。しかし、これらも、エリフの言葉として聞いていたとしたら、ヨブのこのあとの応答にはつながらなかったのではないだろうか。難しいところである。実際は、エリフなどが語ったことであっても、ヨブの中で、神の声としてうけとめることが生じてきたとも言える。一つ言えることは、自然環境の背後に、神様がおられることを、明確に示していることだろう。そこからも、神は語られているはずである。 Job 40:27 レビヤタンがあなたに嘆願を繰り返し/あなたに優しい言葉で語るだろうか。 15節から24節にはベヘモット(Behemoth)のこと、そして、25節から32節には、レビヤタン(Leviathan)のことが書かれている。聖書によっては、41章とにわかれている。これらについては、よくわからないが、引用句の表現は、興味深い。おそらく海にいる、おそろしい悪魔的存在も、神には嘆願を繰り返し、やさしく語るということなのだろう。悪をもコントロールするということだろうか。神様が用いられると表現すると問題があるのかもしれないが、ヨブ記の冒頭との関係も興味深い。 Job 41:4 私はレビヤタンの体について/語らないではいられない。/その偉大な力の物語と見事な調和とに。 前章からのレビヤタンの記述が続く。話をはぐらかしているようにも見える。引用句はレビヤタンに神が敬意を払っているようにも読める。レビヤタンがなにかを正確に理解することは困難であるが、主のもとにはあるが、神様も、完全に理解できているとは言えない存在なのかもしれない。神様にはできないこと(他者と互いに愛し合うようになること、人が神様を真の意味で愛させるようにすること)、神様にはわからないこと(有限な存在の痛み苦しみ悲しみ喜びなど、他者の定義といってもよいこれらのもの)がある、その部分を表現するものなのかもしれない。1章ともつながるように思われる。これが真実というより、神の側の混沌、それは、人間のものとは完全にことなるが、それを、ヨブ記記者が表現しているのかもしれない。もう少し丁寧に読み、理解していきたい。 Job 42:2,3 私は知りました。/あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」/そのとおりです。/私は悟っていないことを申し述べました。/私の知らない驚くべきことを。 ここには、二つヨブが受け取ったとメッセージが書かれている、引用句が1つ目だが、二つ目はよくわからない。「聞け、私が語る。/私が尋ねる、あなたは答えよ。」(4)これも、最初のものと、同じなのだろうか。結局、神の働きは、わからない、見えていないということだろう。それは、わたしも、そのとおりだと思う。ここではエリファズたちについて、「確かなことを私に語らなかった」(7,8)と表現されている。ひとつわかることは、神に問うことをしていなかった、自分の知識で答えようとしていたことは確かだろう。今回は、その程度しかわからなかった。十分時間は取れていないが、これからも、ヨブ記と、そして、聖書と、丁寧に向き合っていきたいと思う。 Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。 なんどもこの言葉を考えてきたが、これは大変なことである。神が共におられる。そのように呼ばれるということは、それが体現していると、ひとびとが、告白するということだろう。この方を通して、主がともにおられることがわかるとも、この方がおられることが、そのまま主がともにおられることを意味するとも取れる。主がおられる、神の国がここにきていることを経験することができるとも理解できる。それは、イエスが、そのように、生きられたから、生き抜いてくださったから。そして、それは、イエスにとどまらず、我々も、そのように生きることに招かれているとも言える。感謝。 Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。 いろいろと放浪したことが書かれている。これは、そうなのかもしれない。旅をしたことが、イエスや親にとって、意味を持ってくることはありうる。そして、ナザレ。ガリラヤではあるが、田舎。どのような街だったのだろう。外国人はどのぐらいいたのだろうか。少なくとも、カファルナイムなどに出れば、様々な人と出会うことができただろう。純粋なユダヤ人コミュニティで過ごしてはいないことが書かれているのだろう。 Matthew 3:7-9 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 このあとには「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(10)と続く。実はなにを意味しているか考えたくなる。ここだけでは明らかではない。しかし、マタイによる福音書全体としては、イエスを通して示される実を指し示しているように思われる。7章16-20節、12章33節、13章8節、22, 23節、26節、21章19節、43節、26章29節。実について語っている箇所は多い。血筋には依らないことが書かれている。単なる所属でも無いのだろう。一人ひとりということだろうか。そうでもないように思う。 Matthew 4:24,25 そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに付いて行った。 「その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」(17)の「その時」は「ヨハネが捕らえられたと聞」(12)いたときだろうか。ヨハネによる福音書は、もう少し前のイエスの活動も書いており、ある意図を感じる。引用箇所は、場所について書かれているが、それも、まず、シリア中とし、そのあとに、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側」としている。ほぼ、イスラエル全土で、サマリヤが除外されているようだ。これらは、何を意図しているのだろうか。考えながら読んでいきたい。 2021.8.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  36. BRC 2021 no.036:マタイによる福音書5章ーマタイによる福音書18章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 旧約聖書を約半分ヨブ記まで読み終り、新約聖書を読み始めました。新約聖書はいかがですか。旧約聖書と比較すると、聞いたことがあることば、読んだことがある箇所が多いのではないでしょうか。教会などで聞いた、メッセージを思い出される方もおられるかもしれません。聖書に親しむためには、そのような思い出、見覚えのあることばを見つけていくのも楽しいかもしれません。わたしも、以前はそのようにして読んでいたように思います。 最近は、ちょっと違う読み方をしています。それは問を立てて読むこと、聖書記者が伝えたいことを考えながら読むことなどなどです。これまでも、時々書いてきました。誰かが受け取ったメッセージではなく、自分がどのようなメッセージを受け取るかをたいせつにしているということでしょうか。ひとは偏見なしに(free without bias)読むことはできませんが、まずは、能動的に読むことを意識することでしょうか。上に書いたように、その一つが問を立てて読むことのように思います。みなさんも、キリスト教の教義、伝統的な解釈について聞かれたことがあるかと思いますが、それらも、それぞれの時代に、困難な問題があってその応答を考えたり、新しい発見をしたりしたことが、長い時間をかけて、少しずつ洗練されたものとなって、定式化され、貴重な遺産となった言えるかもしれません。しかし、起点にはやはり、問いを持ちながら読んだことがあるのではないでしょうか。そして、わたしだけでなく、ひとは、まだ聖書が、神様の御心が、そして、わたしたちの前にある様々な課題(個人的な課題・日常的な課題、感染症の世界的な蔓延、紛争・戦争、環境問題、食糧問題、様々な格差、大きな変化の中で、わたしたちの、そして、世界の未来についてでしょうか)にどのように向き合っていったらよいかについて、よくわかってないのではないかと思うこともこのような読み方に影響しているように思います。 わたしは、今回のマタイによる福音書の通読では、イエスが最初に語った「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4章17節)に焦点をあわせて読みました。実は、マタイによる福音書では、全く同じメッセージを、3章2節でバプテスマのヨハネが語ったとして記録しています。問いは、読みながら生じることもあるでしょうね。ぜひ、その問いや考えたことを記録しておいてください。次に、読むときには、その問い、そして、その理解がかならず深まると思いますよ。そしてできれば、それを分かち合っていただければと願っています。他の人が受け取ったものから学ぶこと、それによって自分の理解が深まることがとても多いのではないでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マタイによる福音書5章ーマタイによる福音書18章はみなさんが、明日8月30日(月曜日)から9月5日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。マタイによる福音書までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Matthew 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」 教義は後の異端といわれるものや、他の宗教との関係のなかでできてきたもので、真理に直接向かうものとは異なる、ひとつの民族主義(自分たちの文化(たいせつにしているもの)を絶対化する)かもしれないと思う。偏見なしに読むことはひとにはできないが、極力、自由に読みたい。その目的は、イエスのメッセージを受け取ることである。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4章17節・3章2節)イエスとバプテスマのヨハネのメッセージは同じである。天の国が近づいたことを確信し、そのなかでの生き方を説いていたことは確かだろう。最初の七福も、天の国が近づいた背景があるのだろう。神の支配に信頼することを前提とすると、ひとつひとつ無理とは言えない。そしてそれは、神のように完全なものとして生きることを目指すことなのだろうか。それが天の国にふさわしいものなのだろう。その内容を一つ一つ受け取っていきたい。 Matthew 6:31,32 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。 「あなた方の天の父」(14,26,32)聖書でこのことばはここにしかない。「あなたの父」(6,18)が神を指す箇所は、ここだけである。イエスの宣教の初期だけに語られたかどうかはわからないが、この「天の国は近づいた」というメッセージと神様を「父」と表現したことは、マタイによる福音書の特徴であり、イエスのメッセージの特別なものであることは確かだろう。むろん、ここで、神の子らかどうか、異邦人との区別という、排他的な民族意識が生じる可能性はあるが、このメッセージをうけとって生きることはつねに開かれているとも言える。注意して、追い求めていきたい。思い煩わずに。 Matthew 7:7,8 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。 「天の国は近づいた」(4章17節b)は、時間的な距離が近づいたと思っていたが、もしかすると空間的な距離、すぐそこにあることを意味しているのかもしれないと思った。求めれば、与えられるものなのかもしれない。神様の支配。神様の御心が完璧に行われる世界。そうでないところにいるゆえに、平安もないように思う。それを、真剣にもとめてみたいと思った。なにかとても遠いところにあるように、思っていた。「天の国は近づいた」を信じ、求めてみたい。 Matthew 8:13 そして、百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。 この章でも「天の国は近づいた」または天の国がそこにあることが証言されているように見える。引用句でも、「ちょうどその時」とあり、まさに、そこに天の国があり、御心が成ることが起こっている。最初の、規定の病(らい病・重い皮膚病)の場合も「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は清められた。」(3)とある。次の、ペトロのしゅうとめの場合も、「イエスが手に触れられると、熱は引き、しゅうとめは起き上がってイエスに仕えた。」(15)で、即時性が証言されている。イエスについて来たいという者へのことばも、その即時性を拒否するものを戒めているように思う。そのあとの嵐も、悪霊にとりつかれたもの二人についても。なんらかの応答によって、神の国を体現しているように思える。丁寧に見ていきたい。 Matthew 9:17,18 また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」イエスがこれらのことを話しておられると、一人の指導者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 引用箇所の後半は「イエスがこれらのことを話しておられると」と始まる。本質的なしかし、もう少し中身を問いたくなるような深い言葉の途中で、一人の指導者が懇願する。まさに、availability を発揮した箇所でもある。このように生きられたイエス様が共におられることに勇気を与えられる。「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36)深く憐れまれたと訳されているスプラッグニーゾマイ(σπλαγχνίζομαι)が始めて現れる箇所である。おそらく、群衆は、イエスのように「弱り果て、打ちひしがれている」とは自覚していなかったかもしれない。しかし、深いところでつながっている。ゆっくり味わっていきたい。 Matthew 10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。 イエス様がほんとうにこのままのことばを伝えたのだとすると、「天の国は近づいた」は、時間的な近さも強く意識していたということだろう。むろん、弟子たちが受け取ったメッセージがそうだったと理解することは可能である。しかし、だからといって、イエス様は完璧であることを維持する必要はないように思う。全体の整合性だけではく、弁証論としては重要なのかもしれないが。たいして重要なことだとは思えない。「天の国は近づいた」はすばらしい、かつ日々の生き方を変える生き方でもある。メメント・モリ(死を思え)をポジティブに表現しているものとも言える。イエスの自由さ、そして直接的に本質に迫る、イエスの魅力は、ここに依拠しているように思う。 Matthew 11:27 すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。 不思議なことばである。このあとの文脈からもわかるように、子はイエスである。神の子とされていることを、確信しているということだろうか。それとも、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(25,26)に、幼子たちと書かれているように、複数で、子(としてくださったもの)たちなのだろうか。引用句の後には、イエスに学ぶことが続く。理解しにくいことばである。誇張があるのかもしれないが、いまは、不明としておこう。いずれにしても、天の父の子としての、意識は明確である。 Matthew 12:28 しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。 これを受け入れるかどうかにかかっているということだろうか。すこし乱暴にも感じるが、「天の国は近づいた」ことをまさに、「その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、連れられて来て、イエスが癒やされると、ものが言え、目が見えるようになった。」(22)において証言している。これも「イエスはそれを知って、そこを退かれた。すると、大勢の群衆が付いて来たので、彼らを皆癒やして、ご自分のことを言い触らさないようにと戒められた。」(15,16)の一つの例示なのだろう。本質は、神の国が来たこと、近づいたことを知ることなのだろうか。 Matthew 13:14-16 こうして、イザヤの告げた預言が彼らの上に実現するのである。/『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り/耳は遠くなり/目は閉じている。/目で見ず、耳で聞かず/心で悟らず、立ち帰って/私に癒やされることのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 理解が難しいことばである。見ることができれば、「天の国は近づいた」こと、神様の支配がそこにあることが見えると言っているように思う。しかし、ここで、「あなたがた」と「あの人たち」を区別しているものが何なのかわからない。イエスを信頼しているかどうかはあるかもしれないが、究極のこたえではないように思う。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。」のあなた方は弟子たちよりも広い範囲なのかもしれない。聞いている人のなかでも、見ている人はいるかも知れない。しかし、そうであっても、よくわからない。 Matthew 14:19-20 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二の籠いっぱいになった。 五千人養の奇跡である。この少ないパンと魚を祝福して配っている姿を見て、それぞれが持ってきているものを皆でわけあったとする解釈がある。(わたしも「神様の豊かさ」の中で話している。)それが事実かどうかは不明であるが、そのような解釈を通して「天の国は近づいた」と受け取ることが難しいことは確かだ。それより、物理的に、奇跡的に、パンがどんどん増えていったほうが「天の国は近づいた」と受け取りやすい。しかし、こちらは、一般的な科学的認識とは整合性がない。見えにくいけれども、そこから、「天の国は近づいた」ことをみることができれば幸いということだろうか。しかし、それは、だれにでもできることではないように思う。どのような排除が起こっているのだろうか。丁寧に考えていきたい。 Matthew 15:23,24 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ます。」イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 どのように、イエスは、この場で「天の国は近づいた」ことを確認するか、おそらく知らなかったろう。そうであっても、ここでも、神がイエスと共に働いておられるように見える。さらに、イエスは「天の国は近づいた」ことを確認して生きていたのだろう。イエスは「ティルスとシドンの地方に退かれた。」(21)と記述されていて、後ろ向きの行動のようにも見える。しかし、つねに、available であることは崩さなかったのだろう。それは、自らの使命を「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えたとしても、そこに限定もしていない。「天の国」は、限定されたところではないことは、イエスにとっても明らかだったのだろう。それに、この女が応じている。美しいと感じる。 Matthew 16:24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。 イエスの十字架を自分の十字架と取り違えてはいけないのだろう。自分には、自分の追うべき十字架がある。それを、ある特別のものとして、使命として受け取る必要もないのだろう。自分の十字架はある。しかし、ここで、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」とある。イエスの十字架とは異なるが、イエスがどのように、十字架を負っておられるかから、学ぶことはできるのだろう。少し抽象的になりすぎたので、ここまでとする。 Matthew 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と言う声がした。 このとき何が起こったのかはわからない。しかし、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と聞いたと確信したのだろう。イエスが神の子だと。「天の国は近づいた」ということは、神の子イエスがそこにおられることだと知ったのだろうか。そのことの、モーセやエリヤの証言を聞いたのかもしれない。事実かどうかではなく、そのことを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは受け取ったのだろう。すこし、理解できる気がする。 Matthew 18:34,35 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 このたとえを聞いた人はそんなひどいことをする人がいるのか、すくなくとも、自分ではないと思うだろう。しかし、「天の私の父」と言われ、「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、」と言われてしまうと、返事に困ってしまう。そこまでひどいことだとは考えずに、毎日、そんなひどいことをしているのだから。神様も、わたしたちを、憐れに思い(27)、こころを痛めておられるのだろう。神様の痛みはわからない。しかし背後にある理不尽さは理解できるはずである。 2021.8.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  37. BRC 2021 no.037:マタイによる福音書18章ーマルコによる福音書4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 新約聖書を読み始めました。新約聖書はいかがですか。今週は、新約聖書の最初に置かれているマタイによる福音書を読み終わり、二巻目のマルコによる福音書を読み始めます。いままでも、何回か書きましたが、一冊の合本聖書になったのはかなり後、書かれた頃は巻物でした。すると、どれが最初で二番目がどれということも、明確に決まったのは、書かれてから、しばらくあとということになります。 最初の四巻は福音書で、イエスの活動とことばが書かれています。そしてその最初の三巻、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は、共観福音書と呼ばれます。今回、マルコによる福音書を読み始めると、マタイによる福音書でも同じ記事を読んだと思われる箇所が頻繁に現れると思います。最初にマルコによる福音書が書かれ、しばらくしてから、マタイによる福音書と、ルカによる福音書が書かれ、さらにしばらくしてから、ヨハネによる福音書が1世紀(西暦100年まで)の間に書かれたとされています。下にもリンクがある、ホームページのそれぞれの箇所には、もう少し、詳しく書いてありますので、興味がある方は読んでみてください。 通読をしていると、読むスピードが速すぎる。もっとゆっくり読みたいと感じられる方も多いのではないかと思います。たとえば、今、みなさんが読んでおられるマタイによる福音書では、1章にいくつかのエピソードやメッセージが含まれていますから、その一つ一つをゆっくり考えたいと思われるのは、自然だと思います。ゆっくり読むときがあると良いですね。わたしは、通読だけでは、聖書を十分理解するのは難しいと思います。他のかたとある箇所について話し合ったりしながら、あまり長くない箇所を丁寧に読んでいく機会があると良いですね。みなさんの周囲にもそのような読み方をしながら、ゆっくり聖書を読んでおられるグループがあるのではないかと思いますよ。すぐには、そのような会に出席できないかもしれません。そのときは、また考えるためにも、メモを残しておくことをおすすめします。わたしが少しずつ書いている聖書ノートもそのようにしてできたものです。章ごとにまとめたものも下にリンクを付けてあります。ちょっと疑問に思った箇所があったら、そこの箇所について、なにか書いてあるかなと読んでみるのもよいかなと思います。違った視点が得られるかもしれません。同時に、ひとりひとり、受け取り方が異なるのも、とても自然なことだと思いますから、正解はなどとは考えず、少しずつ理解が深まっていくとよいなと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マタイによる福音書18章ーマルコによる福音書4章はみなさんが、明日9月6日(月曜日)から9月12日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書とマルコによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mt マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。マルコによる福音書までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Matthew 18:34,35 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 このたとえを聞いた人はそんなひどいことをする人がいるのか、すくなくとも、自分ではないと思うだろう。しかし、「天の私の父」と言われ、「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、」と言われてしまうと、返事に困ってしまう。そこまでひどいことだとは考えずに、毎日、そんなひどいことをしているのだから。神様も、わたしたちを、憐れに思い(27)、こころを痛めておられるのだろう。神様の痛みはわからない。しかし背後にある理不尽さは理解できるはずである。 Matthew 19:20,21 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」 この直前には、こどもたちの祝福の記事がある。関係はあるように思う。おそらく、一般論を引き出すのではなく、このひとへの対応を考えるべきなのだろう。「まだ何か欠けているのでしょうか」にたいして「それで十分」といったら、どうなるのだろうか。マタイでは「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)とここだけ「完全 τέλειος (テレイオス teleios)1. brought to its end, finished 2. wanting nothing necessary to completeness 3. perfect 4.that which is perfect」が使われている。なにか、完全を求めることは不遜に感じるが、そうではないのだろうか。おそらく、この青年は、欠けているものに気づいただろう。それで良いのだろうか。罪の意識をもって、悔い改めることで。5章の方を考えあわせると、それも違うように思われる。 Matthew 20:15,16 自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 金持ちの青年の話(19章16-30節)などともつながっているように思う。「不当なことはしていない」(13)恵みをうけとるのは、むずかしい。このときは、イエス様は説明してくださっているが、実際の世の中のことについては、わからないことばかりなのだろう。神様の思いと、ひとの思いはことなる。理不尽に感じるところに、自らの問題を発見しなければいけないのだろうか。因果応報との関係は、丁寧に見ていきたい。そして、公平さをどのように追い求めたら良いのかも。わたしには、よくわかっていない。「天の国」はこのようなものなのだろう。 Matthew 21:32 なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 この前には「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」(31)となっている。このあとさらに、ぶどう園の主人が息子を送る例えがあり、最後に、「祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(45,46)と結んでいる。引き返せないのか、それとも、何人か、悔い改めるために、イエスはこのように語っているのか。どこかで気づくしかないのかもしれない。真理を愛することは、やはり悔い改めて(向きを変えて)新しい歩みを始める自発性が必要なのだろう。だからこそ「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4章17節)なのだろう。愛の関係は、それ以外では始まらない。 Matthew 22:45 このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 「ダビデの子にホサナ」(21章9, 15節)と群衆や、子どもたちが叫んだときは、イエスは肯定しているように思われる。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」(21章16節)おそらく、それでも、賛美としては不十分でも、賛美のこころを受け取ったのだろう。しかし「ダビデの子」の認識は、さらに、深められなければならない。このように、改定していかなければいけないのだろう。より深い理解に。その過程をも、イエスは肯定しておられるように思う。 Matthew 23:2,3 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。 わたしは、いま、このことばをとても大切にしている。立派なことばは美しく聞こえ、自分の中にないものに憧れるが、そのことばを生きてはじめて、その意味とその不完全さが見えてくるように思う。ここでも、実行が言われている。行いによって義とされるのではないが、実行してみることによって真理が明らかにされていくめんがとても大きい。このあと「先生」「父」「教師」と呼ばれることを戒め、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(12)と言い、このあと、律法学者とファリサイ派の人々を糾弾している。本質は、引用した最初のことばにあるように思う。御言葉を行うことで、その難しさ、自分の行為の不完全さ、しかし、たいせつなことを学んでいくことができる。そのように、生きていきたい。Learning though serving! Matthew 24:45,46 「主人から、時に応じて食べ物を与えるようにと、家の使用人たちを任された忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。主人が帰って来たとき、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。 「忠実で賢い僕」でありたい。家の使用人たちを任されたともある。ある管理職でもある。そのようなリーダーとして仕えることが言われているのかもしれない。わたしは、多くを学んできたが、これからどのように生きていったらよいのだろうか 残された日々、最後の日まで、丁寧に、主の忠実な僕として生きていきたい。それは、いまの生活ではないことははっきりしている。落ち着いて、考え、一歩を踏み出してみよう。 Matthew 25:45,46 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」 おそらく、最も小さな者は、目の前にいつもいるのだろう。わたしにとっての悩みは、児童養護施設のこどもたちである。一人二人丁寧に見れば、その一人ぐらいはなにかよい方向に進むことを助けられるかもしれないと思う。しかし、その価値観についても、正直、それがよいのか確信がない。さらに、一人残さず、ていねいに見なければ意味はないのではないかと思う。それは、出来るだろうか。はっきりいって、それはできない。どうしたら良いのだろう。ただ、立ちすくんでしまう。小さな、大海の一滴であっても、はじめることはできると思うが。この課題と向き合わなければ、引用句はわたしにむけて語られるように思う。 Matthew 26:64 イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。/あなたがたは間もなく/人の子が力ある方の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る。」 イエスは何を伝えたかったのだろう。まず「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」に答えている「それはあなたの言ったことだ。」さらに「あなたがたは間もなく/人の子が力ある方の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る。」本当にひとはそれを見るのだろうか。「神の子、メシヤ」もいろいろな解釈があるだろう。Yes でも No でもこの議論が終わるわけではない。イエスが、何を伝えたかったのかわからない。神様を信頼し、神の右に座ることは確信があっただろう。しかし、それは、大祭司などにとって、どのような意味があったのだろう。正直よくわからない。このときに、何を言っても無駄だったろうとは思うが。 Matthew 27:3-5 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。 この前には「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺すために協議した。そして、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」(1,2)とあり、引用句には「その頃」とある。ユダの自殺について書かれているのは聖書ではあと、使徒1章18-19節の、簡単な記述のみである。驚かされるのは、まだ、イエスに十字架刑の判決がでる前に挿入されていることである。死刑になることを見届けるどころか、単に、有罪とされたことを悔いている。ひとつには、それを強調する意図があったかもしれない。すなわち、刑の重さではなく、無罪であることを証言するため。実際は、どうだったのだろうか。かなり早い時期にいのちをたったことは確かなのだろう。 Matthew 28:18-20 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 大宣教命令と呼ばれる。あまりに整えられており、キリスト教としてかなりのときがたって明確になってきたのかもしれない。印象的なのはしかしながら、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との言葉である。マタイによる福音書記者は、イエスの誕生を「インマヌエル」ではじめ「いつもあなたがたと共にいる」で終わっている。復活も、それに付随していることのように思われる。主が、我らと共におられる。それよりも素晴らしいことはない。マタイはそう言っているようだ。 Mark 1:14,15 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。 マタイでは、イエスも、バプテスマのヨハネも「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節・3章2節)が第一声だったが、マルコでは、バプテスマのヨハネは「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(4)と紹介され、イエスについては、最初に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1)と始まるところからも、福音が鍵である。ただ、神の国が近づいたとも述べている。ニュアンスは少し違うように思う。福音は神の国が近づいたことに関係しているのだろうが、福音ということばを中心においている。福音がなにかは、明示的ではない。マルコで多く使われる「すぐ」は、マタイと比較すると、神の国が近づいたこととは、直接関係させていないようにも感じる。どうだろうか。 Mark 2:10,11 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」 人々は、一般的には、体の麻痺は、罪のため。麻痺を改善することは、人間にできるが、罪の赦しは神のみと考えていたのだろう。しかし、より本質的な、そして、それが事実かどうかではなく、このひとを縛っているものであれば、それを解決する。そこに福音があり、神の国が近づいたこと、そして、さらに、「悔い改めて、福音を信じなさい」と罪の赦しが関係していることを説いているのか。複雑でもある。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」は力強い言葉である。それが福音を信じることに結びついているのだろうか。 Mark 3:28-30 よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 聖霊の働きを汚れた霊の働きだとすることを、冒瀆と呼んでいるのだろうが、単純にそれだけなのだろうか。「聖霊を冒瀆する」のは人ではないのだろうか。とりなしてくださる「聖霊」を冒瀆するという意味なのだろうか。救いを拒否するということと同じなのだろうか。ここで「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言った人の中に、知らないでそうした人と、聖霊を冒瀆しているひとといるのだろうか。それは、区別出来るのだろうか。正直よくわからない。 Mark 4:26,27 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 印象的なのは「どうしてそうなるのか、その人は知らない。」である。病気から回復するときもそうだが、なにが起こっているのかよくわからない、まさに自然にそうなったとしか言えないことが多い。そこに、神様が働いておられるのだろうが。最初の種蒔きのたとえも、「『種を蒔く人』は、神の言葉を蒔くのである。」(11)はたしかであっても、そのあと、どうなるのかわからないことがテーマのようでもある。自分たちがどうかしたから、種の良し悪しでもない。良い地かどうか、それはわからないのだろう。そして、どのように、芽を出し、実をならせるのかも。それが神の国のはたらき、神様の支配のもとで起こることなのかもしれない。謙虚でありたい。希望を持って。 2021.9.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  38. BRC 2021 no.038:マルコによる福音書5章ールカによる福音書2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) マルコによる福音書を読み始めました。そして、今週は、そのマルコによる福音書を読み終え、次のルカによる福音書に入ります。先週は、通読はペースが速すぎて、もう少しゆっくり読みたいと思うかもしれないということについて書きました。今週は、同じトピックについて繰り返し読むことになることについて少し書こうと思います。 今週読むマルコによる福音書には、マタイによる福音書に書かれているとの「同じ」記事がたくさん書かれています。マルコによる福音書の独自記事があまり多くないという言い方のほうが正しいかもしれません。次のルカによる福音書を読むと、これは、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも書かれていたと思われる箇所が多いけれど、それらには書かれてない記事も発見することになると思います。その次のヨハネによる福音書になると、様相は変化し、他の福音書には書かれていないことがほとんどになります。実はすでに前回書きましたが、それが、最初の3つの福音書が共観福音書と呼ばれる所以です。同じことを共に観るといった感じでしょうか。 わたしは次のようなことを考えながら、共観福音書を読んでいます。まず、第一に、これまでに読んだときに、疑問に思ったこと、十分考えられなかったトピックについてより深く、または、もう一度考える機会とすることです。第二には、違った書き方の記事を読みながら、そのときに起こったこと、イエス様が実際に語ったと思われることばの全体像を、補完しながら綴り合せることです。第三には、異なる部分に注目して、それぞれの記者が伝えたかったメッセージを受け取ることです。みなさんは、どのように読んでいかれるでしょうか。 聖書によっては、対応する箇所が書かれているものもありますが、みなさんの聖書はどうですか。下にリンクをつけてある、ルカによる福音書のところに「四福音書対観表」へのリンク(http://www.wjelc.or.jp/yokishirase/synopsis.htm)とともに、もう少し説明が書いてあります。似たものは、ネットで検索するとたくさん出てくると思います。自分で作成するのが良いのかもしれませんが、このようなものを利用し、上に書いたいくつかの読み方をしながら、読み進めるのが、通読にはよいように思います。気になったら、ときどき調べてみながら、福音書を読み進めていただければと思います。イエス様の行動とことばはどのようなものだったのでしょうか。それによってなにを伝えているのでしょうか。人々はなにを受け取り、何を受け取れなかったのでしょうか。わたしたちは、どうでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マルコによる福音書5章ールカによる福音書2章はみなさんが、明日9月13日(月曜日)から9月19日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 マルコによる福音書とルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mk ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成をはじめました。マルコによる福音書までは完成していますので、ご興味のある方は、御覧ください。(昨年の終わりから始めていたこの頁の作成作業は、7月21日にやっと一段落しました。BRC2021のものは、毎週少しずつ加えていきますが、BRC2013からBRC2019までの部分はすでに新約聖書も含めてまとめてあります。) 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Mark 5:15 そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 「正気になって座っているのが恐ろしい」という表現が興味深い。それだけ、このひとにたいする偏見が強かったのだろう。マルコの記述の仕方も、整然とはしていない。「度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。」(4,5)正直可愛そうである。わたしに、なにかできないだろうか。しかし、この状態でも生きていたということは、食事を与えるなどしていたひとがいたのだろう。家族だろうか。どうしようもない状態の時、なるべく関わらないようにするのだろうか。長年関わっている、児童養護施設も、一人ひとりどうしたらよいのか、正直よくわからない。理不尽さ、不合理さ、不公平さも感じる。そして、自分の無力感も。でも、ていねいに一人ひとりと関わっていきたい。愛をもって。どうしたらよいのだろうか。 Mark 6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 イエスはなにを深く憐れまれたのだろう。イエスは、神の国は近づいたことを確信していた。そして、神の働きを間近に見ていたのだろう。しかし、人々はイエスと弟子たちを追いかけ、休む暇も与えていない。安心できる場所、平安がないということだろうか。現代はどうだろうか。いまは、変化のときでもある。わたしはまだたいして生きていないが、子供の頃と今とは生活が一変してしまっている。そして、将来はよく見えない。考えられない。しかし、その難しさを人々はあまり真剣にとらえていないようにも見える。それで良いのだろうか。イエスは、何を深く憐れまれたのだろう。多少のヒントはわかっても、イエスの痛みはわからない。今なら、イエスは私達をどのように見、どのように思われるだろうか。 Mark 7:18,19 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、 「そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(2)から始まっている。つまり、食べ物についての議論ではない。しかし、引用句のイエスの言葉から「このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし」たと結論付けている。応用問題の解を見つけたようなものだろう。イエスが扱ったトピックにすべての答えがあるわけではないが、イエスが伝えようとしたことを理解して、身近な課題に応用していったのだろう。簡単ではない、歩みである。おそらく、わたしたちも、そのような様々な課題に囲まれている。誠実に、向き合っていきたい。 Mark 8:17-19 イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。 かなり厳しい口調に聞こえる。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」(33)は有名だが、引用句のように、その理解の遅さ鈍さを叱られたことが何度もあったのだろうか。おそらく、単に頭が悪いのではなく、イエスにとっては、本質的と思われることが欠けていたのだろう。それは、何なのだろうか。この「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」(15)については、わかるように思うが、「覚えていないのか。私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」と言われるとかえってわからなくなってしまう。不思議なものである。イエスは、わたしたちに、何を期待しているのだろうか。わたしにも「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と言われているように思う。 Mark 9:7,8 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた。 「イエスだけが彼らと一緒におられた。」は、「これは私の愛する子。これに聞け。」の「これ」は、イエスを指すこと、そして、エリヤや、モーセではないことを示しているのだろう。預言者または預言書や、律法授与者または律法ではなく。イエスという神が愛する子を、わたしたちは、学ぶものとして与えられている。それこそが大切なのだろう。それを、弟子たち三人に示されたことは重大である。 Mark 10:14,15 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 このあとの金持ちの男の話の中に「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」(20)とあり、ここに「少年の頃」とあることに気付かされた。この男の「少年の頃」は、子供のように神の国を受け入れていたのだろうか。それを否定するものはない。いまは「少年の頃」から継続していることだと思っても、実は、失っていることがたくさんあることに気付かされたのかもしれない。「子どものように」はなにを言っているのだろうか。この箇所からすると、しがみつくもの、神以外に、大きな価値をおくものがないことなのかもしれない。そのいみでは、染まっていないとも言えるのかもしれない。 Mark 11:23,24 よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 本当にそうなのか、イエスはこの通りに言われたのか疑問に思っていた。今もそれは不明であるが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)、すなわち、「神の国は近づいた」ことを、完璧に信じ、神様に信頼していることが、このようなことばになったのかと思った。一般的に、ひとは、そこまでは、神の御心がなることを信じていない。イエスについていくことは簡単ではないが、「神の国は近づいた」というイエスの中心的なメッセージを、ないがしろにせず、しっかり受け取りたいとは思う。 Mark 12:32,33 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」 律法学者の答えに、不満である。第一の戒めについては後半の「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(30)が、『隣人を自分のように愛しなさい。』につながっていると思うからである。イエスは、「あなたは神の国から遠くない」(34)と答える。律法学者に対しても、偏見なく答える、そして、イエスはおそらく、もっともっとメッセージを伝えたかったかもしれないが、適切なレベルでも、是認・肯定をしている。たしかに、わたしの解釈は、イエスが伝えたかったことであったとしても、一部分に過ぎないだろう。「遠くない」ということばは、是認と同時に、探究心を持ち続けることを奨める、奨励のようにも感じる。わたしも、不完全な理解をたいせつに、深めていきたいものである。 Mark 13:33,34 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである。 新約聖書が書かれた時代、終末を感じていたひとは多かったろう。そして、イエスのメッセージも「神の国は近づいた」であり、さらに、神の子と信じていた、イエスが十字架上で殺され、もう地上にはいない。そのなかで、終末の切迫感を感じたのは自然なことのように思われる。当時の状況について、十分は知らないが、ローマの支配のなかで、ユダヤで農耕・牧畜を主としていた世界は大きく変化していただろう。変化は、恐れをも生み出す。現在も変化の時代である。わたしたちは、どのように生きればよいのだろうか。「気をつけて、目を覚ましていなさい。」にどう応答すればよいのだろうか。委ねられたことに忠実に。それは、わたしがいま、考え・しているようなことで良いのだろうか。正直、よくわからない。終末が近くても、遠くても、神さまの支配を求めたい。 Mark 14:1,2 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、どのようにイエスをだまして捕らえ、殺そうかと謀っていた。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民衆が騒ぎ出すといけない」と話していた。 「だまして」ということばに驚いた。直接的には、「偽証」(57)などがこれに当たるのかもしれない。同時に、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13章33節)と命令されてすることではないと思った。そしてこの次にある「イエスがベタニアで、規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(3)は、まさにそのような行為なのかもしれないとも思った。ゲッセマネで、弟子たちが祈っていられなかったの(37,41)は、物理的にも目を覚ましていられなかった例だろう。例からもひろっていきながら、ことばの意味を理解していきたい。特に通読においては、深く読み込むことはできないが、流れの中で、どのようなエピソードが語られているかは、読み取ることが容易いので。 Mark 15:33,34 昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。 このあと周囲の反応(エリヤを呼んでいる、酢をふくませた海綿をさしだす)が書かれ「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」(37)さらに、その後の様子が書かれている。マルコでは、イエスがなされたことは、基本的に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と大声で叫ばれただけである。詩篇22篇2節a のことばと酷似しており、この詩篇を暗証しておられらという説もあるが、大声で叫んだことを考えると、まさに、文字通りの意味で理解したほうが良いだろう。イエスは神との神学的理解で、イエスを理解することが多いため、イエスの苦しみや、イエスの絶望感を受け取ることは困難になりがちだが、おちついてじっくり考えるべきだろう。基本的には、「神の国は近づいた」ことを宣べ伝え、神の子として生きことはどのようなことかを周囲のひとたち、そして、わたしたちの前で生きてくださった。その最後のことばが引用句であることは、重い。他の福音書などに、他のことが書かれていても、最初に記されたマルコによる福音書、おそらく、ペトロが伝えたイエスの最後は、みな厳粛に受け止めたろう。わたしは、どう受け止めるだろうか。イエスの挑戦がわたしたちに委ねられたと今日は感じた。これからも、しっかり受け取っていきたい。 Mark 16:6,7 若者は言った。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」 マルコはこのあと「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8)とあり、最も古い写本はここで終わっている。切り取られた部分があるとして、いくつかの結びが加えられた写本があると言われている。まずは、8節までとして理解したほうがよいように思う。このあとに続いていたかもしれないが、少なくとも最初の形では残されていないのだから。引用句では3つのことが言われている。この墓にはおられないこと、復活されたこと、ガリラヤで会うこと。信じられないものもいたろう。しかし、イエスのことばと生き様が強く、こころに刻みつけられていたことは確かだろう。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」で終わらず、復活していることは確実なのだろう。それがどのような形での復活なのかは、当初からはっきりしなかったということだろうか。マルコによる福音書は、すくなくとも、これらのことは伝えている。ていねいに受け取りたい。 Luke 1:24,25 その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた。そして、こう言った。「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」 二人の女性の妊娠について記されているこの章には月や期間(その頃(39)など)の表現が多い。ここでは、五ヶ月となっている。一般的に、安定期に入り、胎動(41)のようなものも感じはじめる時期とも言われる。このような知識もあり、確信して、このように語ったととれる。同時に、医者であるルカが、不妊の女だった(7)老年の(36)エリサベトの妊娠と、「男の人を知らない」(34)マリアの妊娠について、正確に理解しようとしたからかもしれない。不妊は、一般的には、夫婦双方に原因があると現代では考えられているが、当時はそのような理解はなかったのだろう。ルカは冷静に知りうることを丁寧に書いており、判断は下していない。月や期間については、待つこと、ある程度時間がかかることも、当然のこととして受け入れられたことも見て取れる。それは「イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」(16)と地域的にも少しずつ拡大していくことを想起させる表現にも現れている。いまは、人権問題など、すぐ普遍化をもとめてしまい、それがかえって地域的には軋轢を生じさせることもある。普遍性を尊ぶ科学的認識の発達という現実とともに、世界観に関してそれを適切に理解することが困難な難しい課題も感じる。 Luke 2:11 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 ルカは、最初から書こうとし、生まれた時からメシアだと証言している。最初に「神の子」(マルコ1章1節)と宣言しつつも、明確な告白は最後に「まことに、この人は神の子だった」(マルコ15章39節)と百卒長の証言を書くマルコとは、異なる印象を受ける。マルコが最初に書かれたと言われていることを考えると、ある期間の間に、「神の子」や「主メシア」の理解も議論され、教義的に定着していったのかもしれない。聖書に書いてあるということで、疑わないことも可能だが、おそらく、単純に事実としてみるよりも、それを真実として、キリスト者が受け入れるようになっていったと理解したほうがよいように思う。このように考えると、ありのままのイエスを読み取ることは困難でもある。しかし、ある程度は可能なのかもしれない。ていねいに読んでいきたい。 2021.9.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  39. BRC 2021 no.039:ルカによる福音書3章ールカによる福音書16章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ルカによる福音書を読み始めました。3つの共観福音書の最後となります。ルカは、ヨハネによる福音書の次の使徒言行録(使徒行伝・使徒の働き)の著者でもあり、ギリシャ人、使徒言行録の記述などを参考にすると、パウロの伝道旅行の後半のかなりの部分に同行した医者のようです。おそらく、エルサレムやユダヤにも行き、そこで、イエスの弟子たちや、イエスやその家族についてもよく知っている人たちから話を聞いてまとめたのではないかと言われています。目撃証言ではないが、聞き取ったことを丁寧にまとめ、美しい文体で書き上げている印象を受けます。教養のあるギリシャ人の医者としての視点も感じられるかもしれません。 新約聖書のかなりの文書は、上に書いたパウロ由来とされています。しかし、パウロはイエスの生涯、どのように生き、どのようなことばを語ったかについて、ほとんど記していません。いろいろな理由が考えられますが、想像の域を出ませんから、みなさんも考えてみてください。しかし、パウロと同行していたルカは、パウロに信頼されていたようにも思います。(コロサイの信徒への手紙4章14節、テモテへの手紙二4章11節、フィレモンへの手紙24節)ます。イエスのことについて書くことはルカに委ねられていたのかもしれません。 そう考えて読むと「信仰」が鍵となる記述(2:25, 5:20, 7:9, 50, 8:25, 48, 9:41, 12:28, 17:5, 6, 17:19, 18:8, 22:32)、それが「救い」と結び付けられていることなども、マタイ、マルコと少し違う描き方をしているようにも思います。言葉の使い方は、一緒にいたひとたちの影響を受けやすいかもしれませんね。ルカは、パウロとは少し違う使い方をしているようにも思いますが。みなさんは、どのように、読まれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ルカによる福音書3章ールカによる福音書16章はみなさんが、明日9月20日(月曜日)から9月26日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Luke 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 「福音」ということばが使われていることに驚いた。ヨハネのことばなのか、ルカのことばなのか、それは不明である。ここに書いてあることをそのまま受け入れると、まず「アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ。」(2)とある。預言者の出現が望まれていた時代に、このことはひとびとにとってひとつの「福音(よきおとずれ)」だったろう。メッセージと実際の活動は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(3b)であり、悔い改めによってあたらしい生活をおくることだろうか。このあとイザヤ書(おそらく40章)のことば「主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ。」(4b)が引用され、さらに「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(8a)と宣べ、具体的な教えが記され(8b,11-15)、最後にメシアではないかとの期待(15)に対して「私よりも力のある方が来られる。」(16b)と説いている。ここまでのメッセージをみると「福音」が語られたと確信できる。丁寧に書かれている。ひとつだけ追加すると「実・良い実」(8,9)について書かれているが、単なる実ではなく、良い実を結ぶように、求め続けることを意味しているのであって、ある地点に達すればそれで合格というものではないのだと思う。「悔い改め(μετάνοια(メタノイア):a change of mind, こころの変化・方向の修正)」と「良い実を結ぶ」こと、これが、主たるメッセージだとすると、イエスとも密接につながると思う。悔い改めと訳しているのは、こころの変化には、過去の間違いを認めるところから始まるということを加味しているのだろう。原義ではないが。 Luke 4:43,44 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。 「神の国の福音」とある。印象的なことばは「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(21)「人々はその教えに驚いた。その言葉に権威があったからである。」(32)そして「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(36)のように、言葉に権威と力があること、さらに「日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。」(40)とあるように、一人ひとりにていねいに接せられたことだろうか。なお、この箇所の「癒やす」は、θεραπεύω(therapeuō: 1. to serve, do service, 2. to heal, cure, restore to health)であり、(身分の低い召使いや下働きが)仕えること(to wait upon menially)である。癒やす意味もあるが、実際に病気を治すことばは他にもあり、ルカがここでこのことばを使ったのは、そこに本質があると考えたからだろうか。 Luke 5:38,39 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」 後半は、マタイ9章14-17節、マルコ2章18-22節にはない。イエスが説くのは新しい教え、新しい袋にはいった新しいぶどう酒である。ぶどう酒がどちらが美味しいかという比較ではないだろうが、ここでは「古いものが良い」としている。ぶどう酒は古ければよいというものではないだろうが、それに慣れ親しんだ人は、そこから離れられないことを言う比喩なのだろう。このパラグラフの「断食をし、祈りをする」(33)は、おそらく、古い革袋をさし、古いぶどう酒ではないだろう。古いぶどう酒から離れたれないのは「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(32)の単純明快なイエスのことばを受け入れられないことを指しているように思われる。そして、年寄への警告でもあるように感じる。わたしのような。 Luke 6:35,36 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」 「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(27)をここで言い換えている。そして、最後に、報い(報酬)が書かれている。それは「いと高き方の子となる」ことである。理由は、それこそが「慈しみ深い」いと高き方なのだからということだろう。イエスが教え、そのように生き、勧めていたのも、そのこと、いと高き方を見習い、いと高き方のようになることなのだろう。背後には、いと高き方についての理解が不可欠である。そのいと高き方について語ることも、イエスがたいせつにしていたことであるが、そこでとどまらないことが肝要なのだろう。 Luke 7:8,9 私も権威の下に服している人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。」 「私も権威の下に服している人間ですが(καὶ γὰρ ἐγὼ ἄνθρωπός ὑπὸ ἐξουσίανεἰμι)」で始まる。「も」が何を意味しているかは必ずしも明らかではないが「イエスさまと同じ様に」と解釈するのが自然なように思われる。すると、イエスが魔術的な力をもった人間とするのではなく、イエスが主である父なる神さまの権威のもとにあることをまずは告白し、権威がしっかりとその人の背後にあり、そのことも手伝って、その人のもとにあるものは、ことばひとつで従うのだということが言われているのだろう。兵隊は、この人の権威のもとにあり、その人はさらに上の権威のもとにある。そのことが、イエスのことばにも当てはまるとこのひとは告白している。そのことがこれらのことばの背後にあることを、イエスは見て取って、称賛しているのだろう。構造全体を確信し、告白する、上に書いた表現は完璧ではないかもしれないが、それでも、驚かされる。権威ということばを聞いただけで、ある拒否反応を起こす場合もあるが、それは、不完全なひとの権威であり、信頼する神様の権威と基本的には、理解することが出来る意味でも、このひとの信仰は創さんに値すると思う。 Luke 8:28 イエスを見ると、叫んでひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」 「神の子イエス、構わないでくれ(Τί ἐμοὶ καὶ σοί Ἰησοῦ υἱὲ τοῦ θεοῦ)」訳し方はいろいろあるだろうが、関係はないとしている。ルカでは明確ではないが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)このメッセージとは関係ないとしているのだろう。この章の最初には十二人も女性たちもイエスについていって「自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。」(3b)ことが書かれている。十分理解できていたかは不明であるが、関わりをもち、悔い改め(生き方を変えて)希望をイエスにゆだねて歩んでいく様子が書かれている。その次に種まきの例えがある。「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(15)とあるように、基本的に種の蒔かれた地によって違いが出てくることが書かれている。関係をもち、生き方を変えることを望むか、それを拒否するかの違いでもある。家族との関係も同様であるように、思う。神の国(神様の御心が完全になる世界)がすぐそこにあることとの関連でみるかどうかということだろう。出血の止まらない女のこと、そして、ヤイロとその娘のこと、この緊張感を覚えて読んでいきたい。 Luke 9:40,41 お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように頼みましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの息子をここに連れて来なさい。」 イエスの嘆きは、「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。」である。神の君が近づいているのに、それが見えないということだろうか。同時に、「歪んだ時代」とも言っている。これは、歪んだゆえに神の御手が見えないのか、または、不信仰なひとで満たされていることが、歪んでいるのか。異邦人の役人や何人かの女性など、信仰的なひとたちもいたことが証言されているが、いままさに目前にある現実はそうではないのだろう。次の「あなたがた」はおそらく弟子たちだろう。時間が迫っていることを認識しているということか。でも、弟子たちもなにもできなかったのではないだろうか。イエスは何を求めておられるのだろうか。鼓舞しておられるのか。しかしその中でも、イエスは行動される。これを、最後のときまですることを決めて生きておられるのだろう。わたしも、よくはわからないし、イエスに叱責される存在であるが、イエスのように生きたい。 Luke 10:9 そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。 やはり、主たるメッセージは、「神の国は近づいた」ことのようだ。この段落の最後にも、『足に付いたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことは知っておけ。』(11)とある。こちらは、悔い改めないものには、裁きが臨むということのようである。良いものが臨む時、やはり二つに分けられるのか。根本的な、この教えがわたしには、よくわかっていないようだ。受け入れられないだけだろう。 Luke 11:27,28 イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から一人の女が声を張り上げて言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 ジェンダー(文化的・社会的役割としての性)について、それらの言葉を廃し、普遍的な価値をイエスが語っているように見える。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人」しかし、もう少し丁寧に見る必要もあるように思う。まず、この「女」は、直接的にはイエスの母マリアが幸いだと言っている。イエスは、それに対して「むしろ」ということばで、単純な否定ではなく、異なる方向を指し示している。このころ、マリアがどのように、イエスを見ていたかは、明らかではない。そのことも多少影響しているかもしれないが、この「女」にも、マリアにも、これを聞いているすべての「女」にも、そしてすべての人にも、当てはまる基準を示している。まさに、普遍的な価値である。しかし「むしろ」ということばにも現れているように、否定はしていない。母性本能のようなものの背景を強調することは問題があるものの「男」としては、このような関係の母・子の関係が羨ましくもある。実際、わたしも、こどもたちが生まれて最初の何ヶ月か、何かをしようとしても、どうすることもできない、あまりの役割の違いに、圧倒されたのを思い出す。それが乳房の問題であった。「母性本能」は社会的に作られたものと主張する人がいるが、それほど単純ではないと思う所以でもある。 Luke 12:1 とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。 この章のイエスはなかなか過激である。引用句では数万人もの大勢に向かって、一般的には尊敬されているファリサイ派を批判している。また、「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな。」(4)の「友人であるあなたがた」は、ちょっと耳慣れない言葉だが、相手の反発を恐れるなと言っているかのようである。さらに「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」(10)とし、続けて「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは」(11a)と訴えられることも想定されている。さらに「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(51)とあり、さらにいくつかの過激なことばが続く。ご自身や弟子たちの行く末、神の国の到来を解くことが、このようなことも引き起こすことを予見もしている。過激さに心撃たれる人もいるかも知れないが、一般的には、距離を置こうとするだろう。イエスはどのように、人々や世の中を見ておられたのだろうか。ルカは何を伝えようとしているのだろうか。 Luke 13:31,32 ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。 最初に「ファリサイ派」の人々がイエスを守ろうとしていることに驚かされたが、そのあとの、イエスの辛辣な、そして乱暴にも聞こえることばに、驚かされた。このあと「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」(33)と続く。また「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。」(ローマ13章1,2節)とはかなり異なる印象を受ける。イエスはヘロデを、そしてローマの支配をどう考えていたのだろうか。ご自身が主から委ねられていることに忠実であること以外なにも受け取れない。最後は「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」(35)と結ばれている。通読では限界があるので、いつか丁寧に考えてみたい。 Luke 14:15 同席していた客の一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 「イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された。」(7)から語られる発言を受けての客の一言である。この発言に関するイエスの切り返しは秀逸。驚かされる。たとえの前には、安息日にイエスが癒やされた例がいくつか書かれている。まず第一には、神の国は近づいた」というメッセージをどう受け取るかとういことのように思う。そして、それは「悔改めよ」ということなのかもしれない。これは、一人ひとりに投げかけられているメッセージでもある。真摯にこれらのメッセージを受け取ることは簡単ではない。弟子たちにはこのあと、厳しいことばが語られ最後には「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」(34)とあり、「聞く耳のある者は聞きなさい。」(35b)と締めくくられている。宴会に招かれる人々について説明した 16節-24節は、乱暴にも見えるが、まずは、丁寧に、これらのことばと向き合うことから始めたい。 Luke 15:6,7 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。」(10)「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」(32)とても強い印象をうけた。この神様の喜びはイエス様の行動原理にもあったのだろう。そして、神の喜びは、そこに、ひとが介在することを、まっておられるように思う。「一人の罪人が悔い改める」ように無理矢理にすることはできない。これは、神ができないまたは、神がしないことにしておられることである。それは、否定的に捉えることもできるが、そこに人が介在ることで、神の思いが実現することであり、悔い改めたひとも、そこで働いた人も、そして、神もともに喜ぶことができる。悔い改めは、方向転換であるから、つねに、微調整をしながら生きていくことが必要である。それには、何人もの関わりが必要であり、あるときに関わったひとだけで実現することではない。神様の喜びと喜びとするものでありたい。 Luke 16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。 このあとには「妻を離縁して他の女と結婚する者は誰でも、姦淫の罪を犯すことになる。夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(18)をあげている。「人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」の重要な例なのだろう。特に現代では、こうなってしまっていては、離婚はしかたがないという感覚が強いだろう。イエスの時代は、それを、男性が一方的に決めたり、社会的にさばいたりもあったのかもしれない。それが、「みかけ上の正当性」の男性目線の安易な判断を戒めている言葉にも現れているだろう。しかし、結婚をイエスが尊ばれたことは、たしかだろう。わたしが、児童養護施設や、学生学習支援のときに感じた、離婚を原因とした困難はほんの一部だろうが、その深刻さも、神様は見ておられるのだろう。そして、この重さが、引用句のようにまとめられている。ちょっと引いて、一つ一つ、見直してみたい。 2021.9.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  40. BRC 2021 no.040:ルカによる福音書17章ーヨハネによる福音書6章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ルカによる福音書はいかがですか。文章もこなれていて、読みやすく、親しみやすいと感じる方も多いかもしれません。著者のルカは、ギリシャ人の医者ですから、教養もあり、調査をして、理解しようとし、そして、受け取ったことを書いているからかもしれません。現代的な意味とは異なりますが「科学的」な視点も含め、多様な視点を持って書いているようにも見えます。みなさんは、どのような特徴を感じられますか。これまで、3つの共観福音書を読んできましたが、今週は、その次の第四福音書、ヨハネによる福音書を読み始めます。 四つの福音書のうち、最初に書かれたのは、マルコによる福音書。ペトロの通訳として同行していたマルコが、おそらく、ペトロの死後に書いたと考えられています。その後、マタイによる福音書とルカによる福音書が書かれました。ルカについては上にも書きました。マタイは、イエスの十二弟子の一人で、イエスと行動を共にした人です。伝承によると、イエスのことば集、メッセージ集を書き、それを、他の人が、綴り合せたものがマタイによる福音書だと伝えられています。マタイが書いたとされる「語録」は現在残されていませんから、はっきりとしたことはわかりませんが、全体の流れは、マルコによる福音書を元にしているように見えます。マタイはイエスと一緒にいたひとの一人ですから、マルコによる福音書を参照する必要はなかったでしょう。マルコによる福音書との違いを見てみると、確かに何箇所か、マタイの目撃証言ではないかと思われる箇所もありますが、全体をマタイが書いたとは考えにくいように思います。 ヨハネによる福音書はどうでしょうか。最後の21章を読むと、ヨハネと思われる「イエスの愛しておられた弟子」(ヨハネ21章20節)が、死んでから書かれたように見えます。しかし、21章は、20章までとは書き方が異なるように見えますから、20章までは、ヨハネの影響が強く現れていると見てよいのではないかと、個人的には思っています。ヨハネは、12弟子の一人で、おそらく、はじめから行動を共にした弟子です。また伝承によると、一番最後まで、1世紀の終わりまで生きたと伝えられています。他の福音書もパウロなどが書いた手紙も知っていて、かつ、1世紀のキリスト教会の歩みも振り返り、目撃証言を記録しているように思います。実際に書いたのは、周囲の方々かもしれませんが、ヨハネが伝えたことが十分に蓄積していたと思われます。 実は、ヨハネによる福音書はあまり簡単ではありません。いくつか理由があると思いますが、その理解は、みなさんにお委ねしたいと思います。ただ、おそらく、わたしが、ヨハネによる福音書をたいせつにしていることは、上に書いたことで伝わったかなと思います。みなさんは、どのように、読まれるでしょうか。四つの福音書を、そして、ヨハネによる福音書を。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ルカによる福音書17章ーヨハネによる福音書6章はみなさんが、明日9月27日(月曜日)から10月3日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書とヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#lk ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Luke 17:18,19 この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 いくつか気になったことがあった。1つ目は、同じ様に「声を張り上げて」(13)憐れみを請うた他の9人とこのひとを分けたのは何なのだろうか。2つ目は、規定の病がいやされたほかの9人は救われなかったのか。3つ目は、「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(20,21)との関連である。鍵は「神の国」だろうか。他のひとたちは「神の国」を求めてはいなかった。または規定の病が癒やされることと神様の働き、それが自分のうちに起こることと「神の国の到来」が結びつかなかったということだろうか。非常に魅力的な、しかし、よくは理解できない「神の国はあなたがたの中にある」をていねいに考えたい。 Luke 18:7,8 まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 「神の国はあなたがたの中にある」(Lk 17:21)を正面から捕らえるものは多くないことを言っているようにもみえる。同時に、このあと、イエスは(ルカの編集かもしれないが)徴税人(9-14)、こども、乳飲み子(15-17)、金持ちの議員(18-30)、盲人(35-43)を通して、ヒントを与えてくれているようにも見える。これらをまとめるのは難しい。しかし、希望は持つことができるように思う。正義を地上にもたらす、み心が天上と同じ様に地上でも完全に行われるようになる、神の国と、それの鍵となる、神の国をわたしたちの中に見出す信仰だろうか。難しい。 Luke 19:9,10 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 ザーカイにとって「この人もアブラハムの子なのだから」と言われたことはとても印象的だったのだろう。そして、周囲のひと(ルカも含めて)も、このことばを特別なものとして受け取ったのだろう。それが「失われたものを捜して救う」のピッタリとした表現だったものと思われる。「アブラハムの子」を神様は、この石ころからも生じさせることがおできになる。しかし、可能であっても、この、失われたものを捜して救うことに特別の働きをされる。ザーカイとこの晩話された内容はわからない。しかし、このことばが、事実も喜びも表現しているのだろう。このあとムナの例えが続き、最後は唐突に「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。」(27)と閉じている。ザーカイの件についてイエスに「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7)と言った人たちは「私(神・主)が王になるのを望まなかったあの敵ども」であり、神が支配される神の国でおこる、ザーカイに起こったようなことを望まないということなのだろう。神の国の到来は、やはり、両刃の剣が、この世に投げ込まれることなのかもしれない。 Luke 20:46,47 「律法学者に注意しなさい。彼らは正装して歩きたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 このような者たちは「神・主が王になるのを望まない」者たちなのだろう。神の国では、人から栄誉を受けることで評価されるようなことはない。そして、やもめの家を食い物にしたり、見せかけの長い祈りをすることもないのだろう。わたしは、ほんとうに、神の国、神・主が王になられることを望んでいるのかと問われているように思う。すこしずつ、神・主について学んでいるはずである。その神・主に委ねることでよいようには思っているが、本当に心の底から思っているかと問われると、そして、それによって、日常的な行動がそれに向かっているか問われると自信がない。悔い改める(方向を変える・修正する)ことが必要なのだろう。 Luke 21:32,33 よく言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」 後半は、なかなか大胆な、表現の仕方を変えると尊大なことばである。「しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。」(ルカ16章17節)との関係も考えた。おそらく、ここも、これは確かなことだよ。という程度の意味なのだろう。長々と話してきたのは、弟子たちが、もっとも興味のあった、いつこの世の終わりが来るのかという問いである。その意味では、その前に、いろいろなことが起こるよ、と言っているだけなのかもしれない。イエスが伝えたかったメッセージは、「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ10章9節)というメッセージである。その事実(とイエスがつたえたこと)を通して、自分の周囲、中に起こっていることを見る、信仰のたいせつさを説いたとも言えるかもしれない。その意味でも、周囲の様々な変化に惑わされてはいけないとも言っているのだろう。いまは、おそらく、未曾有の変化のとき、わたしたちは、神の国を見出すことができるだろうか。特に、わたしのような曇った目で。 Luke 22:22-24 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、一体誰がそんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という言い争いも起こった。 そしてさらに「食事の席に着く人と仕える者とは、どちらが偉いか。食卓に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、仕える者のようになっている。」(27)とイエスは語る。ここで、仕えるは διακονέω(diakoneō: to be a servant, attendant, domestic, to serve, wait upon)が使われている、「給仕するもの」とも訳された箇所である。このことばを通しても、イエスは、このどうしようもない弟子たちに、仕えておられる。裏切るものがいることが伝えられたあとの、使徒たちの心の動きが興味深いが、それ以上に、その中で、イエスのなされることである。このように、生きたいけれど、やはり使徒たち以上に、ただひたすら、混乱を起こすのが現実なのだろう。そうであっても、イエスから学ぶ(まねぶ)ものでありたい。 Luke 23:27,28 大勢の民衆と嘆き悲しむ女たちとが、イエスに従った。イエスは女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、私のために泣くな。自分と自分の子どもたちのために泣け。 このイエスの応答からみると、ついてきた女たちは、深くは悼んでいなかったのだろう。少なくとも、十分は理解していなかった。泣き女というひとたちだろうか。正直に嘆いていた人もいたのではないだろうか。このイエスのことばは、どう理解したらよいかよくわからない。ただ、嘆きの向かう方向が違うと言っているように思う。エルサレムが破壊されることを言っているようにも見えるが、おそらくそれよりも、もっと深いことが言われているのだろう。自分への問として受け止められるかだろうか。 Luke 24:18 その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」 興味深い。あなただけがご存じない。と言っているが、イエスは「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」(25b,26)と語っている。すなわち、自分たち(おそらくイエス以外全員)が、「ここ数日で起こったこと」が理解できていない。または、神の国が見えていないと言っているように思われる。神の働きに目をとめることが抜け落ちているのだろう。難しいが、それを受け取ることができるようにしていきたい。 John 1:14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1)と非常に印象的なことばからはじまる。しかし、それは、ヨハネが最後に確信にいたったことのように思う。だれがどういっても変わらない、確かな告白はと考えると、この14節なのではないかと思う。イエスとともに生活し、振り返ってみたとき、イエスを通して経験したことは「(イエスが父とよぶ)神の独り子としてのすばらしさ」であり、その栄光は「恵みと真理」として受け取ったといっているように思う。そしてそれは、わたしも、受け取っていることととても近く、そのように表現することに、違和感がない。神の子として生き抜いたイエスについて、そしてその「恵みと真理」についてなにを伝えようとしているのか、見ていきたい。 John 2:10,11 言った。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 カナの婚礼でのこのことは、詳細に書かれ、臨場感もある。ヨハネがそこにいたのではないかと思われる。そしてそれを「最初のしるし」としている。あまりまとめすぎるのは本質を失う可能性もあるが「恵みと真理とに満ちていた、父の独り子としての栄光」の「しるし」と表現されるものだろうか。旧約の大預言者というと、エリヤとエリシャ、彼らの奇跡的な行為にも、サレプタのやもめとその息子の小麦粉と油がつきなかった記事(列王記上17章8節から16節)と、預言者の仲間の妻の家を支えるための油の記事(列王記下4章1節から7節)も思い出す。それに対応するしるしであるとともに、これは、「恵みと真理」と言えるものとして、ヨハネは受け取ったのかもしれない。そこに居合わせたものが受け取った恵みと、イエスと共に居ることが神がともに居るという真理を含んでいるということだろうか。まさに、ここから、ヨハネは、これはと思い、惹きつけられていったことなのかもしれない。また、考えてみたい。 John 3:3,4 イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」 以前はこれは、ニコデモが霊的な生まれ変わりについてイエスが言っていることを理解していないのだと簡単に考えていた。しかし、自分が年をとってみると、そうではないかもしれないと思うようになっている。このあと、今回気になった箇所がある。「よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。」(11)である。「私たち」はだれのことだろう。イエスと弟子たちだろうか、それとも、イエスと父なる神だろうか。年をとると、まったく新しい生き方をすることに躊躇が強くなる。失うものが大きいこともあるかもしれないが、それよりも、それだけ、気力が続くだろうかとの心配のように思う。背後には、神様に導かれてきたとの自覚がありつつも、どうにかここまで来たという気持ちもあるように思う。自分が理解している御心は、ほんの一部分に過ぎないとはわかっていても、方向を大きくかえることはなかなかできない。それを可能にするものは何だろうか。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(2)このように認めていても、一歩を踏み出すこと、そして、新しい道を歩み続ける決断をすることは、簡単ではない。おそらく、わたしもそうだろう。 John 4:34-36 イエスは言われた。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。 サマリヤ人の町に食べ物を買いに行った弟子たちのことを思うと、もう少し配慮があってもよいと思う。しかし、ヨハネは、とても印象的な言葉として受け取り、それを伝えているのだろう。二つのことが言われている。神様の御心を行いそれを成し遂げることがいのちの源泉であること、そして、今まさに、永遠の命に至る実を集めるときにいることに気づきなさいということだろう。サマリヤの女との会話を受けて、イエスは、これらのことを言ったことは確実である。イエスにとっても、こころ震える瞬間、神様が働いておられることを実際にみるときだったのだろう。イエスが「神の国は近づいた」というとき、それは、まさに、このような、背景のもとで「わたしたち」(22)にとって、明らかなことだと確信して言っているのだろう。「わたしたち」ということばで、あかしの主体を広げながら。引用したことばも「わたしたち」が広がっていき、ヨハネもその中に入っていくことになったのかもしれない。このように断定するのは、難しいが。 John 5:17,18 イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。 このあと、父なる神と子なる人の子(イエス)の関係について、自分が知っている父のように証言し、語り、成し、裁くことが、縷縷(るる)語られている。引用箇所のようにイエスが「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と語り、それを「イエスが、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」とユダヤ人が批判したことが発端である。イエスの目には、神が今もなお働いておられることが明らかで、それをつねに見ていたということだろう。「神の国は近づいた」もその一つの表現である。すると、わたしたちの最初の務めは、神が今もなお働いておられることを見ることである。わたしも、アインシュタインが言った「すべてのことの背後に神がおられる」と似た表現をよく使うが、イエスにとっては、もっとリアルだったのだろう。今日も、そのような、神様の働きを見せていただけるように祈りたい。 John 6:7-9 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」 ヨハネには共観福音書と共通の記事が少ないが、五千人養いといわれるこの記事と次の湖の上を歩いたとされる記事は例外である。描写がとてもリアルで、そこにいたものしかわからない、かつ名前を出してフィリポとアンデレが登場することも、特徴的である。次の湖でのできごとの記述でも「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(21)と他には書かれていない記述がある。そのあとには、命のパンのことも書かれており、五千人に食べ物を配ったことよりたいせつなことを伝えているようである。興味深い。 2021.9.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  41. BRC 2021 no.041:ヨハネによる福音書7章ーヨハネによる福音書20章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週はヨハネによる福音書を20章まで、すなわち、ほとんど最後まで読み進めます。ヨハネによる福音書は21章までですが、20章の終わりに、これでおしまいと感じさせる記述もありますし、21章は文体も内容も変わっています。ヨハネの死後、まとめて一巻とするときに、ヨハネと一緒にまとめた、20章までには含まれていないけれど、とても大切なこととして加えたのではないかと思われます。 ヨハネによる福音書はいかがですか。印象的なことばが多いですが、わかりやすく、また、論理的に書かれているわけではないようにも見えます。個人的には、長い間そばにいた、ヨハネの直接証言を記したからかなと思っています。イエス様は、こういう人だよと自分の解釈をまとめて、それについて語るのではなく、こんなこともあり、こんなことをされ、このように言われたということを連ねることによって、イエスについて伝えているのではないかと思います。そして、それだけではなく、イエスの死後おそらく、60年位の間を振り返って、ヨハネの中で、まさに、そのとおりと経験も通して、証言できることを、それを凝縮したことばで記しているのかもしれないとも思います。 みなさんにも、たいせつなかた、みなさんの人生に大きな影響を与えたかたがおられるのではないかと思います。その方について、たいせつなこととして、受け取ったことを伝えようとする時、みなさんは、どのように伝えるでしょうか。わたしにも、そのようなひとが何人かいます。その一人ひとりについて、書き残そうとすると、自分は、なにを、どのように書き残すだろうか、そんなことも考えながら、ヨハネによる福音書を、わたしは、読んでいます。みなさんは、どのように、読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネによる福音書7章ーヨハネによる福音書20章はみなさんが、明日10月4日(月曜日)から10月10日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート John 7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった。 ヨハネや弟子たちの目にはそのように見えたのだろう。使命を十字架上での死による贖いと捉えれば、一定の決定的瞬間(カイロス)があり、そのときに向かって時(クロノス)は過ぎていく。しかし、イエスが伝えようとするメッセージを弟子たちが受け取り、それを委ねることを考えると、聖霊に委ねるとするのは、単純に受け入れられることではない。最終的には、委ねざるを得ないとしても。イエスは「うわべで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(24)と言っているが、このようなことは訓練を要する。少しずつ学んでいくことである。この一点か、継続的なこと、発展性のあることかは、律法や聖書についての理解にも当てはまる。ある人たちは「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」(49)という。しかし「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(51)とニコデモは緩やかに反論しているが、神のみこころを受け取ることを、単純化し、切り捨てることは、不完全な人間の世界ではありえない。 John 8:31,32 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」 とても、魅力的なことばである。しかし、これを聞いたユダヤ人たちは、理解していない。おそらく、わたしもほとんど理解できていないのだろう。この章には、『私はある(ἐγώ εἰμι: I am)』(24,28,58,13:19)が複数回登場する。この内容も語っているように思うが、それこそがとても難しく、受け取ることは困難である。おそらく、イエスの全体がここに表現されているのだろう。むろん、出エジプト記3章14節が対応していると考えられているのだろうが。イエスの言葉も理解できるわけではない。一生をかけて、少しずつ学んでいきたいと願っているが。それを、聖霊により完全に理解できると、誤解することは避けたい。 John 9:3-5 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」 3節はとても印象的なことばである。しかし、引用箇所の後半はなかなか難しい。単純に、イエスが地上にいる間が「昼」ととることもできる。しかし「誰も働くことのできない夜」については、よくわからない。今は、夜なのか昼なのか。イエスが復活してから、または、復活したことを告白すれば、そこからは、昼だとすることもできるが、断定はできない。昼か夜かは、それぞれの人の認識によるのだろうか。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41)からは、認識は人によるが、実際には、神の国が近づいたとみることができるかどうかによるのだろうか。いずれにしても、難しい。正直、いま「世におられない」「世の光である」イエス様を知る手がかりがもっとあればと思ってしまう。 John 10:14,15 私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。 「よい羊飼い」のイメージである。最近、これに疑問を持っている。犠牲的精神も誤解を招くと思うが、それについては、今回は置いておく。イエスは、自分と自分の内面、自分と父なる神、そして、自分と他者、さらに、自分と人々の関係の中で語っている。たしかに、基本は「自分」かもしれないが、様々な問題、課題の背景には、他者間だからこそおこり、制御、運営、共通理解、共同、共感が困難であることがあり、他者間という枠組みが本質的であることが多い。社会科学的課題と言えるかもしれない。さらに、遺伝要因、環境要因など、人間社会の中ではない、自然科学的課題も多く、それを抜きにしては、社会科学的課題も、人間存在に関わる課題も語ることができないことが、認識されてきていると思う。その中で、最初に書いた「自分」を起点とする見方では、理解できないことが増えているように思う。これは、教育から学習への流れでもあることで、リーダーによって導かれて学んでいく世界観も変わらなければいけないと思っている。もっと、一人ひとりが学び、かつ、客観的な視点も持ちながら、考え、行動することの重要性である。「父の御心を行う」(マタイ7章21節・12章50節)ことは、行いながら学んでいくことをさしていると思われるし、イエスに学ぶことは、神様、わたしを用いてくださいとして、神の国が近づいていることを見せていただくことでもあるように思う。リーダーに頼るのではなく、グループで学んだり、議論したりすることの、重要性もあると思う。自分の中には、解決はないが、他者と共感すること、協働することもできるかもしれないし、それが二者間からひろがることも可能かもしれない。難しいが、さらに学んでいきたい。 John 11:21,22 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」 立派な信仰告白である。しかし、主イエスのように、神の子として生き、神の国が近づいたことを実感し、日々の生活のなかで、神の栄光を見ること(4)とは次元がことなる。たとえそうであっても、人の信仰告白はここまでであるように思う。このあと、イエスは復活のことを語る。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25,26)とイエスは伝え、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」(27)と告白する。イエスを信じること、イエスが生きていて、命であり、イエスによっては、決して死ぬことはなく、死んでも生きるものであることを、信じて生きることが、わたしたちができることなのだろうか。抽象的である。イエスとわたしたち一人ひとりの違い、その違いを受け入れて、どのように、生きるかはやはりわからない。 John 12:47,48 私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 裁きについてはよくわからないとして避けてきた面があるが、それで良いのかもしれないと思う。裁きが怖いから信じるということは、イエスの願うことではないだろう。本質も逸しているように思う。まず引用句ではイエスは「世を救うために来た」(ヨハネ3章16,17節参照)ことを明言している。そして、裁きは終わりの日だとしている。日常生活において、救いと裁きが関係していないわけではないだろう。ヨハネ3章では「信じないものはすでに裁かれている」(18)「闇を愛していることがもう裁きになっている」(19)とも書かれているのだから。そのことも、含めて、今、救いを求め、イエスが神の子であり、いのちが、イエスのもとにあることを信じ、イエスに従い、「イエスの言葉を」(17)学んで行くことだろうか。 John 13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた。「よくよく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」 まず最初に「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。」(2)とあり、「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた。」(27)以前は、ユダに対して、一つのストーリーを作って理解しようとしていた。しかし、人の決断・行動の背景は複雑である。ヨハネによる福音書はかなり早い段階から、ユダのことを書いている。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」(6章70節)さらに、12章1節から8節にも背景が書かれている。イエス様がユダにどのように対していたのかよくわからない。そして神様がどうしておられたのか。しかし、やはり、ユダに委ねられている部分があるのだろう。神様や、イエス様には、できないことがあるのだから。ユダが、悔い改めて、イエスを、神を、そして兄弟を愛するようには、神様はおできにならない。強制できないことが、愛の本質だから。そうであっても、様々な交流が、あったろう。それがどのように働いたか、わたしたちには、わからない。ヨハネもそれは理解できず、ヨハネの福音書に何回か登場させているのかもしれない。ヨハネにとっても、大きな問だったろう。 John 14:11,12 私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。 「イエスが神の内におり、神がイエスの内にいる」ことは、業によって信じることもできるとある。そして、さらに、信じるものは、イエスが行う業を行う。おそらく、ここは、論理ではない。しかし、同時に、信じるは、内にいることをあらわしているようにも思う。関係を確信することだろうか。それは、ひとの努力ではなく、約束の成就なのだろうか。このあとには「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」(13,14)と続いている。やはり、難しい。 John 15:2 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 ぶどうの木のたとえが好きな人は多いが、引用した部分は嫌われる。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6)も同様だろう。いつくか、考えたことを書いておく。まず、13章から17章は、最後の晩餐と言われる、弟子たちとの時に語られたものであることは、注意を要すると思う。すなわち、主として弟子たちにむけて語られている。枝の剪定(せんてい:果樹の生育や結実を調節するため,枝の一部を切り取ること)について語られている。実を結ぶ働き人がさらに豊かな実を結ぶように、主がこの働き人を選び、このひとを通して働かれることが言われている。6節も、働き人としては、主に捨てられたものとなることが言われていると考えるべきだろう。ぶどうの木のたとえ全体をこう捉えることがたいせつであると同時に、わたしたち一人ひとりが働き人として召されていることも、認識すべきだろう。クリスチャンと呼ばれたのは、弟子たちであることも、覚えておきたい。(使徒言行録11章26節)また、もう少し、丁寧に、考えてみたい。 John 16:7 しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 本当にそうだろうか、疑問を抱く。イエスが共にいること、それも、実際に行動し、神の子として生きること、神の御心をいきることを示し、それをことばでも、伝えてくれることにまさることはない。しかし、弟子たちが、そして、わたしたちが、学ぶためには、イエスが去ること、そして、聖霊・弁護者・助け主に聞き、求め、考え、試行しながら、歩んでいくことは絶対条件であることも、確かなのだろう。神とひととに仕えること、神を愛し、隣人を愛すること、神様とイエス様の関係のように、わたしたちが互いに愛し合うためには、やはり、イエスが去ることが必要だったのかもしれない。しかし、そうであっても、もっと、残してもらいたかった。イエスさまの命の営みを、この世での歩みを。大きなチャレンジを与えられていることは確かである。 John 17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 「これが永遠の命だ」と何度引用したことだろう。しかし、その内容はほとんど考えていなかった。「知る」ことの内容が、この章にたくさん書かれていることを今回の通読で気づいた。「えっ」と思わせる、表題のようなものかもしれない。まず、知る γινώσκω(ginōskō: 1. to learn to know, come to know, get a knowledge of perceive, feel, 2. to know, understand, perceive, have knowledge of, 3. Jewish idiom for sexual intercourse between a man and a woman, 4. to become acquainted with, to know)言語上の他の「知る」との比較は置いておいて、この章では、ほかに4回使われている。「私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。」(7)「なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです。」(8)「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。」(23)「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。」(25)神とイエスが一致していることを体現することもふくめ、あらゆることが含まれているように思われる。神とイエスの関係の中に入ることなのかもしれない。さらに深めてみたい。 John 18:37,38 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」 「私が王だとは、あなたが言っていることだ」がここにも現れる。(マタイ26章25節、26章64節、27章11節、マルコ15章2節、ルカ22章70節、参照:マルコ14章62節)他の福音書では、ピラトの法廷では何も答えなかった(マルコ15章5節)ともあるので、あまり内容を深く詮索するのは適切ではないかもしれない。しかし、印象的ではある。「真理とは何か Τί ἐστιν ἀλήθεια」共通の一般的にも使われることば「真理」ということばでイエスが語り、それに、ピラトが応答している。イエスがコミュニケーションできる、最大のことをし、問いを投げかけた(チャレンジした)のだろう。「真理とは何か」おそらくそれはわからない。しかし、イエスのもとに真理があり、その証に来られたイエスを通して、真理を少しずつ受け取ることができるのだと信じ、イエスのもとに行き、イエスの声に耳を傾けたい。 John 19: 11 イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 ピラトが「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」(10)と言ったのに答えて語った言葉である。イエスは、一部始終をどのように理解していたのだろう。「私をあなたに引き渡した者」は誰だろうか。男性・単数である。イスカリオテのユダだろうか、それとも、ユダヤ人を一人の人として表現しているのだろうか。後者の用法はよくわからない。イスカリオテのユダだとしたら、それだけの責任の重さを、イエスは認識していることになる。たしかし、イエスと共に生活していたことを考えると、責任は重いように思う。ただ、そうだとしたら、イエスは、このことをどう捉えていたのか正直よくわからない。ユダの苦しみを思い、担いきれないだろう、その罪を、ここで意識していたのかもしれない。 John 20:17,18 イエスは言われた。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 聖書協会共同訳では「きょうだい」とひらがな表記になっている。ここでは二つの意味があるように思う。ひとつは、男性の兄弟をいみしてはいないこと。これがひらがなにした主たる理由だろう。そして、もう一つは、この兄弟が肉親ではなく、イエスの弟子たちを指すことである。マリアの向かった先が「弟子たちのところ」であったことから明らかである。聖書協会共同訳は注意して、訳していることも確かである。特に、弟子たちときょうだいを結びつける次の箇所は特徴的である。「そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。『見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マタイ12章49節・50節、同様な箇所:マルコ3章33,34節、ルカ8章19-21節)社会的背景から生じる時代の産物なのかもしれないが。 2021.10.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  42. BRC 2021 no.042:ヨハネによる福音書21章ー使徒言行録13章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週はヨハネによる福音書の最後の章21章を読み、使徒言行録を読み始めます。新約聖書の最初に置かれている四つの福音書はいかがでしたか。三つの共観福音書とヨハネによる福音書。それぞれに特徴があり、それぞれが、イエスの言葉と行動と死と復活を伝えています。みなさまのこころには、イエスについて、どのようなことが残ったでしょうか。通読は、どんどん進むので、もっとゆっくり読みたかったと思われる方もおられるかもしれませんね。BRC2021 では、来年の後半にもう一度、新約聖書を読みます。二度目、三度目とまたあらたに気づくことがあるのではないかと思います。そのときを楽しみにして、読み進めましょう。 使徒言行録は、他の訳では使徒行伝、使徒の働きなどとなっています。使徒の定義は明確ではありませんが、弟子たちが活動した初期の時代について書かれています。著者は、ルカによる福音書を書いたルカだとされ、それを否定する学者はほとんどいないようです。ルカは今まですでに書いたように、ある時期パウロと一緒に行動したギリシャ人の医者だったようです。使徒言行録のあとは、ローマの信徒への手紙から、通常パウロ書簡とよばれている、パウロ由来の手紙が始まります。イエスの死と復活そして昇天とされることのあと、弟子たちはどのように活動し、パウロがどのように加わったかが書かれているのが、今週みなさんが読まれる箇所です。福音書のあとに、使徒言行録があるのは、その後の、パウロ書簡を読むためにも、助けになると思います。福音書を書いたルカは、どのようにその連接を描いているのでしょうか。みなさんは、何を読み取り、なにを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネによる福音書21章ー使徒言行録13章はみなさんが、明日10月11日(月曜日)から10月17日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書と使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート John 21:5 イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。 「おかず」にちょっと驚いた。「子たちよ、何か食べる物があるか」(新共同訳)たしかにこの原語は προσφάγιον(prosphagion: anything eaten with bread, spoken of fish boiled or broiled)となっており、おかず、または、魚となる。このあとには「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。イエスが、『今捕った魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」(9,10)すなわち、すでにパンはあり、皆で食事をするために、もう少し魚をということのようである。このあと、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12a)といい、「イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」(13)と続く。非常に印象的な光景である。イエスが準備し、弟子たちも共に働き、共に食する。このような光景は、以前にも繰り返されていたのだろう。それが、「弟子たちは誰も、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。」(12b)に現れている。最初にもどって「おかず」であるが、名訳としておこう。おかずも主の導きによって得られたものではあるが、それを、主の前に持ってきて、共に食する。イエスがともにいる生活は、イエスが地上にいなくなっても続くということを顕しているのかもしれない。 Acts 1:21,22 ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 直前には「その職は、他人が取り上げるがよい。」(20b)が詩篇109篇8節「彼の人生の日々は僅かとなり/仕事は他人が取り上げるがよい。」から引用されているとなっている。「私の愛に反して、彼らは私を訴えます。/私は祈るばかりです。」(詩篇109篇4節)に対応しているのだろう。引用句の条件に適合した人が何人かいたことになる。ここにあげられた二人以外にもいたのかもしれない。ここには、120人ほどのきょうだいたち(15)が集まっているとされるが、最初から共にいた人たちも何人かいたのだろう。その人たちにとっては特に、ユダの事件は大きかったはずである。痛みを伴う、選択である。 Acts 2:38,39 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」 少し違和感を感じた。罪の赦しと、それによる聖霊の賜物は、パウロによって表現されたことのように思うこと、さらに、やんわり「遠くにいるすべての人」と表現はしているが、世界的な広がりは、その後の歴史の中で示されたことのように思う。この五旬節のときの出来事は、教会の起点として、様々な解釈が加えられていったのかもしれない。ダビデに関する部分も、イエスが語る同様の引用とはかなり印象が異なる。それを、ペトロが言うだろうかと思ってしまう。わからないということで、止めておこう。 Acts 3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 使徒言行録の前半は、ペトロが語ることが多い。ここまで饒舌に語ったとは思えない。聖霊降臨がペトロを変えたと通常は考えられているが、ヨハネは語らない。使徒言行録が書かれたときにも、ヨハネは生きていて、特別な存在だったことが考えられる。生き証人である。さらに、引用句の部分、再臨思想は、イエスがどう伝えたかは、丁寧に見ないといけないが、多分に、パウロの影響が強いように思う。ルカは、福音書においては、他の福音書も参考にしつつ聞き取りをして書いたと思われるが、使徒言行録は、よく知っており、自分も同行したパウロを中心とし、その時までの連接を重視してまとめられているのかもしれない。わからないということで、止めておいたほうがよいだろうが。 Acts 4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(使徒2章44,45節)と二箇所に「共有」のことが書かれている。初期において、このことは、特徴的なこととして、ルカが記しているように思われる。この章の最後には、バルナバと呼ばれたヨセフのことが書かれており(36,37)、次の章の最初には、アナニアとサフィラのことが続く。持続可能ではなかったのだろうか。教会の形ができていく、最初をこのように表現しているのかもしれない。 Acts 5:17,18 そこで、大祭司とその仲間たち、すなわち、そこにいたサドカイ派の人々は皆、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 ここでは、大祭司とその仲間たち、すなわち、サドカイ派の人たちに限定している。ファリサイ派については、ガマリエルの発言について34-40節までに述べられているが、ファリサイ派の出身のパウロの影響、または、詳細な情報があるのかもしれない。サンヘドリンでの権威を考えると、サドカイ派と限定することは、ある程度理解できるとともに、疑問も湧く。何らかの意図があったのかもしれない。 Acts 6:8,9 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」と呼ばれる会堂の人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などが立ち上がり、ステファノと議論した。 この前には、ステファノを含む7人の執事が選ばれたことがあり「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(7)が続く。様々な変化が記録されている。特に、ギリシャ語を話すユダヤ人が目立つ。多様かつ特別な思いがあったのかもしれない。「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」もとても興味をひく。様々な体験から、特別な思いがあったのかもしれない。ステファノの殉教へとつながっていくのはとても悲しい。ちょっと違った人同士が結びつくことは困難なのだろうか。 Acts 7:52 一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。 ステファノは全体としては、ユダヤの歴史を語っている。おそらく、それほど、違いを感じる人はいなかっただろう。しかし、この最後の部分に立ち至っては、「激しく怒る」(54)避けることはできなかったのだろうか。聞く耳を持っていないように思う。どうしたら良いのだろう。正直、わたしが現場にいたら、同仕様もないと思う。本当に難しい。 Acts 8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して激しい迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。 「使徒のほかは皆」が気になった。迫害が起これば、通常、危険なのは、まず使徒だろう。なぜ、使徒は残ることができたのだろうか。全く、推測に過ぎないが、「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(2章43節)「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。」(4章33節)「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。」(5章12節)この後には「公の牢」(5章18節)に入れるが「主の使いが、彼らを連れ出し」(5章19節)「そこで、神殿の主管は下役を率いて出て行き、使徒たちを引いて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。」(5章26節)その後には、ガマリエルの意見(5章33-40節)など、が書かれている。これらが、影響している、または、ルカは、これらを、使徒たちがエルサレムに留まったことの理由として、記していたのかもしれない。12章12節にある、ヤコブの殺害があまりにもあっけなく書かれているのも、これらが関係しているのかもしれない。 Acts 9:40,41 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい(Ταβιθά ἀνάστηθι)」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。 「群衆を外に出すと、イエスは中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。」(マタイ9章25節)「そして、子どもの手を取って、『タリタ、クム(Ταλιθα κοῦμι)』と言われた。これは、『少女よ、さあ、起きなさい(Τὸ κοράσιον σοὶ λέγω ἔγειραι)』という意味である。」(マルコ5章41節、参照:ルカ8章54節)この記事を彷彿とさせる。タリタとタビタの音の近さも印象的である。ルカは、ギリシャ語を使っているが、もしかすると、ペトロは「タビタ、起きなさい(Ταβιθά κοῦμι)」と言ったのかもしれない。いずれにしても、弟子が、イエスと同じようなことをすることの一つの描写であることは確かだろう。イエスがなさったことは、エリヤ・エリシャのような大預言者の再来と人々の目にうつり、さらに、恵みとして受け入れられたように。 Acts 10:34-36 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。 異邦人宣教に関する弁証的な記述が多い。しかし、引用箇所は印象的である。コルネリウスから送られた人たちによって「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、ユダヤの全国民に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」(22)と証言されている。「神を畏れて正しいことを行う人は」は、条件のような印象も受けるが、このような人がまずは最初に受け入れられることが大切だったのだろう。反対者の批判を避けるためか。原則的なことは盛り込まれている。「神は人を分け隔てなさらない」「どの民族の人であっても、(上記の部分省略)神に受け入れられる」「このイエス・キリストこそ、すべての人の主」また、イエスについて表現「神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。」も印象的である。神のみ言葉を送ったことと、平和を告げ知らせたことか、ここでいう「平和」とはどのようなものだろう。 Acts 11:2,3 そこで、ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。 批判するポイントが理解しにくいが、日常生活に密着した敬虔さと考えれば、信仰生活・宗教がより実質的なものだったと考えられる。ペトロも自分の中での葛藤と、そのような批判が起こることも想定して「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました。」(10章28節)と丁寧に語ったように、ルカも記している。生活に結びついた、宗教生活を変更することはとても困難である。キリスト教主義の公益法人((認定)特定非営利活動法人 NPO)に関係していると、このことは、常に難しい課題でもある。礼拝や祈りをもってはじめ、賛美することなどと、公益法人としての働き、さらには、キリスト者以外のひとが関わる時のその人達への配慮も関係するからである。「キリスト者としてのわたしたちの奉仕」と「様々なひとたちと共に人々への奉仕に預かること」とのせめぎあいだろうか。このことは、一人ひとりの中で適切に位置づけていかなければならない。ここで起こっていることも、似た面を持っているように思われる。 Acts 12:1,2 その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 ヤコブの死があまりに簡単に記されていることに違和感を感じていたが、今回、このことに焦点を絞って考えてみた。この章では、このあと、ペトロが捉えられ、天使によって奇跡的に、牢から救い出される記事の詳細が書かれている。さらに、主の天使に打たれたとして、ヘロデの死について書かれている。奇跡的な出来事、神の介入(God's Intervention)である。使徒たちがエルサレムに残っていること(8章1節)は不思議であるが、ヤコブとペトロがエルサレムにいたことはこの章の記述からも分かる。一つには、ペトロとパウロに焦点をあわせて、使徒言行録が書かれているとして、周辺のヤコブについては、詳細を書かないとも考えられるが、ヤコブが最初からの弟子であることを考えると、やはり不思議である。奇跡的な主の救(たす)けを強調したかった面はあるのだろう。そう考えると、ヤコブが剣で殺されたことに関しては、なぜ、ヤコブは殺されたのかと、因果関係や理由を考えたくはなる。今回考えたのは、上の考察からも、ルカは、ヤコブのことを書かなくても良かったということ。それでも、ヤコブの死を書いたということである。科学的とまでは言えないが、天使などによる神の関与による奇跡的な救済だけではなく、わからないことがあることをルカが書き残したことに感謝すべきだと思った。聖書の解釈に対しても、我々に、たいせつな問を投げかけてもいるように思う。 Acts 13:30,31 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは今、民に対してイエスの証人となっています。 復活についてパウロによって語られている。38-39節には、罪の赦しと信仰による義認について書かれている。パウロの基本的なメッセージが早い時点からこのように語られていたことを証言しているのだろう。ただ、復活の証人に自分を加える(1コリント15章8節以降)かどうか、イエスの死が罪の贖いであったことなどは、語られていない。神学的な整備がこのあと進んだのか、ルカの焦点の当て方が異なるのか、いろいろな理由は考えられるだろう。他者の受け取った語られたメッセージの理解の限界もあるのかもしれない。 2021.10.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  43. BRC 2021 no.043:使徒言行録14章ー使徒言行録27章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 使徒言行録はいかがですか。口語訳の書名は使徒行伝ですが、それを、聖霊行伝と呼ぶ人もいます。イエスが地上におられない今、助け主として送られた聖霊に導かれている様子が書かれていると考えるからでしょうか。 今週は使徒言行録の後半を読みます。前半ですでに異邦人にも福音が伝えられはじめ、特に、パウロ(最初はバルナバと)を中心とした活動が描かれていました。特にアジア州(現在のトルコ共和国)のユダヤ人が多く住んでいる街の会堂などで、福音を語っていたようですが、多くの異邦人が信じたとともに、一部のユダヤ人たちから強行な反対を受けることも書かれています。15章は、エルサレム会議とも呼ばれる(キリスト教の最初の)宗教会議で、異邦人宣教における基本的合意事項が確認され、さらに、異邦人宣教が活発になっていきます。エルサレムなどユダヤに残っている使徒たちを中心としたグループの経済的支援もあり、エルサレムにパウロが上り、そこでアジア州から来たユダヤ人などの反発から、捕らえられ、裁判にかけられ、パウロは皇帝に上訴し、ローマに送られるというのが、後半の大体のストーリーです。 後半は、パウロの活動を中心に語られていること、そして、福音が、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、パレスチナ、アジア州、そして、ボスポラス(イスタンブール)海峡を超えてヨーロッパ(バルカン半島の、マケドニア、ギリシャ)に伝わり、さらに、ローマにまでという、使徒言行録1章8節にあるテーマでもある 「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」 のダイナミックな実際の活動が書かれています。前にも書きましたが、ある箇所から主語が「わたしたち」に変わり、ルカがパウロと一緒に行動していることを示唆しているのではと思われます。そうだとすると、ルカの直接証言も多く含まれるということになるでしょう。みなさんは、その中で、何を発見し、どのようなことを考えられるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 使徒言行録14章ー使徒言行録27章はみなさんが、明日10月18日(月曜日)から10月24日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Acts 14:21,22 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にした後、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 この直前には「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」(19)とある。13章13節以降と14章に、アンティオキア、イコニオン、リストラ宣教のことが書かれている。歓迎と反対である。19節の状況を見て、危険は十分承知で、引き返す必要性を感じたのだろう。最初の引用句には、苦しみのことが書かれ、力づけて語ったことが書かれている。当初から、福音に踏みとどまるように励み、神の国に入ることは大きなチャレンジがあったことが分かる。ここまでの反発は正直驚かされる。現代はどうなのだろうか。 Acts 15:10,11 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」 ペトロのことばとして語られている。「ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った。」(5)を起点としている。明らかな違いが認められ、ルカのまとめ方であることも、忘れてはいけないが「先祖も私たちも負いきれなかった軛」には、おそらく、ペトロの生活実感が表現されているだろう。ファリサイ派の人たちは、ある程度感じていても、否定していたことのように思われる。さらに「あの弟子たち」ということばで、弟子として認めているだけではなく、弟子として自分と同じ位置において見ている。さらに「神を試みようとするのですか」は、かなり厳しい糾弾である。その対極にあるのが「主イエスの恵みによって救われる」という確信である。ここでも「私たち」と「彼ら異邦人」が同じであることが強調されている。正しさの主張は自分を神の側におくこと、恵みとして受けることは、神の憐れみの前に隣人と共に自らを置くことだろうか。 Acts 16:11,12 私たちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスに着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。 アジア(小アジア今のトルコ)から、ヨーロッパ(マケドニア・バルカン半島)に入ったことが「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」との幻を見たこととともに、書かれている。その頃は、コンスタンティノープルも建設されておらず、橋もなかったと思われるので、黒海の北を回るということでなければ、船を使って渡っていたのだろう。そして、その船は頻繁に往来していたと思われる。しかしそれでも、ここにある境界が存在したのだろう。そのほぼ最初の宣教地がフィリピである。町の規模はわからないが、商業都市として繁栄したいたように思われる。フィリピ教会が、パウロの金銭的な必要を満たしていたことが、手紙(フィリピ4章15節)に「会計を共にしてくれた教会」とある。このあと、何回か現れる、パウロが「ローマ市民」(37,38)であったことも、ここで記されている。特に、ローマの植民地では、そのことは重要だったろう。さらに、重要と思われるのは、アジア州では、ユダヤ人からの反対が主だったようだが、ここでは、「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16)のことを通して「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」(21)と批判されたことが記され、ギリシャ人の偶像礼拝をパウロが批判したと思われることに起因する反対が記されている。いろいろな意味で、新たな章(Chapter)が始まったように感じる。 Acts 17:30,31 さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 アテネでパウロは偶像礼拝に憤りを感じ(16)毎日論じあっていた(17)ようだが、ユダヤ教の背景を持っていない人たちに「知られざる神に」(23)を引用して語っても、一般的には理解は得られないと思う。特に、頭である程度理解できても、それが、生活実感を伴い、まさに、方向転換をする悔い改めに到るには、相当のことが必要であるように思う。それでも、信じていることをはっきりと伝えることは必要かもしれないが、正直、このパウロの宣教姿勢が、キリスト教が関わる歴史に悪影響をもたらしたようにも感じてしまう。イエス様なら、どうされただろうか。イエスに学ぶ道を歩んでいきたい。 Acts 18:19 一行がエフェソに到着すると、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。 この章の最初の方には「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚く罵ったので、パウロは衣の塵を振り払って言った。『あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ。私には責任がない。今後、私は異邦人のところへ行く。』」(5,6)とあるが、引用句では、二人(プリスキラとアキラ)が、騒動に巻き込まれないようにとの配慮は伺えるものの、また、論じあっている。テント造りをやめ、パウロが集中したのは、ユダヤ人に御言葉を語り、結局分裂していくことである。パウロがこのことにどれほど熱心であったかが伝わってくる。自分が正しさ(キリスト論の教義)を手に入れていることを確認し、かつ、それを得ていないユダヤ人に伝えたかったのだろう。これが教義が洗練されていく重要な背景になっていることは確かで、弁証論的な整備がこれによって可能になったことは確かだが、どうしてもある距離をおいてしまう。12節から16節に記されているガリオンの発言などをみると、ローマの宗教に関する寛容な姿勢も見て取れる。基本的構造は、こうだったのだろう。公平にみるのは困難であるが、難しい問題が多い。 Acts 19:35,36 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。これを否定することはできないのだから、冷静になるべきで、決して無分別なことをしてはならない。 わたしは高校で学園紛争を経験したことから、ずっと自分の中にある偏見(他者の見方を受け入れられない自分中心の考え方)と戦ってきたように思う。ひとは、偏見から自由になることはできない。しかし、クリスチャン側からみた世界観では見えないことがとても多く、そこに大きな世界があることは自覚してきたように思う。引用した町の書記官のことばをどう受け取るかは様々だろう。しかし、エフェソのひとたちの生活に密接に結びついたこと、すなわち、そのひとたちの、悲しみや苦しみや喜びを、無視することはできない。この言葉には、そのようなものが貼り付いているように思う。愛について、隣人を愛すること、イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うことを考えると、この偏見から、ほんの少しだけ、自由になれるように思う。 Acts 20:1,2 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、 このあと「そこで三か月間過ごした。」