国際基督教大学 キリスト教と文化研究所

『Newsletter 科学史フォーラム』1号より

「科学史フォーラム」発刊にのぞんで

国際基督教大学 学長 絹川 正吉


 ICUにおける科学史・科学哲学分野の教育・研究の歴史は、ほぼ創立時に始まったと言っても過言ではありません。すなわち、現代におけるリベラル・ア−ツ教育にとって、この分野は必要不可欠であるという認識を、ICU関係教員は早くから共有していました。そのことは、特に自然科学科・理学科における4年次総合演習の前提として、学生に科学史・科学哲学の科目履修を必修としていたことに表れています。

 そのような先駆的認識があったにもかかわらず、科学史・科学哲学関係の専任教員を任用することは、ICUにおける長い間の懸案でありました。ところが、思いがけなく1988年に多くの篤志家の援助によって、「寄付プログラム科学史」が開設されることになり、渡辺正雄教授を迎えることができたことは、ICUにおける科学史・科学哲学分野の教育・研究を発展させるための、重要な第一歩となりました。

 その後、「寄付プログラム科学史」の事業は「科学史研究センタ−」、そしてキリスト教と文化研究所における「科学史プロジェクト」に引き継がれて今日に至っています。さらに1995年には、村上陽一郎教授が専任教授として着任し、科学史・科学哲学関係の教育・研究基盤がようやく整備されるようになりました。

 この度、科学史研究のフォ−ラムのためにNewsletterが発刊されることになったことは、学史・科学哲学関係の教育・研究のためだけではなく、ICUにおけるリベラル・ア−ツ教育の発展のためにも、大きな貢献となることを確信しています。

 ここにNewsletter発刊の言葉を書く機会が与えられたことは、ひとえに「寄付プログラム科学史」の設置に淵源があることを覚えます。この間に格別のご支援を賜った多くの方々、特に田中徳右衛門氏と渡辺正雄先生に、改めて感謝を申し上げたいと存じます。キリスト教と文化研究所関係者の「科学史プロジェクト」に対する理解と具体的な支援にも感謝いたします。



「死の自己決定権」の問題をめぐって

玉川大学文学部 助教授 小松 美彦


(この記事は1997年6月10日に開催された「キリスト教と文化研究所・科学史フォーラム」の講演者自身による要旨です)

 現在、国会では「臓器移植法案」をめぐる動きがおおづめを迎えている。移植医によれば、脳死・臓器移植以外の方法では助からない待機患者が存在する。したがって、この事態に焦点を合わせれば、「臓器移植法」の制定は火急の課題であり、法制定に異議を唱えることは、移植を待ち望む人々の生存権を奪うことにすらなる。しかしながら、脳死・臓器移植には、決して看過できぬ問題も数多く存在することもまた事実である。私たちはどこか一面だけに目を奪われ、思考を固定することなく、より多面的に、より深く、脳死・臓器移植問題を精察しなければならないのではあるまいか。なぜなら、脳死・臓器移植を認めるか否かは、レシピエントのみならずドナーの生死にも係わる以上、それ自体が大問題であり、しかも、私たちの文化・文明・社会のゆくえを決定づけるように思われるからである。人間と自然と科学技術のいかなる関係を私たちが選択し目指すのか、脳死・臓器移植に対する裁断は、その分かれ道のように、しかも退行不可能な別れ道のように、思えてならないのである。

 以上のような意識を原点として、次のように話を進めた。

 まず、脳死・臓器移植をめぐる最近の動向を瞥見した。第1に、日本移植学会が去る3月に「ガイドライン」を作成し、法律が成立しない場合でも脳死・臓器移植を実施する準備をすでに整えていること、第2に、衆議院を通過した「中山案」の改定作業が水面下で進められ、「修正中山案」として近々に国会に提出される運びとなり(講演の後の6月17日に成立)、この新たな法案の基礎には「死の自己決定権」が据えられていること、特にこれらに着目した。

