国際基督教大学 キリスト教と文化研究所

『Newsletter 科学史フォーラム』2号より

ICUにおける科学史: 1953-1995

国際基督教大学キリスト教と文化研究所 顧問 渡邊 正雄


 一般に日本の大学 (その創設は早いものでも明治初期) は、もっぱら分野ごとの専門化に力を注いできたので、「科学史」のような学際的・総合的なテーマの研究・教育にはほとんど注意が向けられてこなかった。「科学史」がはじめて一部の大学で取り上げられるようになったのは、戦後、新制大学が発足 (1953年) してから以後のことであった。

 1953年に開学したICUにおいては、最初から科学史が重視されていた。すなわち、1953年以降の一般教育科目「自然科学I」および「自然科学II」(各3+3単位) には、すでに科学史的・科学哲学的考察が含まれていた。また、実際に講義が行われることはなかったようであるが、1953〜55年には「生物科学史」が、1955年からは「生物学史」、「化学史」、「数学史」、「物理学史」が、いずれも3単位の自然科学科専攻科目として設けられていた。(以上は、主として毎年度の『国際基督教大学要覧』および、Course Offeringsと当時在学した卒業生の証言とによる。以下も同様。)

 これらの専攻科目のうち、1958年からは「物理学史」(渡辺正雄講師) と「数学史」(白石早出雄講師) の講義が実際に開始され、同時に「数理哲学」(3単位、白石講師) の講義も開始された。

 「数学史」が行われていたのは1959年まで、「数理哲学」は1963年までであった。一方、「物理学史」は、1960年からは2単位となり、そのまま1967年まで続けられた (ただし、1963〜1964年は渡辺講師在外研究中のため開講せず) 。この「物理学史」(自然科学科専攻科目) は、1968年、一般教育科目 (自然科学系列) として新たに開設された「自然科学VII自然科学史および哲学」(3単位) に統合された。こうして科学史および科学哲学は、広く全学科の学生に向けて開かれた科目になるとともに、自然科学科 (1969年からは理学科) 学生に対しては、とくに指定を設けて、第3または第4年次での必修科目となった。担当は渡辺講師 (当時東大教授) と青木茂講師 (当時東京女子大助教授) であり、翌1969年からは渡辺講師と村上陽一郎講師 (当時東大助教授) が担当した。

 この科目は、1974年に「科学史および科学哲学」と名称が変更され、1980年には「自然科学V科学史」(2単位) および「自然科学VI科学哲学」(2単位) の二つに分けられた。そのさい、1980年から新潟大学に赴任した渡辺講師に代わって村上講師 (当時東大教授) が「科学史」の科目をも担当することになった。

 1986年には、以上に加えて、一般教育科目の中に新しく「総合科目XXIV 近代科学の歴史的・学際的関連」(2単位) というユニークな科目が開設されて、新潟から戻った渡辺正雄講師がこれを担当した。 (1990年まで続けられたこの講義の内容はその後、著書『文化としての近代科学 この人間的な営み』丸善、1991、306pp.として公刊された。)

 ここまでの記述はすべて学部教育における「科学史」関連の科目に関する事項であるが、学部より4年おくれて1957年に開設された大学院においても早くから「科学史」が取り入れられていた。すなわち、教育学研究科・理科教育法専攻課程 (1959年開設) に「自然科学史」(3単位、選択科目、山岡望教授・渡辺正雄講師) が設けられて、課程開設の学年度から授業が行なわれた。その翌1960年からは渡辺講師が単独でこの科目を担当し、以後継続的に、1969、73、75、77、79、81、83、85、86年まで続けられた。

 1987年、大学院に理学研究科が開設されると、上掲の「自然科学史」に代わって「科学史・科学哲学特別講義」(2単位、隔年) が設けられ、1988年に始まる隔年の講義を渡辺正雄教授 (寄付プログラム「科学史」) が1990年まで担当し、1992年には村上陽一郎講師 (当時東大教授) が、1994年には科目名を「科学論特別講義」と改めて藤本隆志講師 (ICU出身、当時東大教授) が担当した。