(3a)と続く。「励まし」と「言葉を尽くして」が印象に残った。パウロの行くところ、常に、論争と、批判の嵐である。自分でそれを招いて居る面もあり、正直すべてを肯定はできないが、この精神力と、丁寧さには、敬意を表したい。励ましは、単なるパフォーマンスではない。力を得る根拠も、しっかり伝えていったのだろう。たんなる、精神主義ではない、そして単なる論理でもない。おそらく、わたしには、見えていない、パウロの活動があるのだろう。 Acts 21:4 私たちは弟子たちを探し出して、そこに七日間滞在した。彼らは霊に促され、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。 ルカは「霊に促され」とも表現している。「そして、私たちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」(11)とここでも告げている。むろん、異邦人の手にわたすことを言っているので、エルサレムに行くことが主のみ心ではないと語っているわけではない。しかし、それは、ルカの書き方でもある。正直、このような場面に、何回か出会ってきたが、困難なときで、制止することは、できない。宗教の弱さでもある。これからも、考えてみたい。 Acts 22:14,15 アナニアは言いました。『私たちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人々に対してその方の証人となる者だからです。 9章の回心のときの記述とは少し異なる。アナニヤが告げられたのは「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」(15,16)、アナニヤがパウロ(当時サウロ)に告げた言葉は「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」(9章17節b)26章12-18節にも回心記事が記されているが、そこはまた異なる記述になっている。むろん、アナニヤがパウロに告げたことは様々にあるだろうし、さらに、ここまでの歩みで、告げられた言葉の真意・たいせつな部分がパウロの中で醸成されていったのだろう。おそらく、それだけでもなく、それぞれの場で、一部分を選択して伝えているようにも思われる。引用句では、パウロが「見聞きしたことについて、すべての人々に対してその方の証人となる者」であることが強調されている。ここでは「すべての人々」に焦点を当てているように思われる。本質とも言えるし、パウロの話術であるとも思う。 Acts 23:12,13 夜が明けると、ユダヤ人たちは集まって、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。共に誓いを立てた者は、四十人以上もいた。 このあとには、祭司長たちや長老さらに最高法院も巻き込んでの陰謀が企てられている。違和感を感じるとともに、この熱さには正直圧倒される。単なる民族的な特性とするのは誤りだろう。わたしにはよく見えていない部分が背後にあるのだろう。ローマに征服され税を収める状況にあり、司法権も行使できる範囲が限定されているなかで、必死に守るものが宗教的正義になっているということだろうか。現代の社会科学や自然科学が関係する、経済・社会・自然・環境などとの関係には、口を出せない中で、宗教の関与する範囲がどんどん狭くなっているということだろうか。おそらく、それだけではない。このひとたちの、苦しみ・悲しみ・痛み・喜びがわからなければ、理解することはできないだろう。もっと考えてみたい。 Acts 24:5,6 この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、ナザレ人の分派の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので、逮捕いたしました。✝ 底本に欠けている部分には「そして、私どもの律法によって裁こうとしたところ、大隊長リシアがやって来て、この男を無理やり私どもの手から引き離し、告訴人たちには、閣下のもとに出頭するようにと命じました。」(6b-8a)とある。いずれにしても、これが訴えである。全体的に、誤りではない。しかし、ローマの司法裁判で判断を受けるには「騒動」の部分を適切に立証することが必要である。このあと、パウロの弁明、そして皇帝への上訴が書かれている。ルカによるキリスト教弁護・護教の立場からの記述という面も否定できないだろうが、今回は、パウロの上訴が不適切であるように思われた。公的な資源を私的に適切ではない目的のために利用しているように思われるからである。それが、避けられない、神様から与えられた特別の使命であるとも、個人的には受け取れなかった。むろん、情報が少ないために、判断できない面もあるが。ルカも、パウロの上訴の理由を明確には把握できていなかったように思う。ルカと一緒に理解に苦しみながら読み進めてみよう。 Acts 25:6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らのところに滞在してから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命じた。 カイサリアは、名前からもわかるように、ローマが整備した海岸の町である。おそらく、大きな船も停泊することができたのだろう。占領地を支配するときは、反乱のときに、適切に退避できることは肝要である。おそらく、フェストゥスも、エルサレムに上るときは緊張し、ここではリラックスしていただろう。「そこで、フェストゥスは陪席の人々と協議してから、『皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように』と答えた。」(12)この記述も穏やかである。どのような人が陪席していたかは不明だが、ユダヤの事情に詳しいもの、司法に精通したものがいたのだろう。このような決断の背景には、パウロがローマ市民であったことが強く影響しているだろう。わたしがこの一連のパウロの行動に好意的ではないのは、そのような特権を利用している、すくなくとも、それが影響する結果になっているからもあるだろう。フェストゥスや異邦人に対する神の愛の理解が未発達だったとも言えるかもしれない。むろん、わたしの考えや感じ方も、ひどい偏見に依っていることは確実だろうが。 Acts 26:27,28 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」アグリッパはパウロに言った。「僅かな言葉で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」 このあとには「言葉が少なかろうと多かろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」(29)と続けている。パウロが上訴した理由がよくわからないし、公的資源の濫用(みだりに用いること)ではないかと考えても居るが、この章を読んでいて感じたことがある。パウロは社会的権威を尊重し、権力をもっているものが「パウロのようになること」イエスを救い主とする人生の転換を経験することが大切だと考えたのかもしれない。たしかに、歴史的には、コンスタンティヌス帝(Gaius Flavius Valerius Constantinus)のキリスト教への帰依が歴史を動かしている(313年ナントの勅令)。公会議の開催など、正統と異端議論にも関与し、キリスト教の政治と宗教の関わりの課題を抱え込んだ一歩でもあったようだが。パウロはキリスト者を捕らえることも「祭司長たちから権限を委任され」(12)行っており、「上着の番」をした(8章1節、20章20節)のも、殺すことには賛成していても、正統な権威の許可なしに殺すことには躊躇があったのかもしれない。「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」(5章34節、22章3節)たのも、権威が関係しているかもしれない。「学問のしすぎで」(24)も、パウロがローマの制度や学問に精通していたことを表現しているのかもしれない。今後も、この問題を考えていきたい。ルカは、ローマでパウロが皇帝の前に立ったのか、立ったとしてもそこで何を語ったのかについて言及しないが、ルカが陪席したか、または、情報を十分入手できたと思われるアグリッパ王の前での証言を丁寧に描いていることは確かである。 Acts 27:17 小舟を船に引き上げてから、綱で船体を縛り、シルティス湾に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるに任せた。 天使の「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」(24)は少し、行き過ぎのように感じた。それは別として、この章には船の運行に関する専門的とも言える記述が多い。「かなりの時がたって、すでに断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。」(9)断食日は9月終わりから10月にかけての期間(ユダヤの太陰暦による)だが、10月の終わり頃から西風が強くなるとのこと。西に進もうとしているので障害となると思われる。「海錨」は、普通の錨とは異なり、「大きな凧のような形をしていて、船首から海に流します。激しい風に襲われているとき、これを海に沈めると、水が抵抗となって船首が風上に向います。こうする横波を避けることができます。横波に倒されることや、浸水を防ぐことができるのです。」とのこと、これは、家から8分程度で歩いていける本郷教会の9月12日の礼拝説教で出てきた解説である。わたしも高校生のころ貨物船(7200噸(トン))に乗っていて台風に巻き込まれたときのことを思い出す。強烈な、横揺れ(rolling)と縦揺れ(piching)を繰り返しても、船は復元力をもって体勢を整えられるように設計されているが、三角波(三方以上からの波がぶつかってできる波)は注意しながら、それを避けるように航行すると、一等航海士の方が教えてくださった。あの揺れはいまでも体で覚えているように感じる。ルカもいろいろな知識を持っていたと思われる。 2021.10.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  44. BRC 2021 no.044:使徒言行録28章ーローマの信徒への手紙13章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 使徒言行録はいかがでしたか。今週は、使徒言行録の最後の章を読んでから、使徒言行録の後半の中心的人物であった、パウロが書いたローマの信徒への手紙を読み始めます。新約聖書の最初は、イエスの活動を記録した、4つの福音書、そして、その次が、使徒を中心とした活動を記録した。ある意味で歴史書と呼ぶことができるでしょうが、新約聖書は、これ以降、基本的には、書簡形式の文書となります。信徒が書いた手紙です。大きな区切りですが、使徒言行録の最後の章を読むと、パウロがローマに到着したことはわかりますが、正直、このあとどうなったのだろうと考えてしまいます。ルカが、ここで使徒言行録を終えることにしたのは、なぜだと思われますか。 ローマの信徒への手紙は、パウロが、ローマの信徒にあてて書いた手紙です。パウロはまだローマに宣教には、行っていないようですが(1章13節)信徒の知人・友人は何人もいたことが感じ取れますし、最後の16章は、挨拶で終わっていますから、ある程度の人たちを知っていたのでしょう。歴史的記録を書いたものではないのと、パウロの神学(theology: the systematic study of thenature of the divine and, more broadly, of religious belief. (Wikipedia))が書かれており、難しく感じるかと思いますが、パウロなりの整理の仕方で、書かれています。内容については、まず読んでいただくのが、大切だと思いますから、書きませんが、ローマの信徒への手紙は、キリスト教会で、最も高く評価されている、パウロの手紙でもあると思います。そして、この書をもとに、キリスト教の神学の中心部分が築かれているとも言えると思います。気になったことを書きとるようなことをしながら読んでいっていただければと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 使徒言行録28章ーローマの信徒への手紙13章はみなさんが、明日10月25日(月曜日)から10月31日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録とローマの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ac ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Acts 28:8,9 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、癒やしてもらった。 引用句には、癒やすが二回現れるが、最初(8節)は、通常病気を治すイアオマイ(ἰάομαι: 1. to cure, heal, 2. to make whole, to free from errors and sins, to bring about (one's) salvation)が使われ、後(9節)の方は、therapy の語源でもある、テラペウオー(θεραπεύω: 1. to serve, do service, 2. to heal, cure, restore to health)仕えるが用いられている。プブリウスの父親については、病気が治ったことが記されていると思われるが、特に、他の病人たちについては、奇跡的な病気の癒やしかどうかは、不明ではないかと思う。たいせつなのは、これに続く「それで、彼らは私たちに深く敬意を表し、船出のときには、私たちに必要な物を持って来てくれた。」(10)である。28章の最初にはパウロが「毒蛇」(他の訳では「まむし」注には「クサリヘビ」とある。原語は ἔχιδνα: a viper, offspring of vipers, addressed to cunning, malignant, wicked men 小さな動物と書かれたものもある)を振り払い害を受けなかったことを、土地の人に奇跡のように思われたことが書かれている。そのような状況下で、奇跡的な記述が多くなるのは自然だろう。背後に何があったか、現代的な意味で(ある程度の)科学的知識のもとで書かれているわけではない。「私たちに深く敬意を表し」とあり、魔術的な力ではなく、仕える態度が評価されたと考えられ、また「私たち」にルカや他の同行者も含まれていると思われる。通常、医者であれば、パウロが祈ったあと、適切な治療や手当、回復のための助言をするのが自然である。そして神様はまさにひとの回復力(免疫力など)を造られ、全体を見守っていてくださるのだから。現代では、奇跡的な記述がかえって、不信を招くことも多いと思うので、少し考察を書いた。 Romans 1:2-4 この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。 最後の4節が気になった。この記述によれば「死者の中からの復活によって神の子と定められた」とあり、それまでは神の子ではないと取れる記述になっている。パウロは、イエスの生涯やことばや行動についてほとんど引用しない。その理由はいくつかあるだろうが、このように断定する理由は何なのだろうか。「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3章17節、参照:マルコ1章11節, ルカ3章22節)「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」(マタイ17章5節, 参照:マルコ9章7節, 2ペトロ1章17節)をどう解釈するのか。確かに、イエスも、自分が神の子であることは、明言を避けているように思える。しかし、それは、死後も明確に変化しているわけではないように思う。総じて、パウロの解釈。神の子たるキリストは、死者からの復活により、それ以前の上記のような証言は、それを予見したものに過ぎないと言うことだろうか。パウロ神学に疑念を持っていることもあり、極力丁寧に見ていきたい。 Romans 2:12,13 律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを行う者が義とされるからです。 全人類ではないが、ユダヤ人にもギリシャ人にも公平な神の裁きについて書かれている。いくつか疑問に思うことがある。まず、ギリシャ人という言い方。タルソでパウロの近くにいたひとは、ギリシャ人だったのかもしれないが、ローマ人への手紙の受け取り手で、ローマにいるひとたちは、ギリシャ人ではなく、主として、ローマ人ではないのか。こんな基本的なことも、わたしは理解できていないことに気づいた。この章では頻繁に「律法」が登場するが、その意味するところが不明。何をもって律法としているのか。一般的な用語として神の御心を表すものか。その中身によって、内容の意味するところは変わってくる。ユダヤ人も納得できないだろうと思った。裁きについては、マタイ7章などの、イエスの説教との違いも感じた。また考えてみよう。 Romans 3:23,24 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。 ギリシャ人もユダヤ人もない救いについて前の章で書かれ、まず、引用句で、罪の中に人がいることと、キリストの贖いの業を通して、恵みにより義とされることが書かれている。そしてこのあと「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(28)と信仰義認へと進む。まだ、ここでは、行いによるのではないことは明確だが、信仰について明確には、書かれていないように思われる。いずれにしても「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。」(29)この普遍性への一歩は、パウロが明確にした最も大きな貢献だと思う。我々の罪・キリストの贖いの業・恵みよる義・信仰による義というキーワードで良いかどうかは、正直疑問がある。少なくとも、イエスが語った福音とは異なる印象を受ける。「悔改めよ、神の国は近づいた」だけを見れば、つながるようにも思われるが、イエスのことば、教え、生き様は、これらには、表現されていない。少しずつ考えていきたい。 Romans 4:20,21 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(3, 創世記15章6節)や「どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。」(10)に気づいたときは、パウロも目が開かれたと感じたのではないだろうか。旧約の信仰との接続点も見出したと感じたかもしれない。そして信仰の中身も、引用句のように表現している。とても印象的なことばである。しかし、同時に、冷静に読むと、気になることもある。「同じようにダビデも、行いがなくても神に義と認められた人の幸いを、こう言っています。」(6)に続く引用は、このことを表現している箇所かどうかは、不明である。また、この章の最後「しかし、『それ(引用句をさす)が彼の義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、私たちのためでもあります。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、義と認められるのです。イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」(23-25)を結論するのは、乱暴である。最初は普遍化。たしかに、そこに真理があることを否定しないが、それが誰に対しても適用できるものであるかは、神様のみがご存知である。そして、その要素があるにしても、そこだけに集中する解釈が適切であるかは、不明である。最後の部分は、まさに、パウロのキリスト論であるが、それを受け入れるには、パウロへの神の啓示が前提であるとともに、ひとつの信仰告白とすることの違いも問題となる。イエスをキリストと信じるのは、生身のイエスの生きた証拠が伝えるメッセージがあるからではないのだろうか。それを語らないで、これらを帰結するのは、違和感を感じる。 Romans 5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。 イエス様はこのことばをどのように受け取られるだろうか。その存在・尊厳を受け入れ、信頼関係(信仰も同じ)を築く基礎となることは、そのひととどのように関わっているかその量と質であるように思う。確かに、パウロにとっては、復活のキリストによって示されたことが絶大だったのだろう。そして、聖書を再解釈していく中で、到達した結論が、このことばに凝縮されているのだろう。しかし、信頼関係は、それぞれの存在が、様々な出会いと経験を通して、築かれていくものだろう。さまざまであって問題はないはずである。正しさの観点にたつと、そうはいかないことがあるのかもしれない。神の義を理解したいことが強かったのかもしれない。わたしは、それを、ある時点で、相対化してしまっているので、響かないのかもしれない。むろん、わたしのような見方がよいのかは不明である。ただ、パウロのような認識でなければいけないともいえないように思うがどうだろうか。 Romans 6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。 キリスト・イエスにあずかるバプテスマをうけたことは確かであるが、それによって、キリストの死と復活、そのいのちにもあずかることになるかは、明らかではないのではないだろうか。たしかに、そうなのかもしれないし、それは、恵みであると同時に、新たな民族主義、すなわち、ユダヤ人と異邦人を選民思想で分離していたように、バプテスマを受けたキリスト者と受けていない非キリスト者とを分離することになる。イエスの言葉を行おうとして、イエスに従っていくもので、十分なのではないだろうか。イスラム教のなかで、イサ(イエス)に従うものとして生きる。それでなにも問題ないのではないだろうか。むろん、主が、神が最終的に、わたしたちをどのようのされるかはわからない。しかし、わたしは、分離しないで、生きていくものでありたい。それは、自分も分離されないためというより、ひとつを目指すためだろうか。 Romans 7:21-23 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。 この両方が自分である。わたしは、そんな自分であることに背を向けない。複雑系であることは、恵みでもある。単純に、良いか悪いかの世界ではない。それが、キリスト者か非キリスト者かの区別ではないことともつながっている。一つの切り口、指標でひとは測ることはできない。それで良い。そして、それがひとりひとりの違いであり、尊厳のもとである。そこにこそ、神様が一人ひとりに働かれ、一人ひとりを愛しておられることが表されているのだから。灰色の世界を、明るい方向を目指しながら、歩いていくものでありたい。 Romans 8:5-7 肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。 なぜ、パウロの手紙を素直に受け入れられないか考えてみた。引用句では、霊・肉二元論を利用して論理を組み立てている。現在では、ひとの思いや行動はそれほど単純ではないこと、さらに、二元論的な思考・論理が分裂を生み出し、害悪があることが唱えられ、わたしもそのように考えている。それは、ある時代背景のもとでの、ひとつの説明の方法にすぎない。説明しようとしている内容を受け取るべきだとの説明もそのとおりである。それでも、なお、素直に受け入れられないのは、霊・肉二元論のようなものを文字通り受け入れ、そこから演繹して、世界の分裂を生じさせる解釈が、現代でも多く、それに、抗わなければいけないと考えているだけでなく、このような原理主義は、宗教の性(さが)のようなもので、それこそが偏見をうみ、この性向が変化しない限り、人々の心の内奥(ないおう)には届かないと考えているからだろう。しかし、同時に、そのことに、エネルギーを使うあまり、わたしも、パウロの伝えたかった本質から遠い部分に留まってしまって、理解できていないことも確かである。真理を求める純粋なこころから、わたはあまりに遠い。難しい問題である。 Romans 9:15,16 神はモーセに、/「私は憐れもうとする者を憐れみ/慈しもうとする者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。 「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」(13)ことについて述べている。このあとには「ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。」(19)と神義論の中で扱われる問題も提示している。パウロは、ここで「神の恵みと憐れみ」から説明しているようである。それでも、多くの議論がされるのは、それでは、ひとは納得できないということだろう。すくなくとも、神と共に生きることはできない。神を超然とした存在としておくなら、それも可能だろうが、イエスによって啓示された神様は、このようなことばで説明できる方ではないように思う。わたしたちと共に悩み苦しんでくださる神様のイメージのほうが強い。おそらく、そのように言い切ってしまうとそれでは表現できない部分が生じてしまうのだろうが。やはり難しい。 Romans 10:8 では、何と言っているでしょうか。/「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。 「信仰による義」(6, 9章30節)について説明している。まず、「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない。」(6, 申命記30章12節)と「『誰が、底なしの淵に下るだろうか』と言ってはならない。」(7,申命記30章13節)に対し、引用句(申命記30章14節)が続く。律法についての、モーセのことばの引用である。構造を「律法による義」(5)と揃えて、「信仰による義」(6)について述べているのだろう。引用句に続けて「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」(9,10)とあり、これこそ信仰による義の確信と考えてきた。いまは、それほど単純ではないのではないか、イエスは、少し違うことを伝えているのではないかと考えているが、そうであっても「神の国は近づいた」(マルコ1章15節)や「神の国はあなた方の中にある」(ルカ17章21節)ととても近いとも思う。パウロなりの解釈のように思う。 Romans 11:19,20 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「私は、民ではない者のことで/あなたがたに妬みを起こさせ/愚かな民のことで、あなたがたを怒らせる」と言っています。イザヤも大胆に、/「私を求めない者に/私は見いだされ/私を尋ねない者に現れた」と言っています。 ここで展開されている接ぎ木論は構造的にも、実際の接ぎ木との関係性も理解が難しい。もし、あるオリーブの木の幹の途中から切り、その上に、野生のオリーブを接いだとすると、基本的には、野生のオリーブの性質が引き継がれる。根がしっかりしていることは重要であるが、根の性質が引き継がれるわけではないはずである。困難なのは、この接ぎ木の比喩は適切であるかとの問いである。上に述べた接ぎ木の原理がパウロが意図したものであったかということと同時に、信仰による義は、このような枝を切り、それに接ぐような行為なのかということもある。パウロは、ユダヤ人の中で育まれたものの恩恵を受けていることを伝えたかったのだろう。この説明によってかえって混乱を引き起こしているように感じる。どのような説明がよいのだろうか。考えてみたい。 Romans 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。 抽象的な「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(1)に続いている。少し具体性を増しているのが、引用句のように思う。「この世に倣わない」ことは、常に頭に置くことであることがわかる。世がなにを求めなにを基準とするかではなく、神がなにを求め何を基準にするかを理解し行動せよと言っているのだろう。日常生活においても、わきまえたいことである。このあと、具体的な教えが続く。強調点や言い回しについては、個人的に、受け入れ難いこともあるが、通常キリスト教主義として語られる美徳が並べられていると思う。「私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。」(5)「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(10,11)ただ、これらが何を意味するかは、単純ではなく、これらのことばが独り歩きすること(これらの言葉を絶対的なものとしてそれから演繹すること)で、混乱が起きている現状についても、考えさせられる。基本原理は、引用句のレベルで、止めておきたい理由でもある。より具体的でないと、人の行動には結びつきにくいのだろうが。 Romans 13:1,2 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。 これまでにもこの言葉について考えてきたが、もう一回考えてみたい。パウロはユダヤ人でユダヤ教を信じてタルソで育ち、ローマ市民である。この段落の最後に「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7, 6節参照)とあり、税を納めることが背後にあることが分かる。おそらく、パウロも権力の様々な理不尽さを知っていたろう。しかし「権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです。」(6b)と言い切っている。その機能が神に仕える務めとしてあることを確信しているからか。そして、それが、ひとが神に仕えるように、そう簡単ではないことも知っていたのかもしれない。ここでも、ローマ帝国のような、異教の権力であっても、神に仕えていることを明言していることには、驚かされる。パウロは、いつからこのように考えるようになったのだろう。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8)は、次の段落の冒頭に位置しているが、つながっているのかもしれない。権力に従うことと、互いに愛し合うこと、それが、律法を全うする、すなわち、神の御心に生きることと言っているように思う。引き続き考えていきたい。 2021.10.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  45. BRC 2021 no.045:ローマの信徒への手紙14章ーコリントの信徒への手紙一11章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ローマの信徒への手紙はいかがですか。今週は、ローマの信徒への手紙の最後の部分を読み、次の、コリントの信徒への手紙一を読みます。 ローマの信徒への手紙は、前半、神学・教義((十字架上で死に復活した)キリストを信じることによって神様に受け入れられる(義とされる)こと)についての議論が続きますが、後半は、具体的な問題への言及が多く、感銘を受けること、理解できることが増えてくるのではないでしょうか。疑問も生じることが多いかもしれませんが。ぜひ、そのような疑問を、メモでも良いですから、書き残してください。疑問は、理解できていないために生じることもありますが、そこにとてもたいせつなことが隠されており、聖書の他の箇所や、日々の生活の中で、気づきがあり、さらに深い問いとなり、背後にあることにも目が向けられることがあるように思います。わたしが、このように聖書ノートを残しているのは、いろいろな理由がありますが、言語化して文字にして記録することで、感動したことや、違和感が何かを考える時を持つという面が一番大きいと思います。問を持たず、または、書き留めないと、表面しか読まなくなり、そのうち、読む価値がわからなくなり、続かなくなるという面もあると思います。わたしは朝、聖書を読んでいますが、自分を振り返るとてもたいせつなときとなっています。聖書を書いた人、たとえば、パウロとの対話のとき、そして、神様との交わりのときとなっているように思っています。書くことは、それを、まさに、たいせつなときとするということでしょうか。 ローマの信徒への手紙の最後の章は、個人的な挨拶で、実際の様々な人間関係を見ることもできて、1章から15章までとは少し異なる趣があります。そして、コリントの信徒への手紙一に入ります。次に、コリントの信徒への手紙二があり、どのような関係になっているかは議論があるようですが、この間に、コリントからの返信や、情報提供があったと思われ、議論が深められていく様子も見て取れます。その意味でも、コリントの信徒への手紙一は基本的だと思います。コリント前書と呼ぶ場合もあります。 ローマの信徒への手紙は、まだ、パウロが訪問していない地の教会(すでに信徒の群れがあった)への書簡ですが、コリントの信徒への手紙が、パウロが開拓伝道をした地への手紙です。使徒言行録18章によると、アテネからコリントに移り、そこに1年6ヶ月ほどとどまって、人々の間で神の言葉を教えた(使徒言行録18章11節)とありますから、ある程度長く滞在したこともわかります。とはいえ何世代も続いているわけではありませんから、若いキリスト教会と言えると思います。完全な異教の地で、キリスト教が伝えられ受容されていく中で、様々な具体的な問題が起こっていたようです。現代にも通じる課題が多く含まれているように思います。現代的に考えると、疑問を感じされる点もあるかもしれませんが。当時の状況、背景も想像しながら、読んでいくことができると良いですね。難しいですが。そう簡単ではないことも、こころに留めて。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ローマの信徒への手紙14章ーコリントの信徒への手紙一11章はみなさんが、明日11月1日(月曜日)から11月7日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ローマの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rm コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Romans 14:15 食べ物のために、きょうだいが心を痛めているなら、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません。キリストはそのきょうだいのために死んでくださったのです。 この最後のことばは単純だがとても魅力的な言葉である。他者にとってのキリスト、神様の恵み、赦し、愛と、自分にとってもそれを公平に受け入れることができない弱さがひとにはある。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)とこの章は始まるが、実は自分がこの「信仰の弱い人」であることがなかなか見えない。さらに、引用句では「キリスト」が何を望んでおられるか、そして「神の御心」に行き着くことのたいせつさを説いている。この章には、このことばに近い言葉がいくつもある。(1-4, 7-8, 17, 21, 参照15章1,2節)どの表現がいちばん、そのひとに響くかは別だが。「だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」(19)わたしはこのようなことばも心に響く。そして、このことに日々の営みに集中していきたい。これは神様が与えてくださる平安をもたらすのか、すなわち、神様が喜ばれるか、悲しまれるのか、そして、わたしも他者も、神様を喜ぶ生き方をすることができるようになるのかどうか。 Romans 15:7-9a だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。それは、先祖たちと交わした約束を揺るぎないものとするためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえに崇めるようになるためです。 パウロはイエスの死と復活以外はほとんど語らない。引用句の、最初の前半はどちらを意味しているかはわからないが、「割礼のある者に仕える者」となったことは、イエスの公生涯に光を当てているように思われる。ただ、福音書を通して見えてくるイエス像は、割礼のある者に仕えることを主としながら、それに制約されたり、留まったりする様子は見られない。ユダヤ人に仕えられたことは確かだろうが。パウロは、十字架の死と復活が起点となったと整理したいのかもしれない。イエスの生涯、その活動について、パウロがどう考えていたか、知りたい。 Romans 16:3-5a キリスト・イエスにあって私の協力者であるプリスカとアキラによろしく。命懸けで私を守ってくれたこの二人に、私だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家の教会にもよろしく。 この章は挨拶が続く。何人か特に、気になる人が登場する。最初にケンクレアイにある教会の奉仕者である女性のフェべが紹介されている。正確にはわからないが、この手紙は、コリントやケンクレアイあたりで書かれたものか。フェべに手紙が託されたかどうかは不明だが、ローマに向かっていくことが記されている。「主にあって選ばれたルフォスと、その母によろしく。彼女は私の母でもあります。」(13)も気になる。マルコ15章21節にはルフォスという名前が書かれ、その父のシモンが主の十字架を担ったとされているからである。同一人物なのか、そして、どのような関わりなのだろうか。引用句は、プリスカとアキラについて書かれているが、プリスカが女性である。そして「命懸けで私を守ってくれた」とある。どこでのどの事件のことが言われているのかわからないが、そのときのこの二人の行動がなければ、ローマの信徒への手紙も書かれなかったのかもしれないと思うと、たいへんなことだと思う。何箇所かで、この二人は登場するが、すばらしい支援者であったのだろう。 1Corinthians 1:29,30 それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 第1章は、コリントの信徒が聖なるものとされていることとともに、分派による争い(11,12)が書かれている。パウロは引用句からも分かるように、聖なるものとされたのは、神の恵みによることを、しっかりとこころに刻みつけることが、争いにならないために、たいせつであることを言っている。分派、争いは自分たちの正しさを主張することに依拠しており、自分が恵みを受けている理由、その本質が見失われていると言っているのだろう。おそらく、生活に結びついた損得・不具合・不条理と思われることも伴っており、簡単には受け入れられないことが背後にあるのだと思われる。たとえそうであってもとパウロは言いたいのだろう。「さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10)ここに戻ってくる。これは、異邦人のそしりをうけないためか、福音の前進のためか、または、ここにキリスト者が召された本質があるのか。わたしは、本質があるのだと思うが、パウロはどう考えていたのだろうか。わたしも、もう少し深く理解したい。 1Corinthians 2:2,3 なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。 ここで明確に「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」との決意が書かれている。アテネでの議論(使徒17:16-34)のあとで、このように「心に決めた」のだろう。ルカの使徒言行録における記述がどこまでパウロが受け取ったことと同じことを表現しているかは不明だが、偶像礼拝から真の神、イエス・キリストを死の中から復活させた方を宣べ伝えたが、復活のことが語られると人々は去っていったことが書かれている。おそらく、それなりに、ギリシャの学問にも精通していたパウロが、どのように語ったらよいのか考えたのだろう。弁証論だろうか。背景には、生前のイエスを直接は知らないこと、自分が経験したことを通して語ろうとしたことも含まれているように思う。しかし、この決断に基づいたと思われるパウロが語るイエスから、活動とことばが抜けてしまったのは、とても、残念である。もう少し、パウロの心をうけとれるようにしたい。 1Corinthians 3:21-23 ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。 現実社会は、どうしても、立派な信仰者、または、説教者・論者などを誇り、それが分派を生んでしまう。その人の心に、強く響いたメッセージによって、その人が造り変えられたと感じるからだろう。それは、ひとの弱さ、理解力の足りなさもある。しかし、この章を読むと、原因はリーダーにもあるように思う。「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」(6)このような謙虚さは、おそらく、すべての影響力のある指導者が持っているだろう。しかし、同時に「私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」(10)と述べ、自分が確信をもって伝えた福音以外を持ち込むことを「この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。」(12,13a)としている。この判断は、とてもむずかしい。自分が受け取れていないことを伝えているのか、それとも、誤りなのか。矛盾が見え隠れする中で、寛容さと謙虚さを維持して、対することはとてもむずかしい。 1Corinthians 4:1,2 こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘義の管理者と考えるべきです。この場合、管理者に求められるのは、忠実であることです。 「秘義」は、あるいは「神秘」と書いてある。どちらにしても、分かるわけではない。「忠実」は πιστός pistos(trusty, faithful, easily persuaded, believing, confiding, trusting)信仰や信頼とも約される言葉である。管理者に求められるのは、忠実さということばは自然だが、ここでは、神の秘義の管理者とある。まったく理解できない。ただ、その前に、キリストに仕える者ともあるので、キリストに仕えるものとしての忠実さと理解することもできる。それは、どのような意味だろうか。委ねられたことに忠実というのであれば、こちらが受け取ったことを基準にすればよいので、少しは理解ができる。そう理解して良いのだろうか。そこからはじめ、キリストを通して示された、神の神秘のような御心を追い求めることだろうか。難しいが、それは、できるかもしれない。わたしの考えに引き寄せて理解しようとしている。それで良いのだろうか。パウロは、なにを伝えようとしたのだろうか。もう少し丁寧に理解したい。 1Corinthians 5:11 今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。 引用句のあとに「外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。あなたがたが裁くべき者は、内部の人々ではありませんか。外部の人々は、神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪人を除き去りなさい。」(12,13)と続いている。自らを律するという意味であれば理解できるが、このことにより、内部分裂を生むことも多いように思われる。それほど、簡単なことではない。しかし、では、自分だけに判断をかぎることが正しいのか。それも、自分を裁くことの問題も感じるとともに、そして、互いに、ある群れを検証することの必要性も感じる。正直、結論は出ない。このような、議論をもっと深めなければ、いけない。もう少し深く考えたいが、正直今はよくわからない。 1Corinthians 6:6,7 きょうだいがきょうだいを訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前でそうするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、あなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、奪われるままでいないのですか。 自然科学的な考察とともに、社会科学的考察、それも、批判的考察をしないと、すばらしいものを育んできたキリスト教コミュニティは再生しないのではないかと考えている。ここでは、司法が問われている。教会の中の問題は、教会で解決ができるはずで、解決の一つの鍵として、キリスト者の価値観によって、争いを回避する方法が語られている。そうなのだろうか。非常に小規模なグループの中では、可能なのかもしれない。しかし、ある程度大きくなってきたときには、様々な混乱を招いていることは確実であると思われる。また、キリスト者、非キリスト者とはっきりと分けず、神が愛しておられる一人ひとりと考えると、その人達を公平に裁くシステムが整っていることは、幸いなこと、それは、協力して構築していくべきことも必要不可欠だと思う。イエスをとおして学んだことが社会に生かされることを望むことだろうか。それが地の塩として歩くこと、神の愛をもって仕えることではないのだろうか。引用句から極端に問題を大きくしているようにも思われるが、パウロのことばにとらわれず、その背景と意図を理解することを通して、この問題についても考えていきたい。 1Corinthians 7:38,39 ですから、相手のおとめと結婚することは差し支えありませんが、結婚しないほうがもっとよいのです。妻は、夫が生きている間は結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主にある人に限ります。 男女関係、婚姻、結婚関係の中で「義務」(3)と書かれている性的行為などについても、社会学的にも、さらに、信仰生活を考える上でも、十分検討する必要がある。信徒同士以外の結婚が、価値観の違いによって、多くの困難を引き起こすことをたくさん見てきた。同時に、その中で、多くを学び、相手がキリスト者になるかならないかは別としても、互いに成長し、隣人にとっても、すばらしい模範となるような関係も多く見てきた。肉体的・性的欲求も、男女でおそらく異なり、個人差もかなりあるように思われる。簡単に語れることではないことは、よく理解しているつもりである。しかし、あえて、わからないから、パウロが語っていることにできるだけ従うということとも異なるように思う。神の御心がここに、すべて開示されているとは考えないからである。いまのときに、どのようにして、神のみ心に生き、互いに愛し合い、共に喜び共に悲しむものになるか考えたい。 1Corinthians 8:1,2 偶像に献げた肉について言えば、私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。 「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」は私の好きな言葉である。引用句のあとには「しかし、神を愛する人がいるなら、その人は神に知られています。」(3)と続いている。真実であるが、これを持ち出して、正しさからの裁きに向かうこともある。「愛」は神を愛することを基盤としているとは思うが、やはり隣人愛、互いに愛し合うことがたいせつだと思う。この章の最後の方に偶像に捧げられた肉を知識のゆえにたべ、弱いものを躓かせるならとして「そうなると、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。しかし、このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。」(11)とある。このような配慮を徹底させることが、律法的になり、別の裁きが発生することもあり、単純ではないが、尊厳を表現するとわたしが考える、11節後半はつねに心に留めたいことである。最初の引用句の後半には「知らねばならないように」は知っていないことが書かれている。知ることは、正直、自分は知っていないことを経験することだと思う。知らなかったことがたくさんあることを発見する営みでもあるのだから。 1Corinthians 9:6,7 あるいは、私とバルナバだけには、働かずにいる権利がないのですか。一体、自費で兵士になる者がいますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳からできたものを食べない者がいますか。 わたしは、専業の福音宣教者は必要ないとは思っていない。しかし、他の仕事をしながら、神のことばに仕えるひとがもっともっと必要だし、それが、基本だと考えている。仕事も多様化している現代では、それが可能になっているとも思う。わたしのような特殊な歩みをしたものにとっただけそれが可能なのだろうか。それを否定することは、難しい。違う人生を生きることはできないから。しかし、生活の糧を得ながら、神の恵みを伝える、専心したキリスト者が、福音をより深く理解するためには必要である。現状では、あたまでの理解を教え込むことが中心となり、それぞれのひとが学ぶことには、なかなかつながらない。学ぶ主体は多様である。その一人ひとりに適したことばで語り、ともに生きることは、教義を教え込むことではできないと思うからである。「教育から学習へ」教師から学ぶ者に視点を移し、指導から支援に注力する対象を変える必要を強く感じているからである。それが、一人ひとりを大切にすることであるから。むろん、解答を得ているわけではないが。 1Corinthians 10:32,33 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私が、何事につけ、すべての人を喜ばせているようにです。私は、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めているのです。 なかなか大変なことを言っている。おそらく、すべてのひと、ここでは、ユダヤ人とギリシャ人だが、その人達の利益、祝福された存在となり、神に栄光を帰すようになることだろうかを求める中で、このような思いが強くなっていったのだろう。それは、神様の心を心とする、World Vision を持つこととも言い換えることができる。とくべつに、大きなことではなく、それは、隣人を自分のように愛すること、互いに愛し合うこと、共に喜び、共に泣くことのなかに、本質があるのだろう。 1Corinthians 11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の諸教会にもありません。 女性の被り物が(今、まさにアフガニスタンで、そして、正反対の課題としてフランスで)議論となっている。この章は「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」(1)から始まっており、そのパウロの考え方として「自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れなのです。長い髪は、覆いの代わりに女に与えられているからです。」(14,15)が語られ、引用句に続いている。世界を見て判断していることは、ある意味で科学的判断だとも言える。しかし、見ている範囲は、とても狭い。パウロの当時であっても、世界とは言わず、近隣に目を向ければ、ことなる習慣をもっている人たちはいただろう。前の章で、すべての人を喜ばせるためと言いながら、すべての人を理解することはできていないことが背景にあり、問題なのだろう。むろん、批判ばかりしていてはいいけない。パウロの生きた世界で、1節にあるような、模範を自分自身に求めざるを得なかったのだろう。イエスの生き方、ことばをまずは学びたい。 2021.10.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  46. BRC 2021 no.046:コリントの信徒への手紙一12章ーコリントの信徒への手紙二9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙一はいかがですか。今週は、コリントの信徒への手紙一の最後の部分を読み、次の、コリントの信徒への手紙二を読みます。 前回も書きましたが、コリントは、パウロが訪れ、ある程度長く滞在し、通常開拓伝道と呼ばれている、ひとりも、イエスをキリスト(救い主)と信じる人がいない状態から、信徒たちの群れができていった街で、かつ当時、商業都市としてもある程度大きな都市といってもよい場所だったようです。また、コリントの信徒への手紙一1章にもあるように、他にもアポロという宣教者も、パウロのあとに訪問したようです。そのような都市の教会での問題について、自分の小さな子どもに対するように、パウロは、あるときは厳しく、かなり仔細に、考えを述べ、叱責をし、勧めをしています。 コリントの信徒への手紙二の方は、どの部分が、どのことに対応しているか不明ですし、学者によっては、いくつかの手紙をまとめたのではないかとも言っていますが、コリントの信徒への手紙一の背景と、その手紙をうけとって、コリントの人たちがどのように行動し、どのように応答したかが、多少伺える内容になっています。これは、聖書の中では、とても、珍しいことのように思います。絶対的真理は、ひとつのことばで表現され、それで完結するものると考えられるかもしれませんが、実際に、ひとがお互いの考えをうけとり、学び、実践に移し、少し違うかもしれないと思い、修正をしていく、そのことを相手にも伝える、こちらのほうがわたしたちの日常に近く、人間の弱さを考えると、自然であるように思います。そう考えると、とても、貴重なやりとりの記録を見ることができるとも言えます。 明日に予定されている箇所には、有名な愛の章とも言われる、13章もあります。わたしの、通読記録を読むと、かなりパウロが書いたことに、批判的だと思われるかもしれません。たしかに、わたしは、このあとの、キリスト教会が、パウロが書いたことをそのまま受け取り、受け取ったことを根拠に、より一般的なことに適用していったことからくる弊害がいろいろと気になっているので、素直に受け取れない面もあります。しかし、いずれにしても、パウロやコリントの教会の人たちが置かれている背景を理解しなければ、メッセージの意図を適切に受け取ることはできませんよね。わたしたちが知ることができることは、限られていますが、コリントの信徒への手紙一・二とふたつの書簡を通して、少しでも、深く、理解することができればと願っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙一12章ーコリントの信徒への手紙二9章はみなさんが、明日11月1日(月曜日)から11月7日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr1 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1Corinthians 12:4-7 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 様々な働きがこのあと語られている。教会内の分業とも言える記述や、どうしても賜物のあるなし、能力の高い低いに結びつきやすい、これらの記述に問題を感じていた。それは、これらの弊害であって、このようなことがなにもない時代にある程度の整備が必要だったとしてパウロが語っていることとは、別のようにも今回思った。しかし、このように書かれているということを、そのまま受け取り、それから演繹して、正しい、正しくないを決める教会の弊害について見てきたために、わたしは、上に書いたような負の面を考えるようになったのだろうとも思った。書かれた背景を考えることで、一歩進めるようにも思う。Bias(偏見)を持たずに、自由に思考することはなんと難しいことか。 1Corinthians 13:1-3 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。 今回読んでいて、これは、ここまで書いてきた、パウロの自戒を込めた、言葉なのかなと思った。様々な、具体的な問題・課題について書いてきて、突然、愛に関することが始まる。「最も優れた道」(12:31b)ということばでつながってはいるが、本当にたいせつなことから離れてしまっているかもしれない、普遍性・通時性の乏しいことを並べ立ててしまっているのかもしれないと反省して、それらに優って、鍵となることを書こうとしたのかもしれない。最初に書いたように、それは、自戒の面も含んでいるかもしれない。パウロの文書をなかなか素直に読めない自分についても、反省し、その背後にあるものを考えながら、これからも、読んでいきたい。 1Corinthians 14:29-31 預言する者も、二人か三人が語り、他の者はそれを検討しなさい。座っている他の人が啓示を受けたら、先の人は黙りなさい。皆が学び、皆が勧めを受けるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。 この章では、異言について厳しく戒め、預言を推奨しているが、女性には厳しい。かなり、教会の中で混乱する状況があったのだろう。したがって、普遍化は気をつけるべきである。ここでは、預言について語られているが、何人かが語ることが推奨されている。預言は説教のようなものだと思っていたが、一人ひとりがうけた恵みのメッセージを分かち合う証に近いものなのかもしれない。いずれにしても、皆が学び、皆が勧めを受けるように、何人もが語ることが行われ、かつ推奨されていることは、確実なようで、正直すばらしいと思う。このあとに、女は教会で語るなとしているが、そのようなことが拡大して、語る人は特定の知識を持った人になっていったのかもしれない。母教会で、稚拙ではあっても、恵みをうけ、感動もする、信徒の証を毎週聞くことができた経験は、わたしにとって、とても、素晴らしい経験であった。牧師のリーダーシップと忍耐、見識だろうか。 1Corinthians 15:5,6 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。 このあとに、ヤコブ、すべての弟子、そしてパウロと続く。しかし、最初とは書かれていないが、ケファ(ペトロ)が最初に書かれていることに、前章からのつながりとして、違和感を持つ。最初には、女達、または、マグダラのマリアに現れたのではなかったのか。それを、なかなか受け入れないような状況こそが、問題だったのではないだろうか。福音書は、女性の働きを多く描いている。そして、イエスの活動に、女性が従い、仕え、イエスが、一人ひとりに丁寧に接している様子が生き生きと描かれている。パウロが教会の運営を指導するとき、それは、邪魔だったのだろうか。イエスの活動とはことなり、社会の仕組みを保持することも、キリスト教会にとっては、重要だったのだろうか。そのような時代性はあったようにも思う。 1Corinthians 16:12 兄弟アポロについては、きょうだいたちと一緒にそちらに行くようにと、何度も勧めましたが、彼には今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。 「あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。」(1:12)に始まり、3章・4章は、パウロの役割とアポロの役割を説明している。パウロとアポロはコリントの教会にとって、非常に大きな存在だったのだろう。それが分派を生むような状況について、パウロは非常に憂え、その解決のためには、この機会に、アポロがコリントに行くことが望ましいと望んでいたのだろう。(パウロは行かないことにしたようだ。(2コリント1章23節))しかし、アポロには別の考えがあったようである。興味深い。わたしたちは、アポロの心のうちを知ることはできないが、パウロは、アポロを信頼し、この件について、神様に委ねているように見える。聖書の背景について、わたしたちには、知らされていない部分が多いということは、解釈において、謙虚にさせられ、こころに留めるべき大切なことであると思う。 2Corinthians 1:8,9 きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。 アジアでは、かなりの困難があったことがわかる。使徒言行録にも書かれている。エフェソスの例などを見ても(使徒19章)、ユダヤ人からも、地元の人からも反対があり、かなりの騒動が起こっている。マケドニアやアカイアとは状況が異なっていたものと思われる。この困難、パウロにとっての苦難は、政治指導者による迫害ではない。パウロの宣教が、ユダヤ人にとっては、伝統とは異なる教えと生活様式というユダヤ人がたいせつに受け継いできたことの変更、土地のひとにとっては、偶像礼拝への非難から始まるたいせつにしていたことの変更を伴う宣教だったからだろう。古くからの友人のアメリカ人の宣教者(わたしも設立の準備からかかわった International Friendships Incorporation の設立時のリーダー)が、今は、アフガニスタンの難民を受け入れるために、募金をして、中古の家を何軒か購入している。彼もかなり原理的な福音派だが、愛の奉仕をたいせつにしている。どちらがよいとは言えないが、単純ではないことを思わされる。 2Corinthians 2:4 私は苦悩と憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている溢れるばかりの愛を知ってもらうためでした。 この手紙がコリント信徒への手紙一かどうかは不明である。しかし「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。」(1Cor 5:1)を指すとも考えられている。もし、この記述であったとすると、パウロが考えていたこととは、少し違っていた可能性もある。すくなくとも、大きな問題にはならずに、解決したのだろう。パウロの影響は大きいゆえに、具体的な課題の解決は簡単ではない。個人的な問題に入り込んで、どの程度、情報を得ることができたのだろうか。今となってははっきりしないが、公開の書簡での、やりとりで、このような問題(もし上の通りであったなら)を取り扱うのは、謹んだほうがよいように思う。 2Corinthians 3:16,17 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。 この主はキリストではないのか。覆いは、「キリストにあって取り除かれる」(14)であっても、主とキリストは、区別されているのかもしれない。このあとには「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。」(18)と続く。わたしは、これは、イエスを見ていて、実現することだと考えており、おそらく、パウロとは異なるのだろう。それで良いのだろうか。 2Corinthians 4:4 彼らの場合、この世の神が、信じない者の心をくらまし、神のかたちであるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。 このあとには「なぜなら、『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。」(5)と書かれている。あまりにも、ポジティブで心配になる。確かに、頻繁に、この世の神(価値観・これは変更できないとされる絶対的に思える原則)によって、自由が奪われ、神様の働き、神の国が近くにあること、イエス様によって示された神の子として御心に生きる生き方が、見えなくなってしまうことがある。イエス・キリストのみ顔から目をそむけなければなのか、イエス・キリストによってなのかは、不明だが、そのような状態にはならないと言っているようにも聞こえる。このあとの文章を見ると「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(7)ともあるので、自分が目をそむけなければではないのだろうが、根拠をそう簡単には、受け入れられないように思う。心がくらまされ、よく見えない場合が多く、それによって苦しむことが多いのだから。 2Corinthians 5:4,5 この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。 肉体を持って生きることを、弱さ、矛盾とパウロは捉えている。聖となるはずなのに、そうは生きられない現実があるからだろう。そして、引用句では、今は死ぬべきものを伴って生きているが、いずれは、命に飲み込まれてしまうこと、そして、その保証が霊だと言っている。おそらく、多くのキリスト者が、2000年の後、この幕屋に住み、生きること自体を命に生きることと捉えているように思う。わたしもそうである。求めて生きること、それこそが、肉に従ってキリストを知っていたことの中から、真理を求める姿勢のように思う。「それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16)少しずつ、価値観を変えられていくことを望みつつ。 2Corinthians 6:11-13 コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。 コリントの人たちに対して「神と共に働く者として」(1)「この奉仕の務めについて、とやかく言われないように、どんなことにも人につまずきを与えず)」(3)あらゆる困難に耐えてきたことが書かれ、引用句に至る。「心を広く開き」「広い心で受け入れ」などの寛容さが印象的である。しかし、このあとには「あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。」と厳しいことばが続く。整合性は取れると思うが、教会の運営など、この世での活動を考えると、混乱のもとでもあると思う。背景には二分法と、自分が根本的なことについては示さなければとの責任感があるように思われる。わたしは、このどちらも、問題だと考えている。ゆっくり考えていきたい。 2Corinthians 7:10 神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。 コリントの信徒への手紙一・二に深く関係した、問題が背後にある。正確にはわからないが「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。」(1Cor5:1)が背後にあると思われる。引用句の直前には「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。」(8a)とある。さらに、直後には「あの事件に関しては、あなたがたはすべての点で自分が潔白であると主張しました。」(11b)とある。詳細は不明であるが、やはり、パウロの取り越し苦労だったと考えるのが自然であると思う。コリントの教会は、自分たちの正しさを主張してパウロを批判するのではなく、似たケースで問題はないかと徹底的に自らを省み、悔い改めるべきことを悔い改めたようである。前の手紙では、男女関係について、パウロ独特の、かなり厳しいことが書かれており、そのような一つ一つについても、丁寧に受け取ろうとしたのかもしれない。引用句は、それらのことを表現した、美しい言葉であると思う。上の理解が正しければ、わたしなら、ごめんなさいと自分が不正確な情報によって、不適切な判断をしたことを謝るように思うが、それは、謝ることで、自分の正しさを確保することに視点があり、すべての人の徳を高めること、パウロの言葉を使えば「すべては教会を造り上げるためにすべきです」(1Cor14:26b)にはなっていないということだろう。 2Corinthians 8:12,13 その熱意があるなら、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。それは、他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようというのではなく、平等にするためです。 おそらく、「マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」(ローマの信徒への手紙15章26節)にある、エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々への援助と思われる。1節-6節にはマケドニアの人たちの熱心が書かれており、コリントはアカイアの大きな商業都市である。この献金の問題を、平等の課題とし「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」(出エジプト16章18節)を引用している。これは、マナについて書かれた箇所だが、対応すると思われる、5つのパンと2匹の魚で五千人を養う四福音書すべてに書かれている箇所を見ると、皆が満腹になったことと、残ったパンくずのことしか書かれていない。わたしは、平等ではなく、公平が大切だと思っているが、もしかすると、それは、まだ、ほんとうに大切なことに行き着いてはいないのかもしれないと思った。まだ、それが何かは理解していないが、寄付・献金のこととあわせて、ゆっくり考えていきたい。細かい部分では、やはり、パウロのことばは棘もあり、なかなか受け入れられないが、あまり、それをあげつらうのは、それこそ大切なことを見失うことになるようにも思った。 2Corinthians 9:9 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与え/その義は永遠に続く」と書いてあるとおりです。 献金に関して、また、奉仕に関して、この前に書かれている箇所が幾度となく引用され、わたしもそれを是認し、自分自身を鼓舞してきた。「つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(6,7, 参照:詩篇126篇6節)しかし、引用句はすこし方向性が異なるように思う。「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」(詩篇112篇9節)この詩篇は「ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。」(詩篇112篇1節)と始まっており、旧約の一つの価値観なのだろう。人の徳に目を向けるのではなく、恵みの主に目を向けるべきだとわたしは考えているのだろうか。まだ、整理ができていない。献金・寄付のことは、引き続き考えていきたい。いくつも、課題があり、ヒントがあるように思う。 2021.11.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  47. BRC 2021 no.047:コリントの信徒への手紙二10章ーエフェソの信徒への手紙4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙二はいかがですか。今週は、コリントの信徒への手紙二の最後の部分を読み、ガラテヤの信徒への手紙、そして、エフェソの信徒への手紙へと読み進めます。 聖書の学者が、パウロが直接の著者であると合意しているのは、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一・二、ガラテヤの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィリピの信徒への手紙、フィレモンへの手紙だけで、ほかは、いろいろな議論があるようです。たしかに、新約聖書を読んでいくと、ローマの信徒への手紙からフィレモンへの手紙までは、冒頭にパウロが差出人の一人だと書かれていますが、上の書簡以外のいくつかは、文体も、語調も、内容も異なり、かつ、教会制度が整った少し時間がたってから書かれたようにも思います。また、研究者の間でも、議論があり、判断が定まらないのですから、簡単に、著者について語ることはできないように思われます。そして、それは、聖書はどのような書物かを考えるときにも、鍵となる問題をはらんでこともあり、根源的な課題をいくつも内包しているようです。そのような議論をすることが、この通読の会の目的ではありませんから、まずは、ローマの信徒への手紙からフィレモンへの手紙は、パウロ由来の手紙として読んでいただければと思います。 それでも、ひとことだけ、書いておこうと思います。それは、パウロが初代教会(だいたい紀元一世紀の教会)、特に、ユダヤ以外の教会、異邦人(ユダヤ人以外)の教会において、最大の使徒・宣教者であっただけではなく、キリスト論(すべての人に対する神様の救済の歴史)のほとんどの部分を整備し、ユダヤ教の背景のない人にも、福音を語り、キリスト教の基盤を築いた最大の人だったということは、おそらく誰も否定できないでしょう。そして、それは、現在のキリスト教会にまで引き継がれています。その意味でも、キリスト教を知る上では、パウロ由来の手紙はその中心部分を占めるものだと思います。同時に、特に使徒言行録以降、丁寧に読んでこられた方の中には、パウロが苦手な方もおられるでしょう。そして、おそらく、キリスト教全体が、このパウロ由来の文書に依っていることは、多くの問題(課題と言ったほうが良いかもしれませんが)をも提供しているように思います。その意味でも、みなさんが、疑問に思われること、受け入れがたいと思われることは、とても、たいせつなことだと、わたしは、思っています。探究心を常に持ちながら、ていねいに読んでいくことができればと願っています。それは、誠実さだけでなく、周囲の隣人との関わりとも関係しているように思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙二10章ーエフェソの信徒への手紙4章はみなさんが、明日11月15日(月曜日)から11月21日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙と、エフェソの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr2 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#gl エフェソの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ep 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2Corinthians 10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロが、キリストの優しさと公正さとをもって、あなたがたに願います。 この評判に対してパウロはかなり怒っているようだ。「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10)も同じことを表現しているのだろう。どんなひとなのか会ってみたい。ただ「私たちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦っているわけではありません。」(3)と言い切るパウロには、正直近づきたくない。このあとの「私たちは、さまざまな議論を破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち砕き、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたが十分に服従したとき、不従順な者をすべて罰する用意ができています。」(4b-6)などを聞くと正直怖い。議論の強さであって、パウロに向き合いたいとは思わないが、神様の働きはこのようなものなのだろうか。イエス様は、律法学者やファリサイびとを批判はしているが、悔い改めを促しており、そこに本質がある。パウロは、キリストに服従させとは言っているが、これで、神の恵みとして信仰を受け入れることができるのだろうかと思ってしまう。 2Corinthians 11:5,6 あの偉い使徒たちに比べて、私は少しも引けは取らないと思います。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。私たちは、事ごとに、さまざまな機会に、このことをあなたがたに示してきました。 どう見ても称賛されるべき態度ではない。この偉い使徒たちについては、不明だが、使徒ということばを大切にしているパウロが使っているところを見ると、十二弟子または、それに近い、イエスのことを直接知っている人たちの可能性が高い。そのひとたちと比較して知識では引けを取らないと言っている。おそらく、イエスのことばや活動ではなく、神の計画の中での救い、キリスト論についてなのだろう。パウロの中では整合性が取れているのだろうが、問題が多いと思う。ただ、パウロのような存在が周囲の寛容や、支援によって支えられてきたことは、恵みでもある。そのなかには、バルナバや、ルカ、プリスカ、アクラ、テトス、シラス、テモテなどとともに、アポロなどもある役割を果たしていたのかもしれない。パウロから多くを学んだ人たちだろう。そのような人たちの存在の大切さを感じる。 2Corinthians 12:11,12 私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。本当は、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。私は、たとえ取るに足りない者だとしても、あの偉い使徒たちに比べて、少しも引けは取らなかったからです。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、しるしと不思議な業と奇跡です。 パウロは使徒たちに対してかなり強いコンプレックスと対抗意識を持っていたようだ。パウロの活動時期の、12弟子などの働きについては、ほとんど伝えられておらず、不明である。特に、異邦人宣教に限れば、パウロの働きは、あらゆる面で、突出していたのだろう。しかし、同時に、イエスと共にいた弟子ではないことで、一段低く見られていた面もあったのだろう。おそらく、わたしも、そのように見ている。それは、誰が偉いかではなく、イエス自身について、その行動とことばについて、もっと知りたいからだが、パウロは、それがたいせつだとは考えていなかったのだろう。そう考えないことにしていたのか、それは不明だが。難しい。冷静に、公平に見ていきたい。真理に少しでも近づくために。そして神様に愛されているものとして、互いに愛し合い、たいせつにするために。 2Corinthians 13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられるからです。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に生きるのです。 パウロはつねに強く生きる人、だからこそ、弱さについて、12章で書き、この章でも、強さと弱さについて、何度も語っている。そのモチーフのもとで書かれているので、批判的になるのは、いかがなものかと思うが、キリストが、弱さのゆえに十字架につけられたとの表現は、正直なかなか納得できない。さらに、それと同様な表現を使って、「私(パウロ)たち」について語ることには、違和感を感じる。支配関係すら感じてしまう。おそらく、そのような関係が、現代においてすら、教会で根強く存在するからでもあろう。教会は、難しい。主にある交わりでよいと思うのだが、ある人数を越すとやはり組織化が必要なのだろう。 Galatians 1:11,12 きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。 「福音は啓示により受けた」としている。これは、素晴らしいとともに、危険でもある。「啓示」をどのようなものとするかとともに、おそらく、そうとしか言えない状況での信仰告白的な要素が多かったのだろうが。イエスの行動とことばなど、ケファ(ペトロ 19節)からも聞いただろうし、以前から聞いていたこともあっただろう。しかし、パウロが語る福音に行き着いたのは、啓示によるということか。「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。」(4)たしかに、このことばも、イエスの活動とことばとは、深く関係しているものの、それらに根ざしているとは言えないように思う。正直、わたしが受けた福音がそのようなものなのか、また、それでよいのか、疑問が残る。 Galatians 2:16 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。 この章は「その後十四年たってから、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。都に上ったのは、啓示によるものでした。私は、異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に示しました。私が走り、また走ってきたことが無駄だったのかと尋ねたのです。」と始まっている。使徒言行録15章のエルサレム会議のことを言っているのだろう。ここでも「啓示」が登場する。そして、パウロの信じていたこと、走ってきたこと、福音の内容について書いているのが、引用箇所である。たしかに、この内容は、啓示によるとしか言えないのかもしれない。一つの解決方法は、福音はひとつであっても、それぞれのひとにとっての福音は異なりうるということである。しかし問題も生じる。それを自分が受け取った福音とするのは、啓示によるのかということである。直接啓示かなど、整理する必要もあるが、宗教の難しさを感じる。 Galatians 3:1 ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。 「律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」(2:16b)の「律法ではなく」は、理解できる。しかし、「律法によっては、誰も神の前で義とされないことは明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」(11)とある、信仰は、あまりよくわからない。引用句からは「十字架につけられたイエス・キリスト」に希望を抱くことが、救いをもたらす、そのような信仰を伝えているように思われる。しかし、それは、何なのだろうか。ある事実を真理として受け入れるということだろうか。それが、救いや平安とどう関係するのだろうか。パウロが受けた啓示をただ、信じることだろうか。やはり、イエスの言葉にしたがって、イエスを手本に生きてみることのほうに中心があるように見えてしまう。それが、律法の行いの本質であり、それが的外れになってしまっていることが、問題なのではないのだろうか。 Galatians 4:5-7 それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。 引用句の前には「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(4)とある。それだけではなく、神の子として生きることがどういうことか、神の国はすぐそこにあると信じて、生きることはどのような生き方かを示してくださった。さらに、そのように、神の子として生きる生き方に招いてくださったのが、イエス様だと思い、このイエス様についていきたいと願っている。それが、わたしが信じていることである。その背後に、「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊にあることを否定するものではないが、そこから、演繹して「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。」とはいかないと思うし、それをわたしは、望んでいない。謙虚に、生きていくのみである。 Galatians 5:16,17 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。 単に霊肉二元論のような単純化を拒否し批判してはいけないのだろう。しかし「割礼を受けるすべての人に証言しますが、そのような人には律法全体を行う義務があります。」(3)などは、背景を無視した単純化のように見える。愛の故に、割礼を受けるひともいると思われるから。しかし、おそらく、パウロが批判しているのは、そのような人ではないのだろ。字面だけから判断してはいけない。パウロが戦っている現実があるのだろう。批判している相手は、異邦人なのかどうかがまず気になるが、パウロの意図を考えるとそうなのだろう。やはり、割礼も必要なのかもしれないとして、完全な救いを得ようと、割礼を受けている人がいたのかもしれない。パウロは「僅かなパン種が生地全体を膨らませるのです。」(9)と批判するだろうが、そうであっても、そのような人の悩みと苦しみと弱さを受け取るべきだろう。この兄弟のためにも、キリストは死なれたのだから。背景について、もう少しよく考えたい。 Galatians 6:1,2 きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。 割礼に関して「割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。」(16)とも言っているが、前の章での過激なことばと、引用句は、同じパウロから出たものとは思えない。割礼も選択することは「過ち」ではないのだろうか。「愛をもって互いに仕えなさい」(5:13b)と、パウロの批判との整合性がどうしても取れない。あわてず、ゆっくり考えたい。 Ephesians 1:17 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、 感謝のあと、とりなしのいのり、願いが書かれている。とても長い。この訳では、19節の終わりまで一つの文章になっている。なにかとてもありがたいことばには感じるが、一つ一つ見ていくと、そう簡単ではない。引用句は「神を深く知ることができる」が目的で、それは素晴らしいが「知恵と啓示の霊」が与えられるとはどのようなことか、考えてしまう。知恵と霊の関係はどうなっているのだろうか。ヨハネによる福音書にある霊(弁護者、訳によっては助け主、パラクレートス)「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(13)だろうか。理解を助けてくれるものなのか、それとも、新たに、一人ひとりが神について深く知る啓示が与えられるということか。このあとも、ことばは美しいが、正確にはわからない。しかし、このような言い回しがすでに、定着していたのかもしれない。キリスト教会で。すこしずつ理解していきたい。 Ephesians 2:10 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。 この前には、8,9節に行いによってではなく、恵みと信仰により救われたことが書かれている。これを一つの表現として受け取ることは問題がないが、信仰生活、恵みによって生きることを通して、「神の作品として生きることはどのようなことか」を求め続けることに本質があると、わたしは考えている。ある時点でそうなったと理解すると、行き詰まるからである。つまり、プロセスとして恵み、信仰、救いを捉えることだろうか。このような考えは、エフェソの信徒への手紙が書かれたころには、未発達だったが、それが、長い年月を経て、啓示され、または、人々が、少しずつ神を深く知るようになっていると表現して良いのだろうか。そう言い切ってよいかは、心配である。 Ephesians 3:16-19 あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。 とても美しいことばである。このようなことばに魅了されていたときもあった。しかし、いまは、あまりに、具体性を欠くように思う。実際の生活において、これらが何を意味しているのか、人間の社会の具体的な課題に対して、どんなメッセージを送っているのかがよく見えない。たしかに、信仰により、キリストが住んでくださり、わたしたちが、愛について学び、愛に根ざして生きるものとなり、そのなかで、その愛の素晴らしさが、さらに、よく分かるようになったらすばらしい。神秘主義的、観念的なものが受け入れられないのだろうか。さらに、差出人は、パウロとされているが、パウロのことばと結びつかないからだろうか。イエスのことばと生き様ともなかなか結びつかない。そう考えてしまう、わたしに問題があるのだろうか。わたしが過去にそうであったように、これらのことばを感動して受ける人もいるだろうから。 Ephesians 4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。 わたしは、ここでも、悪い言葉を語っているのではないだろうか。探求といいつつ。このようなことばを読んで、学ぶひとが、そして、慰めを受ける人もいるのかもしれない。しかし、その人を造り上げる善い言葉だとは、言えないだろう。そのような、わたしの言葉よりは、エフェソの信徒への手紙のことばのほうがずっと善いように思われる。本当に、これでよいのだろうか。わからない。 2021.11.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  48. BRC 2021 no.048:エフェソの信徒への手紙5章ーテサロニケの信徒への手一紙4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙を読み、エフェソの信徒への手紙に入りました。今週は、そのエフェソの信徒への手紙の最後の章を読み、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙と、テサロニケの信徒への手紙一と読み継ぎます。 速すぎると感じるかたも多いと思います。自分が大切にしていることばを見つけて、そのメッセージを受け取ったときのことを思い出される方もおられるかもしれません。こんなことも書いてあったの、これはどうなのと、いろいろな感想を持っても、すぐ次のトピックそして、次の手紙に移っていく。消化不良を感じられる方もおられるでしょうね。また、それぞれの手紙をゆっくり読むときが持てると良いですね。 当時は、おそらく、町でも、全員が文字を読めたわけでもないでしょうし、ましてや、コピーのようなものはありませんから、それぞれの家にあつまって、だれかが読み、それを聞いたのではないかと思います。写しも作られたかもしれませんが、手紙を受け取って、最初から、一文一文丁寧に読んでいこうとする人はあまりいませんよね。最初から最後まで一気に読むのではないかと思います。二度目、三度目とそのように読む場合はあるかもしれませんが。通読では、速いかもしれませんが、一気に読み通して、それぞれの手紙について、別の見方ができるのではないかと思います。そのころ、それぞれの教会、信徒の集まりにとって、どのようなことが課題だったのか、なにか問題はあったのか、どんな疑問が議論されていたのかなど。今回読む箇所は、多くの場合、相手のことをある程度知って、書いているわけですから、共通知もいろいろとあったでしょうね。残念ながら、それをわたしたちは、ほとんど持っていません。現代に投影するまえに、当時の共通の土台を想像しながら、読むことができると良いですね。 エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙は、獄中から書かれたと記されているので(エフェソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, フィレモン1)、獄中書簡と呼ばれています。位置づけは、パウロの晩年(またはその設定のもとで書かれたパウロ由来)の手紙と考えられます。自由に動けない状況で、手紙はとても大切な手段だったのでしょう。その状況も踏まえて読めるとよいなと思っています、背景などは、下に引用している、リンク先を御覧ください。簡単な説明があります。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エフェソの信徒への手紙5章ーテサロニケの信徒への手一紙4章はみなさんが、明日11月22日(月曜日)から11月28日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙と、テサロニケの信徒への手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エフェソの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ep フィリピの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ph コロサイの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#co テサロニケの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#th1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Ephesians 6:5-7 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人の機嫌をとろうと、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 奴隷制度自体を変更する動きはまだ見えない。これも、当時の社会的状況を考えると、そして、キリスト者がほんの一部だったろうことを考えると、当然に見える。同時に、文字通りの解釈にとどまってはいけないことも、注意を要する。また、被支配民が奴隷となっていたことを考えると、通常、わたしたちが、奴隷として思い浮かべるアメリカの黒人奴隷とは、異なることも、認識すべきである。いつか、奴隷について、その歴史についても学んでみたい。引用句を見ていると、現代社会においても、奴隷のような生活を強いられているひとは、多いように思うからである。背後には、なにが自由か、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、主に仕えるとはどういうことかを知ることなのかもしれない。キリストの奴隷ということばが適切かどうかは不明だが。 Philippians 1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。 3節から5節には私の好きな言葉が書かれている。「私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(3,4)で始まり「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。」(5)までである。その間に挟まっているのが、引用句である。聖書の会の仲間など、いままで共に聖書を読み、真理について語り合った人たちを思い浮かべるのであるが、正直、引用句については、わたしの喜びの内容とズレがある。一般的な意味で、その仲間達が、キリスト教徒とは言えないことではなく、わたしには、「福音にあずかっている」とパウロがいい、そして、キリスト教会で通常信じている内容と、私の受け取り方と異なるからだと思う。もしかすると、そうではなく、パウロのメッセージをうけとったひとたちが、そこにとどまり、聖書の書いてあることだけに、真理があるとして、聖書を読んでいることに違和感があるからなのかもしれない。多くの人達からも、社会状況や、自然・環境からもまなぶことが多くある。その真理探求の営み、歩みこそが、イエス様から学んだことのように思う。キリスト・イエスの日までと、わたしは、言えないが、世界にとっても、そして私にとっては確実に、いつか終わりはある。その日まで、丁寧に生きていきたい。 Philippians 2:3,4 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。 パウロのこのことばは、こころに響く。フィリピの信徒への手紙を書いた頃のパウロが何歳ぐらいかはわからないが、晩年と言われており、パウロが書いたと多くの学者が考えているものの中では、最も遅く書かれたものかもしれない。そのパウロにとって、フィリピの信徒たちは、経済的なことだけでなく、様々な形で支えてくれた、同労者との意識が強かったのだろう。引用句からも、そのような気持ちが読み取れるように思う。真理を求め、真理に生きようとし、共に働き、共に学ぶ、そのようなグループを意識できること、それも、排他的に、このひとたちがとするのではなく、インクルーシブなゆるやかな帰属意識をもって、このことをなしていきたい。このひとたちは、いくらなんでも違うだろうというような、意識をもたず、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、他者の苦しみを理解はできなくても、共に苦しみを持つものとして生きていくことができればと思う。共に喜べると嬉しいな。(17,18) Philippians 3:7-9a しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。 「キリストの内にいる者と認められるため」という最後の部分が気になって、考えてみることにした。このあとには「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」(9b)が続く。キリストの内にいることにより、自分が神から与えられる義、義と認められるものであることが、すべてだと言っているようだ。1か0、または、二元論的な価値観なのだろう。わたしには、神の義をそのようには考えられないが、パウロの必死さも伝わってくる。その前には、損失とみなすようになったことが書かれている。キリストのもとに来るために自分ではどうすることもできない部分であるように思う。それを誇る必要はないだろうが、屑とすることに、違和感を感じる。パウロの巧みな修辞(言葉を効果的に使って,適切に表現すること。また,美しく巧みな言葉で飾って表現すること。rhetoric)なのかもしれないが。背景は多様で、人は平等ではない。しかし、それを知ることを通して、公平さを求める営みをすることがたいせつだと個人的には思っているが、正直、まだよく理解できていないとも感じている。その難しさも、このパウロのことばの背後にあるように思う。 Philippians 4:2,3 私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。 聖書には女性協力者の名前が多いように思う。具体的にどのように奉仕していたのかは、不明である。かえってだからこそ、重要なのかもしれない。日常的に、常に奉仕していた人たちなのだろう。ここには、「命の書に名を記されている」と出てくるが、おそらく、すでに天に召されたひとなのだろう。名前からして、クレメンスは男性だろうが、パウロと共に戦ってくれたと表現している。最初に戻ると「主にあって同じ思いを抱きなさい」とあるが、これは、何らかの懸念材料があったことを示しているのかもしれない。フィリピ教会は「会計を共にしてくれた」(15)と表現されており、実質的な支援が日常的に行われていたのだろう。その尊いはたらきの背後には、同じ思いを抱くことが必ずしも、完全にはいかないことがあったのではないだろうか。それは、当然おこることであるが、それを「主にあって」乗り越える。鍵はなになのだろうか。難しさも感じる。 Colossians 1:14,15 私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。 どの部分からかは明確に言えないが、この14節からか、15節からかに、定型の信仰告白が書かれているようだ。この形で唱えていたのだろうか。御子について書かれているが、引用句では、この御子において贖い、罪の赦しを得ていることがまず書かれ、御子は、見えない神のかたちだとしている。信仰告白で、真理なのかもしれないが、正直、そこに、自分自身を委ねることには、躊躇も感じる。生身の人間の日常生活から、その痛み、辛さ、悲しみ、そして喜びから、離れてしまうように思うからだろうか。おそらく、それは、自分のこととともに、イエスの地上の生活からも、離れてしまうように思うからもあるだろう。見えない神のかたちを表してくださったのなら、イエスの生涯、ことばや活動から、学ぶことは当然のように、思えるのだが。当時は、それを知る手立てが、とても限られていたということだろうか。当初は、すくなくとも、十二弟子は、エルサレムまたはパレスチナに留まっていたように思われるから。正直、わたしにとって、大きな謎である。 Colossians 2:6,7 あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。 「キリストにあって、キリストの内に、その上に」と、キリスト教会でも、よく使われる言い回しが、ここにある。今回は、当時、このことはどのように、解釈され、実践されていたのかということである。このあとには「空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。」(8a)と続くので、教義、キリスト論を意味しているように、思われる。この章の最後には「このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。」(23)節制のようなことで、信心深そうな生き方をすることではないとしていたのだろうが、実質は理解されていたのだろうか。それは、わたしにとっても、難しい問いで、そこを離れては、単なることば、教義に留まってしまうように思うからでもある。また考えてみたい。 Colossians 3:5 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。 当時のキリスト者の目指したものが見えてくるように感じる。そして、それは、現代のキリスト者にも、すべての教派ではないかもしれないが、引き継がれているように思う。おそらく、わたしも、地上の体に属するものを相対化している。これらを、殺してはいないが。コロサイの信徒への手紙の著者がパウロかどうかは、見解が分かれているようである。おそらく、真筆ではないと主張するほうが多いのだろう。内容からは、パウロと直接結びつけることは難しいのかもしれない。上に述べた、キリスト教文化と言われるものについては、美しいことばが多く、わたしが好んで引用するものも多い。教義より、実際に、キリスト者が何をたいせつに生きてきたかなのだろう。その意味では「貪欲は偶像礼拝」と言い切っているところは潔い反面、排除が働く可能性もあり、課題も感じる。 Colossians 4:9,10 あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモも一緒に行かせます。こちらの事情はすべて、彼らが知らせてくれるでしょう。私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。 オネシモは、フィレモンへの手紙に現れる奴隷で、獄中で信仰をもった人である。本書とフィレモンの手紙の近さが現れているとも取れる。マルコについては、判断が難しい。使徒言行録15章36-40節にあるように、バルナバと別行動を取ることになった起因として書かれている。使徒言行録が書かれた時点でも、そのことは、忘れることができない重要な要素だったのだろう。すると、コロサイ書の記述は、それより、だいぶん後ということになるが、コロサイ書は、獄中書簡ということもあり、その可能性は薄いように思う。さらに、マルコは、ペトロの通訳であったことが、記録されており、パウロとの関係は強くなかったと思われる。少し後の時代に書かれ、マルコの名を、いれることが重要だったと勘ぐってしまうが、それも特に根拠があるわけではない。パウロは、マルコによる福音書を読んだ、もしくは内容を知っていたのだろうか。 1Thessalonians 1:9-10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。 テサロニケ宣教については、使徒言行録17章1節9節に書かれており、マケドニアでフィリピの次の宣教地で、ここでも、トラブルがあったことが記されている。また、新約聖書の中で最も早く書かれたと考えられている。「信仰」(8)の中身が引用箇所に書かれていると考えて良いだろう。3節には信仰・愛・希望(1Cor 13:13 参照)について書かれているが、全体的に、希望が中心にあるように思われる。希望の内容がどうであれ、やはり信仰の中心には、希望があるように思われる。どのようにしても、解決し得ない理不尽さ、不自由さがこの世にはあり、その中にあっても、希望を持ち続ける拠り所としての信仰という面が最後に残るように、思うからである。希望の内容の表現は、少しずつひとによって異なるかもしれない。その人が置かれている状況にも依存するのだから。わたしはそれをどのように表現するだろうか。 1Thessalonians 2:7,8 私たちはキリストの使徒として重んじられることができたのですが、むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました。母親がその子どもを慈しみ育てるように、あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです。 「幼子のように」が気になったが、今回読んでいる聖書協会共同訳には「異」(その他の写本)「優しく振る舞った」と注にある。ここには、他に、「母親がその子どもを慈しみ育てるように」が登場し「父親が子どもに対するように」(11)も登場する。パウロが、人として、できる限りのことをしようとしたことが伝わってくる、おそらく、それは同行している、シルワノとテモテにも強烈に伝わったことだろう。人間臭さも感じられるが、それがパウロのできる限りのことであり、尊い働きだと思う。それがどのように用いられるかは、主に委ねることなのだろうが。「この神の言葉は、信じているあなたがたの内に今も働いているのです。」(13b)にも表現されていることかもしれない。 1Thessalonians 3:6 ところが、今テモテがあなたがたのもとから私たちのところに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、良い知らせをもたらしました。また、あなたがたがいつも私たちのことを良く思っていて、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっていると伝えてくれました。 ここにも、信仰と愛が書かれており、後半には、お互いの希望について述べている。パウロにとっては、これら三つはこの手紙を書いた時点で「いつまでも残るもの」(1Cor 13:13)だったかどうかはわからないが、つねに意識していたように思われる。この章の終わりの方(10-13節)に、パウロの希望・祈りが書かれている。そして「私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。」(12)とある。わたしの、希望、祈りはなんだろうか。おそらく、それなしには信仰はなく、それが愛に結びついていなければ、虚しいものなのだろう。 1Thessalonians 4:16-18 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。 「生き残っている私たち」とあり、パウロは、明らかに、自分の生きている間、つまり、ほどなく、このことが起こると信じていたようである。そうではなく、あまりに、厳しい迫害にあったり、信仰を持ったがゆえに、トラブルに巻き込まれている人たちに、希望を持ってもらうために、すぐ起こるかのように伝えていたのだろうか。引用箇所は、あまりにも、リアルにかかれている。おそらく、イエスが伝えたことではなく、パウロが啓示として受け取ったことなのだろう。すくなくとも、その時代には起こらなかったことをみると、すこし危うさも感じる。 2021.11.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  49. BRC 2021 no.049:テサロニケの信徒への手紙一5章ーテモテへの手紙二4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の章を読み、テサロニケの信徒への手紙二、テモテへの手紙一と、テモテへの手紙二を読みます。 前回も書きましたが、読み進めるスピードが速すぎると感じるかたも多いと思いますが、手紙を受け取った人が最初に読むような気持ちで、読んでいただければと思います。 テサロニケの信徒への手紙一には、主が来られることが書かれ、主の日について今週読む5章に書いてあります。かなり具体的に、イエス・キリストの再臨と呼ばれることが書かれており、それが差し迫ったこととして描写されていますから、それから2000年近くすぎた今読むと、ちょっと違和感を感じるかもしれません。反対や迫害が多い中で、日常的に希望を抱くとともに、やはりその終わりに希望を見出す励ましという面もあったのかもしれません。苦しさは、終わりが見えていれば、希望を失わず、耐えることはできますよね。しかし、その弊害もあり、テサロニケの信徒への手紙二では、そのいくつかをとりあげて、注意をしているのかなと今回読んでいて感じました。 テモテへの手紙一・二、そのあとの、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙は、パウロ由来の、牧会書簡とも呼ばれます。個人にあてた手紙の形式になっています。パウロの同労者です。テモテやテトスは、使徒言行録にも登場しましたから、覚えているかたもおられると思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エフェソの信徒への手紙5章ーテサロニケの信徒への手一紙4章はみなさんが、明日11月29日(月曜日)から12月5日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一・二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テサロニケの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#th1 テサロニケの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#th2 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ti1 テモテへの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ti2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 1Thessalonians 5:23,24 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。 前章の最後にすでに眠りについた人たちについて述べてから、主の再臨のことを書き始めているが、かなり具体的な表現をしている箇所があるものの、パウロも、そこに本質がないことを感じていたのではないかと今回読んでいて思った。引用箇所は、通常、聖化と呼ばれる場所であるが、本質は、お招きくださった主を信頼して、霊と心と体(すべて)において、神に喜ばれるものとなっていくこと、そのような日常を送ることを勧め、願っているように思ったからだ。厳しい迫害下では、その苦しさから開放されるときの現実味が、たいせつだったのだろう。本質を見失わないようにしたい。 2Thessalonians 1:3 きょうだいたち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがた一同の間で、互いに対する一人一人の愛が豊かになっているからです。 最も基本的なこととして書かれているのが「信仰」と「互いに対する一人一人の愛」である。「私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。」(1Thess 3:12, 参照:1Thess 4:9)他にもテサロニケの信徒への手紙一には「互いに」ということばが多い。(1Thess 4:18, 5:11, 13, 15)ここでは、「互いに対する一人一人の愛」である。最近「互いに」に注目して考えることが多いのは、自分の努力だけではできないからである。そして、多くの場合、自分は問題ないと考えることから紛争が起こるからである。「互いの愛とすべての人への愛」も素晴らしいが、ここでは「互いに対する一人一人の愛」である。実際には「豊かになっている」という言葉が暗に示すように、そうではない、十分ではない現実があるのだろう。それが当然にも思える。しかし、そこにこそ目を向けたい。これこそが「あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいことの証拠です。」(5) 2Thessalonians 2:4,5 この者は、神と呼ばれたり拝まれたりするものすべてに反抗して高ぶり、神の神殿に座り、自分こそ神であると宣言します。私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことを繰り返し話していたのを覚えていないのですか。 テサロニケ第二はパウロの真筆性に議論があるようだが、それは、置いておいても、再臨の教えが、混乱を招いており、火消しを余儀なくされていることが見て取れる。再臨を否定するものではないが、パウロの宣教において、反対・迫害が多い中で、命の危険もあり、再臨信仰を中心的なものとして伝えたことの弊害であるとも思う。揺らぐひとたちが多い中で、仕方がなかったように思う。ひとの為せる業の難しさで、わたしも、同様の経験をたくさん持っている。御心だけを求めることがどれほど難しいことか。 2Thessalonians 3:11,12 ところが、聞くところでは、あなたがたの中には、怠惰な生活を送り、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、主イエス・キリストにあって命じ、勧めます。落ち着いて働き、自分で得たパンを食べなさい。 再臨信仰を強調したことの二つ目の弊害が、これだったように思う。つまり、再臨が近いということから、日常生活が乱れることである。しっかりとした信仰をもっているひとにとっては、問題ではないことが、信仰が広まっていくと、そうはいかない。ある人数を超えると困難の種類が増えるひとつの例かもしれない。普遍性(universality)や、ひとりも取り残さない、すべてのひとをという Inclusive はすばらしい。しかし、同時に、とても、難しいことを背負い込んでいることを忘れてはいけない。学ぶことが多い。 1Timothy 1:6,7 ある人々はこれらのものからそれて、空論に走り、律法の教師でありたいと思いながら、自分の言っていることも、何を主張しているのかも分かっていないのです。 「これらのもの」は「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」(5)だろうか、または、「信仰による神の計画を実現させるもの」(4)だろうか。しかし、わたしも、律法、神の御心について、正直よくわかっていない。このあとに「律法は、正しい者のためにあるのではなく」(9)とあるが、それなら、聖書を熱心に読むことはなくなる。テモテへの手紙一には、いくつも、好きな聖句があるが、それほど単純ではないのかもしれない。しっかり読んでいきたい。 1Timothy 2:1,2 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。 「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。」(ロマの信徒への手紙13章1節)を思い出す。しかし、意図が必ずしも同じだとは思えない。ローマの信徒への手紙では、世の中の構造について述べているが、ここでは「私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るため」としている。わたしは、どちらも、完全には、受け入れられないが、特に、テモテへの手紙のほうは、社会の喧騒から離れて、信仰的な生活を送ることを目指しているようで、問題があると思う。しかし、当時の状況は、それほど容易いものではなかったのだろう。権力の問題は、難しい。しかし、日常的な課題でもある。信仰と政治、そして、日々の生活における命の営み。しっかり考えていきたい。 1Timothy 3:2 ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり、冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。 8節からは「奉仕者」について書かれている。当時の教会で、求められていたリーダーとしての資質が書かれている。教会制度が整ってきているとともに、課題も噴出していたのだろう。結婚については、当時と今とで社会的状況がことなるので、単純に理解することは問題があるが、他の性質はどうだろうか。イエスが、招いた人たちとは、少し違っているように思われる。維持には、必要とすることはできるが、教会はつねに、混乱を引き受けなければならないところのように思う。同時に、リーダーシップはとても大切であることは確かだが。 1Timothy 4:4,5 神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされるからです。 「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」(使徒言行録10章15節)を思い出す。コルネリウスに会いに行くまえにペトロに示された言葉である。ここでは「神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされる」としている。なぜ「執り成しの祈り」がはいっているのだろうか。「結婚を禁じたり、食べ物を断つよう命じたりします」(3a)からつながっている。コミュニティでの営みが常に大切にされたということだろうか。「この偽りを語る者たちは、自分の良心に焼き印を押されており」(2b)も含め、よくわからない。 1Timothy 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、 良い行いによって認められている人でなければなりません。子を育て上げたとか、旅人をもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善行に励んだ者でなければなりません。 福祉の概念が未発達で、かつ、共同体が財政的にも苦しかったろうと考えると、批判することはできないが、当時から、様々な問題があったことが推測できる。もしかすると、この程度の対応で、良かったのかもしれない。規模はつねに重要な課題なので。しかし、苦しんでいるひと、悲しみを背負っている人を受け入れ、仕え合い、互いに愛し合うことは、別途できていたと信じたい。文字で書かれた聖書を絶対化することの、課題は多い。 1Timothy 6:1 軛の下にある奴隷は皆、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは、神の御名と教えとが冒瀆されないためです。 たいせつな教えだったのだろう。しかし、同時に、奴隷制度は、いけないとして、戦い、ある場合には、死んでいったひとたちの、愛の大きさも感じる。そして、その時代にも、この聖句を上げて、奴隷制度反対に対して、聖書には、こう書いてあると唱えた宗教家もいるだろう。おそらく、今の時代にも同様なことはある。たいせつなのは、神の御心を求め続けること。聖書のことばであっても、絶対化せず、互いに愛し合う道を探ることだろうか。少しずつ、整理していきたい。 2Timothy 1:6-8 こういうわけで、私はあなたに注意したいのです。私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください。 テモテへの手紙二は不思議な手紙である。パウロの真筆説が薄いが、パウロと、テモテの関係とともに、他にも具体的な名前が含まれている。しかし、引用箇所を読むと、なにか、受信者(テモテ)は、何からの信仰的危機にあるように伺える。ここからは、想像でしかないが、テモテが過去に、おそらく、パウロが囚われている頃に、無気力になり、大胆に働くことがなかった時期があったのかもしれない。そして、同様なことが、この手紙のころにも起きている。そして、この手紙を書いている人は、そのようなネガティブなことを持ち出すだけの、力があった人なのだろうということである。ゆっくり読んでみたい。 2Timothy 2:22,23 若い頃の情欲を避け、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。 昔、若かった頃は「そのとおり」と思って読んでいたが、これは、無理なことを求め、若者の危なっかしいが、素晴らしい部分をそいでいるようにもいまは感じている。情欲はエネルギー源であるとともに、このことを通して多くのことを学ぶことも確かである。そして、苦い経験も。同時に、そのようなときに、「正義と信仰と愛と平和を追い求め」ることも、素晴らしいことだと思う。愚かな議論と言っているが、たしかにあとになってみれば、愚かだと思うことも多いが、そこを通って初めて、愚かさがわかるのではないだろうか。そして、大人も、やはり愚かである。殻を打ち破る力は、若い頃のほうが強いように思う。なにをわたしは書こうとしているのだろうか。おそらく、わたしは、若い人に、もう少し違った関係の持ち方をしたいということなのだろう。考えさせられることは多い。 2Timothy 3:15-17 また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。 聖書については、この箇所が引用される事が多い。私も、幼い頃から日々の聖句カレンダー、日曜学校などで、聖書のことばに親しんできた。そして、たしかに、神様の御心、真理の緒(いとぐち)を与え続けてくれたように思う。教派による解釈の違いはあるが、聖書を書いた人たちが、神の御心を求め、祈り、これこそ、神が言われていることだと確信したことを、書き、それを、神様も良しとされていると考えている。私が、祈り、探究的に聖書を読んでいるのと同じように。これなしには、私の一日一日は、整えられないとも思う。ここに書かれた言葉のとおりであるが、それが教義となり、そこから演繹が始まると、途端に拒否感を感じてしまう。探究的ではなくなるからだろう。探究的とは、自分はまだほとんど神様からのメッセージを受け取っていないという告白でもある。わざとらしい謙遜ではなく。本当に、わからないのだから。そしてそのもとで生きていくことが信仰生活ではないかと思う。 2Timothy 4:16 私の最初の弁明の際には、誰も助けてくれず、皆私を見捨てました。どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。 「私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。」(6)などから見ると、パウロの最晩年の記述になっていると考えて良いだろう。すでに亡くなっているかもしれないが。するとこの「最初の弁明」は何を意味するのだろうか。使徒言行録を見る限り、パウロは何度も法廷弁明をしている。おそらく、その最初ではなく、ローマでの最初の弁明ではないだろうか。状況は、推測しかできないが、パウロが望んでいた状況ではなかったことはうかがい知ることができる。「ルカだけが私のところにいます。」(11a)は興味深い。ルカは、おそらく、使徒言行録の終わりよりも先まで書くことができたのだろう。しかし、書かなかった。とても、興味深い証言である。 2021.11.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  50. BRC 2021 no.050:テトスへの手紙1章ーヘブライ人への手紙10章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、テトスへの手紙から読み始め、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙の前半を読みます。 テトスについては、すでに何回か登場しましたから覚えたおられる方もいるかも知れません。ガラテヤの信徒への手紙2章1節から3節によると、ギリシャ人で信徒になったひとで、パウロに同行して、エルサレムにも行ったことがある人のようです。また、コリントの信徒への手紙二などを見ると、パウロの良き同労者だったこともわかります。この書についても、パウロが書いた確証はないようで、たしかに中身を読むと、ちょっと時代的に後なのかなとも思いますが、この通読の会では、これまでのように、パウロ由来の手紙としておきます。 フィレモンへの手紙は、パウロが書いたと多くの学者が考えているようですが、一章しかない、短い手紙で、かつ、フィレモンにオネシモという奴隷を送り返すときの手紙のようで、その意味で、特別な意味を持つ私信と言えるでしょう。パウロは、フィレモンや、オネシモについてどんなことを書いているのでしょうか。 ヘブライ人への手紙は、前半と後半で様子が異なりますが、今週みなさんが読まれるのは前半です。また、最後は挨拶文で手紙の形式になっていますが、他の手紙とことなり、最初には、だれが書いたかなどの情報がありません。ユダヤ教についてよく知っているひとたちに向けて語られています。パウロの説明の方法とは異なるようですが、著者については、推測しかできません。ユダヤ教の神殿や祭司職について実感がわかないと理解し難いようにも思いますが、みなさんは、どうでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 テトスへの手紙1章ーヘブライ人への手紙10章はみなさんが、明日12月6日(月曜日)から12月12日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テトスへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#tt フィレモンへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pl ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#he 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Titus 1:1,2 神の僕、イエス・キリストの使徒、パウロから――私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、敬虔にふさわしい真理の認識へと導くためです。それは、永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 書き出しは、他の書簡とはかなり異なる。他の使徒などのメッセージとの関係もあるようで、興味深い。すでに、いくつかの教えが、統合されていっていたのかもしれない。「永遠の命の希望」という言葉はここだけだが、パウロの影響が強いのかもしれない。「こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。」(ローマの信徒への手紙5章21節)テトスは、クレタに行っていたことがあるのだろう。 Titus 2:12,13 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教え、また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 伝えたいことが迫ってくる。「慎み深く、正しく、敬虔に生きる」ことをもって「私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」として、再臨信仰の表現の仕方が修正されているように思われる。テサロニケの信徒への手紙一・二の時代を経て、教会の中で、集約されていった一つの方向性なのかもしれない。そう考えると、興味深い。 Titus 3:1,2 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権力者に服し、これに従い、あらゆる善い行いをするよう心がけなさい。また、誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。 当時は、これが大切だったのかもしれない。これこそが証だったのだろう。ローマの支配の中で、階級があり、貧富の差も大きく、小さな反乱などはあったろう。いずれ、学んでみたい。現代での状況を考えては、いけないのだろう。しかし、ここに書かれていることは、なにも悪いことはない。基本的な姿勢としては、これこそが、神の恵みと憐れみのもとに生きるものの日々の生活なのかもしれない。 Philemon 1:15,16 彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、恐らく、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。オネシモは、とりわけ私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 美しい言葉である。奴隷以上の者。愛する兄弟。永久に取り戻すため。単なる、普遍化、普遍的な愛を考えるのは、適切ではないのだろう。もう少し、丁寧に、この言葉とその背後にある、愛とを味わいたい。背後に、十分な信頼関係もあるのだろう。 Hebrews 1:3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。 わたしには、ひとつの信仰告白、真理の一断面としか告白できない。根拠を求めるとすると、啓示としか言えないからである。しかし、わたしも「神は、終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。」(2)と信じている。今回、もう一つ気づいたのは、引用句に続いて「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。」(4)とあり「天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。」(14)とつながっている。天使がリアルな存在だったのだろう。神から遣わされた者と取ると、神の特別な働きをする者とは、御子は異なるとしているとも言え、それは、わたしの信じるところと一致している。その意味では、ヘブライ人への手紙の記者はわたしにとって「天使」である。そしてパウロも。 Hebrews 2:2,3 天使たちを通して語られた言葉が確かなものとなり、あらゆる違反や不従順が当然の報いを受けたとすれば、私たちは、これほど大きな救いをないがしろにして、どうして報いを逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々が私たちに確かなものとして示しました。 ここでは「天使たちを通して語られた言葉」と「主が最初に語られ」「それを聞いた人々が示した」となっている。主は置くとして、「天使」と「主から聞いた人々」が並置されている。わたしも、とても似た印象を持っている。それで良いように思う。 Hebrews 3:13 あなたがたのうち誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。 罪と書かれていて、そこに限定することに抵抗があるが、日々励まし合うことには、共感する。それが、希望となり、あらたなダイナミズムを生み出すのではないかと思う。では、何について、どう励ますのかは、難しい。相手の状態を理解することは、基本的に難しいから。同じ弱い、完璧にはできない状態であること、的外れで、修正が必要な存在だということを、共有することだとすると「罪に惑わされないよう」は、ピッタリしているのかもしれない。 Hebrews 4:3,4 信じた私たちは、この安息に入ります。こう言われているとおりです。/「私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは決して私の安息に入ることはない。』」もっとも、天地創造の時に、神の業は終わっています。なぜなら、ある箇所で七日目について、「神は七日目に、そのすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。 このあとに、このゆえに、「安息に入る機会は人々に残されている。」(6)論理がとても、飛躍しているように見える。天地創造のときに、神に技が終わっているとも、思えないし、わたしたちの安息を、ここに結びつけることも無理があるように思われる。一つの解釈なのだろう。安息を、神の安息と結びつけ、この箇所に至ったのだろう。それは、理解できるように思う。 Hebrews 5:7 キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 「人として生きておられたとき」のことを根拠にしており、パウロ神学とは明らかに異なる。このあとには「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。」(8)「メルキゼデクに連なる大祭司」(10)はこの著者の神学で「このことについては、話すことがたくさんありますが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」(11)とあるので、もっと詳しく聞かないとわからないが、個人的には、やはり人間的な解釈のように思う。否定しようがないものが、福音書を通して、わたしたちにも届いている、引用句の「深く嘆き、涙を流し」の部分のように思う。この嘆きと悲しみは「弱さ」(3 等)とも言えるが、神様の嘆きとの同調とも言えるように思う。自分の弱さではなく、この世の様々な混乱、理不尽さ、互いに愛することができない、難しさだろうか。 Hebrews 6:14,15 「私は必ずあなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。 アブラハムは約束のものを得たのだろうか。おそらく、完全な形ではなく、その一部を得ることにより、希望の信仰のうちに死んだのではないだろうか。祝福、希望の約束は、神様の御心、平安につながるもので、いろいろな形で表現されても、それを通して、神様との交わりのうちの完全な平安を得るものなのではないかと思う。そして、それは、この世では得られないが、その一部を受け取ることによって、その素晴らしさをも、味わうことができるのではないだろうか。 Hebrews 7:16,17 この方は、肉の戒めの律法によらず、朽ちることのない命の力によって祭司となられたのです。こう証しされています。/「あなたこそ永遠に/メルキゼデクに連なる祭司である。」 メルキゼデクについては、創世記14章18-20節にアブラハムを祝福したサレムの王、祭司と、短く記されているだけである。「メルキゼデク」で検索すると、ヘブライ人への手紙以外ではもう一箇所、引用箇所の元となっている「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110篇4節)がある。これだけである。律法と祭司職という、モーセとアロンを起源とする、ユダヤ教の根幹について、論じていて、ユダヤ教信徒にとっては大切な箇所なのだろう。しかし、聖書の解釈としては、ひとつの見方でしかなく、霊感によるとして、「聖書は誤りなき神のことば」と告白することの内容は、不安定な解釈に則り、根拠は脆弱であると思う。ひとりの信仰者が受け取ったことの証言とすればなにも問題はない。すばらしい、一つの奨励である。聖書をどのように理解するかはとても、難しい。 Hebrews 8:8 しかし、神は彼らを責めて、こう言われました。/「『その日が来る。/私はイスラエルの家、およびユダの家と/新しい契約を結ぶ』と/主は言われる。 12節まで続く引用は、エレミヤ書31章31-34節からのもので、聖書協会共同訳では、微妙に異なる部分もあるが、日本語で使用されていることばも、とても近いものになっている。ヘブライ人への手紙の写本については勉強したことがないが、すくなくとも、我々が手にしているものはギリシャ語で書かれ、エレミヤ書は、ヘブライ語であるので、訳を合わせたのかもしれない。ヘブライ人への手紙の記者は、エレミヤ書を引用することができたのだろう。もしかすると、ユダヤ教の十分な訓練をうけていたのかもしれない。引用箇所の「新しい契約」は印象的である。特に最後の部分「彼らは、自分の同胞や兄弟の間で/「主を知れ」と言って教え合うことはない。/小さな者から大きな者に至るまで/彼らは皆、私を知るからである。私は彼らの不正を赦し/もはや彼らの罪を思い起こすことはない。』」(11,12)は、エレミヤ書を読んでいても、立ち止まる箇所である。しかし、正直、キリストによってこれが成就したとは、わたしには言えない。主を知ることには、もっともっと長い道のりがあると思う。 Hebrews 9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。 「多くの人」と表現されていることと、再臨が「ご自分を待ち望んでいる人々に救いをもたらすため」と書かれている。キリストの贖罪と、再臨信仰が、少し違った形で表現されていて興味深い。ヘブライ人への手紙では、神殿のことなどと結びつけて語られる部分が多く、おそらく、異邦人には、理解し難いことだったろう。ユダヤ教からキリスト者となったひとへのメッセージであることは確かだが、ユダヤ教にとどまっている人たちにも響いたのかは不明である。伝えることは難しい。特にユダヤ教の共同体の背後には、文化といってもよいような考え方が、複雑に絡み合っていただろうから。それは、日本人のように、他の文化のもとに、育ってきたひとにとっても同じなのだろう。 Hebrews 10:19-21 それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。さらに、私たちには神の家を治める偉大な祭司がおられるのですから、 ここではイエスの肉を、神殿の垂れ幕としている。「さらに」のあとにつづく「偉大な祭司」は、イエスだと思うが、他のとり方もあるかもしれない。また「新しい生ける道を私たちのために開いてくださった」も興味を持つ。このあとに「信頼しきって、真心から神に近づこう」(22)「希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう」(23)「互いに愛と前項に励むように心がけ」(24)「互いに励まし合いましょう」(25)が、その「新しい生ける道」なのだろうか。引用句における論理的つながりは明確ではないが、素晴らしい表現である。「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(25b)としている。これも、論理的な説明はないが、それが、希望をもって生きる新しい道であれば、そのように生きたい。ただ、実際の課題を前にすると、やはり地上でのイエスの活動から学ぶことが中心であるように思う。 2021.12.5 鈴木寛 ホームページ: 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  51. BRC 2021 no.051:ヘブライ人への手紙11章ーペトロの手紙二1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヘブライ人への手紙の後半を読み、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、そして、ペトロの手紙二の最初の章までを読みます。 