国際基督教大学 キリスト教と文化研究所

『Newsletter 科学史フォーラム』3号より

ICUにおける科学史: 1995年から

国際基督教大学 教授 村上 陽一郎


 渡邊正雄教授を記念して開設された科学史の寄付講座は1991年に終了した。寄付講座の活動を惜しむがゆえに、実質的活動の一部は、制度上「キリスト教と文化研究所」に科学史プロジェクトという形で寄託されることになった。渡邊教授はその顧問という立場で、なお引き続き学生の論文の指導をはじめ、活動を支えて下さった。一般教育科目(理学科学生に関しては必修単位)として永年開講されてきた科学史及び科学哲学という講義は、再び非常勤講師に戻って村上陽一郎が出講して担当した。このような過渡期的な状況を経て、1995年4月、東京大学を定年まで2年余した村上が招かれることになった。ここにICUは初めて、正規の教授職として、科学史・科学哲学を認めたことになるが、この措置はもとより寄付講座という前例があって、ようやく実ったと考えることができる。

 この教授職の受入先としては、理学科か人文学科かという選択が有り得たが、諸般の事情から人文学科となった。ただ、卒業論文を科学史(あるいは科学哲学)で書きたいという学生の希望は、従来の経過からしても理学科内にも常に潜在的に存在することを考慮して、村上は理学系の大学院の兼任教授となるとともに、理学科の学生から希望があった際には、相互の十分な意志の疎通を前提として、村上が指導を引き受けることが理学科との間で了承された。

 また、村上の着任に際しては、科学史・科学哲学の教授職が将来に亙って保証されるという条件が当事者の間では確認されていた。その後定年制度の改訂や常勤教員の定数削減を柱とする大学の構造変革のなかで、全ての教授職が大学全体の教育・研究の需給関係の中で流動的に扱われるという基本方針が採用され、一般論としては、科学史・科学哲学教授職もまた、例外ではない、という状況が生まれている。しかし、リベラル・アーツ大学のなかでの科学史・科学哲学の重要性の認識は後退したわけではなく、先の条件は十分考慮されるべきであると考えられる。

 着任後の村上は、渡邊顧問との連携の下で、また絹川学長(1996年就任)以下の支援の下で、従来の科学史プログラムの活動を引き継ぐほか、幾つかの新しい方向を進めつつある。まず従来からの継承としては、基本的教育プログラムである科学史、科学哲学を担当するほか、記号論理学や関連する人文学科の基礎科目、科学哲学系の「哲学の諸問題」、あるいは大学院の理学系、行政学系での講義などを担当し、また卒業論文、大学院

 (比較文化課程)における論文指導を担当している。論文の状況は別掲の通りである。また科学史プログムでは、科学史フォーラムという形で、学内外の研究者を招いて研究会を開催してきたが、それも引き続き行われている。その状況についても別掲の表を参照されたい。

 新しい動きとしては、STS (Science, Technology and Society)への方向づけがある。最近欧米の大学で目立つ現象として、科学史・科学哲学、さらには科学社会学を中核にしながらも、やや広い視野と現代的な関心とを備えたSTSの教育・研究活動が次々に制度化されていることが指摘できる。この動きは日本にも波及して、幾つかの大学では講義が設けられるようになり、1998年3月には、村上を組織委員長に、最初の世界会議が日本で開催されるという事態も迎えた。ICUでも、こうしたプログラムの可能性が検討され、1998年度からとりあえず村上の担当する全学共通コースとして「科学・技術と社会」が開講された。2000年度から全学を横断するような「マイナー」プログラムとして、STSを立ち上げるべく、現在準備中である。

 なお、アメリカのOthmer教授ご夫妻(故人)の遺志によって、ICUに自然科学系の教授職と、それに伴う経費に関する寄付があったが、初代のOthmer教授職として、村上が指名を受け、1999年9月2日に、9月期の入学式のなかで、任命式が行われた。「科学技術と社会」の学内プログラムを立ち上げることを期待されてのことである。




コレラとスエズ運河

三重大学 教授 小川 眞理子


[1998年12月17日に開催された「科学史フォーラム」の講演者自身による要旨です]

