日時:2002年9月13日(金)1時10分〜2時40分
会場:国際基督教大学 本館402教室
発表者:手代木俊一
題目:日本における讃美歌研究
目次
II. 日本における讃美歌研究
最近の刊行物から
讃美歌研究は聖書研究に比べて盛んだとは言えませんでした。理由はさまざまでしょうが、文学、音楽、神学等その研究領域が多岐にわたり、総合的に研究することが難しい上に、資料不足がその主な原因でしょう。
しかし、地道な研究は続けられていました。指路教会の松下孝氏のバプテスト派讃美歌をはじめとするの研究[「ネイサン・ブラウンの讃美歌--その1、その2、その3--」『宣教』(第11-13号、日本バプテスト同盟宣教研究所 1988-1990年)等]、『西南学院大学 神学論集』(第44巻1号、1986年3月)掲載の古澤嘉生氏の「頌詠と讃詠をめぐって」のように「頌詠とは何か讃詠とは何か」という素朴な疑問に答える研究は続けられていましたが、目に触れる機会はすくなかったと思います。いずれこれまでの研究史はまとめて、来年の5月に『日本語讃美歌・聖歌研究書誌』をあらわしたいと思います。
しかしこのところこの分野の研究も盛んになってきたように思われます。タイトル中に「賛美」「讃美歌」「キリスト教音楽」等という言葉のある最近の刊行物では、横坂康彦氏は『教会音楽史と賛美歌学』(日本基督教団出版局 1993年7月)、『新しい賛美歌作歌達』(日本基督教団出版局 1999年1月)、『現代の賛美歌ルネッサンス』(日本基督教団出版局 2001年1月)をあらわしました。他の刊行物をあげてみたいと思います。梅染信夫著『栄光、神にあれ 讃美歌物語1』、『頌むべきかな 讃美歌物語2』『神は愛なり 讃美歌物語3』(新教出版社 1992、93、94年)、天田繋著『礼拝・賛美のこころえ--共に喜ぶ賛美を--』(いのちのことば社1997年1月)、日本基督教団讃美歌委員会の『讃美歌21略解』(日本基督教団出版局 1998年5月)、『讃美歌21選曲ガイド』(日本基督教団出版局 2001年11月)。『讃美歌21』に関して唐津東流氏は『礼拝における賛美歌の意味と機能--「『讃美歌21』の諸問題』」(日本教会音楽研究会 2001年5月)を出版いたしました。阪田寛夫著『讃美歌 こころの詩』(日本基督教団出版局 1998年12月)、白井健策著『讃美歌への招待』(日本基督教団出版局 1999年5月)、長谷川朝雄・今橋朗・川端純四郎著の『よくわかるキリスト教の音楽』(キリスト新聞社 2000年11月)。茂洋氏を中心とした神戸女学院大学から『讃美歌并楽譜』の復刻と解説書(新教出版社 1991年12月)。『新撰讃美歌資料』(神戸女学院大学 1993年7月)、『「新撰讃美歌」研究』(新教出版社 1999年2月)、大塚野百合著『賛美歌・聖歌ものがたり』、『賛美歌と大作曲家たち』(創元社 1995年12月、1998年11月)、『讃美歌・唱歌ものがたり』(創元社 2002年4月)。
歴史的な流れを実際に音で聞いて見たい思うことがありますが、昨年2月13日、日本基督教団出版局から皆川達夫氏監修、ICUの金澤正剛氏、川端純四郎氏編集の50枚組CD『CDで聴くキリスト教音楽の歴史』が発売されました。何かこの分野に光りがあてられて来たように思われます。この『CDで聴くキリスト教音楽の歴史』はレコードアカデミー賞を受賞いたしました。
また讃美歌は礼拝の中で歌われるものですが、この礼拝に関する貴重な文献が翻訳されました。一昨年J. F.ホワイトの『キリスト教の礼拝』(日本基督教団出版局 2000年6月)を越川弘英氏が訳され、ハーパーの『中世キリスト教の典礼と音楽』(教文館 2000年3月)を佐々木勉氏、那須輝彦氏が訳され、刊行されました。出版社も需要があるから、必要とされているから刊行したのだと思います。これらの著作が日本語で読めることは大変ありがたいことです。
さて、現在があるのは先人達の偉業があってこそ現在があることは言うまでもありません。別所梅之助、津川主一、由木康、竹内信、辻荘一、野村良雄、小泉功、海老沢有道、木岡英三郎、中田羽後、は讃美歌研究の上で忘れることのできない人達です。中田羽後に関しては日本教会音楽研究会代表和田健治氏を中心に全集の刊行と記念館の建設が計画されております。また木岡英三郎に関しては既に木岡英三郎.梅子記念資料室が開設されております。
継続されて来た定期刊行物も研究にはかかせないものです。『礼拝と音楽』(日本基督教団出版局)、『聖歌の友』(教会音楽研究所)、『グレゴリオ聖歌研究』(エリザベト音楽大学グレゴリオ研究室)、『礼拝・音楽研究』(教会音楽研究会)は貴重な資料の言えます。1999年年から10月からこれらに菊地純子氏、長谷川美保氏、藤守義光氏による『改革教会と音楽』(エルピス)が加わりました。現在6号まで刊行されています。
また新たに2つのこの分野の学会が設立されました。昨年1月にキリスト教礼拝音楽学会、そして昨年8月日本賛美歌学会です。どちらも超教派の学会でキリスト教礼拝音楽学会は今年の5月学会誌を『礼拝音楽研究』刊行、わたしも一文を寄せました。
新たな研究領域
昨年、バッハ没後250年ということで杉山好氏の『聖書の音楽家バッハ』(音楽之友社 2000年6月)等が刊行され、バッハ等クラシック音楽に関する研究は盛んです。どうも日本では芸術としての音楽の研究は盛んですが、何かに附随する音楽、附属する音楽の研究はさかんではありませんでした。讃美歌・聖歌は礼拝の中でオルガンの伴奏、特にリードオルガンの伴奏でうたわれてきました。このリードオルガンはあまり最近まであまり研究されていませんでした。しかし、リードオルガンのハードの面を佐藤泰平氏がソフト(文化面)を赤井励氏が研究しております。佐藤氏は立教女学院短期大学の紀要に「日本の古いリードオルガン」を連載、近々1冊の本にまとめるとのことです。赤井氏は『オルガンの文化史』(青弓社 1995年8月)をあらわしました。この二人をはじめとする人達で1996年8月、日本リードオルガン協会が創設されました。何かに附随する音楽、附属する音楽の研究はさかんではありませんと申しましたが、典礼、奉神礼、で用いられる日本のカトリック、正教会の聖歌の研究はさかんではありませんでした。しかし、近年カトリックではエリザべト音楽大学のヘンゼラー氏、中村理平氏によって歴史的な研究がすすみました。ヘンゼラー氏は『Katholische Kirchenmusik in Japan』(St. Ottilien: EOS-Verl., 1994)をあらはしボン大学から博士号が授与されました。ヘンゼラー氏と安足磨由は以下の論文を発表しています。