 さて、以上見てきたように、ICUにおいては早くから科学史および科学哲学の学術的・教育的意義を重視して、専攻ないし一般教育科目としてこれを取り上げ、これを自然科学科ないし理学科学生の必修科目に指定し、また一般学生に対して広く履修の機会を提供し、さらに大学院にもこれを開設してきた。

 こうして「科学史」は、ユニークな特色をもつ科目、さまざまの知的興味を喚起する科目として多数の学生に歓迎され、十分にその効果をあげてきた。加えて、開設されている関係科目数は全く十分でないにもかかわらず、「科学史」の分野で卒業論文・修士論文を書こうとする学生が相等数あらわれ、その多くが補講を交えた指導を受けてきわめてレヴェルの高い論文を書き上げてきたのである。その総数は、1995年3月までの間に卒業論文36編、修士論文6編であり、詳細は後掲の一覧表に示すとおりである。

 また、以上とは別に、在学中または卒業後に受けた課外の指導、研究会等の成果を論文として学会誌等に印刷公表するに至ったものが少なくとも8編あり、また、ICU出身者が直接関与した渡辺正雄監修の科学史関係の邦訳書が少なくとも3点ある。これらも後掲の一覧表に掲げてある。


 ところで、そのICUにおける科学史にとって、1988年はまことに記念すべき年となった。すなわち、開学以来35年間、もっぱら非常勤講師に頼らざるをえなかったICUの科学史のために、はじめて専任教員を任用する道が開かれたのである。ICUにおける科学史に特別の理解を示して多額の寄付を寄せられた田中徳右衛門社長の御厚志がこれを可能にしたのである。

 これにより、ICUは新しく「寄付プログラム<科学史>」を開設し、開学以来非常勤講師として「科学史」の研究・教育に当たってきた渡辺正雄講師をICU最初の科学史専任の教授として迎え、また、ICU大学院「理科教育法」出身の西村秀雄副手 (非常勤) をICU最初の科学史専任の助手に任命するとともに、新しく設置された「寄付プログラム<科学史>運営委員会」(委員長:絹川正吉教授) がその基本的な運営に当たることとなった。

 以来、このプログラムでは、従来からの科学史関係の講義、卒業論文および修士論文の指導、課外の研究会・読書会等に加えて、学内外での講演会、外国人学者の招聘、研究成果の出版、日本の大学における科学史教育の現状調査等、活発な活動を続けた。後掲の一覧表にその大要を示すとおりである。

 1991年3月、渡辺教授の1年延長された定年退職とともに「寄付プログラム<科学史>」は幕を閉じ、西村助手もICUを去ることとなったが、このプログラムの活動は「科学史研究センター」に継承され、後継教授来任までの4年間、渡辺前教授が科学史研究センター顧問として、引き続き卒業論文・修士論文の実質的な指導に当たり、1995年4月に、後継の村上陽一郎教授にバトン・タッチされた。

 ここにおいて、「科学史研究センター」の活動は、キリスト教と文化研究所における「科学史プロジェクト」に引き継がれ、渡辺顧問は同研究所の顧問としてICUにおける科学史への協力を続けることとなって今日に及んでいる。

 ICUにおける科学史は今や、新しく来任された村上陽一郎教授を中心にさらなる充実を見、ユニークな発展をとげること期して待つべきものがあると言えよう。


学会誌等に掲載されたICUに関係する科学史の論文

渡辺 正雄・菅原 季代子 (ICU大学院学生, 理科教育), 「理科教育に科学古典を利用する一つの新しい試み」『国際基督教大学学報 I-AII 教育研究 第7号』1960, pp.233-242.

渡辺 正雄・小川 セキ子 (ICU 1958卒, NS), 「基本型による太陽中心体系と地球中心体系との比較」『科学史研究』No.58, 1961, pp.34-37.

