報告要旨
たばこ規制の国際潮流と市民社会の役割と連携
WHO事務局長代理・顧問 望月友美子
◊ "Man-made disaster"
たばこは世界中で年間500万人の生命を奪い、現在の消費傾向が続くと、その数は20年以内に年間1000万人に倍増し、うち7割が途上国に起こることが予測されている。自然災害や感染症被害にも人的要因が加わることがあるが、たばこが人類史上最大の"Man-made disaster"である所以は、消費と生産がたばこ産業の大資本と政府の税収を背景に積極的に奨励され、20世紀半ば以降に健康被害、及びそれによる経済損失が解明されてもなお、危険性に見合った規制が多くの国々で働いてこなかったからである。それでも英米などでは政府の取り組みが早くから進み、たばこ消費が減少する一方で、世界的に見ると市場は縮小どころか、それらの国々の多国籍企業がアジアやアフリカ、東欧などに市場を拡大し、買収により世界第2位に肉薄した日本の多国籍企業(JT)も海外市場を積極的に開拓している。たばこ製品自体も、依存性を強め、消費者にアピールするための製造技術とマーケティング技術が凝集したものに変貌し、その致死性が消費者にも政策決定者にも認識されにくいことが他の消費財との大きな違いである。
◊ WHOのたばこ規制
WHOは1970年代より地球規模のたばこによる健康被害の増加を懸念して、多数の総会決議や専門家報告、啓発活動を通じて、包括的なたばこ規制の推進を勧告してきたが、国家間、地域間の格差は広がる一方であった。1990年代に中嶋宏WHO事務局長の下、改めて国境を越える問題として捉え直し、世界保健憲章に鑑み、国際協調のもとに法的に拘束力のある「たばこ規制枠組条約」の概念が生み出された。同じ頃、世界銀行もたばこが世界経済に与える損失を認識し、奨励から抑制に政策転換した。1998年に就任したブルントラント事務局長は、任期中の条約策定のため直属チームを結成し、条約の起草と政府間交渉会議を重ね、2003年の世界保健総会の満場一致で条約が策定された。批准は極めて困難と見られていた日本も第19番目に批准し、2005年に40カ国の批准をもって条約が発効した。現在、146カ国とECが批准し(中国、インドなども加わり、世界人口の80%以上をカバー)、国連条約の中では最も多くの国の関与が約束されている一方で、米国、ロシア、インドネシアなどは未だ批准していない。
◊ 市民社会 vs. たばこ産業
たばこ対策は多くの国々において、政府に先駆けて、市民社会、特に医師会や学会、消費者団体などが牽引してきたが、規制の前提としての科学的証拠を提供する学術研究の役割も大きい。1930年代にたばこと肺がんとの関係を示唆する研究が出始めたが、本格的な疫学研究は1950年代からで、1960年代には英米日の追跡研究が出揃い、喫煙と肺がん等の疾患との因果関係が確立する。並行して、たばこ産業は研究成果の隠蔽や歪曲工作を行うが、1990年代後半の全米集団訴訟による内部文書の公開まで、その所業は明らかにされなかった。英米では医師会やがん専門機関等を中心とした啓発活動が展開され、NGOによる国際会議の定期的な開催を通じて世界規模の運動となり、条約の構想もそこで生まれた。2000年代には、WHOのシードグラントにより市民社会の側から条約を支持するための同盟も組織され、200団体以上が傘下に入る一大勢力となり各国政府に批准を働きかけた。たばこ産業は以前は規制を免れる戦略をとっていたが、市場で優勢な企業は優位性を保持するための規制支持に転向している。
◊ Lessons Learned and Work
Ahead
たばこ問題は古くて新しい。8000年にわたる人類のたばこ使用が健康に多大な被害を与えることが分かったのは50年前で、経済や環境への弊害が認識されたのは最近である。この間、政府、たばこ産業、市民社会のパワーバランスは圧倒的に産業側に傾いていたが、市民社会が科学と連携を鍵に政治的意思を動かし、初めて国民の命を守る政策が実現したのである。需要抑制と供給抑制の両輪から成る「枠組条約」は交渉の産物であり、最低水準を示したに過ぎないが、最適解を妨げるものではなく、実施速度(指標は消費減少)は各国でいくらでも速められる。しかし、消費が増加している途上国の優先課題はエイズやマラリアなどの感染症や貧困であり、限られた資源をたばこ対策に配分することは難しい。WHOの対策予算も超過死亡一人あたり年間1.5ドルと感染症分野と比べ桁違いに少ないが、最近、米国の民間篤志家が重点介入政策を途上国で実施するための巨額の寄付を行い、たばこ対策を一変させた。世界の総意としての枠組条約を軸に、地球市民社会の総力を挙げての取り組みが今始まったところである。