ヘンゼラー氏・安足磨由美著「きりしたんのうたひ(1878)--明治時代のある聖歌集について」『東洋音楽研究』60(1995年8月*H. ヘンゼラー著・大野敏夫訳「明治時代の日本のカトリック教会の聖火集 1883年版『聖詠』・”Recueil de Cantiques Japonais”に関する一考察」『洋楽史研究』1(1995年7月)*H. ヘンゼラー・安足磨由美著「カトリック教会の聖歌集」『異文化交流と近代化 京都国際セミナー1996』(大空社 1998年7月)*H. ヘンゼラー・安足磨由美著「カトリック教会の聖歌 典礼との関わりを中心に」『原典による近代唱歌集成 解説・論文・索引』(ビクターエンタテインメント[株] 2000年4月)*安足磨由美著「山本直忠 その宗教音楽家としての活動」『エリザベト音楽大学研究紀要』22(2002年3月)*H. ヘンゼラー著・安足磨由美訳「明治初期におけるカトリック教会の聖歌」『エリザベト音楽大学研究紀要』22(2002年3月)
中村理平氏は『キリスト教と日本の洋楽』(大空社 1996年9月)で日本のカトリックと正教会の研究を本格的にとりくみましたが、急逝されてしまいました。正教会に関しては尾田泰彦氏が新資料をもとに正教会聖歌の歴史を現在執筆中とうかがっております。日本聖公会も塩谷栄二氏が日本聖公会歴史研究会の雑誌『歴史研究』等に日本の聖公会の聖歌の歴史の発表を続けております[「明治初期の日本聖公会における史実確認」「聖歌集と松山高吉」『歴史研究』(第7、11号、1996年11月、2001年9月)、等]。また、原口尚彰氏「『讃美歌21』の神学的・文学的検討」(『東北学院大学論集 教会と神学』第34、2002)で神学的検討を試みています。讃美歌と地域の問題は取り扱われてきませんでしたが、安田 寛氏、北原かな子氏は弘前(津軽地方を含む)に関して「弘前における洋楽受容のはじまり」『弘前大学教育学部紀要』79(1998年3月)、「弘前と遺愛女学校の音楽教育」『弘前大学教育学部紀要』80(1998年10月)、「弘前女学校と音楽教育」『弘前大学教育学部紀要』82(1999年10月)、「明治期の津軽地方における讃美歌の受容_-明治初期から三十年代前半まで--」『弘前大学教育学部紀要』80(2000年3月)、また北原かな子は「明治期津軽地方における唱歌の普及 地方への唱歌普及の一礼として」『原典による近代唱歌集成 解説・論文・索 引』(ビクターエンタテインメント[株] 2000年4月)をあらわしました。
新しい領域というより、今までは見過ごされてきたところに新たな光が当てられるようになってまいりました。
アジアの一国としての日本の讃美歌
「新たな研究領域」では、国内の問題を扱いましたが、安田寛氏を中心に編集された『近代唱歌集成』(2000年、ビクターエンタテイメント株式会社)は30枚のCDで構成され、讃美歌も多数収録されました。その内アジアのCDが7枚含まれています。旧満州、韓国、台湾、中国です。当初のタイトルは日本近代唱歌集成でしたが、日本の近代唱歌を考えるとアジアを視点に入れざるを得なかったいうことだと思います。アジアの近代化に讃美歌はどのような役割をはたしたのでしょうか。近代化の早かった日本では韓国、台湾、中国より先に唱歌も生まれそれが韓国、台湾、中国伝播し、抗日運動の曲などになっていきます。韓国との間ではお互いの近代化と音楽(唱歌・讃美歌)を検証しようと韓国芸術総合学校音楽院教授の閔康燦氏と安田寛氏を中心に、「日韓唱歌の源流をたずねて」と題して3回コンサートが行なわれました。安田寛氏は1999年『日韓唱歌の源流-唱歌と讃美歌の源流』(音楽之友社 1999年9月)を刊行いたしました。アジアの一国としての日本の讃美歌という視点がうまれています。伝道対象としてのアジアということで、この問題は後述の「アメリカの海外伝道」とも大きな関わりを持っています。1996年には京都で『異文化交流と近代化 京都セミナー1996』が開催され、「漢字文化圏(韓国、台湾、中国、日本)における近代音楽の成立」というセッションが組まれました。韓国、台湾、中国、日本の研究者の発表があり、討議がなされました。セミナーのタイトルにはキリスト教という文字はありませんが、「異文化交流と近代化」ということを解く鍵はキリスト教にある、特にアメリカのキリスト教にある、という結論にいたるセミナーでした。この『異文化交流と近代化 京都セミナー1996』の内要は同じタイトル(大空社 1998年7月)で出版されました。
言語の問題(近代日本語と日本語の韻律)
われわれは天皇性を中心とした近代国歌形成の中で生まれた近代日本語を使用しています。讃美歌の歌詞も例外ではありません。前述の「アジアの一国としての日本の讃美歌」とも関わりますが、近代日本語と人種主義、自民族中心主義との関係に無自覚ではおれません。日本キリスト教団九州教区宣教部は『つげまつらまほし 讃美歌歌詞にみる問題語句・表現』を刊行。西南学院高校の中村信一郎氏は『讃美歌における天皇制的用語』をまとめ、「戦争責任告白としての『讃美歌21』」『福音と世界』(新教出版社 1997年6月号)を発表しております。今後も継続して検討すべき問題と思っております。 讃美歌は日本語で歌う西洋音楽です。しかも翻訳の歌詞が多数を占めています。英語のリズムと日本語のリズムが問題になる所以です。教会オルガニストで日本の明治期の洋楽の研究者、ドイツ人のゴチェフスキー氏は論文「日本語のリズムと洋楽のリズム」『シュポジオン』(第2号、茨城キリスト教大学言語文化研究所 1997年3月)で日本詩歌の伝統である七五調を分析し、五の方は中の単語がどのようでも五としてまとまるが、七の方は「4+3」「3+4」等に別れることと分析、このことを考えないと曲の第1節と第2節が同じリズムでは歌えないことを発表しました。彼は日本の讃美歌について次のように述べています。
言語のリズムと音楽のリズムの関係からすると、日本の讃美歌ほど妙な歌は他にはほとんどないだろう。--略--日本の讃美歌ほど非言語的な歌はない。(p.29)
日本語の韻律の徹底的な研究、国語学者、言語学者等との対話が必要と思われます。21世紀にはもう一度讃美歌は各派とも改定されると思います。そのためにも言語学的研究が必要だと思います。オルチンの言葉に次の言葉があります。 おそらく、こう言っても過言ではないであろう。質、量いずれを考えても、チャールズ・ウエスレーこそがあらゆる時代を通して最も偉大な讃美歌作家である、と。