 ついで、脳死・臓器移植にまつわるマイナス問題を、より多面的に考察するための契機となるよう、7点ほど提示した。その要点は、(1)脳死・臓器移植を存立させる思想そのもの、(2)脳死判定基準・技術、(3)臓器提供国(地域)と臓器受容国(地域)との半固定化、(4)レシピエントの術後生活、(5)医療経済政策等々をめぐる問題であり、また、(6)「脳低温療法」という脳死患者に対する新規治療法登場の事実と意味である。

 その上で、「修正中山案」に戻り、その基礎をなす「死の自己決定権」についてやや詳しく検討した。「修正中山案」は、心臓死を基本としつつ、本人と家族が脳死判定と臓器提供を承諾する場合に限って脳死を人の死とするものであるが、ここでは、限定がつけられており、また言明はされていないにせよ、各人が心臓死と脳死とを自由に選択できる「死の自己決定権」が内実としては導入されているのではないだろうか。一般的に「死の自己決定権」とは、各人が死に方を選ぶ権利を有しており、その権利は侵しても侵されてもならない、というものである。「修正中山案」に即せば、「脳死に反対の人は心臓死を選べばいいし、賛成の人は脳死を選べばいい。ただし、いくら自分が脳死に反対だからといって、脳死でいいと言っている人の選択権を踏みにじることはできない」となる。このきわめて説得的な理念にについて、(1)その原理的問題、(2)将来的問題、(3)現実的問題、(4)歴史的問題を検討した。そこでは同時に、医学が死を研究対象にすることで死の捉え方が歴史的に変容したことを論じた。

 人間と自然と科学技術の調和ーこの美しき理念は一体どれだけ長いあいだ叫ばれつづけてきたのだろうか。無論、その実現が生やさしいものでないことは誰しにもわかっているだろう。だが、心底からその実現を望み、真摯にその方途を模索するのであれば、上に挙げた数々の問題を抱えた脳死・臓器移植を安易に認めることはできまい。脳死・臓器移植の実施は、かかる調和とは正反対の方向に歩を進めることになるように思われるのである。そしてまた、あえて極論するなら、「死の自己決定権」を社会の規範として確立してしまったなら、私たちは自殺すらも止められなくなることになりかねないのだ。私たちはこれらのことを決して忘れてはならないだろう。


ダーウィンと現代カトリック教会

キリスト教と文化研究所 研究員 藤井 清久


(この記事は1997年10月3日に開催された「キリスト教と文化研究所・科学史フォーラム」の講演者自身による要旨です)

1 『種の起源』(1859)から19世紀末までのカトリック教徒および教会

 イタリアにはおいては、科学者でカトリック教徒の文部大臣デ・フィリッピが、ダーウィン進化論に好意的な態度をとったために、知識人一般には、ダーウィン進化論を受け入れる雰囲気があったが、聖職者一般は、ダーウィン理論に対する敵意があった。例えば、イエズス会の機関誌『ラ・シヴィルタ・カトリカ』においてパロンバは、ブーフナー、フォークトらによるダーウィン理論の唯物論的解釈を攻撃した(1871-1872)。またマッツエラ神父は、トマス主義に基づいてダーウィン主義を批判した。

 フランスにおいては、ダーウィン理論に対する科学的な根拠に基づく反対という外観をとったものの、科学者集団の一部と聖職者集団との一致した反対がみられた。例えば、イエズス会士ファルジェは、『生命と種の起源』(1894)は、アガシ、キュビエなど反ダーウィン主義生物学者の理論を根拠に、ダーウィン理論を批判した。またメーニャン枢機卿は、唯物論者による人間のダーウィン的定義に注意するように警告した(『聖書による世界と原始人』 3ed., 1879)。但し、フランスの二人の神父による、進化論的著作が出版されたことは、注目に価する[ルロワ神父『有機的種の進化』(1887)、ザーム神父『進化と教義』(1896)]。