友沢 淳二 (ICU 1962卒, NS), 「アトキンソンによる日本酒醸造の研究」『科学史研究』No. 75,1965, pp.114-123.

渡辺 正雄・藤井 恵子 (ICU 1970卒, NS), 「光と熱に関するウィリアム・ハーシェルの研究 ― とくにニュートン科学との関連 ― 」『物理学史研究』Vol.6, No. 4, 1970, pp. 1-19.

渡辺 正雄・吉仲 正和・原 純夫 (ICU 1967卒, NS), 「ニュートンの<法則III>と重力」『科学史研究』, No. 97,1971, pp. 36-41.

徳山 近子 (ICU 1959卒, NS), 「内村鑑三における科学 ― Practical Scienceとしての水産業・農学」『科学史研究』No. 134, 1980, pp.106-115.

西村 秀雄 (ICU大学院1987卒, 理科教育), 「『星界の報告』におけるガリレオの誤謬」『科学史研究』No.158,1986, pp.65-73.

加藤 真澄 (ICU大学院博士課程1995修了, 比較文化), 「内村鑑三における科学とキリスト教 ― 札幌農学校入学から米国留学まで ― 」『科学史研究』No.203, 1997,pp.129-138.


科学史邦訳書   (渡辺正雄監訳・ICUに関係あるもの)

C. A.ラッセル著, 成定薫・大谷隆昶 (ICU大学院博士課程1978修了, 理科教育) 訳『OU科学史I 宇宙の秩序』創元社, 1983, 357pp.

E. J. エイトン著, 原純夫 (ICU1967卒, NS)・佐柳文男 (ICU 1964卒, NS) 訳『ライプニッツの普遍計画 バロックの天才の生涯』工作舎, 1990, 535pp.

D. C. リンドバーグ・R. L. ナンバーズ編『神と自然歴史における科学とキリスト教』みすず書房, 1994, 528+xlviii pp.
[学校法人国際基督教大学研究助成基金の援助による出版, 訳者グループは, ICU科学史研究センター読書会メンバーおよびそれ以外のICU関係者その他, 計14名]


「寄付プログラム<科学史>」の主要な活動   (1988-1991)

1.寄付プログラム「科学史」開設記念講演会 (1988年10月13日)
ルネサンスにおける科学と芸術について ― 近代科学の成立過程に関連して ―
下村寅太郎東京教育大学名誉教授

2.寄付プログラム「科学史」開設記念講演会 (1998年11月10日)
ニュートンのりんご
渡辺正雄教授

[寄付者の田中徳右衛門氏 (株式会社田中徳右衛門パイプ商店社長) へ渡辺保男学長より感謝状贈呈。開設記念としてニュートンのりんごの木の苗木を理学館脇に植樹」

3.上記の2講演を編集・出版 (1989年3月)
『国際基督教大学寄付プログラム「科学史」開設記念講演』

4.エイトン博士招聘 (1990年5月17日より6月6日まで 21日間)
[国際基督教大学国際学術交流基金により英国のE. J. エイトン博士 (前マンチェスター・ポリテクニーク上級講師) を招聘。滞在中博士は、本学 (5月22日) を含め6大学で講演。また、渡辺正雄教授との共同研究に従事され、本学の学部学生および大学院生との非公式なミーティングをも持たれた。

5.エイトン博士の講演を出版 (1991年3月)
E. J. Aiton: Five Lectures on History of Science given in Japan in May and June 1990

6.日本の科学史教育に関する調査 (1991年3月)
[矢野道雄 (京都産業大学) 、西尾成子 (日本大学) 、藤井清久 (東京工業大学、1964年ICU卒、NS) 、里深文彦 (相模女子大学) の4氏との協議にもとづいて、日本の科学史教育に関する調査を行ない、その成果を1989年度日本科学史学会年会のシンポジウム「科学史教育の現状と展望」、および1989年にドイツで開かれた第18回国際科学史会議のシンポジウム「科学史・技術史教育」で報告。また、この調査の詳細を『日本の大学における科学史教育の現状』として1992年3月に出版した。]