この二人の聖職者、ウォッツとウエスレーは、歌うという事から遠ざかるなどとは考えたことはなかった。二人の讃美歌は、単に学者の作品というだけでなく、賛美の翼に乗って、ひとりでに高揚していく魂の作品なのである。二人の讃美歌は、現在でも生きており、この先も神の教会でずっと使われていくであろう。というのは、二人の讃美歌は、キリスト教徒としての情感と精神から生まれたものであり、しかもそれは、並はずれた天与の詩的才能から生まれたものでもあったからである。日本の教会にウォッツやウエスレーのような人物が生まれるならば、その時が日本において讃美歌の端緒が開かれる時と言いうるであろう。その時までは、翻訳で満足しなければならない。しかし、翻訳といえども、詩的才能と必要欠くべからざる学識を持つ人が行うべきである
既にウォッツやウエスレークラスの人が日本に生まれていたかも知れませんが、われわれに天才だと見抜くだけの学識がなければ見過ごしてしまいます。そのためにも力をつけなければなりません。
研究の方法をめぐって
ここまで讃美歌研究の内容について話してまいりましたが、ここで方法について述べたいと思います。わたしは2000の1月に上京、それまで事情があって1年半会津におり、インターネットをあまり使っていませんでした。そして2000の1月ホームページ井上義氏作成の「教会音楽研究」を見て驚きました。ここまで来ているのかという感を持ちました。現在讃美歌に関する問題のやりとりもインターネット上で行われ問題の解決の時間が短縮され、外国との距離の壁がなくなりました。なにより、送られて来た情報が加工しやすいことが利点です。そして当事者のいた現場に行ってみることです。わたしはボストンで多くの資料、研究者と出会いました。そのことは次の章でお話しいたします。
宣教、宣教師との関連(アメリカの海外伝道)
本来前の「研究の方法をめぐって」の前に話すべきことなのですが、IIIの「19世紀アメリカの伝道と日本--讃美歌の果たした役割」に関わりますのでこの場所で話しをいたします。
讃美歌はキリスト教の中でのみ使われてきた言葉ですが、最近一般に人にも近代日本史を読みとくキーワードとして認知されはじめています。朝日新聞、NHKのテレビ番組等マスコミにもとりあげられるようになりしたが、日本人の心の故郷といわれる唱歌に明治期讃美歌の曲が使用され、日本の唱歌は讃美歌の影響で生まれたということが言われるようになりました。火付け役となったのが安田寛氏の『唱歌と十字架』(音楽之友社 1993年6月)でした。どうして唱歌の曲に讃美歌が採用されたのでしょうか。このことは当時のアメリカプロテスタントの海外伝道と大いに関わりを持っております。IIIの「19世紀アメリカの伝道と日本--讃美歌の果たした役割」で述べたいと思います。
讃美歌と唱歌との関係では、昨年先ほどの安田寛氏他の編集で『近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント株式会社)CD30枚がだされました日本の唱歌をあつかったCD23枚のうち6枚のCDのタイトルに「讃美歌調唱歌の完成」等、讃美歌、聖歌という言葉が含まれています。宣教師がもたらした讃美歌と唱歌とがいかに深い関係あるかを物語っていると思います。
以上讃美歌研究のいままでとは少し違った流れを述べてまいりましたが、讃美歌研究も様々な分野、様々な立場、様々の国の方々のオープンで直接的(ダイレクト)な交流の上でなされてくるようになったきたという感を深めます。
III.19世紀アメリカの伝道と日本 ー 讃美歌の果たした役割
讃美歌・聖歌と日本の近代
1999年11月、わたくしは『讃美歌・聖歌と日本の近代』というタイトルの書物を刊行いたしました。この中で日本の讃美歌・聖歌の歴史と、日本文化の中の讃美歌・聖歌の位置、そして日本の近代化における讃美歌・聖歌の果たした役割について言及いたしました。特に明治期音楽教育導入時におけるキリスト教とその音楽の影響について述べました。そして、ここで問題にしたのは、*19世紀のアメリカにおける、都市部での工業化・商業化、海外進出、キリスト教と音楽、音楽による宣教。そして*明治期日本における、近代化.欧米化、日本における音楽、和洋折衷(その際の適合・違和)、宣教師から見た日本の音楽、音楽に関する日米の理解の差でした。すなわち、近代化、キリスト教(特に宣教)、音楽、アメリカということを問題にしました。この近代化、キリスト教(特に宣教)、音楽、アメリカを同時に研究するということは、日本近代史の上で、歴史的に重要であるとともに、未だに現実的な問題を含んでいると考えております。
さて、神の摂理の普遍性を信じ、伝える者が19世紀という一時代に、プロテスタント教会の宣教師は主にアメリカから来日してまいりました。彼等は勿論キリスト教を移植することを旨としていましたが、日本には日本の言語・伝統・文化があります。この文化の接触・交流は相互の方法、方針、活動そのものの妥協や折衷を余儀無くされ、このことはそれまでのものの変異・変容を相互に生むと言われますが、日本語讃美歌の誕生、そしてその讃美歌とアメリカの海外宣教の影響の元で生まれたと考えられる日本の唱歌及び近代音楽教育は、今申し上げた「文化の接触・交流は相互の方法、方針、活動そのものの妥協や折衷を余儀無くされ、このことがそれまでのもの変異・変容を相互に生む」ということを端的に現わしてしると思われます。では、明治期近代化をすすめる中でこの件に関してどのような妥協や折衷がなされ、変異・変容が起こったのでしょうか。本日は、讃美歌、アメリカの海外宣教と近代日本に生まれた唱歌及び音楽教育の関係についてのみ、本日のテーマである「日本における讃美歌研究」に即してお話したいと思います。
19世紀のアメリカ
明治政府は近代化にあたり様々ものを欧米から受け入れましたが、音楽教育についても折衷というかたちをとりながらも西洋音楽の導入をはかりました。この導入にあたって大きな役割をはたしたのが、実際、音楽教育のお雇い外国人として来日したルーサー・ホワイティング・メーソンと彼を日本に派遣したエーベン・トゥルジェーでした。二人とも海外宣教の意志を持つアメリカのプロテスタントの信者でした。簡単に二人の略歴をのべます。