全体討論
高橋 喫煙者の多い国リストをみると、いくつかの先進国を除けば経済が急速に発展している国、例えばインド、ブラジル、インドネシアなどが多いことに気づく。社会経済が活性化するプロセスと、喫煙者の増加には何らかの関連があるのだろうか。収入が増えること、生活上のプレッシャーが増えることなど重層的に考えられると思うが、喫煙者増加の理由について教えていただきたい。
望月 色々と考えられると思う。日本も高度成長期にたばこ消費が急増し、同じような状況にあったが、経済的な余裕ができてたばこが買えるようになったこと、経済の発展にしたがってたばこ産業の市場としても発展したことが考えられる。経済の発展に伴うストレスの増加も指摘されるが、ストレス対策として喫煙することについては、単純化できるものではなく、ストレスによる生理反応と離脱症状(いわゆる禁断症状)は区別しがたく、単にニコチンの依存症者が離脱症状の回避のために喫煙しているにすぎない。
高橋 喫煙の理由を分析したうえで、喫煙とリンクしたキャンペーンをやらないと効果はあがらないのではないか。
望月 個人の喫煙の理由については色々な理由が考えられる。喫煙を始める理由と、吸い続ける理由は別ではないかと考える。喫煙開始は広告や周囲の勧めなど環境要因が働き、継続は、本人は仕事のストレスで吸っていると思っているかもしれないが、依存症という病気である可能性もあるわけで、その点を認識してもらうというアプローチもある。たばこの問題は「嫌煙」対「愛煙」などと感情的な問題として認識されることが多いが、問題は製品と産業、そして規制権限を有する政府にある。たばこに含まれるニコチンなどの向精神物質は本来、人間の英知が自然の中から選び取ったものだが、それが時代を経て有害な死にいたらせるものになり、それが分かったのであれば、同じく人間の英知を使って対応すべきであると思う。
久山 嫌煙権は、どの程度、権利として認知されているのか。間接的なタバコの害について、難しいかもしれないが数値を使って、もっとキャンペーンするべきではないか。また将来の話だが、たばこを麻薬のように扱うことはできないのだろうか。
望月 嫌煙権を守る法制としては、日本では健康増進法になるが、受動喫煙の害の低減に向けての努力義務になっている。他には例えば
麻薬としての取り扱いについては、たばこ規制枠組条約を策定する前の段階で、ニコチンの依存性の観点からWHO内で検討されたことがあるが、歴史的政治的経済的な理由から実現に至らなかった。個人的にはたばこ税収やたばこ産業の問題が最も大きいと思う。
野村 税収に関してだが、日本はたばこ税が低いといわれるが、この点と禁煙・減煙の関係はどうなっているのだろうか。
望月 たばこの値段は、日本は今300円、欧米では1000円近くする。たばこを一箱買うために日本では6分、ハンガリーなどでは1時間働かないとならず、労働時間換算でいうと、日本のたばこは、世界で一番安いといえる。
功刀 日本の値段は安すぎる。たばこの値段が1000円になったら喫煙をやめる、と答える人が多いと聞いた。
望月 シュミレーションした結果、値段を2倍ぐらいに設定しても、税収は増収になる。英国やカナダ、ノルウェーなど色々な国でたばこの価格を上げるという試みが行われているが、即効性があることがわかっている。日本はまだまだやる余地があるということだ。
高橋 だが値段をあげるのは難しいだろう。リオサミットのとき、地球環境基金を作ろうという話になった。竹下登さんが、基金の立ち上げとして、たばこ1本に1円ずつ税金をかけるというような計画を立てたが、すごい圧力でつぶれてしまった。
石垣 気候変動枠組条約にならってたばこに関する枠組条約をつくったということだったが、前者についていえば、締約国会議を開いて内容を具体化している。たばこのほうも、同様に色々とすすんでいるのだろうか。
望月 たばこ規制枠組条約においては、去年COP1が開かれ、今年の6月末から7月にかけて、タイでCOP2が開かれる。ハイライトは、密輸とクロスボーダー広告禁止のための議定書の策定と、公共空間の禁煙に関するガイドラインの策定などである。
功刀 気候変動枠組条約はCOPがないと具体性がない条約だったが、その点でたばこ枠組条約は異なる。国がどのような義務を負うかという点に関してだが、たばこ条約におけるペナルティーはどうなっているのか。
望月 ペナルティーはなく、報告義務とその公開がある。