「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。」(へプライ人への手紙11章1節)今年は、聖書協会共同訳を読んでおり、このことばもその訳ですが、今回の通読ではこの箇所に衝撃を受けました。何度も読み、何度も考えてきた箇所ではありますが、訳が変わるだけで、印象や、そこから考える内容も、大きく変化するのだなと思いました。ヘブライ人への手紙は、この少し前から、内容が変化しています。ユダヤ教と強く結びつけて書かれている前半とはことなり、後半は、わたしは少し読みやすく感じる部分でもあります。 ヤコブの手紙は、イエスの兄弟ヤコブ由来の手紙とされ、ペトロの手紙一・二は、イエスの十二弟子の一人ペトロ由来の手紙とされています。イエスの近親者やイエスと共に歩んだ十二弟子などが、もっとたくさん証言を書いてくれていたらよかったのにと、考えることが時々ありますが、それぞれが受け取ったこと、受け継いできたことが書かれているということが大切なのかもしれないなと最近思うようになっています。みなさんは、何を受け取り、何を受け継いで行かれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヘブライ人への手紙11章ーペトロの手紙二1章はみなさんが、明日12月13日(月曜日)から12月19日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一・ペトロの手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#he ヤコブの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jc ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pt1 ペトロの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pt2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Hebrews 11:1 信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。 "Ἔστιν δὲ πίστις ἐλπιζομένων ὑπόστασις, πραγμάτων ἔλεγχος οὐ βλεπομένων." (academic-bible.com) 「実質(ὑπόστασις: 1. a setting or placing under, 2. that which has foundation, is firm)」「確証する(ἔλεγχος: 1. a proof, that by which a thing is proved or tested, 2. conviction)」訳に少し驚いた。しかし、これで良いのだろう。私が暗唱していたのは長く親しんでいた口語訳「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」このあとに「昔の人たちは信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(2,3)とあり、そのあとに、例示が始まる。特に「望んでいる事柄の実質」は、印象的な言葉である。例を見ながら、このことを一つひとつ考えていきたい。私なら「望んでいる事柄の表現」ぐらいにしか告白できない。「信仰」にこそ実質があるとの主張なのだろうか。いつか、ゆっくり考えてみたい。 Hebrews 12:2 信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。 このあとには「あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。」(3)と続く。パウロは、イエスに倣うことを説かないが、ヘブライ人への手紙記者は、イエスの地上での生涯「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた」ことを取り上げている。しかし、私なら、イエスの生涯をこのような部分の表現には、使わないように思う。引用句にもどって「信仰の導き手であり、完成者」は、「神の子として生きること」「神の国(神様の支配、神様自身)がすぐそこにあるとの信仰をもって、課題に見えることを通して神の働きを見ること」と、最近わたしは、表現しているが、「望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの」(11:1)の表現としてもよいのかもしれない。 Hebrews 13:5,6 金に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神ご自身、「私は決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、私たちは、はばからずにこう言うことができます。/「主は私の助け。私は恐れない。/人間が私に何をなしえようか。」 とてもわかり易い、奨励の言葉である。ヘブライ人への手紙は、10章18節あたりまでだろうか、ユダヤ教の背景のもとでの、解釈が続く。この章にも多少は登場するが、10章19節以降の奨励は、素直に受け入れられる部分が多い。(根拠をもった論理的)正しさは、多くの条件のもとで語られる。この場合は、ユダヤ教の背景である。しかし、神様の御心として大切なことは、普遍性のあることのように思う。引用句では、「主は私の助け。私は恐れない。/人間が私に何をなしえようか。」を単なる教義や引用(詩篇118篇6節)としてではなく、非常に具体的な、実質をともなった日常的な信仰告白へと導いている。こちらは、恵みの言葉であるとともに、根拠は、明確ではないのかもしれない。 James 1:25 しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。」(22)は、信仰義認と比較されるが、実際に御言葉を行い、生きてみることの大切さが、語られている言葉だと思う。このあとには、「御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は、自分の生まれつきの顔を鏡で映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。」(23,24)とあるが、まさに、学習は、実際に行い、それを、修正し、少しずつ、長い時間をかけて理解していく過程なのだろう。神のことばは、一瞬にして理解できるものではない。信仰義認なども、ひとつの信仰告白なのだろう。その背後にあるもの、パウロなどは、ユダヤ教の背景・学びの上で、特別な経験や、おそらく啓示を通して、得たことだろうが、他の人が、同様なことを告白することを、ことばなどで、説得されることではできない。わたしも、行う人になりたい。むろん、完全に行うことはできない。しかし、それを経験し、自らの姿を鏡で確認しながら、少しずつ修正していきたいものである。 James 2:14 私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。 わたしは、基本的に、ヤコブの手紙を支持しているが、この節のようなことが独り歩きすると、やはり裁きに至ることは、確実だろう。ここには「役に立つか」「人を救うか」との判断が書かれている。価値あるものとするのは、神が喜ばれるかどうかで、これらの基準ではないことをこころに留めるべきである。そして、さらに、なにが神に喜ばれるか、わたしたちには、明確には、わからない。それを、これらの条件に置き換えることは慎みたい。しかし、全くわからないわけではない。特に、これは、神様は喜ばれないだろうということは、ある程度わかるように思う。でも、やはり難しい。 James 3:18 義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。 正確にはわからないが、響きの良い言葉である。義は、神様のみこころだろう。神様の御旨がなるのは、とも読めるかもしれない。その一つの特徴が書かれている。すなわち「平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれ」れば、それが義の実、神様のみこころにかなったこととは言えないが、神様のみこころは、このようにしてなるということである。平和も、正確にはよくわからないが、平和ではない状態はわかるように思う。平和をもたらすものでありたい。 James 4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。 仏教の「煩悩を滅すること」を思い出す。一度、ゆっくり学んでみたいと思った。今までは、似た教えに出会うと、それと、聖書は何が違うか、何が優れているかを考えていた。もしかすると、近い真理をいっている場合もあると思った。ただ、この箇所は、前の章の最後「義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。」(3章18節)とつながっている。おそらく、真剣に考えないと、解決不可能なことが多いのだろう。その中で、これかもしれないということに突き進んでいく。このあとには「求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。」(3)ともある。それは、たしかにあるだろうが、「神に背く者たち、世の友となることは神の敵となることだと知らないのですか。世の友になろうとする者は、自らを神の敵とするのです。」(4)には疑義もある。やはり、難しい。仏教には答えがあるのだろうか。おそらく、聖書と同じくヒントはあっても、解決策があるわけではないのだろう。難しい。 James 5:7 それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。 待つことがひつようなことは多い。そしてそれが難しいことも多い。特に、いつまで待てばよいかわからない場合である。主が来られるときまでと、言えば、それは、終わりを仮定している。それも、速やかにこのことが起こると信じることは、救いでもある。しかし、これを疑い始めると、実際には、難しい。やはり、忍耐はそう簡単ではない。ここでは「農夫」があげられている。わたしが、ほとんど、経験していないことを農夫は知っているのだろう。それも、求めてみたい。 1Peter 1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 この兄弟愛はなにを意味するのだろうか。ここでは、「きょうだい」とはせず「兄弟」としている。「姉妹愛」がことばとして一般的ではないなら、「きょうだいの間の愛」とすることも可能だったはずである。それよりも、清めと、限定的な範囲の愛について、語っているようで気になった。いろいろな背景があるのだろうが、以前のように、素直には読めなくなっていることは確かである。 1Peter 2:23,24 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。 これがキリストにおいて、なぜ、成立するのかは、啓示以外にないように思う。このあとにも、多くのキリスト者が殉教している。それと何が違うのだろうか。それは、イエスを神の子とするからだろう。しかし、そこもすでに、信仰告白であり、イエス自身がそれを、どう考えたいたかも明確とは言えない。イエスは、何を望んでいたのだろうか。単純に、わたしたちが、神のみこころに生きること、そのような生き方を示してくださったのではないだろうか。それでは、宗教にはならないということだろうか。難しい。 1Peter 3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです。 このあとには、キリストの受苦「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。」(18)について書かれている。正直、よくわからなくなっているが、なにが「神の御心による」のかは、普遍的な判断基準はないように思われる。信仰の問題だろうか、しかし、それを共有できるかは、どう考えたら良いのだろうか。ここで内と外、帰属と帰属しないものの線が引かれるのだろうか。わからない。 1Peter 4:12,13 愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。 むずかしい。「キリストの苦しみ」なのかをどう判定するかもだが、この論理も、根拠はほとんどない。キリストのように生きること、愛すること、苦しむこと、死ぬことが、共有されていなければならないが、それが難しい。信仰とは何なのだろうか、いつか、少しは理解できるようになるのだろうか。 1Peter 5:2 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。 ヨハネ21章15-19節のイエスとペトロのやり取りを思い出させる。しかし、これは、そのほんの一部である。そして、もし、ペトロの手紙一がペトロ由来のものとしても、ペトロが著者ではないとするとということを考えた。ひとつは、主イエスからうけとったことをどのように委ねていくかの問題と、それを自分だけにではなく、他のひとにとっても大切な教えとして、普遍化とは少し異なるだろうが、敷衍(ふえん:1. おしひろげること。展開すること。2. 意義・意味をおしひろめて説明すること。また,わかりやすく詳しく説明すること。)することである。演繹(1. 〔deduction〕諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。普通,一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。2. 一つの事柄から,他の事柄に意義をおしひろめて述べること。)に注意しているからである。まず、イエスのメッセージをしっかり受け取ることが基本であると思う。そのことばの解説ではないにしても、当時、どの程度、真剣にしっかり受け取ろうとしていたのか心配になる。敷衍は、受け取ったものを委ねていくときには、ある程度必要なのだろう。ペトロというより、この著者というひとりの信仰者を通して、受け継がれるたいせつなことなのだから。 2Peter 1:5-7 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。 美しいことばである。一つひとつ、そしてその並び・順序を考えれば、学ぶことは多いだろう。しかし、今回は、ペトロ由来の文書ということを考えたいと思う。福音書で描かれているペトロ、そして、12弟子はほんとうに素朴である。真理が隠されていたとして、聖霊降臨とともに、ひとが変わったと理解することが、一般的な歴史的解釈である。しかし、それほど単純ではないだろう。12弟子が、いろいろな文書を残していなかったと思われることも、それは、イエスの意図だったかどうか不明だが、残念であるとどうじに、自然なのかもしれないと思う。しかし、たとえばペトロから委ねられた、または受け取ったことが伝えられていることは確かだろう。むろん、その受け取った媒体となったひとの信仰(神様との関係)を通して。しかし、わたしは、あきらかに、聖書に依存して、信仰を受け取っている。イエスは、どのように考えていたのだろうか。12弟子で十分だとは、考えていなかったとは思うが。難しい。あまりに、イエスを神聖なものにしてしまう宗教的な行為に問題があるのだろうか。 2021.12.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  52. BRC 2021 no.052:ペトロの手紙二2章ーヨハネの黙示録4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ペトロの手紙二の2章から読み始め、ヨハネの手紙一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録と読み進めます。ヨハネの黙示録以外は短く、特に、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三とユダの手紙は1章だけからなっています。そして、ヨハネの黙示録は、聖書の最後書ですから、今週は読み終わりませんが、新約聖書の通読1回目の終わりが近づいてきました。新約聖書を読み終わると、詩篇から旧約聖書を読み継ぐ計画になっています。 通読では一つひとつの書を丁寧に見ていくことはできませんが、各書について、ひとことずつ簡単に書いてみましょう。下にリンクがある、各書について過去に書いた文章も参考にしてください。ヨハネの黙示録のところには、クリスマスについても書いてあります。 ヨハネの手紙一・二・三とヨハネの黙示録は、ヨハネの福音書とともに、ヨハネ文書と呼ばれ、イエスの12弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネ由来とされています。しかし、実際にはそう簡単ではないように思われます。ヨハネによる福音書とヨハネの手紙一は共通性が多く見られ、おそらく、ヨハネの影響が強くあるように思われます。そして、著者がヨハネであるとは書かれていない特徴もあります。ヨハネの手紙二・三は短く、書き方から、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙一とは異なる特徴もあり、著者はヨハネと書かれているものも、他のヨハネではないかとも考えられています。ただ、短いために、内容から判断することは困難で、不明としておくのが適切なように個人的には思います。ヨハネによる黙示録は、ヨハネが書いていることを5回主張しています。逆に、内容的には、私には、ヨハネの福音書著者と同一とは思えません。同一だとすると、時間的な隔たりを考える可能性もありますが、それも、難しいように思われます。しかし、ヨハネの名前で、このような文学形態で、文書を書き、流布することがたいせつだったのでしょう。その時代に思いを馳せたいですね。ユダの手紙は、イエスの弟のユダが著者に設定されているようですが、これも、否定する学者が多く、偽典と言われるものからの引用も多く、聖書の一部とすることに疑義が唱えられた経緯もあるようです。しかし、著者をキリスト者の一人として受け入れ、共に生きることも、大切だとわたしは考えています。さて、みなさんは、どのように読んで行かれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ペトロの手紙二2章ーヨハネの黙示録4章はみなさんが、明日12月20日(月曜日)から12月26日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ペトロの手紙二、ヨハネの手紙一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ペトロの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pt2 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn1 ヨハネの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn2 ヨハネの手紙三:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn3 ユダの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ju ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート 2Peter 2:9 主は、敬虔な人々を試練から救い出す一方、正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです。 非常に乱暴な議論が書かれている。ノアやロトの例がまず書かれているが、その例に従うならほとんどだれも救われない。そして「不正を働く者は不正の報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみとしています。彼らは、染みや傷のようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、だまし事にふけって騒ぎます。」(13)などと「正しくない者たち」の記述が続くが、それが我々の姿の投影でもあり、このような人たちにこそ、福音が語られなければならないし、理解しなければならないのではないだろうか。聖書は丁寧に読んでいくと、難しさも増大する。しかし、それこそが信仰者の告白だとも言える。このペトロの手紙二の記者とも、恵みのうちに共に生きることを模索したい。 2Peter 3:14 それゆえ、愛する人たち、これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。 おろらく、これが、記者のたいせつにしていたことなのだろう。神の御心の理解は本当に難しいと思う。この章は「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」(4)の問いについて語っているが、その答えが書かれているとも思えないし、論理的にも破綻していると思う。しかし、考えてみると、この方は、パウロの手紙の難解さを曲解しないように、むりな解釈をしないように、自らを制し、引用句にある生活を目指して日々暮らしていたのかもしれない。愛すべききょうだいだと思う。わたしにしても、パウロの手紙がしっかり理解できるわけではないのだから。 1John 1:3,4 私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。 2つのことを考えた。1つ目は、「この交わりが永遠の命を生きることと同じなのか、またはどのように関係してるか」ということ、そして、2つ目は「後半の二回の私たちは、同じ私たちだろうか」ということである。つまり、これらのことを書くのは、受け取り手を含まないわたしたち、しかし、喜びが満ち溢れるのは、受け取り手を含めた私たちではないのかという問である。この区別のある言語をいくつか知っているが、ちょっと見ただけでは区別がなかった。前半にも「私たちとの交わりを持つようになる」とあり、私たちは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」を持っていると言っているようなので、可能性は高い。ここだけで永遠のいのちについて定めることはできないが、いのちは、あたらしい別の命をもらうというより、ともに生かされるエネルギー源のような感覚があるからである。そのような交わりを考えていきたい。 1John 2:18 子どもたちよ、今は終わりの時です。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。このことから、今が終わりの時であることが分かります。 終わりが来ることではなく、ここでは、今が終わりのときであることが書かれている。おそらく、初代キリスト教の世界において、再臨についての議論がいろいろとあったのだろう。それを否定するわけではないが、イエスが教えられたことを解釈して、このように言っているのだろうと考えた。むろん、終わりのときの意味は、あまりよくわからない。しかし、そのときを経て、主が再び来られるときがあるのだろう。成熟を感じる。今も、やはり、終わりのときなのだろう。 1John 3:2 愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。 「今すでに神の子どもである」ことと、「どのようになるかは現されてはいない」というこの2つのことが印象的である。この前には「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。」(1a)ともある。この三つだろうか。神の子どもをどう考えるかは幅があるだろう。しかし、神の子どもは、神ではないのだろう。または、神にはなっていない。他の言い方では、神の遺伝子を受け継いだだけで、それは発現していないとも言えるかもしれない。どういきるかがこのあと書かれている。イエスは神の子として生きてくださったと信じているが、わたしたちも、神の子として生きること、遺伝子が発現することはどのようなことで、それはどのようにもたらさせるのかを考えることなのかもしれない。難しいが、この明確とは言えない部分に真実を感じる。 1John 4:7 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。 ここまで言い切ることには、驚かされる。愛するものは皆、神から生まれた者。神を知っている。そうなのかもしれない。これが真実だと確信するために、愛の定義を厳格にしていくことは、適切ではないだろう。それは、愛を別のものにしてしまう。それよりも、神から生まれた、神を知っていることの定義を緩やかにしていくことなのかもしれない。愛を中心においているのだから。そして、互いに愛し合いましょう。このことばに、すべてがかかっているように思われる。ヨハネが一番つたえたかったことを、しっかりと受け取りたいものである。 1John 5:5 世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 「イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(1)は力強い。キリスト者とそれ以外を分けていると見る必要はないだろう。引用句では、世に勝つものが宣言されている。急に、イエスが神の子であると信じるものとなっているが、そこにすべての希望があると言っているのだろう。イエスがキリストであると信じることは、イエスが神の子であると信じることと、大きな違いはないのだろう。このあとに、霊と水と血について書かれている。明確にはわからないが、イエスについてのひとつの象徴なのだろう。すこし、上に書いた考察は乱暴かもしれない。謙虚に、また、考えたい。 2 John 7,8 なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。よく気をつけて、私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。 ヨハネの手紙二・三は、ヨハネ由来かどうかはっきりしないようである。今回読んでいて感じるのは、内部的証拠から、議論するのは限界があることである。引用されている部分は、使徒ヨハネは書かないように思うが、あるときには、具体的な問題があり、促されて書いたかもしれない。おそらく、それよりも大切なのは、内容自体を丁寧に、批判的に理解することなのだろう。そして、不明なことは不明とすること。使徒を特別扱いすることも、程度をわきまえることだろうか。初代教会にも、難しい問題がたくさん生じていたのだろう。おそらく、内部から。 3 John 10 だから、私が行って、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は口汚く私たちを罵るばかりか、きょうだいたちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。 この前の段落には「愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。彼らは、教会の集まりであなたの愛について証ししました。どうか、神にふさわしいしかたで、彼らを送り出してください。」(5,6)とある。おそらく喜んで迎え、誠実を尽くしてもてなし、そして、(神に)ふさわしいしかたで送り出す。これが推奨されているのだろう。短い手紙で、詳細は、不明なところも多い。5-8節に書いてある人がどのようなひとたちなのか、また「神にふさわしいしかたで」がなにを意味するのか。引用句は、逆といういことばは不適切かもしれないが、それと対する態度ではある。彼は口汚く私たちを罵り、きょうだいたちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をして、教会から追い出す。ここにはおそらく首謀者である彼(ディオトレフェス)について書かれているが、それに追従するひとたちもある程度いるために、これが成り立っていくのだろう。非常に困難な問題である。わたしがそこにいたらどうしたら良いのだろうか。自らがそのようなことをしていないかを省みるとともに、よそから来た人たちを歓迎し、誠実を尽くし、そのひとたちにふさわしい形で送り出す。そこで、あるひとたちと、ぶつかったときにはどうすればよいのだろうか。難しい。正しさを固く保持している人との間も同様に困難を覚える。 Jude 9 大天使ミカエルは、モーセの体のことで悪魔と言い争ったとき、あえて罵って相手を裁こうとはせず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。 ユダの手紙には、いくつか伝説・言い伝えが含まれている。それ故に、聖典性が疑われたと聞いている。個人的には、なぜ、ユダの手紙を含めたのか理解できない。しかし、同時に、いろいろな言い伝えがキリスト教会でも、重要な役割をしめてきたこと、そして、様々な状況下で、立証困難な奇跡的体験を信仰の最大の基盤としている人もおられる。そのようなことを否定したり、そのような方を排除することの問題も感じる。ユダの手紙によれば「唯一の支配者である私たちの主イエス・キリストを否定している」(4b)が不敬虔、神を畏れるかどうかが判断基準ということだろうか。難しいが、キリスト者かどうかの境界線をはっきりすることは、やはり問題があるように思われる。なにも考えないと、常に崩壊の危機があるわけだが。なにを失ってはいけないのかをしっかり考えたい。 Revelation 1:17 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、 この「人の子のような方」はイエスだと言われており、このあとの記述と、キリスト教会のイエス・キリストの認識からは、それは正しいだろう。ただ、著者はヨハネではないことをも、明らかにしていると思う。ヨハネなら、イエスかどうかがすぐに分かったはずである。そして、それを証ししただろう。ヨハネによる福音書における記述とは異なるように思う。ただ、この点も、反論するひともいるだろう。9節にヨハネとあるのだからそれを信ずべきだと。ヨハネによる福音書のヨハネはヨハネであることがほぼ確実であるにも関わらず、自らを明かさない。この章の書き方とは明らかに異なる。しかし、キリスト教会の生み出した文書としては、当時を表す重要な文書なのだろうとも思う。 Revelation 2:24 しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。 ティアティラの人たちへの部分は全くわからない。イゼベルは何を意味するのか。アハブの后の名をつかって象徴的に描いているのだろうが、内容はまったくわからない。何らかの分派を意味しているのか、少なくとも、ティアティラの中で「自ら預言者と称して、私の僕たちを教え、また惑わして、淫らなことを行わせ、偶像に献げた肉を食べさせている。」(20)としており、異なる儀式をおこなっているように思われる。わかりやすくかいていないことも、黙示文学の問題点であると思う。 Revelation 3:21,22 勝利を得る者を、私の座に共に着かせよう。私が勝利し、私の父と共に玉座に着いたのと同じように。耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」 7つの教会へのメッセージの最後のことばである。今回、教会の一員の気持ちで読んでみた。しかし、残念ながらあまり響かなかった。具体的な課題がよく見えないからもあるだろうが(時代背景から明確には書けず隠されているとも言われている)教会の課題を個人の課題として受け取ることがさらに難しかった。それぞれの教会を評価する形式だからだろうが。4章からは黙示の部分にはいり、ますます理解困難になるが、当時の人達は、なにを考えたのだろうか。現実の苦しさ、それがなかなか改善しないなかでの希望を持てただろうか。よくわからない。引用句の前の節は有名である。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」(20)これは、個人にむけて語られているようにも見える。信仰の基本は、個人の応答なのだろうか。7つの教会へのメッセージとの関係を、正直読み取れない。 Revelation 4:5 玉座からは、稲妻、轟音、雷鳴が起こった。また、玉座の前には、七つの松明が燃えていた。これは神の七つの霊である。 「七」は「七つの松明」「七つの霊」以外にも、このあとも「七つの封印」(5:1,5など)「七つの角と七つの目」(5:6)「七つのラッパ」(8:2など)「七人の天使」(8:2など)「七つの雷」(10:3など)などなどたくさん現れる。しかし「あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、その秘められた意味はこうだ。すなわち、七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」(1:20)などをみると、七つの教会も、象徴的な意味が強く、具体的な名前が付されているが、それにこだわるのは問題があるのだろうとも思う。同時に、このような光景が幻影として目の前に映し出されたら、書かざるを得なかったのかもしれないとも思った。エゼキエル書も似た状況があるのだろうが、特異な精神状態であるとともに、それも、神に愛されたひとりのひとを通して語られるメッセージとして、しっかりと聞き、うけとることが求められているのだろうとも思った。黙示録は理解できないために、どうしても、素直に読めないが、記者からのメッセージはしっかり受け取りたいと思う。 2021.12.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  53. BRC 2021 no.053:ヨハネの黙示録5章ーヨハネの黙示録18章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨハネの黙示録はいかがですか。最近は、いろいろな書を次から次へと読んでいくことが続きましたが、今週は、ヨハネの黙示録を読み進めます。ヨハネの黙示録は、聖書の最後書で、今週は読み終わりませんが、新約聖書の通読1回目の終わりが近づいてきました。新約聖書を読み終わると、詩篇から旧約聖書を読み継ぐ計画になっています。正確には、1月5日から詩篇に入ります。通読が続かなくなっておられる方もいるかも知れませんが、新たな気持ちで、今日からでも、お正月からでも、1月5日からでも、一緒に詩篇から読んでみませんか。2022年一年をかけて、旧約聖書の後半、詩篇からマラキ書の部分ととともに新約聖書をもう一回通読します。日曜日夜に配信しているものを読み、一緒に読んでいる人がいることを思いながら、通読できるのは、心強いのですよ。 ヨハネの黙示録は、なかなか難しいですね。どのように理解したら良いのでしょうか。これから起こることの予言として一つひとつ具体的に理解して備えをすることが求められているのでしょうか。そうかも知れません。何度か書いていますが、わたしは、最近、聖書記者のことを考えながら、読んでいます。どのような状況で、どのようなひとたちに向けて、どんなことを考え、願いながら書いたのだろうかと考えながら読んでいるいうことです。表面的な記述から、これは信じられる、これは信じられない、まったく理解できない、こんなことが聖書に書いてあるのかなどなどと驚きながら読むのも一つの読み方だと思いますが、わたしは、この聖書記者の思いを理解しようとしながら、その人と、共に生きることはどのようなことだろうかと、考えています。当時の方たちや、その方々の思いとも繋がりたいと願うからです。黙示という当時の一つの文学形式で書かれたとも言われています。理解は、無論難しいですが、当時のひとたちの、困難、苦難、悲しみ、無念さ、痛み、そして、喜びや、たいせつにしていたことを共有できたらと願っています。みなさんは、どのような思い、考えながら、ヨハネの黙示録を読んでおられるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの黙示録5章ーヨハネの黙示録18章はみなさんが、明日12月27日(月曜日)から1月2日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。今年は、章ごとにまとめたページも作成しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。 聖書通読ノート Revelation 5:12 天使は大声でこう言った。/「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」 この章を読んでいて、わたしは、このような賛美の心が欠如していることに気付かされた。イエス様を慕い、イエス様のように生きたいと願い、おそらく、イエス様を通して、神様は、わたしのようなものをも愛してくださっていると信じ、それは、私だけではなく、わたしの隣人も、そしておそらく、神様が造られたすべてのひとを愛しておられると信じている。しかし、賛美歌は好きだが、イエス様をこころから賛美したいと思って賛美してはいない。よくわからない。少なくとも、「力、富、知恵、権威/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方」とは思っていないと思う。それを望むかたではないように思うから。賛美も、イエス様の望まれるように、神様の御心を求めて生きることこそが、賛美だと考えているからだろうか。これからも、考えてみたい。 Revelation 6:10,11 彼らは大声でこう叫んだ。「聖なるまことの主よ、あなたはいつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、「あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と告げられた。 わたしは、黙示録がよく理解し得なかったが、背景にこのような叫びがあるのかもしれないと思った。この前には「そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は『死』と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。」(8)とあり、これが小羊の権威のもとに行われていることが書かれている(7)。現在の、苦しさの意味を問い、さばきを求めるなかで、大きな枠組みの中での幻が示されていったということだろう。それは、将来について預言というより、現在の苦しみの中にいるひとたちに対する、癒やしと励ましなのかもしれない。「あなたのことを教えて下さい」と記者に問いながら、これからも謙虚に、読んでいきたい。 Revelation 7:13,14 すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 「この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。」(9)十二部族からの十四万四千人の次に現れる人たちである。殉教とは書かれていないが、やはり「苦難をくぐり抜け」とされている。最初の十二部族については、そのような理解が当時あったのだろう。このリストでは、ユダ、レビ、ベニヤミンの三部族以外はほとんど不明だったと思うが。そして「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである。」(16,17)と締めくくられている。このような読者にむけて書かれているのだろう。そして、そのような苦難の中にいる人たちを励ますことが、この書の目的だったように思う。どこまで意識していたかは不明だが、それがこのような書として残され、聖書の一巻となったことは、理解できるように思う。 Revelation 8:13 また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのを私は聞いた。「災いあれ、災いあれ、災いあれ、地に住む者たちに。なおも三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」 この章には第一の天使から第四の天使までがもたらされる災厄について書かれている。前の章の最後の言葉があり、それから「小羊が第七の封印を解いた」(1)とある。平安を得たあとに、時系列的には、本当に後かどうかは不明だが、災厄が書かれている。他方では、これだけのものが用意されていることを伝えているのだろう。単に、いまは、災厄の中にいるとは言わない。ある配慮もここにあるように、今回読んでいて感じた。黙示録については、すこし違った読み方が、今回できているように思う。 Revelation 9:20 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。 様々な激烈な災害が書かれた後にこのように書かれている。読者は、現実の世界と照らし合わせて、理解しただろう。しかし、ある距離をおいて。最後のときは、また来ない。それまでをどう耐え忍ぶかがこの背後にあることのように思う。そして、神ではないものを神とすることがその特徴として書かれている。現代ではどうだろうか。そのとおりとも言えるし、わからないとも言える。神からのものかを判断することは、それほど簡単ではないからだろう。当時の人達は、ここからなにを受け取っていたのだろうか。 Revelation 10:7 第七の天使がラッパを吹き鳴らすとき、神の秘義が成就する。それは、神がご自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」 「神の秘儀」はよくわからないが、わたしが求めているのは、それなのかもしれない。しかし、すでに、預言者など旧・新約聖書を通して、啓示されているとは、確信していない。預言者なども、わたしと同じ信仰者と考えているからだろう。すでに、キリスト教の信仰から離れてしまっているかもしれないが、正直な気持ちである。啓示といわれるものをそのままは、受け入れられない。自分が生き、他の人が生きた歴史を見ながら、その本来の意味を考えようとしている。信じていないわけではないと思う。これからも、謙虚に探求者として、真理を神の秘儀を探しもとめていきたい。 Revelation 11:18 諸国の民は怒り狂い/あなたも怒りを現されました。/死者の裁かれる時が来ました。/あなたの僕である預言者、聖なる者/あなたの名を畏れる者には/小さな者にも大きな者にも/報いが与えられ/地を滅ぼす者たちが/滅ぼされる時が来ました。」 第七の天使が「この世の国は、私たちの主と/そのメシアのものとなった。/主は世々限りなく支配される。」(15)と宣言して起こることとして、引用句がまとめられている。裁きと報いである。これが、記者や当時の人が望んでいたことなのだろうか。イエスが説いた「神の国は近い」というメッセージとは、遠いように思ってしまう。同時に、イエスのメッセージを丁寧にうけとるのは、難しかったのだろうとも思う。むろん、わたしも、イエスの伝えようとしたことを受け取っているかは不明であるが。しかし、引用句のような「報い」は残念であるとは、思う。 Revelation 12:10 そして私は、天で大きな声がこう語るのを聞いた。/「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。/神のメシアの権威が現れた。/我々のきょうだいたちを告発する者/我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が/投げ落とされたからである。 天でのミカエルと竜との戦いのあとの光景である。(7-9)地上に落とされてはこまるとまずは思ってしまうが、たいせつなメッセージはこの竜は「我々のきょうだいたちを告発する者/我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者」だと言うことなのだろう。しかし、正確に、これが何を意味しているのかは不明である。ついヨブ記を思い出してしまうが、もっと、一般的なことなのだろう。きょうだいたちとあるので、単純にあら捜しをして、すべての人を裁きのもとに置くということではないのだろう。信仰者の問題点・課題と考えると、すこし、内容が見えてくるが、そこまでは、考えていないかもしれない。しかし、興味深い観点である。 Revelation 13:17 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。 このあとには「ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。」(18)と続き、ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)を指すと言われている。たしかに、この箇所は当時の具体的な人物を描いているように読める。しかし、引用句の背景には「地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。」(8)のような二分法がある。ほんとうに、そのような単純化を神様はしておられるのだろうか。わたしには、苦しみの中にいる人に力と安心を与えるための技術であるように思われる。それを、冷笑することも、適切ではないだろう。分断を避けるためにも。現代は、より複雑になっている。「屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者」と思われるひとたちの貢献や、愛の行為が優っていることも頻繁に見られる。学ぶべきこと、考えるべきことは多い。 Revelation 14:13 また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」 直前には「ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。」(12)ともあり、具体的な苦難の中にいる人たちを励ましているように見える。そして、引用句の後には、収穫とさばきが続く。それだけ、苦しいときが続いていたのかもしれない。わたしのような、その苦難の中にいないものが、批判的なことばを語ることは、できないように思う。その苦しさのなかで絞り出したことば、それに、共に生きる人たちのこころや思いものせているのかもしれない。 Revelation 15:1 また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである。 引用句に引き続き「獣とその像とその名の数字とに勝った者たちが、神の竪琴を手に」(2b)「神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌った。」(3a)とある。内容は短く、賛美である。モーセの歌とあるのは、興味深い。「あなたの道は正しく、かつ真実です。」(3b)と、正しさを主張するものか。さらに「あなたの正しい裁きが/明らかにされたからです。」(4b)として終わっている。なぜこれが「小羊の歌」なのかはわからない。キリストが、すべての裁きに関係しているということだろうか。このあと「四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。」(7b)とある。伝えたいメッセージはわかるように思うが、本当に、これが、神様の御心を代表するものなのかは、わからない。当時のひとたちは、このような信仰を持っていたのだろうか。置かれている状況が違うので、安易に判断はできないが、その困難をいくら想像してみても、どうしても距離を感じてしまう。 Revelation 16:21 一タラントンほどの重さもある大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々はその雹の災いのゆえに神を冒瀆した。被害があまりにも大きかったからである。 第一の天使から第七の天使までがもたらす最後は、神の冒涜で終わっている。自業自得だと言いたいのかもしれないが、本当に、これが神様が望んでおられることなのだろうかと思う。現代でも、神義論の問を別にしても、一般的に神を呪うことはあるだろう。自分の置かれた状況、この世に起こっている悲惨さ、愛するものの喪失など。この裁きの背景には、このようなひとつひとつのことがあるはずである。それが、ある正しさを主張するため、そして、当時のひとたちの苦しみを和らげるために、用いられても良いのだろうか。神の痛みを痛みとすることは理解できるが、このように、自分たちの痛みの、憂さ晴らしを神に委ねているような記述は、やはり受け入れがたいように思う。引き続き、丁寧に読んでいきたい。 Revelation 17:9,10 ここに、知恵のある理解が必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことであり、また、七人の王のことである。五人はすでに倒れたが、一人は今、王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるべき期間は僅かである。 「一人は今、王の位についている」とあり、また「ここに、知恵のある理解が必要である」とある以上、象徴的にこの世の終わりを描いているわけではないようである。すると、大淫婦の表現など、当時の女性のイメージや、そのようなものが悪の背後にあるという理解など、気になってくる。具体的に理解する人もいるが、あまり、深入りしないほうがよいとも思う。当時のひとたちと、信仰を持ってつながるために。小羊の勝利が宣言されている。(14)ということは、キリスト者が、敗北者のように、痛めつけられていた現実があったのかもしれない。同時に、黙示録とは違う見方をしていた人も、キリスト者の中にいたかもしれない。冷静に丁寧に読んでいきたい。 Revelation 18:21 すると、一人の力ある天使が、大きな挽き臼のような石を取り、海に投げ込んで、こう言った。/「大いなる都バビロンは/このように荒々しく投げ捨てられ/消えうせる。 「大いなる都バビロン」を悪の象徴とし、その滅びを表現している。「彼女(大淫婦・バビロン(17:18))と淫らなことをし、贅沢をほしいままにした地上の王たち」(9)や「地上の商人たち」(11)の嘆き悲しみが書かれている。この人達が、大淫婦に従い、聖なる者たちをしえたげていたと見ているようである。たしかに、この世の価値観の権化という意味では、現代からも想像ができるが、単純化は、むろん、問題も孕(はら)み、イエスの教えから離れていってしまうようにも思われる。しかし、これが、黙示録記者が、人々に仕え、励まそうとしたことなのだろう。単純に批判的に読むことはできない。 2021.12.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  54. BRC 2021 no.054:ヨハネの黙示録19章ー詩篇10篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 2022年になり、BRC2021 も二年目に入りました。皆様、いかがお過ごしですか。 今週は、ヨハネの黙示録の最後の部分を読み、1月5日から、旧約聖書を詩篇から読み継ぎます。8月18日には、旧約聖書を読み終り、新約聖書の二度目の通読に入り、2022年12月26日に読み終わる予定です。新たな気分で、詩篇から通読を始めてみませんか。2000年から3000年前に、神様の御心を求め、神様と共に歩もうとした方たちの言葉を少しずつ読みながら、その当時の方たちと、心を合わせて、問を持ちながら、一日一日、歩む経験をできるのは、素晴らしいことだと思いますよ。 詩篇は、全部で150篇の詩からなっています。150の祈りとも言えるかもしれません。詩文体ですから、理解の幅は広がるかもしれませんね。詩篇記者がそれぞれの詩篇を作ったときの、背景や、思いを考えながら読んでいけると良いですね。一つ詩篇だけ読むと、人生のある特定の時点での祈りの背景もわからず、なかなか、詩篇記者に心をあわせたり、共に賛美をしたり、祈ったりはできないこともあるかもしれませんが、そのような詩篇記者の苦しみや、賛美する心に少しずつ寄り添っていくことができると良いですね。私たちが日々出会う方々も、そのような苦しみを抱えているのかもしれません。少し長いものもありますが、基本的には、他の聖書の一章と比較すると短いので、何度か読んで味わうことができると思います。こころに残る一節を見つけることができる場合もあるでしょうし、こころの動き・変化にこころ動かされることもあるかもしれません。どうしても、その心に寄り添うことができないときは「あたなのことを教えてくだい」と、詩篇記者に語りかけてみてください。ぜひ、心に残った詩篇を教えて下さい。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの黙示録19章ー詩篇10篇はみなさんが、明日1月3日(月曜日)から1月9日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録と詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rv 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Revelation 19:1,2 その後、私は、大群衆のどよめきのようなものが、天でこう言うのを聞いた。/「ハレルヤ。/救いと栄光と力は、私たちの神のもの。その裁きは真実で正しい。/神は、淫らな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き/僕たちの流した血の復讐を/彼女になさったからである。」 わたしが、理解できない、裁きと賛美である。特に17-21には、読みたくもない裁きが書かれている。そして、引用句では、そのような裁きが賛美されている。本当に、神は、それを望んでおられるのだろうか。滅びが存在し、そのような状態になるひとがいたとしても、神はそれを悲しみ、その状態を苦しまれておられるのではないだろうか。主イエスは、まさに、内臓が引き裂かれるように、その状態を憐れみ、悲しんでおられるのではないだろうか。そして、神の国・支配を求める。すべてのひとに平安を。宗教には、信じるものとそうでないものを分け、分離し、正しさによってさばくことを重要な要素とする面がある。それを全く否定はできないが、わたしは、それを求めてはいない。普遍的な、すべてのひとの救いを求めているからか。安易にそれが実現するとは思っていない。しかし、限られた力の人間が、望むのは、求める方向は、そちらではないのだろうか。 Revelation 20:2,3 この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになっている。 この章を見ていると、千年の後、竜はしばらくの間解き放たれるが、それは、さばきを受けるためのように見える。殉教をしたものが栄誉を受け、彼らを迫害したものは、地獄の火にさいなまれる。それが、黙示録記者や、その周囲の人たちの望んだことなのかもしれない。いまの世で、わたしは、それを望んでいない。それは、歴史を通して、人が、神について学んだ結果なのか、単なる、状況の変化か。このひとたちとコミュニケーションができないものではありたくない。相互理解を育むことはできるのだろうか。わたしが、まずは、動かないといけないように思うが、どうしたら良いのか、正直よくわからない。黙示録はそして黙示録記者とその周囲の人達、いつか、わたしは、これらの人々、このような考え方と、和解できるのだろうか。今の世に生きている、黙示録を支持し、このような考えを持っている人ともっと語ってみたい。 Revelation 21:3,4 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」 わたしは常々、現状には課題がたくさんあり、どうにかしなければと思う一方、どうなればよいかはわからないと考えている。ここでは、黙示録記者がその最終的な幸いな姿を描いている。神が人と共に住む。まさに、神の国が来た状態なのだろう。しかし、そのあとに「もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。」とある。わたしは、悲しみや嘆きや痛みこそが、その人を他者と区別するものであり、尊厳を形成しているものだと考えている。これに、喜びも加わるだろうが。そして、おそらく、死は、その尊厳に付随するものではないかと考えている。悲しみや嘆きや痛み、そして死から逃れたいということが根本にあり、それが恐怖となり、尊厳をもって生きることができない時代に書かれたのだろう。それをここでは「最初のものが過ぎ去った」と表現している。わたしにはやはり、課題は理解できても、そして目指す方向はすこし見えても、目的地は見えない。 Revelation 22:9 すると、天使は私に言った。「やめよ。私は、あなたや、あなたのきょうだいである預言者たちや、この書の言葉を守っている人たちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。」 ほとんど何の区切りもなく「見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。」(12,13)があり、「私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。」(16)となっている。天使が誰で、どこからどこまでが、イエスなのか不明である。イエスの天使なのだろうが。イエスが遣わした「人」(または「方」)から受け取ったことを記し、それを、イエスの言葉として書き記しているということだろうか。その区別こそ、たいせつだとわたしは考えるのだが、区別はできないものなのかもしれない。宗教の危うさでもある。それを、理解することはできないが、こころに置いて、聖書をこれからも、読んでいきたい。考えることが多かった、BRC2021での新約聖書の通読の一回目の終了である。 Psalm 1:2 主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。 「幸いな者」と始まる美しい詩である。信仰告白でもあるだろう。主の教えを喜びとする。これは、十誡のような禁止ではなく、主の喜びを喜びとすることを言っているように思われる。律法をどのように、人が受け入れているかにかかっているように思われる。禁止か教えか、難しいこともあるのだろう。わたしは、やはり、御心と真理を近いものとして、それを求め、そのように生きたいと願っている。むろん、禁止が関係していないわけではなく、御心とはことなることに、心が奪われることは頻繁にある。これからも、主の教えを学び続けるものでありたい。真理を求めて続けることと表現してもよいが。 Psalm 2:7-9 私は主の掟を語り告げよう。/主は私に言われた。/「あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。求めよ。私は国々をあなたの相続地とし/地の果てまで、あなたの土地としよう。あなたは彼らを鉄の杖で打ち砕く/陶工が器を叩きつけるように。」 新約聖書で「あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。」の部分が引用されている(使徒13章33節、ヘブル1章5節、5章5節)こともあり、イエスに結びつけて語られるが、この詩篇自体についてはよくわからない。また、福音書には、マタイ3章17節・17章5節と、イエスの受洗のときと、山の上での変貌のときの神の声が「これは私の愛する子、私の心に適う者」と記されているが、関係性は明白ではない。イスラエルの王国が背後にあるとすると「なぜ、国々は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。」(1,2)は別の様相を呈する。世界の一部の記述とも読めるからである。王は、主によって立てられ、子のように、主が愛されるということの表現だと考えるにとどめておくのがよいようにも思う。 Psalm 3:2,3 主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。/多くの者が私に立ち向かい多くの者が私の魂に言っています/「あの者に神の救いなどない」と。〔セラ ダビデの詩とある。作者がダビデなのか、ダビデによせて創られたのかは、わからないが、このような苦悩は、仕事を委ねられたものの常である。わたしも、並べてはいけないかもしれないが、そのような、苦悩はなんども経験している。その苦悩のなかで主を呼ぶ。主にしか希望を持てないということだろう。それがひとを支える。信仰の為せるわざであるが、独善のあぶなさもあるのだろう。「救いは主のもの。/あなたの民の上に祝福を。〔セラ」(9)救いは、この詩篇作者も、自分にとどまらない祝福を願っていることだろうか。 Psalm 4:9 平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。 この背後に「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ 義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。」(5,6)のような苦悩と戦いがあるところが印象的である。詩篇記者のように「あなたは私の心に/穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを/与えてくださいました。」(8)といえる経験を積み重ねていくことも、ひとを成長させていくのかもしれない。そのひとだけでなく、神様との交わりや、他者との関係、多くのひとのなかでの生き方。 Psalm 5:11 神よ、彼らに罪を負わせてください。/その謀のために、倒れますように。/度重なる背きのゆえに、彼らを追い出してください。/彼らはあなたに逆らったのです。 このあとには「あなたのもとに逃れるすべての者が喜び/とこしえに喜び歌いますように。/あなたは彼らを覆い/御名を愛する者があなたを喜び祝いますように。」(12)と続き、善悪、敵味方の二分があり、神が自分の側にいることを根拠に祈っている。他者と出会いながらこれは変化していくのだろうか。わたしは、ほとんどこのような考え方をしなくなっている。しかし、だからといって、清い思いだけをもっているわけではない。引用句に「彼ら」そして「彼らの神」と自分の神、双方にとっての神、真理を考える必要があるということだろうか。しかし、それだけで、ことは解決しないように思う。「主よ、義によって導いてください。/私に敵対する者がいます。/私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。」(9)このような、主との対話、自分と向き合うことは、かわらないことでもある。他者と向き合えば解決することではない。解決するとすることは、主と向き合わず、自分を主とすることでもあるだろう。難しい。 Psalm 6:3,4 主よ、憐れんでください。/私は病み衰えています。/主よ、癒やしてください。/私の骨はおののいています。私の魂は震えおののいています。/主よ、いつまでなのですか。 この詩篇も詩篇5篇と同じく、最後は「敵が皆、恥を受けておののくように。/恥にまみれて瞬く間に逃げ帰るように。」(11)と終わっている。敵への裁きを願う言葉だ。しかし、背後には、引用句のような病み、痛み、苦しみ、魂の震えおののきがあり、主の憐れみにすがる以外にない状態があるのだろう。自分の弱さとも言えるかもしれない。自分には、どうすることもできない状態、そのなかでの裁きである。相手の状態に思いを馳せることをしていないとするのは、単に正しさで、この詩篇記者をさばいていることにすぎないのだろう。まずは、この詩篇記者の痛みにこころを向けたい。そこにこそ、たいせつなことが隠されているように思う。苦しんでいる人に、そんな考えではだめだよといってもどうにもならないのだから。 Psalm 7:7 主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。/身を起こしてください/私を苦しめる者に激しい憤りをもって。/目を覚ましてください、私のために。/あなたは公正をお命じになりました。 公正はたしかに主が喜ばれることだろう。とすれば、それを行わないものを、裁かれる方と考えるのも自然だろう。「悪しき者の悪を絶ち/正しき者を堅く立たせてください。/神こそ正しき方/心と思いを試す方。」(10)しかし、同時に、特定のことについては、自分の潔白と正しさを、自分で理解できる範囲内で主張できるかもしれないが、他のことについてはそうとは言えない。また、公正は公平とも関係し、単純になにが公正か公平かを判断できないことも多い。そのいみで、現代の解釈、すべてのひとを罪人とする考え方は、進化しているとも見える。同時に、地上で公正さ、公平さが行われていないことに対するいらだちは、神の権威を貶(おとし)めているようにも見える。神の苦しみ、痛みの理解へと向かうのは、ハードルが高い。正しさでは、判断できない世界、ほんとうに、難しい。 Psalm 8:5 人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。 この畏(おそ)れ慄(おのの)くこころは、人間にとって、共通のもので、時代をはるかに超えるものであるように思う。科学でほとんどのことが理解できるとして、ここに心が向かわないひともいるかもしれないが、科学者こそが、この気持を持っているのではないだろうか。向かう相手が、キリスト教でいう主、神かどうかは別として。わたしは、それでよいと思っている。ひとは、被造物にすぎない。140億年の進化など、自然の産物だとしてもよい。そのある時点の、ほんの瞬間に存在している自分について考えたとき、そして、人類について考えたとき、謙虚にならざるをえない。この感覚はやはり宗教的と言えるものだと思う。 Psalm 9:13 流された血の償いを求める方は/彼らを心に留め/苦しむ人たちの叫びを忘れない。 「主は義によって世界を裁き/公平に諸国の民を裁かれる。主は虐げられた人の砦/苦難の時の砦。」(9,10)とあり、この詩篇でも主は裁き主である。そして、虐げられた人の砦、苦難のときの砦で、流された血の償いを求め、苦しむ人たちを忘れない方である。しかし、実際に世の中をみると、そのような裁きが行われているとは見えないのではないだろうか。それを、詩篇記者はどのように考えていたのだろうか。その中でこそ、信頼することが信仰だとしていたのだろうか。わたしは、いまは、異なる考え方をもっているが、それが正しいかどうかはよくわからない。この詩篇記者とも語り合ってみたい。おそらく、このような感覚をもった、すばらしい、信仰者が、現代にもいるのだろう。謙虚に学びたい。 Psalm 10:17,18 主よ、あなたは苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。/彼らの心を確かなものとし/耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた人のために裁き/この地の人が/二度と脅かされることがありませんように。 すばらしい告白、祈りである。「(主は)苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。」は実体験なのだろうか。あることを経験して、それが信頼に結びついているのか。この詩篇には、この信仰に対する考え方が書かれている。「悪しき者は鼻高々で神を尋ね求めず/『神などいない』と/あらゆる謀をたくらむ。」(4)「彼は心の中で言う。/『私は代々に揺らぐことなく/災いに遭うはずがない』と。」(8)「彼は心の中で言う。/『神は忘れているのだ。/顔を隠し、永遠に見るまい』と。」(11)「なぜ悪しき者は神を侮り/『神はとがめなどしない』と心の中で言うのか。」(13)これは間違っている、こうではないと言っているようだ。葛藤の表現でもあると思う。この詩篇記者の痛みと葛藤も正しさとともに、受け取りたい。 2022.1.2 鈴木寛@神戸 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  55. BRC 2021 no.055:詩篇11篇ー詩篇24篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 旧約聖書の後半の通読に戻り、詩篇を読み始めました。詩篇はいかがですか。前回書いたことと少し重複しますが、私が今回どのように詩篇を読んでいるか少しだけ書かせてください。 1つ目は、信仰者の先輩からのメッセージを受け取ること。神様、そして神様との関係について、さらに神様を通して人との関係や周囲に起こっていることからどのように神様からのメッセージを受け取るかなどいろいろとあるのではないかと思います。非常に美しい表現で語られていることも多く、心にのこることばがたくさんあるように思います。 2つ目は、異なる環境や背景のもとにいる信仰者との対話です。特に、異なる宗教、民族、自分と敵対するひとたちとの関係について祈る詩篇において、これは、受け入れられないと思うことがあります。そのような詩篇を読むとき、その方の痛みを知ろうとし、共に生きるためには、どのようなことができるかを考えることでしょうか。詩篇は、信仰者のこころ・たましいの詩的表現でもありますから、普遍性・不変性を持ったメッセージというよりも、そのときの、内面の表出のときもあると思います。そうであれば、それを、友人からのこころ・たましいのメッセージとして受け取ることがたいせつだと思うからです。これは、ただしい、これは、間違っていると峻別していくものでは、ないと思っています。 聖書の読み方とも関係することですから、ご批判もあるかもしれませんが、私が今回どのように詩篇を読んでいるかについて少し、書いてみました。みなさんは、どのような詩篇が心に残り、どのような部分に疑問や反発を感じられるでしょうか。皆様からのメッセージをお待ちしています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇11篇ー詩篇24篇はみなさんが、明日1月10日(月曜日)から1月16日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 11:1,2 指揮者によって。ダビデの詩。/主のもとに私は逃れた。/なぜあなたがたは私の魂に言うのか/「小鳥よ、山に飛んでゆけ」と。見よ、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。/闇の中、心のまっすぐな人を射るために。 意味はよくわからないが、おそらく、悪しき者にもてあそばれている状況が描かれているのだろう。なかなか、想像ができない。しかし、あからさまに、このようにいう人が居たのかもしれない。そう考えると、現代は、良い時代である。たしかに、他人を陥れる人はいるが、それに、一定の歯止めはかかっているように思われる。社会によるのかもしれないが。当時のことをもう少し知りたい。 Psalm 12:2,3 主よ、お救いください。/忠実な人が消え/真実な人は人の子らの中から去りました。人々は互いに空しいことを語り/滑らかな唇で、二心をもって語ります。 このあとには主のことばとして「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。/今こそ、私は立ち上がり/あえぎ求める者を救いに入れよう。」(6)ともある。今は、こうではないのかと問われると判断は難しい。状況はいまも、同じだとも言える。同時に、改善しようとするひとも多く、努力もなされているように思う。二心は気になるが、一心のほうが問題がある場合も感じる。それほど、単純ではないように見える。社会をどうみるのか、その問題の核心はなになのか、それは、簡単には言えない。改善策は、単純ではないからである。複雑な問題を、整理することは大切でも、実際に課題に向き合うには、課題をひとつのことに押し込めてはいけないように思う。 Psalm 13:4 わが神、主よ、私を顧み、答えてください。/私の目を光り輝かせてください/死の眠りに就くことのないように。 主の応答、主が共に居てくださることを実感していたい。それが、訴えに答えてくださる神として表現されているのだろう。神の側にも、いろいろな事情があるだろうが、この詩篇記者の背景にある苦しみ・痛み、これだけの熱心さ、そして、そこに頼る信仰、いずれも、わたしには、ない。すくなくとも批判をすることはできない。学ぶことをしていきたい。最後は、「私はあなたの慈しみに頼り/私の心はあなたの救いに喜び躍ります。/『主に歌おう/主が私に報いてくださった』と。」(6)と締めくくっている。このことばを発するまでには、ある時間の経過もあるのかもしれない。そのような信仰告白の詩篇なのだろう。 Psalm 14:4 悪事を働く者たちは誰もこのことを知らないのか。/パンを食らうように私の民を食い尽くし/主を呼び求めようとはしない。 「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。/善を行う者はいない。一人もいない。」(3)とあるが、どうも、それは、引用句につながっているようだ。「パンを食らうように私の民を食い尽くし」はなにか具体的な問題が背景にあったことを暗示させる。このときにその背後にいる人たちを「悪事を働く者たち」と呼び「善を行う者はいない。一人もいない。」と宣言する。ある意味では正しいのだろうが、民族対立も背景にあることがわかる。(7)正しさだけでは、平和は訪れないように思う。ともに生きるためには、どうしたらよいのか。むろん、解決策を持っているわけではないが、問題の難しさは感じる。 Psalm 15:1,2 賛歌。ダビデの詩。/主よ、誰があなたの幕屋にとどまり/聖なる山に宿ることができるのでしょうか。それは、全き道を歩み、義を行い/心の中で真実を語る者。 このあとに、少しずつ具体的にその内容が書かれ、最後は「利息を取って金を貸さず/賄賂を取って罪なき人を苦しめない。/これを行う人はとこしえに揺らぐことがない。」(5)と終わっている。「全き道を歩み、義を行い/心の中で真実を語る者」は、日常をどう生きるかに関わっていることを表現しているのだろう。そして、それは、かなり広範囲に及ぶことも告白している。ある程度まとめることはできても、それが具体性を伴わなければ空虚になる。ことばに終わらない、生き方、これは、一人ひとりに委ねられているように思う。他者との関わりで、矛盾のように感じられることもあるのかもしれない。そんなときにも「舌で人を傷つけず/友に災いをもたらさず/隣人をそしることもない。」(3)ものでありたい。 Psalm 16:5,6 主はわが受くべき分、わが杯。/あなたこそ、私のくじを決める方。測り縄は麗しい地に落ち/私は輝かしい相続地を受けました。 "To understand God’s thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose. – Florence Nightingale" 「神の御心を理解するには、統計学を学ばなければいけません。それは神様のご計画のものさしだからです。」(私訳)比較をして価値判断をするときのものさしについて知ることができると言っているのだろう。引用句は、そのようにして決められたものは、すばらしいものだと言っているのだろう。測り縄については、正確には調べていないが、土地の境界線を決めるようなときに用いられたのだろう。偶然のようにみえるものを、感謝して受ける。しかし、その偶然にみえることも、ある程度、神様は、人にわかるようにしておられる。それをしっかり学びなさいというのが、ナイチンゲールが主張することだろう。Decision Making Science 意思決定の科学と呼ばれる、Data Science データサイエンスの萌芽である。たしかに、わからないことばかりである。しかし、わかることも少しはある。それは、神様がわたしたちに、情報提供していることなのだから、しっかりと受け取るべきだということ。信仰者にとって、ひとつのチャレンジでもある。 Psalm 17:14 主よ、人々から、あなたの手で。/人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から。/あなたがかくまった人に/十分な食べ物を与えてください。/子どもたちも満ち足り/その幼子たちにも豊かな富を残せますように。 「人々から」が二回現れるがよく意味がわからない。「主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、/あなたの宝をもってその腹を満たされる/世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、/その富を幼な子に残すのです。」(口語訳)こちらのほうが意味は通るが、おそらく、言葉を加えて訳しているのだろう。詩文体の難しさでもある。児童養護施設に週二回行き「子どもたち」のことを、考えている。多くの困難が凝縮されたかたちで、存在している。現代でも、迫害されている人、難民のことなどを聞くと、子どもたちだけではないのだろう。主がかくまってくださる。十分な食物が与えられ、満ちたり、祝福を受け継いでいくことができますように。そう祈ろう。 Psalm 18:48 この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせた。 わたしはこんなことは死んでも言えない。詩篇記者にとっては、違っていたのだろう。民の争い(48)の中から、敵や暴虐の者(49)から救い出された経験からこのように、告白しているのだろう。それを批判はできない。しかし、正直、この詩篇記者とともに、同じ主を賛美できるかは自信がない。この詩篇の一部は共有できても、全体としてそのひととともに生きることができるか、わたしには、わからない。 Psalm 19:2-4 天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる。昼は昼に言葉を伝え/夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく/その声は聞こえない。 美しい詩である。引用句を含む前半では、自然のことを神の栄光を語っているとしている。そして、後半は「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」(8)と主の律法について賛美している。おそらく、見ているものは、同じなのだが、見方は違っているのだろう。大自然の中で過ごすことを実感することは現代では少ない。律法は、書物として聖書を読むが、こころに残っている律法のことばをたいせつにいきることとはすこし違っているのかもしれない。わたしのような聖書の読み方は、おそらく、詩篇記者の時代にはしなかったろう。この違いも考えてみたい。 Psalm 20:8 ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。/しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。 これが信仰的な態度だと教えられてきた。しかし、わたしは、いまは、少し違うことを考えている。自然からも、環境からも、人々との関係からも、無論、ひとの内面のこともふくめ、あらゆることから、神様からのメッセージを受け取るべきだと。神様が、あらゆることを通して示そうとしておられることを受け取らなくてよいのかということである。そのうえで、主のいつくしみに感謝し、その愛のうちに生きる。あまりに、内面化されすぎたものを宗教的とすることに、違和感を感じている。もう少し、ゆっくり考えたいとは思うが。 Psalm 21:2 主よ、王はあなたの力を喜び/あなたの救いにどれほど喜び躍ることか。 王を支援しそのために祈る。現代の民主主義と言われる世界では希薄になっている。みなで議論してというのは、良いが、どちらがよいかは不明のことについて、決断せざるをえないのは、政治家であり、多様な人々への影響を考えて、きめ細かな対応をするのは、行政者である。行政者の部分でよいことばが見つからなかった。civil servant は、公僕が対応するのだろうが、現在はほとんど使用されない。おそらく、これも「公」の解釈が日本語では、People(人々・人民) や civil(市民社会)ではないからだろう。しかし、祈ることはたいせつだろう。どのように、祈ったらよいのだろうか。しっかり考えよう。国や地方公共団体の長や職員だけでなく、世界中で、このような責務を担っている人を思って。 Psalm 22:27 苦しむ人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美する。/あなたがたの心がいつまでも健やかであるように。 「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。」(2a)から始まる有名な詩篇である(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。最後は引用句とそれに続けて「地の果てまで/すべての人が主を心に留め、立ち帰るように。/国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように。」(28)となっている。この詩篇記者は恵みと平安を受けたのだろうか。よくわからない。しかし、苦しむ人の中には、おそらく、自分と、そして同じように、苦しむ人が入っているのだろう。わたしは、さらに、なかなか、29節のようにはなっていかないことの背景も含めて、状態を苦しむ主がおられるように思える。主の苦しみと共に生きるものでありたい。それが、主の御旨とともに、主のこころをこころとして、生きるものなのだから。 Psalm 23:4,5 たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。 正確にはわからないが、詩篇記者は、かなりの苦しい状態、それも、複雑に絡み合う困難の中に居たのだろう。それが、表現され、その中での平安を告白しているように思われる。ダビデの詩と書かれている。サムエル記上・下の中に、十分表現されているとも思える。ダビデのそれぞれのときの、対応や決断は、問題なしとは言えないが、そのなかで、主に信頼していったことは、そのとおりだと言えるように思う。信仰と正しさは、必ずしも同期していない。しかし、謙虚さを保ちつつも、ひとのできることの重要な部分が神信仰なのかもしれない。 Psalm 24:4 汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。 わたしは、これは、とてもたいせつだと思っている。しかし、同時に、それでは、不十分だとも思っている。しかし、それは、かえって混乱をきたすこともある。同時に、他者にとっての価値判断も加味しないと、適切とは言えないことが、膨大に生じてしまうようにも思う。まだ、整理はできていないが、この点が、一番、自分の中で混乱していることのように思う。自分の内面の問い、それは、神との関係でもあるが、神からのメッセージは、直接ではなく、わたしの周囲の環境や状況、そして他の人からも、知らされると考えているからだ。もう少し学問的に、社会学的、自然科学的、または総合的に知らされる神からのメッセージに耳を澄まさなければいけないと考えている。それは、引用句のような、内面の問だけでは答えられないものに思える。 2022.1.9 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  56. BRC 2021 no.056:詩篇25篇ー詩篇38篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩篇はいかがですか。今週も、詩篇を読み進めます。聖書によっては、詩篇が五巻に分かれているものもあります。第一巻 第1篇-第41篇、第二巻 第42篇-第72篇、第三巻 第73篇-第89篇、第四巻 第90篇-第106篇、第五巻 第107篇-第150篇で、それぞれの巻の最後は、頌栄とよばれる言葉で終わっています。アーメンまたはハレルヤがついています。わたしが今回通読している、聖書協会共同訳は、巻には分かれていません。下にリンクをつけて引用している、「詩篇」について書いてある箇所は、主として、BRC2011, BRC2013 に配信した内容をまとめたものですが、いろいろと書いてありますので、参考にしてください。その中から、前回、書いた内容に近いですが、詩篇について、書いている箇所がありますので、引用しておきます。しばらく前に書いたことを振り返ることができるのも、ノートをつけながら通読を続けている、楽しみの一つです。毎回は、読めませんが。 — 引用 --- ハレルヤは「主をほめたたえよ」の意味ですが、詩編全体が、賛美・賛美の書となっているのですね。 では、どのような内容なのでしょうか。それは読んで味わって頂くのが一番ですが、一般的には、 祈り、賛美、悔い改め、国家、エルサレム、諸国のためのとりなし、神様への信仰告白、神の知恵、力などの表現、国家や神に対する敵への呪い、義人の苦しみ、悪人の繁栄の嘆きなどです。 大きくとらえると、祈りとも言えますし、信仰告白とも言えると思います。つまり人から神へのことばです。こう言い切ってしまうと、聖書は神のことばではないのかと言われる人もいるかも知れませんが、人生や聖書を通して示される神からの語りかけに対して、応答によって神を指し示すと考えられるのではないかと思います。読むときには、わたしたちのような生身の人間の言葉として、苦しみや喜びを読み取ってくださればと思います。その先になにが見えるかはそのあとの問題ですね。 おそらく「呪い」については、ちょっとショックを受ける面もあると思います。しかしこれも人間の一つの告白でしょう。キリストによる神様の愛が明確な形では示されていない、そのときのひとの苦しみ悩みの表現は、すなおにうけとってよいと思います。そして、キリストの愛が示された今は、そのような悩みは存在しないと言えない事も明らかでしょう。 最後に神様の名前の用法、ちょっと難しいですが、をちょっとだけ書いておきます。いまは、いろいろな方法で検索もできますが、 神をヤハウェと特別な言葉で表現する場合と、一般名詞としてのエロヒームと記す場合があります。実は、上の5巻ではこの用法はかなり違っていることが良く知られています。1, 4, 5 巻はヤーウェが圧倒時に多く、エロヒームは殆どでてこない。それに対して、2, 3 巻はエロヒームの方が圧倒的に多く出てきます。日本語聖書でこの違いを見分けることができるかな。 — 引用終わり--- みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇25篇ー詩篇38篇はみなさんが、明日1月17日(月曜日)から1月23日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 25:9 主は苦しむ人を公正に導き/苦しむ人に道を教える。 わたしが決して祈らない、祈りもあるが、「主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください。」(4)は、わたしの祈りと同じである。しかし、引用句にたどり着いて、わたしの心には迷いが生じる。わたしには、このように、告白できないばかりか、「主は、苦しむ人とともに、苦しまれる」としか言えない。苦しみの背景は複雑で、解がない場合がほとんどであると思われるからである。互いに愛し合う、そのことができない。そのことを悩まれる主を思ってしまうのだろうか。主は、それを力づくでは解決されない。それは、互いに愛し合うことにはつながらないから。他の困難はどうなのだろうか。やはり、複雑に絡み合い、それほど、簡単には、解決できないように思われる。 Psalm 26:11,12 私は全き歩みを歩みます。/私を贖い、憐れんでください。私の足は平らな所に立つ。/集会の中で、私は主をたたえよう。 わたしも、たしかに、このように、告白するときがあるだろう。そして、それは、常にではない。しかし、いつも、主を思い、主に語っていれば、そのようなときもあるのかもしれないと思った。信仰告白の普遍化に問題があるとすると、信仰告白を取り上げて、普遍的ではないとすることも、同様に、問題があるのかもしれない。ひとの苦しみや悲しみの日常を考えると、それがそのひとを形作っており、尊厳の源だとも思っている。そうであれば、普遍性をもってすべてに当てはめることも、不適切である。このことを、もう少し、適切に言語化したい。 Psalm 27:4 私が主に願った一つのこと/私はそれを求め続けよう。/命のあるかぎり主の家に住み/主の麗しさにまみえ/主の宮で尋ね求めることを。 主の家とは、主がおられる場所、それは、主とお会いできる場所なのだろう。それは、地勢的な場所ではなく、主の宮と通常言われている場所でもないのだろう。しかし、逆に、そのような場所に住むことは困難でもある。常に、主を尋ね求め、主に心を開いて、主に聴くことが求められているのだろう。同じ場所にいても、会っているとは言えないことは、よくあることなのだから。主は常に、わたしの近くにおられると信じている。しかし、それでも、わたしが、主の近くにいるとは限らない。主の家に住み、主ある限り、主を尋ね求めたい。 Psalm 28:3 悪しき者や悪事を働く者と共に/私を引いて行かないでください。/彼らは友に平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。 確かに、ここに描かれている悪しき者や、悪事を働く者はいる。多いのかもしれない。しかし、わたしは、そのようなひとと最近関係を持っていないように思う。多少は、そのようなことを考えている人はいるのかもしれないが。それは、わたしの活動の場が限られているからか。それとも、ここで言われている心の中まで、入り込んでいないからか、はたまた、わたしが鈍感になっているからか。好んで、そのような人の中に入っていくことが良いことなのかどうかわからない。おそらく、利害関係が生じる、厳しい場面に、最近は、あまり遭遇していないのかもしれない。それも、詩篇記者との距離を遠くしてしまっているのかもしれない。 Psalm 29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。 最後の方にも「主は洪水の上に座し/主は王として、とこしえに座した。」(10) とあるが、これらは何を意味するのだろうか。基本的には、乾燥地帯である。「荒ぶる大水」、「洪水」は何を意味するのだろうか。むろん、イスラエルの民は、ナイルや、チグリス、ユーフラテスの氾濫も知っていたろう。水を豊かに湛(たた)えた世界を、主の座所としているのだろうか。まったく不明である。 Psalm 30:7,8 安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。 自分の不安を吐露し、哀れみを乞うている。正直な詩篇である。これが通常のひとの様子なのだろう。詩篇記者も、そして、一般の信仰者にも、様々な状態がある。そのもとで、信仰とは、主の憐れみとはと考えることなしには、救いはないだろう。 Psalm 31:8 私はあなたの慈しみに躍り上がって喜びます。/あなたは私の苦しみを見つめ/私の魂の苦悩を知っておられる。 このあとを見ると、「主よ、憐れんでください。/私は苦しんでいます。/目は憂いによって衰えました/魂もはらわたも。悲しみによって、私の命は/嘆きによって、私の歳月は尽き果てました。/過ちによって、私の力はうせ/骨は衰えました。」(10,11)とあり、苦しみの原因は、自分にもあることを告白している。いずれにしても、主は、自分の苦しみを見つめ、その苦悩を知っておられることが、一番大きなことなのだろう。苦しみは、ひとを、衰えさせる、力をなくさせる。まずは、その状態を知っておられる方、その方に信頼するものであることを願っているのだろう。 Psalm 32:5,6 私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/「私の背きを主に告白しよう」と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ このゆえに、忠実な人は皆/時に応じてあなたに祈ります。/荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません。 引用句の最後を見ると、大洪水にも影響されない忠実な人は、罪、背きを告白するひとなのだろう。そのような関係こそが、基本なのだろうか。興味深い。背きの罪を告白できないものが、悪しきもの(10)そして、痛みを抱え続けるものなのかもしれない。 Psalm 33:1 正しき人よ、主によって喜び歌え。/賛美はまっすぐな人にふさわしい。 たしかに、主も、それが嬉しいだろう。しかし、同時に、主が愛されるのは、そのような人ばかりではない。そのような人たちの救いを願い、苦しまれるのも主。そうであれば、そのような主を覚え、祈るものでもありたい。それは、さらに、隣人との関係にも帰ってくる。たいせつなかたをたいせつにするために。 Psalm 34:7 苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き/あらゆる苦難から救ってくださった。 続いて「主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き/彼らを助け出した。」(8)とあるが、そうなのだろうか。わたしには、そうは思えない。主は、憐れみ深い方だから。主を畏れない者をも哀れんでおられる。その状態を望んでおられないだろう。わたしがすべきことはなんだろうか。主のこころとともに有りたい。 Psalm 35:1 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。 詩篇記者の敵、争うものとの対立の中での詩篇である。戦い以外にも具体的な記述がある。「彼らは訳もなく私に落とし穴と網を仕掛け/訳もなく私の魂を狙って穴を掘りました。」(7)「悪意のある証人が立ち上がり/身に覚えのないことばかりを問い詰める。彼らは私の善に悪をもって報い/私の魂を不毛なものにした。」(11,12)まったく想像ができないわけではないが、わたしは、相手の背景を考えるだろう。詩篇記者の生きていた世界では、それはできなかったのかもしれない。しかし、このようなことをされていると感じるとき、どのように生きるかこそがたいせつなように思う。敵を呪うことはしたくない。主により頼むことは、共通しているが。 Psalm 36:7 あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。/主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。 主の、正義と公正が賛美され、人も獣も救ってくださるとなっている。主は、これゆえに、苦しんでおられるように思う。真理は複雑だとも言える。しかし「あなたの公正は大いなる深淵」ということばに、詩篇記者も理解し難いが、深い真理がそこに潜んでいることを見ているように思う。獣をも含めているところに、すくなくとも、主の恵みが自分や、人間にはとどまらない範囲に及んでいることも見て取れる。わたしなら、どのように、主について語るだろうか。それなしに、批判的になるのはよそう。わたしには、賛美は難しく、詩は書けないように思うが。 Psalm 37:16 正しき者の持つ僅かなものも/多くの悪しき者の富にまさる。 美しいことばが多く、わたしの好きな詩篇のひとつだ。悪しき者との対比もあり、個人的には違和感があるが、主への信頼、他者への憐れみや施しの箇所が印象的である。引用句は、ほんとうにそのとおりだと思う。しかし「日ごと憐れみ、貸し与える人/その子孫は祝福にあずかる。」(26)については、そうではないのかもしれないと思う。統計的回帰だろうか。やはり、それぞれのひとが、どのように生きるかに依っているように思う。箴言のような詩篇でもある。アルファベット詩とあるので、いつかゆっくり味わってみたい。 Psalm 38:18,19 私は今にも倒れそうです。/常に痛みが私の前にあります。私は自分の過ちを告げ/罪のためにおびえます。 この詩篇記者の痛みとともに、後半が気になった。苦しみや痛みは、自分の過ちや罪の故ではないかと自らを省みている姿に見える。そして、このひとは怯(おび)えている。わたしにも、そのような時期はあったように思うが、いまは、なぜか鈍感になってしまっている。主は、一人ひとりをたいせつにされることは信じているが、一人ひとり個別に、対応されるのではないだろうとも思うからである。どのように、表現したらよいかは、よくわらかないが。 2022.1.16 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  57. BRC 2021 no.057:詩篇39篇ー詩篇52篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 先週、BRC メンバーのご紹介で、お一人加わり、この BRC2021 受信者は、私を除いて、79名になりました。わたしのもとには、記録がありますが、わたしも、お一人お一人について、それほど良く知っているわけではありませんし、みなさんは、どなたがメンバーかもほとんどご存じなく、お互いには知らない皆さんですが、このように共に、聖書を読み、考え、そして、共有できる仲間がいることは、とても幸せに思います。お互いにはわからない相手であっても、歓迎(Welcome = アガパオー ἀγαπάω: of persons, to welcome, to entertain, to be fond of, to love dearly)し合える関係だと良いですね。 詩篇はいかがですか。今週も、詩篇を読み進めます。一つひとつ違うとも言えますし、少し関係がある詩篇が続くこともあります。様々なことが詩という形で表現されています。様々なことには、人間の喜・怒・哀・楽もありますし、葛藤、自問し、自らこれかなという答えのように、言葉を発したり、神様に訴え、信仰告白をし、あるときには、神様からの応答がわからず、受け取れず苦しんだり、本当に様々ですね。王さまについて、国について、敵についてのものもありますし、個人的な対人関係の問題も含まれているようです。みなさんは、どんなことを考えながら読んでおられるでしょうか。 詩篇記者は、2500年から3000年も前に生きておられた方々で、お一人お一人についてあまりよくわかりません。しかし、この方たちも、やはり聖書を読み、考え、あるときは葛藤を抱え、悩み、苦しみ、祈り、叫び声を上げ、また、あるときは、喜び、感謝し、賛美し、詩にしているのでしょう。お互いには知らない方々ですが、このように共に、聖書を読み、考え、そして、共有できる仲間として、お互いにはわからない相手であっても、歓迎(Welcome = アガパオー ἀγαπάω: of persons, to welcome, to entertain, to be fond of, to love dearly)し合える関係だと良いなと思いながら、わたしは、詩篇を読んでいます。それは、とても難しく感じるときもありますが。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇39篇ー詩篇52篇はみなさんが、明日1月24日(月曜日)から1月30日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 39:2-4 私は言った/「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。/悪しき者が私の前にいるうちは/口にくつわをはめておこう」と。私は黙り込み、口を閉ざし/善いことについても沈黙した。/だが、私の苦痛は募り私の内で心が熱くたぎった。/私の呻きで火は燃え上がり/私の舌で私は語った。 不思議な詩篇である。まず「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。」とあり、エドトンと、ダビデの関係が不明である。引用句のあとは、「主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。」(5)と人生のはかなさが語られており、どうも、詩篇記者は、病気だったようである。「あなたによる病を私から退けてください。/あなたの手に打たれ/私は尽き果ててしまいました。」(11)そして、その背景に罪が関係しているのかを問うている。そしておそらくそのことについて「私は黙り込み、口を開きません。/あなたがそうなさったからです。」(10)と語る。全体として、理解できるのは、人間のはかなさ。理解できる部分のいかに少ないか、だろうか。その謙虚さと、実際の苦しみの中での葛藤が引用句や詩篇全体を通して表現していることなのだろうか。こころひかれる詩篇であるが、よくは理解できない。それでよいのかもしれない。 Psalm 40:17 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「主は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。 このように祈るということは、そのようには見えないということだろう。正しく生き、それを伝えてきた詩篇記者が「数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。」(13)と書いている。最後も「私は苦しむ者、貧しい者。/わが主が顧みてくださるように。/あなたこそわが助け、わが救い。/わが神よ、ためらわないでください。」(18)苦しさと信仰・賛美と、祈りが交錯している。生き生きしたすごい詩篇だと思う。わたしも、このように祈りたい。わたしは、ここまでの苦しみや、葛藤を経験していないが。 Psalm 41:2 幸いな者、弱い者を思いやる人は。/災いの日に、主はその人を救い出してくださる。 このあとには、どのように祝福を受けるかが書かれている。「主が守り、生かし/彼はその地で幸いな人と呼ばれる。/その人を敵の思いのままにさせないでください。主は彼が病の床にあっても支えてくださる。/その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる。」(3,4)とある。丁寧に読むと、前半も「敵の思いのままにさせないでください」との祈りであり、後半も「主は彼が病の床にあっても支えてくださる」とあり、病にかからないとか、癒やされるとはしていない。幸いな者とは、主を愛し、主に信頼しているものであって、祝福を受けているものではないのだろう。いずれにしても、きっぱりと、幸いな人を「弱い者を思いやる人」と言い切る潔(いさぎよ)さには、感銘を受ける。それこそが、主を愛する、主の御心に生きることなのだろう。 Psalm 42:12 私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。 まったく同じことばが6節から7節にかけてある。「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(2)は美しいフレーズだが、おそらく、その内容は、引用句で表現されているような、葛藤なのだろう。信仰は、そして、神を、主を、魂からあえぎ求めることは、このような葛藤と一体なのだろう。自らを省み、現実を見て、あえぎならが、叱咤(しった)激励している姿が目に浮かぶ。そのようなものなのだろう。わたしは、そこまでの葛藤を最近していないように思う。 Psalm 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。/それらは私を導き/聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。 この詩篇の最後5節には詩篇42篇12節が再度引用されている。「神に忠実ではない国民」(1b)をさばいてくださいと始まる。正直、そのような部分は読みたくないが、そうしていると、この詩篇記者とは、共に生きることができなくなるだろう。引用句では「光とまこと」を求めている。どのようなことばで表現するかは別だが、神のみこころを求めそれに照らされ、導かれることを願っていることは確かだろう。他の部分も拒否せず、共に受け入れ合い、歩んでいきたい。 Psalm 44:24,25 我らの主よ、目覚めてください。/なぜ、眠っておられるのですか。/私たちを永遠に捨て置かず/起き上がってください。なぜ、御顔を隠されるのですか。/私たちの苦しみと受けている虐げをお忘れですか。 ゆっくりと歴史を語り始める。しかし、最後には、引用句のように激しい言葉が続く。導かれてきた歩みとともに、救い、さばきを訴えている。現代にも通じる神の義についてがテーマである。わたしは、主の苦しみに思いがいっているが、それは、まったく一般的ではない。そして、わたしも、それを、語ることには、注意している。正しさでは、この痛みは癒やされず、この叫びには、答えられないのだから。どうしたらよいのだろうか。 Psalm 45:11,12 娘よ、心して聞け。/よく見て、耳を傾けよ。/あなたの民と父の家を忘れよ。王があなたの美しさを慕うなら/王はあなたの主人。彼の前にひれ伏すがよい。 王に召されるときの詩なのだろう。「百合にあわせて」(1)ともある。儀式の中で歌われたのだろうか。宗教が社会・政治の一部分であった時代なのだろう。しかし、ひとこと書いてみたい。「父の家を忘れよ」はわかるが「民を忘れよ」は、問題を感じてしまう。中央集権ということなのだろうが。主人の前には、そうなのだろうが、主人が誤りを起こすときは、それに従うことで良しとされたのかもしれない。 Psalm 46:9-11 来て、主の業を仰ぎ見よ。/主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」 美しいことばである。このように、願うことは、時代を超えたものなのだろう。そして、それは、最後の部分にあるように、主こそ神であることを、世界中の人たちが認め、崇めることによってなることも自然なのだろう。しかし、人の願い、ひとの考えた、神の計画かもしれないが、主の御心は、違うかもしれないと思う。主は、さらに、驚くべきことを考えておられるように思う。問題は、それほど、簡単ではないのだから。静かに、主の業を仰ぎ見ていたい。 Psalm 47:9,10 神は国々の王となられた。/神は聖なる王座に着いておられる。もろもろの民の諸侯らは集められ/アブラハムの神の民となる。/地の盾は神のもの。/神は大いに崇められる。 最終的な望みが表現されているのだろう。すべての人々、国々が、神の民となる。おそらく、キリスト者でも、それを夢見ている方々が多いだろう。しかし、わたしは、少なくとも、神様は、それが最後の形だとは考えておられないのではないかと思う。たとえそれを望んでおられたとしても。人々の関係は、もっとずっと複雑である。そして、愛によって結び付けられる関係は、単純に語ることはできない。わたしは、この詩篇記者にかわって何を書き、どのように賛美すればよいのかわからないが、そうであっても、この詩篇記者の背後にある祈りとは、こころを合わせたいと思う。それは、主の願いであるかもしれないから。 Psalm 48:5,6 見よ、王たちは時を定め/共に進んで来たが 彼らはこれを見てひるみ/恐怖に陥って逃げ去った。 このようなときもあったのだろう。そして、主を賛美する。しかし、そうでないときも、ある。その中で、信仰は、そして、神理解は、成長していくのだろうか。ある事件・できごとについての解釈には、その解釈者の神理解が影響している。しかし、それが、そのできごとではない、または、それだけが背景ではないことが、ほとんどである。我々が知るのは、一部分だから。世界史的な展開、技術革命、指導力の強い指導者の誕生、そして、気候や、偶然、様々な要素がありうるからである。それらを、どのように、考えたら良いのか、わたしは、まだ整理はできていない。しかし、これらの背後にも、主はおられ、これらの人々にも、主は働いておられるだろうとは、思う。丁寧に、いろいろな面について考えていきたい。主のみこころを求めて。 Psalm 49:21 人間は栄華によって悟ることはできず/屠られる家畜に等しい。 引用句と似たことばが途中に「人間は栄華のうちにはとどまれず/屠られる家畜に等しい。」(13)とある。栄華、富よりも、たいせつなことがあることをこのように表現している。その「悟り」の中心部分と思われるのが次の箇所である。「しかし、人は兄弟を贖うことができない。/神に身代金を払うことはできない。魂の贖いの値はあまりに高く/とこしえに払い終えることはない。」(8,9)ここで「兄弟を贖うことができない」と表現されているのは、興味深い。自分の命ではなく、まず「兄弟」と書いている。これが、たいせつな「悟り」なのだろう。この詩篇をまたゆっくり味わってみたい。 Psalm 50:14,15 感謝を神へのいけにえとせよ。/いと高き方に誓いを果たせ。苦難の日には、私に呼びかけよ。/私はあなたを助け出し/あなたは私を崇めるであろう。」 「私のもとに集めよ/私に忠実な者を/いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを。」(5)と語るが、このあとには「いけにえ」が自分の求めるものではないとの神の声を記している。そして行き着いた表現が、引用句である。この詩篇記者が、神が求めるものとして上げていること。「感謝」と「呼びかけ」である。非常に、シンプルであるが、わたしも、そうかなと思う。感謝は、恵みとして受け取ること、このふたつで、神様との交わりが表現されている。わたしも、そのように、これらをたいせつに生きていきたい。 Psalm 51:3 神よ、私を憐れんでください/あなたの慈しみによって。/深い憐れみによって/私の背きの罪を拭ってください。 美しい有名な詩篇である。「ダビデがバト・シェバと通じたことで、預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(2)と記され、サムエル記下12章1節のことが背景に想定されている。しかし、そのときに、すぐにこの詩篇を詠んだわけではないだろう。「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」(1)サムエル記下にあるダビデの葛藤は書かれていない。ダビデが関与したとしても、あとからの信仰告白のようなものと考えるべきだろう。罪は、神様との交わりの断絶とも表現されるが、その痛みが伝わってこない。最後は「御旨によってシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。」(20)ともあり、国家または民族全体として、神の前にへりくだる、儀式のなかで詠われた詩篇のように思われる。 Psalm 52:11 私は、あなたの計らいのゆえに/とこしえに、あなたに感謝します。/私は忠実な人たちを前に/恵み深いあなたの名に望みを置きます。 「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(2)とあり、サムエル記上21章7,8節、22章9節の、ダビデのサウルからの逃避行の故事が背景に想定されている。「主の計らい」とともに、「忠実な人たち」が記されている。ダビデには、友がおり、そして、相談するひとが近くにいたのだろう。それは、ダビデとの相互信頼関係でもあるだろうが、そのことを「前に」「恵み深いあなたの名に望みを置きます」とされていることが印象に残った。信仰は、自分個人のものだけではない。そして、神様の恵みは、友の存在を通しても示される。 2022.1.23 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  58. BRC 2021 no.058:詩篇53篇ー詩篇66篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) しばらくは、詩篇を読むときが続きます。詩篇はいかがですか。 詩篇を読んでいると、共感できることと、自分はこんなことは考えない、思わないということ、さらには、こんな祈りや賛美が聖書には書かれているのかなど、様々な思いを持たれるのではないかもしれません。様々な感じ方があると思いますが、様々な他者に時空を超えて接することができることは確かなように思います。それも、神様を、みこころを、真実を、正義を求め続けている人たち。痛み、悲しみ、苦しみを抱えながらも、賛美を忘れず、祈り続けている人たち。共感まではできなくても、ひととの出会い、驚かされることも多くあるのではないでしょうか。 詩篇55篇には、周囲に悪がはびこっている状況が書かれ、さらに「私を嘲るのは敵ではない。/そうであるなら耐えられる。/尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。/そうであれば彼から隠れられる。だが、それはあなたなのだ。/私と同等の立場の者、友、心を許した人。 一緒に親しく交わり/神の家を群衆と共に歩いたではないか。」(13-15節)ともあります。許容し難いことが起こり、絶望的な状況で、孤立しているように見える、詩篇記者。呪いのことばも書かれていますが、最後は「私はあなたに信頼します。」(24節)と結び、その前には「あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。 」と勧めをしています。神様を通して、希望を持ち、周囲に目を向けているのでしょう。 最近は、コロナ禍が影響しているのでしょうか、他者との関係がほとんどなく、孤独の中で、絶望し、周囲の人を道連れ死にたいと考えるひとのことが報道されています。詩篇を通して、神様を、みこころを、真実を、正義を求め続けている人たちと深い交流ができればと願っています。すくなくとも、様々なかたがおられることは、実感できると思います。そしてそれは、神様が愛しておられる一人ひとりの多様性、神様の愛の大きさの表現として受け取れるかもしれません。さらに、神様の痛み、お苦しみの一旦も垣間見ることができるかも知れませんよ。 みなさんは、どのような思いをもって、この世の中を見、詩篇記者と交流しておられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇53篇ー詩篇66篇はみなさんが、明日1月31日(月曜日)から2月6日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 53:2 愚か者は心の中で言う/「神などいない」と。/彼らは堕落し/忌むべき不正をなす。/善を行う者はいない。 何度も読んできた詩篇だが、理解は難しい。特に、この「善を行う者はいない」は、4節にもあるが、それは、「神などいない」という者の中にいないということなのか、一般的なことなのか、不明確。文脈からはおそらく、前者なのだろう。「神などいない」は、おそらく、当時は、裁きを恐れないことと関係していたのではないかと思う。現代では、多様性故と考える人が多いのではないだろうか。神義論からそう考える人もいるだろうが。「神などいない」については、もう少し、丁寧に考えてみたいと思う。 Psalm 54:6,7 見よ、神はわが助け。/わが主は私の魂を支える人々の中におられる。敵対する者に悪事を突き返してください。/あなたのまことによって彼らを絶やしてください。 これも故事(サムエル記上23章19節・26章1節)を背景としていることが、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデが私たちのもとに隠れていないか』と言ったとき。」(2)と書かれている。真ん中の2つの文「わが主は私の魂を支える人々の中におられる。敵対する者に悪事を突き返してください。」が気になった。魂を支える人々、詩篇記者はこのことばの中にどんな思いが込めているのだろうか。わたしにとっては、それは、どのような人だろう。たくさんいるようにも思うし、ほとんどいないようにも思う。「悪事を突き返」すなどという表現は、わたしは思いつかない。ついつい、そのひとの背景を考えてしまう。共感するのは、難しい。 Psalm 55:23,24 あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。神よ、彼らを滅びの穴に突き落としてください。/血を流す者と欺く者が/人生の半ばにも達しませんように。/私はあなたに信頼します。 一番ショックなのは「私を嘲るのは敵ではない。/そうであるなら耐えられる。/尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。/そうであれば彼から隠れられる。」(13)からの三節である。 「心を許した人」(14)「一緒に親しく交わり/神の家を群衆と共に歩いた」(15)人が嘲っていることが書かれている。そして、引用句が最後に二節である。「重荷を主に委ね」ることとともに「彼らを滅びの穴に突き落としてください」と祈っている。相反することのようにも思うが、これが人間なのだろう。わたしも表立ってはそのようには、言わないし、そう考えないように思うが、実際は、そのようなこころが強くあるようにも思う。その葛藤のなかで「あなたの重荷を主に委ねよ」と自分の魂に語りかけるものでありたい。 Psalm 56:9 あなたは私のさすらいの日々を/数えてくださいました。/私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。/あなたの記録にはそうするよう書かれていませんか。 訴えからはこの詩篇記者のこころの痛みが伝わってくる。基本的には、自分は正しいと主張しているようだが、理不尽さを訴えているようにも見える。悲しみ、苦しみ、これを、本当に理解して自分の葛藤を理解してくれるひとは、いない。それは、無理なのだろう。それは、主のみ。このことが背景にあるように思う。自分と主。この痛みを、苦しみを受け取ってくださる方、それが主だと信じているのだろう。とても、深い。主、神の側には、ひとには、はかりしれない痛みが、苦しみがあるのだろうが。 Psalm 57:2 私を憐れんでください。/神よ、私を憐れんでください。/私の魂はあなたのもとに逃れました。/災いが過ぎ去るまで/あなたの翼の陰に私は逃れます。 「あなたの翼の陰」美しい詩的表現である。しかし、わたしは、これでは、感覚的すぎるとも考えている。Ego Gram でいうと、わたしは、Adult Ego State 志向が強すぎるからか。なんとなく神様を呼ぶだけで、良いことにしてしまう。わたしは、どうだろうか。神様が求めることを探求し続けるだろう。どこが、主の翼の陰かを知るために。それほど、簡単に決められるものではない。しかし、同時に、探求の期間、ただ、主に憐れみをもとめることはあるように思う。ひとは、そのようなものなのだろう。 Psalm 58:11,12 正しき者はこの報復を見て喜び/悪しき者の血で足を洗う。人は言う。/「まことに正しき者には実りがある。/地には裁く神がおられる」と。 わたしは、このようなことがどうしても受け入れられない。それは、ひとの正しさに忌避感があるからだろう。しかし、ただしさ、主のみ心でもよい、それを求めることは、素晴らしいこと。それが簡単には、わからないとしている。同時に、み心はわからなくても、これは、み心ではないと思うことはある。そうであれば、それをし続けるひとに批判的になっても良いはずである。しかし、それも、なかなかしない。わたしにも、少し、違ったことではあっても、み心ではないと思っていても、それをし続けることがあるからだ。だからといって、それでよいと思っているわけではないが。他者に、厳しくはなれない。 Psalm 59:17 しかし私はあなたの力をたたえ/朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。/あなたはわが砦。/苦難の日の逃げ場になってくださいました。 共にいてくださる方、語りかけ、聞いてくださる方。実際には、その神について、よくわからなくてもよいのだろうか。自分に語りかけていることとの差は何なのだろうか。おそらく、自己を相対化するものがそこにあるのだろう。しかし、それも、外からの情報があったとしても、自分の中から、発せられたもののように思う。あまりに、分析的になりすぎてもいけないと思うが、この、神のとの交わりについては、丁寧に考えていきたい。他者にも説明ができるように。 Psalm 60:3,4 神よ、あなたは私たちを拒み/打ち倒し、怒っておられます。/私たちを回復させてください。あなたは地を震わせ、引き裂かれました。/どうかその裂け目を癒やしてください/地が揺らいでいるのです。 最初には「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。」(2)とある。なにか、内容と符合していないように思われる。最後の方でも、「神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。」(12)と書かれている。サムエル記下8章3-14節の解釈の問題があるのだろうか。何度も戦いはあったろうから、特定できないのかもしれない。よくわからない。 Psalm 61:3 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。/私よりはるか高くそびえる大岩へと/私を導いてください。 正直よく理解できていない。前半は神との関係が書かれ、次に「神よ、あなたは私の誓いを聞き入れ/あなたの名を畏れる人に/継ぐべきものを与えてくださいます。」(6)そのあとには、王についての祈りが書かれている。詩篇記者の中ではつながっているのだろう。その中で、引用句は、印象的だった。自己達成ともとれるが、神様の御心を知る歩みとも取ることができる。自らが、地の果てにいることを認識しており、それを「心が挫けるとき」としている。神が近くおられると感じられるときだけでなく、その距離が絶大であると感じるときにも、このように祈りたい。主の導きに希望を持って。 Psalm 62:11 暴力に頼るな。/略奪に空しい望みを置くな。/富が増えても、心を奪われるな。 若い頃は、殺人が最大の悪で、いのちが残れば、どうにかなると思っていた。しかし、暴力は、ことばの暴力もあり、社会的圧力、経済的貧困によってもたらされるものもある。略奪も、本来は、自分が適正に受け取るべきものではないものに、手を出すことも含まれるだろう。公平性が損なわれることは、略奪でもある。そのようは背景のもとで、富が増えたり、心が、自分がほんとうに求めていることではないことに奪われたりする。引用句に続く「一つのことを神は語り/二つのことを私は聞いた。/力は神のもとにある、と。」(12)はよく理解できないが、神からの語りかけは、様々な形でなされているように思う。上のような考察をしている背景にある、これまで受け取ってきた問いかけを考えても。そして、わたしが受け取ったと思っていることも、暴力の最たるものとして、殺人だけを考えていたように、適切に受け取れてはいないのかもしれない。 Psalm 63:7,8 私が床であなたを思い起こし/夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら あなたは必ずわが助けとなってくださる。/あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。 ここで表現されている信仰はやはり、いとしい人との愛とも近い、関係性であるように思う。床、夜回りのときは、静まったときだろう。そのときに、思うのが主、神である。応答は、受け取ることができるのだろうか。それは、簡単ではないだろう。しかし、そばにいる人であっても、通じ合うことはほんの一部分なのかもしれない。具体的にはわからなくても、信頼する、それは、何によるのだろうか。 Psalm 64:3-5 悪をなす者の群れから/悪事を働く者の騒ぎから私を隠してください。彼らは舌を剣のように鋭くし/苦い言葉の矢をつがえています。物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。 このように見えることはある。しかし、なぜ、そのようにするのかの背景はここには書かれていない。神を恐れないからだろうか。やはり、そのような行為に至る理由があるはずである。わたしは、それを知りたい。あたなのことを教えて下さい。共に、生きるために、ともに喜ぶために。それは、夢物語なのだろうか。正しいものと、悪をなすものを分けなければいけないのか。分けられるかとの問とともに、神様は、それを望んでおられるのかを問いたい。神は、その一人ひとりをも心にかけ、憐れみをもって、見ておられるのではないだろうか。はらわたが傷つくような思いで。 Psalm 65:2 シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。 「あなたには沈黙も賛美」すごい言葉だ。ひとは軽々しく口を開く、おそらくわたしだけでなく。大口をたたくくことばかりではなく、自分にはできないと言ってしまう事も含めて。課題を前にして、おそらく、全知・全能といわれる神ですら、すべてを、一人ひとりに対して適切なこと、恵み豊かな、憐れみにとんだ、業をなすことは、難しいだろう。そうであるにも関わらず、わたしたちは、口を軽々しく開く。神様の思いを抱くこと、だいそれているが、それは、沈黙から始めることなのかもしれない。「沈黙は賛美」と心に刻もう。 Psalm 66:5,6 来て、神の業を見よ/人の子になされた恐るべき業を。神は海を乾いた地に変えた。/人は大河を歩いて渡り/そこで、私たちは神を喜び祝った。 神がどのように導かれたかが書かれ、神殿での礼拝へと進んでいる。実体験、神様がどのように、人生を導いてこられたか、世界を導いてこられたかを振り返ることが最初なのだろうが、神への賛美へと向かえないときが多い。あまりにも、御心がわからなすぎて。それでも、神の業を見させてくださいと、祈りつつ、現在起きていること、過去のことをもしっかりと受け止めたい。 2022.1.30 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  59. BRC 2021 no.059:詩篇67篇ー詩篇80篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆様、詩篇はいかがですか。みなさんは、どのような思いで、詩篇を読んでおられるでしょうか。 わたしにとっては、詩篇を読むことは、詩篇記者との対話、わたし自身との対話、そして、神様との対話であるように思います。そして、それは、わたしが、そして、わたちたちが、多くのひとたちに囲まれて生活し、様々に異なる人達とともに生き、その背後に、わたしには、簡単には受け取ることのできない、苦しみ、痛み、悲しみ、喜び、賛美があることを知る歩みのように思います。住んでいる世界は異なり、神様をどのような方と受け取っているかもかなり異なると思うときもありますが、いま、この時代を共に生きている人のことも思い、対話を続けることができればと願っています。このような関係を通して、自らについても、振り返ることができ、いろいろなかたに支えられ、しかし、ほとんど、その方たちと深い対話をせずに、ここまで来てしまったなとも感じています。もう、召されたかたも多く、その方々の声に静かに耳を傾けることはできませんが、いま、わたしの周囲にいる方々、そして、これまでも、ずっと、対話といいつつ、あまりおちついて聴くことができなかった、詩篇記者に、耳を傾けたいと願っています。 みなさんは、どのような思いをもって、この世の中を見、詩篇記者と交流しておられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇67篇ー詩篇80篇はみなさんが、明日2月7日(月曜日)から2月13日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 67:5 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ 「神さまの裁きの公平さ」について考えてみたいと思った。裁きをどう定義するかは大きな問題だが、まずは、神様がなされていると思っていることとして考えてみる。病気、天災、不慮の事故、疫病などの影響、人間のちからではどうにもならないと思われることについて、「神はいない」と言うひとがおり、多くの場合「神様それはどうしてですか」と問いたくなる。戦争、経済格差や、人種差別、生活環境の違いなど、ある程度人間由来であっても、自分ではどうにもならない場合にもこういうだろう。そして、このようなときに、神の裁きは公平なのかとも問いたくなる。すべてがよかったと言われる、神様が創造された世界。これらが、すべて人間の罪の故とするのも、不適切に思う。すこしずつ整理して考えてみたい。神様は、もっと違うところに思いがあり、悩みを持っておられるのかもしれない。 Psalm 68:20 わが主をたたえよ。/我らの救いの神は/日々、私たちを担ってくださる。〔セラ 「神様からの恵み」について考えてみたいと思った。科学的な事実を知るたびに、(神様が創造された世界では)奇跡的にさまざまなことが組み合わさってわたしたちが生かされていることを知る。ひとと人との関係でも、(神様が置いてくださった)多くのひとに支えられて、感謝の日々を送ることができていると感じる。事故や災害や病気などを考えると、(神様によって)それらから守られていると感じることもある。それを、偶然と取ることも、できないことはない。たとえそうであっても、偶然のなかの、そのような状態に置かれたものとして、感謝のこころを持つことも、奇跡的ではあるがすばらしいことのように思う。神の裁きを考え、神の恵みに感謝する。その事自体がとても幸せであるように思う。 Psalm 69:33,34 苦しむ人はこれを見て喜びます。/神を尋ね求める人よ/あなたがたの心に命が与えられますように。主は貧しい人に耳を傾け/捕らわれた民を決して侮ることはありません。 複雑な詩篇であるが、それ故にこの詩篇記者の苦しみと悩みが伝わってくるようでもある。引用句はその最後の方にある。正しい人ではなく、「苦しむ人」「神を尋ね求める人」「貧しい人」「捕らわれた民」に目が向けられている。この詩篇記者の痛みを思い、祈りをともにしたい。最近、いろいろな相談を受ける。どうすることもできないものが多いが、痛みは伝わってくる。求める心、どうすることもできない無力感だろうか。この詩篇記者と同じなのかもしれない。 Psalm 70:5 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「神は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。 暖かい言葉である。しかし、実際には困難なこともある。自分の敵とすら考えてしまうような相手も、神様を尋ね求めるひとであったりする。異なる神とすることもできるかもしれないが、それは、この詩篇記者のことばを裏切ることにもなってしまうだろう。真理を尋ね求める人すべてが、喜び楽しみ、救いを得る、それをわたしも願い、そう祈りたい。真理はどうなのだろうか、神様は、どう思われているのだろうか。実際は、とても複雑であるようにも思う。 Psalm 71:17,18 神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。 前半はわたしの告白としても言えるように思う。しかし、後半は、少し違う感覚になっている。今のわたしは、主に信頼しつつも、自分でできる限り、主を求めることに集中したいと願っている。そのなかで、主を認めていきたい。それは、自己中心なのだろうか。その面が頭をもたげることは確かにある。しかし同時に、自分でしなければいけないことが山ほどあるとも感じている。おそらく、神様から委ねられたものとして。 Psalm 72:17 王の名がとこしえに続き/その名が太陽のあるかぎり栄えますように。/すべての国民が彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。 わたしは王制のもとにいたことがなく、戦前の天皇制の課題を教えられてきたこともあり、背景になかなか実感がわかない。しかし、教育が十分行き渡っていないときには、強いリーダーシップが必要であることは理解できる。それだけではなく、制度自体が問題を解決すると信じ、単純に民主主義を唱えることにも問題も感じている。しかし、統治が適切になされることについて祈るのは自然で、必要である。自分ですることはできず、様々な知恵も必要なのだから。問題をあげて、責任を追求するより、課題をみなで、さがして、協力して改善していくものでありたい。統治者たちについて祈りつつ。 Psalm 73:3-5 悪しき者の安泰を見て/驕り高ぶる者を妬んだ。彼らには苦しみがなく/体も肥えて健やかである。人間の負うべき労苦もなく/人々のように打たれることもない。 このように妬みや羨む心があるときは、結局、その人たちと同じものを求めていることが露呈している。祝福を得ることが、最終目標なのか。祝福とは何なのか。神様との信頼関係のもとでの祝福とは。それを考え直したい。綺麗事だろうか。 Psalm 74:18 主よ、心に留めてください/敵があなたを嘲るのを/愚かな民があなたの名を侮るのを。 そのときに、神の痛みを覚えたい。主は、どのような苦しみを感じておられるだろうか。おそらく、嘲りや侮りよりも、さらに深いことのように思う。そのようなひとのこころ、その背景を思っておられるのではないのか。そしてそのような敵対している世界を。主のみこころを求めたい。 Psalm 75:3,4 「私は時を選び/公平に裁く。地とそこに住むものすべてが揺らいでも/私は地の柱を堅くする。」〔セラ 最後には「私は悪しき者の角をことごとく折る。/正しき者の角は高く上げられる。」(11)とあるが、このような二分法をわたしは、支持していない。神様もそうなのではないかと思う。引用句における「公平に裁く」これは、人間には、到底理解できないように思う。「公平」は、一人ひとりが同じ地平に立つものとしてという意味だろうが、裁きを、そのようには、人間には語れないように思う。それで良いのかもしれないし、その葛藤や、痛みを、しっかり持ち続けないければいけないのかもしれない。「公平」とはなにかを問いつつ。 Psalm 76:10,11 神は裁きのために立ち上がり/地の苦しむ人をことごとく救われる。〔セラ 憤る者さえあなたをたたえ/怒りを免れた者はあなたを祝う。 「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。/怒りを発せられるとき/誰がその前に立ちえようか。」(8)この感覚は、理解できる。そして、引用句の「地の苦しむ人をことごとく救われる」に期待するのだろう。しかし、次の「憤る者さえあなたをたたえ/怒りを免れた者はあなたを祝う」は興味深い。「憤る者」をどう捉えるかはいろいろだろう。単に、神の裁きが遅いと、義憤を持っているものととることもできる。しかし、裁きが理不尽に見える人とも取ることができるかもしれない。御心をひとは、完全には理解できないのだから。 Psalm 77:8-10 「わが主はとこしえに捨て置き/もう二度と顧みてくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われ/約束は代々にわたって絶たれてしまったのか。神は恵むことを忘れ/怒りのあまり憐れみを閉ざされたのか。」〔セラ 主の救い、恵みが受け取れず、自分は、完全に捨て置かれたと感じたことが引用句に書かれている。この詩篇記者はそのあと、歴史を思い、過去にどのように、主が導かれたか、恵みを賜ったかを、書いている。主からの応答は、なかなか受け取れない、みこころがわからないときが長く続くときは多い。まずは、恵みを思い、どのように、恵みを賜ったか、さらに、その背後にある、主のみこころを受けとりたいものである。 Psalm 78:1 マスキール。アサフの詩。/民よ、私の教えを聞き/私の口の言葉に耳を傾けよ。 民に伝えたい、たいせつな事、それは、主がどのように導かれたか、そして、どのように、我々その民が反抗してきたかの歴史のようだ。わたしは、何を、後代、こどもたち、まごたち、わかいひとたちに伝えようか。主の恵み深さ、主がどのように導かれたかも伝えたい。しかし、どのように、求め続けてきたか、主のみこころを求め続けることについて伝えたいと、今は思っている。それは、まだ、自分を伝えたいことになっているのかもしれない。まだまだ、わたしが学ぶべき、基本的なことがたくさんあるのだろう。謙虚に求めたい。 Psalm 79:8 先祖の過ちを思い起こさないでください。/あなたの憐れみが/私たちを速やかに迎えてくださいますように。/私たちは弱り果てました。 つらい詩篇である。どの時点のものかはわからないが、エルサレムとあるので、南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされたことが背景にあるのだろう。先祖たちの過ち、そして「私たちの罪をお赦しください。」(9b)ともあるので、自分たちの過ちも自覚している。主と、イスラエルの民との関係について、幼児のように考えてはいけないと、することも可能だろうが、あらゆる面で、大きな危機の時代であったことは、想像できる。批判することは、容易いが、この詩篇記者のところに自分を置いて、ゆっくり考え、感じてみたい。その痛みを。そして、主の痛みにも、思いを馳せてみたい。可能かどうかはわからないが。 Psalm 80:20 万軍の神、主よ、私たちを元に返し/御顔を輝かせてください。/その時、私たちは救われるでしょう。 「万軍の神、主よ」の呼びかけが「神よ」(4)「万軍の神よ」(8)と、少しずつ力が入ってきているが、ほとんど同じことばが3回記されている。「私たちを元に返し/御顔を輝かせ」が「救い」だと告白している。印象的である。「元に返し」こそが願いなのだろうが、それを「御顔を輝かせ」ることに結びつけている。いまは、わたしたちの方を見ていないという表現なのだろうか。教会での派遣の祈りにも使われる「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように。」(民数記6章24-26節)を思い出す。わたしがなかなか実感をもって受け取ることができない聖句でもある。ゆっくり、味わってみたい。 2022.2.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  60. BRC 2021 no.060:詩篇81篇ー詩篇94篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週も、詩篇を読み進めます。皆様、詩篇はいかがですか。聖書には、長い期間にわたって書かれた、様々な文書が含まれていますが、詩篇に含まれているものだけでも、形式も内容も、とても多様ですね。おそらく、それは、詩篇記者が多様なことの反映であるとともに、詩篇記者である信仰者が、置かれた、向き合っている状況の多様さ、さらに、信仰者の神様との向き合い方が多様だからなのでしょう。そのなかからみなさんは、何を読み取っておられますか。一人ひとり多様な詩篇記者と対話しておられますか。 多様さは、それ以外にも、詩篇がどのように、礼拝の中での使われ方も関係しているかもしれません。交読文を交唱する教会が多いのではないでしょうか。司会者と、会衆が交互に読んでいくものです。詩篇だけではありませんが、詩篇が多く含まれています。自分ひとりで、聖書を読むという形式とはかなり異なりますが、司会者の声に耳を傾け、他の会衆とこころを合わせて詩篇を唱える。この意味合いも多様なのでしょうが、神様からの語りかけを聞き、自分のこころを注ぎだすものもあるのかもしれません。礼拝の形式が整えられていく中で、まとめられていった詩篇もあるのかもしれませんね。賛美であり、祈りでもある詩篇。ことばの響きがこころの響きとなるとよいですね。 みなさんは、どのような思いをもって、この世の中を見、詩篇記者と交流しておられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇81篇ー詩篇94篇はみなさんが、明日2月14日(月曜日)から2月20日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 81:16,17 主を憎む者が主に屈し/その災いの時はとこしえに続くがよい。「私は最上の小麦で民を養い/岩から出る蜜であなたを満たそう。」 主語がわかりにくいが、交読・交唱していたのかもしれない。ひとの声と、神の声。すると、引用句の前半は、人の声、後半は、神の声なのだろう。そう考えると、前半の思いも、許容できるように思える。詩篇の中で、主の思いと、人の思いを、明確に分けることはできないし、現実的には神の声も、ひとが受け取ったものであることに間違いない。しかし、そのように、少しずつ、こころが清められ、主の思いを受け取っていく過程が表現されているとすると、とても興味深い。