ルーサー・ホワイティング・メーソンは、一八一八年、アメリカ、メイン州ターナーの生れ。一八六〇年、シンシナティ教育委員会の要請で『ヤング・ジンガー』を編纂、掛け図も作成。一八七一年からボストンのギン社から『National Music Course』(国楽体系)を順次出版し、この『国楽体系』がボストンの音楽教育の公的カリキュラムに採用されます。一八七六年、目賀田種太郎、伊沢修二と知り合い、二人に音楽を教授。一八七九年、目賀田と日本での二年間の就任契約をかわし、一八八〇年三月来日、一八八二年帰国。一八九六年、メイン州バックフィールドで死去。在日期間は短いのですが、『小学唱歌集』、『唱歌掛図』の発行。ピアノ、オルガン、楽譜(バイエル等)の購入・整備。音楽教師の養成、令人への指導、演奏会の開催などをとおして音楽教育の礎を築き、日本の音楽教育への貢献は計り知れません。またメーソンは来日前、何種類かの讃美歌集を編纂。彼は幼い頃から海外宣教の夢を持っておりまいた。彼の来日は、自らの音楽教育システムを日本に伝えることと同時に、幼い頃からの夢の実現でもありました。コングリショナル派の教会員。
エーベン・トゥルジェーは、一八三四年アメリカ、ロードアイランド州ヴァーヴィックでユグノーの家系の子として生まれ、一八六七年ボストンにニューイングランド音楽院を設立しました。一八九一年ボストンで死去。メソジスト派の教会員
著作は多数。また『The Musical Herald』他5種類の音楽雑誌の主幹となりました。 教会音楽に関しては、オルガニスト、聖歌隊指揮者、讃美歌編集者として活躍しました。
聖歌隊指揮者としてのトゥルジェーは、一八六九−一八七二年ボストンのピース・ジュビリーの大聖歌隊への組織化に尽力しました。そして一八七七年、ムディー・サンキーのリヴァイヴァル運動がボストンで行われた時、二、〇〇〇名からなる大聖歌隊を指導。編纂したメソジストの讃美歌集は、の四点。
トゥルジェーは当時の音楽教育界の重鎮で、アメリカの音楽教育者の組織である MUSIC TEACHERS NATIONAL ASSOCIATION の初代会長にもなりました。この時の副会長の一人にL・W・メーソンがいます。
また、トゥルジェーは音楽家であるとともに、熱心なクリスチャンでした。彼の中では音楽とキリスト教が強く結びついており、彼自身「音楽は、われわれを天国へ導く神の声である」と述べています。社会的には、ボストンYMCA、ボストン・ミッショナリー・ソサエティ、ノースエンド・ミッション・ソサエティー等の会長を歴任しました。彼のキリスト教伝道の意識が海外に向けられた時、メーソンの日本への派遣が計画され、そして実現にいたりました。このメーソンの日本派遣は、明治5年当時のアメリカ公使森有礼が日本政府を代表してトゥルジェーに要請、これに答えて決定されたものでした。
このメーソン・トゥルジェーの二人が日本の音楽教育導入に大きな影響を与えます。
さて、メーソンが来日する明治13年以前に既にキリスト教の再布教は始まり、日本語の讃美歌・聖歌が歌われていました。明治期、日本におけるプロテスタントの宣教はアメリカから来日した宣教師によってはじめられた言って過言ではありません。当時のアメリカ都市部では工業化と商業化がすすみ、工業生産の増大、楽器の製産は楽器の中流家庭への普及を生みました。そしてこの中流家庭の人達は『ミッショナリー・ヘラルド』等の海外宣教の雑誌を購読し、海外宣教のための献金をしていました。楽器の大量生産は市場を海外に求めました。メーソンの日本派遣に関して『ボストン・ヘラルド・サップルメント』の記者は「メーソン氏の仕事によって[ピアノ・オルガン]の需要が起これば日本という国は楽器の最大の海外市場になるだろう」と述べています。海外宣教の情熱はこの中で起こっていました。
森孝一氏は『宗教からよむ「アメリカ」』の中でジョサイア・ストロング牧師の著作『膨張 新しい世界状況のもとで』を紹介し、次のように述べています。
ストロングは『膨張』において、アメリカの膨張政策を正当化するものとして、経済的理由をその主張の中心に据え、『膨張』全体の約三分の二をこれに当てている。
ストロングは一九世紀のアメリカがアメリカ史上はじめて、余剰エネルギーと余剰生産物を持つに至ったことに注目する。
一八五〇年から一八九〇年の四十年間に、アメリカの工業生産高は十八倍に増加した。工業生産のとどまるところを知らない増加は、海外市場を必要とするのであり、もし、海外市場が開発されなければ失業が増大し、アメリカはそれまでに経験したことのない厳しい状況を迎えることになる。彼は海外市場を求めての膨張は、「自然と同様に必須な」ものであると認識していた。−略−
当時の国際的の経済戦争における最重要地域は太平洋地域であり、その中心は中国であった。
海外伝道の情熱はこの中で起こっていました。
また当時アメリカの海外宣教を特徴づける考えに<音楽による宣教>があげられます。ドワイト・ジャーナル・オブ・ミュージック、一八八〇年八月一四日の「日本における音楽」という記事では、メーソンを音楽に満ちた宣教師(tuneful missionary)と呼び、彼の信仰と初心をつらぬく勇気に賛辞を送り、そして「我々は彼の信仰が報われることに疑念を抱いてはいない。なぜならば、音楽とは神の力によって魂に植えられた最も重要なものである。アメリカは神の御業を日本人に実現させるための最適な人材を、その鍵穴に合う鍵とともに送りだしたのである。」と結び、メーソンが日本宣教の適任者であることと、宣教における音楽の力の揺るぎない確信を表現しています。そしてキリスト教と共に西洋音楽とその記譜法の導入をはかっていました。
さて、メーソンを日本に派遣したトゥルジェーは音楽と宣教をどう考えていたのでしょうか。彼はニューイングランド音楽院設立について次のように述べています。「キリスト教の布教のためには、音楽が宣教にとって有効であるということは、ニューイングランド音楽院創設の根本にある考えの一つである。」また、『マニュアル・オブ・ニューイングランド・コンセルバトリー・オブ・ミュージック』(一八八六−八七)で<音楽と宣教>とニューイングランド音楽についてトゥルジェーは次のように述べています。
学校規則の第五条は、どのようにして理事会を構成するかを示しているという点で重要である。条文で見られるように、理事会の重要な構成メンバーの大部分は、アメリカにおける大きな宗教団体と宣教団を代表した人物である。この原則を理事会に導入する目的は、ニューイングランド音楽院がキリスト教的でない者の手による管理に落ちることを永久に防ぐためであり、音楽による宣教という考えを育成するためである。
音楽学校の設立がキリスト教、とりわけ宣教と結びついているということが述べられています。
明治の日本
一方、明治の日本はどうだったのでしょうか?アヘン戦争もあり、これまでのままではいられない。新しく生まれ変わるための近代化がすすめられていました。ここでの近代化とは欧米化といっても過言ではないでしょう。近代産業が興され、富国強兵がさけばれました。音楽の分野では、外交儀式、軍楽、教育音楽のための音楽が模索されましたが、どのジャンルも近代化のモデルである欧米の音楽が導入されました。