 19世紀西欧の伝染病研究といえば、1830年代から1860年代までのヨーロッパ全域におよぶコレラの流行を扱ったものが圧倒的多数を占めている。比較的最近、1884年のナポリや1890年代のハンブルグでのコレラの流行を扱った研究書が出版されたが、1883年のエジプトでのコレラの流行については依然空白である。エジプトのコレラは、わずか2,3ヶ月の間に6万人が死亡するという流行の規模もさることながら、帝国主義幕開けの時代にほぼ時期を同じくして英・独・仏が調査団を組織して原因の究明にあたるという、興味深い事実があったにもかかわらずあまり明らかになっていない。

 医学史や生物学史のすぐれた研究で知られるウィリアム・コールマンは、コッホのアジアコレラの病原菌確定に至る過程を詳細に扱った論文の中で、独・仏のエジプト調査団の資料に比して英国関係の資料の乏しさを嘆いている。それでもコールマンは脚注に英国の主たる医学雑誌から関連するいくつかの記事を拾い上げてはいる。しかしそれら断片的情報からのみでは、英国調査団の全容を明らかにするには無理があるように思われる。

 ここに紹介する話は、偶然に発見されたわずか14ページの論文をきっかけとして明らかになった、1883年から3年間の英国のコレラ政策およびそれを巡る列強の確執である。その論文は「公の名のもとにコッホのコレラ病原菌理論を論駁す」"The Official Refutation of Dr.Robert Koch's Theory of Cholera and Commas" というタイトルで1886年の『季刊顕微鏡科学』に掲載されたものであるが、表題は穏やかではないし、当然記載されるべき著者名もない。論文の冒頭に付された簡単な説明によると、これは英国のインド大臣によって招集された委員会において作成された覚え書き(Memorandom)であり、その委員会は、クラインとギビースという二人の医師によって提出された『アジアコレラの病因に関する研究』と題する報告書の検討を目的としていることが記されている。そしてその説明の下に、委員会の構成メンバー13人の名前と肩書きがずらりと並んでいる。委員会の会長の任に当たるのはウィリアム・ジェナーである。彼はヴィクトリア女王ならびに皇太子の侍医であり、英国内科医師会会長でもあって、この時代の医学会の最有力者といえる。以下、オクスフォード大学生理学教授バードン=サンダーソン、軍医総監ジョゼフ・フェイラー、前ボンベイ医学校教授・軍医総監ウィリアム・ハンターなど当時の有力者たちが続く。なにゆえ英国政府の公的委員会がドイツの一微生物学者を名指しで非難するのであろうか。

 1882年に暴動制圧のために出兵しそのままエジプトを保護国としていた英国は、83年のコレラの流行についても応分の責任があった。その上、エジプトにはスエズ運河がある。当時運河を通航する全船舶の80%は英国が占め、スエズ運河はインドとの交通の要所、英国経済の大動脈であったが、エジプトのコレラ流行でその航行が危ぶまれるようになった。

 問題はエジプトでコレラが流行しスエズ運河の通航が危惧されるということにとどまらず、コレラがインドから運ばれたかもしれないという疑惑の方にあった。すなわちエジプトそのものにコレラの流行を許す固有の原因があるなら致し方ないが、コレラが移動可能な病原菌によるものだとすると、病気はコレラの蔓延地インドから世界各地どこへでも運ばれて行く可能性を否定できない。これはコレラがヨーロッパで大流行していた1860年代までに比べ、スエズ運河の開通後とりわけ問題にされるようになった。それというのも喜望峰経由でインドと往来していた英国船舶が運河開通後、頻繁に地中海を航行するようになり、英国こそコレラをインドから短期間に運ぶ元凶に違いないという轟々たる非難が沸き上がったからである。時の外務大臣グランヴィルはこうした非難を少しでも鎮静化させるために、大使はじめ英国を代表してヨーロッパ各国に派遣された人々に回状を送り、それぞれの国において英国の立場を説明し、よろしく対処するよう通知した。