交読文は、礼拝で読まれ・唱えられる。これからは、もう少し丁寧に、意識して考えながら唱えてみよう。 Psalm 82:5 彼らは知らず、悟らず/闇の中をさまよう。/地の基はことごとく揺らいでいる。 悟らない内容は、この前に引用されている部分だろう。「 あなたがたはいつまで不正に裁き/悪しき者におもねるのか。〔セラ 弱い人やみなしごのために裁き/苦しむ人や乏しい人を義とせよ。弱い人や貧しい人を救い/悪しき者の手から助け出せ。」(2-4)しかしこれが行われない現実が目の前に広がっている。それをうけて、最後には「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての国民をご自分のものとされます。」(8)と叫んでいる。葛藤と祈り、理想と自戒。ひとを「あなたがたは神々。/あなたがたは皆、いと高き方の子。」(6)神の子としていることでも有名な詩篇であるが、その現実の複雑さも表現している。興味深い。 Psalm 83:12,13 彼らの諸侯たちをオレブとゼエブのように/王侯たちすべてを/ゼバとツァルムナのようにしてください。彼らは言いました/「神の牧場を我らのものにしよう。」 オレブとゼエブは、士師記のギデオン物語の中にあるが、引用の後半は書かれていない。記録があったことを否定はできないが、伝承はあったのだろう。これをとんでもないことと評価しているのだろう。しかし、いまのわたしは、神様がどう見ておられるかはわからないよと思い、冷ややかな目で見てしまう。冷静さ、客観さは、必要では有り、危機においては、とくにたいせつにすべきことではあるが、同時に、共感をし、ともに生きることを困難にさせるようにも思われる。他者のこころは基本的には理解できないなかで、他者の思いをみずからのおもいとすることはほんとうに難しい。よくわからないで同情することは、その他者をかえって傷つけることにもなる。共観が困難ななかでの共感、それが必要だとは思うのだが。 Psalm 84:10 神よ、私たちの盾を見てください。/あなたの油注がれた者の顔に目を向けてください。 なかなか、詩篇記者とこころをあわすことができない。背景には、リーダー、王を「あなたの油注がれた者」ということに、抵抗があることもひとつだろう。信仰に、儀式が加わり、このことが実際にそのとおりであることが、民に共有される。「神である主は太陽、盾。/主は恵みと栄光を与え/全き道を歩む者に/良いものを惜しむことはありません。」(12)もう一つは「全き道を歩む者に」といいきるところに、抵抗があるからか。王にも、リーダーにも、そして、全き道を歩む者ににも、迷いさまよっているものにも、愛を注がれる主に出会ったことが、かえってひとをさばくことになってしまっているのかもしれない。注意したい。イエス様ならどうされるだろうか。共に、聖書を学ぶことができたらと思ってしまう。 Psalm 85:9 主なる神が何を語られるかを聞こう。/主は平和を語られる/その民に、忠実な人たちに。/彼らが愚かさに戻らないように。 前半はアーメンと唱えられるが、後半は今の私にはアーメンとは言えない。このあとに、以前は好きだった美しい言葉が並ぶが、ただしさについて少し違う感覚を持ってしまっているからだろう。しかし、主なる神が何を語られるかを聞こう。そして、他者が、このことばに、アーメンと唱えているときには、静かに黙想し、その方の声にも耳を傾けよう。その結論に至る、考え方、そして、その方が、経験してきたことを通して、主は語られるのではないかと思うから。あまり、自分は、それが得意ではないかもしれないが、その大切さは、少しずつ理解してきているつもりである。たとえ、教条的な理由をその方が述べたとしても、それでもよい。その、背後にある声を、聴きとりたい。神様からのことばとして。 Psalm 86:11 主よ、あなたの道を示してください。/私はあなたのまことの内を歩みます。/私の思いを一つにし/あなたの名を畏れる者にしてください。 「祈り。ダビデの詩。/主よ、私に耳を傾け、答えてください。/私は苦しむ者、貧しい者です。」(1)とあり、引き続いて、様々な願いが書かれている。まずは、わたしの祈りと同じではないと読んでしまうが、そうではなく、この方を理解しようと心を向けるのがよいのかもしれない。引用句のように、わたしと同じように、主、神様の道を求めて、歩んでいる一人の神様が愛しておられるひとがおられるのだから。少し読み方が広がるかもしれない。それを期待することも、あなたの道を示してください。わたしは、あなたのまことの内を歩みますの一部分なのかもしれない。 Psalm 87:4 「私はラハブとバビロンを/私を知る者として挙げる。/見よ、クシュと共に、ペリシテとティルスも。/この者はそこで生まれたと。」 ラハブは何回か聖書に現れるが、ここでの意味は不明である。おそらく、バビロンの並べてあるので、罪人または、悪人の代表をしているのだろう。そのあとには、クシュ、ペリシテとティルスが現れる。明らかに、イスラエルとは、異なる民族を表現しているのだろう。「そこ」もまた不明であるが、この前の節は「神の都」とあるので、それを意味しているのかもしれない。「主はもろもろの民を数え上げる/『この者はそこで生まれた』と記すときに。〔セラ」(6)とも呼応して、すべての民がそこで生まれたと唱えられているのだろう。結びは、「歌う者も踊る者も言う/『私の泉はすべてあなたの内にある』と。」(7)である。自分たちにとどまらない者たちの主という賛美なのだろう。問題はあるとは思うが、そのような発想ができていることは、やはり素晴らしい。 Psalm 88:19 あなたは私から愛する者と友を遠ざけ/闇だけが私の親しいものとなりました。 この詩編の最後のことばである。このように終わる詩編は珍しい。しかし、それ故に、とても、現実味と真実味が感じられる。ひとは、まさに、そのような中で生活しているのだろう。愛するものと友が遠ざけられた状態。闇だけが私の親しいもの。私も、かつてそのような感じた時があった。おそらく、現実は、心配してくださった方が何人もおり、愛するものも、友も、近くにいたのだろうが。ひとの痛み、苦しみ、やはりよくは理解できない。 Psalm 89:47,48 主よ、いつまでなのですか。/永遠に隠れておられるのですか。/憤りはいつまで火のように燃え続けるのですか。心に留めてください。/私の寿命がどれほどのものなのかを。/あなたがすべての人の子を/いかにはかなく創造されたかを。 「私は私が選んだ者と契約を結び/僕ダビデに誓った。『あなたの子孫をとこしえに堅固なものとし/あなたの王座を代々に築こう』と。」(4,5)からはじめ、現在、主に見捨てられ、荒廃した状態であることが書かれ、引用句に至っている。どの時代のものなのかは不明である。一般的には、バビロニアによって最終的に滅ぼされて以降と考えて良いのではないかと思う。この祈りは、最後「主をとこしえにたたえよ。アーメン、アーメン」(53)と唐突に終わる。しかし、それ故にこそ、信仰者の葛藤が伝わってくるようである。そして、おそらく、その寿命の間に、光を認めることができずに、なくなっていったかたも多かったのだろう。考えさせられる。 Psalm 90:12 残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。 ある年齢に達するととてもこころに響くことばである。しかし、この詩篇記者は続けて「主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。/あなたの僕らを憐れんでください。」(13)と言っていることからも、当惑したなかにいるように思う。単に、余生をどう生きるかを、問うているのではない。そのなかで、賛美もしているが、この葛藤こそが、人生、信仰なのだろう。もっと、この詩篇記者に寄り添って、丁寧に読んでみたい。悠久の中を生きる神と、一瞬の中で苦しむ人間、その対比が美しいことばで語られている詩篇であもる。 Psalm 91:1,2 いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。私は主に申し上げる/「わが逃れ場、わが城/わが神、わが頼みとする方」と。 このあとに、「まことに主はあなたを救い出してくださる。」(3a)として、様々な災厄から守られることが書かれている。わたしはすぐこれは危険と思ってしまう。逆に、守られていない人は、主に信頼していない人だとして裁きが始まると思うからだ。しかし、おそらく、そのときに、踏みとどまればよいので、ここでは、この方の信頼を称賛すればよいのだろう。災厄には「闇に忍び寄る疫病も/真昼に襲う病魔も。あなたの傍らに千の人が/あなたの右に万の人が倒れようとも/その災いがあなたに及ぶことはない。」(6,7)とも書かれている。コロナ禍で、わたしがすべきことは、わたしにできることを探すこと、他者とこころをあわせること、そして、できないことについて、主に祈ることなのだろう。主の御心を求めて。すくなくとも、このような信仰を持った方を裁くことではない。 Psalm 92:5,6 主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。/私はあなたの手の業を喜び歌おう。主よ、あなたの業はなんと大きく/あなたの計らいはいかに深いことか。 この詩篇は「賛歌。歌。安息日のために。」(1)と始まる。わたしは、賛歌、賛美が苦手である。いろいろと考えすぎてしまうのだろう。それが自分の思考の傾向であることを認めて、他者の考えや、行動を感謝できるものでありたい。そして、わたしのようなものをも、主が、よころんで、愛してくださることを感謝しよう。謙虚に。 Psalm 93:1 主は王となられた。/主は威厳をまとい/力の衣を身に帯びておられる。/世界は固く据えられ/決して揺らぐことはない。 このあとには、出そうな反論に答え、少し修正するかのごとく「王座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえよりおられる。」(2)しかしこの微妙な感覚が、信仰告白だとも考えられる。主は常に主権をもって統べ治められる方、しかし、完全にそのようになっているようには、人間の側からは見えない。同時に、それは、信仰者の望みであり、祈りでもある。「御国が来ますように。/御心が行われますように/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)の主の祈りもそれと通じるのか。ゆっくり考える必要のある課題であると思う。 Psalm 94:1,2 報復の神、主よ。/報復の神よ、輝き出てください。地を裁かれる方よ、立ち上がり/高ぶる者に報いてください。 「報復の神」には驚かされる。しかし、「主よ。/幸いな者/あなたに懲らしめられ/あなたの教えを受ける人は。あなたはその人の災いの日々にも/憩いを与えられる。/悪しき者には滅びの穴が掘られる。」(12,13)ともあり、単純に「報復」を「仕返し」ととるのは、誤りなのかもしれない。同時に、背景には、現実世界の矛盾・理不尽さの認識もあるように思われる。信仰とは、それを単に自分の人間の怒りに変えず、その意味、背後におられる主の御心を問うところにあるのかもしれない。そのような相対化が、あらたな視点を生み、世界を違ったかたちで捉えることができるのだから。それが「あなたはその人の災いの日々にも/憩いを与えられる。」のような味方も生むのだろう。不思議だが、魅力的な言葉である。信仰告白であり、普遍的な事実、他者にも適用可能なこととして述べているわけではないが。 2022.2.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  61. BRC 2021 no.061:詩篇95篇ー詩篇108篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週も、詩篇を読み進めます。皆様にとって、詩篇はどのようなものでしょうか。聖書の巻の中で、一番長いのが、詩篇ですが、それぞれ異なる、一人ひとり、生まれも、育ちも、神様との関係も、向き合い方も、味わってきた悲しみや苦しみも、そして、喜びも異なるひとたちの、魂の声でしょうか、同時に、日常生活の中で、主のもとに戻るために詠われた詩でしょうか、喜びや、悲しみ、怒りや、苦しみ、辛さによりそってくれるものでしょうか、それが、様々な表現で書かれているものが、このように収められているのは、聖書をどのような書物と考えるかは、人によって少しずつ異なるでしょうが、やはり素晴らしいことだと思います。詩篇は150篇までですから、あと少しですね。みなさんは、何を感じ、何を読み取っておられますか。それぞれが異なる豊かな対話を詩篇の一つ一つとしてくださっていることを願っています。 毎回、このメールを送る前に、下につけている、対応する箇所について自分で書いているものを読み返し、今回はなにを書こうかなと考えながら、誤字脱字をチェックしているのですが、今回の箇所には「その前」「主の前」「その前」と「前」について三回書いていることが、目に留まりました。みなさんより少し早く、二週間ほどまえに読んだ箇所なのですが、最近、この「前」について、違う味方を教えられましたので、少し書かせてください。 実は、ホームページに、この通読のことを載せているので、そのことについて、メールを頂くことが時々あります。昨年末には「チャレンジ聖書通読」という本を、著者の鎌野善三牧師から送っていただきました。わたしが勤めていた大学の出身者で神学校の校長もされていた方です。一度お会いしてお話したこともあるので、ホームページに気づいてご連絡くださったようです。その中で「わたしは全能の神である。あなたは私の前に進み、全き者であれ。」(創世記17章1節から12節(新改訳))の部分から次のように書かれていました。「『あなたは私の前に進み』と主は仰せられましたが、これは、主を背後において、主の前を進んでいくことではありません。『前に』と訳されているヘブル語は『顔に向かって』とも訳せます。つまり主の顔を見ながら歩んでゆくことです。天地を創造された全能の神は、私たちの肉眼で見ることなど決してできません。けれども聖書には、『主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように』(民数記6・26)とか『御顔を しもべの上に照り輝かせてください』(詩篇31・16)とかの表現があちこちにあるのです。では、『御顔を見る』とはどういうことなのでしょうか。」(p.77)と続けておられます。いろいろな方から、神様について、信仰について、学ばせていただけることは、本当に幸いなことです。特に、詩篇を読んでいると強く感じることでもあります。鎌野善三牧師は聖書通読について何冊も手引を書いておられます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇95篇ー詩篇108篇はみなさんが、明日2月21日(月曜日)から2月27日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 95:1,2 さあ、主に向かって、喜び歌おう。/救いの岩に喜びの声を上げよう。感謝のうちにその前に進み/賛美と共に喜びの声を上げよう。 「その前」が印象に残った。おそらく「救いの岩」をさすのだろう。主は救い、その前を進むということは、様々な解釈が可能だろう。一つは、常に、後ろには、主の救いがあるという確信のもとに歩むこと、もう一つは、救われたことにとどまらず、前に進んでいくこと。信仰と希望だろうか。どのように進んでいくかは課題としても、委ねられたものに忠実に、主のみこころに生きることをこのように表現して歩んでいきたい。 Psalm 96:13 主の前に。/主は来られる。/地を裁くために主は来られる。/主は義によって世界を/まことをもってもろもろの民を裁かれる。 最初にある「主の前に」は直前の「天は喜べ。地は喜び躍れ。/海とそこに満ちるものは、とどろけ。野とそこにあるものも皆、喜び勇め。/森のすべての木々も、喜び歌え」(11,12)が対応しているのだろう。「喜び歌え」引用句からすると、それは、希望につながっているということだろうか。正直、裁きを期待をもって待つことは、個人的にはできない。自分が裁かれることも、人が裁かれることも、地が裁かれることも。神様は、それを望んでおられないのではないだろうか。しかし同時に、裁きを望む、理不尽さの中に生きているひととともに生きることをしたい。難しいけれども。 Psalm 97:11,12 光は正しき人に/喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。正しき者よ、主によって喜べ。/主の聖なる名に感謝せよ。 これだけを取り出せばそのとおりかなと思う。同時に「正しき者」について考えてしまう。神様からみて「正しき者」であろう。それは、判断が困難である。しかしそうであっても、この詩篇の最後の「主によって喜べ」は、わたしもアーメンといい、それを自らにも語りかけたい。喜びのもとは、自分のうちにはなく、希望は人々の中にではなく、主のもとにあるのだから。それが、よくわからないことも、希望と言う名にふさわしいように思う。 Psalm 98:1,2 賛歌。/新しい歌を主に歌え。/まことに主は奇しき業を成し遂げられた。/主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。主は救いを知らせ/正義を国々の目の前に現された。 「新しい歌」の内容は「救い」と「裁き」である。それだけ、地上は、不義で満ちているということだろう。理不尽に思うことがあるとも表現できるかもしれない。しかし、どのような状態がよいかは、正直ことばにできない。正に、複雑系である。神様のもとに答えがあるかどうかは不明で、神様も悩んでおられるかもしれないが、主を、みこころを求めよう。それは、単に、祈るだけではなく、神様からのあらゆるメッセージに耳を傾け、目をを凝らして。 Psalm 99:4 王は力ある方、公正を愛される。/あなたは公平を堅く打ち立てられた。/ヤコブの中に公正と正義とを/あなたは成し遂げられた。 「主は王となられた。」(1a)から始まるので引用句での「王」は「主」だろう。公平は、とても困難で、定義も難しいが、わたしが、いちばんたいせつなものとして追い求めているものだが、ここでは「公正と正義」も現れる。そして「ヤコブの中に」とある。おそらく、「王」ということばも「ヤコブ=全イスラエル」に結び付けられているのだろう。6節から8節には「モーセとアロンは祭司の中に/サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。/彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。」(6)から、関係が書かれている。主をどのような方として賛美するかは、難しい。 Psalm 100:2 喜びながら主に仕えよ。/喜び歌いつつその前に進み出よ。 「喜びながら」が印象に残った。喜ぶことは、人に強いられたり、勧められたりするものではないだろうが、「喜びながら主に仕える」ものでありたいとどうじに、わたしにとって「主に仕えることは喜び」という日々と思えるときは本当に幸せである。わたしはどうだろうか。おそらく「主に仕えることは喜び」と言ってもよいと思うが、実際には、様々な痛みや、苦しみなどが、その思いを覆い隠しているように感じる。しっかり、内省してみたい。ゆったりとした気持ちで。 Psalm 101:1 ダビデの詩。賛歌。/慈しみと公正を私は歌い/主よ、あなたに向かってほめ歌います。 慈しみと公正は愛と義だろうか。しかし、それは、個人がどのように生きるかについて言っているようにも思う。「私はこの地の誠実な者に目を向けます。/彼らは私と共に住みます。/全き道を歩む者が私に仕えます。欺きをなす者は/私の家の中に住むことはありません。/偽りを言う者が/私の目の前に立つことはありません。」(6,7)主の慈しみと公正について、もっと学びたい。同時に、この詩篇記者とともに「慈しみと公正」について語り合えたらと思う。お互いに、Welcome しあい、共に生きるために。 Psalm 102:24 主は道半ばで私の力を挫き/私の生涯を短くされた。 このあとには「私は言う。/『わが神よ/生涯の半ばで私を取り去らないでください。/あなたの歳月は代々にわたります。』」(25)ともあり、先があまりないことを想起させる。病気だろうか。他の理由だろうか。わたしは、結婚前は、特に米国で、いまから考えると、かなり危険なことをいろいろとしていた。そこで、生涯が終わっていたかもしれない。そして、その後、子どもたちが小さかった頃、あとすくなくとも何年は生かしてくださいと祈っていた。いまはもう十分生き、いつ主に召されてもよいと正直思っている。しかし、特に、30代、40代に、この詩篇記者のような状態になったら、自分はどう向き合っていただろう。ひとの苦しみは、わからない。そして、自分の苦しむ姿が想像できないことが、他者の苦しみにより添えない理由でもあるように思う。 Psalm 103:3-5 主はあなたの過ちをすべて赦し/あなたの病をすべて癒やす方。あなたの命を墓から贖い/あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。あなたの望みを良きもので満たす方。/こうして、あなたの若さが/鷲のように新しくよみがえる。 直前には「私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな。」(2)とありその「計らい」について書かれている最初の部分を引用している。アーメンと言いたいところだが、なにか、こころからは言えない。それがわたしの性格なのだろう。わたしなら、どのように「主の計らい」を表現するだろうか。共に考え、悩んでくださり、どんなときにも、じっとそばにいて支えようとしてくださる。おそらく、わたしが表現しているのは、わたしがしっくり来ることではあるが、ほかにもいろいろとあり、他のかたがたには、また別の計らいが受け止められているのだろう。 Psalm 104:14,15 家畜のために草を/人間の働きに応じて青草を生やす方。/こうして主は地からパンと人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し/油で人の顔を輝かせる。/パンは人の心を強くする。 主がどのような方かを語り、賛美している詩篇である。青草、パン、ぶどう酒、油と出てくるのが興味深い。おそらく、いまは、素晴らしいものとして誉め讃えるものが、人工物に変わってしまっていることも、主にこころが向かないことなのかもしれないと思った。しかし、実は、この箇所だけではなく、現代では目が向かないが、様々なものに養われていることは確かで、人工物では立ち向かえない。人工物はひとの欲の部分に答えるものだからだろうか。ゆっくり、じっくり、恵みを数えてみたい。 Psalm 105:45 これは彼らが主の掟を守り/主の教えに従うためである。/ハレルヤ。 「主に感謝し、その名を呼べ。/もろもろの民に主の業を知らせよ。」(1)から始まり、引用句で終わる。中心には、アブラハムとの契約からはじめ、ヨセフのことと、出エジプトについて語られている。これらすべては、主のみこころに生きるためということだろう。それは、なにも、主の言いなりになるというわけではなく、完全な平和の中で喜びに満ちて生きることが言われているのだろう。同時に「主の僕アブラハムの子孫よ/主に選ばれたヤコブの子らよ。」(6)とあるが「もろもろの民に主の業を知らせよ」(1b)と、目は世界に開かれている。最後にハレルヤとあるが、次の詩篇は、ハレルヤで始まっている。 Psalm 106:47,48 我らの神、主よ、私たちを救い/国々から集めてください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ。」 最後の2節、そして、写本によっては、第4巻の終わりである。前の105篇とも同じ記者なのではないかと思わされる継続性がある。105篇では主の恵みが、106篇では民の不従順のなかで守られたことが書かれている。引用句を見ると、国々に散らばっていることがわかる。細部は、十分読み取れていないが、美しい言葉も有り、捕囚後の苦しみの中で、105篇、106篇が書かれたと考えると、やはり、印象深い。 Psalm 107:6,8 苦難の中で主に叫ぶと/主は彼らを苦しみから助け出した。主に感謝せよ。その慈しみと/人の子らになされた奇しき業のゆえに。 6節と8節は、微妙なことばの違いはあるが、13節と15節、19節と21節、28節と31節にあり、その前に、背景が、その間に、どのように贖われたか(2)が書かれている。興味深い詩篇である。最初には「国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。」(3)とあるが、まさに、様々な背景のものが、様々に、主のもとに集められていることが表現されているのだろう。それこそが、主の民なのだろう。ゆっくり学んでみたい。 Psalm 108:6,7 神よ、天の上に高くいませ。/あなたの栄光が全地にありますように。あなたの愛する人々が助け出されるように/右の手で救い/私に答えてください。 賛美は、苦難のときの祈りと一対であるように思われる。たしかに、何もないときの賛美は、薄っぺらになりやすい。そのときであっても、自らの経験や、周囲のひとたちの苦悩の中での賛美であるはずなのだろう。わたしも、祈りのときに、苦しんでいる人に思いをはせ、すくなくとも、思い出すようにしている。形式的になってしまうことも多いが、それでも、そのときをたいせつにしていきたい。 2022.2.20 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  62. BRC 2021 no.062:詩篇109篇ー詩篇122篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩篇も後半部分に入っています。詩篇を読み、詩篇記者と対話し、自分自身とも対話し、他者を思い、また、神様に祈っている方もおられるでしょう。詩篇記者も様々な困難の中を生きていたことが伺われますが、現代でも、神様に叫ぶことしかできない状況の方々がたくさんおられるのでしょう。ヨーロッパでは戦争が始まりました。その場におられる方、そこで、叫ぶように祈っておられる方、声も出せず、息を潜め、不安の中におられる多くの人々、神様は、わたしたちに、何を求めておられるのだろうとも考えてしまいます。わたしたちに委ねられていることはどのようなことなのでしょうか。 今週の通読箇所には、一番短い詩篇117篇と一番長い詩篇119篇が含まれています。詩篇119篇は、律法、掟、戒め、教え、定め、諭し、仰せ、(御)言葉などと言葉を変えながら、たいせつなもの、神様のことば聖書でしょうか、について、語られています。ご存知のかたも多いでしょうし、訳によっては、ヘブル語のアルファベットが書かれているものもありますが、数え歌・いろは歌と呼ばれる形式で、冒頭のことばがヘブル語の同じアルファベットで統一されています。その形式で完成度のとても高いものなのでしょう。現在は、YouTube などで検索すると、ヘブル語テキスト(とその訳)を示しながら、朗唱するものもあります。わたしは、それを味わうほど、ヘブル語を理解することはできませんが、作者の、み言葉への愛は伝わってくるように思います。 ただ、通読をしていると、ちょっと長いので大変。この詩篇だけ、今週どこかで別に予定を立てて読むのも良いかもしれませんね。いろいろなことを味わうことができるかもしれません。新旧約聖書を手にもってちょうど真ん中あたりをあけるとそれが、詩篇119篇だとも言われています。みなさんは、どのようなことば、メッセージを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇109篇ー詩篇122篇はみなさんが、明日2月28日(月曜日)から3月6日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 109:3-5 憎しみの言葉が私を取り囲み/理由もなく戦いを挑んで来ます。私の愛に反して、彼らは私を訴えます。/私は祈るばかりです。彼らは善には悪をもって/私の愛に憎しみをもって報います。 今回は、なぜ、このように考えるのか考えてみた。わたしはそう考えないというわけではない。少なくとも、若い頃は、このような思考も一つの要素だった。いまは、自分がそうであるように、他者もいろいろな理由によって、あることを決断し、行動するのだろうと思っている。そして、その理由の殆どは、他者にはわからない。そして、自分でもわかっていないかもしれない。後に少し見えてくることもあるかもしれないが、わからないこともあるだろう。その背景のもとで、理由を、悪を、問題を特定することは、問題の解決に、近づく道ではない。かえってそれを遠くしてしまうように思う。共に、課題として、考えること、悩むことはできないだろうか。背景にあるもののいくつかは、そうすることができるかもしれない。難しいかな。これが、解決に近づける保証はまったくないのだが。 Psalm 110:5 わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。 有名な詩篇である。マタイ22章44節、マルコ12章36節、ルカ20章42,43節でイエスが引用した以外にも、使徒2章34,35節、ヘブル1章13節でも引用され、イエスは主である、と証言しているように、理解されているが、イエスの引用は、ダビデの子ではないことの立証に使っているのであって、もしかするとずれているかもしれない。旧約聖書の記述、詩篇記者の記述を絶対化することは、危険であるようにも思う。この箇所も祈りであり、一般的には、ここで「私の主」とされている存在は、明確ではない。メシアはダビデの子かという問に限定して考えたほうがよいようにも思う。裁きは、本当に中心的なことなのだろうか。 Psalm 111:2 主の業は偉大/それを喜びとするすべての人が求めるもの。 このあとも、主の働きの偉大さが語られている。正直、同じようには、主の偉大さを讃えられない。なぜなのだろう。少しは理由はわかっているが。それなら、わたしは、主の働き、神様はどのような方かをどのように語るのだろうか。これも、最近、明確ではない。どんどん、わからなくなってきているというのが、正直な気持ちである。だからといって、神様から離れていっているともあまり思っていない。大きな反論はないのであれば、単純に、この詩篇の記者に心をあわせ、ハレルヤと叫ぶのもよいのだろうか。 Psalm 112:1,2 ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。彼の子孫はこの地で勇士となり/正しい人々として祝福される。 この二節について考えた。正直、わたしは、こどもたちに、一定のことについては、家のルールとして厳しくしたが、それが、良かったのかどうかまったく不明である。信仰については、あまり、強くは言わなかったように思う。そして、今の子供たち。一人ひとりの成長、そしてその家族の状態、感謝している。それぞれに、様々な困難を抱えていると思うが。しかし、それで良かったのかと言われると、よくわからない。任せるしかない。委ねるしかないと思っているからか。おそらく、それだけでなく、こどもたちやその家族を、ひとびとのうち、近くに神様が置いてくださった何人か程度にしか考えていないからもあるように思う。自分のこどもたちという意識を極力、薄めたいと、こころの奥で考えているのだろう。たいせつにしてきた、公平さのゆえに。 Psalm 113:6 天にあっても地にあっても/低きに下って御覧になる方。 主についての描写である。続いて、7,8節と9節に例が挙げられ、最後 「ハレルヤ」で終わっている。例は、詩篇記者が具体的に思い描く人、または、経験とも関係しているのだろう。主との関係は、このようなもの、それ故に賛美に至るのだろう。わたしも振り返ると、主に祈り、答えを受け取り、力を得た経験をいくつか思い出す。それを、客観的に、主の働きと立証することはできないが、同時に、わたしの歩みの中で単なる偶然と消し去ることもできない。ひとは、そのように、力を得て、生き、生かされているものなのだろう。信仰はそれゆえに、共有には大きな困難が伴う。 Psalm 114:7,8 地よ、主である方の前で身もだえせよ。/ヤコブの神の前で。それは岩を池に/硬い岩を泉に変える方。 出エジプトのときの奇跡が書かれている。しかし、引用句は、それを、表現したものと考えられないこともないが、そうではではないように思われる。岩を池に、硬い岩を泉に。乾燥地帯においては、これこそ、日常的に願うことだろう。そして、象徴的には、わたしたちにとっても、象徴的な意味で、伝わってくるものがある。「地よ、主である方の前で身もだえせよ。」という表現、すごい。 Psalm 115:17,18 主を賛美するのは死者ではなく/沈黙の国に下った人々でもない。私たちこそ、主をたたえよう/今より、とこしえに。/ハレルヤ。 死者の国、沈黙の国については、わからない以上、アーメンとは唱えにくい。しかし、まさに、このごちゃごちゃした現実の中でこそ、主に信頼し(9-11)日々、主を賛美するものでありたい。自らを、騙すことなく、裏切ることなく、誠実に歩みつつ。わからないことばかりだが。 Psalm 116:9-11 主の前を私は歩む/生ける者の地で。私は信じる/「とても苦しい」とあえぐときも。「人は皆噓つきだ」と口走るときも。 「主の前を私は歩む」どんな時も。だろうが、その表現がとてもおもしろい。そして、身近にも感じる。このあと、どうなったかは、書かれていない。しかし、このように言うときも、主の前を歩んでいるのだろう。それが、信仰者の姿である。おそらく、わたしも、そうである。 Psalm 117:1 主を賛美せよ、すべての国よ。/主をほめたたえよ、すべての民よ。 二節しかない詩篇。そこで、すべての国よ、すべての民と、賛美を促している。自己中心とみることもできるが、同時に、この神は、自分たちだけのものではないとの、信仰表明でもある。わたしは、そのように、言えるだろうか。いまは、わからないとしか言えない。 Psalm 118:8 主のもとに逃れるほうが/人間に頼るよりもよい。 少し、このことについて考えてみようと思った。知恵にたよらず、主に祈る。人に頼らず、主のもとに逃れる。これらは、もう少し深く掘り下げないといけないと考えているからだ。困難ななかで、人に頼ることを最終手段とするのは、問題があるだろう。相手も生身の人間で、いろいろな環境のもとにあり、変化もする。しかし、人と協力してできること、人の力を借りることは、素晴らしいことだとも思う。主は、そのことを通しても働かれると思うからだ。知恵に頼らずも、主をとおして与えられ、自分の一部となっているものを最大限活用することを、主は喜んでくださるだろう。むろん、それも、祈りの中で、慈しみ深い主(1-4)が示してくださることなのかもしれないが。 Psalm 119:124,125 あなたの慈しみにふさわしく/あなたの僕をあしらってください。/あなたの掟を教えてください。私はあなたの僕です。/私に悟らせてください/あなたの定めを知ることができますように。 律法、掟、戒め、教え、定め、諭し、仰せ、(御)言葉など、様々な言葉が使われているが、それが、どのようなものか、文字として、固定されたものかに興味を持って、今回読んだ。引用句以外にも、何箇所か、学ぶものとしての姿勢が明らかで、文字として書かれたもの以外にも、その背後にある意味、指し示すもの、そこには、書かれていない自然や経験から学ぶものも含まれているようである。わたしが時々表現する、御心に近いように思う。この美しい詩篇が、アルファベット詩で書かれているというのも驚きである。いまは、YouTube などで聴くこともできるが、やはり、その美しさを味わうことまではわたしにはできない。 Psalm 120:5-7 ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。平和を憎む者と共に/私の魂が久しくそこに住むとは。私が平和を語っても/彼らはただ戦いを好む。 「苦難の時に主に呼びかけると/主は私に答えてくださった。」(1b)と始まり、その苦難は「偽りの唇、欺きの舌」(2)から来ていることも書かれているが、最後は引用句で終わっている。「ああ、何ということだ」は印象的である。「メシェク・ケダル」をどう理解するかははっきりしないが、この交錯した思いが生き生きと描かれ、興味深い。こんな詩篇も面白い。 Psalm 121:5,6 主はあなたを守る方。/主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。昼、太陽があなたを打つことはなく/夜、月があなたを打つこともない。 美しい詩である。イスラエルのように乾燥した土地で、かつ、夜は寒くなると思われる場所では、このように、表現されるのだろう。この詩篇を読むと、自然の厳しさも伝わってくる。現代では、その意識が薄れてきており、そのことが、主の守りを認識する感覚も、鈍化させているのかもしれない。外を歩くとき、自然の中で、主を思うときを大切にしたい。 Psalm 122:5 そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられてあった。 都に上る歌(1)である。しかし、引用句は、過去形で書かれている。これにつながる表現も、王位が安定しているときではないことを想起させる。「エルサレムの平和を求めよ。/『あなたを愛する人々が安らかであるように。あなたの城壁の内に平和があるように。/あなたの城郭の内に平安があるように。』」(6,7)さらに続けて、「あなたの内に平和があるように。」(8b)「あなたに幸いがあるように。」(9b)とある。より普遍的なものへと移動しているようである。他者の、平和と、幸いを祈ろう。どのようなときでも。 2022.2.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  63. BRC 2021 no.064:詩篇137篇ー詩篇150篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩篇もあと少し、今週と、来週で読み終わります。ロシアがウクライナに侵攻し、戦争のことが日々伝えられています。兄弟国とまで、言えるかどうかはわかりませんが、歴史的にも、長い深い関係がある両国、どのようにしたら、悲惨な状況が収まるのか、考えてしまいます。本当に難しいですね。 詩篇を読んでいると、詩篇が書かれた、または、詩篇記者が生きた時代にも、多くの争いがあり、対立があり、多くの問題行為があったことがわかります。それにどう対したら良いのでしょうか。簡単には、答えは出ないように思います。詩篇記者となかなか心をあわせられない、自分は、違うと感じてしまうこともありますが、そう感じるのは、そのような状況に置かれていないからなのかもしれないとも思います。ウクライナやロシアや隣国のひとたち、そして世界の様々な状況下の方々は、それぞれ、どのような思いを持ち、それぞれの状況、そして、ロシアのウクライナ侵攻に向き合っておられるのでしょうか。そして、これから、わたしたちは、どのように、していったら良いのでしょうか。他者の痛みは、同様に、感じることはできませんが、だからこそ、痛みについても、考えながら、報道を聞き、詩篇を読んでいきたいと思っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇123篇ー詩篇136篇はみなさんが、明日3月7日(月曜日)から3月13日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 123:3,4 私たちを憐れんでください。/主よ、私たちを憐れんでください。/蔑みは飽きるほど受けました。私たちの魂は飽きるほど受けました/高ぶる者らの嘲りを/傲慢な者らの蔑みを。 激しい訴えである。この前には「見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように/女奴隷の目が女主人の手に向かうように/私たちの目は我らの神、主に向かう/主が私たちを憐れんでくださるまで。」(2)ともある。しかし、この巧みな表現にも関わらず、すこし冷めた感じがする。「都に上る歌。」(1a)からもそれを感じてまうからか。巧みな表現だからこそ、かえって、白々しさを感じてしまう。おそらく、最初に、この詩篇を書いたかたは、真剣に、主の憐れみを乞うていたのだろう。そちらにこころを向かわせたい。 Psalm 124:4,5 その時、大水が私たちを押し流し/激流が私たちの上を越えていったであろう。その時、荒れ狂う水が/私たちの上を越えていったであろう。」 「もしも、主が我らの味方でなかったなら」(1b)で始まる。そこで、引用句。津波を思わせる。こんなことを、経験し、現実のものと思えるようなひとがいたのだろうか。急に水が湧くことは乾燥地でもあるだろうが、もしかすると、チグリス・ユーフタテスや、ナイルなどの大河の周囲で経験したことなのかもしれない。自分は経験していないとしても、東日本大震災(2011年3月11日)や、スマトラ沖大地震(2004年12月26日)のあとのように、なにか、目に浮かぶものがなければ、このようには、表現できない。両方とも、映像がはっきりと脳裏に刻まれている。 Psalm 125:4,5 主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に/幸いをもたらしてください。しかし、曲がった道にそれる者らは/悪事を働く者らと共に/主が去らせてくださるように。/イスラエルの上に平和があるように。 わたしには、このようには、祈れない。よい人々の弱さと、曲がった道にそれる者らの、弱さとともに、背後にある困難な状況、複雑に絡み合った、要因に目が行くからである。それでも、その人の責任を問う部分は、ないとは言えない。同時に、その責任を問える部分は非常に限定的だとも思う。おそらく、限定的であっても、責任を問えるなら問うべきとの考えもあるのだろう。比較は困難で、尺度は、絶対的ではなくても、何らかの判断をして、行かないといけないのだからと。本当に、困難な問題である。人々の上に平和があるように。主の平和。 Psalm 126:1 都に上る歌。/主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。 主語は、主である。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)と、最後に美しい言葉が有り、こちらが強調されることにより、ひとにスポットライトがあたってしまう。さらに、苦境における努力を訴えることにもつながる。すくなくとも、この詩篇は、そこに焦点はないだろう。とはいえ、このような、慰めは、そのときどきに、少なからず、力になることは事実である。それも、信仰なのかもしれない。 Psalm 127:3,4 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。/胎の実りは報い。若い頃生んだ子どもたちは/勇士の手にある矢のようだ。 わたしは、子どもたちの存在をほんとうに感謝し、喜んでいる。そしていまも、こどもたちやその家族から多くを学び喜びも得ている。しかし、それを強調したくないとも思ってきた。単純に祝福と捉えることは、やはり、単純化で、還元論的な意味合いが強い。また、子どもたちは、自分のものというより、ある期間、預かっているという面が高く、成長してからは、隣人だと思っている。特別な隣人ではあるが。少なくとも「幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。/町の門から敵を追い払うときも/恥を受けることはない。」(5)とは思っていない。児童養護施設で接するこどもたちも、まったく同じようにたいせつ。関わっているものとして、悩みつつ、喜びを感じつつ、関わっている。わたしの近くにはいない、こどもや、隣人たちを思いながら。 Psalm 128:3,4 妻は、家の奥にいて/豊かな房をつけるぶどうの木のよう。/子どもたちは、食卓を囲んで/オリーブの若木のよう。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。 このように見ることは、おそらく、自然なのだろう。主を畏れるものかどうかは、本来は、家族が、こどもたちが、祝福をうけとるかどうかにかかっているように思う。それもまた、難しいことだが。家族で、感謝し、祝福を受け取れるかどうかには、主を畏れることが関係していると思う。その延長線上に、引用句のような告白があるのかもしれない。こどもたちに、主を畏れることを伝えることに関しては、ずっと、躊躇と悩みがあった。他者の悩みとは異なるのかもしれないが、神を畏れるゆえに、悩むこと、かつ、神や聖書についても、わからないこと、どちらかというと、反発を感じることが多かったから。それでも、子どもたちが、主を畏れるものであってほしいと強く願うのだが。 Psalm 129:2,3 「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。/しかし、私に勝つことができなかった。悪しき者らは私の背に鋤を当て/長い畝を作った。」 前半はある程度想像できるが、後半の表現がよくわからない。私を傷つけようとしたが、実際には、人生の溝を掘り、より豊かなものにしたということだろうか。英語では "Plowmen have plowed my back and made their furrows long." (NIV) となっており、わたしに傷つけながら、得を得たという解釈のようだ。しかし、そのような歴史の中で、キリストによる贖いがもたらされたとのメッセージもあるようだが、そう考えると、わたしの、最初の解釈も、Their Furrows かどうかは言語的にしらべる必要があるが、あながち外れてはいないようにも思える。誰の畝なのかは、あまり重要ではないのかもしれない。 Psalm 130:3,4 主よ、あなたが過ちに目を留めるなら/わが主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあります。/あなたが畏れられるために。 事実として、そのとおりと読んでいたが、神様の側には、べつの論理があるのかもしれないと最近考える。主のみこころは、正しさではなく、互いに愛し合うことであるなら、そして、それは、主と、我々、そして、人間同士も同様な交わりをと望んでおられるなら、過ちも、そして、赦しも、べつの意味を持ってくるだろう。そして、おそらく、互いに愛し合うことは、その場で終わるものではなく、広がりをもっていくものなのだろう。そこに、答えは、終わりは見えない。「私は主を望みます。/私の魂は望みます。/主の言葉を待ち望みます。私の魂はわが主を待ち望みます/夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。」(5,6)わたしも、このように、祈りたい。みこころを求めて。 Psalm 131:1 都に上る歌。ダビデの詩。/主よ、私の心は驕っていません。/私の目は高ぶっていません。/私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。 最後の言葉が印象的である。それこそが、驕(おご)らない、高ぶらないことだと言っているのだろう。'God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed'(神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。)で始まるラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の Serenity Prayer を思い出させる。これを深めたものなのかもしれない。ゆっくり、ニーバーの祈りも考え、味わってみたいが、まずは、この詩篇とも向き合いたい。自分には、すべきことが他にあると、受け取ることをまずは考える。他には、わからないことをわからないこととし、神を訴えることをしないということもあるだろうか。丁寧にかんがえると、なかなか難しい。 Psalm 132:11,12 主はダビデに確かな誓いを立てられた。/主がそこから引き返されることはない。/「あなたの胎の実りの中から/あなたの王座に着く者を定める。あなたの子らが、私の契約と/私が教える定めを守るなら/その子らも、永遠にあなたの王座に着くであろう。」 「都に上る歌。/主よ、ダビデを思い起こしてください/彼が受けた苦しみのすべてを。」(1)と始まる。儀式的な要素が強いように思う。引用句は、サムエル記下7章12節-16節 が背景にあるのだろう。しかし、祈りの答えとして記されていることを文字通り受け取ったり普遍化することは危険でもある。同時に、イスラエルの人たちにとって、この約束をたてに、神に訴えるというより、ここに、希望の拠り所を求めていた面は強いのだろう。宗教の難しさも感じてしまう。影響を考え、その後の歴史を見ていると、素直に受け取ることはどうしてもできない。 Psalm 133:1 都に上る歌。ダビデの詩。/兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。 最後は「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。」(3b)で締めくくられている。「そこ」はその直前の比喩として書いた場所とともに、最初の「兄弟が共に住む」にかかっているのだろう。口語訳の「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。」に馴染みが強く、新共同訳の「【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」も覚えているが、ここでは「住む」となっている。「共にお(居)る」「共に座っている」「共に住む」と少しずつ、継続性が強調されているように思う。真意は継続性にあるように思う。兄弟も、ある程度広い関係の範囲が想定されているかもしれない。共に住む、その日常に、様々な軋轢が起こりそうな状況を想像する。「共に」の深さを感じる。 Psalm 134:1 都に上る歌。/さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。/夜通し、主の家に立つ人たちよ 「夜通し、主の家に立つ人たち」がどのようなひとか不明であるが、霊的な意味に受け取ることも可能かもしれない。「主の僕たち」の中にも、さらに、「夜通し、主の家に立つ」ことを言っているのかもしれない。新共同訳では「夜ごと、主の家にとどまる人々よ」、口語訳では「夜、主の家に立って/主に仕えるすべてのしもべよ」ということばが使われている。言葉通り取ろうとするとかなり印象がことなるが、その共通部分に目を向けるのもたいせつなのかもしれない。「夜ごと、様々な課題に向き合おうとする」わたしの生活とは、やはり、かなり異なるように思う。簡単に、善悪を判断しようとは思わないが。 Psalm 135:3,4 ハレルヤ、主はまことに恵み深い。/その名をほめ歌え。その名はまことに麗しい。主はヤコブをご自分のために選び/イスラエルをご自分の宝とされた。 主の素晴らしさをほめたたえること。あまりわたしはしていないかもしれない。感謝は常にある。引用句の後半は、この感謝に当たるのかもしれない。この事が、主の恵み、その名をほめたたえることの根拠のたいせつな部分に、なっているのだろうが、それは、この詩篇記者にとって、と言っても良いかもしれない。この後半は、受け取り手によって異なる。わたしも、主が導いてくださり、生かしてくださったり、誤解を恐れず書くなら、ご自分の宝のように愛してくださったことに感謝し、それ故に、主はまことに恵み深いとこころから思う。あまり違いは無いのかもしれない。このことを、他者に敷衍(ふえん:おしひろげること。展開すること。)するときにていねいにしないといけないのだろう。自分の経験と理解が根拠になっているから。ほめたたえることに躊躇があるのは、他者に敷衍する部分が、そう簡単にはできないと考えているからだろう。 Psalm 136:1 主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。 感謝することは、一人ひとりにとって異なるだろう。同時に、共に、感謝できることは、素晴らしい。それは、共通の、体験をしているからだろうか。それができない状況で、共に、感謝することはできるのだろうか。それが、宗教なのかもしれないが、やはり、不安が残る。人間が文字とした事柄の正しさが根拠となる部分が大きいからである。少しずつ、共に、感謝することを広げていくことはできるかもしれないが。本当に、難しい。普遍的な真理とは何なのだろう。それは、主に関することでどのように表現できるのだろうか。 2022.3.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  64. BRC 2021 no.063:詩篇123篇ー詩篇136篇

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 10週間以上、詩篇を読んできましたが、今週も詩篇を読み進め、そして、ついに、読み終わります。詩篇はいかがですか。 「聖書は誤りなき神の言葉」だと告白するキリスト教会も多いと思います。聖書の無誤性と言われているようですが、聖書の無謬性と言われたり、これらが区別されたりしますが、これらが実際になにを意味しているかも、明確にするのは、困難で、キリスト教の歴史の中での理解も、これだけで、大変大きな問題のようでもあります。詩篇を読んでいると、「聖書は誤りなき神の言葉」と表現するものとは、かなり異なる世界が広がっているように思います。そのような言葉で表現するものとは異なる、生き生きとした、人々、それも、信仰者のことばで溢れているように見えます。一人ひとりが、そして、ともに心をあわせて、思い、想い、感じたこと、怒り、悲しみ、苦しみ、喜び、悩み、問が語られています。その幅と多様性も、個人としても、環境・背景の違いも含めて、いろいろな方がおられることも、感じさせられます。そうであっても、神様と向き合い、その中で語られていることばであることも確かですね。みなさんは、一つ一つの詩篇から、どのようなことを受けとり、詩篇記者とどのような交わりを持たれたでしょうか。 詩篇を読むことを通して、みなさま一人ひとりの歩み、自分や、他者や、他者や、神様との関係が、より、豊かなものとなることを願っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 詩篇137篇ー詩篇150篇はみなさんが、明日3月14日(月曜日)から3月20日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 詩篇については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩篇:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Psalm 137:8,9 娘バビロンよ、破壊者よ/幸いな者/お前が私たちにした仕打ちを/お前に仕返しする者は。幸いな者/お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は。 恐ろしいことばが書かれている。特に、後半は、目をそむけたくなる。しかし、怒り、憤りがこころに溜まっていることを非難はできない。このようなことばは、決して言ってはいけないと自戒の念をもって心に刻み、この詩篇記者にも、時を待って、語り合えるようになりたい。そこに、神様の御心を求めるプロセスがあるように思う。そして、おそらく、このようなプロセスを通して、学ぶことがたくさんあるのだろう。怒り、復讐心なども、その方の尊厳を形成するものなのだろうから。単純な拒否ではないことを学びたい。 Psalm 138:3 私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。 背景やどのような祈りなのか不明であるが、このようなことがあれば、主に感謝し、主をほめたたえたくなるだろう。それに対して、あれこれいうのは、不適切である。良かったね。といいつつ、共に、横に座って、そのときのことを、もう少し一緒に考えるときが持てればとも思う。いろいろな時があり、それをうけとめる一人ひとりに様々な状態がある。その中で、感謝し、主のみこころを探っていきたい。 Psalm 139:1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。 主について語っていると思い読んでいたが、「主に知られている」ことをたいせつにしている詩篇なのかもしれないと今回思った。いずれにしても、それが、最後にあるように「御覧ください/私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。/とこしえの道に私を導いてください。」(24)偶像礼拝をしているかどうかによって、敵と味方を二分しているようだ。敵の一人ひとりも、主に知られているという方向には進まないのだろうか。偶像礼拝も、様々な形があり、自分で、神以外のものを神としているかどうか判断はとてもむずかしいのに。そうであっても、特に最初の部分は、美しい表現の詩篇である。この詩篇記者ともゆっくり話してみたい。 Psalm 140:13 私は知っている/主が苦しむ人の訴えを取り上げ/貧しい人のために裁きを行うことを。 最初は「心に悪をたくらみ・日ごとに戦いを挑んで来る」(2)「邪悪な人間・暴虐の者」(1)から守ってくださいと始まる。わたしが歳をとったからか、わたしの住む世界がある程度落ち着いているからか、他者理解が、あまりにも違うと、詩篇を読んでいて感じる。しかし、困難なときにも、主の救いに希望を持ち、主がどのような方か認識する方向は、引用句を含めて、共通性も高いように思う。世界では、現代でも紛争が絶えない。今回のロシアのウクライナ侵攻を見ても、アメリカのアフガニスタン侵攻、イラク侵攻との違いや区別の評価は、なかなか困難でもある。友人が支援しているイエメンのひとたち、シリアのひとたち、世界中で混乱の中にいる人達は多い。平和は、単純ではないことが、これら一つ一つを考えても、わかる。ほんとうに、わたしは、何をしたらよいのかも、わからず、無力さを感じる。主の御心を知りたい。 Psalm 141:1,2 賛歌。ダビデの詩。/主よ、私はあなたを呼び求めます。/急いで来てください。/あなたに呼びかけるとき/私の声に耳を傾けてください。私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように。/高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。 わたしも祈るが、同時に、すべきことがたくさんあるように思い、それをどのようにするかを考えている。それは、自分中心、自分の中に救いを求めることとは異なると思うが、そうなる危険性があると指摘されれば否定することはできない。同時に、神様が、いろいろな解決方法を示しておられるのに、すべて、神業に頼ることを、神様が求めておられるとは思わない。究極的には、友となり、互いに愛し合うものとなることを求めておられるように信じているからだが。おそらく、ここは、とても、判断が、難しいのだろう。 Psalm 142:4 私の霊が萎え果てるときも/あなたは私の小道を知っておられる。/私が歩むその道で、彼らは私に網の罠を仕掛けた。 最後の一文はどうしても引っかかってしまうが、知られていること、それは、愛されていることと深く関係していると思う。主に、知られていることが、主に愛してくださっていることとどう関係しているか、書いてみようと思ったが良くはわからない。しかし、自分のすべてを知っていてくださる方がいることは、自分の尊厳が守られていることにもつながっているように思う。尊厳の源は、悲しさ、苦しさ、痛み、喜びなど、通常は、他者に理解し得ない、共有できないことに依っているからだろうか。その方が、違うことであっても、同じように、苦しんでおられることを知ることはさらに、慰めにもなるように思う。あまりに、感傷的だろうか。もう少し深めていきたい。 Psalm 143:8 朝に、あなたの慈しみを聞かせてください/私はあなたに信頼しています。/歩むべき道を知らせてください。/私はあなたに向かって魂を高く上げます。 "Cause me to hear Your lovingkindness in the morning, For in You do I trust; Cause me to know the way in which I should walk, For I lift up my soul to You."(NKJV)"Let the morning bring me word of your unfailing love, for I have put my trust in you. Show me the way I should go, for to you I entrust my life." (NIV) 慈しみは、これらの訳では、lovingkindness, unfailing love である。常に、愛し、わたしとの関係を保ってくださるということだろうか。それに、導きがつながっている。英語を調べてみたのは、慈しみとともに、魂を高く上げることがよくわからなかったからである。おそらく、NKJV のように、原語近いのだろう。わたしも、わたしの命を委ね、主に向かって、主と顔を合わせられるように、生きていきたい。 Psalm 144:11 私を解き放って助け出してください/異国の子らの手から。/彼らの口は空しいことを語り/その右手は欺きを行う右手。 いろいろなことが書かれている詩篇であるが、ロシアのウクライナ侵攻二日目を迎え、いろいろなニュースが入ってくる中で、その中にいるひとたちの思いを考えて、この箇所を選んだ。わたしには、想像できないことであっても、なにか、できないか、考えてしまう。一人ひとりは本当に無力である。黒白で判断はしたくないが、やはり、現実を受け入れられない。一方的であるように思えてしまう。様々な、困難が背後にあるとしても。 Psalm 145:20 主は、ご自分を愛する者を皆守り/悪しき者はことごとく滅ぼします。 このようなことばに違和感を感じるのだが、常に戦いがあり、悪がはびこり、略奪が横行している世界では、こう考えることも仕方がないのかもしれないと思う。悪しきものが滅びる以外に、救いは見いだせないのだろう。そう考えると、現代は、社会自体が良い方向に変化していると思えてくる。しかし、それは、わたしが生きている場だけではないにしても、そうではない世界がたくさんあるのだろう。単純に、引用句のような考え方を切り捨てることはできないのだろう。そのような世界で苦しんでいる人がおられる以上。難しい。 Psalm 146:3,4 諸侯を頼みにするな/救うことのできない人間を。霊が去れば、彼は土に帰り/その日、彼の企ても滅びる。 偶像礼拝を忌避することに近いが、このような思想・祈りの中で、信仰が純粋になっていったことには、やはり驚かされる。人間の側の協力、日々の誠実な歩み、誠意をもった働き・労働を適切に位置づけることが難しくなる危険性はあるが、まず、このことを、受け入れ、決断の基盤とすることは大切なのだろう。正しさについても、どうようなことが言えるのかもしれない。一つ一つのことばだけにとらわれることは気をつけないといけない。原理主義的になってしまうから。 Psalm 147:17,18 氷をパン屑のように投げる。/その冷たさに誰が耐えられようか。主が御言葉を送ると、それらは溶け/息を吹きかけると、水が流れる。 様々な角度から、主の偉大さが詠われている詩篇である。引用句では、御言葉の力が表現されているとともに、氷、冷たさが印象的である。このときにも、避難壕のなかで凍えているひとがたくさんいることを思うと、その冷たさをわたしも感じてしまう。主のことばは、どのように働かれるのだろうか。凍えてしまっているひとびとのこころの氷が溶け、水が流れることを祈る。 Psalm 148:3-5 太陽よ、月よ主を賛美せよ。/輝く星よ、こぞって主を賛美せよ。天の天よ/天の上にある大水よ主を賛美せよ。主の名を賛美せよ。/主が命じ、それらは創造された。 自然に覆われた世界。このなかでしか、生きられない人間が、それを破壊してしまっており、それは限界に来ているとも言われる。自然と深い関係を持つことが希薄になっていることも大きいように思う。わたしも、その一人。なにも考えずに享受だけしている、その恵みを、味わう日々を大切にしたい。 Psalm 149:4 主はご自分の民を喜びとし/苦しむ人を救いによって輝かせる。 わたしは、聖書にいくら書いてあろうと、選民思想は、御心ではないと考えている。御心につながる、過渡的なものとしては、神様は受け入れてくださるのだろうが。ずっと、公平さについて、考えてきたからだろうか。他者視点を探ることで、自分の弱点を見つけ、克服しようとしてきたからだろうか。そして、その根本にあるのが、ひとの尊厳をたいせつにすることであり、そこには、ひとそれぞれの苦しみ、痛みを、相対化しないことがある。十分に、まだ言語化できていないので、何回も書いてみているのだが。公平さという視点と、一人ひとりの尊厳をたいせつにしたいという気持ちは、これからも変わらないように思う。 Psalm 150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。/竪琴と琴を奏でて神を賛美せよ。 角笛は、ホルンのように、音楽を奏でられるものなのかはよくわからないが、様々な楽器が登場する。音楽は、嫌いではないが、愛しているとは言えない。それだけ、浸ったこともないのだろう。静かに聴くのは好きだが、やはり人によっても好みがいろいろとあるのだろう。神様は、なにを喜ばれるのだろうか。兄弟が和合しているようなことのように思う。そこに、音楽が流れているのかもしれなが。芸術というものが一般的によくわからない。尊厳から派生した、多様性と、深く関係しているように思う。 2022.3.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  65. BRC 2021 no.065:箴言1章ー箴言14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今年のはじめから、詩篇を読んできました。詩篇はいかがでしたか。明日からは、箴言に入ります。箴言は、ヨブ記、伝道(者)の書(コヘレトの言葉)とともに、知恵文学と呼ばれています。一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。ちょうど区切りもよいですし、通読が続かなくなってしまったかたも、箴言からまたはじめてみませんか。おすすめです。 聖書には、訳によっては少し違う言葉になっているかもしれませんが「知恵ある(一人の)女」が何回か現れます。サムエル記下14章2節、サムエル記下20章16節、箴言14章1節など。一般的には、長老から知恵を教えられていたようで、町の長老は、民事訴訟も裁いていたようです。民事訴訟では、日常的な様々な具体的な問題を扱いますから、絶対的に正しいとか、間違っているとかいうのとは、異なるけれど、やはり、一定の判断を下す必要がある場合もありますよね。しかし、適切に裁くためには、知恵が必要だということになるのでしょう。箴言では、この「知恵」について、どのように、書かれているでしょうか。箴言「知恵」は一つの鍵となる言葉だと思いますが、それ以外にも、たいせつなことばがいくつも書かれているように思います。みなさんは、どのようなことを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 箴言1章ー箴言14章はみなさんが、明日3月21日(月曜日)から3月27日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 箴言については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#pb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Proverbs 1:2,3 これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。見識ある諭しと/正義と公正と公平を受け入れるため。 今朝(3月3日)の天声人語に「戦前の満州事変のあと、日本の立場もかくのごときものだったか。日本軍は自作自演の線路爆破をきっかけに部隊を展開し、傀儡(かいらい)国家「満州国」をつくった。強引なやり方に批判が集まり、国際連盟の総会で44カ国のうち42カ国が満州国を否認した」とあった。反対は日本のみ、棄権がシャム(タイ)一カ国。ロシア侵攻に反対する国際連合の決議案に、反対したのはロシアのほか、ベラルーシ、北朝鮮、エリトリア、シリアだけだったという。(棄権した国は多かったようだが。)箴言というと知恵を思い出すが、諭しも何度も書かれていることを今回発見した。引用句は、現在のウクライナ侵攻を続けるロシアにも、戦前の日本にも当てはまり、おそらく、われわれ一人ひとりも、「見識のある諭し」、「正義と公正と公平」に、もっと向き合わなければいけないのだろうと思った。「分別ある言葉を見極める」これは、単純に信仰があれば、とは言えない、精神も、訓練も、学びも必要なものなのだろう。「主を畏れることは知識の初め。/無知な者は知恵も諭しも侮る。」(7)主を知ることが、知恵も諭しを知ることに繋がりますように。 Proverbs 2:16 また、よその女、滑らかに話す異国の女からも/あなたは救い出される。 文脈からは、救い出してくれるのは「慎みがあなたを守り/英知があなたを見守る。」(11)とあるので、慎みと英知のようだ。この箴言の最初に戻ると「知恵に耳を傾け/英知に心を向けるなら さらに分別に呼びかけ/英知に向かって声を上げ」(2,3)とある。これらが、女性の誘惑から守ってくれるというのだろう。「よその女」「異国の女」については、よくわからないが、家族から、自分の属する民族から引き離され、難民のようになって、売春をしていたのだろうか。高校生の頃にシンガポールで、私の乗っていた貨物船に、おじいさんに連れられて来た、中学生ぐらいの、コールガールの女の子を思い出す。今は、どうしているのだろうか。高校生のわたしは、ただ、その状況が恐ろしく、部屋に閉じこもって、布団にくるまっていたのを思い出す。いまも、わたしには、どうしたらよいかわからない。 Proverbs 3:27 あなたの手に善を行う力があるなら/なすべき相手にそれを拒むな。 このあとも、非常に具体的な教えが並ぶ。具体性が高くなると、汎用性は低くなるばかりか、その評価もどうしても下がる。しかし、この具体的な生き方なしには、真理は生きたものとはならないのだろう。「心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。」(5)暗証もしている好きな言葉だが、上に引用した句の背後にあるように思える。自分で細かい評価基準を作り、損得を考えてしまうために、それを行うことができるにも関わらず、躊躇したり、実行が遅れてしまったりするのだろう。そして、結果も目減りしてしまう。真理が生きたものとなるように、学び、実行することが、教条化することなく、真理への(神様の御心知る)入り口となるようにと願う。それが、「心を尽くして主に信頼」することなのかもしれない。 Proverbs 4:6,7 知恵を捨てるな、それはあなたを守る。/分別を愛せ、それはあなたを見守る。知恵の初めとして知恵を得よ。/あなたが得たすべてを尽くして分別を得よ。 「分別(物事の是非・道理を判断すること。わきまえること。)」がたいせつと教えられていることに、気付かされた。英語は understanding 、ヘブル語は בִּינָה(bina; understanding, discernment)。分別が特別な気がするのは、辞書には、分別として、〘仏〙 虚妄(事実でないこと。うそ。いつわり。)である自他の区別を前提として思考すること。転じて,我(が)にとらわれた意識。とも書かれている。なかなか理解できないが、いずれにしても、表面的な理解で、知恵を得たとするのではいけないのだろう。 Proverbs 5:21 人の道は主の目の正面にある。/主はその道のりのすべてに気を配っておられる。 性欲について男性を戒めている。女性視点はない。異国の女性との関係を求めたと思われる記述のあとに「どうして、私の心は諭しを憎み/懲らしめを軽んじたのだろう。導く人の声を聞かず/教える人に耳を傾けなかったのか。集会の中で、会衆の中で/私は追い詰められていた。」(12b-14)ともある。そのような状況で語られているのが、引用句である。「正面」という言葉が印象的である。主がどのように、気を配っておられるかは、不明である。しかし、主がそのような存在であること、自分の中にない配慮に目を向けることが、語られているのだろう。アーメンと言いたい。 Proverbs 6:2,3 あなたが自分の口から出た言葉によって罠にかかり/自分の口から出た言葉によって捕らえられたなら 子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。/あなたは友の手中に落ちたのだから/気弱にならず、友にうるさく求めよ。 このような教えも書かれているのは興味深い。友にうるさく求めて自らを救えという。これが効果的かどうかは不明だが、「友」とあるので、問題の原因は理解してくれる可能性が背景としてあるのだろう。そのようなことが、お互いに起こる可能性があるということか。たしかに納得ができないことでも、受け入れることはある。ただ、この戒めのあとには、もっと、様々なことが追加されるべきことだと思うが、どうだろうか。この「友」への配慮など。 Proverbs 7:4 知恵に「わが姉妹」と言い/分別に「わが親族」と呼びかけよ。 「知恵」と「分別」これらは、文脈からは、教えられるものだとある。「知恵」は、神の御心だけではなく、人々が神からうけとったとして学んだことも含まれるだろう。多少、間違ったこと、表現が不完全なものも含まれるだろうが。一方「分別 underdatanding」は、それを受け取る主体である、自分がなければ、成立しない。深い理解が必要である。とくにそれが生きるものとなるために。そして「わが姉妹」「わが親族」と言えるほど、親しいものとなれと言っている。知恵を、理解したことを生きてみて、少しずつ身について行き、自分の一部のようになっていくということの表現なのだろう。学ぶことは多い。 Proverbs 8:5,6 思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。/愚かな者よ、心を見極めよ。聞け、私は唇を開いて語ろう/高貴なことを、公平なことを。 「熟慮」「心」「高貴なこと」「公平なこと」について考えたい。「高貴なこと」は、人の目から見ても美しい、神に属することだろうか。わたしのことばでは「御心」である。そして「公平なこと」は、人が、できるかぎりの知恵を用いて、そのときに、実現すべき、人々の間の平和だろうか。絶対的なことではないが、公平を求め、改善を続けることに大きな価値がある。そこに必要なのが「熟慮」と「心」だろうか。心は、よくわからないが、究極的には「御心」だが、おそらく、他者と自分の「心」その言葉や行動の背後にあるものだろうか。これらを、見極めることは難しい。しかし、その方向に進み、探求していきたい。 Proverbs 9:7,8 嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。/知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。 「嘲る者を諭すな」「悪しき者を懲らしめるな」と直接的には言っているように見えるが、おそらく、ここでも、直前の「思慮のない業を捨て、生きよ。/分別の道を進み行け。」(6)や直後の「知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。/正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。」(10)にある、知恵と、分別・判断力を教えているように思った。嘲る者を諭し、悪しきもの懲らしめることで、問題が解決するなどとは考えるなと言っているのだろう。まさに、これが、ここで教えられている、知恵と分別・判断力である。完璧とは思えない格言もあるが、やはり、考えさせられる知恵である。 Proverbs 10:16 正しき者の働きは命のために/悪しき者の収穫は罪のために。 命は、生かすものとも言え、罪は、滅ぼすものとも言えるように思う。そして、これは、自分だけではなく、他者を生かすためのもの、他者を苦しめるためのものも含むのかもしれない。さらには、「正しき者の望みは喜びとなり/悪しき者の希望は滅びる。」(28)も、正しき者の喜びだけではなく、多くのひとの喜びにつながるようにも思う。悪しき者の希望については、現実を見ると、正直よくわからない。滅びると言い切れるのかどうか。おそらく、平安は無く、おそらく、そうなのだろう。 Proverbs 11:27 善を探し求める人は主が喜びとすることを尋ね/悪を求める者には悪が訪れる。 対をなした表現が続く。それほど単純だとは思わないが、対比を考えるには、よいのだろう。わたしは「探し求める」「尋ね」が好きで、究極的には「主が喜びとすること」とも表現される主の御心を求めていきたいと思っているので、この句を選んだ。対比として書かれている「悪」おそらく「善」に対応するものとして書かれているのだろうが、すこし表現に豊かさが欠ける。おそらく「悪を探し求め」「主が忌み嫌うことを尋ねる」ひとはいないだろう。やはり、的外れのことが言われているのかもしれない。もうひとつ、印象に残った句を引用しておく「主は人を欺く秤をいとい/正確な量り石を喜ばれる。」(1)商取引が想定されているのだろうが、根拠を確かめない議論も同様に人を欺く秤であると思う。 Proverbs 12:25,26 人は心の憂いを抑えようとする。/しかし親切な言葉は憂いをも喜びとする。正しき者は友に尋ねて道を探す。/悪しき者の道は人を惑わす。 とても興味深い節である。ひととの関係が人を生かすと表現されているようだ。親切な言葉、そして、探求において、友に尋ねる。ということは、友が助けてくれることを言っているのだろう。自分で、憂いと向き合うことは、避けられないし、たいせつなことだろう。しかし、それだけで、解決することはないだろう。親切な言葉は、簡単ではないが、探していきたいものである。 Proverbs 13:23 貧しい人の耕作地で多くの食物が実っても/公正が行われないところでは奪われてしまう。 本当に、これは、残酷。理不尽である。公正は、ひとに委ねられているのだろうか。公平とともに。神様は、それを、見守っておられるのかもしれない。これも、愛の神のなさることなのかもしれない。魔法によって、解決したとしても、それは、なにも生み出さないのだろう。今回のロシアのウクライナ侵攻はなにかを生み出すのだろうか。神様が望まれるなにかを。 Proverbs 14:31 弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。/造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。 興味深いことばである。主のみこころを求める人は、それを実行する人、造り主と共に喜ぶ人なのかもしれない。他方、弱い人をしえたげる人は、主に責任を押し付けつつ、主の御心は受け取ろうとしない人なのだろう。「心は自分自身の苦しみを知っている。/その喜びに他人はあずかれない。」(10)神様の苦しみを知り、その喜びにあずかるものとなりたいものである。 2022.3.20 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  66. BRC 2021 no.066:箴言15章ー箴言28章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 箴言に入りました。箴言はいかがですか。今週も箴言を読みます。箴言は知恵のことば、日常的な問題、課題の見方、これらに対する向き合い方について書かれており、誤解を避けずに書くと、絶対的に一方が正しいというわけではないことについて、書かれているように思います。日常的なことがらに向き合うと、どちらが絶対的に正しい、間違っているとは言えないことが多くあります。しかし、その中で判断をし、選択をしながら生きていく必要もあります。また、理不尽と思えることも、日常的に目にします。新聞を読んでいると、なぜ、こんなことが起こるのだろう、このひとは、なぜこんなことをしてしまったのだろうと、理解不可能なことにも、出くわします。みなさんは、そのようなときに、どうされますか。 それに気づく場合も、そこまで複雑だとは思わないで見過ごす場合も多いと思いますが、そのような複雑な問題に日常的に囲まれているわたしたち、そのなかで、知恵を持って、神を恐れ・畏れて生きるとはどのようなことでしょうか。人殺しや戦争は絶対ダメだよということは簡単ですが、その中にいるひとがどうしたらよいか、そのひとたちに、どのように語ったらよいか、共有できることはなにかは、正直わたしには、わかりません。理不尽に思える、災害や、犯罪の犠牲者、ほんのちょっとした不注意や、不注意とも言えない偶然から、他者をひどく傷つけてしまった時、よかれとおもってしたことが、実は問題だらけだったということも、あるように思います。時代や背景はすこし異なり、理解できないこともあるかもしれませんが、箴言のことばの背景も考えながら、日常的に、様々な複雑な問題に向き合い、すぐには、解決がえられなくても、それとしっかり向き合っていく、そのような生き方を、箴言のことばをとおしてわたしは学んでいます。長老たちのことば、知恵あるもののことばに耳を傾けながら。みなさんは、どう思われますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 箴言15章ー箴言28章はみなさんが、明日3月28日(月曜日)から4月3日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 箴言については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#pb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Proverbs 15:22 計画は相談しなければ挫折し/多くの助言があれば実現する。 このようなことばに惹かれるが、聖書では、そして、箴言に限定しても、少ないように思われる。ダイナミックな人との関係の中で、協力してことを進めることが少なく、まだ未発達だったからだろうか。現代での重要性とともに、その難しさは、際立っているように思う。相談、助言、それぞれの取り扱い方、すなわち、相談を受けたり、加わったものや、助言をする側が、なにを考えなければいけないかなどである。単に、神を畏れるものの助言や、共に、祈りつつ相談するといったことの枠をでることが、有効である場合が多いばかりか、そこに、神様の御心があることもあると思われるからである。難しい。 Proverbs 16:31 白髪は誉れある冠/正義を行う道に見いだされる。怒りを遅くする人は勇士にまさり/自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。 聖書には歳をとって毛が薄くなったりはげになったりする記述がほとんどないように思われる。これは、民族性なのか、ほかの捉え方がされているのか、毛が薄くなった自分は、気になる。それに続く、引用の後半は、前半と関係しているとは言えないが、自分のことを考えると、明らかに、自制心が高まり、怒りが遅くなっている。そう簡単には、判断できないと思うからだ。心を治めるというより、自分の弱さ、知らないことの多さを痛いほど、学んできたからだろうか。 Proverbs 17:16 愚かな者が代金を手にしているのはなぜか。/思慮もないのに知恵を買おうとしている。 意味がわからないので、他の訳を調べてみた。「愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。」(新協同訳)「愚かな者はすでに心がないのに、/どうして知恵を買おうとして/手にその代金を持っているのか。」(口語訳)「愚かな者が良識もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはどうしたことか。」(新改訳2017)'Why is there in the hand of a fool the purchase price of wisdom, Since he has no heart for it?' (NKJV) NKJV は直訳に近いため選んだ。おそらく、いくつも、意味のとり方があるということなのだろう。じっくり読むと、聖書協会協同訳の意味も浮かび上がってくる。名訳だと思えてくる。不思議なものである。NKJV の疑問符は、とても興味深い。日本語には、ない表現なのだろうか。自然さを欠くのかもしれない。「愚かな者が代金を手にして何かを買おうとしているのはなぜか。思慮もないのに知恵を買おうとしているのだろうか。」(私訳) Proverbs 18:14 人の霊は大病にも耐えられるが/霊が沈めば誰が支えることができようか。 箴言記者は、様々なことを観察している。そして、それを知恵として伝え、単純に、主に祈ればよいとは書かない。引用句においても、ひとはすぐ回答を、慰めを求める。しかし、ことばを言葉として、受け取ることがたいせつなのかもしれない。直前には、「よく聞きもせずに言葉を返す/無知も恥辱もこういう者のこと。」(13)ともある。ひとは、解決策を求める。しかし、それは、簡単には得られないことを、しっかりとわきまえるべきなのだろう。自分の問題か、他者におこったことか、それぞれの場合に、簡単に答えがみつかるわけではない。 Proverbs 19:13,14 愚かな子は親の破滅/いさかい好きな妻は滴り続ける雨漏り。家と財産は先祖から受け継ぐもの/悟りある妻は主からいただくもの。 まずはそのとおりだと思う。同時に、父・夫の責任については述べられておらず、一方的でもある。たしかに、因果応報的に、適切にすれば、こうならないとは、わたしは考えていない。適切な対応はむろんあっても、それだけで、このような事態を避けられるわけではないのだから。背後に主がおられることが書かれているが、主がどのように、関わっておられるのかは不明である。混乱の元となる「愚かな子」「いさかい好きな妻」を神様はどのように見ておられるのだろう。そして「賢い妻」「家や財産」の分配についても。 Proverbs 20:3 争いを避けることは人の誉れ。/無知な者は皆、争いを引き起こす。 争いによって得られるのは虚しさ、失われるものが多いこと、よいことを考えることさえエネルギーを残さないということだろう。その火中にはいっていくことを、わたしは望むのだろうか。よく、わからないが、それが、争いを最小限にすることなら。争いが始まる、または、大きくなりそうな時、身を引くことも、ひとつの選択肢だと思っており、時間も必要なのかもしれないと考えている。しかし、争いを避けることは、もっと、もっと深いものが必要なのだろう。わたしには答えられない。英知がないからか。「人の心にある企ては深い水。/英知ある人がそれを汲み出す。」(5) Proverbs 21:26 その者は日夜欲望を満たそうと願うが/正しき者は与え、惜しむことはない。 与えるものも、自分のものというより与えられたものとの意識があるからだろう。「虚偽を語る証人は滅び/よく聞く人は永遠に語り続ける。」(28)とくに後半は興味深い。語り続けるのは、短くであっても、よく聞いた人のことばは、生きたものとして語り続けるのかもしれない。語るのを待つというより、自分の中には、たいしたものがないことを知っているということだろう。「知恵も、英知も、謀も/主の前には無に等しい。」(30)聞き方を方法論としてではなく、学びたい。 Proverbs 22:2,3 富める者と貧しい人が行き会う/どちらも造ったのは主。賢い人は災難が来ると見れば身を隠し/思慮なき者は向かって行って罰を受ける。 ゆっくり考えたい言葉だ。身を隠すことも、わたしには、よくわからない。どうしようも無いときに、あらがっても仕方がないということか。神様の働きは、様々で、見極めることができないこととも通じるのかもしれない。おそらく、神様も、理解できているわけではなく、ただ、望んでおられることが、御心としてあるのかもしれない。神様は、身を隠されるのだろうか。罰を受けることがあるのだろうか。前者はあるかもしれないが、後者はないのだろう。 Proverbs 23:4,5 富を得るために労するな。/分別をもって思いとどまれ。目を富に向けても、そこに富はない。/自ら鷲のような翼を生やし、天に飛んで行く。 箴言が書かれた時代にも、富を得るために労しているひとたちがたくさんいたのだろう。少し驚かされる。富は、それ自体に、自分を満足させる魔力があるのだろうか。なんでもできるという気にさせるのか。昔から、富は、それ自体が目的ではなく、それによってなにをするか、何のために富を蓄えるのかがたいせつだと思ってきた。時間ともにているが、二次的な存在を中心に考えるのではなく、本質的にどうありたいか、なにをしたいのかに目を向けるべきだと。むろん、だからといって、富に目が奪われることと無縁とは言えないことも確かだが。引用句では、富よりも、さらに、一歩手前の、富を得ることについて語られている。労したくなる、そのような魔力があるのかもしれない。 Proverbs 24:13,14 子よ、蜜を食べよ。実に良いものだ。/滴る蜜は口に甘い。魂にとって知恵も同じと知れ。/それを見いだせば、未来があり/希望が絶たれることもない。 未来と希望につながるという表現に惹かれた。蜜もそのようなものなのだろうか。体によく、エネルギーのもとだと考えられていたのか。「悪に未来はない。/悪しき者の灯は消える。」(20)が対応している。そのようなものに、心を奪われるなということだろう。知恵のたいせつさは、箴言の中心テーマでもあるが、ここでは、「それを見い出せば」と言っている。知恵を求めることはわかるが、見出してはじめて未来があるのだろうか。すこしずつ、見出すことをも表現しているのかもしれない、としておこう。 Proverbs 25:10,11 銀細工に付けられた金のりんごは/時宜に適って語られる言葉。それを聞く耳に与えられる知恵のある懲らしめは/金の輪、また純金の飾り。 「時宜に適って」これがとてもむずかしいことは、おそらく、多くの人が知っているだろう。「言葉」や「語る」ことだけに、本質があるのではなく、他の様々な要素が働いて「それを聞く耳」に届くのだろう。「金のりんご」「金の輪」「純金の飾り」となりうるが、それ自体だけに価値をもとめるのは、誤りであるように思う。その複雑さの背後で、神様が働いておられるように思う。 Proverbs 26:4,5 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな/あなたがその人に似た者とならないために。愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。/その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。 「愚かな者」への対し方である。平等を教えられてきた学校教育の中で、愚かな者と賢い者を区別するのはいけないことだと学んできたように思う。しかし、より多様な人々の社会の中で生きていると、「愚かな者」の愚かさと「賢い者」の賢さが、いかんともしがたいものとして存在することも、経験する。「愚かな者」は、簡単には「賢い者」にはならず「賢い者」は完璧には程遠いものの、やはり、あらゆる場面で賢さを発揮する。この箴言のことばをこころの片隅に蓄えることは、注意喚起にはなるのかもしれない。そして、平等ではなく、それぞれの場で適切なことばをさがし、行動を考える縁(よすが)となるように思う。 Proverbs 27:1 明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。 このことばをそのとおりだと思う人と、そうではない人といるのだろう。戦争の中にいる人ではなくても、自然災害も含め、多くの人が、そのような環境に生きてきたのだろう。いまは、そうではない環境で生きている人が増えていると思われる。そして、そうではないひとも多く存在する。そのようなひとたちに心を向けたい。「満ち足りている者は極上の蜜をも踏みつけるが/飢えている人には苦いものもみな甘い。」(7)貧しい時代を知っており、日本が豊かになってからも、貧しい国や地域に何度も訪れ、このことはよく分かる。自分も、乏しい食事、極上ではないもので、日常を生きることをたいせつにしてきたが、実際に苦いものもみな甘いといえるわけではない。「鉄は鉄で研がれ/人はその友人の人格で研がれる。」(17)有名な言葉だが、わたしも、異なった環境にいる友を大切にしていきたい。みんな、それぞれどうしているかな。 Proverbs 28:8 利息や高利によって財産を殖やす者は/弱い者を憐れむ人のために蓄えることになる。 最初は意味がよくわからなかった。しかし、その後のいくつかの節を読むと、「利息や高利によって財産を殖やす」ような行為は、結局は破綻し、その逆のような「弱い者を憐れむ人のために蓄える」ことになるよ、と言っているのではないかと思った。「正しい人を悪の道に迷い込ませる者は/自分の掘った穴に落ち/完全な人は良いものを受け継ぐ。」(10)この節もその路線であり「富める者は自分を知恵ある者と思い込むが/貧しくても分別ある人はそれを見破る。」(11)も、真理を見抜くことについて語っている。「貧しい人に与える人は欠乏することはない。/貧しい人に目を覆う者は多くの呪いを受ける。」(27)つねに、このような世界とは言えないとやはり思ってしまうが、イエスが「神の国が近い」といわれたことを、信じて、現実からは、必ずしも、そのように見えない場合でも、神の支配(神の国)のもとに生きることが、イエスが生きられたように、神の子としていきることなのだろう。 2022.3.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  67. BRC 2021 no.067:箴言29章ーコヘレトの言葉11章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) (日本といくつかの国・地域ではと限定的ではありますが)新しい年度に入りました。このメールを受信しておられる方の中にも、異動されたり、新しい歩みが始まる方もおられると思います。この通読の会では、お会いすることはありませんが、ひとりひとり、それぞれ、いろいろな思いで、生活し、生きておられ、歩んでおられる。そのような方々と、非常に緩やかにではありますが、ほんの少し共有するものがあり、つながっていることは、とても幸いだと思います。 箴言はいかがですか。今週はまず、箴言の最後の部分を読み、次の書に入ります。箴言の最後の2章は、アグルの言葉、レムエルの言葉と、すこし違ったまとまりになっています。内容も、編集方針も、他の箇所とは少し違うように思われます。箴言のことばは、日常生活の中で、ときどき思い出され、またその箇所を見てみようと思える知恵に満ちているように思います。みなさんは、どのような感想を持たれましたか。 次の書名は、翻訳によって異なります。コヘレトの言葉、または、伝道(者)の書です。最初の2,3節は、次のような印象的な言葉になっています。 コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。 下にリンクがついているコヘレトの言葉についてわたしが書いた箇所には次のようにあります。 みなさんは、どのようにこの伝道の書を読まれるでしょうか。わたしは高校時代なんどもこの伝道の書を読みました。学園紛争の中で「虚無」について考えていた時代的背景もあるでしょう。同時に、これをして、こう頑張って、つぎにこうなれば、こんなものを得ることができ、こんなに幸せになれるよと、若者にバラ色の人生をもとめて頑張るよう語る声の中に虚の響きを聞き取っていたからかも知れません。 空の空と言葉を重ねる表現は、ヘブル語(や他の言葉にも見られるようですが)の最上級を表しているようで、現在わたしが読んでいる聖書協会共同訳のひとつまえの新共同訳では コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。 となっていました。空は、へベルで、息を意味し、すぐに消えてしまううつろいやすいもので、アダムの子のアベルも同じことばのようです。 わたしの高校時代のことを書きましたが、おそらく、キリスト教会でも、これは、このようなことと、いろいろと説明をし、答えを教えてくれる場合も多いように思います。しかし、しっかりと現実を見て、簡単なこたえを求めず(答えがないと不安を覚えるのは自然ですが)じっくり現実をみて、考えることを、コヘレトのことばは示してくれているように思います。みなさんは、どのように、コヘレトの言葉と向き合われるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 箴言29章ーコヘレトの言葉11章はみなさんが、明日4月4日(月曜日)から4月10日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 箴言とコヘレトの言葉(伝道(者)の書)については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#pb コヘレトの言葉:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ec 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Proverbs 29:11 愚かな者は自分の感情をすべてさらけ出し/知恵ある人は最後にこれを鎮める。 感情については、よく理解できていない。感じる主体は、個人であるので、他者からは直接的には理解できない。すなわち、自分の感情をさらけ出しても、理解できる人はいない。むろん、感情を吐露しているひとを前に、自分の経験の記憶を思い出し、共感の努力をすることはできるかもしれない。喜怒哀楽の中で、それを無視するのではなく、冷静に考えるべきことがあるということだろう。後半の「最後に」が興味深い。知恵ある人も、悲しいときは悲しく、苦しいときはやはり苦しいのだから。あまり関連性はないが「貧しい人と虐げる者とが行き会うとき/主はどちらの目にも光を与える。」(12)にも興味を持った。主は公平なのだろう。悲しさ、苦しさ、そして喜びを感じるとき、そして、他の人はそうではない状況においても、神様はどちらの目にも光を与えておられるのかもしれない。受け取り方、その光によって、見える世界は、異なるかもしれないが。 Proverbs 30:1-3 ヤケの子アグルの言葉。託宣。/その人は言う。/神よ、私は疲れた。/神よ、私は疲れた。/吞み尽くされてしまいそうだ。私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない。知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない。 最初の「神よ、私は疲れた。」の繰り返しが印象的である。何を伝えているのだろう。印象に残る言葉、そうでもないものが混在しているように思う。おそらく、箴言の他の部分と違って、精査・取捨選択されていないのだろう。「空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ/貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください。」(8)若い頃から、このことばで御何度祈ったことだろう。いまも、そう願っている。アーメン。 Proverbs 31:6,7 麦の酒は滅びようとする者に/ぶどう酒は苦い思いをかみしめる者に与えなさい。飲めば貧しさも忘れ/労苦も思い出さなくて済むでしょう。 女に溺れることについて注意し、次に酒について述べ、少しずつ目を向ける内容が変遷している。前半は、すこし乱暴にも見えるが、後半は、貧しいものに寄り添い始めている。そして、続いて「あなたの口を、ものを言えない人のために/捨てられた人の訴えのために開きなさい。あなたの口を開いて/苦しむ人と貧しい人の訴えを正しく裁きなさい。」(8,9)としている。レムエル王(不明)が母の言葉として書いているという設定になっているので、このように書かれているが、王でなくても「ものを言えない人」を思い「捨てられた人の訴え」「苦しむ人と貧しい人の訴え」を聴くことはできる。もとに戻ると、女や酒に溺れることが言いたいことの中心ではなく、もっと、価値のあることにこころを向け、エネルギーを避けと、教えているのだろう。母の教えである。わたしも、いろいろな方から、このような教えを小さい頃から学んできたように思う。 Ecclesiastes 1:2,3 コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。 印象的な言葉である。この章の最後は「知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば、悩みも深まり/知識が増せば、痛みも増す。」(17,18)と結ばれている。わたしは、最近、神様とともに、悲しみ、苦しみ、喜び、労すること、それが求めることかな、と考えている。背景には、神様がどのような方かが、あるわけだが。自分や有限のものに目を向けている限りにおいて、知恵や知識も虚しく、一切は空であるという結論に達するのは、自然なように思う。むろん、神様の思い(みこころ)にまで昇華させないことも可能である。互いに愛し合うこと、他者と、悲しみ、苦しみ、喜びをともにしながら、共に生きようとすること。その他者の範囲を限定せず、広げていくことだろうか。人間の範囲は有限かもしれないが、関わる世界には、無限の広がりがある。そこに、神様もおられるように思う。 Ecclesiastes 2:22,23 太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は休まることがない。これもまた空である。 この章では、喜び、快楽のこと、知恵のことが、語られ、そして、労苦のことについて述べられている。「私はぶどう酒で体を元気づけようと心に決めた。私は知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした。」(3)これも興味深い。苦悩は理解できるように思う。引用句では「その人にとって」「彼の一生は痛み、その務めは悩みである。」とあるが、一人ひとりの問題と考えると、行き詰まるのだろう。しかし、単純には、それを人類とか、神の国と広げることもできない。それは、かえって、無責任なのかもしれない。み心が、普遍的な価値がわからないと。それは、こうだと決めてしまえば簡単なのだろうが、同時に、時代とともに、揺れ動くことも確かだろう。不思議なものである。 Ecclesiastes 3:22 私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。/彼の後に起こることを/一体誰が彼に見せることができようか。 おそらく「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」(11)と対応している。とても、説得力がある。わたしの言葉では、「神様のみ心、真理、普遍的な価値は、求めても、見極めることはできないのだから」となるように思う。ここでは、「自分の業を楽しむ」となっているが、生きることを楽しめるかどうかは、やはりとてもたいせつな要素であるように思う。わたしが、神様のみ心、真理、普遍的な価値をもとめるのは、少しずつ発見をしていくこと、それが、自分の業に関係していることが、楽しいからなのかもしれない。わたしと同じではなくても、そのようなものを持っているかどうか、そこに、行き着くと、行き止まりでもある。難しい。 Ecclesiastes 4:1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。/見よ、虐げられる者の涙を。/彼らには慰める者がいなかった。/また、彼らを虐げる者の手には力があった。/彼らには慰める者がいなかった。 この章も考えることが多い。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」(4)妬みは、本当に深くひとのこころを蝕(むしば)む。「一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。」(9)有名なことばだが、今回は「一人より二人のほうがましだ」と読めた。ここでも、空ではないものに本質的には行き着いてはいないようなので。引用句は、戦争のあるなしに関わらず、日常的に、あらゆる場所であることなのだろう。興味深いのは、どちらにも「彼らには慰める者がいなかった」としている点である。これが「一人より二人のほうが幸せだ」につながっているとも言える。慰めるものは「貧しくても知恵ある少年のほうが/もはや忠告を聞き入れない/老いた愚かな王よりまさる。」(13)にもつながっているように思う。慰めるものすら拒否することが、忠告を受け入れないと対応し、慰めを感謝できること、それが知恵なのかもしれない。謙虚さと結びついているのか。 Ecclesiastes 5:17 見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。 今回の通読では、この句を読んで、本当にそうだなと頷(うなづ)いた。ひとの受ける分。わたしが若い頃から暗唱していた「夢が多ければ、ますます空しくなり/言葉も多くなる。/神を畏れよ。」(6)が、この背後にあるように思う。夢は良いもののように一般的には言われるが、神を畏れることの反対側に向かわせるものなのか。夢を抱くことは、健全でも、それを絶対化し、それが、または、その結果が幸せをもたらすように、考え始めたときには、すでに、御心を求めるところからは、離れているのかもしれない。絶対化までは、いかなくても、陶酔する状態になることは、あり得るように思う。特に、若い頃は、そして、夢がやぶれると、絶望の淵に落とされる。 Ecclesiastes 6:7,8 人の労苦はすべて口のためである。/だが、それだけでは魂は満たされない。愚かな者にまさる益が知恵ある者にあるのか。/人生の歩み方を知る苦しむ人に/何の益があるか。 とても深い。人の労苦は、すべて経済活動、生きていくためと言っているかのようだ。愚かな者にまさる益、なにかを挙げることはできるかもしれないが、ほんとうに、そうだと、言いうるだろうか。幸せとはなにかを問い「空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。」(12)とこの章を結んでいる。「人生の歳月は豊かであったのに/その幸せに心は満たされず」(3b)ともある。豊かさと幸せの違いだろうか、わたしは、コヘレトの言葉(伝道の書)を高校生の頃から愛ししっかり読もうとしてきた。しかし、完全には、答えられない。どこまで、真剣に向き合っているかを問われているように思う。 Ecclesiastes 7:18 一方をつかむとともに/他方からも手を離してはならない。/神を畏れる者はいずれをも避ける。 この章は「名声は良質の香油にまさる。/死ぬ日は生まれる日にまさる。」(1)と「まさる」ということばで始まる。絶対的なものではないが、こちらのほうがマシだよと言っているようだ。そして「空である日々に私はすべてを見た。/義のゆえに滅びる正しき者がおり/悪のゆえに生き長らえる悪しき者がいる。」(15)と、実際に見てきたことを述べ、それが、「あなたは義に過ぎてはならない。/賢くありすぎてはならない。/どうして自ら滅びてよかろう。」(16)さらに、引用句の「他方からも手を離してはならない」につながっているように思われる。若かったころ「そうだな」と自分の悩みを照らす鏡のようだった、壮年のころは、自分なりに、答えらしきものが持っていると思い、がむしゃらにできることに力を注いだ、しかし、今、もう一度、ゆっくり向き合ってみたいと思う、コヘレトの言葉に。 Ecclesiastes 8:12,13 百度も悪を重ねながら/生き長らえる罪人がいる。/しかし、私は知っている/神を畏れる人々には/神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には/神を畏れることがないゆえに幸せはない。/その人生は影のようで、生き長らえることがない。 印象的なことばである。幸せの尺度(measure)について言っているようでもある。世俗のはかりで計って一喜一憂しているのであれば、結局、悪しきものも、神を畏れるものも違いは見えない。なにをたいせつにするか、それがそのひとを幸せにするのかもしれない。興味深い。神を畏れるからこその幸せ、しっかりと考え、求め続けていきたい。 Ecclesiastes 9:9,10 愛する妻と共に人生を見つめよ/空である人生のすべての日々を。/それは、太陽の下、空であるすべての日々に/神があなたに与えたものである。/それは、太陽の下でなされる労苦によって/あなたが人生で受ける分である。手の及ぶことはどのようなことでも/力を尽くして行うがよい。/あなたが行くことになる陰府には/業も道理も知識も知恵もない。 秀逸である。生きていることこそたいせつだ(4,5)とのべ、どう生きるかに行き着いている。空であると認めつつ。まさに「力を尽くして」生きていきたい。知恵と武力そして貧しさについての言及(17,19節)も興味深い。コヘレトのことばを楽しめるようになったということだろうか。 Ecclesiastes 10:19 食事を整えるのは笑うため。/ぶどう酒は人生を楽しませる。/銀はそのすべてに応えてくれる。 この章では、さまざまな理不尽が世に起こっていることを柔らかく語っている。興味深い、または、考えてみたい節もあるが、引用句を選んでみた。食事を整えるのは何のためだろうか。酒を飲むのは何のためだろうか。ここでは、笑うため、人生を楽しませるためとしている。それは、すばらしいこと。おそらく、銀、お金や富も、笑ってともに食事をし、人生を楽しくするものなのだろう。お金や富が目的ではないのだから。笑いや、楽しみについても、学んでみたい。 Ecclesiastes 11:10 あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け。/若さも青春も空だからである。 悩みが取り去られるなら取り去りたい、痛みを取り除けるなら取り除きたいと思うのは自然である。しかし、ここでは、そのようなものではない、悩み、痛みを言っているのかもしれないと思った。たしかに、若者を見ていると、まだその世界が狭いために、狭い部分に力が入りすぎて、悩み、苦しみ、それでも、体に痛みを伴うことから離れない傾向もある。それは、よい経験だとも言えるが、もっと、学ぶことがあることも確かなのだろう。そして、それは、この前の節にも関係しているのかもしれない。「若者よ、あなたの若さを喜べ。/若き日にあなたの心を楽しませよ。/心に適う道を/あなたの目に映るとおりに歩め。/だが、これらすべてについて/神があなたを裁かれると知っておけ。」(9)信仰深く生きることではなく、神様の視点も考えてみようよと語りかけているように聞こえた。 2022.4.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  68. BRC 2021 no.068:コヘレトの言葉12章ーイザヤ書5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コヘレトの言葉(訳によっては「伝道(者)の書」)はいかがですか。今週は、その最後の章を読んでから、次の、雅歌を読み、そして、大預言書と呼ばれるものの最初である、イザヤ書に入ります。 わたしは、高校生のころから、コレヘトの言葉の12章の冒頭のことばが好きでした。「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。/災いの日々がやって来て/『私には喜びがない』と言うよわいに/近づかないうちに。」なにも理解できていなかったようにも思いますが、その日から、神様のみこころの探求が始まり、それを、心に刻んできたように思います。 雅歌は不思議な書です。英語名は Song of Songs 歌の中の歌、恋の歌です。初めて読まれる方は、驚かれるかもしれません。聖書の一つの巻としてどのような意味を持つのかをいろいろな方が書いておられますが、だいたいつぎのような説があるようです。下に引用している、ホームページからの引用です。 • ユダヤ人の比喩的解釈「神とその民との間の愛」 • キリスト教の比喩的解釈「キリストと教会との間の愛」 • 劇詩としての解釈「ソロモンと羊飼いの娘」「ソロモンと羊飼いの娘とその恋人の羊飼い」 • 恋愛詩の断片をあつめたものとする解釈 • 宗教祭儀文、他の宗教のものをユダヤ教に調和させた形に取り入れたとする解釈 • 祝婚歌、自然の恋愛詩歌とする解釈 みなさんは、どう思われますか。訳にもよりますが、「おとめ」「若者」「おとめたち」「王」などと書かれています。そのひとたちのセリフであるかのように。ちょっと他の訳を見てましたら、英語の New International Version には、冒頭に次のように書かれています。 The main male and female speakers (identified primarily on the basis of the gender of the relevant Hebrew forms) are indicated by the captions He and She respectively. The words of others are marked Friends. In some instances the divisions and their captions are debatable. 原語から、話者が、男性か女性かなどがわかるので、それが書かれているが、議論のある箇所もあるとなっています。「おとめ」「若者」などと書かれていても、それが、ずっと同じ人ではないかもしれないということも、理解して読んでいったほうがよいでしょう。「恋に病む」状況も描かれています。みなさんは、恋に病んだ経験はありますか。 イザヤ書は、ホームページにも書いておきましたが、新約聖書でも、「預言者イザヤによって」などとして、たくさん引用していますから、読んだことがあることばが何回も出てくるのではないでしょうか。今週の部分は、盛りだくさんですから、このへんにしておきましょう。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コヘレトの言葉12章ーイザヤ書5章はみなさんが、明日4月11日(月曜日)から4月17日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 コヘレトの言葉(伝道(者)の書)、雅歌、イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コヘレトの言葉:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ec 雅歌:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#so イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ecclesiastes 12:14 神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。 「裁き」はできれば考えたくないものである。それだから言葉を弱めているのかもしれないが、わたしは「すべての一人ひとり業をご存知である。」と読み替えたい。神の言葉を改変する大逆だと言われればそれでもよい。神様はともに悩んでくださる方だと思っている。この章は「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」(1a)と始まるが、わたしは、子供の頃から、主を心に刻み、主の御心を求め続けてきた。むろん、そのみこころの反することもたくさん行ってきた。それを、神様が裁かれ、永遠の火の中に投げ込まれるのであれば、それで良いと思っている。引用句の直前には「聞き取ったすべての言葉の結論。/神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。」(13)とあるが、みこころを求め、みこころをなすにはどうしたらよいかを考え、そして行動してきたことが、わたしのすべてだと告白したい。闇の部分が多く残っていることを正直に認めつつ。 Song of Songs 1:4 私を引き寄せ/あなたの後ろから付いて行かせてください。/さあ、急ぎましょう。/王はその部屋に私を連れて行ってくれました。/楽しみましょう/あなたのもとで喜びましょう。/あなたの愛をぶどう酒よりもたたえましょう。/彼女たちはあなたをひたすらに愛します。 正直、わたしには、状況設定がよくわからない。舞台上で、再現して見せてほしいと思う。混乱させるのは、引用句を語る「おとめ」と「若者」と「王」の関係がよくわからないことなのだろう。いろいろと解釈もあるのだろう。でも、それに頼らず、読んでいきたい。「王」と「若者」は同一なのだろうか。考えていきたい。なお「おとめ」「若者」「おとめたち」「王」と書かれた部分は、原語から話者が判断できるので、記されているが、議論もあるとのこと。(NIV注) Song of Songs 2:4,5 あの方は私をぶどう酒の館に誘いました。/私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。干しぶどうの菓子で私を力づけてください。/りんごで私を元気づけてください。/私は愛に病んでいます。 後半を読んで、このおとめの願いは、祈りなのかもしれないと思った。恋の中で、息苦しくなり、愛に病んでいると表現している。その中で、干しぶどうの菓子、りんごは、現実的で、興味深い。肉体に力を与えることで、こころもからだも安定することを、客観的な事実から、経験から知っているのだろう。雅歌には、主の名が現れないと言われる。しかし、表現の豊かさは、興味深い。聖書の幅を広げていることは確かである。 Song of Songs 3:1 夜ごとに寝床で/私の魂の愛する人を探しました。/あの方を探しましたが、見つかりません。 状況を理解するのは、簡単ではない。単に想像することはできるかもしれないが。このあと、外に出て、探し回り、夜警にも聞き、しかし、その直後に見つかることが書かれている。「彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。/この方を抱き締めました。もう離しません。/私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。」(4)この気持はわかるように思うが、たしかに、これは、「愛に病んでいる」(2章5節b)なのだろう。あまり思考を働かせず、そのようなこころに思いを寄せればよいのか。やはり「病」であり、課題も多いように思うが。こう考えるのは、自分が年寄りだということだろうか。 Song of Songs 4:9,10 私の妹、花嫁よ/あなたは私の心をときめかせる。/あなたの一瞬のまなざしも/首飾りの玉の一つも私の心をときめかせる。私の妹、花嫁よ/あなたの愛はなんと美しいことか。/あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく/あなたの香油は/どのような香料よりもかぐわしい。 この章の最初には「若者」とあり「なんと美しい、私の恋人よ。/なんと美しい。ベールの奥の目は鳩のよう。/あなたの髪は/ギルアドの山を駆け下りる山羊の群れのよう。」(1)と始まる。引用句は「私の妹、花嫁よ」となっている。同一人物のことばだと無理やり解釈することはできないことはないが、見ているのは、花嫁であっても、語り手は異なると思うようになった。原語的に、若い男性のことばだと特定してそれがわかるように「若者」としているだけで、切れ目を限定しているわけでは無いように思う。しかし、どこで切れるのかは判然とはしない。それも、理解を困難にしているように思われる。 Song of Songs 5:7,8 町を巡る夜警たちが私を見つけました。/彼らは私を打ち、傷を負わせました。/私からかぶり物を剝ぎ取ったのは/城壁の見張りたちでした。エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。/私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。 正確にはよくわからないが、恋人が訪ねてきて、躊躇していて去ったあとに、夜中に、探しに出て、不審がられて起こったことなのかもしれない。この「愛に病んでいる」状態を際立たせているのが、このあとの「女たちの中で誰よりも美しい人よ/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。/私たちにそれほどまでに誓わせるとは/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。」(9)でもある。「愛に病む」ほどの状態は、客観的には、そとから、わからないものなのだろう。おそらく、肉体や脳で、あるプログラムが動いていて、通常の働きができない、または、違うモードになっているということなのだろう。 Song of Songs 6:8,9 王妃は六十人、側女が八十人/若い娘は数えきれない。私の鳩、私の汚れなき人はただ一人。/彼女は母の一人娘。/彼女を産んだ母にとって輝いている娘。/娘たちは彼女を見て、幸せな人だと言い/王妃も側女も彼女をほめたたえる。 状況はあまりよくわからない。この女性の愛らしさを、褒め称えているひとつの表現なのだろう。王妃、側女、若い娘はたくさんいても、その全員に幸せな女だと言われ、ほめたたえられるということか。これも、おそらく、一瞬のこと、しかし、特別なことでもあるのだろう。 Song of Songs 7:7 喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい。 この前の6章の最後には「知らぬ間に、私の魂が/私をアミナディブの車に乗せていました。」(6章12節)と急に具体性を伴う表現が登場し、この章に入ると「戻れ、戻れ、シュラムの女よ。」(7章1節a)「ナディブの娘よ」(7章2節a)と具体的な表現がある。しかし、引用句は、非常に一般的である。急に現れたようで、前後関係がよくわからない。しかし「喜びに溢れた愛」はよいことばで印象に残った。「喜び」は自分の中の感覚と関係し「愛」は他者との関係である。そして、それが「美しく、麗しい」と表現されている。おそらく、他者視点なのだろう。他のかたの解釈も聞いてみたい。正直わたしにはよくわからないので。 Song of Songs 8:6,7 印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。/愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。/愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。/洪水もそれを押し流すことはありません。/愛を手に入れるために、家の財産をすべて/差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。 雅歌をしっかりと読むことが今回もできなかった。難しい。「エルサレムの娘たちよ、私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(4)は印象的である。この後半「私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」は、2章7節、3章5節にもある。こちらは、恋について言及しているとも、愛の相互性について述べているとも理解できる。引用句は、愛の強さ、激しさなど、特別な価値について述べている。愛について述べていることはそのとおりだが、イエスが説いた愛とは、なにか距離を感じる。恋心と呼ばれる、心の燃え上がりではないものを、イエスは説いているからだろうか。 Isaiah 1:23 長たちは反逆者となり/盗人の仲間となっている。/彼らは皆、賄賂を好み、贈り物を要求する。/孤児のために裁かず/寡婦の訴えは彼らのところまで届かない。 イザヤの義憤が背後にあると感じた。引用句のあとに「それゆえ――万軍の主なる神/イスラエルの力ある方の仰せ――/ああ、私は反抗する者たちを罰し/敵たちに報復する。」(24)と続いており、裁きにつながる、御心とはことなる生活をしていることとして挙げていることが、長たちの不正のように見える。「牛は飼い主を知っており/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/しかし、イスラエルは知らない。/私の民は理解していない。」(3)と言い「もう二度と空しい供え物を携えて来るな。/香の煙はまさに私の忌み嫌うもの。/新月祭、安息日、集会など/不正が伴う集いに私は耐えられない。」(13)とする、その背景にあるものは、引用句のようなものなのだろうか。イザヤはなにを糾弾しているのか、義憤を覚えているのか。いま起こっていることにも照らしてじっくり読み進めてみたい。 Isaiah 2:4 主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。 世界各地で戦争や紛争が起こっている現状をみると、はやくこのようにならないかと思う。それは、自然な考えだろう。この章は「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。」(1)と始まり続けて「終わりの日に」となっている。ある時間軸で、将来的にこうなることを期待するのは自然である。しかし、落ち着いて考えてみると、そうではなく、イザヤが、神様が望まれる世界として、御心をうけとったその表現ではないかと思う。これが主が望んでおられる世界だよというメッセージを語っているのではないかということである。この受け取り方の違いは大きい。御心をうけとったものが、御心がこの世になるようにと、生きる、そちらに重点が移るからである。むろん、そのようにしなさいと、神様が命じておられるわけではない。謙虚に、待つ姿勢も必要である。しかし、待っていればよいということとは、違うように思う。ゆっくり考えながら、預言書を読んでいきたい。 Isaiah 3:1 見よ、万軍の主なる神は、エルサレムとユダから/頼りとなり、支えとなるもの/頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。 前の章の最後は「人間に頼ることはやめよ/鼻で息をするだけの者に。/人に何の値打ちがあるのか。」(2章22節)と終わっている。引用箇所のあと神が取り去られるものが列挙され続く。頼りとなるひと・人材、システム、食べ物、水、他者を思う心、礼儀、仕えるこころ(serving heart)、自らを用いてくださいという謙虚な積極性(availability)、醜さを悔いる心、そして、通常はリーダーシップを取らない、こども、女性が支配し、抑圧し、勇士は、戦いで倒れる、などなど。疑問符がつく箇所もあるが、主旨は伝わってくるように思う。主に信頼するのではなく、それ以外のものに、頼っていることを嘆いているのだろう。そのように描かれているものには、たいせつなものもあるように思う。おそらく、そのたいせつなものの背後にある、万軍の主への信頼なしにということなのだろうか。それが、このようになるとの裁きの形に現れている。裁きの表現としてのメッセージを受け取るべきだろう。 Isaiah 4:3 こうして、シオンに残った者とイスラエルに残された者は、聖なる者と呼ばれる。その者たちはすべてエルサレムにおいて命の書に書き記されているのである。 「その日」(2:11, 17, 20, 3:7, 18, 4:1,2 など)の記述である。最終的には、命の書に書き記されているものだけが残るということのようである。イザヤが見た、理想の世界が書かれているのだろう。たしかに、そのことは、素晴らしいが、神様が見ておられる世界と一致してるのだろうか。神様が望んでおられる世界ではあるかもしれないが。互いに愛し合う世界は、単純ではない。わたしは、では、どのように、記述するだろうか。それは、また、困難な課題である。神様も、見えておられないのかもしれない。わたしは、軽々に、その世界を描くことはできない。たとえそうであっても、入り口で引き返すのではなく、イザヤを通して示された世界をしっかりと、受け取っていきたい。 Isaiah 5:2 彼は畑を掘り起こし、石を取り除き/良いぶどうを植えた。/また、畑の中央に見張りのやぐらを建て/搾り場を掘った。/彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。/しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 神の業は失敗だったのだろうか。このあとには「ぶどう畑に対してすべきことで/私がしなかったことがまだあるか。/私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに/どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。」(4)ほんとうに、このような幼稚ともいえる表現を、イザヤも受け入れていたのだろうか。たしかに、神が、そしてイザヤが望んだ世界にはなっていない。そうだからと言って、失敗だと決めることはないように思う。すばらしいこと、しかし、困難な歩みをしているのだから。丁寧に読んでいきたい。 2022.4.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  69. BRC 2021 no.069:イザヤ書6章ーイザヤ書19章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 先週から、イザヤ書を読み始めました。大分雰囲気が変わったと思いますが、いかがですか。イザヤ書は、全部で66章ありますから、しばらく、みなさんとイザヤ書を読むことになります。イザヤ書のあとも、預言書が続きますから、少し、基本的なことで、わたしが、今回通読をしながら考えていることを二点書かせていただきたいと思います。 1つ目は「預言」についてです。みなさんもご存知だと思いますが「予言」とは異なる意味合いがあります。「予言」は「予め推測していうこと。未来の物事を前もって判断していうこと。また、そのことば。かねごと。」と日本国語大辞典にありました。また、科学的推論によるものは、Prediction、予言者などのものは、Prophesy と他の辞書にありました。「預言」は、日本国語大辞典には、「キリスト教で、神の霊感にうたれたものが神託として語る言葉」とあり、「徳富蘇峰「将来之日本」(1886)に『彼の欧州諸国は自ら基督教国と誇称すれども未だ上古の先知者が預言したるが如く<略>真神の命に従順なるの猛獅に非ざるなり』」が最初に使われたと記されています。徳富蘇峰は熊本バンドのキリスト者で、弟の徳富蘆花とともに、同志社で新島襄の薫陶をうけ、新聞記者となった人ですね。国際基督教大学の初代学長湯浅八郎のお母さん初子さんの弟です。一家は、6年前の4月16日に起こった熊本地震で大きな被害を受けた益城(ましき)町の出身ですね。大辞林には「神や死霊の意味を媒介し、人々に伝えること。また、その言葉。とくに、超越神によって示された世界の意味・救済の意味などを人々に伝えることをいう。」大辞泉には「キリスト教で、神託を聴いたと自覚する者が語る神の意志の解釈と予告。また、それを語ること。」だそうです。 まとめると、キリスト教の用語として用いられることが多いようで大辞泉から少し改変して「神のことば(言)を聴いた(預かった)と自覚するものがとりつぐことばとその解釈」が良いかなと思います。多少客観的な見方が入っています。今、読んでいるイザヤ書についていうと「イザヤが受け取った、神様のことば、みこころ」でしょうか。当たり前だと思われる方も多いかもしれませんが、それが神様の御心かどうか、御心の全体を表しているかに関しては保留しているということです。これから起こることについて書かれていることも多く、つまり、予言ですが、その後の歴史を見て、間違い探しをするのは、適切な読み方ではないと思うからでもあります。 2つ目は「その日」です。似た表現が他にもあり、網羅的には調べていませんが、この言葉で検索すると、イザヤ書には47件出てきます。他に多いのは、エレミヤ書41件、エゼキエル20書件、ゼカリヤ書24件。通常、特別な日、たとえば、最後の審判の日や、イスラエル回復の日を意味すると取ることも多いですが、今回読んでいて、「その日」について書いてあることは、神様のみこころがなる世界だとイザヤが受け取ったことを書いているのかもしれないなと思いました。すなわち、特定の日を意味しているのではなく、神様の支配、神様の国においてはと、イザヤがみ心がなる世界だと信じることを表現しているのではないかと思ったということです。みなさんは、どう思われるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書6章ーイザヤ書19章はみなさんが、明日4月18日(月曜日)から4月24日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Issaiah 6:11 私は言った。/「主よ、いつまでですか。」/主は言われた。/「町が荒れ果て、住む者がいなくなり/家には人が絶え/その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」 「行って、この民に語りなさい。/『よく聞け、しかし、悟ってはならない。/よく見よ、しかし、理解してはならない』と。この民の心を鈍くし/耳を遠くし、目を閉ざしなさい。/目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず/立ち帰って癒やされることのないように。」(9b,10)のことばを受けている。これが「ここに私がおります。/私を遣わしてください。」(8b)の直後に与えられた言葉である。イザヤの原点なのかもしれない。よくわからないことばを伝える。それが神のことばの啓示であったことは、興味深い。イザヤも手探りで、進んでいくのかもしれない。明確に、御言葉が示されるときも、そうでないときもあっただろう。精神的には、かなり苦しい日々であったことも想像できる。 Issaiah 7:11,12 「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。」しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。 「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。」(申命記6章16節)「イエスは言われた。『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある。』」(マタイ4章7節、ルカ4章12節参照)を思い出す。この違いをどう理解したら良いのだろうか。こころの状態のように思われる。信頼だろうか。信頼があるから試さない、信頼していないから試さない。両方があるように、思われる。この箇所では、このときに与えられるとされる「しるし」は、次のように書かれている。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14)通常イエスの誕生預言と呼ばれる。(マタイ1章23節)正直、この解釈は、乱暴である。まず、この文脈でなにが語られているのかを丁寧に理解すべきだろう。インマヌエルということばが現れるのは、この二箇所に加えて、次の一箇所のみである。「ユダにみなぎり、溢れ、押し流し、首にまで達する。/インマヌエルよ/その広げられた翼はあなたの国土を/隅々まで覆う。」(8章8節)宿題としておこう。 Issaiah 8:4 なぜなら、その子がまだ『お父さん、お母さん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの財産とサマリアの戦利品は、アッシリアの王の前に持ち去られるからである。」 わたしは世界史を十分学んでいないが、おそらく、中東の大きな変革期だったのだろう。エジプトとは人の行き来があったと思われるが、戦争・紛争はないように思われる。ダマスコは、シリア、サマリアは北イスラエル王国で、長い間、紛争や様々な関係を繰り広げてきたのは、この二国である。それとは全く異なり、それらを凌駕するアッシリアが中東世界最初の世界帝国を作り始める頃である。イザヤはこの時代に生き、この歴史的大変化の背後にある、主のみこころを聴こうとしたのだろう。丁寧に考えていきたい。 Issaiah 9:5,6 一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。/ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。 ルカ2章11節にも引用されている、有名な箇所である。しかし、ダビデの王座と結び付けられており、イエスが、どう考えていたかは不明であると思う。当時、通常考えられていた、ダビデの王国は、とこしえには続かない。ヒゼキヤや、(ひょっとするとウジヤや、)ヨシヤを想定していたと考えたほうが良いのかもしれない。しかし、国際社会の大きな変化のなかで、まずは、このような預言をしていることには、驚かされる。単なる楽観主義ではないことも確かなので。イザヤはどのような人だったのだろうか。 Issaiah 10:1,2 災いあれ、不正な掟を定める者/苛酷な判決を書き記す者に。彼らは弱い者の訴えを退け/私の民の苦しむ者から権利を奪う。/寡婦を餌食とし、孤児を獲物とする。 この章の記述は複雑である。しかし、基本的には「災いあれ、私の怒りの鞭であるアッシリアに。/その手にある杖は私の憤り。」(5, 参照 12, 24)とあり、アッシリアに対する裁きが語られている。すると、引用箇所も、アッシリアのことを言っているのだろうか。より、一般的なことをまずは述べているのだろうか。20節から23節には残りの者という、イザヤ書のモチーフの一つも現れる。「その日になると、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者は、自分たちを打った者にもはや頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。」(20)残りの者だけであることが書かれ(23)、この章の最後は、アッシリアを恐れるなと語っている。一段高いところからのメッセージには聞こえる。 Issaiah 11:16 アッシリアに残されたこの民の残りの者のために/大路が備えられる。/エジプトの地から上って来た日に/イスラエルのために備えられたように。 「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。」(1,2)から始まるこの章は「水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。」(9b)にも表現されているように、救いが語られている。しかし、おそらく、遠くに、神の子イエスの誕生が預言されていたとしても、直接的には、現実の危機にたいする救いなのだろう。「主は国々に向かって旗を揚げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放された者を集め/ユダの散らされた者を呼び集める。」(12)ともあるように、イスラエルの滅亡とともに、ユダもかなりひどい目にあっている。逆に、残りの者に対する、福音なのかもしれない。残りのものについて明確に限定しているわけではないが。 Issaiah 12:1 その日に、あなたは言うであろう。/「主よ、私はあなたに感謝します。/あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。」 「その日」を検索すると、イザヤ書には47件あった。(他に多いのは、エレミヤ41件、エゼキエル20件、ゼカリヤ24件)その日を期待するということだけではなく、ここでは、先取りして、慰めに関する感謝を述べている。(4節参照)このあとにも、ほめたたえることばが続く。当時の人は異常に感じたかもしれない。