7.科学史フォーラム
1989年度「科学史フォーラム」
1990年度「科学史フォーラム」

8.科学史読書会 (1991年3月)
D. C. Lindberg and R. L. Numbers (eds.): God and Nature: Historical Essays on the Encounter between Christianity and Science, University of California Press, Berkeley, 1986
R. ホイーカース (藤井清久訳): 『宗教と近代科学の勃興』, 晢書房, 1989
[1989年4月より1990年3月の間、毎週輪読]


「科学史研究センター」のおもな活動   (1991-1995)

1.渡辺正雄顧問による卒業論文および大学院博士後期課程学生の指導

2.「歴史における科学とキリスト教」邦訳『神と自然』出版記念シンポジウム (1994/12/17)
シンポジウム「歴史における科学とキリスト教」 (キリスト教と文化研究所と共催)

3.科学史フォーラム
科学史フォーラム (1991-92年度)

4. 科学史読書会


謝辞:本稿を作成するに当たって、必要な資料調査および歴史的事実の確認のために、キリスト教と文化研究所の加藤真澄助手をはじめ数名の方から絶大な協力を受けた。ここに記して深謝する次第である。 (渡辺正雄)


ジェントルマンと科学

愛知県立大学 教授 大野 誠


[本稿は1998年5月29日に開催された「科学史フォーラム」の講演者自身による要旨です]

 今回、この科学史フォーラムで話題を提供させていただきますのは、つい数日前に出版されました拙著『ジェントルマンと科学』(山川出版、1998年) の概要です。「世界史リブレット」の1冊なので小品ですが、それでも全部をここで読むとしたら時間が足りませんので、ここにお集まりくださいました方々にはレジュメ代わりに献呈させていただきますので、適宜ご参照ください。ここでは、特に意図について話をさせていただきます。

 この拙著には副題がありませんが、もしそれをつけるとすれば、「近代イギリス科学の社会史」となるでしょう。「〜の社会史」が歴史学界で一時流行したことがありました。今ではそのブームも過ぎ去った感がありますので「遅れてやってきた社会史」などといわれそうですが、私自身は科学史研究ではまだ大切な視点だと頑固に考えています。そもそも私が「科学の社会史」に向かうようになりましたのは、私が科学史研究始めた今から20年ほど前、渡辺正雄先生をはじめ何人もの諸先生方から「これからの科学史研究は、時代状況にそくして科学をとらえなくてはならない」といわれたことにあります。もっとも、すぐに私はこの頃関心をもっていたテーマとの関係でこの「時代状況にそくして」を「イギリス史にそくして」と読みかえてしまいました。ですから、かりに「科学の社会史」という表現が不適切ならば、「イギリス史にそくした科学史」といってもよいでしょう。

 ところで、この方向で研究を構想する場合、その手がかりはどこに求めればよいのでしょうか。拙著の表題にありますように、私の答えはジェントルマンです。ジェントルマンとは何かについては、たとえば、わが国でも京都大学の越智武臣先生一門の研究に見られますように、かなりの研究があります。詳しいことは省きますが、一言でいえば、16世紀から19世紀後半までのイギリスで統治に携わった人たちのことです。彼らのほとんどは職業として科学研究を営んでいたわけではなく、アマチュアやパトロンとして科学に関わったので、科学理論の発展史では無視されています。しかし、イギリス科学で独自の伝統を形成した自然誌や自然神学のことを考えてみますと、彼らは重要な役割を担っていたといえますし、社会を統治する人たちが科学とどのように関わったかというテーマはそれ自体、科学史にとってもイギリス史にとっても意義のあるものだと思います。