 英・仏・独政府はそれぞれ独立に多大な資金を投下して調査団を組織しエジプトへ派遣した。表向きは中立な調査のようであっても、英国はエジプト固有の原因を探しに、独・仏は病原菌をもとめ、それぞれに思惑があった。コッホはちょうどこの頃、有名な「コッホの条件」を明らかにしたところであった。それは病原菌の同定方法として画期的なものとして評価されたが、そのポイントは純粋培養した病原菌を使って動物を病気に感染させる点にあった。コッホはさまざまな動物をエジプトに持ち込んでコレラ菌の同定を急いだ。しかし、動物をコレラに感染させることはできなかった。

 「コッホの条件」がもし簡単に成立していれば、エジプトのコレラが英国船舶によってもたらされたインドのコレラであることを証明するにさほど困難はなかったであろう。コッホがエジプトに乗り込んだ背景にはその読みがあったにちがいない。ところがコレラは「コッホの条件」に従わない最初の顕著な事例となり、ここに多くの論争引き起こす余地を生じた。

 スエズ運河については、それがまさしく帝国主義の幕開けを告げるものであったということに留意すべきである。スエズ運河の開通によってインドや東南アジアへの航海日数を大幅に短縮し得た英国と、そうした英の躍進に心中穏やかならざる仏・独にとって、コレラとスエズ運河は国家的覇権をかけた争点となったのである。冒頭の論文はこうした背景の中で読み解かれねばならない。

 英国はコレラの汚染地インドで長年にわたって衛生学的研究を進めてきておりその成果からも、コレラを風土病と見なす傾向にある。これはスエズ運河の通行を確保する上でも都合の良いものであった。英国がエジプトへ派遣したハンターは、コレラの病原菌説を否定する成果を持ち帰り、その功績により政府から称号を授与された。

 「コッホの条件」の躓きでやや形勢不利に見えたコッホ側は、エジプトでの調査に続いてインドへ趣くことを政府に願い出て、英国のコレラ研究の本拠地へ乗り込む形になった。そこで彼はこれぞまさしくコレラ菌と思われる病原菌をつきとめることができたとして、ほぼ十ヶ月ぶりにベルリンへ帰還した。多額の報奨金、勲章などコッホは凱旋将軍のごとくであった。ほどなくコレラは南フランスで猛威を振るい始め、旅装を解く間もなく再び調査に出向いたコッホはその正体をインドと同じアジアコレラと断定し、英国に対する非難激化に拍車を掛けた。同年6月ロンドンで開催されたエジプト財政会議では、ドイツはコッホの研究成果を楯に強硬姿勢で臨み、英国の検疫に対する甘さを厳しく追及した。またこの財政会議の席上イタリアは、これまで7,8年ごとに開催されてきた国際衛生会議を急遽85年ローマで開催する用意があることを公表した。こうした状況を受けて、英国政府はクラインとギビースという二人の医師を急遽インドへ派遣し、コレラの研究にあたらせた。報告書では彼らはなんの制約もなく自由にコレラ研究にあたったことが強調されてはいるが、彼らに期待されているところは明白であり、彼らの報告書はコッホに対する反論で埋め尽くされたものであった。これが冒頭で言及した『アジアコレラの病因に関する研究』と題する報告書である。

 ことがここに留まれば、コレラをめぐる2つの学説というところで終ったのかもしれない。しかし彼らの報告書が提出されて間もなく開催されたローマ国際衛生会議で、英国はさらに苦境に立たされた。英国船舶に向けられるコレラ疑惑をなんとか振り払い、スエズ運河の検疫規制の撤廃を期して臨んだが、英国の目論みは見事に外れ国際的孤立を余儀なくされた。こうした状況を踏まえ、クラインとギビースの報告書をオフィシャルに権威づけアピールするために、インド大臣招集の委員会が組織され、内容が検討された。第3回目の会合の覚え書きがまさしく最初に言及した『季刊顕微鏡科学』掲載の論文であったというわけである。

 一見したところ特に関係もなさそうなコレラとスエズ運河であるが、大きな社会的影響をもつ流行病は、1880年以降その原因の如何によってはスエズ運河の航行をも左右しかねない深いつながりを有していた。コッホによるコレラ菌の発見は、科学的真理の発見であると同時に、新興国ドイツの国益に沿った発見でもあった。


プリゴジンの思想と科学

国際基督教大学理学科 教授 北原 和夫


[本稿は1999年6月1日に開催された「キリスト教と文化研究所・科学史フォーラム」の講演者自身による要旨です]