 イギリスでは、カトリック系の雑誌『ランブラー』(1860)誌上で、編集者シンプソンが、『起源』に対する科学上の疑問点を主張したとはいえ、ダーウィン理論の受容可能性を示唆し、また司教座聖参事会員モリスが、『ダブリン・レビュー』(1860)誌上で、『起源』における科学理論を高く評価した。

 19世紀のカトリック教徒生物学者の反応として、最も注目されるのは、イギリスのカトリック教徒生物学者マイヴァートである。彼は、『種の生成』(1871)において、科学理論としてのダーウィンの自然選択理論を批判したが、進化思想は受け入れ、変成の漸進的方向を定める、進化における神の手を主要な進化の要因と考えた。

 1875年にカトリックの科学者が設立した「ブリュッセル科学協会」の機関誌『科学問題雑誌』は、どちらかというと進化論に好意的な論文を掲載し、また1888年より3年ごとに開催された「カトリック国際科学会議」は、第一回、第二回会議でこそ、進化論に反対する議論が優勢であったが、第5回会議(1900年)では、カトリック科学者による、ダーウィン主義の受容が一般的雰囲気となった。

2 20世紀におけるカトリック教会と進化論:「フマニ・ゲネリス」まで

 20世紀に入ると、一般的状況として、カトリック教徒内部の論争は、沈静化しつつあった。一方で、生物学おける生気論を主張することで、ダーウィン理論の破産を主張する人々もいたが、カトリック科学者による限定されたダーウィン理論の受容が、ルーヴァン大学のドゥ・ドルロド、ドイツの生物学者ヴァスマン、リスボン大学の生物学者トーラン、フランスの古生物学者ブール、フランスの司祭で古生物学者のテイヤール・ドゥ・シャルダンなどにみられた。

3 ピウス十二世の「フマニ・ゲネリス」(1950)

 カトリック教会における、ダーウィン理論の受容史において、最も重要な文書は、ピウス十二世(在任1939-1958)の回勅である。ピウス十二世は、活発な知性と幅広い教養の持ち主で、科学技術と信仰の問題について、大きな関心をもっていた(たとえば、ピウス十二世は、「科学が発展するにつれて、過去になされた主張とまったく反対に、真の科学は、ますます神を発見する」と述べた、1951年)。

 「フマニ・ゲネリス」は、科学上の理論が言及された最初の回勅であった。この回勅は、まず「自然科学の領域においてさえ証明されたことがない進化論が、すべての事物の起源を説明すると、十分に検討せずに軽率にも考え、そして、世界は絶え間なく進化しているという一元論的かつ汎神論的見解を大胆に支持している」と現代哲学の危険な傾向を指摘しながらも、「教会の教導職は、人間諸科学と神学の現状に従って、両領域の専門家が、すでに存在する生体物質から生じる人間の肉体の起源を探求するのであれば、進化論に関する研究や討論を禁止しない」として、進化論の研究を公に認めた。しかしながら、この回勅では、「進化論に賛成するにせよ反対するにせよ、両見解の理由は、厳密かつ公正に抑制をもって、比較検討され判断されなければならない」こと、「すべての人々は、正しく『聖書』を解釈し、信仰の教義を擁護する使命をキリストから託されている、教会の判断を受け入れる用意がなければならない」こと、そして全人類の最初の祖先は、アダムでなければならないこと(人類の起源の多元説の否定)が強調された。

4  第二バチカン公会議(1962-1965)

 科学と信仰との調和を求めたピウス十二世の精神は、その後第二バチカン公会議においてもさらに、「現代の科学と学説および新しく発見された知識 を、キリスト教の道徳と教理に結びつけることによって、宗教心と道徳感とが科学知識や絶えず進歩する技術と同じ歩調で進むようにしなければならならない」 と宣言された。