すくなくとも、この主への信頼が、預言者を預言者たらしめているのだろう。 Issaiah 13:20 そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。/アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。 「そこ」は、「諸王国の麗しさであり/カルデア人の高き誉れであるバビロン」(19a)である。そのままではないが、周辺に町が建てられ、いまでも、栄えている。精神的な意味で、バビロンをとっても、世界各地で、バビロンのような存在は、各所にあるように思う。むろん、完全な預言の成就は、まだ、なっていないとも取ることができるが、預言は、正確に、未来を予知・予言することではないのだろう。しかしすると「その日」について、そして「そこ」について問いたくなる。メッセージを正確に受け取ることは、とてもむずかしい。 Issaiah 14:1,2 しかし、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び、彼らの土地に住まわせる。/寄留の民も彼らに加わり、ヤコブの家に連なる。もろもろの民は彼らをその地に連れて来る。イスラエルの家は主の土地で、もろもろの民を男も女も奴隷として所有する。かつて自分たちを捕らえていた者を捕らえる者となり、かつて自分たちを虐げていた者を支配するようになる。 どの時点で書かれたものかは不明だが、基本的には、バビロンの滅亡とヤコブ(イスラエル)の家の回復について書かれている。歴史的には、このようにはなっていない。それも、直視すべきだろう。さらに、回復の状態として、寄留の民は相変わらず寄留の民、そして、諸国民を奴隷として所有するとある。報復としての記述もある。イザヤだけではなく、信仰者一人ひとりがみ心を求める過程で、様々な不完全さを担っていることの証であるとも思う。捕囚の前に書かれた可能性が高く、その意味では、先の先を見る預言者が希望を伝えているとも取れる、しかし同時に謙虚になりたい。 Issaiah 15:1 モアブについての託宣。/一夜のうちにアルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。/一夜のうちにキルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。 Encyclopedia Britanica によると、モアブは紀元前8世紀ごろ栄え、その後アッシリアの一部となり、バビロンにアッシリアが滅ぼされてからは歴史から消えたとある。聖書の記述は多いが、不明な点が多いようである。近隣の民族との軋轢は、ずっと継続して続き、大きな問題であったことがわかる。しかし、神様が働かれるのは、神様が世界を創造されたなら、もっとずっとずっと広い世界なのだろう。隣人との諍(いさか)いの痛みの傷が、ひとを形作っているように、世界との関係も、特に国際社会との関係が広がり深まるなかで、大きな影響を持つに至っているのだろう。現在の世界の状況を見ると、遠い国の出来事ではなくなっている。 Issaiah 16:11,12 それゆえ、私のはらわたはモアブのために/私のはらわたはキル・ヘレスのために/琴のように震える。モアブが疲労に耐えて高き所に出向いても/祈るために聖所に赴いても、何の力にもならない。 この章もモアブの裁きについての預言がつづき最後に「そして、今、主は語られる。『雇い人の年季のように三年のうちに、多くの群衆がいたモアブの栄光は侮られ、生き残る者は極めて少なくなり、力を失う。』」(14)三年とあり、イザヤはその滅亡または凋落を見たのかもしれない。わたしが知りたいのは、神様はどう見ておられ、そしてわたしはこのことをどう見るべきなのかということである。「私たちは、モアブの高ぶりのことを聞いた。/その高慢は甚だしい。/思い上がり、高ぶり、横柄さ。/その自慢話には根拠がない。」(6)これだけではよくわからないが、モアブに問題はあったのだろう。しかしそれは、アッシリアに頼り生き残りを計ったことなのかもしれない。それが、隣国から見ているとこう見えるのかもしれない。そして、引用句。「わたし」はイザヤなのか、神様なのか、明瞭ではないが、はらわたが震えている。こころの奥底が揺さぶられる表現である。それ以上はわからないが。 Issaiah 17:3 エフライムからは砦が/ダマスコからは王国が消え去る。/アラムで生き残った者は/イスラエルの子らの栄光と同じようになる/――万軍の主の仰せ。 この預言が何年ごろなのかは不明であるが、イザヤの時代に、北イスラエル王国は、アッシリアにより滅ぼされる。ダマスコと書かれているシリアについて正確には理解できていないが、アッシリアに飲み込まれてしまったことは確かだろう。この激動の時代、イザヤはなにを見、神様のみこころをどのように受け取ったのだろうか。「あなたは救いの神を忘れ去り/自分の砦である岩を心に留めることはなかった。」(10)これはおそらくイスラエルまたはその盟主であるエフライムについて語ったものだろうが、これは、南ユダにとっても、自らを省みなければいけないときだったのだろう。時代が大きく変化している。世界史的にも。ひとは、どのように、神様の声を聞き、普遍的な価値、真理をもとめていったらよいのだろうか。今も、そのような時代なのかもしれない。 Issaiah 18:1 災いあれ、クシュの川のかなたで/高い羽音を立てている国に。 クシュは、北スーダンと南エジプトのあたりのヌビア地域の国。エジプトと関係が深いが、独立した地域として、存在し続けたようだる。ただ、文字を持っていなかったようで、記録が乏しく、殆ど、エジプトの文書によっているとのこと。「その国はパピルスの舟を水に浮かべ/海路を通じて使節を遣わす。/行け、足の速い使者たちよ。/背が高く、肌の滑らかな国民のもとへ。/ここかしこで恐れられている民のもとへ。/その国土が多くの川で分かたれ/強い力で踏みにじる国のもとへ。」(2)とあり、最後にも「背が高く、肌が滑らかな民」(7b)との記述がある。記述に乏しいとも言えるが、恐れられてもいたようだ。 Issaiah 19:23 その日には、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。 「その日」の記述が興味深い。このあとにも「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。『祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに』と。」(24,25)と続く。この章はエジプトについて記述されており「私はエジプトをエジプトに刃向かわせる。」(2a)ともある。エジプトの歴史も学んでみたい。第何王朝という名前が続くことも不思議に感じていた。似た王朝のことも、外部からの侵入のこともあったようだが。ナイルの恵みは多くのひとに魅力的だったのかもしれない。「その日」は、イザヤが見ていたほど単純ではないように思われる。しかし、そのようなビジョン自体が、主の、みこころの理解のひとつの形態、探求の歩みなのかもしれないとも思う。すくなくとも、批判するようなことではないのだろう。 2022.4.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  70. BRC 2021 no.070:イザヤ書20章ーイザヤ書33章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) イザヤ書はいかがですか。前回は「預言」についてと「その日」について書きました。今回は、「簡単な歴史的背景・年表」と、「預言者」について少しだけ書かせてください。皆様にお教えするというより、自分はイザヤ書をこんなことをこころに置きながら読んでいますというぐらいのところでしょうか。わたしは、まったくのしろうとですから、学問的には、議論があったり、間違っているとされることもあるかもしれません。でも、このように、少しずつ調べながら読むことで、読み方の幅も広がり、少しずつ、理解が広がるように考えています。 まずは、年表から書いてみます。(下に引用がある、私のホームページからとったものです。「* は諸説あり」です。) • BC740 少し前 イザヤの召命 • BC740 ウジヤの死んだ年*、ヨタムの即位。イザヤの再召命 (6章)。 • BC735 ヨタムの死、アハズの即位。 • BC734 アラム(シリヤ)、イスラエル連合軍のユダ侵入、インマヌエル預言 (7章)。 • BC733 このころ次男「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」生まれる。(8章)。アッスリヤのティグラテ・ピレセル、イスラエルの北部占領。ギルアデ、メギド、ドルの三州として属領に編入される。(9章1節) • BC732 北イスラエルの王ペカ、ホセアに暗殺され、ホセアが王となる。ティグラテ・ピレセルにより、ダマスコ陥落、レツィン殺される。 • BC724 イスラエルの王ホセア、アッスリアに謀反、シャルマヌエセルの捕虜となる。 • BC722 シャルマヌエセルの死、サルゴンの即位。 • BC721 三年の包囲の後、サマリヤ陥落。 • BC715 アハズの死*、ヒゼキヤの即位。宗教改革。 • BC712/711 サルゴンにより、アシュドテ滅ぼされる。イザヤ三年間裸となる (20章)。 • BC701 ヒゼキヤの病気とイザヤの祈りによるいやし (38章)。 メロダク・パルアダンの見舞い (39章)。セナケリブの侵略と無条件降伏。(36章、列王記下 18:13-16) • BC688頃 セナケリブ再度の侵入*。ティルハカの侵攻によるアッシリヤ軍の撤退と奇跡的な救い。(36章2節-37章36節) • BC686 ヒゼキヤの死、その子マナセの即位。 • BC681 セナケリブ暗殺される。 鍋谷堯爾(なべたにぎょうじ)氏によるイザヤ書の区分けとしては、みなさんが、先週読まれた部分と今週読まれる部分は、 • 第二部 諸国に関するメッセージ 13-23章 • 第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35章 となっています。諸国には、様々な国が出てきます。わたしのホームページにも少し書いてありますから、再述は避けますが、イザヤ書は、複雑な国際情勢の中で、書かれたことは確かです。北イスラエル王国は、アッシリア(おそらく最初の中東地域の巨大帝国)によって滅ぼされ、捕囚、アッシリアの政策もあり、世界に散り散りバラバラにされます。南ユダ王国は、ヒゼキヤの時代、アッシリアの猛攻を受け、多くの都市は、陥落しますが、エルサレムは、奇跡的に残ります。そのときに、重要な役割を果たす預言者として、イザヤは登場しています。このあとは、しばらくして、アッシリアは、カルデア人とよばれるひとたち、または、新バビロニアと呼ばれる国に滅ぼされ、その新バビロニアに、南ユダ王国も滅ぼされ、捕囚、しばらくの時をへて、メディア人、または、ペルシャ王国に、新バビロニアも滅ぼされ、そのペルシャ王国のキュロス王のもと、帰還を許され、捕囚の民の一部が、エルサレムにもどってきて、再建をすることになります。すでに読んだ、エズラ・ネヘミヤの時代です。 預言者とはどのような人だったのでしょうか。聖書を読んでいても、いろいろな預言者がいたことが伺い知れます。ずっと、王宮にいた、王のアドバイザー、王宮の外にいるが、王宮との関わりの中で神託をつたえる預言者。おそらく、イザヤはこの部類だと思われます。さらに、まったく、王宮とは関係なく、つまり、政治には関わらず、預言者集団として活動していた人たち。おそらく、北イスラエルの預言者の多くは、この部類だと思われますし、南ユダ王国にもいたかもしれません。当時の教養人だとも言えます。イザヤ書を読んでいても、どのように情報を得ていたかはよくわかりませんが、世界各国の状況を、見張っていることは伝わってきます。王宮との関係により、変化するでしょうが、基本的には、政治的なものからは解放された状況で、世界とその地域の人達の営を見ながら、真理・神様の御心を読み取ろうとしていたように思います。現代においても、世界中で起こっていることなどあらゆる情報を集め、歴史や人間個人や社会の営みについて学び、科学的知見も得、様々なものさしで測りながら、かつ、損得勘定や、自分の身に関係することからは、ある程度自由に、真理を求め、神様のみこころを受け取ろうとし、受け取ったことを発信し、それをもとに、日常生活を生きようとすることは、とても、たいせつなのではないかと思わされながら、わたしは、イザヤ書を読んでいます。 みなさんは、どのように考えられますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書20章ーイザヤ書33章はみなさんが、明日4月25日(月曜日)から5月1日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 20:5 彼らは、自分たちが望みをかけていたクシュのゆえに、また誇りとしていたエジプトのゆえに、おののき、恥じ入るであろう。」 アッシリアによる、エジプトとクシュ攻略について書かれている。歴史的には、完全には滅びなかったと記憶しているが、望みや誇りは砕かれたのだろう。クシュとエジプトの友好関係もあったことがわかる。クシュ(BC920年頃成立)については、あまり、資料がないのかもしれないが、学んでみたいと思う。現在の北スーダンから南エジプト、黒人の支配者による大きな国だったようである。アッシリアは、クシュにも影響を及ぼす大帝国となったのだろう。アッシリアについては、あまり文書の記録がないらしいが、アッシリアについて、その戦略や、統治政策についても、学んでみたい。 Isaiah 21:12 見張りは言った。/「朝は来る、だが、まだ夜だ。/尋ねたければ尋ねよ。/もう一度来るがよい。」 この章ではバビロンが倒れることが書かれ、ドマ、アラビアと続く。引用箇所は、ドマについてのものである。(新)アッシリアの首都はニネベとされているが、中心的地域はアッシュール、バビロンはもっと南だが、この地域の帝国をバビロンと呼んでいたのだろうか。見張りが登場する。イザヤは世界の状況を知るべく、情報を集めていたのだろう。先の先の世界を見ていたのかもしれない。とても、興味深い。ドマは、イシマエルの子の名として現れるが(創世記25章14節、歴代誌上1章30節)詳細は不明。ひとつの近隣の民族なのだろう。引用句の表現は興味深い。「朝は来る、だが、まだ夜だ」信仰者が暗い世界を見る心持ちのようにも見える。 Isaiah 22:12,13 その日、万軍の主なる神は/「泣き、嘆き/髪をそり落とし、粗布をまとえ」と呼びかけられた。ところが、お前たちは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲み/「食べたり飲んだりしよう/どうせ明日は死ぬのだから」と言う。 「幻の谷についての託宣」(1)と始まるが、この人達がどのような人たちかは不明である。引用句から、神から離れた存在であること「その日になると/私は私の僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び あなたの衣を彼に着せ/あなたの飾り帯を彼に締めさせ/あなたの支配権を彼の手に与える。/こうして彼は/エルサレムの住民とユダの家の父となる。」(20,21)とあるので、ユダの一部なのだろう。もしかすると、そのような民族名や国名では分けられない状態に、あるのかもしれない。悔い改めなければならない状態か、自分で気づくことは難しく、人から言われてできることでもないのだろう。 Isaiah 23:18 しかし、彼女の利益と報酬は主の聖なるものとなり、積み上げられず、蓄えられもしない。その利益は、主の前に住む者たちのものになり、彼らは飽きるまで食べ、最上のもので着飾ることになる。 ティルス、そして、シドン、タルシシュについて書かれている。通常、海の民と言われ、各地に都市国家を作ったフェニキア人たちについてである。歴史的には、アッシリアにも抵抗するが隷属、勢力は削がれるが、滅ぼされず、新バビロニア王国にも抵抗、アレクサンダー大王の東征にも、唯一抵抗したとも言われているようだ。カルタゴなどもふくめ、この海の民については、ぜひ学んでみたい。 Isaiah 24:5 地はそこに住む者たちの下で汚された。/彼らが律法に背き、掟から逸脱し/永遠の契約を破ったからだ。 この直前には「地は乾き、しぼみ/世界はしおれ、しぼむ。/天も地と共にしおれる。」(4)とある。凄い表現である。その理由をのべたのが引用箇所。預言者の心持ちは理解できるように思うが、狭いように思ってしまう。批判的にならず、共に、考えたいきたい。最後にもやはりなかなか心を共にできない部分があった。「月は辱められ、太陽は恥じる。/シオンの山において、万軍の主が王となられ/エルサレムにおいて/長老たちの前にその栄光を現されるからだ。」(23)これで、被造物がすべて神を崇めるようになるのだろうか。世界は広い。それがイザヤにはある程度見えていたと思うのだが。 Isaiah 25:4 まさに、あなたは弱い者の砦/苦難の中にある貧しい者の砦/豪雨を避ける逃れ場/暑さを避ける日陰となられる。/横暴な者たちの勢いは壁を叩く豪雨 「主よ、あなたは私の神。/私はあなたを崇め/あなたの名をほめたたえよう。/あなたははるか昔の驚くべき計画を/忠実に、誠実に成し遂げられた。」(1)前の章の最後のことばに続いてその日について書かれている。わたしが、素晴らしいと思うのは、引用句のような倫理性のように思う。神がどのような方かを表現するとき、弱いもの、貧しいものの避ける場所としての表現が現れる。弱者がどうなるかに目線がある限りに於いて、大きく道を踏み外さないようにも思う。 Isaiah 26:7 正しき人の道は平坦であり/正しき人の道筋を、あなたはまっすぐにされます。 背景にある価値観の違いなのかなと最近は考えるようになっている。同じことが起こっても、その評価は異なる。神様の目から見たものさしをしっかりと学んでいくことが、このことばの背景にもあるのかもしれない。「正しき人の道筋」は主の、みこころにつながっているということだろうか。 Isaiah 27:12,13 その日になると/主は、ユーフラテスの流れから/エジプト川まで穂を打つ。/イスラエルの子らよ/あなたがたは一人一人拾い集められる。その日になると/大きな角笛が吹き鳴らされ/アッシリアの地に失われた人々と/エジプトの地に散らされていた人々が来て/聖なる山エルサレムで主を礼拝する。 ここにも「その日」が二回現れる。アッシリアによって荒廃した地、失われた人々がどうなるのかが、この当時の一番の問題だったのだろう。「その日」について知ることは、「当時」について知ることでもあるのかもしれない。わたしたちは「今日」をどのうように見「その日」にどのような希望を持つだろうか。 Isaiah 28:26 神はふさわしいしかたを彼に示し、教えられる。 なにを示されるかはその前に書かれている。「耕す者は、種を蒔くために/いつも耕すだけであろうか。/その土地を起こして畝を造るだけであろうか。地面を平らにしたら/黒種草を蒔き散らし、クミンを蒔き/小麦を畝に、大麦を定められた場所に/デュラム小麦を土地の境に植えるではないか。」(24,25)自然を通して示し、それを農夫はそれを受け取っているということである。このことによって「黒種草は脱穀板で踏まれることはなく/クミンの上に脱穀車が回されることもない。/黒種草は棒で、クミンは杖で打たれる。穀物を砕いて粉にするとき/いつまでも脱穀することはない。/脱穀車の車輪と馬を動かしても/それを砕き尽くすことはしない。」(27,28)とあり、最後には「これもまた万軍の主から出たことである。/主は驚くべき計画を行われ/大いなる洞察を示される。」(29)と結んでいる。残念ながら、わたしには、農夫が学んでいることがあまり理解できないが、農学であろうか、当時の科学的知見、それらも、主から与えられる洞察であるとの解釈には、納得させられる。すぐその霊的な意味を説いていないことも、興味深い。このこと自体に価値があることをみな知っていたのだろう。 Isaiah 29:24 心の迷った者は悟りを得/つぶやく者は教えを学ぶ。」 救いとはなにか、「その日」について預言者は何を語るのかを考えている。おそらく、これが、神様の喜ばれる、みこころのなる世界として受け取ったことを書いているように思う。真理を求め、それを、公正と正義とよび、みこころを求め、受け取ったことを、伝える。それが、まさに、神の言葉に預かる、預言者の歩み・営みなのかもしれない。時系列で、その日がいつかと問うことは、的を射ていないのかもしれない。引用句のようになってほしい。そして、神様はそれを願い、喜ばれると、わたしも思う。 Isaiah 30:10,11 彼らは先見者たちには、「見るな」と言い/予見者たちには/「我々に正しいことを予見するな。/我々に甘言を語り、欺瞞を予見せよ。道から離れ、進路から外れ/イスラエルの聖なる方を/我々の前から取り除け」と言う。 この前には「彼らは反逆の民、偽りの子ら/主の教えを聞こうとしない子らなのだ。」(9)とあり、あとには「あなたがたはこの言葉を拒み/抑圧と不正を頼み、それを支えとしている」(12b)とある。そのあとで、主なる神、イスラエルの聖なる方のことばとして「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」(15b)がある。このことばについて何回も考えたことがある。信頼がすべてで、自分で解決しようとしなくて良いのかと。判断は、とても、難しいと思う。特に、政治のように、複雑な課題においては。確かに「抑圧と不正」があったのだろう。そしてそれは許されざるべきものだったのだろう。それを、神様はどう見ておられるか。現実世界の様々な困難な問題を見ると、ここにイザヤが記したことも、神様のみこころだろうが、それは、その一部かもしれないと思った。 Isaiah 31:8 アッシリアは滅びる。/人間のものではない剣によって。/人間のものではない剣がアッシリアを食い尽くす。/彼らは剣の前から逃げ/若者たちは労役に服す。 実際に、巨大なアッシリアは、滅びる。記録があまりないこともあり、経緯は十分には、わかっていないのかもしれないが、「紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落(ニネヴェの戦い)。 亡命政権が、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡。」(Wikipedia)とある。ただ、このあとも、アッシリア人は、いろいろな政権に加わっていたようだ。神様が背後におられる。たいせつな視点だが、それだけで片付けられることでもないように思う。 Isaiah 32:1 見よ、正義によって一人の王が統治し/公正によって高官たちが治める。 預言書は、預言者が神様の御心として受け取ったことを書いている。イザヤが受け取った神のみこころは、すばらしい王が、正義(神の望まれる正しさ)に拠って統治し、高官たちが、それを補佐して公正(神の正しさが一人ひとりにどのように行き渡るべきかを考えること)によって、統治の仕事を行う、と言っているのだろう。次に、素晴らしいことが次に書かれている。「彼ら(王と高官だろうか)はそれぞれ、風の時の逃げ場/嵐の時の隠れ場のように/また、乾いた地にある水路のように/荒れ果てた地にある大きな岩陰のようになる。」(2)さらに「見る者は目をそらさず/聞く者は耳を澄ます。気短な心が知ることを得/もつれた舌が速やかにはっきりと語る。」(3,4)しかし、気になることもある。「もはや愚か者が高貴な人と呼ばれることはなく/ならず者が尊い人と言われることもない。」(5)このあとにも続く。そのように、二元的に区別できるのだろうか。ひとは、それほど単純ではない。そして希望もある。同時に、だれでも、その希望を持てると短絡に結論することもできないが。 Isaiah 33:15,16 正義によって歩み/正しいことを語り/虐げによる利益を拒み/手を振って賄賂を取らず/耳を塞いで流血の謀を聞かず/目を閉じて悪を見ない者 このような人は高い所に住み/その砦は岩の要害となる。/そのパンは与えられ/水は絶えることがない。 イザヤが(神様の前で)正しい人と信じているひととについて、記述されているように思う。同時に、そうではない、人たちが多い世界が、イザヤの前に広がっているのだろう。わたしたちは、今の世の中で、それをどう表現するだろうか。単純に、イザヤの記していることに、そうだそうだというのではなく、丁寧に、求めていきたい。神様の前で正しい人について、考えており、それは、それほど単純にわかるわけではないのだから。 2022.4.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  71. BRC 2021 no.071:イザヤ書34章ーイザヤ書47章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週も、イザヤ書を読み進めます。イザヤ書はいかがですか。預言書は、一般的には、読み方も難しく、わたしも、どのような姿勢で読んでいったら良いのか、正直、迷いながら読んでいます。特に、私達は、イザヤが生きた時代から、3000年近く(2700年ぐらいでしょうか)後に生きていますし、世界史も多少知っていると、ついつい、この預言は、そのとおりになったのだろうかなどと考えてしまいます。むろん、すべてそのとおりになった、または、これから起こることもふくめて、すべて正しいとして読む読み方や、立場もあるわけですが、わたしは、それでは、イザヤや預言者たちのメッセージを受け取っているようには思えないのですが、みなさんは、どう考えられるでしょうか。 イザヤ書は、読んでいると、40章から、書き方も内容も変わっているように思います。これは、多くの方が指摘しているところで、1章から39章はひまとまり、さらに、内容などから後半も二つに分け、40章-55章は 第二イザヤ、56章-66章は 第三イザヤと、記者も違うのではないかとする考え方もあります。一つには、イザヤが生きた時代から考えると、ずっとずっとさきの、すなわち、ユダ王国も、バビロン(新バビロニア帝国)によって、完全に滅亡し、かなりの人達が捕囚となり、さらに、バビロンも滅ぼされて、そのあとの、キュロスによって、帰還を許されますが、そのことも、名前も明確に、45章1節に書かれていることも、上に述べた区切りのもと、何人かの人が書き連ねたのではないかと考えられている理由です。むろん、他にもいろいろな説があるようです。 わたしの周囲には、イザヤ書が大好きなかたが何人かおられました。私もまだとても若かった頃ですが、私の友人の一人が、ある時「イザヤ書は、66章まで、それが、39章までと、それ以降に分かれ、後半には、イエス様について書いてある」と、興奮しながら、教えてくれたことがあります。聖書全体では66巻、旧約聖書39巻、新約聖書27巻と符合した数字だということです。章は、後代のものですし、そのような数字がたいせつだとは、個人的には思いませんが、40章から、違った区切りになっているとは、確かなように思います。 前回、鍋谷堯爾(なべたにぎょうじ)氏のイザヤ書の区分けについて少し書きましたが、その第四部36-39章は歴史的付加となっています。実は、ここに、列王記などに書かれている記事とほとんど同じものが含まれています。それが、列王記が預言者文書と呼ばれる一つの根拠にもなっているのだと思いますが、内容は読んで頂くとして、おそらく、ここでの、イザヤの活動が、当時の世界でも、イザヤを有名にしたのではないかと思います。 では、40章以下、上の区分に従うと40章-55章の第二イザヤと書かれている部分には、何が書かれているのでしょうか。鍋谷堯爾氏の以前引用したものとは違う本「現代に語るイザヤ書 鷲のように翼をかって」(いのちのことば社)にしたがうと、しもべの詩と呼ばれるものが、4つあるとされています。これらが、私の友人の言葉として引用した「後半には、イエス様について書いてある」のことなのでしょう。それを読み取るのも一つの読み方なのかもしれません。 わたしは、上に書いたことは、ときどき思い巡らしながら、今回は、他のことについて、考えながら読んでいましたが、わたしの聖書ノートは公開してありますから、それには触れないことにします。さて、みなさんは、イザヤ書をどう読まれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書34章ーイザヤ書47章はみなさんが、明日5月2日(月曜日)から5月8日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 34:4 天の全軍は朽ち果て/天は巻物のように巻かれる。/その全軍は枯れ落ちる。/ぶどうの葉が枯れ落ち/いちじくが木から枯れ落ちるように。 不思議な文章である。天の全軍について理解できるわけではないが、それが朽ち果てるとはどういうことだろう。不思議な状況は他にもある。「烏とふくろうがその地を住みかとし/森ふくろうと烏が住み着く。/主はその上に混沌の測り縄を張り/空虚の重りを下げる。」(11)単なる、イザヤの義憤の表現、神の裁きの預言とは少し違うものを感じる。確かに、神の怒りについて書かれ(2)最初には、エドムについての裁き(5-10)について書かれているが。ここだけでは、正直よくわからない。 Isaiah 35:5,6 その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。/荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る。 回復の預言が書かれている。神の御心がなる世界の描写だろう。イザヤ書の記述は、不思議である。まず、目の見えない人、耳の聞こえない人、歩けない人、口の聞けない人と障害者についての記述から始まり、次には、自然についての描写である。政治的な支配者の問題や、外国の侵略についてなどの、正義の記述ではない。そして、この章の最後は「主に贖い出された者たちが帰って来る。/歓声を上げながらシオンに入る。/その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。/喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。」(10)と喜びの記述になっている。わたしなら、回復について、神の御心がなる世界についてどのように記述するだろうか。まずは、イザヤのそれをしっかり受け取りたい。 Isaiah 36:7 お前は、自分たちの神、主を頼りにすると言っている。だが、その神がヒゼキヤに高き所と祭壇を取り除かせたのではないか。ヒゼキヤがユダとエルサレムに向かい、この祭壇の前で礼拝せよと言ったのはそのためだ。 アッシリアの王、センナケリブがエルサレムに攻めてきたこととヒゼキヤ王に関しては、列王記下18章13節から20章20節(歴代誌下32章9節-24節参照)に書かれており、そこには、イザヤについての記述もある。この類似からも、列王記は預言者文書とも言われる。この書記官ラブ・シャケのユダヤのことば(いわゆるヘブライ語)で語った言葉は、非常に興味深い。そのとおりにはならなかったということがこのあと続くが、ある程度はそうなったと思われるし、いずれは、ネブカデネザルによって似たことが起こっていることを考えると、否定することはできないひとつの預言のようにも思われる。引用句は、どうも、民は、偶像も自分たちの神と思っており、それを、ヒゼキヤが排除したと想定されているのかもしれない。翻訳にもよるかもしれないが、興味深い。 Isaiah 37:27 住民たちは力を失い/おののき、恥に覆われ/野の草、青草のように/育つ前に枯れる屋根の草のようになった。 このあとに、ヒゼキヤに語る。「あなたが立つのも、座るのも/出るのも、入るのも/私は知っている。/私に対して、あなたが怒りに震えているのも。あなたが怒りに震え/あなたが高ぶるのが私の耳に届いたので/私はあなたの鼻に鉤をかけ/口にくつわをはめ/あなたを元来た道に引き戻す。」(28,29)リーダーシップを取るものの責任、そして、信仰(なにをたいせつにして生きるか)はたいせつである。しかし、同時に住民たちがどのようなものをたいせつにして生きるかこそが、鍵となるように思う。時代的にも、そして、おそらく、現代でも、すばらしいリーダーの出現を期待し、求める。それは、たいせつだが、それでは、継続しないのだろう。一般市民が、変わっていくことができるか。これは、非常に難しい。 Isaiah 38:15,16 私に何が語れるだろう。/主が私に語り、ご自身でそうされたのだから。/私はすべての年月をゆっくりと歩んで行こう/魂に苦悩を抱えながら。主よ、こうしたことによって人は生きる。/私の霊の命もすべてこうしたことに従っている。/私を健やかにし/どうか私を生かしてくださるように。 「病気であったユダの王ヒゼキヤが、その病気から回復して記したもの。」(9)とあり、まとまっているため、逼迫感は感じられないが、引用箇所は、興味深い。主の主権を肯定しながら、弱さを担っている、ひとの苦悩について語り、願いを祈りとしている。個人の尊厳を考えると、神も、ひとの尊厳をたいせつにしてくださるのではないかと思う。その尊厳のもとにあるもの(の、おそらくひとつ)が、死の病(1)の中に苦しみ、おそらくそう表現するより、深いのが「魂の苦悩」である。「私はすべての年月をゆっくりと歩んで行こう」には、有限の人生をひとに与えられている神様への興味深い応答も感じられる。わたしも、生き急ぐのではなく、ゆっくりと歩んでいきたい。 Isaiah 39:6,7 『見よ、王宮にあるものすべて、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものすべて、それがバビロンへ運び去られる日がやって来る。何一つ残されはしない』と主は言われる。『また、あなたがもうけた息子の中には、連れ去られてバビロンの王の宮殿で宦官になる者もいるであろう。』」 預言者イザヤに見えていた世界は広いだけでなく、遠く先の世界も含むのだろう。教養人の最たるものなのかもしれない。このあとには、いろいろな解釈がされている「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」(8b)と、ヒゼキヤのことばが含められている。結局の所、自分が生きている限り、将来のことも、考えながら、丁寧に生きることなのだろう。将来のことを恐れるだけでは、いまのときを台無しにしてしまうように思う。 Isaiah 40:3-5 呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。」 福音書で引用される箇所である。今回の通読では、この言葉が、バビロンの王によるエルサレム攻略と捕囚預言の直後に書かれていることについて考えさせられた。荒廃の時期は、歴史的には、様々にある。しかし、預言者イザヤは、ここからは、第二イザヤによる預言とも呼ばれているが、アッシリア帝国衰退後の、新バビロニアの悲惨な時代を、ヒゼキヤに伝えた・預言した直後にこのことを記している。神理解の深さと将来を見る力と、信仰に驚かされる。27節以降の力強い、ことばは、どの時代の人にも、大きな力となってきただろう。 Isaiah 41:27 私は初めにシオンに告げた/「見よ、これらを見よ」と。/エルサレムに良い知らせを伝える者を/私が与えよう。 「良い知らせ」は「福音」である。福音は、滅ぼされ、荒れ果てた、希望もないような状態の中で語られるものなのだろう。まさに、現実の、荒れ果てた状況を直視しつつ、福音を語ること、福音の中身をしっかりと受け取ることが、福音信仰なのだろう。福音を紋切り型にことばにし、それを、信じるかどうかがたいせつではないのだと思う。イザヤ書をしっかり読み込めているとは言えないが、丁寧に読んでいきたい。 Isaiah 42:18,19 耳の聞こえない者たちよ、聞け。/目の見えない者たちよ、まじまじと見よ。私の僕ほど目の見えない者があろうか。/私が遣わす使者のように/耳の聞こえない者があろうか。/私に買い取られた者のように/目の見えない者があろうか。/主の僕のように目の見えない者があろうか。 「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」(1)で始まるしもべのうたにこのような記述があることを知らなかった。見よ、と、目の見えないが現れる。「目の見えない人の目を開き/捕らわれ人を牢獄から/闇に住む者を獄屋から連れ出すためである。」(7)「私は目の見えない人に知らない道を行かせ/知らない道を歩かせる。/私は彼らの前で暗闇を光に変え/起伏のある地を平らにする。/私はこれらのことを行い/彼らを見捨てない。」(16)「目の見えない」は、59章10節にも現れるがそれだけである。この章は、ゆっくり読んでみたい。 Isaiah 43:14,15 あなたがたの贖い主、イスラエルの聖なる方/主はこう言われる。/あなたがたのために、私はバビロンに使いを送り/かんぬきをすべて引き降ろし/歓声の上がる船の中にいるカルデア人を引き降ろす。私は主、あなたがたの聖なる者/イスラエルの創造者、あなたがたの王である。 最初に目に止まったのは、「イスラエルの創造者」ということば。次には「カルデヤ人」である。カルデヤ人は一般的には、新バビロニアのことを指す。「創造」についても調べてみたいが、この文脈で、イザヤは、神をカルデヤ人の創造者として捉えていないのだろうかということ、アッシリアではないのかということである。第二イザヤと言われる所以だろうか。わからないことが多い。イザヤはどのように見ていたのだろうか。 Isaiah 44:21 ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。/イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。/私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。/イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。 イザヤには、主が全世界の創造者であるという認識はないのか。この章では、偶像礼拝の虚しさが書かれている。引用箇所のような認識、主との信頼関係が根幹にあることを持ってすれば、偶像礼拝の儚(はかな)さを、簡単に受け入れられるのかもしれない。しかし、全世界の創造者とすることは、また、別のことのようにも思う。創造信仰に至るには、民族宗教の枠を出ることが必要であるとともに、他者との関係をどう認識するかも関係するように思う。単なる創造信仰というより、それが影響することを丁寧に考え、受け取ることは、それほど簡単ではないように思う。イザヤの信仰を丁寧に受け取っていきたい。 Isaiah 45:18 天を創造された方、すなわち神/地を形づくり、造り上げ/固く据えられた方/地を空しくは創造せず/人の住む所として形づくられた方/主はこう言われる。/私は主、ほかにはいない。 ここには、創造主としての神が登場する。この章の最初には「主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。」(1a)と、イスラエルの帰還を許可する、ペルシャの王、キュロスについて書かれている。その根拠として「地を造り、その上に人間を創造したのは私だ。/私はその手で天を広げ/その万象に命じた。私は義によって彼を奮い立たせ/彼の道をすべてまっすぐにする。/彼は私の都を再建し/私の捕囚の民を解き放つ。/代価によってではなく、賄賂によってでもない/――万軍の主は言われる。」(12,13)としている。キュロスの寛容な政策を見て、ここにも、主が働いておられると認めたのだろうか。アッシリア、バビロニア、ペルシャの歴史を、しっかり学んでみたい。 Isaiah 46:4 あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。 偶像に関する記述が続き「金を袋から惜しげもなく出し、銀を秤で量る者は/細工師を雇い、それで神を造り/ひれ伏して、拝みさえする。彼らはそれを肩に乗せ/背負って行き、しかるべき場所に据える。/それは立ったまま、その場所から動かない。/人がそれに叫んでも応えず/苦しみから救ってはくれない。」と対置されているのが、引用句の言葉だろう。主に対する、わたしの感覚とはかなり異なるが、イザヤ書の表現は、印象に残り、秀逸である。イザヤ書が、好まれる理由の一つは、そのような表現のうまさにもあるのかもしれない。 Isaiah 47:9 これら二つのことが/一日のうちに、瞬く間にあなたを襲う。/子を失うことと、やもめになることが。/どれほどあなたの呪術が多く/あなたの呪文の力が強くても/それらは必ずやって来る。 まず、「おとめである娘バビロンよ/下って、塵の上に座れ。/カルデア人の娘よ、王座のない地に座れ。/あなたはもはや/優美でしとやかな娘とは呼ばれない。」(1)とあり、さらに「カルデア人の娘よ、黙って座り、闇の中に入れ。/あなたは二度と諸王国の女王と呼ばれることはない。」(5)と、カルデア人の娘という表現で、カルデア人、新バビロニアについて書かれている。国を女性になぞらえる慣習があったものと思われる。しかし、女性になぞらえて語られた引用句、表現の幅の広さとも言えるかもしれないが、国についてこのように表現することには、現代的感覚では違和感を感じ、驚かされる。 2022.5.1 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  72. BRC 2021 no.072:イザヤ書48章ーイザヤ書61章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週も、イザヤ書を読み進めます。イザヤ書は、66章までですから、最後の部分と言ってもよいと思います。イザヤ書はいかがですか。前回、40章から55章の区切りには、しもべの詩とよばれるものがいくつか含まれていると書きました。下にリンクがあるホームページには、少しだけ書いてありますが、主のしもべ(僕)とは、どのような人なのでしょうか。わたしは、この、イザヤ書に書かれている、しもべの姿には、正直、驚かされます。どのようなことが書かれているかは、皆さんに読んで頂くことにして、書きませんが、わたしは、その、しもべの姿に驚くととともに、そのようなしもべの姿を主のしもべの姿として、受け取り、それを、書き残した、イザヤ書記者にも驚かされます。それは、主が喜ばれ、主の働きをするものの姿を描くことですが、そのことは、主がどのような方かを描くことでもあるからです。 みなさんは、神様の働きをする方は、どのような方だと思われますか。神様は、どのような方の、どのような働きを喜ばれ、共に、働かれるのでしょうか。そして、神様は、どのような方なのでしょう。イザヤ書記者が、これらの問に、どのように、向き合い、どのようなメッセージを神様から受け取ったかが書かれている箇所でもあります。それが、おそらく、預言、なのでしょう。以前書いたことをもう一度引用しておきます「神のことば(言)を聴いた(預かった)と自覚するものがとりつぐことばとその解釈」(BRC 2021 no.069)驚いたり、感動したり、不思議に思ったこととともに、これは、わたしは、違うのではないかと思う、というようなことも含めて、書き留めておくと良いですよ。また、考え、深めることができると思います。もしかすると、イザヤ書記者も、そのようなことをしていたのかもしれません。「神のことばを預かったと自覚」しつつ。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書48章ーイザヤ書61章はみなさんが、明日5月9日(月曜日)から5月15日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 48:12,13 ヤコブよ、聞け。/私が呼び出したイスラエルよ。/私がそれだ。/私は初めであり、また終わりである。私の手は地の基を据え/私の右の手は天を押し広げた。/私が呼びかけると、それらは共に立ち上がる。 直前には「私は、自らのために、自らのために行う。/どうして私の名が汚されてよいだろうか。/私は自らの栄光を他の者には与えない。」(11)とあり、このあとには「主に愛された者が主の望みをバビロンに行い/その腕をカルデア人に下す。」(14b)ともある。なにか、自己中心のような表現だが、真理、御心のたいせつさを、他のものに変えてしまっている民を嘆き、このように書いているようにも思う。イザヤが預かったメッセージを、どのように、みこころとして受け取るか、それは、受け取るものの、信仰と、技術も問われているように感じる。ていねいに読み続けたい。 Isaiah 49:6 主は言われる。/「あなたが私の僕となって/ヤコブの諸部族を立たせ/イスラエルの生き残った者を連れ帰らせるのは/たやすいこと。/私はあなたを諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。」 このあとには、イスラエルの回復について述べられている。すでに、45章1節にキュロスのことについても言及されており、預言者は、いろいろな意味で、イスラエルの回復が見えていたのだろう。その事も踏まえて、引用句が語られる。しかし、正直、主にとっても、回復は、簡単ではないと、個人的には思う。悔い改めは、継続的な姿勢であり、単純に、回復へとはつながらないことを、おそらく主は、よくご存知だろうから。互いに愛し合うこと、それが、民の中でも実現すること、さらに、主が基を据えられた地に住む、すべてのものが、このことに価値を置いて、御心を求めつつ生きることが、どれほど困難であるかを、ご存知だろうから。たといそうであっても、引用句に希望を持ちたいと思う。 Isaiah 50:10,11 あなたがたのうち、誰が/主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。/明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする者だ。見よ、あなたがたは皆、火をともし/松明で身を守る者。/あなたがたの火の光によって/あなたがたが燃やす松明を持って歩くがよい。/私の手によって/このことはあなたがたの身に起こり/あなたがたは苦痛のうちに倒れ伏すであろう。 この章は「主はこう言われる。/私が追い出したという/あなたがたの母親の離縁状はどこにあるのか。/私があなたがたを売り渡したという/私の債権者とは誰か。/見よ、あなたがたは自らの過ちのゆえに売り渡され/あなたがたの背きの罪のゆえに/母親は追い出された。」(1)と始まる。この部分だけでも、理解がたやすくはない。全体的に見ると、信仰・信頼について語っているようである。主が、追い出した、主に、捨てられた、そう考えて、信仰を捨て、信頼をやめるのではない道について語られているのだろう。引用箇所も興味深い。そして、理解も簡単ではない。「明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする」ことと「(自分で)火をともし/松明で身を守る」者とが対比されている。後者が間違いだとは個人的には思わないが、信仰・信頼の欠如を伝えようとしているのだろう。イザヤの表現は複雑である。 Isaiah 51:22 あなたの主なる神/ご自分の民を弁護してくださる神はこう言われる。/「見よ/私は、よろめかす杯をあなたの手から取り上げた。/私の憤りの大杯をあなたが再び飲むことはない。 「聞け、義を追い求める者たちよ/主を探し求める者たちよ。/あなたがたが切り出されてきた岩に/掘り出された石切り場の穴に目を留めよ。」(1)と始まり、信仰の歩みを振り返れと言っているようだ。引用句の前では「あなたは主の手からその憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した。」(17b)としている。さばきをうける次の段階に進むことを示しているようである。希望が見えない時、絶望の中で、「我にかえり」(ルカ15章17節)父の愛のうちにある自らを振り返り、父のもとに帰っていく、放蕩息子を思い出す。 Isaiah 52:1 目覚めよ、目覚めよ/力をまとえ、シオンよ。/美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。/無割礼の汚れた者が/あなたの中に入ることは二度とない。 この章の最後から「主の僕の詩(うた)」が始まる。最初が引用句である。「無割礼の汚れた者」ということばに反応しすぎているのかもしれないが、悪の排除を、民族的伝統に関わる言葉で語り、かつ、回復を堕落を消し去ることによって描くことに違和感を感じた。現実を描写していないからである。いまの、世界をまったくやめて、新たに創造するなら可能かもしれないが、それは、救いではない。主が創造された世界にいると告白し、その主に信頼するなら、連続性を切り捨てることはできない。しかし、そうであっても、このあとの傷ついた僕のすがた、イザヤがつたえる主の僕の像からは、わたしたちの日常生活も含め、考えさせられる。 Isaiah 53:4,5 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。 有名な箇所である。イザヤ書記者は、このようなひとを知っていたのではないだろうかと今回思った。おそらく、完璧にそうだというわけではないかもしれない。しかし、そのような人を通して、主の僕の姿を見たのかもしれない。現実の世界と神のみこころはつながっている、それが、神の国は近いということだろう。そして、イエスのように、わたしたちが生きるように招かれている。わたしたちが、主の僕としていきることをイエス様は願っておられる。 Isaiah 54:9,10 これは、私にとってノアの洪水の時のようだ。/ノアの洪水を二度と地上に起こさないと/誓ったように/私は、あなたに対して怒らず/あなたを責めないと誓う。山々が移り、丘が揺らごうとも/私の慈しみはあなたから移らず/私の平和の契約は揺らぐことはない/――あなたを憐れむ主は言われる。 ノアの洪水の記事、おそらく、創世記も、イザヤの時代にはよく知られていたのだろう。しかし、この「ノアの洪水を二度と地上に起こさない」を、イザヤ書が書かれた時代にどのように理解するかは、簡単ではなかったのだろう。民の堕落、不信をあげつらうことは、可能だろう。そして、現実は、主の裁きのもとにあるように、感じられる。そのときに、主の憐れみ、主の平和の契約をどう解釈するか。現代でもおなじことが言えるようにおもう。おそらく、どちらかによりすぎる判断は、できないのだろう。しかし、両面とも、無視することはできない。ともに、主の御心なのだろう。 Isaiah 55:10,11 雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく/必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ/種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も/空しく私のもとに戻ることはない。/必ず、私の望むことをなし/私が託したことを成し遂げる。 前半から、後半のような結論を見て取ることもできるが、一般恩寵と言われる、恵みを受け取ることもできるだろう。これらの言葉の前には「天が地よりも高いように/私の道はあなたがたの道より高く/私の思いはあなたがたの思いより高い。」(9)とある。主の御心・思い、真理といってもよい、それは、私達の思い、こころにあるもの、脳で理解できることをはるかに超えているという謙虚さ、学ぶ心だろうか、それを、イザヤ書記者は、持ち続け、求め続けていたように思う。わたしも、イザヤ書記者のように、生きるものでありたい。主が与えてくださっている、周囲の、様々なもの、事柄から学びながら。 Isaiah 56:4,5 主はこう言われる。/宦官が私の安息日を守り/私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば 私の家と城壁の中で/私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え/消し去られることのないとこしえの名を与える。 「主はこう言われる。/公正を守り、正義を行え。/私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。」(1)と始まる。イエスの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3章2節)と近いメッセージである。「悔い改め」で検索したが、この言葉は旧約聖書には「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。」(ヨブ42章6節)だけであることをはじめてしった。もうすこし詳しく調べてみたい。ヘブル語はナハム(nāḥam: נָחַם to be sorry, console oneself, repent, regret, comfort, be comforted)が使われており、これは、旧約聖書にも多い。さて、宦官と異国の子らについて語られている。おそらく、宗教的に差別されていたのだろう。安息日は、律法の中でも、象徴的なことなのかもしれない。「私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば」にわたしは、普遍性を感じてしまうが。 Isaiah 57:17-19 彼の貪欲の罪に私は怒り、彼を打ち/姿を隠して怒った。/しかし彼は背いたまま、心の赴くままに道を歩んだ。私は彼の道を見た。/私は彼を癒やし、導き/慰めをもって彼とその悲しむ人々に報い 唇に賛美の実りを創造しよう。/遠くにいる人にも近くにいる人にも/平和、平和があるように。/私は彼を癒やそう――主は言われる。 明らかな転換が感じられる。背くものの道を見、その人を癒やし、導き、慰め、唇に賛美の実りを想像する。イザヤが受け取ったメッセージの深さに感銘をうける。しかし、このあとには、やはり難しいことも添えられている。「悪しき者はかき回された海のようで/静めることはできず/その水は泥とぬかるんだ土とを吐き出す。悪しき者に平和はない――私の神は言われる。」(20,21)難しさも、付け加わっているところに、真実味を感じる。 Isaiah 58:6-8 私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか。その時、曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。/あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。 「断食」と書かれているが「礼拝」としてもよいし、他の宗教的行為に置き換えても良いだろう。イザヤ書では、虐げられた人、飢えた人、苦しむ人にこころを開くことが語られている。御心に生きること、それは、神様の憐れみが、人の世界に、反映されること、そして、それこそが「あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る」ことになる。その前には「曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。」ともある。すばらしい表現だと思う。 Isaiah 59:21 これが彼らと結ぶ私の契約である――主は言われる。/あなたの上にある私の霊/あなたの口に置いた私の言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/その子孫の子孫の口からも/今より、とこしえに離れることはない/――主は言われる。 直前には「贖い主がシオンに来る。/ヤコブのうちで/背きの罪から立ち帰る者のもとに来る/――主の仰せ。」とあり、「贖い主」が来る世界を描いている。これが、イザヤが、神様から受け取ったとする、御心のなる世界なのだろう。「私の霊」まさに御心(主のこころ)「私の言葉」とあるが、それもまさに、御心なのだろう。御心がわたしたちの上にあり、私達が語る言葉も御心。わたしは、どう表現するだろうか。このイザヤ書の表現は、本当にすばらしいと思う。 Isaiah 60:1 起きよ、光を放て。/あなたの光が来て/主の栄光があなたの上に昇ったのだから。 「あなたの光、主の栄光」から、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(マタイ5章16節)を連想した。その光の発出源がどこなのかというよりも、主の栄光との結びつきと関連させて理解すべきだろう。神の国が近いことが、見て取れる。マタイでは、さらに、具体的である。おそらく「あなたがたの立派な行いを見て」を、皮肉のように取る、すなわち、不可能なことと理解する人もいるだろうが。不完全ながら、素直にとる方法もあるように思う。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(マルコ5章34節)と言われる方なのだから。 Isaiah 61:1,2 主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために。 「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4章18節・19節)はこの箇所からの引用と思われる。イザヤ書では、シオンの回復預言であるが、イエスは、ナザレで、この聖書の箇所から「この聖書の言葉は、今日、あながたがが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4章21節b)と語っている。神の国が近づいたことを、このように証言しているのだろう。捻じ曲げられた引用も新約聖書にはあるように思うが、これは、おそらく、イエスの真正の証言そのとおりなのだろう。 BRC 2021 現況:3月末に大学を卒業されメールが届かなくなった方がお一人おられ、一減、今週からお一人加わって、一増で、現在、私以外、79名の方にこのメールを送っています。 2022.5.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  73. BRC 2021 no.073:イザヤ書62章ーエレミヤ書9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、イザヤ書を読み終え、次の、エレミヤ書に入ります。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書は、大預言書とも呼ばれます。エレミヤ書と、エゼキエル書の間には、哀歌が含まれていますが、これは、歴史的には、エレミヤの哀歌と言われており、これも含めて、大預言書を読んでいくことになります。イザヤ書はいかがですか。 イザヤも、エレミヤも、イスラエルにとって、国が滅び、民族が消滅するのではないかと思われる危機のなかで、神の言葉を取り次いだ預言者ですから、歴史的な背景をある程度抑えておくことはたいせつです。歴史的な背景や他の聖書の箇所との関係などは、下に引用している、イザヤ書、エレミヤ書に、少し書いてありますが、そのまた、概略だけ書いておきます。 イスラエルは、ダビデ(BC1009年頃統一王朝)、ソロモンのあと、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂し、周囲の国やお互いの様々な関係(同盟や紛争)の中で、存続していました。イザヤの時代はアッシリアが(中東の最初の)巨大帝国となっていった時代でした。このアッシリアに、北イスラエル王国は、滅ぼされます。BC722年のことです。そして、南ユダにも攻め込み、エルサレムも風前の灯火と思われた時代に、イザヤは預言をはじめます。アッシリアは、エジプトをも滅ぼした、アシュール・バーン・アプリ王 (BC669-627) の死後急速に衰え、BC612年には、その首都ニネベが、バビロンのナボボラッサル (BC626-605)とメジアの連合軍にによって陥落します。それによって、エジプトも力を回復していきます。エレミヤが活動を始めたのは、ヨシア王の13年(BC627年)とありますから、まさにこの時代と言うことになります。このナボラッサルのあとを継いだのがネブカデネザルで、巨大なバビロン王国を築いていきます。このネブカデネザルに攻撃され、南ユダ王国も降伏し、主要な人たちは皆捕囚となります。1回目の降伏は、BC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年7月9日です。エレミヤはこの時代を通して働いた預言者ということになります。エレミヤは捕囚にならず残ることを許されますが、エレミヤは一生を通して苦悩の中で神の言葉を語り続けたとも言え、涙の書とも呼ばれています。エレミヤの苦悩というだけではなく、神様の苦悩が表現されているのかもしれません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 イザヤ書62章ーエレミヤ書9章はみなさんが、明日5月16日(月曜日)から5月22日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書とエレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#is エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Isaiah 62:1,2 シオンのために、私は口を閉ざさず/エルサレムのために、私は沈黙しない。/その義が光のように現れ/救いが松明のように燃えるまで。国々はあなたの義を見/王たちは皆、あなたの栄光を見る。/あなたは、主の口が定める新しい名で呼ばれる。 この章の最後は「彼らは聖なる民、主に贖われた人々と呼ばれ/あなたは、尋ね求められる女/見捨てられることのない町と呼ばれる。」(12)とあり、イザヤ書記者が見た御心が、このように表現されていると見てよいだろう。引用句からは、正直に書くと、主の声なのか、イザヤ書記者の声なのかわからない、シオン、エルサレムへの熱愛(想い焦がれる気持ちだろうか。うまく表現できない)が感じられる。それがかえって、リアルでひしひしと迫ってくるように思う。一人の、真理の、御心の探求者の姿が。 Isaiah 63:17 主よ、なぜあなたは私たちを/あなたの道から迷い出させ/私たちの心をかたくなにし/あなたを畏れないようにされるのですか。/立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの所有の民である部族のために。 この章を読んでいて、イザヤ書記者の主との交流、相互性を強く感じた。むろん、イザヤ書記者には、主の声が(すべて)聞こえるわけではない。まさに、探求者として、耳をすますが、それだけの関係ではないのだろうと感じた。もう一つ、感じたことは、根拠が明確なわけではないが、イザヤ書は基本的に、アモツの子イザヤが記者なのかなということである。預言者集団に引き継がれる中で、多少の修正が加わっていったことを否定しないが。引用句の前半、これは、表現は少し変化があるのかもしれないが、一貫しているように思う。 Isaiah 64:3,4 神を待ち望む者のために事をなしてくださる方は/あなたのほかにありません。/昔から聞いたことも耳にしたことも/目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます/喜んで正義を行う者を/あなたの道を進みながら/あなたを思い起こす人々を。/しかし、あなたは怒られました。/私たちは罪を犯し、久しくその罪の中にいます。/私たちは救われるのでしょうか。 「神を待ち望む者のために事をなしてくださる方」に、イザヤ書記者の姿勢がよく現れているように思う。わたしなら「みこころを求め続けるものを導かれる方」と表現したいようにおもう。同時にここには、苦悩も表現されている。「あなたは迎えてくださいます」と始めるが、やはり、そこには、条件があるのだろうということ。そして、自分たちの現状を考えると「私たちは救われるのでしょうか。」となってしまう。イザヤ書記者の問いかけ、これが、相互性の高いものであることを願う。「互いに愛し合いなさい」と、主イエスが言われたように。真理なのか、わたしの単純な独りよがりの願いなのかわからないが。 Isaiah 65:8 主はこう言われる。/「ぶどうの房に発酵しかけの果汁があるのを見たら/それは潰すな、そこには祝福があるのだから」/と人は言う。/そのように、私は私の僕たちのために/そのすべては滅ぼさない。 前の章は「主よ、それでもなお/あなたはご自分を抑えて黙し/私たちをひどく苦しめられるのですか。」(11)と終わっている。このイザヤ書記者の苦悩の答えが、引用句から始まるのかもしれない。残りのもの「私は私の僕たちのために/そのすべては滅ぼさない。」ここまでが、イザヤが受け取ったことのように思う。いずれにしても、イザヤ書の表現は、美しいものが多い。それは、イザヤ(書記者)の生まれ持った、神様から特別に与えられたものなのか。わたしには、それを、丁寧に鑑賞する力もないが、このような苦悩の表現であっても、豊かさを感じさせられる。 Isaiah 66:2 これらはすべて私の手が造ったもの/これらはすべて私のものである――主の仰せ。/私が目を注ぐのは/苦しむ人、霊の打ち砕かれた人/私の言葉におののく人。 イザヤ書最後の章である。引用句の次には「牛を屠る者は、人を打ち殺す者。/羊をいけにえとする者は、犬の首を折る者。/穀物の供え物を献げる者は、豚の血を献げる者。/乳香をしるしとして献げる者は、偶像をたたえる者。/これらの者は自分の道を選び/その魂は憎むべきものを喜んだ。」(3)と続く。一般的に言って、正しい礼拝、犠牲を献げることに、異議を唱えているようだ。主が目を注ぐものとして、イザヤ書記者が書いているのは、みっつ。「苦しむ人・霊の打ち砕かれた人・私(主)の言葉におののく人」どれも、苦しい、辛い状態にあり、新たな一歩は踏み出していないひとのように思われる。その一歩、希望を与えられるのが、主ということだろうか。同時に、主も、同じように「苦しみ、霊が打ち砕かれ、自ら善いと宣言することの重さに畏れ慄いて」おられるのではないかとさえ思う。非常に困難な道を、歩まれる決意をされているから。イザヤは、そこまでは、明言はしないが、目を注いでいる対象は、主と近いのではないかと思わされる。 Jeremiah 1:17 さあ、あなたは腰に帯を締め/立ち上がって、彼らに語れ/この私が命じることすべてを。/彼らの前でおののくな/彼らの前で私があなたを/おののかせることにならないように。 第1章は、エレミヤの召命について書かれている。エレミヤは、引用句の声に答えて、歩みだすことになる。引き返すことはできない、しかし、最初から、非常に困難だとわかっている道である。そのような、道を歩みはじめることは、ある程度理解できる。しかし、歩み続けることは、簡単ではない。それぞれの場で、妥協の可能性もあるだろうから。そして、主が指し示す道は、明確には見えないこともあり、他にも、良い道があるかもしれないと考えるのは自然だからである。どれが、主のみこころか、明確に受け取ったときもあるだろうが、そうでないのが、日常のように思うので。その意味でも、ていねいに、エレミヤ書を読んでいきたい。 Jeremiah 2:2 行って、エルサレムの人々の耳に呼びかけよ。/主はこう言われる。/私は覚えている/あなたの若い頃の誠実を/花嫁の時の愛を/種の蒔かれない地、荒れ野で/あなたが私に従って来たことを。 エレミヤは、ここから始めているが、果たしてそうなのだろうか。最初から、従ってはこなかったのではないだろうか。ひどくなったかもしれないが、分裂は早い段階から、そして、その前も、おそらく、多くの問題があったように思う。現実は、悪く見える。そして、悪化しているように。しかし、そうなのかは、判断が、とてもむずかしい。 Jeremiah 3:18 まさにその日にこそ、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から、私があなたがたの先祖に相続させた地へと共に帰って来る。 こんな事になったのだろうか。おそらく、そうはなっていない。そして、今後も、それが望まれているのではないように思う。エレミヤ書は、どのように読めばよいのだろうか。不正確さは、問わなくてよいのだろうか。歴史的事実と符合しているかではなく、エレミヤがうけとった、神様からのメッセージを、しっかり受け取ってみたい。それが、歴史的事実とは符合していなくても。 Jeremiah 4:18,19 あなたの歩み、あなたの行いが/これらのことをあなたにもたらした。/これはあなた自身が犯した悪であり/実に苦く、あなたの心臓にまで達している。私のはらわた、私のはらわたよ。/私はもだえ苦しむ。/私の心臓の壁よ、私の心臓は高鳴る。/黙ってはいられない。/私の魂は角笛の響きを/戦いの鬨の声を聞くからだ。 「イスラエルよ、もし立ち帰るなら/私のもとに立ち帰れ――主の仰せ。」(1a)から始まり、「私は北から災いを/大いなる破滅をもたらす。」(6b)と、おそらく、バビロンの驚異について警告している。そして、引用句では、その原因とともに「私のはらわた」「私の心臓の壁」について書かれている。「戦いの鬨の声を聞い」て、そのような状態になるのは、戦いが恐ろしいからではなく、間近に迫っているからだろう。ここでの「私」は、主なのか、エレミヤなのか、明確ではないが、主のこころと痛みを、エレミヤが受け取ったものと考えれば、どちらにしても大きな問題はないことになる。「心臓の壁」という表現は、ここだけのようだが、ドキドキ感は、伝わってくる。しかし、主は、本当にはどう見ておられるのだろうか。いろいろと考えてしまう。 Jeremiah 5: 1 エルサレムの通りを行き巡り/見渡して知るがよい。/町の広場で探せ。/一人でも見つかるだろうか/公正を行う者、真実を探求する者が。/もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。 キリスト教の罪理解についても同様のことがあるが、正直にいって、この理解は、論理的でも、科学的でもなく、十分な現実理解に則っていないと感じる。この中には、おそらく、エレミヤも含まれているはずであるし、個人的には、こころから主をもとめ、真実を探求するものがいると思う。そして、もちろん、それは、本当にこころからか、偽りはないのか(2)と問われれば「真実を探求する者」であればあるほど、そうですとは言えないだろう。それを根拠に、滅ぼすというのは、主の計画の破綻、ノアの洪水の繰り返しである。主は、苦しんでおられると考えるほうが、より、正確な表現なのではないだろうか。むろん、わたしも良くは理解できていないが。 Jeremiah 6:10 誰に対して語り、厳しく命じれば/聞くのだろうか。/彼らの耳は無割礼で/彼らは耳を傾けることができない。/主の言葉が彼らに臨んでも/それをそしり、喜ぼうとしない。 このあとには「私の身には主の憤りが満ち/それを耐えることに疲れ果てた。」(11a)と続く。預言者には、すでに大きな危機が迫っていること、そして、それは、主の言葉に聞き従わなかったこと、そして、今も、聞き従おうとしないこと、だからこそ、主は、この民を滅ぼされるのだという確信と嘆きと憤りに満ちているように感じる。そのようにして、主の憤りを自らの憤りとして表現しているかのようだ。正直に書くと、本当にそうなのだろうかと思う。主の思いはもっと深いのではないだろうかと。同時に、主も、どのようにすれば、聞くのだろうか、こころから受け入れるのだろうか、と悩んでいるようにも感じられる。回答は、まだ、私達が持っていないだけでなく、主も、持っておられないのかもしれない。そのなかで、どう生きるかを、預言者エレミヤとも、現代の人とも、そして、主とともに、求めていくことができればと思う。 Jeremiah 7:6,7 この場所で、寄留者、孤児、寡婦を虐げず、罪なき人の血を流さず、他の神々に従って自ら災いを招かないならば、私はあなたがたをこの場所に、あなたがたの先祖に与えた地に、いにしえからとこしえまで住まわせる。 この前には「あなたがたが本当にあなたがたの道と行いを改め、本当に互いの間に公正を行うなら」(5)ともある。しかし、この基準であれば、どの時代のどの人々も、批判の対象から外れないだろう。行き先は、人はみな罪人だという結論である。しかし、それで良いのだろうか。悩みながらも、主の義、公正をもとめて、不完全ではあっても、それを求め続け、同時に、不完全であることを、省みる生き方ではないのだろうか。主が喜ばれるのは。わたしも、わからないことばかりだが。 Jeremiah 8:18,19 私の悲しみは癒やし難く/私の心は弱り果てている。聞け、遠くの地から届く/娘であるわが民の叫び声を。/「主はシオンにおられないのか。/シオンの王はそこにはおられないのか。」/なぜ、彼らは彼らの彫像によって/異国の空しいものによって/私を怒らせたのか。 原因は「彼らの彫像・異国の空しいもの」とあり、神ではないものに主を取り替えたことを言っているのだろう。それは、間違ってはいないかもしれないが、それだけでたとえば現代を表現できるようには思えない。当時もそうだったのではないだろうか。しかし、エレミヤは主の癒しがたい悲しみ、弱り果てている心について描いている。主は、超然として、おられる方ではなく、愛しておられるわたしたちによって、悲しみ、傷つかれるかたであると、認識しているということだろう。自然に描かれているので、それは共有知であったと思われる。とすると、最初にある、偶像礼拝も、悲しませることに、重大な帰結があるということだろうか。単に、偶像礼拝が、誤ったことというだけでなく、正しいかどうかだけでは捉えられないものがあるように思う。 Jeremiah 9:23 誇る者はただこのことを誇れ。/悟りを得て、私を知ることを。/私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。/これらのことを私は喜ぶ――主の仰せ。 この章にも、背信と裁きについて、これでもか、これでもかと書かれている。まだ、光は見えないが、戻るべき場所、進むべき方向は、ここで、示されているように思う。とはいえ、現実世界に照らすと、これで、理解できる人は稀(まれ)だろう。主を「この地に慈しみと公正と正義を行う者」として認識することも簡単ではない。なにから、始めればよいのだろうか。ここには「主を知ること」とある。わたしの表現では「御心を知る」となるが、これも、律法主義のようなもので妥協しなければ、方向性すらよく見えない。しかし、謙虚に求めていきたい。 2022.5.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  74. BRC 2021 no.074:エレミヤ書10章ーエレミヤ書23章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エレミヤ書を読み進めます。エレミヤ書はいかがですか。エレミヤは、1章2節に、ヨシヤ王の治世の13年から活動を開始したと書かれています。ヨシヤ王については、列王記下22章23章に書かれています。8歳で王となり31年間エルサレムで統治し、第18年からヨシヤの宗教改革と呼ばれることもある、改革をします。最後については、「ヨシヤの治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かって、ユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王は彼を迎え撃つために出て行ったが、ネコはメギドで彼を見つけて殺した。 」(列王記下23章29節)と書かれています。ヒゼキヤ王の時代に、アッシリアに攻められ、エルサレムも陥落しそうになるのですが、奇跡的に滅びを免れます。しかし、この記述からも、アッシリアの側に立つことが求められていたのかもしれません。ヨシヤの後には、4代王位が継承されますが、最後ゼデキヤのときに滅び、バビロン捕囚となります。今回、みなさんが読まれるのは、だいたい、このあたりの時代です。王様の名前は、下のリンクのページの人物略図にも書かれています。印刷して聖書に挟んでおくのも良いかもしれません。(東京キリスト教大学(TCU)の卒業生によって運営されているサイトと書かれています) http://biblestyle.com/help.html エレミヤは、腐敗したヨシヤ後の王たちの時代に叱責をつづけ、悔い改めをとき、滅びを預言します。様々な苦しみも、表現されている書です。一信仰者として、また、世界的な状況に関する客観的な情報もある程度持ち、冷静に見、主に問い、これこそ主のことばと信じるものを受け取る、エレミヤが、どのように、それをうけとり、語っていくのか、そのこころもち、痛みもともに読んでいただければと思います。みなさんのこころには、どのようなことが残るでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エレミヤ書10章ーエレミヤ書23章はみなさんが、明日5月23日(月曜日)から5月29日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Jeremiah 10:19 ああ、災いだ。/私は傷を負い/私の傷は痛む。/しかし、私は言った。/「これこそ私の病。/私はそれを負わなければならない。」 この「私」が誰なのか判然としない。この前の節には「主はこう言われる。/私はこの地に住む者たちを今度こそ放り出す。/私は彼らを苦しめる。/彼らが思い知るように。」(18)主と解釈するのが自然であるが、引用句では「しかし、私は言った。」ともあり、このあと、引用符がついている。おそらく、あまり、重要ではないのだろう。預言者が、主とこころを一致させようとして語っているのだから。もう一つ、気になったところがあった「このようにあなたがたは彼らに言え。/『天と地を造らなかった神々は/地からも、これらの天の下からも滅びる』と。」(11)これは、宣言であるが、ほんとうに、そんなときが、来るのだろうか。ひとのこころからは、神ならぬ者の存在は、続くと思う。その弱さ、不完全さを担いつつ、(完全ではないにしても)自律的に生きることを許されているのが人間だから。 Jeremiah 11:21-23 それゆえ、主はアナトトの人々について/こう言われる。/彼らはあなたの命を狙い/「主の名によって預言するな/そうすれば我々の手にかかって/死ぬことはない」と言う。それゆえ、万軍の主はこう言われる。/私は彼らに罰を下す。/若者たちは剣で死に/彼らの息子、娘は飢えで死ぬ。一人も生き残る者はない。/私がアナトトの人々に災いを/刑罰の年をもたらすからだ。 この前には、幻の中で、エレミヤは「私は、屠り場に引かれて行く/おとなしい小羊のようでした。」との状態を見せられたとあり。引き続いて、裁きを願い、引用句が続く。その最後は、裁きである。エレミヤの願いに答える形になっている。現実は、許容できな状態であったとしても、わたしは、裁きを願うことはできない。その状況を、主とともに、苦しみたい。 Jeremiah 12:14,15 私の民イスラエルに継がせた相続地に手を触れる悪しき隣国の民すべてについて、主はこう言われる。私は彼らをその土地から引き抜く。また、ユダの家を彼らの間から引き抜く。私は彼らを引き抜いた後、再び彼らを憐れみ、それぞれをその相続地に、その地に帰らせる。 厳しさとともに、希望をも抱かせるメッセージである。このあとには「もし彼らが、かつてバアルによって誓うことを私の民に教えたように、私の民の道をしっかりと学び、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うようになるならば、彼らは私の民の内に建てられる。」(16)と、条件のようなものが続く。いずれにしても、この言葉に希望を託し、それぞれの地で生き抜き、キュロスの勅令により、帰還した人たちがいたことを知っている。素晴らしいことだが、同時に、そこでおこったことが、この預言の成就なのかについては、正直疑問もある。喜べないことが、たくさんあるのだから。わたしたちの、希望はどのようなことだろうか。条件もたいせつなのだろうが、希望の内容を問うこともたいせつであるように思う。願うことは、まだ、御心とは遠いように思う。 Jeremiah 13:27 あなたの姦淫、あなたのいななき、淫行のたくらみ。/野の丘の上で/私はあなたの憎むべき行いを見た。/ああ、エルサレムよ/あなたは清くならない。/いつまでそうなのか。 この章の最初には、帯をユーフラテス川の岩の裂け目に隠すことからの学びが示されている。引用句を読むと、やはり悲しくなる。なかなか、この状態は変わらない。自らを省みても、そう簡単ではないと思う。水を含んでいないものでも、ぼろぼろになる。主は、わたしたち、一人ひとりの状態について、どのように理解しておられるのだろうか。互いに愛し合うことはできない。その、わたしたちの、弱さをご存知であるはずである。 Jeremiah 14:22 他の国の空しい神々の中に/雨を降らせる者があるでしょうか。/それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。/私たちの神、主よ/それはあなたではありませんか。/私たちはあなたを待ち望みます。/あなたがこれらすべてをなさるからです。 一般恩寵と言われるものが書かれている。「天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章45節)しかし、そのことは、主がイスラエルと同じく、他の人達をも愛している可能性を示しているとも理解できるはずである。しかし、そうは書かれていない。ことばによる啓示がないからということだろうか。聖書に書かれている、受け取られた御言葉以外に、御心を示すものがないのかは、だれにも、わからないように思う。恵みは、より普遍的なものであるように思う。 Jeremiah 15:4 私は彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王、ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。 むろん、このように書かれていたとしても、それだけのためとは言えないのかもしれない。しかし、一人ひとりのこととは異なるようである。罰・裁きは国に与えられるのだから。しかし、10節からは「ああ、災いだ。/私の母よ、あなたが私を産んだので/国中で私は争いの男/いさかいの男とされている。/私は貸したこともなく/借りたこともないのに/国中が私を呪っている。」と、エレミヤのことが書かれている。個人を守られる主についても書かれているが、普遍性は十分ではないように思える。この章の最初に「たとえモーセとサムエルが私の前に立っても」(1b)とあるが、エゼキエル14章14節・20節には「ノア、ダニエル、ヨブ」とある。モーセ、サムエルはとりなし、ノア、ダニエル、ヨブは正しさの象徴なのだろうか、と思った。 Jeremiah 16:5 主はこう言われる。あなたは喪中の家に入ってはならない。嘆くために行ってはならない。彼らのために悼んではならない。私が、この民から私の平安を、慈しみと憐れみを取り去ったからだ――主の仰せ。 これは何なのかと思う。どんな状態でも、悲しむものと共にいることは大切ではないのかと。しかし、それだけ、切迫した状態であることを「あなたはこの場所で妻をめとってはならない。また、息子や娘を得てはならない。」(2)などとともに、示しているのだろう。そして、大転換が書かれている。「それゆえ、その日が来る――主の仰せ。もはや、『イスラエルの子らをエジプトの地から導き上った主は生きておられる』とは言わず、『イスラエルの子らを北の地から、また彼らを追いやったすべての地から導き上った主は生きておられる』と言うようになる。私は彼らを、私がその先祖に与えた土地に帰らせる。」(14,15)しかし、正直にいうと素直には受け入れられない。「それゆえ、私は彼らに知らせよう。/今度こそ、私は彼らに知らせる/わが手とわが力を。/彼らはわが名が主であることを知るようになる。」(21)が不可能に見えてしまうから。どのようにかはわからなくても希望を持つべきなのだろうが。 Jeremiah 17:14 主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます。/私を救ってください。/そうすれば私は救われます。/あなたこそ、私の誉れだからです。 主に逆らい、それを正そうとする自分(エレミヤ)を嘲り呪う人々の前で、傷付くエレミヤの姿が描かれている。葛藤があるのだろう。主に、正しさを擁護してもらっても、傷は残る。しかし、その中でも求め続ける姿勢が、主の前に立つエレミヤなのだろうが。混乱も感じる。おそらく、イザヤのときと比較して、危機の切迫感が異なるのだろう。 Jeremiah 18:20 悪をもって善に報いてよいでしょうか。/しかし彼らは、私の命を狙って穴を掘りました。/御前に私が立ち、彼らについて善いことを語り/あなたの憤りを彼らからそらそうとしたことを/思い起こしてください。 陶工のたとえが書かれ、裁き(7)と共に「その国民が私の語った悪から立ち帰るなら、私は下そうとした災いについて思い直す。」(8)についても語るが、エレミヤを殺そうとする計画が起る。そこでの祈りである。引用句の後には「それゆえ、彼らの子らに飢饉をもたらし/剣に渡してください。/彼らの妻が子を失い、やもめとなり/夫は殺害されて、亡くなり/若者は戦いで剣に打たれますように。」(21)などと続く。正しさを主張し続けるエレミヤ、これが、エレミヤに与えられた使命なのかもしれない。しかし、主はその正しさを持ちつつも、それは、一部に過ぎないのではないのか。裁きを下してくださいと祈っている、人たちをも深く憐れまれる方ではないのだろうか。どちらにしても、神の御心を十分受け取ることは、ひとには、難しい。 Jeremiah 19:3,4 「ユダの王たち、エルサレムの住民よ、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は災いをこの場所にもたらす。これを聞く者は皆、耳鳴りを起こす。それは、彼らが私を捨て、この場所を異国の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、この場所を無実の人の血で満たしたからである。 これを言い続けることが、エレミヤが、主から受け取った使命なのだろう。それを、わたしは、批判はできない。ユダが滅びるときに、ここを原点とすることは、必要だったのかもしれない。しかし、ここでも「ユダの王たち、エルサレムの住民」となっており、ユダのひとたち、イスラエル全員ではない。一人ひとりの悔い改めを促しているのではないように思われる。そして、このことが、ひとを、罪びとと捉えることが、人々の呪いとなってしまっているようにも思う。ゆっくり見ていこう。考えていきたい。 Jeremiah 20:7 主よ、あなたが惑わしたので/私は惑わされました。/あなたは私より強く/私にまさりました。/私は一日中笑い物となり/皆が私を嘲ります。 世界史的にも、ユダ王国、そして、エルサレムは風前の灯火である。そこで、断罪を叫ぶことを委ねられた、またはそれが、主から任せられたことだと、自分の全存在をかけて、信じている、エレミヤの困惑が吐露されている。このあと、主が共におられることとともに「正しき人を試み/思いと心を見られる万軍の主よ。/私に見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから。」(12)復讐されるのを見せてくださいと祈っている。さらに「呪われよ、私の生まれた日は。/母が私を産んだ日は祝福されてはならない。」(14)自分の人生を肯定できないということだろうか。「労苦と悲しみ」(18b)の中での葛藤も見て取れる。正しいかどうかではないのだろう。そして、おそらく、このエレミヤの叫びが、捕囚後の、イスラエル、捕囚帰還後のイスラエルの中心を形成していったのだろう。イエスの時代までは、まだ遠い。 Jeremiah 21:12 ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。/さもなければ、あなたがたの悪行のゆえに/私の憤りは火となって燃え上がり/消す者はいないであろう。 「主からエレミヤに臨んだ言葉。それは、ゼデキヤ王がマルキヤの子パシュフルと、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤをエレミヤに遣わして、こう言わせたときのことである。」(1)と始まっている。悲しい章である。滅ぼされ、捕囚となることが、預言され、民には、降伏するように説く。しかし、そのときにも、引用句のように語っている。ゼデキヤ王たちは、困ったときの神頼みのように、エレミヤに「主に尋ねてください」(2b)と、願う。その答えだとすると、どのようなとき、すぐにでも起こることを変更はできないかもしれないが「朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。」がメッセージなのだろう。主が、現状改善ではなく、善いことをしてくださることに、信頼して。 Jeremiah 22:3 主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。 「公正」はこの後にも登場するが、王が守るべきこととして最初にかかれているのが「公正・正義」そして、その具体的なことが続く。それが神の価値観だということだろう。素晴らしい。しかし、同時に、民、個人については、偶像礼拝をしない以外、明確ではないように思う。滅びも、王の過ちにの責任が多いように感じる。個人の信仰の価値が未発達だということだろうか。国家の、危機にあって、中心となるのは「公正・正義」であることを強調しているのだろうか。 Jeremiah 23:1,2 災いあれ、私の牧場の羊の群れを滅ぼし、散らす牧者に――主の仰せ。それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者についてこう言われる。あなたがたは、私の羊の群れを散らし、追い払い、顧みなかった。そこで、私はあなたがたの悪行を罰する――主の仰せ。 この章では「(民の)牧者」と「(偽 - にせ)預言者」(9節以降)について書かれている。牧者は具体的に、どのような人を指しているのだろうか。祭司だろうか。長老だろうか。もう少し、広く、指導的立場にある人を背指しているのかもしれない。ここでは、罰するとあるが、その内容はなく「群れの残りの者」(3)を集めることが書かれている。これらの人たちについても、注意して学んでいきたい。 2022.5.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  75. BRC 2021 no.075:エレミヤ書24章ーエレミヤ書37章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週も、エレミヤ書の後半を読み進めます。エレミヤ書はいかがですか。すでに何回か書いていますが、エルサレムは陥落し(1回目の降伏は、BC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年7月9日。三回とする人もいます。)最終的にはゼデキヤのときに、国もなくなってしまいます。そのような危機に、エレミヤはなにを語ったのでしょうか。預言したのでしょうか。 実はエレミヤの名前が頻繁に引用されるのは、捕囚の期間を七十年と預言し、それがほぼ正確に実現したことに負っている面があります。この「七十年」(人の一生の長さと考えられていたようです。詩篇90篇10節、イザヤ書23章15節)が、25章11節・12節、29章10節に書いてあります。引用のほうは、みなさんが、既に読んだ箇所ですが、歴代誌下 36章 21節-23節(エズラ記1章1節、ダニエル書9章2節、ゼカリヤ書1章12節参照)に次のようにあります。 これは、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである。 ペルシアの王キュロスの治世第一年(BC538年)のことである。主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。王は国中に布告を発し、また文書をもって次のように述べた。 「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」 エレミヤ書では、すぐにも、帰還できると預言した預言者もいたことが書かれています。ただ、帰還後も様々な困難が待ち受けています。それについては、すでに、エズラ記、ネヘミヤ記でも読みましたが、これからも、見ることができると思います。エレミヤの心のなかには、どのような思いがあったのでしょうか。みなさんは、どのようなことを受け取られますか。個人的には、預言書は読み方も難しく、ちょっと苦手ですが、国が滅びるという苛烈な状況の中で、信仰を持って生き抜いた、エレミヤから、共に学ぶことができればと願っています。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エレミヤ書24章ーエレミヤ書37章はみなさんが、明日5月30日(月曜日)から6月5日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Jeremiah 24:7 私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。 このあとの歴史を少し知っているわけだが、このことは、真実であると同時に、そうとも言えない面も持っている。複雑な世界、しかし、神様は、その中で、どうしたらよいか、迷っておられるようにも見える。神様と言わなくても良いのかもしれないが。わたしは、真理を御心と同一視して求めている。しかし、現実が少しずつ分かっていく中で、なにをたいせつにして生きるべきか、それほど簡単ではないことも、感じている。おそらく、それぞれのときに、正しいことは、わからないのだろう。そして、おおきな間違いをしなければよいとも言えない。ひとは、間違えるので。結果責任のようなことは、避けられない部分もあるのだろう。難しい。 Jeremiah 25:7 しかし、あなたがたは私に聞き従わなかった――主の仰せ。あなたがたは自分の手で造ったもので私を怒らせ、災いを招いた。』 わかりやすいメッセージではあるが、今のわたしには、受け入れられない。神様が、(わからないことは不明としてそのうえで)すべてをご存知なら、このようなことは、単純に、ノアの洪水の繰り返しになることを知っておられるだろう。だからといって、条件をゆるくすることがよいようにも思わない。イエス様の言われたことが「神の子として生きる道を、選びましょう。神様はあなたの近くにおられます。」と理解すれば、ある程度は、そのように、生きることができるかもしれない。正解はなく、神の子として生きることにはならないわけだが。そのように、生きようとするもの同志と、互いに学び合いながらということなのだろうか。 Jeremiah 26:19 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺そうとしたであろうか。主を畏れ、主に願い求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」 モレシェトの人ミカのユダの王ヒゼキヤの時代の預言(18)のときのことを語っている。たしかに、ヒゼキヤとの違いは大きいのだろう。ただ、正直に言って、アッシリアの時代とバビロニアの時代の違いもあり、このような単純な因果関係で、悔い改めれば、主は災いを思い直されると考えることに、わたしは同意できない。イスラエルの民だけの神ではないと思っていることも一つの理由である。学問的には、理解は異なって来ているが、聖書理解において、それをコミュニティは受け入れられるだろうかとの危惧も同時に持っている。難しい。 Jeremiah 27:6,7 今や私は、これらすべての地を私の僕であるバビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかしついには、彼の地にも時が来て、多くの国民と偉大な王たちが彼を自分たちに仕えさせる。 バビロンの王ネブカドネツァルを「私の僕」と呼び、その孫の時代までのこと、諸国民のことを語り、この時点ではときは明確ではないが、そのバビロンも「多くの国民と偉大な王たち」に使えるようになることを預言している。エレミヤは、悔い改めを説いても、それが受け入れられることはないことにも、確信があったのかもしれない。時代は、エレミヤの預言では終わらない。御心を求め続けることの困難さも感じる。しかし「主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る」(16)のような預言(後の加筆ではないとすると)を信じて、捕囚の民の中で、ここに希望を見出していたひともいたのだろう。難しい。 Jeremiah 28:13,14 「行って、ハナンヤに言え。『主はこう言われる。あなたは木の横木を打ち砕いたが、その代わりに鉄の横木を作ることになる。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらのすべての国民の首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。そこで彼らは彼に仕える。私は野の獣まで彼に与えた。』」 エレミヤは「七十年が満ちると、私は、バビロンの王とその国民の上に、またカルデア人の地の上に、その過ちのゆえに罰を下し、これをとこしえに荒廃させる――主の仰せ。」(25章12節、参照25章11節、29章10節、イザヤ23章15節には「一人の王の生涯に等しい七十年」との表現もある)と預言している。ここでは、預言者ハナンヤがその期間は2年だということ、さらに、すべての民を帰らせるという預言をする。同様の筋に載っているが内容はかなり違う預言、それに対する対応が書かれているのがこの章である。「平和を預言する預言者は、その言葉が成就したときに、本当に主が遣わされた預言者であったと分かる。」(9)は印象的であるが、預言の難しさも感じる。ひとは、そして、エレミヤも完全ではないのだから。正しさを追い求めることに限界を感じている現代人の困難でもあるのかもしれない。難しい。 Jeremiah 29:10,11 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている――主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。 若い頃暗証していた聖句である。希望を与えられた。しかし、前半に続くもので、一般的な神様の計画と取ることはできないことも明らかだ。「平和を預言する預言者」(28章9節a)のそしりを免れない。しかし、このあとに続く「あなたがたが私を呼び、来て私に祈るならば、私は聞く。私を捜し求めるならば見いだし、心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる――主の仰せ。」(12-14a)は、このあとに続く、具体的な預言を考えると、やはり、一般的な言説ではないにも関わらず、神様の一般的なご性質だと取れないこともない。このような解釈も非常に難しいと感じた。 Jeremiah 30:20-22 ヤコブの子らは昔のように栄え/その集いは私の前に揺るぎなく立てられる。/彼らを抑圧する者を私は罰する。力ある者が彼らから起こり/治める者が彼らの中から出る。/私が彼を近づけるので/彼は私に近づく。/彼のほかに、一体誰が命を懸けて/私に近づくであろうか――主の仰せ。こうして、あなたがたは私の民となり/私はあなたがたの神となる。 この章には「なぜ自分の傷のことで叫ぶのか。/あなたの痛みは癒えない。/あなたの多くの過ち/あなたの数知れない罪のために/私があなたにこうしたのだ。」(15)と語りつつ、最後は、引用句にある、希望のメッセージになっている。エレミヤも、傷の痛みを感じながら、希望を持ち続けていた預言者なのかもしれない。しかし、正直、引用しているような平和は来ない。現状分析は厳しく、正しくとも、それがどのように解決されるかは、とても、困難なのではないかと思う。 Jeremiah 31:15 主はこう言われる。/ラマで声が聞こえる/激しく嘆き、泣く声が。/ラケルがその子らのゆえに泣き/子らのゆえに慰めを拒んでいる/彼らはもういないのだから。 マタイ2章17,18節で引用されている言葉である。このあとには「主はこう言われる。/あなたの泣く声を/目の涙を抑えなさい。/あなたの労苦には報いがあるからだ――主の仰せ。/彼らは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある――主の仰せ。/子らは自分の国に帰って来る。」(16,17)とある。26章からはエレミヤの後半生について書かれている部分であもる。エレミヤは涙の預言者とも言われるが、このような預言は、もしかすると、主が、エレミヤへの慰めとして与えたのかもしれないと思った。そのような感想には、批判もあるだろうが。エレミヤと、神様との深い、交わりをのことばも、受け取りたいと思う。 Jeremiah 32:42,43 主はこう言われる。かつて、この民にこの極めて大きな災いを下したように、私は、約束したあらゆる恵みを彼らにもたらす。あなたがたが、「この地は荒れ果て、人も獣もいなくなり、カルデア人の手に渡される」と言っているこの地で、畑が買い取られるようになる。 エルサレムが包囲され、エレミヤが監視の庭に勾留されている時(2)に、おじの子花ムエルが監視の庭に来て、ベニヤミンの地のアナトとにある畑を買ってください(8)と依頼し、このことは、主から出たこととして、それを買う決断をする、最後に記されていることばである。信仰・希望、そして、愛もあるかもしれない。通常は、絶望で、率直に、神の言葉を伝えようとするエレミヤに対する批判が強く、自らの自由がないときに、(自由さを保って)行動まで起こす。やはりこれは、大変なことだろう。ひとつの正しさに固執するのではなく、神の御心を求め続けることは、自分が受け取った真理は、ほんの一部に過ぎないことをわきまえ、求め続けることにつながっているということだろうか。その態度を見習いたい。たいへんであることは、理解できるが。 Jeremiah 33:21,22 僕ダビデと結んだ私の契約も破られる。彼には、その王位を継ぐ子がいなくなり、私に仕えるレビ人である祭司との契約も破られる。数えきれない天の万象や、量りえない海の砂のように、私はわが僕ダビデの子孫と、私に仕えるレビ人の数を増やす。」 この章の最後は「私はヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、彼の子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないであろう。しかし私は、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」(26)とある。不思議な預言である。彼らの繁栄を回復するとしながら、ダビデの子孫が王位につくこともなく、祭司の系統も途絶えるのだろう。しかし、これらの人たちの数は増す。正しいかどうかの解釈に終始よりも、エレミヤが十分は理解できなくても、自分が受け取ったことを伝えようとしたことに、希望を感じさせる。将来について知りたいということよりも、主に希望を置くことがたいせつなのだろうから。 Jeremiah 34:8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。 興味深い章である。ゼデキヤについての預言(1-5)、その直後に、奴隷解放宣言が記され、契約に加わった高官や民が実行するが、自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し仕えさせた(9-11)ことが書かれ、それに対するエレミヤの言葉が記されている。また「この時、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町の中で、これらの城壁に囲まれた町だけがまだ残っていたからである。」(7)の記述も含まれており、客観的状況もある程度わかる。「『七年の終わりには、あなたがたはそれぞれ、あなたのもとに売られて来た同胞のヘブライ人を去らせなければならない。六年間、彼があなたのために働いたなら、彼を自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない。』ところが、あなたがたの先祖は私に聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。」(14)は出エジプト記21章2節、申命記15章12節にあるが、本当にこのことが実行されていたのか、興味を持っていた。おそらく、常には実行されていなかったであろう。律法とは当時の人達にとって何だったのかも垣間見ることができ、興味深い。 Jeremiah 35:6,7 すると、彼らは言った。「我々はぶどう酒を飲みません。我々の父祖、レカブの子ヨナダブが我々に命じて、『お前たちも、お前たちの子孫も、決してぶどう酒を飲んではならない。また、お前たちは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう園を造ったり、また所有したりしてはならない。お前たちは生涯、天幕に住まなければならない。お前たちが滞在する土地で長く生きるためである』と言ったからです。 このことに聞き従ってきた(8)とある。エレミヤはそのことを知っていて、民の前でこのことを確かめ、語っている。神の命令ではないが、このように聞き従う者を知ることは、エレミヤにとっても、重要なことだったのではないだろうか。忠実な人たちを見出したのだから。内容はともかく、イエスももしかすると「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5章34節、10章52節、ルカ7章50節、8章48節、17章19節、18章42節、参照マタイ9章22節)と言われるかもしれない。 Jeremiah 36:6,7 あなたは断食の日に行って、私が口述したとおりに書き記したこの巻物の中から主の言葉を読み上げて、神殿にいる民に聞かせなさい。また、それぞれの町から来るすべてのユダの人々にも読み聞かせなさい。人々は主の前に願いを献げ、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。この民に主が語られた怒りと憤りが大きいからだ。」 口述筆記した書が読まれるが、違った反応が記されている。まずは、引用句にある「断食の日に神殿にいる民」。この人達は、敬虔な人たちなのだろう。次に「エルサレムのすべての民、およびユダの各地の町からエルサレムに来ているすべての民」(9)この人達も、断食をする。「(書記官)シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤ」(10,11)と「(何人かの)書記官とすべての高官たち」(12)も、巻物に書かれていることを聞こうとする。それを王に告げるが、エレミヤの言葉だと聞いて、口述したエレミヤと筆記したネリヤの子バルクを隠す(19)。そして、王に告げるが「王とそのすべての家臣たち」(24)は、書に書かれたことばを受け入れず、王は、それを燃やしてしまう。その後、多くの言葉を加えて再度巻物に書き記す(32)ことが書かれている。いろいろな人達がいることを丁寧に理解して読んでいきたい。目が向けられるのは、王とその家臣であることが多く、その人達の民に対する責任は大きいことは確かだが。 Jeremiah 37:11,12 ファラオの軍隊が進軍して来たことを耳にして、カルデア軍がエルサレムから撤退したとき、エレミヤはエルサレムから出て、ベニヤミンの地に行った。民の間で郷里の割り当て地を受け取るためであった。 割当地の受け取りは何らかの契約の締結が関係したのだろう。(エレミヤ32章6節〜15節)そのある意味で日常的な、この世的なことを、一つ一つすすめることにも、主への信頼、この世がこれで終わるわけではないとの確信が感じられる。どのような危機においても、日々を誠実に丁寧に生きること。それが、信仰と希望による生き方なのだろう。 2022.5.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  76. BRC 2021 no.076:エレミヤ書38章ーエレミヤ書51章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エレミヤ書の最後の部分(エレミヤ書は52章までです)を読み進めます。エレミヤ書はいかがですか。エレミヤはユダ王国、エルサレムが敗れ、破壊されることを預言してきましたが、まさにその時を迎えます。今回の箇所には、最後の王ゼデキヤのこと、そのゼデキヤのものでのエレミヤのこと、エレミヤが、バビロンの軍隊にどのように扱われたか、エルサレム陥落後のこの地域の統治の状況と混乱、周囲の諸民族のことなどなど、そして、エレミヤ書の筆記者のことなども書かれています。盛り沢山ですが、「その後」の記述と言えるかもしれません。みなさんは、これらの箇所から何を読み取られるでしょうか。 今回の箇所を読んでいると、エルサレムを滅ぼすバビロン、新バビロニア帝国についても、少し情報を得ることができます。当時は、他の国の情報を得ることはあまり簡単ではなかったと思います。しかし、エレミヤなどは、ある程度世界(中東世界の)状況が見えていたのかもしれないとも思います。そうではあっても、他者視点、他の国が何をたいせつにしているのか、他国のアイデンティティ(宗教的価値観とも言えるかもしれません)を受け取るほどの情報は持っていなかったのではないかと思います。わたしたちは、どうでしょうか。世界の状況や、様々な地域や人々がなにをたいせつにしているかを調べようとすれば、ある程度知ることができる世界に生きているように思います。そのなかで、わたしたちは、どのように、行動し、考え、真理を、神様のみこころを受け取っていったら良いのでしょうか。エレミヤ書の最後の部分、様々なできごとについて読みながら、このことについても、考えることができればと思いながらわたしは読んでいます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エレミヤ書38章ーエレミヤ書51章はみなさんが、明日6月6日(月曜日)から6月12日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Jeremiah 38:4,5 高官たちは王に言った。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを人々に語り、この都に残っている戦士とすべての民の士気を挫いているからです。この民のために平和を求めず、むしろ災いを求めているのです。」ゼデキヤ王は言った。「あの男はお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」 エレミヤ書にかかれているゼデキヤは非常に興味深い。人間の弱さを表現しているが、同時に「私が恐れているのは、カルデア人のもとに投降したユダの人々だ。彼らの手に引き渡されると、私はなぶりものにされるかもしれない。」(19b)と複雑な心情も吐露している。列王記下24章18-20節歴代誌下36章11-16節などと比較すると、複雑な心境がより理解できる。正しさによって、概観し、それによって人をさばくことは、単純化であり、神様の見方とは、異なるように思われる。 Jeremiah 39:6,7 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子どもたちをその目の前で惨殺した。ユダの貴族たちもすべてバビロンの王は惨殺した。彼はゼデキヤの両眼を潰し、青銅の足枷につないでバビロンに連行した。 この章には、エレミヤのことについても書かれている。これを、ゼデキヤへの裁きだと考えるのは単純化し過ぎであると思う。わたしが、ゼデキヤの立場であったとして何ができたかは、不明である。ここには、貴族たちが惨殺されたことが書かれている。バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関しては「彼を連れ出し、世話をせよ。いかなる害も加えるな。彼が求めることは、何でもかなえてやれ。」(12)と言っていることなどを勘案すると、ある程度、調べて、ある程度個々に決めた処分なのかもしれないと思った。武力だけでなく、政治規範としても、バビロンの方が上だったのかもしれない。 Jeremiah 40:11,12 モアブ、アンモン人、エドムなど、あらゆる地にいたユダの人々も皆、バビロンの王がユダに人を残したことと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに彼らの監督を委ねたことを聞いた。そこで、ユダの人々は皆、散らされていた先のすべての場所から帰り、ユダの地に来て、ミツパのゲダルヤのもとにやって来た。彼らは大量のぶどう酒と夏の果物を集めた。 戦後処理は難しい。おそらく、土地はそれなりに荒れていただろう。「野にいたすべての将軍とその部下」(7a)この中には、いずれ反逆を起こすイシュマエルなどがいる、そして「バビロンに捕囚として移送されなかった男、女、子ども、その地の貧しい者たち」(7c)「バビロンの王がその地の監督を委ねたアヒカムの子ゲダルヤ」(7b)、さらに、引用句からは、「あらゆる地にいたユダ」だけでなく「モアブ、アンモン人、エドムなど」もそこにいる。新しい世界を築いていくには、しっかりとしたリーダーが必要である。善良でそのことを忠実になそうとする、ゲダルヤ、このひとについてはあまりよくわからないが、このひとも一瞬のすきと判断ミスで大変な状況が起こる、難しいときなのだろう。戦争の後遺症である。それは、バビロンが整復した多くの地であったろうから、ゲダルヤは、それなりの能力を持っていたとも考えられるが。新しい世界を生きるのはだれにとってもむずかしい。 Jeremiah 41:16 ネタニヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアの子ヨハナンと、彼と共にいた将軍は皆、イシュマエルのもとから連れ戻した民の残りの者をすべて、すなわち、ギブオンから連れ戻した男、戦士、女、子ども、宦官らをミツパから連れ出した。 ネタニヤの子イシュマエルは「王の血筋で、王の高官でもあった、エリシャマの子ネタニヤの子イシュマエル」(1a)と書かれているが、まず、「ゲダルヤと共にミツパにいたユダのすべての人々と、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを打ち殺し」(3b)さらに「シェケム、シロ、サマリアから来た八十人の一行が、ひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿で通りかかった。彼らは、主の神殿に献げる穀物の供え物と乳香を手に携えていた。」(5)を(一部は取引をして残すが)惨殺、結局は、(野にいた将軍のひとり)カレアの子ヨハナン(40章8節)に攻められ、アンモン人のもとに逃げる。混乱の続章である。エレミヤはその混乱をも知る状況にある。(ゲダルヤのもとにいた(40章6節))エレミヤはなにを考えていらだろうかとも思う。一喜一憂ではなかったのだろう。おそらく、この時代を生きることは、だれにとっても、とても困難だろうが。 Jeremiah 42:5,6 すると、彼らはエレミヤに言った。「主が私たちに対して真実で誠実な証人となられますように。私たちは必ず、あなたの神である主があなたを遣わして私たちに語られる言葉のとおり、すべて実行します。良くても悪くても、私たちがあなたを御もとに遣わす私たちの神である主の声に聞き従います。私たちの神である主の声に聞き従うのは幸せになるためです。」 バビロンの王が監督を委ねた、アヒカムの子のゲダルヤを暗殺した、イシュマエルを撃った「すべての将軍とカレアの子ヨハナン、ホシャヤの子エザンヤ、そして小さな者から大きな者まですべての民」は「エジプトへ向かおうとしていた。」(41章17,18節)とある。その途中で、エレミヤに主の言葉を求めている。引用句を見ると、心惹かれるが、単純ではないのだろう。この時代はどのように生きるのも困難な時代である。エレミヤはこの人達に、エジプト行きに対する警告をし、とどまることが主の御心と告げる。エレミヤは、主のことばに信頼し、回復のときのためにも心を砕いていたのかもしれないが、それは、やはり困難だとも思わされた。現実世界で、将来を予見し、これが暫く先のことを考えると正しいと思えることでも、そこに皆で向かうことは非常に困難である。ましてやリーダーシップをとることは、不可能に近い。 Jeremiah 43:4,5 それで、カレアの子ヨハナンとすべての将軍、およびすべての民は、「ユダの地にとどまれ」という主の声に聞き従わなかった。カレアの子ヨハナンとすべての将軍は、散らされていた先のすべての国々からユダの地に住むために帰って来たユダの残りの者をすべて連れて行った。 主のことばに従うというカレアの子ヨハナンたち(42章5,6節)は、結局、警告を無視して、エジプトに向かう。将軍たちのもとでは、民(散らされていた先のすべての国々からユダの地に住むために帰って来たユダの残りの者)は無力だったことも考えられる。同時に、自ら選択ができる人は、限られていたのかもしれない。価値判断を、個人でできるようになることは混乱を引き起こすることも確かだが、やはり、尊厳のひとつの基盤でもあるように思う。 Jeremiah 44:28 剣を逃れてエジプトの地からユダの地へ帰還する者の数は僅かである。その時エジプトの地に来て寄留したユダの残りの者はすべて、私の言葉と彼らの言葉のどちらが実現するかを知るようになる。 ここに、エレミヤの信仰が現れているようにも思う。神の言葉のそして預言の正しさを確信している。おそらく、それは、世界情勢を冷静に見、考えることも含まれているのだろう。しかし、あげ足取りではないが、「エジプトの地に行ってそこに寄留しようとするユダの残りの者を私は取り除く。彼らは一人残らずエジプトの地で滅びる。彼らは剣で倒れ、飢饉で滅ぼされる。小さな者から大きな者までが剣と飢饉で死に、呪い、恐怖、罵り、そしりの的となる。」(12)と、引用句の状況には多少の違いがある。エレミヤの中でも、少しずつ修正、神様のみこころをより深く理解することが進行しているのかもしれない。わからないことばかりなのだから。 Jeremiah 45:4,5 バルクにこう言うがよい。『主はこう言われる。私は自分が建てたものを破壊し、自分が植えたものを引き抜く。全地をこのようにする。あなたは大きなことを求めている。求めてはいけない。私はすべての肉なるものに災いを下そうとしているからだ――主の仰せ。しかし、あなたがどこへ行っても、あなたの命を戦利品としてあなたに与える。』」 「ああ、災いだ。主は、私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、安らぎを得ない。」(3b)と言ったエレミヤ書の筆記者バルクへのことばである。いくつもの要素が含まれているように思う。主はご自身が望まれることをすること、そしておそらく、このような裁きは、ユダに留まらず、他の民にも及ぶこと、それを、留めることはできないが、主は、どこにいても、共に居て、生命を守ってくださること。基本的に、これが、エレミヤや、バルクとともに、わたしたちに与えられている道なのだろう。謙虚に、主の道を求め、それに従って歩むことだろうか。 Jeremiah 46:28 あなたは恐れるな、わが僕ヤコブよ/――主の仰せ。/私があなたと共にいるからだ。/あなたを追いやった先の国々はすべて/私が滅ぼし尽くす。/しかしあなたを滅ぼし尽くすことはない。/私はあなたを正しく懲らしめる。/あなたを罰せずにおくことは決してない。 諸国民について(1)と始まり、最初にエジプトが、バビロンのネブカドレツァルの手に落ちることが書かれ、しかし、復興もほのめかす記述(26b)がある。最後に、引用句がある。エジプトは古代から、イスラエルのすぐ隣の、隣国としては唯一の超大国で、アッシリアに敗れるが回復したことなどからして、エジプトに頼るのは、自然だったろう。しかし、エレミヤは世界史的な流れも、理解できていたのかもしれない。単純な期待ではなく、冷静に見る目と、主への信頼だろうか。しかし、どこまで理解できていたかは、やはり判断が難しい。同時に、どうなるかよりも、引用句などを通して、希望をもって、信仰的に生きることを促すことも、重要な役割だったのだろう。 Jeremiah 47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。/生き残っていて、ティルスとシドンを/助けようとするすべての者を絶ち滅ぼす日が。/その日、主はカフトルの島に残っている/ペリシテ人を滅ぼされる。 フェニキア人の系統と言われる、ペリシテは、イスラエルとの関係でも、長い歴史をもつ。しかし、歴史的にも、ネブカデネザルによって、歴史の舞台から消滅するようだ。(英語版 Wikipedia)このようなことの背後にどのように、主が関わられるかを判断することは、とてもむずかしい。しかし、それを、理解したいとする、エレミヤの思いも読み取ることができるように思う。わたしも、丁寧に世界を見ていきたい。主からのメッセージを読み取ることができるかもしれない。明確にはわからなないかもしれないが。 Jeremiah 48:47 しかし、終わりの日に/私はモアブの繁栄を回復する――主の仰せ。/ここまでがモアブへの裁きである。 モアブの裁きについて延々と書かれている。ただ、この終わりの日のことは、不明である。いまでも、モアブは残っているのだろうか。正直に言うと、裁きについての記述を読み続けるのが、辛かった。この時代は、基本的に、バビロンに整復され、その後も、中東は、大国の支配が続く。ひとつの民族が残ることは難しい時代にはいっている思うので。わたしが、モアブなら、エレミヤのメッセージをどう受け取るだろうか。風前の灯火で、結局は、ユダと共に、滅ぼされるときに。 Jeremiah 49:5,6 私は恐怖を四方からあなたのところに来させる/――万軍の主なる神の仰せ。/あなたがたは、ちりぢりになって追われ/逃げる者を集める者はない。この後、私はアンモン人の繁栄を回復する/――主の仰せ。 前章に続き、この章では、まず、アンモン、次に、エドム、さらに、ダマスコ、そのあとには、ケダルおよびハツォル、エラムと続く。回復が明示的に、書かれているのは、引用した、アンモン、そして、エラムのようである。ほかはどうなのだろうか。正直、わたしには、わからない。滅びも、回復も。何か、空虚に感じてしまう。 Jeremiah 50:45,46 それゆえ、あなたがたは聞け/主がバビロンに対して練られた計画/カルデア人の地に対して立てられた企てを。/羊の群れの幼いものらが引きずって行かれ/牧場は彼らのせいで必ず荒廃する。バビロンが捕らえられる音で地は揺れ動く。/叫び声は諸国民の間に聞こえる。 この章には、バビロンについての言葉が書かれている。少し長いことも有り、丁寧には読めなかったが、ゆっくり読む価値があると感じた。おそらく、私たちは、知らない事実が背後にある内容もあるのだろうが。同時に、イスラエルとの関係もいろいろと書かれている。印象に残ったのは「そして、イスラエルを元の牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食み、エフライムとギルアドの山で心から満足する。その日、その時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない――主の仰せ。ユダの罪も見いだされない。私が生き残らせた人々を赦すからである。」(19,20)帰還することは、他にも書かれているが、ここでは、罪が見いだせなくなること、それは、過ちを犯さないことではなく、主が許すからだとある。丁寧に読むことができる日がくればと願う。 Jeremiah 51:60,61 エレミヤはバビロンに下るすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンに到着したとき、注意してこのすべての言葉を朗読し、 バビロンの部分が書かれた背景が書かれている。おそらく、50章・51章は、この巻物の内容と関係しているのだろう。このあとに、書かれている、この巻物をどうするかの記述も、興味深い。大帝国、バビロン(新バビロニア帝国)が最も力があったときに、このようなことをするのは、大きな挑戦だったろう。それも、優遇され、解放されたエレミヤが。この二章は長いので、じっくり読めなかったが、エレミヤの凄さを感じさせるものでもある。なかなか、好きにはなれないが。 2022.6.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  77. BRC 2021 no.077:エレミヤ書52章ーエゼキエル書8章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エレミヤ書の最後章を読み、次に哀歌を読み、さらに、エゼキエル書へと進みます。エレミヤ書はいかがでしたか。 さて、次の哀歌は、いくつかの訳では「エレミヤの哀歌」となっています。エレミヤが著者かどうかは、明確な根拠はないようですが、次のような記述はあります。 「エレミヤはヨシヤのために哀歌を詠んだ。男も女もすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝え、今日に至っている。それはイスラエルのしきたりとなり、『哀歌』に記されている。」(歴代誌下35章25節) 以下は、下に引用のある、ホームページに書いてあることですが、形式は、ヘブル語のアルファベットを冒頭の単語の文字として順に使う「数え歌(アルファベットは数にも使う)」になっています。日本語聖書でも分かるのは、3章以外は、すべて22節で、3章も66節と22の倍数になっています。その22がヘブル語のアルファベットの数です。ヘブル語の聖書のリンク http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt3201.htm を参照してみてください。このページには上に "Listen to this Chapter in Hebrew" と書いてあり朗唱を聞くこともできます。 哀歌の次は、エゼキエル書を読みます。最初には次のように書かれています。 第三十年の第四の月の五日に、私がケバル川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、カルデア人の地、ケバル川のほとりで、祭司ブジの子エゼキエルに主の言葉が臨み、主の手が彼の上に臨んだ。(エゼキエル書1章1節) 「ヨヤキン王が捕囚となって五年目」とありますが、列王紀下24章8-17節に、ヨヤキン王(訳によっては少し違う名前になっています)のときのこの捕囚について書かれています。これは、BC597年のことですから、第5年はBC593年。エルサレム(完全降伏は、BC586年)は残っている時ということになります。第三十年は不明ですが、エゼキエルが三十歳の時ということではないかという説があります。エゼキエルは祭司の子ですが、通常は祭司は三十歳からその務めをすることに決まっていました。(民数記4章)もし、これが年齢だとすると、神様の仕事を担うようになるときに、幻を見たということになります。ケバル川はバビロンにある灌漑用の運河のことだとされているようです。ここでは、五年目とありますが、このあと、エゼキエル書には、第六年、第七年、第九年、などなどと年が書かれています。正確ではないかもしれませんが、エゼキエルは、25歳ごろ捕囚となって、バビロンに移され、5年目の30歳の頃に幻を見(はじめ)、12年目の37歳の頃にエルサレムが陥落、国が消滅するということになります。捕囚の地で、エゼキエルは何を見、何を伝えたのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エレミヤ書52章ーエゼキエル書8章はみなさんが、明日6月13日(月曜日)から6月19日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jr 哀歌:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#lm エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#el 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Jeremiah 52:28-30 ネブカドレツァルが捕囚とした民は次のとおりである。第七年にはユダの人々三千二十三人、ネブカドレツァルの治世第十八年にはエルサレムから八百三十二人、ネブカドレツァルの治世第二十三年には、親衛隊長ネブザルアダンがユダの人々七百四十五人を捕囚とした。総数は四千六百人である。 きっちりとした数が書かれているが、他の記録にもなく、かつ、捕囚から帰ってくる人たちの数などを考えると、少なすぎるように思う。正確には調べられなかったが。「貧しい民の一部、都に残っていたその他の民、バビロンの王に投降した者、その他の人々は、親衛隊長ネブザルアダンが捕囚として連れ去った。親衛隊長ネブザルアダンは、この地の貧しい民の一部を残し、ぶどう作りと土地を耕す者とした。」(15,16)ともあり、全体像が不明である。出エジプトのときや、ダビデの時代の人口調査などを考えると、全体では、数百万はいたのではないかと考えていた。ユダの地域だけでも、100万人近くいたのではないだろうか。どのようにしたら、情報を集められるのだろうか。そして、ここにかかれている数は何の数なのだろうか。 Lamentations 1:20 御覧ください、主よ。/私は本当に苦しいのです。/私のはらわたは痛み/心は私の内で動転しています。/私が逆らい続けたからです。/外では剣が子を奪い/家の中を死が支配しています。 「哀歌」の名にふさわしい苦悶が書かれている。背景は「主は、私のうちにいるつわものたちを皆/退けられた。/私に向かって定めの祭りを召集し/若者たちを打ち砕いた。/搾り場でぶどうを踏むように/主はおとめである娘ユダを踏み潰された。そのために、私は泣き/私の目から、この目から涙が溢れ出る。/私を慰め、魂を生き返らせてくださる方が/私から遠ざかったからだ。/敵はあまりに強く、私の子らは見捨てられている。」(15,16)と書かれている。「敵はあまりに強(い)」は偽らざる印象なのだろう。どうすることもできない。主は正しく(18)様々な悪事を思っても、苦しさ、哀しさが和らぐわけではない。信仰者の心の内を、受け取っていきたい。 Lamentations 2:11,12 わが目は涙が尽き、わがはらわたは痛み/娘であるわが民の破滅のゆえに/わが肝臓は地に注がれる。/幼子や乳飲み子は町の広場で弱り果てている。彼らは母親に言う/「どこにあるの、穀物やぶどう酒は」と。/傷ついた者のように町の広場で弱り果て/母の懐で息絶えてゆく。 引用句だけでなく、驚く表現がこの第二の歌にはたくさん含まれている。「主はご自分の祭壇を拒み、聖所をも見捨て/城郭の壁を敵の手に渡された。/主の家で、彼らは祝いの日のように歓声を上げた。」(7)熱心な人たちには、神殿で敵が、祝の日のように歓声をあげるなど想像すらしていなかったことだろう。それを、主が許容、または命じられるとは。この章(第二の歌)の最後にも祝の日が登場する。「あなたは祝いの日のように/私が恐れる者たちを周りから呼び集められました。/主の怒りの日に/逃げ延びた者、生き残った者はいませんでした。/私が生み育てた者たちを/敵は滅ぼし尽くしてしまったのです。」(22)「あなた」は主だろうが「私」は誰だろうか。イスラエルか、エルサレムか、哀歌記者か。 Lamentations 3:37-39 主が命じられたのでなければ/誰がこれを語り、このようなことが起きたのか。災いも幸いも/いと高き方の口から出るものではないか。生きている人間がどうして不平を言えるのか。/自分が罪を犯したのだから。 この章は転換点なのかもしれない。21節に「私は待ち望む」とあり、主の賛美(22,23)が続き、(自分が経験し理解してきた)主の性質が書かれている。そのあとに、引用句がある。基本的には、主の主権のもとで、シオンが滅んでしまったこと、ひとは罪を犯しており、滅びるのは当然で、不平は言えないという考え方である。これは、新約にもつながっているが、神の愛が、その罪人の状態からの救いが、特に、パウロによって語られる。まだ、わたしたちは、十分に、主について、基本的なことですら、理解できていないように思うが。 Lamentations 4:21,22 ウツの地に住む娘エドムよ、楽しみ喜ぶがよい。/あなたにもいずれ杯が巡って来る。/あなたは酔いしれて裸をさらす。娘シオンよ、あなたへの罰はもう終わった。/主はあなたを再び捕囚とすることはない。/娘エドムよ、主があなたの過ちを罰せられ/あなたの罪を暴かれる。 シオン(エルサレム)が破壊され、そこに住む人々の悲惨の極みが描かれている。これで、もう、終わり。これ以上何があるのかということなのだろうか。ただ、その章の最後に、エドムのことが書かれている。周辺の国、民族と比較すると、栄光の中にいたであろう、エルサレム、しかし、関係が良くないときが多かったとしても、その裁き、破壊について書かれていることには、違和感がある。それは「これはエルサレムの預言者たちの罪のゆえ/祭司たちの過ちのゆえだ。/彼らはエルサレムの中で正しき人々の血を流した。」(13)に根拠を求めているからにも見える。正しさ追求の呪いだろうか。悪いから滅ぼされるのであれば、神の前に立ちうるものは、いない。 Lamentations 5:2 私たちの相続地は他国の民のもの/私たちの家は外国人のものとなった。 「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。/私たちは立ち帰りたいのです。/私たちの日々を新たにし/昔のようにしてください。それとも、あなたは私たちをどこまでも退け/激しい怒りのうちにおられるのでしょうか。」(21,22)哀歌はこの悲痛な裁きで終わっている。ただ、引用句にある相続地は、やはり、他民族から奪ったものである。それは、永遠の神からの相続地と信じてきた。その約束を、不変のものとしてきた。しかし、この現実は、それが誤りであったことを意味する。聖書に書いてあるメッセージを文字通りに受け取ることの問題点も指摘しているように見える。「あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓い、『私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにこれを受け継がせる』と告げられました。」(出エジプト32章13節) Ezekiel 1:1-3 第三十年の第四の月の五日に、私がケバル川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、カルデア人の地、ケバル川のほとりで、祭司ブジの子エゼキエルに主の言葉が臨み、主の手が彼の上に臨んだ。 「ヨヤキン王が捕囚」は BC597年(捕囚1回目)とすると、第5年はBC593年。まだ、エルサレム(完全降伏は、BC586年)は残っている時ということになる。祭司の子は基本的に祭司なので、捕囚の地で、祭司として、語り始めたということだろうか。エゼキエルは、幻が書かれ、よく理解できない。できるだけ、集中を途切れさせず、読んでいきたい。 Ezekiel 2:1,2 主は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立ちなさい。私はあなたに語ろう。」主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は、語りかける者に耳を傾けた。 「主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。」とある。主の霊(聖霊)によって「耳を傾け(る)」と聴くことができたと証言しているのだろう。精神医学的には、自我と外界または他者を隔たっている壁が薄くなり、透過しやすくなる状態なのかもしれない。これにより、どれが自分かは、わからなくなり、幻影の中にいることになるとも言える。一つの精神疾患の状況とも言えないことはないが、それだけ、精神が敏感になって、他のひとにとっては大したことではないことが、大きな意味を持ってくるということだろうか。ある精神医学者のエゼキエルについてのコメントから連想したものだが、言葉にしてみると、まだ、わたしには、ほとんど理解できていないことがわかった。 Ezekiel 3:17,18 「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。私の口から言葉を聞いて、私からの警告を彼らに伝えよ。私が悪しき者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたが彼に警告せず、悪の道から離れて命を救うように彼に語って警告しなければ、彼は自分の過ちのために死ぬが、私は、彼の血の責任をあなたに問う。 このあとにも、いくつかの場合について書かれている。主からのことばを警告として伝える責任ある者として「見張り」ということばが使われている。異端ともいわれるひとつの宗派が使っていることばである。(神様からの)真理(御心)を得たと確信したときに、それを、他者にも語る責任があるということは、おそらく、普遍性もあるが、困難も伴う。わたしは、受け取ったとする、自分の確信をまずは、疑うが、他者への役割、主のしもべとして生きるものの責任もあるのだろう。「しかし、私があなたと語るとき、私はあなたの口を開く。そこであなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者には聞かせ、拒む者には拒ませよ。彼らが反逆の家だからだ。」(27)ここで語らているのは、特別任務なのだろう。 Ezekiel 4:3 また自ら鉄板を取り、あなたと町との間の鉄の壁とし、顔を町に向けよ。こうして町は包囲される。あなたが包囲するのだ。これはイスラエルの家のしるしである。 エゼキエルはおそらく第一次捕囚のときに、民とともに、ケバル川(Wikipedia によると、バビロニアのニップル市付近の灌漑用運河)のほとりに連れてこられている。(1章1節)ここでは、最終的に、エルサレムが陥落、イスラエル、ユダ王国が滅ぼされることが預言されている。鉄板は意味が不明だが、大英博物館で見た粘土板によると、城壁のある街をせめるときは、大きな櫓を組み、そこから攻撃したようなので、そのようなことをイメージしているのかもしれない。このあと、イスラエルの家の過ちのために、390日、ユダの家の過ちのために、40日、一日は一年と言っているので、捕囚帰還までの年月なのだろうか。サマリア陥落は、BC721年、エルサレム陥落は、BC598/7年とBC586年、キュロスの治世第一年は、BC538年。ぴったりと合うわけではないが、エルサレム陥落から、帰還許可命令までは、だいたい48年、エレミヤが預言した、70年より近いと思った。まあ、そのようなことにとらわれるのは、あまり価値がないと思うが。 Ezekiel 5:5,6 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムである。私はこれを諸国民の中に置き、その周りに国々を置いた。エルサレムは諸国民よりも邪悪で、私の法に逆らい、周囲の国々よりも私の掟に逆らった。彼らは私の定めを拒み、私の掟に従って歩まなかった。」 おそらく、ユダヤでは、諸国民より邪悪だと言われるのは、非常にきつかったろう。いろいろと課題はあっても、近隣の部族、国、異邦人よりはマシだと。それを、はっきりと述べ、さらに「私は、周囲の諸国民の間で、また傍らを通るすべての者の目の前で、あなたを廃虚とし、恥辱とする。」(14)は、耐え得ないことだったのではないだろうか。エゼキエルはそれを告げる任務を負ったということなのだろう。 Ezekiel 6:14 私は彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒れ野からリブラに至るまで、彼らの住むすべての地をことごとく荒廃させる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」 結論は、救われることではなく「主が、主であることを知ること」だとある。それが、栄光を帰すということなのだろうか。神様は、そのような方なのだろうか。違うように、わたしは、思ってしまう。神様も、苦しんでおられるのではないかと。それは、正しくはないのだろうか。結論を急がず、求めていきたい。 Ezekiel 7:27 王は嘆き悲しみ/指導者は望みを失い/その地の民の手は震える。/私は彼らの行いに応じて彼らを扱い/彼らの法に従って彼らを裁く。/こうして/彼らは私が主であることを知るようになる。」 「私が主であることを知る」で検索をすると(訳にも依存するが、現在わたしが読んでいる聖書協会共同訳では)、まずは、出エジプト記7章・14章に合計4回あるが、いずれも、エジプト人が主語である。列王記上20章13節・28節では、主語はアハブ王である。