1.はじめに

 プリゴジンは1917年モスクワに生まれ、現在、82歳の高齢でありながら、活発に研究活動をしている。彼が現在中心課題としているのは、不可逆性を力学からどのようにして基礎付けるか、という問題である。この問題は、19世紀半ばにクラウジウスがエントロピーの概念を導入し、その後ボルツマンがその分子論的解釈を与えて以来、基礎科学の問題として、ときには、実際上、輸送係数の評価の問題として現在まで続いている物理学の基本問題である。もともと、ニュートン力学が可逆な形式をとっているために、どこかで力学でない要素を導入しないと不可逆性を基礎つけることが不可能な問題である。

 物理学者の中でも、どの段階で満足するか、がかなり主観的なところがある。というのは、最近の研究で分かってきたことであるが、比較的小さな分子集団の運動についても、運動が非常に不安定であって、きちんと解いて議論することが不可能なのである。したがって、不可逆性を理解した、というときに、どのレベルで分かったことにするか、は人によって考えが異なってくるのは止むを得ないところがある。

 プリゴジンの科学への関わりかたは、かなり特殊である。自然の歴史性にこだわりをもっている。簡単なモデル計算の結果に対して、意味付けが大きすぎる、ということで物理学者からに批判されることが多い。物理学者はもっと謙虚に、与えられたモデル、あるいは実験設定の中で、確実な結果だけを言及すべきであって、それ以上のspeculationを行うことは越権行為である、という批判である。その批判は一理あり、確かに前提と結論をごっちゃにすることは許されないが、一方において、何を求めて科学という人間の精神活動があるのか、ということを意識することも重要ではないか、と思うのである。そういう意味で荒削りで論争的ではあるが、強烈な問題意識を提示するプリゴジンの存在は大きい。私自身、大学紛争後、1971年大学院博士課程に進んだときに、思い切ってブリュッセルに行き、そこで、散逸構造論から不可逆性の問題に移りつつあったブリュッセル学派の活動の真っ只中に身をおくことになった。私の経験からプリゴジン像を描いてみたい。

 プリゴジンの生い立ちからも想像できるが、実は、彼はもともと哲学、歴史学志向の学生であった。プリゴジンの家族は、革命直後のモスクワを脱して後、ベルリンに住み、さらにドイツのナチズム台頭の中で、住みにくいベルリンを離れて初めにブリュッセルに移住した。 少年プリゴジンは、ブリュッセルにおいてフランス語文化に触れて、心理学、生物学、有機化学、物理化学と関心を移して行くとともに、音楽(ピアノ演奏)に熱中していたのである。

 プリゴジンは「散逸構造」、「相関パターン」など様々な言葉を作り出した。また、彼によって、「不安定性」、「揺らぎ」、「自己組織化」などの言葉が、物理科学分野だけでなく、人文科学、社会科学にも浸透していった。このことについて、物理学の用語を安易に他分野に宣伝して誤解と混乱を起している、と批判されることが多い。たしかに、プリゴジンの発言は時として人文科学、社会科学、ジャーナリストの耳に心地よい響きを与える。例えば、最近の著書である「確実性の終焉」はタイトルだけ見れば、非常に無常な刹那的響きを与え、現在の思想的混迷のときに何がしか共鳴したくなる響きをもつのである。しかし、内容を良く読むと、むしろ、現実系の非線形な振る舞いが、多くの未来の可能性を産み出している、という結論になっている。だから、プリゴジンは決して悲観論者ではない。実際に、非線形系は外界の作用に敏感に応じて、新しい状態に移ってゆく。こうして新しい将来が決定されてゆくのだ、と述べている。

 そうみると、プリゴジンの著書は「確実性の終焉」を述べているのではなく、むしろ「新たなる確実性」を提示していると言ってもよい内容となっている。

 プリゴジンがいろいろな著作の中で、歴史性について特に文化論、社会論などをついても言及している。そのことも物理学者から「大風呂敷」という批判を受けるもとになっている。しかしながら、プリゴジンの若き日の活動を思うと、物理学と人文科学、社会科学とを個別の学問とはしないで、総合化を図ろうとしていることが分かる。