 拙著では、序文で「科学の社会史」の意義について簡単に述べた後、第1章で「科学革命」に関する最近の代表的な理解を紹介し、それをイギリスに適用したらどうなるのか、またイギリス科学の特色とは何かを検討しました。17世紀の西ヨーロッパにおける近代科学の成立という周知の「科学革命」のほかに、村上陽一郎先生が唱えておられます18世紀の「聖俗革命」、さらにわが国では佐々木力先生が力説されています19世紀の「第二の科学革命」、つまり科学の制度化や専門職業化が考えられております。こうした理解は、イギリスでも大ざっぱには妥当しますが、それを「革命」と呼べるような急激な変化と考えてよいかとなると、大いに疑問です。そもそも、この3つの革命では舞台がそれぞれ異なっていることに注意する必要があります。もし3つの革命をつなげて考えるとするなら、そこではそれ自体が問題をはらむ「科学知識の普遍性」が前提とされることになりましょう。

 一方、イギリス科学の変化が革命的ではなく、漸進的なものであったということは、科学の社会的なあり方にかかわっていたとは考えられないでしょうか。イギリス科学の運営が政府主導ではなく、民間の手に委ねられていたことはよく知られていますが、この理解は、「民間」がいわば社会の下の方からというニュアンスをもっているため、まだ不十分なものです。科学団体の形成を時系列にそって見ていくとわかることですが、イギリスでは文化の他の領域と同様に科学は、社会上層のジェントルマンから下へと広がっていきました。したがって、イギリス科学の特色は、何よりもジェントルマンのヘゲモニーによっていたといえます。

この理解からは、2つのことが引き出せます。ひとつは、ジェントルマンの団体では科学研究が実質上、公共的な性格をもちえたという点です。したがって、たとえば政府が科学運営に直接乗り出さなくても、科学はジェントルマンを介していつでも政府や国家の問題に関与することができたのです。もうひとつは、イギリスで自然誌と自然神学の独自な伝統が形成されたことです。

 第2章では王立協会、第3章ではニュートン、第4章では重商主義帝国の形成と科学について叙述しました。第2章と第3章の内容については、それぞれハンター教授の研究 (拙訳で『イギリス科学革命:王政復古期の科学と社会』として南窓社から近く出版されます) やウェストフォール教授のニュートン伝に多くのものを負ていますが、第4章の特に「工芸協会」については、私自身の研究成果です。

 産業革命については、まだ入り口のあたりしか叙述できませんでした。これについては、今後の課題となりますが、全体像を描くにはかなり時間が必要となりそうです。


新しい知識生産と大学

電気通信大学 助教授 小林 信一


[本稿は1998年11月4日に開催された「科学史フォーラム」の講演者自身による要旨です]

[講演者は同僚とともに、Gibbons et al: The NewProduction of Knowledge: The Dynamics of Science and Research in Contemporary Societies, Sage Publications, 1994) を翻訳、モード論として紹介した (M・ギボンズ編著、小林信一監訳『現代社会と知の創造〜モード論とは何か』丸善、1997) ]

1.モード論への道のり

 モード論の論点の源流を辿ると、Proice, D. de S., Little Science, Big Science, Columbia University Press, 1963. (D.プライス、島尾永康訳『リトルサイエンス・ビッグサイエンス〜科学の科学・科学情報』創元社、1970) に行き着く。プライスは量的指標を駆使し、科学技術活動が300年ほど指数的成長を続けていることを示したが、彼の主眼は科学技術活動の成長の限界を指摘することにあった。彼は、成長速度の鈍化が始まる前後に、質的な変動が生じるだろうと指摘した。しかし、成長の速度が鈍化を始めた当初は、成長速度は十分に大きいので、すぐには成長の限界を認識するには至らない。彼の「科学の成長の限界」に関する指摘は、必ずしも切実な問題とは捉えられなかった。

