国連における人間の安全保障概念の意義
The implications of the concept of human security for the United Nations
= 報告要旨 庄司真理子
冷戦終結後、安全保障理事会への常任理事国入りの問題は、日本の国連政策にとって大きなテーマとなってきた。常任理事国入りを検討する中で、日本政府が打ち出してきた国際社会における平和と安全の維持のビジョンとして「人間の安全保障」がある。国際社会に対して何らかのビジョンを打ち出し外交哲学を持つことは、常任理事国入りを成し遂げるか否かに関わらず日本に求められる課題であろう。
本報告では、政策提言として日本が打ち出した「人間の安全保障」概念が、国連および国際社会においていかなる位置づけを与えられているかを検討する。なお、ここで検討する人間の安全保障の概念は、日本政府起源の報告書を基礎にすえるが、必ずしも特定の報告書の提示する概念に特化するものではない。今日の国際社会にとって有用な人間の安全保障の概念とはいかなるものであるかを究極的には考察するものである。
ところで国連の平和と安全の維持の分野は、国連憲章に規定されていない新しい活動が増えてきた。平和構築、予防外交、人道的介入など、国際法的に説明することも難しい活動領域も増えてきた。ここでは、人間の安全保障概念について、次の三つの観点から検討することにする。
〔T政策提言としての人間の安全保障〕第一に、1994年のUNDPの人間開発報告、2001年のカナダ政府の支援に基づく報告書『保護する責任:介入と国家主権に関する国際委員会報告書』、2003年の日本政府の支援に基づく報告書『安全保障の今日的課題』、2004年のEUによる報告書『欧州にとっての人間の安全保障ドクトリン:欧州安全保障戦略検討グループによるバルセロナ報告書』など、政策提言として出されてきた報告書を比較検討し、日本政府が支援した報告書との相対化をはかる。概念を検討するうえで、まずはこのような概念の定義および整理が必要であるという問題意識からである。
〔U国際法上の概念と人間の安全保障〕第二に、人間の安全保障概念と人権、国家主権、国際責任などの国際法上の概念との関係はいかなるものであるかを検討する。はたして人間の安全保障とは人権概念であるのか。また、人間の安全保障の人間は、個人をさすのか、人間集団をさすのか。さらに、恐怖からの自由と対比される人権概念である平和的生存権、欠乏からの自由と対比される発展の権利、人間集団の権利とされる人民の自決権などの人権概念との対比を図る。
〔V国際関係論における人間の安全保障の位置づけ〕第三に、国際関係論から見た場合、人間の安全保障概念は、いかなる理論的な位置づけがなされるのであろうか?安全保障論およびいくつかの国際政治学の理論から、人間の安全保障の分析を試み、同概念が国際政治学および国際社会のビジョンとしていかなる意義付けを持つものであるかを検討する。
〔W小結〕最後に、日本の外交哲学として人間の安全保障概念を位置づけた場合に、それがいかなる意味を持つのかについても簡単に触れたい。
T 政策提言としての人間の安全保障
UNDP、日本、カナダ、EUの報告書の詳細な検討は、紙数の関係でここでは省略する。ここで総括的にいえることは、つぎの二点である。第一に、すべての報告書に共通していえることは、安全保障の主体および客体が、国家から人間に推移した点である。また、いずれの報告書も国家の安全保障は人間の安全保障を補完するものであるとの位置づけを行っている。このあたりは一連の報告書を離れて、同概念を研究する研究者からは異論の出るところであろう。その意味で人間の安全保障概念は、一連の報告書が投げかけた問題に端を発していながら、分析概念として一人歩きを始めた観がある。第二に、相違点は、UNDPおよび日本の報告書は、恐怖からの自由、欠乏からの自由など、非常に包括的な内容になっているのに対して、カナダ、EUの報告書は、恐怖からの自由に特化して検討を加えている点である。前者は構造的暴力の問題にまで安全保障上の脅威の対象を広げて検討している。他方、後者は冷戦後の紛争および物理的暴力の脅威の質の変化に目をむけ、それに対応する処置のあり方に特化して詳細な提言を行っている。カナダ、およびEUの提案する保護する責任は、人間の安全保障の中でも一番その問題が先鋭に表れる大規模かつ重大な人権侵害に論点を絞っている。保護する責任概念は国際社会の安全保障のあり方に対して大きくその転換を迫っている。伝統的な安全保障観は、人々の安全は国家が守るものであり、国家の外側に存在する敵から、国家の内側にいる人間を守るという対他的指向性を持つ安全保障概念であった。他方、人間の安全保障は、人々の安全は国際社会が守るものであり、国家の内・外に関係なく、地球社会の内側の人間を守るという対内的指向性を持つ安全保障概念である。伝統的な対他的軍事安全保障と、対内的な治安維持を志向する人間安全保障では、安全保障のベクトルが180度方向転換したものといえよう。