5  1960年代におけるカトリック科学者

 「フマニ・ゲネリス」と第二バチカン公会議のおかげで進化論は、現代のカトリック生物学者によって広く支持されるようになったと思われる。『新カトリック百科事典』(1967)は、「進化という観念は、18世紀末に向かって生物学に浸透した。この観念は、チャールズ・ダーウィンが『種の起源』(1859)を出版したとき、初めて論理的に定式化され、印象的な一連のデータによって支持された。この観念は、単なる説明上の仮説でも、あるいは通常の意味における理論でさえもなく、それなくしては既知の実在が理解できない科学的事実として、提示されている」と、はっきりと進化論を認めることを明言している。この事典における進化論の項は、たしかに個人の署名論文ではあるが、おそらく大多数のカトリック生物学者の見解を代表していると見なしてよいであろう。

7 ヨハネ・パウロ二世(在任1978ー )

 カトリック教会における科学と宗教との対話と調和の路線は、現代のヨハネ・パウロ二世によって最終的に仕上げられたと見なすことができる。ヨハネ・パウロ二世は、「教皇科学アカデミー」創立50周年記念演説のなかで、「新しいタイプの対話が、今や教会と科学の世界の間に始まりました。 −−教会は、理性と科学を擁護します。そして、科学が真理に到達するべき能力をもっていることを認識し、−−、人間的かつ人格的善としての威厳をそれに与える、科学の自由を擁護します」と述べた。

 ヨハネ・パウロ二世による科学と宗教との対話の呼びかけは、過去における理性と信仰との不幸な対立の再点検を必然的にともなっていた。教皇は、ガリレオ裁判について、調査委員会を設置するように要請し、調査委員会の報告に基づき、次のように結論した。「知識には、二つの領域が存在します。一つは、啓示にその源を持っているもの、もう一つは、理性がそれ自身の力によって発見することができるものです。後者には、特に実験的な科学と哲学が属します。知識の二つの領域の間の区別は、対立すると解釈されるべきではありません。二つの領域は、まったくお互いに無関係ではないのです。それらは、接触点を持っています。それぞれに適切な方法論は、現実の異なった局面を明かにすることを可能にします」。

 知識における二つの領域の問題は、さらに『聖書』解釈の問題に波及することは明らかである。ヨハネ・パウロ二世は、レオ十三世の回勅「プロヴィデンティシムス・デウス」(1893)と、ピウス十二世の回勅「ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ」(1943)の内容を比較し、前者はいわゆる科学至上主義的な自由主義的『聖書』解釈からの、後者は科学的でない霊的解釈からの防御を示唆するものだと述べ、二つの『聖書』解釈方法は、統一されなければならないと主張した。

 科学と宗教との調和の問題、理性と信仰の問題、『聖書』解釈の問題の流れのなかから、ヨハネ・パウロ二世は、進化論の問題について、教皇としてさらに一歩進んだ見解を、教皇庁科学アカデミーへの書簡として提出した。この書簡のなかで教皇は、「回勅『フマニ・ゲネリス』発表後ほとんど半世紀経過した今日、新しい知識のおかげで、進化論は一個の仮説以上のものであるという認識に達しました。この理論が、知識の種々の分野における一連の発見に従って、研究者によって漸進的に受け入れられていることは、実際に注目に値します」と述べた。しかしながら、進化論が多くの証拠によって検証された理論としての位置をもっているとしても、したがって人間の肉体は、先在する生体物質に起源があるとしても、「霊魂は直接に神によって創られている」ことに、教皇は注意を促した。

 それゆえ、人間は、肉体と霊魂との存在論的飛躍に直面することになるが、教皇によれば、この存在論的な不連続性は、進化論の前提である連続性と矛盾するものではない。進化論もその一つである観察的諸科学は、「生命の多数の表現を記述し、測定し、時間の線に関係づける」が、霊的なものへの以降は、この種の観察の対象とはなりえない。審美的で宗教的な体験は、哲学的分析と省察を加えることができる領域にあり、他方で神学は、創造主の計画による究極的な意味を明らかにする。