 プリゴジンは、自然科学において、時間の矢、すなわち、未来と過去が質的に異なる、という我々の生活実感と、ニュートン力学における時間反転対称性の矛盾の意味を解こうとして生涯考え続けてきた。力学を基礎として、近似なしに、また、観測者の恣意性が入らない形で、定式化しようとしてきた。上に述べたように、不可逆性を論じるには、どこかで力学にはない要素を入れる必要がある。それは、結局、後で述べるように、熱力学的な系(非常に大きな系)という条件をどのように数学として表現するか、ということである。

3.プリゴジンの生い立ち

 プリゴジンは1917年モスクワで生まれ、その後1921年、家族はベルリンに移住した。しかし、ナチスの台頭とともに、ユダヤ人であるプリゴジン一家にとってベルリンは住みにくいところとなった。プリゴジンの母親はフランス語の素養があったので、フランス語圏であるブリュッセルに移住した。両親はしかしながらプリゴジンをロシア語、ロシア文化の中で教育したかったようで、ロシア語の家庭教師をつけた。従って、プリゴジンには、ロシア文化、ベルリン時代のドイツ古典、ブリュッセルにおけるフランス文化が短期間にたたき込まれている。プリゴジン自身は、当時の不安な国際情勢、社会状況を敏感に感じて、心理学、歴史などに関心を持っていた。さらに、生物学、有機化学、物理化学、物理学と関心を移していった。それとともに、ピアノの勉強も随分やっていた。

 第二次大戦前ならびに大戦の前半位までは、ベルギーの状況は、それほど悲惨ではなかったようである。第一次大戦のときは、ベルギーはドイツ軍の侵略に対してまともに戦ったために、人的物的被害は悲惨なものであった。第一次大戦の前ベルギーは中立政策をとっていたにも関わらず、ドイツ軍はフランスに進軍する通過点としてベルギーに侵入したのである。それで中立政策を放棄して挙国一致戦わざるをえなかった。その苦い経験もあって、第二次大戦におけるドイツ軍の侵入に対しては、殆ど抵抗せず降伏した。その結果、ドイツ軍はそのままベルギーを通過してフランスに進軍した。大戦末期に連合国軍が来るまで戦いは殆どなく、ただ次第に物資が困窮してゆくだけであった。

 実際の歴史はさらに複雑で、当時の国王レオポルド三世はドイツ軍の侵入に対して、議会の手続きを経ることなく、国王自らが降伏を受諾するとともに、自らは亡命せずに国内に留まったのである。恐らく、ドイツの支配は、国王を中心とするベルギー人を介しての間接支配の形をとったものと思われる。それゆえに、ユダヤ人の迫害が周辺諸国と比較して徹底されなかったのではないか、と想像するのである。統計によると、殺されたユダヤ人は、オランダでは10万人、フランスでは8万人、ベルギーでは3万人とされている。戦後ドイツの協力者、特に、フランス語地区のナチス信奉者であるレクシストと呼ばれる人々、オランダ語地区の復権を求めるフランデレン民族同盟(ヴォルクスユニ)の指導者は処罰されたが、ベルギー人の人道に対する罪の弾劾はあまりなされなかったようである。

 1941年10月ドイツ軍の命令によってブリュッセル自由大学は閉鎖されたが、それまでに、プリゴジンは分光学の研究によって博士号を取得していた。水素結合に関する実験研究であったということである。ブリュッセル自由大学のスタッフは閉鎖命令に抵抗して、学外で教育を続行していた。プリゴジンもこの「非合法教育」に協力していて、研究も進めていた。プリゴジンの両親はキリスト教徒とユダヤ教徒であったので、ユダヤ人としては住民登録されていなかった。また、ユダヤ人の婚約者と住むために借りた家は、レジスタンスがかつて住んでいた家だった。住みはじめて数日後官憲がきて連行され、マリヌの収容所に入れられた。しかし、ベルギーではゲシュタポの活動は徹底しておらず、結局知人、同僚たちが当局と掛け合った結果、救出された。その後も非合法教育は44年の解放まで続けられた。大学が再開されて間もなく、45年に、教授職学位(ハビリテーション)論文として、「不可逆現象の熱力学的研究」を提出した。