エレミヤ24章7節には「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。」と一箇所記されている。それがエゼキエルには、49回現れる(最初は6章7節、最後は39章6節)、そしてこの章ではもう一箇所4節にある。エゼキエルに特徴的なメッセージである。主語は「あなたがた」「彼ら」で、他の箇所では、異教徒や、神を信じないひとが対象であったが、エゼキエルでは異なっている。今後も、この言葉を丁寧に読んでいきたい。 Ezekiel 8:17,18 その方は私に言われた。「人の子よ、あなたは見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしている忌むべきことは取るに足りないことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらに私を怒らせたからである。彼らは自分の鼻に枝を刺している。私は憤りに駆られて、憐れみの目を向けず、彼らを惜しまない。彼らが大声で叫んでも、私は耳を貸さない。」 この章で、エゼキエルが見たのは、基本的には、偶像礼拝であるが、引用句では「暴虐」という言葉でまとめている。おそらく、偶像礼拝は、偶像を拝むことに留まらず、主の御心、それを表した律法を、まったく関係ない、人間が作り出した掟に取り替え、暴虐を行うことを含んでいるのだろう。偶像礼拝をあまり、単純化して考えないほうがよい。考えること、学ぶことは多い。 2022.6.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  78. BRC 2021 no.078:エゼキエル書9章ーエゼキエル書22章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エゼキエル書を読み進めます。エゼキエル書はいかがですか。ホームページにあるエゼキエル書に関するわたしのノートをご覧になったかたはご存知かと思いますが「私はエゼキエル書が苦手」と二回ほど書いています。おそらく、聖書全体の中で、もう一つありますが、なかなか好きになれない書です。通読を続けている皆さまを、サポートするメールでこのようなことを書くことは適切ではないかもしれませんが、なぜ、苦手なのか少し考えてみようと思いました。そのような(苦手な)相手に出会った時、いつも考えているのは「あなたのことを教えて下さい」という態度で、その方のことを知ろうとすること、そしてなぜその方のことを苦手なのか「自分を省みる」ことだと思っているので。そして、おそらく、他の方からその方についてのコメントを聴くことも助けになるでしょう。みなさんからのコメントも楽しみにしています。 まず、「幻」という、その方と共有しにくいものから始まる(1章1節)ことでしょうか。他の箇所にも、幻でみたこと、または見た幻が何回か現れます。次に「祭司」の子の神殿、エルサレムに関する思いがなかなか理解できないことでしょうか。前回も少し書きましたが、通常であれば、三十歳から五十歳までが、祭司の務めの期間ですが、そのときに、エゼキエルは、捕囚の地にいます。祭司の家系に生まれた自分が造られた目的だとも言えるかもしれない職務ができないことの無念さが、私には、理解できないのかもしれません。まだ先(40章ぐらいから)になりますが、五十歳のころかと思われるときには、詳細な神殿や神殿の職務の詳細の幻が書かれている。そのようなことの大切さがなかなか私には理解できない。さらに、エゼキエル書の決め台詞「私が主であることを知るようになる」がたくさん書かれていますが、裁きと滅びに結びついて書かれている箇所が殆どで「知るようになる」主体がわからない。そして、エゼキエル書は、イザヤ書、エレミヤ書と同じぐらい長い。 消極的なことをたくさん書いてしまいました。異なる他者を理解すること、愛することがどれほど難しいかをわたしが感じているということなのかもしれません。この書を読む時に、エゼキエルさんと共に居ることができればと願っています。みなさんは、どうでしょうか。みなさんからのメッセージは、わたし自身のサポート、大きな力にもなっています。感謝しつつ。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エゼキエル書9章ーエゼキエル書22章はみなさんが、明日6月20日(月曜日)から6月26日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#el 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ezekiel 9:3,4 すると、ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光がそこから立ち昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「町のただ中、エルサレムの中を行き巡り、そこで行われているすべての忌むべきことについて嘆き呻く人々の額にしるしを付けよ。」 額に印のないものが殺されていくのだが、なにか虚しさを感じる。まずは、このように、厳密に分けることはできないだろうこと。街も、神殿も消滅するときに、することなのかどうかという疑問である。「腰に書記の筆入れを着けた者」など、なかなかリアルである。自分たちの惨めな状態、そして、その背後にある背き、正しさについてまず考えることとしては自然なのかもしれない。 Ezekiel 10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上、大空の上に、ラピスラズリに似た玉座のようなものの姿が見えた。 この章には、ケルビムについての記述が詳細に書かれている。祭司の子(1章3節)であるエゼキエルは、親や親戚からも、神殿の一対のケルビムについて聞いていたろう。ケルビム自体についての表現は、聖書には少ない。創世記3章24節「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。」出エジプト記11回、民数記7章89節、いずれも、神殿の契約の箱の上のケルビムと幕に織り込んだものの作成などについて、サムエル記4章4節、サムエル記下2回「ケルビムの上に座す万軍の主」(サムエル記下6章2節b)、列王記上13回、神殿を建てるときの記述、列王記下1回、歴代誌上2回、歴代誌下8回は、いずれも神殿を建てるときの記述、詩篇3回、イザヤ書1回「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。」(イザヤ37章16節)エゼキエル24回(9章・10章・11章・28章・41章) Ezekiel 11:16,17 それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった』と。それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。私はあなたがたをもろもろの民から集め、散らされていた先の国々から呼び集め、イスラエルの地を与える』と。 神殿・聖所を中心に書かれている。祭司になるはずだった、エゼキエルにとっては最大の関心事だったのかもしれない。引用句で、「主が、聖所となる」という表現が出てくるが、霊的な、より普遍的な礼拝を考えるべきときだったのかもしれない。そのあと、回復の預言とともに「私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(19)とあるが、正直、懐疑的である。少なくとも、エルサレム帰還のときに起こったことは、部分的。それでも、良いのかもしれないが。「あなたの信仰が救った」と言ってくださる方だから。 Ezekiel 12:18,19 「人の子よ、震えながらパンを食べ、不安におののきながら水を飲み、この地の民に言いなさい。『主なる神はエルサレムの住民、イスラエルの地にこう言われる。彼らは不安を抱きながらパンを食べ、恐れながら水を飲む。その地が、住民すべての暴虐のゆえに、地に満ちていたものを失い、荒れ果てるからである。 単に、パフォーマンスとして、自ら「震えながらパンを食べ、不安におののきながら水を飲(む)」のではなく、おそらく、心も、体も、エルサレムの住民、イスラエルの地と結びついていたのだろう。情報は、それなりに頻繁に入ってきていたのではないだろうか。(ネヘミヤ1章2節など)このあと「彼の見た幻は多くの日々の後のことであり、彼は遠い将来のことを預言したのだ。」(27b)という人々の声も書かれている。ケバル川のほとりにいても、捕囚の民のこころは、遠い地にあったのだろう。エゼキエルも、他の捕囚の民も、そのこころは、エルサレムにあったのかもしれない。 Ezekiel 13:2 「人の子よ、預言しているイスラエルの預言者たちに向かって預言しなさい。心のままに預言する者たちに『主の言葉を聞け』と言いなさい。 「主の言葉を聞け」はなかなか重いことばだ。「エルサレムに対して預言し、平和がないのに、エルサレムのために平和の幻を見るイスラエルの預言者たちよ――主なる神の仰せ。」(16)ともある。わたしたちは、平和だろうか。世界は平和だろうか。心のままに神の言葉として語ることの愚かさを感じる。聴く・見る内容にも、平和とはなにかにもよるのだろうか。 Ezekiel 14:9,10 もし預言者が惑わされて、言葉を語るなら、主である私がその預言者を惑わしたのである。私は彼に手を伸ばし、わが民イスラエルの中から滅ぼす。彼らは自分の過ちを負う。尋ね求める者の過ちは預言者の過ちと同じである。 すべてを主がご存知であるなら、預言者が誤ったことを語るときの、背後にも、主がおられると考えるのは、自然であるが、状況を理解するのはやはり難しい。ひとに、主は、任せ、手を出さず、自由を与えておられるのではないかと思う。自由がなければ、責任もないように思う。難しい判断だが。 Ezekiel 15:2 「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。 自分自身を異なる視点で見ると、取るに足らないものであることが理解できるとうことだろう。この章にも「私は彼らに顔を向ける。彼らが火から逃れ出ても、火は彼らを焼き尽くす。こうして、私が彼らに顔を向けるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」(7)とある。エゼキエルは、ここに最も大切なこと、神様の御心を見ているのだろう。 Ezekiel 16:14,15 あなたの美しさのために、名声は諸国民の間に広まった。あなたに施した輝きによって、その美しさが完全だったからである――主なる神の仰せ。ところが、あなたは自分の美しさに頼り、自分の名声のゆえに淫らな行いをした。通りかかる誰とでも淫行をし、その人のものとなった。 この章は長く、歴史も詰まっていて、それが象徴的な言葉で語られているので、十分は理解できないが、「私(主)」がすべてを与えたにも関わらず、その美しさに頼って、主から離れたということだろうか。自分自身について知ることは、自分がどこから来たかを見つめることでもあろう。恵みとして受け、それをどのようにお返しするか、考えてみたい。 Ezekiel 17:7 また、もう一羽の大鷲がいた。/大きな翼と豊かな羽毛を持っていた。/このぶどうの木は/根をこの鷲の方に向かって伸ばし/水を得ようとして/植えられた苗床から/枝をこの鷲の方に伸ばした。 この謎解き(11-18)を見ると、もう一羽の大鷲はエジプトのようである。最初に読んだ時、よくわからなかった。ぶどうの木などの栽培に精通していれば理解できるのだろうか。エゼキエルは、バビロンにおり、その勢いや、中東の状況は、エルサレムにいるよりも、情報が得られたのかもしれない。エジプトは、敗れることになる。ここで記述されていることとは、少し違う経緯をとるように思うが、エルサレムの人々にとっては、十分な警告だったのかもしれない。 Ezekiel 18:31,32 あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」 「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。」(21)「正しき者がその正義から離れて不正を行い、悪しき者が行うようなあらゆる忌むべきことを行うなら、彼は生きるであろうか。」(24a)このことは、公正であると書かれている。21節から29節は、同じ文章ではなく、順序も異なるが、ほとんど同じことが繰り返されている。その結びが、引用句である。中心的なメッセージは、エルサレムに向けられているのだろう。しかし「自ら新しい心と新しい霊を造り出せ」と言われても、国家の危機、おそらく、他国の侵略がもたらした経済的にも危機的状況の中で、新しい心、霊は造れるのだろうか。人間の弱さを主はご存知のはずである。苦しく、難しい。 Ezekiel 19:1,2 あなたは、イスラエルの指導者たちのために哀歌を歌い、言いなさい。/あなたの母は、獅子たちの中で/どのような雌獅子だっただろうか。/彼女は若獅子の間に伏し、子獅子たちを育てた。 正直、どのような具体的な歴史的背景があるのか、よくわからなかった。少しは、調べてもみたが、どれも、しっくり来るものではなかった。イスラエルの母(主だろうか)を、雌獅子(に譬えるならそれ)は、たくさんの、若獅子を育てたが、すべて、滅んでしまった。ぶどうの木(に譬えるならそれ)は、豊かに実を結び、多くの枝を茂らせたが「憤りによって」(12)引き抜かれ、地に投げ捨てられた。ということは、読み取れるように思う。「これは哀歌であり、哀歌となった。」(14)の部分だけ受け取ろう。無理な解釈をせずに。 Ezekiel 20:25,26 私もまた、良くない掟と、それによって生きることができない法を彼らに与えた。彼らがすべての初子に火の中をくぐらせたとき、私は彼らの供え物によって彼らを汚した。それは、彼らをおののかせるため、また彼らが私が主であることを知るためである。 驚くことが書かれている。すべてのことの背後に主がおられることをこのように表現しているのかもしれない。この章を読んでいると「第七年の第五の月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老のある人たちが、主に尋ねるためにやって来て、私の前に座った。」(1)ともあり、ある程度、自由が与えられていたことがわかる。ただし、この「イスラエルの長老のある人たち」が(第七年はBC591年と思われ、まだ完全には滅びていない(最後はBC586年)ので)エルサレムから来たのか、それとも、一回目の捕囚で、エゼキエルと同じ地域にいた人かは不明である。この章に「私が主」は五回現れ、エゼキエル全体で62回あるが、それなりに多い。 Ezekiel 21:29,30 それゆえ、主なる神はこう言われる。あなたがたの過ちを思い起こさせ、背きをあらわにし、そのすべての行いにおいて罪を明らかにするために、すなわちあなたがたが思い起こすために、あなたがたは敵の手に捕らえられる。悪に汚れたイスラエルの指導者よ、あなたの日が、終わりの刑罰の時にやって来た。 正直このような預言しかできないことが悲しい。一つは、イスラエルの指導者に批判の先を向けているが、一般のひとはどうなのだろうか。みなが、バビロンの侵攻を受ける。城壁の中に入らないものは、関係ないのか。世界史的には、大きな流れの中にもある。悪をしてあげつらっても、問題の解決には至らない。バビロンの人も含めて、互いに愛し合うようになることはできないにしても、その方向を模索することはできないのだろうか。現在の世界の状況を見ても同じことを思う。隣人との間でまずは、互いに愛し合うことを学びたい。「破城槌(battering ram)」という聞き慣れないことばで立ち止まった。聖書にはエゼキエル書のみ。他に4章2節・26章9節にある。外典のマカバイ二12章5節には「ユダたちは、ヨシュアの時代に破城槌や攻城機(siege engine)なしにエリコを陥落させた方、すなわち世界の偉大なる支配者に呼ばわってから、猛獣のように城壁を攻撃した。」とある。いずれ調べてみたい。大英博物館で見たレリーフを思い出すが、もう少し良く見ておけばよかった。Wikipedia には画像もあった。 Ezekiel 22:29,30 この地の民は虐待を行い、強奪をした。彼私の前で石壁を築き、その破れ目に立ち、この国を滅ぼさないようにする者を、私は彼らの中から探し求めたが、見つけることができなかった。らは苦しむ者や貧しい者を抑圧し、寄留者を不当に虐待した。 一般の人について書かれているようだ。しかし、最後は引用した悲しい文章で終わる。引用句のあとには「そこで私は、憤りを彼らの上に注ぎ、激怒の火によって滅ぼし尽くし、彼らの行いをその頭上に報いる――主なる神の仰せ。」(31)としてこの章を閉じている。正直悲しくなる。主イエスから学びたい。私達のあゆむ道を、エゼキエルとともに考えるために。 2022.6.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  79. BRC 2021 no.079:エゼキエル書23章ーエゼキエル書36章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エゼキエル書の後半を読み進めます。エゼキエル書はいかがですか。以前にも書きましたが、エゼキエル書には、第何年という記述があります。捕囚になったときからの年だと思われますが、それは同時に、南ユダ王国の最後の王、ゼデキヤの治世の年でもあります。エゼキエルは、ヨヤキン王とともに、バビロンに連れてこられたと思われますが、その次に立てられた王が、ゼデキヤだからです。そのゼデキヤの治世で考えると、ゼデキヤが、バビロンに反逆してエジプトに助けを求めた結果、ネブカデレザルに攻められ、エルサレムが包囲されるのが、第九年、陥落が十一年となります。第九年は24章に書かれ、第十一年は26章に書かれています。今回みなさんが読まれる箇所ではありませんが、40章には「我々が捕囚となって二十五年目」という記述もあります。三十年捕囚後五年目(1章1-3節)に幻を見たとエゼキエル書は始まりますが、それが、祭司の任につく三十歳だとすると、退任は五十歳ですから、それは二十五年目となります。捕囚の地バビロンにあっても、エゼキエルは神殿でではありませんが、祭司としてのたいせつな奉仕をしていたのかもしれません。 今回読む箇所には、エルサレムのこととともに、近隣の民族や、ティルス(他の訳ではツロ、26章から29章にかけて)やエジプト(29章から32章)に対する裁きについても書かれてあります。エジプトは、イスラエルにとって常に地理的に近い大国でしたから、バビロン侵攻のときも、エジプトに助けを求めたり、エジプトに逃げていったりといった記述がたくさんあります。ティルスは、海洋民族のフェニキア人の都市国家で、バビロンにも最後まで抵抗したようですが、滅ぼされてしまいます。しかし、この抵抗はかなり激しかったようで、ネブカデレザルが率いるバビロンにとっても、大きな打撃となったようです。世界史では、帝国の覇権やその中の重要な王がなしたことについて学ぶことが殆どかと思います。そのような時期に、滅ぼされる国の中でどのようなことが起こっていたか、滅ぼされた後、その国の人はどうなったのかは、あまり学びませんが、聖書には、限られた視点ではありますが、そのことが書かれているとも言えます。そしてエゼキエルは言います。「こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」空しく響くこともありますが、みなさんは、どのように受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エゼキエル書23章ーエゼキエル書36章はみなさんが、明日6月27日(月曜日)から7月3日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#el 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ezekiel 23:46-48 主なる神はこう言われる。彼らに向かって集団を攻め上らせ、彼女たちをおののきと略奪に委ねよ。集団は彼女たちを石で打ち、剣で切り、息子と娘たちを殺害し、家々を火で焼く。こうして私は、この地から恥ずべき行いを絶やす。すべての女たちは、自らを戒めて、あなたがたがしたような恥ずべき行いをすることはない。 オホラとオホリバに、サマリア(北イスラエル王国)と、エルサレム(南ユダ王国)にたとえた箇所である。淫行にふけることを女性をつかって表現しているのだろうが、現代的なジェンダー公平性から考えると、問題が背後にある。エゼキエルは、引用句からも、滅ぼされること、裁きを中心におきつつ「恥ずべき行いの報いはあなたがたの上に降り、あなたがたは自分の偶像による罪を負わなければならない。こうして、あなたがたは私が主なる神であることを知るようになる。」(49)最後は、このように結ぶ。悪の裁き、それをとおして、主の名が崇められることが中心である。読んでいてもつらい。 Ezekiel 24:1,2 第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日に、エルサレムを包囲した。 20章1節には、第七年とあり、それから二年後である。1章冒頭には五年目とあり、この第九年もヨヤキン王が捕囚(1回目)BC597年から数えているのかもしれない。すると、預言を始めた五年目(1:2)はBC593年。エルサレム完全降伏(BC586年)は、十二年目となる。第九年は二度目の陥落のときなのだろうか。この年に、エゼキエルの妻(?)が、おそらく捕囚の地でなくなっている。(16)歴史的な背景ももう少し詳しく確認しておきたい。 Ezekiel 25:5 私はラバをらくだの牧場とし、アンモン人の町を羊の憩い場とする。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。 この章では、アンモン人、モアブ、エドムそして、ペリシテと、近隣の民族への裁きについて書かれ、最後は、つねに、エゼキエルの決り文句「こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」(引用句後半および、11,17 参照)ただ、エドムに関しては「私はわが民イスラエルの手によって、エドムに復讐する。彼らが私に従って私の怒りと憤りをエドムに示すとき、エドムは私の復讐を知る――主なる神の仰せ。」(14)となっており、異なる。しかし、正直、近隣の人々の隣人になることを考えるべきで、自分たちについても、過去のことばかり考えるようでは、いけないと思う。エゼキエルの時代には、そのような視点はなかった、または未発達なのだろうが。そして、おそらく、現代でも、未知、無理解、未発達なものがたくさんあるのだろう。 Ezekiel 26:20,21 私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの民のところに下らせる。また、私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの廃虚のような地の底に住まわせる。あなたが生ける者の地に住むことも場所を占めることもないようにするためである。私はあなたを恐怖に陥れ、あなたはもう存在しなくなる。あなたは捜し求められても、もはやとこしえに見いだされることはない――主なる神の仰せ。」 ティルス、フェニキア人の都市国家についての厳しい言葉である。たしかに、かなりの抵抗のあと、バビロンによって滅ぼされ、歴史から姿を消したようだが、その理解だけで良いのだろうか。海洋民族だから、その人々は、その後も、生き残ったであろう。そして、ここに書かれているようなことは、たんなる仕返しでしかない。どのように、ともに生きることができるかを、考えるべきであると思う。なにか、エゼキエルを読んでいて、悲しくなってしまう。イエスの登場を待つしかないのだろうか。 Ezekiel 27:35,36 島々の住民は皆、あなたのことでおののき/王たちは身震いし、顔をゆがめた。もろもろの民の商人はあなたに対して/嘲笑の口笛を吹く。/あなたは恐怖の的となり/とこしえに消えうせる。」 この章は「人の子よ、あなたはティルスに対して哀歌を歌いなさい。」(2)と始まる。最後は、「嘲笑の口笛」ということばもあるが、全体的には、どれほど凄い都市国家であったかが、書かれているように思う。それは、おののき・身震い・顔をゆがめで、表現されているものにつながる。中東におけるバビロン侵攻は、当時の人達にとっても、驚くべきこと、その象徴が「あのティルス」が滅びるということだったのかもしれない。当時の世界をもう少しよく知りたい。 Ezekiel 28:2 「人の子よ、ティルスの君主に言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたの心は驕り高ぶり、『私は神だ。海のただ中にある神々の住まいに住んでいる』と言った。しかし、あなたは人であって、神ではない。自分の心を神々の心のように思っているだけだ。 このように断言できるのだろうか。ひとは、それぞれに、驕り高ぶり、みずからを神としている。ここでは、バビロンに攻められていることが背景にある。かなり持ちこたえ、歴史から姿を消すことになるようだが、それを、このようなところに、原因を求める神様ではないように思う。その弱さをも、よくご存知なのが主なのではないだろうか。憐れみ深い方なのだから。 Ezekiel 29:19,20 それゆえ、主なる神はこう言われる。私は必ず、バビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの地を与える。彼はその富を運び去り、略奪をほしいままにし、強奪する。それが彼の軍隊の報酬となる。彼の働いた報酬として、私は彼にエジプトの地を与える。なぜなら、彼らは私のために行ったからである――主なる神の仰せ。 この前には「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはその軍隊をティルスの攻撃のために大いに働かせた。皆の頭は禿げ、肩はすりむけた。しかし、彼にもその軍隊にも、その働きに対する報酬は、ティルスからは何もなかった。」(18)とあり、ティルス攻略はネブカドレツァルにとっても、大きな消耗であったことがわかる。エジプトはその報酬だ。背後に主なる神がおられるのだから、という。なにか、素直には受け入れられない。この章は次のことばで結ばれているが。「その日、私はイスラエルの家に一つの角を生やす。また私は、彼らの中であなたに口を開かせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」(21) Ezekiel 30:26 私がエジプト人を諸国民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは私が主であることを知るようになる。」 すこし疲れてきてしまっているが、当時は、エジプトに行けば、どうにかなるとイスラエルやエルサレムの人たちは思っていたようなので、これは、強烈なのだろう。おそらく、エジプトに住み着いていたユダヤ人もたくさんいたろう。それを頼ることは自然なこと。そのことに対する警告でもあるのかもしれない。しかし、一本調子に見えてしまう。これがエゼキエルが見えていたことだとすると、精神的には、本当に辛かったろうとも思う。 Ezekiel 31:1,2 第十一年の第三の月の一日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に言いなさい。/あなたの偉大さは、誰に比べられようか。 この章も第何々年の記述から始まる。正確にはわからないが、1章の記述から推定すると、捕囚となってからの年月のように思う。すると、第十一年は、おそらく、エルサレムが最終的に陥落、破壊され、ユダ王国が滅亡する年となる。ゼデキヤの治世は十一年「ゼデキヤは二十一歳で王位につき、十一年間エルサレムで統治した。母の名はハムタルと言い、リブナ出身のイルメヤの娘であった。」(列王記下24章18節)とあるので、計算は合う。この第七の月がエルサレムの城壁が破れたときである。この章はエジプトについて書かれているが、その偉大さから書き、最後は「そのようにあなたは、エデンの木のうちで、栄光と偉大さにおいて誰に比べられようか。あなたはエデンの木々と共に地の底に落とされ、無割礼の者たちのただ中で、剣で刺し貫かれた者と共に横たわることになる。これがファラオとそのすべての軍勢である――主なる神の仰せ。」(18)と結ばれている。「エデンの木々と共に」とあるが、エルサレム陥落を意味しているのだろうか。 Ezekiel 32:32 確かに、彼は生ける者の地に恐れを引き起こした。/ファラオとその全軍勢は、無割礼の者たちの間に/剣で刺し貫かれた者たちと共に横たわる/――主なる神の仰せ。」 エジプトに関する記述はとても丁寧である。イスラエルの人にとっての「大国」は常に、エジプトだったろうから、エジプトが破れて、滅ぼされることをどのように受け入れるかは、とても大きな問題だったろう。もうひとつ、「無割礼の者たち」が頻繁に登場する。イスラエル以外にも、周囲に割礼の慣習があったようだが、エジプトも割礼の慣習があったのだろうか。さらに、それが、宗教的な特別な意味をもっていたかなど、不明である。調べておきたい。"Circumcision likely has ancient roots among several ethnic groups in sub-equatorial Africa, Egypt, and Arabia, though the specific form and extent of circumcision has varied." (Wikipedia 訳 by DeepL:割礼は、赤道直下のアフリカ、エジプト、アラビアのいくつかの民族の間で古くから行われてきたようだが、その具体的な形や範囲はさまざまである。)「古代エジプトで紀元前2000年前に作られた王家の墓に手術の様子を書いた浮彫りがあり、術後のミイラもあります。」とネット上の記述がある。 Ezekiel 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に告げなさい。ある地に私が剣をもたらすとき、その地の民は自分たちの中から一人を選び、見張りとする。 この「見張り」については考えさせられる。教育を受けたもの、真理を受け取ったもの、周囲の人々に危険が迫っていると知ったものは、それを伝える責任を負うということである。世の中の人々が情報などについて均等に分配されていないことを考えると、当然なのかもしれない。まさに、相互性が必要である。コミュニケーション以上のものである。しかし、同時に、その責任が、有限であること、そして、それに人々は多くの場合耳を傾けないことも知っておくべきだろう。「人の子よ、あなたの同胞は、城壁のそばや家々の戸口であなたについて語り合い、一人一人、『さあ、行って、主から出る言葉が何かを聞こうではないか』と語っている。彼らは集団であなたのところにやって来る。私の民はあなたの前に座り、その言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。口ではお世辞を言うが、心は自分の利益を追い求めるからだ。」(30,31)これは示唆に富む。この状況を知っていれば、「心で自分の利益を追い求め」、「見張り」の役目をおろそかにするものも多いだろうから。 Ezekiel 34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者に預言せよ。預言して、彼ら、牧者に言いなさい。主なる神はこう言われる。災いあれ、わが身を養うイスラエルの牧者に。牧者は羊の群れを養うべきではないのか。 「牧者」に語りかけている。大きな群れの責任者、管理者、導き手ではなくても、家族であったり、グループのリーダー的存在であったり、ひとは、いろいろな場で、牧者の任務を負うことがあるだろう。一部であっても、その責任を負う。しかし、おそらくそれは、責任を問うことが主眼なのではなく、主と同労することを言っているのだろう。主は「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。」(16)と言われる。「あなたがたは私の群れ、私の牧草地の群れである。あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である――主なる神の仰せ。」(31)この主と、共に働くものでありたい。 Ezekiel 35:8,9 私はその山々を刺し貫かれた者で満たす。あなたの丘、谷、あらゆる涸れ谷で、剣によって刺し貫かれた者が倒れる。私はあなたをとこしえに荒れ果てた地とし/あなたの町には住む者がいなくなる。/その時、あなたがたは/私が主であることを知るようになる。 エゼキエルには「刺し貫かれた者」という表現が多いと思った。全体で、29件、この箇所が最後である。思い出すのは「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」(ルカ2章35節)シメオンがイエスが生まれ感謝を捧げる宮詣のときにヨセフとマリア(ここは「あなた」と単数なので、ルカ書であることを考えるとマリアだけかもしれない)に語った言葉にある。死に至る決定的ダメージを与えるという意味だろうか。エゼキエルのこの章はエドムに向けて語った言葉である。ここでも、エゼキエルの決め台詞「その時、あなたがたは/私が主であることを知るようになる。」で終わっている。「あなた方」が誰なのかも少し気になったが、やはり、エゼキエルはここまでしか言えず、希望は見えないように感じた。 Ezekiel 36:26,27 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。私の霊をあなたがたの内に授け、私の掟に従って歩ませ、私の法を守り行わせる。 イスラエルの回復が書かれている。主が顧み、捕囚から帰還し(8,9)民の数を増やし廃墟の町が建て直され(10)家畜が増え(11)昔よりも栄えるようになる。(11)しかし、内的に変えられることが語られている。希望をもたせる内容ではあるが、正直、これは主の望みであっても、これが主の御心ではないように思う。人に(完全とは言えないまでもある程度の)自由意志が与えられていることが、互いに愛することの鍵なのだから。難しい。 2022.6.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  80. BRC 2021 no.080:エゼキエル書37章ーダニエル書2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エゼキエル書の最後の部分を読み、ダニエル書に入ります。エゼキエル書はいかがですか。前回の繰り返しになりますが、1章2,3節と、40章1節を引用してみます。 ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、カルデア人の地、ケバル川のほとりで、祭司ブジの子エゼキエルに主の言葉が臨み、主の手が彼の上に臨んだ。(1章2,3節) 我々が捕囚となって二十五年目、その年の初めの月の十日、都が破壊されてから十四年目、まさにその日に、主の手が私に臨み、私をそこに連れて行った。(40章1節) 多少、不確定要素はありますが、エゼキエルは、祭司の子として生まれ、二十五歳でバビロンにつれてこられ、祭司の任につくべき三十歳から五十歳までの期間、バビロンにいたようです。捕囚となり、40章にある二十五年目は、五十歳のときとなります。おそらくエルサレムの帰還はできなかったでしょう。しかし、自分が祭司の家に生まれ、イスラエルの民を霊的に導き支える祭司としてのたいせつな奉仕を、主のことばを取りついでなしていたのでしょう。 今回みなさんが読む箇所には、回復と、神殿のことなどの幻などが書かれています。エゼキエルとの距離も感じますが、そこで生き、神に仕えたひとりの信仰者として、その苦しみと誠実さには、強い印象を受けます。みなさんは、エゼキエル書から、そしてエゼキエルという信仰者から何を学ばれたでしょうか。 ダニエル書から、旧約聖書の最後までは、あまり長くない書が続きます。そして、そのあと、新約聖書に入ります。ダニエル書はヘブル語聖書では、詩編、箴言、ヨブ記なとと共に「諸書(ケスビーム)」という分類に入っています。ダニエル書は、12章ですが、前半と後半にはっきりわかれ、前半の6章は、ダニエルとその友人たちの物語、後半の6章は預言となっています。特に、今回読む最初の部分は、物語で読みやすいのではないかと思います。上に、ヘブル語聖書ということばを使いましたが、実は、ダニエル書2章4節後半から7章の終わりまでは、アラム語で書かれているとのことです。言語学的には、ヘブル語は、アラム語の方言、アラム語は、当時の中東に共通語の一つだったようです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 エゼキエル書37章ーダニエル書2章はみなさんが、明日7月4日(月曜日)から7月10日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書とダニエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#el ダニエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#dn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Ezekiel 37:11,12 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの家のすべてである。彼らは、『我々の骨は枯れ、我々の望みはうせ、我々は滅びる』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私の民よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げ、イスラエルの地に導き入れる。 枯れた骨に霊を吹き込み、生き返ることが書かれている箇所である。これまで、滅びることと、「わたし(主)が主であることを知るようになる」を決め台詞のようにして、預言されてきた。それに対する反論と同時に「死んだらおしまい」ではない。神は、枯れた骨にも霊を吹き込んで生きるようのさせてくださる方だと語っているのだろう。このあとに、ユダとイスラエルの統一などが書かれ、回復のメッセージとなっているが、個人的には、素直には、受け入れられない。そこに真の解決はないと思うからだ。 Ezekiel 38:2,3 「人の子よ、メシェクとトバルの頭である指導者、マゴグの地のゴグにあなたの顔を向け、彼に向かって預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。 メシェクとトバルをよく知らないので、まずは聖書の中で調べてみた。まず、ノアの子孫の中に「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。」(創世記10章2節、参照:歴代誌上1章5節)歴代誌の記述にはセムの子としても書かれている。「セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラム、ウツ、フル、ゲテル、メシェク。」(歴代誌上1章17節)また、メシェクについては「ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。」(詩篇120篇5節)ともある。残りは、エゼキエル「ヤワン、トバル、メシェクは取り引きし、人と青銅の器をあなたの商品と交換した。」(27章3節)「そこには、メシェクとトバルとその全軍勢がおり/周りにはその墓がある。/彼らは皆、無割礼の者、剣で殺された者であり/生ける者の地で恐れを引き起こした。」(32章26節)あとは引用しているこの章の二箇所と「人の子よ、あなたはゴグに向かって預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。」(39章1節)以上である。よくはわからない。 Ezekiel 39:11 その日になると、私はイスラエルの中で由緒ある場所を墓地としてゴグに与える。そこは海の東の旅人の谷である。その墓は旅人を遮る。人々はそこにゴグとそのすべての軍勢を葬り、そこをハモン・ゴグの谷と呼ぶようになる。 「メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。」(1b)として、ゴグについて書かれているが、詳細はよくわからない。最後には、イスラエルの回復と「私が彼らをもろもろの民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は多くの国民の前で、彼らを通して自らが聖なる者であることを示す。こうして私は、彼らを諸国民の間に捕囚として送ったが、彼らを自分の土地に集めるとき、彼らは私が主、彼らの神であることを知るようになる。私はもはや彼らの一人をもそこに残さない。私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐ――主なる神の仰せ。」(27-29)とあるが、これは、ノアの洪水のときの繰り返しにならないのか。もう少し進んだ理解をする必要があるように思う。エゼキエルの状況と立場からにある程度縛られることは非難できないが。 Ezekiel 40:46 北を向いている部屋は祭壇の務めを行う祭司のためのものである。彼らはツァドクの子孫であり、レビ人の中で彼らだけが主に近づいて仕えることができる。」 この章は「我々が捕囚となって二十五年目、その年の初めの月の十日、都が破壊されてから十四年目、まさにその日に、主の手が私に臨み、私をそこに連れて行った。」(1)と始まる。神殿が破壊されたのは、ゼデキヤの治世が11年だから、十一年目か十二年目となるのだろう。正確な表現は難しい。いずれにしても、ある程度の年を経、おそらく、エゼキエルが、25歳ぐらいで捕囚になったとすると、50歳ぐらいである。祭司の勤めは三十歳から五十歳(民数記4章3節)とすると、祭司としての働きがかなわないと自覚したときだとも言える。神殿の構造は、個人的には、なかなか興味を持てないが、エゼキエルにとってはとても大切なものであったことは容易に想像がつく。どう向き合えばよいかは難しいが。 Ezekiel 41:6 脇間は、脇間の上に脇間があって三階建てになっており、各階には三十の脇間があった。神殿の壁には脇間のために周囲に突き出た所があり、支えになっていた。神殿の壁自体には、支えがなかった。 脇間について詳細に書かれている。ソロモン神殿にも書かれているのか気になって調べてみた。エゼキエル以外には「脇間」は三回記載されそれらは、「神殿の壁の周りには脇廊を造った。すなわち、外陣と内陣のある神殿の壁の周囲を囲むように脇間を作った。」(列記上6章5節)、「中の階の脇間へ通じる入り口は、神殿の右側にあり、螺旋階段で中の階に、さらに中の階から三階へ上るようになっていた。」(列記上6章8節)、「脇間は、各列に十五本ずつ、計四十五本の柱に支えられ、レバノン杉で天井が覆われていた。」列記上7章3節)おそらく、エゼキエルは父親などから聞いて、情報を持っていたのだろう。そうであっても、ここの記述が何を意味するのか、ソロモン神殿のものとは、何が同じで何が異なるのかは不明である。 Ezekiel 42:13 彼は私に言った。「神域に面した北の部屋と南の部屋はいずれも聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちがここで最も聖なるものを食べる。そこに彼らは最も聖なるものを置く。それは、穀物の供え物、清めのいけにえ、償いのいけにえである。この場所が聖なる所だからである。 エゼキエルが最後の仕事として書き残したのは、捕囚先での祭司の家系のものとして、祭儀が適切に行われるための神殿の設計図と祭儀の執り行い方だったのかもしれない。だれかが書き残さなければ失われる。改善ではないかもしれないが、そして、自分は、祭司の職についてはいないので、正確ではないかもしれないが、そうであっても、できる限りのことをしたように思う。わたしにもそのような事があるかもしれない。 Ezekiel 43:12 これが神殿の律法である。山の頂の周囲の領域は、すべて最も聖なるものである。これが神殿の律法である。」 この前には「もし彼らが行ったすべてのことを恥じるならば、神殿の設計と配置、その出口と入り口、そのすべての設計とすべての掟、そのすべての設計とすべての律法を彼らに知らせ、彼らの目の前で書き記しなさい。彼らがそのすべての設計とすべての掟を守り、それらを行うためである。」(11)とある。神殿建設には、無論、霊的な面がたいせつなのだろうが、ここでは、祭壇の詳細を書く前に、このことが述べられ、さらに引用句では「神殿の律法」ことばが二回用いられている。聖書でここだけである。祭司の家系のエゼキエルがたいせつにしたことなのだろう。 Ezekiel 44:4,5 それから彼は私を北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、主の栄光が主の神殿に満ちていた。私はひれ伏した。主は私に言われた。「人の子よ、主の神殿のすべての掟について、またそのすべての律法について、私があなたに語ることをすべて心に留め、目で見、耳で聞きなさい。あなたは神殿の入り口と聖所の出口すべてに心を留めなさい。 ここで主が登場する。主が住んでくださらなければ、神殿は神殿とならない。とはいえ、やはり人間の考える神、ほんとうにこれでよいのかは不安になる。おそらく、わからないとしても、できる限りのことをすることが、ひとのつとめとしているのだろう。ここにも「主の神殿のすべての掟」「その(主の神殿の)すべての律法」ということばが登場する。畏(おそ)れ畏(かしこ)むことと関係しているのだろう。人間の思いが、かえって、主との関係を絶ってしまっているようで心配にもなるが。 Ezekiel 45:1 「あなたがたがその地を相続地として分配するとき、その地の聖なる部分を献納地として主に献げなければならない。その長さは二万五千アンマで、幅は二万アンマである。この周囲の領域もすべて聖なる地である。 「献納地」はエゼキエル書だけで用いられていることばのようである。しかし、嗣業地を得ないレビびとのための放牧地は街の周囲に与えられていたので(民数記35章2節など)基本的にはその回復が書かれていると言えるが、正確にはわからない。そのあとには、6節から、町の共有地のような概念が書かれ、秤を適正なものを用いること、献納物と祭りについて特に、過ぎ越しの祭りについて書かれている。回復後もとに戻すこととともに、改善が示されているのだろう。 Ezekiel 46:18 指導者は、民の相続地を取り上げて、彼らの所有地で彼らを抑圧してはならない。民の所有地はその息子たちに相続させなければならない。それは、私の民の誰も、その所有地から散らされないためである。」 供え物について書かれてから、指導者の相続地について書かれている。土地所有は困難な課題で、民が捕囚から戻ったとしても、すでにそこに住んでいる人もおり、問題解決は簡単ではない。また、以前の分配が公平だったかも多くの争議が生じるだろう。ここでも、この件については、非常に短く書かれている。おそらく、主たるものは、引用句にある倫理面なのだろう。実際は、現在のパレスチナ問題と同様に、非常に困難だと思われる。 Ezekiel 47:8 彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。 このあとには「しかし、沢と沼は癒やされず、塩を取ることができる。」(11)ともある。流れるものと、そこに留まっているものの違いを示唆しているとも取れる。しかし、塩を取ることができるという表現から、他の役割があると理解することも可能である。おそらく、この章の中心は後半の、土地の分配の部分なのだろうが、エゼキエルもこの幻からいろいろと考えたろう。神殿から流れ出る水、川となり、深くなっていき、海に注ぐ。おそらく、完全な答えは得られなかったろうが、エゼキエル書の最後にある記述として、印象深い。 Ezekiel 48:8 ユダ族との境界に沿って、東端から西端までは、あなたがたが献げる献納地にしなければならない。その幅は二万五千アンマ、その長さは東端から西端まで割り当て地の一つと同じで、その中央に聖所がある。 正確には地名など知らないものが多くよく調べないとわからない。すこし単純化されているようだが、基本的に分配地は、ヨシュアのときと大きくは変わらないのかもしれない。ただ、実際には、ユダ、ベニヤミンと、レビ以外は、ユダ王国に住んでいた、少数を除き、アッシリアによる捕囚により、混血も含め、殆ど失われてしまっているだろうから、このような復古が適切なのかは、不明である。捕囚の民の困難は、そのようなところにも、あるのだろう。宗教としても、大きな転換点であったように思う。 Daniel 1:7,8 宦官の長は彼らに名前を与え、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。しかし、ダニエルは王の食事と王が飲むぶどう酒によって自らを汚すまいと心に決め、自分を汚さないでほしいと、宦官の長に頼んだ。 「ユダの王ヨヤキムの治世第三年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに進軍し、これを包囲した。」(1)と始まる。このときには、エゼキエルも含め、様々な形でバビロンに連行された人たちがいたということだろう。いままで何気なく読んでいたが、宦官(去勢を施された官吏)の長に委ねられたということは、去勢手術を受けたのかもしれないと思った。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。」(申命記23章2節)「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。」(口語訳:申命記23章1節)ともあり、少なくとも、宦官の長のもとに居ることだけでも、ダニエルたちにとって、屈辱だったかもしれない。ネット上で名前を調べると、ベルテシャツァル:"Bel hath hid and treasured, the keeper of his treasures"、シャドラク:"tender pap or breast, king's messenger"、メシャク:"of Shach, a name of a god or goddess of the Chaldeans"、アベド・ネゴ:"a servant, or worshipper of Nego, shining brightness"。もう少し丁寧に調べる必要があるが、異教の神に関係した名前のようにも思われる。それなりに王に仕えるにふさわしい名前にされたのだろう。 Daniel 2:24 そこでダニエルは、バビロンの賢者たちを殺すために王が立てたアルヨクのもとに行き、こう言った。「バビロンの賢者たちを殺さないでください。私を王様の前に連れて行ってくだされば、私が王様に解釈を示しましょう。」 ダニエルの思慮深く賢明な対応(14)が書かれている。まずは、王の権威を担ったアルヨクに事情を聞いている(15)時間の猶予を願い(16)仲間と情報を共有して心を合わせて祈り(17,18)啓示に対して主をほめたたえ(19-23)そして、引用句のように、賢明に行動している。そのことが、アルヨクによって王に適切に取り次いでもらうことにつながったのだろう。ダニエル書の成立は謎が多いようだが、捕囚先で様々な関係を用いながら行動する人たちの知恵に満ちていることはたしかである。明るさも感じる。史実かどうかよりも、たいせつなことが含まれているように思われる。 2022.7.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  81. BRC 2021 no.081:ダニエル書3章ーホセア書4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ダニエル書を読み、次の、ホセア書に入ります。前回も書きましたが、ダニエル書全12章の前半の6章は、ダニエルとその友人たちの物語、後半の6章はダニエルが見たとされる幻、夢を書き記した(ダニエルが生きた時代からみて)将来に関する記述となっています。わたしは、これまで、物語は、英雄伝であるとともに、伝説として、誇張した記述になっているのではないかとか、将来に関する記述は、それぞれ歴史上のどのような国や王に対応するのだろうかと考えながら、読んでいました。しかし、ダニエルというおそらく当時有名だった智者の名前を冠して書かれていますが、すくなくとも、バビロンなどに捕囚の民として連れて行かれたひとたちが、どのような生活をし、どのような困難の中で、信仰を守ろうとし、かつ、神様の御心を求め続けていたかの記録、そして、また、中東の各地に散らされた民へのメッセージが書かれているようにも思い、今回は読んでいました。皆さんは、どのように読んでおられますか。そして、どう思われるでしょうか。 ホセア書からは、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、そして、旧約聖書の最後のマラキ書まで、それほど長くない預言書が続き、十二小預言書と呼ばれています。正直、わたしも、一つ一つの書について十分な知識を持っているわけではありません。下にもリンクがある、各書について書いてある箇所には、その当時学んだことが簡単に書かれていますのでお時間のあるときに、参照してください。 ホセア書はかなり衝撃的な言葉(1章1節〜2節)で始まります。 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世と、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。主がホセアに語られた初め。/主はホセアに言われた。/「行って、淫行の女をめとり/淫行の子らを引き取れ。/この地は甚だしく淫行にまみれ/主に背いているからである。」 わたしの聖書ノートにもこの箇所が引用され、王たちの治世の年代も書いてありますから、背景については参照してください。このあと、こどもたちの名前も、イズレエル(神が蒔く、肥沃な地域の名前)、ロ・ルハマ(憐れまぬ者)、ロ・アンミ(わが民ではない)と書かれ、上に書いた箇所にも「淫行の子らを引き取れ」とありますから、もしかすると、ホセアの子ではないのかもしれません。しかし、いずれにしても、このあとに、祝福のことばも書かれていますから、こどもの成長を見ながら、ホセアもいろいろのことを学んでいったのかもしれないなと、すこし、引いた(よく言うと「冷静な」「距離をおいて」悪くいうと「冷めた」)感じで今回は読みました。北イスラエルと、南ユダに分裂していた時代、南ユダにエルサレムがあり、神殿で礼拝が捧げられ、北イスラエルには、子牛の像があり、それを代わりに拝むようにと、一部されていたようですが、特に北イスラエルの状況については、よくわからない面が多いのですが、預言者がそこに何人も残っていたことが、この十二小預言書を読むとわかります。ホセアもその一人なのでしょう。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ダニエル書3章ーホセア書4章はみなさんが、明日7月11日(月曜日)から7月17日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ダニエル書とホセア書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ダニエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#dn ホセア書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ho 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Daniel 3:12 ここに、あなたがバビロン州の行政官に任命したユダヤ人たちがおります。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴです。王様、この者たちはあなたの命令を無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みません。」 ここに書かれていることと似たケースはたくさん生じていたろう。その一例をあげたに過ぎないように思う。すこし、尾ひれがついたかもしれないが。行政官として仕える人も含め、様々な生き方が始まっている捕囚の地でのユダヤ人の生活は、とても、チャレンジングだったろう。ここにある英雄的な行為だけではなく、苦悩のなかで、生きることと、主を愛することについて生き抜いていった人たちとともに生きることができればと願う。現代に生きる、私たちのチャレンジについてもていねいに考えてみたい。 Daniel 4:23,24 また、木の根株は残しておけと命じられていたように、天が支配するということを知るならば、あなたの王国は維持されるでしょう。ですから、王様、私の勧告をお受けになり、正義を行うことによってご自分の罪から離れ、貧しい者を憐れむことによってご自分の過ちから離れてください。そうすれば、あなたの安泰は続くでしょう。」 ネブカドネツァル Nebuchadnezzar II(BC634-BC562, 在位:BC605 - BC562)については、ある程度わかっているようだが、この失権については、一般的な記録はないようである。七つの時は七年ととるのが間違いなのかもしれない。ここでは、悔い改めとともに、貧しい者を憐れむという、おそらくユダヤ教の価値観が強く現れているように思う。ダニエル書の成立にも関わることだが、史実性は薄いのかもしれない。絶対君主が、長期間王位から離れれば、国が混乱するのは明らかだから。もう少し、歴史も学んでみたい。見えてくることがあるかもしれない。 Daniel 5:12,13 王様がベルテシャツァルという名を与えたこのダニエルには、優れた霊、知識、さらに夢を解釈し、謎を解き、難問を解決する洞察力が備わっていました。ですから、今、ダニエルをお召しください。彼ならその解釈を示すでしょう。」そこで、ダニエルが王の前に召し出された。王はダニエルに言った。「お前が、わが父王がユダから連れて来たユダの捕囚の一人、ダニエルか。 ダニエルのことを告げた王妃の言葉と、ダニエルに語り始めるベルシャツァル王の言葉である。王の様子が「王の顔色は変わり、さまざまな思いにかき乱された。腰の関節は緩み、膝は震えて互いに打ち合った。」(6)とあり、大声で賞与の大きさを叫ぶなど、すでに、常軌を逸しているので、ことさら書くことではないかもしれないが、引用句では、ダニエルを「ユダの捕囚の一人」と呼んでいる。そして、報奨について繰り返す。ダニエル書によると、この日に殺されるようだが、悲しい姿が描かれている。ダニエルは、正しいことを告げる以外に何もできなかったのだろうか。 Daniel 6:27,28 私は命じる。わが王国の全領土においては、ダニエルの神を畏れかしこまなければならない。/この方こそ、生ける神であり、とこしえにおられ/その王国は滅びず、その支配は果てしなく続く。この方は救い主、助け主。/天にも地にも、しるしと奇跡を行い/獅子の手からダニエルを救い出された。」 「王は、ダニエルを中傷した者たちを連れて来させ、彼らをその妻子と共にライオンの穴に投げ込むように命じた。」(25a)などが気になるが、おそらく、引用句が、ダニエル書の一つの目的がこれらの言葉だったように思う。あとは、伝聞の中で誇大になっていった表現なのだろう。最後は引用句に続いて「このダニエルは、ダレイオスの治世とペルシア人キュロスの治世において功を遂げた人物であった。」(29)と閉じられている。これが、ダニエル書の前半の終わりの句である。 Daniel 7:17,18 「これら四頭の大きな獣は、地に興る四人の王である。しかし、いと高き方の聖者たちが王国を受け継ぎ、永遠に、代々限りなくその王国を保持する。」 「バビロンの王ベルシャツァル(Belshazzar was the son and crown prince of Nabonidus (r. 556–539 BC), the last king of the Neo-Babylonian Empire.)の治世第一年に、ダニエルは夢を見た。それは寝床で頭に浮かんだ幻であった。彼はその夢を書き記し、概要を次のように語った。」(1)と始まる。この章から、幻がはじまる。最初にかかれているように「概要」なのだろう。どのように受け取るか「私ダニエルの、内にある霊は憂え、頭に浮かぶ幻が私をかき乱した。」(15)とも書かれている。ついつい幻によって預言された内容の真偽を問いたくなるが、ダニエルの姿から、学ぶほうが自然なのかもしれない。ネブカドネザルのあと、何人か王がたったようだが、暗殺、クーデターなど混乱もあったようだ。そのようは不安定な時期を背景としているのかもしれない。 Daniel 8:27 私ダニエルは疲れ果て、何日か病に伏したが、その後起きて、王宮の務めを行った。あの幻について私は驚くばかりで、理解できずにいた。 「メディアとペルシアの王」(20)「ギリシアの王」(21)と書かれている。預言については理解が難しいが、ダニエル自体について少し調べてみることにした。旧約聖書には、何回かダニエルという名前が登場する。おそらく、特殊な名前ではなかったのだろう。エゼキエルには、三回現れ(エゼキエル14章14節、20節)最後はティルス預言に関係して「確かに、あなたはダニエルよりも知恵があり、いかなる秘密もあなたには隠されていない。」(エゼキエル28章3節)と書かれている。エゼキエルに登場するダニエルは、ダニエル書に書かれているダニエルのようである。このダニエル書がそのダニエルによって書かれたかどうかは別として、引用句にある「理解できずにいた」という Researvation(保留)の表現が入っていることには、共感を持つ。ていねいに冷静に読んでいきたい。 Daniel 9:18,19 わが神よ、耳を傾けてお聞きください。目をお開きください。私たちの荒廃とあなたの名が呼ばれる都とを御覧ください。そうです、私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。主よ、お聞きください。主よ、お赦しください。主よ、心を向けて御業を行いください。わが神よ、ご自身のゆえに救いを遅らせないでください。そうです、あなたの都でも、あなたの民の間でも、あなたの名は呼ばれているのですから。」 ダニエルたちが捕囚としてバビロンに来たのは、BC605年、二度目のエルサレム陥落は、BC597年、最終的な陥落は、BC587年である。しかし「ダレイオスの治世第一年のことである。メディア出身で、クセルクセスの子であるダレイオスは、王となってカルデア人の王国を支配していた。」(1)は、正確にかかれていない。Darius the Great アケメネス朝ペルシャのダリウス大王とすると、BC522 であるが、それは、キュロス(Cyrus the Great: BC559-BC530)の三代後である。もう少し歴史を理解しておかないと、理解したいことに行く前にたくさんの時間を使ってしまう。ここで言われているのは、キュロスのときのことではないと理解しておこう。七十年(2)よりも、引用句の方に価値があるように思う。 Daniel 10:20,21 そこで、彼は言った。「なぜ私があなたのところに来たか、分かるか。今、私はペルシアの天使長と戦うために帰る。私が出て行くと、ギリシアの天使長がやって来る。しかし、私は真理の書に記されていることをあなたに知らせよう。あなたがたの天使長ミカエルのほかに、彼らに対抗して私と共に奮い立つ者は一人としていない。 年表を作成しないとわからないが、世界史的には、何度も、ペルシャがギリシャを攻め、大きな戦いがあった時代である。それがこの背景にもあるのだろう。世界はどうなるのかという不安とともに、ギリシャとペルシャの交流もあったようで、大帝国があれば、国際交流も盛んになる。国際状況が変化しているときなのだろう。 Daniel 11:2 今、私はあなたに真理を告げよう。見よ、なお三人の王がペルシアに立つ。四人目の王は誰よりも莫大な富を得る。彼がその富によって力を得たとき、すべての者を奮い立たせ、ギリシアの王国に向かわせる。 このあと、詳細な預言(?)が書かれている。正直、これが事実であっても、そうでなくても、あまり興味がわかない。一つには、すでに、現在から見れば、終わってしまっていることで、また、神様のこころ、真理をしることにあまり関係していないと思うからである。ダニエルというひとの凄さを後の人に表現することにはなるかもしれないが。 Daniel 12:9,10 彼は答えた。「ダニエルよ、行け。これらのことは終わりの時まで秘密にされ、封印される。多くの人々が清められ、純白にされ、精錬される。悪人は悪をなすが、悪人は誰も理解しない。しかし、悟りある者たちは理解する。 今回、ダニエル書を読んで、なにか満たされない気持ちを感じた。ダニエルの7章以降の後半部分を、いつか丁寧にまなぶことはあるのだろうか。ただ、ダニエル書記者を批判するつもりはない。「あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう。」(13)には、共感するからである。聖書はむずかしい。 Hosea 1:1,2 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世と、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。主がホセアに語られた初め。/主はホセアに言われた。/「行って、淫行の女をめとり/淫行の子らを引き取れ。/この地は甚だしく淫行にまみれ/主に背いているからである。」 不思議な、かつ違和感がある始まりである。まず王の名、ユダとイスラエルの王の名が併記されている。在位期間も資料によって異なるが、ユダの王、ウジヤ(BC774-BC748)、ヨタム(BC748-BC732)、アハズ(BC732-BC716)、ヒゼキヤ(BC716-BC698)、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアム(BC789-BC748)、そしてアハズの時代のBC722 に北イスラエルの首都サマリア陥落。年代的にバランスがとれていない。また「淫行の子ら」と書いてあるが、このあと「そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。」(3)とあり、父親の名前も記されている女性と結婚し、こどもが生まれている。名前は、実際にこの名前だったのかは不明だが。イズレエル(神が蒔く、肥沃な地域の名前)、ロ・ルハマ(憐れまぬ者)、ロ・アンミ(わが民ではない)。 Hosea 2:24,25 地は、穀物と新しいぶどう酒/新しいオリーブ油に答え/それらはイズレエルに答える。私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマを憐れみ/ロ・アンミに向かって/「あなたはわが民」と言う。/彼もまた言う。「わが神よ。」 一見、眉を潜めたくなる名前をつけているが、ここでは、それが祝福と変えられることが書かれている。「イズレエルの日は、大いなるものとなる。」(2)ロ・アンミ(わが民でない者)は、「生ける神の子ら」と呼ばれるように(1)「アンミ(わが民)」と言え(3)「ロ・ルハマ(憐れまぬ者)」ではなく「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。実際の名前かどうかはわからないが、こどもの成長を見る中で、神の祝福の信仰に至ったのかもしれない。希望をもったということだろうか。むろん、よくはわからない。なかなか、通読ではじっくり読むことはできない。 Hosea 3:3 私は彼女に言った。「あなたは長く私のもとで過ごし、淫行をせず、ほかの男のものになってはならない。私もまた、あなたに同じようにしよう。」 主の言葉「行って、ほかの男に愛され、姦淫を繰り返す女を愛せよ。」(1)から始まる。主と同じ経験ということだろうが、これだけでは、あまりに、不明なことが多い。特に、女性のことばが書かれていない。あまりに、現代的な考えなのだろうか。難しい。 Hosea 4:14 だが、娘たちが淫行にふけっても/嫁たちが姦淫をしても、私は罰しない。/男たちも遊女らと一緒になって離反し/神殿娼婦らと共にいけにえを献げるからだ。/悟りのない民は滅びる。 最後のことばは強烈である。しかし、この次の節は「イスラエルよ、あなたが淫行にふけっても/ユダに罪を犯させてはならない。/あなたがたはギルガルに赴くな/ベト・アベンに上るな。/「主は生きておられる」と誓うな。」(15)となっている。この時点では、ユダにはまだ望みがあると思われていたのだろう。しかし、このように考えることができるのは、この時代が最後なのかもしれない。大国が押し寄せる日は迫っている。 2022.7.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  82. BRC 2021 no.082:ホセア書5章ーヨエル書4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ホセア書を読み、次の、ヨエル書を読みます。ヨエル書は実は「翻訳によって章の数が異なるため、毎日二章ずつ読んでいるとどの翻訳を読んでいるかによって一時的に読む箇所が変わります。あまり気にしないで二章ずつ読み進めて下さい。新共同訳ではヨエル書が4章、口語訳や新改訳では3章です。ただ、旧約聖書の最後のマラキ書が今度は新共同訳が3章で、口語訳や新改訳は4章です。」ということで、旧約聖書が終わり、新約聖書を読むときは、また同じ箇所を読むことになります。今回わたしは、聖書協会共同訳を読んでいますが、こちらも、共同訳と同じ4章ですので、そちらのペースでこのサポートメールを書かせていただきます。ご容赦ください。翻訳によると書きましたが、その底本に依存すると書くほうが正確でしょう。興味のある方は少し調べてみてください。(参照:日本聖書協会 https://www.bible.or.jp/know/know29.html, 新日本聖書刊行会 https://www.seisho.or.jp 等) ということで、口語訳、新改訳を読んでおられる方にとっては、今週は、ホセア書5章ーアモス書1章となります。 それぞれの書の背景を書けるとよいのですが、正確には不明なこともおおく、学者の中でもいろいろな議論があるようですから、以下に書くことも、大雑把にこんなものかぐらいに考えてください。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルについては、すでに書きましたが、大雑把に、サマリヤ陥落(BC722)までの期間。このあとには、エルサレムも陥落の危機に瀕します。そして、エルサレムの最終的な陥落(BC586年)その前にも、エルサレムの一回目の陥落(BC597)があり、エゼキエルなどが捕囚になったのでした。また、ペルシャのクロス(二世)によって帰還が許されるのは、BC538で、それから少しずつユダヤに帰還していきます。そこで、四つにわけるとこんなことになるかと思います。書いていて自信がないものがいくつもあります。修正など、ご指摘があれば、教えて下さい。年代不明の書もありますが、一応書いてみます。背景を大雑把にとらえて読みすすめるためです。 1. アッシリアによってサマリヤが陥落し北イスラエル王国が滅亡し、南ユダも攻められるまでの期間:イザヤ、ホセア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、後半にミカ 2. バビロンによってエルサレムが陥落し、南ユダ王国が滅亡するまでの期間:イザヤ、ホセア、ミカ、後半に、エレミヤ、ナホム、ハバクク、ゼファニア、エゼキエル、ダニエル 3. ペルシャの王クロスの勅令により少しずつエルサレム周辺に帰還するまでの捕囚期間:エゼキエル、ダニエル、(エステル) 4. 帰還後の時代:ハガイ、ゼカリヤ、マラキ、(エズラ、ネヘミヤ) 少し、書いてみたのは、十二小預言書(ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書)が、歴史的にも、大きな変動の時代、イスラエル、ユダヤ民族としては、信じられないような危機に瀕する時代だといことを覚えながら読んでいただきたいからです。神様との関係は、どのようなもので、神様の憐れみはなになのか、滅びを目の前にして、救いはあるのか。回復は、主の日といわれるものは、これらを真剣に考え、民に伝えた人たちということでしょう。わたしたちは、歴史自体をある程度知っているわけですが、そうであっても、この方たちとともに、考え、神様の御心、真理を求めることができればと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ホセア書5章ーヨエル書4章はみなさんが、明日7月18日(月曜日)から7月24日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ホセア書とヨエル書とについては、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ホセア書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ho ヨエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jl 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Hosea 5:14,15 私はエフライムには獅子となり/ユダの家には若獅子となる。/ほかならぬこの私が引き裂き、奪い去り/誰も救い出す者はいない。私は行って、自分の場所に戻っていよう。/彼らが罪を認めてわが顔を尋ね求め/苦境にあって私を探し求めるときまで。 ここに書かれていることよりもたいへんなことが起ころうとしている。まだ、ホセアのころには、希望があったのだろうか。しかし、北イスラエルは、分裂時からすでに、危機的な状況であるように思うが。北イスラエルで活躍していた、預言者集団についていつかまとめて学んでみたい。 Hosea 6:3 我々は知ろう。/主を知ることを切に求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/雨のように我々を訪れる。/地を潤す春の雨のように。 このあとの、北イスラエル、南ユダのことを知っていると、なかなか素直に受け入れられないが、それでも、この言葉は、印象深い。当時のひととわたしたちをつなぐ、信仰のきづなのようなものだろうか。主への信頼だろうか。そう単純ではないけれども。 Hosea 7:6,7 彼らはかまどのように/自分たちの心を陰謀に近づける。/彼らのパンを焼く者は夜には眠り/朝には炎のように燃え盛る。彼らは皆、かまどのように熱くなって/その支配者たちを食い尽くした。/彼らの王たちは皆倒れた。/それでも、彼らの中に私を呼ぶ者は一人もいない。 「かまど」の比喩がよくわからない。この前に「彼らは皆、姦淫を行う者/燃えるかまどのようだ。/パンを焼く者は生地をこね/それが膨らむまでは、かまどの火をかき立てない。」(4)とあるので、通常は、かまどには、いつも火が入っているわけではなく、たとえばパンを焼くときには、発酵のために待つ時間があるはずだと言っているのだろうか。それを、ひっきりなしに、火を炊く。しかし「彼らはかまどのように/自分たちの心を陰謀に近づける。/彼らのパンを焼く者は夜には眠り/朝には炎のように燃え盛る。」(6)をみるとそうではないようだ。メッセージはその次にある。「彼らは皆、かまどのように熱くなって/その支配者たちを食い尽くした。/彼らの王たちは皆倒れた。/それでも、彼らの中に私を呼ぶ者は一人もいない。」(7)結局よくわからない。神様の Give me a break! かな? Hosea 8:13,14 彼らは私の贈り物をいけにえとして献げるが/肉を食べるのは彼らであって/主はそれを喜ばれない。/今や、主は彼らの過ちを心に留め/その罪に罰を下される。/彼らはエジプトに帰るほかはない。イスラエルはその造り主を忘れ/宮殿を建て連ねた。/ユダは城壁に囲まれた町を多く築いた。/私はそれらの町に火を放ち/火は城郭をなめ尽くす。 イスラエルとユダについて批判が書かれている。イスラエルにおいては、霊的ではない礼拝。ユダにおいては、主に信頼せず、城壁のような物理的なものに信頼をおいているということか。正直、わたしには、よくわからない。時代的に、超大国が中東に興り、覇権を争う時代になっている。それをどう受け止めるかは、簡単ではないように思う。主の平安はどのようにしたら得られるのだろうか。 Hosea 9:8 エフライムを見張る者はわが神と共にある。/だが、預言者は彼の行く道すべてに/鳥を捕る網を仕掛け/彼の神の家には敵意が満ちている。 「彼らは主の地に住むことなく/エフライムはエジプトに帰り/アッシリアで汚れたものを口にする。」(3)はサマリアの陥落、アッシリアへの捕囚を想起させる。エジプトに行った民は多かったのだろう。しかし、捕囚を明確には語っていないということは、それが起こる以前に書かれたということだろうか。引用句の「エフライムを見張るもの」とは誰だろうか。どのようなものだと想定しているのだろうか。天使のような存在を考えていたのか、守護神のようなものが考えられていたのか。預言者は、その声を聞き、仕えることが必要なのだろう。そして、ホセアもそのような預言者に苦しめられていたのかもしれない。 Hosea 10:6 子牛はアッシリアへ運ばれ/敵対する王への貢ぎ物となる。/エフライムは辱められ/イスラエルは謀を恥じる。 5節には「サマリアの住民は/ベト・アベンの子牛のゆえにおののく。/民はそれについて嘆き悲しみ/神官たちは身を震わせる。/栄光が取り去られたからだ。」ともある。子牛については、聖書に様々な記述がある。モーセの時代にアロンが関係して作成したもの(レビ記23章33,34節)そして、ここで言われているのは、ヤロブアムが作ったものだろう。「王は周囲に助言を求めたうえで、二体の金の子牛を造り、そして言った。『あなたがたがエルサレムに上るのは大変である。イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った神々である。』」(列王記上12章28節)「ヤロブアムはユダでの祭りと同じく、第八の月の十五日に祭りを執り行った。そして自分が造った子牛にいけにえを献げるため、ベテルに造った祭壇に上った。また、自分が造った高き所のための祭司をベテルで任命した。」(列王記上12章32節)北イスラエルの象徴だったのだろう。 Hosea 11:8,9 エフライムよ/どうしてあなたを引き渡すことができようか。/イスラエルよ/どうしてあなたを明け渡すことができようか。/どうしてアドマのようにあなたを引き渡し/ツェボイムのように扱うことができようか。/私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。私はもはや怒りを燃やさず/再びエフライムを滅ぼすことはない。/私は神であって、人ではない。/あなたのただ中にあって聖なる者。/怒りをもって臨むことはない。 実際には、エフライム、北イスラエルは、完全に崩壊する。しかし、このような憐れみのこころが記されていることは、興味深い。主の御心を知ることは、主の苦しみと憐れみを知ることなのだろう。 Hosea 12:1,2 エフライムの欺きと/イスラエルの家の偽りが私を囲んだ。/だがユダはなお神と共に歩み/聖なる者たちと共に忠実である。エフライムは風を養い/一日中東風を追い/虚偽と暴虐を増す。/アッシリアと契約を結びながら/エジプトに油を贈る。 北イスラエルから見ると、ユダは神と共に歩んでいるように見えるのだろう。比較的ということなのだろうか。引用句の後半には「アッシリアと契約を結びながら/エジプトに油を贈る」ことが批判され「あなたはあなたの神に立ち帰れ。/慈しみと公正を重んじ/絶えずあなたの神を待ち望め。」(7)と倫理的なことが語られている。外交は、やはり大切なことだと思う。むろん、それで解決するわけではないが。内向きに自分を正していれば、偽善的な自己満足は得られても、異質な他者と互いに愛し合うことはできない。 Hosea 13:5,6 荒れ野で、乾いた地で/私はあなたを知った。養われて、満ち足りると/その心は高ぶり/彼らは私を忘れた。 様々な原因を、霊的なこと、倫理的なことに求めているように感じる。そのことがたいせつなことは事実としても、世界の課題は、それだけを考えればよいことではない。特に、当時の世界状況の変化、そして現代のように、国際状況の複雑さ、地球規模、ひょっとすると宇宙規模での、変化。そのある部分は、ひとは、知ることができるようになっている。それも、神様が知らせてくださっているものとして丁寧に受け取る必要があると思う。このことを一つのテーマとして学んでいきたい。 Hosea 14:3,4 あなたがたは言葉を用意し/主に立ち帰って、言え。/「どうぞ罪をすべて赦し/良いものを受け取ってください。/私たちは唇の実を献げます。アッシリアは我々の救いとはなりません。/我々はもはや、馬には乗りません。/自らの手の業にすぎないものを/私たちの神だとは二度と言いません。/ただあなたによってこそ/みなしごは憐れみを受けるのです。」 ここに、ホセアのメッセージがあるのだろう。このあとには、回復・恵み・救いのことばが続く。しかし、ほんとうに、これで問題が解決するのだろうかと思う。すべてのひとが、完全に悔いあらためることを確認することは、不可能とすれうば、このことばが真実ではないとはいえない。同時に、真実だとも言えない。たとえ、ある程度の回復がなったとしても。難しい。やはり、求め続けることだけなのだろうか。もう少し深めたい。 Joel 1:4 かみ食らうばったの残したものを/群がるばったが食らい/群がるばったの残したものを/若いばったが食らい/若いばったの残したものを/食い荒らすばったが食らった。 ヨエル書はこの印象的な言葉で始まる。近年でも、ケニアなどで、大量のバッタが発生し、作物に大きな被害を与え、人の生活を破壊したニュースがあった。一方、ばっとは異なるが、コオロギの養殖ができるようになり、食料や家畜飼料に非常に有効なタンパク源などともなるとも報道されている。繁殖力が非常に高いとのことである。自然の力は単に圧倒されるものから,利用することへと、変わっていくものがあり、おそらく、今後とも、人間には、どうすることもできないもの、人間の行為・貪欲が、自然の反撃を食うように見えることなども、起こっているのだろう。簡単な原理原則はないように思う。しかし、やはり、傲慢にならず、主をおそれることは、たいせつなこととして、みずからを省みるものでいたい。 Joel 2:20 北から来る者をあなたがたから遠ざけ/彼らを乾いて荒廃した地に追い払う/先陣を東の海に、後陣を西の海に。/その臭気が立ちこめ/悪臭が立ちこめる。」/主は偉大な業を成し遂げられた。 大きく変化する中東世界の中で、どのような信仰をもつか、それまでの信仰を維持するかは、大きな課題だったろう。それは、戦争中に、日本で起こっていたこととも、共通性があるかもしれない。キリスト者としてどう生きるのか。主のあわれみは現実的になにを意味するのか。現実に、アフガニスタンでも、ウクライナでも、そして、ロシアでも、エチオピアでも、その他、多くの地域でも、大きな課題のように思う。正直、わたしにとっても、よくわからない。わからないということは、少しずつ明らかになってきていることは確かだが。ヨエル書に現れる主の日(1章15節、2章1節、11節、4章14節)をどのように待てばよいのだろうか。困難なところにいて困惑している人たちとともに。 Joel 3:1,2 その後/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。 この短い章には二つの鍵となる節がある。1つ目は引用句。霊を注ぐ。霊は、神の霊を意味するから、主のこころを受け取る。使徒言行録2章、五旬節の記述を思い出す。(ヨハネ20章22節参照)または主のこころを心とするようになるとも取れる。もうひとつは、恵みの言葉「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(5)である。使徒2章21節、ローマ10章13節に引用されている。霊を注いでも、神のこころを心とすることはできないのかもしれない。必要条件ではあっても、十分条件ではない。また、後半のほうも、5節の表現も「主の日」に言及し構造が複雑なように、それほど単純ではないかもしれない。 Joel 4:21 しかし、ユダはとこしえに/エルサレムは代々にわたって民の住む所となる。 ヨエル書の最後のことばである。エルサレムは、特別な場所であり、あり続けることが宣言されている。しかし、他の場所がそうでないとは言っていない。主は、どこにいても、見守っていてくださる神である。そのような表現は、ユダのひとたちには、とうてい受け入れられなかったのかもしれない。これも、とても、難しい事実である。 2022.7.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  83. BRC 2021 no.083:アモス書1章ーヨナ書4章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、アモス書と、オバデヤ書と、ヨナ書と、十二小預言書のうちの三つを読みます。前回も書きましたが、ヨエル書の章の数が、翻訳によって異なるので、新改訳や、口語訳を読んでおられる方は、一章ずれますから、アモス書2章から、ミカ書1章となります。あと少しで旧約聖書を読み終わるペースで進んでいますが、旧約聖書の最後の書マラキ書でまた揃いますから、このずれは旧約聖書が読み終わるまで我慢してください。すでに、通読が続かなくなっておられる方、かなり遅れてしまっておられる方も、おられる(多い)かと思いますが、新約聖書からまた読み始めるのも良いですよ。予定では、8月18日に旧約聖書の最後の章と、新約聖書の最初の章である、マタイによる福音書1章を読むことになっています。そのときから、復帰するのでも、少し早めに、新約聖書を読み始めるのでもよいと思いますよ。毎日、少しずつ考えながら、聖書を読んでいくことは、私にとっては日毎の糧、たいせつな生活の一部として、ほんとうに宝となっています。一緒に読んでみませんか。 前回、十二小預言書の大雑把な年代について書きました。今週みなさんが読まれるアモス書と、オバデヤ書と、ヨナ書はいずれも、サマリヤが陥落し北イスラエルが滅亡する以前、しかしアッシリアが中東の巨大帝国となりその驚異がそれなりに迫っている頃かなと思います。あいまいな書き方をしたのは、時代が確定できない、証拠が明確ではない書もあるからです。それでも、なんとなく、時代背景を意識しないと、理解しにくいことも多いので書いています。 アモス書は、時代をある程度明確に記述しています。1章1節に「ユダの王ウジヤの治世、ならびに、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世」また「テコアの羊飼いの一人」とも書かれています。イザヤよりも前、十二小預言書のなかでも、もっとも古い時代のようです。このアモスが「主が羊の群れを追っている私を取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と私に言われた。」(1章15節)と神の声を聞き、預言したことばです。個人的には、素朴さも感じます。さてどのようなことが書かれているのでしょうか。 次のオバデヤ書は、1章しかありません。時代的な背景も明確ではありませんが、「エドムについて」(1) 語られています。エドムは、ヤコブ(イスラエル)の兄弟エソウの子孫とされユダからみると東または東南あたりに住んでいたようです。近隣の民族とは長い歴史があり、交流も諍い(いさかい)もしばしばあったと思われます。 ヨナ書のお話はご存知の方も多いかなと思います。この書も時代的な背景は明確ではありませんが、中東の最初の巨大帝国アッシリアの首都ニネベに関する物語になっています。異彩を放つ書でもあります。ここは、みなさんにおまかせすることにしましょう。いろいろな読み方もあるのかなと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 アモス書1章ーヨナ書4章はみなさんが、明日7月25日(月曜日)から7月31日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 アモス書、オバデヤ書、とヨナ書とについては、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 アモス書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#am オバデヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ob ヨナ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#jh 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Amos 1:1 テコアの羊飼いの一人であるアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤの治世、ならびに、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、イスラエルについて幻に見たものであり、あの地震の二年前のことであった。 小預言書の中でも、早い時期に属していると聞いたことがある。ここにあるのは、ヤロブアム二世(BC789-BC748)だろう。ユダではウジヤ(BC792-740、別名:アザルヤ)のころである。自分を羊飼いの一人と言い切っているところが新鮮である。おそらく、民の指導者としての比喩ではないだろう。この章には、ダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモンと周囲の国、民族への裁きをまずは語っている。周囲との様々な関係のなか、地震(どの程度のものか不明だが)もあり、ヤロブアムの時代も、困難な時代だったのかもしれない。 Amos 2:6,7 主はこう言われる。/イスラエルの三つの背きの罪/四つの背きの罪のゆえに/私は決して容赦しない。/彼らが正しき者を金で/貧しい者を履物一足分の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/苦しむ者の道をねじ曲げている。/父と子が同じ女のもとに通い/私の聖なる名を汚している。 周囲の国・民族から始めた預言は、この章では、モアブに触れてから、ユダ、そして、アモスの住むと思われる、イスラエルに焦点をあてる。その最初が引用箇所である。際立っているのは、貧しい者、弱い者への視線である。それこそが、神を恐れることだったのだと思う。その地に足がついた宗教心、神を畏れるこころ。それは、染み付いていたのだろう。一日にしてならずかな。 Amos 3:7,8 まことに、主なる神は/ご自分の僕である預言者にその秘密を示さずには/何事もなされない。獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。/主なる神が語られる/誰が預言せずにいられよう。 預言者や真理探求者が世界の課題の秘密についてある真実を知ることはある。しかしおそらくそれは、真理の一部でしかない。そして、他の真理探求者も、また、他の面を理解しているかもしれない。互いに協力して、その課題に対すること、それは、人間にはできないのだろうか。苦手なのかもしれない。最初は、正しさに依ってしまうからか。引用句を批判はしたくないが、複雑な問題がたくさんあるなかで、その一つ一つに対する簡単な解決策はないのだから。 Amos 4:12,13 それゆえ、イスラエルよ/私はあなたに対してこのようにする。/私がこのことを行うゆえに/イスラエルよ/自分の神に会う備えをせよ。神は山々を造り/風を創造され/その計画を人に告げ/暗闇を変えて曙とし/地の高き所を踏みつけられる方。/その名は万軍の神である主。 美しい言葉であるが、内容は、よく理解できない。一つ印象的だったのは「その計画を人に告げ」だ。たしかに、神の業、自然について、世界について、それらに関する情報について、わたしたちは、様々なことを知るようになった。しかし、それは一部分に過ぎないことも事実である。その意味ではつねに、真理と出会う備えが必要なのかもしれない。その真理をどのようなものとして受け止めるかを謙虚に考えながら。 Amos 5:14,15 善を求めよ、悪を求めるな/あなたがたが生きるために。/そうすれば、あなたがたが言うように/万軍の神である主は/あなたがたと共にいてくださるであろう。悪を憎み、善を愛し/町の門で公正を打ち立てよ。/あるいは、万軍の神である主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。 この直前には「あなたがたの背きの罪がどれほど多く/その罪がどれほど重いか、私は知っている。/あなたがたは正しき者を苦しめ、賄賂を取り/町の門で貧しい者を退けた。」(12)ともある。その中で「悟りのあるものも沈黙する」(13)として、この言葉が語られている。あまりに、基本的なことで驚かされるが、それしか語れないのかもしれない。しかしここで「町の門で公正を打ち立てよ」ともある。単に「悪を憎み、善を愛し」だけではないのだろう。一人ひとりに責任もある。この章は「それゆえ、私はあなたがたを捕囚として/ダマスコのかなたに引いて行く/――その名を万軍の神と言う主は言われる。」(27)で閉じられている。まだ、アモスの時代は、アッシリアによって滅ぼされるまで時間があると思うが。 Amos 6:14 イスラエルの家よ/私は実にあなたがたに対して一つの国を興す/――万軍の神である主の仰せ。/彼らはレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで/あなたがたを虐げる。 すでに、アッシリア侵攻の足音は聞こえていたのかもしれない。世界を見ている信仰者が、預言者だったのだろう。「あなたがたは公正を毒草に/正義の実を苦よもぎに変えた。」(12b)は「公正を苦よもぎに変え/正義を地に投げ捨てる者よ。」(5章7節)と似ている。5章では主語がはっきりしないが、ここでは「あなたがた」になっている。 Amos 7:8 主は私に言われた。/「アモスよ、何が見えるか。」/私は答えた。/「下げ振りです。」/主は言われた。/「見よ、私は/わが民イスラエルのただ中に下げ振りを下ろす。/もはや、見過ごしにすることはできない。 この前には二つの幻が書かれ「主はこれを思い直され/『このことも起こらない』と主なる神は言われた。」(6, 参照3)と結んでいる。ここでは「もはや、見過ごしにすることはできない」とし「『ヤロブアムは剣によって死ぬ。/イスラエルは必ず捕らえられて/その土地から捕囚として連れ去られる。』」(11)の預言へとつながっている。すでに、ときがないことがいしきされていたようだ。世界情勢やどのような情報が伝えられていたかは不明だが。 Amos 8:12,13 人々は海から海へと行き巡り/北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが/見いだすことはできない。その日、美しいおとめも若者も/渇きのために気を失う。 最後のことばが印象的である。そこまで真剣に求める姿が描かれているように思われるが、救いが見えない、絶望を表しているのかもしれない。わたしは、正解はだれも持っていないと考えているが、何らかの緒(いとぐち)が得られていることは、それなりに幸せなのかもしれない。絶望しかない世界。それが、渇きのために気を失うようなときなのだろうか。 Amos 9:13 その日が来る――主の仰せ。/耕す者は刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は種を蒔く者に続く。/山々は甘いぶどう酒を滴らせ/すべての丘は溶けて流れる。 回復がアモス書では、農業に関係したものとして書かれている。最初に「テコアの羊飼いの一人であるアモス」と書かれていることがここまでつながっていることは印象的である。このあとには「わが民イスラエルの捕らわれ人を私は帰らせる。」(14a)と続く。アモスの時代にここまで、それも少し唐突に書かれていることには、少し違和感がある。しかし、そのあとの「彼らは荒らされた町を築き直して住み/ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み/園を造って、その実りを食べる。」(14b)には自然に接続しているので、アモスの原文のままの可能性は Obadiah:7,8 あなたと同盟を結んでいたすべての者が/あなたを国境まで追いやる。/親しかった友が欺き、あなたを征服する。/あなたのパンを食べていた者が/あなたの足元に罠を仕掛ける。/それでも、あなたは悟らない。その日には、私はエドムから知者を/エサウの山から英知を滅ぼし尽くす/――主の仰せ。 一般的には、オバデヤ書は、エドムに対する厳しい預言だとされ、引用した後半もそのことを表している。しかし、正直、わたしは、そのエドムがどの程度の勢力を持っていたのかよく知らない。ただ、引用句の前半からすると「同盟を結んでいた者」とあり、数は不明であるが、それなりに周辺の民族などと結びついていたのだろう。おそらく、イスラエルや、ユダと対抗するために。しかし、歴史的な地勢図は、アッシリアなどの大国の出現で変化を遂げる。そのときに、何に目を向けるべきか、本質的なことや将来に目を向けるとともに、いまをどう生きるか。過去の反省だけでは、変化には対応できない。難しい時代である。おそらく現代も。高いように思う。いろいろなひとが主の言葉を語っている、そのことは、印象深い。 Jonah 1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください。あなたは主、思いのままになさるお方です。」 ヨナ書の目的のようなものを考えて今回読んでいる。一つは、憐れみ深い神が、異教の国または、敵国に対しても、同様に憐れみ深いことを理解することは、困難なであり、それを示すことかなと思っている。もしかすると、もっと一般的な対象に対する、神の憐れみと公正について語っているのかもしれないと今回の箇所から思った。現代では、公平性、科学的視点が大切なものと認識されてきたが、当時は、必ずしもそうではなかったろう。ここでは、同じ船に乗り込んだ他の船員、船客が対象である。新たな学びができることを祈りつつ。 Jonah 2:4,5 あなたは私を海の中深くに投げ込まれた。/潮の流れが私を巻き込み/砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く。私は思った。/私はあなたの前から追い出された。/生きて再びあなたの聖なる宮を/目にすることがあるだろうか。 Ubiquitous 神遍在(へんざい)も一つのテーマなのかもしれない。物理的にも、精神的にも、個人的にも、こんなところに神は居られないという場所で、神との交わりを感じる。それが実際に力を与える。まずは、ヨナは、それをここで経験しているのかもしれない。普遍性への一歩だろうか。 Jonah 3:7-9 王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むこともしてはならない。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」 このあとには、神が災いをくださなかったと続く。テーマと強く結びつく転換点がここにあるのだろう。ここで二度繰り返されている「人も家畜も」について考えた。おそらく、ここに家畜も含めるのは、実際的でもなく、無意味であろう。しかし、それが含められているのは、誇張表現であるとともに、イスラエルに対しても考えてもいなかったことを突きつけ、驚きを、生じさせる効果はあったろう。滑稽でもあるが、全身全霊はこのような行動を生むのかもしれないとおも思わされた。 Jonah 4:8 日が昇ると、神は東風に命じて熱風を吹きつけさせた。また、太陽がヨナの頭上に照りつけたので、彼はすっかり弱ってしまい、死を願って言った。「生きているより死んだほうがましです。」 3節にある「主よ、どうか今、私の命を取り去ってください。生きているより死んだほうがましです。」の後半の繰り返しが書かれているが、ひとは、生きること、死ぬことをこれほど単純なことで望んでしまう、本当に弱い存在であることを思い知らされる。一般的には、利己的と表現されるが、小さな変化によって、生きていくことがとてもつらい状況に陥ってしまう、またはそのように考えてしまうということだろう。自分の中にない、絶対他者に目を向ける大切さを思うとともに、このように考えてしまう、傾向を否定することはできないと思う。それも、神様が造られたとも言えるのだから。同時にここでは神様はその弱いヨナにも向き合ってくださっている。難しい。 2022.7.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  84. BRC 2021 no.084:ミカ書1章ーゼパニア書1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ミカ書と、ナホム書と、ハバクク書を読み、ゼパニア書に入ります。十二小預言書のうちの四つを読みます。前々回、前回と書きましたが、ヨエル書の章の数が、翻訳によって異なるので、新改訳や、口語訳を読んでおられる方は、一章ずれますから、ミカ書2章から、ゼパニア書2章となります。あと少しで旧約聖書を読み終わるペースで進んでいますが、旧約聖書の最後の書マラキ書でまた揃いますから、このずれは旧約聖書が読み終わるまで我慢してください。すでに、通読が続かなくなっておられる方、かなり遅れてしまっておられる方も、おられる(多い)かと思いますが、新約聖書からまた読み始めるのも良いですよ。わたしの大好きな、おすすめの四つの福音書が最初にあります。予定では、8月18日に旧約聖書の最後の章と、新約聖書の最初の章である、マタイによる福音書1章を読むことになっています。そのときから、復帰するのでも、少し早めに、新約聖書を読み始めるのでもよいと思いますよ。毎日、少しずつ考えながら、聖書を読んでいくことは、私にとっては日毎の糧、たいせつな生活の一部として、ほんとうに宝となっています。一緒に読んでみませんか。 前々回、十二小預言書の大雑把な年代について書きました。今週みなさんが読まれるミカ書と、ナホム書と、ハバクク書、ゼパニア書はいずれも、おおきな括りでは、アッシリアという中東の巨大帝国によって、サマリヤが陥落し北イスラエルが滅亡する頃、この時に、南ユダ、エルサレムも風前の灯火になるのですが、それでも、まだしばらく南ユダは残っている頃が背景となっています。世界史的には、アッシリアは中東最初の巨大帝国を築き、パレスチナまで覇権を広げてくるわけですが、内部分裂の様相もあり、少し南の、バビロンや、メディアが協力して勢力を拡大し、いずれは、アッシリアをも滅んでしまう時期でもあります。おそらく、民も、指導者も、預言者も、おそらく中東全体で混乱した、難しい時期だったのではないかと思います。神様のみこころをどのように受け取り、どのように伝えていったのでしょうか。この大変な時代、みなさんが、そこに住んでいたら、どのようなことを思い、考えられるでしょうか。 ミカ書は、「ユダの王、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に、モレシェト人ミカに臨んだ主の言葉。それは、サマリアとエルサレムについて見た幻である。」と始まります。時代的なものや、対象も明確になっており、アモス、ホセアや、イザヤともだいたい同じ時代で、エレミヤ書26章18節にも、モレシェト人ミカについて言及されています。 ナホム書は、ミカより少しだけあとの時代でしょうか。アッシリアの首都ニネベについて預言しています。 ハバクク書は、あまり時代的には明確ではありませんが、アッシリアなどの侵攻に、神様の御心をどう受け取ったら良いのかと問い、苦悩する姿も見えるように思います。 ゼパニア書は、「ユダの王アモンの子ヨシヤの世」とあります。ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤですから、ヒゼキヤの死後半世紀後ぐらいでしょうか。ヨシアについては、列王記下22章、23章に、かなり詳細に、ヨシアによる宗教改革とも呼ばれる記事が書かれていますが、ゼパニヤでは、それは読み取れません。ヨシアの死後、四半世紀ぐらいで、南ユダ王国は滅亡します。 いろいろな意味で、大変な時代であったことは、確かだと思います。サポートページには、もう少し書いてありますので、参照してください。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ミカ書1章ーゼパニア書1章はみなさんが、明日8月1日(月曜日)から8月7日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ミカ書と、ナホム書と、ハバクク書、ゼパニア書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ミカ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#mc ナホム書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#nh ハバクク書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#hb ゼパニア書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ze 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Micah 1:1 ユダの王、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に、モレシェト人ミカに臨んだ主の言葉。それは、サマリアとエルサレムについて見た幻である。 ホセアは、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世、アモスはユダの王ウジヤの治世、ヨエルとオバデヤとヨナは、明らかではないが、ホセアとは時代的にかさなっているが、これまで読んだ、他の小預言書の時代背景よりは多少あとなのかもしれない。イザヤ預言は長期間に関わっているので、重なるが。殆ど相互交流については書かれていないので、残念であるが、ミカも、北イスラエル、サマリアがアッシリアに滅ぼされ、ユダも貢を送るようになる時代の少し前から、そして、このようになることをも目撃した時代を生きたということだろう。激動の時代である。 Micah 2:1,2 災いあれ、床の中で悪をたくらみ、悪を行う者に。/彼らは朝の光の中でそれを行う。/権力が手中にあるからだ。欲望に駆られて畑を収奪し/家々を取り上げ/住人から家を、人々からその相続地を強奪する。 最後には「打ち破る者が彼らに先立って上り/彼らも打ち破って門を通り、外に出る。/彼らの王は彼らの前を進み/主はその先頭に立たれる。」(13)ともあるので、アッシリアの侵攻はすでに始まっていたのかもしれない。中東世界においては、これまでになかったような大きな変化の中で、身近にも、様々な問題が見て取れたのだろう。このなかでひとがどう生きるかは難しい。世界の様々な地域の紛争や戦争を考えてみても、わたしは、なにも言えない。しかし、これらを単純に神に委ねるのではなく、自分も含む、人間の責任を考えるのは、ミカの時代も今も大切なのだろう。 Micah 3:5 わが民を惑わす預言者について/主はこう言われる。/彼らは歯で何かをかんでいる間は「平和」と叫ぶが/その口に何も与えないと、戦いを準備する。 この章ではイスラエルの指導者たちに対して「あなたがたは公正を知っているはずではないのか。」(1b)と語り出し「善を憎み、悪を愛し/人々の皮を剝ぎ/その肉を骨からそぐ者たち。」(2)と糾弾し、不正の中で「主は御顔を隠される。」(4)と語り、引用句で預言者に対して語る。満たされていることを感じられる間は「平和」と叫び、そうでなくなると「戦いを準備する」これは、他者の責任にするということだろう。表現が興味深い。これに対して、記者は「しかし、私は主の霊による力/公正と勇気に満たされ/ヤコブにその背きを/イスラエルにその罪を告げる。」(8)と語る。原点、出発点なのだろう。しかし、それだけで、平和や救いは来ないと考えてしまう。結局、自分と周囲の人の責任にしているだけで、これで解決に至ることはないと思う。問題は、おそらく恐ろしくもっと複雑なのだろう。 Micah 4:5 どの民もおのおの、自らの神の名によって歩む。/私たちは私たちの神、主の名によって/とこしえに歩む。 この前後の主の救いに関する記述は美しい。しかし、「今、多くの国民があなたに敵対して集められ/こう言う。/『シオンが汚されるのをこの目で見届けよう』と。」(11)とあり、アッシリアの足音は、聞こえて居るのだろう。このような危機的なときに、どう信仰をもって生きるべきか、本当に難しい。ミカの時代には、ヒゼキヤの時代に、結局、アッシリアの侵攻は止まる。しかし、それも、様々な要素が関係しているのだろう。大きな世界の流れの中で、個人のまたは、それぞれの民がどう生きればよいかは、簡単ではない。引用句の内容の認識は、その次のステップへ、普遍性への入り口なのかもしれない。 Micah 5:4,5 この方こそ平和である。/アッシリアが私たちの地に進撃し/私たちの城郭を踏み潰すとも/私たちはこれに向かって/七人の牧者、八人の王侯を立てる。彼らは剣によってアッシリアの地を/抜き身の剣でニムロドの地を治める。/アッシリアが私たちの地に上って来て/領土を踏み潰すとも/彼らが救ってくれる。 ベツレヘムで「この方」が生まれるという預言で、マタイ2章6節に引用されている。しかし、直接的には、アッシリアの驚異の前で困惑しつつも、希望をもつ預言の一部であるようだ。後半には「その日になると/私はあなたの中から軍馬を絶ち/戦車を打ち壊す――主の仰せ。」(9)ともある。残念ながら、現代においても、そうはなっていないように思う。主のみこころを求め続けていきたい。 Micah 6:8 人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。 主がどのように、イスラエルを導かれたがまず語られている。わたしたちは、それを直接は共有できない。同時に、現代におけるひとの苦しみは、本質において、共有できる部分があるとしても、やはりこれらのことばは通じないように感じる。引用句は、一定の倫理として、普遍性があるが、自業自得、罪が現代の困難を引き起こしていると考えるのは、短絡であると思う。そこからは、解決の道は探れない。主とともに、考えていきたい。 Micah 7:19,20 主は私たちを再び憐れみ/私たちの過ちを不問にされる。/あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブに真実を/アブラハムに慈しみを示してくださるように/あなたが遠い昔、私たちの先祖に誓われたように。 ミカ書の最後の二節である。自分たちの罪のゆえの結果、そして、憐れみ深い主への信頼、そしてその主の憐れみを願う祈り。ミカの本心が語られているように思う。真実も感じるが、真理は、その遠く向こうにあるように思う。アッシリアの攻撃のもとでの惨めな状況。信仰も深められる必要があったのだろう。その困難を思い、ミカと共にいたい。 Nahum 1:12 主はこう言われる。/「いかに彼らが力に満ち、数が多くとも/必ず切り倒され、消えうせる。/私はあなたを苦しめたが/二度と苦しめることはない。 ナホム書は「ニネベに向けた託宣。エルコシュの人ナホムの幻の書。」(1)と始まる。背景は明確ではないが、アッシリアの侵攻により、北イスラエル王国は、滅亡、南ユダ王国は奇跡的にかろうじて残るが、貢をおさめるような関係が続き、しかし、アッシリアも衰退し、他の勢力が力をもってくる時代なのだろう。アッシリアの首都がニネベだとされる。この時代の記録は、そして、どのように、人々が考え、信仰を維持したかは、興味深い。引用句は、非常に自然だが、このような告白ではどうにもならない現実、どう受け入れ、生きていたのだろう。ゆっくり考えたい。 Nahum 2:9-11  ニネベの町は水の流れ出す池のようだ。/「止まれ、止まれ」と叫んでも/誰も振り返らない。「銀を奪え、金を奪え。」/財宝は無尽蔵、またとない宝の山。破壊と崩壊、そして壊滅。/心は挫け、膝は震え/誰の腰もみなわななき/どの顔もみな青ざめる。 ニネベについて表現しているようだ。この章の最後には、裁きについても語られ、ユダには希望も語っているが、ニネベの圧倒的な力を認めざるを得ない状況だったのだろう。しかし、それで終わらず、アッシリアは衰退し、さらに、バビロン、ペルシャと巨大帝国が出現していく。この時代的変化をどう理解すればよいのかは、そう簡単ではないだろう。エジプトや、もう少しあとにはなるが、ギリシャなど、地中海沿岸の国々にも驚異が及ぶ、他の地域で、この変化をどのように見られていたかも、学んでみたい。どうしても、帝国の側から見ることになってしまう歴史、旧約聖書は逆の立場から書かれている点は、興味深い。 Nahum 3:18,19 アッシリアの王よ/あなたの牧者はまどろみ/貴人たちは眠り込む。/軍勢は山々に散らされ/集める者はいない。あなたの傷を和らげるものはなく/その打ち傷は癒やし難い。/あなたの噂を聞き/誰もが拍手喝采する。/あなたの絶え間ない悪行から逃れた者は/誰一人としていないからだ。 「あなたはテーベよりも優れているのか。」(8a)「クシュは力/エジプトは限りない力/プトとリビアもその援軍であった。」(9)ユダにとっては、古くからの友好国、または、近隣の大国が並べられている。引用句は、ナホム書の最後の節であるが、北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも、大きな脅威となった、アッシリアとどう向き合うかは、そして、御心を問うことは、ひとびとにとって、大きな課題であったろう。しかし、まだまだ、この続きが、現代に至るまで続いている。絶対的なものが告げられているわけではないことは、心するべきだろう。教義的解釈の危うさを感じる。 Habakkuk 1:1,2 預言者ハバククが見た託宣。主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。/あなたは耳を傾けてくださらない。/「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに/あなたは救ってくださらない。 ハバクク書の最初の部分である。主に助けを求めても答えてくださらない現状にたいして、主の声を聞きそのことばを記している。「私はカルデア人を興す。/彼らは残忍で残虐な国民。/遠くの地まで軍を進め/他人の住む土地を手に入れようとする。」(6)とあり、すでに、アッシリアは各所で猛威を振るっていたのかもしれないと思う。しかし、ハバククの二度目の訴えでは「主よ、私たちを裁くために/あなたは彼らを定められました。」(12b)と裁きとして使われることは理解しつつ「だからといって、彼らはその引き網を使い続け/諸国民を容赦なく殺してもよいのでしょうか。」(17)とさらに訴えているようだ。このように主に真剣に訴え、みこころを知ろうとする。今回の通読では、その真摯さを感じて読んでいる。 Habakkuk 2:3,4 この幻は、なお、定めの時のため/終わりの時について告げるもので/人を欺くことはない。/たとえ、遅くなっても待ち望め。/それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」 最後の部分は、ロマ書1章17節b、ガラテヤ3章11節b、ヘブル書10章38節で引用されている。神の義は信仰によって啓示され、律法によるのではないと語られ、また、終わりの日を待つには、忍耐が必要だということから引用されている。ハバククは、現在起こっていることというより、将来のことを預言していると記しているようだ。このあとには、かなり具体的な現実にたいすることばが並んでいるように思われる。信仰を通して幻を示されたものが生きる道は、まさにその信仰をもって、希望をもち、主に信頼して、日々を真摯さを失わずに歩むことなのかもしれない。 Habakkuk 3:16 これを聞くと、私のはらわたは震え/その響きに私の唇はわなないた。/腐敗は私の骨まで入り/足元は揺らいでいる。/私は静かに待とう/我々を攻撃した民に苦しみの日が来るのを。 「あなたは憤りをもって地を行き巡り/怒りをもって国々を踏みつける。あなたはご自分の民を救うため/油注がれた者を救うために現れた。/悪人の家の頭を打ち砕き/足元から首までむき出しにされた。〔セラ」(12,13)からみても、主が裁かれることが前提としてある。最後は賛美で閉じられている。このような裁きを望むことは、自然ではあるのだろう。受け入れられないが。おそらく、その痛みをわたしが、共有できないことも背景にあるのだろう。 Zephaniah 1:1 ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。 列王記下22章、23章には、かなり詳細にヨシアの宗教改革と呼ばれる記事が書かれている。アモンは、ヒゼキヤの孫で、最後の王、ゼデキヤの祖父だと思う。しかし、このヨシアについては、(列王記も預言者文書と呼ばれるが)預言書ではあまりその評価が書かれておらず、不明な点もある。そのいみでも貴重な預言書なのかもしれない。この章では、主の日の裁きが書かれているようだ。「主の大いなる日が近づいている。/近くまで迫り、速やかにやって来る。/主の日に上がる声は悲痛に満ち/その時、勇士も叫びを上げる。」(14)危機が迫っていることは、多くの人が認識していたのだろう。 2022.7.31 鈴木寛@垂水 ホームページ: 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  85. BRC 2021 no.085:ゼパニア書2章ーゼカリヤ書10章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ゼパニア書を読んでから、ハガイ書と、ゼカリヤ書を読みます。十二小預言書は、みな短いですが、ゼカリヤ書は14章まであります。しかしその後は、マラキ書のみで、旧約聖書を読み終わります。ヨエル書の章の数が、翻訳によって異なるので、新改訳や、口語訳を読んでおられる方は、一章ずれますから、ゼパニア書3章から、ゼカリヤ書11章となります。マラキ書でまた揃いますから、もう少し我慢してください。すでに、通読が続かなくなっておられる方、かなり遅れてしまっておられる方も、おられる(多い)かと思いますが、新約聖書からまた読み始めるのも良いですよ。予定では、8月18日にマラキ書の最後の章と、新約聖書の最初の章である、マタイによる福音書1章を読むことになっています。そのときから、復帰するのでも、少し早めに、新約聖書を読み始めるのでもよいと思いますよ。毎日、少しずつ考えながら、聖書を読んでいくことは、私にとっては日毎の糧、たいせつな生活の一部として、ほんとうに宝となっています。一緒に読んでみませんか。 前回、ゼパニア書については、少し書きました。残りの、ハガイ書とゼカリヤ書は、いずれも、捕囚期間後に神殿を再建する時代の預言書です。中東では大帝国が出現し、アッシリア、(新)バビロニア、(アケメネス朝)ペルシャが、広大な領地を持つことになります。ユダヤとの関係では、アッシリア王センナケリブ(BC704-BC681)、バビロニア王ネブカドネザル2世(BC604-BC562)が、聖書に何度も登場しますが、バビロンは王が不在のままペルシャのキュロス2世が無血入場し、ペルシャ、メディアの連合軍によって滅亡します。暦により異なりますが、ペルシャのキュロス2世以後の年代を書いておきます。キュロス2世(BC538-BC530)、カンビュセス2世(BC529-BC522)、ダレイオス1世(BC521-BC486)、クセルクセス1世(BC485-465)、アルタクセルクセス1世(BC464-BC424)、クセルクセス2世(BC424)、ダレイオス2世(BC423-BC405)、アルタクセルクセス2世(BC404-BC359)、アルタクセルクセス3世(BC358-BC338)、アルセス(BC337-BC336)、ダレイオス3世(BC335-BC331)(「歴史学の現在ー古代オリエント」山川出版社による)このあとは、歴史で年号を覚えた人は知っているかもしれませんが、アレクサンダー大王の登場となります。 ハガイ書は「ダレイオス王の治世第二年、第六の月の一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」(1章1節)と始まります。このダレイオス王は1世です。キュロス2世の勅令は、歴代誌下36章23節とエズラ記1章1-4節に書かれています。「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」この(神殿建設の)勅令のもの、エルサレムにいくわけですが、それから少しだけたったころでしょうか。エズラ記、ネヘミヤ記をすでに読んでいますが、それは、アルタクセルクセス1世の時代ですから、早期の帰還者の苦労が書かれているとも読むことができると思います。背景が少しは分かったほうが良いかなと思い、書いてみました。アッシリアと、バビロニアの征服民に対する対応はかなり異なったといわれていますが、ネブカドネザル2世は、各地の優秀な人材を各所に用いて、建設作業などをしたという記録がたくさん残っているようです。被征服民は、奴隷として扱われるように考えてしまいますが、聖書のいくつかの書にも現れるように、ユダから捕囚となり王に仕えている人も何人もいたようです。そこで、捕囚と呼ばず移住させられたと表現する場合もあります。さて、帰還したひとたちの課題は何だったのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ゼパニア書2章ーゼカリヤ書10章はみなさんが、明日8月8日(月曜日)から8月14日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ゼパニア書、ハガイ書、ゼカリヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ゼパニア書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ze ハガイ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#hg ゼカリヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#zc 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Zephaniah 2:3 主を求めよ。/地の苦しむすべての者たち/主の法を行った者たちよ。/義を求め、謙遜を求めよ。/主の怒りの日に/あるいは、かくまってもらえるであろう。 「恥を知らぬ国民よ」(1a)と始まるが、このあとには、ペリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリアと、裁きについて述べられているので、語りかけているのは、異教徒または、全世界なのかもしれない。当時のひとは、他の人々の救いについてどう考えていたのだろう。どのような信仰を持っていたのだろう。特に、イスラエルが滅び、ユダも風前の灯火のときに、どう考えていたのか、知りたい。 Zephaniah 3:19,20 その時/私はあなたを苦しめていた者をすべて滅ぼす。/私は足の萎えた者を救い/追いやられていた者を呼び集め/すべての地で彼らの恥を誉れに変え/名を高めよう。その時、私はあなたがたを連れ戻す。/その時、私はあなたがたを呼び集める。/あなたがたの目の前で/その繁栄を回復するとき/地上のすべての民の中で/あなたがたの名を高め/誉れを与える――主は言われる。 他民族についても多少書かれている。「それゆえ、私を待て/私が証人として立つ日を――主の仰せ。/私は諸国民を集め/もろもろの王国を呼び寄せ/彼らの上に私の憤りと燃える怒りを注ぐと/決めたからだ。/全地は私の妬みの火で焼き尽くされる。その時、私はもろもろの民に清い唇を授ける。/彼らは皆、主の名を呼び/一つになって主に仕えるようになる。」(8,9)そして、残るものも。「私はあなたの中に/貧しい者、弱い者を残す。/彼らは主の名を逃れ場とする。」(12)これらの中に、主に御心を求めていたのだろう。 Haggai 1:14,15 主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い起こされたので、彼らは行って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。それは第六の月の二十四日のことであった。 ハガイ書は「ダレイオス王の治世第二年、第六の月の一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」(1)と始まる。ダレイオスはアケメネス朝ペルシャの(9代目)クロス大王からは三代目となる。(559–530 BC Cyrus the Great, 530–522 BC Cambyses II, 522–486BC Darius I, 486–465 BC Xerxes I, 465–424 BC Artaxerxes I, 424–424 BC Xerxes II)この年表から考えると、BC520 あたりとなる。クロスの勅令によって帰還が許されのが、BC538(その後の、エズラ帰還は BC458、ネヘミヤ帰還は、BC445(アルタクセルクセスの時代)である)。ここでは、このエズラ・ネヘミヤのときの前、BC515 ごろの再建に関する記事と思われる。第一期の帰還からあまりたっていない頃となる。クロスの勅令からこのときまでの歴史も調べる必要がある。 Haggai 2:9 この新しい神殿の栄光は以前のものにまさる/――万軍の主は言われる。/この場所に私は平和を与える――万軍の主の仰せ。」 クロスの勅令は、歴代誌下36章23節「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」とエズラ記1章1-4節に書かれている。正確かどうかは不明だが、神殿建設が中心に置かれていることは確かである。ハガイ書自身は、非常に部分的なことしか書かれていないように思われるが、その働きを助け、奮い立たせたことは確かなのだろう。むろん、ことはそれほど簡単ではないが。 Zechariah 1:1 ダレイオスの治世第二年、第八の月に、主の言葉がイドの子ベレクヤの子である預言者ゼカリヤに臨んだ。 ハガイ書の最初は「ダレイオス王の治世第二年、第六の月の一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」であるから、二ヶ月違うだけであるが、同時に書き方が非常に似ていることも感じた。一つの定形なのだろうが、もしかすると、書き手は、これらの預言者ではない人のかもしれないと思った。内容はかなり異なるが。「もう一度、呼びかけて言え。/万軍の主はこう言われる。/私の町は再び良いもので満ち溢れ/主は再びシオンを慰め/エルサレムを再び選ばれる。』」(17)この最初の帰還の時代についても、考えてみたい。 Zechariah 2:14,15 娘シオンよ、喜び歌え/今、私は来て/あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。その日には、多くの国民が主に連なり/私の民となる。/私はあなたのただ中に住む。/こうして、あなたは万軍の主が私を/あなたに遣わされたことを知るようになる。 神殿を建てようというときに、自然なことばであるが、なにか、伝わってくるものが少ない。なぜなのだろう。主が、わたしたちの中に住まわれるということも、具体的にはどのような状態を意味しているのか、よくわからないとも思う。復興という現実の課題が、目前にあり、そのなかでの神殿再建を鼓舞することが必要だったことは、ある程度理解できるが。 Zechariah 3:1-3 主は、主の使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右に立っているサタンとを私に示された。主の使いはサタンに言った。「サタンよ、主はあなたを叱責される。エルサレムを選ばれた主はあなたを叱責される。ここにいるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。 幻だろうから、仕方がないのかもしれないが、状況がよく理解できない。ただ、大祭司もふくめ、惨めな状況であることは、理解できるが。鼓舞しているのだろうか。帰還した民を。 Zechariah 4:9,10 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。/その手がそれを完成させる。/こうして、あなたは万軍の主が私を/あなたがたに遣わされたことを知るようになる。誰がその日をささいなこととして蔑んだのか。/彼らは喜び/ゼルバベルの手にある下げ振りの石を見る。/これら七つのものは/すべての地を巡る主の目である。」 鼓舞していることは理解できる。ここには、土台だけではなく「その手がそれを完成させる」としているが、それは、実際にはならなかったようだ。ネヘミヤというユダヤ人総督が送られてくるまで、そして、エズラなどが、民をまとめるまでは、ときがひつようなのかもしれない。苦しい時期であることはりかいできる。祭具などは、倉庫から持ち帰れたのかもしれないが、金銭も不足していただろうし、知恵も、他の必要も、多くのものがまだ整っていないのだろう。 Zechariah 5:7,8 さて、鉛の蓋が持ち上げられると、エファ升の中に一人の女が座っていた。「これは邪悪である」と彼は言い、その女をエファ升の中に投げ戻し、升の口に鉛の重しを投げかぶせた。 このあとにも「二人の女」に関する記述がある。邪悪、神殿を建てるとあるが、おそらく、惑わされる男性視点から、このような役割として「女」が使われているのだろう。一方、女性の立派な行為は、聖書中にいくつか記されているが、人間として立派な女性という記述は、すこし思い浮かぶものもあるが、あまりないように思う。宗教の社会が、ユダヤでは男性社会、または、男性が判断し決定する社会だったということだろう。それだけで批判するのは、間違いだと思うが、人間の視点が社会の中で限定されてしまうことは、確実に見える。 Zechariah 6:12,13 彼に言いなさい。/『万軍の主はこう言われる。/若枝という名の人がいる。/その人のもとから芽が出/その人は主の宮を建てる。彼こそが主の宮を建て/彼こそが威厳をまとい、王座に着いて治める。/王座の傍らに一人の祭司がいて/この二人の間には平和への思いがある。』 彼は、多少預言的な意味合いがあるかもしれないが「大祭司ヨツァダクの子ヨシュア」(11)である。しかし、引用句からは、この大祭司ヨツァダクの子ヨシュアが王座に着き、それ以外に、祭司がいて二人で平和を保ちながら治めると言っているようだ。つまり、祭司による統治である。ダビデの家系ではない、宗教による統治を預言しているのだろう。 Zechariah 7:5-7 「この地のすべての民と祭司たちに言いなさい。/『あなたがたは第五の月にも第七の月にも断食して/嘆いてきた。/こうして七十年になるが/あなたがたは本当に私のために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするときは、ただ自分のために食べたり飲んだりしているだけではないのか。これは、エルサレムとその周辺の町に人が住み、平穏であったとき、また、ネゲブやシェフェラにも人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して呼びかけた言葉ではなかったか。』」 「サル・エツェルとレゲム・メレク、およびその従者たち」(2)が「私は、長年行ってきたように、第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。」(3)と問うた答えである。このあとには、「『万軍の主はこう言われる。/真実の裁きを行い/互いに慈しみ、憐れみ合え。寡婦、孤児、寄留者/貧しい者を虐げてはならない。/互いに悪を心にたくらんではならない。』」(9,10)を拒む民の姿も描かれているので、実際、問題があったのかもしれないが、このような断罪的な伝え方で、聞くことができるひとはそう多くないとも感じた。ゼカリヤは自分が正しい側にいることを確信はしていただろうが。 Zechariah 8:18 「万軍の主はこう言われる。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって歓喜と喜びとなり、恵み溢れる定めの祭りとなる。真実と平和を愛せよ。 7章のサル・エツェルとレゲム・メレク、およびその従者たちの質問は、「第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。」(7:3)だった。その応答の仕方が不適切だと考えていた。しかし、ここでは、真実と平和を愛していれば、霊的な断食が「歓喜と喜びとなり、恵み溢れる定めの祭りとなる」と応答をしているように見える。これらのことばが人々に受けいられれた面もあるのだろう。帰還したひとたちは、指導者、すばらしい信仰者だと考えていたが、この時期にはすでに、いろいろな人がいたのかもしれない。背景がよくわからないと理解も難しい。 Zechariah 9:9,10 娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。/その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る。 「シオンの娘に告げよ。/『見よ、あなたの王があなたのところに来る。/へりくだって、ろばに乗り/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイによる福音書21章5節、マルコ11章1-11節、ルカ19章28-38節、ヨハネ12章12-19節参照)四福音書で小ろばのことが引用されている。この箇所が意識されているのだろう。たしかに、隣国の滅亡が記述されてからこの箇所を起点に、変化が記述されているが、内容的には、乏しいように見える。イエスが、これまでの救世者とは異なることを印象づける箇所であることは確かだろうが、これで表現できるものは、限定的であると感じる。イエス様はどう考えていたのだろうか。 Zechariah 10:10 私は彼らをエジプトの地から帰らせ/アッシリアから呼び集め/ギルアドの地とレバノンに連れて行く。/だが、そこも彼らには十分ではなくなる。 アッシリアとエジプトについての記述があるが、バビロン、ペルシャの記述はない。アッシリアはこの時点で崩壊しているはずであるが、その地に捕囚となったイスラエルの民がどうなったのかは、よくわからない。この時点では、たくさんの情報があったのだろうか。いつか、学んでみたい。わかることは限られているかもしれないが。 2022.8.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  86. BRC 2021 no.086:ゼカリヤ書11章ーマタイによる福音書7章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ゼカリヤ書の後半と、マラキ書を読んでから、いよいよ、新約聖書の最初のマタイによる福音書を読み始めます。新改訳や、口語訳を読んでおられる方は、一章ずれますが、マラキ書の章数が多いので、ゼカリヤ書12章から、マタイによる福音書7章となり、今後は、同じ範囲となります。何度か書いていますが、すでに、通読が続かなくなっておられる方、かなり遅れてしまっておられる方も、おられる(多い)かと思いますが、今週から、また新約聖書から一緒に読み進めませんか。予定では、8月18日(木曜日)にマラキ書の最後の章と、新約聖書の最初の章である、マタイによる福音書1章を読むことになっています。 キュロス二世による勅令が出されたのは、BC538またはBC537だとされていますが、一部のユダヤ人たちが帰還し、神殿(ソロモンの神殿と区別して第二神殿と呼ばれます)の再建がなったのは、BC515年頃ですが、マラキによる福音書は、それ以降と思われます。十二小預言書では一番最後に位置したものとなります。実は私達が読んでいる旧約聖書では、マラキ書が最後になっていますが、ヘブル語聖書では順序が異なり歴代誌が最後になっています。 わたしのホームページには、下にリンクがあるマラキ書の箇所に「旧約聖書を読み終えるにあたって」とした一文があります。ご興味がある方は、読んでいただけると嬉しいです。 マラキ書のあとは、マタイによる福音書から新約聖書に入ります。少し聖書を読んだことのあるかたは、最初に四つの福音書があり、その四つの福音書の書き出しは、かなり異なることをご存知かと思います。たしかに、書き出しはかなり異なりますが、さらに少し読んでいくと、最初の三つの福音書、マタイによる福音書、マルコによる福音書と、ルカによる福音書は、共通の記事がたくさんあることに気づくと思います。これらは、共観福音書と呼ばれています。下にリンクのある、マタイによる福音書について書いた最初には、マタイによる福音書についてとともに、共観福音書について書いてあります。参考にしていただければ幸いです。 イエスさまはどのような方として記述されているのでしょうか。そして、イエスさまは、どのような方なのでしょうか。もしイエス様が現代におられたら、どのようなことを語り、どのようなことをなされるでしょうか。一緒に考えながら読んでいくことができればと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ゼカリヤ書11章ーマタイによる福音書7章はみなさんが、明日8月15日(月曜日)から8月21日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ゼカリヤ書、マラキ書、マタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ゼカリヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#zc マラキ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html#ml マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Zechariah 11:17 災いあれ、羊を見捨てる役に立たない牧者に。/剣がその腕と右の目を打つように。/その腕が全く力を失い/右の目は全く見えなくなるように。」 正直、この章の内容はよくわからない。特に、4節以降である。その中に、イスカリオテのユダに関係して引用されることばも含まれている。(12,13: マタイ26:15, 27:5,9)まず、引用は、「銀三十シェケル(貨幣単位にも使われる)」は一致しているものの、こじつけのようにも感じる。内容は、最後の節を引用したように、羊を見捨てる牧者の裁きなのだろうが、理解できない。「わが神、主はこう言われた。屠るための羊の群れを育てるがよい。」(4)この言葉自体が、すでに、実際の犠牲とはずれてしまっているように思うし、損得が、中心となっているように思われる。かなり乱れている状態を表現しているのか。 Zechariah 12:8,9 その日、主はエルサレムの住民を守られる。その日、彼らの中の弱い者もダビデのようになる。そしてダビデの家は、彼らの前で神のように、主の使いのようになる。その日になると、私はエルサレムに攻めて来る諸国民をすべて滅ぼす。 内容が十分理解できるわけではないが、中心は、引用している箇所のように、エルサレムの住民を守られることを伝えているのだろう。帰還しても、力は弱く、神殿に納める多少の、金銀の祭具はあったろうが、様々な困難で満ちていたのだろう。復興がなされるには、少なくとも、ネヘミヤの時代までは、待たなければいけなかったのかもしれない。もう少し、客観的な事実が知りたい。 Zechariah 13:1,2 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。その日になると、私は偶像の名をこの地から絶ち滅ぼす――万軍の主の仰せ。その名は再び思い起こされることはない。私はまた、預言者たちと汚れた霊をこの地から追い払う。 