W.H.メーソンを招聘した日本近代音楽教育導入の当事者である目賀田種太郎と伊沢修二は近代国家となるための国楽(ナショナル・ミュージック)の創成をめざしていました。国民が<ともにうたえるうた>を模索していました。しかし日本の伝統音楽をそのまま国楽として採用する訳きませんでした。明治期来日の宣教師オルチンは日本の伝統音楽を次ぎのよに捉えています。
た彼らでしょうか?かことがのべ育成するためである。傍線筆者)
日本人自身から見ても、音楽的素養のある人は非常に少ない。これは、雅楽やその流れをくむ能のような上質の音楽は上流階級の間でしか演じられなかったためである。
巷にいきわたっている音楽は一般に、俗楽とか、その流れをくむ浄瑠璃の歌として知られているが、お茶屋や大道で三味線(日本のギター)の伴奏で聞かれるような音楽である。雅楽は一般大衆には高尚でありすぎ、俗楽は一般大衆以外には低俗すぎるのである。
このような日本の伝統音楽が低俗か高尚という極端なものでは国民共通の歌とする訳にはいきません。このような状況の中で伊沢は和洋折衷を提唱いたした。文部省の目賀田種太郎、伊沢修二は開明派とよばれた人脈のなかにいたが、儒教派とばれる人達からのキリスト教への嫌悪も存在しました。メーソンが望むキリスト教の音楽をそのまま受け入れる訳にはいきませんでした。
葛藤が生まれ、妥協が生まれ事は必然です。では和洋折衷の実際とはどうゆうものなったのでしょうか? 来日したメーソンと伊沢を中心に文部省は『小学唱歌集』を明治15年から17年に刊行しますが、『小学唱歌集』の選曲は多くはメーソンによるものです。『小学唱歌集』91曲中16曲、讃美歌曲が採用されたことはマスコミでも取り上げられました。実際の唱歌の譜面をつくるにあたってここでメーソンは彼なりの妥協をしたと思われます。伊沢は明治一三年七月一日付メーソン宛書簡で次のように述べています。伊沢は明治一三年七月一日付メーソン宛書簡で次のように述べています。ここで簡単に伊沢修二に触れます。伊沢修二は嘉永4[1851]年6月29日信濃国伊那郡高遠の生まれ、昭和6年5月3日没。師範教育・音楽教育・体操教育・実業教育・国語と中国語研究・聾唖教育・吃音矯正事業・台湾教育・教科書編纂学制研究会等多方面で活躍した明治の先覚者です。
「日本の学校用の音楽をお作りになつて下さい」外国語によらず自国語によつて歌うということには勿論御異存のないことゝ思います。それならばメロディーもある場合には殊に二つの国語が全然異つた系統に属しているというような場合には手加減をしなけらばならないということが生じて参ります。なぜならば二つの言葉で或る一定のメロディーによらなければならなくなる場合にアクセントや強勢をつけることが全く不可能であるからです。」
メーソンはこの提言と伊沢の『音楽取調ニ付見込書』「一、東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事」にそった内容の曲ににしたと思われます。すなわち讃美歌の曲を唱歌の曲とて採用しましたが、そのまま採用せずメロディー・ラインだけを借用し、曲は日本語に適合するように変化を加えました。讃美歌《Happy Land》は八分の四で軽快な曲ですが、讃美歌《Happy Land》の曲を採用した《春のやよひ》は四分の四、しかも原曲には符点がありますが《春のやよい》は四分音符と二分音符だけでゆっくり歌える曲になっています。讃美歌《Caredenia》は四分の六の曲ですが、讃美歌《Caredenia》の曲を採用した唱歌《玉の宮居》では四分の四になっています。この作業にはアメリカでメーソンと目賀田・伊沢が唱歌掛図作成のために日本音楽を分析したことが大いに役だったと思われます。目賀田は讃美歌《Happy Land》を記譜するにあたっては八分の四ではなく四分の四で記譜していました。しかし、アメリカの人が《春のやよひ》や《玉の宮居》を聞いて原曲の《Happy Land》や《Caredenia》を特定するこたは出来ないのではないでしょうか。これは日本で日米相互の妥協・折衷により讃美歌が本来のものから変異したものと考えられます。 ここで《Happy Land》の翻訳の変遷について少し述べます。翻訳の古いと思われる順に掲載いたしました。
There is a happy land》ゴーブル日本語訳5種と原歌詞
(1)
Yoi tci gozarimas, よい地ござります
Taiso empo, たいそう 遠方
Seijin yeiyoni tatsu, 聖人 栄耀に立つ
Tan Ocimo 楽しも
Ureci utote 嬉し 歌うて
Wa Skunuci daikomei わ 救主 大高名
Hibiku homare 響く 誉れ
Homerareyo 誉められよ
(翻訳年不明、明治26[1893]年9月10日附ベンネット宛ゴーブル書簡)
(2)
ヨキ土地アリマス、 ヨキ土地キタル、 ヨキ土地スベテ、
タイソフ遠方、 早々コヨ、 人ヒカル、
尊者栄華ニ立ツ、 モフマタマタヌ、 天父カマツテ、
日出ノヤフ、 ソフヨカロフ、 アイキヘヌ、
アゝカレウマク、 アヽワレウレシ、 アヽ天ニハシレ、
主救者ホメル、 罪ヲモユルシ、 御褒美トリテ、
名挙ケ高ク、 主汝トモニ、 日ヨリスクレ、
讃美セヨ、 サイワイアロフ、 光明アロフ、
(明治5[1872]年、早稲田大学大隈重信文書、正木護の報告書)
(3)
よい国あります
たいそう遠方
信者は栄えて
光ぞ
(明治5-7[1872-1874]年、ジョージ・オルチン著「日本における讃美歌」)
(4)
楽しい国は
とおくあり
信者は栄え
悦ぶ
(明治7[1874]年、ジョージ・オルチン著「日本における讃美歌」)
(5)
しいハ しいに に
ある ち来よ ふ
ハえ ふなかれ 耶蘇ハこを
ぶ くも る
耶蘇をめよ みく 此地に来よ
いとよくよ ハる こに我らも
にふ 我としふ きを
りない まします しまん
(明治7年『[讃美歌](高木玄眞筆者本』)
(6)
There is a happy land, Come to this happy land, Bright in that happy land
Far, far away, Come, Come away; Beams every eye;
Where saints in glory stand, Why will ye doubting stand Kept by a Father’s hand,
Bright, bright as day; Why Still delay? Love cannot die.