U 国際法上の概念と人間の安全保障
人間の安全保障概念の示す「人間」とは、誰のことを指すのか。個人かあるいは人間集団か。報告書を分析する限り、その双方ということができる。人間の安全保障の多くは、難民、大規模人権侵害の被害者など、人間集団を指す場合が多い。しかし、ドメスティック・バイオレンスの問題など、その家庭の安全は守られていても、そこに住む一個人の不安全が存在する限り、人間の安全保障は満たされていない。個人の場合と、人間集団の場合の双方が想定されるといえよう。次に、人間の安全保障は人権であるか否かが問題となる。この結論としては、次の三点が挙げられる。第一に人間の安全保障は人権ではないが、人権をとりまく環境を問題とする。人権は国際社会に普遍的に適用されるものであるが、人間の安全保障は人権をとりまく環境のあり方に合わせて対応を検討する概念である。第二に、人間の安全保障は、国家の人権保護のあり方に変更を迫る概念である。処罰と保護という全く逆のベクトルで同じ問題を扱う、という発想の逆転を促す契機として人間の安全保障は意味がある。第三に人間の安全保障と人民の自決権とは、非常に近似した性格を持つ概念である。双方とも人民の主体性を志向する側面を有している。
国家主権と人間の安全保障の関係について、一連の報告書は、人間の安全保障は国家の安全保障を補完することを指摘している。しかし、概念としての人間の安全保障が提示する問題領域は、一連の政策の提言を離れて一人歩きしている観がある。国家の安全保障と人間の安全保障の関係は、相互補完的な関係、対抗関係、両者を統合する関係などに類別できるが、両者は、全く対等に適用されるものとは言い難い。実際の適用上は、どちらを優先して考慮するかが重要となる。その際に、国家の安全保障よりも人間の安全保障に比較優位な順位を与えるのが人間の安全保障概念だろう。また、同概念は、国家主権から人民主権への主権概念の移行を意味する。この人民主権は、国境横断的に適用される可能性もありうる。しかしこのことが国家にその主体性を失わしめる結果にはつながらない。ここにいたって国家の責任と人間の責任が、役割分担を明確にしていく必要が生じる。
保護する責任と国際法上の国際責任の関係を考えた場合、保護する責任は、国際社会に対して保護する義務を課すものではない。国際社会のさまざまな主体による意識の上での責任感を求める概念であって、法律上の義務ではない。たとえ大規模で重大な人権侵害が勃発して、国際社会がこれを保護できなかったとしても法的な責任に問われない。また、安保理の常任理事国が大規模な人権侵害を犯した場合には、この機能は作動しない。さらに、受難を阻止するか、あるいは防ぐことに成功する合理的な勝算がなければならない。勝算がない場合には作動しない。このような選択的適用が想定される概念は、国際法上の国際責任概念として国際社会一般に普遍的に適用されるものとはいいがたい。
V 国際関係論における人間の安全保障の位置づけ
まず安全保障論の観点から考えた場合、次の三点が人間の安全保障論の特徴といえよう。
第一に、伝統的な安全保障観が持つゼロ・サム的思考を克服し、共通の安全保障や安全保障共同体論が指摘する国境横断的な安全保障観の共有の視点が見られる。第二に、民主的平和論、内発的安全保障論、環境安全保障論などが指摘する構造的暴力の問題、すなわち国家の内側の政治体制(民主主義)、経済・社会開発、環境資源問題に目を向けている。第三に、協調的安全保障論が指摘する包括的アプローチが採用される。すなわち紛争解決の主体、客体、方法論すべてにおいて包括的である。
次に、人間の安全保障概念は、近年の国際政治学の代表的な理論の特徴を反映している側面がある。第一に、コンストラクティヴィズムが指摘するビジョンの変化に着目し、新たに普遍的な価値規範を生成するものとして評価できる。第二に、グローバル・ガバナンスの指摘するアクターの多様化の視点が導入されている。第三に地球市民社会論の指摘する地球をひとつのシステムと捉え、対外主権と対内主権の区別を超克し、地球社会全体から人間の安全の問題を捉えなおそうとする発想の転換が見られる。この文脈から見た場合、その運用上いくつかの欠陥を有するとしても、地球社会の内側の治安維持の視点として、保護する責任の必要性が浮上してくる。