 しかし、1980年前後から、科学技術、とくに基礎研究に対する政府の資金投入停滞の傾向や経済発展などの政策目標への寄与が科学技術活動に対して期待されるにいたり、「科学の成長の限界」というプライスの指摘が現実的なものとなり始めた。Gibbons, M., Wittrock, B. eds., Science as a Commodity: Threats to the Open Community of Scholars, Longman Group Ltd., 1985. (M.ギボンズ、B.ウィトロック編、吉岡斉、白鳥紀一監訳『商品としての科学〜開放的な学者共同体への脅威』 吉岡書店、1991) は、そのような状況の中で、科学が社会、経済、政治と密接な関係を持つようになった原因や意味、大学を中心とする学者共同体に及ぼす影響について吟味した。科学が社会にとって有用なものになった結果、権力の利害関係の対象になったこと、政府、産業、軍が科学上のサービスを求めるようになったこと、科学を社会的な要求の鋳型に合わせようとする外的な圧力と同時に研究資金の獲得のために社会的支持を得ようとする内的な圧力も存在することなどを指摘した。彼らはこうした変化を開放的な学者共同体に対する脅威だと考えた。

 Cozzens, S., Healey, P., Rip, A., Ziman, J. eds., The Research System in Transition, Kluwer Academic Publishers, 1990は、1989年の国際会議の論文集である。そこではプライスの「科学の成長の限界」が再認識されることになった。経済のグローバル化の下で大学と産業の関係が強化されることを、不可避的な現象であることを認めつつも、それに対する悲観的見方が提示される。しかし、米国における産学連携の成功が悲観的ではない見方も登場させた。また、科学技術をめぐる意思決定に、政府の意思決定者や産業界のみならず、科学技術のユーザーや有権者、研究管理の専門家などの幅広い参加が求められるようになってきた結果、ピアレビューにとどまらない多様な評価基準が導入されるようになったことなども指摘される。こうした変化が、科学技術者や科学技術制度の自由や自律性に影響を及ぼしているが、科学技術活動にとって抗うべきものだとは主張されていない。また、変化の原因は科学技術の成長そのものにある、とくに19世紀からの科学の制度化、科学技術の専門職業化が変化を招く素地となっており、変化は不可逆的だと議論された。

 ここで中心的な役割を演じたザイマンは、議論を発展させて、Ziman, J., Prometheus Bound: Science in a Dynamic Steady State, Cambridge University Press, 1994 (J. ザイマン、村上陽一郎、川崎勝、三宅苞訳『縛られたプロメテウス〜動的定常状態における科学』シュプリンガー・フェアラーク東京、1995) を著した。ここでも、変化は不可避的であり、社会から科学技術活動への要求には正当性を認めている。しかし、一連の変化は、ともすれば科学の健全さや社会的制度としての科学の効率性を脅かしかねないと、諦観と嘆息に彩られた議論を展開した。

 こうした先行する議論では、アカデミズムの内部から問題を見ていたのに対し、モード論では視点を社会の側に少し移した。モード論では、モード1、モード2という二分法を導入することで、アカデミズムと社会の科学技術活動に対する需要の双方に正当性を認めようとしたのである。

2.モード論の位置付け

 モード論は、発表直後から話題になり、サイエントメトリクスの伝統に従ったさまざまな検証論文が発表されたり、大学問題や科学技術政策と絡めた議論がされている。

 モード論に対する批判としては、科学史家からモード1は存在しなかったという指摘がされる一方で、一部の科学技術者からはモード2はケシカランという反応もある。もっとも、モード論により力づけられるという分野も少なくない。いずれにしても、幅広い反響があった。

 科学論、科学社会学との関連に関しては、上述のようにプライス流の科学社会学、Science of Scienceの流れを汲んでいるとみることができる。モード1像については、クーン以降の科学論、科学社会学の成果をほとんど無視しており、モード1はきわめて古典的な科学活動観を表現している。一方、モード2に関する議論のほとんどはすでに行われてきたことである。また、知識生産活動の相対化の一方で、知識そのものについては相対化しない捉え方をしている (現実世界で行われる知識生産活動の成果がモード1で認められるようなものである必要がないばかりか、先端である必然性もない、という趣旨。たとえば、コミュニティにおける知的活動を知識生産として捉えていく場合、インターネット社会において誰もが情報発信できる状況を考える場合など、モード2で十分に捉えられるか検討する余地がある)。こうした意味で科学論、科学社会学としてのモード論はやや古いタイプのものかもしれない。