Oh how they sweetly sing; Oh, we shall happy be, Oh, then, to glory run;
Worthy is our Saviour King; When from sin and sorrow free: Be a crown and kingdom won,
Loud let His praises ring- Lord, we shall love with Thee- And bright above the sun,
Praise, praise for aye. Blest, blest for aye; Well reign for aye
プロテスタント教会では、聖書をラテン語ではなく。その国の言語に訳して読むことと、讃美歌をその国の言語でプロの歌い手が歌うのではなく会衆がともに歌うということが基本です。そのため宣教師は聖書と讃美歌をその国の言語に翻訳しらければなりませんでした。
しかし、讃美歌の翻訳は聖書の翻訳と大きく異なる点が存在します。
まず、讃美歌は歌うための詩として訳さなければならなりません。曲は日本の伝統音楽ではなく西洋音楽が採用されました。讃美歌は日本語で歌う最初の西洋音楽でした。なぜ西洋音楽でなければならないのか最後に述べたいと思います。しかも翻訳の歌詞が多数を占めています。英語と日本語の韻律が問題になり、また日本語と西洋音楽の適合が問題になる所以です。明治初期、このことの最初の試みというこので宣教師の人たちは大変だったと思います。
まず、宣教師は詩としての韻を踏んでいなければならないと考えていたようです。明治初期から一〇年くらいまで宣教師が翻訳した讃美歌は頭韻・脚韻(特に脚韻)を踏んだものが多く存在します。韻を踏むように訳すことは言葉の制限を受ける作業です。これは明治初期にだけに限られることです。その後韻を踏む日本語讃美歌は殆どなくなりました。
原歌詞をご覧下さい。1、3行目Land, Stand,のところが、《Yoi tci gozarimas,》、では、ます、たつ、(2)の《ヨキ土地アリマス》でも、ます、たつ、 2、4、8行目のaway, as day, aye,のところは、「1」では遠方、もー、よー、韻を踏み、「2」では遠方、よう、ろう、となっています。5、6、7行目の sing, king, ring,は「1」《Yoi tci gozarimas,》では、て、えい、れ、「2」《ヨキ土地アリマス》では、うまく、ほめる、たかく、となっていますが、(3)《よい国あります》(4)《楽しい国は》でも韻は踏んでいますが、(1)《Yoi tci gozarimas,》(2)《ヨキ土地アリマス》ほど徹底的には韻を踏んでいるとは思えません。韻を踏むように訳すことは言葉の制限を受ける作業で大変ですが、別な理由からだと思われますが、韻を踏むことを止めています。単なる語呂合わせ以上の意味を見出せなかったのではないでしょうか。その後この翻訳過程同様韻を踏む日本語讃美歌は殆どなくなりました。IIの「日本における讃美歌研究」でも「言語の問題」を扱いまいたが、いま申し上げた点からも重要だと思います。
そして、現在でも同様ですが、讃美歌は宗教詩である以上、詩としての趣を持っていなければなりません。そのため翻訳語の選定、選択には様々な検討と様々な辞書が駆使し、訳語が選ばれました。辞書が整備されていなかった当時は大変な労力が必要だったと思います。ここではヘボンの『和英語林集成』の他英華辞典、華英辞典が使用されました。
そして、讃美歌は宗教詩である以上、詩としての趣を持っていなければなりません。「2」の3節4行目に「あいきえぬ」という言葉がありますが、「love cannot die」の訳です。聖書翻訳であれば、「愛が絶えるはずがない」とか「愛は決して滅びない」と訳すところでしょうが、これでは詩としての趣にかけるとおもいます。それに歌えません。-----この「あいきえぬ」に関しては詳しくのべたいのですが、これだけで1時間かかってしまいます。結論から申しますと、万巻の書を読んだ訳ではありませんが、[love] を「愛」と訳した日本の最初の例だとおもいます。現在一般的な日本語である愛はここからうまれました。しかも『和英語林集成』等の和英辞書からではなく他英華辞典、華英辞典の影響から生まれた言葉だと思います。『和英語林集成』でえはloveは「恩寵」「いつくしみ」でした。ゴーブルは東洋伝道の先駆者、ギュツラフ、ベッテルハイムを尊敬しておりました。彼等の漢訳聖書や英華辞典、華英辞典に親しみ、影響を受けておりました。そしてこの訳語がうまれました。同じ漢字文化圏だったからでしょう。同じ東洋伝道ということで彼等の関係、交流も密接でした。このアジアにおける宣教師のネットワークがこの「あい」という日本語を生んだといっても過言ではないと思います。
IIの「日本における讃美歌研究」でも「アジアにおける一国としての日本の讃美歌」を扱いまいたが、いま申し上げた点からも重要だと思います。
讃美歌は歌うための詩として訳さなければならない、と申し上げました。讃美歌は日本語で歌う西洋音楽なので日本語と西洋音楽の適合が問題になります。
ゴーブル訳の(1)(2)《Yoi tci gozarimas,》《ヨキ土地アリマス》では、彼は日本語をシラブルとして捉えているかのように訳しています。(1)《Yoi tci gozarimas,》(2)《ヨキ土地アリマスの最初のところを歌ってみます。----------(3)の《よい国あります》ジョージ オルチンの著書の中にしかあらわれてこない翻訳です。(注9)次に訳したと思われる(4)《楽しい国は》と日本語の歌としての完成度に高いものを感じさせます。(4)《楽しい国は》は、この4行分しか我々は知ることができませんが。しかしつぎの(5)《楽しい国は》はそれに似た訳と思われるものが、『[讃美歌](高木玄眞筆写本)』(注10)に見い出されます。《よい国あります》も《楽しい国は》もすでに1音符に1シラブルを当てはめるということから離れ、1音符に1語を対応させるようになっており、日本語で歌いやすいように譜面も本来の4/2から4/4拍子として歌われたのではないでしょうか。こんな感じでしょうか------。ミーター(詩形)も64646664だったものが75調になっています。そして偶然かもしれませんが、この讃美歌はヨナ抜き5音音階の曲です。(1)《Yoi tci gozarimas,》(2)《ヨキ土地アリマス》と(3)《よい国あります》、(4)(5)《楽しい国は》の間に存在する何ものかは、日本語讃美歌がまさに日本語として歌われる讃美歌になった過程をあらわすもののように思われます。日本の歌の特徴である1音符に1語、75調、4/4、ヨナ抜き5音音階が既にここにみられます。ここは簡単に触れるだけにたします。