8 おわりに

 ヨハネ・パウロ二世によって明らかにされた進化論に対する態度は、カトリック教会の公的見解と理解していよいであろう。それは、おそらく宗教に関心を寄せる科学者の平均的見解とも一致すると思われる。しかし、人間に関しては、肉体と霊魂を分離して考えるということには、やはりなんらかの緊張を残すと思われる。そこからは、おそらく人間と動物との連続性と不連続性の問題、人類発生の多元説の問題など、今後明らかにされなければならない問題が、いぜんとしてあると思われる。


ジョフロワ・サン=ティレール論

東京水産大学 助教授 金森 修


(この記事は1997年12月12日に開催された「キリスト教と文化研究所・科学史フォーラム」での講演「自然哲学から自然科学へ――キュヴィエとジョフロア・サンティレールの論争――」の、講演者自身による要旨です)

 エティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレール(Etienne Geoffroy Saint-Hilaire, 1772-1844) は18世紀終盤、革命の動乱期に、先達からの幸運な支援でわずか21歳で自然史博物館の動物学教授になった。だがそれはほとんど全く整備されていなかった動物学という学問を自らゼロから作り上げるということも意味していた。あのラマルクもまた同様の立場におかれたが、ジョフロワは主に哺乳類と鳥類を、ラマルクは無脊椎動物を担当することになった。地方で家庭教師をしていたキュヴィエの才能を愛した彼はキュヴィエをパリに呼んで一緒に研究するようになった。20代後半、ナポレオンに伴われて数年エジプト旅行をしたが、帰国直前魚の電気器官に関する研究をし、その際不可秤量物質一般への思弁的推定をしたことが晩年の自然哲学的展開の一つの布石となったことは興味深い。

 帰国後も彼は動物学の記述的作業にいそしんでいたが、政治的にはキュヴィエの方が上手だったし、仕事の手並みも鮮やかだったので徐々にキュヴィエの陰に隠れるような存在になっていった。だが35歳頃からジョフロワ独自の構想が練り上げられていった。キュヴィエは分類を重視し、また科学的方法論を整備した上で系統的に事実を積み上げていくことこそが科学の目的だと考えていた。ところがジョフロワは事実そのものは科学の出発点にすぎず、個別的事実から離れて、より原理的または一般的な射程をもつ概念や理論を作ったりすることこそが科学の目的だと考えていた。それでまず彼は「構成の一致」という概念を自らの理論の基底にすえて、脊椎動物各綱の比較解剖学的な比較をするようになった。哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類と、それらいずれもが多様な生物種を含むにもかかわらず、その多様性の根底には、ある単一の設計図が潜んでいるに違いないと彼は考えたのである。そのために例えば鳥類の胎児には一時期歯の痕跡が見られるなどと考え、鳥類のクチバシが他の綱とは違っているように見えることも単なる外見的なことにすぎないと主張した。また特に問題になったのは魚類の頭骨と他の綱との比較問題だった。とりわけ魚類に特徴的に思われた鰓蓋骨の比較が問題になった。彼が1818年に公刊した主著の一つ『解剖哲学』第1巻にはいくつかの論文が含まれているが、それらはいずれも脊椎動物を構成する各の綱が、互いに「構成の一致」論に見合うということを証明しようとしたものだった。その第一論文は鰓蓋骨が哺乳類の耳小骨として存続していることを論証しようとしたものだった。

 1822年には『解剖哲学』第2巻がでた。それは無脳状態で産まれてくる奇形児に関する考察であり、奇形学(teratologie)という新たな学問を設立せしめようとする彼の意図が反映されたものだった。彼はその後もいくつも奇形学関連の論文を書いている。その過程で彼は実験的奇形学に先鞭を付け、また同時代に依然影響力をもっていた怪物胚珠論を否定して、奇形形成を発生過程に偶発的に起こる阻害要因に基づくものだとした。奇形学は彼の息子イジドールにより、その後体系化されることになる。