 しかし、M.トロウ、P.スコットといった大学問題の専門家が参加していることからもわかるように、大学論との親和性があり、また、科学技術政策論や科学技術と市民の関係といった問題群とも親和性がある。こうした科学論、科学社会学の現実的フィールドと密接に関連する議論を展開するという点では、最近の科学論の動向と矛盾しないという面もある。

3.現実問題としてのモード2― 大学へのインパクト ―

 意図したわけではないにしても、わが国の科学技術活動、科学技術政策においても、モード2的な活動様式に対応した変化が生じてきている。とくに、大学や大学における研究活動にはさまざまな影響を見て取れる。たとえば、Funding Structureの変化、研究の組織化や研究スタッフの流動化といった事態がある。一方、大学にとって困難な状況ももたらした。研究評価圧力の増大と外的評価基準の導入にどのように対応するか。大学の研究機能が社会的要請に対して過敏に反応する傾向が現われている。大学の組織運営は平等主義を基盤として成立し、さらに平等化を徹底するように機能してきたが、そうした大学文化と重点的資源配分とのあいだで葛藤が生ずる可能性が高い。大学の組織は常設的組織を基盤として構築されてきたが、形式的な組織構造と現実の組織構造が一致しない傾向が拡大する。若手の研究者養成の問題として、collective research とindividual careerとのパラドクスが発生する、などである。また、学問のあり方に関しても、日本の学問が現実への深い関わりと洞察に裏うちされていない理論偏重の傾向にも疑問が投げかけられるようになってきた。モード2への対応をいかにうまく進めるかは実は大学改革問題の根幹とかかわっている。


日本の医学史からいろいろ

順天堂大学医学部 教授 酒井 シヅ


当研究所主催の公開講演「科学史フォーラム」として、順天堂大学医学部酒井シヅ教授 (医史学) による「日本の医学史からいろいろ」と題する講演が、1998年6月4日国際基督教大学教育研究棟E-257にて行われた。

 本講演において酒井教授は、まず、8世紀から19世紀までの日本における医学の学説史、および医療体制と医学教育といった制度の歴史を概説された。学説史では、中国の医書『諸病源候論』と丹波康頼の『医心方』の関係や曲瀬道三をめぐる田代三喜とキリシタンの関係などから、中国などからもたらされた外来の学問体系が、どのように翻訳され、日本の医学として受容され定着していったか、が論じられた。また制度史として、平安時代から鎌倉、室町、安土桃山時代に至る医者という職業像の変遷を、教科書などの教育制度および武士や僧侶など出身の身分など、社会史的な視点から論じられた。

 講演後半で酒井教授は、以上の学説史・制度史的概説を踏まえて、専門家以外の人々が持っていたであろう疾病観とその変遷を、40点にも及ぶ絵巻物、文学作品中の挿し絵等のスライドを示しながら解説された。その中で酒井教授は、麻疹・疱瘡・コレラなどの流行病に着目し、それらの原因が「神々の怒り」から「鬼」そして西洋的な「怪物」に変容していく様を、絵巻物・風刺画から読み解かれた。また、平安末期に描かれた「やまひの草子」と『嘉永年鑑』に収められている「新選やまひの草子」との絵巻比較によって、前者が仏教的世界観である六道絵を反映したものであるのに対して、後者には明らかに西洋医学の影響が見受けられることを示し、疾病観念の変遷を具体的に検証した。

 医学史と民族学・文化人類学との総合に迫るような本講演に対して、鍼灸の問題や訳語の起源など、活発な質疑応答・議論が行われた。 (事務局記)



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