 1937年、ブリュッセル自由大学の学生であったプリゴジンは、三編の哲学エッセーを大学新聞「Les Cahiers du Libre Examen(自由学習ノート)」に出している。最初は「物理哲学のエッセー」と題して、哲学と物理学の連携が重要であり、特に進化論と一般相対性理論において重要である。続く第二エッセー「決定論の問題」ではハイゼンベルグの不確定性関係とラプラースの決定論(現在の宇宙の状態は過去の状態の結果であり、また将来の原因ともなる)を対比させて、論じている。不確定性があっても、統計的性質は決定論となるのだ、と述べている。戦後、分布関数による非平衡統計力学を構成していった、「確率化」の考えがすでに現れている。三つ目のエッセイは12月に「進化」という題でエレーン・ボルと共著で書いている。物理法則は不変のままであり、全宇宙に渡って普遍的に成り立つものであるが、一方において、進化は変化である。不変性を主張する物理科学は世界観を豊かにする反面、現在ヨーロッパで進行しつつある破壊に力を与えているのではないか。むしろ人文科学が恐るべきことを意識することにより、精神と物質のバランスを再確立するであろう。という内容である。プリゴジンは当時の自然科学が哲学と乖離しつつあったことの危険性を意識していたのである。共著者のエレーン・ボルは哲学を通してのプリゴジンの友人の女子学生であった。

 プリゴジンは歴史や哲学を勉強しようとしていたが、当時のヨーロッパの戦雲立ち込める状況ではむしろ科学者のほうがつぶしが効いて生活しやすいということで、親の意見に従って科学者のみちに進んだのである。

 プリゴジンの教授職論文(ドイツのHabilitationに相当する)は「不可逆現象の熱力学的研究」と題するもので、1947年にベルギーで出版された。フランス語で書かれた140ページ程の小冊子であるが、内容は精密な論理で書かれまた新しい熱力学を作り上げようとする著者の熱意が伝わるような「序章」と最終章「時間と熱力学」である。

 すでに1947年の時点で、熱の出入りだけを考えるカルノー・クラウジウスの議論では生物系、気象系のように物質が出入りする「開放系」を扱うことができない、という問題を指摘している。実際に、化学物質が消費生成される化学反応は本質的に非線形で平衡から遠く離れた系である。さらに非平衡定常状態についても、不可逆的発展を特徴づける量がエントロピーでも熱力学ポテンシャルでもなく、エントロピー生成が減少する、ということであることを指摘している。最後の章が恐らくプリゴジンがずっと懐いていたアイデアであって、その後の研究方向を示唆するものである。時間には幾何学的時間と統計的時間がある。力学、相対論などの時間は幾何学的であって、光速一定の条件から長さに還元されるものである。そこには発展進化の概念がない。しかし、時間には向きがあって、世界はある方向に発展進化している。不可逆現象と結びついた時間が過去と未来を区別する。そこで、師ド・ドンダーの次の言葉を引いている「時空はもはや固く不活性な枠組みではなく、それ自体が現象である」。統計的時間(進化的時間)の例として、傷の治癒の速度、植物の根の成長等がエントロピー生成速度に比例した時間によってスケールされているという実験を挙げている。このような問題は、最近やっと注目されてきている。

3.不可逆過程の統計力学

日常目にする物質は、気体、液体、固体という形をとっていて、多数の分子からなる集まりである。全体としては、落ち着いた静的な状態であっても、分子的には、温度に対応する揺らぎがあると、考えられている。そのような系を扱うときに、ニュートン力学の基本的な考え方からすると、温度などという統計的な概念はなく、全ての原子の運動方程式を解けば全て分かる(べきだ)という論理になっている。しかし、本当に巨視的な数の原子の力学方程式を解いて確かに、我々が日常目にする現象を再現できることを検証する研究はなされていないし、実際不可能である。むしろ、実際には確率的な概念で十分マクロな性質を理解することができるのである。