「その日」そして「主の日」など、聖書では救いの日について語られることが多いが、ここでも、一方で、希望を持たされる素晴らしいことが語られるが、他方、裁きがつきまとう。このあとには、ずっと、粛清のような裁きの記述が続く。「悪」を抹殺しなければ、「平和」は到来しないということなのだろう。それをもとめることは、正しいこと、主の御心なのだろうかと真剣に考えるようになっている。難しい。 Zechariah 14:17 地上の諸氏族のうちで、万軍の主なる王を礼拝するためにエルサレムに上って来ない者の上には、雨が降らない。 「しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章44,45節)イエスの教えとは明らかに異なる。ゼカリヤも真剣に、主の御心を求め、そして、平和を願ったのだろう。しかし、たどり着いたところは、排除である。イエスのように言うことができるためには、自分の望みとは区別して、主のみこころを御心を真剣に求めること、そして、みずからも主の痛みを担う覚悟が必要なのかもしれない。 Malachi 1:13,14 あなたがたはまた、「なんと煩わしいことか」と言って、私をないがしろにしている――万軍の主は言われる。あなたがたが、奪って来た動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを供え物として引いて来ているのに、私があなたがたの手からそれを受け取るだろうか――主は言われる。自分の群れの中に欠陥のない雄の動物がいて、それを献げると誓いながら傷のあるものを主に献げ、偽る者は呪われよ。私は大いなる王で、わが名が諸国民の間で畏れられているからである――万軍の主は言われる。 主がわたしたちの心を見ておられることを言っているのだろうが、それは正しいとしても、ここに書かれているようなことを望んでおられるのかと問うと、わたしは、「否」だと思う。「万軍の主」ということばもよくは理解できないが、全世界の統率者ということであるなら、人々との平和、互いに愛し合うことを望んでいると思う。主イエスに、わたしは賭けたい。 Malachi 2:15 主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。/若い時の妻を裏切ってはならない。 興味深い表現である。「肉と霊を持つただ一つのもの」わたしは、このようには、言い切れない。人間以外にも、そのような存在があることを否定できないから。しかし、そうではっても、「肉と霊を持つただ一つのもの」を生きることと真剣に向き合うことのたいせつさは、理解できる。「自分の霊に気をつけるがよい。/若い時の妻を裏切ってはならない」これも、肉と霊、双方につながっているということなのだろう。 Malachi 3:14,15 あなたがたは言っている。/「神に仕えることは空しい。/その務めを守っても/また、万軍の主の前を嘆きつつ歩いても/何の益があろうか。今こそ、我々は傲慢な者を幸せな者と呼ぼう。/彼らは悪を行っても栄え/神を試みても罰を免れている。」 このように考えるひとは、どの時代にもいるのだろう。たしかにそれを反証することも難しい。主は、憐れみ深い方だから。主がどのようなかたかを理解することは、ひとそれぞれの生き方も関係するので、難しいのかもしれない。謙虚に、求め続けたい。なにが正しいと、簡単には、断定せずに。 Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。 なんどもこの言葉を考えてきたが、これは大変なことである。神が共におられる。そのように呼ばれるということは、それが体現していると、ひとびとが、告白するということだろう。この方を通して、主がともにおられることがわかるとも、この方がおられることが、そのまま主がともにおられることを意味するとも取れる。主がおられる、神の国がここにきていることを経験することができるとも理解できる。それは、イエスが、そのように、生きられたから、生き抜いてくださったから。そして、それは、イエスにとどまらず、我々も、そのように生きることに招かれているとも言える。感謝。 Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。 いろいろと放浪したことが書かれている。これは、そうなのかもしれない。旅をしたことが、イエスや親にとって、意味を持ってくることはありうる。そして、ナザレ。ガリラヤではあるが、田舎。どのような街だったのだろう。外国人はどのぐらいいたのだろうか。少なくとも、カファルナイムなどに出れば、様々な人と出会うことができただろう。純粋なユダヤ人コミュニティで過ごしてはいないことが書かれているのだろう。 Matthew 3:7-9 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 このあとには「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(10)と続く。実はなにを意味しているか考えたくなる。ここだけでは明らかではない。しかし、マタイによる福音書全体としては、イエスを通して示される実を指し示しているように思われる。7章16-20節、12章33節、13章8節、22, 23節、26節、21章19節、43節、26章29節。実について語っている箇所は多い。血筋には依らないことが書かれている。単なる所属でも無いのだろう。一人ひとりということだろうか。そうでもないように思う。 Matthew 4:24,25 そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに付いて行った。 「その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」(17)の「その時」は「ヨハネが捕らえられたと聞」(12)いたときだろうか。ヨハネによる福音書は、もう少し前のイエスの活動も書いており、ある意図を感じる。引用箇所は、場所について書かれているが、それも、まず、シリア中とし、そのあとに、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側」としている。ほぼ、イスラエル全土で、サマリヤが除外されているようだ。これらは、何を意図しているのだろうか。考えながら読んでいきたい。 Matthew 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」 教義は後の異端といわれるものや、他の宗教との関係のなかでできてきたもので、真理に直接向かうものとは異なる、ひとつの民族主義(自分たちの文化(たいせつにしているもの)を絶対化する)かもしれないと思う。偏見なしに読むことはひとにはできないが、極力、自由に読みたい。その目的は、イエスのメッセージを受け取ることである。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4章17節・3章2節)イエスとバプテスマのヨハネのメッセージは同じである。天の国が近づいたことを確信し、そのなかでの生き方を説いていたことは確かだろう。最初の七福も、天の国が近づいた背景があるのだろう。神の支配に信頼することを前提とすると、ひとつひとつ無理とは言えない。そしてそれは、神のように完全なものとして生きることを目指すことなのだろうか。それが天の国にふさわしいものなのだろう。その内容を一つ一つ受け取っていきたい。 Matthew 6:31,32 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。 「あなた方の天の父」(14,26,32)聖書でこのことばはここにしかない。「あなたの父」(6,18)が神を指す箇所は、ここだけである。イエスの宣教の初期だけに語られたかどうかはわからないが、この「天の国は近づいた」というメッセージと神様を「父」と表現したことは、マタイによる福音書の特徴であり、イエスのメッセージの特別なものであることは確かだろう。むろん、ここで、神の子らかどうか、異邦人との区別という、排他的な民族意識が生じる可能性はあるが、このメッセージをうけとって生きることはつねに開かれているとも言える。注意して、追い求めていきたい。思い煩わずに。 Matthew 7:7,8 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。 「天の国は近づいた」(4章17節b)は、時間的な距離が近づいたと思っていたが、もしかすると空間的な距離、すぐそこにあることを意味しているのかもしれないと思った。求めれば、与えられるものなのかもしれない。神様の支配。神様の御心が完璧に行われる世界。そうでないところにいるゆえに、平安もないように思う。それを、真剣にもとめてみたいと思った。なにかとても遠いところにあるように、思っていた。「天の国は近づいた」を信じ、求めてみたい。 2022.8.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  87. BRC 2021 no.087:マタイによる福音書8章ーマタイによる福音書21章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、新約聖書のマタイによる福音書を読み進めます。この通読計画では先週旧約聖書を読み終わることになっていました。新約聖書は昨年一度読んでいますから、BRC2021 で最初から通読をしておられる方は、旧・新約聖書を読み通したことになります。なかなか大変なことですよね。中断してしまった方も、この新約聖書からもう一度はじめるのも良いですよ。共に読むことによって得られる素晴らしさを感じてくださっていればとても嬉しいです。 いつも一番下に、私の通読ノートを付けていますが、実は、前回の配信では誤って、マタイによる福音書の1章から7章については、昨年通読したときのノートを付けてしまいました。ごめんなさい。1章、2章の引用箇所が同じだったこともあり、気づきませんでした。そこで今回は、1章から21章の部分を付けさせていただきます。 一章にいくつものトピックやエピソードが含まれているので、通読で読んでいると、なかなか深くは読めず、もう少しゆっくり読みたいと思う場合もあるのではないかと思います。通読は万能ではありませんから、違う機会に、そのような読み方をできればと思います。わたしは、福音書を通読するときは、全体の流れを確認し、それぞれの、トピックや、エピソードのつながりに注意してまず読み、その中で、気になった箇所をその前後の繋がりも確認しながら、もう一度読んで、ノートを書くようにしています。出席者にも、発言していただく、ディスカッション形式の聖書の学びも以前していたので、できれば、それぞれの箇所について、様々な視点からの感想を聞くことができればとも思います。様々な登場人物も出てきますから、印象的に思う人物、自己投影をするひとも、ひとによって異なるかもしれません。その機能を補完することまではできないかもしれませんが、一つのトピックや、エピソードであっても、印象的なこと、こういうことかなと学んだこと、これはおかしいのではと疑問に思ったことがあれば、ぜひ、投稿してください。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マタイによる福音書8章ーマタイによる福音書21章はみなさんが、明日8月22日(月曜日)から8月28日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。 ヨセフものがたりをこのように書く要請があったのだろう。真実は、不明である。マリアは、理解していたはずであるが。しかし、ここでの中心は「インマヌエル」なのだろう。イエスは、主がともにおられることを体現されたかた。イエスが、神の子、神様の子なら、みこころをこのように生きると示してくださった、証が、福音書なのだろう。その中身を、これから見ていく。神の子としてどう生きるかは、そのひとの、神理解によるわけで、それによって、みこころが示されることも意味している。みずからを、神や、神の子、神から遣わされたと言ったとたんに、大きな責任を担うことになるのだから。 Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。 マタイによる福音書の旧約聖書の引用には、いろいろと違和感がある。通常言われているように、マタイが書き残した語録をもとに、マルコによる福音書の進行を用いて、旧約聖書の預言の成就という観点を強調して編集されたように思われる。そのために、いくつもの無理があるように思われる。この引用箇所も、適切な旧約聖書の対応箇所はない。むろん、理由はいくつも主張することが可能だろうが。完全に、イエス自体について蘇らすことは不可能だが、すこしずつ、どのように神の子として行きたかを学んでいきたい。それこそが福音なのだから。 Matthew 3:11,12 私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」 ヨハネとイエスの関係は様々に描かれており、ある関係があったことは、確かなのだろう。使徒言行録の記事などからも、ヨハネは当時かなり有名だったようだが、自身も、そして、メシヤも、悔い改めを説き、さばきをともなう。イエス自身の行動は、まだ、ここからは予見できないように思う。 Matthew 4:1-3 さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 空腹を覚えた時の問として「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」が取り上げられるが、中心は「神の子なら」なのだろう。「これは私の愛する子、わたしの心にかなう者」(3:17a)との声を聞き、神に愛される子として生きることについて、誘惑も受けながら考えたのがこの期間だったのだろう。神に愛される子として生きる。それは、神に喜ばれる生き方、神の御心に生きる生き方、同時に、神の痛みを痛みとして生きる生き方でもあるのだろう。2つ目は「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(6)であり3つ目は「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」(9)である。3つ目には「神の子なら」はない。いくつもヒントはあるように思われるが、答えではない。そして、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19b)と弟子を招き、人々には「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17b)と呼びかける。神の子として生きるイエスの宣教のはじまりである。しっかり考えたい。 Matthew 5:45 天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 この章の最後は「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」(48)となっている。神の子となるため、天のお父様のように完全になる。そこで、いわれていることが、この聖句である。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」示唆に富む。このことを受け止めたい。 Matthew 6:32,33 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。 これも、神様との協働(Collaboration)で育まれるものだということだろう。御心を生きる。神の子として生きる。同義なのかもしれない。神様の働きを信頼して、みずからも神の国と神の義をもとめる。そのような生き方をしたい。 Matthew 7:21 「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。 これを避けて通りたい時がある。しかし、基本的には、神様の子として生きること。それは、神様の御心を行うものなのだろう。その単純なことを、受け入れないといけない。わたしが神の子だというものではなく、神の御心を生きるものと言うことなのだろう。 Matthew 8:16,17 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現した。/「彼は私たちの弱さを負い/病を担った。」 イザヤ書の引用には驚かされる。旧約聖書にも、病が癒やされたり、死者が蘇ったりという記事はある。しかし、ここでは、イザヤのこの言葉が引用されている。イエスが、語られていたのではないかとさえ思う。ということは、いやしは、単に、神様が望まれるだけではなく(3)弱さを引き受け、病を担うことなのだろう。具体的になにを意味しているのかは、理解しにくいが。わたしたちにも、できるときがあるのだろうか。                               Matthew 9:23 イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。 マタイでは、この時に、治ったと書かれている。関係が持たれたときと言うことだろうか。理解はやはり難しい。奇跡物語、とくにいやしの物語も、統一的に理解することは難しいのかもしれない。丁寧に理解していきたい。 Matthew 10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。 まずこの言葉に驚く。そのような権能を授けることができるのだろうか。実際、癒やされない場合も記録されている。さらに、この章には、弟子たちがこれから経験することについて、かなり厳しい現実が語られている。そして、それは親御心のようものとしては理解できるが、必ずしも、現実を投影してもいないように思われる。自分から、弟子たちに働きを広げる、大きなステップは、イエスにとっても、未知の世界への一歩だったのかもしれない。全知全能を仮定して理解するのは、問題もあるように思う。演繹だから。 Matthew 11:27 すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。 傲慢にも聞こえる。文字通り取ろうとするからかもしれない。神の御心を生きるということが難しいことは、イエスはよく知っていただろう。そして、誤解も。神の国は近いかもしれないが、御心がすべて明らかにされたわけではない。イエスにとっても、難しい時期だったのかもしれない。 Matthew 12:8 人の子は安息日の主なのである。」 安息日に関する議論が二つ続く。ユダヤ教のファリサイ派のひとたちとの軋轢が始まる箇所でもある。もし、時系列どおりなら、このあとにイザヤ書42章1-4節からの引用「見よ、私の選んだ僕/私の心が喜びとする、私の愛する者を。/この僕に私の霊を授け/彼は異邦人に公正を告げる。」(18)が続く。異邦人(イザヤ書では諸国民)のことばが入っていること「公正を勝利に導くまで/彼は傷ついた葦を折ることもなく/くすぶる灯心の火を消すこともない。」(20)と、なにを大切にするかが明確にされていることが書かれている。この場所、この時代でなければ、ことなるメッセージが聞けたと思うが、それを残念がっても仕方がないのだろう。「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(50)とあるように、人の子には、父の御心を行うものも連なるのだろう。難しいことでもある。 Matthew 13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 種まきのたとえが語られ「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(10b)を受けて、たとえの解き明かしが語られる。その最後が引用句である。結局、悟るかどうかが鍵のようである。それは、学ぶといっても良いかもしれない。さまざまな要素があるだろう。学び、成長する、すなわち、神様の御心を受け取ろうとするかどうかで、違ってくると言っているのかもしれない。学ぶことは難しい。 Matthew 14:13,14 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。 バプテスマのヨハネが処刑されたことを聞くこととつながっている。ここで、イエスが行動の方向を定めたのは、深く憐れんだことが鍵となっているように思われる。ここも深く憐れんでは、スプラッグニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)が使われている。マタイでは5回、マルコ4回、ルカ3回である。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)「群衆がかわいそうだ」(15:32)「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。」(18:27)「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」(20:34)あまりこのことばにこだわるのは問題かもしれないが、最初の3回は、群衆の状態にたいするイエスの行動の起点のように思われる。痛みがそこにあるように思われる。そしてそれは、神様の痛みでもあるのだろう。 Matthew 15:22 すると、この地方に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 ここでの憐れみはエレーオー(ἐλεέω: to compassionate (by word or deed, specially, by divine grace):—have compassion (pity on), have (obtain, receive, shew) mercy (on).)が用いられている。神の憐れみを乞うているのだろう。ここでは、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」(26)が印象的であるが、最後の、「そこで、イエスはお答えになった。『女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』その時、娘の病気は癒やされた。」(28)は、この女とのやりとりを大切にしたこととともに、弟子や、他の周囲の人達との相互作用を大切にしたように思われる。「あなたの信仰は立派だ」このことばに、イエスの感嘆も表現されているのだろう。弟子たちが何をどう学んだか、おそらく、皆で語り合ったことだろう。使命と御心の区別だろうか。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。(つづく)』」(10:5,6) Matthew 16:2,3 イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。 直接的に語っているわけではないが、空の様子をみて、天気を予想することと同じ様なことがあるといういみでも、肯定している。聖書に限らず、様々なものから、神様の御心をしることができる。それを否定することではない。ヨナのしるしのことが書かれているが、実際には、さまざまなしるしが与えられているのだろう。みこころを受け取っていきたいものである。 Matthew 17:2,3 すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 マタイ記者は、そして、マルコも、ルカも同じ構成になっているので「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、人の子が御国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(16章28節)との関係性が初代教会では認識されていたのだろう。16章の最初の「しるし」(12:38-42参照)とも関係があるのかもしれない。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(1)とあり、この三人にしか見ることができなかったことも、注意を要するのだろう。ただ、ヨハネは、証言していない。そのことも、受け止めるべきだろう。 Matthew 18:1 その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。 イエスはこの問に直接は答えていないように思う。答えは「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(4,5)である。そして「つまづかせるもの」について語り、迷い出た一匹の羊のたとえを語り、そのようなひとがいたらどうしたらよいかを語り、ゆるしについて語る。その中で、神の憐れみのことば「スプラッグニゾマイ」(27)が出てくる。全体として神様のことを語っているのだろう。神様の痛みを痛みとし、御心をみこころとすること。それが天国では一番えらいというごく自然なことを説きながら、神様について語っているように思う。興味深い章である。 Matthew 19:21,22 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 ここで、できなくても、イエスに従えばよかったと考えるのは短絡なのかもしれない。従っていけば、少しずつ、神様のみこころが見えてきたかもしれない。しかし、単純なこたえには、イエスは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(30)と付け加えられるだろう。イエスが語っているのは、あたらしいことではなく、当時のひとたちにとっては当然なこと、律法のことばを通して、かみさまの真意をうけとることが、最重要で、それは、わたしたちにも同じように提示されていると示しておられるのかもしれない。 Matthew 20:29,30 一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。 もう8年以上も前のことになるが、ルカの対応箇所(ルカ18章35-43節)を聖書の会で読んでいたときのことを思い出す。マルコの対応箇所(マルコ10章46-52節)は「一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。」(マルコ10章46節)と始まる。比較すると、様々な違いにも気づくのだが、「『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、また見えるようになることです』と言った。」(ルカ18章41節)の箇所に来て、そのとき初めて参加した重い遺伝性の視覚障害があり、ほんの少し残っていた中心視野が、日に日に失われていっている学生が「こうは言わない。おかしい。」と断言した。しかし、マタイでは「二人の盲人」とあり、マルコでは「ティマイの子で、バルティマイ」とあり、ティマイ自身が盲人という意味に使われることもあると説明すると、それならわかるという。親子で(遺伝も考えられる)盲人であったときのは、状況は異なるというのだった。一同、見えない世界を見せられたようで感動したことを思い出す。実は、その学生を一週前に誘ったが、用事がありこの日になってしまい、盲人の箇所であったので、大丈夫かなと心配して臨んだ聖書の会であった。上に書いたことだけで理解できるわけではないし、不確定要素も多いが、様々な視点によって学ぶことのたいせつさを感じさせられた。最近、そのときにやはりはじめて聖書の会に出席した方(今は卒業生)から、このときのつよい印象を聞いたので、まとめて書いておくことにした。わたしは、その方にとっても最初の会であったことを覚えてすらいなかった。聖書の会リーダーとして公平さに欠けると自戒もさせられた。同時に、黙っていた方(またはわたしが内なる声を聞きとれなかった方)の声も少し聞くことができたのも、嬉しかった。(しっかりとは聞けてないように思うが。)この章には、ほかにもいくつも興味深い記事があるのだが、記憶を記録とすることとした。 Matthew 21:15,16 しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」 わたしも年をとってしまい、この子どもたちの声が聞こえてこない。しかし、この子どもたちは子どもたちなりに精一杯に賛美しているのだろう。すこし、根拠もあるが(マタイ18章1−5節、マタイ19章13-15節など)、おそらく、イエスは、こどもたちにも、つねに、丁寧に、公平に接していただろう。おとなは、自分たちはもっとよく知っていると考えてしまう。しかし、実際、忘れてしまっているこどものころの感動も多いことを最近学んでいる。こどもは、おとなのことばで伝えることはできないが、こどものことばで精一杯表現する。自分で理解はできなくても、すこしでも、それを聞き、受け取ることができればと願う。 2022.8.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  88. BRC 2021 no.088:マタイによる福音書22章ーマルコによる福音書7章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、新約聖書のマタイによる福音書の後半を読み、マルコによる福音書に入ります。福音書はいかがですか。 マタイによる福音書では21章にイエスがエルサレムに入られる記事が書かれており、イエス様最後のときについて書かれています。マタイによる福音書は、28章までですから、7分の2、30% 弱がこの期間の記述に割かれていることになります。どのようなことが書かれているのでしょうか。 マタイによる福音書が終わると、マルコによる福音書を読みます。マルコによる福音書は、マタイによる福音書のあとに置かれていますが、マタイによる福音書より前、現存する福音書の中では一番最初に書かれたものだとされています。さらに、マタイによる福音書とルカによる福音書は、流れについては、ほぼマルコによる福音書を踏襲していることも確認されています。その意味でも、共観福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書)の原型となるものとも言えます。伝承によると、マルコは、ペトロの通訳として、ペトロと行動をともにして、その説教から福音書をまとめたとされています。展開がはやく、テンポよく進んでいくのが特徴です。みなさんは、マタイによる福音書を読んでから、読むことになるので、似たエピソードがたくさん含まれていることに気づかれると思います。聖書によっては、対応箇所の章と節が書かれているものもあります。ほとんど同じ記述のこともありますし、違っていることもあります。なにをたいせつにして伝えているかが違うのでしょう。それぞれの記者の視点とともに、異なる記者の視点から、実際には、どのようなことだったのだろうと考えるのも、よいと思います。疑問点や違和感を感じたこと、印象に残ったり、感激したことメモのようなものでも残しておくと、このあと、ルカによる福音書を読むときにも、助けとなり、さらに深めることができるかもしれませんよ。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マタイによる福音書22章ーマルコによる福音書7章はみなさんが、明日8月29日(月曜日)から9月4日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書とマルコによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mt マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Matthew 22:36-40 「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」 最も重要な戒めの部分を全部抜き出した。しっかり考えたいからである。心・魂・思いについてもよくわからない。ここで、愛しなさいは何を言っているのだろうか。心から歓迎 Welcome しなさいでよいだろうか。主のなされること、思い、憐れみ、赦しだろうか。特に、マタイ 20章1節から16節のぶどう園の労働者のことが目に浮かぶ。この章の最初の祝宴についても。わからないことも多い。しかし、主にとってたいせつなものを大切にすることだろうか。自分も隣人も含めて。 Matthew 23:2,3 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。 このあとには、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。」(8)とあり、さらに、律法学者とファリサイ派の人々をのろうことばが続く。あまりにも厳しく驚かされる。ここまで言わないと、その権威に飲み込まれてしまうからだろうか。現代でも、似た状況は続いているように思うが。それは、どうなのだろうか。きょうだいとして、励まし合うことは、できないのだろうか。考えさせられる。 Matthew 24:12-14 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」 「世の終わり」(3)に対する応答がまとめられている。それは、イエスの言葉「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」(2b)に関係しているように見える。実際に起こったことでもあるので、それをまとめているとも考えられる。引用箇所から考えると、イエスは「世の終わり」を意識することとはことなることを考えており、伝えようとしているようにも見える。人はつい「世の終わり」のようなものに興味を持つ。特別なときだからだろうか。しかし、日常の中に、わたしたちのすべきことがあるのではないだろうか。 Matthew 25:45 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』 王にとっては、一人ひとりが自分自身であり、愛する子のような存在なのだろう。それ以上に、一体であることも言っているように思う。すごいことでもある。「この最も小さな者の一人」に「する」「しない」は神様と関わることを意味している。わたしたちの神様の感覚とは、かなり異なるように思われる。交わり、相互性と含めて、もう少し深く考えたい。 Matthew 26:40-42 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」 イエスは共に目を覚ましていることを願っていたこと、そして主(天の父)のみ心を最優先していたことがわかる。それが、弟子たちには、必ずしも簡単ではないことをご存知でもある。イエス様も、完全な解決方法をお持ちではなかったのかもしれない。しかし、なにを望んでおられたかはわかる。それを求めていくこと、それが信仰生活、生きることなのかもしれない。 Matthew 27:11,12 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。かし、祭司長たちや長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。 このあとにも「しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。」(13)とある。最後の最後まで、できる限りのことをするということとは異なるように見える。この記述からだけ、判断するのは、困難であるが、ゲッセマネでの祈りの中で「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」(26章42節)と祈っている。イエスがみ心を確信していたのかもしれない。われわれは、そこまで確信するのは、危険だと思うが、それもひとつの生き方なのかもしれない。個人的には、判断の難しさも感じるが。 Matthew 28:18-20 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 形式的にも整えられていて、それは、マタイによる福音書が書かれた時点で、イエスから受け取ったとされた命令なのだろう。それだけ重要であれば、ヨハネも加えるだろうが、そうはなっていない。だから、そのようなことがなかったということではなく、中心的なメッセージは、弟子たちは確かに受け取っていたのだろう。そう考えると「弟子」の部分だろうか。イエスに学ぶもの、それは、当時、自然なことでもあるし、弟子たちは、学ぶことをたくさん、受け取っていたのだろう。神の子として生きる道と簡単には言えないかもしれないが。 Mark 1:11 すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1) マルコの最初である。バプテスマのヨハネのことが語られ、受洗、そしてこのことばがあり、サタンの試みがあり、宣教開始が宣言され、弟子を招き、安息日に会堂で教え、汚れた霊に憑かれたひとから悪霊を追い出し、シモンの姑をいやし、巡回宣教に入る。そして、規定の病を患っている人を清めるとここまでが、第1章である。非常にテンポが早い。時間もある程度たっていることが見て取れる。実際の宣教を書きたかったのかもしれない。それが当時中心にかかれていたのかもしれない。 Mark 2:5 イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 「数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」(1,2)と始まる。御言葉よりも実質的な苦しみの解決がまずはあるのだろう。痛み・苦しみを持っておられる方を前に言葉はなく、それを批判することはできない。たとえ、病がいやされても、問題は残ると考えるからだ。しかしここでは、「イエスは彼らの信仰を見て」とあり、病が癒やされ、さらに、神様との関係も回復されているように見える。「彼ら」は誰かという議論は何度か聞いたが、ここでは、彼らの相互の愛・関係なのかなと思った。担いでいったひとも、担がれた人も、このことは、一生記憶に残ることだろう。そして、ここでその信仰が認められたことも。原理にこだわらず、たいせつなことを模索していきたい。 Mark 3:11,12 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言い触らさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 「あなたは神の子だ」このことばは誰が聞いたのだろうか。記述からわかることは、イエスはこれを聞いただろう。神の子とは何者かが独り歩きすることは避けたかっただろう。特に、そこで起こっていることだけであれば「気が変になっている」(21)「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(22)「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22)とも言われる。イエスは「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(35)と語り、「神の御心を行う人」というキーワードを残している。イエスにとっては、これが神の子として生きることだったのだろう。弟子についてはもう少し知りたい。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(14,15) Mark 4:33,34 イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。 たとえで語ることはいろいろな効果があるのだろう。ゆっくり考えてみたい。抽象的ではなく例示という手法で具体性を持って考えられること。考えることによってその中に含まれる本質を見抜くことができる可能性があることだろうか。そう考えると、あらぬ方に行ってしまうこともある。ここにあるように、それを避けるために、弟子たちには、たとえに加えて語られたのだろう。しかし「すべて」とあるが、そのように受け取ったとするとおそらくそこには問題もあるだろう。求め続けること、これも、たとえの効用のように思われる。 Mark 5:28,29 「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。すると、すぐに出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。 マルコでは「すぐに出血が止まり」とあり、病苦からの解放を「感じた」とある。他の訳では、この記述がことなるということは、疑問も出され、批判もされたのだろう。どの時点で癒やされたかはそう簡単に判断できるわけではない。感覚も、あまり頼りになることではなく、特別な薬を飲めばそのときに効いたような気がするときもある。だからあまり細かいことで、教義的な正確さを議論することは適切ではないのだろう。このあとに、「私の衣に触れたのは誰か」(30)とイエスの側がなにかを感じたことは興味深い。そのメカニズムまではわからないが、よくわからない隠された関係が表面化し「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(34)と終わっているのは、感動的である。 Mark 6:12,13 十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。 当事者はこのように簡単には言えないだろう。一つ一つに物語があり、一人ひとりに違いもあるはずである。実際には、その場にいなかったものの証言とも言える。しかし、まったくの虚偽というわけでもないのだろう。まずは、悔い改めを宣べ伝えたこと。そして悪霊に憑かれたひとに向き合ったこと、油を塗るなどして病人にも仕えたことだろうか。実際の活動で学んだことは多かったと思う。背後にある困難さも、学んだと思われる。現場を、人々と接しながら知ることはたいせつである。 Mark 7:19,20 それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。 この箇所だけで「このようにイエスは、すべての食べ物を清いものと」したとするのは、無理がある。しかし、このように、弟子たちが、イエスが明言はされなかったことで、学び判断しなければならないことはたくさんあったのだろう。そのことに敬意を表し、同時に、わたしも、イエスに目を留めつつ、さまざまな課題に向かっていきたい。間違えることもあるだろうが。 2022.8.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html 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  89. BRC 2021 no.089:マルコによる福音書8章ールカによる福音書5章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、新約聖書のマルコによる福音書の後半を読み、ルカによる福音書に入ります。新約聖書を読み始めるときにも書きましたが、最初の三つの福音書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は、共観福音書とよばれ並行記事が多く、また、前回も書いたように、流れはマルコによる福音書をベースにしているようです。このことからも、マルコによる福音書がまず書かれ、しばらくたってから、マタイによる福音書と、ルカによる福音書が書かれたと考えられています。ヨハネによる福音書はさらにしばらくたってから書かれたようです。 マルコによる福音書の最後の16章は、ちょっと奇異に感じます。古い写本には、8節までしかなく、それ以降(復活についての記述の部分ですが)は、写本によって異なることから、それらがいくつか併記されていたり、括弧に入っていたりしていると思います。みなさんが読んでおられる聖書ではどうなっていますか。復活が実際どのようなものだったのかについては、様々な証言があったということなのかもしれません。 ルカによる福音書については、下にリンクをつけてあるホームページを見ていただきたいと思います。使徒言行録(使徒の働き、使徒行伝など書名は翻訳によって異なります)や、そのあとの、書簡に書かれている情報を総合すると、ルカはギリシャ人、医者で、パウロと一緒にエルサレムに上り、その後も、パウロのそばにいたようです。ルカ自身、エルサレムで、イエスやイエスの母マリアのことも直接知っている女性や男性たち(そして、もしかするとイエスの直接の弟子たち何人か)から聞いたことなどもあわせて、すでに存在していたマルコによる福音書の流れも参考にして書かれたのではないかと思います。そのような経緯とルカによる福音書の執筆目的が、ルカによる福音書1章1節から4節にかかれています。そこに現れるテオフィロという人については、わかっていません。神を愛するという意味の名前なので、架空の人名かもしれないとも考えられています。ルカによる福音書が一番好きと言われる方も、たくさんおられます。みなさんは、三つの共観福音書それぞれに、どのような感想を持たれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 マルコによる福音書8章ールカによる福音書5章はみなさんが、明日9月5日(月曜日)から9月11日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 マルコによる福音書とルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#mk ルカのよる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Mark 8:19-21 私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 不思議な会話である。正直、わたしも「悟らない」弟子たちと同じである。基本的には、簡単な数学的な計算や、人の努力でできる方策 - ロジスティクス(logistics)ではなく、神様の恵みを言っているのだろう。パンのことはヨハネにも書かれており、弟子たちにとってもとても印象的な出来事だったのだろう。最後には「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(34b)とある。悟ることができない、おろかな私だが、それを解決するのではなく、わたしの十字架を負って、イエスに従うことを求めるべきなのかもしれない。 Mark 9:49,50 人は皆、火で塩気を付けられねばならない。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 二度目の死と復活の預言があり、誰が偉いのかの議論などがあり「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」(42)から始まるイエスの言葉が引用句である。理解が困難である。「火で塩気を付け」るがよくわからない。塩も不明である。そしてなぜ急に「平和」について書かれているのか。平たい言葉でいうと、様々な苦い経験から学び、互いに平和に過ごす道を求めなさいということだろうか。ここにも「互いに」が現れる。一度、このことばについても調べてみたい。 Mark 10:45 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 贖罪について書かれた数少ない共観福音書のことばである。中心は「仕える」ことにあるのだろうと感じた。それは「自分の命を献げる」ことによってなのだろう。あまり教義的に理解しなくて良いのかもしれない。そして、この章は「金持ちの青年」についての記事があるので「金持ちが神の国に入る」ことの困難さにも目がいく。何かを豊かに持っている者は、仕えることが難しいのかもしれない。仕えることを大切にしたい。 Mark 11:12-14 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 あまり細かいことに執着するのは適切ではないかもしれないが、なんとも理不尽なことである。イエスはいちじくが実をつける季節も知らなかったようだ。そしてこのいちぢくが枯れたことが書かれている。(20)これが信仰のたいせつさのメッセージにつながるが、やはり理不尽である。イエスが空腹を覚え、なんでも知っているわけではなく、間違いもする例とすることも可能である。また、このいちじくから、イエスが学んだこともあったのかもしれない。それがこのように伝えられてしまった。神は自律的に判断する、不明であるということで終わりにはしたくない。 Mark 12:43,44 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 神がみておられることは、人が見るのとは違うよ。ということを言っているように感じた。この章では、イエスの見方の違い、見せかけのものと、神様の見方についていくつか述べられているからでもある。やもめの行為自体に目を向けると問題もおこるように思う。しかし、最初のぶどう園を作って農夫たちに貸した話など、決裂を予告しているようにも見える。それは、イエスの地上での宣教の敗北ではないのだろうか。もっと、時間を使って待つ道はなかったのか。難しいなと感じる。 Mark 13:28,29 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 このあとには「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(32)ともあり、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(33)と続く。全体的には、終わりのときについてはわからないこと。それよりも、気をつけて目を覚ましていることがたいせつだと言っている。この目を覚ましているは、繰り返されるが、なにを言っているのだろうか。引用句からすると、神様からのメッセージに目を向けることのようにも思われる。しっかりとした観察がひつようであることも、言っているのかもしれない。不明としておくのが安全なのかもしれない。 Mark 14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」 「生まれなかったほうが、その者のためによかった。」とはどのような意味か考えてみることにした。イエスは、ユダを愛しておられ、これから、彼が苦しむことになることを言っているのではないかなとまず思った。さらに、永遠の命、永遠の滅びもあるかもしれないが、単に肉体的に朽ち果てる以上のことをも考えているなら、まさに、自分の人生を悔い続けることに、こころが引き裂かれる思いだったのかもしれない。それは同時に、神様やイエス様の苦しみでもあるように思う。軽々しく、「生まれてこなかったほうがよいような命はない」と言い切れる軽さはここには無い。 Mark 15:4,5 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。あんなにお前を訴えているのに。」しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった。 イエスは争わない。批判はするが。議論で、解決することではないことをご存知のようだ。列王記下1章のエリヤのように力も使わない。神様にまたは弟子たちに委ねているのだろうか。自分の役割は終わったと考えているのだろうか。それとも、贖罪死を絶対化しているのか。正直わからない。しかし、対立や二分化を避けているようには思う。対立はどのようにして、避けられるのだろうか。難しい。 Mark 16:7,8 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 マルコの最後は不思議である。しかし、具体性があるものとしては、ガリラヤだろうか。復活の主はガリラヤに行かれることを告げられたのか。エルサレムではご自身を現さないのか。これは、ひとつ重要な点である。ガリラヤについては、マタイによる福音書28章10節、16節以降でも証言している。しかしルカによる福音書24章では、エルサレム近郊での証言が主であり、エルサレム近郊で召天されたとも書かれている。ヨハネはエルサレム(20章)と、ガリラヤ(21章)についてイエスの顕現を証言しているが21章は追加ともされ、ヨハネの直接証言では無いかもしれない。もう一点は、女たちの証言。どの福音書にも現れる、重要な要素であるが、正気を失っていたとあり、証言能力が十分あったかどうか、不明という書き方でもある。しかし、ヨハネによる福音書などにより、復活を弟子たちが確信するに至ったことは確かだろう。すくなくともそのように伝えることが確定している。客観性を持って理解できることはそのあたりだろうか。 Luke 1:46-48 そこで、マリアは言った。/「私の魂は主を崇め 私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に/目を留めてくださったからです。/今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう。 ルカによる福音書の特徴の1つは、このマリアの物語である。ルカがパウロについてエルサレムに上ったとき、マリアに会ったかは不明だが、会えなかったとしても、マリアを知っている人、とくに、女性の中でのマリアについての称賛する声はたくさん聞いたのではないだろうか。この美しいマリアの讃歌のようにまとまっていたかはわからないが、それに近いものを聞いたルカは、それを記さずにはいられなかったろう。伝えられたエピソードを超えた、真実がそこにあったのだろうと思う。事実かどうかを争うのとは、べつの次元の真実がそこにあるように思う。 Luke 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」 これも母のことばとしている。ルカが、マリアの周辺のおそらく女性たちから聞き取った話なのだろう。ルカが、どのエピソードをルカによる福音書に加えるかにあたって、みずから詳しく調べたことを書くことにしたのだろう。ヘロデはBC4に亡くなっているので、イエスの誕生はそれ以前ということは、おそらく、正しいだろう。しかし、マタイによる福音書の誕生物語との整合性をとるのは、困難ではないが、可能性としては低いように思われる。ルカによる福音書には、マタイによる福音書の記事はほとんどどれも、書かれていないからである。ルカがしかしながら、これらを加えて一つの書物となったことにはある意義・メッセージがあるのだろう。これも、読み取っていきたい。 Luke 3:23 イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり、人々からはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡ると、 マリアがイエスの年齢について無知だったとは考えられない。イエスが生まれたのは、BC4年以前、処刑されたのは、AD28または29 とすると、三十歳とは誤差がある。マリアから直接ではなく、その周囲の人からの情報だったのだろう。系図もマタイとは異なる。これも、整合性をとる試みはあるが、やはり直接は知らない人の証言や、伝承に依っているのだろう。それが、系図について(テモテへの手紙一1章4節)の争いを避けなさいということばにつながっているようにも思う。これも、多少時代が下がってからのものかもしれないが。この3章までの理解は難しい。いずれしっかりと考えてみたい。 Luke 4:41 また悪霊も、「あなたは神の子だ」と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊を叱って、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスがメシアだと知っていたからである。 ちぐはぐに感じられる。悪霊は語っており、イエスはそれを叱って「ものを言うことをお許しにならなかった。」神の子証言も、なぜ、悪霊がいうのか、よくわからない。イエスが、神の子として、これらのことをなしていることは、何らかの方法で、理解できる人には理解できたということだろうか。「神の子」や「メシヤ」ということばも、どのような意味で言われているのか不明である。 Luke 5:31,32 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 イエスにも遣わされた目的があり、万人の救いをめざして日々働いておられたのではないのだろう。謙虚に、今日の日をいきていきたい。 2022.9.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  90. BRC 2021 no.090:ルカによる福音書6章ールカによる福音書19章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ルカによる福音書を読み進めます。共観福音書と呼ばれている、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書いかがですか。似た物語が並んでいるとも言えますが、「あれっ」と思うことはありませんか。同じエピソードであっても、詳細においては、違いを見つけることがあるのではないかと思います。通読では、丁寧にその違いを見ていくことはできないかと思いますが、その日に読む部分の一つのエピソードだけでよいですから、「あれっ」と思ったエピソードの他の福音書の対応箇所を確認してみると世界が広がっていくと思います。 違いと共通部分を確認することが最初でしょうか。違いは、どのようにして生じるのでしょうか。いろいろな考え方があると思いますが、わたしは、次のようなことを考えています。まずひとつは、福音書記者が受け取ったメッセージ、つまり印象的だとして受け取ったことを丁寧に伝えたいと思うこと。そして福音書が書かれた背景でしょうか。マルコが最初に書かれ、それとは別に、マタイなどによって記録されたイエスの説教集や語録があったと思われること、それから、マルコによる福音書が書かれてから、マタイとルカはおそらく同じ頃に書かれたということ。さらに、マタイは、イエスの十二弟子の一人ですが、マタイ由来の資料を使ったものの、おそらく、マタイがすべてを書いたのではないと思われること。(マタイが書くのであれば、マルコの流れに沿う必要はなかったはずです。)(確定しているわけではありませんが)そのような成立過程を考えると、マタイには、実際にその場に居たものとして、マルコの記述を修正している部分もあるように見受けられます。ルカは、自分で、イエスのことを直接知っている人、その人達から話を聞いた人たちから取材しているようですから、そのような情報を持っていると同時に、ルカなりに受け取ったことを、丁寧に、生かしてルカによる福音書を書いただろうということもあるように思います。 これらの福音書から、三つの福音書をつなぎ合わせたり、共通なことに注目して、実際どうだったのだろうと考えることもできるかもしれません。簡単ではありませんが、イエス様が伝えたかったこと、イエス様がなしたかったこと、イエス様が伝える神様や、神様の御心について、受け取ることできるとよいなと、それを目標としながら、わたしは、共観福音書の違いも楽しみながら、読んでいます。みなさんは、いかがでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ルカによる福音書6章ールカによる福音書19章はみなさんが、明日9月12日(月曜日)から9月18日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカのよる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Luke 6:32,33 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 ここには、神様の驚くべき憐れみと愛がある。神様のように愛することは難しい。しかし、その愛で互いに愛しあうものになりたい。それを示してくださる主に感謝。 Luke 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 原因と結果などというものとは違うのだろう。このあと、イエスは、「あなたの罪は赦された」(48b)と言われさらに、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50b)とも言っている。罪の赦し以上に、いのちが与えられることが重要なのか。同じことなのかもしれない。同じことであれば、原因も結果もない。 Luke 8:15 良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」 詳細な比較はしていないが、ルカの記述は、御言葉を受け取った人の資質について言及した表現になっているようでちょっと気になった。「道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。」(12)道端さんは、資質ではないが、他のひとと比較するとすると主の主権だろうか。「岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。」(13)根がないとは、何を意味しているのだろうか。受け取り方が浅いということだろうが、原因は不明確。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。」(14)これは、受け取ったひとに責任があることを言っているのだろうか。引用句もふくめ、いろいろある、としか言えないのかもしれない。他の共観福音書と比較して、また学んでみたい。 Luke 9:48 言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」 不思議なことばである。「私の名のために、この子どもを受け入れる者」が「私をお遣わしになった方を受け入れる(者)」に置き換えられることが言われているが、そのようなものが偉いのではなく、いちばん小さい者が偉いとなっている。神様にとってたいせつなこども、一番小さい者が、たいせつだということだろうか。 Luke 10:27,28 彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25)から始まる。ここで出てくるものは、マタイ22章36-40節、およびマルコ12章29-31節における最も重要な戒めの答えと同じである。最も重要な戒めを守ること、これらを行うことによって永遠の命を受け継ぐことができるということだろう。このあと、善きサマリア人の例えが語られ、マルタとマリアの話が続く。イエスはマルタに永遠のいのちを受け継ぎなさいと言われているのかもしれない。 Luke 11:41 むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。 イエスご自身が食事の前に身を清められなかったことに発する清めの議論のあとでイエスが言われたことである。このあとには「それにしても、あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もなおざりにはできないが。」(42)と続く。少し、揺れがあるようにも思われるが「できることを施しとして与えなさい」は、とても新鮮である。できることをするではなく、より具体的である。 Luke 12:6 五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。 マタイ10章29節には「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」とあり、昔見た Cliff Richard の映画 Tow a Penny を思い出す。しかしここでは、「五羽の雀は二アサリオン」である。最小単位のお金で換算しても、割り切れない。一羽いくらといえないような雀一羽でも、神の前で忘れられていない。驚きである。 Luke 13:8,9 園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」 「それから、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。』」(6)から始まる。共観福音書に並行記事はないが、マルコによる福音書 11章12-14, 20-24節と、マタイによる福音書の21章18-22節の、イエスが実のないいちじくの木を呪いそれが枯れた記事を思い出す。ルカはその記事を含めないで、この記事を入れている。おそらく、マルコの記事は読んでいたろう。その記事に、疑問を感じた人もいたのかもしれない。とても、興味深い記事である。実際どうだったかは不明だが。 Luke 14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 マタイ22章1節〜14節にも似た話があるが少しずつ違っている。ルカでは最後「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。」(24)で終わっている。現実からすると整合性があるとは言えない。マタイでは、礼服を着ていない者について「王は召し使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(13,14)で終わっている。こちらも理不尽に感じる。しかし、おそらく、この2つのバージョンが残されていることは、書くときに違和感があったということなのかもしれない。客観性より、イエスの嘆きがあるのかもしれない。 Luke 15:31,32 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」 兄と弟、そして、父、最後、感動して、終わってしまう。兄について、もし、マタイ20章のぶどう園の話であれば、やはり 9時、12時、3時、5時の雇い始めの時間の違いを理不尽に感じてしまう。どちらの場合も、神様の恵みをうけとること、神様の愛をうけとることは、簡単ではないのだろう。公平の難しさをも感じるが、そこに公平の意味があるのかもしれない。 Luke 16:8,9 主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 何度も考えさせられてきた「不正な管理人」の話である。今回は「不正の富で友達を作りなさい」に眼が止まった。不正の富はこの世で任せられているものであることは、よいとして、ここでは、友を作ることが大切であることが強調されているように思われる。そして、急に「あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と天上のことに場面移動する。友は「互いに愛し合うもの」なのではないかと思う。「互いに愛し合いなさい」はルカには無いが、イエスが「新しい戒め」として弟子たちに最後に委ねるのであれば、その萌芽、またはヒントは、それ以前にもあるとみるのが自然だろう。それが、このたとえのように思う。おそらく、弟子たちにも理解できなかったろうが。そして、ルカはこの形で記録している。 Luke 17:5,6 さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。 「からし種一粒ほどの信仰」として何度も、聞いてきたことだが、あまり、真剣に読んでいなかったように思う。桑の木は、単純なたとえなのだろうか。中心は「信仰を増してください」が当を得ていないというこどなのだろう。もし、この続きに注目するなら、謙虚に、持てるもので、できる限りのことをし「私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません」(10b)という心持ちをたいせつにすることなのだろう。これは儀礼や、形式ではないはずである。そして、背後にあるのは、信仰のことを神の子イエスに頼んでいるのだから、ひとにたいしてではなく、神様に対してである。そして、この世でのあゆみがやはりたいせつだということだろう。 Luke 18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。 マタイ20章の並行箇所で、過去の聖書の会での印象的な出来事を書いたが、その印象が強すぎたので、もう一度、落ち着いて読んでみようと思った。一つの鍵は「また」である。すなわち、このひとは、中途失明者であると思われる。そのことによる生活の変化など大きな傷みを抱えていたのかもしれない。中途失明者にも、いろいろとあり、遺伝的なもの、病気や事故によるものがある。このひとについて、原因はわからない。マタイの二人や、マルコのバルティマイという名前などもあり、この箇所については、それも、考慮に入れるべきであろうが、やはり「主よ、また見えるようになることです」は、単純に信仰といえるかどうかは、これだけの記事ではわからないように感じる。そして、自分にとって、なにがほんとうに必要なのかは、わからない場合も多い。 Luke 19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」 この発言に至るまでには、さまざまな会話が、イエスとザアカイの間にあったのだろう。それこそが、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10)という、イエスが巡回伝道をしていた重要な意味だったのだろうと思う。興味深いのは、財産は、貧しい人々に施すのであって、イエスと弟子たちの働きに献げるわけではない。おそらく、そのことを含む、基本的な会話も、イエスとの間になされたのだろう。相互性は、限られた集団のなかだけでたいせつにするわけではなく、神様との関係の中で、神様が愛される人々との間でなされるということなのだろう。 2022.9.11 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  91. BRC 2021 no.091:ルカによる福音書20章ーヨハネによる福音書9章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ルカによる福音書の最後の部分を読み、ヨハネによる福音書に入ります。ルカによる福音書はいかがですか。共観福音書の中でも、他の福音書に含まれていない、たとえや記事がいくつもありますから、ルカによる福音書が好きな方も多いのではないかと思います。ルカの人柄もあるのかもしれません。 四つめの福音書は、ヨハネによる福音書です。ヨハネは、ほとんど最初にイエスの弟子になり、年齢も他の弟子より多少若かったと思われ、一世紀の終わり頃まで、かなり高齢になるまで生きたとされています。また、四つの福音書では、一番最後に書かれ、新約聖書の後半にあるパウロ書簡と呼ばれるものの内容も把握していたのではないかと思われています。さらに、もう一つ、共観福音書の中では、マタイによる福音書は、十二弟子の一人であるマタイの名で呼ばれていますが、流れはマルコによる福音書のものを使い、それに、マタイが残したとされる説教集からの引用が書かれていると考えられています。すると、イエスと共にほとんど最初から行動し、それを書き残したのは、このヨハネによる福音書ということになります。むろん、自らの手で書いたかどうかは不明ですが、ヨハネが見たこと、経験したこと、受け取ったこと、そして、これがイエスが伝えたかったことなのだ理解したことが書かれているとも言えると思います。直接証言です。ただ、イエスの十字架から、50年以上時間が経過してからまとめられたと考えられていることも、覚えることもたいせつでしょう。また、自分で考えたことを伝えるのではなく、一緒に行動し、経験を通して知ったイエスについて書いているために、論理的というよりは、いろいろな面から証言しているようにも見受けられます。ことばとしては、信仰とか、愛という言葉は無いか、非常に少ないかで、その動詞の、信じるとか、愛するということばがよく使われています。さて、みなさんは、共観福音書とは少し異なる、第四福音書からどのようなことを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ルカによる福音書20章ーヨハネによる福音書9章はみなさんが、明日9月19日(月曜日)から9月25日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書とヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカのよる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#lk ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Luke 20:37,38 死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」 マタイ22章23-33節、マルコ12章18節〜27節には、前半は書かれているが、最後の一文「すべての人は、神によって生きるからである。」は含まれていない。このメッセージをどう受け取ったらよいかは難しい。神と共に生きる存在は永遠でつねに神と共にあるということだろうか。ある時点で、終了したりするものではない、それが「永遠のいのち」なのかもしれない。では、「永遠のいのち」は、このことを意味するのか。むずかしい。 Luke 21:18,19 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」 この前には「あなたがたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ、中には殺される者もいる。」(16)とも書かれている。そのうえで、髪の毛一本も失われない、とはどういうことだろう。「神によって生きる」(ルカ20章28節b)ことが中心にあるのだろうか。本質的には、そうなのかもしれない。これを当時の人達はどのように受け取ったのだろうか。「忍耐によって命を得なさい」このことを考えたい。 Luke 22:35,36 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、衣を売って剣を買いなさい。 興味深い。ルカによる福音書9章1-6節に書かれていることが対応している。そこでは「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持つな。」(9:3)である。すこしズレが有る。しかし、本質は、何も不足しなかったということなのだろう。しかし、ここでは、準備をせよといっている。さらに、「剣のない者は、衣を売って剣を買いなさい。」も奇異に感じる。緊急事態に備えなさいという意味だろうか。いまは、どうなのだろうか。このあとに起こることをみてもあまり簡単ではない。 Luke 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 このあとには、ルカだけに書かれているイエスと共に十字架にかけられた二人の犯罪人の話が続く。その中にも、一人が「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」(39b)という場面がある。これが当時の客観的に考えられるイエスの評価だったのだろう。このあとの、贖罪論も、これに対する反論として生じてきたものなのかもしれない。この感覚は、キリスト者、弟子たちの中にもあったろうから。その「なぜ」は、深い。 Luke 24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 エマオの途上での話である。様々な情報が紡ぎ合わされているように思うが、引用句には、現実味があるように思う。まさに、望みをかけていたが、そののぞみが打ち砕かれたのが十字架上の死。しかし、どうもそれで終わりではないという情報も少し入ってきている。それこそが希望だろうか。様々なひとの証言のひとつで、このあと、弟子たちに現れたことが書かれている。事実として検証することは、困難であるが、弟子たちのこころの変化は、理解できるように思う。 John 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。 「権能」について調べてみたくなった。ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases)他にも辞書に意味は並んでいるが、最初の「選択できる力、そのようになりたいと望んで行動する自由」という表現に、惹きつけられた。権能というと、それを得ることができれば、自然とそれになれるように思うが、どうもそうではない。神の子として生きることを選択し、神の子として生きる自由が与えられるということなのかもしれない。神様から、免許が与えられることに近いのかもしれない。神の子として生きてみようよという背景には、イエスがそのような生き方を示してくれたことを信じ、イエスに従っていくということだろうか。もっと考えてみたい。 John 2:11,12 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。 「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」(4)と、その後の記述、そして、その結論のような引用句、とても不思議な文章である。奇跡ともとれるが、そうでないともとれる。母、マリアとの関係も、最後の一文もふくめて、理解し難い。非日常が起こり、母はそれをある程度理解したことが書かれているのか。このしるしや、このあとの、家族の時間も明確には理解できない。それでよいのかもしれない。信頼関係を維持することを大切にしたのかもしれない。このことを、ヨハネがどのように描いているかも、しっかりみていきたい。 John 3:13-15 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 なにが言われているのか、正確な理解は難しい。イエスは、「天に上ったもの」なのだろうが、最後には「上げられねばならない」ともしている。すでに、贖罪的なイエスの死が預言されていると理解してよいのかもしれない。ヨハネが、どの時点でこのメッセージを受け取ったのかはわからないが。イエスは、神様との直接の関係を、弟子たちにも伝えていたと思われる。それが「天に上った」にあらわれているように思う。しかし、それ以上について、ここから理解するのは難しいようにも思う。 John 4:48-50 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 イエスの最初の応答が意地悪に聞こえる。役人の信仰をためしたとも考えられるが、それよりもここで際立っているのは、役人の必死さと純粋さだろう。イエスはそれに動かされたように見える。一般論としては、イエスの最初の応答はそのとおりだろう。しかし、役人の痛みをうけとる柔軟性も持っている。イエスの行動の特徴は、正しさだけでなく、深い憐れみに基づいた行動規範である。これだけのことばから、全てを理解するのは、難しく、危険な面もあるが。 John 5:27-29 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。 「父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。」(19b)の内容が、引用句にも表現されているのだろう。裁きを行うかどうかが鍵ではないのだろう。しかし、ここで、復活して命を受けることが書かれている。そのことを語る、または、思い描くと、そうはならない人についても語らなければいけないということだろう。万人が救われることを望んでいても、現実はそうではないことをイエスは苦しんでおられたと考えるが、正確ではないかもしれない。 John 6:40 私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」 どうしても、死の辛さ、寂しさから心が逃れられない人々にとっては、復活はそれを克服するものに映ってしまうが、イエスが伝えようとしていることは、少し焦点が異なるのかもしれない。永遠の命も、神様の命に生きること、神様の御心を生きることだとすると、そのような状態に招きいられることが中心なのかもしれない。ここで、永遠の命と、復活の関係も気になった。しかし、その整合性を考えるよりも、御心に生きることから外れないことに中心があるように思う。この章も難しいが。 John 7:17 この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。 この章の議論も難しい。イエスにも迷いがあるとは言えないにしても、直接的にメッセージが語られていないように思う。反対者にどのように答えるか、困惑があるのかもしれない。この引用句を語るだけでは、通じないのだろう。しるしによって人々が信じることにもイエスは違和感を持っていたと思われる。イエスの苦悩は不明であるが、ヨハネによる福音書を見ると、イエスの宣教を理解するのは、簡単・単純ではないことを感じさせられる。特に、エルサレムでの活動については。 John 8:28,29 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」 『私はある』がよくわかないので、考えてみることにした。このあとには「これらのことを語られたとき、多くの人がイエスを信じた。」(30)とある。ある程度、イエスのことばを受け入れたということだろうか。『私はある』の意味は、直接的には、イエスを遣わされた方がいつも共におられるということなのだろう。もう一つ興味を持ったのは「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」(41b)とユダヤ人たちが言っていることである。このあとには、アブラハムを父と呼んでおり、イエスはこれに、「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。」(42b)と答えている。興味深いやり取りである。父論争であるが、それは、子論争であるとも言える。また、ゆっくり考えてみたい。 John 9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちはすでに、イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 生まれつき目の見えない人が見えるようになった記事で今回二箇所印象的だった。一箇所は、引用箇所。これは、その場にいたものだけが、言い切ることができる証言であるように思う。ヨハネがそう証言していれば、認めざるをえないということだろう。もう一つは、イエスのことば「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39b)である。これまでも「あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。」(15,16)などを思い出す。しかし「父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。」(5:22)などもあり、裁きについてはしっかりと調べないとわからないこともわかった。 2022.9.18 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  92. BRC 2021 no.092:ヨハネによる福音書10章ー使徒言行録2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヨハネによる福音書の後半を読み、使徒言行録に入ります。書名の使徒言行録は、翻訳によっては、使徒行伝、使徒の働きとなっています。 ヨハネによる福音書はいかがですか。共観福音書とは、内容も、書き方もかなりことなることに気づかれると思います。下にリンクがあるホームページのヨハネによる福音書の箇所や、前回の配信にもヨハネによる福音書の成立について書きましたので参照してください。通常最後の晩餐と言われる場面の記述、十字架上の死、そして復活について記述も、共観福音書と共通のエピソードと共に、異なる記述、エピソードも含まれています。そして、ヨハネによる福音書の20章の最後を見ると、これで終わりかなと思わせられる記述があり、そのあとに、21章が続いています。ヨハネの死後に付け加えられたのではないかと考えられています。みなさんは、第四福音書からどんなことを学んでいかれるでしょうか。 使徒言行録の最初を読むと、書き方と内容から、ルカによる福音書の最初の部分と似ています。著者は、ルカであるとされています。このあとには、パウロ書簡と呼ばれている手紙を読むことになりますが、ルカはそのパウロと共に旅をしたギリシャ人の医者だとされており、使徒言行録の後半には、パウロについて、詳細に書かれています。その意味でも、福音書と新約聖書の後半をなすパウロなどの書簡をつなぐ記録とも言えるでしょう。また、キリスト教会がどのように始まったのかを記したものとしてもたいせつな資料です。どのような困難と、課題があり、どのように、それに、向き合っていったのでしょうか。みなさんは、何を受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネによる福音書10章ー使徒言行録2章はみなさんが、明日9月26日(月曜日)から10月2日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書と使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート John 10:4,5 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」 正直、これは難しい。本当に、羊はその声を知っていると言えるのだろうか。たとえの一部としてであって、聞き分けられる力が備わっていると言っているのではないと考えたほうがよいのかもしれない。盗人、強盗との区別をどうするのか。やはり、神からのものかどうかは、一人ひとりが判断しなければいけないのだろうか。難しい。 John 11:43,44 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 ヨハネによる福音書は、奇跡、しるしを簡単には記述せず、ていねいに書いている。しかし、特に、この記事には驚かされる。信頼できる証人が何人もおり、かつ、その人々も、そんなことは、起きないことと証言しているからである。さらに「もう、臭います」(39b)などということばすらある。おそらく、ヨハネもその場にいたと思われ、かつ、12章にも繋がってるので、驚かされる。 John 12:44,45 イエスは叫んで、こう言われた。「私を信じる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を信じるのである。私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。 この章の最後には「父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである。」(46)とある。そこまでの確信は、どこから来るのか、不思議かつ不安にも思うが、父のみこころをそのまま語り、みこころのように生きる、それが、神につく命、永遠の命との確信があったことは、確かだろう。わたしも、そのように生きていきたい。正直に言うと、隣人、周囲の人、周囲の問題に対するだけで、みこころがなるのかどうかには、不安もあるが。この章をよんでいてもう一つ気になったのは、イエスに従っていったひとたちの記述(19)とイエスを信じないものの記述とその中でも信じるものがいたという証言(37-42)が’併記されていることである。それがヨハネが見た、裁きなのかもしれない。 John 13:1,2 過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。 この二節はとても重い。そこに、イスカリオテのユダもいるときに語られた言葉である。そして、『先生』とか『主』とか呼ばれている、イエスが、弟子たちの足を洗う。おそらく、これまでも、仕えてこられたのだろう。(確認もしてみたい。)しかし、それが明らかに目に見える形で、示されたのが、このときのことだったのだろう。そして、このあと、イスカリオテのユダが去った後に、惜別のメッセージとして、新しい戒めが語られる。しっかり、かみしめ、また、考えてみたい。 John 14:31 私は、父がお命じになったとおりに行う。私が父を愛していることを世が知るためである。立て。さあ、ここから出かけよう。」 最終メッセージの一つの区切りの言葉である。この章は「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。」(1)から始まる。様々なことが語られるが、残る弟子たちに「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。」(15)とおそらく「互いに愛し合いなさい」(13:34,35)のメッセージを確認し、真理の霊(17)弁護者(15,25)と聖霊について語る。父にゆだねている部分と様々な心配が見え隠れする。それこそがイエスが弟子たちを愛していることの証なのだろう。「父は私よりも偉大な方だからである。」(28b)として、父に委ねる姿勢を明確にしている。父なる神と子なるイエスの関係が、イエスと弟子たち、そして、弟子たちどうしの「互い」の関係になりうるのかどうかが鍵なのだろう。 John 15:11,12 これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。 「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5)ここで言われている「実」は「互いに愛し合う」ことなのかなと思う。その前に、ここでは「喜び」について語られている。神に養われているイエスにつながる喜びが背後にあり、互いに愛し合うことがその実として示されているのだろう。これからも、このことを最も大切なこととして、わたしの中心においていきたい。 John 16:12,13 言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 イエスは、ほんの一部しか語らなかったことは、確かである。それは、受け取り側の私達が、それに耐えられないからだと明確に述べている。そして、それを、聖霊から受けると。この理解が難しいが「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」(27)とも関係しているように思う。イエスを通して御心についての基本的なことを伝えられた私達が、神様とつながり、御心を求め続ける中で、「聖霊を通して」真理に導かれるというのが基本であるように思う。ただ、それが神からのものか、そうでないか、見分けるのは難しい。おそらく鍵は、イエスによって示された父なる神、主について、少しずつを理解をしながら、確認することなのだろう。 John 17:26 私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」 父なる神と、ここで語っておられるイエス、そして、聞いている弟子たち、さらに、弟子たちの言葉を聞いてイエスを信じる人たち(20)が、父と子のように、一つになることが繰り返し述べられており、最後に引用句がある。「一つ」の意味は、神の愛が、「彼ら」のうちにあり、イエスも「彼ら」の内にいるようになるためとある。論理的に明確とは言い難いが、伝えたいことはわかるように思う。 John 18:37,38 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」 共観福音書では記述のしかたはそれぞれであるが「しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった。」(マルコ15章5節)とあるように、イエスはあまり語っては居ない。しかし、ヨハネではある程度語ったことが記録されている。どのように情報を得たかは、推測しかできないが、内容に集中すると、結局は、根本の御心を知るという部分から共有するのは難しかったようにみえる。それは、イエスが遣わされたひととは異なるということだろうか。同時に、ここに書かれているところから、異邦人にも福音は開かれているようにも感じられる。 John 19:21,22 ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 ピラトの前の裁判から、十字架上の死と埋葬までがこの章には書かれている。今回は、ピラトがイエスをどうみていたかに集中して見てみることにした。ピラトは責任放棄のような態度を取り「見よ、あなたがたの王だ」(14)といって、イエスをユダヤ人たちに引き渡す、自由にさせることにして、十字架に架けられることとなる。むろん、決断の責任は、ピラトにあるが、真理、御心の問題から、自分を切り離したかったのかもしれないとおもう。そのことが、余韻となって残っているように思う。これを読んだギリシャ人に、真理が、福音が開かれていることを伝えているのかもしれない。 John 20:7,8 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。 復活に関して、共観福音書に共通して書かれている記事の続編として、ペトロともう一人の弟子(4,8)が確認したことが証言されており、引用句を見ると、直接の目撃証言であることを示すような具体的情報が書かれている。しかし、ここで、二人は、復活のイエスには会えなかったこと。そのあとに、弟子たちに、さらに、その場にいなかったトマスに現れた記事が書かれ、この章、そしておそらくヨハネがまとめたと思われる部分が終わっている。ここまでが、おそらく、本書が書かれていた頃の公式見解だったのだろう。その場に居たものとして、おそらく、様々な文書での記述があるなかで、残すべきことを精査したのだろう。すでに、50年以上経ていると思われるので、正確な情報とは言えないかもしれないが、真実を残したいという気持ちは強かったと思う。混乱による分裂を避けるために。 John 21:18,19 よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。 21章では、20節以降のエピソードで、この弟子(24)について言及されるが、基本的には、ペトロ中心のもので、その中心が引用句だろう。ヨハネが残したかったものとは、違う情報がこの章には、含まれているのだろう。ヨハネの周囲に様々なひとがいることがわかるが、それは自然なことで、おそらく、悪いことではないのだろう。 Acts 1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた。 12人にすることは必要だったのだろうかと考えた。12人は、イエスが選ばれたことは、おそらく共通理解として確立していただろう。しかし、一人が欠けることとなった。わたしが、そこにいたら、おそらく、両方の考え方ができたと思う。一人欠けたままにしておいて、われわれの一人が、このような結果になったことについて、主の御心を理解することに、集中すること。二人組みにして、派遣していたこともあるので、やはりパートナーを見つけよう、そして、12人以外にも、70人など、他のひとたちもいたようなので、核となるひとたちが、しっかりと組織されるべきだということ。しかし、こう考えてみると、どうも、決めない方にすこし分があるように思われる。するとこれは、少し長い間をかけて組織が決まっていったということなのだろうか。12人のその後についての伝説はあるようだが、使徒言行録には、12人が果たした特別の役割については、記されていない。たいせつなのは、自分たちで、祈り、主のみこころを求めながら、決めていくことだったのかもしれない。その作業の最初が、ここに記されていると考えるのが良いのかもしれない。 Acts 2:14 そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。 聖霊降臨の物語である。この使徒言行録にしか記録や記述はない。1章で12人のことについて考えたが、引用句にその記述がある。ベトロのメッセージについては、詳しく調べないといけないが、二つ印象に残った。「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」(32)として復活の証言が重要な役割を示していること。そして「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)神が、十字架につけられたイエスをメシア(キリスト、油注がれたもの)とされたことを証言していること。ルカは、共観福音書とパウロ書簡をつなぐ重要な役目を担っていると思うが、このメッセージの中に、すでに、パウロ神学が根を深くおろしているように思われる。ルカには、その分断を避けようとする意図もあったのかもしれない。使徒言行録1章、2章をどう理解するかは、そう簡単ではないのかもしれないと今回思った。 2022.9.25 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  93. BRC 2021 no.093:使徒言行録3章ー使徒言行録16章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、使徒言行録(または、使徒行伝、使徒の働き)を読みます。使徒言行録の最初の1章と2章には、イエスの昇天、イスカリオテのユダに代わりとしてマティアが選出されたこと、そして、五旬祭(ペンテコステ:過ぎ越しの祭りから50日、キリストの復活から50日目)の聖霊降臨のことが書かれています。多くのキリスト教会で、この日をキリスト教会の誕生日として記念しています。使徒言行録を通して、教会がどのように形成されていったかも、垣間見ることができると思います。また、今回読む3章以降にも、聖霊のことは、とても重要な、鍵を担うものとして描かれています。使徒行伝(口語訳の書名)を「聖霊行伝」と呼ぶかたもおられます。この聖霊の働き、そして当時の人達にとって、聖霊とはどのようなものだったのでしょうか。 8章1節にサウロのことが少しだけ書かれていますが、これが後のパウロで、9章にサウロの回心が書かれ、異邦人宣教の端緒となることなどについて少し書かれ、13章あたりから、最初の宣教地のキプロスでパウロと改名するサウロがだんだんと中心的に描かれます。使徒言行録の著者ルカは、最初の頃のキリスト教会について、そして、弟子たちや、サウロについてどんなことを、どのように描いているのでしょうか。ルカによる福音書での描き方との違いと連続性も興味のあるところです。みなさんは、どのようなことに気づかれ、どのようなことを学ばれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 使徒言行録3章ー使徒言行録16章はみなさんが、明日10月3日(月曜日)から10月9日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Acts 3:6 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 4章(4章9節、14節・22節)に関連の記述があるので、おそらく、ルカが聞いて確認したエピソードだったのだろうが、いくつか気になることがある。1つ目は、このひとは歩けるようになることを望んでいるかどうか不明であること。イエスのアプローチの仕方と異なるように思われる。そして、すぐ、宣教に入り、「祭司たち、神殿の主管、サドカイ派の人々」(4章1節)との議論となり、拘束されること。そちらに重きがあって、癒やされた人については、記述上登場するだけである。イエスによるいやしの記述においては、ルカによる福音書においても「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ7章50節、8章48節、類似表現:17章19節、18章42節)など、そのひととの直接的な関わりが重視されているように思われる。ルカによる編集が感じられる。 Acts 4:18-20 そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 弁証論や、弟子たちの集まりの様子などが記述されているが、すこし、記述に違和感もある。福音書においては、マルコなどをすでに読んでいて、他の記録を参考にしたり、証言などを聞き、まとめたのだろうが、使徒言行録は、証言を聞いたとしても、書いたものは、これが最初だったかもしれない。ここでは「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族」(6)との議論も噛み合っていないように見える。「見たことや聞いたことを話」すことが「神に聞き従う」ことの根拠としては、弱いように思われる。 Acts 5:11,12 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。 このあとには「ほかの者は誰一人、あえてその仲間に加わろうとしなかったが、それでも、民衆は彼らを称賛していた。そして、主を信じる者が男も女もますます増えていった。」(13,14)と続き、さらに癒やしのことが続く。この前には、アナニヤとサフィラの記事がある。引用句の一つの例証なのだろう。しかし、ちぐはぐさも感じられる。仲間に加わろうとしないが、主を信じるものが増えるとはどういうことだろ。「また、エルサレム付近の町からも、大勢の人が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らず癒やされた。」(16)これが事実で、仲間に加わろうとしないなら、説明が必要である。おそらく、伝えたいことはそうではないのだろう。イエスが行っていた癒やし(奉仕)を弟子たちもしていたこと、そして、すでに、内部にも、様々な緊張があったということだろうか。初期のキリスト教コミュニティについての記録はほとんどないので、まったくの推測以上のものではないが。使徒たち、教会全体、民衆、エルサレム付近からの大勢のひとたち、そして、民の指導者たち、評価についても混乱があったのかもしれない。 Acts 6:13,14 そして、偽証者を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私たちは、彼がこう言っているのを聞きました。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(6)との、驚くべき記事もある。祭司は、社会的地位もあり、律法に詳しく、神殿を守ることこそが役割だったろう。引用句は、ステファノについてであるが「この聖なる場所と律法をけなし」ともある。同時に、これらのことばは、具体的に何を意味しているか明らかではないが、反論なしに、さらりと書いていることから、異邦人キリスト者の意識が強いだろうことも感じる。様々な論理を使い、反論をしたり、律法や神殿での礼拝を擁護することも可能だろうが、そうではないことも、すでに動いているように感じる。ルカは、どのように理解していたのだろうか。 Acts 7:52 一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。 どこに人々が反発したかは、正確にはよくわからない。神殿に関する「いと高き方は人の手で造ったものにはお住みになりません。」(48a)なのか。それとも、引用句のように、イエスを殺したとする部分か。おそらく、この背後に、様々な議論があり、それと関する部分に至って「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」(54)このようなことに至ったと考えたほうが良いのだろう。もう一つ興味を持ったのは、ルカは、旧約聖書の創世記、出エジプト記などの、記述をしっかり把握していることである。ギリシャ語聖書などで、理解を得ていたのだろう。どのようなものを読んでいたのかにも興味を持つ。 Acts 8:18-20 シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して、言った。「手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と共に滅びるがよい。神の賜物が金で手に入ると思っているからだ。 シモニア(Simony:金銭など対価を以て聖職者の位階や霊的な事物を故意に取引する聖職売買)に関する記述である。ただ、この記述において「人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。」(16)と背景を説明しているが、現代的にこのことを正確に理解することは困難である。シモンが、魔術のようなものと感じたのは、あながち間違っていないようにも思う。神の賜物として理解していたことは、重要であるだろうが。使徒言行録は、理解が難しいように思われる。 Acts 9:16 私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」 印象的なことばである。「また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。それを知ったきょうだいたちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ送り出した。」(29,30)これがおそらく最初の苦しみだろう。すぐ活躍できると思っていると、反発も起こり、出身地のタルソスに戻ることになる。苦しみの内容として迫害のようなことを考えるが、おそらく、それほど単純ではないだろう。使徒たちとの違い、イエスと共に生活をした経験が無いこと、自分の理解や活動が必ずしても、キリスト者も含めて、多くの人に理解されるわけではないこと等など。その中で、イエスや神様の苦しみを悟っていったのだろうか。 Acts 10:44,45 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。 聖霊の働きが異邦人の回心の目に見える証拠となっているようである。聖霊の賜物については、ルカも、他の使徒や信徒たちも、同様のことを見ていたのだろう。それがここでも起こったことが記されている。しかし、今の時代に通じるかというと、微妙である。共通のものがあるとも言えるし、そうでないとも言える。証拠として共有できるかどうかは、時代とともに変化するのであろうか。聖霊の働きについての理解は難しい。 Acts 11:25,26 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて、大勢の人を教えた。このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。 バルナバという人の性質についてはこの直前に「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」(24a)かかれている。また、バルナバはレビ族でバルナバ「慰めの子」という意味だとも書かれているので(4章36節)そのような名を体現する人物で、「皆を励ます」(23)存在でもあったのだろう。なにかのきっかけがあったのか、バルナバはサウロを捜しにタルソスまで行く。聖霊の働きとも言えるが、バルナバなどが、祈りの中で、しばしば覚えていたのかもしれない。おそらく、サウロは知るよしもないだいろうが。サウロにはサウロの特別なときが、この期間を通して定められていたのだろう。 Acts 12:20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の領地から食糧を得ていたからである。 ティルスとシドンの誇りは感じられない。ネブカドネザル王の攻撃に、10年間耐えた、海洋貿易の起点は、このあと、滅亡し、ある程度復興しているようだが、以前の輝きは無いのだろう。ここでも「定められた日に、ヘロデが王の衣を着て座に着き、演説すると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。」(21,22)こころにも無いことのようにも聞こえる。そうであっても、このように語る、そしてそれを喜ぶ人がいる。虚構の世界である。とても、悲しい。しかし、キリスト教会にも同様なことはあるようにも思われる。 Acts 13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 伝道旅行が始まる起点となった記事である。おそらく、サウロがタルソスにいた間に、その地のユダヤ人との交流だけでなく、異邦人との交流の中で、福音の可能性について考えられていたろう。ただし、使徒言行録には、一行がタルソスに行ったことは書かれていない。バルナバはキプロス島生まれ(36)で畑も持っていたので、キプロスに、ある時期までは土着していたことが考えられ、様々な知り合いも居ただろう。その土地を売ってしまったわけだが。この章の最後には、すでに、パウロとバルナバが「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている。そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます。主は私たちにこう命じておられるからです。/『私は、あなたを異邦人の光とし/地の果てにまで救いをもたらす者とした。』」(46,47)この転換点を記した章だとも言える。この章の記述を丁寧にみることも、いずれしてみたい。 Acts 14:19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。 前の章からサウロが名前をパウロとあらため、この一行の中心になっているように見受けられるが、宣教の最初の時期から、暴力的な反発が起こっていることの理由は明確ではない。この章の前半のイコニオンでも「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人を辱め、石を投げつけようとした」(5)とあり、すでに、大きな問題になっていることがわかる。現代の宣教においては、軋轢は起こったとしても、初期段階から「町の人々」(4)が分裂するような大きなことはおこらない。パウロはなにを説き、なにがこのような争いを引き起こしたのだろうか。ひとつは、正しさを主張する議論に強かったということかもしれない。ほんとうに、それで良かったのだろうか。バルナバはこの状況をどのように見ていたのだろうか。わたしなら「あなたのことをおしえてください」と、互いに愛することを考えるだろうが。パウロの働きについても、もっと理解すべきなのだろう。 Acts 15:39-41 そこで、激しく意見が衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島に向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、きょうだいたちから主の恵みに委ねられて出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って諸教会を力づけた。 エルサレム会議の決定「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けること」(29)は、ユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者の分裂をさけるためだったと考えられるが、ここでは、福音主義キリスト者の分裂がすでに起こっている。バルナバも、サウロも結局、馴染みのある地域に向かっていったことを考えると、召しの違いとも言えるが、大きな課題を教会が担ったことも確かである。「激しく意見が衝突し」とあるが、すでに、何が主目的かに関しても、差異が認識の差異が生じていたのかもしれない。マルコによる福音書の成立はまだまだ先だろうが、パウロ書簡との違いをも考えると、そこまでも繋がっている分裂という意味もあるのかもしれない。 Acts 16:22,23 群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剝ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。 ローマの直轄の都市となり、ローマ市民権をもっている市民が、二人をユダヤ人とし、「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです。」(20b,21)そして、鞭打つのは、非常に自然である。しかし、この町にも、ユダヤ人であっても、市民権を与えられているひともいただろう。冷静にはなれなかったのだろう。パウロたちは、後に市民権のことも伝え、堂々と、このまちを出ていくわけだが、一般的には、市民権を持っているものは希少であることを考えると、この行動は気になる。議論に強く、正しさ(義)に生きるパウロの特徴が現れているとも言えるが、支持することには、躊躇がある。 2022.10.2 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html 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  94. BRC 2021 no.094:使徒言行録17章ーローマの信徒への手紙2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、使徒言行録(または、使徒行伝、使徒の働き)の後半を読み、ローマの信徒への手紙に入ります。使徒言行録はいかがですか。16章の最初までは、アジア州、現在のトルコで宣教をしていますが、パウロは幻を見、マケドニア州にはいります。大きな区切りでは、ヨーロッパに入ったことになります。この16章から「私たち」という言葉が登場します。厳密にはわかりませんが、このあたりから、著者ルカも同行してたのかもしれません。常に、一緒に行動したかどうかは不明ですが。下のノートに私は「私たちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。」(21:12)を引用していますが、この書き方は、やはりその場に、ルカも居たように思われます。パウロの宣教においては、殆どの場所で反対が起こり争いに発展しているように見えます。ときには、ことさら争いを起こしているようにさえ思える箇所もあります。パウロの強い使命感が背景にあったのでしょう。この次に読む、ローマの信徒への手紙には、次のように書かれています。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。(ローマの信徒への手紙12章18節) おそらく、ルカが、すぐそばにいて、描いたパウロの宣教活動の記録、みなさんは、なにを思われ、どのような感想を持たれるでしょうか。 使徒言行録を読み終わると、パウロ書簡にはいります。その最初がローマの信徒への手紙です。福音書や、使徒言行録と文章の形態がことなりますから、戸惑いを感じられる方もおられるかもしれません。下のリンクのローマの信徒への手紙の箇所を見ていただければと思いますが、簡単に背景を書いておきます。まず、使徒言行録の最後は、ローマで終わっていますが、ローマの信徒への手紙1章13節をみると、この手紙を書く時点では、パウロはまだローマに行ってはいないようです。しかし、それなりに、キリスト者がすでに居たようです。さて、そのようなローマに、パウロはどんなメッセージを書き送ったのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 使徒言行録17章ーローマの信徒への手紙2章はみなさんが、明日10月10日(月曜日)から10月16日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録とローマの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ac ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Acts 17:2,3 パウロは、いつものように、会堂へ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」と説明し、論証した。 このような論証もこの時代にはたいせつだったのかもしれないが、パウロの宣教はつねに争いを生み出している。正しさによる伝道だからだろう。互いに愛し合うことによって、イエスにつながる弟子であることを証する道とはかなり異なるように思われる。しかし、ヨハネも、このような期間を通して、次第に、イエスから受けたことを理解していったのかもしれない。また、互いに愛し合うことを第一とすることは、とても時間がかかることだから。 Acts 18:12,13 ガリオンがアカイア州の総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神を崇めるようにと、人々を唆しています」と言った。 世界史を学んでいると、どこでもユダヤ人の存在が重要な位置を占めているように感じる。ここでは、総督ガリオンが登場するが、一つ一つ、ユダヤ人の中の争いに、口を突っ込むことは、避けていたのだろう。訴える側も、総督に訴えつつも、ユダヤ教の中の問題を語っている。まだ、整理できていない時代なのだろうか。世界に散らされているユダヤ人の歴史、その地域での政府との関わりなどについても、いつか学んでみたい。 Acts 19:8,9 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国について堂々と論じ、人々の説得に努めた。しかしある者たちが、かたくなで信じようとせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノと言う人の講堂で毎日論じ合った。 ユダヤ人つながりではなく、ギリシャ人との関係に移っていく。しかし、ここでも結局騒動が起こる。最後には、町の書記官(35)が登場してことを収めたことが書かれている。そこでは「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。」(36)と宗教と文化との強い結びつきを述べ、その後、裁判(38)と、正式な会議(39)で解決すべきだと述べる。ユダヤ人の地位とギリシャ・ローマ社会の関係も背景にあると思われ興味深い。正直、一方的に、パウロを擁護する気にはならない。 Acts 20:13,14 さて、私たちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。そこからパウロを乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示していたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、私たちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。 まず著者もそこにいたことを想起させる「私たち」の表現は、マケドニアに向かう直前の16章から始まるが、17章以降はとぎれ、この20章になってから(6)始まり、21章まで続く。そのあと、27章、28章にも多くある。この間は、詳細には、見ていないが、調べる必要があるように思う。引用句を見ると、パウロと、同行者の、微妙な関係も見て取れる。丁寧に見ていくことが必要であるように思う。 Acts 21:12 私たちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。 「彼らは霊に促され、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」(4b)この時点では「彼ら」だが、引用句では「私たち」となっている。背景にある問題としては「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセに背くように教えているとのことです。」(21)が、議論はあるにしても、冷静な評価であるように、思われる。この時代には、非常に重要だったろう。普遍性をもとめるあまり、律法に忠実なユダヤ人にどう語るかは、簡単ではないのだから。現代の教会同士の相克も、似た問題を含んでいるように思う。「主の御心が行われますように」(14)とわたしも言うかもしれないが、もう少し、深く関わることも必要だったようにも思う。 Acts 22:21,22 すると、主は言われました。『行け。私があなたを遠く異邦人のもとに遣わすのだ。』」パウロの話をここまで聞いていた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」 パウロの個人的な証が語られている。これを、この場で、話しても、どのような効果があるかは、わからない。私たちには、ある情報を提供してくれているが。このような、分裂が起こってしまったのは、個人的には、もっとずっと前に、問題があるように感じる。キリスト者「長老たち」(21章18節)や、バルナバなどと、もう少し早い時期に、十分協議することが必要だったのかもしれないが、主イエスの歩みを辿ろうとするものと、イエスがキリストであることを論証するパウロとが、共通の場で、対話するのは、難しいのかもしれない。 Acts 23:7,8 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、議会は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。 このことだけが議会分裂の理由かどうかは不明だが、ルカは、極力冷静に書こうとしている。パウロの、喧嘩を売るような発言(3-5)、紛争を誘発するような発言(6)なども記している。ルカにとっても、手に負えない状況だったのかもしれない。周囲のパウロに対する評価はそれなりに、多面的だったのかもしれない。パウロを批判したくもなるが、パウロへの愛も、見逃せない。複合的な理解が大切であるように思われる。 Acts 24:1 五日の後、大祭司アナニアは、長老数名とテルティロという弁護士を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。 大祭司もカイサリアへ下っていることをみると、パウロのことにかなりの力を入れていることがわかる。テルティロという名前が登場するが、ギリシャ人の名前だと思われる。おそらく、ユダヤ人で、ローマ帝国で、弁護士の働きをしていたひとなのだろう。訴えと、パウロの弁論、フェリクスとドルシラとの会話など、かなり詳細にかかれており、ルカ、または、仲間が、同行していたのだろう。それは、互いに愛し合うことのひとつの表現なのかもしれない。むずかしい、仲間との関係こそが、互いに愛し合うことにおいて試されることである。 Acts 25:19 パウロと言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。 ルカは、パウロの主張として、復活のイエスのことを中心として書いている。おそらく、パウロの原点であり、それを起点として、イエスがキリストであることを説いていたのだろう。福音書をも著したルカであれば、キリスト教について、もう少し異なる記述の仕方もできたはずである。パウロというひとを描き出すこと、そして、パウロも重要な存在であることを示そうとしているのかもしれない。あれかこれかではなく、あれもそれもでもなく、ルカの理解したものを丁寧に記述しているように思えてきた。 Acts 26:19,20 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私はこの天からの啓示に背かず、ダマスコにいる人々をはじめとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、さらに異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。 まず、ここに「ダマスコにいる人をはじめとして」とあるのには、驚く。前章のフェストゥス、そして、アグリッパの前での弁明は、詳細である。ルカが近くにいただけではなく、ヘブル語での弁明ではなく、ギリシャ語で語ったと思われるので、近くにいれば、容易に理解でき、人から伝え聞くにしても、理解が簡単だったのだろう。もしかすると、これらの記録が、この使徒言行録全体の大本にあったのかもしれないとすら思う。あくまでも、推測に過ぎないが、生き生きとした表現が印象的である。 Acts 27:25,26 こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたとおりになります。 盲(迷)信(思い込み)と無神論の間を信仰と希望をもって埋めるのは難しい。「学問のし過ぎ(異訳:博学)」(使徒言行録26章24節)のパウロもおそらくそのこともよく知っていたろう。「あの人(船員)たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」(31b)とか、「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。」(34a)には、そのことも感じられる。謙虚さは、感じられないが、それは、激励が必要なこの場に免じて、理解しよう。 Acts 28:30,31 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者は誰彼となく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。 使徒言行録の最後のことばである。囚人としての生活としては異例・異常である。このあとどうなったかは、どうしても気になる。むろん、この二年間住んだころに、この使徒言行録が書かれたという可能性も無いことはないが、それなら、追記する可能性もあるので、おそらく、そうではないのだろう。ルカは、ここでおしまいとするのが適切だと考えたのだろうと思う。皇帝に上訴したパウロ。しかし、難船時の働きなど、パウロを重い刑には、できない背景もあり、さらに、「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟の誰一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありません。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」(21b,22)もこの当時の状況を映しているのかもしれない。ローマのような皇帝のお膝元、大きな町では、簡単に、ユダヤ人が騒乱を起こすことはできなかったろうから。 Romans 1:11,12 あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです。というよりも、あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです。 このあとには「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(15)ともあり、福音を告げ知らせることが、パウロの「果たすべき責任」(14)と書かれている。宛先は、ローマにいるキリスト者(6,7)と思われるので、引用句は、キリスト者同士の望みなのだろう。「霊の賜物を分かち与えて力づけたい」と述べたあとで「共に励まし合いたい」としているところも興味深い。そして、このあとに、福音について、詳細に語られる。 Romans 2:9-11 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。 一章の最後(1:28-32)に、かなり広い範囲のしかし(ユダヤ人の宗教に直接関係してはいない)一般的な「してはならないこと」(28)のリストを掲げた後の議論である。普遍性をもつものとして「神は人を分け隔てなさいません。」としているが、原理的に考えるのはおそらく問題が生じる。引用句に続く「律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、律法によって裁かれます。」(12)とはあるが、教えられたものと、教えられていないものを同じように考えるところにすでに無理があるように思われる。自然法的なものがある程度あるにしても、教えられなければ理解できない問題・課題、他者視点、公平性に則ったものは、なかなか、理解できず、わからないのだから。 2022.10.9 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  95. BRC 2021 no.095:ローマの信徒への手紙3章ーローマの信徒への手紙16章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ローマの信徒への手紙はいかがですか。今週は、パウロの代表的な手紙、ローマの信徒への手紙を最後まで読みます。最後の16章を読むとあまりにたくさんのローマにいる知人の名前が出てくるのがかえってほんとうだろうかと心配になりますが、先週すこし書いたように、使徒言行録は、最後、パウロはローマに到着したところで終わっていますが、この手紙を書いた時点では、パウロはまだローマに行っていないようです。そのようなときに、パウロはどんなことをたいせつなこととしてローマの信徒へ書いているのでしょうか。 パウロは、ガマリエルというおそらく最も有名なラビのもとで学んだとされており、「学問のし過ぎ(異訳:博学)」(使徒言行録26章24節)とも言われているひとですから、旧約聖書のことを熟知し、当時の神学というものに精通し、さらに、タルソス出身ですから、ギリシャ哲学なども理解していたと思われます。そのような、パウロにとって、イエスがメシヤ(旧約聖書で預言されている救い主)だと確信するには、復活のイエスとの出会いが決定的なできごとであったとしても、多くの「作業」が必要だったのではないかと思います。簡単にいうと頭の整理ですが、共に旧約聖書やその神学について学んだ学友や先生(ラビ)たちへの弁証でしょうか。それを丁寧に記述しているのが、このローマの信徒への手紙であるように思います。現在のユダヤ教は、キリスト教同様多くの派に分かれているようですから、旧約聖書の理解、神学もかなりの幅があるようですが、パウロの時代の神学について、できればいずれ学んでみたいなと思います。おそらく、それなしには、十分理解できないのかもしれません。しかし同時に、このようなパウロの営みがわたしたちへのすばらしい贈り物であったことも確かでしょう。上に書いたように、パウロの理解の背景もありますから、完璧な普遍性を持っているとは言えないかもしれませんが、この贈り物を丁寧に受け取ることができればと願って読んでいます。みなさんは、どうでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ローマの信徒への手紙3章ーローマの信徒への手紙16章はみなさんが、明日10月17日(月曜日)から10月23日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ローマの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Romans 3:23,24 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。 何度も聞いてきた箇所である。そうかもしれないが、やはり、ここに神様のみこころがあると考えるのは、啓示として受け入れるしかないように思う。それも、イエスが教えられていたことがここに集約されているとは、少なくとも福音書を読んでいる限りにおいては考えられない。ただ、パウロを通して、そして、キリスト者もヨハネの働きなどをとおして、そのように理解していったということであれば、それも、人間の理解の方法であるようにも思う。「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(28)この表現からも、そのような印象をうける。心配なのは、この考え方でよいかどうかではなく、これによって、イエスが伝えたことの大切な部分が失われているのではないかということである。ひとつの考え方が、絶対的な教義となり、それを信じるかどうかをもって、キリスト者とするかどうかには、疑問を感じる。すくなくとも、弟子たちはそうではなかったろうから。 Romans 4:21,22 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。 「人が義とされるのは、信仰による」(3:28)の説明として、アブラハムの例を取り上げ、義と認められたのは、割礼の前であったことも確認して、信仰によるとしている。たしかに、神を信じたことで関係が築かれことは確かなのだろうが、信仰と切り取ってしまうと、どのような信仰か、なにを信じるのかも置き去りにしてしまっている。これも、やはり、一部分のことのように思われる。重要なことが、原則になっていく。これも、古典的な世界観なのかもしれない。だからといって、わたしが、答えを持っているわけではないので、難しいが。「律法の行いによるのではない」ことの論証としては、これでよいように思うが「信仰による」とするには、もっと考察が必要である。わたしは、信仰によって神様とつながることが、神を愛し、神が愛される隣人を愛し、互いに愛し合う関係を築く基盤、または、最初のステップだと表現するわけだが。これも、ひとつの説明に過ぎないのだろう。 Romans 5:1,2 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 この章の記述は論理的ギャップも多く、理解に苦しむ。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(12)ここに普遍性をもたせるのは、聖書の全体を受け入れてからではないと難しい。そして、旧約聖書をすべて受け入れたとしても、他の理解もあるように思われる。引用句は、信仰義認のよる神との間の平和から、神の栄光にあずかる希望へと結びつけている。信仰という名詞ではなく、ヨハネのように信じる、または主との交わり、それも、イエスにならうものとしてのいのちのいとなみによるダイナミズムが必要なのではないだろうか。批判的にばかりならず、みこころを求めていきたい。 Romans 6:12 ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 「あってはならない」のだろうが、現実は、教会のひとびとを見ていても、教会の歴史を見ていても「あってはならないことが存在する」ことを否定できない。やはり、子となる権能(ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases)が授けられたと考えたほうがよいだろう。解放されたのかもしれない。しかし、その後の責任をどう考えたら良いのか。それは、主との交わりのもとで生きながら学んでいくことなのだろう。パウロ書簡よりも、あとに書かれたとされるヨハネ文書、キリスト教会は当時もひとつのまとまりではなかったと考えられるが、そうであっても、理解は進んでいるのではないかと思う。 Romans 7:15,16 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。 この段落は「私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。」(14)と始まっている。印象的なのは、引用句の後半、「望まないことをしているとすれば、律法をよいものとして認めている。」構造は複雑で、律法は霊的なものと同時に、実際には、肉にあるものを支配する(1)ものであるということなのだろう。おそらく、肉の下にいるものにとっては、律法は、ある価値があると言っているのだろう。まったく、霊的な律法のもとに生きているわけではない、存在については、しっかり理解しておくべきなのだろう。 Romans 8:3,4 律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。 興味深い表現である。肉により弱くなっていたためになしえなかったことをしてくださった。霊に従って生きることは、どのようになされるのか。やはり、権能があたえられたということのように思う。ヨハネ文書の理解の上で、ローマの信徒への手紙を丁寧に読むことは、わたしにとって、必須であるように思う。 Romans 9:18 このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。 これはとてもむずかしい問題に見える。神の主権を絶対のものとすれば、論理的になにも問題はない。しかし、イエスによって示された父なる神は、愛の神、神を信じ、互いに愛し合うことを望んでおられる神である。信じるという意思を示さず、応答しないものと、頑なにされたものは、似ているが、主体がことなる。同時に、意思がすべてを決定するのかという疑問も残る。それは、個人の意思と、神の意思。そして、互いに愛し合うことを望んでいるときに、相手の意思はどうなるのか。やはり、整合性が十分にとれるとは言えないように思う。いまの、わたしには、わからないとしか言えない。そして、憐れまれているかどうかも、ひとがわかるわけではないのかもしれない。難しい。 Romans 10:9,10 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。 神の憐れみと人の応答の問題の答えは、ここにあると考えてよいのだろうか。キリスト教会という地上の組織にとっては意味があると思われるが、このように明確に、わたしは、言えない。それは、イエスがどう考えていたか、明らかではないからである。ある意味で、このような形式を最終的な原理とするのかという問いである。結婚の誓約などと同じとして、神の前の約束が地上においても、それぞれの人にとっても価値があるとも考えられる。もう少し、結論を出さずに、考えていきたい。神学者の議論も学ぶときなのかもしれない。 Romans 11:26,27 こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。/「シオンから救う者が来て/ヤコブから不敬虔を遠ざける。これが、彼らの罪を取り除くときに/彼らと結ぶ私の契約である。」 引用はイザヤ27章7節のようだがそこには「それゆえ、ヤコブの過ちがこのようにして覆われ/その罪が取り除かれるなら/結果はすべてこのようになる。/すなわち、祭壇のすべての石を/粉々に砕かれた石灰のようにするなら/アシェラの像や香の祭壇は再び立つことはない。」とあり、共通の言葉はあるが、どうも、引用は適切であるとは思えない。聖書以外の文書なのだろうか。意図にあったものが、明確に示されている聖書の箇所はあるのだろうか。「こうして全イスラエルが救われることになる」という、ことを主張しているので、慎重に決定すべきである。時間をかけてしらべないとわからないだろうが。 Romans 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。 短絡かもしれないが、正直、ほとんど明確には理解し得ないなかで、このことばをわたしは追いかけているように思う。この前には「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」(1)とあるが、正直、この部分を素直には受け入れられなくなっている。敬虔さが失われたのか。しかし、よくわからないにしても、神様、真理の源によりすがり、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるよう」なることを望みながら、造り変えていただく、人間主体の言葉を使うと、学びながら変わっていくことができればと願っている。 Romans 13:1,2 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。 「上に立つ権力」は ἐξουσίαις ὑπερεχούσαις で、ここでも、exousia (power of choice, liberty of doing as one pleases) 選択する力が使われている。力、権能、権力。hyperechō (to have or hold over one) が上に立つであるが、上に持っている。12章から、神の御心に生きる生活について書かれているが、その一部として、引用句が言われている。この章には「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8)も登場するが、イエスに倣うものは、強調されていない。