さて、前述伊沢修二のメーソン宛書簡でも明かなように、唱歌の原語は日本語です。そして、「東西二洋の音楽を折衷する」と言いますが、《数え歌》のように伝統的な日本音楽でも五線譜で記譜され、すなわち西洋音楽の記譜法が採用されました。この和洋折衷の実際は、歌詞はあくまで日本語で、日本語に適合するように多少変化を加えられましたが、音楽は西洋音楽です。結果的に後述するトゥルジェーの「われわれの記譜法をも採用しなければ、キリスト教の基準に沿った文明化はできない」という提言に合わせたかたちのものになっています。
上司とメーソンの間に入った伊沢は讃美歌が曲として採用されても讃美歌の匂いのしない、むしろ日本の古曲にさえ聞こえるこれらの唱歌の曲に安堵したことでしょう。キリスト教を全面にだすのはまずい。すなわち唱歌教育導入で讃美歌を全面にだすのはまずいということを、儒教派が強くなっていく上司の交代劇の中で感じていたと思われる伊沢はメーソンの讃美歌の曲に手をいれたことに満足したに違いありません。メーソンもとりあえず讃美歌が採用されれば当初の目的が達成されたと感じたかもしれません。なぜそう考えるかは最後に述べます。来日前メーソンは西洋音楽による日本の急激な変化には危険性を感じていました。彼は次のように述べています。「私たちの評判のよい曲を多く使って、それらに日本語の歌詞をつける。それ故、この方法で行えば急激に変化したようには見えずに、日本の人々に音楽教育をする上で、ほとんど無意識のうちによりよい音楽の形態を受容するように日本人をさらに導くことであろう」。日本語にあった曲にすることはより急激な変化には見えないはずです。つまり曲は西洋音楽でも、歌詞は花鳥風月、忠君愛国、仁義忠孝にして、日本人の心情に抵抗なく西洋音楽を根づかせようとしました。儒教派の人達は歌詞ばかりを問題にし、メロディーを問題にしなせんでした。日本側もアメリカ側も妙に納得していまう構図ができたのでした。
しかし、本当にメーソンはこのことに満足できたのでしょうか?このことは最後に述べたいと思います。
宣教師の立場からは日本の音楽はどう写っていたのでしょう?宣教師オルチンは書簡のなかで、日本音楽の特徴として、短調が多いこと、ユニゾンで歌うこと、五音音階であることをあげています。『ボストン ヘラルド サップルメント』(一八七九年一一月八日)の記者はメーソンが来日する前、メーソンを特集した記事(Music in Japan)で次のように述べています。「日本音楽の特徴について、西洋の七音音階とは違う五音音階であること、従って不完全なハーモニーにしかならない」ので、「洗練された耳には大変不愉快な結果をもたらす」とまで書いています。オルチンは書簡で「日本の歌の大部分はクリスチャンが使うには不適当」、「日本では歌うことがいつもユニゾンであるので、宣教師の洗練された耳は不協和音のショックにあわずにすんでいます。」と述べています。併せて考えてみますと、日本の伝統音楽はキリスト教の音楽としては不適格であり、西洋音楽のみが適しているとメーソン、オルチン師双方とも考えていたと思われます。どうして西洋音楽でなければならにのでしょうか?なぜ日本の伝統音楽、5音音階ではキリスト教音楽足り得ないのでしょうか?
ここには音楽に対する日米の差があらわれていると思います。ここで、エドワード・ドワイト・ウォーカー著「ザ・ニュー・イングランド・コンセルバトリー オブ・ミュージック」『コスモポリタン』(一八八九年九月)所収の一部を紹介したいと思います。ここで目賀田はトゥルジェーに日本の教育について相談し、提言を受けます。
目賀田種太郎の略歴は、嘉永6[1853]年7月21日江戸本所太平町の生まれ、大正15年9月10日没。米国留学生監督・横浜米国領事裁判所代言人・専修大学創設・大蔵省官吏・横浜税関長・主税局長・韓国財政顧問・貴族院議員及び枢密院顧問官等で活躍。メーソン来日時から司法省に転じ(5月5日)、音楽取調掛に関わっていない。このため日本の洋楽導入に関して伊沢修二ばかりが評価されますが、目賀田のメーソン来日までに果たした役割大変大きなものでした。
音楽は、文明開化にあたっての根本的な因子になる、とはトゥルジェー博士が好む格言の一つである。二〇年前(明治9年とおもわれます。)、トゥルジェー博士はメイン州の森の中に日本公使である目賀田氏とともにいた。トゥルジェー博士は二人の会話の中で、「あなたは西洋の学校と学問をあなたの国日本に導入しようとしています。しかしあなたが無視している本質的なものが一つ存在します。そして、それは根本的に重要なものです。もしひと続きに並んだピアノのワイヤーの一本一本を二つ折りにした紙ではさむようにして、そのワイヤー中の一つを叩いたとすると、ほかのワイヤーの上に乗っている紙も振動するでしょう。なぜなら、それらは自然で完璧な音階として共振しているからです。あなた方の楽器ではそんなことは起こらないでしょう。なぜなら、弦が正しく調整されていないからです。ところで、日本は西洋音楽も取り入れなければ、われわれの教育の持つ利点を完全に得ることはできないでしょう。そして、われわれの記譜法をも採用しなければ、キリスト教の基準に沿った文明化はできないと思います。日本の学校で十分に西洋音楽の教育が続けられたならば、一〇年後には日本は別のものになっているでしょう。」
公使は深く引きつけられた。そして「しかし、わたしたちは何百年も使ってきた日本の楽器を手放すことはできません。それらの弦を張りかえることはできないでしょうか?」と彼は言った。
「可能です。あなたがたが日本の楽器を使うときに日本音楽の楽器としての不都合が起こらないように、楽器制作者がそれらを正しい音階に再調整することができます。その上、わたしたちの音楽に合わせることもできます。」
日本の楽器が、トゥルジェー博士の元にたくさん送られてきた。そして、日本の楽器の音階が直された。これらの楽器のもともとの異教的な音階とキリスト教的にかえられた音階を示す図はニューイングランド音楽院の博物館で見ることができる。この時を期して、日本の三〇〇〇〇の学校と大学では、この刷新された音楽が教えられている。そして、日本のキリスト教化はキリスト教音楽によって大いに助けられているのである。