 例えば、気体分子の速度分布に関しては、気体分子の運動方程式を解かなくても大体のことは分かる。まず、熱平衡状態にある気体の分子の速度分布は、空間の互いに垂直な三方向は独立である、と考えられる。縦方向に速い分子が横方向には遅くなるというようなことはない、ということである。たしかに縦方向にどんな速度をもっていても、横方向の速度はそれなりに勝手に決まっていると考えるのが自然である。また、速度の分布は速度の大きさのみに依存し、方向にはよらない、ということも自然である。なぜならば、平衡状態にある気体中の分子にとって、空間のどの方向も特別ではないからである。詳細は省くが、こういう自然な仮定から、速度分布はマクスウェル分布というものになることが数学的に示せるのである。マクスウェル分布は、速度ゼロを中心として広がった分布である。運動エネルギーの小さい分子の数が多く、運動エネルギーの大きな分子の数は少ない。運動エネルギーの分布の広がりが、ちょうど温度で表される。

 このように、マクロには平衡状態にある、ということから、統計的性質が導かれるのであって、ミクロな力による運動を解析した結果ではないことに注意したい。したがって、力学的な物理の世界が、どのような論理で確率の世界になるのか、という問題がある。むしろ論理的には、力学と確率論は全く相容れない概念である。その二つを何とかを結び付けようとするのが、統計力学といわれる学問なのである。

 統計力学が基礎としている仮説は、ミクロな状態の実現確率が分子レベルの運動を表すエネルギーと温度で与えられる、ということである。ミクロな力学の運動のエネルギーが、そのままマクロな確率を与える、というのはよく考えてみると、不思議なことである。平衡状態が成り立たせる要因としては、分子間の衝突や外界の働きもある。それらは、平衡状態においても起こっている。にも関わらず、平衡状態における確率には、そのような過程の詳細が一切必要でなく、単に温度という一つのパラメータで十分である、というわけである。

 このような平衡状態の分布の普遍性を、分子レベルの運動から基礎付けることが可能なのであろうか。

 さらに、平衡状態は安定であり、マクロな系は平衡状態に常に向う傾向をもつ。これを不可逆性と呼ぶ。熱力学においては、不可逆性は法則として予め前提とする。

 外界と接触してない孤立系が自発的に変化するときには、エントロピー値の大きい状態に向かってマクロな系は状態変化する。このエントロピー増大則に分子論的説明を与えたのが、19世紀後半のボルツマンである。ボルツマンが考えたことは、個々の分子の衝突については、分子間に働く力を考えて、入射した分子が衝突の結果どのように散乱されるか、を分子の軌道を運動方程式で考察することによって求める。しかし、どのような状態の分子が衝突するかについては、確率を導入する、という方法をとった。つまり、軌道と確率の微妙な使い分けをしているのである。このことから分かるように、ボルツマンは既に軌道だけでは不可逆性を説明できないことを意識していた。

4.分布関数の方法

 気体にせよ、液体にせよ、統計力学の課題は、莫大な数の分子の集団を記述し、不可逆性の起源を探ることである。分子の集団を記述するには二つの方法がある。一つは個々の分子の運動を時間の関数として追うことである。これが、力学の立場である。そこには、確率とか分布という概念は入る余地がない。運動を調べれば全て分かる、という言わば信念がある。

 これと等価な方法として、つまり、すべての分子がある与えられた状態(すなわち、どの位置にあって、どのような速度をもって運動しているかということ)にある確率は何かを問うのである。確率は分布関数という形で表される。つまり、どの状態に多くの可能性をもち、どの状態の可能性がすくないか、ということを表す関数である。

 軌道の方法とどこが違うかというと、軌道の方法ではある与えられた初期状態から出発して系がどのように発展するかを計算することであり、いわば一本の軌道を考える。一本といっても、その軌道上の一点が分子全部の状態を表しているわけである。つまり、全分子の全体がどのように変動していくかを見るのである。

 一方、分布関数の方法とは、このような軌道の集団を考えることである。沢山の初期条件の可能性を考える。ある条件では、分子は空間全体に広がっているが、別の初期条件ではどこかにかたまっている、など様々なものを考えることができる。勿論それぞれの初期条件から出発した軌道は独立に発展するから、ある時間が経過したあとの分布は、それぞれの軌道を重ね合わせたものになっている。その限りでは、軌道の方法と分布関数の方法は等価である。