律法で教えられているとの理解が強いのだろうか。 Romans 14:3,4 食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。 「神がそのひとを受け入れてくださっている」ことが書かれている。これが鍵なのだろうが「信仰の弱い人」(1)を信じない人と考え、差別することがあるように、思う。「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(7,8)この章では「きょうだい」が対象であり、それ以外はやはり含まれていないようである。すぐ結論をださずに、ゆっくり読んでいこう。 Romans 15:1,2 私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。 「私たち」とある。つまり、ローマの信徒への手紙の読者は「強い者」である。「互いを築き上げるため」と「善を行い、隣人を喜ばせる」とあり、これらが関係していることが書かれていることも興味深い。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(7)も、愛の本質が表現されていると思う。パウロが特別のミッションと考えていたことがあるのだろう。その通時制はないかもしれないが、その働きを通して、互いを築き上げることになればと願う。パウロは、その後のキリスト教会の歩みをどう見ているだろうか。 Romans 16:17,18 きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えている。そして、甘い言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心をだましているのです。 この章の記述は少し気になる。あまりに、多くの名前が書かれているからである。それは、ローマの信徒への手紙の書き出しや、内容とあまり整合性がないように思う。追加があったのかもしれないとさえ思う。引用句も、現代の教会に語りかけられているように感じる。この、16章が完結した時点では、「様々な分裂や、つまづきを引き起こす者たち」の存在があったのだろう。いろいろなことを考えさせられる。 2022.10.16 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  96. BRC 2021 no.096:コリントの信徒への手紙一1章ーコリントの信徒への手紙一14章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ローマの信徒への手紙はいかがでしたか。「律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められる。」ことと同時に、後半では、実際の問題にも、いろいろと書かれていました。 今週は、次の、コリントの信徒への手紙一を読みます。ローマの信徒への手紙は、まだ、パウロがローマを訪ねるまえに書いたようですが、コリントの信徒への手紙は、使徒言行録の記述でもわかるように、何度か訪ねており、長く滞在した場所でもあるようです。著者の一人として名前があがっているソステネは、使徒言行録18章17節に登場する会堂司だとすると、コリントの情況についてはたくさんの情報を持っていたと考えられます。パウロの最初の訪問からどの程度たっているかは不明ですが、すでに、たくさんの課題を抱えていたようです。 1章には、 「あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。」(12) ともあり、すでに、分裂が起こっていることが書かれています。おそらく、確立された派閥があるというよりも、難しい問題・課題が山積するなかで、どのような基準で向き合うかについて、様々な考え方があり、その一つの表現が上のように語られたのかもしれません。 実際の問題・課題は、どのようなものだったのでしょうか。列挙しながら読みすすめるのもよいと思います。いくつかは、コリントの信徒への手紙二でも言及されます。そして、それは、現代にもつながる問題でしょうか。異邦人キリスト者が中心のコリントの教会において、ユダヤ教社会との文化的背景の違い、倫理観の違いもとても大きかったように思います。この違いをどの程度まで受け入れられるのか、善しとするのかも背景にある、そして、今に至るまで議論が絶えない難しい課題のように思います。「日本人のままキリスト者になれるか?」みなさんは、どのようなことを考えながら、コリントの信徒への手紙を読んでいかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙一1章ーコリントの信徒への手紙一14章はみなさんが、明日10月24日(月曜日)から10月30日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1 Corinthians 1:10 さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 このあとには「あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。」(12)とある。党派的な行動が考えられるが、おそらく、より具体的な問題が背景にいくつもあるのだろう。それらについてどう解決するかを考える中で、対立が起こってくる、明確には、どの解決方法がよいか不明なときには、このように、単純な党派的対立が起こるのではないかと思う。どうしたら良いのだろうか。この章には「それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(29)とある。たしかに、知識・知恵による判断が分裂を生むということなのだろう。互いに愛し合うことの本質を学ぶことにあるような気がするが、それは、さらに難しことなのかもしれない。 1 Corinthians 2:11 人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。 これは確かである。しかし、わたしたちが、神の霊を受けることは、恵み・約束として理解することはできるとしても、「私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。」(13)とあるが、どちらから出た言葉か、判断できるのだろうか。おそらく、それは、客観的にはわからない。明確な基準を与えることはできないが、ここに、重要な問題の判断を委ねるのは危険でもある。わからないことを意識することは出発点ではあろう。そのうえで、基準を設けて、少し長期間を通して判断することだろうか。実際には、解決方法は、だれにも見えていない場合が多く、それぞれの考えの中に真理がある場合もある。その中から、少しずつ、修正しながら、解決へと向かえると良いのだが。実際の課題に関しては難しいのだろう。 1 Corinthians 3:19,20 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。/「神は知恵ある者を/その悪だくみによって捕らえる」と書いてあり、また、/「主は知っておられる/知恵ある者の議論が空しいことを」とも書いてあります。 知恵の愚かさ、誰も、人間の知恵を誇れない(21)ことが書かれている。前半は「知恵ある者を彼ら自身の悪だくみによって捕らえ/曲がった者のたくらみは破綻する。」(ヨブ5章13節)後半は「主は知っておられる、人の思いを/その空しいことを。」(詩篇94篇11節)からの引用である。パウロは、旧約聖書を全巻持っていたのだろうか。「パウロもアポロもケファも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(22,23)なぜ「あなたがたのもの」なのか不明である。「アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。」(5)を受けているのだろうか。 1 Corinthians 4:16,17 そこで、あなたがたに勧めます。私に倣う者となりなさい。このことのために、テモテをそちらに遣わしたのです。彼は、私の愛する子で、主にあって忠実な者であり、至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方をあなたがたに思い起こさせることでしょう。 この前の「あなたがたに、キリストにある養育係が無数にいたとしても、父親が大勢いるわけではありません。キリスト・イエスにあって、福音を通して、あなたがたを生んだのは、私なのです。」は気になる。イエスに倣うものでないことが以前から気になっていた。パウロは、イエスのことについては、十字架での贖罪以外ほとんど書かないことと関係している。しかし、ここでは、おそらく、「キリスト・イエスにある私の生き方をあなたがたに思い起こさせる」テモテの派遣に重点があるのだろう。福音書とパウロ書簡の記述の差異、焦点の当て方は気になるが、それを強調することは、分断を生じさせることになるのだろう。それぞれの適切な評価と扱いがたいせつである。 1 Corinthians 5:11 今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。 外部の人ではなく、内部の人に限って交際をたつべきことを言っている。それは、内部と外部が明確になっていること。さらに、基準がはっきりしていることが重要であるが、基準が内部と外部の境界と連動していなければ明確にはならない。しかし、項目としてあげたことが、内部と外部の境界であれば、これもまた問題となる。イエスをキリストと信じ、そのことを告白し、従っていく者が、もし分けるとすると、内部と外部を分けるものであるはずだからである。おそらく、不道徳にどうむきあうかということをともに考えるべきなのだろう。しかし、それぞれのひとの文化的背景が多様である場合は、非常に困難である。「今度はこう書きます」とあるが、これは、修正し続けなければならないように思う。 1 Corinthians 6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな争いすら裁く力がないのですか。 「仲間のもめ事」(1)の解決について述べている。しかし、引用句にあるように、教会で裁くことは、一般的には、難しい。おそらく、パウロの中には、ユダヤ人コミュニティの中で行われていた経験があるのだろう。それがどのようなものかは、明確にはわからないが、まだ、未発達の教会組織において、このことを実行するのは、難しい。そして、ローマ帝国では、その中での問題解決がある程度できていたろうから。原則を述べていると考えたほうが良いように思う。おそらく、倫理的な問題で、教会の中で処理できるものと理解していたのだろう。そうであっても、実際には、その手続などが公平・公正に確立するのは、あまり簡単ではないが。 1 Corinthians 7:39,40 妻は、夫が生きている間は結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主にある人に限ります。しかし、私の考えによれば、そのままでいるほうがずっと幸せです。私も神の霊を受けていると思います。 結婚について非常に具体的に書かれている。同時に、引用句も含めて「もっとも、私は譲歩のつもりで言うのであって、命令するつもりはありません。」(6)「さらに、既婚者に命じます。妻は、夫と別れてはいけません。こう命じるのは、私ではなく、主です。」(10)「これを言うのは、主ではなく、私です。」(12b)「未婚の人たちについては、私は主の命令を受けていませんが、主の憐れみによって信任を受けた者として、意見を述べます。」(25)などと、自らの考えについても、注意をはらって語っているように見える。そして、引用句にもあるように、「召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」(24)を基本としている。おそらく「時が縮まっている」(29b)が鍵なのだろう。そして、おそらく、この状態を、パウロは自分の身にひしひしと感じていたのだろう。判断は難しい。今の情況をパウロがみたらどう感じ、考えるだろうか。その判断も簡単ではない。難しい。 1 Corinthians 8:11,12 そうなると、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。しかし、このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。このように、きょうだいに対して罪を犯し、その弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 パウロ書簡に、この考え方が時々現れるように思う。(ローマ14章15節)「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3章16節)にもつながることのように思う。他の表現で、同じ考え方を表現している箇所もあるように思う。もう少し調べてみたい。「たいせつな方の、たいせつなひと」の考え方である。 1 Corinthians 9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらそうではありませんか。しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を妨げないように、すべてのことを耐え忍んでいます。 この章を読んでいても、背景が明確にわかるわけではない。どんな問題があったのだろうか。しかし、おそらく、パウロは使徒ではない。(1,2)と使徒より一段低くみる人がいたり、自費ではなく、支援を受けることに対してそのような権利があるのか(4-6)などの批判があったのだろう。「節制」(25)について最後に述べているが、多くの批判の中で生きることはたいへんである。多くの場合、本質的ではない場合が多いのだから。苦労はある程度わかるように思う。 1 Corinthians 10:23 すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが人を造り上げるわけではありません。 最初には「この岩こそキリストだったのです」(4b)など比喩的解釈が気になった。引用句は、これまで何度も印象に残った箇所だが、「子となる権能」(ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases)を考えると、とても、たいせつに思う。すべてのことが許されているが、すべてのことが益になるわけではない。そのなかで、どのように生きていくかが求められている。これがキリスト者の自由なのだろうか。もう一度、読んでみたいとも思う。 1 Corinthians 11:12,13 女が男から出たように、男も女から生まれたからです。そして、すべてのものは神から出たのです。女がかぶり物を着けずに神に祈るのがふさわしいことかどうか、自分で判断しなさい。 この章の後半には、主の晩餐、聖餐式のことが、すでにある程度形式として定まったものとして記されている。そして、この聖餐式をどう理解するかに、キリスト教会の各教派分裂の大本があるともされる。引用句は、イスラム圏で現在再燃している、ブブカやヘジャブを女性は付けなければいけないかという議論にも関係している。引用句では、「すべてのものは神から出た」と、男女の差は、基本的に無いとしつつ、このあとでは「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の諸教会にもありません。」(16)とある程度、一方の考え方を切り捨てている。さまざまな背景のひととともに、食事をし、礼拝を持ち、生活をともにするときには、これまでも、起こり、そして、これからも、起こることなのだろう。おそらく、それを、止めることは、完全に排除することは、できない。聖霊(神様)の導きをと求めながら、自分で判断しつつ、異なる考えのひとと共に食事をし、礼拝をし、生きていくために、互いに仕え合い、愛し合い、平和に過ごすものでありたい。 1 Corinthians 12:23 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。 このあとには「神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。」(28)とあり、主眼は、キリスト教会の中での役割が想定されているようだ。しかし、コリント前書は、分裂が各所にある教会における一致が目的とされているように思う。そう考えると、引用句も、広く考えるのが適切だろう。「私たちは(中略)見出します」となっているが、見いだせない場合もあるだろう。神様はどう見ておられるか、それがわからないということもふくめて、自分の見方が絶対的ではないことを、自分がつまらない部分だと思う人も、自分は尊い部分だと思い、つまらないと思える部分を見るときも「実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしている」ことを覚え、神様は違う見方をされるかもしれないと自戒したいものである。これも、それほど簡単なことではなく、大きなチャレンジだが。 1 Corinthians 13:4-7 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 表現は美しい。完全な愛はと「愛」を読み替えれば、そのようなものかと思うが、このことにどのように向き合うかを考えると、自分の足りなさ、不完全さの理解は進むかもしれないが、力が与えられるわけではない。飛躍かもしれないが、正しさは、喜びを与えないとも思う。現在、テーマとしている「互いに愛し合いなさい」の「互いに」を求めていくことは、時間がかかり、進展が見えないようにすら感じるが、ときどきに、喜びは感じることができるようにも思う。むろん、無力さを感じることもあるのだが。やはり難しいとしか言えない。「真理」と言われるものを、このように示されても、それは、その元である、神様との交わりを深くするわけではないということだろうか。 1 Corinthians 14:19 しかし、教会では、異言で一万の言葉を語るよりも、他の人たちを教えるために、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります。 まず「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(1)と語ってから、異言について語り、そのあとで「しかし、預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語っています。」(4)神に、自分の霊性を承認していただくよりも、教会できょうだいにたいして語り、仕えることが価値が高いことを言っている。ひとが何に向かえばよいか「愛」に向かうことのひとつの方法をこのように述べているように見える。価値を示しているのだろうか。丁寧に学んでいきたい。 2022.10.23 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  97. BRC 2021 no.097:コリントの信徒への手紙一15章ーコリントの信徒への手紙二12章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙一はいかがですか。ローマの信徒への手紙とは異なり、具体的な問題について書かれていますから、情況を想像することもでき、読みやすいかもしれませんね。同時に、現代に置き換えると、すこし疑問を持つような箇所も有るかもしれません。11章に書かれている、女性のかぶり物のことは、現在も、ここに書かれていることを守って、ベールをかけている敬虔なクリスチャンもおられますし、また、イスラム圏で起こっている、ブブカや、ヘジャブを「適切に」かぶっていない女性に対する処罰や、逆に、フランスで起こっている、学校などで、これらを付けることの禁止の議論など、現代にも続く課題でもあります。さらに、同じ章の後半には、主の晩餐(聖餐式)の規定について書かれていますが、カトリックとプロテスタント、そして、プロテスタント内部で、まさに、このことについて、共通の理解が得られなかったために、分裂していったことを思うと、本当に難しい問題なのだなと考えさせられます。 コリント信徒への手紙二は、コリントの信徒への手紙一のあとに、パウロなどによって、書かれた手紙です。コリント信徒への手紙二を読んでいると、前に送った手紙のことが何回か出てきます。(例えば2章3,4節、7章8,12節、10章9-11節)ただ、それがすべて、コリントの信徒への手紙一のことなのだろうかと、感じさせられるかもしれません。実際、研究者によっては、他にもコリントの信徒への手紙一と二の間に書かれた手紙があるだろうと考えているようで、さらに、このコリントの信徒への手紙二は、いくつかの手紙をまとめたものかもしれないと考える人もいるようです。それはさておき、みなさんは、コリントの信徒への手紙一を読んだあとの、コリントの信徒への手紙二、どのようなことを感じ、どんなメッセージを受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙一15章ーコリントの信徒への手紙二12章はみなさんが、明日10月31日(月曜日)から11月6日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr1 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1 Corinthians 15:1,2 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。 このあとに、最も大切なこととして伝えたのは、キリストが死に、三日目に復活したことだと語り(3,4)、さらに、復活がなければ、希望はない(19)とする。背景に、しっかりとした教義、そして、旧約聖書理解があるのだろう。しかし、やはりあやうく感じる。パウロにとっては、まさにそうだろうが、たとえば「イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始めたマルコや「わたしがあなた方を愛したように」と説く、ヨハネは、おそらく、福音について、異なる表現をするだろう。わたしは、それでよいと思うが、それではいけないとして、教義を整備する人もいる。なかなか難しい。たいせつにすることは、みな、すこしずつ違うように思う。それこそがひとりひとりが神様に愛されているという尊厳でもあると思う。引用句の「今もしっかりと覚えていればの話しですが」が印象的だったので書いてみた。 1 Corinthians 16:1 聖なる者たちのための募金については、私がガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも行いなさい。 募金、寄付の文化は、「施し」という形で、ユダヤ人社会には根付いていたのかもしれないが、現在の日本をみても、一般的とは言えないだろう。いちばん大切なこととして伝えた「復活」とは非常に遠いように思う。また、この募金は、貧しい人たちとして、エルサレムの使徒など、信徒への贈り物である可能性が高い。ていねいな説明、それがほんとうにたいせつなことだとするには、パウロの論理では難しいように思う。一般的ではないのだから。パウロも自分の背景に大きく依存した論理だてになっているということだろう。 2 Corinthians 1:6 私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。 パウロの思いが伝わってくるようである。このあとには「私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。」(7)ともある。「共に」と「互いに」の違いが最近気になっている。「共に」が「互いに」より劣っているというのではない。しかし「新しい戒め」としてイエス様が最後に私たちに委ねられたように「互いに」を求めていきたい。もしかすると、イエス様も、神様との関係の中で、相互性をたいせつだと思いつつも、どうしたらよいか、答えを持っておられなかったのかもしれない。おそらく、引用句のような「他者への思い・愛」が「共に」を生み出し、「共に」の中で「互いに」が育まれていくのだろう。しかし、それは、必然ではないということは、むずかしいということなのだろう。 2 Corinthians 2:7,8 むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。 背景には、1コリント5章1節にある「父の妻と一緒になっている」との指摘があるのかもしれない。いずれにしても、ある倫理的なことについて糾弾し「交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない」(1コリント5章11節)などと述べたことが、予想以上の影響を及ぼしたのではないかと思う。離れた場所から、手紙で、重要なことを指示する難しさ、危険性が背後にあるように思われる。しかし、ここで、赦しと慰めに向かっていることは喜ばしい。全体的な配慮はほんとうに難しい。これも、経験なのだろうか。正しさの危険性とも言えるように思う。 2 Corinthians 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。 「文字は殺し、嶺は生かす」はとても印象的なことばである。しかし、これを根拠に、演繹することも、問題があるように思う。冷静に考えてみたい。「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです。」(3)を受けている。このあとも、霊の働きが重視されているが、おそらく、それが霊の働きかどうかは、全体的に判断すべきことで、直後にはわからないように思う。これは、おそらく、宗教共通の難しさであるように思う。いろいろと調べてもみたい。 2 Corinthians 4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。 パウロの信仰がよく現れている。しかし、パウロの信仰告白だとも言え、これが力になるひとと、そうではない人がいるように思う。苦難をどうとらえるか、困難とどう向き合うかについてパウロは述べているが、それは、個人個人の向き合い方で、かならずしも、他の人の向き合い方や、確認はできない真理と言われるものによって、解決することではないように思う。しかし、そうであれば、どうすればよいのだろうか。信頼関係のもとで、ひとと共にいること、ある種の共感は力になるが、時間稼ぎのようにも思う。自分と神様との関係以外にないと言えるだろうか。本当に苦しみ、悩んでいる人がいるとき、わたしに、できることはほとんどない。I am available, though what I can do is limited. ということだけのように思う。それがいましていることなのだが。 2 Corinthians 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。 パウロがこのように、十字架を理解したのだろうが、それがたしかにそのとおりだとは、啓示によるとするのだろうか。おそらく、他の理解のしかたも当時からあったろう。「わたしたちのために、愛のゆえに死なれた」と表現するひともいただろう。正直よくわからない。この直前には「つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」(19)とある。神との和解、美しいことばである。ただ、中身がよくわかるわけではない。神のみこころに従っていきることはできるのだろうか。その権能が与えられたとしても。 2 Corinthians 6:12,13 私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。 パウロのどうにかしたいという必死さと熱情は伝わってくるが、内容が、受け手に伝わるかどうかはよくわからない。「神の恵みをいたずらに受けてはなりません。」(1b)に核心があるのだろうが、これが生活にどのように結びつくかは、簡単ではないように思えてしまう。しかし、共通理解にいたらなくても、互いに平和を保ち、愛し合うことはできるのかもしれないとも思う。それでも、長く続く持続性のためには、ある共通理解はひつようなのかもしれないが。難しい。もっと深く読まないといけないのかもしれない。 2 Corinthians 7:16 私は、万事につけ、あなたがたを信頼できることを喜んでいます。 正直にいうと、この書の内容からして、パウロが本当に、コリント教会のひとたちを信頼しているとは思えない。しかし、この段では、テトスからの報告を受け、それが慰めとなったのだろう。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです。」(8,9)コリント前書5章の内容が、背景にあるのか、明確でなく、正確な情況はわからないが、信頼されていないという感覚が、この悲しみの背景にあるようにも思う。それを、引用句によって、打ち消そうとしているように感じる。情況を十分理解せず、調査もせずに、起こっている表面的なことから、パウロが叱責した可能性も否定できない。 2 Corinthians 8:6,7 そこで、私たちはテトスに、この恵みの業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは、信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛など、すべての点で満ち溢れているのですから、この恵みの業にも満ち溢れる者となってください。 この手紙の背景には、ユダヤの貧しい聖徒たちのための、募金があるように見える。倫理的で無いことに関しては解決しているように思われるが、その解決において、パウロとコリント教会の人達の間に、ギクシャクした関係ができていたのかもしれない。それも、募金が進まない原因だったように思われる。それを、パウロが前の章と、この章で説明し、お願いしている。やはり、背景を理解することが重要であるように思う。むろん、正確にはわからないだろうから、その理解を決定的にすることはできないかもしれないが。 2 Corinthians 9:4 そうでないと、マケドニアの人々が私と一緒に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたについてはあえて言いませんが、私たちはこの計画のことで恥をかくことになりかねません。 この章は「聖なる者たちへの奉仕について書くのは、もうこれで十分でしょう。」(1)と始まるが、そのあとも、寄付のことが続いている。それだけ、パウロは重要な案件だと考えていたということだろう。9節には、詩篇112篇の「ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。」(詩篇112篇1節)から「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」(詩篇112篇9節)を引用している。「施し」はユダヤ教において社会の一員としておそらく最もたいせつなことだったのだろう。それをキリスト者の社会においても、根付かせるという普遍性があるように思うが、それ以上に、エルサレムの貧しい人たち、すなわち、使徒たちや、ユダヤ人キリスト者に対するこの働きがたいせつだと考えていたように見える。分裂を避け、一体であることの鍵だと考えていたのかもしれない。実際にどのくらいの寄付を届け、それがその後どうなっていったのかは不明だが。 2 Corinthians 10:1,2 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロが、キリストの優しさと公正さとをもって、あなたがたに願います。私たちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に振る舞うつもりです。そう確信していますが、私がそちらに行くときには、強気にならずに済むようにと願っています。 具体的な内容は不明だが、かなり厳しい言葉が続く。「『パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者がいるからです。」(10)とも言っている。読んでいて辛くなるが、子をただす父親のような気持ちがあるのだろう。ただ、このようなアプローチで、みなが成長できるかについては、現代的な感覚かもしれないが、疑問をもつ。 2 Corinthians 11:1,2 私の少しばかりの愚かさを、我慢してくれたらよいのですが。いや、我慢してほしい。私は、神の妬みをもって、あなたがたを妬んでいます。私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたのです。 この章の内容は、実質的なコミュニケーション・教えのためにはなくてもよい部分であるが、おそらく、弱さを語ることに意味があるように思った。最初から見てみると「私の愚かさ」とあり、さらに「妬み」が二回登場する。妬み ζηλόω(zēloō:to burn with zeal; to be heated or to boil with envy, hatred, anger, to desire earnestly, pursue, to envy)はよくわからない。「熱情による心の高まり」だろうか。日本語の感覚とは異なるのかもしれない。論理的には考えられないが、強い思いを持って語っているということなのかもしれない。それは、弱さの現れであるかもしれないが、それは、共に共有することにプラスになるのかもしれない。やはりよくわからないが。 2 Corinthians 12:14 今、私はそちらに三度目の訪問をしようと準備していますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。 経済的なことに気を使っている。パウロの性格なのかよくわからないが。世話になることも、信頼関係を築く上で大切なことだと思うのだが。この章には、パウロの弱さについて書かれており、病についても書かれていると考えられているが、わかりやすいからであり、個人的には「このほかにもまだあるが、その上に、日々私に押し寄せる厄介事、すべての教会への心遣いがあります。」(11章28節)が、日常的に疲れさせているのではないかと思う。こちらは、多くの人たちも共感する部分があるように思う。これ以外は、パウロにしか本質的には理解できない痛みである。 2022.10.30 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  98. BRC 2021 no.098:コリントの信徒への手紙二13章ーフィリピの信徒への手紙1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙一・二はいかがですか。今週は、コリントの信徒の手紙二の最後の章を読み、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙と読み進め、フィリピの信徒への手紙の最初の章まで読みます。それぞれについては、下のリンク先に少し書いてありますから、参照してください。多様なことが書かれていますし、聞いたことのある言葉があったり、感動するようなことばがあったり、または、疑問に思ったり、現代まで続いている課題について気づいたり、様々かなと思います。通読ですから、ゆっくりは読めません。毎回でなくてもよいですから、気づいたことを、書き留めておくことはたいせつだと思います。 実は、聖書に、パウロを差し出し人の一人にしている手紙がたくさんありますが、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一・二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙と、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙以外のパウロの真筆性には、疑問を提示している学者が多くいます。個人的には、だれがどのように関わって、その手紙を書いたかに、こだわらないようにしていますが、読んでいると、宣教初期と思われるものと、かなり、教会制度も出来上がって、少しあとの時代のものかなと感じられるものもあるように思います。また、キリスト教用語と言われるものも増えてくるように思います。個人的には、キリスト教会の中のひとだけに通じることばではなく、だれにでも語れることばで、考え、語ることをたいせつにしているので、キリスト教用語は、一般用語に置き換えるとどういうことを言っているのか考えながら読んだりしています。みなさんは、どのように読まれ、どのようなことを、受け取られるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 コリントの信徒への手紙二13章ーフィリピの信徒への手紙1章はみなさんが、明日11月7日(月曜日)から11月13日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソスの信徒への手紙とフィリピの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#cr2 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#gl エフェソスの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ep フィリピの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ph 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2 Corinthians 13:2,3 以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に、二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。そちらに行ったら、今度は情けはかけません。なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方です。 正直に言って怖くなってしまう。おそらく、この背景にあるのは、コリントの信徒への手紙一5章にあるような倫理的な問題ではないのだろう。コリントの信徒への手紙二は、たしかに、いくつかの手紙をまとめたものかもしれない。啓示かどうかの部分についても、強く述べている。それが宣教者なのかもしれないが、わたしは、やはり違和感をもつ。このあとで「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(11)と書いても、残るのは、分断、パウロを支持する人たちの一致であるように、思ってしまう。難しい。 Galatians 1:17 また、私よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行き、そこから再びダマスコに戻ったのです。 パウロ自身の証言では、ここに書いてあるように、回心>アラビア>ダマスコ>エルサレム(ケファ・ヤコブなど少人数とのも会う)>シリア・キリキアとなる。使徒言行録9章の記述には、様々な省略と簡易化があると言っているように思える。このあとに「キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていませんでした。」(22)とある。辻褄をあわせようとすると(それが正しいかどうかは不明だが)エルサレムで会った少人数の中に、バルナバがいたのかもしれない。シリアと書いてあるのは、アンテオケ、キリキアと書いてあるのは、タルソス。福音を語ったのは、初期には、上に書いた行程の一部ということだろうか。この内容とは異なるが「私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。誰であれ、あなたがたが受け取った福音に反することをあなたがたに告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです。」(9)は、やはり恐ろしくなる。これも真理・特定の正しさを確信した人のひとつの性質なのかもしれないが。 Galatians 2:10 ただ、私たちがこれからも貧しい人たちを顧みるようにとのことでしたが、私はこのことのためにも大いに努めてきたのです。 使徒言行録15章にある使徒会議(通称エルサレム会議)周辺のことを語っていると思われる。「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことにしました。すなわち、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。では、お元気で。」(使徒15章28,29)この記述が正確かどうかも検証が必要かもしれないが、似た文章を二度記しており(引用句は手紙の文中)歴史的考察もして記したのだろうから、十分信頼できるものと思う。そこには、上の引用句は書けなかったろう。そのころから欠乏があったと思われるが。もう一つは、食事に関する付帯事項である。ガラテヤ書では「というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。」(12)とある。これは、上の付帯条件の意図が十分共有できていなかったことを意味するように思う。浅はかな考えかもしれないが。 Galatians 3:25,26 しかし、真実が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。 普遍的な真理に行き着いてしまうと、不完全なものを受け入れられなくなるのだろうか。このように、きっぱり書かれると、反論するのは、難しいだろう。たとえ、それが愛に根ざすものであっても。わたしがこの時代に生きていたらどうしただろうか。難しい。 Galatians 4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。 神の子、神の相続人ということばは、おどろくようなものである。しかし、考えてみると、それは、神の苦しみを共にする、またはその責任を受け継ぐものという意味もあるように思う。たしかに、御心を受け取ることは素晴らしいことである。しかし、人々が互いに愛し合うことが、その御心であれば、神様は、現在の情況を悲しんでおられることは確かだろう。奴隷のときの方が楽だったのかもしれない。神の子として生きることはなにを意味するのだろうか。 Galatians 5:13,14 きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句において全うされているからです。 神の子となる権威(ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases))が与えられているなら、そのように生きるべきであることは確かである。しかし、世の中をみると、そのようにはなっていない。まさにこの自由へと召されたが、この自由で愛を持って互いに仕え合うことができないことのように思う。なにが、問題なのだろうか。自由を使う方向が間違っているのだろうか。それであれば、律法のもとにいたときと、そう変わらないようにも思う。この問題をどうすればよいのか、わたしには、はっきり言ってよくわからない。どう考えたら良いのだろうか。 Galatians 6:1,2 きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。 りっぱな言葉だが、一般的には、過ちかどうか、過ちだったとしてもその背景も関係しており、互いに重荷を担うのは困難である。さらに「それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(10)とあり、これも素晴らしいが「善」の判断も難しい。すなわち、神様の御心かどうかを判断するのは、書かれた文字で判断することは可能としても、御心を受け取るのは困難である。誠実に、求め続けるものでありたい。御心を、そして、それに従っていく勇気と、謙虚さを。 Ephesians 1:21 この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました。 「支配、権威、権力、権勢(ἐξουσίας καὶ δυνάμεως καὶ κυριότητος)」について調べてみたくなった。しかし、まず、キュリオテートス(κυριότητος < κυριότης: dominion, power, lordship)が支配、ドゥナメオース(δυνάμεως < δύναμις: strength power, ability)が力、エクスーシアス(ἐξουσίας < ἐξουσία: a. power of choice, liberty of doing as one pleases, b. the power of authority (influence) and of right (privilege), c. the power of rule or government (the power of him whose will and commands must be submitted to by others and obeyed))が、権威・権勢なのだろうか。やはり、実体はよくわからない。これを厳密に定義するのは難しいだろう。ともかく、すべてのものの上ということなのだろう。そのような感覚的な表現がエフェソの信徒への手紙には多いように思う。キリスト者の中で相互に厳密には精査せずに使う言葉である。そのようなものがすでに教会の中ででき上がっていたのだろう。この前の三書とは異なる。 Ephesians 2:19,20 ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であり、 このように書くということは、ユダヤ人として書いているのだろうか。ユダヤ人キリスト者が中心をなしていた時代なのだろうか。やはり、内と、外の区別があったのだろうか。内部での分裂があったのかもしれない。エフェソの信徒への手紙を理解するには、その当時のひとたちが理解していた世界観・キリスト教社会について知ることが必要なように思う。説明なしに使われることばが多いからである。 Ephesians 3:1 このようなわけで、私パウロは、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっています。 獄中書簡と言われる。「だから、私があなたがたのために受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(13)とも書かれているが、使徒言行録の最後の情況とはおそらくかなり異なる。一旦は、釈放され、その後の、獄中生活なのか。なぜ、はっきりとした記録がないのかも不思議に感じる。パウロは、最初は、恩赦を与えられても、周囲に争いは絶えなかったのかもしれない。パウロの後半生が知りたい。本書を全くの創作だという説も考えられないこともあるが。 Ephesians 4:25 ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。 エフェソの信徒への手紙は、美しい、洗練されたキリスト教用語が並ぶ。ただ、キリスト教会の外のひととこれでコミュニケーションができるのか、疑問も生じる。引用句を取り上げたのは、「隣人」「体の部分」に目が止まったからである。隣人は、すべての隣人だろうか。イエス様が「隣人となったのはだれか」と語った、普遍的な存在の隣人だろうか。そして、体はキリスト教用語としては、キリストの体を意味すると思われるが、神様に愛された存在としてという普遍性を持つだろうかと考えたからである。ひとびとと共に語り合うことを考えれば、教会の内外の区別はないはずである。それは、共有はできないのだろうか。 Ephesians 5:1,2 ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。 一般的なことばで書かれている。神は、ある子を愛し、ある子を憎まれる方なのだろうか。おそらくそんなことはない。ありえない。「私はキリストの体の一部なのです。」(30)も、人々全部を考えなければいけないはずである。それが「私たち」はだれを意味するかにつながるはずである。なんでも普遍化してはいけないのかもしれない、丁寧に、ていねいに進んでいきたい。それには、書簡も学ばないといけないのかもしれない。むずかしいけれど。 Ephesians 6:21,22 私がどのような様子か、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて報告するでしょう。彼は、主にあって愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためです。 エフェソの信徒への手紙は、18世紀頃から、疑パウロ書簡(Deutero-Pauline epistle)とされている。実際には、確実な証拠があるわけではないが、たしかに、エフェソの信徒への手紙を呼んでいると、通常考えられるように、パウロがエフェソスの長老たちと分かれてから数年後、ローマに囚人として送られていた頃と考えるのは、困難だと思われる。教会組織が確立していること、パウロの福音に関する考え方が述べられていないことなどが理由である。文体や論理展開もかなり異なるように思われる。一方、引用句には、具体的な名前も登場する。使徒言行録20章4節にアジア州出身として登場するパウロの同行者ティキコである。パウロは、一旦、釈放された、または、かなり自由に行動できた可能性もあり、やはり成立状況を確定するのは、難しいようにも思われる。 Philippians 1:25,26 こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。 13節の「獄」「兵営」などのことばを見ると、使徒言行録の記述とはことなるように思われる。やはり、一旦釈放され、そのあとでのことのようにも思われる。いずれにしても、引用句では、釈放されることも視野に入れて、フィリピを訪問することをかなり確信しているように見える。パウロのローマ到着後のことについては、ぜひもっと知りたいものである。なすべきことが山ほどある中で、パウロはなにを大切にしたのだろうか。 2022.11.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  99. BRC 2021 no.099:フィリピの信徒への手紙2章ーテサロニケの信徒への手紙二2章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、そして、フィリピの信徒への手紙は、いかがですか。今週は、フィリピの信徒への手紙の残りと、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一を読み、テサロニケの信徒への手紙二に入ります。書かれた時代も少しずつずれていますし、それぞれの教会の状況も様々でしょから、わたしも、理解することは難しいように思います。それでも、いろいろと感じること、学ぶこと、これはおかしいのではないかと思うこともあるのではないかと思います。前回も書きましたが、気づいたことを書き留めることをおすすめします。そうすると、流し読みして、読み終わったときに、なにも残っていないということは、避けられます。じつは、そう書くということは、わたしは、朝に、聖書を読んでいて、なにも頭に残らずに、その章の最後まで到達したなどということが、よくあるということです。わたしは、ご存知のように、各章について一言ずつ書くことにしているので、そういうときは、もう一度読み直すことにしています。そうであっても、なかなか理解できないことが多いですが。 書かれた時期のことを少し書きましたが、テサロニケの信徒への手紙一は、現存するパウロの書簡の中で、一番最初に書かれたと考えられています。最後は、フィリピの信徒への手紙かな。こちらは異説がいろいろとあるようですが。使徒言行録を読まれたみなさんは、旅のどのあたりで、テサロニケを訪問し、このテサロニケの信徒への手紙を書いたの予想がつくかなと思います。使徒言行録16章にあるフィリピ訪問、17章にあるテサロニケ訪問など、もう一度読んでみるのも良いかもしれません。通読の途中でするのは、ちょっと大変かな。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 フィリピの信徒への手紙2章ーテサロニケの信徒への手紙二2章はみなさんが、明日11月14日(月曜日)から11月20日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一と、テサロニケの信徒への手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 フィリピの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ph コロサイの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#co テサロニケの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#th1 テサロニケの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#th2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Philippians 2:8,9 へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。 「このため(διὸ: therefore, wherefore)」となっており、帰結として記述されている。最初は「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず」(6)とあり、最初から特別な存在であったことも書かれている。これを統一的に理解しようとすると難しい。そして、このような表現がキリストを表現する上で適切なのかも本来は検討を要する。しかし、引用句からひとつわかることは、イエスの生涯の生き様によって、変化も生じているということである。まさに、権能があたえられたことと、それを生きることには、違いがあるということなのだろう。 Philippians 3:10,11 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 観念的なことばのようにも見える。パウロの中には、このような生き方の実体があり、その一部が、この前に書かれている、「肉を頼みとしない」ことのように、思われるが、それは、ある意味で捨てることで、生きることではない。このあとには「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(17)と書いている。このことばで、当時の人達は、生き方を理解できたのだろうか。たしかに、パウロは特別な生き方をしている。特にユダヤ人と議論をし、信仰による義を説いているように思われる。生き方、これは、人生との向き合い方も含むように思う。パウロに倣うことで、得られるのだろうか。 Philippians 4:9 私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。 エフェソ5章1節に「ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、」とあるが、パウロはイエスに倣うことは語らない。コリント一11章1節に「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」とはある。少なくとも、わたしは「私に倣うものになりなさい」とは言えない。パウロはなぜこのように繰り返して言うのかは、じっくり考えるのがよい。パウロの時代には、イエスの思い出を持っている人がいて、そのことや、イエスに会った人が絶対化されることを避ける、自分はそうではないこともあり、距離を置く面はあったろう。彼の神学においても、イエスに倣うことは登場しない。キリスト論に終始する。それゆえに福音書が書かれたのだと思うが、信仰においても、つねに重要な位置づけを持つ問のように思う。 Colossians 1:5-6 その愛は、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています。 愛が「希望に基づくもの」であるとはどのような意味だろうか。さらにこの「希望を福音という真理の言葉を通して聞いた」ともある。実体がよくわからない。抽象的すぎるように思うが、どうだろうか。説明しようとすればできないことはないが、これだけで実質的な意味が伝わったのだろうか。4節には、その愛とともに信仰についても書かれており、パウロが、希望を含めたこの3つを好んで使ったことは理解できるが、このコロサイ書では、すでに独り歩きしているように感じる。 Colossians 2:2,3 それは、彼らの心が励まされ、愛によって結び合わされ、溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。 「苦闘」(1)の内容について述べている。このあとに実際の背景や問題について語られている。まず「巧みな議論」(4)で騙されないようにと書き、引用句にもあるように「キリストにある」ことがすべてにおいてたいせつであることを主張するように「キリストにあって」(聖書協会共同訳では、ローマ3回、コリント一4回、コリント二6回、ガラテヤ1回、エフェソ7回、コロサイ4回(すべて2章)、テサロニケ一1回、テサロニケ二1回、フィレモン2回)が連続する。他にも、ともかく、「キリスト」(コロサイ全体で33件中2章に15回)が頻発する。これで、伝わっているのだろうか。わたしは、メッセージを受け取っているだろうか。不安になる。 Colossians 3:13,14 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。 実際の問題について、どのように生きることが、愛に生きることなのかが、やはりいちばん難しいのではないか。社会の問題は、とても大きく、今は、多くの情報を得ることも可能である。教義では、解決できないことばかりのように思う。互いに耐え忍び、赦し合う生活、すべてのことに、愛を着けること。それは、難しいだけではなく、すべてのひとにとって大切な課題で、普遍性も高い。ことばをもう少し整理したい。 Colossians 4:10 私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。 やはりマルコが気になる。マルコは、ペトロの通訳ではなかったのか。なぜ、ここに、パウロと一緒に居るのか。それも、バルナバのいとこと、明確に書いている。他のひとと比較すると、このように書かず、マルコと書くだけで良かったようにも思う。やはり、問題があったのではないかと感じる。コロサイ書の真筆性というより、この部分がどうなのだろうかと疑ってしまうのは不適切なのだろうか。 1 Tessalonians 1:4,5 神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからです。私たちがあなたがたのところで、あなたがたのためにどのように振る舞ったかは、ご存じのとおりです。 わたしは、自分が神に選ばれたことを知っているだろうか。だれかに、あなた方は神様に選ばれていると言えるだろうか。正直、自信がないというより、できないと思う。まず、「選び」という概念がよくわからない。神様は、そのような方なのだろうか。そして、ひとが複雑であることも知っている。神様に委ねることはできるが、このように確信することは、できないように思う。やはり、不信仰なのだろうか。 1 Tessalonians 2:7,8 私たちはキリストの使徒として重んじられることができたのですが、むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました。母親がその子どもを慈しみ育てるように、あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです。 「幼子のように」は不明である。異文として「優しく振る舞った」とあり、写本による違いもあるようである。「母親」の部分も「乳母」のような言葉である。こちらは、わかりやすいものをとったのだろうか。NKJV では "But we were gentle among you, just as a nursing mother cherishes her own children." となっている。この段落では、このあと「あなたがたが知っているとおり、私たちは、父親が子どもに対するように、あなたがた一人一人に、神にふさわしく歩むように励まし、慰め、強く勧めました。神は、あなたがたをご自身の国と栄光へと招いておられます。」(11,12)とあり、意図は伝わってくるように思う。 1 Tessalonians 3:12 私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。 わたしの願いはここにある。それ以上でも、それ以下でもない。互いの愛と、すべての人への愛とええ、豊かに満ち溢れる。これほどのことはない。わたしがその模範になることができるかはわからないが、自分もまずは、そのように生きていきたい。「互いの愛とすべての人への愛」良い言葉である。 1 Tessalonians 4:15 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。 復活と再臨について書かれている箇所である。テサロニケの信徒への手紙の特徴でもある。今回、目にとまったのは「主の言葉によって言います。」これは、何を意味するのだろうか。「主」は神様で、旧約聖書を意味するのだろうか、それともキリストを意味して、口頭でイエスが語られたことを聞き及んで言っているのだろうか。引用箇所を見ると「主の言葉によって」のことばが用いられた例(列王記一13:17,18, 20:35など)が書かれているが、このこと自体ではないようだ。イエスの言葉として論拠とともに書いているわけでもないのだろう。パウロが、固く信じ、これ以外にないと考えていたことは想像できるが、ほんとうに、それが動かせない真理となるのだろうか。 1 Tessalonians 5:16-18 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。/これこそ、キリスト・イエスにおいて/神があなたがたに望んでおられることです。 様々な具体的な勧めをしたあとで、ここに行き着いている。そうであっても、パウロは、真理、自分が受け取ったとする、真理について語らざるを得なかったのだろう。それがどのようなものかを理解するのは難しい。真理は、絶対的なものなのか。これは、とても、大きな問題である。日常的な生活の指針は、より、普遍性があるのかもしれない。 2 Tessalonians 1:6-8 実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。主イエスは、燃え盛る火の中を来られ、神を知らない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。 わたしは、このような箇所を今まで素通りしていた。自分が正しいかどうかはわからないが、とても、残念である。わたしには、このような記述は、神様のみこころとはとても遠いように思われる。さらに、このあとには「彼らは、主の御顔から、またその御力の栄光から退けられ、永遠の滅びという裁きを受けるのです。」(9)と続く。受け入れない人、裁きをうけることに至る人がいることは、福音書の記述などとも、矛盾はないのだろう。しかし、ここにある記述は、すでに、意図がずれてしまっているように思う。神様は、このような手紙を喜ばれるだろうか。わたしには、そうは思えない。 2 Tessalonians 2:7,8 不法の秘密はすでに働いていますが、それは、今抑えている者が退くまでのことです。その時、不法の者が現れますが、主イエスはご自分の口から吐く息で彼を殺し、来られるときの輝かしい光によって滅ぼしてしまわれます。 このようなことが書かれていることにも驚かされる。論理的にも、整合性がないように思われる。テサロニケの信徒への手紙二を読むと、このあとにも、「私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。」(16,17)とある。批判するような点はないが、パウロのメッセージとは、かなり異なるように思うだけでなく、イエスのメッセージの中心も外してしまっているように思われる。この書き手を裁くわけではないが、聖書の取り扱いの難しさを感じる。 2022.11.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  100. BRC 2021 no.100:テサロニケの信徒への手紙二3章ーテトスへの手紙3章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、テサロニケの信徒への手紙二と読んできました。短い手紙ですから、すぐ次の手紙に移り、それぞれの手紙をしっかり理解するのは難しいかもしれませんね。今週は、テサロニケの信徒への手紙二の最後の章を読んでから、テモテへの手紙一・二とテトスへの手紙を読みます。 今週読む、テモテへの手紙一・二とテトスへの手紙は、牧会書簡(pastoral epistles)と呼ばれ、パウロと一緒に活動していたことのある個人に宛てて書かれた書簡という形式になっています。テモテとテトスについては、すでに読んだ箇所に出てきていますから、覚えておられるかもしれませんね。 テモテについては、テモテへの手紙一・二を読んでいても、いろいろな情報がわかりますが、それは、読んで頂くとして、使徒言行録16章1-3節の記事を引用しておきます。 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ人女性の子で、ギリシア人を父親に持つテモテと言う弟子がいた。 彼は、リストラとイコニオンのきょうだいの間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を施した。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 テトスについては、二箇所あげておきます。 その後十四年たってから、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。 都に上ったのは、啓示によるものでした。私は、異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に示しました。私が走り、また走ってきたことが無駄だったのかと尋ねたのです。 また、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であるのに、割礼を強いられませんでした。 (ガラテヤの信徒への手紙2章1-3節) テトスについて言えば、彼は私の同志であり、あなたがたのために協力する者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光を映す者です。(コリントの信徒への手紙二8章23節) 著者がパウロかどうかについては議論もあり、読んでいくと、時代的に少しあとなのかなと感じさせる箇所もありますが、最初に牧会書簡と書いたように、若い牧会者・信仰者のリーダー(牧師・宣教師・長老など)に対して、どのようなことを心得るべきこととして、伝えているのかを知る意味でも、大切な書簡だと思います。ただ、形式的にも、個人宛とされ、当時の背景の説明もありませんから、具体的なことについて、あまり、普遍化して教えを受け取るのは注意が必要かなと思いながら、わたしは読んでいます。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 テサロニケの信徒への手紙二3章ーテトスへの手紙3章はみなさんが、明日11月21日(月曜日)から11月27日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 テサロニケの信徒への手紙二、テモテへの手紙一、テモテへの手紙二と、テトスへの手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テサロニケの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#th2 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ti1 テモテへの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ti2 テトスへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#tt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 2 Tessalonians 3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、私たちは、「働こうとしない者は、食べてはならない」と命じていました。 子供の頃、文語体で暗証した聖句である。「働かざる者食うべからず」しかし、今回とても気になった。排除の論理が、色濃くあるからである。まず「また、私たちがよこしまな悪人たちから逃れられますように。すべての人に信仰があるわけではないからです。」(2)この「悪人」がどのような人たちをさすか不明だが、「悪」を遠ざけなければいけないことは確かだが、「悪人」と決めつけることは御心なのだろうか。神様は、その人をも愛しておられるのではないのか。「きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないすべてのきょうだいを避けなさい。」(6)きょうだいたち、と呼びかけながら、仲間内をさばいているように見える。その延長線上に、引用句があるようだ。 1 Timothy 1:15,16 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 「限りない寛容」が「罪人の頭」に示された。このことは、パウロが強く意識していたことだろう。あまり、自分のことばでは、そのようには語らないが。この、テモテへの手紙一が、どの程度、パウロに近いかも、考えながら読んでいきたい。 1 Timothy 2:12-14 女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜなら、アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。また、アダムはだまされませんでしたが、女はすっかりだまされて、道を踏み外しました。 時代的なものなのだろう。ということは、神様が愛されたいろいろな人との交流を通して、神様の理解が進んでいることを意味しているとも言える。このような言葉に対する、聖書批判とも、しっかりと向き合わないといけない。むろん、これを見て、これこそたいせつなことと、このことを、実際にそのとおりとする考え方や、この書もパウロの直筆によるものとして、他の箇所たとえばコリントの信徒への手紙一11章7-16節などを引用して、引用箇所に難しい解釈を付与することも考えられるが。 1 Timothy 3:16 まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘義です。すなわち、/キリストは肉において現れ/霊において義とされ/天使たちに見られ/諸民族の間で宣べ伝えられ/世界中で信じられ/栄光のうちに上げられた。 この前には、監督と奉仕者(訳によっては、執事)の記述がある。上の箇所も、すでに定型文になっているのだろう。かなり時代的は下っていると思われる。フィリピ2章のようなものなのだろうか。これが「敬虔の秘義」と呼ばれている部分が興味深い。フィリピ2章のしもべの賛歌の部分とはかなり異なるが。「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリピ2章2-8節) 1 Timothy 4:3,4 結婚を禁じたり、食べ物を断つよう命じたりします。しかし食べ物は、信仰があり、真理を認識している人が感謝して受けるようにと、神がお造りになったものです。神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。 「偽りを語る者たち」(2)の記述である。まず、食べ物について「信仰があり、真理を認識している人が感謝して受けるようにと、神がお造りになったものです。」と書かれているが、これも、食べ物についての一般的な理解を言っているのではなく、食べ物を断つということに限定して語られていることをまずは確認すべきである。食べ物は、神様が造られた、人間(動物もあらゆる生き物)だれにとっても大切だからである。そのあとに続く部分「神が造られたものはすべて良いものであり」は、一つの信仰告白、神様がどのような方かの理解を表現したものであるが、それほど簡単に、評価できないように思う。二元論では、解決できないことがほとんどなのだから。 1 Timothy 5:4 やもめに子や孫がいるなら、まずこの人たちに、自分の家族を大切にし、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神に喜ばれることだからです。 「本当にやもめである人」について書かれている。これは、分離につながり、公平性は担保できない。現代につながる問題が、すでに、ここに書かれている。どのようにすればよいのか、そして、キリスト者コミュニティなど、仲間内ですべきことなのか、どのように、仲間や教会が関わるべきなのか、いずれも、とても、難しい問題である。こどものことも、やもめや老人などの福祉などの課題は、その社会のありかたと深く関係しており、分離していくことでは解決に至らないことは、当然であると思う。それは、聖書をどう読むかにも関係してくるように思う。引用箇所のような考え方から自由に、課題を整理することが、推奨されるかどうか、ひとの対応は分かれてしまうのも当然であると思われるからである。難しい課題である。 1 Timothy 6:1,2 軛の下にある奴隷は皆、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは、神の御名と教えとが冒瀆されないためです。主人が信者である場合は、きょうだいだからといって軽んじることなく、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その良い行いを受ける主人は信者であり、愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。 ここまでであれば、ある真実が含まれていると思う。互いに愛し合うこと、神様が、その主人の背後にもおられることを受け止めることだから。ただ、これに続く部分は、受け入れがたい。「異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、敬虔に適う教えにも従わない者がいれば、その人は気が変になっていて、何も分からず、議論をしたり言葉の争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、妬み、争い、冒瀆、邪推、果てしのないいがみ合いが生じるのです。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の道と考える者たちの間で起こるものです。」(3-5)kこれを「満ち足りる心を伴った敬虔」(6)と呼ぶのだろうか。わたしには、できない。 2 Timothy 1:13,14 キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたに委ねられた良いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。 「こういうわけで、私はあなたに注意したいのです。私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。」(6)ともあり、まさに「愛する子テモテへ。」(2a)と題する手紙である。しかし、テモテも、この時点では、幼子ではなく、霊的乳飲み子でもない。すでに、多くの人との交わりを通して神様から学んでいるはずである。親子の関係においても、霊的な師弟の関係にあっても、そのことを、軽くみてはいけないと思う。「私から聞いた健全な言葉」も、課題を含むことを、学んでいくことこそが、御心(聖霊によって)に従って生きることではないのだろうか。時代的・社会的な背景もあるだろう。パウロや、テモテとともに、御心を求め続けていきたい。 2 Timothy 2:8 イエス・キリストを思い起こしなさい。私の福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されました。 「愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。もしかすると、神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれません。」(23-25)テモテへの手紙は疑似パウロ書簡(Pseudo-Pauline Epistles)とされ、真筆性が低いとされている。そのことはおいておいても、パウロの議論も、ある部分、愚かで無知な議論だったように思われる。当時の、キリスト者、ユダヤ教の信者、そして、ギリシャ文化の中のひとたちにとって、いくら立派な議論であったとしても。このような文書から、様々なヒントを得る。しかし、一人ひとり、少しずつ学んでいく過程におり、知っていることは、ほんの限られた部分なのだから。 2 Timothy 3:5-7 見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女たちをとりこにしている者がいます。その女たちは多くの罪を重ね、さまざまの情欲に駆り立てられており、常に学んではいるが、いつになっても真理を認識することができません。 たしかに、このようなことは、あるように思う。そして、おそらく、自分も、多かれ少なかれ、このような状態にも近いとも思う。ここでは、どうも女性のことを言っているようだが、むろん、女性に限ったものではない。男性にとっては、女性のほうが、上手に、敬虔を装っているように見えるのかもしれない。いずれにしても、本質的ではない。「常に学んでいるが、いつになっても真理を認識することができない。」まさに、わたしのことを表現しているように思われる。 2 Timothy 4:13 あなたが来るときには、トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください。 「羊皮紙のもの」とある。このように言えばそれがどれであるかわかるのだろう。パピルスよりも、ずっと高価で、長持ちすることは容易に想像がつくが、これは、何だったのだろうかと考えた。旧約聖書であれば、おそらく、そのように書くか、または、パウロが常に携帯していたろう。(疑似パウロ書簡(Pseudo-Pauline Epistles)であるかどうかは置いておいて)可能性があるのは、それ以外の、ヘブル語で書かれたものかもしれないと思った。テモテは理解できない可能性も高いので。もし、ギリシャ語で書かれたものであれば、それだけ、特別だったのだろう。どの程度普及していたかも気になる。そのようなこともいずれ学んでみたい。 Titus 1: 6 長老は、とがめられる点がなく、一人の妻の夫であり、その子どもは放蕩を責められたり、反抗的であったりしない信者でなければなりません。 このあとには、監督を立てることについての注意事項が続く。基本的に基準は品行方正である。まあ、そのような人のほうが望ましいことは確かだろう。少し気になったのは、子どもについて書かれている部分である。たしかに、子供の素行は、親の影響である可能性はあり、通常は見えていない部分が、子供に現れる面はあるが、これが基準とするのは、注意を要する。現代の教会でも、にた状況は起こるので、難しいと思う。特に、キリスト者が減っている日本、特に地方の教会のようなところでは。 Titus 2:1,2 しかし、あなたは、健全な教えにふさわしいことを語りなさい。年を取った男性には、冷静で、気品があり、慎み深く、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。 このあと通常のモラルに属することが並ぶ。おそらく、「健全な」社会を志向していればほとんどのものが、当然・自然なことだろう。同時に、社会・時代によって、多少基準が異なったり、重点の置き方も変化する。それをすべて聖書の中に基準を見つけようとすることには、問題がある。むろん、といって、信仰「健全な教え」の関わる範囲を限定してしまうのも問題があるのだろう。「健全な教えにふさわしいこと」神様の御心を求め学び続けること。ここに尽きるように思う。 Titus 3:1,2 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。 前章では、個人または小規模なグループ内での倫理について語っているが、ここでは、社会的責任に関する、おそらくキリスト者以外のひととの関係も視野に入れられている。ただ、その部分は少ないように思われる。まだ、よく理解されていなかった可能性も高い。迫害も波状的にあり、どう生きるかには、様々な課題もあったろう。それが「あらゆる善い行いをするように心がけなさい」の背後にあることなのかもしれない。このことは、考え始めたばかりだから、結論を急がず、ゆっくり考えていこう。 2022.11.20 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  101. BRC 2021 no.101:フィレモンへの手紙1章ーヘブライ人への手紙13章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙一・二とテトスへの手紙は、いかがですか。最近は、手紙を書く人はかなり減っているようですが、手紙をもらうのは、嬉しいですよね。音沙汰がなかったひとから手紙や、メールが来て、交流が再開することが、最近ありましたが、とても嬉しかったですし、なにか、人生がより豊かになった気持ちになりました。そのような交流をたいせつにしたいものです。今週は、フィレモンへの手紙と、ヘブライ人への手紙を読みます。BRC2021の通読では、通読における、週の切れ目と、聖書の巻の切れ目と合うことが多いように感じます。今回も、ヘブライ人への手紙を今週最後まで読む予定になっています。 フィレモンや、フィレモンへの手紙に名前が記されているひとたちについては、あまり情報がありませんが、この短い手紙の背景は、フィレモンへの手紙の中に記されていますから、読んでいただくのが良いと思います。当時の奴隷がどのような扱い方をされていたのか、しっかり学んだことはありませんが、社会的な身分とは別に、キリスト者としての交わり、関係性について語られている、とても興味深い手紙だと思います。 ヘブライ人への手紙の著者はわかりませんが、下のリンクでも引用している、使徒言行録の18章24-28節に登場するアポロのような人が著者でないかと、思われます。聖書協会共同訳で引用しておきます。 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロと言う雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道をよく学び、イエスのことについて熱心に語り、また正確に教えていたが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかった。 このアポロが会堂で堂々と教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、きょうだいたちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこに着くと、すでに恵みによって信じていた人々を大いに助けた。 彼は聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、ユダヤ人たちを力強く論破したからである。 今回、ヘブライ人への手紙を読んで、わたしは、ヘブライ人への手紙の著者だけでなく、ユダヤ教の背景を持ち、律法のもとに生き、すべてを律法をもとに考えてきた人達にとって、キリスト者となったとき、律法の変更をどう理解するかは、単に頭で理解するだけではなく、生活すべてについて、再構築が必要な課題で、整合性をもって、受け入れるには、非常に大きなエネルギーが必要だったのだろうと思いました。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 フィレモンへの手紙1章ーヘブライ人への手紙13章はみなさんが、明日11月28日(月曜日)から12月4日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 フィレモンへの手紙と、ヘブライ人への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 フィレモンへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pl ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#he 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Philemon 7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。 愛が、関係性に本質があることがよく表現されている。かつ具体的である。このあとにも「その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」(16,17)にも、愛の本質が語られているように思う。神様が愛される存在として、歓迎すること。そのような関係性こそが大切であるように思う。 Hebrews 1:2-4 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。 わたしは「互いに愛し合いなさい」をたいせつにし、このような「大きな物語」にあまり重きをおいていない。大きな物語を知りたい気持ちはひとにはあるが、イエス様が大切にされたのは、福音書を読んでいると、それではないと考えるからだ。しかし、他方、安定して、継続するためには、このような「大きな物語」が重要であることも理解はできる。それを絶対化しないこと。そして、そこから演繹するときには、注意することだろうか。それを、心したいと思う。 Hebrews 2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 ヘブライ書の核となる印象的なことばである。しかし、わたしには、十分には理解できない。大祭司の役割ということに実感が持てないのだろう。それよりも、イエスの苦しみに、神様の苦しみも投影されているように感じる。そして「『(続き)すべてのものを、その足の下に従わせられました。』『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」(8)まだ、完全に、神の御心のようにはなっていないのだから。 Hebrews 3:12,13 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―― 「信仰」と「励まし合い」の2つのことばがこころに響いた。信仰は、神の御心を求め続ける「敬虔」だろうか。しかし、それだけではなく「励まし合い」という我々の相互性が書かれていることもたいせつであるように思う。それがどのように、関係しているか、言葉を選んで表現できるようにしていきたい。 Hebrews 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。 この章には「安息にはいる」約束に関して書かれている。しかし、いくつか気になる点がある。引用句では詩篇95篇11節を引用しているようだが、ここでの彼らは「心の迷える民」(詩篇95篇10節)であり、出エジプトの荒野でのことが書かれている。象徴的に取ることはできないことはないが、文脈として適切とは言えない。安息とはなにかも考えた。引用句の流れでいくなら、安息とは、約束の地での生活を意味している。「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」(10)とあることを考えても、神の安息の意味は、明確とは言えない。引用句の最後の記述「神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」も解釈によっては、古典的世界観・科学観、機械じかけの神をも想起させ明確とは言えない。 Hebrews 5:7,8 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 このあとにも「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」(11)とあり、ヘブライ人への手紙著者が非常に大切にしていた点であることが想像できる。単なる贖罪で終わるものはなく、キリストの従順が特別の価値を持っているということだろうか。パウロの晩年の記述(フィリピ2章)にも見られる点である。従順は、敬虔とも信仰とも関係し、重要なことばだが、あまり深く考えたことはないので、味わってみたい。 Hebrews 6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 「この希望」が何かは明確ではない。「希望」は、11節にもある。おそらく15節にある「約束のもの」が対応しているのだろう。この章は「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」(1-2)とあるので、「成熟」、そして「完成」(3)を意味するのだろうが、明確ではない。共有されていることではあるのだろう。 Hebrews 7:17 なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。 「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110篇4節)からの引用である。ダビデの詩として、メシヤ預言の詩篇とされるものである。ヘブライ人への手紙では、このことを鍵として論を展開しているように思われる。この章でも、イエスが「ユダ族の出身であることは明らか」(14)とし、「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。」(12)と書いている。適切な論理展開だとは思うが、詩篇からの引用から、このように演繹していくことには、違和感も感じる。ヘブライ人への手紙の著者にとっては、律法の変更をどう理解するかが、決定的に重要だったのかもしれない。 Hebrews 8:10-12 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」 「その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」(エレミヤ31章33節)の引用だと思われる。しかし、かなり改編されており、他の箇所があるもかもしれない。そして、これこそが、「希望」なのかもしれない。「心に書き記す」としても、自由意志との関係はどうなるのか、互いに愛するようになるのか、やはり不明な点は多い。イエスは、このように言われたのだろうか。 Hebrews 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 聖所・遺言などについて語り、ここでは、贖罪について書かれている。「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(22)この後半は、22b として暗証していたが、十分意味もわからず、前後関係も無視していた。正直、よくはわからないが、律法のもとに生き、すべてを律法をもとに考えてきた人達にとって、整合性は、絶対に失うことのできないものだったのだろう。そのことは、理解できるように思う。 Hebrews 10:12,13 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。 一度だけ唯一のいけにえによって、完全なあがないとなることについて書かれているようだ。2つ感想をもった。1つ目は、パウロが律法と信仰との関係を解き明かしても、ユダヤ教を背景としてもった人達には、解決すべき問題がたくさんあったのだろうということ。もう一つは、引用句の後半。キリストが待ち続けておられるということ。これは、単なる時間的なものなのか、何らかの働きが完成することを待っておられるのかよくわからなかったということである。 Hebrews 11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 この前には、おぞましいほどの迫害を受け、さまよったとの記述があり、さらに「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」とある。正直、よくわからない。キリストを信じる信仰によるひとたちを、待っていたということだろうか。旧約聖書の記述が多いが、このあたり、明確には書かれていない部分も多いように思われる。 Hebrews 12:7,8 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 人間の考え方、それも、現代においては(おそらく書かれた当時も痛みを感じた人はいるだろう)、普遍性は十分ではないと思われる考えかたに基づいて説明をしている。神様との関係の中で、個人的に受けたメッセージを分かち合うことは素晴らしいことだ。それを、わたしは、信仰告白と呼んでいる。しかし、真理として受け取ったことと、真理とを同一視したり、そこから、演繹したりすることには、とくべつな注意が必要である。真理が何であるかを、求めることはたいせつだが、決定することに急ぐあまり、互いに愛し合うことが脇に押しやられてしまうからである。他者の信仰告白を敬意をもって、受け取るとともに、つねに謙虚に求め続けるものでありたい。 Hebrews 13:1,2 兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 感謝するのは、難しい手紙、その方が受け取った真理を確信をもって伝える手紙であっても、おおくの場合、最後は、愛について語られることである。おそらく、キリスト者のコミュニティでは、そこにもどることができていたのだろう。ここでは、兄弟愛と、旅人をもてなすことが語られている。すこし、狭いように思われるが、迫害も厳しい時代で「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。」(23)とも書かれていることを考えると、仕方がないのかもしれない。いまは、かえって、そのような交わりが減ってきてしまっているように思われる。ヘブライ人への手紙の著者とも、また、ゆっくりと語り合いたいものである。敬意をもって。 2022.11.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  102. BRC 2021 no.102:ヤコブの手紙1章ーヨハネの手紙一1章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヘブライ人への手紙はいかがですか。今週は、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、ペトロの手紙二を読み、ヨハネの手紙一に入ります。このあとには、ヨハネの手紙二・三、ユダの手紙とあり、最後がヨハネの黙示録で通読が完了となります。ヤコブの手紙から、ユダの手紙までの簡単な紹介が下にリンクのある箇所の、ヤコブの手紙のところに書いてありますから、引用しておきます。 「ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、ユダの手紙、これら七書は「公同書簡」「公同の手紙」(Catholic Epistles(Catholic はギリシャ語のカトリコスからきており、普遍という意味です、使徒信条とよばれ多くの教会で唱えられる信仰告白の中に「聖なる公同の教会」ということばが出てきますが、これも英語では、Holy Catholic Church で、プロテスタント教会でもこの言葉で唱えられます), General Epistles)とも呼ばれています。特定の地域の人たちや、グループにあてられたのではなく、信徒全般に対して書かれ、回覧が想定されているものだからです。」 リンクには、もう少し詳しく書かれていますから、紹介はここまでとしましょう。何らかの発見をしていただければ幸いです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヤコブの手紙1章ーヨハネの手紙一1章はみなさんが、明日12月5日(月曜日)から12月11日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、ペトロの手紙二と、ヨハネの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヤコブの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jc ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pt1 ペトロの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#pt2 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート James 1:2,3 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 真実であっても、そのまま伝えることが適切ではないこともある。試練に出会ている人に、このことだけを伝えることは適切だとは思わない。互いに愛し合うことは、正しさではなく、関係性の中で育まれ、共感を大切にしながら、そこに働くダイナミズムに価値をおくことのように思う。試練に出会ったひとが語る、信仰告白としては、素晴らしいものであることは確かであるが。 James 2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 この前の節には「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」(1章27節)とある。別け隔ての例も、金持ちと貧しい人の対比となっている。ヤコブの手紙の著者・著者グループは、実際にも「貧しい人々」(「エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々」(ローマ15:26))の代表だったのかもしれない。パウロも特に配慮しなければいけなかった人たちである。そのことが「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(14)の根拠であり「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(24)とパウロが語る信仰義認とは、相容れないような表現に結びついているように思う。パウロが特に気を使った理由も、理解できるように思う。 James 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。 この章は「私のきょうだいたち、あなたがたの多くは教師になるべきではありません。知ってのとおり、私たち教師はより厳しい裁きを受けるのです。」(1)と始まる。そして生き方が書かれている。個人的には、とても好きである。特に、最後「しかし、上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。」(17,18)このように生きられればと思う。具体的に考えると、そう簡単ではない。それは、個人の任せられているのだろうか。 James 4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。 基本的なこと。このことは、自分でできているかどうかは別として、こころに沁み込んでいることは確かである。ユダヤ教の中でも、確立されていたことなのだろう。それは、教義は違えども、人それぞれにとって大切なことでもあるように思う。「しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖書はこう語るのです。/『神は、高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる。』」(6)は、引用箇所には詩篇138篇6節「主は高くおられ、低くされた者を顧みる。/遠くから、高慢な者を見抜かれる。」と箴言3章34節「主は嘲る者を嘲り/へりくだる人に恵みを与える。」とあるが、後者のほうが近いようである。旧約からの引用はできるだけ、確認していきたい。 James 5:7,8 それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。あなたがたも忍耐しなさい。心を強く保ちなさい。主が来られる時が近づいているからです。 この章は「さて、富んでいる人たち、自分に降りかかる不幸を思って、泣き叫びなさい。」(1)と始まる。また「あなたがたは、地上で贅沢に暮らし、快楽にふけり、屠られる日のために自分の心を肥やしたのです。」(5)につながっている。そして、引用句である。富の不公平の一挙解決をも、主の再臨にゆだねているように見え、それまでは、我慢・忍耐と説いているように読めてしまった。それだけ、苦しかったのだろう。その中では再臨信仰が強くなる。それが、御心からはずれているように思われるが、非難することはできない。不公平 Inequality に、どのように向き合っていったらよいかは、どの時代にも、大きな課題なのだろう。 1 Peter 1:17 また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。 この前には「あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。」(15)とあり、レビ記11章44,45節、19章2節、20章7節などの「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」(16a)と述べ、引用句につながっている。わたしは、どのように生きるかがたいせつだと考えているが、それは「行い」とも通じるものである。行いによる義ではなく、聖なる方を求め、聖になるようにと生きることが背景にあるのだろう。わたしは、それを御心をもとめて生きると表現しているわけだが。 1 Peter 2:4,5 主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです。 「生きた石」「隅の親石(λίθον ἀκρογωνιαῖον)」(6,7)は、キリスト教会でよく使われる表現であるが、いずれも「捨てられた」部分がついていることに今回目が止まった。特に「生ける石(λίθον ζῶντα, λίθοι ζῶντες)」にも、主が「人々からは捨てられた」ことが書かれている。また「あながたが」については、複数形が用いられており、隅の親石イエスと、霊の家に造り上げる石の一つということも、対比されていることも初めて考えさせられた。イエスのようにが、いろいろな面を指していること、それも、ここでは「いけにえ」という面も示しているということであろう。 1 Peter 3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。 この時代にも、女性信者のほうが多かったのではないかと思う。現代の教会では、女性が2倍のように思われるが、厳密なデータはない。いつか調べてみたい。そして、それは、なぜ、女性が多いのかも考えさせられるからである。男性は、力による支配にたよる傾向が高いからだろうか。その中で、そのようなものに抗って生きる力が福音にあるのかもしれないと思う。このことも、考えてみたい。 1 Peter 4:19 ですから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。 この章は「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。」(1)と始まり、引用句は最後のことばである。「肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。」を普遍化するのは、難しいが、各所に、試練についての記述がある。「愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。」(12)その背景のもとで書かれていることを無視することはできない。安易に普遍化を求めず、丁寧に読んでいきたい。 1 Peter 5:2,3 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。割り当てられた人々を支配しようとせず、むしろ、群れの模範になりなさい。 長老の一人としての長老への勧めである。(1)ペトロの手紙ということで、ヨハネ21章を思い出すが、ヨハネ書が書かれた頃は、ペトロはすでに亡くなっていると考えられているので、あまり直接的な関連を求めないほうがよいかもしれない。制度が、整ってきていることが伺い知れる。現代ではどのようにしていったらよいか、わたしは、問いたいと思うが。 2 Peter 1:16,17 私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」 このあとには「私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。」(18)として、この体験を、重要な根拠にしている。神からの啓示のことばとして、イエスが神の子であることを保証しているのだろう。イエスは、しかしながら、ことばとおこないをその証拠としたように思う。「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14章11節)それは、福音書などを通して、わたしたちにも伝わることだから大切なのだと思う。個人的な体験は、個々の違い、ひとりひとりの尊厳を高めるが、普遍性につながることは難しいように思う。 2 Peter 2:20 私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。 つなぎとめることは大切だろうが、正直、わたしの感覚とはことなる。自分も含めて、ひとは、何度も揺れ動くのではないだろうか。揺れ動いていることを正直に認めること、そして、そのなかで、戻ってくることを励ますこと、さらに、そのように何回も脱落する人をも、歓迎すること。そのことのほうがたいせつに思う。ここが教会という、アソシエーションだろうか、団体として確立したときの、難しさなのかもしれない。このことについて、わたしはまだよく理解できていないように思う。会員、メンバー、信徒となるということについて。 2 Peter 3:5,6 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。 洪水によって滅んでしまった世界を心しておくことは大切なのだろう。滅ぼさないと約束されたことばも含めて。(創世記8章21節)これは、バビロン捕囚を通して、国が滅んだことを経験しているユダヤ人の信仰に依拠しているのだろう。「水を元として、また水によって成った」は、気になるが、旧約聖書成立の背景をしっかり捉えることの重要性も感じる。 1 John 1:1,2 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。―― 受ける印象は、ヨハネによる福音書冒頭とは少し異なる。より、具体的に、命のことばが生き生きと、単なる理念や哲学的なものではなく、人格を持っているように感じる。初めからあった、だけでなく、聞いた、見た、よく見て手で触った、このように表現する背後にあることを考えさせられる。おそらく、すでに、イエス個人ではないようにも思う。難しいが、急がず、少しずつ理解していきたい。 2022.12.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  103. BRC 2021 no.103:ヨハネの手紙一2章ーヨハネの黙示録7章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、ペトロの手紙二、ヨハネの手紙一は、いかがですか。今週は、ヨハネの手紙一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ペトロの手紙二、ユダの手紙と読み、ヨハネの黙示録に入ります。ヨハネの黙示録は、新約聖書の最後の巻ですから、通読もあと少しですね。 今は、キリスト教の暦の上では、待降節(アドベント)、ほぼクリスマスの日に、今回の通読 BRC2021 が終了します。下にリンクをつけてある、ヨハネの黙示録の箇所には、クリスマスのことと、いろいろと議論のある聖書の各巻の著者について、わたしがどう考えているかも書いてあります。興味のある方は、読んでみてください。 聖書は本当に長い年月を経て書かれ、ある時間もかかって、現在のものになってきました。そして、内容も多様です。それらを、すべてつなぎ合わせて、統一的な解釈をする営みはとても重要ですが、多様さをそのまま受け入れることも、たいせつなのかなとわたしは考えています。少なくとも、筆記したのは(そしてそれを受け継いできたのは)人間で、人間が多様なのですから。 最後のヨハネの黙示録には、世の終わり、終末のことが書かれています。これも、どのように解釈するか、とても、難しい書ですが、時代的な背景や、書いた人とそのメッセージ、当時の人はどのように受け取ったのかなども考えながら読めると良いかと思います。性急な判断をしないことですかね。わからないことがおおいのですから。 リンクには、もう少し詳しく書かれていますから、紹介はここまでとしましょう。何らかの発見をしていただければ幸いです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの手紙一2章ーヨハネの黙示録7章はみなさんが、明日12月12日(月曜日)から12月18日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの手紙一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ペトロの手紙二、ユダの手紙と、ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn1 ヨハネの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn2 ヨハネの手紙三:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#jn3 ユダの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#ju ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート 1 John 2:1,2 私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。 贖罪について書かれている。引き続いて「私たちは、神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります。」(3)ともある。興味深いのは、罪を犯しても赦されることが書かれていること。そして、それは、「戒めを守る」ことと関係していることである。個人にとって、一回限りの贖罪ではなく、神の戒めを守って生きていく自由をあたえる贖罪である。パウロが強調するものよりも発展しているように感じる。 1 John 3:8,9 罪を犯す者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にとどまっているからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。 罪を犯すとは何を言っているのだろうか。2章1節のように「罪を犯しても」という記述もあり、ひとは、神の御心とは反することをする、このことは、自由をもった人であれば、当然起こることである。そうであっても、御心を行おうとすることが、キリスト者の自由としてたいせつだろう。そう考えると、ここで罪を犯すと言っている内容は、2章1節とは異なるのかもしれない。 1 John 4:19,20 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。 何度も引用している言葉である。またここに戻ってきてしまった。神の愛を受けないと、やはり、愛することはできないのだろうか。それとも、愛の深さ、たいせつさに気づくことによって、神を知っていることができるのだろうか。正直、贖罪に行き着く道だけが正解だとは、思えない。その中で、きょうだいを愛することを学んでいくのだろうか。ひとによって、いろいろなストーリーがあるのかもしれない。 1 John 5:1 イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。 イエスがキリストであると信じるものは、神から生まれたもの、神を愛するものは、神から生まれたものを愛するとなっているが、それが簡単につながるかどうかはわからない。だから、まずは、愛するかたの愛するものを愛する、たいせつなかたのたいせつなひとをたいせつにする。とわたしは、説明している。しかし、その前提として、神を愛することが不可欠になる。それは、どうすればよいのだろうか。イエスがキリストであることを信じることがやはり出発点として不可欠なのだろうか。 2 John 9,10 先走って、キリストの教えにとどまらない者は皆、神を持っていません。その教えにとどまっている人は、御父と御子とを持っています。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。 これは、自分で判断することが困難な人たち、その弱さを考えて、助言しているのだろう。単なる、分断を作り出すのであれば、互いに愛し合うことはできない。どうやって乗り切るか。このことが難しい。ここでは「なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。」(7)と表現している。たしかにこのような問題は、議論を引き起こすだけで、解決は非常に難しい。しかしだからこそ、神様の苦しみを苦しみとすることが、キリスト者、イエスの弟子の使命であるように思う。 3 John 13-15 あなたに書くことはたくさんありますが、インクとペンで書こうとは思いません。すぐにでも会って親しく話し合いたいものです。あなたに平和がありますように。友人たちがあなたによろしくと言っています。そちらの友人たちに名を呼んでよろしく伝えてください。 ヨハネの手紙二と三の著者については、確定できていないようだが、明らかに、この2つの手紙の末尾は似ている。「あなたがたに書くことはたくさんありますが、紙とインクで書こうとは思いません。私たちの喜びが満ち溢れるように、あなたがたのところに行き、親しく話したいと思います。選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」(ヨハネの手紙二12,13)わたしも、似た末尾を使うことが多い。むろん、ここでも、インクとペンが、紙とインクに変わっているなど、少しの違いはある。少しの時期がたてば、このぐらいの変化はあるとも思う。他者が、なりすますために、似せるのであれば、まったく同じ挨拶にするだろう。 Jude 4 というのは、ある者たちが忍び込んで来て、私たちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の支配者である私たちの主イエス・キリストを否定しているからです。彼らは不敬虔な者であり、次のような裁きを受けると昔から前もって記されています。 直前にある「信仰のために闘うこと」(3)とある内容、または、引用句の「ある者たち」について、具体的な記述を探したが、わからなかった。「昔から」とある例示の内容からは「この者たちは、不平や不満を並べ立て、欲望のままに振る舞い、大言を吐き、利益のために人にこびへつらいます。」(16)あたりが、内容なのかなとは思うが。ユダの手紙は、聖典性が最も疑われている書であるが、そのような証拠を確認することではなく、伝えたい内容をしっかり受け取ろうとしたのだが、今回はそれもなし得なかった。また、挑戦していきたい。互いに愛し合うために。 Revelations 1:17,18 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。 「私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(9)と書かれているが、どう見ても、他のヨハネ文書との違いが際立って、受け入れられない。著者は別としても良いのだろうが、一応、もう少し考えてみたい。ヨハネだとすると、引用句から、イエスは、地上での生涯のときとは、完全に別人になっていることがわかる。それは、著者の態度からも明らかである。それは、天上でのイエスは、まったく違う形で、地上で生きられたことも意味する。ほんとうに、それで良いのだろうか。別人をどう受け入れるかは難しい。ヨハネでなければ、このようなイエスの位置づけはある程度理解できる。地上で生涯を送られたイエスのイメージを書き換えることは可能なのだから。 Revelations 2:4,5 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改めないなら、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。 やりなおし。以前、魅力的に感じたこともある。しかし、反省はたいせつだとしても、もとには戻れないと、いまは思っている。それは、実際、忘れてしまっていて戻ることができないこと、そして、世界も、環境も、自分も、同じではないから。では、どうしたらよいのだろうか。おそらく、新たな出会いをするしかないように思う。前へ前へではないが、過去を反省しつつ、新たな一歩を踏み出していく、そのような日々でありたい。そのことの表現がこの箇所なのかもしれないと思った。 Revelations 3:2,3 目を覚ませ。死に瀕している残りの生活を立て直せ。私は、あなたの行いを、私の神の前で完全なものとは認めないからである。それゆえ、どのように教えを受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように来る。私がいつあなたのもとに来るか、あなたには決して分からない。 諸教会に心配が尽きなかったのだろう。ここでは、サルディスにある教会に対し「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(1b)とはじめている。それに続くのが引用句である。著者の思いは少しわかるが、どのように受け取っただろうかとおもってしまう。さまざまな教会を思い描いても、たしかに、問題・課題は山積しているのだろう。しかし、変われるか、それをどうしたらよいかは不明である。正直、わたしには、よくわからない。 Revelations 4:3,4 その座っている方は、碧玉や赤めのうのように見え、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。また、玉座の周りに二十四の座があり、それらの座には白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。 ひとは、「この後必ず起こること」(1)そして、神の玉座に興味がある。それを見たいと思う人もいるだろう。しかし、それは、神のプライバシーを侵すことでもある。神の自由を制限することとも言える。わたしたちが望むべきは、神の御心、なにを望んでおられるかだけであるように思う。ひとの欲望を抑え込むことだけでは、いけないかもしれないけれど。 Revelations 5:12 天使は大声でこう言った。/「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」 ふさわしくとも、それをされるかどうかはわからない。イエスは、このことを望んでおられるのだろうか。そうであれば、地上での生活においても、そのことにも注力されたのではないのか。おそらく、ヨハネの黙示録が書かれた時代、このようなものを求める特別な背景があったのだろう。そのことの方をしっかりと学びたい。 Revelations 6:9,10 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「聖なるまことの主よ、あなたはいつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」 ヨハネの黙示録執筆時には、実際にこのような叫びが多くあったのだろう。このあとに応答もある。「すると、彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた。」(11)これでは、いやされないだろう。しかし、何らかの応答は必要だったものと思われる。もしかすると、この黙示録自身がそのような目的のために書かれたのかもしれない。神に問うこと。それは、祈りでもあり、神との対話として、たいせつなのかもしれない。 Revelations 7:14 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 6章9節の「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」とは異なるが、このような「大きな苦難をくぐり抜け」た人々が溢れていたのだろう。そのような人たちに向けて、書かれたと考えてよいのかもしれない。苦難の解釈はいろいろとできるだろうから、自分もそこにいると思えることは、大切である。当時のひとたちとこころをあわせて、読んでいくことができればと思う。 2022.12.11 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  104. BRC 2021 no.104:ヨハネの黙示録8章ーヨハネの黙示録21章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨハネの黙示録は、いかがですか。今週は、新約聖書最後のヨハネの黙示録22章を残して、21章まで読みます。来週はヨハネの黙示録22章のみ、通読もあと少しですね。 私の感想を見てくださっている方はお気づきだと思いますが、わたしは、ヨハネの黙示録を理解するのにとても苦労しています。ひとつには、ところどころに、光が見えるような記述がありますが、これでもか、これでもかと、災厄のことが語られているからです。わたしは、神様からのメッセージからとしてだけでなく、聖書記者が何を伝えようとしているのか、どのようなメッセージを受け取ることが期待されているのかなど、当時の時代背景も考えながら読んでいます。おそらく、なかなか、ヨハネの黙示録記者や、当時のひとたちとこころを共有できないということなのでしょう。それは、あきらかに、わたしの弱さでもありますが、みなさんは、いかがですか。 今回の通読もあとすこし。BRC2023 の準備をはじめていますから、BRC 2021 no.105 では、そのアナウンスもしたいと考えています。通読の会、いつまで、続けられるかは不明ですが、BRC2023 をはじめることはしたいと願っています。降誕節、年末・年始に、みなさんは、どのような思いを持っておられるでしょうか。ヨハネの黙示録だけでなく、聖書の通読(続いた、続かなかかった、別途に読んでいる、ある箇所だけ読んだ)や、この会の改善点、なんでも結構です。お聞かせいただければ幸いです。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの黙示録8章ーヨハネの黙示録21章はみなさんが、明日12月19日(月曜日)から12月25日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Revelartions 8:1,2 小羊が第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた。そして私は、七人の天使が神の前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。 「大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くした」(7章14節)とある人たちに対するメッセージの直後にあるのが、引用句である。「七人の天使」が次々に災厄を下す。基本的には、平安までは遠いことを思い知らされる。これらの災厄の一つ一つから、考えることもあるのだろうが、このようなことばがどの程度力となるのかは、やはり正直不明である。しかし、それは、私に対してであり、信仰を奮い立たされたひともいるのかもしれない。 Revelartions 9:20,21 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった。 三つの災いで、人間の三分の一が殺されたあとの記述である。イザヤの召命と似たものを感じる。しかし、違和感もある。わたしたちが求めることは何なのだろうか。 Revelartions 10:11 そして、私に語りかけるのを聞いた。「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて預言しなければならない。」 あまりにも単純すぎるかもしれないが、本当の終わりはなかなか来ないというのが印象である。第七の封印が解かれてから、七人の天使が出てくるが(8章1,2節)これは、終わりだと思うと、前章までで、第六の天使が登場、この章では、第七の天使とは言わず「もう一人の力強い天使」(1)と表現され、この章の最後は、引用句に至る。正直、内容には、あまり興味は持てない。難しい。 Revelartions 11:14,15 第二の災いは過ぎ去った。見よ、第三の災いがすぐにやって来る。さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、さまざまな大きな声が天に起こって、こう言った。/「この世の国は、私たちの主と/そのメシアのものとなった。/主は世々限りなく支配される。」 まだまだ災いは続くのだろうか。ここに、第七の天使が登場する、前章で登場した「もう一人の力強い天使」と同じだろうか。災いは続くが、メシアの支配のもとにあることが、引用句で語られている。災いとはなにを言っているのだろうか。「あなたの名を畏れる者には小さな者にも大きな者にも報いが与えられ地を滅ぼす者たちが滅ぼされるときが来ました」(18b)とあるが、なにか、気が遠くなってしまう。どのようなメッセージを伝えようとしているのだろう。 Revelartions 12:7,8 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 天とは、そのような場所なのだろうか。この前には、「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ち、生まれたら、その子を食い尽くそうとしていた。」(4)なども書かれている。天は、御心が行われる場所(マタイ6章10節)と思っていた。いろいろな見方が当時あったのだということだけ受け取っておこう。 Revelartions 13:2,3 私が見たこの獣は豹に似ていて、足は熊のようで、口は獅子のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。獣は頭の一つに死ぬほどの傷を受けたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。 正直、状況がよくわからない。また、この獣がどのように傷を受けたのかも不明である。いろいろと説明はできるかもしれないが、この物語自体が、ある説明なのかもしれない。なかなか集中して読めない。 Revelartions 14:3-5 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていた。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、誰も覚えることができなかった。この者たちは、女によって汚されたことがない。彼らは純潔だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがない。彼らは傷のない者である。 「この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。」には、魅力を感じるが、「女によって汚されたことがない。」には、抵抗があり、さらに、これは、男性だけが意識されていることも気になる。また、「十四万四千人」は当時の感覚でも、少なくはないが、特定の限定されたひとという感覚だろう。そのような、区切りをつけることにも問題を感じる。あとには「初穂として贖われたものたち」(4)ともあるが、やはり、違和感が残る。これが、異端とも言われる教派で、意味づけされることも含めて。 Revelartions 15:1 また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである。 これだけの災いにだれが耐ええようか。様々なことがまだまだあるよということは伝えていると思うが、正直、詳細に理解してもあまり意味がないようにも思ってしまう。当時のひとたちに、辛抱して待つことは教えているのかもしれないけれど。 Revelartions 16:2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地に注ぐと、獣の刻印を押されている者たち、また、獣の像を拝む者たちにひどい悪性の腫れ物ができた。 わたしが、ヨハネの黙示録になかなかなじめない理由を考えてみたい。一つは二分法。「額の刻印」神の名か、獣の名か。ひとは、自分自身の尊厳に関する不安がある。それから逃れるためには、権威のあるひとに、あなたは大丈夫、すでに救われていますと言ってほしい。そのような分け方自体を否定するものではないが、人間の弱さを、人間の思いで、克服しようとしているように感じてしまう。ほんとうにそれが神の思いなのだろうか。もう一つは将来に関する不安。特に、明日はどうなるかわからないという不安は、現代と比較すると、当時はとても強かったろう。いのちのはかなさである。これは、将来どうなっていくかということを知りたいという願望にもつながる。世の終わりについて知りたいと考えるのとも通じている。大きなものがたりは、キリスト教会でも、ときどき語られる。しかし、イエス様は、準備について、いまどのように生きるかについては言っておられるが、明確にすることによって、不安を和らげることはしておられないように思う。背景にひとの弱さにより、もとめることがある。神様がなにを望んでおられるかとは、かならずしも一致していないように思われるからだ。世界観が変わっていく中で、なにをたいせつにするかを、考えるべきときだとも感じている。 Revelartions 17:1,2 さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけた。「ここへ来なさい。大水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女と淫らなことをし、地上に住む人々は、彼女の淫行のぶどう酒に酔いしれている。」 そのように、世の中を見ることもできるかもしれないが、わたしは、それほど単純ではないように思う。わたしが、そのひとつを任せられたとしても、適切なことができるとは、思えないからである。たんに誠実にことに向かっていれば、良い方向にいくのだろうか。難しい問題ばかりのなかで、そんなことは言えない。もうすこしましに言うことはできるが、それとて、ほんの一つのことなら可能かもしれないが、全体としては、正解がわからないのだから。神の目から見れば、簡単なのだろうか。これも、わたしには、否と答えたい。神様も、人々が互いに愛し合うことを望んでおられても、どのようにしたらそうなるか、自由意志をある程度維持して、互いに愛し合うことができるかは、ご存じないのではないだろうか。 Revelartions 18:2,3 天使は力強い声で叫んだ。/「倒れた。大バビロンが倒れた。/そこは悪霊どもの住みか/あらゆる汚れた霊の巣窟/あらゆる汚れた鳥の巣窟/あらゆる汚れた忌むべき獣の巣窟となった。すべての国の民が/情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み/地上の王たちは、彼女と淫らなことをし/地上の商人たちは、彼女の度を超えた贅沢により/富を築いたからである。」 二分法はわかりやすい。善と悪、ここでは、悪を大バビロンにたとえ、そこにすべての悪の根源を押し込めている。そう考えられれば楽だが、そうではないように思う。悪のラスボスを滅ぼせば、皆が幸せになるというのは、問題を矮小化しているように思われる。そう考えてしまうのは、長く生きてきた、所以だろうか。ひとの弱さは、ひとの本質でもある。それを取り去ることは、ひとではなくなること。神様が造られたひとではなくなることのように思う。神様との交わりの中に生きる、御心を求め続ける、そのようなものでありたい。 Revelartions 19:9 それから、天使は私に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言い、また、「これらは、神の真実の言葉である」とも言った。 現在の不条理の世界が、神の栄光に満ちた世界に変えられることを人々は願っているのだろう。それは、そのとおりだが、それがどのように得られるかは、やはりわからないのではないだろうか。イエス様は、このような状態になることを望んでおられるのだろうか。批判的なことを書きすぎているのかもしれない。通読もあと少し。学び続けたいとは思っている。 Revelartions 20:7,8 千年が終わると、サタンは牢獄から解き放たれ、地の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 千年王国と呼ばれるものの記述があり、そのあとに、このことが書かれている。千年王国でも、終わらない。現在は、どこに居るのだろうとも思ってしまう。おそらく、そのような時間軸とはことなるものを描写しているのだろう。このようなときに、どう生きるか、そこにたいせつなことがあるように思う。 Revelartions 21:22,23 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。 神殿がなく、太陽も月もない。前者は理解できるが、後者は、よくわからない。このあとに、地上の王たちの記述もあるが、ここは、まだ地上のことなのだろうか。厳密に考えるのは、おそらく適切ではないのだろう。象徴的に表現していることは、ある程度理解できるように思う。 2022.12.18 鈴木寛@武蔵野市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html

  105. BRC 2021 no.105:ヨハネの黙示録22章

    BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨハネの黙示録は、いかがですか。この BRC2021 の日曜朝の配信は、今回が最終回。予定では、明日、新約聖書最後のヨハネの黙示録22章を 一章だけ読んで、終わりとなります。今日の夜11時までに共有してくださったメッセージは、みなさんに共有しますが、それで、BRC2021 も完了となります。 わたしも、引用していますが、最後は(私が読んでいる聖書協会共同訳では)以下のようになっています。 これらのことを証しする方が言われる。「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来りませ。主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。(ヨハネによる黙示録22章20,21節) 今日は、イエス・キリストの降誕をお祝いするクリスマスですね。別の日にお祝いする方も、キリスト者でも、特定の日にクリスマスをお祝いしない方も多くおられるようですが。しかし、引用したことばは、再臨と言われる、イエス様がもう一度来られることについて記し、それを待ち望む言葉と、祝福で終わっています。みなさんは、この最後のことば、どのようなことを考えて読んでおられるでしょうか。 さて、前回 BRC 2021 no.104 で、BRC 2023 の予定を少し以下のように書きました。 「通読の会、いつまで、続けられるかは不明ですが、BRC2023 をはじめることはしたいと願っています。降誕節、年末・年始に、みなさんは、どのような思いを持っておられるでしょうか。ヨハネの黙示録だけでなく、聖書の通読(続いた、続かなかかった、別途に読んでいる、ある箇所だけ読んだ)や、この会の改善点、なんでも結構です。お聞かせいただければ幸いです。」 それまでに、退会と連絡を頂いた方は別ですが、そして退会はいつでも可能ですが、今の予定では、12月30日(金)に、BRC 2023 no.001 をお送りする予定です。通常は、毎週、月曜日から、日曜日に読む分を、その前の日曜日に送っていますが、来年は、1月1日が日曜日なので、1月1日(日)から8日(日)までの通読箇所について、わたしの通読ノートも含めて送らせていただきます。 また、あらたな気持ちで、通読をはじめてみませんか。まだ、12月30日までに、校正は、 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨハネの黙示録22章はみなさんが、明日12月26日(月曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。BRC2021では、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021c.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2021 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2021 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。 聖書通読ノート Revelartions 22:20,21 これらのことを証しする方が言われる。「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来りませ。主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。 なにがすぐなのか、よくわからない。しかし、最後の祈りは、理解できる。主イエスの恵みがあながたがすべての者と共にあるように。そして、これに、主イエスよ、来たりませがつながっている。主が、共におられることを、そのようにして、共に、主のみ心が行われ、共に生きること、そのことを、わたしは求めているように思う。 2022.12.25 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html


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