 またそれまでのジョフロワの議論はキュヴィエの4界論の一つ、脊椎動物内部での相同を探すというものだったが、20年代になると彼は一層大胆になり、脊椎動物と体節動物との間の相同を探そうとする。昆虫の外骨格を脊椎動物の内骨格と並行的に論じて、内骨格の内部に内臓系がすべて入ってしまったものが昆虫に他ならないと彼は主張した。つまり脊椎動物の肋骨が昆虫の足に他ならないとしたのである。この種の仕事はそれ以降多くの類似事例をよぶことになった。

 1830年2月から4月にかけて行われた王立科学アカデミーでの論争には以上のような背景があった。論争のきっかけはある若い二人の博物学者が提案した軟体動物と脊椎動物との相同論にあった。それをジョフロワは自らの「体制一致」論をさらに敷衍するものとして好意的に注釈した。だがそれまで自らの4界論が蹂躙されても我慢していたキュヴィエはついに公衆の面前で立ち上がり、頭足類とは二つ折りに折り曲げられた脊椎動物に他ならないとするその論考の趣旨が動物学的に成立しないということを強く主張した。論争は、相同というジョフロワの概念がもつ曖昧性に触れられた後で舌骨などの専門的問題にいたり、しかも双方が何ら歩み寄りの姿勢を示さなかったので、4月にはジョフロワの提案で中断された。ジョフロワは直ちにその論争を自ら『動物哲学の原理』という冊子にまとめた。二人は、以後キュヴィエが1832年に逝去するまで、対立することをやめようとはしなかった。32年にキュヴィエが亡くなっても、その後ジョフロワは12年間も生きることになる。だが晩年の彼は、大量の著作を執筆したにもかかわらず、同僚科学者からはあまり相手にされない存在になっていった。その冗長な文体なども否定的に働いたのかもしれないが、何よりも30年代の彼は自らの本来の研究分野である動物学を離れて、植物のこと、さらには物理学のことにまで言及するようになっていたというのがその最大の原因だった。だが晩年の特徴を最も明らかにするその種の著作の内の一つ『自然哲学の総合的、歴史的、生理学的概念』(1838)は、確かに燃焼と帯電という二力の拮抗によって宇宙の全物質の離合集散を説明するという大ざっぱな議論仕立てをもつ思弁的物理学にすぎないとはいえ、見方を変えればそれは近代初期以降無数に繰り返された自然哲学的思弁の伝統を正統的に引き継ぐものだともいえた。ジョフロワはまだアカデミー論争での時点では、自らをいわゆる自然哲学者とは見なさないでいたが、この頃にはほとんど意識的に自分を自然哲学者と規定するようになっていた。分析よりは総合を重んじ、単なる事実収集ではなく、収集は単なる出発点なのであり、その後の大胆な仮説形成にこそ科学の神髄があると信じたジョフロワは、自らのその信念に突き動かされるようにして、晩年の10年あまりを自然哲学の錬磨に捧げた。ただなにぶんにもその自然哲学は動物学という周知の領域を離れ、物理学的言説のなかで展開されたものであるだけに、大まかにすぎ、自然哲学的伝統のなかでもやや遅蒔きの印象は免れないものではあった。ただ、電気力に霊感を受けるというのはラマルクにも見られたことであり、しかも若年時エジプト旅行をした際に、魚類の電気器官を調査したことから一種特異な自然哲学的思弁をしたという事実もあるので、電気論が全く脈絡なしに突然でてきたものだったとはいえない。さらには奇形形成の調査の過程で動物体を正中線を中心にした一種の面対称物体として捉え、その両側にある類似要素が互いに引き合うということを、彼は生物の原理としていたという事実があるので、彼の電気的引力論は奇妙なことに奇形学的背景ももっていたともいえる。そのようにみていくと、彼の晩年の「自己帰一性原理」を中心とした大局的な物理論は必ずしも荒唐無稽な思いつきにすぎないとはいえなくなる。むしろそれは長年の動物学的・奇形学的調査と、若年時の電気への思い入れなどが長い間に熟成された果てにでてきた、彼にとっては自然な流れだったのだと考えたい。彼のなかに当時の、徐々に弱まりつつあった自然哲学的伝統の最後の偉大なきらめきを見て取るのは見当はずれなことではない。