W 小結
人間の安全保障が対象とする問題領域、主体、客体、対処方法はあまりに多様で多義的である。その捉えどころのなさから、同概念に代えて、旧来のように専門分化した視点が望ましいのではないかとの指摘も見られる。しかしヘーゲルが指摘するように、多義的かつ多様な諸契機を止揚して弁証法的発展を志向してこそ、人類の歴史は前に推し進められる。その意味で、たとえ扱いが難しい概念であったとしても、人間の安全保障概念を日本の外交哲学として今後も位置づけ維持し続けていくことが必要となろう。
全体討論
功刀 本日の「人間の安全保障」概念の分析・検討は、社会科学の使命であるところの社会のため、人のために役立つものであって、その意味で意義のあるものであった。討論に入いる前に、政策担当者の視点から外務省国際社会協力部の南政策課長のコメントをいただきたい。
南 人間の安全保障を担当しているので、特に発表において指摘されていた日本とカナダの関係を中心に、いくつか気がついた点をコメントさせていただきたい。確かに人間の安全保障については日本とカナダの間には距離があって、初めて関係ができたのは去年からである。この変化は、日本が人間の安全保障を推進するにあたってネットワークを作らなくてはいけないと認識したことによる。
問題は「人間の安全保障」と「保護する責任」の概念整理であって、正直なところ悩んだ点である。カナダは人間の安全保障と保護する責任を連続したものと見なしているが、我々は保護する責任に対する途上国の反発をふまえ、意図的にふたつの概念を分けるという立場をとっていた。今回は、お互いの考えの相違はそのままで、とりあえず共同戦線をはり、両概念ともに成果文書にいれることができた。そこに至る過程は難しかった。人間の安全保障については、その概念の曖昧さに対し、ブラジルやキューバ等途上国から疑問がしめされたが、チリの協力もあり、成果文書にパラグラフをいれることができた。パラグラフ143において、同概念について総会で定義をふくめ議論しようということになっている。ただ総会において定義まで議論すると収集がつかないのでは、という懸念がある。また総会決議を成立させたところで、なんらかの付加価値がつけられるのか、という問題がある。議論する過程において内容のない決議ができてしまうことの害についても懸念している。保護する責任については、成果文書においてきっちり書き込まれたが、ケースバイケースなど様々なヘッジングがついている。例えばオペレーション上の問題点についても安保理がきちんと動くかどうかは政治的意思の問題でもあり、難しい点は多いと考えている。
内田 庄司先生は人間の安全保障を新しい概念として捉えられているようだが、そのように考えると国家の安全保障と人間の安全保障が対抗的なものとして捉えられるように思われる。私は両者は補完的であって、人間の安全保障の概念自体はそれほど革命的だとは考えていないが如何か。
庄司 人間の安全保障は、理念として新しい側面がある。たとえば人道的介入ではなく保護する責任を使うことで、国際社会において容認される場合がある。理念としての人道的介入は対他的であるが、保護する責任は地球全体をひとつのまとまりと考えて対内治安を目指しているため、その理念が新しく受け入れられやすいのではないか。他方、現実の運用の側面では、相互補完関係にある場合もあるし、対抗関係にある場合もあるし、統合関係にある場合もある。
高橋 まず4つの人間安全保障概念がでてくる背景、動機、そして概念の変容についてうかがいたい。次に、特に対象となりうる国(途上国)の反論が重要になってくると思うので、その点について、最後にそれぞれのNGOの反応について伺いたい。
庄司 人間開発報告書によって人間の開発という視点そのものが経済開発とは異なる視点を提供し、安全保障の問題として人間の安全保障がなければ問題は解決しないという指摘があったと思う。日本については、ひとつの外交政策としてでてきたのであり、カナダは人間の安全保障といっても地雷や国際刑事裁判所など具体例を示している。EUはNATOとの対抗上という文脈だ。対象となる国の反応は、国によって異なると思う。日本の報告書については、途上国の反対は少なかったと思う。国ごとの反応については調べ切れていない。EUにおいては、まだ積極的に議論されている状況ではない。