 ところが、固い球からなる系の場合のように、運動がカオスと呼ばれるものになっていると、わずかな初期条件の相違が衝突の度に拡大される。このような運動を軌道不安定な運動と呼ぶ。軌道不安定の場合にも、初期条件の集団を考えてその発展を追うと、分布関数は非常に複雑なものとなる。そこで、分布関数に滑らかさを要請すると、分布関数による記述には、力学にはない新しい要素が加わる。分布関数は時間の経過とともに、拡散するだけになる。つまり時間の矢が自然に出てくる。

 そうだとすると、分布関数に滑らかさを要請することが、自然法則のどういう側面を表現しているのであろうか。どこまでが客観的なことなのだろうか。

 この疑問に対して、最近また新しい考えを提案している。大きな系の極限において、観測する物理量(エネルギー等)が、系の大きさに比例して発散するためには、分布関数に滑らかさの条件が必要になる、といことである。結局、我々の観測するレベル、さらに歴史を支配している現象において、大きな系、ということが本質的である、という結論である。これは、結局熱力学の公理に対応するものである。

5.散逸構造論

 平衡状態の近傍では、外界から制御して平衡状態から少し離しても、系は平衡状態に戻ろうとする。これは、少なくとも、熱平衡に近いところでは、熱平衡にできるだけ近い状態になろうとする傾向があるからである。これをもう少し物理学の言葉で表現すると、まず、平衡状態とは何かといえば、エントロピーが最大となる状態である。というのは、第二法則によれば、不可逆過程はエントロピーの増加を伴うからである。従って、非平衡状態では常にエントロピーは生成されている。

 しかし、これは孤立した系での話しである。開放系では、エネルギー、物質の流入、除去が維持される。このような非平衡条件を強めると、平衡状態とは著しく異なる新しい相が出現する。このようなエントロピー生成を伴いながら、生成維持される構造を散逸構造と呼ぶ。

 このような視点で自然現象を見てゆくと、むしろ身の回りの大部分の現象は非平衡現象である。つまり、物質やエネルギーの移動が維持されている系である。我々のような生命現象も非平衡系として理解される。我々は栄養分を吸収し、不要となったものを排泄する。体内では、様々な化学反応が進行し、中でも化学反応が振動現象を示す。振動の周期が生命にリズムを与える。振動の位相や振幅が伝播することによって、細胞内の位置方情報が伝達される、と考えられている。つまり、化学反応の振動が生きていることの本質をなしている。

 化学反応は二つの分子が衝突して反応する訳であるから、もともと濃度について二次である。ところが、平衡状態の近傍では、線形に緩和する。線形という意味は、平衡状態に近接する速度が、平衡状態からの距離に比例する、ということである。ところが、平衡からの距離を離していくと、次第に線形から外れてきて、別の安定状態が現れてくる。これを多重安定状態などと呼ぶが、要するに、平衡状態からの延長線上の状態が不安定になって新しい安定状態が発生する。平衡状態分子から散逸状態分子へと転移する。

 これは、ある温度で液体から気体に変化する相転移の場合と似ている。ところが、非平衡の場合の転移現象はもっと豊かである。定常状態が不安定化すると、その回りで、振動を続ける状態が実現する。

 化学振動に事実は戦前から知られていたが、あまり顧みられなかった。一つは熱力学第二法則からすると、すべての状態は平衡状態に行くわけで、振動反応は不可思議な現象として排除されていた。

 この方面に新しい火をつけたのが1952年のチューリングの論文で、化学反応が不安定化したときに、拡散によって空間的濃度パターンが形成されることを理論的に示したものである。彼はコンピュータ理論の草分けとしても有名である。

 ブリュッセル学派は60年代から実際の反応系においてこのパターンを実証し、また、化学反応系の模型で振動反応を示すものを提示した。この一連の散逸構造の研究の背後には、プリゴジンの強烈な問題意識がある。つまり、エントロピーの生成は決して平衡への接近という消極的なものではなく、むしろ構造形成という積極的な意味があるということである。

6.結語

 プリゴジンの思想を一言でまとめると、不可逆性、散逸構造の研究に見られる歴史性の探究である、と言えよう。つまり、一方向の時間の重要性を意識して、物理学、化学を再構築し、さらに、自然科学と人文科学の融合を確信し、発言し、行動してきた。



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