科学史とSTS

国際基督教大学 教授 村上 陽一郎


 1998年度からICUでも「STS」という講義が設けられることになった。学長の諮問機関として、学際プログラムのため委員会が造られて、3月はじめ現在でいくつかの委員会で討議が進行中であるが、そのなかの一つに「STS」も加えられている。学外では3月16日からほぼ1週間、幕張、けいはんな、広島を巡りながら、世界で最初の「STS」に関する世界的規模の国際会議が開かれる。「STS」(科学技術と社会)という分野は、科学史、科学哲学、あるいは科学社会学(これらを総称して「科学論」とよぼう)と密接な関係にある。ここではその点を考えてみたい。

 もともと科学史や科学哲学が前世紀末から今世紀初頭にかけて成立したとき、それらはちょうど制度化の進んでいた自然科学を対象とした、新興の知識領域であった。そこには二つの特徴があったと考えられる。第一は、社会のなかにようやくはっきりしたプレゼンスをもち始めた自然科学の「護教論」的な役割を演じること、第二は、そのために自然科学を一つの出来上がった知識体系として捉えること、この二点を特徴としていた。自然科学が何故他の知識領域よりも優れているのか、その点を構造的、歴史的に明らかにすることを責務としていた。

 しかし、1960年代以降、事態は大幅に変わった。世界的名声を得たトマス・クーンの仕事に代表されるような考え方の展開により、科学論はむしろ科学の、ときに温かく、ときに辛辣な批判者の立場をとるようになった。いわば科学論の科学からの自立である。そして80年代に入ると、さらに重要な変化が起こった。この変化は今も継続中であるが、それまでの科学論が、科学を出来上がった知識体系と見なしてきた立場を離れて、科学を現に今目の前で行われている知的活動として捉える、という姿勢がはっきりしてきたのである。

 この姿勢は、科学を「人類学」的な視点から理解しようとする、と言い換えてもよい。科学者は実験室で一体何をやっているのか。研究費獲得のためには何をするのか、あるいは学会政治のなかでどのように行動しているのか。何故女性の研究者は少ないのか。科学者はどのように後継者を養成しているのか。などなどの観点から科学という人間活動を眺めて見ると、それは文字通り、産業、医療、軍事、教育など現代社会のあらゆるセクターと関連しているばかりでなく、ジェンダーの問題など社会問題とも絡んでいることがはっきりしてきた。

 この点はある意味では当たり前であって、現代においては、科学研究も技術開発も、社会のいたるところに浸透しており、それぬきで社会を論ずることができないのである。その点を、科学論の立場から学問的にプローチしていこうとするのが、今日の「STS」という領域に結集していると言ってよい。

 その意味で、「STS」は本質的に学際的である。大学の制度のなかで言えば、あらゆる既成の学問を横断的に貫通するような性格を備えている。アメリカのほとんどの大学ではBABSの学位のためのSTSプログラムが用意され、MITなどは博士号のためのGSもあるが、ずれも、中核に科学論を置きながら、情報化、倫理、行政、医療、軍事と産業、ジェンダーなどの「テーマ」を冠したコースを設定している。こうした新しい試みは、教養学部における教育と研究にとって意義が大きいと同時に、21世紀社会を考える重要な視角となっていくだろうと思われる。



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