昨年、改革の成果は、日本から最初の学生がニューイングランド音楽院に留学してきたたことによって知ることができる。その学生[幸田延]は、母国日本での音楽の勉強を西洋音楽の修得を通して完全なものにするために皇后によって送り出された優秀な若い女性である。キリスト教の布教のためには、音楽が宣教にとって有効であるということは、ニューイングランド音楽院創設の根本にある考えの一つである。−−中略−−
日本の楽器が何点か壁の上で異彩を放っている。それらの楽器は日本のキリスト教化の記念すべき遺産である。そして、日本政府からトゥルジェー博士に贈呈されたものである。
日本政府とトゥルジェーとの関係の深さを感じさせる文章ですが、ここで目賀田は日本の伝統音楽の楽器を問題にし、トゥルジェーに解決策を提示され安堵したと思われます。ここでトゥルジェーの言う「われわれの記譜法をも採用しなければ、キリスト教の基準に沿った文明化はできないと思います」を目賀田はどう捉えたのでしょう。おそらく国楽創成に西洋音楽は一手段として必要ではあるが、キリスト教と音楽の強い結びつきを考えていなかったと思われる目賀田はトゥルジェーの真意を掴みかねていたのではないでしょうか。そして「音楽が宣教にとって有効であるということ」は何を意味するのでしょうか。
私はこの言葉を次のように考えます。<音楽と宣教>というと、たとえば聖書の教えも歌で歌えば親しみやすい、讃美歌には心うたれる曲がある、オルガンの音に魂の息吹を感じるなど、音楽を通じて神に近づくことができるということを思い浮かべる場合が多いと思います。すなわち<音楽>をもちいることが、<宣教>に大いに役立つということが考えられます。しかし、ここでトゥルジェーは<音楽>は神の摂理の一つのあらわれであり、それが音階という秩序となってあらわれている、と考えており、だから、その秩序を書きしるすことのできる西洋音楽の記譜法を採用しなければならない、と述べています。日本の伝統音楽が否定される所以です。5音音階ではダメだということになります。そのことを説明して「もしひと続きに並んだピアノのワイヤーの一本一本を二つ折りにした紙ではさむようにして、そのワイヤー中の一つを叩いたとすると、ほかのワイヤーの上に乗っている紙も振動するでしょう。なぜなら、それらは自然で完璧な音階として共振しているからです。−略−われわれ[西洋音楽]の記譜法をも採用しなければ、キリスト教の基準に沿った文明化はできないと思います」と述べています。
神の摂理は「自然で完璧な音階」としてこの世にあらわれている。神のみ業をあらわすすべてのものを日本が取り入れない限り、キリスト教の基準に沿った文明化はできないと考えていると思われます。一六世紀に神のみ業を知ろうとして、神の秩序をもとめる学としてコペルニクス・ガリレオに代表される近代科学が生まれました。それから数百年を経て、その科学は発展をとげ、一九世紀に入ると広範囲にわたって近代科学が大きな展開を示しました。近代科学およびその応用と技術が結びつき、近代科学技術と言えるようなものがはじめて出現いたします。本来キリスト教を基盤にしていた西洋近代科学、そこから派生した産業、軍備、そして、それ自体も神の摂理を示している[西洋]音楽、日本の近代化にあたって、それらすべてをとりこむ必要がある、とトゥルジェーは述べていると思います。日本の音楽は単に高尚なものか、低俗なものとして捉えられていました。神のみ業を知らんがため、神の秩序をもとめんがために興った近代科学も、そして教会も音楽も彼にとっては等しく神の摂理のあらわれとして捉えていると考えられ、しかも、それぞれは強く結びついているものであり、一つ一つが独立して存在し得るものではありません。そしてこの神の摂理とは普遍性を持つものであり、普遍性を持つということは、時と場所と相手を選ばす成り立っているということです。すなわち、神の摂理はいつの時代でも、地球上のどこでも、そして人種をも超えて及んでいるということになるます。キリスト教徒にとってこの世界とは神の摂理があまねく支配する世界であり、だからまだこの神の摂理をしらない異教の地の人々にも神の摂理に対して目を開かせなければならない。このように神の摂理の普遍性は海外伝道の動機でもあったと考えられます。
この観点に立って<音楽と宣教>を捉えなおしてみると、音楽は宣教にとって「手段」ではなく、宣教と等価のものであると考えられます。神のみ業のあらわれの一つである音楽を広めることが、すでに宣教としての意味をもっている。すなわち西洋音楽が日本の音楽教育に導入されればキリスト教が伝わったことになります。これがトゥルジェー等が日本に積極的に音楽教育を導入しようとした動機の一つであると思われます。そしてメーソンを日本に派遣したトゥルジェーはニューイングランド音楽院のマニュアルで海外宣教の結実を宣言いたします。「日本はすでに引き離すことのできない絆でわれわれと結びついている」。唱歌に讃美歌の曲が採用されたことの報告を受けて彼はそう思ったのでしょう。妥協の産物でも西洋音楽が導入されたことに満足を感じていたと思います。しかし日本では歌詞ばかりが問題にされ、この間の事情を知っていた開明派の方からもキリスト教、讃美歌のことはまったく触れられてきませんでした。というか触れることが出来なかった状況にありました。このため、メーソンはアメリカでの評価はチューンフル・ミッショナリーですが、日本では単なる音楽教育の導入者、一お雇い外国人という評価になりました。ここに当時の日米の音楽に対する理解の差をみることができると思います。キリスト教と音楽を不可分のものとして捉えるか、分離して捉えるかということになると思います。日本の唱歌はアメリカの海外宣教、讃美歌の申し子と考えられるのですが、日本では、そのことが見えにくくなってしまいました。このことと同様に日本は欧米の科学技術・文化・制度は導入しましたが、それらを生み出したキリスト教は抜け落ちてしまうということになってしました。
おわりに
「日本における讃美歌研究」は「日本における讃美歌研究の現在」『キリスト教礼拝音楽学会−Newsletter-』 Vol. 1, No. 1 pp.6-9.(キリスト教礼拝音楽学会 平成13[2001]年4月)に大幅に加筆・訂正したもので、「19世紀アメリカの伝道と日本--讃美歌の果たした役割」は「讃美歌・聖歌と日本の近代」『キリスト教史学』 第55号 pp.94-109.(キリスト教史学会 平成13[2001]年7月)を口語体に直し、これも大幅に加筆・訂正したものである。