南 保護する責任については、ハイレベル報告書できちんと書かれており、結果として事務総長報告書にも引き継がれた。対する人間の安全保障は、ハイレベル報告書に一言の言及のみで総長報告書にも入れられなかったという経緯がある。人間の安全保障は概念としても確立しておらず、そのために途上国のアレルギー反応が強かった(キューバ、中南米諸国)。アフリカは、人間の安全保障については好意的であった。一般的に途上国のなかで、国のインテグリティを維持しようとする国については反対を示す国が多かった。
功刀 概念の内容は今後確定するということだが、今回、成果文書のパラ143を採択するに際して妥協はあったのか。あったとして、それは戦略上良かったと考えるか。
南 妥協の結果といえる。今回は成果文書に人間の安全保障という言葉を入れることを目指したが、それで良かったどうかはわからない。今後、変なものにならないように動かしていかなくてはならない。
久山 まず人間の安全保障についてUNDPが先駆者ということだが、具体的なオペレーションの例について教えていただきたい。次に、日本の信託基金についての実際の活動についてご教示いただきたい。
庄司 保護する責任ついては、ルワンダやコソボが事例とされている。日本の報告書では、草の根開発援助などがあげられている。
南 人間の安全保障基金については日本政府のみの拠出であり、130ほどの案件が承認されている。人間の安全保障の趣旨にあい、複数の国際機関・セクターが関わるものに拠出している。難しいのは、これこそが趣旨にあうというプロジェクトがまだないということである。我々のコンセプトに合致し、かつ成果のあがるプロジェクトが必要だ。
功刀 オペレーショナライズされているかどうかを検証することが重要であり、97年に明治学院大学平和研究所から、同概念を広くとらえた「国連諸行動計画対照表]が発表されているが、これは参考になるのではないか。
長 人間の安全保障概念に
谷村 グローバルな市民社会を求め、グローバルな移動の権利を主張するようなNGOは、強い国家が人間の安全保障を推進することの意味をどのように捉えるであろうか。
庄司 グローバル化のひずみに対応する概念なのではないか。
坂根 人間の安全保障は法律上の義務とはいえないが、今後、どのように実体的に意味を持ちうるのか。すなわち国連システム上の様々な機関が、同概念に関わる活動を行っている場合、活動間ののぞましい調整のあり方についてはどのようにお考えになっているのか。また、保護する責任について、国連のみならず地域機関も役割を果たしうると考えるが、その場合の役割分担のスキームについてはどうお考えか。3点目は、日本とカナダは限られているリソースが異なるわけだが、日本が持っているリソースの実体的な出し方と日本の貢献について伺いたい。
南 カナダと日本のリソースの違いについて、まず日本においては大きなODAがあり、また欠乏からの自由に対応するほうが得意である。カナダは外務省がODA予算を持っておらず欠乏からの自由に対応するより恐怖からの自由に対応しやすい。
久山 人間の安全保障については、どの国連の機関もほとんど扱っていない。調整は今後の問題となるであろう。
高橋 概念同士の競争になった場合、それが激動のかなで行われているということが重要で、そのようなときに総会を使うのはあまり得策ではない。このような場合に世界を動かすのは、有志同盟であって、それは国やNGOなどから構成されると考えている。
功刀 今の点については、成果文書のパラ171−175が参考となるだろう。広い意味での国連の強化・発展と、協調的人間安全保障を構想するに際しことに参照すべき内容がある。
高橋 国連の立場からはそうかもしれないが、安全保障概念を考えるとまず国連ありきではない。概念をどう使うかという立場からは有志連合のほうが大事だという意味で発言した。
庄司 国連機関の調整の観点からは、人権の主流化によってすべての調整機関に人権高等弁務官のスタッフが参加することになっている。人間の安全保障もこの人権の主流化の文脈で、国連機関の調整の要となっていくだろうということはいえると思う。
功刀 保護する責任は国際法の概念ではないと言われたが、国際法の概念は戦後大きく変わってきており、必ずしも法的概念ではないとは言い切れないのではないか。
庄司 権利義務関係の明確な実定法と考えることは難しいが、規範概念としては成立しつつある、とはいえるだろう。
(司会:功刀達朗 記録・久保田有香)