功刀 アメリカとイギリスだが、両国共に、たばこ大産業をかかえているが反対運動も強い。いかなる理由で政府は賛成にまわったのか。
望月 両政府は、ともに市民の健康の及ぼすリスクに関しては十分認識しており、国策としては既に消費抑制を進めている。ただ規制の導入については、二の足を踏んでいたところ、医師会やがん協会などの保健に関わるNGOなどが積極的にメディアキャンペーンやロビーイングにより世論を喚起し政府の姿勢を変えた。ただイギリスのたばこ研究で中心的な役割を果たした医師によると、イギリスのメディアのスタンスが変わったのは70年代であり、医療関係者の声を無視できず、たばこ会社が番組のスポンサーとならなくなってからという。
功刀 日本の議員連盟についてだが、どういう経緯で結成され、1年という短い期間で条約を批准できるところまでいったのか。
望月 日本がたばこ条約を批准したことは、世界のNGOをはじめ本当に驚かれた出来事だった。禁煙推進議員連盟は、当時90名ほどの超党派連盟で、アクティブメンバーが一番多い議員連盟といわれた。批准においては、草の根活動の協力も大きかったが、加えて多くの学会も動いた。また99年に神戸で開いたWHOのたばこと女性に関するの世界会議の役割も大きい。会議にはたばこに関する専門家だけでなく、女性グループも呼んだ。看護協会の南裕子先生に共同議長をお願いし、看護協会としてのコミットメントが提示され、その後医師会なども動き出した。この会議はメディアへの露出は少なかったが、その後の市民社会組織運動の大きな展開のトリガーになった会議だったと思う。政府内でも色々な方がいろいろなところで動いてくださって、日本の批准に結びついた。今後は、その動きを条約内容の実施につなげていきたい。
野村 たばこのポイ捨ては、美観をそこねるだけでなく、フィルターによる環境被害も大きいと聞いた。こちらも取り組むべき課題ではないか。
中丸 市民の意識や政府の意識も大切だが、長期的な政策の転換がこの問題には必要だと思う。構造転換について、WHOで取り組んでいるプロジェクトはあるのか。
望月 WHOは現時点では条約で精一杯でそこまではいっていない。国連タスクフォースを立ち上げているが、そこで構造転換の話はすべきなのかもしれない。日本国内における構造転換となると、農家やJTの問題になると思うが、具体的なシナリオについてはわからない。農家の方の生計もかかっている。どこかでやらなくてはいけない。
高橋 喫煙者のリスクが2分の一というのはどういう意味か。
望月 生涯リスクということだ。喫煙者の半分がたばこによって早死にしているということになる。
功刀 イスラム圏では水タバコが一般的だが、あれはリスクが低いのか。
望月 リスクは決して低くない。イメージ的にはいいような気もするが、長時間喫煙することによる危険性はむしろ高い。全てのたばこ製品に害があることを、WHOは広めなくてはいけないと思う。
三浦 WHOにおけるパートナーシップスについて、教えていただきたい。
望月 プログラム自体、最近できたばかりなので、発表できることは少ない。なぜパートナーシップスがWHOのアジェンダに入ったかというと、他の国連組織と同じようにWHOにおいても他のNGOや財団の力が強くなっていることに加え、組織の非効率性も問題になっている中で、専門機関としての存在価値を失わず、他のステークホルダーと協調してグローバルな問題に取り組むためだ。今は、既存の、あるいは今後構築するパートナーシップスを評価・推進するための方針をつくろうという段階で、NGOや私企業などを含むプライベートセクターや財団との関係についての基本方針についても検討している。
内田 なぜパートナーシップスが国連改革に結びつくのか。
望月 功刀先生のほうがお詳しいと思う。
功刀 WHOが国連改革についてどのような立場をとっているのかを伺いたい。
望月 これまではあまりプロアクティブには動いていなかったが、国連改革がメインのアジェンダとはなるのはこれからだと思う。
功刀 今日は、米、英、日などの巨大タバコ産業の反対にもかかわらず、医師会、がん協会、NGO,メディアなどのキャンペーンが、国会議員の支持により各国政府を動かし、WHOの条約作りと早期批准を導いた特記すべき実例につき、WHOの担当者から貴重な報告をいただいた。人々の健康や福利に関わる他の重要課題への取り組みにとって、多くを学ぶべきよき前例となるものと思われる。更に今後の国連改革の方向性にも示唆を与えることを疑わない。
(司会:功刀達朗 記録:久保田有香)